椎名美晴(しいなみはる)は、みなとみらい線を終点の元町・中華街駅で降りた。ここが美晴の新天地だ。
 華やかな店が並ぶ元町商店街から角を曲がると代官坂。ちょっと行くと道は三つに分かれる。一番右が目指すルートのはずだ。

「……あれ、階段?」

 右側は幅の広い石段だった。スマホの地図を拡大すると薄く横線が入っていて、どうやら道順は合っているらしい。
 十段ほどで踊り場。そこから直角に折れた先をのぞき、美晴は硬直した。

「う、そ」

 細い階段が、長々と丘に貼りついている。
 空へ続くようにゆるく曲がって消えるその道が、引っ越し先への最短コースらしかった。美晴の頬がひきつる。

「聞いてない……」

 内見の時は、不動産屋の車で別の道を連れて行かれたのだった。徒歩で駅に行くならあちらですと指し示されたものの、歩かなかった経路がこれだろう。
 だってあの日は異動先の支店にも顔を出さなきゃならなくて時間がなかったのだ。
 季節外れの転勤は、いまいましい元彼のせい。こんなケチがついたのも男の呪いのように思えて萎えた。
 浮気男のことなど忘れて気分が上がるようにと高台の部屋にしたのだけど……思ったよりハードな道っぽい。

「あーあーあー、私が馬鹿でした!」

 でも行くしかない。
 ダラダラ続く階段に、登山気分にさせられた。秋らしい爽やかな風が吹いているのに汗ばむ。

 美晴の目的地は〈元町百段荘〉というアパートだった。
 〈荘〉なんて名前からしてボロアパート疑惑があったが、見てみれば綺麗で安心した。でも注目すべきは〈百段〉の方だったらしい。この階段のことか。
 なんとか登りきると、繁華街と首都高のざわめきが聞こえた。横浜の中心部が見渡せて胸がスッとする。
 すぐそこにマリンタワー。ちょっと先にランドマークタワー。眼下の首都高の向こうに広がるのは中華街。
 今回は不本意な成り行きでの引っ越しだった。それでもこの立地に暮らすのは魅力的だと思う。
 ――こうなったら休日には、美味しいものを食べ歩いてやる。そう美晴は決意した。




「――え。しぃちゃん!」

 高校時代のあだ名で呼ばれたのは、引っ越し作業の最中だった。
 百段荘の前で待っていた不動産屋とガス屋相手に諸々の手続きを済ませ、やって来た運送業者に一人暮らしの家財道具を運び入れてもらい。そうしていたら、隣の隣の部屋から住民が出てきたのだ。
 セミロングの黒髪を飾りけなく後ろにまとめた女性に見覚えがあって――。

「うわ! ゆっきー!?」
「本当にしぃちゃんだ! 何、引っ越し? ここに住むの?」
「うん。ゆっきー住んでるの?」
「そう! マジでご近所さん!」

 二十八歳という年甲斐もなく、きゃあきゃあはしゃいでしまった。

 彼女は宮下幸奈(みやしたゆきな)、通称ゆっきー。
 高校の同級生で、いつも一緒にお弁当を食べるレベルの仲良しだった。
 でも年賀状のやり取りもしない同年代同士だと、詳しい現住所は把握していない。横浜にいるとは聞いた気がするけど、まさか会うなんて思わなかった。

「びっくりした……荷物片づけたら挨拶に行くから」
「おっけー。私も買い物行くし、後でね!」

 出かけていく幸奈を見送り、気合を入れ直した。荷ほどき頑張ろう。
 でも今日は平日なのに、幸奈は休みなんだな、と少ししてから思った。
 彼女はなんの仕事をしているんだっけ?



「私は写真スタジオの助手だよー。だから休みの日はまちまちで」
「へえ」

 運んだ荷物を片づけて、どうにかこうにか住めるぐらいの状態に持っていってから幸奈の部屋を訪問した。すると「引っ越し祝いに宴会しよ」と誘われる。宅飲みだ。
 美晴の部屋と同じつくりのワンルーム。フローリングに置かれた低いテーブルとクッションにお邪魔すると、幸奈が買って来たお惣菜を出してくれる。食事までは手がまわらずにいた美晴を見透かすように準備がよかった。
 ビールやお茶も用意し、ありがたく招かれて乾杯。近況を報告し合っているところだ。

「つっても私は写真の勉強したわけじゃなくてね。カメラマンと撮られる人の、間に立って調整するの。あとは効果担当」
「効果?」
「ウェディングフォトが多くてさ、シャボン玉吹いたり花びら散らしたり」
「すご」

 笑ってしまったが、人生の記念の写真だ。美しく撮りたいのはわかる。
 そういう場面の裏方として働くのは幸奈にぴったりだと思った。昔から面倒見がよくて、行事の委員なども楽しそうにこなす子だった。

「しぃちゃんは仕事で引っ越してきたの?」
「そ。こっちの支店に異動。インテリア全般の店なんだけど」

 中堅チェーン店の名をあげたら、ああ、とうなずかれた。そう遠くない場所に店舗をかまえているのだ。

「高くはないけど、あっさり壊れたりしないよね、あそこの家具は。実家で買ったことある」
「お買い上げありがとうございまーす」

 営業スマイルでビールをあけたら、幸奈が新しく注いでくれた。
 お互いアルコールがいけるクチだと判明し、不思議な気分。だって一緒にいた頃は高校生だったのに。
 出されたお惣菜を遠慮なくつまみながら、大人になった友人と飲むビール。最高だ。

「ゆっきー、このポテサラどこの? めっちゃ美味しい。わさび入ってるじゃん」
「駅のあっち側のディスカウントストア。生鮮品置いててさ」
「へー使えそう、私も行ってみよ」
「この枝豆もいいよん。漬け物みたいになってるの」
「おお、出汁きいてる!」
「でしょでしょ」

 明日は仕事という幸奈はガッツリにんにく系は買ってこなかった。助かる。美晴も明日から、新しい職場に出勤だ。
 ちょっと、いや、とても憂鬱な気分ではあるけれど。

「……ねえゆっきー、このあたりの美味しいお店なんかも知ってる? 中華街とかで」
「もちろーん! 結婚まで持ち込んだカップルがお客さまだからね。横浜デート話をいろいろ聞くよ」
「やった、おしえておしえて! もうそんなメリットでもなきゃ、やってらんない」
「……転勤したの、出世じゃなさそうだね」

 テーブルにひじをついて泣き言をくり出したら、幸奈の苦笑いが返ってきた。ちゃんと受け止めてもらえたことに安堵して、美晴はちょっとだけ笑う。

「わかるかい、友よ」
「いや、わかりやすくグチられたし」
「もーマジ、男なんていらん。社内で三股するとかありえん」
「みつまた!」

 幸奈に目をまるくされ、やはり元彼の所業はレアケースだよなと美晴の怒りがぶり返した。

 横浜に来る前に美晴が勤めていたのは、関東平野の真ん中らへんにある支店だった。
 やや郊外なので、広大な敷地と品ぞろえが自慢。もちろん社員もパートもたくさんいた。
 だからって。
 家具部門のコーディネーターである美晴とつき合っていると公言していたのに、パートの色っぽい人妻と不倫した上にインテリアアクセサリー担当のきゅるんとした新入社員を引っかけるとか何を考えているんだろう。
 しかも三人の女のうち、美晴がいちばん地味。というか普通。
 おかげで散々な言われ方をした。「〈本命〉って言葉の意味w」「隠れ蓑にされただけ?」。男性社員だけの会話では「アレがつまんなかったんだろ」。
 そんな噂が横浜支店まで伝わっていないともかぎらない。各地に散った同期たちのネットワークはあなどれないのだ。


「……んで、どうだったん?」

 初出勤、勤務、帰宅後。
 同じく仕事終わりの幸奈を、昨日の返礼に美晴の新居に招いた。ローテーブルにお惣菜とビールを出し、美晴はぶすっとした。

「伝え聞いてる人はいると思う。朝礼で微妙な視線よこす奴いたもん」
「やっぱりか」
「箝口令しいたわけじゃないし、それは覚悟してたよ」

 話しながら、とりあえずビールだ。
 プシュ、と缶を開け、乾杯した。何に乾杯してるんだかわからないけど、のどに流れ込む苦みが美味しい。

「くぅーッ!」
「どうどう」

 幸奈が困った顔でなだめてくれた。

「しぃちゃんは被害者なんだし、くだらないこと言う奴がいても気にしなくていいんだよ」
「もちろん。それで折れるメンタルなら退職してる。いやこれから折れるかもしれないけどさ……でもなんで私が転職活動しなきゃなんないのよ。そんなの癪にさわるから異動で手を打ったんだわ」
「その意気だ! まあ飲も! てかこのツマミ、あの店のだよね?」
「そう。教えてもらったディスカウントストア。料理する気になれなかったし」
 
 買ってきたお惣菜は、いちおう皿に移してある。それだけでやや良い物に見えたりするから不思議だ。

「……しぃちゃんは、こういう気づかいのバランスがいいんだよね。頑張れない時には頑張らないのに、ちょっとだけ幸せをプラスする。変わんないな」
「そうだったっけ?」

 ホッとしたような笑顔の幸奈に、美晴は首をかしげた。自分のことって、他人からどう見えているかよくわからない。

「そーだよー。いき過ぎると〈細やかな暮らし〉とか〈意識高い〉とかなるやつなんだけど、しぃちゃんはイイって思ったことをこっちに押しつけないし、本人も気分で力の抜きどころがわかってるから」

 美晴は身の回りをととのえ、飾るのが好きだ。お気に入りの物が普段使いにあるだけで気持ちが前を向くのが楽しい。それでインテリアに興味を持ったのだ。
 誰かのそういう心を手助けできる、今の仕事も好き――だから退職したくなかった。

「力の抜きどころかぁ……」
「しぃちゃん傷ついたでしょ、そんな男にあたっちゃって。しばらくグダグダしてなよ。料理なんかしなくても死なないし、おしゃれだって自分のためだけにするの楽しいし」
「……ゆっきー大好き」

 本当に好き。美晴はちょっと泣きそうになった。

 裏切られて、噂されて、異動して、引っ越して。
 新しい街で暮らすことになったのはリセットという意味で救いだけど、つらくもある。こうして旧友に会えたのは天の助けだ。

「マジくだらない男にすり減らされるぐらいならフリーがいいでしょ。男なんてたくさんいるし、男なんていらないって説もあるから。今は休憩しときなね」
「そうする。ゆっきーは彼氏とかどうなの?」
「あー、学生時代はいたんだけどね……ほら私の仕事、週末休みじゃないことが多いじゃない。すれ違いが続くと駄目になるんだわ。それになんていうか、今はそんなに興味なくなってるかな」
「恋愛に?」
「うん。仕事おもしろいし、結婚と出産のビジョンが見えない」

 それもアリなのかもしれない。自分が生きるぶんの稼ぎがあって、こうして友だちと美味しいものを食べる時間があれば。幸せってそんなものかも。

「あ、この軟骨、うま」

 美晴はひょいと食べた柚子味噌軟骨で声を上げた。
 ふわりとした柑橘の香りと炭焼き風味の鶏軟骨が合う。大ぶりの食べごたえもいい。味噌のおかげで、なんならご飯もいけそうだ。
 そう聞いて手を出した幸奈もうなずいてくれた。

「うん、私これ買ったことなかったけど、酒がすすむやつだわ」
「いかん、呑兵衛一直線じゃん。ゆっきーと会わない日はつまみ系じゃないもの買ってこないと」
「私は飲み友だちってことかい……あ、ならいい居酒屋も知ってるんだけど」
「いや、ちょっと待って」

 そんな本気の返しが来ると思わなかった。吹き出してしまったが、幸奈は真面目な顔だ。

「私らの間の部屋の住人がね」
「うん?」

 美晴と幸奈の真ん中に住む人に、美晴はまだ会っていなかった。幸奈はちゃんと知り合いらしい。

板谷(いたや)沙都子(さとこ)っていうんだけど、その沙都(さと)ちゃんが和食居酒屋の店員なのよ。調理の方の修行中で」
「へえ、料理人なんだ」
「そこが美味しかったんだ。石川町の方」
「ふうん、じゃあ機会があったら連れてって……あ! 石川町ってことは、平地だよね?」
「あたりまえじゃん。丘の上に店なんて少ないし」
「じゃあ酔ってから、ここまでのぼるってこと?」

 それはちょっと、と美晴は尻ごみしてしまった。今日も仕事帰りにお惣菜とビールをぶらさげて帰るだけでヒイコラ言ったのだ。だがもう慣れっこの幸奈は笑い飛ばしてくる。

「この辺で暮らすと健脚になれるよ。おばあちゃんになっても元気でいられそうでいいじゃん、トレーニングしなきゃ」
「無茶言うー。階段ほんとにキツいんだけど」

 泣き言に幸奈は首を横に振った。平地の部屋は家賃が高いか周辺の治安が悪いかどちらかだと。そういえば不動産屋ですすめられたのは丘の上の物件ばかりだった。

「んじゃ石川町からは、なるべくゆるい道を選んで帰ろ。沙都ちゃんは二十三ぐらいだったかな。年下だけど、なんかおもしろい子で仲よしなんだ。こんど紹介するよ」
 
 幸奈がおもしろいと言うのなら、きっといい子だと思う。ここでの知人友人が増えるのはウェルカムなので楽しみだ。
 でも坂道を帰宅すると考えると――セーブして飲まなきゃ。美晴は節制を誓った。

「板谷ッス。よろしくッス」
「椎名美晴です……」

 おもしろい、と幸奈が言った板谷沙都子は、ちょっと美晴の職場にはいないタイプだった。
 長めのボブヘアにスモーキーピンクとモスグリーンのメッシュ入り。派手な見た目なのに淡々とした無表情で、律儀に丁寧語で話す。
 今は、真っ昼間。店に飲みに行ったわけではなく、同時に部屋を出たために遭遇しただけだった。幸奈は抜きで隣人として挨拶したのだが、いちおう言っておく。

「ええと、そっちに住んでる宮下幸奈と私、高校の同級生なんです」
「ああユッキーさんの。んじゃシーナさんも先輩ッスね」
「いやもう大人なんだし、ちょっとの年の差だけで先輩後輩っていうのやめましょうよ。職業だって違いますし。気楽な隣人として、ぜひ」
「そうッスか、あざす」
「お料理のお仕事ですよね、ゆっきーに聞きました。こんどお店に行こうって誘われて」
「まじッスか。いつでも歓迎しますんで、よろしくッス」

 きっちり礼をし、出勤するッス、と出て行く沙都子。歩き出すのは元町・中華街駅へおりる階段とは反対側だ。あちらは石川町駅方面。
 美晴は休日なので、ちょっと観光地を散歩してみるつもりだった。だからいつもの階段へ。

「沙都ちゃん……て私も呼んでいいかなあ」

 なんだか部活の後輩みたいだった。しゃべり方のせいかもしれない。慕われる先輩になれるだろうか。
 先輩後輩じゃなくと言ったくせにそんなことを考えてしまい、美晴は照れて笑った。


 丘の下にあるのは元町商店街だ。人気の服飾店とカフェが並び、犬を連れて歩いている人までいちいちおしゃれ。
 あとは宝石店も多かった。結婚指輪を扱っているのだけど、そういえば港の周辺には結婚式場もたくさんある。
 だって横浜は、異国情緒あふれる街並みや海の景色が映える街だから。恋人たちが吸い寄せられてくるのもわかるけど……今の美晴には全く無関係だった。

 職場では、ひとまず落ち着いて仕事ができている。店舗のレイアウトや品揃えにも慣れたし、同僚たちも前店での騒動には表向き言及してこなかった。
 裏で何か言われているかもと気にするのは被害妄想じみてくるし、そんなことを気にしたらやっていけないので考えないようにしている。
 でもそう思えるのは、職場以外で友だちがいるからだろう。幸奈には感謝しかない。


 ひとり気楽にぶらりと歩くのは、思ったより楽しかった。やはりまずは海かな、と山下公園へ向かってみる。

「うわ……っ」

 海が近づくといきなり風が強くなった。秋も深まり、すこし肌寒い。
 公園沿いの道は両側がイチョウ並木で、葉はまだ緑色を残しているのに歩道には銀杏がたくさん落ちていた。けっこう臭いのがおしゃれじゃなくて、なんとなく笑えた。
 足早に公園に逃げ込んだら、すぐそこにバラ園がある。秋のバラと様々な花が咲きみだれていて夢のようだ。やや低くなった花壇に近づくと芳香がただよい、こんどこそおしゃれだった。

「あれ、花嫁さん」

 そのバラに囲まれ、白いドレスの女性がいた。
 いや、まずドレスが目をひくだけで、ちゃんと花婿も隣にいる。幸せそうな二人にカメラを向ける人がいて――その後ろに立っているのは、幸奈だった。
 そうか、これがウェディングフォト。思いがけず幸奈の仕事場に遭遇したらしい。
 邪魔しないように見守ってみたら、一枚撮るごとに花嫁のドレスの裾を広げ直し、自然な笑顔になるように話しかけ、やや日が陰れば反射板を用意し、幸奈はくるくると動いていた。
 しばらくすると一段落したのか、幸奈が花嫁にベンチコートのようなものを着せかけた。そうか、肩の出たドレスだと寒い気候だ。とにかく気づかいが大切なんだなと感心して、美晴は遠慮がちに歩み寄った。

「ゆっきー」
「え? わ、しぃちゃん」
「ちょっと観光してたら花嫁さん見つけて。こういう仕事なんだね」
「見てたの? ふふん、お綺麗でしょ」

 幸奈は撮影用のブーケをそうっと袋に入れ、立ち上がる。話しかけた美晴をきょとんと見た花嫁が可愛らしく、目礼を返した。

「いいもの見たなあってご利益感じたよ」
「そうそう。ありがたやー、ってなるよね。たまに言われるわ」

 へへ、と得意げな幸奈はまだ仕事中。場所を変えて撮影を続けるらしい。新郎新婦とカメラマンにもペコリとして、美晴は歩き出した。
 ――すてきな仕事だな。


 港は波がおだやかで、大桟橋にはクルーズ船が停泊している。公園の真ん中にある噴水には何かの女神像が立っていて、そういえばこのあたり、テレビのニュース番組でよく映るかも、と気づいた。
 見回すと海と反対側、道路の向こうの方に青っぽい門があって、あ、となった。あれは中華街の朝陽門。よし、行ってみよう。

 足を踏み入れた中華街は、日本だか台湾だかわからない不思議な街並みだった。入ってすぐにあるのはパンダキャラだらけの観光案内所、そしてシウマイ屋。全国的にはシュウマイだけど、ここの商品は〈シウマイ〉というらしい。

「今日は食べ歩きかな」

 お昼はどこかで食べようと思って出てきていた。お店に入ってもいいけれど、たくさんありすぎてよくわからないし、あちこちで観光客が立ち食いしていて目の毒だ。見ていると参加したくなる。

「ええと、肉まん……胡椒餅……うわ、大きな唐揚げがいい匂い。ちょっとチャーシューメロンパンってどういうこと、甘いしょっぱいの無限機関なうえにカロリー爆弾じゃん!」

 目移りしてしょうがない。美晴はそんなに大食いではないので、食べるものは厳選しなければならないのだ。まあこれからは近所なんだから、しょっちゅう来れるんだけど。
 今日はけっきょく大人気の焼小籠包にした。四個入りで、半分ずつ味が違うらしい。
 道の端に立ちどまり、割り箸で緑色の皮を破った。これは海鮮小籠包。中から熱々で透明の汁があふれ出し、期待に目を細めた。汁は容器にためておいて、とりあえず本体をかじる。

「あふっ、うまっ」

 焼かれた底面がガリリと香ばしく、肉はじゅんわりジューシー。エビのプリ感もよかった。すこし冷めたスープを飲めば、心に染みる。
 でも大満足しながら周りを見ると、おひとりさまはあまりいなかった。そりゃそうか、みんなで遊びに来るところだし。

「……でも、負けないもんね」

 アラサー女子を舐めるなよ。
 好きなことをして生きられる、超ボーナスタイムが今なのだ。

 美晴はさらにハリネズミまんも買った。見た目の可愛さに食べるのがためらわれたが、ガブリといく。尖ったハリ部分の生地のクッキーぽさと、中のとろけるカスタード。美味しい。

 なんだかすごく、幸せだった。

 さて、やっと幸奈と休日が重なった美晴だが、その前日は沙都子の店に飲みに行けなかった。二人とも仕事のあがりが遅かったからだ。
 じゃあ休日の夕方から行くかと思ったら、沙都子の方も店休日だという。ならば昼間に三人で何か食べよう、ということになりぞろぞろ出かけた。ほぼ初対面の美晴と沙都子だが、間に幸奈がいてくれれば何の問題もない。

「へえ、ユッキーさんとシーナさん、十年ぶりの再会ッスか。すごい偶然ッス」
「だよねえ」
「でも、ひと目でわかって笑ったよ」

 女三人、話すことは尽きない。目的の店を決めずに歩くのも楽しいものだ。だが平日のランチを出してもらえる時間に行った方がオトクだと言われ、何を食べるか相談する。そこはやはり料理人の沙都子が詳しかった。

「中華街はガチ中華と観光客向け中華があるんで気をつけるッス。元町と山下と石川町ならヨーロッパ系いろいろあるッスね。アメリカンダイナーは夜の方が雰囲気あるッス。あと南インド料理は、よくあるインドネパール系とはちょい違うッス」
「お、おう……」

 ズラーッと言われてびっくりしたが、もちろん和食も蕎麦屋に寿司屋、各種あるという。沖縄料理屋も何故か多いとか。

「選択肢がありすぎるのも困るね……今、沙都ちゃんの気になってる店はどこ?」

 幸奈にならって美晴も「沙都ちゃん」呼びをさせてもらうことにした。沙都子はうーん、と考え込む。

「……ちょいガチな東北料理なんスけど」
「東北?」

 それは日本の東北地方じゃなく、中国東北部のことだそうだ。漢人の地域ではなく、遊牧民の文化が色濃い。

「羊とか、クミンとか、匂いきつめなんで好みが別れるとこッス」
「いや、いいんじゃない。私そういうの知らないから教えてもらえるなら嬉しいよ」

 美晴と幸奈の賛同を得て、沙都子の気になる店に連れて行ってもらうことになった。
 元町を横切り、朱雀門から中華街へ。そのまま突っ切って中華街の向こう端まで行ったところにその店はあった。
 けして広くない店内だが昼の混雑は一段落していて、なんとか三人で座れた。ランチメニューを示し、沙都子がごくりとつばを呑む。

「見るッス。この一人鍋」
「うわ美味しそう、しかも千円でおつりが!」
「お客さんに聞いて気になってたんス……付きあわせて申し訳ないッス」
「いやいや、これは気になるよ」

 チラリと隣のテーブルを見ると、小さな銅鍋から湯気が立っていてそそられる。本日の鍋は三種類だったので、全部注文して分けあうことにした。

 待っている間に話していて判明したのだが、沙都子は横浜の地元民らしい。親が祖父母のいる故郷に戻ってしまったのでアパート暮らしなのだとか。美晴と幸奈も神奈川県内育ちだが、西部ののんびりした町の出だ。

「百段ってのは、駅への階段のことじゃないんスよ」

 美晴が慣れない階段で苦労していると言ったら、地元育ちならではの話が飛び出した。
 元町百段。それはアパートが建つ場所の近くに昔あった神社への参道だそうだ。今はもうない。
 幕末に開かれた横浜の港。築かれた居留地。そこを見晴らす丘の上の神社と、下の元町とを結ぶ真っ直ぐで急な石段だったとか。

「すごいね。そんなのあったら人気が出るだろうに、なんでなくなっちゃったの?」
「関東大震災ッス」
「あ……」

 いきなり歴史的事実が出てきて絶句する。
 そうか、横浜や東京はすごい被害を受けたのだと授業でやったけど、実感したことなどなかった。そんな頃に崩れ落ちた場所のことが語り継がれ、建物の名前になっているんだな。

「歴史ある街なんだね……」
「そんなことないッス。幕末までは漁村だった場所なんで、長崎パイセンとか神戸パイセンには太刀打ちできないッスよ」
「違いない」

 店の中なので声をおさえてクスクス笑った。
 そこに鍋が運ばれてくる。羊団子のトマト鍋、白身魚の辛味鍋、豚肉と漬け白菜鍋の三つだ。

「ぜんぶ違う感じ……」
「そッスね。まろやか、辛い、酸っぱいと系統別れてて飽きさせないッス」
「さっすが沙都ちゃん、食べる前からわかるんだ」

 小さなお椀を手に、それぞれ気になるものからいってみた。どれも野菜たっぷり、なのに肉魚もゴロゴロしている。
 トマト鍋を口にして、美晴はきょとんとした。

「え、え。中華なの? 洋風のスープって言っても信じちゃう」

 濃厚な旨味とトロみがあるが、コンソメにも通じる雰囲気だ。トマトのおかげで慣れた味に近いのかもしれない。でもたしかに肉団子は羊肉なのか、あまり食べたことのない匂いだった。不思議そうにしていると、幸奈もスープを一口飲む。

「ああ本当だ。遊牧民の文化はユーラシア大陸を横断してつながってるから、ギリシャ料理とかトルコ料理とかに近い感じかな?」
「そうかあ……」
「私、前にトルコ料理食べた時、普通においしくて拍子抜けしたことあるわ。もっと奇天烈なものが食べられるかと思ったのに」
「わかりにくい誉め言葉」

 美晴と幸奈の無駄口をよそに、沙都子は真剣に味を分析している。漬け白菜の酸味が溶けたスープをじっくり口に含み、「発酵はあっさりめ……鶏ガラとネギ……鷹の爪……でも豚肉の旨味と香りも混然一体……」ふむふむ、とうなずいている。

「……ね、おもしろいでしょ」
「ああ、こういうこと」

 幸奈にこそっとささやかれて納得した。沙都子はおもしろい子だよ、という発言の理由はこれか。リアルに美味しんぼ状態だ。
 とても研究熱心で舌が敏感なんだな、と感心しながらも、美晴だって次の鍋にいく。

「あ、けっこう辛い。これはイメージ通りの中華かも」

 豆板醤と花椒の効いた、唐辛子もたっぷり浮いたスープ。豆もやしとプリプリの白身魚が赤い汁に鮮やかだ。身崩れのしない魚だな、と思ったら「これはパンガシウスかもッス」と指摘された。川魚だが癖がなく、扱いやすいのだとか。

「さすが、本職と一緒に食べるとおもしろいね。中華のことまで勉強したいなんて偉いなあ」
「そんなもんスよ。シーナさんも、道々のエスニックな店を見て興奮してたじゃないッスか」
「え、そうだった?」
「まじッス。インドネシアの飾り彫りの説明してくれたッスけど、そういうの売ってるわけじゃないスよね」
「ぐあ……たしかに、やってたわ」

 美晴の会社は基本シックで組み合わせやすいデザインの物を多く扱う。でもたまにバリ風のインテリアにしたいなんていうお客さまがいたりして、トータルでコーディネートすることもあるのだ。
 大きな家具はシンプルにして、小物の組み合わせで雰囲気を出す。そうしておくと、飽きた時にガラリとテイストを変えられるから。
 苦笑いした美晴の向かいで幸奈も肩をすくめて笑った。

「私も写真に映えそうな建物とか小物とか、常にチェックしてるね。そういうの職業病っていうか、たんに好きなんだろうな。ところでさ……ビール頼んでいい?」
「いこう!」
「うッス」

 全員が即座に同意した。
 平日の昼ビール。そして気の置けない女友だち。
 なんだろう、この幸せは。

 まだ半分残っている鍋を囲み乾杯しながら、美晴はこぼれる笑みを抑えられなかった。いや、抑える必要なんかどこにもない。

 これからも横浜の食べ歩きが楽しみになってきた。
 そして街に残された歴史と、素敵な建物をめぐってみるのもアリかもしれない。坂道で鍛えた健脚で長生きしてやるんだ。

 おひとりさまで。それとも、女同士で!



〈了〉

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