次の日の昼、芯は麓のバス停から市内循環バスに乗って、駅前まで食品の買い出しに来ていた。
平日昼間のスーパーマーケットは人もまばらで、店内放送ばかりが大きく響いている。芯は買い物カゴを右肘に引っ掛けて、カップラーメンとレトルト食品のコーナーをうろうろと歩き回る。
カラフルなパッケージとスナック菓子で、カゴはすぐにいっぱいになった――奏太のように、簡単でもいいから自炊しようという気持ちは、芯にはあまりないのである。
幸い、持ち帰るのが困難な飲料については、母からの仕送りで賄えていた。それがわざわざ宅配便で届くのは、買い出しを理由に頻繁に様子を見に来ようとする彼女が鬱陶しかったからだ。
カゴの一番上に六枚切りの食パンを乗せて、芯はレジへと向かう。会計を終えて外に出ると、ポケットのスマートフォンが震えた。
画面には母の名前が表示されていた。話すのが億劫で無視するも、立て続けにもう一度、着信音が鳴ったので、芯は観念して通話ボタンを押した。
「もしもし」
「ああもう、やっと出た」
電話口から、いつもの母の、不安そうな声が聞こえてくる。その声色にあてられて、意味もなく暗い気持ちになりそうな自分に気づき、芯はさっそくため息をつきたくなった。
母はどうしていつも、こんなにも不安そうで、不満そうなのだろう。
昔から思っていたことだ。母はいつも、芯のことを心配している。正確には、芯が「普通」から外れて、世間から「おかしい」と見なされることを、極端に恐れている。
それって結局、自分が可愛いだけなんじゃないのか。俺の気持ちなんてどうでもよくて、なんとか学校に行かせようとするのも、息子が将来、ひきこもりになったら恥ずかしいからで。
ありのままの自分を愛してほしいとは、芯は思わない。愛せないなら放っておいてほしい。母と自分は、全く別の人間なのだから。
「どう、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「掃除と洗濯は」
「困ってはない」
「よかった。食べるものはまだ残ってる?」
「今買いに来てる」
「野菜も買った?」
痛いところを突かれて、芯は内心動揺した。しかしここで不審がられると後々面倒なことになるので、精一杯何気ない風を装って言葉を返す。
「うん。ちゃんと買ったよ」
母はすっかり騙されて、「よかった」と息をついた。
その後訪れた一瞬の沈黙に、なにか言いたげな雰囲気を察して、芯はさっさと電話を切ろうと試みた。ところが、上手い切り上げ方を思いつく前に、母が再び口を開く。
「ねえ芯、母さんやっぱり一度、あなたのところに行くわよ」
嫌な予感が的中してしまい、芯は反射的に眉根を寄せた。
「それはいい」
「でも」
「いいって、ほんとに」
以前、精神科がなんだという話をされたことを思い出して、芯は必死に断った。勝手な母のことだ。様子を見に来るフリをして、そのまま芯を家に帰らせる可能性も十分にある。
不登校の具体的な原因が判明したわけではない。それでも、今の自分の状態が、ただ病院に通ってなんとかなるものではないことくらい、芯はよくわかっていた。
自分が祖父宅で過ごすことを、母がこんなにも不安がる理由について、芯は咄嗟に仮説を立てた――それはきっと、芯が漫画やゲームばかりに夢中になって、だらしない生活を送っていると思い込んでいるからではないか。
「この前話したピアノのやつ、ちゃんと続いてるんだ」
自らの推測に基づいて、芯は母の説得を試みる。伝えるべきは、とにかく自分が今、打ち込んで頑張っているものがあるという事実だ。
ピアノに挑戦して、久しぶりに心から楽しいと思えたこと。難しい練習もちゃんとこなして、少しずつ弾けるようになっていること。
未来のことなんてわからない。でもあと少し、ここで過ごすことができたら。奏太にピアノを教わって、ベートーヴェンを完成させることができたら、なにかが変わるんじゃないかと、最近は思っているのだ。
「せっかく弾けるようになってきたんだ。だからとにかく、今やってる曲が最後まで弾けるようになるまでは、あの家にいたい」
二度目の沈黙が、母との間に流れる。ざらついた機械音の奥の気配を、芯は緊張気味に探った。ピアノや奏太を特別に思う自分の気持ちが、少しでも母に伝わればいいと願いながら。
「あなたの気持ちはわかった」
母の言葉に、芯は一瞬、表情を明るくした。やっと理解してもらえるかもしれないという期待が、じわじわと胸の内に広がっていく。
「でも、その曲が弾けたら、芯は本当に学校に行けるようになるの?」
今度は重いもので頭を殴られたような心地がして、芯は思わず、バス乗り場へ向かう横断歩道の手前で立ち尽くした。体が急激に冷えて、周りの雑踏が、あっという間に意識から遠ざかっていく。
それはまだ、わからないけど。
答えた芯に、「それじゃ意味ないじゃない」と、母は容赦なく叩きつける。
「ピアノが弾けるようになったって、学校に行けなきゃ意味ないじゃない。起き上がれない理由を見つけて、ちゃんと対策を立てないと。ねえ芯、あなた、自分の状況わかってる? もう二ヶ月以上も学校に行けてないの。ピアノなんかにかまけてる時間なんて、本当は少しもないんだからね」
理由。対策。二ヶ月以上。
ピアノなんか。
頭の中で、母の発言が何度も何度も繰り返された。言葉が通り過ぎるたびに、芯が洋館で過ごした一ヶ月が、その煌めきや弾力が、急速に失われていく。
「……意味とか理由って、そんなに大事?」
「え? なに?」
小さくつぶやいた芯は、母に促されて、もう一度同じセリフを吐き捨てた。
「意味とか理由って、そんなに大事?」
胸の奥がかっと熱くなる。ああ俺、怒ってるんだなとにわかに気づく。芯は怒っていた。母を通り越して、社会に、世界に、芯はどうしようもない怒りを感じていた。
「俺って、意味のあることしかしちゃいけないの? 理由がなきゃ、学校休んじゃいけないわけ?」
意味も理由も、芯にとっては呪いのように感じられた。誰にとっても価値のあるものや、誰に言っても、納得してもらえるようなもの。それらを求めた先にあるのは、扱いやすく加工された、量産品の現実ではないのか。
ただ楽しいと思うこと。ただ美しいと思うこと。ただ好きだと思うこと。
言葉を知り、物事を知るうちに、いつの間にかできなくなっていた。気持ちから言葉がわき上がるのではなく、言葉に合わせて気持ちを探していた。
それが大人になるということなら、未来は地獄だと芯は思う。没頭も興奮も失われた灰色の憂鬱が怖い。そんな地獄で、これから何十年と生きていかなければならない事実が、怖くて怖くてたまらない。
母にこんなことを言っても仕方がない。そんなことは百も承知だった。それでも次から次へと、行き場のない主張がわき上がってくる。
母に当たり散らしたい気持ちをぐっと堪えて、芯は唇を引き結んだ。最低限苛立ちが凪ぐのを待ってから、「ごめん、もう切る」と断りを入れる。
「あ、ちょっと」
「切るよ」
「待って、大事な話」
母に叫ばれて、芯は通話停止ボタンに伸ばしかけていた手を止めた。母は安堵のにじんだ声で、「お父さんが、そっちに帰ることになったの」と続けた。
「あと二週間くらいで帰る、って連絡があったから。だから芯も、あと二週間でこっちに戻ってきなさい」
話なら、戻ってきてからちゃんと、聞いてあげるから。いいカウンセラーさんも見つけたの。不登校が治るように、お母さんも一緒に頑張るから。
そう言い残して、母は通話を切った。通話終了の電子音が、しばらく芯の鼓膜を震わせた。
芯は崩れるようにその場にしゃがみ込む。スマートフォンの電源を切って、目の前を横切っていく人々の足元を見つめる。
世界にたった、独りだけのような気がした。家を出てからは、久しく味わっていなかった気持ちだ。
境遇がどんなに違っても、奏太といる間は、この手の孤独感を抱かずにいられた。見た目が違っても、心の深いところの形がおんなじだという安心感があった。
丸めた肩に、水滴が落ちる。顔を上げると、灰色の空がにわかに光り、遅れてごろごろと、遠くの方で雷が鳴った。
「奏太」
つぶやいて、愛しさが増す。今どこで、なにをしているのだろう。
会えない時間が、ずいぶんと長く感じられた。早く会って、キスをして、ベートーヴェンを弾いてもらいたいと思った。
平日昼間のスーパーマーケットは人もまばらで、店内放送ばかりが大きく響いている。芯は買い物カゴを右肘に引っ掛けて、カップラーメンとレトルト食品のコーナーをうろうろと歩き回る。
カラフルなパッケージとスナック菓子で、カゴはすぐにいっぱいになった――奏太のように、簡単でもいいから自炊しようという気持ちは、芯にはあまりないのである。
幸い、持ち帰るのが困難な飲料については、母からの仕送りで賄えていた。それがわざわざ宅配便で届くのは、買い出しを理由に頻繁に様子を見に来ようとする彼女が鬱陶しかったからだ。
カゴの一番上に六枚切りの食パンを乗せて、芯はレジへと向かう。会計を終えて外に出ると、ポケットのスマートフォンが震えた。
画面には母の名前が表示されていた。話すのが億劫で無視するも、立て続けにもう一度、着信音が鳴ったので、芯は観念して通話ボタンを押した。
「もしもし」
「ああもう、やっと出た」
電話口から、いつもの母の、不安そうな声が聞こえてくる。その声色にあてられて、意味もなく暗い気持ちになりそうな自分に気づき、芯はさっそくため息をつきたくなった。
母はどうしていつも、こんなにも不安そうで、不満そうなのだろう。
昔から思っていたことだ。母はいつも、芯のことを心配している。正確には、芯が「普通」から外れて、世間から「おかしい」と見なされることを、極端に恐れている。
それって結局、自分が可愛いだけなんじゃないのか。俺の気持ちなんてどうでもよくて、なんとか学校に行かせようとするのも、息子が将来、ひきこもりになったら恥ずかしいからで。
ありのままの自分を愛してほしいとは、芯は思わない。愛せないなら放っておいてほしい。母と自分は、全く別の人間なのだから。
「どう、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「掃除と洗濯は」
「困ってはない」
「よかった。食べるものはまだ残ってる?」
「今買いに来てる」
「野菜も買った?」
痛いところを突かれて、芯は内心動揺した。しかしここで不審がられると後々面倒なことになるので、精一杯何気ない風を装って言葉を返す。
「うん。ちゃんと買ったよ」
母はすっかり騙されて、「よかった」と息をついた。
その後訪れた一瞬の沈黙に、なにか言いたげな雰囲気を察して、芯はさっさと電話を切ろうと試みた。ところが、上手い切り上げ方を思いつく前に、母が再び口を開く。
「ねえ芯、母さんやっぱり一度、あなたのところに行くわよ」
嫌な予感が的中してしまい、芯は反射的に眉根を寄せた。
「それはいい」
「でも」
「いいって、ほんとに」
以前、精神科がなんだという話をされたことを思い出して、芯は必死に断った。勝手な母のことだ。様子を見に来るフリをして、そのまま芯を家に帰らせる可能性も十分にある。
不登校の具体的な原因が判明したわけではない。それでも、今の自分の状態が、ただ病院に通ってなんとかなるものではないことくらい、芯はよくわかっていた。
自分が祖父宅で過ごすことを、母がこんなにも不安がる理由について、芯は咄嗟に仮説を立てた――それはきっと、芯が漫画やゲームばかりに夢中になって、だらしない生活を送っていると思い込んでいるからではないか。
「この前話したピアノのやつ、ちゃんと続いてるんだ」
自らの推測に基づいて、芯は母の説得を試みる。伝えるべきは、とにかく自分が今、打ち込んで頑張っているものがあるという事実だ。
ピアノに挑戦して、久しぶりに心から楽しいと思えたこと。難しい練習もちゃんとこなして、少しずつ弾けるようになっていること。
未来のことなんてわからない。でもあと少し、ここで過ごすことができたら。奏太にピアノを教わって、ベートーヴェンを完成させることができたら、なにかが変わるんじゃないかと、最近は思っているのだ。
「せっかく弾けるようになってきたんだ。だからとにかく、今やってる曲が最後まで弾けるようになるまでは、あの家にいたい」
二度目の沈黙が、母との間に流れる。ざらついた機械音の奥の気配を、芯は緊張気味に探った。ピアノや奏太を特別に思う自分の気持ちが、少しでも母に伝わればいいと願いながら。
「あなたの気持ちはわかった」
母の言葉に、芯は一瞬、表情を明るくした。やっと理解してもらえるかもしれないという期待が、じわじわと胸の内に広がっていく。
「でも、その曲が弾けたら、芯は本当に学校に行けるようになるの?」
今度は重いもので頭を殴られたような心地がして、芯は思わず、バス乗り場へ向かう横断歩道の手前で立ち尽くした。体が急激に冷えて、周りの雑踏が、あっという間に意識から遠ざかっていく。
それはまだ、わからないけど。
答えた芯に、「それじゃ意味ないじゃない」と、母は容赦なく叩きつける。
「ピアノが弾けるようになったって、学校に行けなきゃ意味ないじゃない。起き上がれない理由を見つけて、ちゃんと対策を立てないと。ねえ芯、あなた、自分の状況わかってる? もう二ヶ月以上も学校に行けてないの。ピアノなんかにかまけてる時間なんて、本当は少しもないんだからね」
理由。対策。二ヶ月以上。
ピアノなんか。
頭の中で、母の発言が何度も何度も繰り返された。言葉が通り過ぎるたびに、芯が洋館で過ごした一ヶ月が、その煌めきや弾力が、急速に失われていく。
「……意味とか理由って、そんなに大事?」
「え? なに?」
小さくつぶやいた芯は、母に促されて、もう一度同じセリフを吐き捨てた。
「意味とか理由って、そんなに大事?」
胸の奥がかっと熱くなる。ああ俺、怒ってるんだなとにわかに気づく。芯は怒っていた。母を通り越して、社会に、世界に、芯はどうしようもない怒りを感じていた。
「俺って、意味のあることしかしちゃいけないの? 理由がなきゃ、学校休んじゃいけないわけ?」
意味も理由も、芯にとっては呪いのように感じられた。誰にとっても価値のあるものや、誰に言っても、納得してもらえるようなもの。それらを求めた先にあるのは、扱いやすく加工された、量産品の現実ではないのか。
ただ楽しいと思うこと。ただ美しいと思うこと。ただ好きだと思うこと。
言葉を知り、物事を知るうちに、いつの間にかできなくなっていた。気持ちから言葉がわき上がるのではなく、言葉に合わせて気持ちを探していた。
それが大人になるということなら、未来は地獄だと芯は思う。没頭も興奮も失われた灰色の憂鬱が怖い。そんな地獄で、これから何十年と生きていかなければならない事実が、怖くて怖くてたまらない。
母にこんなことを言っても仕方がない。そんなことは百も承知だった。それでも次から次へと、行き場のない主張がわき上がってくる。
母に当たり散らしたい気持ちをぐっと堪えて、芯は唇を引き結んだ。最低限苛立ちが凪ぐのを待ってから、「ごめん、もう切る」と断りを入れる。
「あ、ちょっと」
「切るよ」
「待って、大事な話」
母に叫ばれて、芯は通話停止ボタンに伸ばしかけていた手を止めた。母は安堵のにじんだ声で、「お父さんが、そっちに帰ることになったの」と続けた。
「あと二週間くらいで帰る、って連絡があったから。だから芯も、あと二週間でこっちに戻ってきなさい」
話なら、戻ってきてからちゃんと、聞いてあげるから。いいカウンセラーさんも見つけたの。不登校が治るように、お母さんも一緒に頑張るから。
そう言い残して、母は通話を切った。通話終了の電子音が、しばらく芯の鼓膜を震わせた。
芯は崩れるようにその場にしゃがみ込む。スマートフォンの電源を切って、目の前を横切っていく人々の足元を見つめる。
世界にたった、独りだけのような気がした。家を出てからは、久しく味わっていなかった気持ちだ。
境遇がどんなに違っても、奏太といる間は、この手の孤独感を抱かずにいられた。見た目が違っても、心の深いところの形がおんなじだという安心感があった。
丸めた肩に、水滴が落ちる。顔を上げると、灰色の空がにわかに光り、遅れてごろごろと、遠くの方で雷が鳴った。
「奏太」
つぶやいて、愛しさが増す。今どこで、なにをしているのだろう。
会えない時間が、ずいぶんと長く感じられた。早く会って、キスをして、ベートーヴェンを弾いてもらいたいと思った。