この町に来てからいくつもの風景をスケッチしてきた。
 眼に映る鮮やかな色や光、風の匂い、心が動いた瞬間を描き留める。
 同じだ。
 素直に頷く。
 頷いてから、渉が本気で怒った理由がわかった気がした。
 渉が撮影したものが誰かに壊されそうになったら、自分はどうするだろう。
「プロなら技術が重要になるけどな。だから、早く気持ちに技術が追い付きたい」
 渉の目は遠くを見ていた。
 もう自分の未来を描いていて、そこに向かって走ろうとしているのだ。
 しばらく無言だったが気まずいものではない。スイカは既に食べ尽くされ、残骸が皿の上に戻されていた。
 沈黙を破ったのは渉だ。
「美大、受験しないのか? やりたいと思うなら遅いなんてことはないって。他にやりたいことがあるなら別だけど、目的ないまま適当な大学行くよりいいと思うな。落ちたらまたチャレンジするか、ほかの道を考えればいい。あのとき挑戦してればって未練引きずるよりは絶対いい」
 他人事だからって気軽に適当なことを言っている。
 と、一瞬思った。
 だけど自分の道を見つけ、絵を守ろうとしてくれた渉の言葉に、いい加減な部分はないようにも思えた。
「……俺よりずっと上手くて、先生に教わって受験対策も万全なやつらが受験するだろう。俺の絵はそこまでのレベルじゃない。それくらいはわかる目は持ってるつもりだし」
 反論というよりも、素直な気持ちだった。
「バカだなあ」
「バカとか言うか」
「まだまだだから勉強しに行くんだろ。この歳で完成されてるのなんて天才か、そこで打止めってことだ。そんなのつまんねーよな」
 やれるだろうか。
 ポジティブな渉を見ていると、可能性がある気にさせられる。
 無理だと諦めていた。挑戦してみようともせず。ただ恐かっただけだろうか。
「悠希がそうやって、何にでも冷めた感じでいるのって、わからなくもないんだ」
「え?」
 瞬きをする。
「俺も引越し繰り返してたって言っただろ。せっかく友達ができてもすぐ離れちゃうよな。中学生くらいになると目立つといろいろ言われるから、無難に付き合っていかないととか思うし。諦めることを覚えちゃう感じ」
 別れたくないようなことを言っていても、離れればメールは途切れ、やがて忘れてしまう。
 それが酷い仕打ちというのではなく、現実なのだ。顔を合わせる機会もない人とより、身近な人との関係を深めたいと思うのは当然だ。
 そうわかってはいても、「絶対また会おう」という一言が嘘に変わって消えるのは悲しかった。それを知ってしまえば、親し気な態度や言葉もまがい物に見えてくる。
 だから親しい友人などいらない。
 無難にやり過ごすのだ。
 そう思ってきた。
「でも渉は全然違うだろ。明るいし、皆と仲良くしてる」
「うーん、悠希と逆の方向にいっちゃったんだな。離れたら終わりなら、それまでは楽しめるだけ楽しんでおこうって。やりたいようにやって嫌われたって、すぐ離れるんだしってね。根本的には同じだ」
 こんなにも違うのに。
 同じなのだろうか。
 他の誰よりも、近いのだろうか。
「だから、本当に大事なものは大切にしないと。じゃないと、何が楽しいのかわからなくなる」
 強い日差しにも負けない渉の笑みは、彼自身の強さからきているのかもしれない。

「うわ、なんだよこれ!」
 突然の奇声が思考を中断させた。隣を見ると、グラスから口を離して凝視している。
「なんだよって?」
「カルピス、濃いって!」
 慌てて自分も飲んでみたが、むしろ氷が少し溶けて丁度いいくらいだ。
「濃くないだろ」
「これだよ! 金持ちは躊躇せず濃く入れて、そうじゃない人は一杯でも多く入れようと薄めに作るって言うだろ。小学生のときそれで揉めた」
 あまりのくだらなさに笑えてきた。
「金持ちは自分でカルピス作ったりしないって」
「それもそうか」
 顔を見合わせて、同時に吹き出す。
 雨は上がり、空は青から橙色へと変わろうとしていた。
 湿った空気。
 風がゆるやかに吹いて縁側から居間を通り、キッチンの窓を抜けていく。
 変われるだろうか。
 自分も、しっかりと前を見て進めるだろうか。

 渉の祖母が畑から戻ってきた。雨宿りも終わったので帰ることにする。渉が見送る中、悠希は自転車を漕ぎ出した。
 やれるだけやってみよう。
 夕焼けに染まる風景を見ながら、そう思った。


 その晩、悠希は父親に美大を受験したいと言ったが、返ってきたのは厳しい言葉だけだった。今からの進路変更を危惧するのは当然のことだ。それくらいはわかっている。だからといって、ここで諦めたら終わりだ。
 遠く、未来を見据えている渉の横顔を思い出す。
 少しずつ時間をかけて、近付いていくしかない。
 自分が求める道へ向かって。