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「おはよ、怜。ごめん待たせた」
「また寝坊? 夜更かししたんじゃないの」
「バズってた漫画が面白くてさ~。一気読みしちゃった。LINE見た? URL送ったから絶対読んで」
「はいはい。ほら、行こう」

 
 怜と幼馴染を続けることにしてから二週間、月が変わって十月になった。衣替えで制服のブレザー着用を言い渡されたけれど、長袖の上着を着る気候にはほど遠く、怜も奏もやや肌寒い朝晩はカーディガンを着て、日中は脱いでいるか、袖を捲って過ごしていた。
「今日、最高気温25度だって」
「げ、マジで? 教室暑そうだな~。カーディガンもいらねーかも」
「そんなに? あ、そっか。カナ、席替えして窓際になったんだっけ」
「そうだよ。マジで毎日クッソ暑い」

 いつも通りの会話をしながら通学路を歩く。クラスの話、宿題の話、来月の文化祭の話、漫画の話、キャッチボールは終わりなく続く。きっとはたから見れば何も変わっていないように見えるんだろう。玄関先で会った高橋には「おまえら相変わらず仲良いよな」としみじみ言われた。
「俺も幼馴染の輪に入れてくれよ~」
「いや何でだよ。中三からの浅い付き合いだろ」
 べたべたと肩に纏わりつく高橋を軽くあしらっていると、怜が溜息をついた。
「カナ、今日は普通に帰る?」
「うん」
「じゃあまたあとで。高橋、行くぞ」
「あ、ちょっと待てよ怜~。引っ張るなって! 行くから!」

 騒々しいふたりを見送って自席に向かう。席替えで窓際の真ん中の席に配置されてから、怜は奏のクラスに顔を出さなくなった。廊下側の列がたまたま全員女子になってしまったから、取次ぎを頼むのが煩わしいんだそうだ。以降、約束は全部LINEで済ませるようになった。
 これはこれで便利だし、怜も女子の相手をしなくて万々歳だろうけど、移動教室の通りがけや休み時間に怜が「カナ」と声を掛けてくれるのが好きだったから、少々寂しさと物足りなさを覚える。あれって実は特別なことだったんだな、と無くなってから気づいた。

 無くなったことといえば、もうひとつ。怜は奏のうちに来なくなった。
 関係修復を図った直後、何の気なしに「うちに来る?」と誘ったら、すごく申し訳なさそうな雰囲気で断られて、やばいこれ地雷だと瞬時に悟った。それからは一度も声を掛けていない。

 あれだけ頻繁に来ていた怜がめっきり来なくなり、奏の両親は当然、心配した。父親は「まだ仲直りしてないのか」と呆れ、母親も「本当に大丈夫なの?」と不安そうだった。とりあえず喧嘩しているわけじゃない、事情があるんだと説明して納得してもらったものの、怜が二度とうちに来ないかもしれない、とまではさすがに言えなかった。たまに「怜くんは元気?」と聞かれたときには、学校での様子を話すことにしている。

 
 一限の古典の時間、奏は机に頬杖をつき、グラウンドを眺めていた。怜のクラスは体育で、ちょうどサッカーの試合が始まったところだった。怜は――いた。遠目からでも目立つな。
「新瀬」
「え? ああ、サンキュ」
 回ってきた古典のプリントを後ろに回し、奏は自分の授業に戻った。教師の解説をプリントに書き込みながら。たまにグラウンドを目で追った。三度目か四度目に覗いたとき、怜がドリブルで数人を抜き、黄色い歓声がここまで聞こえてきた。あれでサッカー未経験だって言うんだから恐ろしい。神は二物を与えずなんて大嘘だろう。

 怜は小学校のときもサッカーの授業で活躍し、その噂を耳にしたサッカークラブから熱烈な誘いを受けたことがある。プロを輩出したことで有名なチームだったが、本人は全く興味を示さず「カナがいないから行かない」ときっぱり断ってしまった。
 あのときクラブチームに入っていれば、今頃はイケメンサッカー選手として全然別の人生を送っていたかもしれない。人生ってわかんないな、とグラウンドを見ながら思った。

 そういえば、と奏は机の中から別のプリントを取り出す。昨日、二年生全員に配布された進路票だ。文理選択と志望校を書くように言われたけれど、まだ何を書くか決めていなかった。理系は苦手だし興味がないので文系、でも進学先と言われてもぴんと来ない。古典はあまり興味がないし(今も正直つまらない)、英語は嫌いじゃないけど得意でもない。現代文は得意だけど、そうなると文学部とか? そんな消去法で決めちゃっていいのかな。

 怜はどうするんだろう。さすがにもう「カナがいるから」が選択の理由にはならないか。前々から交通事故を減らすような仕事をしたいと言っていたので(怜の母親は事故で亡くなった)、色々調べているのかもしれない。昨日聞いたら「考え中」って返されたし。
 奏は強い希望や野望もないので、文系の学部があるなら怜と一緒のところでと密かに思っていたのだが、今の状況だと難しいだろう。怜はいいよと言ってくれそうだけど、いつまでも奏が腰巾着だと困るかもしれないし。

 部屋に誘って断られたとき、こいつ、本当におれが好きなんだ、と奏は改めて思った。あの拒絶は、邪な気持ちが少しでもあるから二人きりは困るという意思表示だろう。それを知っているのに一緒の大学に行きたいなんてとても言い出せない。

 まあ、あの件がなかったとしても、自分の進路を幼馴染の行き先に合わせます、なんて言ったら、教師や両親に自分のことは自分で決めろと説教されるだろう。
 子どもの頃は友達と仲良くしましょう、大事にしましょう、協力しましょうと散々言われてきたのに、大人になると手のひらを返すように独り立ちを求められるのが解せなかった。自分のことを自分で決めなければいけないのは当然として、みんな寂しくないんだろうか。自分の半身のように近しい相手と別れて平気なんだろうか。
 怜は、どう思っているんだろう。

 
 あくる日の授業中、クラスの女子からメモが回ってきた。次に回すつもりで宛先を見て驚いた。「新瀬くん」と書いてある。マジかよ。やや挙動不審になりながらメモを開くと、放課後、校舎裏に来てほしいと書かれていた。マジかよ。
 ラブレター事変から早一か月、まさか二通目の手紙をもらってしまうとは。しかも今回は呼び出しを食らっている。相変わらず差出人不明なのが引っかかったが、行けばわかるだろう。

 放課後、怜に「先に帰って」と連絡しようとスマホをタップした。
 でも、もし突っ込まれたら何て答えればいいんだろう。報告ぐらいしたほうがいいのかな。いや、普通の幼馴染はしないのかな。ラブレターのときはテンション高く自慢しちゃったし。あれもあれで地雷だったんだけどな。何が普通なのか全然わかんねえ。
 とりあれず「用事ができたから先に帰ってて」とシンプルな文面を送ると「わかった」とすぐに返事があった。騙してしまったようで気が退けるけど、こればっかりはしょうがない。

 暮れなずむ校内を早足で歩いて校舎裏に向かうと、建物の影になっている部分から「新瀬くん」と呼ばれた。聞き覚えがあるけど知らない声だ。うちのクラスの子じゃないような。
 半信半疑で声のした場所に近づき、驚いた。
「み、三澤さん⁉」
 まさかの相手に声を上げると、「しっ」と人差し指で制される。
「ごめんね、急に呼び出して。ていうか、私のこと知ってるんだ」
「いや、まあ……」
 色んな意味で知ってます、とは言えずに曖昧に濁すと、三澤の双眸が期待に輝く。
「もしかして、月峰くんから何か聞いてる?」
「は? 怜?」
「新瀬くん、幼馴染なんだよね」
「そうだけど……」
 盗み聞きした日から今日まで、相変わらず怜の口から三澤の話題は聞かない。奏の知らないところで仲良くしてるのかもしれないけど。
「いや……ない、かな?」
「そっか」
 あからさまに落胆する姿に、ここに呼び出された意味を確信した。
「おれを呼び出したのって、怜のこと?」
 三澤は申し訳なさそうに眉を下げた。
「うん、ごめんね。だまし討ちみたいになっちゃって。ほんとはLINEで連絡取りたかったんだけど、新瀬くんのID知ってる人が私の知り合いにいなくて……。だからミホ、神崎ミホわかる? あの子に手紙回してもらったんだ」
「あれ、でも神崎さんなら、クラスのグループLINEでIDわかると思うけど」
「え? あ、そっか。確かに。手間掛けちゃってごめんね」
 事情はわかった。が、気まずい予感がする。
「で、用件は?」
「うん。ここだけの秘密にしてほしいんだけど、私、実は先月月峰くんに告白してて、結果は振られちゃったんだけど……」
 ごめん知ってる、聞いてたし。
「新瀬くん、月峰くんの好きな子って知ってる?」
「へ?」
 不意打ちに素っ頓狂な声を上げてしまい、三澤は「ほんとにいるんだ」とひとりごちた。
「断るためにでっちあげたのかなって思ったんだけど、違うんだ。ほんとに実在する人?」
「え、っと、いや……」
 実在するもなにも、今目の前にいるんだけど。
 そんなこと口が裂けても言えるはずもなく、しかし否定したところで白々しくて信じてもらえないのは明白だった。嘘をつけない自分を今日ほど憎く思った日はない。
 かといって下手なことを口にすれば、巧みに誘導尋問に持ち込まれそうな気がする。そうなったら絶対に勝機がないので、とりあえず、お茶を濁すことにした。
「……ごめん。おれの口からは言えない」
「そっか。そうだよね。うん、ごめんなさい。無理に聞き出すつもりはないから」
 あれ、あっさり引き下がった。意外だ。
 驚く奏を見て、三澤は眉を下げて小首を傾げた。
「月峰くんに本当に好きな人がいるのか知りたかっただけなんだ。だから、これで十分。ありがとう」
「じゃあ、知ったから諦めるってこと?」
 無礼を承知で尋ねると、三澤は綺麗な笑みで「違うよ」と手を振った。
「月峰くんって漫画好きでしょ。二次元とかVtuberとかが相手だったら次元違うし無理って思ったんだけど、相手が実在するなら戦えるから。付き合ってないって言ってたし」
「はあ……」
 奏は呆けた相槌を打つ。情報量の多さに頭が追いつかなかった。
「新瀬くん、ありがと。ほんとは名前も聞けたらラッキーって思ってたけど、そこはちゃんと口堅いんだね。幼馴染っていいね」
 三澤は最後に満面の笑みを浮かべると(めちゃくちゃ可愛かった)、颯爽とその場を去っていった。残された奏は、遅れて「え」とつぶやく。
 もしうっかり口を滑らせてたら、おれはどうなってたんだろう。三澤さんに決闘とか申し込まれてた感じ? さすがに漫画の読み過ぎか、って、そうじゃない。
「諦めてないんだ……」
 怜にこっぴどく振られて、あの場で終わったんじゃなかったのか。メンタル強いな。
 で、これは怜に伝えるべき? いや、さすがに無神経だよな。三澤さんがおまえのこと諦めてないよ、って、一体どの口で言えばいいんだか。

 
 ところが、更に想定外が発生した。校舎裏で奏が三澤と話していた姿が目撃されていたのだ。教室で奏宛ての手紙が回っていたことも相まって、翌日には「三澤が奏に告白した」と噂になってしまい、校内がざわついていた。三澤は全学年にファンが多いのだ。
 
もちろん奏は噂を聞いた瞬間、慌てて否定した。あまりに不釣り合いで申し訳なさすぎる。三澤さんごめん。しかし、その対応が悪手だったようで、昼前には「三澤が奏に告白して振られた」と改悪された噂が拡散されていた。

 おかげで好奇と嫉妬と懐疑の目で見られて散々だ。特に「なんであんなチビが」みたいな薄汚い嫉妬をめちゃくちゃ感じたし、何なら陰でコソコソ言われた。言いたいことがあるなら直接言えばいいのに。つーかおれは無実なんだけど。

 そして、ありえない噂を真に受けたバカが、目の前にもう一人。
「三澤がカナに告ったって本当?」
 昼休み、人のいないところで昼食にしようと屋上に逃げたら怜がやってきて、口を開くなりこれだ。
「嘘に決まってんだろ。絶対ありえないって見てわかんねーの。つか、誰のせいでこんなことになったと思ってんだよ」
「え? 俺?」
「他に誰がいるんだよ」
 黙秘を貫くつもりだったが、これほど大事になってしまった以上、火消しをしないわけにはいかない。怜に勘違いされたままでは三澤もかわいそうだ。
「三澤さんに呼び出されたのは本当。でも、聞かれたのは怜の話だった」
 隣に座った怜は、黒いカーディガンの袖を捲りながら「そういうこと」とつぶやいた。
「ていうか暑くねーの。おれなんか学校着いて即脱いだんだけど」
「脱ぐほどじゃない。で、三澤は何て?」
 怜の好きな子を知っているか。でもそれを自分の口から言うのは憚られる。どうしよう。
 まごついていると、怜が息をついた。
「……俺の好きな人は誰か、とか?」
「え」
 奏の反応を見て、怜は「ビンゴ」と涼しい顔で言った。
「なっ、おまえ今嵌めたな⁉」
「大体予想できるだろ。それで? カナは何て返したの」
 意地悪な質問だ、と奏は苦々しく思った。
「……おれの口からは言えない、って返した」
 怜の相槌は「そう」と素っ気ない。
「まあ、根掘り葉掘り、は聞かないか。三澤はそういうことするタイプじゃないだろうし」
「うん、聞かれてない」
「じゃあ他には? 何か言ってた?」
「あとは、現実世界にその相手がいるかどうかって話を……」
「は?」
 事のあらましを説明すると、怜の眉間にみるみる皺が寄った。
「同じ次元だったら戦える、ねえ……」
「怜、なんかオタクと勘違いされてたっぽいけど」
「一緒に漫画の話してたから」
「あ、そーなんだ……。三澤さん、漫画とか読むんだ」
「それ、向こうも俺に言ってたな」
「へえ……」
 今も仲がいいのかな。漫画の話をしてるのかな。さっきの発言は過去形だったけど。
「三澤さんとは相変わらず話してんの」
 弁当を食べながら何気なく尋ねてみると、怜はメロンパンにかぶりつく直前で止まり、奏を見た。
「気になる?」
「え?」
「いや……。あれからほとんど話してないよ」
 そう言って、怜は誤魔化すようにパンを食べた。奏は一拍おいた後「そっか」と素知らぬ風に返事する。
「おれさ、三澤さんと全然接点なかったけど、今回喋ってみたら意外っていうか、イメージと結構違ったかも」
 気まずい空気を払拭すべく話題転換を試みると、怜の顔が少し曇った。
「……どういう意味?」
「イメージ、もっと手の届かない高嶺の花だって思ってたけど、案外強かっつーか」
「ああ……。まあ、強いよね」
 あっさり返されて、その辺もちゃんと知ってるんだ、と思った。一回話しただけの奏とは違って、怜は半年近くクラスメイトとして彼女とそれなりに付き合ってきたのだから当然か。

「あ、いた! 新瀬くんと……月峰くん」
「え?」
 声の方向に目をやると、女子がふたり、こっちに駆け寄ってくる。
「三澤と……?」
「神崎さんだ。うちのクラスの。友達だって言ってた」
 奏たちに近づいてくるなり、神崎は「付き添いだから」と言って一歩後ろに下がり、逆に三澤が一歩前に出る。え? まさかここで告白? ここで?
 心臓が嫌な感じにざらつき、奏は息を呑んで身構えたのだが。
「新瀬くん、ごめんね。巻き込んじゃって」
 三澤は奏に向かって手を合わせた。
「……へ? おれ?」
「早く謝りたかったんだけど、ふたりで会うとまた変な噂になりそうだから……。それでミホについてきてもらったんだ。ごめんね」
 まさか三澤に直接謝罪されるなんて思わなかったのでびっくりだ。
「あ、いや、そんな。おれは別に……。今回のことは外野が悪いし、信じるほうも信じるほうだよな。なんでおれなんかが三澤さんにって……」
「そう思わないから噂になるんだろ」
 必死にフォローする奏に、それまで黙っていた怜が冷ややかな目で横やりを入れてきた。いや、何で怜が怒ってんの。
「そうだよ。新瀬くん結構人気あるよ。可愛いって言われてるし。ね」
「一部で人気だよね」
 なぜか三澤も便乗してきたし、神崎も微妙な同意をくれたが、全体的にあまり嬉しくない。
 怜が「それで?」と三澤に尋ねる。
「今ここに長居されるとまた変な噂になるんじゃない」
「それもそうだね。新瀬くん、ほんとにごめんね。そのうち静かになると思うから……」
 申し訳なさそうな顔を見て、かわいそうだなと思った。目立つが故、周りにああだこうだ言われる怜を間近で見てきたので、三澤の苦労が察せられる。
「おれは平気。三澤さんのせいじゃないんだし気にすんなよ」
「優しいんだね。ありがと。……あ、そうだ月峰くん」
「何?」
「文化祭の準備、グループ一緒だよね。よろしく。じゃあ、お邪魔しました」

 女子たちが嵐のように去っていき、怜が疲れたような溜息をついた。見るからに不機嫌です、というオーラを漂わせている。昼休みは静かに過ごしたかったってやつかな。邪魔して申し訳ない。
「なんか、ごめん。騒々しくて」
 怜がむっとした。
「何でカナが謝るんだよ」
「だって……。いや、まあ、そうだな。悪いのは外野だな」
「そもそも誤解されることするなって感じだけどね」
 更にいらいらが増している。面倒くせえ。
「しょうがないだろ、たまたま見られちゃったんだし」
「見られるようなところに呼び出すほうも悪い」
「だからわざわざ謝りに来てくれたんだろ。いい人だな。またイメージ変わったかも」
 強かな人、からの、ちゃんとしてる人。いい人。怜が心を許したのもわかる気がする。
「どうだろ。俺の前でああ言えばカナとの誤解も解けるし、ラッキーって思ってたりして」
「えっ」
「さっきカナが言ってたけど、三澤、頭良くて強かだから、そういうこと考えてる可能性もあるよ」
 言われてみれば、確かに筋は通ってる。
「まあ、いいよ。謝ってくれたのは事実だし、おれはそれが嬉しかったし」
「……カナ」
「ん?」
 物言いたげな目でじっと見られて、なのに何も言ってくれないから居心地が悪い。
「何だよ」
 溜息がひとつ。
「……早く食べないと昼休み終わるよ」
「げ、やば!」

 
 そのときは何とも思わなかったのに、時間が経つにつれ、昼休みの出来事が胃もたれみたいにじわじわ主張し始めた。HRで一か月後の文化祭の話題が出された瞬間、奏は机に突っ伏した。

 三澤さん、文化祭までに距離縮めて、怜にもう一回告白すんのかな。昨日の呼び出しって、たぶんそういうことだよな。同じグループって言ってたし、毎日一緒に残って作業するのかな。あんなに可愛くて性格もいい子が傍にいて、本気でアプローチしてきたら人類の大半はコロッと落ちちゃいそうだけど、怜は大丈夫なのかな。いや、大丈夫って何がだよ。
 自分の思考の行き先がよくわからない。何でこんなに胸がむかむかするんだろう。怜が三澤さんとくっついちゃうかもって不安になってるのか? まさか、そんな。

 でも、考えてみれば昼休みの怜の行動はちょっと不可解じゃないか。初めは三澤と奏の噂を気にしていたのに、三澤とのやりとり――怜の好きな人を濁したと言っても「そう」の一言で、気まずそうな素振りは一切なかった。少し前の怜なら辟易としていたはずなのに。

 もしかして、怜ってもう吹っ切れてんのかな、おれのこと。
 あれから二週間以上経ち、自分たちの関係性も無事に元の鞘に戻りつつある。奏への気持ちに片が付き、何なら、他に好きな人ができたっておかしくない。
 いや、いくらなんでも早いか? でも、怜が何考えてんのかわかんないし、実は今になって三澤さんの魅力に気づいて、いいなって思い始めてたりして。三澤さん、可愛いし明るいし頭いいし、全然あるよな。今日の噂を気にしていたのも、そのせいだったりして。

 実際、ふたりはめちゃくちゃお似合いだと思う。見た目が浮世離れしている美男美女、でも中身は普通の高校生で趣味も合う。以前、日常会話を盗み聞きしてしまったが、互いに気安い感じで、相性の良さが聞いて取れた。
 もし怜の、奏への気持ちが本当に過去形で、その状態で三澤が猛アプローチしてきて、再び告白されたら、怜は――。

「ええー⁉」
「うそ、最悪!」
 急に教室が騒がしくなり、奏はそっと顔を上げた。一切聞いていなかったので、どうしてこんなに荒れているのか、状況がさっぱり理解できない。
「……なんかあったの?」
 隣の席の子に聞いてみると、「聞いてなかったの?」と呆れられた。
「文化祭の出展、うちのクラス、食品希望で出してたでしょ。この時間の裏で抽選してたんだけど、外れちゃったんだって」

 奏の高校の文化祭は、一・二年がクラス毎に出し物を担当する。カテゴリは大きく三つで、カフェなどの食品出店、オバケ屋敷などの企画出店、演劇や歌唱などのステージ出場だ。学年毎に出店数の上限が決まっていて、希望が殺到した場合は公正な抽選がなされ、落選したクラスは文化祭の補助――本部や休憩所の設置・案内係を担当する。
「ってことは、おれたちは補助?」
「休憩所担当だって。ほとんど準備なくて楽だけど盛り上がらないよね」
 せっかくの青春なのに、とクラスメイトがぼやいた。そういえば、文化祭シーズンはカップル成就率が高い。去年のクラスはオバケ屋敷を担当したのだが、奏の与り知らぬところで五組ぐらいがお付き合いに至っていた。奏の両親も同じく。
 もしかしたら、怜だって。
 以前の奏なら、隣の席の子に同意し、がっくりしていただろう。しかし今、奏の脳裏に浮かぶのは怜のことばかりだった。

 
「怜のクラスって何やるの?」
「企画。謎解き迷路」
 今年は食品にクラスが殺到したそうで、企画は抽選にならなかったんだという。
「うちのクラスも第二希望に企画入れとけばよかったのにな」
「入れなかったんだ」
「うん。なぜか。怜は何担当するの」
「謎解きの制作。結構数作んなきゃいけないから、当分は一緒に帰れないと思う」
「そっか。ふたりで作んの?」
「ふたり?」
「三澤さんが昼に言ってたじゃん。一緒だって」
「四人だよ。俺と三澤と、あとふたり。クラスの成績順で決められた」
「え? マウント取ってる?」
「何でそうなるんだよ」
「ジョーダン。頑張れよ。おれも遊びに行こうかな。たぶん暇してるし一緒に回んねえ?」
「……いや、俺、当日も色々やることあるから」
「あ、そうだよな。そりゃそうだ。忙しいよな」
 準備に当日の当番に打ち上げに、企画を担当するクラスはとにかく忙しい。去年は大変だったもんなあと前回の文化祭に思いを馳せた。

「でもさ、去年楽しかったな。オバケ屋敷」
 奏は怜と一緒に大道具担当で、毎日遅くまでクラスメイトたちとオバケ屋敷のレイアウトを考えて、ああだこうだ言いながら段ボールで組み立てていた。
 すると、怜がくしゃくしゃの笑顔で笑った。
「カナ、リハーサルで本気でビビって絶叫してたよね。みんなそれでテンション上がってた」
「だってマジで怖かったんだって。足元から手がにゅって出てきて掴んでくるんだぜ⁉ しかもすげー冷たいんだよ。コールドスプレーで冷やしてたんだっけ? よくやるよな」
「あのアイデア、俺が出したんだよ」
「は⁉ マジで?」
「運動部のやつが持ってたのを見て、カナなら絶対びびるんじゃないかなって思ってやってもらったら、大当たり」
「マジかよ……。あれ考えたヤツ、相当性格悪いと思ってたんだけど」
「あんなに驚いてもらえて光栄だったよ」
「ったく。……でも、今年で最後か」
 ふたつの影が夕日に伸びるのを見ながら、奏はつぶやく。
 受験のため、三年は有志または当日参加のみが許されている。クラス出展は二年が最後。だからこそ抽選を当てたかったとクラスの実行委員が涙していた。
「一年は抽選でもいいけど、二年は全員参加にしてくれればいいのに」
 とはいえ、学校で決まってしまっているものを自分たちがどうにかできるわけでもない。何かを変えるにはエネルギーが必要だが、そこまでの熱心さは奏にはなかった。自分のことで手一杯なのだ、それより大きな物を動かす余裕はない。

「なあ怜、進路票、書いた?」
「まだ。今父さんと相談してる最中」
「おじさん、また帰ってきてんの?」
「いや、週末に面談しに帰ってくるから、通話でその打ち合わせしてる」
「え? 面談って三者面談? 来月じゃなかったっけ⁉」
 予定を見間違えたんじゃないかと焦ると、「合ってるよ」と宥められた。
「父さんが繁忙期だから、先生に頼んで早めにしてもらったんだ」
「あ、そっか、紅葉の時期は混むんだっけ。もう秋だもんな」
 街路樹はまだ色づきもしていないけれど、若葉の頃のようなみずみずしさは見られない。そのうち色が変わり、枯れて落ちてしまうんだろう。そして、あっという間に冬が来て、一年が終わる。
「なんか、来年の今頃は受験生って全然実感ないよな。どこ行くとか何やりたいとか聞かれても全然わかんないっつーの。みんなよく決められるよな」
「カナはやっぱり自宅から通うつもり?」
「そうだよ。怜もそうだろ?」
 すると、怜は少し口ごもった。
「怜?」
「……父さんに、どこにでも行っていいって言われた」
「ん? 何の話?」
「大学。国内でも国外でも、東京でもそうじゃなくてもいいって」
「国外⁉」
「大袈裟だろ。俺もそう思った」
 怜は軽く笑い、遠くの景色を見ながら話を続けた。
「でも、調べてみると選択肢って案外色々あるんだ。国外はさすがに考えてないけど、地方にも有名な教授がいたり、この辺にはない学部があったり。都内の大学も、意外と特色が分かれてて、見てると面白い」
 吹き抜ける秋風がシャツの布目をくぐり抜けて骨に染みいった。その冷たさに、カーディガンを教室に忘れてきたことを思い出した。
「じゃあ、カナ。また明日」
 分かれ道で怜は踵を返した。黒いカーディガンの背中が闇に溶けるのを見送っていると、また風が吹きつけてきた。秋の風ってどうしてこんなに冷たくて、寂しいんだろう。

 
 周りのクラスが文化祭の準備で盛り上がる中、奏は進路指導室を訪れ、大学のパンフレットや進路案内の本を眺めていた。自宅から通えて偏差値的にも頑張れば届きそうな大学の文系の学部、という条件で候補を三つ挙げ、自宅に一番近い順で進路票に記す。雑な決め方だが、他に選ぶ基準もないし、行きたいところもないし、まあいいか。

「やべ、カーディガン忘れた……」
 玄関で肌寒さに身震いし、腕をさすって気づく。出る前でよかったと教室に戻り、ベージュのカーディガンを着込んで再び廊下に出ると、隣の教室が賑わっていた。
「あれ、カナじゃん。おっす」
 段ボールを両手に抱えた高橋がやってきて、奏を見るなりニヤニヤと笑う。
「いや~抽選落ちは暇そうだなあ。こっちは毎日下校時間ギリギリだよ」
「うぜー。おまえ、それあんま言うなよ。暴動起きるから」
「わかってるって。なあなあ、ちょっとカナに聞きたいことがあるんだけど」
 高橋は段ボールをその場に置いて、奏を手招きする。「何だよ」と近づくと耳打ちされた。
「カナと怜が三澤さん巡って三角関係ってマジ?」
「……は?」
「あ、やっぱ違うか。そうだよな。カナが三澤さんはちょっと……」
「いや、ちょっと待て。何その話」
「知らねーの? ほら、あれ」
 今度は教室を覗くように指示された。この教室で覗き見はちょっと気が引けるが、高橋の言葉が気になったので、しぶしぶながら従った。

 教室の前方では大道具と小道具が作業を行い、後方の窓際では四人組のグループが顔を寄せ合っている。その中に怜と三澤がいた。
「後ろのグループが謎解き班なんだけどさ、怜と三澤さんが一緒なんだよ」
「知ってるよ。本人から聞いた。で、それが何?」
「よく見ろよ。あのふたりの距離、なんか近くねえ?」
 と言われても。
「普通に座ってるだけじゃん」
「今はな。あ、ほら、見ろ」
 三澤が怜の方に身体を寄せたのを見て、高橋が声を上げる。その直後、怜が少し首を傾げて内緒話するようなポーズを取ると、高橋はますます興奮して奏の肩を何度も叩いた。
「な、な、やばいだろ。怜って女子にああいうことされるの好きじゃないんだって思ってたけど、やっぱ三澤さん相手だとデレるんだな」
「ちょっ、わかったから叩くなって……」
 すると次は奏の肩に抱きつきながら、「ほんとによかったよ」としみじみ言った。
「は? 何が?」
「噂は事実無根でカナは無関係なんだろ。俺はそうじゃないかって思ってたけどさ、カナと怜がマジで三角関係だったらどっちの応援すればいいか困ったからさ~。よかったよかった。これで怜を応援できる」
「……応援」
「俺たちは怜の応援団ってことで。んで、もし怜が三澤さんと付き合ったら友達紹介してもらおうぜ。そんときはカナと俺と三対三だからな」
「そっちが目的だろ。……おれ、もう帰るから」
 これ以上ふたりの姿を見たくない。高橋の腕を強引に引き剥がし、奏は踵を返した。

 
 帰宅すると、今度は父親に掴まった。
「会社は?」
「今日は休み。奏、買い物行ってきてくれ」
「あー、今日は父さんの料理の日か……」
 下降気味のテンションが更に低くなる。
 月に一度、母親が祖父母の様子を見に実家に帰るので、それに合わせて父親は有休を取り、料理を含めた家事全般を執り行っている。奏は父親から命じられ、料理のサポートと食器洗いを担当しているのだが。
「作るのはいいけど、ちょっとは片付ける人の気持ちにもなってよ……」
 父親が料理した後のキッチンは惨状だ。ゴミはあらかた片付いているものの、使用済みの鍋や食器がシンクにいくつも放られていて、うんざりする。今日も既にキッチンが荒れているのが見て取れた。あれを片付けるのか。嫌だな。
「お釣りは小遣いにしていいから、ほら、早く行ってこい」
「えー……」

 文句を垂れながら家を出て、駅前のこじゃれた輸入食品店で指定された調味料を買った。たった一回のためにこんなに高いの買ってどうするんだと思いながら、うちに帰ろうとしたときだ。
「奏くん?」
「あ、怜のおじさん」
 キャリーケースを片手に、笑顔で向かってきたのは怜の父親だった。相変わらずしゃんとしていてスタイルが良く、スーツが似合っている。
「おじさん、久しぶり。今帰ってきたの?」
「うん。こっちはまだ暑いな」
「朝晩はさすがに冷えるけどね」
「そっか。いや、ほんとに久しぶりだね。元気? 買い物?」
 片手に持った買い物袋を見せびらかし、「父さんの手伝い」と言うと、怜のおじさんはくしゃっと笑った。顔はあまり似ていないのに笑い方は怜にそっくりだから不思議だ。
「おじさん、うちに寄ってく? 父さんいるし、母さんも夜には戻ってくるよ」
「ありがとう。でも、このあと学校なんだ。怜の三者面談で」
 前に怜が言っていた話か。
「怜の進路ってもう決まった? おじさんに相談してるって言ってたけど」
「まだ決められないって言ってたよ。いくつか絞ってるみたいだから、オープンキャンバスや文化祭に顔を出してみたらって話してる」
「あ、そうなんだ」
 やっぱり真面目に考えてんだな。でも完全に置いていかれたわけではないので、少しほっとする。
「奏くんは?」
「おれは、まあ、家から通えるところでいくつか」
 さすがに家から近い順で決めたとは言えなかった。怜の父親は「そういう考えもあるよな」と穏やかに聞いてくれそうだけど。
 自分のことはどうでもいい。この間、怜には聞けなかったことを聞いてみたくなった。
「……怜って、ここから離れるの? 色んなところを見てるって聞いたけど」
 怜の父は、奏の言葉を受け取り、少し悩んだようだった。
「あ、話せないなら全然いいけど」
「いや、気を遣わせちゃったね。ごめん。怜が、奏くんには自分から話したいんじゃないかって思って」
 それってつまり、と思ったのが顔に出たのか、怜の父は慌てて「ごめん」と繰り返した。
「変な意味じゃなくて。えっと……。そうだな、関東近郊以外も候補には入ってる。ただ、さっきも言ったけど決まったわけじゃない」
「そ、っか」
 とりあえず国外じゃないことにほっとすればいいのか。いや、毎日顔を合わせられない距離っていう意味では、国内だろうと国外だろうと変わらない気がする。今と比べたらどちらもすごく遠い。
 いや、違う。今がすごく近いんだ。
「おれ、怜もここから離れないだろうなって勝手に思ってた。だから、それ以外も見てるって言われて、正直びっくりして。おじさんが言ったんだよね。どこにでも行っていいって」
 責めるつもりはなかったけど、そうとしか聞こえない口調になってしまった。案の定、怜の父親は眉を下げてまた謝ってきたので、奏はかぶりを振る。
「おれがガキなだけ。変なこと言ってごめん」
「そんなことないよ。奏くんは優しいな」
 頭をぽんと撫でられた。
「怜をここから離したかったわけじゃないんだ。ただ、可能性を潰してほしくなかった。怜はここが――君が好きだから、きっと他のことは考えていないと思って」
 好き、という言葉にどきっとしたが、怜の父のまなざしから、奏が思っているニュアンスとは違うものなんだと察した。
「だけど、それも親の傲慢なのかもしれない。怜には本当に寂しい思いをさせてしまったから、幸せになってほしいんだけど、難しいな……」
「怜、今は楽しそうだよ。ほんとに。嘘じゃないから」
「知ってるよ。奏くんのおかげでね」
 怜の父親が柔らかく目を細めて笑う。
「本当に、奏くんのお父さんとお母さんと、奏くんには感謝してる。助けられてばっかりだ。本当にありがとう」
 そう言って姿勢を正すと、奏の目を真っ直ぐ見た。
「これからも――この先も、怜と仲良くしてもらえたら嬉しい」
「そんなの、当たり前だよ」
「ありがとう。奏くんがいてくれてよかった。息子のこと、よろしくお願いします」
 深く頭を下げる姿が、この前の怜と重なって見える。
 もちろん、と胸を張って答えたかった。でも、上手く言葉にならなかった。

 
 自宅は香ばしくて複雑な匂いに包まれていた。どうせ妙に凝ったカレーでも作ってるんだろう。買い出しの内容もお高いスパイスだった。
「はい。頼まれてたやつ。カレー作ってんの?」
「ああ。スパイスが足りなかったんだ。助かった」
「おれ、普通のルーのが一番いいんだけど……。あ、さっき、怜のおじさんに会った」
「え? どこで?」
「駅前」
 既に惨状と化しているシンクを片付けながら答える。
「戻ってきてたんだな。何も言わないなんて珍しい」
「うちに誘ったんだけど、怜の三者面談があるからゆっくりできないって言ってた。また今度って」
「進路か。確かにそういう時期だな。怜はどこ行くんだ?」
「知らない。ただ、こっちを離れるかもって」
「そうか」
「驚かないんだ」
「和人――父親の大学が関西だからな」
 意外な新情報だ。
「え? そうなの?」
「知らなかったのか?」
「いや聞いてない……。父さんたちって大学も一緒だったんじゃないんだ」
「ちなみに、父さんと母さんも別の学校だぞ」
「え、そうだっけ? そうなの?」
 鍋を洗いながら事情を聞いた。両親はそれぞれ実家から別の大学に通い、卒業前に同棲。怜の父親は関西で一人暮らしをしていて、就職と同時に戻ってきたそうだ。
「関東と関西って、どのぐらいの頻度で会えんの?」
「会おうと思えば会えるんじゃないか。俺たちの場合だと正月に会うぐらいだったな」
「うわ、全然じゃん」
「しょうがないだろ。金が掛かるんだよ。メールもお互い放置してたから、会えると大体夜通しで酒飲んでたな、懐かしい」
「いや返さなかったの絶対父さんだろ」
「お、よくわかったな」
「わかるよ……。怜のおじさんは寂しくなかったのかな」
「何だ、俺の心配じゃないのか?」
「父さんは母さんがいたんだからいいじゃん。おじさんはひとりで関西だろ」
 すると、父親が苦々しく言った。
「……それが違うんだよ」
「違うって?」
「和人のヤツ、大学入るなり彼女作って、即、半同棲だ。――怜の母親とな」
 これも初耳だ。
「え? そうなの? 大学の同級生だったんだ」
「ああ。初めて彼女連れて帰ってきたときは、幸せそうな和人をホームに突き落としてやろうかと思ったよ」
「おい」
「いや、本気で。その頃は母さんと物理的に距離があったからな。マジで爆発しろって思ったよ」
 いちいちワードが不穏すぎる。マジで大人げないなこの人。
「ま、父さんも母さんと一緒に暮らしてからはそんなこと一度も思わなかったから、やっぱり距離は大事だな。大事な相手とはなるべく近い方がいいぞ」
 偉そうにまとめられたけど、物申したい。
「おじさんとは遠いじゃん。大事な幼馴染じゃねーのかよ」
「大事のベクトルが違うんだよ。あいつとはたまに会って話すぐらいでも十分なんだ」
 よくわからない、と思った。少なくとも奏は怜に対してそんな風には思えない。
「ていうか、母さんと父さんってそんなに離れてたの? 地元近いよね?」
「電車でお互い三十分ぐらい」
「ちけーよ!」
「一般的にはな。でも、遠かったんだよ」
 はっとして父親に目をやると、真剣な表情でフライパンをかき混ぜていた。奏の視線に気づくと、「サボるな」と野次を飛ばしてくる。
「父さんこそ焦がすなよ」
「焦がすわけないだろ」
 奏はもう一度シンクに向き直り、泡にまみれた食器を流していく。
 
 父親渾身のスパイスカレーは店にありそうな複雑な味わいだった。本人と母親は満足そうにしていたが、奏個人としてはやはり母親の作るいつものカレーのほうが好みだった。
 片付けを終えて部屋に戻り、明日の予習を済ませたところでスマホが震え出した。怜だ。

「もしもし? どした?」
『今平気?』
「平気。ちょうど予習終わったとこ」
 すると怜は「家にいるんだ」とちょっと不満げだ。
『LINE見てない? メッセージ送ったんだけど』
「あ、ごめん。見てねーわ。今見る」
『いいよ。カナ、父さんに会ったんだって?』
 なるほど、その話かと合点がいった。
「あー、うん。会った。そっか……。三者面談終わった? 今、学校?」
『終わって、今帰ってきた』
 帰って早々に電話をくれたらしい。そんなに急がなくてもいいのに。
「かけ直す? おれは大丈夫だから後でもいいけど」
『俺に聞きたいことがあるんじゃないの』
 今すぐ話せ、という圧を電波越しに感じ、奏はおそるおそる尋ねた。
「大学の話、おじさんからちょっとだけ聞いたんだけど、結局どこ行くの?」
『……東京と、あとは関西』
 やっぱりな、と思った。
「そっか。おじさんも関西だったんだよな。さっき、父さんに聞いた」
 父親の言葉を思い出し、勝手にしんみりした。怜が関西方面に進学したら、自分たちも一年に一度ぐらいの頻度でしか会わなくなるのかもしれない。
『まあ、まだ決めてないから。都内の大学も気になってるし』
「あ、そうなんだ」
『……でも、その場合も一人暮らしするかも』
 ほっとした矢先、またもや意外なことを言われる。
「え⁉ 家から通わねーの? あ、都内は都内でも外れにあるとか?」
『そういうわけじゃないけど、通学時間がもったいないんじゃないかって、父さんが。うちから通ってもいいし、好きにしていいって』
 怜の父親の言葉には、これも含まれていたのかもしれない。
「怜は、どっちにするんだよ」
『……さあ。まだ決めてない』

 イエスともノーとも言わない辺り、本気で迷っているらしい。怜はもう「カナがいないから」と言って断るような子どもではないのだ。自分の道を、居場所を、自分で見つけて歩き出そうとしている。幼馴染の奏を置いて。
 寂しいな。声に出さずに言った。都内だろうと関西だろうと、怜が傍にいないと寂しい。
 三十分ですら遠かったと言った父親の気持ちが今ならわかる気がする。大事な相手とはなるべく近くにいたほうがいい。確かにその通りだ。

 ――あれ?
 何かが引っかかった。けれどその正体がわからない。なんか気持ち悪いな。

『……話変わるんだけど、変な噂聞いてない? 俺とカナが、三澤と……ってやつ』
 しんみりした雰囲気が、急に現実的なものになった。
「ああ、三角関係のだろ。高橋に聞いたよ」
 怜が「最悪」と呻いた。
『あれ、ないから。誰がでっちあげてるのか知らないけど……。巻き込んでごめん』
「何で怜が謝るんだよ。別にいいよ。気にしてねーし。ってかみんな信じてないだろ」
 怜と三澤の間に割って入る奏の図――華がなさすぎる。漫画だったらもっと当て馬にふさわしいキャラを作れって総叩きに合いそうだ。
 怜が深い溜息をついた。
『……あのさあ、この間屋上でも言ったけど、火のないところに煙は立たないんだよ』
 それは怜と三澤さんの話だろ。至近距離で顔寄せ合って怪しいっての、と思ったけど、言ったら怜が不機嫌になりそうなので止めた。詳細を語られても嫌だし。
「おれは三澤さんと全然接点ないんだから、火も煙もねーよ」
 怜はもう一度息をついた。
『……もういいや。三澤も迷惑がってたし、聞かれたら否定するって。カナもそうして』
 今の発言。なんか三澤さんの彼氏っぽい。
「そういうところじゃねーの……」
『何が?』
「何でもない。勉強するから切るな。また明日」
『うん。じゃあ、おやすみ』
「おやすみ」

 半ば通話を無理やりに切り上げ、スマホを放ってシャーペンを持ち直すと、かちかちと芯を出した。
 ああいう迂闊な態度が勘違いされるんだよ。放課後だって、三澤さんのこと全然嫌がってなかったじゃん。ボディータッチされて、顔くっつけてさあ。火も煙も立つだろ。
 伸びきった芯がノートの上に落ちて、余計に苛々した。
 何なんだよ。おれのこと好きだって言ったくせに。キスしたくせに。もう好きじゃねーのかよ。あっさり手のひら返しやがって。

 三澤に呼び出されたときは高をくくっていた。何なら必死になる三澤を見て優越感を抱いていた。怜はおれのことが好きなのにと、内心バカにすらしていたかもしれない。
 でも、バカなのは自分だった。怜の気持ちにあぐらをかき、盛大な思い上がりをしていた。
 怜は奏に冗談だって言ったじゃないか。自分の気持ちをなかったことにして、ただの幼馴染でいることを選んだ。なのに怜の気持ちは絶対に変わらないんだって、どうしてそんな風に思ってたんだろう。
 沸騰して煮えたぎっている鍋もいつかは冷める。どれだけ好きなものでも、同じ熱量のままではいられない。それが普通だ。

 最悪、と呻いていたときだ、高橋からLINEが来た。「文化祭準備中」と隣のクラスで撮った写真を送りつけられ、今一番見たくない人の顔を見てしまう。三澤さん、やっぱめちゃくちゃ可愛いよな。怜だって、おれより絶対この子のほうが――。

「……ん? ……え?」
 自分自身に突っ込むように声が漏れた。
 ちょっと待て、今、おれ、何考えた? 何かおかしくない?
 何でおれ、三澤さんに嫉妬してんの?
 頭の中に突風が吹き荒れ、記憶が目まぐるしく駆け巡る。

 大事な相手とはなるべく近くにいたほうがいい。
 父親は言っていた。幼馴染とは離れていても平気、でも、母親とは三十分でも遠かったと。
 奏は違う。
 怜と離れる未来を思い描くたび憂鬱になった。自分たちの間に誰かが割り入るのが嫌だった。ずっとふたりで一緒にいたいと思っていた。
 おれたちは幼馴染だから。幼馴染って特別な存在だから。
 そう思っていた。
 でも、もし、もしも。それだけじゃなかったら。

 心臓が耳の横で大きく飛び跳ねていた。顔が、手のひらが、背中が、真夏の太陽に晒されているように熱っぽい。ただ、今は肌寒い秋の夜。発熱の外的理由は存在し得ない。
「マジかよ……」
 回転椅子の背もたれに体重を預け、奏は情けない声を上げる。
 正直なところ、今の状況を、自分の感情を完全に飲み込めたわけじゃない。でも、頭に浮かんだ可能性は呼吸するたび色濃く、確かな存在になっていく。
 怜が好き。
 気づけば奏の思考は、その一色で染まっていた。