午後も参加すると言っていた玲望。
でも本当は、それほど必死に勉強をしなくてもいい……。
玲望の進路は既に聞いていた。
専門学校だ。
料理上手な玲望。
調理の専門学校に行って、調理師の資格を取るつもりだと言っていた。
まぁ妥当で堅実である。
得意なことを生かせるのだし、それなら専門学校の勉強も楽しめるだろうし、そして卒業後の就職先も心配ないだろう。
玲望が大学進学志望ではないのは、単に大学進学には金がかかるからで、玲望の家からそれを工面してもらうのは難しいからなのであるが、例によって玲望は気にした様子もなかった。
「仕事が苦じゃなくなるだろうし、それに調理師ってなかなか稼げるらしいんだぜ。なんせ資格がいるんだからな」
そんなふうに話した。
合理的な玲望らしいことだ。
けれど。
瑞希はたまに思うのだった。
玲望は勉強が苦手ではない。
いや、むしろできるほうだ。
学年トップなんてものではないけれど、クラスでは上位に近いと聞いていた。
そんな玲望なのだから、本当は……家に経済的な余裕があったら。
大学進学したいと思う気持ちもあったのではないだろうか。
もっと勉強ができるのだし、学校やサークルなど楽しいことも多いだろうし、それに俗な話だが、卒業後に手に入る学歴としてだって専門学校より上だ。
割り切るのが上手く、家が貧しいことだって受け入れている玲望のことだから、そんなことは口にしないだろうけれど。
でも、まったく思わないはずはない、と思う。
玲望とて一人の男子高校生なのだから。
聞いたりするつもりはない。
本人がそれでいいと思っていて、前向きに捉えているのだから。
だけどたまに瑞希は考えてしまうのだった。
進路が離れてしまうことについて。
今は同じ高校に通っていて、クラスも部活も違うけれど、それでも毎日会えている。
でも大学と専門学校と、分かれたら。
毎日過ごす場所だって、まったく違うものになる。
勿論、関係をやめるなんてことは微塵も考えていない。
考えてはいない、けれど。
どうしても今より距離ができてしまうということは、不安材料だった。
玲望のことを信頼しているのだから、自分から離れていくなんて思わないし、恋人同士としては一緒にいてくれると信じている。
それでもほんのり胸の中にあること。
将来の不安ともいえるようなことだ。
それは夏の暑さのように、たまにじりじりと迫ってくるのだった。
「梶浦? わからんところでもあるのか?」
不意に瑞希の思考は中断された。
はっとする。
上を見ると、教師が見下ろしていた。
まずい、いつのまにか手が止まっていたようだ。
サボっていたも同然である。
一応、勉強は真面目にしているほうなので『サボり』と思われなかったのは幸いだ。
瑞希は慌てて、「え、えっと、ここがちょっと……」なんて適当なところを指さした。
「ああ……辞書を引いたらいい。類語なら考えてるより調べちまったほうが早いからな」
教師は覗き込んで、そう言ってくれた。
瑞希はほっとする。
今、考えても仕方ないことだ。
あとにしよう。
いや、あとで考えることだって仕方がない。
そのとき……卒業やその直前になって考えればいいことだ。
今はとにかく、自分の進路のために勉強することが重要。
瑞希は内心、ちょっと首を振って思考を切り替えた。
勉強に戻ってくるように。
教師が「頑張れよ」と言って、教室を回るのに戻っていって、ほっとした。
ほっとするだけでなく、アドバイスの通りに電子辞書を取り出した。
本当はわかっていた問題だけれど、訊いてしまったのだから、一応辞書を見ておかなければ。
そのまま瑞希はワークに戻っていった。
そのあとは真面目に夏期講習に取り組んだと言えるだろう。
広い体育館には、本日、長テーブルがずらりと並べられている。
裁縫の得意な部員が用意した綺麗なクロスを、上にかけて売り場を作る。
テーブルの隣にはのぼり。
布を縫って文字を手書きして棒にくくりつけた簡単なものだが、こういうほぼ素人のバザーにはじゅうぶんな宣伝だろう。
テーブルには陳列棚を用意して、そこにラッピングした焼き菓子を並べた。
手先が器用な者が多いだけあって、なかなか見栄えがするブースになった。
「焼き菓子いかがっすか!」
「手作りですよー!」
ブースには部員が立って、呼び込みをする。
バザーの会場に入って、あちこち見て回る客を呼ぶのだ。
今日はボラ研の夏休み活動のひとつ、バザー出展の日。
バザーは駅前の体育館でおこなわれるもので、地域のものとしてはそこそこの大きさのものといえた。
昔は駅前広場で開催されていたそうだけど、なにしろこの暑さである。
熱中症患者が出てはかなわないということだろう、数年前から体育館での開催になったらしい。
出展する側としても、涼しいほうが有難いに決まっているので、純粋にバザーを楽しめそうであった。
瑞希は部長として、ブースに立つよりも、部員たちの動きを指示する立場。
別の場所にいる、在庫管理や呼び込み役もたまに見に行く。
すぐ横のブースではリサイクル品を並べていた。
折りたたみのラックを借りてそこに古着を吊るしたり、ちょっとした家具、家電なんかもある。
部員が持ち寄ったものである。
日曜の開催であったからか、なかなかひとの入りは良かった。
体育館の入り口から次々ひとが入ってくる。
家族連れも多い。
「ねぇ、お父さん! さんりんしゃ!」
通りかかった親子連れ。
連れられていた小さな女の子がひとつを指差して、明るい声をあげた。
ちょうどリサイクル品ブースにいた瑞希は顔をほころばせてしまう。
「お? 欲しいのか?」
「うん! このあいだ、公園で乗ってる子がいたの」
会話の様子を聞く。
これは売れるかもしれない。
それに、純粋にこの子のところにこの三輪車が行けばいい、とも思った。
「良かったら乗ってみませんか?」
瑞希は親子連れに声をかけた。
女の子は勿論、喜んで三輪車にまたがって、そんな嬉しそうな顔を見せれらればお父さんもかなわないと思ったのだろう。
「これ、ください」と言ってくれた。
「ありがとうございます!」
瑞希だけでなく、部員もお礼を言ったけれど、ブースに立っていた部員がちょっと困ったような顔をした。
「あ……すみません、包むものがない、ですね……」
なにしろ、幼児向けとはいえそれなりに大きい。
用意していた袋には入らない。
しかしお父さんは気にした様子もなく、がしっと三輪車を掴むと軽々持ち上げた。
「構わないですよ。車で来てますから。さ、一回車に戻って積んでくるぞ」
「うん! お父さん、ありがとう!」
三輪車を抱えたお父さんに、女の子はくっついて甘えている。
その様子は微笑ましかった。
「たくさん遊んでくれな」
瑞希はつい、かがんで女の子の頭を撫でて、女の子は顔をほころばせたのだけど、その横から声がかかった。
「ありがとうございます。良ければこちら、お礼に……」
すっと女の子の前に差し出されたもの。
それは小さな袋だった。
手作りのブースで売っている焼き菓子。
クッキーが入っている。
おまけに差し出してきているのは玲望ではないか。
瑞希はちょっと驚いた。
「いいの!? おにいちゃん、ありがとう!」
女の子はもう一度、明るい声で喜んでくれた。
玲望から包みを受け取って、大事そうに両手で持った。
嬉しそうな顔をしてくれた女の子。
それを見つめる玲望はとても優しい顔をしていて。
玲望のこういう顔……幼い子相手にこんな顔。
初めて見た、と瑞希はちょっとぽぅっとしてしまった。
「ありがとうございましたー」
みんなでお礼を言って、今度こそ親子連れは去っていった。
「玲望、ありがとな」
瑞希は玲望を振り返った。
玲望はまださっきと同じ顔をしていた。
玲望は今日、部員でもないのに手伝いに来てくれていたのだ。
貴重な夏休みの一日だというのに。
「俺が教えて作ったんだから、気になって」なんて言っていたけれど。
「いいや」
玲望はポケットに財布をしまっている。
それを見て、瑞希はやっと知った。
玲望は自分で金を出して、さっきのクッキーを求めてくれたのだ。
「なんか、妹を思い出した」
ぽつりと言った玲望。
弟、妹想いなのに、今は離れて暮らしている玲望。
その言葉は瑞希の心をちょっとだけ痛ませる。
本当は寂しいのだろう。
家族と一緒に暮らせないことが。
家族が傍にいないことが。
「じゃ、俺は戻る。瑞希も頑張れよ」
玲望は満足したようで、ふいっと行ってしまった。
またブース内に入ってくれるのだろう。
「おう。玲望もな」
そんな玲望の後ろ姿を、瑞希は数秒、見てしまった。
独り暮らしの玲望。
ご飯を食べるのだって独りなのだ。
たまに胸に迫るそれが、今、襲ってきてしまった。
別に玲望本人は気にしたり、境遇を恨んだりしていないだろう。
けれど寂しく思うことがないはずはない。
そう、さっきの女の子に『妹を思い出した』なんて優しくしてしまうくらいには。
肉親にはなれない。
玲望の愛する弟、妹にもなれない。
でも、自分だってできることはある。
それはまだ、事象としてしかないし、玲望の気持ちだってわからないけれど。
確かに可能性はあるのである。
玲望といつか、家族になる。
そういう可能性。
ちょっともどかしい。
高校生の身としては、まだ叶えるのが難しいということが。
夕方にバザーが終わってから、ボラ研で軽い打ち上げをして、それは玲望も混ざっていった。
「部活でやるんだろ。俺はいいよ」なんて言ったのだけど、瑞希は勿論「なに言ってんだ。手伝ってくれたんだから」と玲望の腕を引かんばかりで誘ったし、部員も「基宮先輩が来てくれないとお礼ができないです」と同じように言って。
そこまで皆に誘われて断るような玲望ではない。
「じゃ……お邪魔するか」と来てくれたのだ。
安いファミレスなんて場所だったけれど、じゅうぶん楽しかった。
料理も美味しかった。
「気を付けて帰れよー」
瑞希は部長として、最後まで残って全員が解散するのを見守った。
部員たちは「楽しかったなー」と明るい顔のままで帰っていった。
残されたのは瑞希と、玲望。
特になにも言わなかったけれど、一緒に帰るのだろうと瑞希は思った。
自分に対してそう思ってくれるのがとても嬉しいと思う。
こういう、些細なことが恋人らしいと感じられてしまって。
「さ、帰るかー」
瑞希は玲望を促した。
玲望も「ああ」と答えてくれて、ファミレスの明るいところから、夜の薄暗いところへ二人で踏み出す。
別に、高校生にもなって夜道が怖いということはない。
まだ深夜というほどではないのだし。
でも二人でいられるのは安心だった。
確かな安心。
ファミレスは勿論、大通り沿いにあったので、まだ街灯が煌々とついていたし、人通りも多少あった。
でも少し細い道へ入って、住宅地に入る頃にはそれも少なくなってくる。
ちょっとためらった。
嫌がられるだろうか。
恋人同士とはいえ、あまり周囲に公言はしていないのだ。
「外でやめろよ」と言われるかもしれない。
だがせっかくの機会である。
二人きりの帰り道。
人通りもほぼない。
誰かに見られる可能性は極めて低いだろう。
思い切って、瑞希は手を伸ばした。
玲望の手に触れる。
玲望が、ちらっとこちらを見た。
瑞希はなにも言わなかった。
ただ、視線だけを合わせる。
「いいか?」という気持ちが伝わるように。
玲望もなにも言わなかった。
そのままなにもなかったように歩いていくし、視線を逸らして前を見た。
それだけでじゅうぶんだった。
瑞希はほっとする。
拒否されなかっただけでない。
玲望のほうも確かに受け入れてくれたのだから。