高二の四月。海崎晴真(うみざきはるま)は逃げ出した。
「東京からの転校生、みんなに自己紹介してくれる?」
 今日から海崎は男子寮で暮らすことになる。海崎を案内してくれた生徒は宮城(みやぎ)だ。寮長をしているという宮城は、眼鏡をかけていていかにも優等生といった雰囲気の男だ。
 宮城に促され、海崎は手にしていた紺色のスーツケースを手放して、寮の談話室の中央に立つ。
 背負った黒いリュックはそのままだ。スーツケースもリュックも、はち切れんばかりの荷物を詰めている。リュックを下ろすのも気合いがいるくらいに、ずっしりとした重みが海崎の両肩にのしかかっている。
「おーい! ちょっといい? 今日から転校生来たから」
 廊下と繋がっているフリースペースの談話室には、八名ほどの生徒がいる。皆、ソファーでくつろいで談笑していたが、宮城の声に反応してぴたりと止んだ。
 皆の視線が一斉に海崎に向けられる。あがり症の海崎は注目されるのは苦手だ。
 やばい。うまくやらなくちゃ。
 今度こそ失敗しないように。
 第一印象は大切だと意識すればするほど、海崎は緊張でガチガチになる。
「う、海崎晴真です。よろしくお願いしまっ、うわっ……!」
 頭を下げた瞬間、背中のリュックの重みでバランスを崩して、海崎はよろける。
「すみません、すみませんっ」
 転びはしなかったものの、めちゃくちゃ恥ずかしい。その場にいたみんなから、なにこいつみたいな視線と失笑を買う。
 最初だから頑張りたかったのに、やる気は空回り、目も当てられない最悪の状況だ。またダメな奴認定される。東京から逃げ出してきたばかりなのに、いますぐここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
「海崎、大丈夫?」
 宮城は海崎のフォローをしてくれたあと、場を取りなして、談話室にいた生徒たちのことを順に紹介してくれた。すると各々「うーっす」「よろしく」とおざなりな返事を返してきた。「大人しそうだな」という声も聞こえてくる。
 たしかに海崎は、背は百七十三センチとそこそこあっても、腰も腕も全体的に細身で男らしさはあまりない。少し茶色じみた細い髪は地味な髪型だし、チャラさとは無縁の風貌だ。
「海崎は伊野(いの)と同室な。あれ伊野は? どこにいる?」
 宮城が辺りを見回していると、廊下から声が聞こえてきた。それを聞きつけ、「伊野の声だ」と宮城がそちらへと向かう。海崎も談話室にいた生徒たちにぺこりと軽く頭を下げ、宮城のあとをついていった。
 廊下の先から、ふたりの生徒が何やら言い合いする声が聞こえてくる。
「同室は嫌だ! なんで俺が……」
「伊野。他に空きがないんだ。諦めてくれ。同じ高二同士、転校生と仲良くやれよ」
「無理だ。嫌だっつってんじゃん! 転校生なんて来なきゃよかったのに」
 転校生なんて来なきゃよかったのに。その言葉が海崎の胸に突き刺さる。それはもしかしなくても海崎のことを指しているのではないか。
「あー、話してるとこ悪い。伊野! こいつ海崎」
 その場の空気を断ち切るように宮城が呼ぶと、伊野が海崎のほうを振り返った。
「海崎……?」
 眉根を寄せて海崎を見ている伊野は背が高かった。運動部に所属しているのだろうか、がっちりとした肩幅に、白いTシャツからのぞく腕は筋骨隆々としていて逞しい。
 目鼻立ちがくっきりとした整った顔は、少し日に焼け、健康的な印象だ。
「あ、やば」
 伊野は顔色を変えた。さっきの会話を海崎本人に聞かれたことに気がついたのだろう。
 聞いてしまった海崎だって、めちゃくちゃ気まずい。
 でも伊野は同室者だ。嫌われていようとも、表面上だけでも仲良くやっていきたい。
 笑顔だ。笑顔。コミュニケーションの基本。とにかくまずは笑顔!
「海崎晴真です。あの。よろしく」
 海崎は伊野に微笑みかける。その顔は若干引きつっていたかもしれない。
「……よろしく」
 しばしの間があって、伊野は仕方なしにといった態度で返事を返してきた。そのときの伊野の海崎を見る目は決して優しくない。「こいつ何?」とでも言いたげな、蔑む視線だった。
 やっぱり歓迎されていない。初対面で嫌われるなんて、すごくショックだ。
 自分の何がダメなのだろう。人とどう関わっていけばいいのかわからない。決して明るい性格ではないけれど、自分なりに頑張って愛想よく振る舞っているつもりなのに。
「伊野、海崎を部屋に案内してやって」
 宮城に頼まれ、伊野は「はーい」と気だるく返事をした。
 海崎は伊野の横顔をそっと盗み見る。
 伊野は鼻筋の通った綺麗な顔をしている。印象的な大きな目も、揃ったまつ毛の形もすごくいい。正直かっこいいと思った。こんな人目を引く容姿に生まれたら、自分に自信が持てるようになるんだろうなぁとぼんやり思う。
「海崎」
「あっ、はいっ」
 宮城に呼ばれて海崎は我に返り、慌てて返事をする。
「伊野についていって。とりあえず荷物置いてこいよ」
 宮城は伊野にも「真面目に海崎を案内しろよ」と指示をして、自分は「当番表書き直ししてくる」と食堂へと向かって行った。
 伊野は海崎に声をかけることもなく階段を上がっていってしまう。行く当てのわからない海崎は伊野についていくしかない。
「待って」
 海崎はスーツケースを両手で持ち上げながら、伊野のあとを追いかけた。
 参考書にノートに文房具。洋服など生活必需品を詰め込んだ大型のスーツケースはかなり重い。途中、スーツケースの端を何度もぶつけながら階段を上がっていく。
 それでも手ぶらの伊野には当然追いつかない。背中のリュックの重みも邪魔をしてくる。
 どうしよう。おいていかれる。
 このままじゃ伊野の姿を見失ってしまう。
「くっそぉ……!」
 海崎が必死に力を振り絞っていると、ふと、スーツケースが急に軽くなった。見上げるとスーツケースの横に付いていた持ち手を伊野が持ち上げている。
「だっさ。何やってんだよ」
 伊野はすごい。悪態をつきながらも、結構な重さのスーツケースを片手で持ち上げ、階段の上まで軽々と運んでしまった。海崎が両腕で必死になって運んでいた荷物だったのに。
「ごめん、ありがとう……」
「いーよ。部屋はこっち」
 伊野は廊下を進み、寮室まで案内してくれた。海崎はスーツケースを押しながらそのあとを追う。
 寮はふたり部屋だった。入ってすぐの左側に二段ベッド、右側にはクローゼットがある。その奥の窓側には、机と本棚がふたつ線対称の位置に設えてあった。
「お前は下のベッドね。机とクローゼットは右を使え」
「う、うん……」
 ぶっきらぼうに言われてとりあえず頷く海崎だが、ふと疑問が頭に浮かぶ。
 この部屋を伊野ひとりで使っていたのなら、二段ベッドは下を使ったほうが何かと便利だったのではないだろうか。そうすれば、わざわざハシゴを上り下りする手間が省けるはずだ。
 なぜ伊野は上のベッドを使っていたのだろうか。
「あーあ……」
 海崎が荷解きをしていると、伊野にこれみよがしにため息をつかれた。伊野は自分の机の前に座り、両腕を枕にするようにして突っ伏している。
 きっとひとりで悠々と部屋を使っていたのに、海崎が同室になることが嫌なのだろう。さっきも同室は嫌だと友人に散々訴えていた。海崎が伊野に歓迎されていないのは明白だ。
 でも、ここに住むのは海崎の権利だ。宮城の話だと他の人たちも相部屋で寮生活を送っているのだから、伊野だけひとり部屋がいいなんて我が儘だ。
 海崎は荷解きをして、自分の物をガンガン机に並べ、服をクローゼットに収めていく。
 伊野がなんと言おうとも、今日からここは海崎の場所だ。転校してきた海崎には他に行くところがない。
「おーい、伊野!」
 開けっ放しの寮室のドアを軽く二度ノックして、伊野を呼ぶ生徒がいる。
 さっぱりと刈り上げた黒髪短髪で、明るく人懐っこい笑顔で笑う男だった。
「なかむー、なに?」
 伊野は笑顔で「なかむー」と呼んだ友達のところへ向かっていく。
 その笑顔は爽やかだ。海崎には笑いかけもしないくせに、友達にはあんな顔ができるんだと態度の違いにショックを受ける。
「みんなでカラオケ行かん?」
「行く行く!」
 伊野は素早く財布とスマホを手にして、なかむーと合流する。
「おっしゃ! 伊野がいると盛り上がるからな」
「なかむー、またアレ歌ってよ。あ、そうだ! 俺、なかむーに話したいことがあってさ……」
 ふたりは楽しそうに会話をしながら去っていく。
 海崎は、そんなふたりの背中を後目に、部屋のドアを閉めた。
 遠くで聞こえる賑やかな声の中、ここにはひとりきりの静寂が訪れる。
 どうやら伊野は愛想の悪い人間ではないらしい。海崎には冷たいが、友達とは明るく親しげに話をしていた。
 伊野は海崎の何が気に入らなかったのだろう。それすらよくわからない。第一印象で、なんか地味でつまんなそうな奴とでも思われたのだろうか。
「はぁ……」
 ひととおり荷物を片付け終えたあと、海崎はベッドに寝転んだ。
 使い慣れたワイヤレスイヤホンを両耳に装着すると、「Bluetoothに接続しました」といつもの機械音が聞こえる。
 スマホの音楽アプリを開き、好きな曲を再生する。
 海崎は嫌なことがあるたび、音楽の世界に浸ることが多い。
 音楽はいつでも心に寄り添ってくれる。ささくれ立った気持ちを落ち着けてくれる。
「ここで、頑張らなくちゃ……」
 海崎は壁側を向いて寝転び、ぎゅっと枕の端を握りしめる。
 大丈夫。大丈夫。このくらい耐えられる。そのように何度も呪文のように心に唱える。
 海崎にはここにしか居場所がない。逃げ出してきたことだって恥ずかしいと思うのに、今さら東京には帰れない。否が応でもここにしがみつくしかない。たとえ同室者に毛嫌いされようとも。