都会の空とは青が違う。
 吹き抜ける風の匂いも川面の輝きも。
 向こう岸に建物はなく、遠くには小高い山が見える。
 木々の葉が風に揺れて、さわさわと音をたてた。

 水沢悠希(みずさわゆうき)は川を見下ろす土手に座り、スケッチブックを広げた。
 登校途中でスケッチするようになってから二週間。それまでも休日には時折、あてもなく歩き古い建物などを描いていたが、偶然見つけたこの場所は居心地がよく、以来、早朝に来てスケッチを続けていた。毎日のように強い日差しの下にいるのに、元々色白のせいか肌は一向に小麦色にならない。
 鉛筆を走らせて、目の前に広がる風景をさらさらと描き始めた。
 納得いく絵が描けそうになったら、久しぶりに大きなキャンバスを買ってきて油絵に挑戦してみようか。
 小学生のころは絵の教室に通っていたが、引っ越しを繰り返したために今は教室にも通えず、すっかり自己流だ。
 傍らに置いた鞄から色鉛筆を取り出した。紙のケースは既にボロボロだ。緑の色鉛筆を手にして塗り始めたとき、急にスケッチブックに影が出来た。
 振り向くと、同じ年頃の男が身体をやや屈めてスケッチブックを覗き込んでいる。思ったよりもずっと近くに顔があり、一瞬ビクリと震えた。
「ああ、ごめん。驚かしちゃったか」
 男は笑った。
 まるで大輪のヒマワリのような、屈託のない笑顔だ。
 額にかかる髪は風になびいて揺れている。目鼻立ちははっきりとしているが、気取った感じのない親しみやすい雰囲気だ。
 見覚えはない。
「へえ、なるほど、川の色に緑も使うんだ」
 男はつぶやき、一人で納得したように頷いている。
 初対面のはずだが制服は同じ、白いシャツに黒のズボン。胸元のピンバッチから、学年も同じだとわかった。
 悠希が通う普通高校は一学年に二クラスしかない。この町で生まれ育った人たちは殆どが顔馴染みのようだったが、二ヶ月前に引越してきた悠希は、話したことのない人間の方が多い。それでも、同学年なら見覚えはありそうなものだ。
 恐る恐る聞いてみた。
「……どこかで会ったことある?」
「いいや」
 男はあっさりと答え、やはり明るい笑みを浮かべた。そしておもむろに胸ポケットから長方形の何かを取り出し、川の方に向けた。
「この角度かな」
 手に光る銀色の物体はデジタルカメラだ。
 小さなシャッター音が聞こえる。
 納得がいかないのか、別のショットを撮りたいのか、緩やかに斜めになっている土手を下りて川へと近付いていく。長身だけど、身のこなしは軽やかだ。
 悠希はスケッチの手を止め、楽しそうに撮影を続ける男を半ば茫然と眺めていた。
 何なのだろう。
 確かにどこの学校でも、人みしりせずに話しかけてくる人間はいたが、それは同じクラスだからであって、通りすがりに知らない人間に話しかけるなんて稀だろう。
 男は急にこちらを振り向いた。
 慌てて目を逸らそうと思ったが、目が合ってしまう。
「撮っていい?」
 カメラを軽く掲げ、こちらを見上げて笑った。
「……あ、俺?」
 悠希はゆっくりと瞬きをした。
 微かにシャッター音がした。
「――なっ」
 まだ返事もしてないのに。
「シャッターチャンス」
 悪戯をした子供のような表情。
「いいなんて言ってないだろう」
 さすがに少しムッときて、声を大きくする。
 男は「まあ、まあ」などと、なだめるように言いながら近付いてきた。
 何が、まあまあ、だ。
 人のいい笑顔に押し切られそうになっているのに気付き、抗議の言葉を口にしようとした。だけど男は再び悠希の絵を覗き込み、何度も頷いて笑う。
「面白いなあ。俺の目にはさ、こんなふうには見えない」
「……あのさ」
 勝手に写真撮るなよ、と、それだけが言いたかった。だけどもう、どうでもよくなってきている。
「好きだ」
 男は絵を見て、それから悠希に視線を移した。
「綺麗だな、その絵」
 言うとすぐに背中を向け、後ろにいつのまにか止めてあった自転車にひらりと乗り漕ぎ出した。塗装が剥げかかっている自転車はギコギコと妙な音をたてている。
 完全にペースにのまれていて、立ち上がることもスケッチを続けることも忘れていた。古い車体がたてる音と共に自転車は遠ざかっていく。
 田畑と川に挟まれた真直ぐな道を走る姿を、見えなくなるまで眺めていた。

 まるで木陰に一瞬強い日が差したときのような、瞬きする間の出来事のような、残像がいつまでも消えない、そんな出会いだった。