「昨日、渉の家に寄ってみたんだけど、お父さんとか親戚も来てて大変そうだったから、ちょっと話しただけで帰ってきた」
大西は悠希の前の机に腰かけて言った。その横に立っていた植田が尋ねる。
「おばあちゃん、どうだって?」
「まだ意識が戻らないんだって。戻っても以前みたいに畑仕事なんかするのは無理だろうって」
「お父さん、帰ってきたのか?」
「仕事抜けてきたとかで、すぐ戻るって話」
悠希は黙って二人の会話を聞いていた。
あの家に一人でいるのだろうか。
先生が教室に入ってきて講習が始まった。渉がいない教室は静かで物足りない。彼が現れるまではこれが日常だったのに。
こんなときにうかがうのは迷惑だろうか。
でも――。
家に行ってみよう。忙しそうなら去ればいい。
※
自転車をいつもより飛ばして渉の家へと向かった。色鮮やかな風景も、今日は心を明るくはさせない。
渉の家に呼び鈴はなかった。
ガタガタと音をたてる引き戸を開けて呼ぶ。
「渉」
返事は返ってこない。縁側にいれば声が届かないかもしれない。
家の外をぐるりと回って縁側の方へと向かった。
「――渉」
渉は縁側に座ってぼんやりと畑の方を眺めていた。反応は少し遅れたが、いつもの笑みを浮かべてこちらを見た。
「来てくれたんだ」
「……うん、忙しいかと思って顔出さなかったんだけど」
心配だったから。
「昨日まではバタバタしてたけどね。父さん仕事に戻ったし」
「おばあさん、意識が戻ったのか」
「いや」
首を横に振る。
「叔母さんが隣町にいるんだ。父さんの妹。だから病院には叔母さん夫婦が行ってくれてる。意識がないから俺がいても手伝えることはあまりないし、毎日様子見て帰ってくるだけ」
「そうか……」
「ここ、座れよ」
渉が隣を指差した。言われた通りに腰を下ろし、同じように遠くを眺める。
「ここの土地、売ってしまうかもしれないって」
ぽつりとつぶやく。
「え」
「意識を取り戻しても、もう畑仕事は無理だろうからって。入院にお金もかかるし。幸い隣の佐藤さんが、必要なら土地を買い取って農地として使ってくれるって、昨日叔母さんや父さんたちが話してた」
何も言えなかった。
どんなに大人ぶったところで自分たちは力もお金もない子供で、できることなど限られている。
渉に特別落ち込んだ様子はない。
だけど、辛くないはずがない。
どんな慰めの言葉も救いにはならない気がした。
悠希はカバンを開けてスマホを取り出した。イヤホンを出して片方を渉の耳に入れる。不思議そうな顔をしているが構わず、画面をタップすると、河原で聴いていた曲が流れた。
渉の表情が緩んで、しまいにはクスクスと笑い出した。
上手な慰めの言葉ではなく、こんなことをする不器用さが面白かったのだろうか。
「お前も聴けよ」
促されて、もう片方を自分の耳に入れる。
少しずつ夕暮れに染まっていく空。
不似合いに明るく突き抜けるような音楽が流れている。
しばらくは黙って、空が濃い緋色に変わっていくのを眺めていた。
早く元気になってほしい。
元気になって、今までみたいに一緒にいられるといい。
明るい声で渉は言った。
「俺は大丈夫。ばあちゃんはいなくなったわけじゃないし、この家なくなるのは寂しいけど、来年の春には東京に出る予定だったからな」
大丈夫、なんて言わなくていい。
親代りだった祖母が倒れて、馴染んだ家が売り払われるのなら、辛いのは当然だ。
当然なのに。
思ったことが、素直に口から出た。
「急いで元気にならなくてもいい。無理して笑わなくても」
渉は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑った。
「大丈夫。ほら、この曲聴かせてくれたし。それにさ――」
少し俯いてからゆっくりと顔をあげ、悠希の方を見る。
途切れた言葉を大事に紡ぐように言った。
「それに、悠希がいる。悠希がいてくれて良かった」
心臓を、ぎゅっと掴まれたような気がした。
苦しい。
この気持ちはなんだろう。
胸の奥の方が痛い。鼓動が早くなって、どうすればいいかわからない。
ずっと隣にいたい。
だけど、このまま隣にいたら、心臓がもたない気がする。
こらえきれず、視線を逸らした。
だけど近づいてくる気配を感じる。
そっと、できるだけ自然に隣を見た。
その瞬間、あまりにも近くに渉の顔があって、魔法にかかったみたいに動けなくなった。
目を見開いたまま、近づいてきた唇を受け止める。
どうしよう。
思考能力がゼロになり、何も考えられない。
重なっている数秒が、永遠みたいに感じる。
弾かれるように離れたのは、渉の方だった。
「うわ、ごめん! いや、ごめんってのは、ふざけてとか間違ったとかじゃなくて――」
心臓が張り裂けそうなくらい鳴っている。
言葉が浮かばず、呆然と見つめながら渉の言葉を聞く。
「……したくなったからで。でも、付き合っても告白してもないのにいきなりは、ないよな」
考えるよりも先に動く、渉らしいといえば渉らしい。
でも、ふざけてではなく、したくなったからというのは、つまり――。
無言のままなのを心配しているのがわかったので、なんとか言葉を絞り出した。
「……怒ったりは、してない」
やっとそれだけ言えた。
安堵したのか、渉は深く息を吐く。
突然のキスに驚いた。
だけどそれ以上に、嫌だと思わなかった自分に驚いた。
「俺、悠希のこと――」
見つめ合っていた。
一瞬の静寂は、大きな声に破られた。
「渉くん!」
二人同時にビクリと身体を震わせ、声の方を見た。
視界には誰もいなかったが、すぐに家の横から人が姿を現した。
花火の夜、ワゴン車に乗っていた男性だった。
「夕食、できたからおいで。あ、お友達も一緒に来るかい? ご馳走じゃなくて鍋だけどね」
手招きしている。
渉は悠希の方を見た。
「夕食、隣の佐藤さんが時折呼んでくれて。俺、ここで一人だから」
「……あ、じゃあ、行けばいいよ」
そう言ってから、隣家の男性に頭を下げる。
「お誘いありがとうございます。ちょっと立ち寄っただけなので、今日は帰ります。誘ってくださったのにすみません」
男性はにこやかに「そうかい。また機会があれば」と答えた。
悠希が縁側から下りると、渉は苦笑しながら片耳に入れていたイヤホンを手渡した。
「ありがとう、来てくれて。話途中になっちゃったけど、またな」
「うん」
頷いてから、手を振る渉に背を向けて立ち去る。
玄関前に止めていた自転車を漕いで自宅へと向かった。