二日後、芯が洋館を訪れると、奏太はベートーヴェンのピアノソナタ第八番を弾いていた。少し早歩きでここまでやって来た芯は、乱れた息のままその場に立ち尽くした。
 奏太のピアノが変わったような気がしたのだ。どこか几帳面な印象だった演奏にいい意味でのゆとりが生まれ、曲への想いや愛情が素直に伝わってくる音が鳴っている。
 最近、閉まっていることの方が多い窓からは、白いワイシャツの背中がちゃんと見えた。それでも芯は、あれは本当に奏太なのだろうかと疑ってしまう。
「来てたんだ。ごめん、気がつかなくて」
 奏太に声をかけられて初めて、芯は演奏が終わっていたことに気がついた。慌てて駆け寄り、奏太が開けてくれた窓から、室内に足を踏み入れる。
「お邪魔します」
 発した声がいつもより硬いことに、自分で気づく。たった二日来なかっただけなのに、がらんと広いピアノ部屋は、芯の目にひどくよそよそしく映った。
「飲み物持ってくるから、少し弾いて思い出してて。寒いからあったかいのにしよう。紅茶は飲める?」
 部屋の入り口で振り返った奏太に、芯は咄嗟にうなずいた。よかった、と笑って、奏太は小走りで部屋を出ていった。
 後ろ手で窓を閉め、芯はゆっくりとピアノに近づく。二日ぶりに腰を下ろしたピアノ椅子の座面は、クッション性が高すぎて落ち着かない。
 恐々と鍵盤に触れ、練習を始めた芯は、動きのぎこちなさに愕然とした。指が動きにくいだけではなく、できていたはずのところや、覚えていたはずのところが、なぜか上手く弾けなくて止まってしまう。
 どうして、と考え出したら、さっと血の気が引いて、よけいに練習どころではなくなった。体が一気に冷たくなって、混乱と焦りが、急速に芯の胸を蝕んでいく。
「大丈夫?」
 ティーカップを持って戻ってきた奏太が、ピアノの前で呆然とする芯に、声をかける。芯は奏太の方を振り返って、「全然弾けないんだ」と訴えた。
「今まで弾けてたところまで弾けなくなってる。どうしよう、奏太がせっかく教えてくれたのに」
 労力を積み重ねて身につけたことができなくなるのは、芯の心にかなり堪えた。進路希望調査票をもらった時と同じ、足場をごっそり奪われたような不安感が、芯の動悸をさらに激しくする。
 労力だけの問題ではない。芯にはもう、時間がないのだ。既にさらったところから復習していたら、第二楽章を教わり切らないうちに、あっという間に二週間が過ぎてしまう。
「それなら大丈夫。ちゃんと、何回か弾くうちに思い出せるから」
 奏太はしかし、芯をなだめるように柔らかく言って、紅茶を差し出した。芯はゆっくりと顔を上げ、カップを受け取る。焦っていた気持ちが、陶器ごしの温かさで少しだけ和らぐ。
 奏太いわく、久しぶりにピアノを弾く時は、先ほどの芯のように上手く弾けないことも多いらしい。ピアノ演奏は繊細なコントロールを必要とするので、少しの感覚のズレが大きな違和感となって、演奏者の意識を乱すのだ。
 十分ほどかけて紅茶を飲んでから、芯は練習を再開した。忘れてしまったところは奏太に手伝ってもらいながら思い出し、新しいところはやはり、十分集中しては休憩してを繰り返して、少しずつ少しずつ曲を進めていく。
 レッスンの間、奏太は終始、機嫌がよさそうだった。いつその顔を盗み見ても、口元には薄い笑みが浮かんでいて、そこから紡ぎ出される言葉たちにも、肩の荷が下りたような穏やかさがあった。
「なにかいいことあった?」
 一区切りついたタイミングで声をかけると、鍵盤から顔を上げた奏太が、「なんで?」と問うてくる。芯は正直に「嬉しそうだから」と答え、黒い瞳を見返した。
「俺がここに来た時のベートーヴェンも、いつもとなんか違ったから」
 芯の言葉に、奏太はぱっと目を見開いた。その表面を一瞬、稲妻の黄色が走り、小さな唇が、心から嬉しそうにほどける。
「レッスンでこの前のショパン弾いたら、変わったねって言われた。音に余裕が出て、聴かせる演奏ができるようになってきたって。ずっと悩んでたことだから、できるようになってきたことが嬉しくて」
 なんの含みもひねりもない、純粋な喜びが、滑らかな頬を彩っていた。それに気づいた途端、芯の胸は、ぎゅっと掴まれたように苦しくなる。奏太が喜んでいて嬉しいはずなのに、心の奥の方で、暗く冷たい感情が渦巻いている。
「よかったね」
 それでも芯は、平静を装って相づちを打った。そして、返ってきた言葉の意外さに、ぱちくりと目をしばたたいた。
「うん。芯のおかげ」
「俺の?」
「そう。芯のこと考えながら弾いたんだ」
「え、」
 心臓が跳ねる。じっと顔を見つめると、奏太は照れくさそうに視線を逸らした。
「僕自身はやっぱり、曲のイメージとかはよくわからないから、芯だったらどう感じるかなって想像してみた。芯にどう感じてもらえたら嬉しいかなって、考えながら弾いてみたんだ」
 芯がなにか答えるよりも先に、奏太は扉に向かって踵を返した。「お昼にしようか」とつぶやいて歩き始めたので、芯は戸惑いながらも立ち上がり、奏太の細い背を追った。
 素人の自分が本当に奏太の役に立てたかどうかなど、芯にはわからなかった。奏太の長年の努力が実を結んだタイミングで、たまたま自分がそばにいただけなのではないだろうか。
 それでも、奏太が今、なにか大きな壁を乗り越え、成長したのだということだけは、痛いほどよく伝わってきた。胸の奥の暗く冷たい感情が大きくなったことに気がついて、芯は客間の入口で立ち止まった。
 ぼんやりと目の前の光景を見つめる。自分を置いてキッチンへ進む背中と一緒に、色々なものが遠ざかっていくような心地になる。
 奏太もピアノも、学校も将来も、秋が去るのと同じように、思い出だけ残して消えていく――ひとり取り残された枯れ枝の庭は、きっととても寒い。
 ウェーブがかった黒髪がキッチンへと消える直前、芯は勢いよく足を踏み出して、近づいた細い背を強く抱きしめていた。鼻先を肩に埋めて縋りつくと、奏太が息をのむのがわかった。
「芯――」
 小さな頭を無理矢理引き寄せて、自分の名を呼ぶ唇を強引に奪う。無理な体制を強要したせいで、奏太の顔が苦しげに歪んだ。芯は一度唇を離し、奏太の華奢な体を腕の中で回して、今度は正面から口づける。
 柔く軽い感触ではすぐに物足りなくなって、緩く開いた隙間から舌を差し込んだ。初めて味わう他人の口内はひどく温かく、それが心地よくて、なのに心ばかりがずっと寒くて、輪郭を包む両手につい力がこもる。
 右手を滑らせて背をなぞり、細い腰を抱く。奏太は思いの外大きな動きで肩を震わせた。目の前の肢体を手放したくなくて、芯は奏太を客間まで引き戻し、二人がけのソファに押し倒した。
「奏太」
 荒い呼吸のまま呼びかけると、熱に浮かされて潤んだ瞳が、戸惑ったような表情で芯を見上げていた。第一ボタンの空いたワイシャツの胸が、自分と同じ速さで上下していた。
「芯」
 衝動の名残を多分に残したまま、小さな唇が震える。こめかみにはうっすらと汗がにじんでいて、襟元からは長い首が無防備に伸び、白くて滑らかな肌をさらしている。
 このまま奪って、閉じ込めて、自分のものにしてしまいたかった。でもそれがどこまでも身勝手な欲望だということを、芯はちゃんと知っていた。
 自分の傷が癒えないからといって、羽ばたく相手を引き止めるのは違う。一人取り残されるのが怖くても、奏太と奏太の夢だけは、きちんと手放して送り出さなければならない。
「好き」
 絞り出した声が震える。「好きだ」ともう一度言って、奏太の顔を見返した瞬間、目の縁から涙がこぼれた。
「本当はずっと一緒にいたい。ドイツにだって帰らないでほしい。上なんて目指さないで、今の奏太の演奏でいいから、俺のためだけにピアノを弾いてほしい」
 眼下の白い頬が、いくつもの水滴で濡れていく。長い長い沈黙の間、艶やかな黒い瞳は、ひと時も逸らされることなく芯を見つめていた。
「僕は、ピアノが一番なんだ」
 やがて話し始めた奏太は、寂しそうな顔で笑っていた。
「ずっとそれだけを考えて生きてきた。上手くいく時も、上手くいかない時もあるけど、僕の人生の中心はピアノだ。だからそれ以外のことには構っていられない。誰かを一番にすることなんてできない」
 その言葉に、予感は確信へと変わる――本当は気づいていた。キスをするのはいつも自分からで、奏太はただ、拒まずにそれを受け入れるだけだった。
 逃れようのない事実を突きつけられて、気持ちが急いた。「二番目でいいから」と訴えると、間髪入れずに言葉が返ってくる。
「僕が駄目なんだ。芯を好きになったら、日本に残りたくなっちゃうだろ。好きな人に会わなくても平気なほど、僕は器用な人間じゃない」
 芯の頬に、ワイシャツの腕がするりと伸びてくる。長い指に目尻を撫でられ、恐る恐る視線をやると、奏太は困ったように眉尻を下げて微笑っていた。
「ごめんね、芯」
 まぶたを伏せて上半身を起こした奏太は、音もなくひっそりとソファを抜け出した。乱れたワイシャツを整えて、今度こそキッチンへと消えていく。
 冷蔵庫を開ける音が聞こえ、中身を漁る気配があった。芯はよろめきながら立ち上がり、キッチンと客間の境から、奏太に声をかけた。
「俺、あと二週間で東京の家に帰るんだ」
 カッティングボードを準備していた奏太の手が、ほんの一瞬、動きを止める。すぐに再開して、脇に置いてあったトマトを、規則正しい動きで輪切りにしていく。
「わかった。ピアノの方はもう一息ってところまできてるから、心配しないで大丈夫。気を抜かないで頑張ろう」
 淡々と返されて、ただうなずくことしかできなかった。うなずいた直後、またもや涙がこぼれそうになって、芯は考えるよりも先に洋館を飛び出していた。