言われて瑞希は驚いていた。
そうだったのか?
では何故口に咥えたりしていたのだろうか。
食べていた……のとは違うと思うけれど、染め物にする、つまり染料にするのに味かなにかを確かめる必要はあるのだろうか。
「へー。染料になるんだな」
先輩はなにも疑わなかったらしい。
ただ、彼の手にしていたビニール袋を見ただけだった。
そう大きな興味もなさそうだった。
「あの、駄目でしたか」
彼はちょっと心配そうに言った。
確かに、一年生の身では、良いか悪いかは簡単に判断できないだろうから。
しかし先輩はぱたぱたと手を振った。
「いやいや、別によもぎくらい。育ててるわけじゃないから、持ってったらいいんじゃね」
雑な反応だったが、彼はほっとしたらしい。
ぱっと顔を明るくして「ありがとうございます!」と言う。
それで話は一段落してしまった。
先輩が瑞希を促す。
「さ、梶浦。俺らはあっちからはじめるぞ」
「あ、……はい!」
そうだった、ここへはボラ研の活動できたのだ。
謎のよもぎ男に会いにきたわけじゃない。
でも彼が気になってしまう。
よもぎを摘んで、あまつさえ咥えたりなどしていた相手だ。
気になるに決まっていた。
清掃場所と指定された裏庭のはしへ向かう間。
ちらっと振り返ると、彼も瑞希を見ていた。
その顔は言っていた。
『まずいところを見られた』と。
清掃は二時間弱で終わった。
放課後からはじめて、下校時間になったので終了だ。
特に急ぎでもなんでもない活動だったので、部員同士で挨拶だけしてあっさり解散になった。
今日も良く働いた。
瑞希は満足して、うーん、と伸びをしながら校門へ向かった。
場所やものが綺麗になるのは気持ちがいい。
元々掃除は苦でないので、ボラ研、合ってるみたいだなぁ、と改めて噛みしめながら帰ろうと歩いていたのだが。
「あの」
声がかかった。
何気なく振り向いて、瑞希はちょっと驚いた。
そこにはよもぎ男……と呼ぶのは失礼か。
先程会って少し会話をした、金髪をした綺麗な彼が立っていたのだから。
よもぎの袋は見えなかった。
通学鞄を肩にかけた、普通の格好だ。
「……ああ。さっきの」
瑞希が答えると、瑞希が覚えていたことにだろうか、彼はほっとしたような顔をした。
「ちょっといい?」
ちょっといい、とは時間がだろうか。
なにか用事でもあるというのか。
不思議に思いつつ、瑞希は「いいけど」と答える。
それで、一緒に帰ることになった。
校門まできていたので、外へ出て通学路を歩く。
「さっきのさ、ひとに言わないでくれるかな」
彼の言葉は単刀直入だった。
瑞希はちょっと目を丸くしたが、すぐに思い当たった。
まぁ確かに。
よもぎを摘んでいたのも謎だし、咥えていたのはもっと謎だし、それはおそらくひとに知られたくないことなのだろう。
想像には難くなかった。
「はぁ。まぁ、かまわないけど。じゃ、なんで摘んでたのかとか聞いていい?」
まさか本当に染料にするためではないに決まっている。
口止めされるのだから聞くくらいはいいだろう。
よって質問してみたのだが、彼は案外明るい口調で言った。
口止めをしてきた割には、あまりふさわしくない口調だった。
「春にはよもぎ餅を作るのが習慣でさ。その、弟や妹が好きなもんだから」
「へぇ……」
よもぎ餅。
馴染みがなくはない食べ物である。
ただ、瑞希にとってそれは、スーパーで売っているものだった。
春先になれば和菓子コーナーにたくさん置いてある。
家で作るという発想はなかった。
おまけにそのへんでよもぎを摘んで作るなど。
そういう発想はもっとなかった。
「あんなにたくさん生えてるの、見たからつい……」
だがそのあとの言葉に瑞希はちょっと目を丸くしてしまう。
照れたような表情と口調。
やはり、別に女の子のようではないのに、無邪気なかわいらしさが滲んでいた。
どうやら変わり者のようなのに、見た目は綺麗であるし、こんなあどけない口調で優しいことを言うものだから不思議な気がした。
「じゃあなんで口に咥えたりしてたんだ」
もうひとつの疑問を口に出したが、瑞希のその疑問はあっさり回答された。
「ああ、みるいほうがうまい餅になるから」
「みるい……?」
聞いたことのない言葉である。
首をかしげた瑞希に、彼は一瞬きょとんとしたものの、すぐに補足してくれた。
「え? ……あー、方言だったか。やわらかいとかそういう意味」
そして静岡のほうの方言なのだとか、少し解説してくれた。
それはともかく。
「ばあちゃんちに行ったとき初めて作り方を教えてもらって……こうして確かめるもんだって」
「はー、なるほどね」
つまりやわらかさを確かめるために噛んでいたのだと。
これで謎はすべて解決した。
話が一段落したあとに、彼は聞いてきた。
「ヘンだと思ったか?」
「そりゃあ……まぁ、変わってはいるよな」
そこは否定できない。
正直に言った瑞希に、彼は苦笑いした。
自覚はあるのだろう。
「そうだろ。だから黙っててほしいんだよ」
格好がつかないからだろうか。
そのときはそう思った瑞希だったが、それは確かにその通りだった。
が、彼……この日、別れるときにやっと名乗り合った名前、玲望。
玲望が『貧しい生活を表に出さないようにしている』方針であることを知るには、あともう少し時間が必要だった。
玲望の部屋の掃除は、日がとっぷり暮れるまで続いた。
もう外は真っ暗だ。
家には「ちょっと遅くなる」と連絡したものの、そろそろ帰らなければいけないだろう。
それでも部屋はだいぶ綺麗になった。
居室は隅から隅まで掃除機をかけたし、ほこりも払った。
キッチンのシンクや作業台も磨いて拭いた。
レンジの掃除もした。
日常の掃除にしてはじゅうぶんすぎるものができたといえる。
「ほら、飲み物作ったぞ」
綺麗になった居室にどっかり座って、はーっと息をついた瑞希のもとへ玲望がやってきた。
お盆にグラスがふたつ乗っている。
「お、手作り? レモネード……か?」
グラスの中の飲み物は薄い黄色をしていたし、目の前のちゃぶ台に置かれたとき香ったのは、ふわっと爽やかで少し酸っぱい匂いだったので瑞希は正体をうまく当てることができた。
「ああ。昨日スーパーでキズありのレモンをもらってきたから」
例によって、売り物にならない食材のお裾分けのようだ。
それをこうして立派なジュースにしてしまうのだから、たいしたものである。
ちょっと言い淀んだようだったが、玲望は言う。
「……いちお、世話になったから」
掃除を嫌がるので気まずいのだろうが、こうして礼を言って、手作りの飲み物まで振舞ってくれるのだから律儀である。
「だってお前、ほっとくと部屋カオスにすんだもん」
「うるさいな。暮らせればいいんだよ」
そんな話をしながら、ありがたくいただいたレモネード。
手にするとグラスからして、きんと冷えていた。
暑い折、しかもあれこれ動いたので冷たさが心地いい。
氷入りなだけでなく、もしかしたらグラスも冷やされていたのかもしれない。
ひとくち飲めばきりっと冷たく、レモンの酸っぱさと、ほのかに甘い味もする。
そして炭酸入りのようで、しゅわっと心地良く舌に刺激が伝わってきた。
「これ、どうやって作んの?」
自分で実践するつもりはないが聞いてみる。
玲望も自分のぶんを飲みながら、あっさり言った。
「まずレモンを搾って……」
「握りつぶすの?」
「んなことができるかよ」
混ぜ返すと玲望にちょっと睨まれた。
乱暴に立って、台所から妙なものを持ってきた。
三角柱に突起の付いた、木の器具である。
それの持ち手らしきところを手に持って、なにか手真似をした。
「こういう器具があるから……これでレモンをぐりぐりっとやって、果汁を搾る」
「へー……」
こんな……レモン搾り器なんて、普通の家にあるものだろうか。
でも玲望の家はそういう、ちょっと奇妙なものがちょくちょくあるのである。
自炊に使う、ちょっとマニアックなものというか、そういうものが。
「なんかエロいな」
にやっと笑って言うと、玲望は顔をしかめた。
真面目なことを言っているのに茶化されたからだろう。
しかし顔がうっすら赤い。
「はぁ!? どこがだよ! 変な連想するほうがエロいわ!」
その様子がかわいくて、瑞希は笑ってしまう。
くつくつと声に出たからか、玲望はもっと顔をしかめて、しかし、ため息をついて流した。
こういうからかいは割合よくあるので。
「……はぁ。そこにはちみつを入れて混ぜて、炭酸水を入れる。で、氷入れて完成」
このような工程で、このおいしいレモネードは出来上がっているそうだ。
瑞希も茶化したのは流して、目の前までグラスを持ち上げて、ちょっと揺らした。
氷がちゃぷんと揺れる。
疲れたときにはクエン酸がいいっていうよな。
ふと頭に浮かんだ。
そしてレモンにはたっぷりクエン酸が含まれるのであって、運動後などに最適。
それに汗をかきやすい季節になりつつあることもあって、爽やかで栄養豊富なレモンの食べ物や飲み物がよく売られている。
……たくさん掃除で働いた俺を気遣ってくれたんだな。
そう思えば余計嬉しいではないか。
「相変わらず凝ってんな……」
でも素直に「ありがとう」と言うのはちょっと恥ずかしい。
よってそんな言葉になった。
「どこが凝ってんだよ。搾って混ぜるだけだろ」
「普通の男子高生はレモン搾ったりしないっての」
ふっと笑ってしまった。
ちょっと、いや、だいぶ変わり者の玲望。
でもとても優しい性格をしているし、それが自分に向いてくれているのも嬉しいと、瑞希は思う。
だからこそ自分だってこんなボロいアパートにも通ってしまうのだし、月イチで掃除なんてしてしまう。
……玲望に会えるから。
玲望のために動けるから。
一緒に過ごせるから。
ふと思ったことに、瑞希は体を乗り出した。
玲望が目を丸くする。
ひかれるように顔を近付けていた。
玲望のさらっとした金髪が目に映った。
ああ、レモンのように艶やかで輝かしい。
食べればきゅっと酸っぱいレモン。
けれどその酸っぱさに虜になってしまう。
触れたくちびるもそれと同じ、きゅっと酸っぱい味がした。
一緒に飲んだレモネードの味。
玲望の手が伸ばされる。
瑞希のシャツが握られた。
ねだるような仕草をされて、一旦離れたくちびるがまた触れる。
酸っぱさと、その中に混ざるはちみつのほのかな甘さ。
たっぷり味わって、顔を引いて。
赤く染まった目元の玲望に、瑞希の目にはふっと笑みが浮かんでいた。
「ファーストキスはレモン味だな」
む、とそれには玲望が膨れる。
「なにがファーストだよ」
どうやら不満だったらしい。
そうだろう、恋人同士になってから、一体何回キスをしてきたか。
それでも。
「何回だって、初めてみたいな気持ちだよ」
何度キスをしたとしても、初めての甘酸っぱさはずっと残っているのだから。
玲望はそんなふうに言ったけれど、実のところファーストキスもレモン味だったのである。
覚えていないゆえにそんなことを言った、わけではないだろう。
照れ屋な性格のために、なにがファーストキスだよなどと言ったに決まっている。
もうそのくらい、瑞希には伝わってしまうようになっていた。
レモン味のファーストキスは、甘酸っぱかった。
それは六月の現在、つめたいレモネードを飲んだときの味と同じように。
だけど甘酸っぱかったのは触れたくちびるだけがではない。
それよりもっともっと甘酸っぱかったのは、心の中が、である。
ほわっとあたたかくなると同時、きゅっと締め付けられるような甘さが胸に広がった。
こんな感覚も感情も初めてのことで。
感覚については聞いたことがないのでわからないけれど、キスの回数としては聞いたことがある。
「俺がファーストキス?」なんて茶化して、けれど本心ではちょっとどきどきしながら尋ねた。
玲望は答えるのを渋った。
やはり恥ずかしがり屋ゆえに。
それでも最終的には言ってくれた。
「お前とのアレが初めてだよ」と。
少々拗ねたような声と口調で。
それが実のところ、拗ねているのではなく照れているだけだというのは、まだ付き合って一ヵ月と少しだった頃の瑞希にははっきりわからなかった。
正しく理解するにはもう少し……数ヵ月を必要としたものだ。
そのファーストキスの日。
随分涼しい、いや、はっきり言ってしまえば寒い日であった。