翌朝。
 河原でのスケッチを終えてスケッチブックを閉じたとき、急にイヤホンを片方だけ取られた。慌てて振り向くと、渉がしゃがんでいた。
「何聴いてんの」
 驚きのあまり硬直してしまった悠希を気にする様子もなく、イヤホンを自分の耳に当てた。
「お、クイーンだ。いいね。のどかな風景と全然合ってないところが。いや、案外合ってんのかな」
 ニッと笑ってイヤホンを返す。
 悠希はイヤホンをはずし、スマホとスケッチブックとを鞄に入れて立ち上がった。渉も立ち上がる。
「親父がクイーン好きで昔はよく聴いてたんだけど、今住んでるところ古いラジオしかないから聴くの久々。落ち込んでいるときに聴くと、頑張るぞって、血がたぎるよな。元気なときに聴くと増々元気になるし」
 結局いつも元気なのだろう。
「スマホは?」
「持ってない」
 なるほど。
 デジカメを使っていたことを思い出した。
 悠希が自転車を漕ぎ始めると、渉も自転車に乗り並んで走った。ギコギコと妙な音がする。
「……油さしたら?」
「さしたんだけど、そもそもが古くて駄目みたい。これ、ばあちゃんの自転車だからさ」
「ふーん……」
「あ」
 渉はいきなり声をあげた。自転車を止めて土手を下りていく。
 その姿を目で追う。
 このまま走り去るか。
 一緒に登校する約束をしていたわけではない。渉が勝手に付いてきたようなものだ。
 だけど。
 結局、自転車を止めてしまった。
 渉は胸ポケットからカメラを取り出し、土手に咲く花や河原の石を撮影している。そのうち満足したような表情で戻ってきて、何ごともなかったかのように自転車を漕ぎ出した。
 くたびれた自転車が奏でるギコギコという音に、蝉の声が重なる。
 悠希も自転車を漕ぎ出した。
 そういえば、撮影旅行に付いてメキシコに行っていたと昨日聞いた。写真を撮るのはカメラマンの父親の影響なのだろうか。
「そのカメラは」
「ばあちゃんに中学の入学祝いに買ってもらったやつ。父さんはそういうこと全然してくれないからさ」
 渉は少し面白くなさそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻り言葉を続けた。
「母さんが亡くなってから父さんの気紛れであちこち引越してたんだけど、さすがに受験のこと考えたら一箇所がいいかなと思って、高二の途中からは、ばあちゃんの家に同居してる」
 自分と同じ、転校がちな少年時代を過ごしていたのか。
 それなのに性格はこんなにも違う。
「うれしいな」
「――何が」
「悠希が喋ってくれて」
「別に……」
「俺のこと聞いてくれるってのは、少しは興味もってくれてるってことだろ?」
 何を言ってるのだろう。
 そう思ったが、確かに自分から誰かに尋ねるのは珍しい。
 だけど深い理由などない。
 話し掛けられたから返しただけだ。
 そうじゃないと間がもたない。
 それだけのことなのに。
 どう答えていいかわからず視線を逸らした。
 自転車は田畑の間を抜け、小さな商店街に入っていた。同じ制服の生徒の姿が少しずつ見え始める。学校まではもう少しだ。
「悠希は、やっぱ絵の方に進むの? 美大とか?」
「え?」
 唐突すぎて思わず聞き返す。
「え、じゃないよ」
 渉は苦笑する。美大を目指して当然と思っていたような口ぶりだ。
「……普通の大学だよ」
「美大、受験してみればいいのに」
 あっさりとした口調。
 その軽さに、少し腹がたった。
 他人事だから思いつきで言ってるのだ。
 一度も考えなかったわけではない。だけど自分に特別な才能があるとは思えない。美大を目指すほとんどの人は受験対策も技術的なことも校外の先生に教わっている。ここから通える教室はないし、自己流で合格できる人間など一握りの天才だけ。
 反論しようか迷っているうちに校門が見えてきた。同じクラスの植田が自転車で近付いてきて渉の背中を叩く。
「おはよう。夏休み中のキャンプの計画だけど、どうしようか」
 大きくて分厚いレンズの眼鏡をかけた植田が、渉に親しそうに笑いかける。話し合っている二人とは駐輪場で離れることができた。
 ホッとしたけれど、何も言い返せなかったのが少しだけ悔しかった。

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