桐生との連絡を絶ってから一ヶ月くらい過ぎた。あの日から一度もメッセージが来ないという事はもう終わりだと思っていい筈だ。
僕が耐え切れずに逃げ出してしまったあの日、正直に言えば僕は次の日学校に行くのが怖くてしょうがなかった。だってもしかしたら僕にあんな態度を取られた桐生が僕の事を誰かに伝えているかもしれない。もしそうなったら地獄が始まるなと思っていたのに、拍子抜けするくらいあっさりと日常が過ぎて行った。
でも一週間くらいは気が抜けなくていつ何を言われても良いように身構えていたからか体は疲れたしテストにもそんなに身が入らなかった。
それでも時間は過ぎて行くし、過ぎていけば気になっていたものも気にならなくなる。元々住む世界が違うから終わったと思えば僕達の関係は驚く程簡単に無かったことになった。僕が目で追わなければ僕の生活に桐生が入り込む事は無いし、それは逆も然り。
あれは夢だったんだよって突き付けられてるみたいに僕の生活は元通りになった。
寂しくないなんて事は無く、もちろん辛かったし苦しかった。でも僕はこれが正しい本来の姿だって知っているから受け入れるのに時間は掛からなかった。
桐生と過ごしたあの非現実的な日常はこれから僕の人生において大切な宝物として残り続ける。どんな結果でも、好きな人と触れ合えたのは間違いなく現実だから。
さて、そうして自分の感情に整理を付けて日々を単調に過ごしていた僕にとんでもない白羽の矢が突き刺さる。
「斉藤はー?」
性別逆転喫茶なんて単純だが盛り上がりそうな文化祭での出し物、こういう企画でキャストとして選ばれるのはカースト上位組だと相場は決まっている。僕は精々調理側か設営側かまた違う雑用ポストに入るのだとばかり思ったから、自分の名前が出た時耳を疑った。
発言したのは野球部の坊主だ。さすが野球部、やたら声もデカければ態度もデカい。頼むからもう何も喋るな、その口を閉じろと念じても僕の願いは聞き届けられずせめて自分の意思は示そうと口を開いた途端教室が歓声で揺れた。
僕はたった今焼肉が嫌いになった。
「斉藤くん眼鏡外すね〜」
いつの間に隣に来ていた派手なギャルが僕の眼鏡を取った。途端に視界が悪くなり良い匂いのする手が僕の顔を触る。僕はもうこの時点で理解していた。
──これはもう抵抗しても無駄なヤツだ。
カースト上位の女子に逆らってもいい事なんて一つもない。百害あって一利なしというやつだ。だから僕はなす術も無く女装させられる事になったのだ。
学校の文化祭は11月の第一週の日曜に開催される。
その二週間前からが準備期間となり、その間は部活動も委員会活動も縮小されてクラス一丸となって出し物や展示物を完成させるのだ。もちろん文化祭での披露が大事な部活動もある為それに参加している生徒はそちらが優先される。
それでも僕の学校の文化祭は盛り上がる。それはもう盛り上がる。
「衣装出来たよー!」
普段は僕と同じくらい大人しい女子生徒数名が大きな段ボールを持って教室にやって来た。彼女達は服飾部に所属していて、クラスの出し物の為に急ピッチで衣装を仕上げてくれたらしい。うちの服飾部はレベルが高いらしい、去年のファッションショーもすごかった。
「ねー料理班がメニューの試作出来たってー! 誰か先生と食べてきてー!」
数名の選ばれし調理班は連日メニューに協議を重ねてついに今日試作の日となっているらしい。目が本気のそれだった。
「外の工作班からメッセージ来てるよー! 実行委員確認してー!」
出し物自体はこの教室で行う。でもこのままだとあまりにも教室過ぎるからと壁やらなんやらを作成しているのだ。文化祭に対してあまりにもガチである。
「はーい雪ぴ目閉じてね〜」
「…はい、ぅ」
ぱふぱふぱふと顔に柔らかいものが叩きつけられている。少しでも鼻呼吸したらこの極小の微粒子が入り込むことを僕は理解している。教室の一角で何名か横並びになった男子数名。その側にはメイク道具を装備した女子が数名。そう、ここはメイクゾーンだ。僕は何故かクラスのギャルから雪ぴとか雪ぽよと呼ばれる様になり、2年の二学期中盤にして女子と会話を持つようになった。
「雪ぴまじでえぐい程化粧ノリ良いんだけど〜。なんかケアしてんの?」
「…化粧水とかは、塗ってるけど」
「えっら! 他の女装班も雪ぴ見習えよマジで〜。せめてスネ毛剃ってきて。あと髭剃りマストだから! あとあと安くても良いから風呂上がり保湿して〜」
「けしょうすいって何ですか女子!」
「ウケる〜。スマホで調べな」
賑やかな空間の中に自分がいる事に慣れなくて挙動不審になってしまう。だけど彼女達や運動部の男子達はそんな僕を邪険に扱わず慣れるのを待ってくれた。ああなんだ、みんな良い人なんだって気がつくと、このクラスになってからの数か月が何だか勿体無い気がした。
「…まつ毛なっが。えー、雪ぴってお母さん似―?」
「ぅ、うん。でも目は父さんに似てるらしい」
「まじー? つよつよ遺伝子じゃーん。 わたしももっとかわいく生まれたかったぁ」
「…楠木さんは、きれいだよ…?」
眉毛を描いていた楠木さんの手が止まり、何なら他のメイク班や女装途中の人達の会話も止まった。生憎眼鏡がない為今周りがどんな顔なのか把握出来ず、ただ自分の発言で空気が止まった事は確かな為一気に緊張で心臓が騒ぎ出すけれど僕が咄嗟に謝るよりも先に楠木さんが細く長く息を吐き出した。
「…わたし今母性感じた」
「うちも〜」
「うちの弟雪ぽよみたいになんないかな」
無理だよね〜なんて言いながら彼女達の手がまた顔に触れる。目を閉じてと言われて素直に従うと瞼に何か塗られているのが分かった。
「俺たちに足りないのはあの素直さだな…」
「あんた達が素直になったところでああはなんないよ?」
「くぅっ!」
「はい目閉じて〜。待ってなんで瞼まで焼けてんのウケるんですけど! ねーこれやっぱ黒ギャルにしちゃダメー?」
「いいよー!」
遠くから衣装のチェックをしているクラス委員の女子の声がした。目を閉じれば余計に聴覚が敏感になってとても賑やかなのがわかる。去年の僕は無難な雑用係で居てもいなくても問題無いポジションだった。
だからクラス一丸になって楽しもう、なんて空気に馴染めなくて居心地が悪かったのを覚えている。でもそれは僕が少しでも人と関わる数を減らすっていう人生の選択をした時点で決まっていた事で、想定内の感情だった。その時の選択を間違ったなんて思ってない。
それでもこうしてほとんど無理矢理みたいな形だったけど文化祭というイベントの歯車の一つになろうとしているこの瞬間は、正直に言ってとても楽しい。どこか自分とは違う生き物なんだって思っていた彼らがちゃんと僕と似たような体温をしていて、それぞれの思考を持って生きている。そんな当たり前の事に、僕はきっと目を逸らしながら生きてきた。
「雪ぴ一回目開けて〜」
言われた通りに開けると当然ながら視界はぼやけている。全ての輪郭が曖昧だし、かなりの近距離にならないと字だって読めない。それでも僕のメイクを担当してくれている楠木さんのテンションが上がっているのは結構わかりやすかった。
「さすがに天才。和系メイク調べてきて良かったー!」
「まって斉藤和系なのに俺黒ギャルなの⁉」
「黙りな野球坊主」
どうやら今の僕の顔は和系らしい。何がどうなっているのかさっぱりわからないけれど何だかみんなが楽しそうだからつい頬が緩む。
「雪ぴ当日までにコンタクトの準備よろ」
「あ、はい」
メイクが終わるとようやく眼鏡を返して貰えたがそれを掛けると楠木さんのご満悦だった表情が不満げな物に変わる。
「…ねー雪ぴ毎日コンタクトにしなよ。もしくはお洒落眼鏡にしよ」
「……か、考えとく」
いつもは前髪がチラつく視界だが今日は何ともクリアだ。その理由は至って簡単で楠木さんが僕の前髪をまとめて止めているから。視界に遮るものが無いのは不安だが今回ばかりはしょうがないと腹を括る。
「はいメイク終わった男子から着替えー! 服飾の人に聞きながら着替えてねー!」
クラス委員が手を叩きながら的確に指示を出して来る。まだ本番でも何でも無いのにテキパキとみんなに指示を出す姿は素直にすごいと思えた。
「斉藤くん入りまーす!」
「よ、よろしくお願いします」
「うんよろしく。じゃあ早速着て行こうか、脱いでー!」
「ぇ、わ、じ、自分でぬぐから!」
団結した女子ほど怖いものはないと、僕はその時初めて知った。
服飾部に所属している女子達はどちらかといえば僕寄りのあまり目立たない人が多いのに、この強引さは何なんだ。あっという間に服を脱がされてあれよあれよと言う間に服を着せられる。どうやらコンセプトは大正時代のようで、着せられた服装は何だか歴史の教科書で見たことがあるものだった。
「…え、すご…」
「でしょう! 男子が着る想定で考えた時骨格が目立たない代表格の服といえばやっぱり和服。でも本当の和服にしちゃうと歩くのが大変だと考えて下は袴! 靴はブーツでも対応可能だし何より可愛い。斉藤君ともう何人かは問題無く着こなせると思うけど、問題は運動部…」
「あー、胸板とかすごいよね」
「パッツパッツになったらどうしよう…!」
どうやら僕の服はサイズも色も問題無かったらしくすぐに解放された。服飾部の彼女達は僕の後に控えている筋肉の鎧をまとった男達を想定して目に闘志を宿していて、これって戦いだったっけって思いながらもう一回楠木さんのところに戻ると彼女は彼女でまた新しい筋肉と戦っていた。
「井上〜! エラどうにかしてー!」
「削れってか⁉」
「マジ男子スキンケアして! お願いだからして‼」
阿鼻叫喚というのはきっとこういう事をいうのだろうなと思った。
「あの、楠木さん」
「ええん雪ぴおかえ、かっわい!」
「……ありがとうございます」
自分よりも遥かに可愛らしい女子に可愛いと言われて喜ぶ男なんてこの世にいるんだろうか。居たとしても僕はその枠組みにまず入らない。僕は男だし、どちらかと言えば格好いいと言われたい。…自分の見た目がどれだけそれと乖離していても思うのは自由だ。
「雪ぴって意外に表情豊かだよね。あ、ちょっと一回眼鏡外してー。そんで着物見せるみたいに腕伸ばしてー、はいストップ!」
言われるがままに腕を伸ばすとシャッター音が聞こえた。
「オッケー、じゃあこれグループに載せとくね」
「ぇ」
事態を理解するよりも今教室にいる生徒全員のスマホが震える方が早かった。さすがギャル、行動の何もかもが早くて僕はもうお手上げ状態だった。
「既読やば。あ、雪ぴ今委員長外居るから一回確認させてだって」
「わかった」
外していた眼鏡を掛けて頷くと教室から出た。まだ文化祭本番では無いけれど学校はずっとお祭りムードだし一人くらい僕みたいなやつが紛れても目立たない。だって昨日なんてどこかのクラスのハイクオリティなゾンビが歩いてたし、それに比べたら僕達のクラスの個性はまだ優しいものだと思う。
「…体育館裏で作業してるんだっけ」
案の定どのクラスも文化祭一色になっていて賑やかだ。その中でも聞こえてくる吹奏楽の音にそういえば文化祭で発表があるんだよな、と思いながら体育館への近道を選んで歩いて行く。
当然だが生徒達が集中する棟を抜けると辺りは静かになり異世界に迷い込んだのかなって思うくらい空気感が変わる。でも相変わらず吹奏楽の音は聞こえていて「あ、この曲知ってる」って思いながら歩いていれば体育館に続く廊下が見えてきた。あそこを抜ければもうすぐだと、空き教室の前を通った時だった。
「!」
右腕を強く引かれて体が倒れる。気が付いたら扉が閉まる音が聞こえて、扉に押し付けるみたいに何かが僕の身体を締め付けてる。あまりに強く驚きすぎると人は声も出ないらしい、頭が真っ白になって次には混乱が襲ってきたのも束の間、僕の嗅覚は忘れられない匂いを拾った。
それは夏祭りの後、家に帰って洗い流したものと同じ。
「……きりゅう…?」
ほとんど声になってない筈なのに僕を締め付けるそれにもっと力が入った。
ずるずると桐生の体から力が抜けて、それに合わせて僕も床に座り込む。空き教室のカーテンは閉まっていて電気も付いていないせいで薄暗い。僕は混乱していた。こうなっている理由がわからないからだ。でも混乱していても、否混乱しているからこそ僕の脳は必死に違う事を考えていた。
「…委員長のとこ、行かないといけないから」
はなして、その言葉は声にならなかった。
「んんっ!」
顎を掴まれて、後頭部がドアに当たった。すぐ側に桐生の顔がある、柔らかい物が触れている。それが何なのか、僕は知っている。
心臓が大きく跳ねて全身が一気に熱くなる。抵抗しようにも桐生の方がずっと力が強くて僕はただ胸を押すくらいしか出来ない。なんでこんな事になってるんだろう、どうして、何で、混乱し切った状態で僅かに桐生の口が離れる。
でもすぐにまた塞がって、今度はもっと深くなった。
誰もいない教室に耳を塞ぎたくなる音が響く。どれくらいそうしてたかわからないけど、唇が離れた時僕の息は上がっていたし体にはもう力が入らなかった。
「…なんで」
僕の肩に顔を埋めて今にも死にそうな声で桐生が囁く。
そう問いかけたいのは間違いなく僕であってお前じゃない。そう言いたいのに何だかもう喋る気力もなくてただ耳を傾ける。
「そんなかわいい格好、俺以外の前でしないでよ」
──…。
すとん、と腑に落ちる。
「…桐生は、僕をどうしたいの」
思ったよりも平坦で温度の無い冷たい声が出た。意識が自分でも異常だって思う程クリアで心は凪いでいる。少し前の僕なら桐生のこの言葉に舞い上がっただろうけど、でももうそうじゃない。
「僕は」
凪いでいるけど腹の奥から沸々と小さな気泡が上がって来る感覚がする。
桐生が顔を上げた。迷子の子供みたいに揺れている目をしているけれど、そんなの僕には関係無い。──ああそうか、僕は怒っているんだ。
良い様に扱われている事に、桐生の態度に、それを今までよしとしていた自分に、僕は怒っている。
「お前のオモチャじゃない」
思い切り腕を突っぱねると意外な程簡単に身体が離れた。すぐに立ち上がって扉を開けて外に出る。
後ろを振り返る事はもうしなかった。
僕が耐え切れずに逃げ出してしまったあの日、正直に言えば僕は次の日学校に行くのが怖くてしょうがなかった。だってもしかしたら僕にあんな態度を取られた桐生が僕の事を誰かに伝えているかもしれない。もしそうなったら地獄が始まるなと思っていたのに、拍子抜けするくらいあっさりと日常が過ぎて行った。
でも一週間くらいは気が抜けなくていつ何を言われても良いように身構えていたからか体は疲れたしテストにもそんなに身が入らなかった。
それでも時間は過ぎて行くし、過ぎていけば気になっていたものも気にならなくなる。元々住む世界が違うから終わったと思えば僕達の関係は驚く程簡単に無かったことになった。僕が目で追わなければ僕の生活に桐生が入り込む事は無いし、それは逆も然り。
あれは夢だったんだよって突き付けられてるみたいに僕の生活は元通りになった。
寂しくないなんて事は無く、もちろん辛かったし苦しかった。でも僕はこれが正しい本来の姿だって知っているから受け入れるのに時間は掛からなかった。
桐生と過ごしたあの非現実的な日常はこれから僕の人生において大切な宝物として残り続ける。どんな結果でも、好きな人と触れ合えたのは間違いなく現実だから。
さて、そうして自分の感情に整理を付けて日々を単調に過ごしていた僕にとんでもない白羽の矢が突き刺さる。
「斉藤はー?」
性別逆転喫茶なんて単純だが盛り上がりそうな文化祭での出し物、こういう企画でキャストとして選ばれるのはカースト上位組だと相場は決まっている。僕は精々調理側か設営側かまた違う雑用ポストに入るのだとばかり思ったから、自分の名前が出た時耳を疑った。
発言したのは野球部の坊主だ。さすが野球部、やたら声もデカければ態度もデカい。頼むからもう何も喋るな、その口を閉じろと念じても僕の願いは聞き届けられずせめて自分の意思は示そうと口を開いた途端教室が歓声で揺れた。
僕はたった今焼肉が嫌いになった。
「斉藤くん眼鏡外すね〜」
いつの間に隣に来ていた派手なギャルが僕の眼鏡を取った。途端に視界が悪くなり良い匂いのする手が僕の顔を触る。僕はもうこの時点で理解していた。
──これはもう抵抗しても無駄なヤツだ。
カースト上位の女子に逆らってもいい事なんて一つもない。百害あって一利なしというやつだ。だから僕はなす術も無く女装させられる事になったのだ。
学校の文化祭は11月の第一週の日曜に開催される。
その二週間前からが準備期間となり、その間は部活動も委員会活動も縮小されてクラス一丸となって出し物や展示物を完成させるのだ。もちろん文化祭での披露が大事な部活動もある為それに参加している生徒はそちらが優先される。
それでも僕の学校の文化祭は盛り上がる。それはもう盛り上がる。
「衣装出来たよー!」
普段は僕と同じくらい大人しい女子生徒数名が大きな段ボールを持って教室にやって来た。彼女達は服飾部に所属していて、クラスの出し物の為に急ピッチで衣装を仕上げてくれたらしい。うちの服飾部はレベルが高いらしい、去年のファッションショーもすごかった。
「ねー料理班がメニューの試作出来たってー! 誰か先生と食べてきてー!」
数名の選ばれし調理班は連日メニューに協議を重ねてついに今日試作の日となっているらしい。目が本気のそれだった。
「外の工作班からメッセージ来てるよー! 実行委員確認してー!」
出し物自体はこの教室で行う。でもこのままだとあまりにも教室過ぎるからと壁やらなんやらを作成しているのだ。文化祭に対してあまりにもガチである。
「はーい雪ぴ目閉じてね〜」
「…はい、ぅ」
ぱふぱふぱふと顔に柔らかいものが叩きつけられている。少しでも鼻呼吸したらこの極小の微粒子が入り込むことを僕は理解している。教室の一角で何名か横並びになった男子数名。その側にはメイク道具を装備した女子が数名。そう、ここはメイクゾーンだ。僕は何故かクラスのギャルから雪ぴとか雪ぽよと呼ばれる様になり、2年の二学期中盤にして女子と会話を持つようになった。
「雪ぴまじでえぐい程化粧ノリ良いんだけど〜。なんかケアしてんの?」
「…化粧水とかは、塗ってるけど」
「えっら! 他の女装班も雪ぴ見習えよマジで〜。せめてスネ毛剃ってきて。あと髭剃りマストだから! あとあと安くても良いから風呂上がり保湿して〜」
「けしょうすいって何ですか女子!」
「ウケる〜。スマホで調べな」
賑やかな空間の中に自分がいる事に慣れなくて挙動不審になってしまう。だけど彼女達や運動部の男子達はそんな僕を邪険に扱わず慣れるのを待ってくれた。ああなんだ、みんな良い人なんだって気がつくと、このクラスになってからの数か月が何だか勿体無い気がした。
「…まつ毛なっが。えー、雪ぴってお母さん似―?」
「ぅ、うん。でも目は父さんに似てるらしい」
「まじー? つよつよ遺伝子じゃーん。 わたしももっとかわいく生まれたかったぁ」
「…楠木さんは、きれいだよ…?」
眉毛を描いていた楠木さんの手が止まり、何なら他のメイク班や女装途中の人達の会話も止まった。生憎眼鏡がない為今周りがどんな顔なのか把握出来ず、ただ自分の発言で空気が止まった事は確かな為一気に緊張で心臓が騒ぎ出すけれど僕が咄嗟に謝るよりも先に楠木さんが細く長く息を吐き出した。
「…わたし今母性感じた」
「うちも〜」
「うちの弟雪ぽよみたいになんないかな」
無理だよね〜なんて言いながら彼女達の手がまた顔に触れる。目を閉じてと言われて素直に従うと瞼に何か塗られているのが分かった。
「俺たちに足りないのはあの素直さだな…」
「あんた達が素直になったところでああはなんないよ?」
「くぅっ!」
「はい目閉じて〜。待ってなんで瞼まで焼けてんのウケるんですけど! ねーこれやっぱ黒ギャルにしちゃダメー?」
「いいよー!」
遠くから衣装のチェックをしているクラス委員の女子の声がした。目を閉じれば余計に聴覚が敏感になってとても賑やかなのがわかる。去年の僕は無難な雑用係で居てもいなくても問題無いポジションだった。
だからクラス一丸になって楽しもう、なんて空気に馴染めなくて居心地が悪かったのを覚えている。でもそれは僕が少しでも人と関わる数を減らすっていう人生の選択をした時点で決まっていた事で、想定内の感情だった。その時の選択を間違ったなんて思ってない。
それでもこうしてほとんど無理矢理みたいな形だったけど文化祭というイベントの歯車の一つになろうとしているこの瞬間は、正直に言ってとても楽しい。どこか自分とは違う生き物なんだって思っていた彼らがちゃんと僕と似たような体温をしていて、それぞれの思考を持って生きている。そんな当たり前の事に、僕はきっと目を逸らしながら生きてきた。
「雪ぴ一回目開けて〜」
言われた通りに開けると当然ながら視界はぼやけている。全ての輪郭が曖昧だし、かなりの近距離にならないと字だって読めない。それでも僕のメイクを担当してくれている楠木さんのテンションが上がっているのは結構わかりやすかった。
「さすがに天才。和系メイク調べてきて良かったー!」
「まって斉藤和系なのに俺黒ギャルなの⁉」
「黙りな野球坊主」
どうやら今の僕の顔は和系らしい。何がどうなっているのかさっぱりわからないけれど何だかみんなが楽しそうだからつい頬が緩む。
「雪ぴ当日までにコンタクトの準備よろ」
「あ、はい」
メイクが終わるとようやく眼鏡を返して貰えたがそれを掛けると楠木さんのご満悦だった表情が不満げな物に変わる。
「…ねー雪ぴ毎日コンタクトにしなよ。もしくはお洒落眼鏡にしよ」
「……か、考えとく」
いつもは前髪がチラつく視界だが今日は何ともクリアだ。その理由は至って簡単で楠木さんが僕の前髪をまとめて止めているから。視界に遮るものが無いのは不安だが今回ばかりはしょうがないと腹を括る。
「はいメイク終わった男子から着替えー! 服飾の人に聞きながら着替えてねー!」
クラス委員が手を叩きながら的確に指示を出して来る。まだ本番でも何でも無いのにテキパキとみんなに指示を出す姿は素直にすごいと思えた。
「斉藤くん入りまーす!」
「よ、よろしくお願いします」
「うんよろしく。じゃあ早速着て行こうか、脱いでー!」
「ぇ、わ、じ、自分でぬぐから!」
団結した女子ほど怖いものはないと、僕はその時初めて知った。
服飾部に所属している女子達はどちらかといえば僕寄りのあまり目立たない人が多いのに、この強引さは何なんだ。あっという間に服を脱がされてあれよあれよと言う間に服を着せられる。どうやらコンセプトは大正時代のようで、着せられた服装は何だか歴史の教科書で見たことがあるものだった。
「…え、すご…」
「でしょう! 男子が着る想定で考えた時骨格が目立たない代表格の服といえばやっぱり和服。でも本当の和服にしちゃうと歩くのが大変だと考えて下は袴! 靴はブーツでも対応可能だし何より可愛い。斉藤君ともう何人かは問題無く着こなせると思うけど、問題は運動部…」
「あー、胸板とかすごいよね」
「パッツパッツになったらどうしよう…!」
どうやら僕の服はサイズも色も問題無かったらしくすぐに解放された。服飾部の彼女達は僕の後に控えている筋肉の鎧をまとった男達を想定して目に闘志を宿していて、これって戦いだったっけって思いながらもう一回楠木さんのところに戻ると彼女は彼女でまた新しい筋肉と戦っていた。
「井上〜! エラどうにかしてー!」
「削れってか⁉」
「マジ男子スキンケアして! お願いだからして‼」
阿鼻叫喚というのはきっとこういう事をいうのだろうなと思った。
「あの、楠木さん」
「ええん雪ぴおかえ、かっわい!」
「……ありがとうございます」
自分よりも遥かに可愛らしい女子に可愛いと言われて喜ぶ男なんてこの世にいるんだろうか。居たとしても僕はその枠組みにまず入らない。僕は男だし、どちらかと言えば格好いいと言われたい。…自分の見た目がどれだけそれと乖離していても思うのは自由だ。
「雪ぴって意外に表情豊かだよね。あ、ちょっと一回眼鏡外してー。そんで着物見せるみたいに腕伸ばしてー、はいストップ!」
言われるがままに腕を伸ばすとシャッター音が聞こえた。
「オッケー、じゃあこれグループに載せとくね」
「ぇ」
事態を理解するよりも今教室にいる生徒全員のスマホが震える方が早かった。さすがギャル、行動の何もかもが早くて僕はもうお手上げ状態だった。
「既読やば。あ、雪ぴ今委員長外居るから一回確認させてだって」
「わかった」
外していた眼鏡を掛けて頷くと教室から出た。まだ文化祭本番では無いけれど学校はずっとお祭りムードだし一人くらい僕みたいなやつが紛れても目立たない。だって昨日なんてどこかのクラスのハイクオリティなゾンビが歩いてたし、それに比べたら僕達のクラスの個性はまだ優しいものだと思う。
「…体育館裏で作業してるんだっけ」
案の定どのクラスも文化祭一色になっていて賑やかだ。その中でも聞こえてくる吹奏楽の音にそういえば文化祭で発表があるんだよな、と思いながら体育館への近道を選んで歩いて行く。
当然だが生徒達が集中する棟を抜けると辺りは静かになり異世界に迷い込んだのかなって思うくらい空気感が変わる。でも相変わらず吹奏楽の音は聞こえていて「あ、この曲知ってる」って思いながら歩いていれば体育館に続く廊下が見えてきた。あそこを抜ければもうすぐだと、空き教室の前を通った時だった。
「!」
右腕を強く引かれて体が倒れる。気が付いたら扉が閉まる音が聞こえて、扉に押し付けるみたいに何かが僕の身体を締め付けてる。あまりに強く驚きすぎると人は声も出ないらしい、頭が真っ白になって次には混乱が襲ってきたのも束の間、僕の嗅覚は忘れられない匂いを拾った。
それは夏祭りの後、家に帰って洗い流したものと同じ。
「……きりゅう…?」
ほとんど声になってない筈なのに僕を締め付けるそれにもっと力が入った。
ずるずると桐生の体から力が抜けて、それに合わせて僕も床に座り込む。空き教室のカーテンは閉まっていて電気も付いていないせいで薄暗い。僕は混乱していた。こうなっている理由がわからないからだ。でも混乱していても、否混乱しているからこそ僕の脳は必死に違う事を考えていた。
「…委員長のとこ、行かないといけないから」
はなして、その言葉は声にならなかった。
「んんっ!」
顎を掴まれて、後頭部がドアに当たった。すぐ側に桐生の顔がある、柔らかい物が触れている。それが何なのか、僕は知っている。
心臓が大きく跳ねて全身が一気に熱くなる。抵抗しようにも桐生の方がずっと力が強くて僕はただ胸を押すくらいしか出来ない。なんでこんな事になってるんだろう、どうして、何で、混乱し切った状態で僅かに桐生の口が離れる。
でもすぐにまた塞がって、今度はもっと深くなった。
誰もいない教室に耳を塞ぎたくなる音が響く。どれくらいそうしてたかわからないけど、唇が離れた時僕の息は上がっていたし体にはもう力が入らなかった。
「…なんで」
僕の肩に顔を埋めて今にも死にそうな声で桐生が囁く。
そう問いかけたいのは間違いなく僕であってお前じゃない。そう言いたいのに何だかもう喋る気力もなくてただ耳を傾ける。
「そんなかわいい格好、俺以外の前でしないでよ」
──…。
すとん、と腑に落ちる。
「…桐生は、僕をどうしたいの」
思ったよりも平坦で温度の無い冷たい声が出た。意識が自分でも異常だって思う程クリアで心は凪いでいる。少し前の僕なら桐生のこの言葉に舞い上がっただろうけど、でももうそうじゃない。
「僕は」
凪いでいるけど腹の奥から沸々と小さな気泡が上がって来る感覚がする。
桐生が顔を上げた。迷子の子供みたいに揺れている目をしているけれど、そんなの僕には関係無い。──ああそうか、僕は怒っているんだ。
良い様に扱われている事に、桐生の態度に、それを今までよしとしていた自分に、僕は怒っている。
「お前のオモチャじゃない」
思い切り腕を突っぱねると意外な程簡単に身体が離れた。すぐに立ち上がって扉を開けて外に出る。
後ろを振り返る事はもうしなかった。