大学の研究室の前で、女学生たちが楽しげに話している。女学生たちの視線の先にいるのは、白衣を着たひとりの女性准教授だった。
「見てみて! あそこにいるの、光先生じゃない!?」
「ほんとだ! 光先生、いつ見ても美しいねぇ」
「知ってる? このあいだ光先生が書いた論文、学会で表彰されたって」
「さすが〜!」
「まだ三十二歳なのに准教授で仕事もできて、おまけに美人で優しいなんて、完璧過ぎ!」
「光先生って彼氏いるのかな!?」
「いるでしょ! あんな美人、男が放っておかないって!」
「だよねぇ……」
***
――藤城光香は、八重松大学の若き准教授である。
才色兼備……つまり美人で優しく、才能豊かな准教授なのである。大学内外、男女問わずファンが多いことで有名だ。
そんな彼女には、言わずと知れたルールがある。
「――お疲れさまです。お先失礼します」
「藤城先生、お疲れさまでしたー」
夕方五時。光香はパソコンを閉じると、研究室を出る。
「あ、光先生だ!」
「光先生!」
「きゃー! 光先生〜!!」
光香が研究室を出ると、女学生たちが一気に彼女に群がった。その様子は、さながら太陽系である。もちろん、太陽は光香だ。
「光先生、今日飲みに行きません?」
「あー……ごめんね。今日は急いでるから」
「えー残念……」
「みんな、気を付けて帰ってね」
「はぁ〜い!」
光香は爽やかな笑顔を残して、女学生たちのあいだをすり抜ける。
挨拶を済ませ、あっさり前を向いて歩き出した光とは裏腹に、女学生たちはしばらくその場に立ち尽くしたまま、光の後ろ姿を見送り続けていた。
光香は残業をしない。酒が飲めないわけではない。ただ、だれに誘われても、どんなに忙しくても、彼女は必ず直帰する。
それは……。
「いっしょに飲みたかったなぁ……」
女学生のなかのひとりが言った。
「仕方ないよ。光先生、飲み会出ないって有名じゃん?」
「なんでかなぁ。光先生、お酒は好きなんでしょ?」
「それがね、ここだけの話、光先生ってペット飼ってるんだって! 同じゼミの子が言ってた」
「えっ、そうなの?」
「知ってる! ペットの名前、モモちゃんっていうんだよね! 溺愛してるんでしょ?」
「ペットかぁ。だから寄り道しないでまっすぐ帰るんだ?」
「てか、光先生に溺愛されるとか超ご褒美じゃんね!」
「えー、羨ましい〜!!」
「あたしも光先生のペットになりたい〜!!」
光香ががちゃん、と玄関のドアノブを回すと、部屋のなかの闇が足元にこぼれてきた。
光香がため息をつくと同時に、部屋の奥からのほほんとした声が飛んでくる。
「あ、れいちゃんおかえりぃ〜!」
のほほんとした声に、光香は脱力しながら靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
真っ暗なリビングへ入って、光香は壁に手を這わせた。ぱちん、と電気を付けると、部屋のなかが照らされる。
ベッドの上に、まるっとしたフォルムの生きものがいた。
「こら、モモ。まーた電気も付けずにゲームして。目が悪くなるから、暗くなったら電気をつけなさいっていつも言ってるでしょ」
光香の声に、まるっとした生きものがもぞりと動く。
「うへぇ。だって暗いほうが雰囲気出るんだもん〜」
まるっとした生きものの正体は、赤いフードパーカーを着た小柄な女性だった。
「そういう問題じゃないの」
「ハイハイ、分かったよー。明日から気を付けるって」
「今から気を付けなさい。まったくもう……」
光香はため息混じりに首にかけていたストールを外し、代わりにエプロンを付ける。夕飯の支度を始めるのである。
職場で国宝級美人と噂される光香が残業をしない理由は、恋人がいるからでも、ペットを飼っているからでもない。
理由は、『これ』である。
「ああっ!? モモ、またタンスのじゃがりこ食べてる! もう、じゃがりこはご飯前は禁止ってあれほど言ってるでしょ!!」
高瀬モモ。
光香の五つ下の幼なじみで、まるで西洋人形のように美しい外見をしているが、中身はぐーたらな二十七歳独身女性である。
人見知りで引きこもり気質なモモは、四六時中家でゲームをしているか、寝ているかだ。
おそらく前世はナマケモノだったのでは、と光香はひっそり思っている。
「だって食べたかったんだもーん」
光香が小言を漏らすと、まったく悪びれた様子のないなんとも呑気な声が返ってくる。
「だもーん、じゃないでしょ。今から夕飯なんだから、ちゃんと食べなさいよ」
「任せて! 今日漫画読んで頭めちゃくちゃ使ったからお腹減ってる!」
「漫画って……もう。仕事はしたの? 昨日も担当さんから電話かかってきてたでしょ」
光香は呆れた眼差しを向けるが、モモはけろっとした顔で、
「ちゃんとしてるから大丈夫だよー」
モモは、こう見えて売れっ子小説家なのである。
気が向いたとき、パッと作品を書いてはベストセラーになっているため、強く怒るにも怒れないのだ。
集中していないときの生活態度が、干物以下だったとしても。
「かんぱーいっ!」
ビールグラスを合わせると、カチンと小気味よい音が鳴る。
「くあーっ美味い! 疲れた身体にビールがしみるぅ〜」
「モモってば大袈裟だなぁ」
「そんなことないよ! ほんとーに美味しいもん!」
「ふふっ……ありがと。明日は献立なににしよーかなぁ」
呟く光香に、モモが我先にと手を挙げる。
「はいはいっ! れいちゃん私、明日はじゃがいもが食べたい!」
「ポテサラ?」
「うん! あと肉じゃが!」
「分かった。じゃあ明日作るね」
「ほんと!?」
モモは、あらゆるじゃがいも料理が大好きなのである。
「あ、でももうじゃがいもないから、スーパー行かなきゃ。明日の帰り、スーパー寄ってくるね」
「スーパー!? スーパー行くならついでにじゃがりこも買ってきて!」
「ハイハイ……笑。その代わり、明日はちゃんと仕事するんだよ?」
「分かった!」
「ったく、返事だけはいっちょ前なんだから……」
これは、才色兼備の准教授と、ぐーたら干物作家のほっこり日常である。
ある日の夜。光香とモモは外食のため、韓国料理の店に来ていた。
「韓国料理とか久しぶりだね」
「ほんと! めちゃくちゃお腹減ったよ〜」
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」※店員。
「モモ、なに食べたい?」
「とりあえずビール!」
「間違いない! ほかには?」
「あ、あとあれ食べたい!」
「なに?」
「えっとー……けちょんけちょん、みたいな感じの名前のやつ!」
「(なんだそれ……?)」※店員
「あぁ、カンジャンケジャンね」
「(分かるの!?)」※店員
「そうとも言う〜」
「(そうとしか言わないよ!?)」※店員
「あと銀歯と、マリオの亀」
「すみません、ビールふたつとカンジャンケジャン、それからキンパとカルビクッパください」
「……か、かしこまりました……(変わった客だ……)」※店員
ある日の仕事帰り。論文を無事書き終えた光香は、クタクタで帰宅した。
「ただいま〜……(今日は疲れた……)」
「れいちゃんおかえりぃ! 待ってたよ! 早くビールで乾杯しよーよっ!」
モモの無邪気な笑顔に、光香はふっと笑った。
「うん。ごめんね、今すぐご飯作るから」
「じゃがいもパラダイスでお願い!」
「言うと思ってました」
とりあえずビールで乾杯。
「やっぱりプレモルうんまーいっ♡」
「そうだねぇ」
「からの〜……」
今晩の献立は、じゃがいもコロッケ、じゃがいものチーズ焼き、ガリポテ、じゃがいものきんぴら。
モモの目が輝き出す。
「じゃがいもパラダイスだぁーっ♡」
「どーぞ、召し上がれ」
もぐもぐもぐもぐ……。
「うんまーいっ♡ れいちゃん天才!!」
「大袈裟だなぁ、もう」
「そんなことないよ! れいちゃんのじゃがいも料理は世界一だよ!!」
「れいちゃんももっと食べなよっ!」
もぐもぐもぐもぐ。
「……ふふっ」
「なに笑ってんのさ、れいちゃん」
「んーん。モモは魔法使いみたいだなって思って」
「えーなにそれ。……ハッ。いや、実はそうなのかもしれない。じぶんが気付いてないだけで私って実は……」←真顔。
「こーら。またすぐ調子に乗るんだから」
「えへへ」
※光香の原動力は、モモの無邪気な笑顔なのです。
ある日の朝。
「こんにちはー。モモ先生、鷲見が来ましたよー。原稿の進捗どうですかー?」
モモと光香の家にやって来たのは、モモの担当編集鷲見千歳(三十歳、独身女性)である。
「げっ! スミィじゃん! なんでいんの!」
「なんでいんの、じゃないですよ! モモ先生、原稿! てか私の電話番号、着拒するとかひどいです! 外してくださいよ!」
「やだよ! だってうるさいんだもん!」
「うるさいのはあんたが仕事しないからでしょーが!!」
「うわぁ、出たよひとのせい。いい歳してそーゆうのよくないよ〜?」
「くっ……(殴りてぇ……っ!)」
今日は、モモの次回作の原稿提出期限日。
モモは鷲見の電話番号を着信拒否しているので、わざわざ家まで取りに来るのである。
「鷲見さん、いつもわざわざすみません。どうぞ、なかでお待ちください」
鷲見はため息をつき、光香に一礼して部屋へ入った。
原稿の提出期限は今日中。
もちろん原稿はまだ完成していない。
「鷲見さん、飲み物はコーヒーでいいですか?」
「あ、おかまいなく……(光香さん、相変わらずめちゃくちゃ美人……♡)」
※スミィは光香ファン。
「デレスミィきも」
「なんか言いましたか。てか、そのあだ名やめてください」
「れいちゃん、私もコーヒー飲みたーい」←スミィは無視。
「はいはい」
それからしばらく。
「――ねぇれいちゃん、お腹減った」
「はいはい。今日はポテトグラタン作ったよ」
「やったーポテグラ!! ポテトサラダとじゃがバターもつけて!」
「はいはい。ポテトサラダとじゃがバターね」
「…………」←スミィ。
「モモ、りんご剥いたけど食べる?」
「ん〜めんどくさい〜。食べさせて〜」
「仕方ないなぁ」
「…………」←スミィ。
昼。
「――ねぇれいちゃん、喉乾いた」
「はいはい。お茶とジュースとコーヒーどれがいい?」
「れいちゃん特製のスムージー!」
「…………」←スミィ。
「――ねえねえれいちゃん、ゲームしよーよ!」
「そんなことよりモモ、原稿は終わったの? 鷲見さん待たせてるんだから遊んでちゃダメだよ」
「気分転換くらいいーじゃん!」
「もうしょーがないなぁ……一回だけだよ? 一回やったら原稿ね?」
「うん!」
「…………」←スミィ。
そして、夜。
「原稿終わったー!!」
「お疲れ様でした……!!」
鷲見はなぜかモモではなく、光香に深く頭を下げた。
「ちょっとスミィ! 原稿書いたのは私だよ!」
「いやぁすみません。モモ先生に尽くす光香さん見てたらつい……(つーかこのひと、光香さんとルームシェアするまでどーやって生活してたんだろ)」
「落ち着いてモモ……鷲見さんも。モモの言うとおり、私はなにもしてませんよ」
「そうだよ! 偉いのはわ、た、し!」
「……光香さん、あんまりモモ先生を甘やかしちゃダメですよ(つけ上がるから)」
「失礼な! まだまだ甘やかしが足りないくらいだよ!」
「モモ先生のメンタルって、マジでどーなってるんすか」
ある日。
「モモ先生〜。鷲見が原稿取りに来ましたよ〜」
「原稿は昨日いたずらな妖精ちゃんがどこかに隠してしまいました。ということで探してきてくれる?」
「なるほど〜。ではスミィ、妖精ちゃん探しに行ってきます〜……って、んなわけあるかい!」
※モモは締め切り前になると、ファンタジー脳になることがある。
***
別日。
「モモ先生。鷲見が来ましたよ〜」
「本日のモモは有給休暇自主消化中なので、仕事はいたしません。お帰りください」
「テレ朝の天才外科医みたいな返しやめてください。上手くないですからね」
※今日が締め切りって分かってます?
***
そのまた別日。
「モモ先生、鷲見ですよ〜」
「モモはもうお酒飲んじゃったので今日は書けません。帰ってください」
「……ねぇモモ先生……いつも来た途端に帰れ帰れって、いくら私でも傷付くんですよ! そんなことばっかり言うと私、本当に帰りますからね!?」
「えっ、マジ? よっしゃ帰れ!」←マジで酔ってる。
「うわぁん光香さぁん!! モモ先生がいじめるよぉ〜!!」
※モモは素直なので、思ったことしか言いません。
とある日の締め切り前日。快晴の空に、モモの叫び声が響いた。
「ダメだ……書けん!!」
「モモ先生がスランプ……!? いつもわがまま放題でなんのストレスもないモモ先生がっ……!?」
※意外すぎて、スミィ絶句。
「失礼な子ね! 私にだってストレスくらいあるわい」
「こらこらモモ、ぷんぷんしないの。煮詰まってるなら少し休んだほうがいいよ。スムージー飲む? あ、それともじゃがりこ食べる?」
「んー……あ、じゃあ気分転換にポエムでも書こっかな」
「ポエム!? モモ先生ってポエミアンなの!?」←スミィ。
「そーそー。私、スランプになるとポエミアンになるのよぉ」←テキトー。
「ポ……え、なんだって??」←光香困惑。
※ポエミアン……ポエムを謳うひと。
※そんな言葉はありません。