それはまるで、『嫌ではない』ではないか。
数秒、意識が空白になったような気すらする。
それは玲望の気に入らなかったらしい。
覆っていた手を離して、きっと瑞希を睨みつけてきた。
「違うなら、ひとくちなんかやるかよ」
さらなる衝撃が瑞希を襲った。
最初からそう、だった、のか?
そのくらい心許してくれていたから、ひとくちなんて、ペットボトルを寄越してきたのか?
自分に尋ねたけれど、多分その通りだった。
だって玲望本人がそう言っているではないか。
それを疑おうなど。
玲望は素直だ。
そして嘘などつかない。
こんな真剣であるべき場では余計に。
ごくっと瑞希は唾を飲んだ。
行く場所と、することなどひとつしかない。
「じゃあ、……もうひとくち、くれるか?」
玲望は瑞希のその要望に、息をのんだようだった。
一秒、二秒、固まる。
けれど玲望の中でなにかが固まったのか。
ぎゅっと目を閉じた。
翠色が閉ざされる。
顔を近付け、目を閉じる寸前、間近できらりと金色が光った。
あまくて酸っぱいレモンのような、優しい色をした金色。
レモン味だったな、なんてさすがにこのときは言わなかった。
初めて経験したキスと、そして交わした気持ちにそんなふざけた言葉は似合わない。
けれど瑞希のくちびるには確かにレモンの味が焼き付いたし、きっと同じ味を味わった玲望の心にも同じような感覚が残っただろう。
帰り道、手も繋がず帰路の続きについた、ぎこちなさすぎる空気の中。
それだけは何故か確信できた。
つめたい風が吹く中、あたたかかったホットレモンと玲望のくちびる。
それを瑞希は玲望のレモネードから思い出した。
あれからすべてがはじまった。
後日ではあったけれど、きちんと「俺と付き合ってくれ」と言った。
玲望もしっかり目を見返して「俺で良ければ」と言ってくれた。
恋人同士になった。
キスだって何回もした。
ほかにも触れるようなことや、心近付けることもした。
しっかりと恋人同士になっていった、瑞希と玲望。
それは交わした行為だけではない。
時間や、一緒に過ごしたこと。
そういうものがきっと手伝ってくれていた。
『何回だって、初めてみたいな気持ちだよ』
自分で先程そう言った。
それはほんとうの気持ち。
玲望が同じ気持ちかはわからないけれど、少なくとも毎回のそれを大切に思ってくれていること、それはしっかりもう知っている。
「おかわり」
もう一杯レモネードを所望した。
瑞希は気分を変えるべく言ったのに、どうも玲望は違う意味に取ったらしい。
ちょっと顔をしかめて、でも目を閉じた。
それが意味するところなんて。
瑞希は意外な展開にきょとんとしたが、一秒もなかった。
すぐに、ふっと目元を緩めて玲望の肩をやわく掴む。
そっと引き寄せた。
二杯目のレモネードはやはり酸っぱくて、でもはちみつのようにとろりとした甘い味がした。
七月に入り、ボランティア研究部で新しい議題が持ち上がった。
すなわち、夏休みの活動についてである。
夏休みにはひとつ大きなことをしようと瑞希は考えていた。
毎年しているように、合宿の予定はある。
遊ぶのは勿論であるが、部活の合宿なのだ。
それよりメインなのはその先での活動。
ボランティア研究部としてふさわしい活動をするのだ。
去年のことを考えつつ、会議をおこなった。
一年生からも意見を取り入れたかったので、部室にぎゅうぎゅうになってしまったが、部員全員を招集した。
まずは去年の合宿模様について説明する。
海へ行ったとか、小学生相手に活動したとか、詳しく話す。
去年もいた二年生と三年生はよく知っているだろうが、一年生は初めてなのだ。
みんな、真剣に聞いてくれて、前で話す瑞希はほっとした。
「それで、今年の活動だ。ボランティアとしてメインになりそうな案を出してくれ。合宿先はそれも考慮して、ある程度自由がきくから」
まずは話し合っていいぞ、と言ったので部室の中はざわざわしだした。
ボランティア研究部の部員たちは真面目な者が多い。
ボランティアは『ひとのためになにかをする活動』である。
そりゃあ真面目な者が集まるだろう。
興味本位でやってきた者たちはとっくに辞めていったし。
部員のことを、瑞希は信頼していた。
たまにいさかいが起こったとしても、少々のことなら収める自信もある。
あまり心配はしていなかった。
「なんか売るのはどうでしょう」
その中で言ったのは、二年生の浅倉だった。
活動にも特に積極的な後輩で、瑞希はひそかに次期部長としてもいいだろうな、と考えている部員だ。
「なにか……手作りのものとかか?」
瑞希が答えたことで、部員の視線が浅倉に集まる。
「はい。たまにあるじゃないすか。マルシェ? とか、そういうハンドメイドや要らないものを売ったりとか、そういうイベント」
浅倉の説明を受けて、ざわざわと部員たちが話しはじめる。
「ああ、駅前でたまにやってるよな」
「日曜日とか……」
「俺、見に行ったことあるぜ。結構楽しい」
いずれも好感のある反応だった。
「夏休みには大規模なものがありそうですし、それに出展するって手もありますし」
書記がホワイトボードに『マルシェ』『なにか売る』と書いていく。
瑞希はそれをちらっと見た。
そして机の並ぶほうを見る。
書記のもう一人が、ノートに同じ内容を書きつけているのも見る。
計画は順調そうだ。
「うん、いいかもな。なんか知ってるやつはいるか?」
瑞希の質問には一年生が手をあげた。
「私、ハンドメイドするんですけど、ラージサイトで大きいのをやりますよ。いとこについていって、去年出したんです」
女子生徒のその意見から詳しい話が出てくる。
瑞希は机の上にあったタブレットを引き寄せて、イベント情報を検索する。
確かにそのイベントが、夏休みのど真ん中にあるようだ。
ラージサイト、東京では一番大きいであろうイベント会場。
つまりそのイベントの規模もかなり大きいというわけだ。
「でも私がやったわけじゃないのでよく知らないんですけど、結構前から申し込みとか要るみたいで……間に合わないかもしれません」
彼女はちょっと気が引けた、という様子で言った。
提案したのだから、駄目かもしれないというのは申し訳なく思ったのだろう。
確かにその問題があった。
けれど瑞希は彼女に笑みを返しておいた。
「いいや。これからの活動に生かせるかもしれないし、無駄じゃないさ。それにもっと小規模なものだったら間に合うかもしれないだろ」
そんなわけで、バザーというのは候補のひとつになった。
ひとつの意見で決定とするわけにはいかないからだ。
ほかにも『清掃活動』とか『バスケ大会』とか、定番のものも出てくる。
定番とはいえ、そして去年も同じようなことをしたとはいえ、場所が変われば内容も変わっていくだろう。
次々と案がホワイトボードに並んだ。
「よし、じゃ、今日はこのへんで。鈴木先生に相談してみるよ」
まずは顧問の鈴木教諭に、どんなことなら許可が出るのか相談しなければならない。
ふさわしくない、許可が出せないなど却下されることもあるだろう。
それで今日の部活はおしまいになった。
部員たちは荷物を持って早々に帰る者、なにか雑談をして残る姿勢を見せる者もいる。
瑞希は今日、ノートに書記をしていた生徒、二年女子の志摩の元へ行った。
「まとめといてくれるか?」
声をかけると、志摩はノートから視線をあげて瑞希を見た。
こくりと頷く。
「勿論ですよ。これを鈴木先生のところへ出すんですよね」
「ああ。だからまとまってると助かるよ」
ノートには既に整然と文字が並んでいた。
このノートは下書き用だ。
案をとりあえず書きつけておくもの。
清書用のノートも横にきちんとあった。
書記の志摩はきっちりとした性格で、書くものも見やすいし字もうまい。
指名したのは去年の部長だが、瑞希にとっては大変助かることである。
「明日にはできますよ」
「そりゃあもっと助かる。ありがとな」
瑞希がお礼を言うと、志摩はちょっと恥ずかしそうな様子を見せた。
自分が褒めたからだろうか、と瑞希は思う。
「さて、じゃあ俺も自分でまとめておくか」
流石に今日はさっさと帰るわけにはいかない。
自分用のノートに案をまとめておかなければ。
机について、持ち歩いているノートを広げる。
今日の会議のことを思い返しつつ、案以外にも自分の思ったことや会議から連想したことも書きつけていく。
そんなことをしていれば下校時間はすぐだった。
「タダイマー」
「なにがただいまだ。ここはお前のウチじゃねぇ」
靴を脱ぎながら言ったことには、呆れた顔と声が返ってきた。
今日やってきたのは玲望の部屋。
相変わらず玄関は盛大な音を立てて、瑞希を迎えた。
週末なのだ、今日は泊まりと決めていた。
たまに週末とか長期休みとか、玲望の部屋に泊めてもらうことはある。
親には「友達と勉強会」なんて言い訳、いや、報告をちゃんとしてある。
勿論親とて丸々信じているはずはないだろう。
『勉強』なんて、やるにしてもほんのちょっとで、男友達とわいわい騒いでおやつでも食べながらゲームなんかしたりする、と思っているはず。
それも多少はやるけれど、まさか男の恋人の家に行くとは思っていないだろう。
それを思うとちょっと罪悪感は沸くのだけど、こういう機会でもないと、長く一緒に過ごせないので許してほしい。
まるっきり子供ではないのだし。
「泊めてくれるっていうのに随分な言い方だ」
ちっとも効いていないどころか、玲望のそういう物言いが好きなくせに、瑞希は少しがっかりだ、という様子をわざと取った。
玲望は単純なことに、急に態度がしおらしくなる。
物言いはぶっきらぼうなくせに、素直なのだ。
「そ、そういう意味じゃねぇよ……」
苛めたようなものなのにそう言われて、瑞希はくすっと笑ってしまった。
表にも出てしまったので、玲望に不思議そうな顔をされる。
その頬に手を伸ばして触れる。
きゅっと包み込んだ。
「ごめん、ちょっとふざけただけだ」
こちらも素直に謝っておく。
ふざけた、からかわれたと知った玲望は元通りの強気に戻って「ふざけるとかすんな!」とか瑞希の手を払って、先に奥へ行ってしまったけれど。
それを追いながら、こういうやりとりができるのは幸せだ、と瑞希は思うのだった。
そういうのが恋人同士のやりとりらしいと思ってしまうから。
「あー、腹減った」
勝手にどかりと定位置に腰を下ろしてネクタイを緩める。
ここしばらく随分暑くて、ネクタイすら少々邪魔なように感じてしまう。
「……飯、そうめんにした」
多少機嫌は直したらしく、玲望もなにやら作業していた様子の文房具などを片付けながら言ってくれた。
「おお! そうめんか。夏らしー」
「夏だろ」
ちゃぶ台の上にはまだなにか紙のようなものが散らばっていた。
黄色や赤が多い。
「それ、なに?」
瑞希が身を乗り出すと、玲望は意外なことを言った。
「バイトのバイト」
「なんだそりゃ?」
バイトの更にバイトとは。
掛け持ちでもはじめたというのか。
それは中らずと雖も遠からずだったらしい。
「スーパーのポップ書き。ちょっと追加収入になる」
「あー、なるほど。販促?」
「そういうこと」
ちゃぶ台にはほかにスマホがあった。
そこにはなにか、文字が大きく表示されていた。
『あ』とか『特』とか、謎の漢字だったけれど、販促だと思えば合点がいった。
『特売品!』とか書くのだろう。
そのフォントの参考。
玲望は器用だ。
料理が得意なのもその一環なのだろう。
今時、素材を拾ってきて印刷かなにかで作ってもいいのに、少しばかりだからと手作りすることにしたのか、素材を拾って体裁を整える手間が惜しかったのか、それとも玲望に仕事をくれることにしたのか……。
詳細はわからないけれど、最後のもの、玲望に収入が増えるというならそれは喜ばしいと思った瑞希だった。
「なかなか頼もしそうなポップじゃん」
完成に近づいていたものを、汚さないように気をつけながら持ち上げる。
そのくらいでは玲望も文句を言わなかった。
それは野菜につけるのか、『ゴーヤチャンプルに!』と書いてあった。
夏の定番、ゴーヤを使った料理だ。
旬の食材を売りたいのだろう。
「ま、苦手じゃないし」
玲望も満更でもないようだ。
声がちょっと上向いた。
いい時間になったので夕食にすることにする。
そうめんは茹でるだけだが、ツユが必要だ。
けれど玲望の持ってきたツユは、普段使っているボゥルに入っていた。
「これ、手作り?」
なんとなくそうではないかと思ったけれど、玲望はなんでもない顔で頷く。
「簡単だし」
いや、簡単じゃないだろ。
瑞希は心の中で突っ込む。
少なくとも男子高生が作るものとしては、かなり難しい部類に入るはず。
瑞希はそうめんのツユの作り方など知らないけれど、家で食べるときだってツユは市販のものなのだ。
よって、玲望の家でのほうが、むしろ自分の家より手作りされたものが多いくらいなのだった。
本当に、嫁みたいだ。
こんな、手作りのツユひとつからそう思うのもなんだと思うのだが、なにしろ恋人が自分のために作ってくれたのだ。
嬉しくないはずがないだろう。