芯が奏太から「ピアノを聴いてほしい」と頼まれたのは、三日後のことだった。昼前に芯が洋館を訪れると、奏太はピアノソナタ第八番ではない、別の曲を練習していた。
線の細い、優雅に宙を漂うような曲調を聞いて、なんとなくベートーヴェンの作品ではないように感じた。それでも芯はいつも通り、外の壁際に座り込んで、演奏が終わるのを待った。
演奏中の部屋に押し入るのは、いくら本人に許可を出されてもためらわれる。奏太が一人でピアノを弾く時、その周りには、触れがたい緊張感が漂っている。
もちろん、芯が同じ部屋にいても、奏太は一切気を散らすことなく素晴らしい演奏をする。それでも、そういう時の演奏と、彼が本当に「ひとり」でいる時の演奏とでは、やはりなにかが違うのだ。
「芯」
程なくして、窓から奏太が顔を出す。芯は内心驚いた。奏太が演奏を途中で切り上げて声をかけてくるのは、芯がこの洋館を訪れるようになってから初めての出来事だった。
「どうしたの?」
慌ただしく立ち上がると、奏太は芯に、室内に入るよう手招きで合図した。若干戸惑いつつ、普段通りの要領で窓枠をくぐると、奏太は芯の目をじっと覗き込んで口を開いた。
「ピアノ、聴いてほしくて。『バラード第一番』っていう、今度レッスンで弾く曲なんだけど」
その声は珍しく強張っていて、表情もどこか硬い感じがした。口早に告げられた注釈を聞いて、彼が緊張しているのだと芯は気づく。
「もちろん、俺でよければ」
こうやって改めて頼まれると、自分が演奏するわけでもないのに足が震えた。そんな芯の元に、奏太はわざわざ背もたれつきのピアノ椅子を持ってきて、客席だと思って座るように促した。
腰を下ろして目の前のグランドピアノを眺める。それだけで、簡素な部屋は小さなコンサートホールに様変わりした。秋の穏やかな陽光に、よく磨かれたグランドピアノの屋根が光っている。
芯の準備が整ったのを見て、奏太は視界の左側から颯爽と歩いてきた。つま先を揃え、優雅にお辞儀をする姿は、紛れもなく本物のピアニストだ。
椅子の位置を調整する音が、静まりかえった部屋に響く。芯はその音を聞きながら、白いシャツにスラックスという奏太の出立ちが、いつでも舞台に出られる格好だということに気づく。
芯の座っている位置からは、奏太の白い横顔がよく見えた。一切手を抜く気のない、怖いくらいに真剣な表情だ。すっかり気圧された芯は、奏太はいったい、どこまで音楽に身を捧げているのだろうかと考える。
張り詰めた空気の中、長い指先が鍵盤に触れる。
沈黙を鮮やかに切り裂いて、最初の一音が奏でられた。テナーとバスのユニゾンが、どこまでも深い響きで空気の色を変えた。
シンプルかつ圧倒的な音色の美しさが、芯の心を掴んで離さない。震える弦まで見えるようだ。
曲の途中、芯からすれば神業のように見える技術的な難所も、奏太は難なく弾きこなしてみせた。最後の和音が途切れたタイミングで、芯は奏太に、盛大な拍手を送った。
「すごい、こんなに難しい曲が弾けるなんて。全然間違えないんだ。楽譜も見てないのに」
ただ思ったことを、いつも通り素直に伝える。芯はすっかり、奏太の複雑な指の動きや、数多の構成音をコントロールしきる集中力に魅せられていた。
それはもちろん、心からの称賛のつもりだった。しかしお辞儀をしてこちらに歩いてきた奏太は、やけに険しい顔をして芯を見返した。
「……それだけ?」
「え?」
「感想、それだけ?」
鋭い視線に体が強張る。射すくめられ、最初に会った時のように動けなくなってしまう。
芯が怯えていることに気がついた奏太は、はっと我に返って気まずそうに謝った。ピアノの前の椅子に戻って楽譜を開きながら、「やっぱり駄目か」と小さくつぶやく。
「え、なにが? どこが駄目だったの? 俺変なこと言った?」
芯としては、聞き捨てならない言葉だった。奏太の演奏は文句なしに素晴らしい。自分なんかの感想で奏太が落ち込んでしまっては、空から槍が降るくらいの一大事だ。
「いや、芯は悪くないよ。怖がらせてごめん」
「それは別に……それより、なんで」
奏太はしばらく、なにかを言い渋っていた。答えるよう促しても、「言わせることじゃないから」の一点張りで取り合ってくれない。
それでも諦めずに、芯は奏太を見つめた。この前「空っぽじゃない」と励ましてもらったことが、まだ芯の胸に残っていた。
傷つけたのなら謝りたいし、もし奏太が悩んでいるのなら、できる限り彼の力になりたい。そうやって自分も、奏太の役に立ちたいのだ。
芯の必死の視線に根負けしたのか、やがて奏太は、苦々しく笑いながら説明を始めた。
「演奏を聴いた人の感想でさ、最初に出てくる言葉が、『難しい曲だね』とか『間違えてなかったね』じゃ駄目だよなって思うんだ」
それって、この曲のよさよりも、僕っていう演奏者の方が印象に残ったってことだろ。
口元は笑っている。眉も困ったように下がっている。でもその瞳の奥では、理想通りの演奏ができない悔しさや歯痒さ、それでもよりよい演奏を目指すのだという強い意志が、いくつもの閃光を放ちながら蠢いていた。
芯は、自分の背筋が大きく震えるのを感じた。奏太は今まで、どれほどの熱意で音楽と向き合ってきたのだろう。これからの人生を、どれだけピアノに捧げるつもりなのだろう。
――ピアノが弾けなくなったら、僕は死ぬんだ。
迷いなく放たれた言葉の重みが突然、二倍にも三倍にも膨れ上がる。信じていなかったわけではない。それでも、なにかを大切にし続けた経験のない芯には、奏太の覚悟など最初から、理解できるはずがなかったのだ。
「『バラード第一番』はショパンの曲。確かに難しい曲だよ。でもそれ以上に叙情的で、聴く人に訴えるものがある曲のはずなんだ。技術的なことばっかりできたって、それは本当のピアニストとは言えない。人の心を動かせなくちゃ意味がない」
より高みを目指して、奏太はもがいていた。まだ未完成の、剥き出しの自分を抱えて。
胸が締めつけられて、芯は息が苦しくなる。「ピアノが弾けなくなったら死ぬ」とまで言っていた奏太にとって、自分の演奏を「意味がない」と感じる瞬間というのは、どれほどの痛みを伴うだろうか。
技術的にすばらしい演奏に意味がないとは、芯は思わない。だけどきっと、そんな慰めは、奏太には通用しないのだろう。
「奏太」
奏太がゆっくりとこちらを見る。ひりついた表情に見え隠れする不安に気づき、芯は唇を引き結んだ。
芯は素人だ。技術的なアドバイスなんてできるわけがないし、それっぽい言葉で誤魔化すこともしたくない。
だとしたらもう、演奏を聴かせる相手として奏太が選んだ自分を信じて、まっすぐにぶつかることしかできない。
「楽しもう!」
「は?」
突然明るい声を出した芯を、奏太は怪訝そうに見た。
「俺はやっぱり素人だから、難しいことはよくわからない。でもなんだって、楽しくないよりは楽しい方がいいはずだろ。ピアノが楽しいってこと、俺に教えてくれたのは奏太だ。奏太のピアノをもっといっぱい聴いていたい。ピアノを弾く奏太をもっと見ていたい」
全部が本当の気持ちだった。奏太の演奏を聴いて、ピアノに興味を持った。自分で弾くのは難しいけれど、諦めないで練習している。ピアノを弾く奏太を見ていると、不思議と心が安らかになる。
奏太って、クラシックじゃなくても弾けるの?
芯が尋ねると、奏太は戸惑いながらもうなずいた。
「まあ、知ってる曲なら。あんまり詳しくないけど」
「じゃあさ、これは?」
芯は視線を斜め上にやって、コンビニエンスストアの入店音を口ずさんだ。「それはまあ、有名なやつじゃん」と拍子抜けしたように言って、奏太はメロディーを右手で追った。
芯は今度は、SNSで流行っている歌を歌ってみる。あまりピンときていない様子の奏太だったが、芯の歌から音を探り当てて、なんとか弾いてみせた。
夕方五時の放送が、メッセージアプリの着信音が、奏太の長い指から軽やかに紡ぎ出される。ピアノの音色で聞く日常の音たちは、なんだか澄まして、余所行きの格好をしているみたいだ。
CMでよく聞く曲を頼んだら、クラシックだけ異様にスムーズなのがおかしかった。電気屋やスーパーマーケットのテーマソングは、奏太の伴奏に合わせて芯が歌った。
最寄駅の発着メロディを聞いて、無性に旅行に行きたくなる。聞き慣れた音の羅列が、芯をたまらなく愉快にさせる。芯が笑えば笑った分だけ、それにつられるようにして、奏太の頬の強張りも解けていく。
そのうち奏太は、自動車のクラクションやトラックがバックする時の警告音、レジの音など、曲とも呼べない生活音すら、ピアノで再現してみせた。奏太には普段から、これらの音が全て、ドレミで聞こえているようだった。
「絶対音感ってやつ?」
芯が尋ねると、奏太は「うん」と自然な調子でうなずいた。
「踏切の音とか、鳥の鳴き声、あとは赤ちゃんの泣き声なんかも、結構音程で聞こえたりする」
「すごい。それって鬱陶しかったりしないの?」
もし自分だったら、と想像してみる。ドレミで考えると実感しづらいが、まあつまり、周囲から聞こえる音全部が、言葉に聞こえることと同じではないだろうか。
外にいる間中、どこに行っても他人の話し声が聞こえる状態なんて、想像しただけで大変そうだ。気疲れも多いだろうなと、芯は少し心配になる。
「そうでもないよ。具合悪いときとか、疲れてる時はさすがに、勘弁してくれって感じだけどね。僕の場合は物心ついた時からこうだったし、周りにいつも友だちがいるみたいで、小さい頃はむしろ楽しかったなあ」
懐かしむような表情で、奏太は鍵盤を見つめた。そのまま、愛おしそうな手つきで鍵盤を撫でる。穏やかな沈黙に、奏太の優しい声が響く。
「だから僕は、ピアノが好きなのかもしれない」
その言葉には、揺るぎない愛情がこもっていた。その笑顔から目が離せなくなったまま、むしろしっかりと見つめ返して、芯は口を開く。
「奏太、俺今、すごく楽しい。色々弾いてくれてありがとう」
俺、奏太のピアノ好きだよ。
だから大丈夫だよ。
恥ずかしかったけれど、誤魔化さないで伝えてみる。ピアノに真剣な奏太は格好いい。でも同時に、どこか追い詰められているような、苦しそうな空気をまとっていたのが気になった。
演奏者が苦しそうだと、聴いている方もなんだか、苦しくなってしまう。今日は奏太の緊張が伝播して、芯も体が強張っていた。そういう何気ない、小さなことの積み重ねが、曲を聴く芯の感性にも影響を与えたのかもしれない。
芯の言葉を聞いたっきり、奏太はすっかりうつむいてしまった。芯は「どうしたの」と声をかけ、恐る恐る近づいて顔を覗き込む。
その表情を見て、芯は目を見開いた。奏太の瞳は涙で潤み、滑らかな頬は、耳の方まで赤く染まっていた。
「え、えっ? ごめん、俺また変なこと言った?」
芯は戸惑って、つい意味もなく辺りを見回してしまう。普段大人っぽい奏太に泣かれると、ひどく調子が狂った。なんと声をかけていいかわからないし、わからないのに、赤くなった目元や小さな唇が妙に可愛く見えて、本当に困る。
「別に、そういうわけじゃない」
「でも」
「いい。本当に、――けだから」
顔を逸らしながら、奏太がなにやらつぶやく。聞こえなかったので問い返すと、「嬉しかっただけだから」と、今度は大きな声で返された。
「僕のピアノを好きって言ってもらえて嬉しかった。君の演奏は面白くないとか、ドイツにいた時、レッスンで少し、色々言われて。曲の表情とかイメージとか、僕はよくわからないから、よけい不安で」
奏太の口から、ぽろぽろと想いがこぼれていく。
今までは技術的な向上を目指してひたすらやってきたけれど、今年の夏頃から、それだけでは超えられない壁を感じ始めたこと。突破口を求めて日本に来たはいいものの、いくら練習してもなにも変われていないような気がして、どうしても焦ってしまうこと。
その言葉の端々には、得体の知れないものと向き合うことの怖さや、それでもやるしかない苦しみがにじんでいた。
「僕はピアノが好きだ。だから一番頑張りたいのに、最近は時々、すごく虚しくなる時があるんだ。好きなはずなのに、僕は本当にピアノが好きなのかなって考えたり、一生懸命やってる自分が馬鹿らしく思えたり」
強く握られた拳が、スラックスの膝の上で震えていた。その様子を見て、芯は気づく。
奏太も自分と同じように、ここに逃げてきたのだ。足を止めればすぐさま置いていかれるような、忙しない世界を離れて。そんな世界から、小さな自分を守るために。
初めて奏太の音を耳にした時。
あの、雷のような和音が心を震わせたのは、そこに込められた奏太の気持ちが、自分と同じ色をしていたからなのかもしれない。
あの時、自分はきっと、呼ばれていた。助けてくれと願うのと同じだけの強さで、助けてほしいと求められていた。
人生が変わる予感に身を任せて、ただ夢中になって坂を走った。そうして出逢った。黒い瞳に稲妻を宿した、俺の運命。
「奏太、ベートーヴェン弾いてよ」
無性に聴きたくなって、芯は奏太に、悲愴の第二楽章をリクエストした。第一楽章も第三楽章も好きだけれど、自分でも練習している分、やはり第二楽章は特別だ。
「今は絶対に上手く弾けないから、嫌なんだけど」
まだ目元の赤い奏太が、弱々しく抵抗する。そんな彼に、芯はにっこりと笑いかけて、「下手でもいいじゃん」と説得を試みる。
「上手く弾けなくたって、それこそ間違えたって、大丈夫だよ。ここには俺と奏太しかいないんだから」
ね? と念を押すと、奏太はもごもご文句を言いながらも、観念して鍵盤に指を乗せた。その仕草だけで、何度も見た奏太の演奏姿が、自然と芯の脳内に浮かび上がった。
ウェーブがかった黒髪。滑らかな白い頬。小さい唇。長い首。清潔なワイシャツ。華奢な腰。黒いスラックスに覆われた長い足。つま先を覆う革靴の艶。
あれ、と芯は首を傾げる。いつの間に自分は、こんなにも奏太のことを見ていたのだろう。いつの間に自分は、こんなに彼に惹かれていたのだろう。
芽生えた想いは初めてではなくて、でもきっと、今まで抱いたどんな感情とも違う色をしていた。暗闇を駆ける鮮烈な稲光を、自分はこれからも、飽きることなく求め続けるだろうという予感があった。
長い指先が、すっかり耳に馴染んだ旋律を奏で始める。湖の世界は、いつもの何百倍も優しく、温かく感じられた。音色に聴き入って閉じていた目を開くと、奏太はまぶたを閉じたまま、幸せそうな表情でピアノを弾いていた。
悲愴の第二楽章が好きだ――それを弾いている時の、奏太が好きだ。
ベートーヴェンはもっと、気難しくて恐ろしい人だと思っていた。でもこの曲を聴いたら、奏太の演奏を聴いたら、そんな風には思わなくなった。
空に向かう光の階段。もしくは、窓辺から差し込む月明かり。神様が降りてくる感じがする。この人が弾くと、よけいに。
芯はそっと身を屈めた。譜面台の横に片手をついたまま、奏太の小さな唇に口づける。
柔らかい感触の直後、音が止まって、時が止まった。まぶたのシャッターが開いた先で、黒く艶めく瞳の中を、ひときわ明るい稲妻が駆け抜けた。
「ごめん」
咄嗟に謝って、芯は奏太から顔を背ける。心臓がばくばくとうるさくて、体中がかっと熱くなって、今にもめまいで倒れそうだった。
「別にいい。……嫌だったら、嫌って言う」
少しの間の後、ひどく照れくさそうな返事があった。長い静寂に包まれた部屋で、窓際のレースのカーテンだけが、秋風に吹かれてはためいていた。
線の細い、優雅に宙を漂うような曲調を聞いて、なんとなくベートーヴェンの作品ではないように感じた。それでも芯はいつも通り、外の壁際に座り込んで、演奏が終わるのを待った。
演奏中の部屋に押し入るのは、いくら本人に許可を出されてもためらわれる。奏太が一人でピアノを弾く時、その周りには、触れがたい緊張感が漂っている。
もちろん、芯が同じ部屋にいても、奏太は一切気を散らすことなく素晴らしい演奏をする。それでも、そういう時の演奏と、彼が本当に「ひとり」でいる時の演奏とでは、やはりなにかが違うのだ。
「芯」
程なくして、窓から奏太が顔を出す。芯は内心驚いた。奏太が演奏を途中で切り上げて声をかけてくるのは、芯がこの洋館を訪れるようになってから初めての出来事だった。
「どうしたの?」
慌ただしく立ち上がると、奏太は芯に、室内に入るよう手招きで合図した。若干戸惑いつつ、普段通りの要領で窓枠をくぐると、奏太は芯の目をじっと覗き込んで口を開いた。
「ピアノ、聴いてほしくて。『バラード第一番』っていう、今度レッスンで弾く曲なんだけど」
その声は珍しく強張っていて、表情もどこか硬い感じがした。口早に告げられた注釈を聞いて、彼が緊張しているのだと芯は気づく。
「もちろん、俺でよければ」
こうやって改めて頼まれると、自分が演奏するわけでもないのに足が震えた。そんな芯の元に、奏太はわざわざ背もたれつきのピアノ椅子を持ってきて、客席だと思って座るように促した。
腰を下ろして目の前のグランドピアノを眺める。それだけで、簡素な部屋は小さなコンサートホールに様変わりした。秋の穏やかな陽光に、よく磨かれたグランドピアノの屋根が光っている。
芯の準備が整ったのを見て、奏太は視界の左側から颯爽と歩いてきた。つま先を揃え、優雅にお辞儀をする姿は、紛れもなく本物のピアニストだ。
椅子の位置を調整する音が、静まりかえった部屋に響く。芯はその音を聞きながら、白いシャツにスラックスという奏太の出立ちが、いつでも舞台に出られる格好だということに気づく。
芯の座っている位置からは、奏太の白い横顔がよく見えた。一切手を抜く気のない、怖いくらいに真剣な表情だ。すっかり気圧された芯は、奏太はいったい、どこまで音楽に身を捧げているのだろうかと考える。
張り詰めた空気の中、長い指先が鍵盤に触れる。
沈黙を鮮やかに切り裂いて、最初の一音が奏でられた。テナーとバスのユニゾンが、どこまでも深い響きで空気の色を変えた。
シンプルかつ圧倒的な音色の美しさが、芯の心を掴んで離さない。震える弦まで見えるようだ。
曲の途中、芯からすれば神業のように見える技術的な難所も、奏太は難なく弾きこなしてみせた。最後の和音が途切れたタイミングで、芯は奏太に、盛大な拍手を送った。
「すごい、こんなに難しい曲が弾けるなんて。全然間違えないんだ。楽譜も見てないのに」
ただ思ったことを、いつも通り素直に伝える。芯はすっかり、奏太の複雑な指の動きや、数多の構成音をコントロールしきる集中力に魅せられていた。
それはもちろん、心からの称賛のつもりだった。しかしお辞儀をしてこちらに歩いてきた奏太は、やけに険しい顔をして芯を見返した。
「……それだけ?」
「え?」
「感想、それだけ?」
鋭い視線に体が強張る。射すくめられ、最初に会った時のように動けなくなってしまう。
芯が怯えていることに気がついた奏太は、はっと我に返って気まずそうに謝った。ピアノの前の椅子に戻って楽譜を開きながら、「やっぱり駄目か」と小さくつぶやく。
「え、なにが? どこが駄目だったの? 俺変なこと言った?」
芯としては、聞き捨てならない言葉だった。奏太の演奏は文句なしに素晴らしい。自分なんかの感想で奏太が落ち込んでしまっては、空から槍が降るくらいの一大事だ。
「いや、芯は悪くないよ。怖がらせてごめん」
「それは別に……それより、なんで」
奏太はしばらく、なにかを言い渋っていた。答えるよう促しても、「言わせることじゃないから」の一点張りで取り合ってくれない。
それでも諦めずに、芯は奏太を見つめた。この前「空っぽじゃない」と励ましてもらったことが、まだ芯の胸に残っていた。
傷つけたのなら謝りたいし、もし奏太が悩んでいるのなら、できる限り彼の力になりたい。そうやって自分も、奏太の役に立ちたいのだ。
芯の必死の視線に根負けしたのか、やがて奏太は、苦々しく笑いながら説明を始めた。
「演奏を聴いた人の感想でさ、最初に出てくる言葉が、『難しい曲だね』とか『間違えてなかったね』じゃ駄目だよなって思うんだ」
それって、この曲のよさよりも、僕っていう演奏者の方が印象に残ったってことだろ。
口元は笑っている。眉も困ったように下がっている。でもその瞳の奥では、理想通りの演奏ができない悔しさや歯痒さ、それでもよりよい演奏を目指すのだという強い意志が、いくつもの閃光を放ちながら蠢いていた。
芯は、自分の背筋が大きく震えるのを感じた。奏太は今まで、どれほどの熱意で音楽と向き合ってきたのだろう。これからの人生を、どれだけピアノに捧げるつもりなのだろう。
――ピアノが弾けなくなったら、僕は死ぬんだ。
迷いなく放たれた言葉の重みが突然、二倍にも三倍にも膨れ上がる。信じていなかったわけではない。それでも、なにかを大切にし続けた経験のない芯には、奏太の覚悟など最初から、理解できるはずがなかったのだ。
「『バラード第一番』はショパンの曲。確かに難しい曲だよ。でもそれ以上に叙情的で、聴く人に訴えるものがある曲のはずなんだ。技術的なことばっかりできたって、それは本当のピアニストとは言えない。人の心を動かせなくちゃ意味がない」
より高みを目指して、奏太はもがいていた。まだ未完成の、剥き出しの自分を抱えて。
胸が締めつけられて、芯は息が苦しくなる。「ピアノが弾けなくなったら死ぬ」とまで言っていた奏太にとって、自分の演奏を「意味がない」と感じる瞬間というのは、どれほどの痛みを伴うだろうか。
技術的にすばらしい演奏に意味がないとは、芯は思わない。だけどきっと、そんな慰めは、奏太には通用しないのだろう。
「奏太」
奏太がゆっくりとこちらを見る。ひりついた表情に見え隠れする不安に気づき、芯は唇を引き結んだ。
芯は素人だ。技術的なアドバイスなんてできるわけがないし、それっぽい言葉で誤魔化すこともしたくない。
だとしたらもう、演奏を聴かせる相手として奏太が選んだ自分を信じて、まっすぐにぶつかることしかできない。
「楽しもう!」
「は?」
突然明るい声を出した芯を、奏太は怪訝そうに見た。
「俺はやっぱり素人だから、難しいことはよくわからない。でもなんだって、楽しくないよりは楽しい方がいいはずだろ。ピアノが楽しいってこと、俺に教えてくれたのは奏太だ。奏太のピアノをもっといっぱい聴いていたい。ピアノを弾く奏太をもっと見ていたい」
全部が本当の気持ちだった。奏太の演奏を聴いて、ピアノに興味を持った。自分で弾くのは難しいけれど、諦めないで練習している。ピアノを弾く奏太を見ていると、不思議と心が安らかになる。
奏太って、クラシックじゃなくても弾けるの?
芯が尋ねると、奏太は戸惑いながらもうなずいた。
「まあ、知ってる曲なら。あんまり詳しくないけど」
「じゃあさ、これは?」
芯は視線を斜め上にやって、コンビニエンスストアの入店音を口ずさんだ。「それはまあ、有名なやつじゃん」と拍子抜けしたように言って、奏太はメロディーを右手で追った。
芯は今度は、SNSで流行っている歌を歌ってみる。あまりピンときていない様子の奏太だったが、芯の歌から音を探り当てて、なんとか弾いてみせた。
夕方五時の放送が、メッセージアプリの着信音が、奏太の長い指から軽やかに紡ぎ出される。ピアノの音色で聞く日常の音たちは、なんだか澄まして、余所行きの格好をしているみたいだ。
CMでよく聞く曲を頼んだら、クラシックだけ異様にスムーズなのがおかしかった。電気屋やスーパーマーケットのテーマソングは、奏太の伴奏に合わせて芯が歌った。
最寄駅の発着メロディを聞いて、無性に旅行に行きたくなる。聞き慣れた音の羅列が、芯をたまらなく愉快にさせる。芯が笑えば笑った分だけ、それにつられるようにして、奏太の頬の強張りも解けていく。
そのうち奏太は、自動車のクラクションやトラックがバックする時の警告音、レジの音など、曲とも呼べない生活音すら、ピアノで再現してみせた。奏太には普段から、これらの音が全て、ドレミで聞こえているようだった。
「絶対音感ってやつ?」
芯が尋ねると、奏太は「うん」と自然な調子でうなずいた。
「踏切の音とか、鳥の鳴き声、あとは赤ちゃんの泣き声なんかも、結構音程で聞こえたりする」
「すごい。それって鬱陶しかったりしないの?」
もし自分だったら、と想像してみる。ドレミで考えると実感しづらいが、まあつまり、周囲から聞こえる音全部が、言葉に聞こえることと同じではないだろうか。
外にいる間中、どこに行っても他人の話し声が聞こえる状態なんて、想像しただけで大変そうだ。気疲れも多いだろうなと、芯は少し心配になる。
「そうでもないよ。具合悪いときとか、疲れてる時はさすがに、勘弁してくれって感じだけどね。僕の場合は物心ついた時からこうだったし、周りにいつも友だちがいるみたいで、小さい頃はむしろ楽しかったなあ」
懐かしむような表情で、奏太は鍵盤を見つめた。そのまま、愛おしそうな手つきで鍵盤を撫でる。穏やかな沈黙に、奏太の優しい声が響く。
「だから僕は、ピアノが好きなのかもしれない」
その言葉には、揺るぎない愛情がこもっていた。その笑顔から目が離せなくなったまま、むしろしっかりと見つめ返して、芯は口を開く。
「奏太、俺今、すごく楽しい。色々弾いてくれてありがとう」
俺、奏太のピアノ好きだよ。
だから大丈夫だよ。
恥ずかしかったけれど、誤魔化さないで伝えてみる。ピアノに真剣な奏太は格好いい。でも同時に、どこか追い詰められているような、苦しそうな空気をまとっていたのが気になった。
演奏者が苦しそうだと、聴いている方もなんだか、苦しくなってしまう。今日は奏太の緊張が伝播して、芯も体が強張っていた。そういう何気ない、小さなことの積み重ねが、曲を聴く芯の感性にも影響を与えたのかもしれない。
芯の言葉を聞いたっきり、奏太はすっかりうつむいてしまった。芯は「どうしたの」と声をかけ、恐る恐る近づいて顔を覗き込む。
その表情を見て、芯は目を見開いた。奏太の瞳は涙で潤み、滑らかな頬は、耳の方まで赤く染まっていた。
「え、えっ? ごめん、俺また変なこと言った?」
芯は戸惑って、つい意味もなく辺りを見回してしまう。普段大人っぽい奏太に泣かれると、ひどく調子が狂った。なんと声をかけていいかわからないし、わからないのに、赤くなった目元や小さな唇が妙に可愛く見えて、本当に困る。
「別に、そういうわけじゃない」
「でも」
「いい。本当に、――けだから」
顔を逸らしながら、奏太がなにやらつぶやく。聞こえなかったので問い返すと、「嬉しかっただけだから」と、今度は大きな声で返された。
「僕のピアノを好きって言ってもらえて嬉しかった。君の演奏は面白くないとか、ドイツにいた時、レッスンで少し、色々言われて。曲の表情とかイメージとか、僕はよくわからないから、よけい不安で」
奏太の口から、ぽろぽろと想いがこぼれていく。
今までは技術的な向上を目指してひたすらやってきたけれど、今年の夏頃から、それだけでは超えられない壁を感じ始めたこと。突破口を求めて日本に来たはいいものの、いくら練習してもなにも変われていないような気がして、どうしても焦ってしまうこと。
その言葉の端々には、得体の知れないものと向き合うことの怖さや、それでもやるしかない苦しみがにじんでいた。
「僕はピアノが好きだ。だから一番頑張りたいのに、最近は時々、すごく虚しくなる時があるんだ。好きなはずなのに、僕は本当にピアノが好きなのかなって考えたり、一生懸命やってる自分が馬鹿らしく思えたり」
強く握られた拳が、スラックスの膝の上で震えていた。その様子を見て、芯は気づく。
奏太も自分と同じように、ここに逃げてきたのだ。足を止めればすぐさま置いていかれるような、忙しない世界を離れて。そんな世界から、小さな自分を守るために。
初めて奏太の音を耳にした時。
あの、雷のような和音が心を震わせたのは、そこに込められた奏太の気持ちが、自分と同じ色をしていたからなのかもしれない。
あの時、自分はきっと、呼ばれていた。助けてくれと願うのと同じだけの強さで、助けてほしいと求められていた。
人生が変わる予感に身を任せて、ただ夢中になって坂を走った。そうして出逢った。黒い瞳に稲妻を宿した、俺の運命。
「奏太、ベートーヴェン弾いてよ」
無性に聴きたくなって、芯は奏太に、悲愴の第二楽章をリクエストした。第一楽章も第三楽章も好きだけれど、自分でも練習している分、やはり第二楽章は特別だ。
「今は絶対に上手く弾けないから、嫌なんだけど」
まだ目元の赤い奏太が、弱々しく抵抗する。そんな彼に、芯はにっこりと笑いかけて、「下手でもいいじゃん」と説得を試みる。
「上手く弾けなくたって、それこそ間違えたって、大丈夫だよ。ここには俺と奏太しかいないんだから」
ね? と念を押すと、奏太はもごもご文句を言いながらも、観念して鍵盤に指を乗せた。その仕草だけで、何度も見た奏太の演奏姿が、自然と芯の脳内に浮かび上がった。
ウェーブがかった黒髪。滑らかな白い頬。小さい唇。長い首。清潔なワイシャツ。華奢な腰。黒いスラックスに覆われた長い足。つま先を覆う革靴の艶。
あれ、と芯は首を傾げる。いつの間に自分は、こんなにも奏太のことを見ていたのだろう。いつの間に自分は、こんなに彼に惹かれていたのだろう。
芽生えた想いは初めてではなくて、でもきっと、今まで抱いたどんな感情とも違う色をしていた。暗闇を駆ける鮮烈な稲光を、自分はこれからも、飽きることなく求め続けるだろうという予感があった。
長い指先が、すっかり耳に馴染んだ旋律を奏で始める。湖の世界は、いつもの何百倍も優しく、温かく感じられた。音色に聴き入って閉じていた目を開くと、奏太はまぶたを閉じたまま、幸せそうな表情でピアノを弾いていた。
悲愴の第二楽章が好きだ――それを弾いている時の、奏太が好きだ。
ベートーヴェンはもっと、気難しくて恐ろしい人だと思っていた。でもこの曲を聴いたら、奏太の演奏を聴いたら、そんな風には思わなくなった。
空に向かう光の階段。もしくは、窓辺から差し込む月明かり。神様が降りてくる感じがする。この人が弾くと、よけいに。
芯はそっと身を屈めた。譜面台の横に片手をついたまま、奏太の小さな唇に口づける。
柔らかい感触の直後、音が止まって、時が止まった。まぶたのシャッターが開いた先で、黒く艶めく瞳の中を、ひときわ明るい稲妻が駆け抜けた。
「ごめん」
咄嗟に謝って、芯は奏太から顔を背ける。心臓がばくばくとうるさくて、体中がかっと熱くなって、今にもめまいで倒れそうだった。
「別にいい。……嫌だったら、嫌って言う」
少しの間の後、ひどく照れくさそうな返事があった。長い静寂に包まれた部屋で、窓際のレースのカーテンだけが、秋風に吹かれてはためいていた。