「お前って人生イージーモードだよな」

 これと似たような言葉をどれくらい言われてきただろう。小学生の頃は無かったから、きっと優劣の可視化が顕著になり始める中学の時だっただろうか。
 初めて言われた時は校内でもトップに入るって噂の美人と付き合った時。スマホで連絡してる時にその時よく遊んでいた友人に言われた。その言葉が何を意味するのかわからなくて俺は「そう?」なんて返したけど、今思えばスカした返答だったと思う。その証拠にその日から友人と思っていた人と距離が出来た。

 テストで良い点を取った時、運動で良い結果を出した時、俺が何か人より多少優れた事を成した時大抵誰かが似たような事を言っていた。多分あらゆる成績が良いだけだとこうは言われない。なぜなら俺より優れてる人はそれなりに居たから。
 でも周囲は俺の事を「勝ち組だ」「人生楽勝そう」と言う。
 なんでそう言われるのか考えた時、答えに近いんじゃないかって仮定に行き着いた。

 俺は外見が優れているらしい。どこからどう見ても母親にそっくりなこの顔は女ウケが良くて、父親に似た長身もそれを加速させているらしかった。それに加えて俺の両親がそこそこの高給取りっていうのもポイントが高いみたいで、何回か付き合った年上のお姉さんには「空と結婚したらあたしも勝ち組になれそー」なんて言われた。
 つまり俺の周りにいる人達はほぼ全員俺の表面しか見ていないという事だ。
 そう悟った時言い様のない虚無感が襲ったのを覚えている。

 俺は別に努力してない訳じゃなかった。勉強も運動も単純な負けず嫌い精神で少しでも上にいたかっただけだし、一つのスポーツに絞らなかったのは運動自体が好きで一つに集中するのが勿体ないって思ったからだ。
 どの部活に助っ人として呼ばれた時も相応の努力はしてきたつもりだった。上手くいかない事だってもちろんあった。でも俺と一緒に練習をしてきた人達でさえその時間を無かったものにして「あいつは才能の塊だから」って言う。
 誰にも理解されない、そんな気持ちのまま家で適当にネットの海を彷徨っていた時だった。

「……なんだこれ」

 多分何かの女性アニメキャラのコスプレだったと思う。どのキャラかまでは把握出来なかったけどその衣装に見覚えがあった。たまたま流れて来たものだけど何か違和感があってじっと見ていたらそのコスプレをしているのが男だと知って「は?」なんて自分でも出した事がない声が出たのを覚えている。

「うわ、キッツ…」

 始めは感じなかった違和感も同性だと知った途端未知の嫌悪感へと姿を変える。男なのに何やってんだよと思ったし、その画像をまじまじと見てしまった自分にも嫌な気分がした。だけどそれと同時に興味が湧いたのも確かだった。
 一体どんな経緯があればこんな格好をする事になるんだろう。
 馬鹿にしたいという気持ちがあったのは間違いない。馬鹿にして笑ってやって、ちっぽけな優越感に浸るつもりだったのに、その人の画像を見る手が止まらなかった。

「…白…ほっそ…、え、これマジで男…?」

 白くて華奢な身体で女性の服を着ているのに女性とは何かが違う。どれもアニメとかゲームのコスプレだからか露出が多くて同じ男の肌のはずなのに目のやり場がなくて少し恥ずかしかったが、大胆に腹部を見せている画像に移った時気がついた。
 そうか、男だからくびれが無いんだ。
 女性のようななだらかな曲線ではなくすとんとした直線。きっと肌の色や明るさは加工しているんだろうけれど、それでもわかる腰骨のゴツさや細い首に見える喉仏に唾を飲んだ。
 その頃にはもうその人が女装を始めた経緯なんてどうでもよくなっていた。

「…こういう人達って他にもいるのかな」

 怖いもの見たさ、という言葉では片付けられない興味。
 それから俺は何にもない顔をしていつも通りの日常を過ごしつつ、夜は女装している男の画像を探し回った。
 その人達に興奮しているんだって理解するのは時間の問題で、今まで波風立てる事なく平坦に生きてきた筈なのに高校に上がる手前でとんでもない性癖の扉をこじ開けてしまった。でも俺の性的嗜好は相変わらず女子だったし、間違えても男に反応するような事は無かった。だからまあ問題は無いだろうと思っていたのに、ある人と出会った事で俺の大した起伏の無かった人生が波打っていく。

「斉藤雪穂です、よろしくお願いします」

 小さいけど意志の強そうな声だと思った。あと背が低くて無愛想。
 前髪が長すぎて顔が見えないし、猫背のせいでただでさえ低い身長がさらに低く見えていかにも「陰キャ」という感じだった。
 この時はまだ斉藤雪穂という人物に対して興味は微塵も無かった。同じクラスだから名前を覚えただけでこれから先言葉を交わす事もそう無いだろうと思っていたのに、衝撃はそれから少し経ったある日突然やって来た。
 体育の授業前の休み時間。女子は更衣室、男子は教室で着替えている時の事だった。
 同じ中学から上がったやつも多くて、俺はその日も友達と取り留めもない話をしながら着替えていたんだ。でも結構強い風が吹いてふと、窓際に目をやった。

「…!」

 日の下に長時間いた事がないって一目でわかる白い肌に筋肉がついているようには思えない薄い身体。二の腕も胸も腰も何もかもが細いのに、それでいて骨っぽさはあまり感じさせない体型。

 ──ドンピシャだ。

 久しく感じていない好奇心みたいなものが強く掻き立てられたのを覚えている。
 その日から俺は斉藤雪穂の観察を始めた。その時点ではこの男と何か接点を持とうなんてカケラも考えていなかった。ただ理想的な身体の持ち主がいて、その身体で勝手にどんな服が似合うのか妄想していただけである。

「…桐生、お前最近イイコトでもあった?」

 斉藤雪穂を観察し始めてから割とすぐに腐れ縁と言っても過言ではない男、田中にそう言われた。

「……あった」
「うーわ珍しい。ポンコツなのにやるじゃん」
「うるさい、俺はポンコツじゃない。どっちかって言うとお前だろポンコツは。小テスト見せてみろよ」
「頭の出来のこと言ってんじゃないんですけど〜! 人間的な意味です〜!」
「……田中お前人間的なんて言葉使って文章作れたの」
「そうそう、俺も日々ガクシュウしていきますからって馬鹿にしないでいただけますぅ⁉︎」
「はいはいうるさいうるさい」

 騒がしくしていると視線を感じて顔を向けた。
 すると斉藤雪穂と目が合って、だけどすぐに逸らされる。
 たったそれだけの事なのに心が浮き立った、桐生空、16歳の春だった。

 斉藤雪穂を観察してわかった事は少ない。少ないけれどきっとこの学校では一番俺が斉藤雪穂の事を知っているんだろうなと思う。
 読む本は結末が暗めな物が多い事、ちゃんと真面目で授業中寝ない事、日直の仕事を片側の奴が投げ出しても文句一つ言わない大人な性格な事、そしてどうやら一人でいるのが好きらしい、という事。
 斉藤雪穂は基本一人だ。たまに友人と話している所を見るがその友人達も暗めの奴らだし類は友を呼ぶというのか、そいつらもまた一人を好んでいる様だった。常に周りに人がいた自分とは全然違う生態に最初は驚いたし、その生き方は不安にならないのかなと疑問にも思った。

 だって人間は無条件に群れを作りたがる生き物だって思っているから。
 孤立していたら周りから変な目で見られる。あいつは友人一人作れない可哀想なやつだと勝手なレッテルを貼られ、腫れ物のように扱われる。高校に上がってすぐの頃中学時代の友人がクラスのみんなで集まろうなんて話をした。だけど実際に集まったのは当時グループで表すのであれば三角の真ん中から上だけ。下に分類された人は一人として参加していなかったし、多分集まるという話があったことすら知らされていないのだろう。

 孤独というのは、きっと円環に入れない事を言うのだ。
 その人が自ら孤独になりにいっているとしても、周りはそれを『哀れなもの』として見て選民意識か何かなのか自分たちの意にそぐわないものを平気で排除して先に進んでいく。
 俺は漠然とそれが不安だった。
 経験上自分がその円環から排除される可能性は低いと知っていても、その漠然とした不安はいつでも俺の足元に居た。だからこそ斉藤雪穂がすごいと思ったのだ。
 淡々と、黙々と、静謐に日々を過ごす彼がすごいと思った。

「日誌書くの、変わろうか?」

 鮮やかだった緑が赤とか黄色に色付いてそして徐々に散っていく季節のある日の事、個人的に聞き覚えしかない声に話しかけられて俺は一瞬フリーズした。

「…ぁ、急に、ごめん」

 彼は慣れない人に話しかける時言葉を単語で切る癖がある。きっと頭の中でたくさんのパターンを作っている筈なのにいざ言葉に出すと情報が多くてパンクしそうになっているんだと思う。

「──いや、べつに」

 俺史上最大にダサいかつスカした返答だったに違いない。
 何がどう別になんだと胸ぐらを掴んで問いただしたい衝動に駆られたけれど、今はそれどころじゃなかった。あの(・・)斉藤雪穂が俺に話し掛けてきたのだ。
 必要最低限人と会話をする事のない、冬みたいに冷たくて静かな彼が、俺に話し掛けてくれた。
 素直に俺は舞い上がっていた。嬉しさと緊張が同時に沸き立つ感情はきっとアイドルや芸能人とかを間近で見た時の感情に近い気がする。

「…ぇっと、じゃあ、いい。急に話しかけて、ごめん」

 俺の別に、という言葉をよくない方で受け取ったらしい彼の目が苦しそうに左右に揺れたのを見て、気道がきゅっと締め付けられた心地がした。

「まっ、て」

 ああダサい、どれほどダサさを重ねれば気が済むんだ俺は。

「なんで、」

 突然の事すぎて頭が状況に追い付いていない。話すべき事はあるのに言葉がまとまらなくてまるで童貞みたいな詰まり方をしてしまった。いやいくらなんでもダサすぎる。
 それでも彼は俺の言わんとするところを汲み取ってくれた様でまた少し視線を彷徨わせた後に静かな海みたいな目で俺を見た。

「……今日の部活、大事なんでしょ」

 雫みたいにこぼれた声に俺は目を丸くした。
 俺は特定の部活に所属してない。けど中学の頃と同じ様に色々な部活に助っ人として参加していた。今回はバスケ部の助っ人として誘われていて、今度ある試合に向けて外部の人を呼んだ練習があるのだ。助っ人を頼まれたからには実力でもチームワークの部分でも少しでも多く時間を共有したい。
 でもそういう日に限って日直で、そういう日に限ってもう一人の日直が無責任だったりするのだ。だから俺は少し焦っていたし苛ついてもいた。その負の感情は斉藤雪穂に話し掛けられたおかげで消え去ったけれど、代わりに驚きが俺の全身を占拠している。

「…休み時間、話してるの聞こえた。先生にもちゃんと言っとくから、変わろ」

 どうやら俺の感情は全部顔に出ているらしい。
 聞くまでもなく答えをくれる彼に俺はもう頷くしかなくて、それを是と取ったらしい彼の口角がほんの少し上がるのを見て心臓が何かに撃ち抜かれたような衝撃を受けた。でもその衝撃を整理する余裕もなく机の上に置いたスマホが震え始めると画面にはバスケ部の友人からの着信で、俺は慌てて画面をタップして耳に当てた。

「ごめん日直で、いやでも」
「大丈夫だよ」

 俺にしか聞こえない声量で呟いた彼が日誌を持って自分の席へと座る。さすがにここまでして貰って食い下がるのは失礼だと思って「今から行く」と電話口の相手に伝えて俺は慌てて荷物をまとめてドアに急いだ。
 廊下に出る手前で勢いのまま踏み止まって振り返る。

「──ありがとうっ」
「…うん、がんばってね」

 背中を押されるみたいに俺は廊下を走ってバレー部が使用している体育館に急いだ。
 頑張って、今まで飽きるくらい言われた言葉の筈なのに彼の言葉にはとてもあたたかな気持ちになった。それはきっと、彼が俺の努力に対して激励してくれたからだと、割と簡単に思い至った。
 いやでも今までもきっと同じシチュエーションは数え切れない程あった筈だ。それなのにどうして斉藤雪穂の言葉だけこんなにも心に響いたのだろうか。仮定として上げるのであれば彼が俺の観察対象だから。常に見ていた人からの急な接触で舞い上がったのは確かだし、ファン心理で言えばこの答えで間違っていない気がする。
 追うことよりも追われることの方が圧倒的に、というか追った事がない俺の人生において斉藤雪穂という人物は結構なイレギュラーだ。
 なるほど、これがファン心理かと思いながら俺は体育館の扉を開けるのだがこの感情がファンとしてではないのかもしれないと気がつくのはそれから約一年後のことだ。

 日誌事件から俺と斉藤雪穂はたまに挨拶を交わす仲になった。
 そう、挨拶を交わす仲。つまり知人である。
 本当はもっと仲良くなりたいと思っていたのだが俺は自分の欲望に従う前にブレーキを掛けた。じっくり考えなくても彼は俺との接触を嫌がる事は確定しているからだ。

 斉藤雪穂は目立つ事を嫌悪さえしている節があるし騒がしい物や事が嫌いだ。その証拠に休み時間の度に馬鹿騒ぎする連中に対して冷ややかな視線を向けていた事は一度や二度では無いし、昼休みなんかは一人でそそくさとどこかへと向かっている。
 自慢ではないが俺は目立つ、そして俺は多分話題の中心になり得る。そんな俺が斉藤雪穂に積極的に話し掛けたらどうなるのかなんて想像に難くない。
 つまり俺は話し掛けたくても話し掛けられないのだ。

 一応あの日誌事件の後ちゃんとお礼を伝えたが、あの時見せてくれた微かな笑顔は無く寧ろ「なんでお前話し掛けてくるんだよ」とどんな水面より凪いでいる目が如実に語ってくれた。
 斉藤雪穂の人生において桐生空という存在は邪魔なんだろうなとなんとなく察した瞬間だ。
 だけど俺は彼を見るのをやめなかった。もうそれは意地とかそういうのじゃなくて日常で、日々彼が同じ空間にいてくれる事に安堵すら覚えていた。これって推し活みたいなもんなのかなって思っていた。

「…僕もああなりたい」

 本当に偶然だった。
 雨のせいで部活が早く終わって帰り支度を整えていたら教室に忘れ物をしたのがわかって友人達に「先帰って」そう言って人の気配がほとんどしない校舎に戻ると教室に彼がいた。頬杖をついて窓を見る後ろ姿はなんというか儚くて、頼りなくて、瞬きしたら消えてしまうんじゃないかってくらいで、そんな彼の雪みたいな声は驚くくらい俺によく届いた。

「斉藤好きなやついるの?」

 斉藤雪穂の人生において桐生空という存在は邪魔になる。そう理解しているのに考えるよりも先に声を掛けてしまったのは説明の出来ない衝動に突き動かされたからだ。
 見た事ない顔をしている彼の横を通り過ぎて窓に寄ると見えたのは元気が良くて素直で頑張り屋だと男子の中でもそれなりに人気のある女子と、その彼氏。他に人影はなく、つまり斉藤雪穂はこの二人を見てあの発言をした事になる。ほとんどカマ掛けみたいな言葉だったのに急に信憑性が出てきた事に胸の奥がざわついた。

「あの子の事好きだったの?」
「え、あ、ちが」

 彼はわかりにくいようでわかりやすい。だからその言葉に嘘は感じられなかった。だとしたらあの呟きの意味が分からなくなる。だから俺はからかうつもりで問いかけた。

「じゃあもしかして男の方?」

 その後の彼の顔はまさしく絶望と言っていいものだった。でもそんな顔をする意味が分からなくて、聞いた事がないくらい大きな声で否定された事にも驚いた。それと同時に少し興奮している自分もいた。
 斉藤雪穂の感情が大きく揺れている。波紋ひとつない水面みたいな彼が、自分の言葉に動揺している事実にえも言われぬ快感を覚えた。そしてこの斉藤雪穂という人物をずっと観察してきた俺は、この時とんでもない賭けに出たんだ。

「…じゃあ、女の子になりたいってこと…⁉︎」

 案の定、斉藤雪穂はまた俺の知らない顔をした。
 だけど俺は知っている(・・・・・・・・・・)
 彼は押しに弱く、情に流されやすく、そしてやさしい性格だという事を。

「ああなりたいって事はさ、斉藤は女子の、女の子の格好に興味があるって事だよな…⁉︎ マジか、マジか、まさかこんなところに理解者がいるなんて…え、もしかして、違う…?」

 わざとらしく哀しげな表情と声を出して、肩を掴む指から力を抜いた。
 すると斉藤雪穂はハッとした顔で俺を見て、そして慌てて口を開く。

「違わないっ」

 ほんの少し罪悪感はあった。だけどそれを遥かに上回る高揚が俺の全身を包んでいて浮かんだ言葉は「捕まえた」だった。例えばそれは子供の頃に見た大きなカブトムシだとか、鬼ごっこで逃げている子に追いついた感情に近いかもしれない。
 だけどこの感情はそんな純粋な物に分類するにはドロドロしていて、でもどんなものよりも一等きれいだった。

 なんて言いつつも女装した斉藤雪穂は控えめに言っても最高だった。あまりに最高過ぎて祈ったこともないのに神様に感謝したくらいには最高だった。あんな意味不明のゴリ押しで騙される彼が少し心配になるがこの件に関してはゴリ押しした自分を褒め称えたい。
 それに無理矢理俺の人には言えない趣味に引き摺り込んだおかげか彼の新しい表情をたくさん知れて俺の心はとんでもなく満たされていた。
 思った以上に細かった首とか、腰とか、手首とか、名前の通り白い肌だとか、そこらの女子より細いとか、そんな彼の親くらいしか知らない物を知れて俺の人生はその時最高に盛り上がっていた。
 あと以外に口が悪かったり表情が豊かだったりするのも良い。学校の誰も知らない斉藤雪歩を知れているという優越感が俺を何よりも満たしていた。

 雪穂と過ごす時間は俺にとってなくてはならない物になっていた。
 だってきっと一生誰にも打ち明ける事なんて出来なかった筈の性癖をゴリ押ししているのに加えてずっと前から彼に着て欲しくて集めた服を本人に着て貰えて、更にはそれを撮影出来ている。メイクだってさせて貰えるようになったし、始まりはどうであれ雪穂が俺に懐いてくれているのはなんとなく肌で分かった。
 その時も俺はこの感情がファン心理から来るものだって思ってた。アイドルからとんでもないファンサを貰っている人だとか、ホストに入れ込む女の子はこんな気持ちなのかも知れないなんて思った。

 そして過去最高に待ち侘びて迎えた夏休み、夏祭り、俺の隣には最高に可愛い雪穂がいた。全世界に自慢したいくらい可愛い姿で、顔で、俺の隣を歩いていた。いっそのことSNSアカウントに本当に載せてやろうかなんて血迷った考えが浮かぶくらいその日の雪穂はかわいくて綺麗だった。
 でもそうしなかったのは雪穂を独り占めしたかったからだ。だからお面も買って、運悪く田中と遭遇した時だって絶対に見せてやるかって抱き締めた。そんな行動する時点でおかしいのに、俺はきっと浮かれていた。
 花火を見る雪穂があんまり綺麗で、見惚れて、気がついたらキスをしていた。
 でも、雪穂なら許してくれると思った。
 だって俺達は普通の関係じゃない。きっとお互いがお互いを一番に考えているってわかっていた。だから大丈夫だって思って、間違えた。

「──はなして」

 梅雨の日の放課後と同じ声だった。
 でも俺は泣いている雪穂を初めて見た。
 雪穂のならどんな表情でも見たいって思った。怒ってる顔も困ってる顔も恥ずかしそうな顔も、俺が知らない表情なんて無ければ良いのにとすら思っていた。
 だけどつらそうに、叫び出したいのを堪えてるみたいなその顔は、見たくないって思った。だからどうにかしたくて口を開けたのに喉が張り付いたみたいに声が出なくて、ドアが閉まる残酷な音を聞いてその時初めて理解した。
 これはファン心理なんかじゃない。でも、俺はこの感情の名前を知らない。

 その日から雪穂と連絡が取れなくなった。
 正しく言えば俺から連絡してないから、必然的に雪穂からも連絡は来ない。思えば連絡はいつも俺からで、雪穂から来たことなんて一度も無い。今まではそれで良かった、むしろそれが俺の観察してきた斉藤雪穂だったから解釈は一致していた。
 だけど今、その雪穂の性格が恨めしくてしょうがない。

 だっておかしいだろ。雪穂と俺は間違いなく学校で一番仲が良かったし、初めて撮影をした日から一日だって連絡を欠かした事は無かった。そんなの雪穂にしかしてなかったのに。
 おはようからおやすみまで連絡を取っていた。学校では一言も話せないのにメッセージだとやりとりできる関係があんまりにも特別で心地よかったのに、そう思っていたのは自分だけだと思い知らされているみたいで気分が落ち込む。
 だけど自分でもわかっていた、怒りの矛先を向ける相手が間違っているなんて事は。でもどうして雪穂が急にあんな態度を取ったのか分からない。どれだけ考えても分からないから、俺は今屈辱だと思いながら屋上に来ていた。

「え、お前あのネコちゃんと付き合って無かったの⁉︎」
「………」
「それで囲い込むのに失敗して逃げられちゃったって訳? だっせ」
「人選ミスったわ、お疲れ」
「待て待て待て待て。まあまあちゃんと話聞きますよ、なんてたってこの学校1のモテ男田中様ですから」
「田中って苗字がモテるのなんか意外だよね」
「全国の田中に土下座して謝れや」

 俺は今田中と屋上に来ている。テストも終わって10月の半ば過ぎとなれば吹く風も冷たくて最近カーディガンを着るようになった。つまり雪穂と連絡が取れなくなって約一ヶ月が経過した事になる。正直に言えば、俺は枯渇していた。
 圧倒的に雪穂が足りない。撮影は疎かたまに交わしていた教室でのアイコンタクトも日々のメッセージのやりとりも0になり、雪穂の声が聞けるのは授業中教師が雪穂に当てた時くらいだ。雪穂が足りない、どうしたって足りない。だけど自分から連絡を取る事は出来なかった。
 だから俺は恥を偲んで田中に相談しているのだ。

「で、お前は付き合っても無い子を何回も家に呼んでデートもして挙げ句の果てにはキスもしてその後も今まで通りの距離感でいた訳だ」

 フェンスに寄りかかった田中はどこか面白そうに口角を上げている。

「まあ確かにお前の今までのオツキアイの仕方だったらそれで問題無いんだろうけどなぁ」

 ふんふんと頷きながら呟いた田中はふと俺の方に顔を向けた。

「お前ネコちゃんにちゃんと好きだって言ったか?」
「───は…?」
「は?」

 沈黙が落ちた。俺も意味がわからないって顔をしているだろうし、田中なんて顔が「嘘だろお前」って言っている気がする。いやだって好きなんて有り得ない。雪穂は男なんだから。

「やっぱポンコツじゃねえか!」
「うるさい俺はポンコツじゃない」
「どー考えたってポンコツだわ! ……あれ、まさか桐生サン、ご自身の感情にお気づきでない?」
「だから好きとかじゃない」
「はあ〜〜〜? 普通は好きな子じゃないとキスしません〜。家にも上げません〜」
「今までの子達とだってキスしたよ」
「でもお前家には絶対上げなかったじゃん。お前の歴代カノジョさん達に俺がどんだけ相談受けたと思ってんだよ」

 田中の言葉に一瞬言葉に詰まった。だって雪穂を家に呼んだのはそうしないと女装させられないからだ。道具は一式俺の家にあったし、それが一番効率が良かったから呼んだだけの事なのに、頭の裏側が張り詰めていくような緊張に俺は動揺している。

「それにお前夏祭りん時牽制しただろ、俺相手に」
「…は?」

 牽制、相手の注意を自分の方に引きつけて自由に行動できないようにする事。
 俺がそれを田中にした?

「ネコちゃんの顔絶対見せないようにしたり、俺が話し掛けるの本気で嫌そうにしたり、それに周りにもあんだけ惚気といて何がどう牽制してねえのよ。お前狙いの女全員沈没してんですよ、今。あの桐生にガチの恋人が出来たって」
「待って」
「おー、待つ待つ」

 混乱していた。俺はその場にしゃがみ込んで、自分が今までしてきた行動とその行動の原因になる感情を可能な限り思い出す。夏祭りの時雪穂を見せない様にしたのは独り占めしたいのもあったけど、万が一バレた時に俺も雪穂も社会的に終わるからだ。
 周りへの惚気ってなんだ。いつした、そんなの俺がいつしたって言うんだ。

「……惚気って、ナニ」
「すんごい可愛いから写真も見せたくねえって言ったんだろ、お前。それを世間一般では惚気って言いま〜す」
「…たしかに、すごい、かわいいけど…」

 だってそれは事実を言っただけだ。写真はバレるかも知れないから見せられないし、雪穂は世界で一番可愛い。だからそれをそのまま言っただけなのに、どうしてそれが俺が雪穂を好きみたいになるんだ。
 それは、無い。俺が雪穂を好きなんて、絶対、無い。はずだ。

「…お前ホンメイドウテイだったんだなぁ」

 田中の言ってる意味がわからなくて、その日は結局なんの答えも得られないまま家に帰った。ベッドにダイブして、勉強なんて一切手に付かなくて頭の中ではずっと雪穂の事を考えている。でもどれだけ考えた所で答えなんて出ないんだ。だって俺は雪穂と前みたいに仲良くしたいけど、雪穂はそうじゃない。あの日彼があんな事を言った原因は未だにわからないし、そもそも俺に原因があるのかどうかすら定かじゃない。

「八方塞がりだ…」

 疲れ切った声で呟くとポケットに入れたままのスマホが震えたのがわかった。もしかして、と慌てて取り出して画面を見るが差出人は顔もよく覚えていない学校の女子だ。多分同級生。雪穂じゃない事に何度目かわからない溜息を吐き出して何件か溜まっているメッセージを読んでいく。
 その中の一つに指を止めた後、カレンダーアプリを開いた。

「…文化祭か」

 学校行事に大して興味は無いけれど、みんなが頑張るなら頑張ろうかな。それくらいの考えだったのに、その週のクラス会で提案された企画に俺は鈍器で頭を殴られたみたいな衝撃を喰らう事になる。

「はーいじゃあ今年の出し物は性別逆転喫茶店ねー!」
「どこに需要があんだよー」
「女子が格好いい服着たいだけですけど文句あんの男子」
「…イエナイデス」

 どうやら今年の出し物は男装女装喫茶になったらしい。女装という言葉に少し反応したけれど、俺の興味は全然そそられなかった。誰かが言ったように一体どこに需要があるんだと思うけど、まあ決まったものは仕方が無い。

「女子は良いとしてさー、男子は誰がやんの女装」
「全員は無理だもんな、料理とか作る人もいるし」
「全員とか地獄過ぎるだろ」

 ゲラゲラと賑やかな空気はそんなに嫌いじゃない。それにうちのクラスはまとまりも良いし、きっと良い思い出になるだろうなって思った。

「あ、ちなみに桐生くんと田中くんは普通に男の格好でいて貰うから。集客大事」
「ちょっと〜! アタシスネ毛剃る気満々でしてよ〜⁉」
「田中本当黙りなよ」

 またクラスの空気がどっと明るくなる。田中のこういう所は素直にすごいと思うし、まあモテる要因なのかなと考えたりもした。

「で、男子の女装なんだけど」
「斉藤はー?」
「…ぇ」

 誰かが雪穂の名前を上げた。信じられなくて思わず彼の方を見ると名前を言われた彼自身が一番驚いているらしく硬直している。

「こいつめちゃくちゃ肌白くてさ、それにクッソ細いんだよ。女装するならこういうやつのが似合うべ」

 ドクン、と心臓が嫌な軋み方をした。

「それにさ、どうせやるならガチりたいじゃん。出し物で一位取ったらなんかあるんじゃねえの?」
「確かに焼肉券貰えるけど」

 それまでにこやかに見守っていた担任が苦笑しながら答えた。その俺にとってはそそられない景品も、クラスの男子には絶大な威力を発揮するらしく数名の運動部の部員が吠えた。
 賑やかなクラスの中、雪穂の斜め後ろに座る派手な女子が普通に立ち上がって雪穂の隣に行く。未だに衝撃から抜け切れてない彼の顔を「斉藤くん眼鏡外すね〜」なんて言って触るのが見えた。

「ぇ、あ、あの」
「マジじゃん斉藤くんめっっっちゃ白いんですけど! てかまつ毛なっが! 肌とかもちぷるじゃんええええずるい〜」

 よく通る女子の声を皮切りに雪穂の周りに人垣が出来る。
 たまに雪穂の困惑した声や驚いた声が聞こえて来て、でも周囲はそんなのお構いなしとばかりに距離を詰めて行く。
 うちのクラスは仲が良い。いじめなんて無いし、個々を尊重しているのか枠から外れている人を無理に仲間に入れようとする空気も無い。だけどいつだって枠に入れるように、扉は開いているのだ。そして一度招き入れたら彼らは平等に接する。

「雪ぴ、うちらがさいかわ女子にしてあげるかんね」
「でも雪ぽよが恥ずかしく無いように他の男子もちゃんと女装させるからね」
「ぇ、あの、えっと」
「焼肉獲るぞーーー!」

 ムードメーカー的なやつの掛け声にみんなが声を上げた。
 俺はただ呆然とその流れを見ていた。