そうは言っても僕は以前からの条件を覆す事は無かった。
 学校では桐生とは話さない、帰りも別々にするし、基本的に連絡するのはアプリだけ。周りに誰もいなかったら学校でも話すけれど、そうでない場合は却下。
 この条件に桐生は不満を抱いていたけれどやっぱり桐生は目立つし、僕はともかく桐生の態度があからさま過ぎるから却下した。僕は自慢じゃないが今まで桐生への好意を隠して普通に過ごしてきた、いわば普通のプロだ。けれど桐生はそうじゃない。
 生まれた時から目立っていたというのが想像に難くないこの男はもう平常時から派手なのでまず普通が適用されない。それに加えて本人曰く初めての恋心(仮)に浮き足立っている状態だ。その状態で僕に話しかけよう物なら僕の学校生活はまず終わる。
 やっとクラスでも普通に話せる友人が出来た今、それだけはどうしても避けたかった。

『なんで周りをゴツい奴らに囲まれてるの』
『近い。もうちょっと離れられないの』
『あからさまに俺を無視するのやめて』

 だがしかし休憩時間にちょっとクラスメイトと話すとこれだ。これは一体誰なんだとスマホの通知を見ながら僕は思った。

「雪ぴ〜、古典激ムズすぎてまじぴえんなんだけお!」
「どこがわからないか言ってくれたら教えるよ」
「もお全部に決まってんじゃん! 古典ってなに? 日本語すら怪しいのに古典なんて出来るわけないじゃんね!」
「うん、じゃあとりあえずテスト範囲だけ押さえとこうね」
「ありがと雪ぴ!」

 楠木さんはよく僕の頭を撫でる。どうにも家で飼ってる猫と似ていて衝動を抑えきれないらしい。今も髪の毛をぐしゃぐしゃにされていると呪いみたいにスマホが震えているのがわかる。
 スマホを見ずに視線を桐生の方にやればそこには見るからに不機嫌な桐生と腹を抱えて爆笑している田中がいた。
 ……これが今の僕の日常になっている。

 桐生にチャンスを上げた日から連絡の頻度はこんな感じで、と言うかどんどん連絡の回数が増えていて今では僕の返信を待たずにトーク画面が桐生の文章だけで埋まる事がある。
 それを重いだとか気持ち悪いだとかは一切思わなかった。むしろ嬉しいなんて思ってしまった僕は重症だ。

『俺も雪穂と勉強したい』

 楠木さんやかつての妖怪3人娘から解放された授業中、ポケットに入れたままのスマホが震えてそれをバレないように確認すればそんなメッセージが来ていた。
 僕と桐生の間には席が4列もあって僕の席からは桐生の様子はわからないけど文面から落ち込んでいるのは充分過ぎるくらいに伝わって思わず苦笑する。でも僕はこのテスト期間桐生とは勉強しないと決めていた。だってきっと僕が二人きりの室内に耐えられないから。

『授業中。あとで連絡するから待って』

 絵文字もスタンプも無いそっけない文章を送ったらすぐさま既読が付いた。こんな現象にも慣れっこだ。返信が来る前にスマホの電源を落として画面をブラックアウトさせて授業に集中する。それから再びスマホの電源を入れたのは放課後になってからだった。
 すっかり陽が落ちるのも早くなった12月の夕方。もう辺りはオレンジ色に染まっていて人が減った教室は温度が下が理、僕はもうマフラーを装着していた。椅子に座って電源を入れると来るわ来るわ桐生からのメッセージの滝。こいつ暇なのかと思いながらアプリを開くと僕は文字を打つ。

『テスト終わったら出掛けよ』

 送ったメッセージには既読が付かない。何故なら桐生は今どうしても外せない部活の助っ人に行っているから。だから桐生がこのメッセージを読むのは早くて後二時間後。そして落ち着いて返信ができるようになるまでには更に時間が掛かるだろう。
 僕はこの後の桐生の反応を想像して思わず口角を上げた。でもこれじゃ怪しい人だと思って顔を引き締め、鞄を持って教室を出る。今日は放課後残らずに帰る予定だ。
 だって残っていたらメッセージを見た桐生が攻め込んでくる可能性がある。そのリスクを回避するために僕は帰宅する選択肢を取った。靴を履き替えて正門から抜ける。この季節の明るい時間に帰路に着くのなんて久しぶりで新鮮だ。冬の空気は冷たくて痛くて、でもなんだか世界が綺麗に見えるから好きだ。

 こんな風に家に帰る道が楽しいと思えたのはもしかしたら初めてかもしれない。いや、多分小学生の頃まではそんな時もあったんだろうなと思う。思い出せないくらい前なんだなと考えつつ僕はゆっくりと歩いて家を目指した。
 案の定早く帰ってきた僕を見て母さんは驚いていたけど、僕も驚いていた。
 ああ、なんだ。こんな時間に帰って来て親と顔を合わせても別に嫌な気持ちになんてならないじゃないか。

「おかえり。今日は早いのね」
「うん、ただいま」
「あ、ねえねえ雪穂、お母さんケーキ焼いたんだけど食べる? いつもお隣さんにあげてるんだけど今日は一緒に食べない?」
「…うん、食べる」
「よかった。ほら着替えてらっしゃい、その間に用意しとくから」

 その日僕は久しぶりに母さんと二人でおやつを食べた。そういえば小さい頃はこんなのが当たり前だったのに、いつの間にかなくなっていた。久しぶりに食べた母さんのケーキはやっぱり甘くて、でもすごく美味しかった。
 その日の夜だった、桐生から電話が掛かってきたのは。

「もしも」
『ねえなんで今日早く帰ったの⁉︎ 絶対俺から逃げたよね!』
「あ、部活終わったんだね。お疲れ」
『ありがとう、じゃなくて! ねえ、ねえ雪穂、あれ本当? 嘘じゃない?』
「あれって?」
『デート!』
「出掛けようとは書いたけどデートとは言ってない」
『一緒じゃん、意味は』

 電話の向こうからは車の通る音が聞こえる。どうやらまだ桐生は外にいるらしい。僕は座っていた椅子の背もたれに体重を乗せて少しだけ体をリラックスさせた。

「テスト明けの日曜日でもいい?」
『うん』
「なんでそんな嬉しそうなの」
『好きな子とデート出来るんだから嬉しくないはずないじゃん』
「まだ未定でしょ、そこは」

 訂正すると難しそうに唸る音が聞こえて、それがおかしくて笑ってしまう。

「…ねえ桐生、日曜日僕女装しないよ」
『うん』

 意外にも間を開ける事なく返ってきた返事に僕は少し驚いた。

『そのままの雪穂とデートしたい。楽しみ』

 思わず僕は机に拳を叩き落とした。

『え、待ってなんかすごい音したよ』
「大丈夫虫がいただけ」
『冬に?』

 深く息を吐いて一瞬で顔に集まってしまった熱を散らす。僕が黙っている間に桐生は楽しそうに今日の部活の出来事を教えてくれた。僕じゃ感じることの出来ないスポーツの面白さを聞くのは新鮮で、僕は何度も相槌を打つ。

『雪穂は? 今日は何か面白いことあった?』

 自然と投げられた会話のボールをキャッチして僕は一拍逡巡した。

「…母さんとケーキ食べた、久しぶりに。美味しかった」
『へえ、いいね。料理上手なんだ』
 
なんて事ない会話だけど、こんな普通のやりとりが案外心地良いものなんだって僕は思い出した。それから少しの間桐生と取り止めもない話をして「あ、家着きそう」という桐生の言葉で通話の終わりを察知する。

「そっか。じゃあ切るね」
『え、やだ』
「はいおやすみー」
『待って待って! …おやすみ、雪穂。また明日学校でね』
「うん。学校じゃ話し掛けないけどね」

 また何か言いそうになっている桐生を無視して通話を終了するとすぐさまメッセージが入ってきて笑ってしまった。なんだか楽しいなと、そう思えた。

 期末テストはつつがなく終了した。きちんと苦手なところも克服出来ていたし、文系のテストは元々得意だから心配はしていない。これなら良い結果が期待出来そうだと思ったのが昨日の夜の出来事。
 僕は今人通りの多い駅から少し離れた場所のベンチに座っている。僕は寒さに息が白く染まる中本を読んでいた。雑踏がいい感じのBGMになって本を読むのが捗る。たまには本を読む為だけに繁華街に来てみるのもいいかもしれないとまで思った。
 でも如何せん空気が冷たい。ホットのドリンクでも買って来たら良かったなと思いながら本から顔を上げたらタイミング良くこちらに向かって来る人物と目が合った。

「早くない…⁉︎」
「桐生もね。おはよう」
「お、おはよう」

 サコッシュに本を入れていると桐生が隣に座ってきた。

「…今11時半なんですけど」
「うん、そうだね」
「待ち合わせ12時って言ったの雪穂なのに」

 何やら声色が悲しそうで、隣を見てみればそこには声通りの顔をした桐生がいた。

「なに、待たされるより良いでしょ」
「待ち合わせ場所に来てくれる雪穂が見たかったんだよ」
「なにそれ」

 吹き出すように笑うとしょぼくれていた桐生の表情が少しだけ明るくなる。
 テスト明けの日曜日、今日は桐生と出掛ける日だ。

「とりあえず昼ご飯食べに行こう。まあ僕この辺で知ってるのマックぐらいだからそれ以外だと桐生に頼っちゃうけど」
「全然良いよ。雪穂って好き嫌いある?」
「辛過ぎるものとかは苦手、あと量が多過ぎるのも。焼肉もそこまで得意じゃないし出来れば油っぽくないのがいい。でも和食の気分でも無い」
「わがまま」
「じゃあ桐生の好きなので良いよ」

 なんて事ない会話をして立ち上がると桐生も付いて来る。なんだかRPGのキャラクターみたいだと思ったけどその後は普通に横に並んだからそんな事も無かった。
 休日の駅前は人がごった返している。耳を澄まさなくても判別が不可能なくらい色々な音に溢れていて色彩だって豊かだ。だから当然人も多く居て性別なんて関係無く人がひしめき合っている。人混みも苦手だけどこの何物でもない雑踏に紛れる感覚は少し好きだったりする。

「注文の難易度高くない?」

 広い交差点で信号が変わるのを待ちながら隣に並んだ桐生がスマホを睨みながら言ってくる。そういえば外で食べるなんて初めてだなと思いながら「期待してる」なんて言えば桐生の口角が楽しそうに上がった。
 信号が変わって人混みに紛れながら進み、いくつかに別れている道の中で飲食店が多いらしい方向を桐生が選んでくれてそっちに向かって歩いていく。時間が時間だからかどの飲食店からも良い匂いがしてきてそれだけで空腹を覚えていたがある香りを嗅覚が敏感に感じ取って思わず足を止める。
 顔を向けるとそこには明らかに和風な暖簾が掛かっている。どこからどう見てもうどん屋なのだが軒先にある食品サンプルの中にあるものを見つけた瞬間僕は少し前を行った桐生に慌てて追いついて服を掴んだ。

「! な、なに雪穂どうし」
「あそこが良い」
「…うどん?」
「鍋焼きうどんがあった…!」

 僕は割と食事に我儘な方だと思う。量も食べられないし好き嫌いもそれなりにあるし気分によって食べたい物がころころと変わる。そんな僕が大好きなメニューが鍋焼きうどんなのだ。

「…雪穂それが好きなの?」
「うん、一番好き。夏でも食べれる」
「やっば」

 どこか面白そうに笑う桐生の服を掴んだまま僕は足を進めた。店の前には開店中の札が掛けてあって入る前に腕を離すとスライド式の扉を開ける。店内はそんなに広くは無くて小ぢんまりとしており個人的にはとても好きな雰囲気だ。出てきた年嵩の男の人に人数を伝えて二人席を指定して貰うと僕達は上着を脱いでから向き合うように座った。

「……すごい。桐生とうどん屋ってなんか不思議な組み合わせだね」

 見慣れてしまっていたから忘れていたが、そうだ桐生は歩く電光掲示板みたいな男だったと思い出した。ただそこに座っているだけなのに何故か光の粒子が舞っているんじゃと思うくらい顔も雰囲気も派手な男とこのうどん屋は中々のミスマッチで思わず笑ってしまった。

「そう?」
「うん。僕はもう食べるの決めてるから桐生メニュー見て良いよ」
「俺も雪穂と同じのにする」
「いいね。じゃあ注文よろしく」

 桐生が店員を呼んで鍋焼きうどんを二つ注文する。届くまで少し時間が掛かるのも鍋焼きうどんの醍醐味だ。

「この後って映画だよね」
「うん。最新のやつとかじゃないからあんまり面白くないかもだけど」
「雪穂と一緒の時点で楽しいよ」

 僕達以外は休日出勤のサラリーマンとか多分この辺りに住んでる常連のお爺さんしかいない中で優しい声を出す桐生を殴りたくなった僕は多分悪くない。それから数分待ってやってきた鍋焼きうどんを前に僕は目を輝かせた。

「ねえ待って雪穂その顔写真撮りたい」
「無理却下いただきます」

 両手を合わせてから端と木製のレンゲを持つと食事を始める。

「うまぁ…」

 でも困ることがあるとすれば眼鏡が曇るところだ。それもまあ慣れた物で眼鏡をさっさと外して再びうどんと向き合うと桐生が座る方向から何かを耐える音が聞こえた。

「ごめん僕今なにも見えないんだけど何かあった?」
「…何もないよ」

 僕は適当な返事をしてぼやけた視界でもちゃんと認識出来る海老天を頬張った。ちゃんと身がずっしりと詰まった美味しい海老天に僕のテンションは鰻登りだ。桐生もどうやら気に入ってくれたらしくて「うま」と呟く声に何故だか僕が作ったわけでもないのに勝ち誇った気持ちになってしまう。寒い時期の鍋焼きうどんは本当に美味しくてあっという間に食べ終わるとその頃には鼻先に汗が滲んでいた。

「ごちそうさまでした」

 滲んだ汗を紙ナプキンで拭き取ってからようやく眼鏡を装着する。途端に輪郭のはっきりとした世界に安堵しつつ桐生の方を見れば多分僕と同じような満ち足りた顔をしていて僕はまた得意げに笑う。

「美味いでしょ、鍋焼きうどん」
「うん、ちょっと舐めてた。でも夏に食ったらやばそう、普通にチャレンジメニューじゃん」
「原理的には夏にカレーと変わらない気がするけどね」
「…なるほど?」

 熱くなった体にはお冷やが心地よくて一気に飲み干す。時間を見たらまだまだ余裕はあるけどゆっくりと歩いていけば腹具合も丁度良くなる気がした。桐生は少し不満げだったけどきっちり割り勘にして店に挨拶をしてから外に出る。
 途端に冬の冷たい空気が頬を刺すけど熱が残っている今じゃ心地良い。それは桐生も同じみたいでマフラーに口を埋めながら笑うとまた桐生の方から変な音がした。

「…さっきから何か変な音するけど大丈夫?」
「大丈夫。全然大丈夫」
「…そう? じゃあゆっくり行こっか。途中気になる店あったら言ってね。俺も桐生がどんな店に興味あるのか知りたいし」
「……はぁー…、どうしよう。パンクしそう」
「は?」
「独り言」

 片手で顔を覆った桐生が深呼吸をしている。この時期の深呼吸は冷たい空気が鼻の奥を突き刺してくるから僕は苦手なのに、それを何回も繰り返すなんて桐生は猛者だなと思った。
 うどん屋から出てたくさんの人が歩く通りから少し外れた場所に目当ての映画館はある。最新作ばかりが上映される映画館よりずっと小さくて、まるで時代に置き去りにされたみたいな佇まいが好きだ。こういう映画館はチケットだって予約制じゃないところが多くて受付で注文する。

 僕は別に映画が好きって訳じゃないけど、たまに無性に見たくなる。それは大抵最新作じゃなくてリバイバル上映されているものだ。
 そんなに広くない映画館にはちらほらと人がいるだけできっと満席にはならないし、むしろほぼ貸切状態って言ってもおかしくないと思う。桐生はこういう場所には慣れないのか新鮮なのかたまにあちこちを見ている。でもそれを見て笑っている僕に気がつくと少し拗ねたみたいな顔をして画面を見るからそれもまたおかしくて小さく息を吹き出した。
 照明が落ちると少しだけ人の音があった空間が一気に静寂に包まれる。そうして放映された映像は約二時間。とても有名な曲が使われていて、正直その曲がどこで使われるのかを見るためだけにここにいる。
 予めあらすじも読んできたし動画投稿サイトに上がっていたかつての予告も見た。重たい内容なんだろうと理解はしていても、やっぱり全編見てみると心に来るものがある。でも僕はこういうあんまりすっきりしない後味が結構好きだった。

「…桐生、大丈夫?」

 エンドロールまでしっかりと見終わってから隣を見ると桐生は少し疲れている様だった。

「大丈夫。あんまり映画見ないから目が疲れてるだけ」
「あー、こういう映画は頭使うし見た後何かしんどいしでちょっと疲れるのわかるよ」

 体に残るしんどさを落とす様に席から立って出口に向かう。
 映画館に入る前は明るかった空も今の時間だともうすでに空が夜になる支度を始めている頃合いだ。マフラーをしっかり巻き直して特に寒さを感じ易い鼻先を埋め、ポケットに両手を入れて桐生と並んで歩く。
「…あの曲だけ聞いたことある」
「有名だもんね。あれがどこで使われてるのか知りたくてこの映画にしたんだ」
「…映画って言われた時ラブロマンス系かなってちょっと思ってたよ俺」
「はは、」

 この先の予定は決めてない。多分僕という人間を知って貰うにはこの時間だけで十分だって思ったから。二人で映画の感想とか学校の話とか、それから進路の話なんてしながらあてもなく歩いていたらいつの間にか夏祭りの時の神社の近くにまで来ていた。
 あの時は長い屋台の列が出来ていたから狭く見えた道も今見れば十分な広さがある。

「…あそこ行こ」
「え」

 少し驚いている桐生を尻目に僕はまず近くの自販機で温かいミルクティーを買った。

「桐生は何か飲む?」
「…コーヒーにしとく」

 二人で温かい飲み物を持って夏祭りの時と違って人のいない道を進む。それまであった会話は自然と少なくなって本殿の横にある小さな道を歩く時にはもう二人とも話さなくなっていた。
 階段を上り切って見えたのは夏祭りの時にははっきりと見る事が出来なかった小さなお社があって、その側には並んで座った岩がある。誰もいなくて静かな場所では僕達の歩く音や岩に座る時の衣擦れの音が良く聞こえた。

「桐生、顔が死刑執行される寸前の囚人みたいだけど大丈夫そう?」
「あんまり大丈夫じゃないかもしれない」

 桐生は膝に肘を置いて両手で顔を覆って項垂れている。まあそうなる気持ちがわからないでもない僕は特に何も言わずにペットボトルのキャップを開けた。ふわりと上る湯気と柔らかな甘い香りを少し楽しんだ後に口をつけて温かいそれを飲む。

「…今日一日桐生を連れ回した訳だけど」

 息を吐くと温度差が出来たからか濃い白色に染まった。

「結構楽しかったよ」

 ばっと音がするくらいの速度で桐生が顔を向けて来た。捨てられる寸前のような、迷子のような、兎に角不安そうな目を見て、あーあって僕は思った。

「そりゃ楽しいに決まってるでしょ。僕桐生の事好きなんだよ?」

 今度は泣きそうに顔を歪ませた。案外桐生は表情が豊かだ。

「…それで、桐生の方はどうですか」

 桐生の言葉から始まった奇妙な関係で、僕が耐え切れなくなって離れて、でも何でか桐生が食い下がってまた繋がった関係。でもチャンスが欲しいって桐生が言って、それを了承したあの瞬間から全ての決定権は桐生にある。
 こういうのは惚れた方が負けなんだ。

「女装してない僕でも触りたいって思いましたか」

 桐生に死刑執行寸前って聞いたけど、それは僕だって同じだ。こんな何でもないみたいな感じで聴いてるけど心臓がすごく痛くて怖くてしょうがない。
 綺麗な形をした眉が情けなく下がっているし、もしかしたら目も潤んでいるかもしれない。きゅ、と唇を噛んで一度短く息を吐き出して、覚悟を決めるけどやっぱり怖くて、、でもこの問題を長引かせたってしょうがないって、僕達はわかってる。

「……触っても、いいの」
「覚悟が決まってるなら」

 意地悪な言い方だけどこれが一番合ってる気がした。
 一瞬体を強張らせたけど深呼吸して僕を見た桐生の目はあんまりにも真っ直ぐだった。焦ったいくらいゆっくりと手が伸びてきて僕の頬に指先から順に触れて行く。

「…桐生って、馬鹿だなぁって思うよ」

 冬のせいで触れた指先は冷たくて、手のひら全体で頬を包まれてからやっとあたたかさを感じる事が出来た。

「なんで…?」
「普通でいられたのに僕を選んだから」

 浮かべた笑みはきっと自嘲的な物だったと思う。でも桐生は少し焦った顔をして僕の目元を親指で拭った。

「雪穂、泣かないで」
「泣いてない」
「泣いてるよ。嘘下手だね」

 今度は桐生が笑って僕の眼鏡を取った。途端に視界が悪くなるけど冷えた指先がもう片方の目元も拭ってくれた。

「……確かに、俺って馬鹿なのかも」

 目元を拭った手がそのまままた僕の頬を包む。

「雪穂が何もしなくてもかわいいなんて事、ずっと前からわかってたのに」

 すぐ側に桐生の目があった。遠くても近くてもぼやける視界だけど、息が触れるほどの距離にいることは流石にわかった。

「…好きだよ、雪穂。遅くなってごめんね」

 額が触れて、鼻先が触れて、唇が重なる直前に聞こえた言葉にもうダメだって思った。

「っ、おそい、このクソバカ!」
「うん」
「ほんと、おまえ…っ」
「うん」

 今度こそ誤魔化せないくらい泣いている僕は自分から腕を伸ばす。
 初めて自分から触れた桐生の温度は服のせいでよくわからなかったけど、それでもあたたかかった。