自覚したのはいつだっただろう。違和感というか、自分が周りと違うんだと朧げに理解したのは小学生の頃だった。学年が上がるにつれて女子は大人びて行き、男子はそれよりもゆっくりではあるがあからさまに女子を意識し始める。
それまで一日ゲームや漫画、アニメの話で盛り上がっていた友人が目に見えて女子の方に目線を向けるようになった。やめたら良いのに大きな声で話したり、体育の時に無駄に張り切ったり、女の子にちょっかいをかけるようになった。
「…あの子かわいいよな」
幼馴染に当たる友人からそう耳打ちされて視線を巡らせた先にいた女の子は確かに可愛かった。ふわっとした色素の薄い茶色の髪も、高学年になって急にすらっとした白い手足も、鈴が転がるような声も、笑った時に少し見える八重歯も、全部が可愛かった。
「…うん、可愛い」
「だよな! ああいう子ってさ、もうカレシとかいるのかな」
カレシ、かれし、彼氏。小学生だった僕はその言葉を理解するのに時間が掛かった。でもその言葉がレンアイを指すのだというのを僕はぼんやり理解していた。
「カレシになったらさ、やっぱ、すんのかな。き、キスとか!」
頬を紅潮させて問いかけてくる友人を見ながら僕はその時自分が想像した事に背筋が凍ったのを今でも覚えている。
「……するんじゃないかな」
僕はその時、男の人とキスをする自分を想像した。
それが『普通』ではないなんて事小学生ながらに理解出来た。
だから僕は自分の異常をずっと隠しておこうと思った。でも自分の事を知らないままにしておくなんて出来なくて、僕は細心の注意を払ってネットで調べた。
すると、僕と同じような人が沢山いる事が分かった。
僕は同性愛者らしい。
漠然とした理解に僕は開いていたタブを閉じた。そうか、僕は同性愛者なのか。そう口の中で呟くけれど心の奥底には響いてはこない。現実味が無かったんだと思う。
だって僕の家には僕の両親が居て、長期の休みになれば祖父母が会いに来たり会いに行ったりする。親戚の集まりだってある。
そこでは当然のように男女が愛し合って、その結果僕達子供が生まれている。
それがきっと正しい世界の姿なんだろうなと思っていたし、女の子に恋愛感情なんて抱いた事も無いのに、ただ漠然と「僕もいつかこうなるんだろうな」と思っていた。
でもそれが打ち砕かれたのはある日の夕飯時にテレビから流れてきたニュースだった。
『本当に嬉しいです』
『こういう形もあるんだって、少しでも世間の人に知って貰えたら』
画面に映ったのは白いタキシードを着て、言葉通り嬉しそうに笑っている男性が二人。テロップには『同性婚に密着』の文字。
あまりの衝撃に持っていた箸を落としたのを覚えている。
男同士でも結婚できる! インターネットだけの言葉じゃなくて、今こうして、僕の目の前で、男性同士が愛を誓い合っている!
幸せそうな二人の姿は宗教画みたいだった。それくらい神聖で、綺麗なものだった。
こうやって結ばれる二人がいる。現実にいるのなら、きっと僕だって──
「理解出来ん。母さんチャンネル変えてくれ」
「素敵な事だと思うけど、自分に置き換えると複雑な問題よねー」
あら今日歌番組の特集があるわ、どうしたのお箸新しいのに変えて来なさい。
その日どういう風に両親と会話をしたのか覚えてない。
だけど僕はその日もう一度再認識したんだ。
僕の性的嗜好は『普通』じゃないんだって。
斉藤雪穂、17歳。高校2年、男子。
自分の性的嗜好を理解して、そして死ぬまで隠し通すと決めて数年が経った。
早い段階で自分が同性愛者だと気が付いて、それを隠そうと躍起になったおかげで今でも友人はおろか家族にもバレていない。
だけど出来るだけぼろが出ないように喋る回数を減らして、友人達との付き合いも減らした。元々活発な性格じゃないから特に怪しまれる事もなく、人間関係よりも趣味を大切にする友人達のおかげで学生生活も大きなストレスを抱える事なく過ごす事が出来ている。
季節は梅雨の降る初夏、外は例によって雨。夕方の空はどんよりとした黒と灰色で、この季節のこの時間にしては外が暗く感じる。
少しだけ開けた窓からは雨の降る音が聞こえる。黄ばんだようなカーテンが風に揺れてたまに窓の隙間から雨粒が入り込んでクラスの誰かの席を濡らす。
濡れたところで席の所有者は今日はもうこのクラスには帰って来ないだろうし、放っておいたら明日の朝には乾いている。
風と一緒に入り込んでくる雨の匂いが割と好きだけど肌にまとわりつくような湿気と夏の暑さは好きじゃない。だけど雨のお陰で気温は少しマシ。
湿気は兎も角として、気温はずっとこうだったら良いのに。
夏は好きじゃない。薄着になる事も、プールの授業がある事も、夏休みがある事も、僕は好きじゃない。
「ねーちょっと雨やばいんだけど!」
昇降口の方から雨の音に紛れて聞こえた高い声に意識が向く。
その声には聞き覚えがあった。高過ぎず低過ぎない、それでいて良く響く運動部の女子の声だ。その後からの声は聞こえないが、偶に女子の声が聞こえるからきっと誰かと会話をしているのだろう。
友人かな、それとも部活の後輩かな。今日は雨だからきっと部活も早く終わったんだろうな。そんな事を思っていたら正門に向かって一つの透明な傘が歩いてくのが見えた。
透明の傘の下に見える人影は二つ、所謂相合い傘というやつ。
髪が触れる程の距離なのに男子生徒の肩は少しだけ傘からはみ出ていて濡れているのがわかる。女子生徒の体はすっぽりと傘の中に入っていて濡れている様子は見られない。
雨のせいもあるのだろうか、二人はゆっくりとした足取りで進んでいく。
こんな雨なんだから早く帰りたいはずなのに、二人はあえてゆっくり歩くのだ。
──ああ、うらやましいな。
僕もそんな風に愛されたい。誰の目も憚らず相合い傘をして歩いてみたい。そんな親密な距離で、足が濡れることも厭わずに下らない話をしながら帰ってみたい。
そういうしあわせを、感じてみたい。
だけどそれが無理だなんて事は僕が一番良く知っている。僕には縁の無いもの、諦めたはずの景色。だけど、たまにどうしようもなくなる時がある。
どうしようもなく、欲しくなる時がある。
「…僕もああなりたい」
「斉藤好きなやついるの?」
「⁉︎」
誰にも拾われる事なく消える筈だった言葉なのに、全く予想しなかった返答が来たことに目を見開いて声のした方へと勢いよく顔を向ける。そこにいた人物に僕は今度こそ絶句するのだった。
「あーあの子、可愛いよね。彼氏出来た時割と失恋したやつ多かった」
なんの躊躇もなく僕の座っている席を追い越して窓際に行った男はまだ正門を抜けてなかった二人組を見て納得したように頷いた。その後思い出したみたいに僕に意識を向けたその人に、喉が狭くなるのを感じた。
桐生空、17歳。僕と同じクラスの男子生徒で、カースト上位。クラスの中心的人物。
だけど陽キャという程騒がしい訳じゃ無いし、何かを率先してやるようなタイプでもない。ただ女子受けするくらいには顔が良くて、勉強も運動も軽くこなして見せるいわゆる秀才とか天才タイプ。そんな自分を鼻にかけるような性格でもなくて、レディファーストで、クラスで騒いでる男に見慣れていると別の生き物なんじゃない?って錯覚しそうになる、そんな人。
その人と何故か今向かい合っていて、僕は静かに混乱していた。
僕は基本的に放課後学校に残るようにしている。特別部活に入っている訳でも委員会の活動がある訳でもない。ただ家に早く帰りたくないという理由だけで図書室で勉強したり教室でのんびり過ごしている。
だけど桐生は違う。こいつは常にありとあらゆる場所に引っ張りだこだし、意味もなく放課後残るような事はない。間違いなくこの学校でも上位に食い込むハイスペック男がどうしてここにいるのか意味がわからないまま混乱していると桐生は僕を見て軽く首を傾げた。
「あの子の事好きだったの?」
「え、あ、ちが」
一年から同じクラスだった桐生と会話をするなんてこれが初めてだった。
イケメンは声帯まで格好いいのかと僻んでしまいたくなるくらい桐生の声は、なんというかいい声で。でも僕はというとまさか桐生と会話をする事になるなんて全く想定してなくて、咄嗟に出た声は眉を顰めてしまうくらい細くてみっともなかった。
「じゃあもしかして男の方?」
心臓が嫌な音を立てた。
「違うから‼︎」
脊髄反射みたいな速度で怒鳴ってしまって、今度は桐生が驚いていた。
心臓が壊れたみたいにバクバクと脈打っている、きっと今の言葉はただのジョークだ、わかってる。ジョークに決まってる。こんな反応をした方が怪しまれる。どうしよう間違えた、どうしよう、どうしよう、今ので僕が普通じゃないってバレたら。
乱れそうになる呼吸を必死に堪えながらもう桐生の方を向いていられなくて目線を机に下ろす。どうか僕が俯いている間に興味を無くして出ていってくれ、そう願ったのに神様はどうにも僕に冷たい。
桐生が歩き出す。
席の前で足が止まるのがわかって背中に嫌な汗が流れた。
そのまま桐生は僕の肩に両手を置いた。
ああ、終わった。僕は漠然とそう思った。
きっと僕はこれから桐生によってゲイであることを追求されて穏やかだった学校生活が崩壊していくのだ。でも不登校になったら親にまでバレてしまうから学校に来ないという選択肢は無いし、誰かに相談するなんて事もできない。
終わった、もう一度、今度は確証を持って胸中で呟いた。
「…じゃあ、女の子になりたいってこと…⁉︎」
──…。
「は? ひぃっ」
理解不能な言葉に思わず顔を上げた先に見えたのは桐生のご尊顔、の筈だった。
思いの外近い距離にあった桐生の顔は整っている。肌も綺麗だし少し眺めの茶髪がさらりと揺れて心なしかいい匂いもする。鼻だってすっと高いし唇の形だって良くてとりあえず全てにおいて完成されたパーツなのに、頬は何故だか赤らんでいるし鼻息もちょっと荒い。極め付けは目が見開かれていて若干血走っている。
異様と言っていい表情に、僕は素直にビビっていた。
「ああなりたいって事はさ、斉藤は女子の、女の子の格好に興味があるって事だよね…⁉︎」
正直何を言っているのかさっぱりわからない。
わからないけれど桐生が真剣かつ高揚している事はわかる。掴まれた肩が地味に痛い。
「マジか、マジか、まさかこんなところに理解者がいるなんて」
多分きっと僕は絶対に理解者じゃない。
でもここで「いえ違います」なんて言える程僕は肝が座っている訳でもなければこの状況を打開する事が出来る策が練れる程優秀でもない。
だけど今ここで「はいそうです」と言ってしまえばそれはまた大変な事になる。僕みたいな陰キャに女装願望があるなんて事故もいいところだ。一生消えない傷になる。ただでさえゲイであるという負い目があるのにその上女装趣味はちょっともう背負えない。
「…え、もしかして、違う…?」
どうしたものかと悩んでいた僕の両肩を掴んでいる指から少し力が抜けた。
はっとして意識を桐生に戻し、表情を見た途端僕は無意識にこう言っていた。
「違わないっ」
あれ、と思考と行動の乖離に違和感を覚えているのに口は勝手に動く。
「じ、実は興味があって、でも、ほら、僕はこんな見た目だし、そういうの認めるのも、ほら、なんか怖いし、だから、その」
桐生の綺麗な目が僕をじっと見ている。この言葉に嘘がないのか、それが本心なのか探ろうとするような、そんな目だと思った。その視線の強さに僕は早々に白旗を上げて頑張って発していた声は徐々に小さくなって最後はもうほとんど聞こえなくなっていた。
ああどうしよう、こんな時、ちゃんと普通の人だったらどう返すんだろう。
どうしたらいいんだろう。
答えの無い問いが脳を占拠しかけたその時、肩から離れた手が僕の両手を握った。
恐る恐る顔を上げてみると、そこにいたのはさっきみたいに目を血走らせた桐生ではなくて、ちゃんとイケメンの桐生だった。というかそれよりも手を握られている状況がやばい。手汗がとんでもない勢いで分泌されてしまう気がする。引いていた汗も再び背中を流れたし、心臓だってバクバクと脈打っているまま、顔だって熱くなっている気がする。
「あの、その」
「じゃあ俺の家行こうか」
「なんて?」
顔の熱も瞬時に引っ込んだ。
「俺の家、行こう。ブツは揃ってるからさ」
言うが早いか桐生はそのまま僕の手を引いて立ち上がらせた。
突然の事すぎて全く理解が出来ていない僕を置いて桐生は二人分の荷物を持って教室のドアから出て行こうとする。桐生は僕よりも頭ひとつ分は背が高い。それは桐生の背が高いという事もあるが単純に僕の背が低いからというのもある。
そして僕は運動が苦手な陰キャで、桐生はどの部活にも属していないけれどどの部活からも助っ人を頼まれるくらいの運動神経の持ち主だ。
つまり筋肉量も驚くくらい負けている。
「ちょ、ちょっと待って桐生…!」
「待たないよ、時間は有限だし、俺今すごいわくわくしてる。斉藤は傘とか持って来てる?」
普通に手を握られていたはずなのに今はもう桐生の手が僕の右手首を掴んでいる。絶対に逃さないという強い意志を感じる力加減と有無を言わせない言葉の強さに僕は魚みたいに口をパクパクさせていた。
悔しいくらいのコンパスの差があって僕は駆け足気味なのに桐生は優雅に歩いている。ゴリラも顔負けな力で僕の手首を掴みながら。
ああクソ。
今が放課後で、そして雨が振ってくれていて良かった。
そのおかげで校舎にも外にもほとんど人が居ないからこんな姿を見られずに済む。
足の速さに息が上がる。やっぱり桐生は問答無用で僕を引っ張って行って、傘を持っていない僕を同じ場所に入れてくれた。
でもさっき窓から見たカップルみたいに足取りは全然ゆっくりじゃなくて、ここでも桐生のペースに合わせないといけないから足元はすぐにぐちゃぐちゃになった。だけどさすがに息を切らすとわかってくれたのかペースが遅くなって「ごめん」そう呟かれたけどその頃の僕はもうただ頷くことしか出来なかった。
傘に弾ける雨の音を聞きながら肩の触れる距離で一緒の道を歩く。
会話は当然のように無かったけど、今でも飲み込めていないこの状況が実は少し嬉しかったりした。
「やっぱり最初はセーラーかな」
前言撤回。全然嬉しくない。
普段であればまだ学校にいる時間に、僕はいつもと違う場所に来ていた。否、最早放課後の大体はここに来ていると言っても過言ではないような気さえする。
僕の部屋の倍の広さはあるそこは落ち着いた色合いでまとめられているし、ソファも机もベッドも高校生男子が使うものにしては大きくて高級感がある。でも本棚には最近流行りの漫画やちょっと懐かしい漫画もあって親近感も湧くのだが、もうそんな親しみを覚えるという次元に僕の心は無かった。
「いいよ! いいよ斉藤! もうちょっと恥じらう感じで!」
「………コウデスカ」
「最高!」
無駄に広く整えられた部屋のやけに掃除が行き届いたフロアの上で僕は今メイド服を着て座っている。ふわりとした生地が床に綺麗に広がって、そこから僕の生足が出ている。靴なんて履いていない。
「さいっこうだな、その踝の骨っぽさと斉藤の足の細さと白さが最高過ぎる。逸材だよお前」
「こんなに嬉しくない褒め言葉初めてだよ僕は」
「照れんなって」
「桐生の脳味噌どうなってんの。僕は今お前にどう写ってんの」
「最高に可愛い」
初めて聞いた時はちょっとドキッとしたこの言葉も今となっては最早無である。
桐生の手に持たれているのはお高そうなちゃんとしたカメラだ。最初は普通にスマホでの撮影だったのに「斉藤の才能はこんな物で納めちゃいけない」なんて意味のわからない事を言い出して、それっぽい撮影環境が出来上がってしまっていた。
そう、桐生は実家も太いのだ。
初めて来た時僕は驚愕した。玄関は大理石だしそもそも玄関が広いしなんか見るからに高そうな絵とか飾ってあるしいい匂いもした。住む世界が違うというのはきっとこういう事なんだろうと漠然と思った。
「って、何してんのなんで近付いて来るの!」
「メイド服で上目遣いは男のロマンだろ」
何言ってんだコイツみたいな顔で見下ろしてくる桐生にビキ、と額に青筋が浮かぶ。
「顔は撮るなって言ってんじゃん!」
「それ最初から言ってるけどさ、そろそろ良くない? 斉藤は顔も綺麗だし」
「僕は! 男です!」
「でも女装興味あったんだろ?」
「グゥ…っ」
曇りの無い目で見つめられて僕は下唇を強く噛んだ。
そう、僕はあの日の言葉を未だに撤回出来ていないのだ。あの雨の日、意味が分からないまま連れて来られた僕はあれよあれよという間にセーラー服に着替えさせられ撮影会が始まった。
止まらないシャッター音と興奮した桐生の息遣いとかっ開かれた目。僕はあの日から桐生をイケメンだと思うことをやめた。
「唇噛むなって」
ふわ、と温かいものが口元に触れる。それが桐生の指だと理解するのに時間は要らなかった。桐生の人差し指の背が僕の噛み締められた唇に触れる。
ただでさえ近いのに、桐生は今僕の目の前に片膝を着いている状態で、表情も言葉と連動していて少しキリッとしていて、まるで──
「きっ、気安く触ってんじゃねえぞお!」
バシン、と桐生の手を叩き落とす。
危なかった、イケメンオーラに呑み込まれるところだった。これだからイケメンは。
僕は深く大きく息を吐いて気分を落ち着かせて改めて桐生を見る。
そこには頬を紅潮させて悦ぶそいつがいた。
「きもっ」
「待ってそういうのも興奮するから手加減して欲しい」
「ほんっとうにきもいなお前‼︎」
──この男、桐生空は、僕が思っていた以上の変態だ。
遡ること数日前。
怒涛のセーラー服での撮影が終わった頃だ、僕は非常に疲れていた。
学校から桐生の家までそれ程の距離は無かったが、それでも雨足が強かったせいで足元どころか下半身はどうしようもない程ぐちゃぐちゃだった。これで家に上がるのは申し訳ないと帰ろうとした僕を桐生が引き止め、あっという間に制服を乾燥機に突っ込まれてその代わりにセーラー服を流れるように差し出されて撮影が始まった。
撮影、というか桐生が満足するまでに制服は乾かなくて、僕はセーラー服のままソファに座っていた時だ。
「ていうかさ」
「ん?」
「女装が好きなら桐生が自分で着て自分で撮れば良くない?」
その段階で僕はもう桐生は女装が好きなんだというのを骨の髄まで理解していた。
なぜなら撮影する桐生は普段学校で見るクールな印象とは一変してどこからどう見てもオタク気質の変態だったから。
「…ねえそのおぞましい物を見るような目やめてよ。違うじゃん、その目は僕がお前に向けるべき物であってお前が僕に向けるべき物じゃ無いんだよ」
「いやだって常識的に考えて俺が女装するのは気持ち悪いだろ」
「桐生の口から常識って言葉が出てきて僕はびっくりしてるよ」
はあ、と溜息を吐いてソファの背もたれに体重を預ける。ふかふか過ぎるソファは深く腰掛けただけで尻が埋まってしまいそうな感覚になるが、その分フィット感があって心地良い。
「…ていうか、なんで女装が良いわけ? 桐生なら普通に女の子釣り放題」
「男だから良いんだよ」
「…はい?」
「女子が女子の服着てたって普通だしエロくもなんとも無いけど、斉藤みたいな男が女子の服着てるのはエロいと思う。俺が自給自足しないのは俺の体が男過ぎるからっていうのと俺自身に女装願望がある訳じゃないから。俺は斉藤みたいな線の細い華奢なやつが女装してるのが好き。やっぱ骨格の差なんだろうな、女子にも斉藤みたいな体型のやつって結構いるけど、こんな風に骨が出たりはしてない。パーツがちゃんと男ってしてるのが良い。ぱっと見女子だけどそうじゃないっていうのが良いんだよな、なんかこう、秘密の扉を開けてるみたいな感じがしてすごいクる」
ソファに沈む僕の前に座った桐生が僕の足を持つ。ただでさえ理解に時間の掛かる言葉を浴びて混乱気味なのに、そんな僕にお構い無しと言わんばかりにスカートを少し捲って、膝を撫でる。
その動きが、なんというかすごくいやらしくて、僕は思わず奇声を上げながら桐生を蹴り飛ばした。
「うおああああ!」
「ぐふっ」
「こ、この、このど変態がっ! 好きなのはわかったけど、なんで服とかあるんだよ! おかしいだろ!」
「来るべき日の為に一通り揃えてる。無駄にならなくて良かった」
「ご両親とかになんて説明してんだよお前はさぁ…!」
「自分でいうのもなんだけど俺の親俺の事信用しすぎなんだよね」
「でしょうね…‼︎」
もう一度大きな溜息を吐いて僕は天井を仰いだ。天井は白くて、なんだか海外にありそうな模様が描かれている。
「ねえ斉藤」
「あー?」
「その格好エロいね」
「は?」
顔を元の位置に戻すのとスマホのシャッター音が聞こえたのは同じか、音の方が少し早かったくらい。
「その丈のスカートで体育座りってすげえ無防備。でもそれが女装って感じがして良い。あ、そうやってマジで女子がするみたいに手で隠すのも男だからエロいっていうのある。あと、変態って言うんだったら斉藤も同じじゃない?」
女の子の格好したかったんでしょ?
うっとり、そんな言葉がぴたりと嵌る顔で笑って首を傾げた姿に僕は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。羞恥と怒りとがマグマみたいに腹の奥で噴き出て唇が震える。
違う、と言いたかった。僕は別に女装趣味なんかじゃない。
だけどそれを口に出す事なんて出来ないし、激情のまま喚き散らすなんて事も出来なかった。
「…一緒にするな、バカ桐生」
精一杯の悪態に桐生はきょとんとした後に楽しそうに笑った。「斉藤って意外と口悪いよね」楽しげに言って桐生は乾燥機見てくると部屋から出て行った。
「本当に、一緒にするなよ」
小さく呟いた声は今度こそ誰にも拾われる事なく、綺麗な部屋に吸い込まれた。
週に多くて三回あるど変態撮影会が無い日の放課後は至って平和だ。
突如煮込まれたカレーくらいの濃度のある非日常がやってきた訳だけれど、それさえなければ僕の生活は非常に静かなものなのだ。
学校で話しかけて来る人も片手で足りるし、部活にも委員会にも所属していないからたまにあるイレギュラーは日直くらい。僕は元々一人でいる方が気楽な方だし、一人で食べるご飯にもほとんど抵抗は無い。
体育やグループ学習の時もぼっちにならない程度の交流はクラスの人達と取っているおかげもあって孤独感に苛まれた事もない。うん、我ながら上出来だ。
家にも帰りたくない。かといってこれといった趣味もない僕が時間を潰す事と言えば勉強と読書と音楽を聴くことくらい。だけどそのどれかに特出するような事もなくて、至って平凡。テストでは平均点より上を取るけど、上の下くらい。
どこにでもいる普通の人に、きっと僕はなっている。
今日は雨が降っていない。7月の夕方ともなれば外はまだ全然明るくて、空に掛かる橙色がとても綺麗に見える。図書館にももう人はいなくて、残っているのは僕みたいに勉強をしている人か図書委員会の人だけだ。
確かにそこに人がいるのに、図書室という性質上音が混ざっても静かな空間が僕は好きだ。
ペンが走る音、ページを捲る音、開いた窓から風が入り込んでカーテンを揺らす音。吹奏楽部の音、外で活動している運動部の声、そこにたまに混ざる演劇部の発声練習の声と、生徒が帰宅している声。
静かだけど沢山の音が混ざり合う空間が好きだ。
ガララ、図書室の扉が開いた音がした。時間はもう夕方で、こんな時間に新しく誰かが来るのは珍しい。先生だろうか、それとも誰かの友人だろうか。部活が終わって迎えに来たという可能性が一番高いか。
そう思考しながら教科書に目を通しているとふと、ページに影が掛かった。
「勉強してんの?」
「!」
聞き覚えのある声に顔を上げ、僕は目を見開いた。
「そんな驚く? てかスマホに連絡したじゃん、見てないの?」
桐生が首を傾げた拍子に茶髪がさらりと流れる。癖なんて一つもない綺麗な髪が蛍光灯に照らされていて、そんな仕草一つですらイケメンなそいつに僕の眉間には深い皺が寄る。
「そんなのいちいち見てない。なんの」
想像すらしていなかった桐生の登場につい普段通りの声量で言葉を発してしまい中途半端なところで口を噤む。一瞬の時間があれば途端に冷静になれるもので、数こそ少ないが確実に図書室にいる全員の注意を引いている事に気がついて無性に頭を掻きむしりたくなった。
「〜〜、出よう、桐生」
「勉強は?」
「良い。今日の分はもう終わってる」
いかにも真面目そうな生徒達の視線は相変わらずノートや参考書に注がれているが意識は自分達に向いている事が嫌でもよく分かる。こんな好奇の目に晒された状態で歩く電光掲示板みたいな男と話す気にはとてもじゃないけどなれない。
出来るだけ急いで、でも大きな音は立てずに鞄に教科書達をしまい込んで席を立つ。
図書室を出る時も興味津々といった視線を背中に感じるのは僕が人のそういう感情に敏感だから。この感覚は自意識過剰なんかではないと言い切れる。
自分がゲイだと自覚した日から僕はとにかく人に変に思われないように生きてきた。どんな発言、どんな立居振る舞いをすれば「普通」なのかをきっとこの学校の誰よりも考えている。だからこそわかるのだ、斉藤雪穂というありふれた、むしろ目立たない人間と、桐生空という羨望の眼差しを向けられる人間が一緒にいる事がどれほど異質で、人の興味を引くのか。
「…僕、学校では話しかけないでって言ったよね」
図書館からある程度離れ、人の気配もしなくなった廊下で立ち止まる。
溜息混じりに振り返ると桐生は意味わからないとでも言いたそうな顔で僕を見ていた。その危機感のない表情に少し苛立ちを覚えながら少し深く息を吸い込む。
「桐生みたいな派手なやつと僕が一緒にいたら目立つ。僕は目立つのが嫌い。だから近づくなって言ってるの。ここまでは理解できる?」
「理解できるけどそれは斉藤の都合でしょ、俺には関係なくない?」
「僕がいやだって言ってるんだから納得しろよ」
「なんで嫌なの?」
「目立ちたくないからだって言ってるじゃん。何、お前の耳は飾りですか」
「でも俺は斉藤と学校でも話したい」
ぐ、と喉の奥が狭くなるような感覚がした。それと一緒に心臓がどくりと大きな音を立てて少し早くなる。その感覚がとても嫌だ、自分が酷く惨めになるから。
「…桐生は僕じゃなくても話せるやつはいくらでもいるでしょ」
「俺は斉藤と話したいって思ってるんだけど」
「僕はそうじゃない。お前の意見だけを押し付けないでよ」
「斉藤だってそうだろ。俺がお前の意見だけ聞くのはフェアじゃない」
もっともらしい言葉に喉が詰まる。眉間に深く皺が寄って唇がへの字に曲がるのが自分でもわかった。そんな僕の顔を見る桐生はどこか楽しそうで、その余裕が腹立たしい。
だけど僕はここで大声を上げて喚き立てる訳にはいかなかった。そしてこれ以上食い下がる事が「普通」ではない事もわかっていた。
「……人がいるところでは話しかけないで。用があったらスマホに連絡して、出来るだけ見るようにするから」
「うん、それなら俺も納得出来る。今度からそうするね」
ありがとう。嬉しそうに笑う桐生から僕は目を逸らして止まっていた足を前に動かした。
「斉藤ってどの教科が得意なの? 俺は得意っていうのなくてさ、なんか満遍なくやる感じ」
「…現国とか」
「眼鏡なのに文系なんだ」
「文系でも眼鏡はいるだろうが」
「確かに。古典のスガミチ眼鏡だったわ」
人の気配のしない廊下に夕方のオレンジの光が差し込む。
早歩きの僕とは対照的に桐生の足取りは優雅だ。それなのに距離は広がるどころか縮まっていて、これがコンパスの差かと悔しさに奥歯を噛み締める。だけど僕の悔しさなんて桐生にわかるはずが無くてあっという間に昇降口に着いてしまった。
廊下と違ってまだ若干の人の気配がある事にまた溜息を吐いて少し後ろを見る。
「…まさか一緒に帰るとか言わないよね」
「え、ここまで来たら普通一緒に帰るでしょ」
「桐生と僕の普通は違う。人のいるところでは話しかけるな、これは譲れない」
「…えー…」
「もう撮影会しないよ」
「わかった善処する」
それまでの不満顔はどこへやら、即座に返答した桐生に僕はこめかみを指で揉んだ。
相変わらずの女装への執着に安堵と呆れを同時に感じながらふと思った事があって下足箱に行く前に口を開く。
「なんで僕が図書室にいるってわかったの」
「教室にいなかったから」
「…? そうですか」
いまいち納得出来ない返答だったが掘り下げるのも変だなと思い「ばいばい」と告げて足を進める。
「斉藤」
上履きを脱いで靴に履き替えているとまた桐生に話しかけられ、ぐっと眉間に皺を寄せたまま睨むように顔を向けるとそこにはやっぱり笑顔のそいつがいて僕は面食らう。
「また明日な」
爽やかだとか、綺麗だとか、そんな表現が似合う顔で桐生が笑っている。軽く片手を上げている様はまるでドラマの登場人物かと思うくらい絵になっていて、なるほどやっぱりこいつは住む世界が違う人間だなと思う。
ど変態撮影会なんて僕の夢だと言われた方が余程納得出来るなと思うが、あれが夢じゃないなんて事は自覚済みだ。
「…明日は休みだよバーカ」
手を振り返す事もしっかりとした声量で返す事もせず、僕はほとんど無視みたいな形で学校から逃げるように歩き出した。
歩きながらポケットに入れたスマホが震えたのがわかって取り出すと桐生からのメッセージが入っていた。通知の欄に収まるくらいの短さで書かれた文章は「また月曜日」それだけの文字なのに、また心が跳ねるのがわかった。
だけどそれに気付かないふりをして、僕はまたスマホをポケットにしまう。それに返事はしなかった。
そうして普通の休日を過ごすと思っていた土曜の夜に事件は起こった。
否、実際に事件が起きるのは日曜になるのだが起爆スイッチが押されたのは土曜の夜だ。起爆剤はもちろん桐生である。
僕達の撮影会にこれと言った決まりは無い。あるのは僕の顔を写さない事、学校では極力話しかけない事、この二つくらいだ。その決まりの中に休日は撮影会をしないという決まりはない。決まりは無いが、わざわざ休日にまで撮影会をするという選択肢がそもそも僕の頭には無かった。
けれど桐生の方は違ったようだ。
『明日家来て』
短いメッセージの後に添付されたのは一眼で女物とわかるふんわりとしたワンピース。おまけに靴やバッグまで映り込んでいてトータルコーディネートだってばっちりだ。だが問題はそこでは無かった。
『メイクもしたい』
「ばっっかじゃないの…!」
ご丁寧にやって来たもう一枚の写真にはメイク道具を抱えた桐生の姿が。自撮りでも無加工でも顔が良い事にもう感心すらするのだが、今はそんな場合では無い。僕は激情のまま通話ボタンを力任せにタップした。
「もしも」
「馬鹿じゃないの⁉︎」
「あはは、思った通りの反応で良かった」
「何にも良くないんだけど! ていうかメイクって何。そこまでやるなんて聞いてない」
大きくなりそうな声を潜めて電話口の桐生に抗議する。
「だって今言ったもん」
「お前興味あるのは女装じゃないの」
「いずれはメイクもって思ってたんだけどさ、一昨日斉藤の写真見返してたらもっと可愛くなった格好見たいなって」
「きんもっ」
「すごい、電話でも斉藤のきもいってなんか興奮する」
「ど変態が…!」
僕は薄々わかっていた、こうなった桐生はもう止められない。何を言っても無駄だしほぼ確実に丸め込まれる。だけどすぐに折れるのは癪だし、メイクだってしたくないのは本心だ。僕は男で、女装願望なんて無い。ただ桐生に付き合っているだけなのに、服は愚か顔まで弄られるのは抵抗がある。
「……メイクしたって写真撮らせないんだから意味無いだろ」
「俺の目の保養になる」
「………大体男の化粧なんて」
「知らないの? 最近男でもメイクするんだよ。はいこれ見て」
PCのキーボードを操作する音が止まったと思ったら今度はマウスをクリックする音が聞こえた。言葉尻からしてきっと何かを送って来たのだろうと思い僕もパソコンの前に座りメッセージを確認する。
軽い音で表示されたトーク画面には動画のU R Lが送られてあってなんだか嫌な予感がしつつも僕はそれを開いた。1分もしない動画の中で始まる男性のメイクアップ動画なのだが、あまりにもクオリティが高すぎる。
性別どころか国籍まで変わっているのではと思うようなその技術に僕はあんぐりと口を開けた。
「ね、すごいでしょ。だから斉藤にもやるね」
「これを⁉︎」
「もっと可愛いの」
「お前が?」
「俺が」
じゃあそういうことだから、また明日ね。決定事項として伝えられた言葉に反論する余地もなく切られた通話。耳からスマホを離すと桐生からメッセージが届いていた。
『楽しみ』
やけに可愛らしい名前も知らないキャラクターのスタンプと一緒に送られた単語に青筋が浮かぶ。奥歯を噛み締めつつ、苛立ちのまま考えつく限りの暴言を書くのだが後は送信するだけとなった段階でやはり怖気付いて全文を消す。
結局既読無視という形をとって僕はスマホをベッドに投げ捨てた。
「雪穂―、お風呂入っちゃいなさーい」
やり場のない苛立ちと呆れで深く溜息を吐いていれば階段を上がってくる音が聞こえてそのまま母親から声が掛けられる。
「わかったー」
もうそんな時間かと椅子から腰を上げてリビングに向かう。
桐生とは違い一般家庭の僕の家は平凡で特に目立って高級な物は無いが母が植物が好きな事もあって母がよく居る部屋には観葉植物やドライフラワーが飾られている。リビングのソファに腰掛けて洗濯物を畳んでいる母と、その下で手伝いをしている父。うちは父親も積極的に家事を手伝っていてこの光景も日常だ。
父は風呂上りなのか首から白いタオルを掛けていて白のランニングシャツから覗く腕からはまだほこほこと湯気が立っているように見えた。
「寝巻きちょうだい」
「はいこれね」
「ありがと」
畳まれていたらしいもう随分と前から寝巻き代わりにしているTシャツとハーフパンツを受け取る。リビングから出て浴室に向かい、脱衣所の扉を閉めて服を脱ぐ。
風呂は好きだ。僕はあれこれ考えてしまう癖があって、しかもそのどれもが結構陰気臭くて、つまりネガティブで、正直気分が重くなる。だけど風呂に入っている間はそんな思考から抜け出せて何も考えずにいられる。
無心でいつも通りのルーティーンをこなして湯船に浸かる。肩まで丁度良い温度のお湯に沈んで息を吐き出した。
夏でも僕は湯船に長時間浸かる。今日も今日とて体の芯まで温まってから風呂から上がり、立っているだけでも汗が出る状況の中脱衣場にある扇風機を起動する。
夏は好きじゃない、けどこの瞬間の扇風機の爽快感は好きだ。
濡れた髪を雑にバスタオルで拭いて体についた水滴も拭き取っていく。さて着替えるかとなった段階で僕の息抜きタイムは終了するのだ。
「………」
何故なら急速に現実に戻されるから。
僕の目の前にあるのは有名な青いパッケージのボディミルク。これは両親の物ではなく、正真正銘僕が購入した物だ。
ちなみに僕は乾燥肌などではない。ではなぜ購入したのか、その理由はたった一つだ。
「…クソ、なんでこんなの買ったんだ僕は…!」
悪態を吐きながら蓋を開けて手のひらにミルクを乗せる。それを体に塗り付ける行動のなんと矛盾している事か。
僕がこれを買ったのは、桐生と初めて撮影会をした次の日だ。
無駄だってわかってる。こんな事をしたところで何の意味も無い、虚しい行為だ。だけど僕はこうして風呂上がりに毎日クリームを体に塗っている。
そして今日はきっとこっそり母の化粧水にも手を出すんだろう。
桐生は「普通」だ。僕と同じなんかじゃない。
だけど僕は、少しでも桐生にとって価値のあるモノだと思われたかった。
──
「あら出掛けるの?」
「うん、ちょっと行ってくる。夜には帰るから」
「そう、行ってらっしゃい」
翌日の昼前に家を出た。夏らしい日差しの強さとまとわりつく湿気と蝉の声が煩わしくて無意識の内に眉間に皺がよる。空は青く、太陽はこれでもかと言わんばかりに輝いて、僕の影を濃く道路に映し出していた。
僕は夏が嫌いだ。家に長時間居て親と世間話をするのも苦手だ。でも夏の気温と家での快適な時間を天秤に掛けたらどう考えたって後者に傾く。それに親も僕が夏が嫌いな事を知っているからこんな日の高い内に出掛ける僕を珍しそうに見ていた。
肌を灼くような暑さにうんざりしながら足を進める。
この時ばかりは目に掛かる前髪も、鼻頭に汗をかいた事でズレる眼鏡も鬱陶しい。
「夏なんてなくなれば良いのに…」
年々悪化する地球環境に言っても仕方の無い悪態を吐きながら桐生の家を目指す。
桐生と僕の家はそれなりに距離がある。だから早々にバスに乗り込み運良く空いていた座席に座ってスマホを取り出す。そこに新着メッセージを伝える通知は無く初期設定のまま変えていない待受が映る。ロック画面を顔認証で解除してアプリを開き、桐生のアイコンをタップする。
メッセージは朝に来ていた『昼前に集合』以降何も無い。そこに「今バス乗った。あと15分くらい」送信した途端既読が着いて目を瞠る。暇なのかと思った直後に送られてきたスタンプはまたよくわからないキャラクター。
「こいつ暇なのか…?」
怪訝な顔でスタンプを凝視していると追加で送られたメッセージには『昼飯どっちがいい?』の文字とカップ麺と冷凍食品の写真。迷わず冷凍食品のパスタを選ぶとまたよくわからないスタンプが送られて来た。
『楽しみ。待ってるね』
昨夜も送られた同じメッセージに喉の奥が少し狭くなった。
『とりあえず唇ぷるぷるにしたい』
「キモい」
一瞬感じた苦しさは見事に散って行った。
それからバスに揺られる事10分、桐生の家の最寄りに到着しバスを降りると途端に灼熱が襲って来る。折角引いた汗がまたじわりと滲み出すのを感じながら閑静な街を出来るだけ影を選びながら進んで行く。
桐生の住む地域はいわゆる金持ちが住む土地でどこの家も大きくて立派だ。初めて来た雨の日は周りを見る余裕なんて無かったから二度目の撮影会の時に改めて桐生のボンボン具合に苛ついた。
「神様はあいつに何個も与え過ぎだろ、不公平…でもないか。趣味がど変態だし、まあバランスは取れてる」
バス停から歩く事5分、立派な門構えの屋敷の前に着くとインターフォンに手を伸ばす。僕はこのカメラ機能が苦手だ、どんな顔でその場にいたら良いのか分からなくて無駄にそわそわしてしまうから。
「はーい。今行くから待ってて」
機械越しに聞く桐生の声はいつもと違ってノイズが掛かっている。それから少しして扉が開く音と一緒に桐生が出て来ると手招きされるままに僕も家へと入る。
「お邪魔します」
「いらっしゃい、暑い中ありがとう。とりあえず先に水分補給と飯だな、腹減っただろ丁度昼だし」
来客用のスリッパを借りて桐生の後ろをついて行くと普段ならそのまま桐生の部屋に向かうところを今日はリビングに通された。少し身構えたけれどどうやら桐生の両親は仕事のようで家には桐生しか居ないらしい。
やはりどこもかしこも高級そうな内装に気後れしながらソファに座るとキッチンへと向かった桐生が声を掛けて来た。
「カルボナーラとナポリタンどっちが良いー?」
「カルボ」
「じゃあ俺ナポリターン」
袋を開ける音、それからレンジのブーンという電子音。桐生は口元に緩い笑みを浮かべたまま棚から二つチタン製のマグを取って半分くらいにまで氷を入れて冷蔵庫から出した麦茶を注いだ。
「あ、普通にお茶入れちゃった。ジュースもあるけどどうする?」
「お茶で良い、ありがと」
「いいえー」
口を付けたお茶は当然だけど冷たくて、桐生の家の効果かただの麦茶の筈なのに何だか高級そうな味がした。
出来上がるまで学校の話とかテストの話とかをして時間を潰し、パスタが出来ると二人で並んで食べる。
あの桐生と日曜日に桐生の家で冷食のパスタを食べている。
現実の筈なのにどこか夢なんじゃ無いかと思える不思議な時間を過ごしたが、口に入れたパスタがあまりに熱くて口の中を火傷したからこれは間違う筈もない現実。
だからパスタを食べ終わって、片付けも済んだらする事なんて決まってる。むしろこれの為に呼び出されたのだから、今食べた物は戦う前の腹ごなし、僕的には。
「じゃあ行こっか」
マグに麦茶を注ぎ足して桐生の後に続いて部屋に向かう。
もう何度も足を運んだ桐生の部屋に驚く事は今更無いが、それでも毎回ドアを開けた途端の桐生の匂いには未だに心臓がざわつく。
「…今日は何着るの」
「お、積極的になって来たね斉藤」
「茶化すなら帰るよ」
「はいはい怒らないの。今日は普通の服でーす」
「僕はお前の普通を一切信用してないからな」
「いや今日は本当に普通だって! テーマはデートなんだから!」
「…デート…?」
頭の中では男女が手を繋いで歩いている様子が映し出される。だが僕に想像が出来るのはそこまでで女子がどんな服を着ているのかは皆目見当もつかないし、そもそも興味が無い。ただデートといえばオシャレをするくらいの知識や認識はさすがに僕も持っているから、ああだからかと納得した。
「だからメイクとか言ってたんだ」
「そうそう。やっぱり女装を愛する者として服の次はメイクだよなって思ってさ。ちなみに俺は夏っぽいメイクより断然春っぽいピンクな感じが好き。今日はそれを斉藤にやります」
俄然とやる気を出して目を輝かせている桐生に僕はもうほとんど魂が抜けたみたいな顔をして「ああそうですか」と答えた。
「で、服は?」
「本日はこちらになります」
クローゼットから出されたのは先程の桐生の発言通り、春らしい色彩のワンピースだった。丈は多分膝より少し上くらいで、花のプリントがしてある女子の服に興味がない僕からしてもぱっと見で可愛らしいと思える服。それに白いカーディガンと靴とバッグまで用意してある。
本当にフルで女装させる気満々らしい桐生に僕の顔は一層険しくなった。
「…じゃあ着替える」
「はーい」
もう何度もしているやり取りだからか違和感も無い。否、深く考えたら負けなのだと悟りながら服を脱ぎ始める。
始めはさっぱり分からなかった服の着方も最近慣れたのか手こずらなくなって来たのは悲しい進化だと僕は思っている。
「…斉藤さ、今度ブラも」
「顔面潰すよ」
「殺意高くない?」
どれだけワンピースの丈が短くてもタイツを履かせないのは桐生の趣味らしい。何が楽しくて男の生足なんかと思うが、桐生曰く女装の良さは骨に出るとの事なのでしょうがない。
何度着てもスカートに心許なさを覚えつつカーディガンに袖を通す。靴やバッグは撮影が終わってからで良いだろうと桐生の方に意識を向けると既にスマホを構えていた。
「おい」
「完璧が過ぎるんだよなぁ。斉藤って細いじゃん。それに男の中では身長低い方だし、肌も白いし、何より顔がエロい。眼鏡がミステリアス感を底上げしてるし普段は前髪のせいで表情が良くわかんないのもポイント高い。斉藤が女装で裏垢とかしてなくてよかったって俺ほぼ毎日思ってるんだよね。お前の存在はこの界隈では本当他の追随を許さないくらいに圧倒的だからとりあえず一回ポーズ取ってもらって良い?」
「うるさいど変態。メイクはどうした」
「ビフォーアフターって大事」
「顔は撮らせないから意味無い。スマホ向けんな」
溜息混じりにカメラ部分に手を被せるとようやく桐生はスマホを下ろす。
こいつの目に僕のことがどう写っているのかは定かでは無いが、僕は桐生にとって良い素材なんだろうなとは思う。僕は自分の顔も体型も特に嫌いでもなければ好きでも無い。だけど、桐生にとってはそうではなくむしろ好ましい部類に入るのはもう認めざるを得ない。
ちなみに女装した状態を鏡で何度か見たがまあそこら辺にいそうだな、という印象だった。漫画やアニメでよく見掛ける没個性のモブ。服装がどう変わろうが僕という個性は変わらないのだからそんな評価が妥当だろう。
「よし、じゃあこっちおいで。今から斉藤を大変身させるからさ」
「もう好きにして」
たった数歩の距離なのに桐生は僕の手を握って普通の椅子に案内した。座り心地はいいが足が若干浮いてしまうのが悔しい。
「眼鏡外しまーす。ついでに前髪もあげまーす」
それくらい自分でやると言おうにももう桐生の手が僕の眼鏡を外してしまった。途端に世界の輪郭が曖昧になってはっきり見ようとして両目を細めて眉間に皺が寄る。
「顔が凶悪犯みたいになってるよ斉藤」
「目が良いやつには今の僕の視界不良具合はわからないよ。雨の日裸眼で外出たら周りイルミネーションみたいなんだぞ。あと月がめちゃくちゃデカく見える」
「これ何本だ?」
「……2?」
「残念1でした」
「うっざ」
桐生は思いの外丁寧な手つきで僕に触る。きっと慣れているんだろうなと思いながら指示に従って目を閉じた。
僕はメイクについてはからっきしだ、ほとんど何の知識も無い。だが昨日送られて来た動画は何度か見たし、その人の上げている他の動画もチェックした。一体全体どうやったらあんなにも変身できるのか一欠片すら理解出来ないが、全く知らない世界を知れた事が楽しかったのは事実だ。
自分もこれからああなるのだろうかと期待に胸を膨らませた僕は何も悪く無い。
だけど事前に確認を怠った事は悪いと思っている。確認不足は僕のミスだ。
だがしかし、誰が想像しただろうか。昨夜あれだけ自信満々に「可愛くする」など宣った男がメイクの基礎も一切知らずぶっつけ本番で挑もうとしていたなんて。僕ですら何度も見た動画を当の本人は一度しか見ておらずメイクに対しての認識が「塗ればどうにか」だったなんて。
「お前は馬鹿なの⁉︎」
メイク開始から10分後、僕は声を荒げていた。理由は簡単だ、僕の顔がめちゃくちゃだから。
「だ、だって女子がさささーってやってるから俺にも出来るかなって」
「あんな技術が一朝一夕で身につく訳ないだろうが馬鹿! 馬鹿桐生! ああもう顔洗うから場所教えて」
どこか食えない印象もある桐生も僕の顔を見るとさすがに悪いと思ったのか見るからに肩を落としている。「こっち」と覇気のない様子で洗面台まで案内して貰ってメイクが落とせる液体の入ったボトルの裏面をじっと読む。
使用方法を理解してから鏡を見ると若干ぼやけて見えるがそこにはハロウィンかというような装飾を施された僕がいた。大きな溜息を吐いて用法通りにメイクを落とすと丁度良いタイミングでタオルが渡される。
「…ごめん」
水滴を拭いて顔を上げるとそこには多分申し訳無さそうな顔をした桐生が居た。なんだそんな顔出来たんだなんて少し場違いな事を思いながら溜息を吐く。
「…動画でさ、あるんじゃないの。初心者用のやつ」
「え」
「だから、初心者用のメイク動画あるんじゃないの? それ見ながらやって行こうよ。いきなりあんな芸術みたいなの出来る訳無いんだからさ」
「…怒ってないの?」
捨てられた子犬みたいな弱々しい声で問いかけてくるからおかしくて少し笑ってしまった。
「今更でしょ。お前やりたいって言い出したら聞かないんだからさ、また失敗されるくらいなら最初から練習台になった方がいい」
ああ何を言ってるんだろうなって思う。きっとこのまま僕が怒ってもうしないって言えばこんなふざけた関係も終わらせられる。こんな心を乱されるような非日常から解放される。わかってるのに、僕はまたあの時みたいに口が勝手に動くのを感じた。
「今日まだ時間あるでしょ。動画探そ。…その代わり撮影会は無し。僕撮られる事自体そんな得意じゃないんだから」
眼鏡が無いせいで視界は相変わらずぼやけている。曖昧な輪郭しか捉えられない状態でも僕には桐生が笑うのがわかった。
「うん、ありがとう斉藤」
「うん」
「ていうかこのシチュエーションって彼女がメイク落としてるみたいで興奮するね」
「はー、最低」
ジワジワと鳴く蝉の声を背にしながら僕はこの世の終わりみたいな顔で木陰の掛かるベンチに腰掛けていた。
時間は昼過ぎ、駅に近い商店街という事もあり周囲には人が多く騒がしい。世間は夏休み、例に漏れず僕も夏休みに突入している。
何度も言うが僕は夏が嫌いだ。この纏わりつくような暑さも夏だからと浮かれる人波も嫌いだ。この浮かれる波に飲まれるくらいなら苦手な家に引きこもって涼しい家でずっと勉強している方が余程良い。
それなら何故今僕がこんなところにいるのか、それは少し前に遡る。
全くメイクが出来なかったあの日、顔を洗ったあと僕達は動画を見ながら再度トライする事にした。
トライして気づいたのだが、どうやらメイクとは個人個人の肌の色に合わせた物を選ぶのが良いらしい。肌によって色を変えなくてはならないなんて勿論知らなくて僕と桐生は驚いた。そして桐生が用意していたメイク道具はどうやら僕の肌の色には合わないし、瞼に乗せる色もなんだかチグハグだったらしい。
なるほどそれならばもうメイクをしたってしょうがないなとその時僕は思った。
その動画で紹介されたメイク道具は値段も一緒に乗っているタイプの物で、正直に言って高い。そこら辺のドラッグストアやコンビニで購入できるとしても高校生の僕には優先順位的に手軽に手を出せる代物では無かった。
だが桐生は違う。あいつは金持ちだ。親からの絶対的な信頼を何故だか勝ち得ているあのど変態は動画を見て詳細を理解するや否や「買い直すかぁ」なんて当然の様に宣ったのである。
僕はその事に特に反対はしなかった。だって買うのは桐生だ、僕の懐は一円たりとも痛まないし、桐生の部屋の中で完結する撮影会でのみ実行されるメイクであれば別にもうどうだって良い。だから僕は反対しなかった。好きにしてくれとも思った。
だがしかし、現実はそう甘くない。
真夏の炎天下、僕は今大嫌いな喧騒の中にいる。
蝉の声も電光掲示板の音も雑踏も暑さだって鬱陶しい中、僕は今駅から程近い木陰の掛かるベンチに座っている。
心境としては死刑台に登る囚人、ギロチンで首を刎ねられる為に体を横にして首に木の枷が嵌め込まれた人生の終わりのその瞬間。
何故そんな心境なのかは、もう全て全部間違いなく本当にこの馬鹿のせいだ。
「…ボクハイツカゼッタイニオマエヲコロス」
「怖」
裾をぎゅうっと握り込んだ。今背中を流れたのは気温による物ではない、このアホみたいな状況に対する冷や汗だ。
「なんでそんな怒ってんの? 似合ってるよ」
桐生の両手にはオシャレなカフェの夏限定のフローズンドリンクが握られている。その片方を当然の様に僕に差し出して当然の様に僕の隣に座る。渋々それを受け取って、僕は自分の足を睨み付けた。
可愛らしい花柄がプリントされたふわっとしたシルエットの、今僕の足を隠している服を睨んだ。
「そういう問題じゃないんだよクソ馬鹿…!」
「だって今からメイク道具買いに行くのに男二人だと変じゃん」
「どんな格好したって僕は男なんですけどっ」
「どっからどう見ても華奢な女の子だから問題無い」
「クソバカど変態クズ野郎…っ!」
そう、僕は今女装をしている。
もう一度言う。
女装している。
この多くの人が行き交う夏休みの駅近という場所で、僕は今女装している。
夢であるのであれば早く醒めろ。こんな悪夢を見るなんて一体全体僕はどうしてしまったんだと何度目かの現実逃避を行うがこれは間違いなくリアルである。
今日は普通に(普通ではない)撮影会が行われる筈だった。だが桐生の家に着いて早々クソ馬鹿は言い放ったのだ。「メイク道具買いに行こ」僕は「勝手にしなよ」そう言った。けれどあの馬鹿は「斉藤のメイク道具見に行くんだから斉藤がいないとダメでしょ」なんてもっともらしい事を言った。
それだけで終わるならまだ良かった。けれどあいつは策士だった。
その時もう僕は既に着替え終わっていた。いつもの女装と違う足首まで隠れるロングタイプのスカート、肩や首周りの骨格が上手く隠れる服、それと帽子。
「その服ならバレないでしょ」
「はあ⁉︎」
そうして僕は無理矢理街に連れ出される事になったのだ。
正直生きた心地がしない。奢ってもらったフローズンドリンクも冷たいだけで味がしない。今日程自分の押しの弱さを恨んだ日は無い。
「これ飲んだら行こうか。良い加減涼しいとこ行きたいし」
「お前は良いよな失うものが何もなくて」
音を立ててドリンクを飲みながら恨言を言うと桐生は楽しそうに笑った。それに無性にイラついて肩を殴る。
「大丈夫だって、斉藤はかわいいよ」
「桐生の目がどうかしてるんだよ、僕は可愛くない。男だよ」
「あ、普通の声量でそれ言うのリスキーじゃない? ていうか苗字で呼ぶのもまずいかな」
「‼︎ この、お前、ほんと…!」
暑さでやられてかこの非常識なシチュエーションのせいか指摘されるまで気が付かなかった行動に表情を歪め、苛立ちのままもう一発桐生の肩に拳をお見舞いしてやろうとした矢先、視線がかち合う。
「雪穂」
ひゅ、と喉が狭くなった気がした。
「綺麗な名前だよね」
雪穂、もう一度呼ばれて今度は心臓がうるさくなるのがわかった。それと一緒に顔に血液が集まっていくのも。
危機感を覚えて顔が完全に赤くなる前に僕は慌ててベンチから腰を上げた。
「え、ちょっとどこ行くの?」
背中に掛かる少し焦った声に僕は無言で今日の目的地である施設を指さした。
一刻も早く目的を済ませて帰ろう。帰らなくてはならない。
だって心臓がこんなにもうるさくて発火するんじゃないかってくらいに顔が熱い。さっき聞いた桐生の声が耳から離れない。
こんなの普通じゃない。友達は名前を呼ばれたくらいでこんな感情になったりしない。こんな反応をしたりはしない。
僕は普通じゃない。でも、普通であるように振る舞うことは出来る。
落ち着け、何度も自分に言い聞かせながら入ったビルは余計に涼しく感じられて、少しだけ気分が落ち着いた。
そして結果から言うと人生で一番疲れた日になった。
「お客様何かお探しですかー?」
普段は意識して聞くことのない女性店員の高い声。それが自分に向いているとわかってあからさまに肩を跳ねさせると桐生が庇うように僕の前に出た。
「この子にメイク道具をプレゼントしたいんですけど、何をどう選んだらいいかわからなくて」
「わあ! 素敵な彼氏さんですね」
僕はほとんど喋れなかった。いくら見た目がどうのこうの言っても声はどうしたって女子とは違う。喋れば一発アウトだと信じて疑ってない僕を察したのか受け答えは桐生がしてくれた。
見た目も派手な桐生の横にいるのが僕で店員も少し訝しんでいた様に思うが生憎店員の顔色を伺う余裕なんて僕にはカケラも無かった。
それから肌に合う色だとか何が似合うだとかこれが良いだとか僕には到底理解出来ない言葉が飛び交い、桐生は人当たりのいい笑顔で受け答えしながら勧められるままにメイク道具を買っていた。
店内でメイクをして貰えるサービスもある様だがそれは断固拒否(桐生に断って貰った)してなんとか目的である買い物も済ませるとその頃には僕はもう虫の息だった。もう1秒たりとも人目に触れたくない僕は買い物が終わるや否や店から飛び出して足早に進み出す。
「雪穂待って、もうちょっとゆっくり歩かないと汗だくになるよ」
「僕はもう1秒だってこの服で出歩きたくないんだよ…! 知り合いに見つかったら社会的に死ぬのは僕なんだぞこの馬鹿」
僕がどれだけ早歩きしても足の長い桐生はさらっと着いてくる。足が長い事に理不尽な怒りを覚えつつ潜めた声で訴えてまた一歩前に踏み出すと、手が後ろに引かれた。
「わかった。でもこの速度で歩いてたら人にぶつかる、危ないよ」
桐生の手は僕よりも大きい。身長差があるから当然なんだけれど、同じ男なのにすっぽりと僕の手は収まってしまう。すぐに離せば良いのに桐生はそのまま手を繋いで僕の隣に来て歩幅を合わせる。その頃にはもう早歩きしようなんて気はなくて、でもすぐに止まってやるのもなんだか癪で、ほんの数歩大股で歩いてから徐々にスピードを落とした。
「…手、もう良いよ。ゆっくり歩くから」
「良いじゃん別に。周りから見たらこの方が自然だよ」
「…お前の知り合いに会ったらどうするんだよ。僕嫌なんだけど」
「その時はうまいこと誤魔化す」
振り解こうとした手はなんでか知らないけど握り込まれた。
ああ、また心臓がうるさくなる。でも桐生にとってこれはなんの意味も持たない行為だっていうのを僕はわかっているから、それだけは確かだからなんとか平静を保っていられる。
「桐生の家行ったら風呂貸して。汗やばいから着替える」
「え」
「メイクはこの服じゃなくても出来るじゃん文句言うな」
「俺のモチベがさあ」
「この服を着てない僕には興味がないですか、そうですか」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「じゃあ風呂な」
17歳の男二人が手を繋いでいる。片方は女装しているし、背格好的にもきっと異性同士に見えているだろうけど、これは決して普通じゃない。
僕は男で、どうしてだか同性愛者だ。そして悲しい事に桐生の一挙一動に心が掻き乱されている。今だって本当は手を繋いでいる状況が事故だとしても嬉しいと思っている。心臓だってずっと早く動いているし、顔も少し熱い。
でも今は夏だから顔が赤くても不思議では無いし、繋いでいる手に汗が滲んでも違和感は無い。僕は女装なんてしたくないし、夏も大嫌いだ。でも今だけは、今のこの事故みたいな奇跡は、少し嬉しいと思ってしまった。
時間は進み、一緒に出掛けたあの日以降も最低でも週に一回は撮影会が行われる。それ以外でも呼ばれる日があって、その時は大体夏休みの課題を一緒にやっている。
本当に普通の過ごし方に僕は面食らって「お前なんか変な物食った?」なんて聞いたが「たまには良いでしょ」と丸め込まれて何度か一緒に課題をした。僕と桐生の得意分野はいい感じに違っていて、互いの不足分を補える時間は正直言ってとても有意義だった。
「意外」
「何が?」
桐生の部屋にあるローテーブルに参考書を広げひと段落ついた所で向かいに座る桐生を見た。
「人選が」
「つまり?」
「課題やるのにわざわざ僕を呼んでるのが意外。お前友達いっぱいいるじゃん、僕じゃなくても良いでしょ」
今やっているのは数学の課題。単純な計算問題なら出来るのに文章問題になった途端脳が理解を放棄するから数学はあまり得意では無い。でも桐生のおかげか少しコツが掴めて今まで躓いていたところが少し楽に感じる。
「雪穂ってさ、俺の友達誰かわかる?」
桐生はあの日からずっと僕のことを名前で呼ぶ。
「カースト上位の派手組陽キャ」
「勉強出来そうに見える?」
「桐生は出来るじゃん」
「俺だけね」
締め切った窓の外から蝉の鳴き声が聞こえる。クーラーの機械的な音の方が大きくて、でもその音も僕達の話し声に負ける。
「あいつらは勉強に興味無いんだよ、遊ぶには楽しいけどさ。だから勉強する時は雪穂が良い、静かだし」
「まあ桐生が話し掛けて来なかったらほとんど会話無いもんな」
「本当にそれだよ、雪穂はもうちょっと俺に興味持って」
「あ、ここってどうやって解くの?」
桐生はこうやって、たまに僕を特別扱いする。否、僕が勝手に特別扱いって思ってるだけで桐生にとってはそうじゃないのかもしれないけど、僕にとっては間違いなく特別。
でも桐生にとっての普通を「あれ、おかしいな」という感覚に変えたくなくて、僕はいつだって細心の注意を払って接している。でも別に苦痛じゃない。普通に紛れて生きていくのは僕にとって当たり前で、これからもずっと続いていくもの。
今もいつも通り話題を逸らせば桐生は何も無かったみたいに接してくれる。
これでいい。この距離感が丁度いい。
僕と桐生はおよそ人前では言えない趣味を分かち合った仲間、ほんの少し歪な関係。でも桐生は器用だから、高校生という枷が外れたらきっと僕との関係も終わりにするだろう。
「雪穂、古典のここなんだけどさ」
「ん、それはね」
ほんの少し体を前に乗り出して参考書を見る。ふわりと届くのは桐生の香りで、香水の様に強いものじゃない。僕達はきっと少し距離が近い。
でもこれはおかしな趣味を共有しているから。
「そういえばさ」
元の位置に戻る手前で桐生の視線が間近で僕を捉える。
真っ直ぐな迷いのない視線はなんだか流れ星の様にも思えた。
「8月って暇?」
「日によるけど大体暇、どうしたの」
「夏祭り行こ」
花が咲くみたいな笑顔で向けられた言葉に僕はゆっくりと瞬きをした。
夏祭り。何度も頭の中で反芻して意味とイメージを合致させ、まず一つ目の疑問が浮かぶがその選択をしなかった目の前の男を見て僕は眉間にこれでもかと皺を寄せて溜息を吐いた。
「…また外に連れ出すつもり…?」
「え、あー…」
一瞬目を丸くした桐生は次には笑っていた。悪戯っ子のような無邪気な顔で、何も悪びれる様子もなく。
「バレた?」
可愛らしい効果音でも付きそうな表情に僕はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「ほんっっと、桐生って浅はか」
「浅はかって言いつつも雪穂は俺のお願い聞いてくれるよね」
「お前の押しが強いからだろ」
「だって可愛い服着た雪穂見たいし」
「桐生が見たいのは可愛い服を着たそれっぽい男でしょ」
「違うよ」
桐生の目が僕をじっと見ている。桐生の目は綺麗だ。真っ直ぐで、自信に溢れていて、迷った事なんて一度もないみたいな、でもそれでいて何を考えているのかわからない夜の海みたいな怖さもある目が僕を見ている。
「俺は雪穂のだから見たいって思うんだよ。誰でも良い訳じゃない」
ここで「それってどういう意味」と聞ける勇気があったなら、僕はきっとこんな人間じゃなかったんだと思う。
喉に糊が張り付いたみたいに声が出なくて、でもこの言葉を真剣に受け取るなんて事も出来なくて、結局僕はいつもみたいなしかめ面を作った。
「気持ち悪いな」
出た声に温度はなかったように思う。桐生は口元に笑みを乗せて少し肩を竦ませていた。
「やっぱり雪穂って押しに弱いよねー」
「今回も騙し打ちみたいなもんだったろうが…!」
「夏祭り行こって言ったじゃん。俺の性格知ってる雪穂なら日付の下調べくらいはしてると思ったんだけどね」
「イベントに一切興味が無いんだよ」
「まあその興味の無さで騙されるんだからチョロ」
「おい今チョロいって言った上に騙したの認めたな⁉︎」
「まあ事実そうだし。ていうかそんな大きい声出して大丈夫?」
「こんのクソ野郎…!」
カラコロと鳴る下駄にいつもより狭い歩幅。生地はそれなりに通気性が良いはずなのに夏の湿気がどうしたって敵になる。
周囲は暗く街灯によって薄オレンジに所々が染まっていて、その中を同じ様な音を立てて歩く人波に合わせて紛れる様に歩く。
そう、今日は夏祭りだ。
「…おかしいと思ったんだよ、コンタクトとカツラの時点で気付けば良かった」
「ウィッグって言ってよ、カツラじゃ色気ないからさ」
「カツラはカツラだろ、これクソ暑い」
僕の髪は一般的な男子に比べたら長いけれど、今日の髪型はどう見たって女子だ。視線を胸元に下ろせば毛先がふわりと巻かれた長い髪が目に入る。ロングのカツラをハーフアップにした物で、後頭部でお団子になっている場所には浴衣に合う髪飾りが付けられている。薄い青系の浴衣に濃い紫の帯、小ぶりな巾着に白に青が散らされた鼻緒の下駄。
今日の僕の格好は桐生渾身の浴衣コーディネートだ。
この前まで人をピエロにする腕前だった筈なのにいつの間に練習したのか僕の顔は今日ちゃんとしているし、髪だって桐生がやった。「好きな事するのって楽しいから」なんて理由で腕を上げたらしい。こいつは一体どこに向かっているんだろう。
「…うん、外でも完璧に可愛い。でももうちょっとアイライン長くしても良かったかも、雪穂きれいだからきっと似合う」
「うるさい触るな」
頬を撫でる桐生の手を軽く叩き落とした。
僕達は今夏祭り会場に向けて歩いている。
桐生の家からそう遠くない神社で開かれる夏祭りでお盆前のこの時期にやるものだ。規模はそう大きくないけれど近隣住民は楽しみにしているイベントの一つで夜の8時を回れば花火が上がるのも大きなポイントになっている。
その祭りに向かっているのだ、僕と桐生は。
完全生活圏内で行われるイベントに女装で行くなんて気でも触れたかと思ったが、今日のコーディネートの完成を鏡で見た時僕は自分でも「誰だこいつ」と思った。それくらい今日の僕は他人の様だ。「暗いから大丈夫。何があっても俺が守るから一緒に行こ」最終的に僕の背中を押したのは桐生のこの言葉だった。後もう純粋に好きにしてくれと諦めていたところもある。
「雪穂は夏祭りとか来た事ないの?」
「…子供の頃は来てた。でも小学の中学年まで、そこからは行ってない」
「なんで?」
「僕がこういうイベント好きだと思うの」
「いや、全然」
周りは家族連れや友人同士、カップルが歩いている。神社に行く人の方が多いけれどまだ日の高い頃から屋台は出ていたから楽しみ尽くした祭り客が流れに逆らって歩いて来る姿も見える。
どこからか流れてくる祭囃子と人のざわめきが混ざり合って懐かしい空気に目を細めた。
「──桐生は誘われてたんじゃないの、お祭り」
「まあそれなりに」
「今日絶対声掛けられるでしょ」
「そうだろうね」
僕達は肩が触れるくらいの距離で歩いている。理由はその方が自然だから。
「でも俺が一緒に行きたいのは雪穂だから」
「…ホント変態だよね、お前って」
僕みたいにメイクをしなくても、着飾らなくても、桐生はただそこにいるだけで人目を惹く。だって桐生は電光掲示板みたいなやつなんだ。背だって高くて顔も雰囲気も華やかで、僕と同じ年のはずなのにまるで大人みたいな空気感を醸し出している。
隣を歩くそいつを見上げると視線に気が付いたのか桐生も僕を見た。薄いオレンジの光に当てられて煌めく桐生の目はとても綺麗だ。
「雪穂、お面買おうか」
「は?」
「良いじゃん、浴衣にお面って可愛いし」
左手が温もりに包まれた。気が付いた時には規則的な人の波から外れて、屋台列のほぼ先頭にあったお面屋に向かって桐生が歩いていく。手を引かれるままに屋台の前に到着すると裸電球の強い光に少し目が眩む。
「いらっしゃい、デートかいおにいちゃん!」
「そうなんです。雪穂、どれにする?」
「な、なんでもいい…っ」
どれだけメイクと髪型で変わっていると理解していてもこんな明るい場所で堂々と出来る勇気は僕には無い。だから出来るだけ暗がりにいようと桐生の背中に隠れると屋台の強面のおじさんが派手に笑った。桐生も僕を見て楽しそうに口角を上げて「じゃあこれにしよっか」って明らかに女児アニメのキャラクターのお面を指差したから僕は目を丸くした。
「それは、やだ」
「じゃあこれ?」
「狐面とか厨二病感満載じゃん絶対やだ」
「わがままだなぁ、じゃあこれね」
そうして桐生が手に取ったのは白猫のお面。確かに一番地味なデザインのそれに反対する理由なんてなくて仕方がないと頷けば繋いでいた手が離されて桐生が会計を済ませた。
こっちと指差された屋台と屋台の間に移動して向き合うと桐生が慎重な手つきで買ったばかりのお面を僕の頭に掛けた。
「かわいい」
まるで宝物を見つけた子供みたいな顔で桐生が笑う。
「…っ、馬鹿じゃないの」
どんって心臓が大きく脈打った。血液が全部顔に集まってくる気がして、僕は買って貰ったばかりのお面で顔を隠した。
「あ、なんで顔隠すの」
「うるさい馬鹿、こっち見るな…っ」
ああ、もう。
桐生のせいで、どんどん「普通」がわからなくなる。
「そのままだと前見えないでしょ」
桐生が僕の手を握る。片手はお面を押さえたまま、ほんの小さな隙間から見える景色にまた目が眩みそうになる。
伝わる体温が熱くて柔らかい。確かに桐生が僕の手を握っている、その事がどうしようもないくらい僕の心を掻き乱すんだ。
「何食べる? 雪穂甘いの好きだからかき氷にしよっか、いちごでいい?」
当然のように僕の好みを知っているところだとか。
「…今日はメロンにする」
「じゃあ俺がいちごにするよ。メロン後で一口ちょうだい」
天邪鬼な僕の性格を知ってて、こうやって甘やかして来るところとか。
ああどうしよう。
顔がずっと熱いままで、きっと今かき氷を食べたって味なんてわからない。心臓が左手にあるんじゃないかってくらいそこだけの感覚が鋭敏で、もう周りの音なんて聞こえない。
こんなイレギュラー大嫌いなのに、どうしようもなく嬉しいと思っている自分がいる。
だけどそんな時間も一瞬で現実に叩き戻される。
「あー! 桐生じゃん!」
あれだけうるさかった心臓が一瞬で止まった気がした。
大袈裟なくらい肩を跳ねさせて固まった僕の背後から誰かが近付いてくる気配がする。これが誰かなんて考えなくてもわかる。
「お前行かないって言ってたのに結局いるじゃん」
「田中と行かないって言っただけで祭りに行かないとは言ってないよ、俺」
「うわ出た屁理屈。あーそうそう、こいつが桐生。メチャクチャイケメンだろー」
桐生と同じ、いわゆるカースト上位にいる田中という男が僕は苦手だ。お手本のような陽キャで声も態度も大きくて、それなのに憎めないバカっぽさのおかげで教師からも何故だか一目置かれているやつだ。謎のカリスマ性まで持ち合わせていて、田中の周りにはいつだって男女関係なく人がいる。
その田中の意識が一緒に来ている人達に向いたところで桐生が僕を背中に隠してくれた。たったそれだけの事なのに僕は無意識に止めていた息を吐き出して少しだけ体から力を抜く。
「あーーー‼︎」
貫くような大きな声に僕がまた体を跳ねさせるのと桐生が低い声で「うるさい」と呟くのは一緒だった。
「お前、お前…⁉︎」
田中がずかずかと近づいて来ている気がする。太陽が迫ってくるみたいな、そんなあり得ない危機感に冷や汗が止まらない。そんな僕を知ってか知らずか桐生が僕の手を握り直した。
「いつ彼女出来たんだよ⁉︎ なんで教えてくれねえの! だいぶ可愛い気配察知してるよ俺。てかなんでお面してんの? てか猫じゃんめちゃ可愛いね。桐生が買ってくれたん? ねえねえちょっと顔見せ」
「田中」
僕は情けない程完全に陽キャの圧にビビっていた。僕はそもそも人付き合いが苦手だ。田中みたいな太陽の塊みたいなやつは一番苦手だ。太陽光に焼き殺されそうになる。
「人見知りなんだよ、グイグイ来んな」
「ヒトミシリ…?」
「何お前人見知りって言葉も忘れたの?」
「違うわ! 俺が驚いてんのはお前がヒトミシリの子と付き合ってる事だよ! へー…お前でもそんな距離の詰め方出来たんだな」
「田中は俺をなんだと思ってんだよ」
「顔だけいいポンコツ」
ポンコツ、桐生を形容するのに全く当て嵌まらない言葉に僕はお面をしたまま思わず顔を上げる。するとその気配に目敏く気付いた田中が「お」とどこか嬉しそうな声を上げた。
「見ないで、減る」
少し上げた視線の先、もう少しで田中の顔が見えるという所で僕の背中に手が添えられて、そのまま引き寄せられる。気が付いたらすごく近くで桐生の匂いがして、体温だって感じられる距離にいて、抱き締められているのを悟った。
「はぁ〜〜⁉︎ キャラ違くねえ〜〜⁉︎ 桐生クンは〜そういう事しないタイプだと思ってました〜〜‼︎」
「じゃあ今日からそういうタイプ。田中いたらこの子逃げかねないからさっさとどっか行って」
呆れ半分、本音半分、そんな声色で紡がれた気のする言葉に確かにそうだなと思うのに面白いくらいに体が固まってしまって動けない。心臓があまりにうるさくてこのままだと聞こえてしまうと思うのに、まるで自分の物じゃないみたいに指先一つも自由にならない。
「へいへい、邪魔者は退散しましょうかね〜。悪い待たせた、行こうや」
田中が今どんな顔してるのかはわからないけれど声からして面白がってるのはわかる。でもようやくこの場から離れてくれるらしく僕は早く行けと念じた。
「彼女ちゃん、コイツポンコツだけど良い奴だから仲良くしてあげてね」
「余計なお世話だよ」
呆れを含んだ声で桐生が突き放すみたいに言って田中達の気配が去って行く。賑やかな彼らの声は少しの間聞こえていたけど徐々に祭囃子と雑踏と混ざり合って完全に聞こえなくなる。
そうなって僕の背中に回っている腕が離れて、自然と半歩だけ距離が出来た。
「ごめん、暑かったよね」
「や、だい、じょぶ、です」
「片言になってるよ雪穂。あ、もしかして照れ、いったあ!」
桐生が不愉快な言葉を言い終える前に下駄で足を踏ん付けてやった。
「かき氷、奢れ。むしろ今日の屋台全部奢れ」
「え、最初からそのつもりだけど?」
「むかつく」
「理不尽!」
もう一回踏ん付けてやろうとしたけど桐生も学習したのかさっと足を引いてしまった。それに舌打ちをすると僕はようやくお面から手を離して少しだけ位置をずらした。夏の夜とはいえ空気は蒸し暑いのに、解放された途端の空気は驚くくらい涼しくて思わず息を吐く。
「…ねえ雪穂」
「なに」
「ぜーんぶ奢るからさ、かき氷最後に買おうよ。先にたこ焼きとか買ってさ、最後にかき氷買ってちょっと離れた場所に行こ」
「…いいけど、なんで?」
「田中みたいなのがまた来たら面倒臭い」
「なるほど、賛成。じゃあとりあえずたこ焼きと焼きそばときゅうり」
「はーい」
田中と話していた時の桐生の空気感が僕はそんなに得意じゃない。こうして一対一で話している時は居心地の悪さなんて感じないのに、田中や他の陽キャ達と一緒にいるときの桐生はどこか温度が感じられなくて、何を考えているのかわからなくて嫌だ。
今も何を考えているかなんてわからないけれど、僕の手を握ったまま歩き出した桐生の横顔はどう見たって楽しそうで、それにこんな女装した男と手を繋いで嬉しそうにするなんて変態だなって思いもするけど、でも今の桐生の方が僕は親しみ易い。
カラコロと下駄を鳴らしながら一つ一つ屋台を回って食料を調達する。重ねられる物は袋に入れて貰って、きゅうりは途中で見つけた牛串に変わった。荷物のほとんどは桐生が持ってくれて、今僕の手にあるのはメロンに練乳の掛かったかき氷だ。桐生の腕には食料が入ったビニール袋が掛けられ手にはいちごに練乳がかかったたかき氷がある。
手を引かれるまま歩いていると僕達はどんどん雑踏から離れ、神社の本殿へと向かう長い階段から少し外れた場所にある、ただ土を掘って階段状にした場所をゆっくりと進んでいく。
「く、暗くて見えないんですけど…!」
「ゆっくり行ってるから大丈夫だよ。ていうかやっぱり浴衣だと階段とか登りにくいっぽいね」
「お前が手を離してくれたら浴衣の裾上げれるんだけどな」
「でもそうしたら暗い中一人で歩く事になるよ?」
暗闇か多少の不便かを天秤に掛け、そのままという選択をして桐生に手を引かれるままに階段を上がって行く。本殿に続く階段には提灯や幟があったのもあって人が大勢いたが少しそれたこの道には人どころか灯り一つも付いていない。
背後からほのかに照らす祭りの明るさと、木々に多少邪魔されてはいるものの微かな月明かりのある道を一歩一歩進んで行くとやがて開けた場所に出た。
「…なにここ」
「小さい神社みたいなのがある場所。結構穴場なんだよね」
生憎暗がりで全体はわからないけど桐生が慣れた様子で歩くから僕の足も勝手にそっちに向かう。言葉通り何を祀ってるのかわからない小さな神社の少し逸れた場所には丁度人が並んで座れるくらいの岩があった。
そこに並んで座って息を吐く。
「あっつー…」
「浴衣にウィッグだもんね、髪貼り付いてる」
「…お前は涼しげな感じでむかつく」
当然の様に桐生の細くて長い、それでも僕より随分男っぽい指が慣れた手つきで髪を払う。もうこんな触れ合いにも慣れたものだと言いたいが、そんな訳はない。変な音が出そうになるのを必死で抑えて平静を装って、少しでも暑さを誤魔化そうとかき氷を食べた。
「え、飯食う前にかき氷?」
「暑いし、僕食べる順番とか気にしない。桐生は……なんか気にしそうだよね、そういうお行儀的なやつみっちり叩き込まれてそう」
「そんな事ないと思うけどな」
そう言って桐生は岩の空いている場所にかき氷を置いて袋の中からたこ焼きを取り出した。きちんとお手拭きで手を拭いて、割り箸をきちんと真ん中で綺麗に割って、両手を合わせて口の中でいただきますと言ってから綺麗な所作でたこ焼きを一つ摘む。
少し時間が経ったおかげかそこまで熱くなかったみたいだった。
「ん、美味い」
「よかったね」
「うん、ほら雪穂もあーん」
「自分で食べる」
「でも今かき氷で両手塞がってるよ」
ああ言えばこう言う桐生に僕はもう勝てっこないのだ。
渋々口を開くとそれなりの大きさのたこ焼きを一口で口内に納める。それに驚いた気配がしたけれど特に気にはしない。
「…そんな口開けれたんだ」
「お前何を思ってるのか知らないけど僕普通に男だから。これくらい一口で食べるし、ラーメンだってすするし」
「……ギャップじゃん⁉︎」
「本当ブレないよね桐生って」
ソースとマヨネーズの濃い味をかき氷で中和する。僕的には全然違和感はないけれどその様子を見ている桐生の目は驚いていた。いつも連んでいる陽キャ連中もきっと僕と似たような物なのではと思ったのだが、もしかしたら違うのかもしれない。
たこ焼きを食べ、焼きそばを食べて、牛串も食べた。いつもならぺろりといけそうな量も帯で胃の辺りを圧迫しているから全然食べられなくて、大半は桐生の腹に収まってしまう。けれど夏祭りという雰囲気がそこまで空腹を感じさせないし、なんだか非日常感があって楽しいとまで思っていた。
どうせこの浴衣とメイクと髪型のおかげできっと誰にもバレないし、今に至っては僕達しか居ない。遠くから祭りの気配はするけれど、どちらかと言えば夏虫の声の方が良く耳に届く。
「上見てて」
スマホで時間を見ていた桐生の言葉になんの疑いも無く顔を上げる。
満月ではないけれどちょっとふくよかな月が出ていて、金星が綺麗に輝いているのがわかる。普段意識的に夜空なんて見ないからそれだけでも新鮮だったのだが、不意に訪れた腹の底に響く衝撃音に目を見開いた。
ドン、と大砲の様な音がした僅かコンマ数秒後、夜空に大輪の花が咲く。
「ほら、穴場だって言ったでしょ」
呆然としている僕に桐生が得意げに語り掛ける。
確かに、そう、確かにここは穴場だった。
始めの花火の余韻が消えそうになった瞬間、甲高い打ち上げの音が聞こえる。また大砲の様な音がして、今度は小さな花火が一気に横這いに広がって空を埋める。
「…きれい」
こんな景色、一体いつぶりだろう。
夏の夜空を彩る花火に魅入っていた僕は気が付かなかった。
「うん、綺麗だ」
そう囁いた桐生の声が近かった事に。
僕の視界を遮るみたいに顔が寄せられた違和感に。
「──ぇ…」
ドン、と鮮やかな色彩の花火が上がった。
「きれいだね」
練乳みたいな声の余韻が消える前に、僕の視界は桐生で埋め尽くされた。
触れた温度は思ったよりも冷たくて、甘い香りがした。
「はは、目丸くて猫みたい」
掠れた声と吐息が肌に触れる距離。暗がりでよく見えないけれど、目はどこか楽しそうに細められていたように思う。
呆然とする僕の頬を撫でた手が離れて、また視界に夜空が映る。花火が上がる。小さなものから大きなものまで、色とりどりの花が夜空を染めていく。だけど僕には今それを楽しむ事なんて全く出来なくて、横を向くことさえ出来ない。
「っ!」
左手に桐生の手が重なる。指の間に桐生の長い指が入り込んで、まるで逃がさないとでも言う風に僕の手を捕らえた。
「花火もうちょっと見たら」
僕の耳の奥では自分の鼓動の音がうるさいくらいに響いている。もう花火なんて見ていないし、かき氷で潤したはずの喉はカラカラだ。
それなのに桐生の様子は何事も無かったかのようにいつも通りで、もしかしたらさっきのは一瞬の夢だったのかななんて思ったりもしたけれど違うって訴えて来るみたいに桐生の手が熱い。
僕は何も言えなかった。
嫌だとも、ふざけるなとも、なんの冗談なんだとも、何も。
ただ心臓がうるさくて、くちびるが触れる瞬間の桐生の目があんまりにも綺麗だったのを思い出して。
──ああ、嫌じゃなかったな。なんて、そんな思考に囚われて。
「雪穂、立てそう?」
「…ん」
花火も終盤に差し掛かったのだろうか、桐生が先に腰を上げた。まだ衝撃から抜け出せない僕はぼんやりと返事をして促されるままに桐生の手を取って歩き出した。
お互いに無言のまま人波を逆らうように歩いて、気が付けば祭りのほんのり赤い空気感が見慣れた蛍光灯の白さに変わる。祭りから帰っている人はちらほらといるが、みんなそれなりに距離がある。
横に並ぶんじゃなくて桐生に引かれる形で歩いているのは僕がまだ動揺しているから。
交差するように繋がれた手は同じ男の手の筈なのに桐生のだけやっぱり大きくて、格好良く見えて、それがどうしようもなく悔しくて、胸が締め付けられた。
ガチャ、と桐生の家のドアが開いて僕が入ったのを確認してから閉められる。
人の気配がしないからまだ桐生の両親は帰ってきてないのかもしれない。
「顔真っ赤」
振り返って僕を見た桐生が心底楽しそうな顔で呟いて、また距離が縮まった。
とん、と背中がドアにぶつかる。2回目のキスだった。
「…なんで」
今度はちゃんと出た声は笑えるくらいに細い。
至近距離で僕を見る桐生の目からは何も読み取れない。綺麗で、でも色が深くて、水みたいにつるりとした目だ。
「……かわいいから」
怒れば良いのか、笑い飛ばせば良いのか、僕にはわからなかった。
『普通』の人ならこんな時どうするのだろうか。気持ち悪いと跳ね除けるのだろうか、それとも冗談が過ぎるぞって何事もなく笑って流せば良いのだろうか。選択肢はいくつも浮かぶのに、僕はどれを選択したら良いのか全くわからなかった。
気が付いたら桐生の家で風呂を借りていて、浴衣もカツラもメイクもなくなったただの斉藤雪穂が鏡の中に居た。
フル装備だった僕は、自分で言うのもなんだけどそれなりの見た目だったのではと思う。否、見慣れなくてそう思っただけかもしれない、ていうかきっとそう。
昼ぶりとなる自分の服を着て桐生の部屋に向かう。扉を開けようとドアノブに手を掛けた瞬間体が強張ったのはもう仕方のない事だと思う。いくら考えても答えは出なくて、今もどんな顔をしたら良いのかわからない。けれど時間は止まらないし今すぐ地球が滅亡する事もないから進まないといけない。深く息を吸ってからドアを開けると「風呂ありがとう」と俯いたまま告げる。
「さっぱりした?」
拍子抜けするくらいいつも通りの桐生に安堵するのと同時にずし、と心に重石が置かれたみたいな心地になる。
「じゃあ俺も入ってこようかな。雪穂今日もう遅いし泊まっていく?」
「…帰る」
「そっか、気を付けてね」
桐生は僕の横を通り過ぎて行った。パタンと閉まるドアの音がやけに無機質で、それで僕は忘れかけていた事を思い出した。
「…桐生が好きなのは女装してる男だもんね」
声に出して、それがちゃんとした輪郭を持って僕の中に沈んでいく。馬鹿みたいな理由だけどこれが真実なんだからおかしくて思わず笑ってしまった。
桐生は僕を特別扱いしてくれる。それはきっと誰にも言えない秘密を共有しているから。一種の運命共同体みたいなものなのかもしれない。バレたらお互いに白い目で見られる事は間違い無いのだから、特別な感情が生まれてしまっても仕方がない事だと思う。ドラマでも映画でも、二人で罪を犯した人達は良くも悪くも固い絆で結ばれているのがセオリーだ。
僕達はきっとそれに該当する。ただ、僕の特別が普通とは違うだけ。
「…だから、嫌だったんだ」
冷静になろうと深呼吸しながら元々少ない荷物を持って桐生の家を出る。バスはまだある時間だけど、今日は歩いて帰る事にした。
夏の夜は蒸し暑い。豪華な家の立ち並ぶ区画から抜けたらちらほらと祭りから帰っている途中の人たちが目に着いた。友人も家族連れも恋人達も大部分はどこか満足そうな顔をして帰っているように思う。
たった数時間前、僕はきっとこの人達と同じ顔をしていた。
そう思った途端、その記憶を振り切るように僕は足を前に出す。出来るだけ前を見ず、なるべく早く、熱で流れる汗と一緒にあんな記憶も全部無くなれば良いのに。
「、た、だいま」
「おかえり、ええどうしたのそんなに急いで。お風呂入る?」
「はいる」
動いている時はそうでもないのに、止まった瞬間汗が吹き出す。
全身が汗で濡れて気持ち悪い。さっきシャワーを浴びたはずなのに僕はまた風呂場に向かって歩く。服を脱いで、まだほとんど水みたいなシャワーを浴びていたら慣れない匂いがした。
「っ」
掻きむしるように頭を濡らしていつものシャンプーで洗い直す。
どんどん桐生の匂いを消しながら、呼吸が苦しくなっている事に気がついた。
眼鏡を外しているからじゃない理由で視界がぼやけている。目の前が滲んで、足元に泡がどんどん落ちていくのが曖昧な輪郭でわかる。
ああ、みじめだな。呟いて、僕はその場にしゃがみ込んだ。
嬉しかったんだ、本当は。あの梅雨の日に話しかけられた事も、こんな馬鹿げた秘密を共有した事も、僕の事を可愛いって綺麗だって言ってくれる事も、二人で出掛けた事も、キスしてくれた事だって全部。
だって僕は、ずっと前から桐生の事が好きだったから。
好きになったのは一年の頃だった。
僕と桐生の間に接点なんて無かった。あったのは二年間同じクラスだったという事だけ。たまに挨拶したり席替えで近くなったりした時にほんの少し世間話をした程度。
知人にもなりきれていないポジションにいたのに僕は桐生の事が好きだった。
元々目立つ人だなって思っていた。同じ年の筈なのにどこか落ち着いていて、でも見た目がすこぶる良いから嫌でも人の目を引いていて住む世界の違う人だと思った。
その感想は桐生が仲良くなった人達を見てさらに深まる。
マンガとか学園ドラマでしか見たことが無いようなカースト上位軍団の中に桐生がなんの違和感もなく解け込み、休み時間も昼休みも放課後だって賑やか。「俺がこの世の主役」と言わんばかりの華やかさに住む世界が違うと思いつつも、僕は度々見惚れていた。
今思えば顔が好みなんだと思う。僕は面食いだったらしい。
だけど意外にも人の事をちゃんと見ていて、折り合いの悪い人達が喧嘩になりそうになるとさりげなく止めに入るところだったり、委員会とか日直も休まない真面目なところだったり、助っ人を頼まれたスポーツの出来が良くなくて悔しがってるところだったり、そんな毎日を真っ直ぐに生きているところが眩しいなって思った。
一年の時ほんの少し会話をしただけの同級生に僕は恋をしていた。一生誰にも言う事のない、僕の胸にだけしまっておく、小さな宝物みたいな感情だった。
それが叶う事なんて絶対に有り得ない。でも、それでも、少しだけ。
近付いてみたい、そう思った。
「雪穂、今日はこれね」
夏祭りから数日経ち夏休みも終盤になった午後、僕は相変わらず桐生の家に来ていた。あんな事があったのに普通の顔してまた撮影会に臨むなんて正気の沙汰じゃないと理解しているのに、それでも誘いの連絡があった時嬉しいと感じてしまった。
それに桐生と僕ではキスに対する感覚がきっと全然違う。
僕にとってはとんでもない出来事だけど、桐生にとっては外国の挨拶並みの感覚なんだと思う。そう思えば納得出来るし、だからこそこんな風に誘えるのだ。
「…一体どんだけ服持ってるの」
「そんなに多くないよ? あ、でもいずれは際どいのとか行きたいよね、バニーとか」
「ぜっっったいに着ないから」
「押しに弱いから土下座すればワンチャンって思ってる」
「……」
「雪穂ってたまに視線だけで人殺せそうだよね」
これ見よがしに溜息を吐いて今日の衣装に目を向ける。
桐生の手に持たれていたのはホビーショップで見るような仮装の衣装。今まで桐生が用意していたのは結構質が良かった為見るからにパーティグッズのそれに少し意外だなと瞬きをした。
「今日のコンセプトは初めての女装です」
口角を上げて得意げに笑う桐生にむかついて脇腹にパンチした僕は悪くない。
引ったくるように薄い袋に入った衣装を奪って桐生に背を向けて服を脱いでいく。着替えはいつも桐生の前でしている。抵抗が無いと言えば嘘になるけど「だって男同士じゃん」と言われてしまえば僕に取れる選択肢なんて一つしか無かった。
でも何回もやっていれば慣れるもので最早作業と同じ感覚で服を広げる。やはり生地は薄いし今まで着た服を思うと安っぽく感じるし実際そうなんだろう。
でも確かに世間一般でいう初めての女装とやらはこのレベルに違いないし、コンセプトには合っているのかと思うと心中は複雑だ。
「…ていうかセーラーじゃん。また撮るの?」
「うん」
やけに短いスカートに生地の薄い上着、スカーフは真っ赤でいかにもコスプレですと言わんばかりの服だが恐ろしい事に僕はもうそれらに抵抗が無くなっていた。
着せ替え人形はきっとこんな感情なんだろう。
「雪穂ってさ、背中綺麗だよね」
掛けられた声は思ったよりも近くて、振り返ろうとした矢先背筋をなぞられて僕は叫んだ。
「やめろこのばか‼︎」
人の気も知らないでと苛立ちのまま睨んだ桐生の表情に心臓がどくりと脈打った。
熱を孕む、というのはきっとこんな顔なんだろう。
「…な、に…」
思わず一歩後退った僕を桐生は静かに見ていた。ただ見て、じっくりと見て、急に片手で口を覆った。
「下スカートで上は裸の破壊力やば…‼︎ 倒錯的ってこういう事を言うのかな、きっとそうだ。なるほどこれが。雪穂全身白くて綺麗だから余計に破壊力が凄すぎて最早芸術なのかもしれない。なんか美術館にも有りそうだもんね、それくらい綺麗だし、エロいし、なんかいけない事してる感じがあってめっちゃくちゃクる」
「うるせえど変態どっかに頭ぶつけて気絶しろ」
僕は光の速さで上を着た。
「今までちゃんとした服着せてきたからチープなの着ると更にエロい」
「桐生の目ってどうなってるの本当に。腐ってるの」
「生きてきた中で今多分一番視力が良い。今なら多分透視も出来そう」
「きっも」
「チープなセーラー着た黒縁メガネの女装男子にゴミみたいな目で見られるってなんでこんなにも興奮と幸せを同時に運んできてくれるんだろうね?」
「知らないよ」
肺の中の空気を全部抜くように息を吐き出して興奮気味に鼻息を荒くする桐生の肩を殴る。
学校でも運動をしている時でも、数いた恋人の前でも桐生はこんな顔をしていなかった。
だからこれは現状ではきっと僕一人が知っている桐生の顔。その事に対する優越感があるから僕は桐生の誘いを断らないし、桐生が「もういい」って言うまでこの関係を続けて行くんだろう。
「今日はメイクしないの」
「やっぱり積極的になってきたよね雪穂」
「もうそれでいいよ。で、するのしないのどっち」
「んー…今日はいいかな。制服の時はノーメイクの方が良いし、雪穂はメイクしてなくてもかわいいから」
「……お前、誰に対してもこんななの」
僕は一年の頃から桐生を見てきた。でも見ているだけで桐生がどんな会話をしていたのかなんて全く知らない。恋人らしい女子といる時も、もしかしたら桐生はこんな風に惜しげも無く歯の浮くようなセリフを言っていたのだろうか。そう思うと胸が少し傷んだ。
「こんなって言うのは?」
「…可愛いとか綺麗とか」
「あー、言わないね」
ふわりと心が軽くなる。単純だなって自分でも思った。
「だって面倒臭いじゃん、勘違いされるの」
ガツンと鈍器で殴られたような衝撃が襲った。浮上した心が一気に鉛みたいに重たくなって沈んでいく。それと一緒に口の中がカラカラに乾いていく。
「社交辞令的なのでもさすぐに気があるのかもーって勘違いする子っているんだよ。結構面倒臭い目に遭ってきたから言わないようにしてる」
どう形容したらいいのか分からない感情がお腹の奥で渦巻いている。苦しさと悲しさと羞恥心がない混ぜになった、ヘドロみたいなそれがどんどん僕の首を絞めていく。でもそれを悟られる訳にはいかなくて、僕は興味がないみたいな顔をして「へえ」って言った。
「あ、でも雪穂に言ってるのは全部本心だよ。雪穂は本当に可愛いし綺麗だしあとエロい」
「男にそんなの言われても嬉しくない」
嘘だ、本当は嬉しい。
キスされた時ももしかしたら僕にも可能性があるんじゃないかって思った。こうして二人でいる今も、もしかしたらって。
だけどそんなはずない。桐生が僕にかわいいって言ってくれるのも、きれいだってえろいって言ってくれるのも、全部僕が男だからだ。
面倒事が発生しない男だから、桐生はそう言ってるだけなんだ。
──
スマホが震えてメッセージの着信を教える。
休み時間で少し騒がしい教室の中で僕はスマホを取り出して画面を見た。初期設定のまま変えていない待ち受け画面にメッセージアプリの通知が表示されている。
『今何してるの?』
「……」
よく分からないスタンプと一緒にその文を送ってきたのは桐生だ。
自分の眉間に皺が刻まれるのがわかり、少しささくれだった気分を落ち着ける為に細く長く息を吐き出した。
『見えてるだろ。何もしてないよ』
『俺が見えてないだけで何かやってたかもしれないじゃん』
授業間の休み時間は短い。それなのにその時間の度に集まって騒ぐ連中のほとんど中心に桐生はいる。カースト上位組の声は大きいがその中に桐生の声は聞こえないからきっと今は意識をスマホに向けているのだろう。
『人が邪魔で顔見えないけど多分今すごい眉間に皺寄ってるに100円』
『くたばれ』
騒がしいのは桐生達のグループだけでそれ以外は気にならない程の音量だ。そんな状態だからこそ僕の返信を見たらしい桐生の吹き出すような笑い声がよく聞こえた。
「何急に笑い出してビビるんですけど」
「桐生クンさっきからスマホ見てニヤニヤしてたよ」
「──彼女だろ」
「はああ⁉︎」
休み時間が終わるまで後数分というところで見た目が派手な女子数名の悲鳴のような声が上がった。彼らは常に自分達が世界の中心だから気が付かないだろうが、そうじゃない僕達みたいな人種は気配を消す。だから今教室は彼ら以外しんと静まり返っていた。
「聞いてないんですけど! てかどこ情報よそれ⁉︎」
「田中―」
「じゃあガチじゃん! ええうそうそー、次はあたしと付き合うって言ったじゃん桐生〜」
「記憶に無いですね」
「クズ!」
桐生の体に寄り掛かる学校でも美人だと噂の女子に心臓が嫌な音を立てて軋む。
「てかいつからなの。オレらも知らなかったんですけど」
「黙秘権を行使します」
ワイワイガヤガヤ、そんな言葉がこれ以上ない程似合う騒がしさにまた眉間に皺が深く寄る。なんの関係もない話題なら流せてしまえるがこの件に関してはそうも行かず、何も気にしていない振りをして次の授業の準備をしつつも聴覚はしっかりと賑わいの方に向いている。
頼むからこのまま黙秘し続けていてくれ。それ以上深掘りしないでくれ。
何故なら多分その彼女と言われている人物は女装した僕だ。あまりにも心臓に悪過ぎる状況に胃がむかむかする。
「写真とかないの?」
「無い。あっても見せない」
「え、以外。桐生クン今までの彼女とかさらっと見せてたじゃん」
「すんごいかわいいから誰にも見せたくないんだよね」
一瞬、教室が無音になった。
女子のかしましい声と次の授業を知らせるチャイムが鳴ったのはほとんど同じタイミング。先生が「うるさいぞー」とハリのない声と共に前側の扉から入って来て、カースト上位組は渋々といった様子で席へと戻っていく。
またスマホが震えた。
日直の号令が終わった後、先生にバレないように画面を見た。
『顔赤いよ』
「っ!」
反射的にスマホの電源を落として引き出しの奥へとしまい込む。ばくばくと心臓がうるさくて、顔が熱いのが自分でもわかる。長い前髪で極力顔を隠してまだ夏の熱い風を運んでくる窓側に顔を向けた。夏真っ盛りの8月よりかは多少和らいだ気のする風に吹かれながらふと視線を僕よりも前の席に座る桐生の方にやる。そこにはいつも通りのそいつが居て、僕はちょっとむかついた。