「ごめん……本当にごめん。オタク厄介でごめん……」
再び沙也葉が我に返って平謝りしたのは、翌日のカラオケボックスの中だった。
終盤のクライマックスは大画面が正義!!とプロジェクタールームを予約し、上映会が開催された。
現在午後十時。食事は昼も夜もカラオケ屋のフードメニュー。店に来て十二時間、ほぼぶっ続けで見ていたことになる。
「いいよ、面白かったから」
「ほんと?」
「でもさすがに消化不良起こしそうだから、しばらく咀嚼の時間が欲しいかな」
「そうだよね、ごめんね、私のことは嫌になってもゴーバイは嫌にならないでください」
しおしおとうなだれる沙也葉を見て、瞳子は吹き出した。
沙也葉が来てから、淋しくなる暇がない。物理的にはフラフラだが、母を亡くしてからずっとあった虚ろな脱力感はすっかり消え失せていた。
バーチャル世界の不正と戦うゴーバイラル。パープル担当の紫郷リュウはメンバーの中では年かさで上品な色気を振り撒いているが、戦闘はパワータイプで豪快。武器は大剣である。
この人なら、おしゃれで豪快な料理を作りそうな気がする。
つい、見ながらあれこれとキャラクターの料理に思いを巡らせ、それが存外に楽しかった。
「ヒーローものなんて初めて見たけど、子ども向けな割にダークな設定に踏み込むんだね。びっくりしちゃった」
「子ども向けを侮っちゃいけないよ。小さい人たちは、面白さに素直かつシビアだから」
今まで見ようと思っていなかった、新しい世界が拓けてゆく。価値観のリフレッシュが気持ち良くもあった。
「さて、帰って寝ますか」
瞳子はグラスに残ったドリンクを飲み干し、ソファから立ち上がって伸びをした。
***
「ただいまー」
「沙也葉、洗濯物取り込んで。私お風呂洗うから」
「オッケー」
瞳子は手早くお風呂を洗い、お湯張りボタンを押した。
リビングに戻り、洗濯物を畳んでいる沙也葉に加勢する。
「沙也葉、先にお風呂入って」
「瞳子が先でいいよ」
「沙也葉、薬湯苦手でしょ。今夜は私、薬湯にしたいから」
「そっか。わかった」
沙也葉がお風呂に入ったのを見届けて、瞳子は冷蔵庫を開けた。
***
「お風呂空いたよー」
リビングに入った沙也葉は、漂う出汁の香りに首を巡らせ、ダイニングテーブルに目を止めた。
「……あ」
テーブルのランチョンマットの上には、小ぶりなどんぶり。
その脇で、ヒノちがドヤ顔をしていた。
ヒノちの橫に、吹き出し付箋がついている。
『たいちゃづけ、つくったよ』
「夜食の鯛茶漬けだって」
キッチンから出てきた瞳子が、ランチョンマットに匙を置いた。
「カラオケ屋でジャンクなものばかり食べてきたから、これで胃腸を整えろって」
ご飯の上にはごまだれ漬けにした鯛の刺身、海苔とわさびと茗荷と小口ねぎに、温かい昆布出汁がかかっている。
「ああ……あ~!!」
沙也葉は両頬を覆って身悶えた。
「最高! ありがと、ありがとヒノち~!」
沙也葉はヒノちに駆け寄り、抱き上げてほおずりをした。
「冷めないうちに食べよう」
「うん、いただき……待って、写真!」
沙也葉は一度座った椅子からバタバタと立ち上がり、充電していたスマホを持ってきて写真を撮った。
熱い昆布出汁でレアに火の通った鯛から、上品な旨味が出ている。胡麻が香り高く薬味が爽やかで、なんとも疲れた体に染みる味だ。
「はあ……おいし……完璧すぎる……!」
顔を上げた沙也葉は涙目になっていた。
「おいしすぎて、涙が」
「そんなに?」
沙也葉はうなずいて、しみじみと呟いた。
「幸せ」
やっぱり、料理に喜んでいる人を見るのは最高だ。
瞳子こそ、幸せだった。
その事件が起きたのは、寒さが本格的になったある日の、夕方だった。
「沙也葉、大変!」
瞳子が沙也葉の部屋のドアを激しめにノックすると、慌てた様子の沙也葉が顔を出した。
「どうしたの?」
「ヒノちとリュぴが喧嘩してるの!」
「……え?」
沙也葉はうながされるまま、瞳子と一緒に一階へ下りた。
ダイニングテーブルの上で、ヒノちとリュぴが向かい合わせになって睨み合っている。
「何があったの?」
「これ……リュぴが取り寄せちゃったみたいで」
瞳子は骨つき肉の塊を差し出した。両手にずしりとくる大きさである。重さにして、約五キロ。
「え、これ何」
「生ハムの原木」
沙也葉はぽかんと口を開けた。
「……は?」
瞳子は笑いそうになりながら、必死に神妙な顔を作った。
「買ったの? リュぴが?」
「うん。通販でぽちったみたい」
「それ、支払いは瞳子のクレカだよね。いくら?」
「二万円ちょっと……」
「はぁあ!?」
沙也葉はリュぴに手を伸ばし、一緒に勢い良く土下座した。
「申し訳ない! わたくしの教育が至らず……!」
「や、お金のことは大丈夫だよ」
「でも」
「あのね」
瞳子は小さなノートを沙也葉の前に置いた。
沙也葉は表紙の文字を読み上げた。
「きゅうりょうめいさい?」
「沙也葉の下宿代から、リュぴがご飯作った時に、千五百円。それが二万一千円分溜まってたの」
沙也葉はあんぐりと口を開けた。
「そっか、お給料……そっか」
沙也葉はリュぴをまじまじと見た。
「それで生ハムの原木?」
「『うまいものをたべさせたかった』ですって。ヒノちは『ちゃんととうこにそうだんしないと』って怒っちゃって。まあ、びっくりしたし、置き場所のこともあるしね」
「あは、何それ……あはは!」
沙也葉は笑い出した。瞳子も我慢できなくなって笑い出す。
「生ハムの原木って! 何やってんの」
「リュウなら買いそうでしょ」
「でも、二万だよ!? それにでかすぎない!?」
「二年くらい持つらしいから、コスパはいいんじゃないかな」
「そっかー、二年……それなら二万もあり……か?」
二人でげらげら笑い転げ、生ハム記念日にしようと記念写真を撮った。
「リュぴの生ハム料理、楽しみだね」
「うん、最高に楽しみ」
生ハムの原木は、キッチンのカウンターに置かれた専用の台に威風堂々と設置された。
「そうだ、ムゲフレログインしなきゃ」
年が明ける頃、ようやくゲームのキャラクターが馴染んできて、最初はあれほど無理だと思ったのに、入手済みの70キャラほどの見分けがつくようになった。
ゲームにログインすると、ホーム画面に新規実装のお知らせポップが出てくる。
そういえば、沙也葉が新たなキャラが来ると言って張り切ってたっけ。まだ増えるのか……追いつかないよ。
日課の調香をしていると、無表情な少年が出てきた。
白から薄い水色へグラデーションになった髪。額の真ん中で左右に分け、耳の高さでボブになっている。襟足の一部が長く、細いしっぽのように垂れていた。水色のかっちりしたシャツに、白い上着は丈が短くフードがついている。ボトムは白いカーゴパンツ。瞳も睫毛も水色だ。
全体的に薄い水色と白の配色で、色素が薄く、どこか無機質。名前はカロンというらしい。
あれ? このキャラ、さっきの新規実装ポップで見たような。
SNSを見てみると、ユーザーたちが彼を入手しようと大騒ぎしている。確率はかなりレアらしい。
日課の一発目で出たと言ったら、沙也葉が発狂しそうだ。
「僕、何をすればいいの? 教えて」
平坦で無機質なしゃべり方。だが、語尾が震えているようにも聞こえ、どこか不安そうだ。
素材調達チームに入れると、「ひとつ、覚えた」「わかった。次は配慮する」など、どうも物を知らずに奮闘している様子だ。
気になってストーリーを解放してみた。
彼は人工的に作られた香りなので、感情と経験に難があるらしい。幼少期を経ずに体を得てしまったアンドロイドみたいなものか。
感情表現で悩んでいた彼に、焦らずそのままで大丈夫だと告げると、緊張が解けたように微かに笑った。
「!」
今笑えたよ、と言うと、再び緊張してしまう。
無理しなくていい、みんなにはちゃんとフォローを入れると約束すると、少し表情が和らいだ。
その過程に記憶がくすぐられると思ったら……昔の沙也葉だ。
***
小学五年生で転校してきた沙也葉はいつもマスクをつけて顔を伏せ、話しかけると固まって動かなくなってしまうような子だった。
クラスメイトたちは、彼女の殻を閉じたような反応に戸惑い、扱いあぐねていた。
グループ課題で沙也葉が同じ班になると、男子は露骨に嫌な顔をした。
「マスクロボと同じ班かよ」
「朗読発表会、俺ら負けるじゃん」
動きがぎこちなくマスクを外さない沙也葉を、男子はマスクロボと呼んでいた。
朗読発表会は、教科書のお話を役割分担して朗読劇のように発表し、先生たちが評価して順位をつけるイベントだ。
基本的に男子二名、女子二名。
瞳子は沙也葉と同じ班だった。
「沙也葉ちゃん、この役、読める?」
瞳子の声かけに沙也葉は顔をこわばらせていたが、微かにうなずく反応を見せた。
「じゃあ、練習しよう」
昼休み、班の男子も誘ったが、ドッジボールに走って行ってしまった。
瞳子は沙也葉を体育館裏の花壇に誘った。
人がいなくて、緊張せずに済むと思ったから。
教科書を広げて読み合わせを始めると、驚くことが起きた。
てっきり小さな声で棒読みをすると思っていた沙也葉は、感情を込め、流暢に読み始めたのだ。
「沙也葉ちゃん、うまいよ!」
瞳子は思わず拍手した。
「いつもと全然違うね!」
沙也葉は恥ずかしそうにうつむき、木の枝を拾って地面に文字を書いた。
『私が考えた言葉じゃないから』
瞳子は首をかしげた。
「書いてある言葉は読めるってこと?」
なぜそんなことになるのだろう。自分の考えに自信がない?
「私と話すのは、嫌?」
沙也葉はハッと顔を上げて瞳子を見ると、首を振った。
「じゃあ、話そうよ。沙也葉ちゃんの声、もっと聞きたい」
沙也葉の視線が泳ぎ、小さな声が漏れた。
「でも、話したら、嫌われるから」
瞳子はきょとんと目を見開いた。
「嫌われるって……誰に?」
「みんな」
「みんなって?」
クラスの子たちは戸惑っているが、嫌っているわけではないと思う。それに、『話したら嫌われる』という条件に当てはまらない。だって、沙也葉は転校してきてほとんど話をしていないのだから。
「……もしかして、前の学校の人たち?」
沙也葉はこくりとうなずいた。
沙也葉がぽつりぽつりと呟く言葉を繋ぎ合わせて、なんとなくわかった。
沙也葉は前の学校で、ひどいいじめにあっていたらしい。
「話したけど、私は嫌いになってないよ」
「でも、顔見たら、嫌いになる」
「なんで?」
「ブスだから」
瞳子は顔をしかめた。
「前の学校の人が言ったの? そういうのルッキズムっていうんだよ。考え方が古いよ」
瞳子は沙也葉の前に屈み込んだ。
「大丈夫だから、マスク外してみて」
沙也葉は周囲を見回し、おずおずとマスクを外した。
パーツが小さく地味めの目鼻立ちだが、けして醜くはない。
「全っ然ブスじゃないよ!」
瞳子は沙也葉の腕に手を添えた。
「私、沙也葉ちゃんの話もっと聞きたいよ。友達になろうよ」
沙也葉は戸惑うように目を泳がせていたが、やがてうなずくと、微かに微笑んだ。
「笑った!」
瞳子が喜ぶと意識してしまったらしく、再び表情がこわばる。
「無理に笑わなくていいよ。みんなが誤解しても、私がフォローするから」
それから、沙也葉は瞳子の前では笑顔を見せるようになり、瞳子を通して周囲とも徐々に打ち解けていった。
***
あのとき、笑顔を一人占めして嬉しかった気持ちがよみがえる。
普段の立ち絵の表情も少し和らいだカロンに庇護欲のようなものが湧き、瞳子はスマホの画面を優しく撫でた。
リビングに下りてきてそれに気づいた沙也葉は、口元を覆って震えた。
「ヒノち、ええええ、エプロンっ……!?」
今夜のヒノちは、エプロンをつけている。
「お料理当番用に、作ってみました」
「作ったの? 瞳子、天才……!」
白いフリルつきのエプロン。
ヒノちに妙に似合っている。
「これ、リュぴが当番のときはリュぴが着けるの?」
「もちろん」
想像しただけで似合わないが、それもまた良きだ。
ダイニングテーブルに設置されたカセットコンロの上では、土鍋が白い液体を湛えて湯気を立ち上らせていた。
「豆乳鍋だ! 表面にできた湯葉を掬って食べるの、好きなんだよね」
用意された具材は、豚の薄切り背ロース肉、水菜、長ネギ、えのき、しめじ、豆腐、ピーラーで薄く剥いた人参と大根。
「ヒノち、わかってる~! 豆乳鍋は煮込みすぎないでしゃぶしゃぶするのが好きなんだ。薄切りの根菜、いいよね」
「沙也葉、こっちも見て」
瞳子が示した先で、ワインボトルの横にリュぴが立っている。
「え。もしかしてその白ワイン、リュぴが用意してくれたの?」
「うん。鍋にも合うんだって」
「もう、この子は! すぐおいしいもの貢いで散財しちゃうんだから!」
沙也葉はリュぴを両手に納め、親指でお腹をぐりぐりと撫で回した。
「あ、湯葉浮いてきたよ」
「わー、食べよう!」
二人は慌てて食卓についた。
とろりと固まった湯葉を器に取り、刻み柚子とポン酢をかける。
「ふぁ……」
口に運んでとろけるような表情になった沙也葉の前に、瞳子は冷えたグラスに注いだ白ワインを置いた。
「ん、んんーっ」
感嘆の呻き声を上げた沙也葉は目を潤ませ、眉をハの字に開きながら白ワインを喉に流し込んだ。
まろやかな豆乳の甘みと出汁の味わい、とろける湯葉の弾力、そこに華やかでキリッと冷えた白ワインが融合する。
「これがパライソか……」
沙也葉はうっとりと放心した。
「やっぱりヒノちの出汁の利かせ方最高に好き……」
「リュぴのチョイスも、センス良くない?」
「うん。ここは日本酒かと思ったけど、白ワイン、いいね」
「そして~、湯葉が落ち着いたところで、お野菜をわさっと」
「きゃー」
白い海にダイブした野菜を泳がせ、その上に薄切り肉をのばして横たえる。
「ポン酢と柚子胡椒の用意はいいかい?」
「うん」
「……いいぞ、行けー!」
薄切り肉の上から箸を下ろし、肉で野菜を包むように引き上げる。
「あ~! まろやかな出汁に肉の旨味とシャキシャキ野菜、たまらん!」
「そこへすかさず白ワイン~!」
「くはっ、お口の幸せがヤバい」
「今度は豆腐でとろとろしましょうね……」
「あ、そんな。豆腐さんに優しくされたら、私」
ワインの酔いも回り、二人のテンションは止まらない。
具材はあっという間に駆逐されていった。
沙也葉は名残惜しそうに、残った水菜を引き上げた。
「〆はどうするの? 雑炊? うどん?」
「あ、それはねぇ……」
瞳子はリュぴを抱き上げた。
「リュぴが用意してくれました」
「え?」
席を立ち、リュぴを連れてキッチンに入った瞳子は、お盆と共にダイニングテーブルへ戻った。
お盆の上には、卵と粉チーズと黒胡椒、切った生ハムとパスタ。
リュぴには吹き出し付箋がついている。
『〆は、なまハムのカルボナーラだ』
「えー! そんなのあり!?!?」
「今夜はヒノちとリュぴのコラボメニューでーす」
残った豆乳の出汁でパスタを温め、溶き卵と粉チーズを投入する。黒胡椒と生ハムを添えて、完成。
沙也葉は頭を抱えて震えた。
「な、なんてこと……リュぴ、天才か」
「白ワイン、絶対合いそう」
「それ!」
器にパスタを盛り、瞳子と沙也葉は顔を見合わせ、白ワインで乾杯した。
「あ、合いすぎる……」
「これはずるい……!」
二人は珠玉のコラボレーションに身悶えした。
カルボナーラが豆乳で出汁で生ハムで、スッキリ系白ワインだなんて。
「語彙がバカになるね」
「わかる……」
瞳子は幸福を噛み締め、最後の白ワインをグラスに注ぐ。
「そういえば瞳子」
「ん?」
「カロンが好きなの?」
「ごほっっ!!」
唐突な話題に、白ワインをあおっていた瞳子は盛大にむせた。
「な、なんで?」
「キャンペーンが終わってもリーダー外さないし、いつ見てもチーフ室に常駐してるし」
「うぅーん……」
一番気になるキャラクターであることは事実だ。でもこの程度で好きと言えるのだろうか?
「恋してときめいて抱かれたいとか、そういう気持ちにはならないよ? どっちかというと、守りたいとか、幸せになって欲しいとか……」
「それも充分、推しだよ」
「え」
「ガチ恋勢もいるけど、推しって別に恋愛対象な訳じゃないよ」
目からウロコだった。
「そうなんだ……」
なんとなく、こういうゲームの異性キャラを推すなら、恋をしなければいけないような気になっていた。
「……で、カロンに幸せになって欲しいんでしょ?」
「まあ、うん。それはそう」
「そっかー、瞳子にもムゲフレの推しができたか! めでたい!」
「でも私、そんな、推しってレベルじゃ」
瞳子に視線を返す沙也葉は、妙に優しい目をしていた。
「最初はみんな認めないものなのよ。まだ沼ってない、自分は大丈夫なはずだって……もう手遅れなのに」
「そんな、手遅れだなんて」
課金もちょっとしかしてないし、二次創作も漁ったりしてないし……
沙也葉は瞳子の肩にぽんと手を置いた。
「瞳子。なんとなくでこの短期間にレベルカンストはしないんだよ」
短期間と言っても、入手してから一ヶ月は経っている。アイテムも使ったし、そんな大げさな……
「ところで、瞳子」
沙也葉がスマホの画面を見せた。
「カロンのイメージ香水、予約開始らしいよ?」
「えっ」
「限定販売、予約は明日の午後八時スタート」
慌ててスマホで情報を確認する。本当だ。
カロンの香りが海をイメージするマリンノートということはわかっているが、イメージ香水……彼に特化した調合……公式の提示する香りは一体……?
ボトルもライトブルーから白のグラデーションになっていて可愛い。蓋には貝のモチーフのチャームがついている。
明日の八時、忘れないようにしなきゃ!
息を弾ませながらスマホのアラームを設定して、ハッと顔を上げると沙也葉がニヤニヤと覗き込んでいた。
「手遅れだね」
瞳子は顔を覆い、天を仰いだ。
寒さが緩み、暖かくなる頃。
「また実家行くの?」
「うん、模様替えを手伝って欲しいって」
沙也葉は、最近ちょこちょこと実家に帰っている。
この前は機種変したスマホの設定、その前は庭の手入れの手伝い。
「お母さん、淋しいのかな」
「暖かくなってきたから、雑用のやる気出してるだけだよ」
沙也葉の実家までは徒歩十分程度。便利屋として呼びつけるにも気軽なのだろう。
「瞳子は確定申告?」
「うん。沙也葉が下宿代いっぱいくれるから、申告対象だよー、めんどいよー」
「あはは、頑張って」
沙也葉は笑いながら出て行った。
沙也葉には泣き言を言ったが、もともと仕事でやっていた分野である。必要物を把握してちょこちょこまとめていたおかげで、思ったより早く終わった。
「『とうこさんゆうしゅう』って? やだなーヒノち、そんなに褒めるなよー」
ぬいとの生活にもすっかり慣れ、最近は沙也葉がいなくてもナチュラルに会話してしまっている。
「もう提出しに行っちゃおうかな。なぁに、リュぴ? 『ためらうな、こころのままにいけ!』って? ゴーバイの名台詞言われたら、行くしかないじゃん~」
瞳子はゴーバイラルの主題歌を鼻歌で歌いながら、出かける準備をした。
自転車で税務署に向かっていると、向かい側から歩いてくるカップルが見えた。
「ん?」
女の方は、沙也葉に似ている。……というか、沙也葉だ。
沙也葉が、若い男と並んで歩いている。男は背が高く、結構なイケメンだ。
瞳子は思わず自転車を止め、街路樹に身を隠した。
偶然会った知り合いにしては、やけに親しげな空気だ。それに今いる場所は、沙也葉の実家とは反対方向である。
沙也葉は男の肩を叩き、脇腹をつついた。
男も沙也葉の腕や背中をつつき返し、笑ってじゃれ合っている。
二人は二階建ての民家の前で立ち止まり、男は手慣れた様子で玄関の鍵を開けた。
ドアを開いて沙也葉の背に手を回し、招き入れる。
瞳子は呆然とした。
***
帰宅した沙也葉は、いつもと変わらない様子だった。
「お母さん、元気だった?」
「うん、元気だったよ」
「今日は部屋の模様替えだっけ?」
「うん、炬燵をしまったり、絨毯を変えたり」
沙也葉は荷物を置きながら、カウンターの上に置いたガラスボウルの中で寝かせてあるピザ生地に目を止めた。
「あっ、もしかして今日はリュぴの手作りピザ? あれ好きなんだ」
男の話が出る様子はない。
あれは誰なんだろう。恋人だろうか。
そもそも、今日は本当に実家に行ったんだろうか。
聞けば済む話だ。見たよ、あの人誰? って。
でも、その簡単な言葉が出てこない。
……別に、沙也葉に恋人ができてもいいし、それが沙也葉の幸せなら応援したい。
ただ、もしそうなら、今の生活はどうなるのだろう。
幸せすぎて忘れていたが、この生活の期限は一年。それが終わったら、沙也葉は別の人との未来に踏み出し、私は一人になるのだろうか。
何だか怖くて、確かめることができなかった。
***
今日は、パソコンの操作がわからなくて呼ばれたと言って、沙也葉は実家へ出掛けている。
買い物に行くつもりで家を出た瞳子は、いつの間にか自転車を沙也葉の実家方向へと向けていた。
沙也葉の実家のガレージには自家用車がなく、シンとしていた。留守の気配にドキリとする。
沙也葉の言葉が本当なら、沙也葉とその母は、家でパソコンを触っているはずだ。
瞳子はスマホを取り出し、沙也葉に電話をかけた。
『はい』
沙也葉が電話に出た。
「今何してた? 話して大丈夫?」
『うん、大丈夫だよ。何?』
「アイス買っておこうと思うんだけど、何がいい?」
『そうだなぁ、チョコミントバーとかいいかも』
「わかった」
瞳子は耳を澄ませたが、特に電話向こうの物音は聞こえない。
「……今は実家にいるの?」
『うん。あと一時間くらいしたら帰るよ』
通話を切った瞳子は、我慢できずに沙也葉の実家のインターホンを鳴らした。
応答は、なかった。
階下で、ドアを開け閉めする音が聞こえた。沙也葉が帰宅したらしい。
「ただいまー。あれ、瞳子? まだ帰ってないの?」
階段を上がる音が聞こえ、部屋のドアがノックされた。
「寝てる? 具合悪い?」
瞳子はドアを開けた。
沙也葉はほっとしたように微笑んだが、瞳子の表情を見て真顔になった。
「どうかした?」
沙也葉の眉がいぶかしげに寄っている。
よほどひどい顔をしていたのだろう。
「……なんで嘘つくの」
「え?」
「実家、いなかったよね」
沙也葉がハッと息を飲むのがわかった。
「ごめんね。でも、私にも秘密にしたいこととか、あって」
それはそうだ。沙也葉にもプライバシーはある。
こんな些細なことで駄々をこねている私の心が狭いのだろう。
でも、やっぱり嘘は辛い。
「私、別に沙也葉の邪魔とかしないのに」
「それはわかってるよ」
沙也葉はもどかしげに、爪で爪を引っ掻いた。何かを迷っているようだ。
言いにくいことを言おうとしているのだろうか。例えば、結婚するから出ていきたい、とか……
「後で話そう。瞳子疲れてるみたいだし、もう少しゆっくりしてて。今夜は夕飯作らなくていいからね」
沙也葉は踵を返し、パタパタと階段を下りて行った。
我ながら面倒くさい。沙也葉も呆れただろう。
いい年をして大人になれない自分が情けなくて、涙がこぼれた。
高校生のとき、父が脳梗塞で倒れ、亡くなった。
沙也葉は別の高校に通っていたが、その頃から『朝補習で時間が被るから』と瞳子を迎えに来るようになった。
毎朝玄関の前で待っている沙也葉と、早朝の電車の駅まで十五分ほど歩いた。会話は他愛もないものばかりだった。
沙也葉の高校には朝補習などないし、電車より自転車通学が便利な立地だと知ったのは、ずっと後のことだった。
何か慰めるわけでもなく、ただ一緒にいてくれる。そういう子なのだ。
しっかり者の瞳子に沙也葉が甘えているのだと、瞳子自身も思っていたが、思い返せば甘えていたのは瞳子だった。
何も言わなくても、遠く離れていても、沙也葉なら絶対に裏切らない。
いつも瞳子を肯定して、味方でいてくれる。
そう信じていたから、嘘をつかれてショックだった。
沙也葉が嘘をついてまで、自分じゃない誰かと過ごしているのがショックだった。
でも、彼女の幸せのことを、私は本当に考えているのだろうか?
沙也葉が東京を引き上げる予定なんて、本当はなかったに違いない。
孤独にならないよう一緒にご飯を食べて、リアクションで楽しませ、仕事の名目で金銭支援までして。
あの早朝の電車のように、私に合わせてくれていただけで、本当は……
私に気を遣わせないように、私を守ってくれていただけ。
伝えよう。
私は大丈夫、縛られる必要はないって。
あの子の幸せの障壁にはなりたくない。
瞳子は起き上がって、涙を拭いた。
リビングへ下りていくと、沙也葉が慌てた様子でキッチンをバタバタと走り回っていた。
「待って、あの、うわぁんっ!」
沙也葉は夕飯を作っていたようだが、瞳子に見られるのはまずいらしい。
「瞳子、先にお風呂入ってきて!」
ぐいぐいと押されるようにリビングを追い出されてしまった。
仕方なくお風呂に入ってリビングに戻ると、また沙也葉が慌てていた。
「早い! いつももっと長風呂でしょ!」
「いつもは用事を全部済ませてリラックスのために入るから……体洗うだけならこんなもんだよ」
「もー!」
沙也葉は頭を抱えながらキッチンからお皿を運んだ。
食卓に並べられたそれを見て、瞳子は目を疑った。
焼そばだ。それはわかる。ソースの香りだ。
しかし、野菜は焦げているし、麺はべちゃっとしている。
肉はゴロゴロ塊になっており、人参は皮つきのまま自由な形に乱雑に切られている。太い輪切りのちくわ、ちょっと玉ねぎの皮も入ってるっぽい。あれはキュウリの輪切りだろうか。キャベツ……じゃなくて、あのしなしな具合はレタスかもしれない。
料理はほぼ瞳子が担当していたので、知らなかった。沙也葉って意外と料理音痴なんだ……?
しかし一生懸命作ってくれたのはなんとなく伝わり、心が温かくなった。
「沙也葉、ごめんね。さっきは……」
「待って! まだだからちょっと待ってて。見なかったことにして、目を閉じてて!」
言われた通り目を閉じると、沙也葉がバタバタと駆け回る足音が聞こえた。
「……いいよ!」
目を開けると、焼そばの皿の横にぬいぐるみがいた。
グラデーションになった水色の髪、細く垂れた襟足、水色の睫毛と瞳。
これは……カロンのぬいぐるみ?
しかし
「なんで上半身裸なの!?!?」
瞳子が目を剥くと、
「お洋服難しくて、まだ出来てないのー!!」
沙也葉は顔を覆って叫んだ。
「え? まさかこれ、沙也葉の手作り……」
そうだ。カロンは実装から日が浅いためグッズ展開が少なく、まだぬいぐるみ系のグッズは発売されていない。
「未完成だけど、もう隠せないと思って」
沙也葉はしょんぼりとうつむいた。
「プレゼントして、驚かせたかったの……嘘ついてごめんなさい」
瞳子はぬいぐるみと沙也葉を交互に見比べた。
「じゃあ、実家に行ってたのは」
「服が難しくて、最初はお母さんを頼ったの。でも叔母さんがお裁縫得意だからって、お母さんが話をつけてくれて」
「叔母さん……?」
イケメンと一緒に入って行ったのは、もしかして叔母さんの家なのだろうか。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、その叔母さんのご家族は?」
「叔父さんと、従兄弟が二人。高校生と中学生」
「高校生と中学生」
思い返すと、イケメンはかなり若かった気もする。
「叔母さんの家にいるって言ったら、理由をごまかすのが大変だと思って、嘘ついちゃった」
「沙也葉、彼氏はいないの?」
沙也葉は面食らった顔をした。
「いないよ! 東京でひどい目にあったし、もうしばらく男はこりごり」
「そっか……」
瞳子はほっとして、もう一度カロンのぬいぐるみを見た。
上半身裸の。
「いやこれやっぱり上半身どうにかしよう! 心臓に悪い!!」
「あ、そ、そうだね」
沙也葉はあわあわと周囲を見回し、お料理当番のエプロンをカロンのぬいぐるみに着せた。
「ちょ、裸エプロンになってますけど!?!?」
「ふわーお!」
二人でリビングを奔走し、マントのようにハンドタオルを羽織らせることでなんとか落ち着いた。
「ごめんね、私が不器用なばっかりに」
「ううん。裸には驚いたけど、カロンのぬい、すごく可愛い」
沙也葉はへらっと嬉しそうに笑った。
「良かったぁ。私ばかりいつも楽しんでるから、瞳子にもぬいを楽しんで欲しかったの」
「料理も苦手なのに、作ってくれてありがとう」
瞳子がお礼を言うと、沙也葉は微妙な顔をした。
「……気づいてないの?」
「え?」
「私は瞳子ほど上手くないけど、料理が苦手な訳じゃないよ」
「じゃあ、これは」
瞳子はまじまじと焼きそばを見た。やっぱり、料理に慣れない人が作ったようにしか見えないが……
「カロンぬいが初めて、瞳子のために一生懸命作った焼そばだよ」
「………………っは!?」
突き上げるような感情が、瞳子を襲った。
初めて。一生懸命。私のために?
「はあぁ!? なにそれ? 可愛すぎない???」
沙也葉はうんうんとうなずいた。
「いつもならカロンは素直に教えを請うけど、気分が落ち込んでる瞳子を煩わせずに、自力でご飯を作ってあげたかったんだよ……」
「あー!」
瞳子は頭を抱えた。
「カロたんは一生私が守る!!」
「この子の愛称はカロたんだね」
沙也葉はカロンのぬいぐるみを瞳子に差し出した。瞳子はぬいぐるみごと、沙也葉を抱き締めた。
「わっ」
「沙也葉、大好き」
沙也葉はふにゃっと笑い、瞳子を抱き締め返した。
「私も~。瞳子、大好き!」
その日の焼そばは、ヒノちが鰹節と青のりをかけてくれて、リュぴが生ハムを追加して、なんとも味わい深い一品となった。
春真っ盛り、空は青く全国的にお花見日和となった日。
瞳子は、風邪を引いて臥せっていた。
「具合、どう?」
お盆を手に、沙也葉が顔を覗かせる。
「ごめんね、みんなでお花見に行く約束だったのに……」
「いいのいいの。これ、食べられる?」
お盆には、いちご大福と桜茶、そしてぬいぐるみたちが乗っていた。
「このいちご大福、手作り?」
「うん、みんなで頑張っちゃったー」
「ありがとう、食べる」
瞳子は体を起こし、沙也葉はお盆をベッド脇に置いた。
「ほら、見て」
沙也葉はスマホ画面を瞳子に見せた。
「ムゲフレで、お花見背景ゲットしたの」
「わ、きれい。花びらもちゃんと散ってる!」
「これでお花見しよう」
瞳子は桜茶を一口飲んだ。
湯呑みの中を漂う桜の塩漬けが、なんとも風流だ。
「桜茶を淹れてくれたのは、ヒノちでしょ」
「よくわかったね」
二人は顔を見合わせて笑った。
「来年は、本当のお花見に行こうね」
「来年……」
瞳子はためらいがちに、沙也葉に尋ねた。
「来年も、この家に一緒にいてくれる?」
沙也葉が驚いた顔で瞳子を見た。瞳子は焦り気味に髪をかきあげる。
「や、来年は私もちゃんと仕事探すし、沙也葉にあんまり負担かけないようにするから」
「負担って何? そんなのないよ!」
沙也葉は瞳子の手を握った。
「来年も私、瞳子に甘えていいの?」
「甘えてるのは私だよ」
「じゃあ、お互い様だね」
沙也葉は照れ臭そうに笑った。
「あ。カロたんの視線が痛い気がする」
「なぁに?カロたん、やきもち?」
瞳子はカロたんを抱き上げた。
今はもう裸エプロンの脅威はなく、正式な衣装をきっちりと着込んでいる。
沙也葉はカロたんに向けて耳をそばだて、ふむ、とうなずいた。
「『おもちがかたくなるからはやくたべて』って」
「そっち??」
二人は笑って、推しぬいたちの愛がこもったいちご大福にかぶりついた。
柔らかく、甘く、酸っぱく。
それは幸せな絆の味がした。
Fin.