女装することになりまして〜イケメンと僕の秘密の関係〜

「やっぱり雪穂って押しに弱いよねー」
「今回も騙し打ちみたいなもんだったろうが…!」
「夏祭り行こって言ったじゃん。俺の性格知ってる雪穂なら日付の下調べくらいはしてると思ったんだけどね」
「イベントに一切興味が無いんだよ」
「まあその興味の無さで騙されるんだからチョロ」
「おい今チョロいって言った上に騙したの認めたな⁉︎」
「まあ事実そうだし。ていうかそんな大きい声出して大丈夫?」
「こんのクソ野郎…!」

 カラコロと鳴る下駄にいつもより狭い歩幅。生地はそれなりに通気性が良いはずなのに夏の湿気がどうしたって敵になる。
 周囲は暗く街灯によって薄オレンジに所々が染まっていて、その中を同じ様な音を立てて歩く人波に合わせて紛れる様に歩く。
 そう、今日は夏祭りだ。

「…おかしいと思ったんだよ、コンタクトとカツラの時点で気付けば良かった」
「ウィッグって言ってよ、カツラじゃ色気ないからさ」
「カツラはカツラだろ、これクソ暑い」

 僕の髪は一般的な男子に比べたら長いけれど、今日の髪型はどう見たって女子だ。視線を胸元に下ろせば毛先がふわりと巻かれた長い髪が目に入る。ロングのカツラをハーフアップにした物で、後頭部でお団子になっている場所には浴衣に合う髪飾りが付けられている。薄い青系の浴衣に濃い紫の帯、小ぶりな巾着に白に青が散らされた鼻緒の下駄。
 今日の僕の格好は桐生渾身の浴衣コーディネートだ。
 この前まで人をピエロにする腕前だった筈なのにいつの間に練習したのか僕の顔は今日ちゃんとしているし、髪だって桐生がやった。「好きな事するのって楽しいから」なんて理由で腕を上げたらしい。こいつは一体どこに向かっているんだろう。

「…うん、外でも完璧に可愛い。でももうちょっとアイライン長くしても良かったかも、雪穂きれいだからきっと似合う」
「うるさい触るな」

 頬を撫でる桐生の手を軽く叩き落とした。
 僕達は今夏祭り会場に向けて歩いている。
 桐生の家からそう遠くない神社で開かれる夏祭りでお盆前のこの時期にやるものだ。規模はそう大きくないけれど近隣住民は楽しみにしているイベントの一つで夜の8時を回れば花火が上がるのも大きなポイントになっている。
 その祭りに向かっているのだ、僕と桐生は。

 完全生活圏内で行われるイベントに女装で行くなんて気でも触れたかと思ったが、今日のコーディネートの完成を鏡で見た時僕は自分でも「誰だこいつ」と思った。それくらい今日の僕は他人の様だ。「暗いから大丈夫。何があっても俺が守るから一緒に行こ」最終的に僕の背中を押したのは桐生のこの言葉だった。後もう純粋に好きにしてくれと諦めていたところもある。

「雪穂は夏祭りとか来た事ないの?」
「…子供の頃は来てた。でも小学の中学年まで、そこからは行ってない」
「なんで?」
「僕がこういうイベント好きだと思うの」
「いや、全然」

 周りは家族連れや友人同士、カップルが歩いている。神社に行く人の方が多いけれどまだ日の高い頃から屋台は出ていたから楽しみ尽くした祭り客が流れに逆らって歩いて来る姿も見える。
 どこからか流れてくる祭囃子と人のざわめきが混ざり合って懐かしい空気に目を細めた。

「──桐生は誘われてたんじゃないの、お祭り」
「まあそれなりに」
「今日絶対声掛けられるでしょ」
「そうだろうね」

 僕達は肩が触れるくらいの距離で歩いている。理由はその方が自然だから。

「でも俺が一緒に行きたいのは雪穂だから」
「…ホント変態だよね、お前って」

 僕みたいにメイクをしなくても、着飾らなくても、桐生はただそこにいるだけで人目を惹く。だって桐生は電光掲示板みたいなやつなんだ。背だって高くて顔も雰囲気も華やかで、僕と同じ年のはずなのにまるで大人みたいな空気感を醸し出している。
 隣を歩くそいつを見上げると視線に気が付いたのか桐生も僕を見た。薄いオレンジの光に当てられて煌めく桐生の目はとても綺麗だ。

「雪穂、お面買おうか」
「は?」
「良いじゃん、浴衣にお面って可愛いし」

 左手が温もりに包まれた。気が付いた時には規則的な人の波から外れて、屋台列のほぼ先頭にあったお面屋に向かって桐生が歩いていく。手を引かれるままに屋台の前に到着すると裸電球の強い光に少し目が眩む。

「いらっしゃい、デートかいおにいちゃん!」
「そうなんです。雪穂、どれにする?」
「な、なんでもいい…っ」

 どれだけメイクと髪型で変わっていると理解していてもこんな明るい場所で堂々と出来る勇気は僕には無い。だから出来るだけ暗がりにいようと桐生の背中に隠れると屋台の強面のおじさんが派手に笑った。桐生も僕を見て楽しそうに口角を上げて「じゃあこれにしよっか」って明らかに女児アニメのキャラクターのお面を指差したから僕は目を丸くした。

「それは、やだ」
「じゃあこれ?」
「狐面とか厨二病感満載じゃん絶対やだ」
「わがままだなぁ、じゃあこれね」

 そうして桐生が手に取ったのは白猫のお面。確かに一番地味なデザインのそれに反対する理由なんてなくて仕方がないと頷けば繋いでいた手が離されて桐生が会計を済ませた。
 こっちと指差された屋台と屋台の間に移動して向き合うと桐生が慎重な手つきで買ったばかりのお面を僕の頭に掛けた。

「かわいい」

 まるで宝物を見つけた子供みたいな顔で桐生が笑う。

「…っ、馬鹿じゃないの」

 どんって心臓が大きく脈打った。血液が全部顔に集まってくる気がして、僕は買って貰ったばかりのお面で顔を隠した。

「あ、なんで顔隠すの」
「うるさい馬鹿、こっち見るな…っ」

 ああ、もう。
 桐生のせいで、どんどん「普通」がわからなくなる。

「そのままだと前見えないでしょ」

 桐生が僕の手を握る。片手はお面を押さえたまま、ほんの小さな隙間から見える景色にまた目が眩みそうになる。
 伝わる体温が熱くて柔らかい。確かに桐生が僕の手を握っている、その事がどうしようもないくらい僕の心を掻き乱すんだ。

「何食べる? 雪穂甘いの好きだからかき氷にしよっか、いちごでいい?」

 当然のように僕の好みを知っているところだとか。

「…今日はメロンにする」
「じゃあ俺がいちごにするよ。メロン後で一口ちょうだい」

 天邪鬼な僕の性格を知ってて、こうやって甘やかして来るところとか。
 ああどうしよう。
 顔がずっと熱いままで、きっと今かき氷を食べたって味なんてわからない。心臓が左手にあるんじゃないかってくらいそこだけの感覚が鋭敏で、もう周りの音なんて聞こえない。
 こんなイレギュラー大嫌いなのに、どうしようもなく嬉しいと思っている自分がいる。
 だけどそんな時間も一瞬で現実に叩き戻される。

「あー! 桐生じゃん!」

 あれだけうるさかった心臓が一瞬で止まった気がした。
 大袈裟なくらい肩を跳ねさせて固まった僕の背後から誰かが近付いてくる気配がする。これが誰かなんて考えなくてもわかる。

「お前行かないって言ってたのに結局いるじゃん」
「田中と行かないって言っただけで祭りに行かないとは言ってないよ、俺」
「うわ出た屁理屈。あーそうそう、こいつが桐生。メチャクチャイケメンだろー」

 桐生と同じ、いわゆるカースト上位にいる田中という男が僕は苦手だ。お手本のような陽キャで声も態度も大きくて、それなのに憎めないバカっぽさのおかげで教師からも何故だか一目置かれているやつだ。謎のカリスマ性まで持ち合わせていて、田中の周りにはいつだって男女関係なく人がいる。
 その田中の意識が一緒に来ている人達に向いたところで桐生が僕を背中に隠してくれた。たったそれだけの事なのに僕は無意識に止めていた息を吐き出して少しだけ体から力を抜く。

「あーーー‼︎」

 貫くような大きな声に僕がまた体を跳ねさせるのと桐生が低い声で「うるさい」と呟くのは一緒だった。

「お前、お前…⁉︎」

 田中がずかずかと近づいて来ている気がする。太陽が迫ってくるみたいな、そんなあり得ない危機感に冷や汗が止まらない。そんな僕を知ってか知らずか桐生が僕の手を握り直した。

「いつ彼女出来たんだよ⁉︎ なんで教えてくれねえの! だいぶ可愛い気配察知してるよ俺。てかなんでお面してんの? てか猫じゃんめちゃ可愛いね。桐生が買ってくれたん? ねえねえちょっと顔見せ」
「田中」

 僕は情けない程完全に陽キャの圧にビビっていた。僕はそもそも人付き合いが苦手だ。田中みたいな太陽の塊みたいなやつは一番苦手だ。太陽光に焼き殺されそうになる。

「人見知りなんだよ、グイグイ来んな」
「ヒトミシリ…?」
「何お前人見知りって言葉も忘れたの?」
「違うわ! 俺が驚いてんのはお前がヒトミシリの子と付き合ってる事だよ! へー…お前でもそんな距離の詰め方出来たんだな」
「田中は俺をなんだと思ってんだよ」
「顔だけいいポンコツ」

 ポンコツ、桐生を形容するのに全く当て嵌まらない言葉に僕はお面をしたまま思わず顔を上げる。するとその気配に目敏く気付いた田中が「お」とどこか嬉しそうな声を上げた。

「見ないで、減る」

 少し上げた視線の先、もう少しで田中の顔が見えるという所で僕の背中に手が添えられて、そのまま引き寄せられる。気が付いたらすごく近くで桐生の匂いがして、体温だって感じられる距離にいて、抱き締められているのを悟った。

「はぁ〜〜⁉︎ キャラ違くねえ〜〜⁉︎ 桐生クンは〜そういう事しないタイプだと思ってました〜〜‼︎」
「じゃあ今日からそういうタイプ。田中いたらこの子逃げかねないからさっさとどっか行って」

 呆れ半分、本音半分、そんな声色で紡がれた気のする言葉に確かにそうだなと思うのに面白いくらいに体が固まってしまって動けない。心臓があまりにうるさくてこのままだと聞こえてしまうと思うのに、まるで自分の物じゃないみたいに指先一つも自由にならない。

「へいへい、邪魔者は退散しましょうかね〜。悪い待たせた、行こうや」

 田中が今どんな顔してるのかはわからないけれど声からして面白がってるのはわかる。でもようやくこの場から離れてくれるらしく僕は早く行けと念じた。

「彼女ちゃん、コイツポンコツだけど良い奴だから仲良くしてあげてね」
「余計なお世話だよ」

 呆れを含んだ声で桐生が突き放すみたいに言って田中達の気配が去って行く。賑やかな彼らの声は少しの間聞こえていたけど徐々に祭囃子と雑踏と混ざり合って完全に聞こえなくなる。
 そうなって僕の背中に回っている腕が離れて、自然と半歩だけ距離が出来た。

「ごめん、暑かったよね」
「や、だい、じょぶ、です」
「片言になってるよ雪穂。あ、もしかして照れ、いったあ!」

 桐生が不愉快な言葉を言い終える前に下駄で足を踏ん付けてやった。

「かき氷、奢れ。むしろ今日の屋台全部奢れ」
「え、最初からそのつもりだけど?」
「むかつく」
「理不尽!」

 もう一回踏ん付けてやろうとしたけど桐生も学習したのかさっと足を引いてしまった。それに舌打ちをすると僕はようやくお面から手を離して少しだけ位置をずらした。夏の夜とはいえ空気は蒸し暑いのに、解放された途端の空気は驚くくらい涼しくて思わず息を吐く。

「…ねえ雪穂」
「なに」
「ぜーんぶ奢るからさ、かき氷最後に買おうよ。先にたこ焼きとか買ってさ、最後にかき氷買ってちょっと離れた場所に行こ」
「…いいけど、なんで?」
「田中みたいなのがまた来たら面倒臭い」
「なるほど、賛成。じゃあとりあえずたこ焼きと焼きそばときゅうり」
「はーい」

 田中と話していた時の桐生の空気感が僕はそんなに得意じゃない。こうして一対一で話している時は居心地の悪さなんて感じないのに、田中や他の陽キャ達と一緒にいるときの桐生はどこか温度が感じられなくて、何を考えているのかわからなくて嫌だ。
 今も何を考えているかなんてわからないけれど、僕の手を握ったまま歩き出した桐生の横顔はどう見たって楽しそうで、それにこんな女装した男と手を繋いで嬉しそうにするなんて変態だなって思いもするけど、でも今の桐生の方が僕は親しみ易い。

 カラコロと下駄を鳴らしながら一つ一つ屋台を回って食料を調達する。重ねられる物は袋に入れて貰って、きゅうりは途中で見つけた牛串に変わった。荷物のほとんどは桐生が持ってくれて、今僕の手にあるのはメロンに練乳の掛かったかき氷だ。桐生の腕には食料が入ったビニール袋が掛けられ手にはいちごに練乳がかかったたかき氷がある。
 手を引かれるまま歩いていると僕達はどんどん雑踏から離れ、神社の本殿へと向かう長い階段から少し外れた場所にある、ただ土を掘って階段状にした場所をゆっくりと進んでいく。

「く、暗くて見えないんですけど…!」
「ゆっくり行ってるから大丈夫だよ。ていうかやっぱり浴衣だと階段とか登りにくいっぽいね」
「お前が手を離してくれたら浴衣の裾上げれるんだけどな」
「でもそうしたら暗い中一人で歩く事になるよ?」

 暗闇か多少の不便かを天秤に掛け、そのままという選択をして桐生に手を引かれるままに階段を上がって行く。本殿に続く階段には提灯や幟があったのもあって人が大勢いたが少しそれたこの道には人どころか灯り一つも付いていない。
 背後からほのかに照らす祭りの明るさと、木々に多少邪魔されてはいるものの微かな月明かりのある道を一歩一歩進んで行くとやがて開けた場所に出た。

「…なにここ」
「小さい神社みたいなのがある場所。結構穴場なんだよね」

 生憎暗がりで全体はわからないけど桐生が慣れた様子で歩くから僕の足も勝手にそっちに向かう。言葉通り何を祀ってるのかわからない小さな神社の少し逸れた場所には丁度人が並んで座れるくらいの岩があった。
 そこに並んで座って息を吐く。

「あっつー…」
「浴衣にウィッグだもんね、髪貼り付いてる」
「…お前は涼しげな感じでむかつく」

 当然の様に桐生の細くて長い、それでも僕より随分男っぽい指が慣れた手つきで髪を払う。もうこんな触れ合いにも慣れたものだと言いたいが、そんな訳はない。変な音が出そうになるのを必死で抑えて平静を装って、少しでも暑さを誤魔化そうとかき氷を食べた。

「え、飯食う前にかき氷?」
「暑いし、僕食べる順番とか気にしない。桐生は……なんか気にしそうだよね、そういうお行儀的なやつみっちり叩き込まれてそう」
「そんな事ないと思うけどな」

 そう言って桐生は岩の空いている場所にかき氷を置いて袋の中からたこ焼きを取り出した。きちんとお手拭きで手を拭いて、割り箸をきちんと真ん中で綺麗に割って、両手を合わせて口の中でいただきますと言ってから綺麗な所作でたこ焼きを一つ摘む。
 少し時間が経ったおかげかそこまで熱くなかったみたいだった。

「ん、美味い」
「よかったね」
「うん、ほら雪穂もあーん」
「自分で食べる」
「でも今かき氷で両手塞がってるよ」

 ああ言えばこう言う桐生に僕はもう勝てっこないのだ。
 渋々口を開くとそれなりの大きさのたこ焼きを一口で口内に納める。それに驚いた気配がしたけれど特に気にはしない。

「…そんな口開けれたんだ」
「お前何を思ってるのか知らないけど僕普通に男だから。これくらい一口で食べるし、ラーメンだってすするし」
「……ギャップじゃん⁉︎」
「本当ブレないよね桐生って」

 ソースとマヨネーズの濃い味をかき氷で中和する。僕的には全然違和感はないけれどその様子を見ている桐生の目は驚いていた。いつも連んでいる陽キャ連中もきっと僕と似たような物なのではと思ったのだが、もしかしたら違うのかもしれない。
 たこ焼きを食べ、焼きそばを食べて、牛串も食べた。いつもならぺろりといけそうな量も帯で胃の辺りを圧迫しているから全然食べられなくて、大半は桐生の腹に収まってしまう。けれど夏祭りという雰囲気がそこまで空腹を感じさせないし、なんだか非日常感があって楽しいとまで思っていた。
 どうせこの浴衣とメイクと髪型のおかげできっと誰にもバレないし、今に至っては僕達しか居ない。遠くから祭りの気配はするけれど、どちらかと言えば夏虫の声の方が良く耳に届く。

「上見てて」

 スマホで時間を見ていた桐生の言葉になんの疑いも無く顔を上げる。
 満月ではないけれどちょっとふくよかな月が出ていて、金星が綺麗に輝いているのがわかる。普段意識的に夜空なんて見ないからそれだけでも新鮮だったのだが、不意に訪れた腹の底に響く衝撃音に目を見開いた。
 ドン、と大砲の様な音がした僅かコンマ数秒後、夜空に大輪の花が咲く。

「ほら、穴場だって言ったでしょ」

 呆然としている僕に桐生が得意げに語り掛ける。
 確かに、そう、確かにここは穴場だった。
 始めの花火の余韻が消えそうになった瞬間、甲高い打ち上げの音が聞こえる。また大砲の様な音がして、今度は小さな花火が一気に横這いに広がって空を埋める。

「…きれい」

 こんな景色、一体いつぶりだろう。
 夏の夜空を彩る花火に魅入っていた僕は気が付かなかった。

「うん、綺麗だ」

 そう囁いた桐生の声が近かった事に。
 僕の視界を遮るみたいに顔が寄せられた違和感に。

「──ぇ…」

 ドン、と鮮やかな色彩の花火が上がった。

「きれいだね」

 練乳みたいな声の余韻が消える前に、僕の視界は桐生で埋め尽くされた。
 触れた温度は思ったよりも冷たくて、甘い香りがした。

「はは、目丸くて猫みたい」

 掠れた声と吐息が肌に触れる距離。暗がりでよく見えないけれど、目はどこか楽しそうに細められていたように思う。
 呆然とする僕の頬を撫でた手が離れて、また視界に夜空が映る。花火が上がる。小さなものから大きなものまで、色とりどりの花が夜空を染めていく。だけど僕には今それを楽しむ事なんて全く出来なくて、横を向くことさえ出来ない。

「っ!」

 左手に桐生の手が重なる。指の間に桐生の長い指が入り込んで、まるで逃がさないとでも言う風に僕の手を捕らえた。

「花火もうちょっと見たら」

 僕の耳の奥では自分の鼓動の音がうるさいくらいに響いている。もう花火なんて見ていないし、かき氷で潤したはずの喉はカラカラだ。
 それなのに桐生の様子は何事も無かったかのようにいつも通りで、もしかしたらさっきのは一瞬の夢だったのかななんて思ったりもしたけれど違うって訴えて来るみたいに桐生の手が熱い。
 僕は何も言えなかった。
 嫌だとも、ふざけるなとも、なんの冗談なんだとも、何も。
 ただ心臓がうるさくて、くちびるが触れる瞬間の桐生の目があんまりにも綺麗だったのを思い出して。
 ──ああ、嫌じゃなかったな。なんて、そんな思考に囚われて。

「雪穂、立てそう?」
「…ん」

 花火も終盤に差し掛かったのだろうか、桐生が先に腰を上げた。まだ衝撃から抜け出せない僕はぼんやりと返事をして促されるままに桐生の手を取って歩き出した。
 お互いに無言のまま人波を逆らうように歩いて、気が付けば祭りのほんのり赤い空気感が見慣れた蛍光灯の白さに変わる。祭りから帰っている人はちらほらといるが、みんなそれなりに距離がある。
 横に並ぶんじゃなくて桐生に引かれる形で歩いているのは僕がまだ動揺しているから。
 交差するように繋がれた手は同じ男の手の筈なのに桐生のだけやっぱり大きくて、格好良く見えて、それがどうしようもなく悔しくて、胸が締め付けられた。
 ガチャ、と桐生の家のドアが開いて僕が入ったのを確認してから閉められる。
 人の気配がしないからまだ桐生の両親は帰ってきてないのかもしれない。

「顔真っ赤」

 振り返って僕を見た桐生が心底楽しそうな顔で呟いて、また距離が縮まった。
 とん、と背中がドアにぶつかる。2回目のキスだった。

「…なんで」

 今度はちゃんと出た声は笑えるくらいに細い。
 至近距離で僕を見る桐生の目からは何も読み取れない。綺麗で、でも色が深くて、水みたいにつるりとした目だ。

「……かわいいから」

 怒れば良いのか、笑い飛ばせば良いのか、僕にはわからなかった。
 『普通』の人ならこんな時どうするのだろうか。気持ち悪いと跳ね除けるのだろうか、それとも冗談が過ぎるぞって何事もなく笑って流せば良いのだろうか。選択肢はいくつも浮かぶのに、僕はどれを選択したら良いのか全くわからなかった。
 気が付いたら桐生の家で風呂を借りていて、浴衣もカツラもメイクもなくなったただの斉藤雪穂が鏡の中に居た。
 フル装備だった僕は、自分で言うのもなんだけどそれなりの見た目だったのではと思う。否、見慣れなくてそう思っただけかもしれない、ていうかきっとそう。

 昼ぶりとなる自分の服を着て桐生の部屋に向かう。扉を開けようとドアノブに手を掛けた瞬間体が強張ったのはもう仕方のない事だと思う。いくら考えても答えは出なくて、今もどんな顔をしたら良いのかわからない。けれど時間は止まらないし今すぐ地球が滅亡する事もないから進まないといけない。深く息を吸ってからドアを開けると「風呂ありがとう」と俯いたまま告げる。

「さっぱりした?」

 拍子抜けするくらいいつも通りの桐生に安堵するのと同時にずし、と心に重石が置かれたみたいな心地になる。

「じゃあ俺も入ってこようかな。雪穂今日もう遅いし泊まっていく?」
「…帰る」
「そっか、気を付けてね」

 桐生は僕の横を通り過ぎて行った。パタンと閉まるドアの音がやけに無機質で、それで僕は忘れかけていた事を思い出した。

「…桐生が好きなのは女装してる男だもんね」

 声に出して、それがちゃんとした輪郭を持って僕の中に沈んでいく。馬鹿みたいな理由だけどこれが真実なんだからおかしくて思わず笑ってしまった。
 桐生は僕を特別扱いしてくれる。それはきっと誰にも言えない秘密を共有しているから。一種の運命共同体みたいなものなのかもしれない。バレたらお互いに白い目で見られる事は間違い無いのだから、特別な感情が生まれてしまっても仕方がない事だと思う。ドラマでも映画でも、二人で罪を犯した人達は良くも悪くも固い絆で結ばれているのがセオリーだ。
 僕達はきっとそれに該当する。ただ、僕の特別が普通とは違うだけ。

「…だから、嫌だったんだ」

 冷静になろうと深呼吸しながら元々少ない荷物を持って桐生の家を出る。バスはまだある時間だけど、今日は歩いて帰る事にした。
 夏の夜は蒸し暑い。豪華な家の立ち並ぶ区画から抜けたらちらほらと祭りから帰っている途中の人たちが目に着いた。友人も家族連れも恋人達も大部分はどこか満足そうな顔をして帰っているように思う。
 たった数時間前、僕はきっとこの人達と同じ顔をしていた。
 そう思った途端、その記憶を振り切るように僕は足を前に出す。出来るだけ前を見ず、なるべく早く、熱で流れる汗と一緒にあんな記憶も全部無くなれば良いのに。

「、た、だいま」
「おかえり、ええどうしたのそんなに急いで。お風呂入る?」
「はいる」

 動いている時はそうでもないのに、止まった瞬間汗が吹き出す。
 全身が汗で濡れて気持ち悪い。さっきシャワーを浴びたはずなのに僕はまた風呂場に向かって歩く。服を脱いで、まだほとんど水みたいなシャワーを浴びていたら慣れない匂いがした。

「っ」

 掻きむしるように頭を濡らしていつものシャンプーで洗い直す。
 どんどん桐生の匂いを消しながら、呼吸が苦しくなっている事に気がついた。
 眼鏡を外しているからじゃない理由で視界がぼやけている。目の前が滲んで、足元に泡がどんどん落ちていくのが曖昧な輪郭でわかる。
 ああ、みじめだな。呟いて、僕はその場にしゃがみ込んだ。
 嬉しかったんだ、本当は。あの梅雨の日に話しかけられた事も、こんな馬鹿げた秘密を共有した事も、僕の事を可愛いって綺麗だって言ってくれる事も、二人で出掛けた事も、キスしてくれた事だって全部。
 だって僕は、ずっと前から桐生の事が好きだったから。


 好きになったのは一年の頃だった。
 僕と桐生の間に接点なんて無かった。あったのは二年間同じクラスだったという事だけ。たまに挨拶したり席替えで近くなったりした時にほんの少し世間話をした程度。
 知人にもなりきれていないポジションにいたのに僕は桐生の事が好きだった。
 元々目立つ人だなって思っていた。同じ年の筈なのにどこか落ち着いていて、でも見た目がすこぶる良いから嫌でも人の目を引いていて住む世界の違う人だと思った。
 その感想は桐生が仲良くなった人達を見てさらに深まる。

 マンガとか学園ドラマでしか見たことが無いようなカースト上位軍団の中に桐生がなんの違和感もなく解け込み、休み時間も昼休みも放課後だって賑やか。「俺がこの世の主役」と言わんばかりの華やかさに住む世界が違うと思いつつも、僕は度々見惚れていた。
 今思えば顔が好みなんだと思う。僕は面食いだったらしい。

 だけど意外にも人の事をちゃんと見ていて、折り合いの悪い人達が喧嘩になりそうになるとさりげなく止めに入るところだったり、委員会とか日直も休まない真面目なところだったり、助っ人を頼まれたスポーツの出来が良くなくて悔しがってるところだったり、そんな毎日を真っ直ぐに生きているところが眩しいなって思った。
 一年の時ほんの少し会話をしただけの同級生に僕は恋をしていた。一生誰にも言う事のない、僕の胸にだけしまっておく、小さな宝物みたいな感情だった。
 それが叶う事なんて絶対に有り得ない。でも、それでも、少しだけ。
 近付いてみたい、そう思った。

「雪穂、今日はこれね」

 夏祭りから数日経ち夏休みも終盤になった午後、僕は相変わらず桐生の家に来ていた。あんな事があったのに普通の顔してまた撮影会に臨むなんて正気の沙汰じゃないと理解しているのに、それでも誘いの連絡があった時嬉しいと感じてしまった。
 それに桐生と僕ではキスに対する感覚がきっと全然違う。
 僕にとってはとんでもない出来事だけど、桐生にとっては外国の挨拶並みの感覚なんだと思う。そう思えば納得出来るし、だからこそこんな風に誘えるのだ。

「…一体どんだけ服持ってるの」
「そんなに多くないよ? あ、でもいずれは際どいのとか行きたいよね、バニーとか」
「ぜっっったいに着ないから」
「押しに弱いから土下座すればワンチャンって思ってる」
「……」
「雪穂ってたまに視線だけで人殺せそうだよね」

 これ見よがしに溜息を吐いて今日の衣装に目を向ける。
 桐生の手に持たれていたのはホビーショップで見るような仮装の衣装。今まで桐生が用意していたのは結構質が良かった為見るからにパーティグッズのそれに少し意外だなと瞬きをした。

「今日のコンセプトは初めての女装です」

 口角を上げて得意げに笑う桐生にむかついて脇腹にパンチした僕は悪くない。
 引ったくるように薄い袋に入った衣装を奪って桐生に背を向けて服を脱いでいく。着替えはいつも桐生の前でしている。抵抗が無いと言えば嘘になるけど「だって男同士じゃん」と言われてしまえば僕に取れる選択肢なんて一つしか無かった。
 でも何回もやっていれば慣れるもので最早作業と同じ感覚で服を広げる。やはり生地は薄いし今まで着た服を思うと安っぽく感じるし実際そうなんだろう。
 でも確かに世間一般でいう初めての女装とやらはこのレベルに違いないし、コンセプトには合っているのかと思うと心中は複雑だ。

「…ていうかセーラーじゃん。また撮るの?」
「うん」

 やけに短いスカートに生地の薄い上着、スカーフは真っ赤でいかにもコスプレですと言わんばかりの服だが恐ろしい事に僕はもうそれらに抵抗が無くなっていた。
 着せ替え人形はきっとこんな感情なんだろう。

「雪穂ってさ、背中綺麗だよね」

 掛けられた声は思ったよりも近くて、振り返ろうとした矢先背筋をなぞられて僕は叫んだ。

「やめろこのばか‼︎」

 人の気も知らないでと苛立ちのまま睨んだ桐生の表情に心臓がどくりと脈打った。
 熱を孕む、というのはきっとこんな顔なんだろう。

「…な、に…」

 思わず一歩後退った僕を桐生は静かに見ていた。ただ見て、じっくりと見て、急に片手で口を覆った。

「下スカートで上は裸の破壊力やば…‼︎ 倒錯的ってこういう事を言うのかな、きっとそうだ。なるほどこれが。雪穂全身白くて綺麗だから余計に破壊力が凄すぎて最早芸術なのかもしれない。なんか美術館にも有りそうだもんね、それくらい綺麗だし、エロいし、なんかいけない事してる感じがあってめっちゃくちゃクる」
「うるせえど変態どっかに頭ぶつけて気絶しろ」

 僕は光の速さで上を着た。

「今までちゃんとした服着せてきたからチープなの着ると更にエロい」
「桐生の目ってどうなってるの本当に。腐ってるの」
「生きてきた中で今多分一番視力が良い。今なら多分透視も出来そう」
「きっも」
「チープなセーラー着た黒縁メガネの女装男子にゴミみたいな目で見られるってなんでこんなにも興奮と幸せを同時に運んできてくれるんだろうね?」
「知らないよ」

 肺の中の空気を全部抜くように息を吐き出して興奮気味に鼻息を荒くする桐生の肩を殴る。
 学校でも運動をしている時でも、数いた恋人の前でも桐生はこんな顔をしていなかった。
 だからこれは現状ではきっと僕一人が知っている桐生の顔。その事に対する優越感があるから僕は桐生の誘いを断らないし、桐生が「もういい」って言うまでこの関係を続けて行くんだろう。

「今日はメイクしないの」
「やっぱり積極的になってきたよね雪穂」
「もうそれでいいよ。で、するのしないのどっち」
「んー…今日はいいかな。制服の時はノーメイクの方が良いし、雪穂はメイクしてなくてもかわいいから」
「……お前、誰に対してもこんななの」

 僕は一年の頃から桐生を見てきた。でも見ているだけで桐生がどんな会話をしていたのかなんて全く知らない。恋人らしい女子といる時も、もしかしたら桐生はこんな風に惜しげも無く歯の浮くようなセリフを言っていたのだろうか。そう思うと胸が少し傷んだ。

「こんなって言うのは?」
「…可愛いとか綺麗とか」
「あー、言わないね」

 ふわりと心が軽くなる。単純だなって自分でも思った。

「だって面倒臭いじゃん、勘違いされるの」

 ガツンと鈍器で殴られたような衝撃が襲った。浮上した心が一気に鉛みたいに重たくなって沈んでいく。それと一緒に口の中がカラカラに乾いていく。

「社交辞令的なのでもさすぐに気があるのかもーって勘違いする子っているんだよ。結構面倒臭い目に遭ってきたから言わないようにしてる」

 どう形容したらいいのか分からない感情がお腹の奥で渦巻いている。苦しさと悲しさと羞恥心がない混ぜになった、ヘドロみたいなそれがどんどん僕の首を絞めていく。でもそれを悟られる訳にはいかなくて、僕は興味がないみたいな顔をして「へえ」って言った。

「あ、でも雪穂に言ってるのは全部本心だよ。雪穂は本当に可愛いし綺麗だしあとエロい」
「男にそんなの言われても嬉しくない」

 嘘だ、本当は嬉しい。
 キスされた時ももしかしたら僕にも可能性があるんじゃないかって思った。こうして二人でいる今も、もしかしたらって。
 だけどそんなはずない。桐生が僕にかわいいって言ってくれるのも、きれいだってえろいって言ってくれるのも、全部僕が男だからだ。
 面倒事が発生しない男だから、桐生はそう言ってるだけなんだ。


 ──


 スマホが震えてメッセージの着信を教える。
 休み時間で少し騒がしい教室の中で僕はスマホを取り出して画面を見た。初期設定のまま変えていない待ち受け画面にメッセージアプリの通知が表示されている。

『今何してるの?』
「……」

 よく分からないスタンプと一緒にその文を送ってきたのは桐生だ。
 自分の眉間に皺が刻まれるのがわかり、少しささくれだった気分を落ち着ける為に細く長く息を吐き出した。

『見えてるだろ。何もしてないよ』
『俺が見えてないだけで何かやってたかもしれないじゃん』

 授業間の休み時間は短い。それなのにその時間の度に集まって騒ぐ連中のほとんど中心に桐生はいる。カースト上位組の声は大きいがその中に桐生の声は聞こえないからきっと今は意識をスマホに向けているのだろう。

『人が邪魔で顔見えないけど多分今すごい眉間に皺寄ってるに100円』
『くたばれ』

 騒がしいのは桐生達のグループだけでそれ以外は気にならない程の音量だ。そんな状態だからこそ僕の返信を見たらしい桐生の吹き出すような笑い声がよく聞こえた。

「何急に笑い出してビビるんですけど」
「桐生クンさっきからスマホ見てニヤニヤしてたよ」
「──彼女だろ」
「はああ⁉︎」

 休み時間が終わるまで後数分というところで見た目が派手な女子数名の悲鳴のような声が上がった。彼らは常に自分達が世界の中心だから気が付かないだろうが、そうじゃない僕達みたいな人種は気配を消す。だから今教室は彼ら以外しんと静まり返っていた。

「聞いてないんですけど! てかどこ情報よそれ⁉︎」
「田中―」
「じゃあガチじゃん! ええうそうそー、次はあたしと付き合うって言ったじゃん桐生〜」
「記憶に無いですね」
「クズ!」

 桐生の体に寄り掛かる学校でも美人だと噂の女子に心臓が嫌な音を立てて軋む。

「てかいつからなの。オレらも知らなかったんですけど」
「黙秘権を行使します」

 ワイワイガヤガヤ、そんな言葉がこれ以上ない程似合う騒がしさにまた眉間に皺が深く寄る。なんの関係もない話題なら流せてしまえるがこの件に関してはそうも行かず、何も気にしていない振りをして次の授業の準備をしつつも聴覚はしっかりと賑わいの方に向いている。
 頼むからこのまま黙秘し続けていてくれ。それ以上深掘りしないでくれ。
 何故なら多分その彼女と言われている人物は女装した僕だ。あまりにも心臓に悪過ぎる状況に胃がむかむかする。

「写真とかないの?」
「無い。あっても見せない」
「え、以外。桐生クン今までの彼女とかさらっと見せてたじゃん」
「すんごいかわいいから誰にも見せたくないんだよね」

 一瞬、教室が無音になった。
 女子のかしましい声と次の授業を知らせるチャイムが鳴ったのはほとんど同じタイミング。先生が「うるさいぞー」とハリのない声と共に前側の扉から入って来て、カースト上位組は渋々といった様子で席へと戻っていく。
 またスマホが震えた。
 日直の号令が終わった後、先生にバレないように画面を見た。

『顔赤いよ』
「っ!」

 反射的にスマホの電源を落として引き出しの奥へとしまい込む。ばくばくと心臓がうるさくて、顔が熱いのが自分でもわかる。長い前髪で極力顔を隠してまだ夏の熱い風を運んでくる窓側に顔を向けた。夏真っ盛りの8月よりかは多少和らいだ気のする風に吹かれながらふと視線を僕よりも前の席に座る桐生の方にやる。そこにはいつも通りのそいつが居て、僕はちょっとむかついた。
 夏休みも終わって2学期が始まった9月の中旬だか下旬だか曖昧な頃、相変わらず僕たちの秘密の関係は続いていた。夏休みに起きたキスだったり面倒臭い発言だったりは個人的にストレスがとんでもない事案だったが、桐生がなんとも思っていない以上僕が気にし過ぎるのも変だなと思ってそのままだ。
 撮影をしている時の僕達の距離感はおよそ友人同士ではないと思う。だって普通に物理的に距離が近いし、桐生が僕に触る事が多くなった。流石にキスは無いけど、抱き締めたり頭を撫でられたりはもう日常になりつつある。

 この前なんてなんでか知らないけど桐生の膝の上にも乗った。流石に叫びながら飛び退いたけど、僕の両脇に手を入れて簡単に抱き上げるから本当に驚いたし、不覚にも心臓が高鳴ってしまった。
 ……詰まるところ、惚れた方が負けというやつだ。

 来月の中旬には中間テストが始まるからかいつもより人の多い放課後、随分と陽が落ちるのが早くなったと感じながら僕は文庫本のページを捲った。微かな息遣いとペンがノートを走る音、日中とは打って変わり秋が始まろうとしている夕方の心地良い風がカーテンを揺らして夏の終わりの香りを運んでくる。1ページを読み終わって次のページへと目線を動かした時、ある単語が目に入ってぷつりと集中が途切れた。
 「愛玩」その二文字に心がざわめくのと同時にすとんと何かが落ちていく。
 それが納得だと気がつくのに時間は掛からなかった。
 しっくりくるなと思った。何よりこの言葉が当て嵌まると思った。お気に入りの玩具なのであれば、今の扱いにも全然納得が出来る。ポケットに入れたままのスマホが震えて、本を閉じて取り出す。画面には桐生からのメッセージを知らせるアイコンが表示されていた。

『今日も図書室?』
『そうだよ。桐生は助っ人終わったの?』

 テスト期間入るのはもう少し先で、だから桐生は今日も部活の助っ人に行っている。助っ人というか次の試合の時に円滑にコミュニケーションが取れるように普通に練習に参加しているらしい。

『終わったー。今からファミレス行く』
『いってらっしゃい』
『ありがと、行ってきます』

 またよく分からない動物のスタンプが送られて来て僕は少しの間その画面を眺めていた。
 まるで恋人みたいなやり取りだと思う。桐生にとってはなんの意味もないやり取りでも、僕にとっては明日も頑張ろうって思えるくらい嬉しいやり取りだ。時間経過で画面がブラックアウトしたのをきっかけに僕は細く息を吐いて帰り支度を始める。なるべく音を立ない様に邪魔にならない様に最小限の動作で荷物をまとめるとそのまま図書室を出た。

 まだ吹奏楽部の音が聞こえる夕方の校舎がなんとなく好きだ。きっと青春という物語の1ページを切り取った様な景色だから。ノスタルジーって、きっとこういうことなんだろう。
 またスマホが震えた。この時間なら母さんから晩御飯の連絡だろう、そう思って見た画面にはまた桐生の名前。どうしたのだろうかとアプリを開くと書かれていた言葉に僕は足を止めた。

『来週一緒にテスト勉強しよう』
『わかった』

 嬉しさと虚しさが一緒に襲ってくる、どちらかといえば虚しいけれど、最後には嬉しさが勝つんだ。

「……すきって、面倒くさいなぁ」



 夏休み以降桐生の家に行く頻度は下がっていた。理由は簡単で服のストックが無いからだ。いくら桐生の実家が金持ちだといっても息子のとんでもない趣味に加担する筈もなく、今まで集めていた衣装は全て桐生の口座から支払っているものらしい。
 聞かされた時はそうなのかと思ったが家に帰ってゆっくり思い返してみたらそもそもそれらを購入できる財力がやばいなと思って真面目に引いた。撮影が無いと桐生との接点も減るかと思ったが案外そんな事はなく、マメな性格なのか日常の取り止めもないことをよく連絡してくれる。ちなみに連絡先を交換して今日まで桐生とのメッセージが24時間以上途絶えた事がない。

「ねえ雪穂、ここは?」
「んー…?」

 そんな連絡がマメな桐生と今日はテスト勉強中だ。もはや居心地の良さすら感じる桐生の部屋でローテーブルに教科書やプリントを出してお互いが好きな様に勉強をしている。やっぱり僕は数学が苦手で、桐生も現代文や古典が苦手だ。僕はそんなに賢い方じゃないけど、現代文とかそういうのは得意だ。

「…で、こんな感じに答えとけば良いと思う。錦山先生こういう言い回し好きだし」
「はー、なるほど。さすが」
「いーえ」

 お互いに教えやすいからという理由で隣に座っているからか少し体を寄せるとすぐに肩が触れる。でも桐生は女装をしてない僕には全く興奮しないから身構える必要も無い。
 それで良い筈なのに少し悲しく思ってしまうのもまた惚れた弱みなんだろう。

「雪穂ってさ、人の事よく見てるよね」
「? なに、急に」
「なんとなく。ただこういう先生の癖とかよく気付くなーって」
「別に、過去問とかと照らし合わせたら傾向がわかっただけだし」

 自分が取り掛かっているプリントに視線を落とす。数学の文章問題ばかりが載っているそれに思わず眉間に皺を寄せ、まずは理解しようと読み始めた。

「俺のことも観察してる?」

 きっと難しい顔のまま桐生を見たせいだろうか、楽しそうに笑う桐生が僕の眉間に深く寄った皺を解すように撫でてくる。

「…してる。お前がいつボロを出すかひやひやしながら見てる」
「ええ! 俺そんな信用ない?」
「むしろ信用されてるって思ってる事の方が驚きだよ。自分のした事胸に手を当てて考えて」

 これ見よがしに溜息を吐いてまた視線を数学のプリントに戻す。だけど僕の心臓は嫌な速度で駆けていて、背中に冷や汗も伝っていた。「観察」というのは僕にとって戦いみたいなものだ。より普通でいるために様々な人を観察して情報を集めて周囲と自分との相違点を潰す、地味だけど大切な戦い。

 だけど桐生に対してはそうじゃない。1年の時、まだ好きだって自覚する前から無意識に桐生を目で追っていた。桐生というパズルのピースを一つ一つ集めるみたいに、新しい事を発見しては空白を埋めてきた。沢山見てきたから多分僕はきっと学校の誰よりも桐生の些細な変化に気が付けると思う。だからこそ、桐生もまた人の事をよく見ているというのを知っている。
 もしかしてバレたのだろうか。僕の気持ちというより、僕が桐生をずっと見ているという事に。
 ああ、喉が乾く。居心地が良いと思っていた桐生の部屋が今は拷問部屋のような気さえしてきた。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか桐生は素直に僕の言った通りの行動をしている。
 つまり手に胸を当てて考えているのだ。お前は呑気で良いな、そんな八つ当たりに近い感情さえ覚えた。

「心当たりがあるとすれば」

 だけど僕はもう普通を装う事に関してはプロレベルだと自負している。だから今も意識は桐生に向けつつも数学の問題を読みながら気の無い返事で「んー…」と適当な相槌を打つなんて芸当も出来る。あ、この問題もしかしてこうか。
 ふと閃いてシャーペンをノートに走らせた。

「キスした事かな」

 バキン、と芯が折れて白いノートに転がる。
 視線は芯が折れた衝撃で粉々になった箇所から動かず、重たくも軽くもない沈黙が落ちた。
 恐る恐る顔を上げると、そこには見た事がない顔をした桐生がいた。

 意図的に避けていた。あの日の出来事を口に出すのを。
 口に出さなければ都合の良い夢として自分の中で思い出として取って置けると思っていた。僕は桐生もそれを望んでいるんだと思っていた。
 だって桐生はあれからも驚くくらいにいつも通りで、桐生自体があの日の出来事は夢なんだよと教えてくれている気さえしたから。
 それなのに桐生は今口火を切ってしまった。
 大切な思い出として昇華しようとしていた事を、残酷なくらいに生々しく思い出させてしまった。

 弾ける火花、視界に広がった桐生の整った顔と僅かな汗の香り、柔らかくてでもかき氷を食べたせいで少し冷たかったくちびるの感触、離れた時の、甘いいちごの匂い。
 あの時の感覚が鳥肌が立つくらい一気に蘇る。

「雪穂」
「──帰る」
「ぇ」

 いま僕はどんな顔をしているんだろう。きっととんでもなく情けない顔をしているに違いない。だって全身が熱くて、目の前が滲んでいる。みっともないくらい情けない顔を晒している自信がある。
 桐生が困惑した声で僕を呼んでる。
 桐生の声で呼ばれる僕の名前はまるで僕の物じゃないみたいに綺麗に聴こえて特別だった。でも今は呼ばれる度に心臓が締め付けられてるみたいに痛くてしょうがない。広げていたノートも参考書もプリントも勢いのまま鞄に詰め込んで立ち上がろうとテーブルに手を着いた。

「待って雪穂!」

 こんな桐生の声は聞いた事が無い。
 手首を掴む手が熱い、火傷しそうだと思った。この手に触られるどの瞬間も特別だった。

「はなして」

 ああやっぱり声も震えている。
 僕の様子がわかった桐生の手から力が抜ける。そうなると逃げるのは簡単で、僕はすぐに部屋から出た。階段をなるべく早く降りるとリビングの扉が開いた。今日初めて桐生の母親に会った。桐生は母親に似ているんだなってすぐにわかるくらいその人は美人で、来た時に挨拶した僕をとても綺麗な笑顔で出迎えてくれた。

「あら斉藤君もう帰るの?」
「っぁ、はい、おじゃま、しました…っ」

 桐生のお母さんが驚いたのが気配でわかる。でもそれを気にする余裕なんてある訳なくて僕は逃げるように靴を履いて外に出た。外は明るくてまだ暑い。日差しまあまあ強いけど少しでも遠くへ逃げたくて走り出す。
 頭の中はどうしようもないくらいぐちゃぐちゃだ。
 こんないかにもな態度を取ってしまったら僕が「普通」じゃない事がバレたかもしれない。きっと余計なストレスを与えてしまった。意味がわからないって怒っているかもしれない。
 いくつもの可能性が頭の中を堂々巡りして、乱れる呼吸の音が遠くに聞こえる。
 ただ一つはっきりしているのはもう桐生と会えない。それだけだった。
「お前って人生イージーモードだよな」

 これと似たような言葉をどれくらい言われてきただろう。小学生の頃は無かったから、きっと優劣の可視化が顕著になり始める中学の時だっただろうか。
 初めて言われた時は校内でもトップに入るって噂の美人と付き合った時。スマホで連絡してる時にその時よく遊んでいた友人に言われた。その言葉が何を意味するのかわからなくて俺は「そう?」なんて返したけど、今思えばスカした返答だったと思う。その証拠にその日から友人と思っていた人と距離が出来た。

 テストで良い点を取った時、運動で良い結果を出した時、俺が何か人より多少優れた事を成した時大抵誰かが似たような事を言っていた。多分あらゆる成績が良いだけだとこうは言われない。なぜなら俺より優れてる人はそれなりに居たから。
 でも周囲は俺の事を「勝ち組だ」「人生楽勝そう」と言う。
 なんでそう言われるのか考えた時、答えに近いんじゃないかって仮定に行き着いた。

 俺は外見が優れているらしい。どこからどう見ても母親にそっくりなこの顔は女ウケが良くて、父親に似た長身もそれを加速させているらしかった。それに加えて俺の両親がそこそこの高給取りっていうのもポイントが高いみたいで、何回か付き合った年上のお姉さんには「空と結婚したらあたしも勝ち組になれそー」なんて言われた。
 つまり俺の周りにいる人達はほぼ全員俺の表面しか見ていないという事だ。
 そう悟った時言い様のない虚無感が襲ったのを覚えている。

 俺は別に努力してない訳じゃなかった。勉強も運動も単純な負けず嫌い精神で少しでも上にいたかっただけだし、一つのスポーツに絞らなかったのは運動自体が好きで一つに集中するのが勿体ないって思ったからだ。
 どの部活に助っ人として呼ばれた時も相応の努力はしてきたつもりだった。上手くいかない事だってもちろんあった。でも俺と一緒に練習をしてきた人達でさえその時間を無かったものにして「あいつは才能の塊だから」って言う。
 誰にも理解されない、そんな気持ちのまま家で適当にネットの海を彷徨っていた時だった。

「……なんだこれ」

 多分何かの女性アニメキャラのコスプレだったと思う。どのキャラかまでは把握出来なかったけどその衣装に見覚えがあった。たまたま流れて来たものだけど何か違和感があってじっと見ていたらそのコスプレをしているのが男だと知って「は?」なんて自分でも出した事がない声が出たのを覚えている。

「うわ、キッツ…」

 始めは感じなかった違和感も同性だと知った途端未知の嫌悪感へと姿を変える。男なのに何やってんだよと思ったし、その画像をまじまじと見てしまった自分にも嫌な気分がした。だけどそれと同時に興味が湧いたのも確かだった。
 一体どんな経緯があればこんな格好をする事になるんだろう。
 馬鹿にしたいという気持ちがあったのは間違いない。馬鹿にして笑ってやって、ちっぽけな優越感に浸るつもりだったのに、その人の画像を見る手が止まらなかった。

「…白…ほっそ…、え、これマジで男…?」

 白くて華奢な身体で女性の服を着ているのに女性とは何かが違う。どれもアニメとかゲームのコスプレだからか露出が多くて同じ男の肌のはずなのに目のやり場がなくて少し恥ずかしかったが、大胆に腹部を見せている画像に移った時気がついた。
 そうか、男だからくびれが無いんだ。
 女性のようななだらかな曲線ではなくすとんとした直線。きっと肌の色や明るさは加工しているんだろうけれど、それでもわかる腰骨のゴツさや細い首に見える喉仏に唾を飲んだ。
 その頃にはもうその人が女装を始めた経緯なんてどうでもよくなっていた。

「…こういう人達って他にもいるのかな」

 怖いもの見たさ、という言葉では片付けられない興味。
 それから俺は何にもない顔をしていつも通りの日常を過ごしつつ、夜は女装している男の画像を探し回った。
 その人達に興奮しているんだって理解するのは時間の問題で、今まで波風立てる事なく平坦に生きてきた筈なのに高校に上がる手前でとんでもない性癖の扉をこじ開けてしまった。でも俺の性的嗜好は相変わらず女子だったし、間違えても男に反応するような事は無かった。だからまあ問題は無いだろうと思っていたのに、ある人と出会った事で俺の大した起伏の無かった人生が波打っていく。

「斉藤雪穂です、よろしくお願いします」

 小さいけど意志の強そうな声だと思った。あと背が低くて無愛想。
 前髪が長すぎて顔が見えないし、猫背のせいでただでさえ低い身長がさらに低く見えていかにも「陰キャ」という感じだった。
 この時はまだ斉藤雪穂という人物に対して興味は微塵も無かった。同じクラスだから名前を覚えただけでこれから先言葉を交わす事もそう無いだろうと思っていたのに、衝撃はそれから少し経ったある日突然やって来た。
 体育の授業前の休み時間。女子は更衣室、男子は教室で着替えている時の事だった。
 同じ中学から上がったやつも多くて、俺はその日も友達と取り留めもない話をしながら着替えていたんだ。でも結構強い風が吹いてふと、窓際に目をやった。

「…!」

 日の下に長時間いた事がないって一目でわかる白い肌に筋肉がついているようには思えない薄い身体。二の腕も胸も腰も何もかもが細いのに、それでいて骨っぽさはあまり感じさせない体型。

 ──ドンピシャだ。

 久しく感じていない好奇心みたいなものが強く掻き立てられたのを覚えている。
 その日から俺は斉藤雪穂の観察を始めた。その時点ではこの男と何か接点を持とうなんてカケラも考えていなかった。ただ理想的な身体の持ち主がいて、その身体で勝手にどんな服が似合うのか妄想していただけである。

「…桐生、お前最近イイコトでもあった?」

 斉藤雪穂を観察し始めてから割とすぐに腐れ縁と言っても過言ではない男、田中にそう言われた。

「……あった」
「うーわ珍しい。ポンコツなのにやるじゃん」
「うるさい、俺はポンコツじゃない。どっちかって言うとお前だろポンコツは。小テスト見せてみろよ」
「頭の出来のこと言ってんじゃないんですけど〜! 人間的な意味です〜!」
「……田中お前人間的なんて言葉使って文章作れたの」
「そうそう、俺も日々ガクシュウしていきますからって馬鹿にしないでいただけますぅ⁉︎」
「はいはいうるさいうるさい」

 騒がしくしていると視線を感じて顔を向けた。
 すると斉藤雪穂と目が合って、だけどすぐに逸らされる。
 たったそれだけの事なのに心が浮き立った、桐生空、16歳の春だった。

 斉藤雪穂を観察してわかった事は少ない。少ないけれどきっとこの学校では一番俺が斉藤雪穂の事を知っているんだろうなと思う。
 読む本は結末が暗めな物が多い事、ちゃんと真面目で授業中寝ない事、日直の仕事を片側の奴が投げ出しても文句一つ言わない大人な性格な事、そしてどうやら一人でいるのが好きらしい、という事。
 斉藤雪穂は基本一人だ。たまに友人と話している所を見るがその友人達も暗めの奴らだし類は友を呼ぶというのか、そいつらもまた一人を好んでいる様だった。常に周りに人がいた自分とは全然違う生態に最初は驚いたし、その生き方は不安にならないのかなと疑問にも思った。

 だって人間は無条件に群れを作りたがる生き物だって思っているから。
 孤立していたら周りから変な目で見られる。あいつは友人一人作れない可哀想なやつだと勝手なレッテルを貼られ、腫れ物のように扱われる。高校に上がってすぐの頃中学時代の友人がクラスのみんなで集まろうなんて話をした。だけど実際に集まったのは当時グループで表すのであれば三角の真ん中から上だけ。下に分類された人は一人として参加していなかったし、多分集まるという話があったことすら知らされていないのだろう。

 孤独というのは、きっと円環に入れない事を言うのだ。
 その人が自ら孤独になりにいっているとしても、周りはそれを『哀れなもの』として見て選民意識か何かなのか自分たちの意にそぐわないものを平気で排除して先に進んでいく。
 俺は漠然とそれが不安だった。
 経験上自分がその円環から排除される可能性は低いと知っていても、その漠然とした不安はいつでも俺の足元に居た。だからこそ斉藤雪穂がすごいと思ったのだ。
 淡々と、黙々と、静謐に日々を過ごす彼がすごいと思った。

「日誌書くの、変わろうか?」

 鮮やかだった緑が赤とか黄色に色付いてそして徐々に散っていく季節のある日の事、個人的に聞き覚えしかない声に話しかけられて俺は一瞬フリーズした。

「…ぁ、急に、ごめん」

 彼は慣れない人に話しかける時言葉を単語で切る癖がある。きっと頭の中でたくさんのパターンを作っている筈なのにいざ言葉に出すと情報が多くてパンクしそうになっているんだと思う。

「──いや、べつに」

 俺史上最大にダサいかつスカした返答だったに違いない。
 何がどう別になんだと胸ぐらを掴んで問いただしたい衝動に駆られたけれど、今はそれどころじゃなかった。あの(・・)斉藤雪穂が俺に話し掛けてきたのだ。
 必要最低限人と会話をする事のない、冬みたいに冷たくて静かな彼が、俺に話し掛けてくれた。
 素直に俺は舞い上がっていた。嬉しさと緊張が同時に沸き立つ感情はきっとアイドルや芸能人とかを間近で見た時の感情に近い気がする。

「…ぇっと、じゃあ、いい。急に話しかけて、ごめん」

 俺の別に、という言葉をよくない方で受け取ったらしい彼の目が苦しそうに左右に揺れたのを見て、気道がきゅっと締め付けられた心地がした。

「まっ、て」

 ああダサい、どれほどダサさを重ねれば気が済むんだ俺は。

「なんで、」

 突然の事すぎて頭が状況に追い付いていない。話すべき事はあるのに言葉がまとまらなくてまるで童貞みたいな詰まり方をしてしまった。いやいくらなんでもダサすぎる。
 それでも彼は俺の言わんとするところを汲み取ってくれた様でまた少し視線を彷徨わせた後に静かな海みたいな目で俺を見た。

「……今日の部活、大事なんでしょ」

 雫みたいにこぼれた声に俺は目を丸くした。
 俺は特定の部活に所属してない。けど中学の頃と同じ様に色々な部活に助っ人として参加していた。今回はバスケ部の助っ人として誘われていて、今度ある試合に向けて外部の人を呼んだ練習があるのだ。助っ人を頼まれたからには実力でもチームワークの部分でも少しでも多く時間を共有したい。
 でもそういう日に限って日直で、そういう日に限ってもう一人の日直が無責任だったりするのだ。だから俺は少し焦っていたし苛ついてもいた。その負の感情は斉藤雪穂に話し掛けられたおかげで消え去ったけれど、代わりに驚きが俺の全身を占拠している。

「…休み時間、話してるの聞こえた。先生にもちゃんと言っとくから、変わろ」

 どうやら俺の感情は全部顔に出ているらしい。
 聞くまでもなく答えをくれる彼に俺はもう頷くしかなくて、それを是と取ったらしい彼の口角がほんの少し上がるのを見て心臓が何かに撃ち抜かれたような衝撃を受けた。でもその衝撃を整理する余裕もなく机の上に置いたスマホが震え始めると画面にはバスケ部の友人からの着信で、俺は慌てて画面をタップして耳に当てた。

「ごめん日直で、いやでも」
「大丈夫だよ」

 俺にしか聞こえない声量で呟いた彼が日誌を持って自分の席へと座る。さすがにここまでして貰って食い下がるのは失礼だと思って「今から行く」と電話口の相手に伝えて俺は慌てて荷物をまとめてドアに急いだ。
 廊下に出る手前で勢いのまま踏み止まって振り返る。

「──ありがとうっ」
「…うん、がんばってね」

 背中を押されるみたいに俺は廊下を走ってバレー部が使用している体育館に急いだ。
 頑張って、今まで飽きるくらい言われた言葉の筈なのに彼の言葉にはとてもあたたかな気持ちになった。それはきっと、彼が俺の努力に対して激励してくれたからだと、割と簡単に思い至った。
 いやでも今までもきっと同じシチュエーションは数え切れない程あった筈だ。それなのにどうして斉藤雪穂の言葉だけこんなにも心に響いたのだろうか。仮定として上げるのであれば彼が俺の観察対象だから。常に見ていた人からの急な接触で舞い上がったのは確かだし、ファン心理で言えばこの答えで間違っていない気がする。
 追うことよりも追われることの方が圧倒的に、というか追った事がない俺の人生において斉藤雪穂という人物は結構なイレギュラーだ。
 なるほど、これがファン心理かと思いながら俺は体育館の扉を開けるのだがこの感情がファンとしてではないのかもしれないと気がつくのはそれから約一年後のことだ。

 日誌事件から俺と斉藤雪穂はたまに挨拶を交わす仲になった。
 そう、挨拶を交わす仲。つまり知人である。
 本当はもっと仲良くなりたいと思っていたのだが俺は自分の欲望に従う前にブレーキを掛けた。じっくり考えなくても彼は俺との接触を嫌がる事は確定しているからだ。

 斉藤雪穂は目立つ事を嫌悪さえしている節があるし騒がしい物や事が嫌いだ。その証拠に休み時間の度に馬鹿騒ぎする連中に対して冷ややかな視線を向けていた事は一度や二度では無いし、昼休みなんかは一人でそそくさとどこかへと向かっている。
 自慢ではないが俺は目立つ、そして俺は多分話題の中心になり得る。そんな俺が斉藤雪穂に積極的に話し掛けたらどうなるのかなんて想像に難くない。
 つまり俺は話し掛けたくても話し掛けられないのだ。

 一応あの日誌事件の後ちゃんとお礼を伝えたが、あの時見せてくれた微かな笑顔は無く寧ろ「なんでお前話し掛けてくるんだよ」とどんな水面より凪いでいる目が如実に語ってくれた。
 斉藤雪穂の人生において桐生空という存在は邪魔なんだろうなとなんとなく察した瞬間だ。
 だけど俺は彼を見るのをやめなかった。もうそれは意地とかそういうのじゃなくて日常で、日々彼が同じ空間にいてくれる事に安堵すら覚えていた。これって推し活みたいなもんなのかなって思っていた。

「…僕もああなりたい」

 本当に偶然だった。
 雨のせいで部活が早く終わって帰り支度を整えていたら教室に忘れ物をしたのがわかって友人達に「先帰って」そう言って人の気配がほとんどしない校舎に戻ると教室に彼がいた。頬杖をついて窓を見る後ろ姿はなんというか儚くて、頼りなくて、瞬きしたら消えてしまうんじゃないかってくらいで、そんな彼の雪みたいな声は驚くくらい俺によく届いた。

「斉藤好きなやついるの?」

 斉藤雪穂の人生において桐生空という存在は邪魔になる。そう理解しているのに考えるよりも先に声を掛けてしまったのは説明の出来ない衝動に突き動かされたからだ。
 見た事ない顔をしている彼の横を通り過ぎて窓に寄ると見えたのは元気が良くて素直で頑張り屋だと男子の中でもそれなりに人気のある女子と、その彼氏。他に人影はなく、つまり斉藤雪穂はこの二人を見てあの発言をした事になる。ほとんどカマ掛けみたいな言葉だったのに急に信憑性が出てきた事に胸の奥がざわついた。

「あの子の事好きだったの?」
「え、あ、ちが」

 彼はわかりにくいようでわかりやすい。だからその言葉に嘘は感じられなかった。だとしたらあの呟きの意味が分からなくなる。だから俺はからかうつもりで問いかけた。

「じゃあもしかして男の方?」

 その後の彼の顔はまさしく絶望と言っていいものだった。でもそんな顔をする意味が分からなくて、聞いた事がないくらい大きな声で否定された事にも驚いた。それと同時に少し興奮している自分もいた。
 斉藤雪穂の感情が大きく揺れている。波紋ひとつない水面みたいな彼が、自分の言葉に動揺している事実にえも言われぬ快感を覚えた。そしてこの斉藤雪穂という人物をずっと観察してきた俺は、この時とんでもない賭けに出たんだ。

「…じゃあ、女の子になりたいってこと…⁉︎」

 案の定、斉藤雪穂はまた俺の知らない顔をした。
 だけど俺は知っている(・・・・・・・・・・)
 彼は押しに弱く、情に流されやすく、そしてやさしい性格だという事を。

「ああなりたいって事はさ、斉藤は女子の、女の子の格好に興味があるって事だよな…⁉︎ マジか、マジか、まさかこんなところに理解者がいるなんて…え、もしかして、違う…?」

 わざとらしく哀しげな表情と声を出して、肩を掴む指から力を抜いた。
 すると斉藤雪穂はハッとした顔で俺を見て、そして慌てて口を開く。

「違わないっ」

 ほんの少し罪悪感はあった。だけどそれを遥かに上回る高揚が俺の全身を包んでいて浮かんだ言葉は「捕まえた」だった。例えばそれは子供の頃に見た大きなカブトムシだとか、鬼ごっこで逃げている子に追いついた感情に近いかもしれない。
 だけどこの感情はそんな純粋な物に分類するにはドロドロしていて、でもどんなものよりも一等きれいだった。

 なんて言いつつも女装した斉藤雪穂は控えめに言っても最高だった。あまりに最高過ぎて祈ったこともないのに神様に感謝したくらいには最高だった。あんな意味不明のゴリ押しで騙される彼が少し心配になるがこの件に関してはゴリ押しした自分を褒め称えたい。
 それに無理矢理俺の人には言えない趣味に引き摺り込んだおかげか彼の新しい表情をたくさん知れて俺の心はとんでもなく満たされていた。
 思った以上に細かった首とか、腰とか、手首とか、名前の通り白い肌だとか、そこらの女子より細いとか、そんな彼の親くらいしか知らない物を知れて俺の人生はその時最高に盛り上がっていた。
 あと以外に口が悪かったり表情が豊かだったりするのも良い。学校の誰も知らない斉藤雪歩を知れているという優越感が俺を何よりも満たしていた。

 雪穂と過ごす時間は俺にとってなくてはならない物になっていた。
 だってきっと一生誰にも打ち明ける事なんて出来なかった筈の性癖をゴリ押ししているのに加えてずっと前から彼に着て欲しくて集めた服を本人に着て貰えて、更にはそれを撮影出来ている。メイクだってさせて貰えるようになったし、始まりはどうであれ雪穂が俺に懐いてくれているのはなんとなく肌で分かった。
 その時も俺はこの感情がファン心理から来るものだって思ってた。アイドルからとんでもないファンサを貰っている人だとか、ホストに入れ込む女の子はこんな気持ちなのかも知れないなんて思った。

 そして過去最高に待ち侘びて迎えた夏休み、夏祭り、俺の隣には最高に可愛い雪穂がいた。全世界に自慢したいくらい可愛い姿で、顔で、俺の隣を歩いていた。いっそのことSNSアカウントに本当に載せてやろうかなんて血迷った考えが浮かぶくらいその日の雪穂はかわいくて綺麗だった。
 でもそうしなかったのは雪穂を独り占めしたかったからだ。だからお面も買って、運悪く田中と遭遇した時だって絶対に見せてやるかって抱き締めた。そんな行動する時点でおかしいのに、俺はきっと浮かれていた。
 花火を見る雪穂があんまり綺麗で、見惚れて、気がついたらキスをしていた。
 でも、雪穂なら許してくれると思った。
 だって俺達は普通の関係じゃない。きっとお互いがお互いを一番に考えているってわかっていた。だから大丈夫だって思って、間違えた。

「──はなして」

 梅雨の日の放課後と同じ声だった。
 でも俺は泣いている雪穂を初めて見た。
 雪穂のならどんな表情でも見たいって思った。怒ってる顔も困ってる顔も恥ずかしそうな顔も、俺が知らない表情なんて無ければ良いのにとすら思っていた。
 だけどつらそうに、叫び出したいのを堪えてるみたいなその顔は、見たくないって思った。だからどうにかしたくて口を開けたのに喉が張り付いたみたいに声が出なくて、ドアが閉まる残酷な音を聞いてその時初めて理解した。
 これはファン心理なんかじゃない。でも、俺はこの感情の名前を知らない。

 その日から雪穂と連絡が取れなくなった。
 正しく言えば俺から連絡してないから、必然的に雪穂からも連絡は来ない。思えば連絡はいつも俺からで、雪穂から来たことなんて一度も無い。今まではそれで良かった、むしろそれが俺の観察してきた斉藤雪穂だったから解釈は一致していた。
 だけど今、その雪穂の性格が恨めしくてしょうがない。

 だっておかしいだろ。雪穂と俺は間違いなく学校で一番仲が良かったし、初めて撮影をした日から一日だって連絡を欠かした事は無かった。そんなの雪穂にしかしてなかったのに。
 おはようからおやすみまで連絡を取っていた。学校では一言も話せないのにメッセージだとやりとりできる関係があんまりにも特別で心地よかったのに、そう思っていたのは自分だけだと思い知らされているみたいで気分が落ち込む。
 だけど自分でもわかっていた、怒りの矛先を向ける相手が間違っているなんて事は。でもどうして雪穂が急にあんな態度を取ったのか分からない。どれだけ考えても分からないから、俺は今屈辱だと思いながら屋上に来ていた。

「え、お前あのネコちゃんと付き合って無かったの⁉︎」
「………」
「それで囲い込むのに失敗して逃げられちゃったって訳? だっせ」
「人選ミスったわ、お疲れ」
「待て待て待て待て。まあまあちゃんと話聞きますよ、なんてたってこの学校1のモテ男田中様ですから」
「田中って苗字がモテるのなんか意外だよね」
「全国の田中に土下座して謝れや」

 俺は今田中と屋上に来ている。テストも終わって10月の半ば過ぎとなれば吹く風も冷たくて最近カーディガンを着るようになった。つまり雪穂と連絡が取れなくなって約一ヶ月が経過した事になる。正直に言えば、俺は枯渇していた。
 圧倒的に雪穂が足りない。撮影は疎かたまに交わしていた教室でのアイコンタクトも日々のメッセージのやりとりも0になり、雪穂の声が聞けるのは授業中教師が雪穂に当てた時くらいだ。雪穂が足りない、どうしたって足りない。だけど自分から連絡を取る事は出来なかった。
 だから俺は恥を偲んで田中に相談しているのだ。

「で、お前は付き合っても無い子を何回も家に呼んでデートもして挙げ句の果てにはキスもしてその後も今まで通りの距離感でいた訳だ」

 フェンスに寄りかかった田中はどこか面白そうに口角を上げている。

「まあ確かにお前の今までのオツキアイの仕方だったらそれで問題無いんだろうけどなぁ」

 ふんふんと頷きながら呟いた田中はふと俺の方に顔を向けた。

「お前ネコちゃんにちゃんと好きだって言ったか?」
「───は…?」
「は?」

 沈黙が落ちた。俺も意味がわからないって顔をしているだろうし、田中なんて顔が「嘘だろお前」って言っている気がする。いやだって好きなんて有り得ない。雪穂は男なんだから。

「やっぱポンコツじゃねえか!」
「うるさい俺はポンコツじゃない」
「どー考えたってポンコツだわ! ……あれ、まさか桐生サン、ご自身の感情にお気づきでない?」
「だから好きとかじゃない」
「はあ〜〜〜? 普通は好きな子じゃないとキスしません〜。家にも上げません〜」
「今までの子達とだってキスしたよ」
「でもお前家には絶対上げなかったじゃん。お前の歴代カノジョさん達に俺がどんだけ相談受けたと思ってんだよ」

 田中の言葉に一瞬言葉に詰まった。だって雪穂を家に呼んだのはそうしないと女装させられないからだ。道具は一式俺の家にあったし、それが一番効率が良かったから呼んだだけの事なのに、頭の裏側が張り詰めていくような緊張に俺は動揺している。

「それにお前夏祭りん時牽制しただろ、俺相手に」
「…は?」

 牽制、相手の注意を自分の方に引きつけて自由に行動できないようにする事。
 俺がそれを田中にした?

「ネコちゃんの顔絶対見せないようにしたり、俺が話し掛けるの本気で嫌そうにしたり、それに周りにもあんだけ惚気といて何がどう牽制してねえのよ。お前狙いの女全員沈没してんですよ、今。あの桐生にガチの恋人が出来たって」
「待って」
「おー、待つ待つ」

 混乱していた。俺はその場にしゃがみ込んで、自分が今までしてきた行動とその行動の原因になる感情を可能な限り思い出す。夏祭りの時雪穂を見せない様にしたのは独り占めしたいのもあったけど、万が一バレた時に俺も雪穂も社会的に終わるからだ。
 周りへの惚気ってなんだ。いつした、そんなの俺がいつしたって言うんだ。

「……惚気って、ナニ」
「すんごい可愛いから写真も見せたくねえって言ったんだろ、お前。それを世間一般では惚気って言いま〜す」
「…たしかに、すごい、かわいいけど…」

 だってそれは事実を言っただけだ。写真はバレるかも知れないから見せられないし、雪穂は世界で一番可愛い。だからそれをそのまま言っただけなのに、どうしてそれが俺が雪穂を好きみたいになるんだ。
 それは、無い。俺が雪穂を好きなんて、絶対、無い。はずだ。

「…お前ホンメイドウテイだったんだなぁ」

 田中の言ってる意味がわからなくて、その日は結局なんの答えも得られないまま家に帰った。ベッドにダイブして、勉強なんて一切手に付かなくて頭の中ではずっと雪穂の事を考えている。でもどれだけ考えた所で答えなんて出ないんだ。だって俺は雪穂と前みたいに仲良くしたいけど、雪穂はそうじゃない。あの日彼があんな事を言った原因は未だにわからないし、そもそも俺に原因があるのかどうかすら定かじゃない。

「八方塞がりだ…」

 疲れ切った声で呟くとポケットに入れたままのスマホが震えたのがわかった。もしかして、と慌てて取り出して画面を見るが差出人は顔もよく覚えていない学校の女子だ。多分同級生。雪穂じゃない事に何度目かわからない溜息を吐き出して何件か溜まっているメッセージを読んでいく。
 その中の一つに指を止めた後、カレンダーアプリを開いた。

「…文化祭か」

 学校行事に大して興味は無いけれど、みんなが頑張るなら頑張ろうかな。それくらいの考えだったのに、その週のクラス会で提案された企画に俺は鈍器で頭を殴られたみたいな衝撃を喰らう事になる。

「はーいじゃあ今年の出し物は性別逆転喫茶店ねー!」
「どこに需要があんだよー」
「女子が格好いい服着たいだけですけど文句あんの男子」
「…イエナイデス」

 どうやら今年の出し物は男装女装喫茶になったらしい。女装という言葉に少し反応したけれど、俺の興味は全然そそられなかった。誰かが言ったように一体どこに需要があるんだと思うけど、まあ決まったものは仕方が無い。

「女子は良いとしてさー、男子は誰がやんの女装」
「全員は無理だもんな、料理とか作る人もいるし」
「全員とか地獄過ぎるだろ」

 ゲラゲラと賑やかな空気はそんなに嫌いじゃない。それにうちのクラスはまとまりも良いし、きっと良い思い出になるだろうなって思った。

「あ、ちなみに桐生くんと田中くんは普通に男の格好でいて貰うから。集客大事」
「ちょっと〜! アタシスネ毛剃る気満々でしてよ〜⁉」
「田中本当黙りなよ」

 またクラスの空気がどっと明るくなる。田中のこういう所は素直にすごいと思うし、まあモテる要因なのかなと考えたりもした。

「で、男子の女装なんだけど」
「斉藤はー?」
「…ぇ」

 誰かが雪穂の名前を上げた。信じられなくて思わず彼の方を見ると名前を言われた彼自身が一番驚いているらしく硬直している。

「こいつめちゃくちゃ肌白くてさ、それにクッソ細いんだよ。女装するならこういうやつのが似合うべ」

 ドクン、と心臓が嫌な軋み方をした。

「それにさ、どうせやるならガチりたいじゃん。出し物で一位取ったらなんかあるんじゃねえの?」
「確かに焼肉券貰えるけど」

 それまでにこやかに見守っていた担任が苦笑しながら答えた。その俺にとってはそそられない景品も、クラスの男子には絶大な威力を発揮するらしく数名の運動部の部員が吠えた。
 賑やかなクラスの中、雪穂の斜め後ろに座る派手な女子が普通に立ち上がって雪穂の隣に行く。未だに衝撃から抜け切れてない彼の顔を「斉藤くん眼鏡外すね〜」なんて言って触るのが見えた。

「ぇ、あ、あの」
「マジじゃん斉藤くんめっっっちゃ白いんですけど! てかまつ毛なっが! 肌とかもちぷるじゃんええええずるい〜」

 よく通る女子の声を皮切りに雪穂の周りに人垣が出来る。
 たまに雪穂の困惑した声や驚いた声が聞こえて来て、でも周囲はそんなのお構いなしとばかりに距離を詰めて行く。
 うちのクラスは仲が良い。いじめなんて無いし、個々を尊重しているのか枠から外れている人を無理に仲間に入れようとする空気も無い。だけどいつだって枠に入れるように、扉は開いているのだ。そして一度招き入れたら彼らは平等に接する。

「雪ぴ、うちらがさいかわ女子にしてあげるかんね」
「でも雪ぽよが恥ずかしく無いように他の男子もちゃんと女装させるからね」
「ぇ、あの、えっと」
「焼肉獲るぞーーー!」

 ムードメーカー的なやつの掛け声にみんなが声を上げた。
 俺はただ呆然とその流れを見ていた。
 桐生との連絡を絶ってから一ヶ月くらい過ぎた。あの日から一度もメッセージが来ないという事はもう終わりだと思っていい筈だ。
 僕が耐え切れずに逃げ出してしまったあの日、正直に言えば僕は次の日学校に行くのが怖くてしょうがなかった。だってもしかしたら僕にあんな態度を取られた桐生が僕の事を誰かに伝えているかもしれない。もしそうなったら地獄が始まるなと思っていたのに、拍子抜けするくらいあっさりと日常が過ぎて行った。
 でも一週間くらいは気が抜けなくていつ何を言われても良いように身構えていたからか体は疲れたしテストにもそんなに身が入らなかった。

 それでも時間は過ぎて行くし、過ぎていけば気になっていたものも気にならなくなる。元々住む世界が違うから終わったと思えば僕達の関係は驚く程簡単に無かったことになった。僕が目で追わなければ僕の生活に桐生が入り込む事は無いし、それは逆も然り。
 あれは夢だったんだよって突き付けられてるみたいに僕の生活は元通りになった。
 寂しくないなんて事は無く、もちろん辛かったし苦しかった。でも僕はこれが正しい本来の姿だって知っているから受け入れるのに時間は掛からなかった。
 桐生と過ごしたあの非現実的な日常はこれから僕の人生において大切な宝物として残り続ける。どんな結果でも、好きな人と触れ合えたのは間違いなく現実だから。
 さて、そうして自分の感情に整理を付けて日々を単調に過ごしていた僕にとんでもない白羽の矢が突き刺さる。

「斉藤はー?」

 性別逆転喫茶なんて単純だが盛り上がりそうな文化祭での出し物、こういう企画でキャストとして選ばれるのはカースト上位組だと相場は決まっている。僕は精々調理側か設営側かまた違う雑用ポストに入るのだとばかり思ったから、自分の名前が出た時耳を疑った。
 発言したのは野球部の坊主だ。さすが野球部、やたら声もデカければ態度もデカい。頼むからもう何も喋るな、その口を閉じろと念じても僕の願いは聞き届けられずせめて自分の意思は示そうと口を開いた途端教室が歓声で揺れた。
 僕はたった今焼肉が嫌いになった。

「斉藤くん眼鏡外すね〜」

 いつの間に隣に来ていた派手なギャルが僕の眼鏡を取った。途端に視界が悪くなり良い匂いのする手が僕の顔を触る。僕はもうこの時点で理解していた。
 ──これはもう抵抗しても無駄なヤツだ。
 カースト上位の女子に逆らってもいい事なんて一つもない。百害あって一利なしというやつだ。だから僕はなす術も無く女装させられる事になったのだ。

 学校の文化祭は11月の第一週の日曜に開催される。
 その二週間前からが準備期間となり、その間は部活動も委員会活動も縮小されてクラス一丸となって出し物や展示物を完成させるのだ。もちろん文化祭での披露が大事な部活動もある為それに参加している生徒はそちらが優先される。
 それでも僕の学校の文化祭は盛り上がる。それはもう盛り上がる。

「衣装出来たよー!」

 普段は僕と同じくらい大人しい女子生徒数名が大きな段ボールを持って教室にやって来た。彼女達は服飾部に所属していて、クラスの出し物の為に急ピッチで衣装を仕上げてくれたらしい。うちの服飾部はレベルが高いらしい、去年のファッションショーもすごかった。

「ねー料理班がメニューの試作出来たってー! 誰か先生と食べてきてー!」

 数名の選ばれし調理班は連日メニューに協議を重ねてついに今日試作の日となっているらしい。目が本気のそれだった。

「外の工作班からメッセージ来てるよー! 実行委員確認してー!」

 出し物自体はこの教室で行う。でもこのままだとあまりにも教室過ぎるからと壁やらなんやらを作成しているのだ。文化祭に対してあまりにもガチである。

「はーい雪ぴ目閉じてね〜」
「…はい、ぅ」

 ぱふぱふぱふと顔に柔らかいものが叩きつけられている。少しでも鼻呼吸したらこの極小の微粒子が入り込むことを僕は理解している。教室の一角で何名か横並びになった男子数名。その側にはメイク道具を装備した女子が数名。そう、ここはメイクゾーンだ。僕は何故かクラスのギャルから雪ぴとか雪ぽよと呼ばれる様になり、2年の二学期中盤にして女子と会話を持つようになった。

「雪ぴまじでえぐい程化粧ノリ良いんだけど〜。なんかケアしてんの?」
「…化粧水とかは、塗ってるけど」
「えっら! 他の女装班も雪ぴ見習えよマジで〜。せめてスネ毛剃ってきて。あと髭剃りマストだから! あとあと安くても良いから風呂上がり保湿して〜」
「けしょうすいって何ですか女子!」
「ウケる〜。スマホで調べな」

 賑やかな空間の中に自分がいる事に慣れなくて挙動不審になってしまう。だけど彼女達や運動部の男子達はそんな僕を邪険に扱わず慣れるのを待ってくれた。ああなんだ、みんな良い人なんだって気がつくと、このクラスになってからの数か月が何だか勿体無い気がした。

「…まつ毛なっが。えー、雪ぴってお母さん似―?」
「ぅ、うん。でも目は父さんに似てるらしい」
「まじー? つよつよ遺伝子じゃーん。 わたしももっとかわいく生まれたかったぁ」
「…楠木さんは、きれいだよ…?」

 眉毛を描いていた楠木さんの手が止まり、何なら他のメイク班や女装途中の人達の会話も止まった。生憎眼鏡がない為今周りがどんな顔なのか把握出来ず、ただ自分の発言で空気が止まった事は確かな為一気に緊張で心臓が騒ぎ出すけれど僕が咄嗟に謝るよりも先に楠木さんが細く長く息を吐き出した。

「…わたし今母性感じた」
「うちも〜」
「うちの弟雪ぽよみたいになんないかな」

 無理だよね〜なんて言いながら彼女達の手がまた顔に触れる。目を閉じてと言われて素直に従うと瞼に何か塗られているのが分かった。

「俺たちに足りないのはあの素直さだな…」
「あんた達が素直になったところでああはなんないよ?」
「くぅっ!」
「はい目閉じて〜。待ってなんで瞼まで焼けてんのウケるんですけど! ねーこれやっぱ黒ギャルにしちゃダメー?」
「いいよー!」

 遠くから衣装のチェックをしているクラス委員の女子の声がした。目を閉じれば余計に聴覚が敏感になってとても賑やかなのがわかる。去年の僕は無難な雑用係で居てもいなくても問題無いポジションだった。
 だからクラス一丸になって楽しもう、なんて空気に馴染めなくて居心地が悪かったのを覚えている。でもそれは僕が少しでも人と関わる数を減らすっていう人生の選択をした時点で決まっていた事で、想定内の感情だった。その時の選択を間違ったなんて思ってない。
 それでもこうしてほとんど無理矢理みたいな形だったけど文化祭というイベントの歯車の一つになろうとしているこの瞬間は、正直に言ってとても楽しい。どこか自分とは違う生き物なんだって思っていた彼らがちゃんと僕と似たような体温をしていて、それぞれの思考を持って生きている。そんな当たり前の事に、僕はきっと目を逸らしながら生きてきた。

「雪ぴ一回目開けて〜」

 言われた通りに開けると当然ながら視界はぼやけている。全ての輪郭が曖昧だし、かなりの近距離にならないと字だって読めない。それでも僕のメイクを担当してくれている楠木さんのテンションが上がっているのは結構わかりやすかった。

「さすがに天才。和系メイク調べてきて良かったー!」
「まって斉藤和系なのに俺黒ギャルなの⁉」
「黙りな野球坊主」

 どうやら今の僕の顔は和系らしい。何がどうなっているのかさっぱりわからないけれど何だかみんなが楽しそうだからつい頬が緩む。

「雪ぴ当日までにコンタクトの準備よろ」
「あ、はい」

 メイクが終わるとようやく眼鏡を返して貰えたがそれを掛けると楠木さんのご満悦だった表情が不満げな物に変わる。

「…ねー雪ぴ毎日コンタクトにしなよ。もしくはお洒落眼鏡にしよ」
「……か、考えとく」

 いつもは前髪がチラつく視界だが今日は何ともクリアだ。その理由は至って簡単で楠木さんが僕の前髪をまとめて止めているから。視界に遮るものが無いのは不安だが今回ばかりはしょうがないと腹を括る。

「はいメイク終わった男子から着替えー! 服飾の人に聞きながら着替えてねー!」

 クラス委員が手を叩きながら的確に指示を出して来る。まだ本番でも何でも無いのにテキパキとみんなに指示を出す姿は素直にすごいと思えた。

「斉藤くん入りまーす!」
「よ、よろしくお願いします」
「うんよろしく。じゃあ早速着て行こうか、脱いでー!」
「ぇ、わ、じ、自分でぬぐから!」

 団結した女子ほど怖いものはないと、僕はその時初めて知った。
 服飾部に所属している女子達はどちらかといえば僕寄りのあまり目立たない人が多いのに、この強引さは何なんだ。あっという間に服を脱がされてあれよあれよと言う間に服を着せられる。どうやらコンセプトは大正時代のようで、着せられた服装は何だか歴史の教科書で見たことがあるものだった。

「…え、すご…」
「でしょう! 男子が着る想定で考えた時骨格が目立たない代表格の服といえばやっぱり和服。でも本当の和服にしちゃうと歩くのが大変だと考えて下は袴! 靴はブーツでも対応可能だし何より可愛い。斉藤君ともう何人かは問題無く着こなせると思うけど、問題は運動部…」
「あー、胸板とかすごいよね」
「パッツパッツになったらどうしよう…!」

 どうやら僕の服はサイズも色も問題無かったらしくすぐに解放された。服飾部の彼女達は僕の後に控えている筋肉の鎧をまとった男達を想定して目に闘志を宿していて、これって戦いだったっけって思いながらもう一回楠木さんのところに戻ると彼女は彼女でまた新しい筋肉と戦っていた。

「井上〜! エラどうにかしてー!」
「削れってか⁉」
「マジ男子スキンケアして! お願いだからして‼」

 阿鼻叫喚というのはきっとこういう事をいうのだろうなと思った。

「あの、楠木さん」
「ええん雪ぴおかえ、かっわい!」
「……ありがとうございます」

 自分よりも遥かに可愛らしい女子に可愛いと言われて喜ぶ男なんてこの世にいるんだろうか。居たとしても僕はその枠組みにまず入らない。僕は男だし、どちらかと言えば格好いいと言われたい。…自分の見た目がどれだけそれと乖離していても思うのは自由だ。

「雪ぴって意外に表情豊かだよね。あ、ちょっと一回眼鏡外してー。そんで着物見せるみたいに腕伸ばしてー、はいストップ!」

 言われるがままに腕を伸ばすとシャッター音が聞こえた。

「オッケー、じゃあこれグループに載せとくね」
「ぇ」

 事態を理解するよりも今教室にいる生徒全員のスマホが震える方が早かった。さすがギャル、行動の何もかもが早くて僕はもうお手上げ状態だった。

「既読やば。あ、雪ぴ今委員長外居るから一回確認させてだって」
「わかった」

 外していた眼鏡を掛けて頷くと教室から出た。まだ文化祭本番では無いけれど学校はずっとお祭りムードだし一人くらい僕みたいなやつが紛れても目立たない。だって昨日なんてどこかのクラスのハイクオリティなゾンビが歩いてたし、それに比べたら僕達のクラスの個性はまだ優しいものだと思う。

「…体育館裏で作業してるんだっけ」

 案の定どのクラスも文化祭一色になっていて賑やかだ。その中でも聞こえてくる吹奏楽の音にそういえば文化祭で発表があるんだよな、と思いながら体育館への近道を選んで歩いて行く。
 当然だが生徒達が集中する棟を抜けると辺りは静かになり異世界に迷い込んだのかなって思うくらい空気感が変わる。でも相変わらず吹奏楽の音は聞こえていて「あ、この曲知ってる」って思いながら歩いていれば体育館に続く廊下が見えてきた。あそこを抜ければもうすぐだと、空き教室の前を通った時だった。

「!」

 右腕を強く引かれて体が倒れる。気が付いたら扉が閉まる音が聞こえて、扉に押し付けるみたいに何かが僕の身体を締め付けてる。あまりに強く驚きすぎると人は声も出ないらしい、頭が真っ白になって次には混乱が襲ってきたのも束の間、僕の嗅覚は忘れられない匂いを拾った。
 それは夏祭りの後、家に帰って洗い流したものと同じ。

「……きりゅう…?」

 ほとんど声になってない筈なのに僕を締め付けるそれにもっと力が入った。
 ずるずると桐生の体から力が抜けて、それに合わせて僕も床に座り込む。空き教室のカーテンは閉まっていて電気も付いていないせいで薄暗い。僕は混乱していた。こうなっている理由がわからないからだ。でも混乱していても、否混乱しているからこそ僕の脳は必死に違う事を考えていた。

「…委員長のとこ、行かないといけないから」

 はなして、その言葉は声にならなかった。

「んんっ!」

 顎を掴まれて、後頭部がドアに当たった。すぐ側に桐生の顔がある、柔らかい物が触れている。それが何なのか、僕は知っている。
 心臓が大きく跳ねて全身が一気に熱くなる。抵抗しようにも桐生の方がずっと力が強くて僕はただ胸を押すくらいしか出来ない。なんでこんな事になってるんだろう、どうして、何で、混乱し切った状態で僅かに桐生の口が離れる。
 でもすぐにまた塞がって、今度はもっと深くなった。
 誰もいない教室に耳を塞ぎたくなる音が響く。どれくらいそうしてたかわからないけど、唇が離れた時僕の息は上がっていたし体にはもう力が入らなかった。

「…なんで」

 僕の肩に顔を埋めて今にも死にそうな声で桐生が囁く。
 そう問いかけたいのは間違いなく僕であってお前じゃない。そう言いたいのに何だかもう喋る気力もなくてただ耳を傾ける。

「そんなかわいい格好、俺以外の前でしないでよ」

 ──…。
 すとん、と腑に落ちる。

「…桐生は、僕をどうしたいの」

 思ったよりも平坦で温度の無い冷たい声が出た。意識が自分でも異常だって思う程クリアで心は凪いでいる。少し前の僕なら桐生のこの言葉に舞い上がっただろうけど、でももうそうじゃない。

「僕は」

 凪いでいるけど腹の奥から沸々と小さな気泡が上がって来る感覚がする。
 桐生が顔を上げた。迷子の子供みたいに揺れている目をしているけれど、そんなの僕には関係無い。──ああそうか、僕は怒っているんだ。
 良い様に扱われている事に、桐生の態度に、それを今までよしとしていた自分に、僕は怒っている。

「お前のオモチャじゃない」

 思い切り腕を突っぱねると意外な程簡単に身体が離れた。すぐに立ち上がって扉を開けて外に出る。
 後ろを振り返る事はもうしなかった。
 好きだから、側から見たらどれだけ異常な事でも僕は嬉しさを感じて言う通りに行動していた。好きだから全く興味が無い、むしろ虚しさしか覚えない女装だってした。好きだから、意味不明な接触だって嬉しかった。だってきっとこの先僕の人生においてこんな事もう起きっこない。
 好きになった人と出掛ける事も、かわいいって撫でられる事も、好きな人とのキスだって、きっともうする機会なんて訪れない。
 だから飽きられるまで。「もういいや」って言われるまではこの関係でいたいって思ったのに、先に根を上げたのは僕だった。だって一方通行の好きがこんなに苦しいものだなんて思わなかったから。
 僕を好きになって欲しい。僕と同じ好きを持った状態で僕と触れ合って欲しい。

 ……なんて贅沢で、烏滸がましい感情だろう。
 自分が普通になれないなんて小学生の時から分かっていたのに、ほんの少し夢を与えられただけで僕の心はボロボロになってしまった。

 あの時、文化祭の準備中に桐生にまたキスをされた時、僕は怒った。
 僕の事を好きでも何でもないくせに触らないでって、都合の良いオモチャみたいな扱いをしないでって、僕は怒ったんだ。でもそれと同時にそんな有り得ない我儘を至極真面目に考えていた自分にも心底腹が立った。

「…やっぱりあの時、」

 梅雨の日の放課後、僕の両手を握って僕を見つめている顔は今でも鮮明に思い出せる。思い出せるからこそ、僕は独り言だとしてもその続きを声に出す事が出来なかった。

 準備も滞り無く進んで迎えた11月の第1週の日曜日、つまり文化祭の本番だ。

「よぉしお前ら、気合入れてくぞ」
「なんで田中がリーダーみたいな顔してんの」
「シャイな委員長に田中クンなら盛り上げてくれるだろうからってお願いされたんですぅ!」

 一般の人達が入って来るまであと30分と迫った頃、みんな忙しい合間を縫って教室に集まっていた。こういう場面を見ると田中は本当にムードメーカーなんだなと思う。加えてこの学校でも屈指の男前で性格も気取ってなくて、でも滲み出ているちょっとしたバカっぽさが親しみ易くてそりゃあ人気者にもなるよなと納得する。
 それに今日は文化祭本番、つまり田中は客寄せパンダとしてガチガチに決めている。というか元の素材が良過ぎて何をしてもイケている。なる程運動部の男子が「イケメン爆発しろ」という意味が分かった気がする。

「はいお前ら隣のヤツと肩組んで!」
「体育祭かよ」
「時間無いよぉ! ほらさっさと組む! おらそこの奴らも早く!」

 さすがに全員は集まれなかったがそれなりの人数での円陣は結構な迫力がある。僕の隣にはばっちりと書生姿に男装した楠木さんと大胸筋がはち切れそうなツインテールゴリラ野球部がいる。カオスだ。
「そんじゃま、ついに本番なワケですが正直全校で俺ら程気合入ってるクラスはいねえ。妖怪喫茶と言われようが何だろうが焼肉掻っ攫うぞー!」
「おー!」

 男女関係なく上がった声の大きさに目を見開いた。多分妖怪に該当する大胸筋はち切れツインテール野球部やはち切れる大腿筋黒ギャルラグビー部その他イロモノ達が何故だか一番やる気に満ち溢れていたからだ。
 これが運動部の声出しか、と今まで遠目にしか見てこなかったカルチャーに触れて僕は呆気に取られていた。

「それじゃ作戦通り田中と桐生クンはプラカード持って正門へゴー! キャストと料理班はもう一回動線確認しよ。あと休憩時間の表とかもちゃんと貼ってるしグループの方にも載せてるから各自確認する事! あと何が起きるかわかんないからこまめにスマホチェックしといてー!」

 桐生、という名前に僕は無意識に身構えた。そんな反応をしてしまうのはもう仕方が無いと思うのだ。だって何をどう考えない様にしていたとしても僕は依然として桐生の事が好きなままだ。いっそ嫌いになれたらいいのに悲しいかなあいつとの思い出は楽しいものばかりで暫く忘れられそうにない。
 そんな事だから今日まだ一度として桐生を視界に収めていない。
 でもクラスの女子のはしゃぎ様でわかる。桐生は多分今日引く程格好良い。そんな姿を見てしまったらまた僕は桐生を忘れるのに時間が掛かってしまう。だから今日の僕の目標は桐生を視界に入れずに1日を無事に過ごす事だ。
 折角の文化祭なのにと思わなくもないが、しょうがないじゃないか。そんな下らない決意表明でもしないと僕の目は勝手に桐生を追ってしまうんだから。

「雪ぴー! 雪ぴはとりあえず笑顔ね。にこーってしなくてもいいから口角上げる! オッケー?」
「お、おっけー」
「うんうん、まーじでうちの女装でまともなの雪ぴとあと二人くらいしかいないからマジ頼んだ。あと動物園だからマジで」

 気合十分と言った様子でメニューを復唱している筋肉女装陣達を見て思わず笑うと、黒ギャルが僕を見てビシッと指差した。

「ちょっとクオリティ高いからって調子乗ってんじゃないわよ! アタシ達にはあんたには無い才能があるわ。そう、お笑いのね!」

 ラグビー部の黒ギャルと野球部のツインテールと柔道部のおかっぱがいつ練習したかわからないセクシーポーズを見せて来て僕は無事撃沈した。笑い過ぎて膝から崩れ落ちるって本当にあったんだな。
 ちなみにその様子はしっかりと動画に収められていてクラスグループに共有されたし、それを使って宣伝したらしいクラスの人のおかげで筋肉三人娘目当てのお客さんが沢山来た。メイド喫茶じゃない筈なのに野太い声で「萌え萌えキュン」が行き交う空間はカオスだったし、田中桐生ペアが大量に連れてきた女性客はイケメンにクラスチェンジした女子達によってメロメロにされていた。
 僕や普段からそんなに目立たない、運動部にも入ってないから必然的に体が細い女装組は料理やドリンクをせっせと運ぶ作業に従事していた。
 忙しいし、やっぱり知らない人達に話しかけられると緊張はするけど、それでも注文が取れたり人の笑顔を見ていると心が満たされていくのが分かった。

「雪ぴー!一緒に写真撮りたいだってー!」
「女装組集合―! お客様がお呼びでーす!」
「ちょっとォ! アタシの横に斉藤置くんじゃないわよ! アタシの顔がデカイのがバレちゃうじゃないの!」

 最初僕は緊張していたし、正直乗り気じゃなかった。女装は好きじゃないし、虚しくなるだけ。それに人と関わるのだって嫌だし目立つのなんてもっと嫌だ。眩しい人達の陰でひっそり生きていけたらそれで十分。そう思っていたのに。

「じゃあ僕前行こうか?」
「それはそれで腹立つわね!」

 あえて団子みたいに体を寄せ合って楽しそうに笑っている一般客のお姉さんの声に合わせて笑みを浮かべる。それは無理した作り笑いじゃなくて自然と出て来たものだった。楽しいなって、心からそう思えた。

 宣伝のおかげか僕達のクラスはかなり盛り上がっていて想定よりも早いペースで料理の在庫が尽きそうになっていた。だから今は副担がメモを握り締めた生徒と一緒に材料を買いに走っている最中で、その中で僕達は喫茶店を営業していた。
 けれどそんな盛況ぶりでは表通りの休憩を取るなんてとてもじゃなくて出来なくて僕が休憩に行けたのは予定より一時間程過ぎていた頃だった。丁度隣のクラスを荷物置き場兼便利スペースとしている為僕は早速椅子に座って長く深い息を吐き出す。

「……つかれた…」

 言葉にし尽くせない程楽しいのは間違いないのだがいかんせん僕には体力が無い。正直気合と根性で乗り越えていると言っても過言では無い程僕はすでに虫の息だ。でもこの休憩が終わったらまた接客に戻らないといけないし、この休憩は有意義に使いたい。
 寝るか、それとも少しでも腹に何かを入れるべきかと考えたところではたと思い出す。そういえば誰かがいい店あったら共有すると言っていたのを。

 この学校の文化祭は盛り上がる。僕達みたいに飲食店をやるクラスもあればお化け屋敷を作るクラスもあるし、外で祭りさながらの屋台を展開するクラスだってある。それに体育館ではバンド演奏や服飾部のファッションショー、演劇部や吹奏楽部による発表だってあるのだからイベントは目白押しだ。去年僕は特に何のイベントも見に行かなかった。裏方としてやる事をして後は静かに文化祭が終わるのを過ごしただけだったのに、一年後にこんな事になるなんて誰が想像しただろう。

「えっと、スマホは…」

 ゆっくりと立ち上がって鞄の中に仕舞い込んでいたスマホを取り出す。きっと画面にはグループの通知が沢山あるんだろうなって予想したのに、結果は違っていた。いや、ちゃんとグループの通知は遡るのが大変な程にある。だけど、見慣れたアイコンが並んでいるのを見て僕は呆然とその場で固まった。

「…なんで…」

 喧騒が聞こえなくなった。
 アイコンは部屋に置いてある妙にアンティーク感の強い地球儀。どうしてそれなんだって聞いた時「顔以外なら何でも良かったんだよね」そう言っていたのを思い出して一気に心が掻き乱された。桐生からの連絡だった。グループで発言しているんじゃない。僕宛に、いくつかメッセージが送られて来ていた。読むべきじゃない、心の中で冷静な僕が言っているのがわかる。僕は概ねそれに賛成だった。だって、今僕は桐生を忘れようとしている最中だ。

 だからこの前の日から僕は徹底して桐生を見ないようにして来た。声だって聞かないようにして来たし、兎に角僕の意識の中から桐生を消そうとして来た。
 それくらい、僕の中で桐生の存在は大きい。
 でも、ともう一人の僕が言う。緊急事態だったら? もしかしたらそんなに気にするような内容でも無いかもしれない。それにここで無視して教室で話し掛けられる方が、逃げ場が無くなるんじゃない?
 ……そうだ、この連絡は、きっと大して意味が無いかもしれない。取り留めもない文章か、もしかしたら宛先を間違えた可能性だってある。それに無視をするのは、相手にとって失礼だ。そんな自分への言い訳を沢山して、僕はそっとメッセージをタップした。

『雪穂、もう休憩入った?』
『ごめん結構忙しそうだね、平気?』
『休憩入ったら教えてほしい』
『会いたい』
『屋上で待ってる』

 息が苦しかった。
 最後の連絡があったのは30分前、最初に連絡が来たのは表にある僕の休憩時間の開始時刻だ。
 理性が僕に行っちゃダメだって言ってくる。そんなの僕にだって分かってるのに、気が付いたら僕は教室から出ていた。生徒も一般客も入り乱れる廊下を人にぶつからない様に進んでいく。客引きの声や談笑する声、放送委員からの落とし物の報告の声、どこかのクラスのお化け屋敷の叫び声、いろんな音と声が錯綜する中、僕は真っ直ぐに屋上を目指す。
 行って何になるんだろう。きっと何にもならない。
 そんなの分かりきってるのに、人混みから抜けた途端僕は走り出していた。
 着物がパタパタとひらめいて、動きやすい様にと着せられた袴だけど走るとなるとさすがに少し邪魔になる。コンタクトのおかげで視界が広く、屋上までの道がクリアに見えた。
 一段飛ばしに階段を登って、肺が痛くなるくらい苦しい中僕は重たい屋上の扉を開けた。蝶番が錆びた扉は開けたら金属の擦れる様な嫌な音がする。その音と僕の息の乱れた音が重なって不協和音みたいに広い屋上に響いた。
 もう11月、走ったところで汗は出ないけど疲労はする。僕は三歩ほど進んだところでその場に座り込んだ。
 思えば、走らなくても良かった筈だ。でも一分一秒でも早く到着したかったのは、やっぱり僕がこの男のことが好きだからだ。

「……幽霊見てるみたいな顔、やめてくれる…?」

 客寄せパンダ用に作られた衣装は全身が黒。一見するとスーツっぽいけど、マント見たいな上着や全体的なシルエットが大正っぽくてお洒落で、桐生はそれを難なく着こなしていた。でもその表情はやっぱり迷子みたいで目が自信なさげに揺れている。

「…本当に来てくれるって、思わなくて」
「呼んだのは桐生でしょ」
「そうだけど…」

 珍しく歯切れの悪い桐生がゆっくりと僕に近付いてくる。その様子を伺うような挙動はどこか警戒心の強い動物を思い出させる。そうして僕のすぐ側にまで来た桐生はこれもまたゆっくりとした動作でしゃがんで僕と視線を合わせた。

「……ほっぺた、赤い」
「走ってきたからね」
「…かわいい」
「みんなの努力の結晶だね」
「…俺、雪穂と仲直りしたい…」

 消え入りそうな声で呟かれた言葉に僕は何も返せなかった。
 桐生は沈黙が苦しいのか目を伏せて下を見ている。思えば人の目を見て話さない桐生を見たのはこれが初めてだ。
 目を見て話せないのは自信がないとか、不安だとか、そういう心理状態の現れだって僕は思っていて、それと同じだとするならあの桐生が僕に対して不安を抱えているという事になる。
 教室を出るまでは、屋上に着くまでは、顔を見たところでどうしたらいいんだって不安だったのに、今は不思議な事に落ち着いている。きっと桐生が僕よりもずっと深刻そうな空気を背負っているからだ。

 僕が取れる選択肢はいくつかある。
 どれを選んだらいいのかも、何となくわかる。
 だけどいつになく冷静な僕は、もうオモチャは嫌だって思った僕は、どの選択肢を選んだらいいのかを判断していた。
 手を伸ばして桐生の右手を握った。それまで泣きそうなくらい沈んでいた桐生がぱっと顔をあげたのに、僕を見てまた迷子みたいに目を揺らした。

「桐生」

 フェンスの外から、校舎の開いた窓から、体育館の方から、今日という日を楽しんでいる音が沢山聞こえる。その音が、空気が、僕の背中を押してくれた気がした。

「僕、桐生の事が好きなんだ」

 ゆっくりと僕の言葉を咀嚼した桐生の目が見開かれて、信じられない物を見るような目で僕を射抜く。桐生はきっとこの学校の誰よりも僕の性格を知っている。だから僕が冗談でこんな事を言う人間じゃないって、きっと桐生が誰よりも分かってる。

「だから、仲直り出来ない」

 握っていた手を離すと、力が入っていない桐生の手がぶらんと揺れた。
 桐生の目は変わらずに僕を見ている。困惑と、動揺と、何を言ったらいいのかわからない、そんな表情だった。

「…じゃあね」

 立ち上がって重たい屋上の扉を開けた。重く閉じる扉の音を背中に僕は漠然と夢から覚めたんだなって、そう思った。
 結局僕たちの妖怪喫茶は他の追随を許さないくらいの圧倒的差で一位に君臨した。後夜祭で出し物の結果発表が行われた時の歓声や、一位の封筒を何故か受け取りに行った妖怪筋肉三人娘に会場は爆笑の渦に包まれた。
 優勝賞品である焼肉券は駅の近くにあるチェーン店の物でそれぞれ予定もあるだろうからと一人一枚ずつ用意されていたのには流石に驚いたけど、僕にはその方が都合が良い。

 僕がこんな風にクラスに馴染めたのも文化祭っていう魔法があったからで、その魔法が解けた今僕はまた冴えないクラスメイトに戻る。それに元々焼肉もそこまで好きな訳じゃないからこの券は他のクラスの友人に上げても良いし、お世話になった楠木さんに渡すのだって良いかもしれない。
 兎にも角にも、文化祭が終わったことで僕に起きた様々な非日常が終わりを告げた。
 桐生の連絡先は消してないけどトークの履歴は全部消した。僕は桐生の写真なんて一枚も持っていないから、トークさえ決してしまえば7月からの出来事が全部夢だったんだって納得出来る。
 僕はまた日常に戻る。ひっそりと、人とそこまで深く関わらず、そこにいるのかいないのか曖昧な存在になって生きていく。きっとそれが僕には一番似合う。

「なああ斉藤おお! 数学のノート見せて! お前眼鏡だし頭良いんだろ⁉ 頼むよ女装した仲じゃん見せてくれよおお」

 そう思っていた時期が僕にもありました。

「眼鏡だから頭良いのは偏見。真ん中より上くらいだよ、僕」
「下の下である俺よりは上じゃん?」
「まあそうだろうね」

 文化祭の時では黒ギャルになっていたラグビー部の玉田は何故か文化祭後も僕によく話し掛けて来るようになった。否、正直玉田だけじゃない。楠木さんもツインテール野球部山田もマシュマロボディおかっぱ柔道部剛田も普通に話し掛けに来る。
 陽キャというのは距離を詰める速度がすごいのだと僕は最近体感した。困惑する僕を置いて彼らは会話を始めて時間が来れば去っていく台風の様な存在だ。そして陽キャは陽キャを呼ぶもので、僕が陽キャに挟まれたあわあわしているとまた別の陽キャが現れて陽キャに退路を塞がれるなんて事態にもここ最近慣れてきた。
 たまに陽キャの帝王田中が現れる時なんてとんでもない事になる。彼らはきっと僕よりも喋る速度が倍以上早く、そして情報処理能力が僕の数段上を行っている。つまり僕はたまに宇宙人の会話を聞いているような心地になるのだ。
 正直馴染めている気は全くしないけれど、この忙しなさが今の僕には救いだった。

 僕は学校にいる間一人になる時間が減った。それはつまり物思いに耽る時間が減ったという事だ。僕は元々一人が好きだし、騒がしいのは得意じゃない。だけど今僕は出来るだけ考えるという事をしたくなかった。
 理由は簡単で、一人になるとどうしても桐生の事を考えてしまうからだ。
 あの日桐生に気持ちを伝えた事を後悔していないと言えば嘘になる。でもああしなければ僕はまた桐生と今まで通りの関係になって、更に深く傷付く未来が見えていた。僕は僕を守るために前の関係には戻らないという選択をしたんだ。
 それでもたまに、本当にたまに思い出す。
 触れてくれた温度とか、その時の桐生の顔とか、同じ男なのに全然違う体の硬さだとか、そういうのを思い出しては勝手に一人でダメージを負って落ち込む。自分がこんなにも面倒臭い人間だなんて知らなかったし、できれば知りたくなかった。でも何度もそんな事を繰り返したから僕は良い加減わかったんだ。
 もう知る前には戻れない。ドラマや漫画で使い古されたセリフがこんなにも自分に重くのしかかって来るなんて、人生は本当に面倒臭いなって僕はため息を吐いた。
「僕、桐生の事が好きなんだ」

 罪を裁かれている様な心地だった。
 文化祭の準備期間中どうしようもないくらいに苛ついていた。聞こえるもの見えるもの全てに腹が立って、きっと自分に理性が無ければ様々な物を手当たり次第に破壊していただろうって思うくらいに俺はボロボロだった。だけどちっぽけなプライドがそんな醜態晒すのを許さなくて俺は表面上いつも通りに過ごしていた。多分いつも通りだったと思う。自分でも行き場の無い感情を持て余してしまっていてあんまり記憶に無い。
 その時の俺の記憶にあるのは雪穂と雪穂の周りにいた奴らと田中くらい。苛ついてしょうがなかった。
 文化祭の準備が始まって、…雪穂が女装するって決まってから雪穂の周りには人がいる様になった。最初は打ち合わせでもしていたのか少し話せば離れていっていたのに、日が進むにつれて業務連絡しかしてなかった連中が普通に雑談も始めた。

「斉藤ってなんで部活入らなかったん?」
「…運動得意じゃないし、団体で何かするのも苦手だし、勉強してる方が楽だから」
「勉強が楽⁉ 言ってみて〜!」

 ラグビー部の玉田が雪穂の前の席に座っている。もう何度も話しかけられたからか雪穂も慣れたらしくて言葉を区切る事が少なくなっていた。

「あ、雪ぴ〜! ねえ前髪これで結ばせてー。イメチェンしよ」
「! ゃ、やだ…!」
「やだがやだ」

 クラスの中でも割と派手な楠木はどうやら雪穂の事が気に入ったらしくてよく話し掛けているし、みんなの前で平気で雪穂に触る。さくらんぼのヘアゴムで前髪をまとめられてしまった雪穂は何とも言えない顔で楠木を見ていた。だけど雪穂は優しいからどれだけ嫌でも自分からは解かないし、写真を撮られても文句も言わない。
 でも男子には当たりが強くて、そんなギャップが面白いのか雪穂の周りに明るい輪が出来ているのがわかった。

「……俺には撮らせてくれなかったじゃん」
「桐生クン何か言ったぁ?」
「言ってない」

 俺の周りには楠木と似たタイプだけどもっと女を全面に出してるようなやつと騒がしい男がいる。どうして俺の側に雪穂がいないんだろう。どうして俺の時は学校で話し掛けるのもダメだったのに、そいつらなら良いんだろう。
 だって雪穂は十分目立ってる。「斉藤って意外と顔整ってたんだな」とか俺の周りにいる奴が言ってるのが聞こえるし、女子どころか人慣れしてない雪穂の様子を女子達が「かわいい」なんて言ってるのも知ってる。
 そんなの、俺はお前らよりも前から知ってる。
 雪穂がかわいいのも綺麗なのもエロいのも、お前らよりずっと前から知ってる。でも俺は学校で雪穂に話し掛けられない。だってそう約束したから。雪穂が目立ちたくないって言ったから。他の奴らがやってるんだから良いじゃんって何回も思ったけど、その度に思い止まった。どうしてそうなるのか何度も考えて出た答えは一つだった。

 俺は雪穂に嫌われるのを怖がってる。
 まだあの日雪穂が帰った理由を俺は理解出来てない。その状態で連絡して会って謝っても、きっと雪穂は口先だけの謝罪で許してなんてくれない。
 どうしたら良いんだって俺は寝るふりをして頭を抱えた。
 そんなどうしようもないこう着状態が壊れたのは文化祭準備期間中の放課後の事だった。
 俺達の学校はとにかく文化祭に力を入れていて一般にも公開する。全校対象の出し物対決もあるし他にもイベントは目白押しだ。だからこそ生徒のほとんどは気合が入っててその日も大道具作りに参加していた。

「パネルってこの枚数で足りるんだっけ?」
「足りるー。切ったらペンキ塗らねえとだわ。あ、ペンキ乾いたやつから美術班に持ってってー」

 俺と田中は客寄せパンダ係だからか本番まで仕事が無い。だから人手が入りそうな場所に入って手伝うっていうのをここ数日繰り返している。

「俺もキャストが良かったんだけどなぁ、イケメンって辛いですね桐生クン」
「そうですねー」
「もっと心込めて相手して!」

 俺と田中はジャージを着てペンキ塗り作業を手伝っていた。広い体育館裏では他のクラスも作業をしているのが見えてやっぱりみんな気合入ってるなと漠然とした感想を持つ。

「で、ここ最近ずっとピリついてる桐生クンはまだネコちゃんと仲直り出来てないのかよ?」
「……」
「無言は肯定と受け取りま〜す」

 それまで問題なく塗っていたペンキのローラーを止めて田中を見る。でもそいつは俺の事は見てなくて淡々とパネルにペンキを塗っていた。

「ホント珍しいな。お前人間関係どうでもいいよクンなのに」
「…は?」
「面倒臭い事嫌い、振られて泣かれるのもめんどいから嫌い、部活の助っ人頼まれて断った時の相手の反応が嫌い、基本ぜーんぶイエスマンでことなかれ主義で来るもの拒まず去る者は追わずの桐生クンが初めての恋にぐちゃぐちゃになってんのウケるって言ってんの」
「…だから、あの子とはそんなんじゃない」

 やっぱり田中に相談したのは間違いだったと痛感した。俺に雪穂に対する恋愛感情なんて無い。腹が立つのは俺に許さなかった事を他の奴らに許している雪穂に対してだし、多分、お気に入りのおもちゃを取られた感覚に近い。猫とか犬とか、そういうの。
 子供じみた感情だって理解はしているけど腹が立つのだからしょうがない。

「え、やっば!」
「これマジで同じ男かよ」

 パネルを切っていたクラスメイトが上げた声に意識が向いた。そういえばさっきスマホが震えていた気がすると思って取り出すと写真が送られて来ている様だった。楠木の「さいかわ女子にしちゃった」のメッセージに嫌な予感がしてすぐ様グループを開けばそこに載っていたのは大正レトロな着物に身を包んだ雪穂だった。両手を広げて何が何だかわかっていない、隙だらけのかわいい顔をした雪穂がじっとこちらを見ている。
 プツン、と自分の中で何かが切れる音がしたのがわかった。

「うぉ、これマジで斉藤クン? ポテンシャルやべー、こんなん普通に女の子じゃん。なあ桐生これ」
「見るな」
「…は?」

 また画面にメッセージが送られる。かわいいだとかやばいとかそんな文章に混ざって「確認したいから体育館裏来てー」というメッセージが表示されるのと委員長のお疲れ様の声が聞こえたのはそう時差は無かった。つまり雪穂がここに来る。あんな格好で、あんな無防備な顔をしてここに来る。そんなのは許されないと思った、どうしても嫌だった。

「ちょっと抜ける」
「は⁉ お前、……ぇー…、マジかよ」

 雪穂が体育館裏にまで来るルートはいくつかある。その選択肢を間違ったらもう捕まえられない。それなら確実に通る場所で待てば良いと判断して俺は体育館裏近くの空き教室に入った。
 普段あまり使用されない教室のカーテンは閉め切られていて埃っぽい。今まで感じた事のない衝動を抑える為に何度も呼吸を繰り返しながら適当に座る。その間もスマホは震えていて多分文化祭関連の連絡が流れているんだろうなと思った。一応確認しないといけないけれど、もしそこに雪穂に対する反応があったらと思うと想像しただけで苛ついてしょうがない。

 奥歯を噛み締めて爪が食い込むくらい強く拳を握る。
 気持ち悪くなる程の苛立ちに頭の冷静な部分が違和感を察知する。いくら自分が一番に見つけたものだからってこんなにも苛つく物なんだろうか。自分の子供の頃はどうだっただろうか、お気に入りのおもちゃを取られた時こんな気分だっただろうか。そう思った所で子供の頃の自分と今の自分では捉え方がまるで違うんだから比較対象にならないと思考を放棄する。
 苛立ちも何もかも全部吐き出す様に息を吐くけれど胸の中のヘドロみたいな塊は抜けてくれない。こんなにも自分の感情が制御できないなんて初めてでぐしゃりと前髪を掴んだ所で誰かが廊下を歩く音がした。

 その瞬間俺の意識はそっちに集中して、音を立てないように扉に向かう。まるで試合中のような緊張感が全身を包んでいて、その時を今か今かと待ち侘びた。そしてその人が扉を横切る瞬間、学校ではあり得ないシルエットを確認したと同時に俺は手を伸ばした。
 掴んだ腕は着物のせいで普段より質量がある筈なのにそれでも細く感じた。完全な不意打ちとはいえ簡単に引き寄せることの出来る軽さに苛立った。夢中で掻き抱いて、扉を閉めて自分と雪穂の境界を0にする。

「…きりゅう…?」

 何より心地いい香りと、久しぶりに自分に向けられた雪穂の声が嬉しくてもっと強く抱きしめた。そのまま座り込むと俺は雪穂の首筋に顔を寄せる。顔も見せていないのに俺だってわかってくれるのが嬉しくて、確かに腕の中に雪穂がいるとわかるとどうしようもないくらい安心してそれまで俺の中にあった嫌な感情が流れて行く様な気さえした。
 そうだ、この状況なら仲直りだって出来るかもしれない。どうして雪穂があの日泣いたのか理由を聞いて、俺に悪いところがあれば直せばいい。そうしたら元に戻れるし、俺ももうこんなに苛つかなくて済む。名案だと思った。
 だけど雪穂は俺を苛つかせる天才なんだ。

「…委員長のとこ、行かないといけないから」

 浮上していた気分が一気に下がる。そのセリフに続く言葉は想像しやすくて、言わせたくなくて俺は噛み付くみたいにキスをした。驚いているのがわかる。どうにか抵抗しようとしているのもわかったけど、雪穂は絶対に力で俺に勝てない。
 逃げられない様に顎を掴んで細い腰を引き寄せる。一度口を離して少し雪穂の体から力が抜けたのを感じてまた塞ぐ。いつもと違う香りが僅かにするのはきっとメイクのせいで、でもその香りも雪穂の体温が上がるといつもの匂いに上書きされる。
 柔らかな唇を割って、もっと奥へと熱を捩じ込んだ。雪穂の体が震えて、鼻にかかった甘えている様な声にもならない吐息が鼓膜を震わせる。
 女よりも低くて男の声だってわかるのに、でも何よりも興奮する。

 俺のものだって、なんの疑いもなく思った。
 だけど雪穂はそうじゃない。理由も明かさずに俺から離れていった上に他の奴らに触らせて、写真まで撮らせた。そして何より本当に俺しか知らなかったかわいさを他のやつらになんの抵抗もなく見せびらかした。この意識の違いがどうしようもなく苦しい。だってこんなに可愛い姿は俺だけの物だったのに、どうして。

「そんなかわいい格好、俺以外の前でしないでよ」

 早く「わかった」って言って欲しかった。だって雪穂は押しに弱いし、優しいから、きっと俺がこう言えばまた拗ねたみたいな顔して前みたいに戻ってくれるって思ってた。

「桐生は僕をどうしたいの」

 冷水を頭の上から掛けられた気がした。氷みたいな、俺の聞いた事のない声だった。
 どうしたい…? 言われた言葉の意味がわからなくて顔を上げるとそこには声と同じくらい冷たい目をした雪穂がいた。そこに夏祭りの時やそれから少しの間触れ合った時みたいな甘い熱はなくて俺はそこでようやく焦燥感に駆られた。
 でもまたあの時みたいに俺の喉は張り付いて声が出なくて、初めて雪穂を認識した時の意思の強い声と怒りに震える目が俺を貫いた。

「僕はお前のオモチャじゃない」

 どん、と強く胸を押された。
 するりと雪穂は俺の腕の中から抜け出した。扉が開く音と雪穂が去っていく足音が聞こえる。俺はただ呆然と雪穂が出ていった扉を見ることしか出来なかった。怒らせた、そして全身で拒絶された。それまで感じていた苛つきなんてもう微塵も残っていなかった。あるのは激しい喪失感と、またやってしまったという後悔。雪穂の「オモチャじゃない」その声が頭の中をリフレインする。

「……」

 おもちゃじゃない、なんてどの口が言えたんだろう。俺は確かにそう思っていた。お気に入りのおもちゃが人に見つかったのが気に入らない感じなんだろうって自分を納得させていたし、それ以外に感情の選択が無かった。
 だけど実際に雪穂の口から言われると自分でも信じられない程心が傷付いているのがわかる。許されるなら追い縋って、謝って、許して欲しいとまで思った時、過去の自分を思い出して俺は目を見開いた。

(「ねえ待って! ごめんなさい、謝るから! 謝るから別れるなんて言わないでよぉ!」)

 かつて恋愛関係だった女が浮気か何かして面倒臭いと思って振った時だ。女は泣き喚きながら俺に縋って来て、それが心底面倒臭かった。
 けど俺の今の状況は、多分その女と酷似している。繋ぎ止めたくてこっちを見て欲しくて必死になっている。ああでも、それじゃまるで田中が言った通りじゃないか。

「…俺、雪穂の事好きなの…?」
 
大罪を犯している様な、そんな気分だった。
 雪穂に告白された日から、つまり文化祭が終わってからいくらか経過した。
 紅葉していた葉はどんどん散って行き息を吸えば鼻の奥がツンとするような冷たい空気が混ざり始め、冬になろうとしていた。
 告白されたあの日から俺はおかしくなっていた。

「桐生さーん、一年のかわい子ちゃんがお呼びですけど〜?」
「…無理。本当に無理、田中代わりに行ってきて」
「お前ねー、勇気振り絞って来てくれた子にそれはダメよ。告白ってすげえしんどいもんなんだからさ」

 ぐうの音も出ない正論パンチに俺は立ち上がって扉の前で待つ女子の前に行った。緊張して頬を赤らめた子が俺のことを上目遣いに見つめて聞き取れるか危ういラインの声量で「ありがとうございます」なんて言うから俺は「はあ」なんて気の無い返事を返した。
 それから連れて行かれるままに空き教室に入って、案の定告白される。田中の言う通り来るもの拒まず去る者追わずだった俺が告白を断る様になり、その子は泣きながら走って出て行った。

 ……やっぱり面倒臭い。心からそう思う。

 人の泣き顔を見るのは好きじゃないから告白されたら誰とでも付き合っていた。だけど大体振られるのはいつだって俺の方で、理由は「私のこと好きじゃないでしょ」って言うのがダントツで多い。自分なりに大事にしてきたつもりだったけど、どうやら彼女たちにとっては違うらしかった。

「…はぁ」

 溜息を吐いて教室に戻ろうとすると扉から田中が顔を覗かせているのが見えて額に青筋が浮かぶ。明らかに機嫌か急降下して俺を見て田中はゲラゲラと楽しそうに笑いながら中に入って来た。

「人の告白を見るのも悪趣味だろ」
「残念ちゃんと終わってから様子見に来ました〜。にしても最近多いなお前目当ての告白」
「本当に迷惑」
「まあ隙作ってるお前も悪いわな。あんだけ全身でフられましたオーラ出してたらそりゃワンチャン狙いの女豹ちゃんたちが寄って来ますって」
「……そもそも付き合ってなかったし」

 辛うじて絞り出した声は自分でも驚く程掠れていてそれがあまりに情けなくて教室に戻る足を止めて適当な椅子に腰掛けた。深い溜息と一緒に思い出すのは告白してきた雪穂の顔だ。もう夢に見るくらいには衝撃的な記憶。
 ただでさえ文化祭準備期間前から一杯一杯だったのに、今ではもう頭の中は雪穂の事だらけだ。ただそうなってしまっている自分が嫌で必死にスポーツとか勉強で気を紛らわせようとするけど、同じクラスにいる限り完全に思い出さない様にするなんて事は不可能だ。
 今も少し田中にイジられただけでこの様だ。本当に俺はおかしくなってしまった。

「…だろうなぁ」

 田中が扉の方へ向かう気配がした。このまま出て行くのかと思ったがそうでは無く、扉から顔を覗かせて左右を確認してから扉を閉めた。その一連の動作の意味が分からず眉を寄せた俺を見ていつになく真剣な顔をした田中が俺の隣の椅子を引っ張って座る。

「なに、どうしたの」
「ネコちゃんの正体斉藤クンだろ」
「……は」

 呼吸を忘れるくらいの衝撃に反応が遅れる。それで田中は確信したと言わんばかりに息を吐いて背凭れに体を預けた。

「やっぱりなぁ。うん、じゃあお前がそんなになるのも納得だわ」
「ちが」
「取り繕うのが遅い。まあ安心しろよ、絶対俺しか知らねえから」

 田中はノリは軽いけれどこういう所はちゃんとしているやつだと知っているから俺は無意識に止めていた息を吐き出して同じように背凭れに体を預ける。少しの間俺達の間に会話は無かった。でもこの沈黙を俺は嫌だとか気まずいとは思わず、むしろ少し気持ちが軽くなった気さえしていた。

「……何で雪穂ってわかったの」
「体育館裏でペンキ塗ってた時、お前斉藤クンの写真見てブチギレてたから。後はまあ、その時の俺のカンを頼りにバレないように斉藤クンを観察して、よく見りゃネコちゃんと背格好似てるなぁって」
「怖」
「おい。…まあでも、正直びびってはいますよ俺は」

 笑い混じりで呟く田中はまた少し間を置いてから俺を見る。

「お前はあれなの? 女装したクソかわいい斉藤クンにまんまとハニトラ掛けられた側なの? あの子あんな清楚な感じ出しといて実はめっちゃエロいとか? いや正直あのレベルの女装で来られたらくらっと来るのはわかるわ。俺も実際声聞くまで存在疑ってたもん。いやぁあれすごいね。まあそれで? ハニトラかけられた挙句こっ酷くフられたって感じなんですかね桐生クンは」
「うるさいよ田中」

 てっきり非難なり軽蔑なりされるだろうと思っていけれど、そうだ田中はこういうやつだったと深く長く息を吐く。どうしたものかと眉間に皺を寄せるがいっそ吐き出してしまうかと田中の方を見た。

「俺が雪穂に女装させたんだよ」
「…え?」
「俺が雪穂に」
「2回も言わなくていいです〜! えー、まさかここに来て親友のえげつない性癖聞いちゃう感じ?」
「元はと言えば首突っ込んできたお前が悪い」
「最初に相談持ち掛けてきたのはお前じゃんか!」

 そうして俺は田中に雪穂と仲良くなった経緯を話した。途中からとんでもなく表情豊かになっていたし、多分俺の性癖に引いてもいたけれどまあ田中だしいいかと思わせる力がこいつにはある。もう腹一杯ですと顔に書いてある田中を無視して雪穂から告白された所まで伝えると目を瞬かせていた。

「両想いじゃん付き合えよ」
「……お前さあ」
「この期に及んでまだ腰が引けてるんですか桐生ク〜ン」
「そうじゃなくて、男同士じゃん」
「は?」

 心から理解出来ないという顔で田中が俺を見てくる。それに思わずたじろぐともう一度「はあ?」と凄まれた。

「はじめから男ってわかっておきながらデートするわキスするわ毎日おはようからおやすみまでやり取りするわ挙句の果てには嫉妬でとんでもない事までしといて普通ならまず最初にぶつかる壁に今になって体当たりしてんのお前」
「そ、それに俺雪穂のこと好きかどうかわかんないし」
「はあ〜?」

 意味が分からないという視線から逃れる様に俺は顔を窓の方に向けた。冬が近づくと随分日の落ちるのが早くなったな、なんて現実逃避をしていれば低い声で田中に呼ばれて渋々顔の位置を元に戻す。

「このポンコツがよぉ…」

 頭が痛いとばかりにこめかみを揉んでいた田中だったが少しして口を開く。

「…お前さ、自分以外の男があの子の隣にいたらどう思うよ。お前がしてきた事全部他の男があの子にやるんだよ。デートもキスもセックスも全部。そんで斉藤クンはそれにぜーんぶ喜んじゃうの。恋人なんだから当然だよなぁ」

 言われて初めてその状況を俺は想像した。自分でもどうしてだって思うくらいその想像をして来なかった。だけど田中に誘導されて初めてその可能性をリアルに感じて想像を働かせてそして、耐えられないと思った。それはそうだ。文化祭の期間中でさえ耐えられなかったのに、それ以上なんて無理だ。雪穂が自分以外の前で笑うのだって本当は嫌なんだって、俺は今になって気が付いた。

「…想像して少しでも嫌な気分になったっていうならもうそれが答えだよ。桐生はポンコツだから優しい優しい親友が教えてやるけどな」

 お前のそれはもう明らかな恋だよ。
 苦手な夏が終わってあっという間に秋が過ぎて、そして長い冬がやって来る。
 それでも今は秋の終わり頃で昼は日向にいればそこまで寒くない。でも夕方はもう十分寒くて僕はもうマフラーを持ってきてしまっている。夏が苦手だからといって冬が得意という訳ではない。でも僕は冬という季節が好きだった。

「斉藤また明日なー」
「うん、またね」

 一日の授業が終わりクラスメイト達が部活に行く頃僕はそのまま教室に残って本を読んでいた。今日も人がいなくなるまで本を読んで適当なところで図書室に行こう。
 文化祭以降僕には友人が増えたけれど日々のルーティーンはほとんど何も変わらない。相変わらず家族との親密な会話も苦手だし、騒がしいのもやっぱり苦手だ。だけど友人が増えるだけで学校生活は何倍も楽しくなったなと、少し本から意識を逸らしてふと思う。
 窓の外には帰宅する人や部活動に励む人が見える。その中に親密な距離で帰路に着く二人組を見つけて僕は目を細めた。
 ──羨ましい?
 自分が頭の中で問いかけてきた気がした。

「…わかんない」

 仲睦まじく帰路に着く男女の姿を見て思い出すのはやっぱり桐生の事なんだ。
 僕が同性愛者だってバレた以上もうきっと桐生と関わりを持つ事は無いし、それを狙って告白した所だってある。だからこれは僕が望んだ日常の筈なのに、ふとした拍子に思い出してしまう自分の情けなさに小さく息を吐いた。
 カタン、と誰かがまだ教室にいる音がして思わず肩を跳ねさせる。もしかして独り言を聞かれてしまったかもしれないと羞恥を覚えつつ、本を読むふりをして人の姿を確認しようとして、ぎゅっと心臓が縮こまった。
 疑いようが無いほどしっかりと目が合った。体感にして数十秒、でも実際はきっと3秒にも満たない時間。その沈黙に耐えられなくなったのは僕だった。

「……なに…?」
「…その」

 窓際の僕の席と廊下側の桐生の席の間には机が4列もある。
 二人で話すにはあまりに遠い距離だけど、僕はこれ以上近付けない。それは多分桐生も同じなんだと思う。だって僕よりもずっと「気まずいです」って空気を醸し出しているから。それなのに絶対に目を逸らさない姿勢に僕は少したじろいだ。

「話し掛けていい…?」
「…ぇ?」
「、だから、俺も玉田達みたいに話し掛けていいのかって聞いてるんだけど」
「…なんで?」

 純粋な疑問がそのまま口に出た。すると桐生は徐に立ち上がってずんずんと僕の方に歩いてくる。全然状況が掴めなくて硬直している僕の前の前で桐生が立ち止まって見下ろしてくる。常に上がっているはずの口角が今は下がっているし、眉尻も下がっている。
 怒っているというには随分寂しげな顔に僕はますます意味がわからなくなった。

「仲良くなりたいから、じゃ、だめなの」
「…えぇ…?」
「そんな嫌そうな顔しないで」
「いや、その、嫌っていうか…本当に意味がわからないんだけど」

 意味が分からないという思考は混乱という精神状態に変わる。この男は何を言っているんだろう、どんな意図があるんだろう。混乱を極める頭の中でただ一つ明確にわかっているのは、僕をその混乱に叩き落とした張本人が今にも死にそうな顔をしているという事だ。
 絶対に精神的にキツいのは僕の筈なのに、その僕を差し置いてそんな顔をされたんじゃおちおちと混乱していられない。自分を落ち着ける為に視線を下げて深く長く息を吐くとまた顔を上げて桐生を見た。

「…僕が桐生に言ったこと覚えてないの?」
「…覚えてる」
「桐生ならわかると思うけど、僕ああいうの冗談じゃ言わないよ」

 今日は天気が良いから外の部活動の声が良く聞こえる。その賑やかさとは対照的に僕たちの間には緊張が張り詰めていた。

「僕はゲイだよ」

 ナイフを突き立てるような心地で声に出すと桐生がほんの少し動揺したのがわかった。
 それに安堵している自分と、酷く傷付いている自分がいる。

「気持ち悪いでしょ。だから」
「そんな事思ってない!」

 大きな声と一緒に両肩を掴まれて目を丸くした。

「あ、ごめん」

 ぱっと手が離れて、桐生が自分を落ち着かせるみたいに息を吐きながら僕の隣の席に座った。ほんの少しだけ距離が出来て、その分僕も息がしやすくなった。

「雪穂の事、気持ち悪いなんて思った事ない。告白してくれた時も、そんなの思ってなかったよ。……驚きはしたけど」
「まあ普通は無いだろうからね。同性から告白されるなんて」

 また沈黙が落ちる。
 桐生はずっと難しそうな顔をしている。まるで必死に言葉を探している様に見える、そんな顔だ。その姿を見て僕はやっぱり分からなくなる。この時間は僕たちにとって苦痛以外の何ものでも無い筈で、生産性だってない。もう互いに何も無かった事にして良い状態の筈なのに、どうして桐生は蒸し返そうとするんだろうか。

「…俺の趣味というか、性癖だって普通じゃないじゃん」

 長い沈黙の果て、紡がれた言葉に僕はゆっくりと一度瞬きした。

「むしろバレた時ヤバいのはどう考えたって俺の性癖の方じゃん。雪穂のは諸々置いといてメジャーだし、ネットで少し検索すれば当事者の人だって結構出て来る。だけど俺のはもう、なんていうかアングラにも程があるじゃん。だけど、雪穂は俺に気持ち悪いなんて言わなかったでしょ」

 もう随分昔に思えるけど、まだ半年にも満たないくらい前の事。初めて桐生から女装の事を言われた時、僕は何を考えただろうか。もちろん驚いたし、興奮した桐生の顔が怖くて引いた。でも僕を見てほんの少し揺れた顔を良く覚えてる。その時湧いた感情だってもちろん覚えている。

「…自分を否定されるのは、つらいから」

 気持ち悪いとは思わなかった。だけど理解は出来なかった。でも僕はその状態でシャッターを下ろされる悲しさを知っているから。

「だから嘘ついたんだよ」

 桐生が真っ直ぐに僕を見てる。綺麗に澄んだ水みたいな目だ。

「僕、女装に興味なんてないよ」
「うん」
「だって僕は男で、このままの僕で生きていかないといけないから」
「うん」
「女の子だったら普通になれたのになって思って苦しかったよ」
「…うん」
「だから桐生にキスされた時、嬉しかったけど消えたくなるくらい悲しかった」

 僕にとっては一生に一度の奇跡みたいな出来事の連続だった。でもそれは全部桐生の好奇心だけで構成されていたもので、そこに僕の望む夢物語みたいな感情は伴っていない。そのギャップが苦しくて、求めてはいけない人にその先を求めてしまいそうになるのが辛くてしょうがなかった。

「かなしかったよ」

 男が二人膝を突き合わせて話す構図はきっとどこにでもある普通の景色。
 だけど僕の目の前にいるのは何をどうやって忘れられそうにない好きな人だ。この感情一つあるだけでこの景色は普通から異常に変わる。それくらい僕のこの感情は忌避されるものだ。僕の中ではそうなんだ。
 だけど今の僕はどうにも「普通」になれないみたいだ。
 鼻の奥が痛くて目の奥が熱い。視界がぐにゃりと滲んでたった一回瞬きをしただけで雨粒みたいな涙が頬を滑り落ちた。

「すごく、かなしかった…っ」
「ごめん」

 すぐ側で声が聞こえた。体があたたかいものに包まれている。僕はこの温度を知っている。

「…ごめん」

 桐生は僕を抱きしめたままもう一度そう言った。
 例えば、もう二度と手に出来なくてもいいと思って海に投げたものがあるとする。そんな大きな物の中に投げ込んだんだからきっと一生見つかりっこないし戻って来る筈がない。その覚悟で投げたものが傷ひとつなく、むしろ輝きを増した状態で帰って来たら普通はどう思うのだろうか。
 嬉しかったり、誇らしかったりするのだろうか。それともなんで戻ってきたんだと激昂するのだろうか。
 きっと沢山の選択肢があると思うけれど、とりあえず僕には前述のいくつかの感情は当て嵌まらなかった。僕に当て嵌まるのは困惑、この言葉だ。

「雪穂、一緒に勉強しよ」
「い、嫌だ…!」

 日を追うごとに寒さが強まる11月下旬、期末テストが間近に迫ったこの時期僕はいつもの様に一人で勉強をする、はずだった。
 さて図書室に行こうと荷物をまとめた僕の前の席に座る人物、相変わらずイケている顔を晒している桐生が何食わぬ顔でそんな事を言ってきた。もちろん僕の答えはノーだし、一刻も早く立ち去りたくて鞄を持ち上げるのにそれと同じ速度で桐生が僕の鞄を掴んだから純粋な力比べで僕が勝てる筈もなく、苦虫を噛み潰した心地で渋々腰を落ち着けた。

「僕は一人で勉強する」
「俺なら雪穂の苦手分野全部カバーできるよ」
「一人で出来る様になるために勉強するんだよ」
「でも分からなくて結局明日先生に聞く事になるなら分かる俺に今日聞いた方が効率良くない?」

 ぐうの音も出ない正論だ。桐生は頭が良い。理数系なんてクラスどころが学年全体でトップに入るくらい頭が良い。理数が苦手な僕からしてみれば理解の出来ない人間だ。

「…桐生がいると集中出来ないから嫌なんだよ…!」
「でも俺は出来るし」
「っ、こんの…!」

 先日僕は目の前の男の前で不覚にも泣いてしまった。正直今思い出しても恥ずかし過ぎて死にそうだ。穴があったら入りたい。ちなみにあの日は正気に戻った後桐生を突き飛ばして逃げた。
 けどあの日から、どういう心境の変化が起きたのか桐生は僕によく話し掛けて来るようになった。朝の挨拶だったり、ちょっとした休み時間だったり、こうして放課後だったり。ほんの短い時間だけどまるで友達みたいに話し掛けて来るのだ。正直に言えばやめてほしい。だって曲がりなりにも僕は桐生に好意を持っている訳で、そしてその好意は報われなかったというのを誰よりも知っている。
 だから放っておいて欲しいのに、何故かこの男は話し掛けて来るのだ。しかも上手い事人が少ない時を狙って仕掛けて来るから邪険にする事も出来ずこんな事になっているのだ。

「…普通はもうじゃあお互い関わらずにいようねって流れになるだろ…!」

 僕は頭を抱えて唸った。状況をどう整理してもやっぱり桐生の行動が理解出来ない。

「なんで?」
「な、なんでって…」
「俺、あの日ちゃんと言ったよ。仲良くなりたいから話し掛けて良いかって」
「僕はいいよって言ってない」
「ダメだとも言ってないでしょ」
「屁理屈だなお前本当」

 苛立ちと不可解さに重くて長いため息を吐く。この感覚は久しぶりだった。

「…僕はさ、できればもう桐生と関わりたくなんだよ。お前と話してるとどうしても疲れる。忘れたいからもう僕の事は無い物として扱ってほし」
「無理」

 清々しいくらいの我儘っぷりに今度こそ額に青筋が浮かんだ。けれどここで怒鳴れば流石に目立つと必死に自分に言い聞かせてまた深呼吸する。怒鳴り散らそうとする激情は減らせても腹の奥に溜まる苛立ちは募るばかりで、僕は感情の読めない桐生を睨みながら口を開いた。

「…桐生のそういうところ大嫌いだ」

 言ってすぐ目を逸らして机の上に置いたままの鞄を睨む。

「僕の言ってる事無視して自分の都合ばっかり押し付けて、それが当然って顔してるお前が大っ嫌いだ。言っただろ、僕はオモチャじゃない。人並みに嫌な事だってあるし怒る事もある。僕は、とりあえずもう桐生と話したくないんだって」

 そこまで一息で喋って、また深く息を吐き出した。
 結局は感情をぶつけてしまったと思いながら息を吸って、とりあえず鞄を自分の膝の上に避難させる。紺色の鞄を見ながらまた口を開く。

「…それに普通さ、振った人に話しかけるのは無神経過ぎるよ」

 ガタン、と大きな音がして反射で肩が猫みたいに跳ねる。
 何事かと見てみればそこには目を見開いて少し顔色を悪くさせている桐生がいて僕の目も丸くなる。混乱しているのか目を左右に走らせた桐生はすぐに僕を見て何度も首を横に振った。

「振ってない…!」
「…は?」
「俺、雪穂のこと振ってないよ!」
「ば、バカ声デカい!」

 思わず立ち上がって僕は辺りを見渡す。幸い誰かが廊下を歩いている気配もしなければ外はいつもと同じような部活動の音が聞こえる。どこにもバレていないと理解すると安堵感から僕はまた腰を下ろした。
 桐生は僕の挙動をずっと見ていて、さっきまでは能面みたいに無表情だったのに今は捨てられた子犬みたいに不安な顔をしている。何がきっかけでそうなったのかは知らないが僕も意味がわからなくて眉間に皺を寄せた。

「ごめんって言ったじゃん、この前」
「は? …え⁉︎ ちょ、待っ、まさかあの時ので?」
「それ以外何があるの」
「ある、けど…! いや、違う。これは完全に俺が悪い、本当に俺が悪い。でもまさか、あー…」

 今度は桐生が頭を抱えてしまった。一体どうしてそうなったのかが理解出来ず、流石にこの状態の桐生を置いて逃げ出すのは忍びなくて観察すること十数秒。未だに何故だか撃沈している桐生に僕は意味がわからず首を傾げた。

「…ていうかそれ以前の問題だし。気負わせてるならごめん。忘れていいよ、その方が桐生も楽でしょ」
「ちょっと黙って」

 聞いた事のない桐生の低い声に自然と背筋が伸びる。空気が少しピリついていて心臓がきゅうっと縮んだ。
 え、なんで桐生が怒ってるんだろう。まず、そう前置きをされて始まった言葉を僕はただ聞く事しか出来ない。

「俺は雪穂の事振ってない。驚いたけど嫌だなんて思ってない。あの時のごめんは告白に対する言葉じゃないから、それはちゃんと知ってて欲しい」

 桐生がこぼす呼吸音すら静かな教室ではよく聞こえる。だからそれ以外の物にも以外と意識が向くもので、例えば落ち着きなく握っては開いてを繰り返す手だったり、普段は揺れる事のない瞳が不安げに揺れていたり、そういうものにも気付けてしまった。
 桐生が緊張している、そしてきっと、僕の発言のどれかに不満を感じている。

「それと」

 その答え合わせが始まるんだ。

「俺の気持ちを勝手に決めないで。…俺は雪穂の気持ちを面倒だなんて思ってない。忘れたいとも思ってないよ」

 真っ直ぐに向けられる視線と言葉から僕は逃げられなかった。
 もういいやと諦めて置いてきた筈の夢がまた息を吹き返そうとしている気配がする。

「…お願い。俺に雪穂を知るチャンスをください」

 その懇願に、僕はゆっくりと瞬きをした。

「チャンスって、何…?」
「? そういう機会が欲しいって意味だけど」
「違うそうじゃなくて」

 自分の額を指で押すように僕は思考を巡らせた。けど巡らせたところでなんの答えも浮かばない。それも当然だ。だって僕には桐生が何を考えているのかさっぱりわからないんだから。

「…なんでチャンスが欲しいの」
「雪穂の事が知りたいから」
「なんで知りたいって思うの」
「それを知るためにチャンスが欲しい」
「はあ?」

 理解する為に聞いたのにもっとわからなくなって僕の眉間に皺が寄った。そんな僕とは反対に桐生の顔は大真面目で、そこに揶揄いとか嘘の気配は感じられなかった。でもそれから一拍置いて桐生の顔が悔しげに歪む。

「…田中曰く、俺はポンコツらしくて」
「んん…?」
「俺が今まで雪穂にして来た行動は、俺が雪穂に好意を持ってないとしない行動だって教えて貰った」
「ん?」
「文化祭の準備中、クラスのグループに雪穂のかわいい写真載せられたり、俺にはさせてくれないクセに他のやつらとは顔写った写真撮らせたり、学校で触らせたり、そういうのが全部すごく苛ついた。それで俺はそれを、その、お気に入りのおもちゃを盗られたって、感覚だと思ってて」

 酷く言いづらそうに紡がれた言葉は、理解していた事だとしてもずしりと重たく心刺してくる。やっぱりそうだったんだなぁって、したくなかった答え合わせに僕は視線を桐生から逸らした。

「でも、そうじゃないって田中が気付かせてくれて」

 落ち込みそうになった僕を止まらせたのは田中だ。また出た田中の名前に僕は嫌な予感がして顔をロボットみたいなぎこちなさで再び桐生に戻した。

「あのね、雪穂」
「まさか田中に喋ったの」
「なんで今田中の名前が出るの」
「最初に出したのはお前だよ!」

 途端に桐生の顔が顰めっ面になり面白くなさそうに唇を尖らせた。その理不尽さに僕はどうにか落ち着こうとするけど出来なくてびしっと桐生を指さした。

「おまえ、お前まさか田中に僕の事喋ったの…⁉︎」
「雪穂の事は隠してたよ。でもバレた」
「なんでぇ⁉︎」

 驚愕に震えている僕とは対照的に桐生は呆気からんとしている。

「俺がグループに上がった雪穂の写真見てキレたの見てたから」
「は、ぇ…? はああああ?」

 もう僕には理解不能だった。僕は今度こそ頭を抱えてうずくまった。

「終わった…」
「大丈夫だよ、田中はそういうの言いふらすやつじゃないし」
「そりゃあお前はダメージ無いだろうな!」
「え? 女装とかの事も全部話したよ」
「どっちみち僕も大ダメージじゃん! もうHPレッドゾーン突入してるんだけど!」
「…田中もかわいいって言ってた」
「そもそも女装褒められたってなにも嬉しくな、……なんて顔してんの桐生」

 僕とっては一大事でも桐生にとってはそうでないらしく認識の差に苛立つし歯痒いしでどうしてやろうと思いながら顔を上げれば、そこにいたのは形容し難い表情をした桐生だった。多分僕が同じ顔をしたら目も当てられないけど、桐生の顔からはなんだか複雑な感情が読み取れるような気がした。

「雪穂の事かわいいって知ってるのは俺だけで良かったのに」
「…またおもちゃ理論?」
「違う」

 複雑な顔のまま桐生はじっと僕を見ている。

「嫉妬してるんだよ、田中に」

 というか雪穂の可愛さを知った奴ら全員。そう続けられた言葉に僕は瞬きを繰り返した。言葉は聞こえているし理解はしているが意味がわかって納得できるかと言われたらそうじゃない。まさに頭ではわかっていても体がついていかない状態になっていた。
 意味がわからない事の連続でもう驚くというリアクションすら取れない、というか今どんな反応をすれば正解なのかがわからなくて僕は固まった。

「…雪穂だってすごい顔してるよ」

 それまで複雑だった桐生の顔がふっと和らいだ。嬉しそうに目を細めてゆっくり開く花みたいに笑って、僕の方に手を伸ばす。桐生の長い指が僕の頬に触れた。輪郭をなぞって顎のラインを包むみたいに大きな手のひらが触れる。

「りんご飴みたいでかわいいね」

 悔しくて唇を噛んだ。でもそうすると桐生の指先が口元に触れるから僕は言うことを聞くしかなくて、でもやっぱり悔しくて睨むと桐生は嬉しそうに笑った。

「…なんで僕に触るの」
「触りたいって思ったから」
「僕は、お前に好きだって言ったんだよ」
「うん」
「…こんなことされたら、忘れられない」

 まるで宝物みたいに桐生が僕に触れるからどうしようもなく心臓が痛い。どれだけ忘れようとして僕が頑張っても、これじゃ努力が水の泡だ。無神経なやつだって腹立たしいのに、それでも僕の心は今嬉しいって叫んでる。

「忘れないで、覚えててよ」
「…お前本当に自己中だな」
「うん、それで雪穂の事沢山傷付けた。本当にごめん」

 するりと手が離れる。謝罪の言葉を吐いている桐生の顔は笑っているけど、目は少しだけ陰っている。

「…俺は本当にポンコツらしくて、未だに自分の気持ちがわかんないところがある。雪穂の事知りたいって思うし、独り占めしたいって思うし、今文化祭の雪穂の格好思い出しただけで見たやつ全員許さないって思うくらいには嫉妬してる」

 一つ一つ言葉を置いてくるみたいにゆっくりと桐生が喋る。

「多分俺は雪穂の事が好きなんだ」

 ぽつん、と落ちた言葉。考えるよりも先に口を突く。

「……なんで多分…?」
「自発的に人を好きになった事ないから自信持って言えない」
「ぇ」
「今まで告白されたら付き合うってやってたし、付き合ってるから形だけでもって大切にしてたけど、それでその人達を好きになるって事なかった。だから、今俺の中にあるこれが好きなのかどうかわからない」

 ぽかんと口を開け間抜け面を晒す僕を見て桐生は眉尻を下げた。

「多分、雪穂の事が好きなんだよ。でも自信を持って言えないから、もっと雪穂と一緒にいたい。そうしたらきっと多分じゃない好きを伝えられると思う」
「……それが勘違いとか、考えないの」
「多分違うから大丈夫」

 無性に笑いたくなった。

「っ、ふふ」

 声を漏らすと桐生が不思議そうにする。だけど僕は気にせずに笑った。

「あははっ、…ふ、くく、はー…桐生って馬鹿なんだなぁ」

 きっと僕も大馬鹿者だと思う。
 曖昧過ぎる告白はこの先僕を殺すナイフになるかもしれない。でも、それでも良いかもしれないって思ってしまったから、恋ってやつは本当に面倒臭い。

「いいよ、チャンスをあげる」

 どっちに転んでもきっとこれが互いにラストチャンスだ。
 そうは言っても僕は以前からの条件を覆す事は無かった。
 学校では桐生とは話さない、帰りも別々にするし、基本的に連絡するのはアプリだけ。周りに誰もいなかったら学校でも話すけれど、そうでない場合は却下。
 この条件に桐生は不満を抱いていたけれどやっぱり桐生は目立つし、僕はともかく桐生の態度があからさま過ぎるから却下した。僕は自慢じゃないが今まで桐生への好意を隠して普通に過ごしてきた、いわば普通のプロだ。けれど桐生はそうじゃない。
 生まれた時から目立っていたというのが想像に難くないこの男はもう平常時から派手なのでまず普通が適用されない。それに加えて本人曰く初めての恋心(仮)に浮き足立っている状態だ。その状態で僕に話しかけよう物なら僕の学校生活はまず終わる。
 やっとクラスでも普通に話せる友人が出来た今、それだけはどうしても避けたかった。

『なんで周りをゴツい奴らに囲まれてるの』
『近い。もうちょっと離れられないの』
『あからさまに俺を無視するのやめて』

 だがしかし休憩時間にちょっとクラスメイトと話すとこれだ。これは一体誰なんだとスマホの通知を見ながら僕は思った。

「雪ぴ〜、古典激ムズすぎてまじぴえんなんだけお!」
「どこがわからないか言ってくれたら教えるよ」
「もお全部に決まってんじゃん! 古典ってなに? 日本語すら怪しいのに古典なんて出来るわけないじゃんね!」
「うん、じゃあとりあえずテスト範囲だけ押さえとこうね」
「ありがと雪ぴ!」

 楠木さんはよく僕の頭を撫でる。どうにも家で飼ってる猫と似ていて衝動を抑えきれないらしい。今も髪の毛をぐしゃぐしゃにされていると呪いみたいにスマホが震えているのがわかる。
 スマホを見ずに視線を桐生の方にやればそこには見るからに不機嫌な桐生と腹を抱えて爆笑している田中がいた。
 ……これが今の僕の日常になっている。

 桐生にチャンスを上げた日から連絡の頻度はこんな感じで、と言うかどんどん連絡の回数が増えていて今では僕の返信を待たずにトーク画面が桐生の文章だけで埋まる事がある。
 それを重いだとか気持ち悪いだとかは一切思わなかった。むしろ嬉しいなんて思ってしまった僕は重症だ。

『俺も雪穂と勉強したい』

 楠木さんやかつての妖怪3人娘から解放された授業中、ポケットに入れたままのスマホが震えてそれをバレないように確認すればそんなメッセージが来ていた。
 僕と桐生の間には席が4列もあって僕の席からは桐生の様子はわからないけど文面から落ち込んでいるのは充分過ぎるくらいに伝わって思わず苦笑する。でも僕はこのテスト期間桐生とは勉強しないと決めていた。だってきっと僕が二人きりの室内に耐えられないから。

『授業中。あとで連絡するから待って』

 絵文字もスタンプも無いそっけない文章を送ったらすぐさま既読が付いた。こんな現象にも慣れっこだ。返信が来る前にスマホの電源を落として画面をブラックアウトさせて授業に集中する。それから再びスマホの電源を入れたのは放課後になってからだった。
 すっかり陽が落ちるのも早くなった12月の夕方。もう辺りはオレンジ色に染まっていて人が減った教室は温度が下が理、僕はもうマフラーを装着していた。椅子に座って電源を入れると来るわ来るわ桐生からのメッセージの滝。こいつ暇なのかと思いながらアプリを開くと僕は文字を打つ。

『テスト終わったら出掛けよ』

 送ったメッセージには既読が付かない。何故なら桐生は今どうしても外せない部活の助っ人に行っているから。だから桐生がこのメッセージを読むのは早くて後二時間後。そして落ち着いて返信ができるようになるまでには更に時間が掛かるだろう。
 僕はこの後の桐生の反応を想像して思わず口角を上げた。でもこれじゃ怪しい人だと思って顔を引き締め、鞄を持って教室を出る。今日は放課後残らずに帰る予定だ。
 だって残っていたらメッセージを見た桐生が攻め込んでくる可能性がある。そのリスクを回避するために僕は帰宅する選択肢を取った。靴を履き替えて正門から抜ける。この季節の明るい時間に帰路に着くのなんて久しぶりで新鮮だ。冬の空気は冷たくて痛くて、でもなんだか世界が綺麗に見えるから好きだ。

 こんな風に家に帰る道が楽しいと思えたのはもしかしたら初めてかもしれない。いや、多分小学生の頃まではそんな時もあったんだろうなと思う。思い出せないくらい前なんだなと考えつつ僕はゆっくりと歩いて家を目指した。
 案の定早く帰ってきた僕を見て母さんは驚いていたけど、僕も驚いていた。
 ああ、なんだ。こんな時間に帰って来て親と顔を合わせても別に嫌な気持ちになんてならないじゃないか。

「おかえり。今日は早いのね」
「うん、ただいま」
「あ、ねえねえ雪穂、お母さんケーキ焼いたんだけど食べる? いつもお隣さんにあげてるんだけど今日は一緒に食べない?」
「…うん、食べる」
「よかった。ほら着替えてらっしゃい、その間に用意しとくから」

 その日僕は久しぶりに母さんと二人でおやつを食べた。そういえば小さい頃はこんなのが当たり前だったのに、いつの間にかなくなっていた。久しぶりに食べた母さんのケーキはやっぱり甘くて、でもすごく美味しかった。
 その日の夜だった、桐生から電話が掛かってきたのは。

「もしも」
『ねえなんで今日早く帰ったの⁉︎ 絶対俺から逃げたよね!』
「あ、部活終わったんだね。お疲れ」
『ありがとう、じゃなくて! ねえ、ねえ雪穂、あれ本当? 嘘じゃない?』
「あれって?」
『デート!』
「出掛けようとは書いたけどデートとは言ってない」
『一緒じゃん、意味は』

 電話の向こうからは車の通る音が聞こえる。どうやらまだ桐生は外にいるらしい。僕は座っていた椅子の背もたれに体重を乗せて少しだけ体をリラックスさせた。

「テスト明けの日曜日でもいい?」
『うん』
「なんでそんな嬉しそうなの」
『好きな子とデート出来るんだから嬉しくないはずないじゃん』
「まだ未定でしょ、そこは」

 訂正すると難しそうに唸る音が聞こえて、それがおかしくて笑ってしまう。

「…ねえ桐生、日曜日僕女装しないよ」
『うん』

 意外にも間を開ける事なく返ってきた返事に僕は少し驚いた。

『そのままの雪穂とデートしたい。楽しみ』

 思わず僕は机に拳を叩き落とした。

『え、待ってなんかすごい音したよ』
「大丈夫虫がいただけ」
『冬に?』

 深く息を吐いて一瞬で顔に集まってしまった熱を散らす。僕が黙っている間に桐生は楽しそうに今日の部活の出来事を教えてくれた。僕じゃ感じることの出来ないスポーツの面白さを聞くのは新鮮で、僕は何度も相槌を打つ。

『雪穂は? 今日は何か面白いことあった?』

 自然と投げられた会話のボールをキャッチして僕は一拍逡巡した。

「…母さんとケーキ食べた、久しぶりに。美味しかった」
『へえ、いいね。料理上手なんだ』
 
なんて事ない会話だけど、こんな普通のやりとりが案外心地良いものなんだって僕は思い出した。それから少しの間桐生と取り止めもない話をして「あ、家着きそう」という桐生の言葉で通話の終わりを察知する。

「そっか。じゃあ切るね」
『え、やだ』
「はいおやすみー」
『待って待って! …おやすみ、雪穂。また明日学校でね』
「うん。学校じゃ話し掛けないけどね」

 また何か言いそうになっている桐生を無視して通話を終了するとすぐさまメッセージが入ってきて笑ってしまった。なんだか楽しいなと、そう思えた。

 期末テストはつつがなく終了した。きちんと苦手なところも克服出来ていたし、文系のテストは元々得意だから心配はしていない。これなら良い結果が期待出来そうだと思ったのが昨日の夜の出来事。
 僕は今人通りの多い駅から少し離れた場所のベンチに座っている。僕は寒さに息が白く染まる中本を読んでいた。雑踏がいい感じのBGMになって本を読むのが捗る。たまには本を読む為だけに繁華街に来てみるのもいいかもしれないとまで思った。
 でも如何せん空気が冷たい。ホットのドリンクでも買って来たら良かったなと思いながら本から顔を上げたらタイミング良くこちらに向かって来る人物と目が合った。

「早くない…⁉︎」
「桐生もね。おはよう」
「お、おはよう」

 サコッシュに本を入れていると桐生が隣に座ってきた。

「…今11時半なんですけど」
「うん、そうだね」
「待ち合わせ12時って言ったの雪穂なのに」

 何やら声色が悲しそうで、隣を見てみればそこには声通りの顔をした桐生がいた。

「なに、待たされるより良いでしょ」
「待ち合わせ場所に来てくれる雪穂が見たかったんだよ」
「なにそれ」

 吹き出すように笑うとしょぼくれていた桐生の表情が少しだけ明るくなる。
 テスト明けの日曜日、今日は桐生と出掛ける日だ。

「とりあえず昼ご飯食べに行こう。まあ僕この辺で知ってるのマックぐらいだからそれ以外だと桐生に頼っちゃうけど」
「全然良いよ。雪穂って好き嫌いある?」
「辛過ぎるものとかは苦手、あと量が多過ぎるのも。焼肉もそこまで得意じゃないし出来れば油っぽくないのがいい。でも和食の気分でも無い」
「わがまま」
「じゃあ桐生の好きなので良いよ」

 なんて事ない会話をして立ち上がると桐生も付いて来る。なんだかRPGのキャラクターみたいだと思ったけどその後は普通に横に並んだからそんな事も無かった。
 休日の駅前は人がごった返している。耳を澄まさなくても判別が不可能なくらい色々な音に溢れていて色彩だって豊かだ。だから当然人も多く居て性別なんて関係無く人がひしめき合っている。人混みも苦手だけどこの何物でもない雑踏に紛れる感覚は少し好きだったりする。

「注文の難易度高くない?」

 広い交差点で信号が変わるのを待ちながら隣に並んだ桐生がスマホを睨みながら言ってくる。そういえば外で食べるなんて初めてだなと思いながら「期待してる」なんて言えば桐生の口角が楽しそうに上がった。
 信号が変わって人混みに紛れながら進み、いくつかに別れている道の中で飲食店が多いらしい方向を桐生が選んでくれてそっちに向かって歩いていく。時間が時間だからかどの飲食店からも良い匂いがしてきてそれだけで空腹を覚えていたがある香りを嗅覚が敏感に感じ取って思わず足を止める。
 顔を向けるとそこには明らかに和風な暖簾が掛かっている。どこからどう見てもうどん屋なのだが軒先にある食品サンプルの中にあるものを見つけた瞬間僕は少し前を行った桐生に慌てて追いついて服を掴んだ。

「! な、なに雪穂どうし」
「あそこが良い」
「…うどん?」
「鍋焼きうどんがあった…!」

 僕は割と食事に我儘な方だと思う。量も食べられないし好き嫌いもそれなりにあるし気分によって食べたい物がころころと変わる。そんな僕が大好きなメニューが鍋焼きうどんなのだ。

「…雪穂それが好きなの?」
「うん、一番好き。夏でも食べれる」
「やっば」

 どこか面白そうに笑う桐生の服を掴んだまま僕は足を進めた。店の前には開店中の札が掛けてあって入る前に腕を離すとスライド式の扉を開ける。店内はそんなに広くは無くて小ぢんまりとしており個人的にはとても好きな雰囲気だ。出てきた年嵩の男の人に人数を伝えて二人席を指定して貰うと僕達は上着を脱いでから向き合うように座った。

「……すごい。桐生とうどん屋ってなんか不思議な組み合わせだね」

 見慣れてしまっていたから忘れていたが、そうだ桐生は歩く電光掲示板みたいな男だったと思い出した。ただそこに座っているだけなのに何故か光の粒子が舞っているんじゃと思うくらい顔も雰囲気も派手な男とこのうどん屋は中々のミスマッチで思わず笑ってしまった。

「そう?」
「うん。僕はもう食べるの決めてるから桐生メニュー見て良いよ」
「俺も雪穂と同じのにする」
「いいね。じゃあ注文よろしく」

 桐生が店員を呼んで鍋焼きうどんを二つ注文する。届くまで少し時間が掛かるのも鍋焼きうどんの醍醐味だ。

「この後って映画だよね」
「うん。最新のやつとかじゃないからあんまり面白くないかもだけど」
「雪穂と一緒の時点で楽しいよ」

 僕達以外は休日出勤のサラリーマンとか多分この辺りに住んでる常連のお爺さんしかいない中で優しい声を出す桐生を殴りたくなった僕は多分悪くない。それから数分待ってやってきた鍋焼きうどんを前に僕は目を輝かせた。

「ねえ待って雪穂その顔写真撮りたい」
「無理却下いただきます」

 両手を合わせてから端と木製のレンゲを持つと食事を始める。

「うまぁ…」

 でも困ることがあるとすれば眼鏡が曇るところだ。それもまあ慣れた物で眼鏡をさっさと外して再びうどんと向き合うと桐生が座る方向から何かを耐える音が聞こえた。

「ごめん僕今なにも見えないんだけど何かあった?」
「…何もないよ」

 僕は適当な返事をしてぼやけた視界でもちゃんと認識出来る海老天を頬張った。ちゃんと身がずっしりと詰まった美味しい海老天に僕のテンションは鰻登りだ。桐生もどうやら気に入ってくれたらしくて「うま」と呟く声に何故だか僕が作ったわけでもないのに勝ち誇った気持ちになってしまう。寒い時期の鍋焼きうどんは本当に美味しくてあっという間に食べ終わるとその頃には鼻先に汗が滲んでいた。

「ごちそうさまでした」

 滲んだ汗を紙ナプキンで拭き取ってからようやく眼鏡を装着する。途端に輪郭のはっきりとした世界に安堵しつつ桐生の方を見れば多分僕と同じような満ち足りた顔をしていて僕はまた得意げに笑う。

「美味いでしょ、鍋焼きうどん」
「うん、ちょっと舐めてた。でも夏に食ったらやばそう、普通にチャレンジメニューじゃん」
「原理的には夏にカレーと変わらない気がするけどね」
「…なるほど?」

 熱くなった体にはお冷やが心地よくて一気に飲み干す。時間を見たらまだまだ余裕はあるけどゆっくりと歩いていけば腹具合も丁度良くなる気がした。桐生は少し不満げだったけどきっちり割り勘にして店に挨拶をしてから外に出る。
 途端に冬の冷たい空気が頬を刺すけど熱が残っている今じゃ心地良い。それは桐生も同じみたいでマフラーに口を埋めながら笑うとまた桐生の方から変な音がした。

「…さっきから何か変な音するけど大丈夫?」
「大丈夫。全然大丈夫」
「…そう? じゃあゆっくり行こっか。途中気になる店あったら言ってね。俺も桐生がどんな店に興味あるのか知りたいし」
「……はぁー…、どうしよう。パンクしそう」
「は?」
「独り言」

 片手で顔を覆った桐生が深呼吸をしている。この時期の深呼吸は冷たい空気が鼻の奥を突き刺してくるから僕は苦手なのに、それを何回も繰り返すなんて桐生は猛者だなと思った。
 うどん屋から出てたくさんの人が歩く通りから少し外れた場所に目当ての映画館はある。最新作ばかりが上映される映画館よりずっと小さくて、まるで時代に置き去りにされたみたいな佇まいが好きだ。こういう映画館はチケットだって予約制じゃないところが多くて受付で注文する。

 僕は別に映画が好きって訳じゃないけど、たまに無性に見たくなる。それは大抵最新作じゃなくてリバイバル上映されているものだ。
 そんなに広くない映画館にはちらほらと人がいるだけできっと満席にはならないし、むしろほぼ貸切状態って言ってもおかしくないと思う。桐生はこういう場所には慣れないのか新鮮なのかたまにあちこちを見ている。でもそれを見て笑っている僕に気がつくと少し拗ねたみたいな顔をして画面を見るからそれもまたおかしくて小さく息を吹き出した。
 照明が落ちると少しだけ人の音があった空間が一気に静寂に包まれる。そうして放映された映像は約二時間。とても有名な曲が使われていて、正直その曲がどこで使われるのかを見るためだけにここにいる。
 予めあらすじも読んできたし動画投稿サイトに上がっていたかつての予告も見た。重たい内容なんだろうと理解はしていても、やっぱり全編見てみると心に来るものがある。でも僕はこういうあんまりすっきりしない後味が結構好きだった。

「…桐生、大丈夫?」

 エンドロールまでしっかりと見終わってから隣を見ると桐生は少し疲れている様だった。

「大丈夫。あんまり映画見ないから目が疲れてるだけ」
「あー、こういう映画は頭使うし見た後何かしんどいしでちょっと疲れるのわかるよ」

 体に残るしんどさを落とす様に席から立って出口に向かう。
 映画館に入る前は明るかった空も今の時間だともうすでに空が夜になる支度を始めている頃合いだ。マフラーをしっかり巻き直して特に寒さを感じ易い鼻先を埋め、ポケットに両手を入れて桐生と並んで歩く。
「…あの曲だけ聞いたことある」
「有名だもんね。あれがどこで使われてるのか知りたくてこの映画にしたんだ」
「…映画って言われた時ラブロマンス系かなってちょっと思ってたよ俺」
「はは、」

 この先の予定は決めてない。多分僕という人間を知って貰うにはこの時間だけで十分だって思ったから。二人で映画の感想とか学校の話とか、それから進路の話なんてしながらあてもなく歩いていたらいつの間にか夏祭りの時の神社の近くにまで来ていた。
 あの時は長い屋台の列が出来ていたから狭く見えた道も今見れば十分な広さがある。

「…あそこ行こ」
「え」

 少し驚いている桐生を尻目に僕はまず近くの自販機で温かいミルクティーを買った。

「桐生は何か飲む?」
「…コーヒーにしとく」

 二人で温かい飲み物を持って夏祭りの時と違って人のいない道を進む。それまであった会話は自然と少なくなって本殿の横にある小さな道を歩く時にはもう二人とも話さなくなっていた。
 階段を上り切って見えたのは夏祭りの時にははっきりと見る事が出来なかった小さなお社があって、その側には並んで座った岩がある。誰もいなくて静かな場所では僕達の歩く音や岩に座る時の衣擦れの音が良く聞こえた。

「桐生、顔が死刑執行される寸前の囚人みたいだけど大丈夫そう?」
「あんまり大丈夫じゃないかもしれない」

 桐生は膝に肘を置いて両手で顔を覆って項垂れている。まあそうなる気持ちがわからないでもない僕は特に何も言わずにペットボトルのキャップを開けた。ふわりと上る湯気と柔らかな甘い香りを少し楽しんだ後に口をつけて温かいそれを飲む。

「…今日一日桐生を連れ回した訳だけど」

 息を吐くと温度差が出来たからか濃い白色に染まった。

「結構楽しかったよ」

 ばっと音がするくらいの速度で桐生が顔を向けて来た。捨てられる寸前のような、迷子のような、兎に角不安そうな目を見て、あーあって僕は思った。

「そりゃ楽しいに決まってるでしょ。僕桐生の事好きなんだよ?」

 今度は泣きそうに顔を歪ませた。案外桐生は表情が豊かだ。

「…それで、桐生の方はどうですか」

 桐生の言葉から始まった奇妙な関係で、僕が耐え切れなくなって離れて、でも何でか桐生が食い下がってまた繋がった関係。でもチャンスが欲しいって桐生が言って、それを了承したあの瞬間から全ての決定権は桐生にある。
 こういうのは惚れた方が負けなんだ。

「女装してない僕でも触りたいって思いましたか」

 桐生に死刑執行寸前って聞いたけど、それは僕だって同じだ。こんな何でもないみたいな感じで聴いてるけど心臓がすごく痛くて怖くてしょうがない。
 綺麗な形をした眉が情けなく下がっているし、もしかしたら目も潤んでいるかもしれない。きゅ、と唇を噛んで一度短く息を吐き出して、覚悟を決めるけどやっぱり怖くて、、でもこの問題を長引かせたってしょうがないって、僕達はわかってる。

「……触っても、いいの」
「覚悟が決まってるなら」

 意地悪な言い方だけどこれが一番合ってる気がした。
 一瞬体を強張らせたけど深呼吸して僕を見た桐生の目はあんまりにも真っ直ぐだった。焦ったいくらいゆっくりと手が伸びてきて僕の頬に指先から順に触れて行く。

「…桐生って、馬鹿だなぁって思うよ」

 冬のせいで触れた指先は冷たくて、手のひら全体で頬を包まれてからやっとあたたかさを感じる事が出来た。

「なんで…?」
「普通でいられたのに僕を選んだから」

 浮かべた笑みはきっと自嘲的な物だったと思う。でも桐生は少し焦った顔をして僕の目元を親指で拭った。

「雪穂、泣かないで」
「泣いてない」
「泣いてるよ。嘘下手だね」

 今度は桐生が笑って僕の眼鏡を取った。途端に視界が悪くなるけど冷えた指先がもう片方の目元も拭ってくれた。

「……確かに、俺って馬鹿なのかも」

 目元を拭った手がそのまままた僕の頬を包む。

「雪穂が何もしなくてもかわいいなんて事、ずっと前からわかってたのに」

 すぐ側に桐生の目があった。遠くても近くてもぼやける視界だけど、息が触れるほどの距離にいることは流石にわかった。

「…好きだよ、雪穂。遅くなってごめんね」

 額が触れて、鼻先が触れて、唇が重なる直前に聞こえた言葉にもうダメだって思った。

「っ、おそい、このクソバカ!」
「うん」
「ほんと、おまえ…っ」
「うん」

 今度こそ誤魔化せないくらい泣いている僕は自分から腕を伸ばす。
 初めて自分から触れた桐生の温度は服のせいでよくわからなかったけど、それでもあたたかかった。