椎名美晴(しいなみはる)は、みなとみらい線を終点の元町・中華街駅で降りた。ここが美晴の新天地だ。
 華やかな店が並ぶ元町商店街から角を曲がると代官坂。ちょっと行くと道は三つに分かれる。一番右が目指すルートのはずだ。

「……あれ、階段?」

 右側は幅の広い石段だった。スマホの地図を拡大すると薄く横線が入っていて、どうやら道順は合っているらしい。
 十段ほどで踊り場。そこから直角に折れた先をのぞき、美晴は硬直した。

「う、そ」

 細い階段が、長々と丘に貼りついている。
 空へ続くようにゆるく曲がって消えるその道が、引っ越し先への最短コースらしかった。美晴の頬がひきつる。

「聞いてない……」

 内見の時は、不動産屋の車で別の道を連れて行かれたのだった。徒歩で駅に行くならあちらですと指し示されたものの、歩かなかった経路がこれだろう。
 だってあの日は異動先の支店にも顔を出さなきゃならなくて時間がなかったのだ。
 季節外れの転勤は、いまいましい元彼のせい。こんなケチがついたのも男の呪いのように思えて萎えた。
 浮気男のことなど忘れて気分が上がるようにと高台の部屋にしたのだけど……思ったよりハードな道っぽい。

「あーあーあー、私が馬鹿でした!」

 でも行くしかない。
 ダラダラ続く階段に、登山気分にさせられた。秋らしい爽やかな風が吹いているのに汗ばむ。

 美晴の目的地は〈元町百段荘〉というアパートだった。
 〈荘〉なんて名前からしてボロアパート疑惑があったが、見てみれば綺麗で安心した。でも注目すべきは〈百段〉の方だったらしい。この階段のことか。
 なんとか登りきると、繁華街と首都高のざわめきが聞こえた。横浜の中心部が見渡せて胸がスッとする。
 すぐそこにマリンタワー。ちょっと先にランドマークタワー。眼下の首都高の向こうに広がるのは中華街。
 今回は不本意な成り行きでの引っ越しだった。それでもこの立地に暮らすのは魅力的だと思う。
 ――こうなったら休日には、美味しいものを食べ歩いてやる。そう美晴は決意した。




「――え。しぃちゃん!」

 高校時代のあだ名で呼ばれたのは、引っ越し作業の最中だった。
 百段荘の前で待っていた不動産屋とガス屋相手に諸々の手続きを済ませ、やって来た運送業者に一人暮らしの家財道具を運び入れてもらい。そうしていたら、隣の隣の部屋から住民が出てきたのだ。
 セミロングの黒髪を飾りけなく後ろにまとめた女性に見覚えがあって――。

「うわ! ゆっきー!?」
「本当にしぃちゃんだ! 何、引っ越し? ここに住むの?」
「うん。ゆっきー住んでるの?」
「そう! マジでご近所さん!」

 二十八歳という年甲斐もなく、きゃあきゃあはしゃいでしまった。

 彼女は宮下幸奈(みやしたゆきな)、通称ゆっきー。
 高校の同級生で、いつも一緒にお弁当を食べるレベルの仲良しだった。
 でも年賀状のやり取りもしない同年代同士だと、詳しい現住所は把握していない。横浜にいるとは聞いた気がするけど、まさか会うなんて思わなかった。

「びっくりした……荷物片づけたら挨拶に行くから」
「おっけー。私も買い物行くし、後でね!」

 出かけていく幸奈を見送り、気合を入れ直した。荷ほどき頑張ろう。
 でも今日は平日なのに、幸奈は休みなんだな、と少ししてから思った。
 彼女はなんの仕事をしているんだっけ?



「私は写真スタジオの助手だよー。だから休みの日はまちまちで」
「へえ」

 運んだ荷物を片づけて、どうにかこうにか住めるぐらいの状態に持っていってから幸奈の部屋を訪問した。すると「引っ越し祝いに宴会しよ」と誘われる。宅飲みだ。
 美晴の部屋と同じつくりのワンルーム。フローリングに置かれた低いテーブルとクッションにお邪魔すると、幸奈が買って来たお惣菜を出してくれる。食事までは手がまわらずにいた美晴を見透かすように準備がよかった。
 ビールやお茶も用意し、ありがたく招かれて乾杯。近況を報告し合っているところだ。

「つっても私は写真の勉強したわけじゃなくてね。カメラマンと撮られる人の、間に立って調整するの。あとは効果担当」
「効果?」
「ウェディングフォトが多くてさ、シャボン玉吹いたり花びら散らしたり」
「すご」

 笑ってしまったが、人生の記念の写真だ。美しく撮りたいのはわかる。
 そういう場面の裏方として働くのは幸奈にぴったりだと思った。昔から面倒見がよくて、行事の委員なども楽しそうにこなす子だった。

「しぃちゃんは仕事で引っ越してきたの?」
「そ。こっちの支店に異動。インテリア全般の店なんだけど」

 中堅チェーン店の名をあげたら、ああ、とうなずかれた。そう遠くない場所に店舗をかまえているのだ。

「高くはないけど、あっさり壊れたりしないよね、あそこの家具は。実家で買ったことある」
「お買い上げありがとうございまーす」

 営業スマイルでビールをあけたら、幸奈が新しく注いでくれた。
 お互いアルコールがいけるクチだと判明し、不思議な気分。だって一緒にいた頃は高校生だったのに。
 出されたお惣菜を遠慮なくつまみながら、大人になった友人と飲むビール。最高だ。

「ゆっきー、このポテサラどこの? めっちゃ美味しい。わさび入ってるじゃん」
「駅のあっち側のディスカウントストア。生鮮品置いててさ」
「へー使えそう、私も行ってみよ」
「この枝豆もいいよん。漬け物みたいになってるの」
「おお、出汁きいてる!」
「でしょでしょ」

 明日は仕事という幸奈はガッツリにんにく系は買ってこなかった。助かる。美晴も明日から、新しい職場に出勤だ。
 ちょっと、いや、とても憂鬱な気分ではあるけれど。

「……ねえゆっきー、このあたりの美味しいお店なんかも知ってる? 中華街とかで」
「もちろーん! 結婚まで持ち込んだカップルがお客さまだからね。横浜デート話をいろいろ聞くよ」
「やった、おしえておしえて! もうそんなメリットでもなきゃ、やってらんない」
「……転勤したの、出世じゃなさそうだね」

 テーブルにひじをついて泣き言をくり出したら、幸奈の苦笑いが返ってきた。ちゃんと受け止めてもらえたことに安堵して、美晴はちょっとだけ笑う。

「わかるかい、友よ」
「いや、わかりやすくグチられたし」
「もーマジ、男なんていらん。社内で三股するとかありえん」
「みつまた!」

 幸奈に目をまるくされ、やはり元彼の所業はレアケースだよなと美晴の怒りがぶり返した。