玲望の部屋の掃除は、日がとっぷり暮れるまで続いた。
もう外は真っ暗だ。
家には「ちょっと遅くなる」と連絡したものの、そろそろ帰らなければいけないだろう。
それでも部屋はだいぶ綺麗になった。
居室は隅から隅まで掃除機をかけたし、ほこりも払った。
キッチンのシンクや作業台も磨いて拭いた。
レンジの掃除もした。
日常の掃除にしてはじゅうぶんすぎるものができたといえる。
「ほら、飲み物作ったぞ」
綺麗になった居室にどっかり座って、はーっと息をついた瑞希のもとへ玲望がやってきた。
お盆にグラスがふたつ乗っている。
「お、手作り? レモネード……か?」
グラスの中の飲み物は薄い黄色をしていたし、目の前のちゃぶ台に置かれたとき香ったのは、ふわっと爽やかで少し酸っぱい匂いだったので瑞希は正体をうまく当てることができた。
「ああ。昨日スーパーでキズありのレモンをもらってきたから」
例によって、売り物にならない食材のお裾分けのようだ。
それをこうして立派なジュースにしてしまうのだから、たいしたものである。
ちょっと言い淀んだようだったが、玲望は言う。
「……いちお、世話になったから」
掃除を嫌がるので気まずいのだろうが、こうして礼を言って、手作りの飲み物まで振舞ってくれるのだから律儀である。
「だってお前、ほっとくと部屋カオスにすんだもん」
「うるさいな。暮らせればいいんだよ」
そんな話をしながら、ありがたくいただいたレモネード。
手にするとグラスからして、きんと冷えていた。
暑い折、しかもあれこれ動いたので冷たさが心地いい。
氷入りなだけでなく、もしかしたらグラスも冷やされていたのかもしれない。
ひとくち飲めばきりっと冷たく、レモンの酸っぱさと、ほのかに甘い味もする。
そして炭酸入りのようで、しゅわっと心地良く舌に刺激が伝わってきた。
「これ、どうやって作んの?」
自分で実践するつもりはないが聞いてみる。
玲望も自分のぶんを飲みながら、あっさり言った。
「まずレモンを搾って……」
「握りつぶすの?」
「んなことができるかよ」
混ぜ返すと玲望にちょっと睨まれた。
乱暴に立って、台所から妙なものを持ってきた。
三角柱に突起の付いた、木の器具である。
それの持ち手らしきところを手に持って、なにか手真似をした。
「こういう器具があるから……これでレモンをぐりぐりっとやって、果汁を搾る」
「へー……」
こんな……レモン搾り器なんて、普通の家にあるものだろうか。
でも玲望の家はそういう、ちょっと奇妙なものがちょくちょくあるのである。
自炊に使う、ちょっとマニアックなものというか、そういうものが。
「なんかエロいな」
にやっと笑って言うと、玲望は顔をしかめた。
真面目なことを言っているのに茶化されたからだろう。
しかし顔がうっすら赤い。
「はぁ!? どこがだよ! 変な連想するほうがエロいわ!」
その様子がかわいくて、瑞希は笑ってしまう。
くつくつと声に出たからか、玲望はもっと顔をしかめて、しかし、ため息をついて流した。
こういうからかいは割合よくあるので。
「……はぁ。そこにはちみつを入れて混ぜて、炭酸水を入れる。で、氷入れて完成」
このような工程で、このおいしいレモネードは出来上がっているそうだ。
瑞希も茶化したのは流して、目の前までグラスを持ち上げて、ちょっと揺らした。
氷がちゃぷんと揺れる。
疲れたときにはクエン酸がいいっていうよな。
ふと頭に浮かんだ。
そしてレモンにはたっぷりクエン酸が含まれるのであって、運動後などに最適。
それに汗をかきやすい季節になりつつあることもあって、爽やかで栄養豊富なレモンの食べ物や飲み物がよく売られている。
……たくさん掃除で働いた俺を気遣ってくれたんだな。
そう思えば余計嬉しいではないか。
「相変わらず凝ってんな……」
でも素直に「ありがとう」と言うのはちょっと恥ずかしい。
よってそんな言葉になった。
「どこが凝ってんだよ。搾って混ぜるだけだろ」
「普通の男子高生はレモン搾ったりしないっての」
ふっと笑ってしまった。
ちょっと、いや、だいぶ変わり者の玲望。
でもとても優しい性格をしているし、それが自分に向いてくれているのも嬉しいと、瑞希は思う。
だからこそ自分だってこんなボロいアパートにも通ってしまうのだし、月イチで掃除なんてしてしまう。
……玲望に会えるから。
玲望のために動けるから。
一緒に過ごせるから。
ふと思ったことに、瑞希は体を乗り出した。
玲望が目を丸くする。
ひかれるように顔を近付けていた。
玲望のさらっとした金髪が目に映った。
ああ、レモンのように艶やかで輝かしい。
食べればきゅっと酸っぱいレモン。
けれどその酸っぱさに虜になってしまう。
触れたくちびるもそれと同じ、きゅっと酸っぱい味がした。
一緒に飲んだレモネードの味。
玲望の手が伸ばされる。
瑞希のシャツが握られた。
ねだるような仕草をされて、一旦離れたくちびるがまた触れる。
酸っぱさと、その中に混ざるはちみつのほのかな甘さ。
たっぷり味わって、顔を引いて。
赤く染まった目元の玲望に、瑞希の目にはふっと笑みが浮かんでいた。
「ファーストキスはレモン味だな」
む、とそれには玲望が膨れる。
「なにがファーストだよ」
どうやら不満だったらしい。
そうだろう、恋人同士になってから、一体何回キスをしてきたか。
それでも。
「何回だって、初めてみたいな気持ちだよ」
何度キスをしたとしても、初めての甘酸っぱさはずっと残っているのだから。
玲望はそんなふうに言ったけれど、実のところファーストキスもレモン味だったのである。
覚えていないゆえにそんなことを言った、わけではないだろう。
照れ屋な性格のために、なにがファーストキスだよなどと言ったに決まっている。
もうそのくらい、瑞希には伝わってしまうようになっていた。
レモン味のファーストキスは、甘酸っぱかった。
それは六月の現在、つめたいレモネードを飲んだときの味と同じように。
だけど甘酸っぱかったのは触れたくちびるだけがではない。
それよりもっともっと甘酸っぱかったのは、心の中が、である。
ほわっとあたたかくなると同時、きゅっと締め付けられるような甘さが胸に広がった。
こんな感覚も感情も初めてのことで。
感覚については聞いたことがないのでわからないけれど、キスの回数としては聞いたことがある。
「俺がファーストキス?」なんて茶化して、けれど本心ではちょっとどきどきしながら尋ねた。
玲望は答えるのを渋った。
やはり恥ずかしがり屋ゆえに。
それでも最終的には言ってくれた。
「お前とのアレが初めてだよ」と。
少々拗ねたような声と口調で。
それが実のところ、拗ねているのではなく照れているだけだというのは、まだ付き合って一ヵ月と少しだった頃の瑞希にははっきりわからなかった。
正しく理解するにはもう少し……数ヵ月を必要としたものだ。
そのファーストキスの日。
随分涼しい、いや、はっきり言ってしまえば寒い日であった。
秋の終わり。
そろそろコートが必要かな、なんて、その日の朝感じたことをよく覚えている。
昼間はそれほど寒くなかったというのに、夕方、帰路につく頃には日も落ちかけて、だいぶ冷え込むようになっていたのだ。
「なに、待っててくれたの?」
急いで向かった校門。
玲望はなにやらスマホを弄っていた。
けれど速足でやってきた瑞希が声をかけると、すぐにそれから目を離した。
ちょっと拗ねたように言う。
「別に。今日バイトないから」
バイトがないならさっさと帰ってしまうことも多いのに。
なのに瑞希の部活が終わるのを待っていてくれたのか。
瑞希が嬉しく思ってしまっても仕方がないだろう。
ボラ研が終わってスマホを取り出し、見てみるとメッセージがきていた。
玲望からであった。
瑞希の心は騒いだ。
メッセージは『校門にいる』だったので。
こうして待ち合わせて帰ること。
春先に知り合ってからは割合よくあることだった。
クラスは別だったけれどなにしろ同じ学年で、秘密を共有する仲にもなってしまったのだ。
友人になるのはあっさりとだった。
親友かと言われたら、よくわからなかったけれど。
瑞希には中学時代、親しい友人がいた。
小学校から一緒だったのだ。
よくつるんでいた。
高校生になって、学校が分かれても、ちょくちょく休みの日などに会っていたけれど、やはり学校が違うというのは学生にとって大きい。
多少の距離感はできてしまった。
寂しいことであるが、仕方がない。
なので高校一年生当時、少なくとも同じ学校に親友と呼べる存在はいなかった。
なにしろ社交的なので、部活でできた同級生や先輩、あるいはクラスメイトなど親しく話せる存在は多かったけれど。
その頃、玲望にもどうやら特別に親しい友人というのはいないようだった。
瑞希と同じく、駄弁ったり、ランチなどを共にするような友人は多いのだが、特別、という存在は感じたことがない。
それは瑞希にとって、ある種の期待を抱かせてしまう事実だった。
勿論、自分が親友のポジションになれるのではないかというものではない。
違う意味での『特別』。
自分がそれになれる可能性はある。
実現する可能性は低かった、と、少なくともそのときの瑞希は思っていた。
けれどゼロではなかった。
自分がどんな意味でも特別であったのなら、そういうふうにコトが転ばないと、どうしていえよう。
つまり、瑞希は玲望を友人としてではなく、確保しておきたいと望むようになっていたわけだ。
端的に言うなら恋をした。
そういうことだ。
自覚したのは随分早かったように思う。
春先に出会って、夏休みの頃には思い知っていた。
俺はきっとこいつのことが好きなんだろう。
女の子を好きになる感情と同じ類のものなのだろう。
相手が玲望、つまり男であったのには戸惑ったけれど、そう大きな問題だとは思わなかった。
昔ならいざ知らず、現代では同性同士で付き合うことだって、簡単ではないけれど少なくとも、もはや異端ではない。
よくあること、でもないけれど、起こったってなにもおかしくないこと。
別に玲望の外見が麗しくて、少々女の子にも見えるような中性的なものだから、なんてつまらない理由ではない。
理由の欠片くらいにはなるかもしれないけれど。
それより瑞希を惹きつけたのは、玲望のちょっと変わった生活と方針。
そしてそれを実行してしまう、ストイックで器用なところである。
玲望の生活は非常に貧しい。
それは偶然、玲望の秘密を見てしまったときから、瑞希はわかっていた。
けれど玲望はそれを悟らせないように振舞う、という方針のもと、学校生活を過ごしている。
それは少々変わり者であるといえる。
別におおやけにしてしまってもかまわないだろう。
ネタなどになるかもしれないが、高校生にもなって、そんなことでひとをいじめたり馬鹿にしたりするような、そんなくだらないやつはほんの一握りだろうから。
なのに、玲望は学校ではしれっとしているのだ。
普通にノートも教科書も、学用品も当たり前のように使う。
弁当も白米におかずが何品か、なんてごくごくプレーンなもの。
制服だって汚れていたり、くたびれていたりすることもない。
それどころかワイシャツはいつも、ぱりっとしていた。
クリーニングにでも出しているかと思うほどに(これは自分でアイロンをかけているのだということを、あとから瑞希は知った)。
そういう玲望の学校生活。
格好つけているのだろうかと最初は思った。
けれどそうではない、ということをそのうち知った。
玲望にとっては、そうあることが自然であるのだった。
格好つける、つまり無理をしているのではない。
貧しい生活を厭うことなく、捻くれることなく、自分の生き方として受け入れている。
そしてそれを、より良いものにしようと努力している。
だからきっと、隠している理由は『周囲に余計な気を使わせたくない』なのだろう。
玲望は少々ぶっきらぼうなところがあるけれど、協調性はあるし、和を乱すことは好まない。
そしてとても優しいのだ。
よもぎ餅なんて弟、妹に作ってやるのと同じ。
周囲の友人たちに対しても、なにかしてあげる気持ちも労力も惜しまなかった。
そのくせ『気を使わせたくない』なんて、自分のことは棚にあげてしまうところがあるのは、完全に良いかといったら微妙なところである。
そういうところに惹かれていった。
世話焼きの面がある瑞希の心も刺激したのだろう。
『気を使わせたくない』と振舞う玲望が、力を抜けるような存在になれたら。
恋心のスタートはきっとそんなところから。
友人として過ごして、数ヵ月。
多分玲望も、瑞希には随分気を許してくれたのだろう。
家に招いて料理を振舞ったりしてくれるまでになっていた。
生活に関して無理をしていないとはいえ、一ミリも負担になっていないなんてわけがない。
秘密を知られてしまった、という形であっても、知っている、そしてそれを受け入れて秘密にしてくれている、という存在がいるのは嬉しいことだと思ってくれていたのかもしれない。
そういう玲望の態度が、瑞希の中の恋心と期待を余計に後押ししてしまったわけだ。
それで、恋心と、期待と、そして少しばかりの欲望と。
色々と混ざったものを抱えながら歩いていた夕暮れのことだった。
がらりとそれが変わってしまったのは。