「お前は、怒らないのかよ」
ふと、玲望が言った。
瑞希がまるで考えていなかったことだ。
「……なんかあるか?」
そのまま訊いてしまう。
思い当たる節がない。
玲望が数日、瑞希を避けたことだろうか、と思ったのだけど、どうもそれではなかったようで。
「俺、あのとき態度、悪かっただろ。……つまらないこと、した」
気まずそうに言ったこと。
瑞希はそこでやっと、玲望も自分のことを省みていたことを知った。
「や、それは俺が空気読まなかったせいだから……」
「そんなことないし、それとこれとは別だ」
でも玲望は悪くないのだ。
玲望の気持ちを考えずに行動した、自分のせい。
瑞希はそう言ったのだけど。
不意に玲望が動いた。
膝を詰めてくる。
ためらったようだったけれど、腰をあげて膝で立った。
そしてどうするかと思えば、するっと瑞希の肩に手が回された。
ふわり、と目の前に金髪が揺れる。
一緒に柑橘のほの甘い香りも。
瑞希に抱きついておいて、玲望はぎゅっと手に力を込めてくる。
「ごめん」
耳元で聞こえたことは、さっきとは違う。
もっとはっきりした言葉。
瑞希は数秒動けずにいたけれど、ふっと顔が緩んでしまった。
そろそろと手を持ち上げて玲望の体に回す。
「俺こそ」
それですべて済んでしまった。
久しぶりに感じた玲望の体の感触、あたたかな体温、シャンプーの柑橘の香りも、その中に感じるほのかな汗の香りも。
すべてが心地いい。
「丸ごと持ってくるなんて、お裾分けみたいだな」
カチャカチャと皿とフォークが触れ合う軽快な音がする。
瑞希は棚から出した皿をちゃぶ台に置いて並べて、食べる準備を進めていったのだが、そこで玲望がちょっとおかしそうな声で言った。
なにか飲み物を準備してくれている台所から。
自覚はあったので瑞希は「うるせ」と言うしかない。
本当は綺麗にラッピングしようかと思ったのだが、丸ごとのパウンドケーキが入るようなラッピングを知らなかったのだ。
包む段階になって困って、結局家のタッパーなんて、色気のないものになってしまった。
一応、贈り物なのだからもっと綺麗に渡したかったのだが。
「でも、……いい匂い」
玲望は瓶のようなものとグラスを一緒に持って、やってきた。
その表情はとても穏やかで。
玲望の心も落ち着いてくれたことを表していた。
「そうだろ、絶対美味いって」
「さっきと言ってることが違うけど」
おまけに瑞希が言ったことに、くすっと笑ってくれる。
そうしてから包丁でパウンドケーキを切り分けていった。
断面にはレモンピールが見える。
切ったことで香りが強くなって、玲望も気付いたようだった。
「これ、レモンピール?」
すぐ気付くのは流石、料理上手である。
「ああ。あ、オレンジピールと勝手に替えちまったけど、それで失敗したりしないよな?」
「同じ柑橘系のドライだし変わらねぇよ」
ちょっと不安だった点を言ったのだけど、玲望はしれっと言って、パウンドケーキを取り上げて皿に移していく。
「レモンもいいな。夏らしくて爽やかな匂いだし」
一切れずつ皿に乗せて、端にフォークを置いてケーキの準備は整った。
玲望は飲み物の準備をするのだろう。
ちゃぶ台に置いていた、さっき持ってきた瓶に手を伸ばす。
口が広くなっていて、ピッチャーと呼べるもののようだ。
「ああ。……あ、でも、バザーで出すのはオレンジのままにするから」
瑞希が言ったことにはちょっと顔がしかめられた。
意味などわかっただろう。
眉間にしわを寄せて、「馬鹿だな」と言った。
それはまったくいつもの玲望であった。
「これ、なに? 炭酸とか?」
瓶の中身は、瑞希が初めて見るものだった。
透明で水のようだが、上のほうには葉っぱのようなものと、それから黄色いものが浮いている。
「ミントウォーター」
玲望は上に浮いているものたちを一緒に注がないように注意して、そろそろグラスに注いでいく。
「ミント、いっぱい育ったから。それとレモンを入れて冷やすだけ」
ベランダで簡単な野菜を育てている玲望。
大概豆苗のリサイクルなどなのだが。
それで今はミントが採れると。
そういうことらしい。
「へぇー、オシャレだな」
瑞希が来るのを知って作ったものではないだろうに、どうもこのミントウォーターはまだ手をつけられていなかった様子。
もしかすると、と瑞希は思った。
自分が来てくれたらいい、と思って作っておいてくれたのではないか。
これを言えば玲望は怒るし、そんなわけないだろ馬鹿、とか言うだろうけれど、間違ってはいない気がした。
自然に笑みが浮かんでしまうけれど、瑞希はそれだけにしておいた。
「じゃ、仲直りに乾杯!」
代わりにグラスを掲げる。
玲望は「大袈裟な」と言ったけれど、自分もグラスを持ち上げて、かちりと瑞希のグラスと合わせてくれたのだった。
ミントウォーターは、ミントのほろ苦い味と、レモンの酸っぱい味がした。
きんと冷えて、汗ばむ体に心地良く染みる。
今は苦みが混ざるけれど、それだって玲望と過ごす時間のひとつ。
美しくて、かわいらしくて、でもちょっと素直でない。
そんな玲望との時間は、どんな季節もきらきら輝く金色で瑞希の一番近くにある。
七月の終わり。
桜下高校も夏休みに入った。
ぎらぎら照りつける太陽、もくもくと広がる入道雲、セミの声……。
そんな情緒ある夏は、現代ではあまり無いけれど。
なにしろ暑すぎる。
酷いと気温が40度を上回る日もあるくらい、過酷な季節だ。
昔はもっと気温が低かったと聞くと、いいなぁと思ってしまうものの過去を羨んでも仕方がない。
瑞希は熱中症防止の塩飴をころころ口の中で転がしながら、灼熱の道を歩いていた。
今日は夏期講習の日。
朝から学校がある日だ。
夏期講習は一年からあるのだけど、三年生は受験が控えていることも手伝って、特に開催日が多い。
自由参加の日もあるが、せっかくタダで勉強ができるのだ。
塾などに通うよりコスパがいい。
親にも「行きなさい」と考える間もなく言われたし、瑞希も気は進まないにしろ、最初から参加するつもりであった。
一応、大学進学志望なのだ。
それならあまり好きでなかろうと勉強をしなければ、その希望だって叶えられない。
それに楽しみもある。
夏休み中は気軽に会えない友人にも会えるし、一緒に昼食なんかも食べられるし、それに。
「おっ、オハヨー」
学校の昇降口に入ったところで、瑞希は知っている人物を目にとめて笑みを浮かべてしまった。
ちょうど上履きに履き替えているのは玲望ではないか。
暑い季節はたまにそうしているように、金色の艶やかな髪はうしろでひとつにくくられていた。
そういう髪型をすると余計にかわいらしく見えるので、瑞希は夏の玲望の姿も好きだった。
「ああ、おはよう。珍しく早いな」
けれど言うことはちょっとひねた玲望の物言いそのままだったので、いつものこととはいえ、おかしくなってしまう。
朝から会えて嬉しいと思っていたのに。
いや、こういうのが玲望だから嬉しいけれど。
「珍しくは余計だっての」
なので瑞希もいつも通りの返しをして、校内に上がる。
自分の靴箱に脱いだ靴を突っ込んだ。
玲望は当たり前のように、廊下に出て待っていてくれる。
さっさと行ってしまってもいいのに、こうして待っていてくれるところが優しいのだ。
一緒に教室の近くまで行こうということだろう。
クラスは違ってもすぐ隣なのだから。
「玲望は今日、午後までいるの?」
「ああ。バイトも夕方からだから」
午後は自由参加の時間であった。
でも玲望はそちらにも出るらしい。
熱心なことである。
でも本来、玲望はそれほど必死に勉強をする必要はないのである。
何故なら進路が違うからだ。
「そっか。じゃ、昼飯、一緒に食おうぜ」
「ああ。瑞希は弁当?」
「今日は買いに行かないとなんだよな」
話しつつ階段を上がっていく。
今日は昼も一緒だ。
そういう楽しみが待っているだけで、今日の夏期講習も頑張れる、なんて単純にも思ってしまった。
「じゃ、な!」
午前の授業は必須参加なのでクラスごとだ。
瑞希は自分の教室の前で立ち止まり、ひらっと手を振る。
玲望も「ああ」なんてそっけない言葉だけであったけれど、応えてくれて自分の教室へと歩いていった。
数秒だけその後ろ姿を見て、瑞希は教室に入る。
すぐに友人が声をかけてきた。
「お! 梶浦おはよー! 早いじゃん」
ここでも言われてしまった。
瑞希は笑ってしまう。
「早いは余計なんだよ」
同じことを言う。
そのまま少し駄弁って、そのうち授業がはじまった。
内容は通常学期の中の授業とは少し違う。
教師の話を聞くよりも、ワークなど、自分で取り組む勉強が主なのだ。
わからないことがあれば、手をあげて質問していい。
なので、教室ではたまに「センセー」と呼ぶ生徒の声がしたり、教師がそれに応えて解説する声が小さく聞こえてきたりする。
普段とだいぶ違った空気の教室内。
瑞希も瑞希で、ワークを進めていた。
一時限目は数学。
数学はあまり得意ではないのだ。
けれどそれだけに重点的に取り組まなければいけない。
億劫ではあるけれど、そのために来ているのだから、やるだけだ。
一時間、真面目に取り組んで、休憩を挟んで二時限目。
次は現代文だった。
こちらは得意なので億劫どころか楽しくできる科目だ。
けれど数学で頭を使いすぎたせいか、集中力が少し低下しているような気がした。
こういうとき無理にやろうとしても効率が悪い。
よって瑞希は問題を解くペースを少し落とした。
それだけでなく、長文だけでなく漢字問題のページを選ぶ。
長文読解よりは頭を使うことが少ないからだ。
漢字を思い出しつつ書きながら、瑞希は朝、昇降口で玲望とちょっとだけ話したことを思い出してしまった。
午後も参加すると言っていた玲望。
でも本当は、それほど必死に勉強をしなくてもいい……。
玲望の進路は既に聞いていた。
専門学校だ。
料理上手な玲望。
調理の専門学校に行って、調理師の資格を取るつもりだと言っていた。
まぁ妥当で堅実である。
得意なことを生かせるのだし、それなら専門学校の勉強も楽しめるだろうし、そして卒業後の就職先も心配ないだろう。
玲望が大学進学志望ではないのは、単に大学進学には金がかかるからで、玲望の家からそれを工面してもらうのは難しいからなのであるが、例によって玲望は気にした様子もなかった。
「仕事が苦じゃなくなるだろうし、それに調理師ってなかなか稼げるらしいんだぜ。なんせ資格がいるんだからな」
そんなふうに話した。
合理的な玲望らしいことだ。
けれど。
瑞希はたまに思うのだった。
玲望は勉強が苦手ではない。
いや、むしろできるほうだ。
学年トップなんてものではないけれど、クラスでは上位に近いと聞いていた。
そんな玲望なのだから、本当は……家に経済的な余裕があったら。
大学進学したいと思う気持ちもあったのではないだろうか。
もっと勉強ができるのだし、学校やサークルなど楽しいことも多いだろうし、それに俗な話だが、卒業後に手に入る学歴としてだって専門学校より上だ。
割り切るのが上手く、家が貧しいことだって受け入れている玲望のことだから、そんなことは口にしないだろうけれど。