自覚したのはいつだっただろう。違和感というか、自分が周りと違うんだと朧げに理解したのは小学生の頃だった。学年が上がるにつれて女子は大人びて行き、男子はそれよりもゆっくりではあるがあからさまに女子を意識し始める。
 それまで一日ゲームや漫画、アニメの話で盛り上がっていた友人が目に見えて女子の方に目線を向けるようになった。やめたら良いのに大きな声で話したり、体育の時に無駄に張り切ったり、女の子にちょっかいをかけるようになった。

「…あの子かわいいよな」

 幼馴染に当たる友人からそう耳打ちされて視線を巡らせた先にいた女の子は確かに可愛かった。ふわっとした色素の薄い茶色の髪も、高学年になって急にすらっとした白い手足も、鈴が転がるような声も、笑った時に少し見える八重歯も、全部が可愛かった。

「…うん、可愛い」
「だよな! ああいう子ってさ、もうカレシとかいるのかな」

 カレシ、かれし、彼氏。小学生だった僕はその言葉を理解するのに時間が掛かった。でもその言葉がレンアイを指すのだというのを僕はぼんやり理解していた。

「カレシになったらさ、やっぱ、すんのかな。き、キスとか!」

 頬を紅潮させて問いかけてくる友人を見ながら僕はその時自分が想像した事に背筋が凍ったのを今でも覚えている。

「……するんじゃないかな」

 僕はその時、男の人とキスをする自分を想像した。


 それが『普通』ではないなんて事小学生ながらに理解出来た。
 だから僕は自分の異常をずっと隠しておこうと思った。でも自分の事を知らないままにしておくなんて出来なくて、僕は細心の注意を払ってネットで調べた。
 すると、僕と同じような人が沢山いる事が分かった。
 僕は同性愛者らしい。

 漠然とした理解に僕は開いていたタブを閉じた。そうか、僕は同性愛者なのか。そう口の中で呟くけれど心の奥底には響いてはこない。現実味が無かったんだと思う。
 だって僕の家には僕の両親が居て、長期の休みになれば祖父母が会いに来たり会いに行ったりする。親戚の集まりだってある。
 そこでは当然のように男女が愛し合って、その結果僕達子供が生まれている。
 それがきっと正しい世界の姿なんだろうなと思っていたし、女の子に恋愛感情なんて抱いた事も無いのに、ただ漠然と「僕もいつかこうなるんだろうな」と思っていた。
 でもそれが打ち砕かれたのはある日の夕飯時にテレビから流れてきたニュースだった。

『本当に嬉しいです』
『こういう形もあるんだって、少しでも世間の人に知って貰えたら』

 画面に映ったのは白いタキシードを着て、言葉通り嬉しそうに笑っている男性が二人。テロップには『同性婚に密着』の文字。
 あまりの衝撃に持っていた箸を落としたのを覚えている。
 男同士でも結婚できる! インターネットだけの言葉じゃなくて、今こうして、僕の目の前で、男性同士が愛を誓い合っている!
 幸せそうな二人の姿は宗教画みたいだった。それくらい神聖で、綺麗なものだった。
 こうやって結ばれる二人がいる。現実にいるのなら、きっと僕だって──

「理解出来ん。母さんチャンネル変えてくれ」
「素敵な事だと思うけど、自分に置き換えると複雑な問題よねー」

 あら今日歌番組の特集があるわ、どうしたのお箸新しいのに変えて来なさい。
 その日どういう風に両親と会話をしたのか覚えてない。
 だけど僕はその日もう一度再認識したんだ。
 僕の性的嗜好は『普通』じゃないんだって。



 斉藤雪穂、17歳。高校2年、男子。

 自分の性的嗜好を理解して、そして死ぬまで隠し通すと決めて数年が経った。
 早い段階で自分が同性愛者だと気が付いて、それを隠そうと躍起になったおかげで今でも友人はおろか家族にもバレていない。
 だけど出来るだけぼろが出ないように喋る回数を減らして、友人達との付き合いも減らした。元々活発な性格じゃないから特に怪しまれる事もなく、人間関係よりも趣味を大切にする友人達のおかげで学生生活も大きなストレスを抱える事なく過ごす事が出来ている。

 季節は梅雨の降る初夏、外は例によって雨。夕方の空はどんよりとした黒と灰色で、この季節のこの時間にしては外が暗く感じる。
 少しだけ開けた窓からは雨の降る音が聞こえる。黄ばんだようなカーテンが風に揺れてたまに窓の隙間から雨粒が入り込んでクラスの誰かの席を濡らす。
 濡れたところで席の所有者は今日はもうこのクラスには帰って来ないだろうし、放っておいたら明日の朝には乾いている。
 風と一緒に入り込んでくる雨の匂いが割と好きだけど肌にまとわりつくような湿気と夏の暑さは好きじゃない。だけど雨のお陰で気温は少しマシ。
 湿気は兎も角として、気温はずっとこうだったら良いのに。
 夏は好きじゃない。薄着になる事も、プールの授業がある事も、夏休みがある事も、僕は好きじゃない。

「ねーちょっと雨やばいんだけど!」

 昇降口の方から雨の音に紛れて聞こえた高い声に意識が向く。
 その声には聞き覚えがあった。高過ぎず低過ぎない、それでいて良く響く運動部の女子の声だ。その後からの声は聞こえないが、偶に女子の声が聞こえるからきっと誰かと会話をしているのだろう。
 友人かな、それとも部活の後輩かな。今日は雨だからきっと部活も早く終わったんだろうな。そんな事を思っていたら正門に向かって一つの透明な傘が歩いてくのが見えた。

 透明の傘の下に見える人影は二つ、所謂相合い傘というやつ。
 髪が触れる程の距離なのに男子生徒の肩は少しだけ傘からはみ出ていて濡れているのがわかる。女子生徒の体はすっぽりと傘の中に入っていて濡れている様子は見られない。
 雨のせいもあるのだろうか、二人はゆっくりとした足取りで進んでいく。
 こんな雨なんだから早く帰りたいはずなのに、二人はあえてゆっくり歩くのだ。

 ──ああ、うらやましいな。

 僕もそんな風に愛されたい。誰の目も憚らず相合い傘をして歩いてみたい。そんな親密な距離で、足が濡れることも厭わずに下らない話をしながら帰ってみたい。
 そういうしあわせを、感じてみたい。
 だけどそれが無理だなんて事は僕が一番良く知っている。僕には縁の無いもの、諦めたはずの景色。だけど、たまにどうしようもなくなる時がある。
 どうしようもなく、欲しくなる時がある。

「…僕もああなりたい」
「斉藤好きなやついるの?」
「⁉︎」

 誰にも拾われる事なく消える筈だった言葉なのに、全く予想しなかった返答が来たことに目を見開いて声のした方へと勢いよく顔を向ける。そこにいた人物に僕は今度こそ絶句するのだった。

「あーあの子、可愛いよね。彼氏出来た時割と失恋したやつ多かった」

 なんの躊躇もなく僕の座っている席を追い越して窓際に行った男はまだ正門を抜けてなかった二人組を見て納得したように頷いた。その後思い出したみたいに僕に意識を向けたその人に、喉が狭くなるのを感じた。

 桐生空、17歳。僕と同じクラスの男子生徒で、カースト上位。クラスの中心的人物。

 だけど陽キャという程騒がしい訳じゃ無いし、何かを率先してやるようなタイプでもない。ただ女子受けするくらいには顔が良くて、勉強も運動も軽くこなして見せるいわゆる秀才とか天才タイプ。そんな自分を鼻にかけるような性格でもなくて、レディファーストで、クラスで騒いでる男に見慣れていると別の生き物なんじゃない?って錯覚しそうになる、そんな人。
 その人と何故か今向かい合っていて、僕は静かに混乱していた。

 僕は基本的に放課後学校に残るようにしている。特別部活に入っている訳でも委員会の活動がある訳でもない。ただ家に早く帰りたくないという理由だけで図書室で勉強したり教室でのんびり過ごしている。
 だけど桐生は違う。こいつは常にありとあらゆる場所に引っ張りだこだし、意味もなく放課後残るような事はない。間違いなくこの学校でも上位に食い込むハイスペック男がどうしてここにいるのか意味がわからないまま混乱していると桐生は僕を見て軽く首を傾げた。

「あの子の事好きだったの?」
「え、あ、ちが」

 一年から同じクラスだった桐生と会話をするなんてこれが初めてだった。
 イケメンは声帯まで格好いいのかと僻んでしまいたくなるくらい桐生の声は、なんというかいい声で。でも僕はというとまさか桐生と会話をする事になるなんて全く想定してなくて、咄嗟に出た声は眉を顰めてしまうくらい細くてみっともなかった。

「じゃあもしかして男の方?」

 心臓が嫌な音を立てた。

「違うから‼︎」

 脊髄反射みたいな速度で怒鳴ってしまって、今度は桐生が驚いていた。
 心臓が壊れたみたいにバクバクと脈打っている、きっと今の言葉はただのジョークだ、わかってる。ジョークに決まってる。こんな反応をした方が怪しまれる。どうしよう間違えた、どうしよう、どうしよう、今ので僕が普通じゃないってバレたら。
 乱れそうになる呼吸を必死に堪えながらもう桐生の方を向いていられなくて目線を机に下ろす。どうか僕が俯いている間に興味を無くして出ていってくれ、そう願ったのに神様はどうにも僕に冷たい。

 桐生が歩き出す。
 席の前で足が止まるのがわかって背中に嫌な汗が流れた。
 そのまま桐生は僕の肩に両手を置いた。
 ああ、終わった。僕は漠然とそう思った。
 きっと僕はこれから桐生によってゲイであることを追求されて穏やかだった学校生活が崩壊していくのだ。でも不登校になったら親にまでバレてしまうから学校に来ないという選択肢は無いし、誰かに相談するなんて事もできない。
 終わった、もう一度、今度は確証を持って胸中で呟いた。

「…じゃあ、女の子になりたいってこと…⁉︎」

 ──…。

「は? ひぃっ」

 理解不能な言葉に思わず顔を上げた先に見えたのは桐生のご尊顔、の筈だった。
 思いの外近い距離にあった桐生の顔は整っている。肌も綺麗だし少し眺めの茶髪がさらりと揺れて心なしかいい匂いもする。鼻だってすっと高いし唇の形だって良くてとりあえず全てにおいて完成されたパーツなのに、頬は何故だか赤らんでいるし鼻息もちょっと荒い。極め付けは目が見開かれていて若干血走っている。
 異様と言っていい表情に、僕は素直にビビっていた。

「ああなりたいって事はさ、斉藤は女子の、女の子の格好に興味があるって事だよね…⁉︎」

 正直何を言っているのかさっぱりわからない。
 わからないけれど桐生が真剣かつ高揚している事はわかる。掴まれた肩が地味に痛い。

「マジか、マジか、まさかこんなところに理解者がいるなんて」

 多分きっと僕は絶対に理解者じゃない。
 でもここで「いえ違います」なんて言える程僕は肝が座っている訳でもなければこの状況を打開する事が出来る策が練れる程優秀でもない。
 だけど今ここで「はいそうです」と言ってしまえばそれはまた大変な事になる。僕みたいな陰キャに女装願望があるなんて事故もいいところだ。一生消えない傷になる。ただでさえゲイであるという負い目があるのにその上女装趣味はちょっともう背負えない。

「…え、もしかして、違う…?」

 どうしたものかと悩んでいた僕の両肩を掴んでいる指から少し力が抜けた。
 はっとして意識を桐生に戻し、表情を見た途端僕は無意識にこう言っていた。

「違わないっ」

 あれ、と思考と行動の乖離に違和感を覚えているのに口は勝手に動く。

「じ、実は興味があって、でも、ほら、僕はこんな見た目だし、そういうの認めるのも、ほら、なんか怖いし、だから、その」

 桐生の綺麗な目が僕をじっと見ている。この言葉に嘘がないのか、それが本心なのか探ろうとするような、そんな目だと思った。その視線の強さに僕は早々に白旗を上げて頑張って発していた声は徐々に小さくなって最後はもうほとんど聞こえなくなっていた。
 ああどうしよう、こんな時、ちゃんと普通の人だったらどう返すんだろう。
 どうしたらいいんだろう。
 答えの無い問いが脳を占拠しかけたその時、肩から離れた手が僕の両手を握った。
 恐る恐る顔を上げてみると、そこにいたのはさっきみたいに目を血走らせた桐生ではなくて、ちゃんとイケメンの桐生だった。というかそれよりも手を握られている状況がやばい。手汗がとんでもない勢いで分泌されてしまう気がする。引いていた汗も再び背中を流れたし、心臓だってバクバクと脈打っているまま、顔だって熱くなっている気がする。

「あの、その」
「じゃあ俺の家行こうか」
「なんて?」

 顔の熱も瞬時に引っ込んだ。

「俺の家、行こう。ブツは揃ってるからさ」

 言うが早いか桐生はそのまま僕の手を引いて立ち上がらせた。
 突然の事すぎて全く理解が出来ていない僕を置いて桐生は二人分の荷物を持って教室のドアから出て行こうとする。桐生は僕よりも頭ひとつ分は背が高い。それは桐生の背が高いという事もあるが単純に僕の背が低いからというのもある。
 そして僕は運動が苦手な陰キャで、桐生はどの部活にも属していないけれどどの部活からも助っ人を頼まれるくらいの運動神経の持ち主だ。
 つまり筋肉量も驚くくらい負けている。

「ちょ、ちょっと待って桐生…!」
「待たないよ、時間は有限だし、俺今すごいわくわくしてる。斉藤は傘とか持って来てる?」

 普通に手を握られていたはずなのに今はもう桐生の手が僕の右手首を掴んでいる。絶対に逃さないという強い意志を感じる力加減と有無を言わせない言葉の強さに僕は魚みたいに口をパクパクさせていた。
 悔しいくらいのコンパスの差があって僕は駆け足気味なのに桐生は優雅に歩いている。ゴリラも顔負けな力で僕の手首を掴みながら。

 ああクソ。
 今が放課後で、そして雨が振ってくれていて良かった。
 そのおかげで校舎にも外にもほとんど人が居ないからこんな姿を見られずに済む。
 足の速さに息が上がる。やっぱり桐生は問答無用で僕を引っ張って行って、傘を持っていない僕を同じ場所に入れてくれた。

 でもさっき窓から見たカップルみたいに足取りは全然ゆっくりじゃなくて、ここでも桐生のペースに合わせないといけないから足元はすぐにぐちゃぐちゃになった。だけどさすがに息を切らすとわかってくれたのかペースが遅くなって「ごめん」そう呟かれたけどその頃の僕はもうただ頷くことしか出来なかった。
 傘に弾ける雨の音を聞きながら肩の触れる距離で一緒の道を歩く。
 会話は当然のように無かったけど、今でも飲み込めていないこの状況が実は少し嬉しかったりした。

「やっぱり最初はセーラーかな」

 前言撤回。全然嬉しくない。