レモネードはよく冷やして

 夜の薄暗い中、二人で手を繋いで歩く。

 どきどきするのが、手を繋いでいるからなのか、それとも非日常の中だからなのかはよくわからなかった。

 どちらでも良いけれど。

 ただ、繋いだ手があったかかったのだから。

 いや、真夏なのだからあったかいを通り越して汗ばんでいる。

 良い感触かと言われたら、そういうことはなかっただろう。

 普段なら。

 今はそんなこと、微塵も感じなかった。

 特別な機会だから。

 特別な時間だから。

 むしろ心地いい。

 そのうち、きゅっと握り返された。

 瑞希の心臓がそれに反応して、ちょっとだけ跳ねる。

 それは玲望の、もっとわかりやすい受け入れであってくれたのだから。

 おまけに玲望は口を開いた。

「瑞希、来週から合宿だっけ」

 けれど口から出てきたのは、なんでもない言葉だった。

 実になんでもない言葉だった。

 こんなこと、教室や廊下の片隅でやりとりするものだ。

 ちっとも恋人同士らしくはない。

 特別でもない。

 なのに、確かに『特別』であったのだ。

 玲望からの気持ちが『特別』だ。

 こういうことをすんなり言ってくれるくらいには、瑞希とのこういうことを自然と受け取ってくれているという『特別』。

 そんなことを感じてしまうから、瑞希はもっと心臓が高鳴るし、また熱くしてしまうのだった。
「ああ。小学校でまたバザー、やる。あとドッジ大会とか」

 よって、瑞希もなんでもない返事をした。

 合宿の予定なんて、普通過ぎることを。

 夜道はこつこつと小さく靴の音だけがする。

 それから小さく交わす、ごく普通の会話。

 両方が心地良かった。

 夏のむわっとした空気も気にならない。

 夜になり、多少気温が下がったのもあるだろうが、そんな単純な理由ではないだろう。

 これもきっと同じこと。

「色々あるんだな。今度は菓子はいいのか」

「ああ。持ち歩くのがちょっと心配だからな、向こうで作るんだ」

 夜はどこまでも続いている気がした。

 そんなはずはないけれど。

 玲望のアパートに着けば、おしまいだ。

 そのまま「またな」となるはずだ。

 でもそれまでの時間は、確かにどこまでも続いているのだ。

 終わりが見えないほど、どこまでも。
「土産、買ってくるな」

「気を使わなくていいんだぞ。忙しいだろ」

「土産、買う時間はどうせ取るって。なにがいい?」

「そっか……じゃあ……海が近いんだよな、それなら海鮮っていうか、魚とか……」

 小さな声のやりとりをしているうちに、街灯が見えてきた。

 街灯の中でも見慣れたひとつのものである。

 玲望の住むボロアパートの前にある、これだけは大きくて立派なもの。

「お、着いた」

 すっと手を離した。

 住人が出入りしていないとも限らない。

 二人きりの夜はそこでおしまいになった。

 けれど寂しくなどない。

 今、このときだけ終わっても、続いていくものなのだから、なにも寂しく思う必要などあるものか。

「瑞希、今日は帰るんだろ」

 玲望が鍵を出すのだろう、ポケットを探りながら言った。

 残念だが、今日は帰らなければいけない。

 家にいる家族が待っている。

 今日のボラ研の活動の話を聞きたがるだろう。

 玲望を一人で部屋にするのはちょっと気が引けたけれど、あまりべったりしているわけにもいかないし。

 玲望とてそんなことは望まないだろう。

 瑞希が自分の生活をおろそかにしてまで自分と居たがるというのは。
「じゃ、またな。合宿前に一回会おうぜ」

「ああ。また連絡するから」

 別れの言葉はやはりごく普通だった。

 瑞希はアパートの下から、玲望がカンカン、と音を立てて外階段をのぼるのを見守った。

 玲望はすぐに自分の部屋の前にたどり着いて、鍵を差し込む。

 ドアを開けた。

 中に入る前。

 瑞希のほうを見て、ちょっとだけ顔を緩めた。

 微笑を浮かべてくれる。

 それにつられるように、瑞希も笑みを浮かべて、手をあげた。

 今度は玲望がそれに応えてひらっと手を振って、そしてドアの中へ消えていった。

 瑞希は数秒だけその場に佇んだけれど、すぐに歩き出した。

 今度は一人の夜の帰り道。

 そう遠くはないのだ。

 十分もすれば着いてしまう。

 なんだか軽快に感じた。

 足取りも、気持ちも。

 おかしなものだ、ただファミレスから玲望の家まで一緒に帰っただけだというのに。

 そんな短い時間が、これほど明るい気持ちをくれる。

 来週は合宿だ。

 瑞希は不意に違うほうへ思考を向けた。

 今日のバザーが終わったのだから、気持ちを次へと切り替えなくてはいけない。

 それはボラ研の部長として大切なことだ。

 合宿の計画は完璧なのだから、あとはそれに沿って実行するのみ。

 部長として気を引き締めるけれど、でも、自分も楽しもう。

 そういう前向きな気持ちが生まれていた。

 玲望としっかり繋いだ、あたたかな手。

 その手が瑞希を、玲望が居ない時間も元気でいさせてくれる、そんな気がして。
 合宿も終わった、翌日。

 瑞希は自室のデスクで、広げたノートに向き合っていた。

 今回の合宿のまとめを書いていたのである。

 レポートとしてまとめて、鈴木教諭に提出する。

 OKをもらえたら、改めて清書して、ボラ研の資料とするのである。

 資料というのは、今後の活動に役立てるためのものだ。

 会議でまとめるのと同じたぐいのもの。

 せっかく大規模な活動をしたのだ。

 楽しかったな、上手くいったな、やれやれ良かった。

 それで済ませてしまうのは勿体ない。

 きちんとまとめて、資料として残して、今後の活動や来年度も続けて活動していく後輩たちの参考になるものにする。

 それでボラ研の運用の参考になればいいし、瑞希本人だって、自分の代がどんなにいい活動ができたかというのを記録としても残していきたい。

 なので、ちょっと面倒だと思いつつも、嫌な作業ではなかった。
 一日目……電車で移動して、午後に着いて、海辺の清掃活動。

 二日目……小学生とドッジボール大会。

 午後はバザーで出す焼き菓子作り。

 夜はキャンプファイヤー……。

 三日目……。

 そのようにまず、箇条書きにして書き出していく。

 そこから細部を思い出して、箇条書きの下に詳しく書いていくのだ。

 まとめるのは別の良いこともあるな、と瑞希は書きながら思った。

 楽しかった合宿の思い出をもう一度、噛み締めることができる。

 ボラ研として最後の夏。

 部長としての活動。

 勿論、全部が大成功というわけではない。

 計画が甘かったなと思ったところもあったし、上手くいかなかったこともある。

 でもそれだって想い出のひとつであるし、今後の活動に生かせることだ。

 だからひとつだって無駄にはならない。

 けれど瑞希はあまり書き物が得意ではない。

 勉強だって、国語が特別優秀というわけではないのだ。

 すらすらとは書けなかった。

 一時間ほど取り組んで、なんとかざっくりとひにちごとの出来事を書けたところで、椅子の背もたれにひっくり返って伸びをした。

「あー! 休憩すっか!」
 ちょっと疲れた。

 休憩したほうがいいだろう。

 よって瑞希は椅子を立った。

 部屋を出る。

 なにか飲み物や、あれば菓子なんかも欲しい。

 そうだ、今日も暑いのだからアイスでもあればもっといい。

 とんとんと二階からの階段を下りて、キッチンへ入って物色したのだけど。

 望んだものはなかった。

 冷蔵庫には母が常備してくれている麦茶があったけれど、甘いものやしょっぱいものといった、おやつになりそうなものはない。

 ちょっと悩んだ。

 外に出るのは億劫だ。

 なにしろ暑い中。

 単純に面倒。

 けれどおやつが欲しい気持ちと天秤にかけたら、結局そちらのほうが勝った。

 面倒ではあるが、冷たいものでも買えば、その暑さだって帳消しだ。

 なんて、自分に言い聞かせるための言い訳をくっつけて、瑞希は一旦部屋に戻って財布とスマホを掴んだ。

 ポケットに入れて、徒歩十分ほどのコンビニへ向かったのだった。
「らっしゃいませー」

 ぴんぽん、という入り口のチャイムをくぐった瑞希を迎えたのは、店員の気の抜けた声だった。

 いつかのコンビニでもそうだったような、不真面目なタイプの店員らしい。

 まったく、真面目にやりゃいいのに、なんて思って、瑞希はあのときのことを思い出しておかしくなった。

 おかしくなれば、不快な気持ちも湧かない。

 さっさとアイスケースに向かって、中を覗き込む。

 夏の折なのだから、種類豊富にあった。

 さて、なににするか……。

 たっぷり入ったカップタイプか。

 ちょっと凝った、ソフトクリームのような形のものや、クッキーにサンドしてあるものもある。

 味も問題だ。

 こっくりとしたチョコなど。

 もしくはさっぱりと氷菓。

 どれも魅力的に見えてしまって、悩んでしまっていたのだけど。

 ぽん、といきなり肩になにかが触れた。

 瑞希はどきっとした。

 その手つきは親しい触れ方だったものだから。

 ばっと振り返ると、そこにいたのは何故か玲望であった。

 どうして、節約家の玲望は全体的に価格が高めのコンビニなどには、滅多に来ないのに。

「よう、瑞希」

 玲望は微笑を浮かべていた。

 その笑みに、瑞希の心は一瞬で上向いた。
「なんだ、こんなとこで。偶然だな」

 面倒だと思ったのに、来てよかったな。

 単純にもそう思ってしまう。

「なにか買い物か?」

 アイスケースから視線を離して、玲望に向き合う。

 玲望はなんでもないように、頷いた。

「ああ……おつかい。バイトの」

 そういえば玲望はバイトのときによく着ているラフな格好をしている。

 この上にエプロンをつけて店に立つのだ。

「バイト? おつかい?」

 しかし言われたことはよくわからなかった。

 どうしてバイトでおつかいになんてやられるというのか。

 おまけにコンビニに。

 玲望は瑞希の疑問も当然のものだと思ってくれたのだろう。

 持っていたものをちょっと掲げた。

 そこには消臭剤が握られている。

 ドラッグストアでも売っている、ポピュラーなものだ。