暗闇の中、遠いところでざわざわとした喧噪が聞こえる。それは徐々に大きくなり、やがて人の声として聞き取れるようになった。
「橘平!」
誰かが僕の名前を呼んでいる。
朝が来たのだろうか。でも、僕は毎朝、アラームで起きるのに。なぜ、人に起こされているのだろう。それに、この声は、誰――?
夢と現の狭間の曖昧な意識で、僕は重い瞼を持ちあげた。
暗闇に、少しずつ光が差し込んでくる。橙色のそれは朝ではなく夕方を思わせる色だった。
その橙色に染まった空を遮り、ぬっと横から影が差す。焦点の定まらないぼんやりとした視界が、徐々に像を結んでいく。
見知った顔だった。最近よく見ている。でも、こんな必死な、泣きそうな顔は初めて見た。それに顔が泥だらけで、こめかみには擦ったような傷があり血が滲んでいる。
「気がついたみたいね」
その見知った顔――桐生君を押しのけ、年配の女性が割り込んでくる。こちらは保健室の先生だった。
「大丈夫?苦しくない?」
まだ声を出す気力はなくて、首肯で返事をする。先生は僕の両手の脈を取り、目の前に指をかざした。
「これ何本に見える?」
「3本……」
「そう。じゃあ、私の手をぎゅっと握って」
言われた通りに、掌に置かれた養護教諭の手を握り込む。続いて足も動かすように言われる。
目の下を引っ張って結膜の色を見たり、シャツの上から聴診器で胸の音を聞いたりして、ひとしきり僕の体を診察してから、先生が言う。
「脈も落ち着いてきたみたいね。救急車は呼ばなくても大丈夫そうだけど……、自分ではどうかな? 呼んだ方がいい?」
「大丈夫……です」
眼鏡の奥の優しげな目元が、ホッとしたように細まった。
「じゃあ、とりあえず保健室でしばらく様子を見るから、担架で運ぶわね。駒田君と、もう一人、誰か力を借りていいかしら?」
言われて視線を足元に向けると、桐生君の向こう側に熊さんもいた。
そう言えば、人を呼びに来たときに、「橘平君!」と誰かに名前を呼ばれたことを薄っすらと思い出した。おそらくあれが熊さんだったのだろう。
「俺がおぶっていきます」
桐生君の申し出に、先生が、「駄目よ」と即答する。
「貴方は怪我人なんだから。それにこういうときはすぐに頭を上げないほうがいいのよ」
熊さんが彼と似たり寄ったりの体格のラガーマンを連れてきて、僕は担架で保健室に運ばれることになった。
恥ずかしいし息苦しさは落ち着いていたので、歩いて行きます、と言ったのだが。問答無用で却下された。家には連絡しないでほしいと言ったが、それも駄目で、結局、母が帰宅後に車で迎えに来てくれることになった。
保健室に行くと、僕はカーテンに囲まれたベッドに寝かせられた。桐生君は怪我の処置を受けているようだ。
「お腹は痛くないのね?遅れて出血することもあるから、痛みがあるようなら必ず病院に行くのよ」
処置をしているらしい物音に混じり、そんな声が聞こえてくる。
「入っていいか?」
声がしてカーテンが人一人分だけ開く。パイプ椅子片手に現れた桐生君のこめかみや手の甲には、絆創膏が貼ってあった。顔の泥は落とされているが、制服のシャツにはところどころに血の染みがある。
「教頭先生のところに報告に行くから、その間、神楽君を見ていてもらっていいかな?急用のときはそこの電話で職員室に連絡して」
養護教諭は桐生君にそう伝えると、保健室からいなくなった。
「大丈夫か?」
「うん。なんか迷惑をかけたみたいで、ごめんね」
「迷惑かけたのは……、こっちだから」
パイプ椅子に腰かけた桐生君は項垂れていて、その声も暗い。
どう言葉を返してよいかわからず、気まずい沈黙が満ちる。
ようやく思考力を取り戻した頭で、これまでの状況をなんとなく推察することはできた。
おそらく、グラウンドで力尽きる寸前、たまたま近くにいたのが熊さんだった。目を覚ましたとき桐生君が傍にいたということは、僕はどうにか桐生君の身が危ないことを伝えることができたのだろう。
「桐生君は大丈夫?骨とか、折れたりしてない?」
桐生君が項垂れていた頭を上げる。憔悴しきったような顔と、視線がぶつかった。
「お前が助けを呼びに行ってくれたから、大丈夫だった。思っていたより人数も多かったし、向こうは鉄パイプも持ってきてたから、助けが来なかったらヤバかったと思う。助かった。ありがとう」
深々と頭を下げられ、焦る。
「僕は人を呼びに行っただけで、実際に助けたのは僕じゃないから」
むしろ助けを呼びに行ったのが僕だったせいで、余計な手間をかけさせた気がする。
「ラグビー部の人達が助けに行ってくれたの?」
「あぁ。コーチも含めて10人ばかり来てくれて、警察を呼ぶと言われて、あいつらはすぐにいなくなった」
「あの人たちは、あの子の……、桐生君の元カノの知り合いなの?あの人たちに襲われたんだよね?どうしてそんなこと……」
「親から月10万小遣いもらってるお嬢様だから、金で雇っただけかもな」
10万はすごい。と思っていると。
苦虫を嚙み潰したように、桐生君が顔を顰める。
「これで最後にするから、もう一度だけ会いたいと言われたんだ。プライドの高い女だからな。格下だと思っている相手にこっぴどくフラれたことが、よっぽど許せなかったんだろう。会わないと今の彼女に何するかわからないと言われて……。もしかしたらああいうことになるかもしれないと予想はしていたが、一度ボコられて諦めてくれるんなら、そっちのほうがいいと思ったんだ……」
「な……、なにを考えているんだ!?」
思わず声を荒げてしまい、反動で咳き込む。
「おい、大丈夫か?」
咄嗟に差し出された手を、パシッと音が立つ勢いで払いのけた。
「君は馬鹿か!?ああなるかもしれないと予想していたのに、何で一人で行ったりするんだ!打ち所が悪かったら、一生目が見えなくなったり、走れなくなっていたかもしれないんだぞ!」
彼の言っていることが理解不能だし、腹が立つし、悔しかった。最悪の事態を想像し、今更ながらに怖ろしくもなった。
いくら『今の彼女』を盾に脅されたにしても、それは架空の人間のことだし、先生や警察に相談するなりして、何かしら対処法はあっただろうと思う。
腹が立ったのと、大きな怪我がなくてよかったという安堵で、目に涙が滲む。
桐生君がばつの悪そうな顔をして。
「サッカーできなくなるぞ、とは言わないんだな」
自嘲の滲む口調で言った。
桐生君は彼女の呼び出しに応じたら、ああいうことになるかもしれないと予想していた。それでも応じたということは、怪我をして、サッカーをできなくなってもいいと思っていたということだろうか。
「サッカーができなくなっても困ることはないけど……、走れなくなったら……、友達のピンチに、助けを呼びに行くこともできなくなるんだぞ……」
――僕みたいに。
最後のひとことは、唇を嚙みしめ、飲み込む。
布団から出ていた手をあたたかな掌に包まれ、持ち上げられた。
「悪かった。もう二度と、あんなふうに自分から危険な目に遭うようなことはしない。だから……、お前も、もう二度と、あんな無茶はしないと約束してくれ」
「無茶?」
顔を俯かせた桐生君が、両手で包み込んだ僕の手を、押しいただくように額に当てた。
「熊が神社に来て……、お前がグラウンドに走って来たと思ったら急に倒れて、顔色が真っ青ですげー苦しそうにしてるって聞かされたとき……。心臓が止まるかと思った」
悲痛な響きの声は微かに震えていて、グラウンドで目を開けた瞬間の、僕を呼ぶ桐生君の、今にも泣きそうに歪められた顔を思い出した。
「目が覚めるまで、すげー怖かった……。……本当に走るだけであんなんなるんだな」
「……ごめん」
僕の謝罪の言葉に、桐生君が顔を上げる。
「助けを呼びに行ったのが僕じゃなかったら、君がこんなに気に病むことはなかったのに」
長い睫毛が瞬き、普段はきりりと上がっている眉尻が下がる。
「確かに、お前じゃないほうがよかったけど……、でも、お前じゃなければ、これほど、自分のしたことを後悔することもなかったと思う」
くしゃりと歪められた顔は、泣き笑いみたいに見えた。
母が迎えに来るまで、桐生君は僕の手を握ったまま、離さなかった。
そわそわして落ち着かない気分だったけど。僕はそれが嫌ではなかった。
「橘平!」
誰かが僕の名前を呼んでいる。
朝が来たのだろうか。でも、僕は毎朝、アラームで起きるのに。なぜ、人に起こされているのだろう。それに、この声は、誰――?
夢と現の狭間の曖昧な意識で、僕は重い瞼を持ちあげた。
暗闇に、少しずつ光が差し込んでくる。橙色のそれは朝ではなく夕方を思わせる色だった。
その橙色に染まった空を遮り、ぬっと横から影が差す。焦点の定まらないぼんやりとした視界が、徐々に像を結んでいく。
見知った顔だった。最近よく見ている。でも、こんな必死な、泣きそうな顔は初めて見た。それに顔が泥だらけで、こめかみには擦ったような傷があり血が滲んでいる。
「気がついたみたいね」
その見知った顔――桐生君を押しのけ、年配の女性が割り込んでくる。こちらは保健室の先生だった。
「大丈夫?苦しくない?」
まだ声を出す気力はなくて、首肯で返事をする。先生は僕の両手の脈を取り、目の前に指をかざした。
「これ何本に見える?」
「3本……」
「そう。じゃあ、私の手をぎゅっと握って」
言われた通りに、掌に置かれた養護教諭の手を握り込む。続いて足も動かすように言われる。
目の下を引っ張って結膜の色を見たり、シャツの上から聴診器で胸の音を聞いたりして、ひとしきり僕の体を診察してから、先生が言う。
「脈も落ち着いてきたみたいね。救急車は呼ばなくても大丈夫そうだけど……、自分ではどうかな? 呼んだ方がいい?」
「大丈夫……です」
眼鏡の奥の優しげな目元が、ホッとしたように細まった。
「じゃあ、とりあえず保健室でしばらく様子を見るから、担架で運ぶわね。駒田君と、もう一人、誰か力を借りていいかしら?」
言われて視線を足元に向けると、桐生君の向こう側に熊さんもいた。
そう言えば、人を呼びに来たときに、「橘平君!」と誰かに名前を呼ばれたことを薄っすらと思い出した。おそらくあれが熊さんだったのだろう。
「俺がおぶっていきます」
桐生君の申し出に、先生が、「駄目よ」と即答する。
「貴方は怪我人なんだから。それにこういうときはすぐに頭を上げないほうがいいのよ」
熊さんが彼と似たり寄ったりの体格のラガーマンを連れてきて、僕は担架で保健室に運ばれることになった。
恥ずかしいし息苦しさは落ち着いていたので、歩いて行きます、と言ったのだが。問答無用で却下された。家には連絡しないでほしいと言ったが、それも駄目で、結局、母が帰宅後に車で迎えに来てくれることになった。
保健室に行くと、僕はカーテンに囲まれたベッドに寝かせられた。桐生君は怪我の処置を受けているようだ。
「お腹は痛くないのね?遅れて出血することもあるから、痛みがあるようなら必ず病院に行くのよ」
処置をしているらしい物音に混じり、そんな声が聞こえてくる。
「入っていいか?」
声がしてカーテンが人一人分だけ開く。パイプ椅子片手に現れた桐生君のこめかみや手の甲には、絆創膏が貼ってあった。顔の泥は落とされているが、制服のシャツにはところどころに血の染みがある。
「教頭先生のところに報告に行くから、その間、神楽君を見ていてもらっていいかな?急用のときはそこの電話で職員室に連絡して」
養護教諭は桐生君にそう伝えると、保健室からいなくなった。
「大丈夫か?」
「うん。なんか迷惑をかけたみたいで、ごめんね」
「迷惑かけたのは……、こっちだから」
パイプ椅子に腰かけた桐生君は項垂れていて、その声も暗い。
どう言葉を返してよいかわからず、気まずい沈黙が満ちる。
ようやく思考力を取り戻した頭で、これまでの状況をなんとなく推察することはできた。
おそらく、グラウンドで力尽きる寸前、たまたま近くにいたのが熊さんだった。目を覚ましたとき桐生君が傍にいたということは、僕はどうにか桐生君の身が危ないことを伝えることができたのだろう。
「桐生君は大丈夫?骨とか、折れたりしてない?」
桐生君が項垂れていた頭を上げる。憔悴しきったような顔と、視線がぶつかった。
「お前が助けを呼びに行ってくれたから、大丈夫だった。思っていたより人数も多かったし、向こうは鉄パイプも持ってきてたから、助けが来なかったらヤバかったと思う。助かった。ありがとう」
深々と頭を下げられ、焦る。
「僕は人を呼びに行っただけで、実際に助けたのは僕じゃないから」
むしろ助けを呼びに行ったのが僕だったせいで、余計な手間をかけさせた気がする。
「ラグビー部の人達が助けに行ってくれたの?」
「あぁ。コーチも含めて10人ばかり来てくれて、警察を呼ぶと言われて、あいつらはすぐにいなくなった」
「あの人たちは、あの子の……、桐生君の元カノの知り合いなの?あの人たちに襲われたんだよね?どうしてそんなこと……」
「親から月10万小遣いもらってるお嬢様だから、金で雇っただけかもな」
10万はすごい。と思っていると。
苦虫を嚙み潰したように、桐生君が顔を顰める。
「これで最後にするから、もう一度だけ会いたいと言われたんだ。プライドの高い女だからな。格下だと思っている相手にこっぴどくフラれたことが、よっぽど許せなかったんだろう。会わないと今の彼女に何するかわからないと言われて……。もしかしたらああいうことになるかもしれないと予想はしていたが、一度ボコられて諦めてくれるんなら、そっちのほうがいいと思ったんだ……」
「な……、なにを考えているんだ!?」
思わず声を荒げてしまい、反動で咳き込む。
「おい、大丈夫か?」
咄嗟に差し出された手を、パシッと音が立つ勢いで払いのけた。
「君は馬鹿か!?ああなるかもしれないと予想していたのに、何で一人で行ったりするんだ!打ち所が悪かったら、一生目が見えなくなったり、走れなくなっていたかもしれないんだぞ!」
彼の言っていることが理解不能だし、腹が立つし、悔しかった。最悪の事態を想像し、今更ながらに怖ろしくもなった。
いくら『今の彼女』を盾に脅されたにしても、それは架空の人間のことだし、先生や警察に相談するなりして、何かしら対処法はあっただろうと思う。
腹が立ったのと、大きな怪我がなくてよかったという安堵で、目に涙が滲む。
桐生君がばつの悪そうな顔をして。
「サッカーできなくなるぞ、とは言わないんだな」
自嘲の滲む口調で言った。
桐生君は彼女の呼び出しに応じたら、ああいうことになるかもしれないと予想していた。それでも応じたということは、怪我をして、サッカーをできなくなってもいいと思っていたということだろうか。
「サッカーができなくなっても困ることはないけど……、走れなくなったら……、友達のピンチに、助けを呼びに行くこともできなくなるんだぞ……」
――僕みたいに。
最後のひとことは、唇を嚙みしめ、飲み込む。
布団から出ていた手をあたたかな掌に包まれ、持ち上げられた。
「悪かった。もう二度と、あんなふうに自分から危険な目に遭うようなことはしない。だから……、お前も、もう二度と、あんな無茶はしないと約束してくれ」
「無茶?」
顔を俯かせた桐生君が、両手で包み込んだ僕の手を、押しいただくように額に当てた。
「熊が神社に来て……、お前がグラウンドに走って来たと思ったら急に倒れて、顔色が真っ青ですげー苦しそうにしてるって聞かされたとき……。心臓が止まるかと思った」
悲痛な響きの声は微かに震えていて、グラウンドで目を開けた瞬間の、僕を呼ぶ桐生君の、今にも泣きそうに歪められた顔を思い出した。
「目が覚めるまで、すげー怖かった……。……本当に走るだけであんなんなるんだな」
「……ごめん」
僕の謝罪の言葉に、桐生君が顔を上げる。
「助けを呼びに行ったのが僕じゃなかったら、君がこんなに気に病むことはなかったのに」
長い睫毛が瞬き、普段はきりりと上がっている眉尻が下がる。
「確かに、お前じゃないほうがよかったけど……、でも、お前じゃなければ、これほど、自分のしたことを後悔することもなかったと思う」
くしゃりと歪められた顔は、泣き笑いみたいに見えた。
母が迎えに来るまで、桐生君は僕の手を握ったまま、離さなかった。
そわそわして落ち着かない気分だったけど。僕はそれが嫌ではなかった。