レモネードはよく冷やして

 カンカンカンカン、と一歩のぼるたびに足の下でいい音がする。

 こんな音が出るような階段、この現代においてそうそうあるものではない。

 建物としてはもってのほかであるし、譲歩しても古臭くなった歩道橋とか……そのくらいのものであろう。

 しかしこんな音が出る階段の建物があるのである。

 瑞希(みずき)の今、のぼっている鉄筋剥き出しの階段がそれである。

 吹きさらしの外階段。

 白く塗られた壁であるものの、経年でだいぶくすんでいる建物。

 屋根もなにもない、外廊下。

 言ってしまえば大層ボロいアパートである。

 マンションなんて綺麗な名前がつくものではない。

 だが瑞希の足取りは軽かった。

 この家の主を思えば、足取りくらい軽くなってしまうというもの。

 手にはビニール袋。

 先程コンビニで調達してきたものだ。

「きーたーぞー!」

 一応インターホン……という上等なものではないが、呼び鈴はある。

 が、瑞希は大概こうして部屋の住人を呼ぶのだった。

 まぁ、真夜中でもない限りは。

 そしてその『呼び出し』は、部屋の住人の気には入らないに決まっている。

 バン、と勢いよく玄関のドアが開いた。

「うるせぇ! 大声出すなって言ってんだろ!」

 顔を覗かせたのは若い男。

 きらきらの金髪が眩しい。

 ドアを開けるその音だってじゅうぶんうるさいだろ、と思う瑞希は膨れる。

 なにしろドアだってボロいのだから。

 普通に開けたとしても、ギィ、と悲鳴を上げる。

「なんだよー、こんな真昼間、ほかの部屋のやつなんていないだろ。ニートでもない限り」

 自分たちはテスト期間で学校が早く終わったに過ぎない。

 平日ど真ん中、真昼間。

 社会人はお仕事の時間である。

「いないとは言い切れないだろ! 怒られんの俺なんだぞ!」

 まぁ確かにそれはそのとおりであるし、迷惑をかけたいわけではない。

 瑞希は素直に謝っておく。

 本心からでは、ないけれど。

「はいはいすみませんでしたよ。じゃ、お邪魔しまーす」

「……静かにしろよ」

 怒った割には部屋の住人……玲望(れも)はあっさり声を引っ込めて、ドアを開けて瑞希を招いた。

 入ってすぐ靴を脱ぐスペースがあるが、それもたいそう小さい。

 裸足のままたたきに降りて瑞希を迎えてくれた玲望は、一足先に居室へ戻るべく行ってしまった。

 瑞希は靴を脱ぎながらその後ろ姿を見つめる。

 だって、せっかくきたんだから、出迎えてほしいだろ。

 瑞希は玲望のあとについて部屋に入りながら、その背中を見てそっと笑ったのだった。
 基宮(もとみや) 玲望(れも)、高校三年生。

 瑞希の学校での、目下の親友。

 ……親友、兼、恋人。

 サラサラの金髪に翠の目なんて、麗しすぎる外見をしているというのに彼の住んでいるのはボロアパートである。

 ギャップがありすぎる、と初めて会ったとき瑞希は思った。

 流石に初めてここにきたときはだいぶ引いたので。

 現代にこんなアパートがあることも引いたし、こんなところに若い高校生が住んでいることにも引いた。

 だが、事情を聴けばまぁまぁ納得はできるものだった。

 玲望の実家はだいぶ貧しいらしい。

 おまけに兄弟が多くて、部屋が足りなくなったからと、高校生になるなり一人で暮らせと追い出された、なんて玲望は笑ったものだ。

 別に家族と険悪だとか、そういうわけではないらしいけれど。

 春先にはたけのこの煮物なんかを振舞われた。

 玲望が作ったものだが、そのたけのこは実家からもらってきたものなのだという。

 一体どこの山から採ってきたのだろう、と瑞希は思ったが、詳しいことはわからない。

 そう、たけのこを煮物にするくらいには玲望は料理上手だった。

 ボロアパートに暮らしているくらいだから、金に余裕があるはずはない。

 必然的に自炊生活だ。

 凝った料理を作るわけではない。

 基本的に男子メシ。

 けれど男子高校生としてはハイレベルといっていいほどの食事を作れる腕がある。

 チャーハンを作れば米はパラパラだし、肉じゃがはほっくりやわらか。

 初めて振舞われたとき、瑞希は「嫁みたいだ」なんて場違いなことを思ったものだ。

 嫁、どころか恋人でもなかった頃なのにである。
「ほい、お土産」

 瑞希は入った畳敷きの居室にどっかり座って、それからやっとビニール袋を突き出した。

 瑞希がそんな振る舞いをしても、もう玲望はなにも言わないけれど。

「さんきゅ。……お、アイス!」

 中身を取り出して、玲望の顔は輝いた。

「さっさと食おうぜ。今日はあっちーから」

 ついさっきコンビニで買った棒アイスは、新商品の塩レモン味。

 アイスというか氷菓だ。

 ざくざくとしているのだろうと、パッケージの写真から思わされた。

 薄い黄色で爽やかな見た目。

 毎回玲望のアパートにくるとき瑞希は、ペットボトルの飲み物やコンビニ菓子をひとつ、ふたつ持っていく。

 茶化す理由としては、ショバダイとして、とか。

 貧しいのが基本なのだ、玲望の財布の紐は非常に硬かった。

 学校ではそんな様子、見せないけれど。

 ランチは弁当だけど、これは学校の半分くらいの者がそうなのだから、別に目立ちやしない。

 弁当派生徒の弁当を作っているのはほとんどがお母さんだろうが。

 ノートやペンなどの文房具をケチったりもしないし、教科書やなんかもちゃんとしている。

 辞書だってそう高いものではないけれど電子辞書だ。

 だが必要最低限で、格好がつくものしか持っていないし、手にしない。

 そういう玲望は食材だってあまり余計なものをコンビニやスーパーで買わないし、つまりアイスもあまり買わない。

 冷たいものを食べたくなったときのためには冷凍庫に氷がしっかり作ってあるし、暑ければそれでアイスティーやなんかを作るし、もっと暑さを拗らせればそのままガリガリ噛んだりもする。

 今日は暑かったので、差し入れにはアイスをつい選んでしまった。

 なんとなくレモンは玲望を思い出させるし、実際金髪だからそういう名前をつけられたらしい。

 女の子みたいな名前を、なんて本人はたまに不満を言うけれど。

 ありがちな黒髪をただの短髪にしている、どちらかというと地味かもしれない自分の外見を思うと、瑞希にとって玲望の容姿は眩しすぎるくらいで、そして特徴的でいいなとも思う。
 アイスを買うにあたって、塩レモン味なんて選んだのはそこ、玲望の外見からだ。

 そのくらいには玲望のことをそこここから考えてしまう、と瑞希はたまにくすぐったくなるのだ。

「いただきまーす」

 二人して、びりびり、と包装を豪快に破って、ぱくりと咥える。

「ん! しょっぱ!」

 ひとくちかじって、玲望はきゅっと目をつぶって言った。

 だがそのあとにすぐ付け加える。

「……酸っぱ? どっちだ?」

「んー……酸っぱいほうが強いかな、俺は」

 塩レモン、なので、塩のしょっぱさとレモンの酸っぱさが同時にある。

 どちらが強いかは……瑞希は『レモン』と取った。

 玲望は確かめるようにもうひとくちかじって、そして今度は口の中で味わう様子を見せる。

「そうだなー……確かにレモンだな」

「だって塩はオマケだろ」

 『塩レモン』なのだからメインはレモンで、塩は添え物に過ぎない。

 茶化すように言った瑞希に、玲望もくすっと笑う。

「オマケ言うなよ」

 部屋の開けた窓からは涼しい風が入ってきていた。

 そろそろ夕方に差し掛かる。

 昼間はだいぶ蒸すのだが、夜はまだ涼しいこともある。

 六月も終わり。

 先月変わった夏服もすっかり馴染んだ。

 瑞希と玲望にとって、夏制服を着る、最後の夏である。
 桜下(おうか)高校、ボランティア研究部、通称ボラ研。

 部長の瑞希は忙しい。

 名前のとおり、ボランティア活動に特化した部活であるが、その活動は多岐にわたっていた。

 校内に留まらず、校外活動も盛んである。

 むしろ校内での活動のほうが大人しいかもしれない。

 校内では校舎内外の清掃活動、備品や設備の整備、あるいは「先生の手伝いに人手が足りないから」というときに向かったりもする。

 校内では大体『なんでも屋』扱いである。

 『ボランティア』の名がそのとおりになるのは、むしろ校外活動においてかもしれない。

 清掃活動はよくある活動であり、それは学校と変わらないが、そのほか駅前で募金活動をしたり、小学校へ赴いてレクリエーションをしたり、あるいは老人ホームへ出し物をしに向かったりする。

 土日に活動があることも割合頻繁にあって、そういうときは大概、普段できないような遠出になったり、時間がかかったりするような校外活動へ向かうのだった。

 今日は月曜日、週頭から活動があることはあまりない。

 一ヵ月に一度、おおまかな活動方針を決めるのだが、それを細かく配分するのが月曜日なのだ。

 大きな活動予定がなければいきなり活動に入ることもあるけれど、少なくとも部長自ら活動へいくことはほぼないといえた。

 何曜日になんの活動を、部員の誰がどの活動を、そして週末に活動があるならそのアポ取りや計画をしたりもする。

 一週間のスタートにふさわしいといえた。
 活発ではあるが、細かいところまで気の回るようなきっちりしたところもある性格の瑞希には、苦でないどころかむしろ楽しい作業でもある。

 瑞希が部長になったのは、前三年生の引退時からだ。

 ごく普通に、二年から副部長を務めていた瑞希が指名を受けた次第。

 瑞希も特に断る理由がなかったのでそれを受けた。

 好きでやっている部活だ。

 部長になれば多少忙しくなるのはわかっていたけれど、そのぶん普通の部員には見えない面白いこともあるだろう。

 そう思って。

 そして実際、瑞希はなかなか良い部長である、と自負していた。

 まだトップに立って半年もしていないとはいえ、ここまで大きなトラブルなくやってきたし、部員も瑞希を信頼してくれている。

 人手が必要なだけに割合大所帯なので、新一年生を何人も迎えたけれど、その子たちも学校生活および部活動に慣れて落ちついてきて、六月現在、比較的まったりしていたといえる。

 そんな、月曜日の瑞希。

 副部長や、二年、一年のリーダーを受け持たせている生徒数名と打ち合わせをしていた。

 今週は普段通りの活動。

 特に急用が入らなければ校内の清掃活動と、ほかには花壇の手入れなどで終わる予定だった。

 特別なものとしては、放送室の機材の手入れを頼まれていた。

 なのでそちらに人員を配置しなければ、という話をした。

 マイクやスピーカー、カメラなどの機材の調整が入るので、機械に強い部員をメインにしなければいけない。

 その選出などなど。

 今はまだ余裕のある時期だけれど、そろそろ暑くなってきていて夏休みを視野に入れる頃。

 夏休みになにをするのか。

 大まかには案を出しておいてもいいかもしれない、と思う。

 せっかくの長期休みなのだ。

 ダラダラと通常活動で潰してしまうのは勿体ない。

 活動的な意味でも、部の存続という意味でも。

 ここで一発大きなことをやるべきなのである。
 去年は合宿へ行った。

 海へ行ったのだ。

 勿論、海の清掃活動をした。

 近くの小学校の生徒相手に、ウォークラリー大会なども催した。

 どちらもなかなか好評を博した。

 しかし高校生の合宿なのだ。

 同じくらい、大いに遊んだ。

 海で泳いだし、夜は近くの森で肝試しなんかもした。

 それでなくとも泊まりというだけで楽しいものだ。

 今年もそういうものをしてみたい、と瑞希は思うのだった。

 それはリーダー的存在の生徒だけでなく、出来る限り部員全員を集めて会議をしたいと思う。

 特に、今年初めて参加する一年生からは、初参加ならではの違う視点の意見が出るかもしれないし。

 そういうものを聞くのも参考になるだろう。

「じゃ、今週はそんな感じで」

 書記をしていた二年生が、部室のホワイトボードに今週の予定を記入し終えるのを見て、瑞希は言った。

 これで今日の活動は終わりである。

「はい、部長」

 おつかれーっす、という言葉が溢れて、真面目に打ち合わせをしていた空気から一転、部室に緩やかな空気が流れた。

「俺は用があるからもう帰るなー」

 使っていた筆記用具などを鞄に詰め込んで、瑞希は言った。

「戸締りきちっとしてくれよ、じゃーなー」

 別に部長といえども毎日最後まで残るわけではない。

 鍵を持っている生徒がいれば、その子に任せて構わないのである。

 よって瑞希はさっさと部室を出た。

 まだちらほらと生徒がゆく廊下を歩く。

 今日はやることがあるのだ。

 放課後、玲望の家に行くという大事な用事が。
「今日、家行っていいか?」

 授業が終わったあとに、隣のクラスの玲望を捕まえて、約束を取り付けた。

 それだけで瑞希のしたいことを察したのだろう。

 玲望は顔をしかめた。

 まったく、そんな顔はやめて欲しいものだ。

 仮にも恋人が家に行こうというのに。

 まぁ、やろうとしていることが玲望の気に入らないことなのだから、そういう顔をされる理由もわかるけれど。

「……嫌って言っても来るんだろ」

 渋々、という様子であったが玲望は受け入れる返事をしてくれる。

 瑞希はにっこりと笑った。

「そうだな。じゃ、部活終わったら行くから」

 懐柔するようなその笑顔に、玲望はますます嫌そうな顔をした。

「ゆっくりしてこいよ」

「はいはい、早く行きますよー」

 そう言って、ひらひらと手を振って別れたのが二時間弱前になる。

 ちなみに玲望は部活に入っていなかった。

 代わりにバイトをしている。

 貧しいのだから当然かもしれないが。

 学費や基本生活費やらなんやらは一応、家から出してもらっているようだが、お小遣いまではもらえないので自分で稼がないといけない……らしい。

 スーパーでレジ打ちのバイト。

 たまに売り物にならない食材や、賞味期限切れの惣菜なんかがもらえるらしい。

 生活費の節約にもなって一石二鳥なんだ、と玲望は言っている。

 でも今日はバイトもないはずなので、玲望は学校で友達と過ごすか、なにかほかのことをするか、もしくはさっさと帰宅して一人で過ごすかしているはずだ。

 さて、今日はどんなことになっているか。

 ちょっと楽しみになりつつ、瑞希は昇降口で靴を履き替えて、外へ出た。

 学校から近いところにある、玲望の家に直行だ。
 さて。

 例によって「きたぞー!」の大声に「うるせぇ!」ではじまった、来訪。

 玲望はいつもに増して不機嫌だった。

 一ヵ月に一度程度起こる、このイベントが玲望は嫌いなのだ。

「さー、どこから手をつけるか……」

 瑞希は制服のネクタイを摘まんで胸ポケットに入れる。

 制服シャツは半袖なので、腕まくりをする必要は、今はない。

 これで邪魔になるものはないというわけ。

「まずは台所だなー。シンクとか結構くすんできてたから」

 瑞希がまず向かったのはキッチン。

 玲望はぶすっと言う。

「磨いてるっての」

「あとはレンジの掃除と……結構ゴミが溜まりやすいんだよな」

 あちこち見ながら算段を立てていく。

 なにしろボラ研部長。

 こんな計画はお手の物だ。

 実行するのは、もっとお手の物。

「あと、部屋のもん片しといて。掃除機かけるから」

 瑞希の要求には抵抗された。

「今から掃除機なんてかけたら迷惑だろ!」

 そんなことは百も承知の瑞希はそれを一蹴する。

「迷惑になるから日が暮れる前に済ますんだよ! ほらさっさとしろ!」

 そう言ってしまえば逃げられないとわかっていて玲望を急かす。

 玲望は整った眉を寄せて、「うぇ……」と言った。

 せめてもの反抗とばかりに。

 まるで掃除機を嫌がる子猫かなにかである。

 綺麗な見た目で、貧乏も表に出さないくらいにスマートで、おまけに料理上手な玲望の唯一の欠点。

 それがこの、掃除片付けがたいそう苦手であるという点なのであった。

 まったく、独り暮らしをしている身としてはだいぶネックになる欠点である。