レモネードはよく冷やして

「俺は楽しいけどな」

 玲望に噛みつかれたけれど、瑞希が言ったのはそれであった。

 本心からだ。

 こんな夜中……コンビニで見た時計はもう零時に近付いていた……に、玲望と二人で自転車で走ってきたのも。

 国道沿いにぽつんとあった、知らないコンビニに入るのも。

 そこでペットボトルのお茶や、唐揚げなんて買って、コンビニ前にあるベンチに座って食べるのも。

 すべてが楽しい。

 瑞希の言葉に、玲望は黙った。

 ただ、じっと瑞希を見てくる。

「でも悪かったな。バイトで疲れてんのに」

 急に瑞希の言葉が殊勝になったからか、玲望は顔をしかめた。

 不快という表情ではなく、ちょっと気まずげな顔のしかめ方。

「……今更言うか? こんなとこまで来といて」

 それだけ言って、ふいっと視線を逸らした。

 紙の箱に入っていた唐揚げ、最後の一個をつまようじに刺して、勝手に口に運んだ。

 もぐもぐと口が動く。

 瑞希はそれを見て、笑みを浮かべてしまった。

 実に玲望らしい物言いである。
「あー……でも夜中はやっぱ涼しいな。街中から離れたからかもしれないけど」

 瑞希は上を見上げた。

 当たり前のように、真っ暗な夜空が広がっている。

 暮らしている街はとっくに出た。

 それどころか、いくつか市町を越しただろう。

 今、どのあたりにいるのかはぼんやりしかわからないけれど、普段は来ないところ。

 自転車では絶対に来ないところ。

 それだけは確かであった。

 このあたりは住んでいる街よりちょっと田舎のようだ。

 道も広々しているし、車も少ない。

 それに、空が綺麗に見える気がしたのだ。

 単にひらけているからかもしれないが。

「……そだな」

 もぐもぐ、ごくん、と音がして、玲望が唐揚げを平らげて、そのあと相づちを打ってくれた。

 その短い言葉が、瑞希の「楽しい」と遠回しに肯定してくれるものであったこと。

 瑞希にはちゃんと伝わってきた。

「瑞希」

 不意に玲望が呼んできた。

 瑞希は何気なく、「なに?」と答えて玲望のほうを見て、あれ、と思った。

 なんだか居心地悪げな様子の玲望がそこにいたのだから。

「なんか……あったのか」

 その様子の通り。

 ためらったという口調で、少しだけ途中で切って、玲望は口に出した。
 瑞希はすぐに返事ができなかった。

 なにか、あった……。

 あったといえばそうだし、ないといえばそうだ。

 どちらも正しいし、どちらでもない。

 だからなんと答えたものか迷ってしまう。

 けれど確かなのは、玲望が『瑞希がなにか、思うところあった』と察してくれたこと。

 そっちのほうに満足してしまう。

 質問してきているのは玲望のほうだというのに。

「いや? あるような……ないような……」

「なんだ、そりゃ」

 瑞希の曖昧な返事に、玲望は顔をしかめた。

 今度のものは、多分、呆れの意味。

 でもそれ以上、説明できない。

 瑞希はなんと言おうか迷ったのだけど、その前に玲望が言った。

 瑞希の顔を見ないで、だ。

「こんな真夜中に、海行こうなんてチャリ飛ばすようなヤツが、なにもなくあるもんか」

 言われたことに、瑞希は一瞬、止まった。

 思考も、言葉も。

 確かにそうだ。

 なにもないのに、海に行こうなんて突飛なことを提案した挙句、実行するものか。

 ……俺より玲望のほうがわかっているのでは。

 瑞希は一瞬だけ止まった思考のあと、感じてしまった。
 自分のこと。

 自分で思うより、玲望のほうがよくわかっているのではないかと。

 そんなはずはない。

 自分のことなんて、自分が一番わかっているもので当たり前だ。

 ただ、確かに、自分では認識できない領域。

 そういうものは、誰の中にも確かに存在する。

 では、その、自分の中にある、自分では見えない『それ』はなんなのだろう。

 玲望はわかっているのかもしれない。

 聞こうかと、口を開きかけた瑞希であったが、それより早く玲望が言った。

「聞かせろよ、着いたら」

 それは、玲望の口から言ってくれるものではなかった。

 自分で見つけろ、というもの。

 聞かれてもちゃんと答えられなかったのに、海にたどり着いたとき。

 たった一時間や二時間だろうが、それだけでわかるものだろうか。

「ほら! さっさと行くぞ。これじゃ着くのが何時になるかも知れねー」

 今度、腕を引っ張られるのは瑞希のほうだった。

 玲望はさっさと立ち上がって、ぐいっと引っ張って、瑞希も立ち上がらせてくる。

 ちょっとよろけつつ、瑞希も引かれるままに立ち上がった。

「……わかった。行こうか」

 とりあえず、今の返事はこれだけ。

 あとは、走っている間に考えるだけだ。
 後半は前半に比べたらちょっと辛かった。

 当たり前だ、疲れが出てくる頃なのだから。

 そうでなくとも一日過ごしたあとなのだから、元気いっぱいなわけがない。

 おまけに玲望はバイトまでしてきたあと。

 立ちっぱなしのスーパーのレジなんてしてきたのだから、瑞希よりもっと疲れは多いだろう。

 なのに玲望はもう文句を言わなかった。

 ただ黙々と自転車を漕いでいる。

 前半以上に会話はなかった。

 体力の消費を抑えたいというつもりだが、それだけではなかったかもしれない。

 少なくとも瑞希はそうだった。

 玲望に言われたこと。

 なにかあったのか、ということ。

 自転車を漕いでいるのと、あと車や道に気を付けるのと。

 それしか考えることはないので、余計に思考が巡るのかもしれない。

 ことあるごとに思うのは、玲望の境遇や気持ちである。

 境遇については自分が同情するものではない。

 玲望自身が『そういうものだ』と受け入れていることなのだから、いくら恋人と言えども口を出すことではないからだ。

 大体、口に出したところでどうするというのか。

 高校生の身ではなにもできやしない。
 大人なら違うのかな、なんて瑞希は思った。

 大人なら「俺のところへ来いよ」なんて、住まわせて、過度の節約なんてしなくてもいいような暮らしを……。

 そこまで考えて、瑞希はその思考が馬鹿馬鹿しいことに気付く。

 苦笑いが浮かんだ。

 そんな、金で解決するような真似。

 自分は良いと思わないし、玲望だってきっと望まない。

 でも。

「俺のところへ来いよ」という発言にこもる気持ちはひとつではない。

『一緒にいたい』という気持ち。

 そちらのほうなら瑞希の中に確かにある。

 叶えられないのがもどかしいほどに、ある。

 玲望と一緒に居たいと思う。

 そう、さっき……思えばまだたった数時間前……一緒に夕食を食べたときも思ったように。

 独りでご飯を食べる玲望に、一緒にご飯を食べるひとがいたらいいのにと思ったこと。

 そしてそれが、自分であったらどんなにいいかと思うこと。
 玲望の気持ちは聞いたことがない。

 でもちっともわからないわけじゃない。

 瑞希の下手くそな料理に笑いつつも、おいしそうに食べてくれたのだし、それに言ってくれた。

 『誰かの作ってくれたメシってのはいいもんだ』。

 その言葉の中にあった気持ち。

 単純な言葉だけのことではないに決まっている。

 玲望からも望んでくれる気持ち、僅かかもしれないけれど、あってくれる。

 瑞希にはそう感じられた。

 そりゃあ、重さや内容がどの程度かなんてことは、ひとによって違うだろう。

 重みがまったく同じなんてことはあり得ない。

 でも。

 同じ種類の気持ちがあれば、あるいは。

「おい、瑞希。これ、どっちだ」

 いつの間にか玲望のほうが先になっていた。

 自転車を漕ぐ速度をゆっくりにして振り返ってくる。

 道がわからなくなったのだろう。

 見れば、走っていた国道はだいぶ細くなってきていて、大きな岐路があった。
「ああ……ちょい待って。地図、見るわ」

 言って、瑞希は自転車を道の端に寄るように進んで、止めた。

 玲望もちょっと先に行ったものの、止まる。

 するすると自転車を引いて瑞希のほうへやってきた。

「えーと……多分あとちょっとなんだよな。海側のほうに向かう道だから……あれ、北ってどっちだ」

 瑞希が取り出したスマホ。

 表示された地図。

 GPSはちゃんと働いているようで現在地がぴこぴこ光っていたけれど、咄嗟にわからなかった。

 玲望はそれに笑ってくる。

 おかしい、という声音と声で。

「なんだ、地図も読めないのかよ」

「そういうわけじゃねぇ」

 からかわれたも同然だったので、瑞希は憮然とした。

「ここ見りゃいいだろ、あ、設定わかりづらいじゃん。ちょっと貸せよ、見やすくするわ」

 玲望は瑞希の手元を覗き込んで、地図の表示を見たらしく、ひょいっとスマホを取り上げてしまった。

 瑞希はちょっと驚いたものの、されるがままになった。

 玲望がわかるなら任せたほうがいい。

 玲望は慣れているのか、ひょいひょいとあちこちに触れていって、どうやら設定を変えてくれているらしい。

 その様子は何故か、楽しそうですらあった。

 さっきまで文句ばっかりだったのに。

 体も疲れているだろうに。

 どうしたことだろう。
 瑞希が内心、首をひねっている間に玲望はさっさと設定を終えたらしい。

 瑞希に向かって差し出してくれた。

「ほい。これでかなりわかりやすくなったと思うぜ。ていうか、そんなら最初から言えよな。真逆に行ってたかもしれないだろ」

「さんきゅ。でもそれほど抜けてねぇわ」

「そっか?」

 言い合いになったが、これはただのふざけ合い。

 ほわりと瑞希の胸があたたかくなった。

「ほら! 道は右だな。行くぞ。朝になっちまう」

「流石に朝はねぇだろ」

 玲望は再び自分の自転車を掴んで、またがった。

 たっと地面を蹴る。

 何故か走り方がさっきより爽快に見えてしまった。

 なにも変わらないだろうに。

 瑞希はよくわからなくなりつつ、同じように走り出したのだけど、すぐ思った。

 道がはっきりしたことで、迷いや不安がなくなったのだろう。

 それで目的地に向かって駆けていきたくなった……。

「おい、待てよ!」

 ふっと微笑んでいた。

 ペダルをさっきより強めに踏む。

 ああ、そうだ。

 いつだって俺が引っ張るばかりじゃない。

 玲望に引っ張ってもらったり、助けてもらったり。

 そういうことだって何度もあったし、きっとこれからもある。

 速度をやや上げて漕ぎながら、瑞希は実感した。

 そこから導き出されたもの。

 瑞希の中から、形を取って浮き上がってきたもの。

 それはつまり、玲望にあげたいと思ったものとは……。