翌日も渉は学校に姿を現わさなかった。病院通いで忙しいのかもしれない。そう思ったものの、さすがに五日も経つと気になってきた。渉はスマホを持っていないので、会わないと話すこともできない。
翌朝。スケッチをしようと川辺で自転車を止めたとき、後ろから声がした。
「悠希」
渉が笑いながら近付いてくる。
会ったら何を話そうかと、そればかり考えていたのに、今はただ、変わらない笑顔が見られた嬉しさでいっぱいだった。
「おはよう」
挨拶をしてから気付く。渉は制服を着ていない。白い半袖シャツにジーンズだ。講習には行かないのだろうか。
「ここで会えて良かった。話があったんだ」
ドクンと心臓が音をたてた。
改まって何の話だろう。
途切れた話の、続きだろうか。
渉が小川を見下ろす土手に腰を下ろしたので隣に座った。
ドキドキして落ち着かない。
なかなか話を切り出さないので、鼓動は益々早くなる。
「あのさ」
ようやく口を開いた。
「俺、高校辞めて、父さんの知人のアシスタントとして海外に行こうと思う」
「……え?」
間の抜けた声が出た。
今、何と言っただろう。
「大学も行かない。ばあちゃんは意識戻ったんだけど、叔母さん夫婦のところで暮らすことになった。家も土地も売っちゃうって。最初は俺が卒業するまで残しておくことになってたんだけど、父さんの仕事仲間が助手を欲しがってて、チャンスだから」
「チャンスだからって。高校、辞めることはないだろう。海外行くってどれくらい……」
「ブラジルとかペルーとか、中南米回って季節ごとの風景を撮るらしいから、戻ってくるのは一年後かな。そのまま仕事にできるなら進学の必要はないし」
「……この先も、一緒だって言ってたのに」
責めるみたいな口調になり、自分でも驚く。
夢を叶えるためだから、笑顔で見送るべきだとわかっているのに、できない。声が震える。
「ごめんな。でも、考えた結果、こうするしかないって」
わかっている。
わかっているのに。
「結局、渉も同じなんだな」
疎遠になった友人たち。
「また会おう」という言葉は、やがて嘘になっていく。
同じだ。
「違う。俺は卒業後も東京で悠希といられると思ってて、うれしかった」
頭は混乱しているのに、心は冷えていく。
「過去形なんだ」
「そうじゃなくて、――いや、嘘ついたって思われても仕方ないか」
困ったような顔をして、頭をかきむしる。
「夢に近づけるなら良かったじゃないか。どこへでも行けばいい」
そう言いつつも、笑みを浮かべることもできない。
思い描いていた未来が途切れる喪失感と、自分の心の狭さに、打ちのめされそうだ。
「戻ってくるから、また会えるから、絶対!」
「皆、そう言うんだ。そう言ってすぐに忘れるんだ」
渉の胸ポケットに触れると、布地越しに固い感触が伝わった。
瞬間を閉じ込めたカメラ。
「ここにあるもの、俺たちの思い出も簡単に消えてしまう。ボタンひとつで。その程度のものだ」
「……何を言っても嘘に聞こえるだろうけど、俺にとっては一緒に過ごした時間は簡単に消えるようのものじゃない。もしカメラのデータが消えたとしても、俺の中にずっとある。消すことなんてできない。お前に消されたとしても、俺には消せない」
渉は一息ついてから、はっきりと言った。
「ごめんな」
見送るしかない。
まっすぐ前を向いて進む渉が好きだった。
夢に繋がるチャンスを諦める理由などあるはずがない。
だから、何を言ってもどうすることもできない。
でも今の自分には、笑顔を浮かべられない。
そんなことをしたら心が壊れてしまいそうだ。
「別に渉は悪くない」
視線をそらしたまま、そう答えるのがやっとだった。
振り向かずに歩き出し、自転車に跨がった。
「悠希」
呼ぶ声が聞こえたが、学校の方へ向かって漕ぎ出す。
強い向かい風に涙が出そうになった。それでも漕ぎつづける。何も感じられないまま、ただひたすら。
学校に着いたものの講習を受ける気にはなれず、図書室の机に伏せたまま流れる時間に身を任せた。
風が白いカーテンを大きく揺らしている。
静かだ。
終わってしまうのだろうか。
何を考えればいいのか、どうすればいいのかもわからない。ただ、渉が去っていくということだけが、その事実だけが確かなものだった。
気づかなければ良かった。
渉が自分にとってこんなにも大事な存在になっていたことに。
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