光香ががちゃん、と玄関のドアノブを回すと、部屋のなかの闇が足元にこぼれてきた。
 光香がため息をつくと同時に、部屋の奥からのほほんとした声が飛んでくる。

「あ、れいちゃんおかえりぃ〜!」

 のほほんとした声に、光香は脱力しながら靴を脱ぎ、リビングへ向かう。

 真っ暗なリビングへ入って、光香は壁に手を這わせた。ぱちん、と電気を付けると、部屋のなかが照らされる。
 ベッドの上に、まるっとしたフォルムの生きものがいた。

「こら、モモ。まーた電気も付けずにゲームして。目が悪くなるから、暗くなったら電気をつけなさいっていつも言ってるでしょ」

 光香の声に、まるっとした生きものがもぞりと動く。

「うへぇ。だって暗いほうが雰囲気出るんだもん〜」

 まるっとした生きものの正体は、赤いフードパーカーを着た小柄な女性だった。

「そういう問題じゃないの」
「ハイハイ、分かったよー。明日から気を付けるって」
「今から気を付けなさい。まったくもう……」

 光香はため息混じりに首にかけていたストールを外し、代わりにエプロンを付ける。夕飯の支度を始めるのである。

 職場で国宝級美人と噂される光香が残業をしない理由は、恋人がいるからでも、ペットを飼っているからでもない。
 理由は、『これ』である。

「ああっ!? モモ、またタンスのじゃがりこ食べてる! もう、じゃがりこはご飯前は禁止ってあれほど言ってるでしょ!!」

 高瀬(たかせ)モモ。
 光香の五つ下の幼なじみで、まるで西洋人形のように美しい外見をしているが、中身はぐーたらな二十七歳独身女性である。
 人見知りで引きこもり気質なモモは、四六時中家でゲームをしているか、寝ているかだ。
 おそらく前世はナマケモノだったのでは、と光香はひっそり思っている。

「だって食べたかったんだもーん」

 光香が小言を漏らすと、まったく悪びれた様子のないなんとも呑気な声が返ってくる。

「だもーん、じゃないでしょ。今から夕飯なんだから、ちゃんと食べなさいよ」
「任せて! 今日漫画読んで頭めちゃくちゃ使ったからお腹減ってる!」
「漫画って……もう。仕事はしたの? 昨日も担当さんから電話かかってきてたでしょ」
 光香は呆れた眼差しを向けるが、モモはけろっとした顔で、
「ちゃんとしてるから大丈夫だよー」

 モモは、こう見えて売れっ子小説家なのである。
 気が向いたとき、パッと作品を書いてはベストセラーになっているため、強く怒るにも怒れないのだ。

 集中していないときの生活態度が、干物以下だったとしても。

「かんぱーいっ!」

 ビールグラスを合わせると、カチンと小気味よい音が鳴る。

「くあーっ美味い! 疲れた身体にビールがしみるぅ〜」
「モモってば大袈裟だなぁ」
「そんなことないよ! ほんとーに美味しいもん!」
「ふふっ……ありがと。明日は献立なににしよーかなぁ」

 呟く光香に、モモが我先にと手を挙げる。

「はいはいっ! れいちゃん私、明日はじゃがいもが食べたい!」
「ポテサラ?」
「うん! あと肉じゃが!」
「分かった。じゃあ明日作るね」
「ほんと!?」

 モモは、あらゆるじゃがいも料理が大好きなのである。

「あ、でももうじゃがいもないから、スーパー行かなきゃ。明日の帰り、スーパー寄ってくるね」
「スーパー!? スーパー行くならついでにじゃがりこも買ってきて!」
「ハイハイ……笑。その代わり、明日はちゃんと仕事するんだよ?」
「分かった!」
「ったく、返事だけはいっちょ前なんだから……」

 これは、才色兼備の准教授と、ぐーたら干物作家のほっこり日常である。