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 約束の日曜日、朝十時前。奏は弾むような足取りで電車を降りた。
 知り合いに会わないところという奏のリクエストに沿って、待ち合わせは地元から下り電車で十五分程の駅を指定された。詳細は教えてもらっていないが、確か、駅から歩いて数分先に大型のショッピングモールがあったはず。カップルだらけの所に連れ込む、なんて言っていたけど、初心者におあつらえ向けのデートコースにしてくれたのかもしれない。

 改札に向かう途中、トイレに寄って服装を確認した。
 オーバーサイズのチャコールグレーのTシャツを黒いジーンズにタックインし、靴は白のボリュームスニーカー、腕時計は大人っぽく黒。怜といるときは制服か、Tシャツにジャージといった適当な服装ばかりだけど、今日は予行練習も兼ねてよそいきの格好をしてきた。

 家で鏡を見たときは結構いけてるんじゃね? と自負していたけど、改めて全体を見ると少し子どもっぽいかもしれない。

 吊り目気味の大きな目に、少し広い額、やや大きい口。幼い顔つきと身長のせいで、服装を間違えると中学生以下に見られるのが少しコンプレックスだ。今日は大丈夫だと思うけど、もう少し背伸びした格好でもよかったかもしれない。

 髪の毛を染めたらちょっとは垢抜けるのかな、と茶色がかった髪を弄った。大学生になったらバレイヤージュのようなオシャレな感じにするのがささやかな夢だった。
 今日は練習だから仕方がない。髪と服の裾をさっと整え、気を取り直し、待ち合わせ場所の時計台に向かった。エスカレーターでワンフロア上がり、改札を抜けた先にあるらしい。

 初めての駅で不安だったが、奏は改札の手前ですぐに見つけた。時計台ではなく、怜本人を。何せ、そこだけスポットライトが当たっているみたいだ。
 遠くからでもはっきりとわかる精巧な顔に、全身黒ずくめの服。スタイルがいいので野暮ったくなく、芸能人みたいなオーラが放たれている。年がら年中一緒にいると忘れがちだけど、とにかく見た目だけは完璧だ。
 それは全人類の共通認識のようで、奏が改札を出るまでの間、何人もの通行人が怜を展示物みたいにじろじろ見ていた。黄色い声を上げてはしゃぎ、盗撮している子もいる。芸能人じゃねーんだぞ。怜の傍にいると、目立つっていいことだけじゃないんだとしみじみ思う。

 やっと改札を出たところで、今度は若い女の人が怜の傍をうろついていた。声を掛けたそうな雰囲気を醸し出しているが、怜はスマホを見ていて気づいていない。
 とりあえず助けてやるか。奏は彼女より先に怜を呼ぶ。

「怜、おはよ。早いな」
 人の厚意も知らず、怜は不満げに眉をひそめた。
「カナ、遅いよ。遅刻」
「え? 待ち合わせの五分前だろ」
「いや一分以上過ぎてるよ。連絡ないからどうしたのかと思った」
「マジ? おれの時計だと五分前だけど」
「遅れてるんじゃない? スマホ見た?」
 怜のスマホは十時二分を指している。一方、腕時計は九時五十五分だ。
「げ、マジかよ。ごめん。気づかなかった」

 会話の最中、先程の女の人が視界をちらつく。これはと思ったら案の定、声を掛けられた。
「あの、すみません。私、この辺でストリートスナップ撮ってるんですけど、よろしければお写真撮らせてもらえませんか?」
 あ、逆ナンじゃないのか。ちらりと怜を窺うと。
「嫌です」
 即答。見事なまでの一刀両断だ。申し訳なさそうな素振りも一切なし。容赦ねーなと半ば感心していると、その女の人が未練がましく奏の方を向いた。もしかして怜を説得してくれって言われるのかな。おれには無理なんだけど。
「じゃあ、せめて可愛いお兄さんだけでも! 駄目ですか?」
「え? おれ? ……おれでいいんですか?」
 まさかの展開だ。信じられずに自分に指を向けると、女の人は「もちろんです!」と輝く笑顔を見せた。
「ほんとはふたりで並んで欲しかったんですけど、ぜひ! お願いします!」
 しかし。
「ダメです」
 いや、おまえが言うんかい。勝手に決めるなと斜め上を見ると、怜は更にマイナス十度ぐらいの真顔で女の人を睨んでいた。うわ怖え。奏ですらそう思ったのだから、相手はそれ以上だったんだろう。絶対零度で氷漬けになったみたいに固まってしまった。
「……あー、えっと、すみません」
 怜のフォローをすべく女の人に謝ると、彼女は正気を取り戻すなり、へこへこ頭を下げて逃げてしまった。

「おまえさあ、断るにしても、もう少し穏便にできねーの?」
 さすがにかわいそうだと苦言を呈すが、怜は悪びれた様子は一切なかった。
「ああいうのは、はっきり断ったほうがいいんだよ。ていうか、カナは危機感なさすぎ。女の子に可愛いって言われて嬉しかったんだ?」
「え? 可愛いなんて言ってたっけ?」
「聞いてなかったの?」
 怜の表情が意地悪な笑みから呆れ顔に変わる。
「話振られたことにびっくりして……。そっか、可愛いか……」
 男としては複雑、でも怜と比べられたんじゃしょうがないか。褒められたんだしいいのか?
「よくない」
「人の心を読むな」
「カナは何でも顔に出るから……」
「うぐ……。とにかく、言い方ってものがあるだろ。少なくともその辺で盗撮してる人たちよりかはマシじゃん。ちゃんと用途を話してくれたんだし」
「どっちでも変わんないよ。どうせSNSとかに勝手に上げられるんだから」
「それはそうだけど……」
「もうこの話は終わり。今日の目的は何?」
 そういえばそうだった。はっとした奏の背中を軽く押し、「行こう」と怜が歩き出す。
「どこ行くの? やっぱ買い物?」
「先に映画観ない? 今ならお昼ぐらいに終わるから、そのあと買い物で。どう?」
「オッケー。ここも映画観れるんだな。初めて知った」
「俺も初めて来たんだけど、4Kなんだって。臨場感がすごいらしい」
「マジ? すげー楽しみ」
「穴場って聞いたからこっちにしたんだけど、誰かに会ったらごめん」
「そこまで気にしなくていいって。でも、サンキュー。考えてくれて」
「まあ、カナの一生のお願いだしね。十回目の」

 開店直後のショッピングモールを歩き、エスカレーターを乗り継いで映画館に向かう。道中で気になる店がいくつかあって、きょろきょろ見回していると「後で行くんだから」と笑われてしまった。
「ていうかおれ、今すげーガキっぽくなかった?」
「やっと気づいたんだ」
「いや知ってたなら言えよ」
 じゃないとまた次もやってしまう。なのに怜は「楽しそうでいいね」とどこ吹く風で、映画館に向かうエスカレーターに乗った。奏もあとに続き、黒い背中を見上げる。
「気になることがあったら教えろよ。今日は遊びに来たわけじゃないんだからな。ちゃんと練習しとかねーと」
 怜が振り返った。
「そういうとこが既に子どもっぽい」
「えっ⁉」
「って感じで、言われたことをいちいち真に受けて自分を変えてたら、カナらしくなくなっちゃうんじゃないの」
「それは……」
「ていうか、カナのことだから、どうせ取り繕ったって遅かれ早かれボロが出ると思うよ。顔にも態度にも出やすいって自覚あるんだろ?」
「ボロクソ言うじゃん……」
「教えろって言われたから」
 返す言葉もない。押し黙っていると、軽く笑われた。
「カナは自然なのが一番いいよ」
 言ってくれるのは嬉しいけど、聞こえのいい言葉で丸め込まれた気がして腑に落ちない。
「そしたら練習にならねーじゃん」

 エスカレーターを降り、隣に並んで文句を言っていると、怜が顔を近づけてきた。
「な、なんだよ」
 頬ずりでもしそうな距離に怯むと、怜が耳打ちした。
「練習」
「は? 練習?」
「考えるより実践が一番だろうと思って」
 瞳を覗かれる。黒い光彩が目の前で輝いていて、不覚にもどきっとしてしまった。って、いや、近けーよ。とりあえず怜を押し退けると、ドッキリ成功、みたいな顔で笑っている。
「バカ、やめろって! 人で遊ぶな!」
「練習するって意気込んでたくせに」
 白々しく笑う横顔を睨みつけた。口達者なやつ。
 
 映画館に着き、さっそく電光掲示板で上映作品をチェックする。
「見たいって言ってた漫画の実写化が30分から、あとは今一番人気なのは洋画のリメイク。話題になってたやつ。これも同じぐらいの時間かな」
 下調べをしてくれていたらしい、よどみなく説明されて感心してしまった。これはポイント高いな。おれも誰かと行くときはちゃんと準備しておこうっと。
「どうする? 何が見たい?」
「んー、どっちも捨てがたいけど……。怜はどっちがいい?」
「俺もどっちでも」
「じゃあ……今回は実写にする」

 怜が券売機のタッチパネルで操作を始める。席は暗黙の了解で最後列の真ん中周辺。ふたりで映画館に来るときはいつもそうだった。
「一緒に映画館って久しぶりだよな。一年ぶりぐらい? つーか高校になってから初?」
「そうだっけ」
「そうだよ。確か中学のときが最後。おまえ、誘ってもサブスクでいいって言うから」
 そんな話をしていると、隣の券売機に老夫婦がやってきた。何となく気になって目で追っていると、タッチパネルの操作に困っているようだった。近くにスタッフも見当たらない。
「ちょっと隣行ってくる」
 怜の肩を叩いて、老夫婦に声を掛ける。
「あの、よかったら手伝いましょうか?」
「あら、いいの? 使い方がわからなくて……」
「助かるよ。どこを押せばいいのかな」
 操作の仕方を教え、老夫婦の発券を見守りながら昔話を聞いた。初デートで観た映画がリメイクされたので、十年ぶりにわざわざ映画館まで足を運んだそうだ。
 お礼を固辞してふたりを見送り、少し離れた壁際で立つ怜の元へ行く。

「ごめん、お待たせ」
「無事に終わった? はい、チケット」
「うん。大丈夫だった。あ、お金……」
「いいよ。俺に出させて」
「ええ……? じゃあポップコーンはおれが買うから」
「俺はいらないからカナの分けて」
「それじゃあ意味ねーだろ。ドリンクは?」
「いらない」
「じゃあパンフは? グッズとか……」
「気にしなくていいって。ほら、買うなら売店並ぶよ。早くしないと混むよ」
 結局スマートに奢られてしまった。こういうところを見習うべきなんだろうと心のメモに追記しておく。奢るときはさりげなく強引に、だ。

 ポップコーンとジュースを買って入場口に進むと、先程の老夫婦とまた再会した。律儀に会釈してくれたので、こちらも軽く頭を下げて笑うと、笑顔を返してくれた。
「あのじーちゃんたちさ、リメイク前の映画を初デートで観たんだって。すげーよな。何十年経っても一緒にいて、映画観に来るほど仲良いって」
 スクリーンはひとつ上の階だ。チケットの半券を受け取り、エスカレーターに乗ると、後ろで怜がつぶやいた。
「……カナはほんと、そういう話が好きだよね」
 くるりと振り返る。
「今バカにした?」
「してないよ。純粋だなあって思っただけ」
「したよな? 夢見てるって思ったよな?」
「ほら、前見て。もう着くよ」
「悪かったな。夢見がちで」
 むくれていると、「悪いなんて言ってないよ」とフォローされた。
「おじさんとおばさんが似たようなもんだし、カナの憧れなんだろ。いいんじゃないの」
 でも、どこか突き放すような言い方だ。
「怜にはロマンチックが足りねーな」
「それはそうかもね。カナのを分けて欲しいぐらい」

 薄暗いスクリーンに入り、階段を上って最後列に進む。もう始まるというのに人はまばらだった。
「結構少ないね。原作は人気なのに」
「キービジュが微妙で軽く炎上したんだよ。予告はよかったのにもったいないよな」
 人気漫画の実写化なのに封切り前に土が付き、同時期にビッグタイトルのリメイクが上映されて、世間の期待値はそちらに流れてしまったみたいだ。
「まあ、観に行った人は面白かったって言ってたから大丈夫だと思うけど、やっぱ、自分の目で観ない分にはわかんないよな」
 怜がふっと笑った。
「何だよ」
「いや、カナって、そういうところは昔から変わんないなって」
「そういうって?」
「噂とか評判よりも自分の見たものを信じる。意外と流されないよね」
「あー、そうかも? って、意外って何だよ」
 ぼやいてから、急に申し訳なくなってきた。
「なんか、ごめん」
「何?」
「いや、おれの趣味に付き合わせたなって思って」
「カナが観たい方でいいって言ったじゃん」
 さらっと言う横顔は柔らかくて温かい。おれじゃなかったら照れて爆発してるね。
「……今度は怜の観たいものにしようぜ。ていうか、願い事決まった?」
「願い事? ああ、一生のお願いってやつ?」
「ん。何がいい?」
「そもそもなんだけど、一生のお願いって、普通は一回だけじゃないの」
「それだとフェアじゃねーだろ」
「まずは十回も言ってることを反省してほしいな」
「怜が十回言えばいいんだよ」

 ポップコーンを真ん中に置いて、食べながらスクリーンの注意喚起を見る。録画禁止、録音禁止、騒がない――。
「……さっきの話だけど」
 怜の声に呼ばれて横を向く。
「決まった?」
「じゃなくて……。もし仮に、仮にだけど。こないだの手紙の相手に告白されたら、カナはずっと一緒にいたいって思う?」
 想像と全く違う質問に、奏は眉を寄せる。
「え? うーん、まあ、わかんないけど……。そうなったら嬉しいよ。好きな相手とずっと一緒にいられるって幸せなんだろうなって思う」
 愛情と幸福の度合いが、共に過ごした時間と比例するのかというと、絶対ではないと思う。
 ただ奏は、両親が思い出話に花を咲かせている姿はいいなあと素直に思うし、さっきの老夫婦もすごく羨ましかった。ああいうのを見ると、やはり自分も大事な相手と人生の時計の針をなるべく多く刻んでいきたいと思ってしまう。
 奏の話を聞いた怜は「そうだよね」と短く相槌を打った。そのドライな反応に、自分の甘っちょろい夢が急に気恥ずかしくなってくる。
「……今の、怜にしか話してないからな。絶っ対言うなよ」
「言わないよ。カナはロマンチストだね」
「うるせえ。あー言わなきゃよかった」
 バカにされたような気がして、奏は怜から顔を背け、スクリーンを見ながら勢いよくポップコーンを食した。
 しばらく続けていると、不意に怜の視線を感じる。
「何だよ」
 横目で睨むと軽く笑って、内緒話の距離で打ち明けた。
「ポップコーンついてる」
「へ? どこに?」
「口のとこ」
「口?」
 左側を指で拭い、指の腹を確認すると「そっちじゃない」と怜の手が伸びてきた。
「わ……」
 反対側の口端を、怜の親指が擦るように撫でる。小さく声を漏らすと、怜はにやっと笑って、奏の口に触れた親指の先を見た。そして、なぜかちろっと舐めた。
「は」
「しょっぱい」
 それはそうだろう、そうなんだけど、何で舐めた⁉
 おかしいだろと思うのに、底光りする黒い瞳に圧倒されて、何も言えなくなってしまう。
「カナ?」
 つーか顔、近い。熱い。燃える。
「ち、かいんだけど……」
 どうにか文句を口にすると、「ああ、ごめん」とあっさりと離れていき、奏は溜めていた息をついた。短距離を走った後のように、心臓がせわしなく鳴っている。
 びっくりした。マジでびっくりした。
 美形の破壊力、やばい。油断していた自分がバカだった。
「い、今の、何」
「何って……」
 と言ってから、怜は首を傾げて意地悪く笑った。
「練習?」
「なっ……」
 思わず絶句した。練習って。こんなのイケメンにしか許されねーだろ。ていうか、怜のくせに、どこで覚えてきたんだ。誰かに教わったのか? それとも自分で習得した?
 そういえば、聞いたことがなかったな。怜の恋バナ。モテるのは知っているし、実際デート慣れしているようだけど、どんな子と付き合ってきたんだろう。
「なあ……」
 奏が口を開いた瞬間、スクリーンから生まれた音が骨まで響いた。予告編が始まったのだ。

 視線を前に移し、ポップコーンを食べながら映像を眺める。アニメ映画、邦画、ハリウッド映画――目まぐるしく流れていく中で、海外の有名俳優と女優がベッドに雪崩れ込むシーンに差し掛かり、少しどきっとした。こういう艶っぽいシーンを見ると、未だにいけないものを覗いている気持ちになってしまう。
 いや、でも、さっきの怜もすごかった、と今しがたの動揺がまたぶり返してくる。
 そっと顔を近づけてきたり、流れるような手つきで口に触ってきたり。スクリーンの中にいる俳優が演じているように自然だった。初めてだとは思えない。やっぱり映画館で、彼女とああいう風にいちゃいちゃした経験があるのかな。何か嫌だな。

 隣の横顔を盗み見ると、白い頬はスクリーンの光に照らされて鮮やかに色づいていた。花火のように色が変わっていくさまが綺麗で、わだかまりも忘れ、つい見入ってしまう。
 ややあって、怜に横目で睨まれた。
「気が散るんだけど……」
 なら好都合だ。さっきの仕返しだと凝視していると、「ほんとにやめて」と小声で叱られた。怜から仕掛けてきたくせに。
 腹いせに怜の無駄に長い足を軽く蹴ると、間に置いたポップコーンがかさかさ揺れた。

 
「めっちゃ面白かった……! 原作のシーンの再現度やばかったな! マジ本物だったんだけど……」
 エンドロールが流れきって客席が明るくなるのと同時に、早口で思いの丈をぶつけた。怜も満足そうで、興奮が顔に滲んでいる。
「クオリティ高かったね。キービジュよりも全然自然で、喋りもそれっぽかったし」
「わかる。声、めっちゃアニメに寄せてた。役者ってすげーんだなあ」
 しみじみ言うと、怜がくしゃっと笑う。
「カナ、途中ずっと口開いてたよ」
「え? 途中って……」
「ぽかーんって感じですっごい口開けて映画見てて……ふふっ」
「なっ……見てたのかよ」
「ポップコーンもらおうと思って横見たらさ、すごい顔で……あははっ」
 よほどツボだったのか、声を上げて笑い出した。失礼な。まあ、映画に免じて許してやる。

 外に出るとちょうど昼時で、人が増えてきていた。
「何か食べたいものは?」
「とりあえず飲み物欲しい。あと固形の食べ物」
「固形? カロリーメイトみたいなの?」
「ポップコーンって空気だろ。だからちゃんとしたメシが食いたい」
「よくわかんないけど……。レストランは混んでるかな。外出る?」
「あ、フードコートあるって。ラーメン食べたい」
 階下のフードコードに移動すると、運良く窓際の二人掛けが空き、無事昼食にありつけた。怜はホットケーキとコーヒー、奏はラーメン、ではなくパスタにした。直前で今日の目的(デートの練)を思い出したのだ。
「ラーメンにしなかったんだ」
「こういうときはパスタがベターかなって」
「今日ぐらい好きなもの食べればいいのに」
「練習でできないことは本番でもできないって言うだろ」
「スポーツ選手じゃないんだから」
 呆れた口調で突っ込まれたけど、奏もそんな怜に物申したい。
「昼にホットケーキ食べてる怜に言われたくねーし。それで足りるの?」
「ポップコーンがしょっぱかったから、口直しに」
「ほんと甘いもん好きだよな……。今までもこんなことしてたのか?」
「今までって?」
「付き合ってる彼女の前で、昼にホットケーキ食べてたのかって」
 パスタをスプーンの上で巻きながら軽い気持ちで尋ねる。怜のことだから、どうせ「食べたいもの食べなよ」とか「気にしないで」とか言うんだろうけど、さすがにホットケーキの前でがっつり食事は無理なんじゃないかと思った。
「さっき思ったんだけど、怜の彼女の話って聞いたことなかったよな。前にいたんだっけ? あれ、今も?」
「……何で?」
「ん?」
「何でそんなこと気にするの」
 皿から顔を上げると、怜はすっかり手を止め、眉間に皺を寄せていた。
「何でって、単純に気になっただけだけど」
「……ふうん」
「何だよ。聞いちゃまずかった?」
「……別に」
 全然「別に」って顔してないけど。もしかして地雷ワードだった? 最近振られたばっかりで聞かれたくなかったとか。
「覚えてない」
「え?」
「だから、覚えてない。何食べたかとか、どうしてたかとか、全然」
「それって、付き合ってた人はいたってこと? なのに覚えてねーの?」
「それは……」
 怜は少し口ごもって、「何でそんなこと聞くんだよ」と繰り返す。
「だから、気になっただけだって。別に聞かれてもいいって自分で言ったじゃん」
「……カナには関係ないだろ」
「は? 何それ」
 聞かれたくないなら初めからそう言えばいいのに、不機嫌に手のひらをひっくり返して怒るのはずるいと思った。が、それよりも引っかかったのは最後の一言だ。「関係ない」はさすがにひどいだろ。幼馴染の親友相手に。
 そりゃあ怜と違ってろくに経験もないから、相談したって戦力外、役立たずのポンコツなのはわかる。でも、関係ないとまで言われるのは寂しい。彼女ができたら、せめて報告ぐらいしてほしい。こっちは怜にラブレターの件を相談してるのに、フェアじゃないだろ。
「……カナ」
「何」
 むすっと答えると、怜が重い口を開いた。また何か言われるのかな、と身構えると。
「買い物の後、うちに来ない?」
「え?」
 驚いて、巻きかけのパスタを崩してしまった。
「え? え? マジで? いーの?」
「……そんな驚く?」
「だって、すげー久しぶりだから……」
 記憶が正しければ、映画と同じで中学生ぶりだ。
「期待してもらうようなものはないし、つまんないかもしれないけど……」
「いや行く行く。すげー行きたい!」
 こんなので機嫌が直る単純さが一瞬嫌になったが、それよりも嬉しさが勝る。昔から奏のうちでばかり遊んでいるから、怜の家に呼ばれるとすごく特別感がある。中学の頃、はしゃぎすぎて帰る途中でべしゃっと転び、膝を血まみれにしたこともあった。
「……はしゃぎすぎて、途中で転ばないでよ」
 同じことを思い出したらしい、釘を刺されてしまった。
「さすがにしねーよ。怜の家ほんとに久しぶりだな。前となんか変わった?」
「変わってないと思う」
「ベッドの下覗いていい?」
「絶対だめ」
 ってことは、何かあるってことかな。こっそり家捜ししてやろう。
「じゃ、早く買い物行こうぜ」
 立ち上がりかけると「待って」と制された。
「俺、まだ食べてるんだけど……」
「はーやーくー‼」

 
 駅前の高層マンションの最上階が怜の家だ。オートロックの扉をくぐり、重厚なエントランスでエレベーターを待ち、耳の突っ張りを感じながら一番上まで上昇し、内廊下を歩いてやっと部屋に辿り着く。
 怜は「普通だよ」と言うけど、生まれたときから戸建てに住んでいる奏にとっては、毎回、アトラクションの待機列のように焦れったかった。

「どうぞ」
「おじゃましまーす。わ、すげー……。相変わらず綺麗だな……」
 怜の家はいつ来てもホテルのように綺麗だ。白メインのモノトーンでまとめられたモダンで明るいリビングに、広々としたアイランドキッチン。ガラスのダイニングテーブルを挟んで、白と黒のチェアが一脚ずつ置かれている。壁にはオシャレな絵が飾ってあって、どこを見回しても格好よかった。SNSに載せたら間違いなくバズりそう。

 でも、生活感がまるでなくて、奏はいつだって気後れしてしまう。リモコンやティッシュを始め、出しっぱなしのものはなく、ソファーに置いてあるクッションですら場所が決まっている気がして、気軽に座るのが申し訳ない雰囲気だ。

 だから、怜のお母さんの写真と、傍に寄り添う一輪挿しを見つけてほっとした。昔から、お母さんの写真は家族を見守るように、リビングの棚の上に置かれている。
 奏はその向かいに立つと、写真に向かってそっと手を合わせた。会ったことのない(覚えていない)人だから、何を話せばいいのかわからず、いつも黙って合掌することしかできない。一輪差しに咲く可愛らしい黄色のコスモスを見て、今度来るときは花を用意しようと思った。

「カナ、何か飲む? って言っても、お茶しかないけど」
 怜のいるキッチンに近づいて、奏は眉をひそめた。
「なあ、ちゃんとメシ食ってんの?」
「何で?」
「だって、何にもないから」
 奏の家のキッチンは、どこかしらに人の気配があった。調味料のケースやフライパンや鍋が取り出しやすいように配置されていて、シンクの隣の食器カゴには洗い終わったグラスや茶碗が置いてある。
 しかし、このキッチンには体温が感じられない。調味料も鍋もフライパンも食材も、洗い終わった食器すらも見当たらなかった。
「食べてるよ。大丈夫、片付けてあるだけだから」
 奏の不安を悟ったのか、怜が笑う。
「ホームキーパーさんがすごいきっちりした人で、いつも綺麗に片付けてくれるんだよ。俺も出しっぱなしは嫌だから、使ったらしまうようにしてる」
「そっか。うち来ると物がありすぎてびっくりするだろ」
「そう? 片付いてると思うよ。カナの部屋は別だけど」
「その部屋に居座ってるくせに」
「で、お茶は? 飲む?」
「飲む。なあ、部屋覗いていい?」
「いいよ」
 即答できるってことは片付いてるんだろう。面白くない。えろい本とか隠してあればいいのに、なんて不埒なことを考えながら、怜の部屋のドアを開けた。

 怜の部屋はリビングに比べて薄暗かった。開放的なリビングと違って、カーテンが隙間なく引かれているからだろう。明るいと眠れない、と昔言っていた気がする。
 壁側のスイッチで照明をつける。眩しさに目を細めながら、一言。
「……全然変わってねーな」
 そう口にしてしまうぐらい、隅から隅まで記憶にある光景と一致していた。ベッドに机、収納にクローゼット。家具も配置も全く変わっていない。まるで時間が止まっているみたいだ。

「カナ?」
 肩を叩かれて振り返ると、怜が訝しげな顔をしていた。
「どうかした? 面白いものはないと思うんだけど」
「どうもこうも、変わってなさすぎてびっくりした。おまえ、ミニマリストってやつなの?」
「違うよ。ベッドも机もあるだろ」
「え? ミニマリストってそういうのだっけ」
「基本的に物は持たないんじゃなかったっけ。その辺、適当に座って。クッションあるから」
 言われるがまま腰掛けて、視線の先の本棚を眺める。ラインナップは教科書や参考書、小学生の頃からの図鑑や辞書と真面目なものばかり。やらしい本どころか漫画もなかった。
「受験生みたいな本棚だな」
「期待に添えなくてごめん」
「ベッドの下に隠してあるとか?」
「隠してないけど見るなよ。ゴミ落ちてたらやだし」
「ケチ」
 グレーのクッションを抱き、唇を尖らせると、麦茶のグラスがローテーブルに置かれた。向かいに怜が座る。
「ミニマリストってわけじゃないけど、あんまり物増やしたくないんだよね。本は図書館で借りるか電子で買うか……。漫画はカナにお世話になってるし」
「うちはネカフェじゃないんだけど」
「わかってるよ。いつもありがとう」
「一時間五百円な」
「地味に高……。カナの部屋は物が増えたよね。漫画に、PCに、ぬいぐるみとかフィギュアとか。あれ、おじさんがゲーセンで取ってきてるんだっけ?」
「父さんがたまにどかっと取ってくるんだよ。ストレス発散なんだって。怜のおじさんと昔からよく行ってたらしいよ」
 中高生の頃、怜の父親と一緒に辺りのゲームセンターのクレーンゲームを無双していたらしい。この前、流行の漫画のフィギュアを取ってきて自慢げに話していた。
「そうだ、おじさんって今どこいるの?」
「東北の山奥のホテル。電波が不安定だから連絡取ってないけど」
 怜の父親の仕事のひとつが、国内外のホテルや旅館を買い付けて、現地に出向いて立て直しをする、というものらしい。一度、奏の両親と怜と一緒に、再建した沖縄のホテルに泊まらせてもらったが、すごく豪華で楽しかったのを覚えている。
「この前は九州って言ってなかったっけ。すげー忙しいな。帰ってきてんの?」
「たまに。大体三日とか、長いと一週間ぐらいいるけど、もう、こっちに帰ってくるほうが逆に出張って感じだな」

 呆れたように言うものの、怜が父親を大事に、誇りに思っているのは知っている。年も年だし、小学生の頃のように両親が好きだとあけっぴろげに言うのが何となく気恥ずかしくて、つい突き放した言い方になってしまうのだ。奏も同じ気持ちなので、そっとしておいた。
「おじさんもいないならさ、前みたいにもっとうちに来ればいいじゃん」
 困ったように眉を下げた。
「カナはともかく、さすがに迷惑だろ。それがわかんない年じゃないよ」
「うちの親がそんなの気にするわけないだろ。何なら、昔みたいに一緒に住むって言っても絶対に反対しないと思う」
「……だからダメなんだよ」
 怜は短く息をつき、立ち上がった。
「え? 今なんて言った?」
「何でもない。カナ、動画見る?」
「話逸らしたな」
「ちょっと前にプロジェクター導入して、壁に映せるようにしたんだ。映画館には負けるけど、結構大画面で見れるよ」
「え、マジ?」
「うん。こっち来て」
 ベッドのヘッドボードに背中を預けて座る。怜も隣にやってきて、スマホで照明を落とすと、プロジェクターを操作した。
「何でもスマホでできるんだな」
「まあね。何見る?」

 動画サイトのおすすめ欄を見ていたら、先程の実写映画のアニメ版が出てきた。覚えているうちに比較しよう、という流れになったので、アニメの一話を再生した。冒頭のシーンが流れると、怜の部屋に足を踏みいれたときのように思い出が瞬間解凍される。
「なつかしーな。これ、一緒に観たよな?」
「観た……かも。カナの家でだっけ?」
「そうそう。学校から帰ってリビングのテレビで観てたんだよ」
 確か、中一か中二の頃。あの頃、怜は二日に一回ぐらいのペースで新瀬家に来ていた。一緒に夕飯を食べたし、泊まりも多かった。懐かしいな、と隣の横顔をちらりと見る。
 あの頃よりも大人びたとはいえ、怜の本質は寂しがり屋だ。小学生の頃、たびたび両親を想って、影で落ち込んでいたのを奏は間近で見ている。だから今更強がりも遠慮もいらない。

「……また来いよ。ほんとに。遠慮なんてしなくていいから。父さんも母さんも、おれも、怜のことは家族みたいに思ってるし」

 言ってみたはいいが、急に気恥ずかしくなってしまって、誤魔化すように映像に目をやった。ちょうど映画館で見たシーンだ。
「そうだ、この次のところ、確か原作と――」
 ちょっと違ってなかったっけ、と言いかけて、奏はふと気づく。怜が映像ではなく、じっと自分を見ていることに。
「どした?」
 返事の代わりに怜が顔を近づけてきた。

「……練習する?」

 ポップコーンのときと同じぐらいの距離で、ささやくように言われた。
 練習? 練習って言った? この距離で? 何の?
 まさか。

 意図を察した瞬間、視線が絡み、黒い瞳に覗き込まれる。吸い込まれそうな黒に、思考も意識も全部止まる。奏はただ、怜の前で無防備になった。

「れ……」

 そのとき、床に放っていたスマホがうるさいほど鳴り響き、奏は弾かれたように正気に戻った。怜の肩を全力で押し返し、自身も身じろいで距離を取る。

 何だ、何だったんだ今の。いや、嘘。さすがに察してる。おれの気のせいじゃなかったら、今のは――。

「スマホ、いいの?」
 はっと顔を上げると、怜と目が合い、条件反射で逸らしてしまった。意識しすぎだ。童貞かよ。そうだよ。キスもしたことないっつーの。それなのに、今のは。
 唇を噛んで悶々としていると、怜がふうっと息をついた。
「……ごめん、冗談」
「は?」
 再び怜を見ると、意地悪く笑っていた。

「練習っていうのは嘘。カナの反応が見たかっただけ。ごめんね」
「な……」
 からかわれたんだと気づいて、全身が燃えるように熱くなる。
「バッ……おまっ、バカ! バーカ! 何やってんだよ!」
 大声で怒鳴ると、怜は眉をひそめて両耳を押さえる。
「だからごめんって……」
「ごめんで済むか! マジでびっくりしたっつーの! つかネタばらしが遅せーよ!」
 腹いせに肩を一発叩き、怜の黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。嫌そうに「うわ」とつぶやいていたが知ったこっちゃない。調子に乗ったバツだ。おれの純情を弄びやがって。
「カナ、スマホ……」
「わかってる!」
 怜をわざとまたいでベッドを降り、いらいらと床に置いていたスマホを確認したのだが。
「カナ?」
「……母さんが、怜と一緒にいるなら、うちでご飯食べないかって」
 タイミングを見計らったような平和なお誘いだった。真っ赤に染まっていた怒りに冷水を浴びせられて、栓の抜けたような溜息が出る。「今日は唐揚げです!」と補足がくると(記号は絵文字だった)、いよいよ気が削がれてしまった。

「……で、どうすんだよ」
 ぶっきらぼうに尋ねると、怜は困ったような苦笑を浮かべる。
「行ってもいいの」
 ずるいと思った。そんな風に言われたら断れない。
「……連れて帰んなかったらおれが怒られるから」
 素直に「いいよ」と言いたくなくて、母親を口実に使ってしまった。母さんごめん。でも、これぐらいは許してほしい。あんな悪質なからかい、おれじゃなきゃ絶交だぞ、絶交。
 でも、今ので確信した。やっぱり怜は彼女がいたんだ。キスしたんだ。
 なんか、むかつくかも。

 
「カナ」
 部屋を出る直前、怜に呼ばれた。
「何だよ」
 視線を投げると、もう一度「ごめん」と謝られた。行きすぎたいたずらにしょんぼりと落ち込む子どもみたいな顔だった。
 意地を張っているのも馬鹿馬鹿しくなって、奏は息をつき、もう一発背中を叩いた。結構な力を込めて。景気のいい音が響いたので、リビングのお母さんに聞かれたかもしれない。ごめんなさい、でも悪いのは百パーセント怜なので許してください。
「いっ……て」
「一生のお願いの一回分。おれも今日、付き合わせたし、これでおあいこってことで」
 譲歩してやったのに怜の表情はまだ硬い。そんなに落ち込むなら最初からするなよ。面倒くさいやつ。
「あ、そうだ、アイス奢って。コンビニで一番高いやつ。それでチャラにする」
 冗談めかして言うと、少しだけ和らいだ。
「おあいこって言ったのに」
「誠意を見せろ、ってやつだよ」
 壁の電気を消し、ドアを薄く開けると「カナ」と呼ばれた。何かを訴えるような切なく黒い目は、すぐに伏せられてしまった。
 落ち込んでいる怜を見ると奏も堪える。どんなに怒っていても慰めなければ、という使命にかられてしまうので、昔から怜との喧嘩は長続きしなかった。手の掛かるやつだと思うけど、そういうところも含めて怜だから、しょうがない。
「ほら行こう。母さんが唐揚げにするって。その前にコンビニな」
 奏は怜の腕を引っ張った。
 
 ***

「アイス、マジで一番高いの買っちゃった」
 コンビニのアイスを片手にカナはご満悦だ。俺にされた仕打ちも忘れて「サンキューな」とにこにこ笑っている。素直で単純なのはカナの長所だけど、この危機感のなさはどうかと俺は常々思っていた。そんな風に隙だらけだから、俺みたいなのにつけ込まれるんだ。練習だなんて見え透いた嘘をつかれて。
 あれは練習なんかじゃない。俺の、ただの薄汚い欲望だ。
 俺はもうずっと前から、カナに救われて、焦がれている。


 俺の一番古い記憶はカナと別れたときのものだった。輪郭ははっきりしないけど、すごく悲しい出来事があって号泣していたのをうっすら覚えている。その記憶は正しくて、俺は新居への移動中も、引っ越しのあともずっと泣いていたらしい。いつかまた会えるといいねと母さんが何度も話して聞かせてくれた。俺は、無邪気に頷いていたと思う。まさか、「いつか」が母さんの死と共に訪れるとは思わなかったから。
 次にカナと再会したときのことは一切記憶にない。母さんが死んでから数か月間の記憶がすっぽりと抜けていて、その間どうやって過ごしていたのか、どうやってカナの家に来たのか、何も覚えていない。

 カナとの二番目に古い記憶は、とある朝の出来事だ。
 あの頃、俺はカナの部屋で寝起きしていた。カナはベッドで、俺は布団。寝相の悪いカナは俺のところに布団や枕をよく落とし、俺は毎回直してやっていたらしい。
 その日も頭上から何かが落ちてきて、俺ははっと目を覚ました。枕だ、と思って身体を起こすと、カナはベッドで大の字になって眠っている。腕の半分がベッドからはみ出て宙ぶらりんになっていて、よくこんな体勢で寝られるなとしみじみ思う。
 枕を戻してやろうとしたところで、カナの頭の傍で目覚ましの音が鳴り響いた。カナは半分寝たまま不機嫌にそれを止めると、そのまま二度寝しようとする。俺はそんなカナを無理やり起こして、着替えさせて階下に連れていった。
 まだ眠たげなカナを先導し、階段を降り、リビングのドアを開ける。すると、ダイニングにいたカナの両親が揃って「おはよう」と、俺たちふたりを見て笑う。

 キッチンから朝ご飯の優しくて温かい匂いが漂ってきて、リビングには朝日が差している。あんまりにも眩しくて美しい光景に、俺の足は急にすくんでしまった。気後れしたのだ。ここは俺の家じゃない。俺の居ていい場所じゃない。どうして俺はこんなところにいるんだろう。辛いことなんて何もなかったみたいに暮らしているんだろう。

 ためらう俺の背中を押したのはカナの手だった。「何してるんだよ、怜」と屈託なく笑い、最終的には、棒立ちの俺の手を引いてリビングに連れていってくれた。
 俺の迷いに気づいていたのかどうかはわからない。ただお腹が空いていて、早く朝ご飯にありつきたかっただけかもしれない。何だってよかった。カナのおかげで、俺はそこにいていいんだと思えた。新しい一歩を踏み出せた。

 
 一番辛いときに傍にいてくれたカナと、俺を受け入れてくれたおじさんとおばさんには感謝してもしきれない。いつか、あのときの恩をきちんと返したい。そう思っていたはずなのに、いつからか俺の胸には相反する感情が巣くっている。
 捨ててしまえばいいんだと頭ではわかっている。何度もそうしよう、そうするべきだと思った。他の誰かを選べないかとあがいたこともある。
 でも、何もかも上手くいかなかった。誰と何をしても、最後にはカナのことを考えてしまう。カナの元から離れてようとしても、もっと近づきたいと思ってしまう。

 今日なんて、浅はかな欲望を何度もぶつけてとうとうカナを怒らせてしまった。バカだと散々罵られたけど、本当にその通りだ。今日の所は誤魔化せたけど、いつかはボロが出て、これまでの幸せな記憶も信頼も全部失うかもしれない。どんなに大事なものでも失うのは一瞬だ。取り返しが付かなくなる前に、こんな気持ちは捨てた方がいい。わかってる。
 でも俺は、アイスを食べるカナを見ながら内心思っていた。
 あのとき、キスしておけばよかった、と。
 3
 
 ラブレター事変から二週間、未だに差出人からのアプローチはなかった。実は地味に好意を向けられていて、おれがそれに気づいてないだけなのかも、なんて妄想に耽ったりもしたけれど、実のところ半分ぐらいは諦めていた。怜の言う通り、差出人は返事をもらう気も告白する気もなく、ただ気持ちを伝えたかっただけだったのかもしれない。
「それならそれで構わないけどさ、せめてお礼ぐらいは言わせてくれてもいいのに」
「そういうのが嫌だから無記名なんじゃないの」
「わかってるけどさ~、おれの行き場のない気持ちはどこにやったらいいんだよ」
「それを俺にぶつけられても」

 文句を垂れている間に到着し、奏は僅かに期待を込めて靴箱の前に立つ。ラブレターをもらって以来、この小さな扉を開ける瞬間は決まって胸が高鳴った。
 神様、もう一回奇跡を見せてください。お願いします。
 しかし、今日も願いははかなく消える。奇跡は簡単には起こらないから奇跡なのだ。

「またハズレ?」
 平然と覗き込んできた怜を肘で小突いた。
「勝手に見るなってば。プライバシーの侵害だ」
「自然と目に入ってくるんだよ。隣り合わせの宿命ってやつで」
「明らか覗き込んできたくせに……。ていうか隣の隣じゃん」

 靴を放るように入れて上履きに履き替えると、並んで教室に向かう。怜と別れる直前、今日が漫画の発売日だったことを思い出した。
「あ、そうだ。今日『エレファク』買って帰るけど、来る?」
「行く。続き読みたい」
「オッケー。じゃ、また放課後に」

 
 放課後、隣のクラスに顔を出したが怜の姿は見当たらない。
「高橋、怜見なかった?」
 廊下側の席にいた共通の友人に声を掛けると「日直で職員室行ってる」と言われた。
 じゃあ席で待たせてもらうか、ということで怜の席を陣取り、暇そうな高橋にも付き合ってもらっていたのだが、一向に帰ってこなかった。

 ひとり、ふたりと生徒が帰っていき、高橋もそろそろ予備校に行く、ということで、最終的には奏ひとりが残されてしまった。自分のクラスじゃないので少々肩身が狭く、戻ろうかなと思っていたらLINEが飛んできた。高橋からだ。
『怜、職員室で雑用手伝わされてるっぽい』
 ナイス高橋。なら、もうちょっとすれば戻ってくるかな。

 とはいえ、ただ時間を潰すのももったいない。待たされた仕返しに何かできないかな。そう思ったとき、ふと教卓が目に入る。あの下に隠れて「おまえを見てるぞ」みたいなメッセージを送ったら、怜はどんな反応をするんだろう。ホラー系が平気な怜も、リアルだったら案外ビビったりして。

 我ながらナイスアイデアと思って、奏はさっそく教卓の下を覗き込む。空洞は意外にも広く、自分一人なら十分収まりそうだった。試しに入ってみる。うん、余裕だ。
 にんまりと笑ったところで、廊下から足音が近づいてきた。思ったより早い帰還に驚き、奏は急いでズボンのポケットを探った。しかし、肝心のスマホがない。怜の机に置いてきてしまったのかも。どうする? 今から取りに行って戻れるか? いっそ計画中止で、何食わぬ顔で怜の机に戻ったほうがよかったりする?

 迷っている間に教室のドアが開き、足音がすぐ傍を通っていく。終わった。しょうがない、もう出ていくしかないか。
「月峰くん」

 奏の逡巡を遮ったのは知らない女子の声だ。遅れて足音が近づいてくる。
「ごめんね、大体やってもらっちゃって」
 どうやら、居残りは怜ひとりじゃなかったらしい。
「三澤は頼まれてないんだから、残らなくてもよかったのに」
 怜の口から出た名前には覚えがあった。
 三澤遙。美人で才女で大企業のご令嬢という三拍子の女子生徒だ。入学当初から可愛いと噂されていて、全く接点がない奏でも顔と名前は知っている。そういえば怜のクラスだったっけ。全然話を聞かないからすっかり忘れていた。接点あったんだな。
 ところで、おれ、完全に出て行くタイミング無くしたよね。

「先生も先生だよね。プリントの束ぐらい自分で作れって感じ」
「忙しいんだろ。野球部の秋の大会もうすぐじゃなかったっけ」
「だとしても月峰くんに押しつけなくてもよくない? あれは僻みだね」
「僻み?」
「月峰くんが格好いいから僻んでるんだよ。あいつ独身でしょ」
「さすがに関係ないと思うけど」

 軽快なキャッチボールを聞きながら、奏は呆気にとられていた。
 怜、三澤さんと仲良いじゃん。全然知らなかったんだけど。
 話し声から、笑う雰囲気から、怜が三澤に気を許しているのが感じ取れた。それも一朝一夕で得られた気安さではなく、素に近い自然体だ。基本、女子にはべたべたしたがらない怜にしては珍しい。というか奏の知る限り初めてだ。
 何だよ。何で黙ってたんだよ。言ってくれればよかったのに。
 怜が誰と仲良くしようと勝手だけど、内緒にされていたのはさすがに面白くない。

「……あの、さ。話変わるんだけど、月峰くん、こないだデートしてたって聞いたんだけど」
 しかし、そんな拗ねた気持ちは一瞬で引っ込んだ。
 え、ちょっと待て。今、デートって言った?
 叫び出しそうなのを両手で抑えて、必死で息を殺す。焦って教卓に体当たりしなかったのが不幸中の幸いだが、心臓が胸を破って飛び出しそうだった。
 どうしよう。まさか、おれとのことを話してる? 傍から見れば友達同士で出かけているようにしか見えないと思うけど、練習の最中を見られて勘違いされたのかもしれない。だとしたら、ここから出て事情を説明したほうがいいんだろうか。

「デート?」
「半月ぐらい前、年上の女の人と、新都心のほうを歩いてたって。ミホ……友達が予備校帰りに、月峰くんを見たって言ってたんだけど」
 ――あれ。もしかして違う話? 半月前? 新都心? 年上の女? 誰?
 混乱する奏とは裏腹に、怜は心当たりがあるらしい。「ああ……」と面倒そうに相槌を打った。
「……やっぱ、そうなんだ。彼女いたんだね」
「そういうんじゃないけど」
 いやちょっと待て。ますますわかんなくなってきた。彼女じゃない女(年上)と一緒にいた?
 それって、つまり、どういうこと?
 ていうかおれ、マジで何にも聞いてないんだけど。
「わざわざ日直交代したのは、この話がしたかったから? この前確認したときは三澤じゃなかった気がするんだけど」
「……何だ、わかってたんだ。うん、頼んで変えてもらった。別に、詮索する気はなくて……でも、聞いちゃってごめん」
「俺、人待たせてるし、そろそろ……」
「待って」
 震える声が響く。
「私、その、月峰くんのことが気になってて、ていうか前からずっと好きで……」

 予想はできていたので驚かなかったが、緊迫した声とただならない空気から三澤の想いがひしひしと伝わってきて、勝手に聞いてしまっているのが申し訳なくなった。
「彼女がいるって聞いて、本当だったら諦めようと思って、それを確かめたかったんだ。でも、さっきの話だと違うんだよね。だったら私と……」

「ごめん」
 怜はいつも通り、慈悲のない物言いで三澤の告白を一刀両断した。そこまではいい。予想通りというか予定調和的というか、いくら三澤が相手でも怜はなびかないだろうと何となく思っていた。

 しかし。
「俺、好きな人いるから」

「……は?」
 まさか、ごめんの後に続きがあるなんて。しかもそれがあまりに予想外で、奏の口から驚愕がぼろっと零れた。慌てて口を塞いだものの、時既に遅し。痛いほどの沈黙に支配された教室に、間抜けな声を確実に響かせてしまった。
 やばいやばいやばい、今の完全にアウトだろ。ただの盗み聞きならまだしも告白を聞いちゃったとかマジで最低最悪じゃん。どうしよう。出てって土下座した方がいい?
「そういうことだから、三澤とは付き合えない」
 ところが、怜は何事もなかったかのように続けた。
「……さっきの年上の人が月峰くんの好きな人?」
「違う」
 強い口調で否定する怜に、三澤はなおも食い下がる。
「好きな人がいるのに、別の人と遊んでたってこと?」
「そう。だから、俺なんか止めたほうがいい」
 切迫したやりとりを聞きながら、奏の耳元では、激しい鼓動が響いていた。
 やがてどちらかの足音が響き、荷物をまとめるような音がする。怜が帰ろうとしているのか、三澤がこの場を立ち去ろうとしているのか。どちらにせよ、奏は息を潜めて気配を消すことしかできなかった。

 それにしても、本当に何も知らなかった。怜に好きな人がいることも、女の人と遊んでいたことも、三澤に告白されるほど仲がよかったことも。あれだけモテるんだし、彼女のひとりやふたり居てもおかしくないけど、でも、言えよ。
 おれは何でも話してるのに、なんで怜は何も言わないんだよ。

「カナ」
 不意に呼ばれて悲鳴が飛び出る。
「ひいっ⁉ れ、怜……」
「何やってんの、こんなところで……」
 教卓を覗き込んできた怜は心底呆れ果てた様子だった。奏を見ても驚かなかった辺り、やはり気づいていたらしい。
「……怜を待ってた」
 膝を抱えたまま白状すると、ますます眉をひそめた。
「わざわざ教卓の下で?」
「……驚かせようと思って」
「小学生かよ……」
 憮然とつぶやき、怜が後ろ髪をかく。
「とりあえず出たら? もう俺しかいないから」
 その言葉で、さっきの会話が夢ではなかったんだと思い知る。
「……三澤さん、おれのこと気づいてた?」
「聞いてなかったと思うよ。カナの声がしても無反応だったし。覗きの汚名を着せられなくてよかったな」
「まあ、それに関してはよかったけど……」

 薄暗い場所から這い出ると、西日に照らされた怜を見つめる。強い茜色の光のせいで顔半分が陰っていて、幼馴染の顔と、全然知らない男の顔とで二分化されてしまったみたいだった。さっきの話は本当に奏の幼馴染の話だったんだろうか。

 怜の口からきちんと聞きたい。隠していることを全部話してほしい。そう思って口を開いても言葉が出ない。知らないことが多すぎて、どこから何を聞けばいいのかわからなくて、奏はただ、迷子のように口を開けたり、閉じたりを繰り返していた。

「引いた?」
 怜が口元を歪めるようにして笑った。
「え?」
「俺が遊んでたって話。言葉も出ないぐらいドン引きした?」
 奏は力なく首を横に振る。
「……わかんねえよ、そんな……。引くも何も、全然、何も聞いてなかったし」
「そっか。ま、そうだよね」
 さらっと肯定されて腹が立つ。
「何で話してくれなかったんだよ」
「何でカナに言う必要あるの?」
「おれが聞いてるんだよ。てか勝手に決めるな。必要かどうかはおれが……」

「前に言わなかった? カナには関係ないって」

 不愉快な他人を切り裂くときと同じ類の、冷徹な拒絶だった。
 怜が小さく息をつく。
「……おじさんとおばさんには黙ってて。心配かけたくないから。……カナも意味ぐらいはわかるよね」
 嘲笑されていらっとした。俗に言うセフレってやつだろう。さすがに察してる。
「親に言えないようなことすんじゃねーよ、ばか」
 吐き捨てるように言った。親じゃない、関係ないと返されたらぶん殴ってやろうと思ったけど、怜は黙って髪を弄るだけだった。
「年上って言ってたけど、なんか相手に騙されたり、やばいことされてたり、脅されてたりとか、そういうのはないんだよな」
「ないよ。お互い合意の上だし、数回だけ」
「数回⁉」
「もう終わったことだから」
 フォローというより言い訳するような口ぶりで付け加えられて、逆に怪しく思える。
「でも」
「だから大丈夫だって」
 怜の苛立ちが伝わってくる。関係ない、奏が踏みこめる領域じゃないと必死に線引きしようとしているらしい。でも、奏だって引き下がるわけにはいかない。

「うちの親にも、おじさんにも言わないけど、でも、心配なのはおれだって同じだからな」
 掴みかかる勢いで告げた。怜がはっと息を呑む。

「余計なお世話だって、関係ないって思うかもしれないけど、自分を粗末にするのだけは絶対止めろよ。そんなことしてたら、ぶん殴ってでも止めるからな」

 何を思ったかは知らないし聞く気もないけど、自分自身を貶めるようなことだけはしてほしくない。どれだけ拒絶されても、これだけは伝えなければいけないと思った。

 怜は細く長い息をつき、ぞんざいに顔を逸らした。
「ほんと、カナって、そういうとこあるよね」
「怜、今のは本気で、ほんとに」
「わかってるよ。カナが心配するなら、もうしないって」
 怜の肩を掴んで振り向かせる。
「おれが、じゃなくて、おまえが心配なんだよ。自分を大事にしろって話」
 幼子に言い聞かせるように、怜の瞳を真っ直ぐ見つめると、決まり悪そうに外された。小声で告げられた「わかってる」という返事と、怜の良心を信じるしかない。

「……じゃ、帰ろうぜ。漫画買ってうちで読もうよ」
 気まずい空気を払拭するべく、努めて明るい空気を出し、怜の机に置いていた荷物を回収した。
「あれ? おれのスマホ」
「はい」
 行方不明のスマホが、なぜか怜の制服のポケットから出てくる。
「何で怜が持ってんの」
「ここに無防備に置いてあったから、忘れてったのかと思って入れたんだよ。でも、よく見たら荷物もあるし、もしかしたら、どっかにいるのかなって」
「え、じゃあ最初から気づいてたのかよ! 言えよ!」
「まさか教卓の下に隠れてるなんて思わないよ。小学生じゃないんだから」
「う……」
 ひどい言われようだが言い返せない。
「だから、声が聞こえたときはびっくりした。ほんと、三澤が気づいてなくてよかった。俺たち揃って最低の烙印を押されるところだったな」

 それで思い出した。
「三澤さんは、その、いいのか。あんな突き放すような言い方して」
「聞かれたことに答えただけだよ。嘘はついてない」
「でも、仲良かったんだろ」
「別に普通」
 その「普通」を知らないんだけどな。溜息をつきながら鞄を肩に掛ける。
「とりあえずフォローぐらいしとけば。変な噂がめぐりめぐって、おまえの好きな相手のとこまで辿り着くかもよ。よく言うじゃん。火のないところに煙は立たないって」

 すると、怜がつぶやき、嘲笑を浮かべた。
「……好きな人、ね」

「何だよ」
 射るような視線で見据えられて、奏は身体を強ばらせた。
「怜?」
「何であのとき声出したの。そんなに驚いた?」
 声を出したとき、イコール、怜に好きな人がいる、と知ったときだ。
「……そりゃあ驚くだろ。全然知らなかったし」
 怜は目を細めて、奏の真意を探るように、視線の圧を強くした。
「三澤の告白よりも驚いてたじゃん。あのときは静かだったよね」
「あれは話の流れから察してたし。ていうか、何でそんなこと聞くんだよ。関係ないんじゃなかったのかよ」
 図星を突いたのか、怜の顔が曇った。
「……別に、ただの興味本位」
 怜の心ない言葉にかちんときた。
「じゃあおれだって興味本位で聞いたっていいよな。何で何も教えてくれなかったんだよ。好きな人の話もそうだけどさ、三澤さんと仲良いことも、その、一緒にいた女の人のことも、全然。おれは手紙の話も相談してたのに」
 長い付き合いだから、怜のことを何でも知っていると思っていた。奏は何でも話すから、同じように話してくれると思っていた。
 でも、そうじゃなかった。奏の知らない怜の顔があり、奏は踏みこむことを許されなかった。クラスメイトと同じ、ただの「他人」とラベリングされた。その事実がただ寂しくて、悔しい。
 呼吸も忘れる勢いで捲し立ててから、改めて強く思った。
「関係ないって、やっぱ、言われたくねーよ」

 一瞬、おれも怜に秘密を作ろうかな、とくだらない仕返しが頭をよぎったけれど、違う。奏は怜には何でも話したかった。楽しいことや面白いことがあったら怜に共有したいし、むかつくことや悲しいことがあれば話を聞いてほしい。
 逆も同じだ。怜のことは何でも知りたいし話してほしい。奏は怜の一番の理解者でいたい。
「……それは、幼馴染だから?」
「そーだよ。当たり前だろ」
 強い口調で断定した。他に理由なんていらなかった。
 少なくとも、奏にとっては。
「まあ、そうだよね」
 怜は笑っていた。糸の切れたような微笑みだった。それを見た瞬間、突然、言いえない不安がこみ上げてくる。おれ、何か間違った?
「……怜?」
 頭を押し込むように撫でられる。
「帰ろう。新刊買うんだろ」
 顔を上げると、怜はいつもの苦笑を浮かべていた。
 気のせい、か。奏も頷き、怜と肩を並べて教室を後にした。

 
 駅ナカの本屋で漫画の新刊を買ったはいいけど、その場で解散の流れになった。互いに歯車の噛み合わせが悪く、気まずい雰囲気が拭えなかったのだ。

 ひとり帰宅した奏は制服のままベッドに寝転び、漫画のフィルムを破いて表紙を捲る。しかし、感情が石化してしまったように動かないので、早々に読むのを放棄した。あんなに楽しみだったのが嘘みたいだ。それもこれも、全部怜のせいだ。

 怜に好きな人がいた。付き合ってないけど親密な関係の女がいた。三澤さんとも仲がよかった。漫画だったら「情報量が多い」って突っ込みが入りそう。でもこれは現実だから突っ込み役なんていないし、作者の都合で付与された情報でもない。ただただ奏が怜のことを知らなかっただけの話だ。

 怜はあまり自分のことを話したがらないし、たいていは聞き役に回るので、怜の口からクラスの誰が可愛いとか好きな人の話なんて聞いたこともない。
 ただ、いつか好きな子ができれば、他でもない奏には、さすがに教えてくれると思っていた。なのに蓋を開けてみればこの有様だ。おれは大体話してるつもりなのに、何で怜は教えてくれないんだよ――って、だめだ、また同じところに辿り着いてる。

 奏は天井に向かって溜息をつき、目を瞑る。
 遊び終わったおもちゃにでもなった気分だ。いつの間にか怜には怜の世界があって、そこに奏はもう必要ないんだろう。関係ないと突っぱねられたのはそういうことだ。おれたちは幼馴染だからと高をくくっていた分、その事実にどうしようもなく気が滅入った。

 
 夕飯を終えてシャワーを浴びると、父親が帰ってきていた。ダイニングテーブルでビール片手に「『エレファク』の続きは?」とのんびり聞いてくる。
「三人待ちで、父さんは四人目」
 奏と怜と母親。現在、一人目(奏)で止まっている状態だ。
「今、誰で止まってるんだ」
「……おれ」
「じゃあ先に読ませてくれよ」
「嫌だ」
「奏、お父さんに意地悪しないの」
 すかさずキッチンから野次が入る。
「してねーし!」
 とは言いつつも、八つ当たりだったことは否めない。反省して漫画を持っていくと、にやにや笑われた。
「何だよ、結局貸してくれるのか」
「土曜には返せよ。怜も待ってるから」
「了解。あ、怜で思い出したけど、和人が帰ってきてるぞ」
 和人というのは怜の父親だ。
「おじさん、今東北に行ってるって聞いたけど」
「らしいな。用事があるからって今日の夕方に戻ってきたらしい。日曜にはまた戻るみたいだけど」
「月峰くん、相変わらず忙しいね。怜くんと少しはゆっくりできるといいんだけど。奏、週末は怜くん誘うのは控えなさい」
 食事の支度をする母親を睨んだ。
「言っとくけど、おれが誘ってるわけじゃないから。向こうが来たがるんだよ」
 父親が漫画を捲りながら笑う。
「何言ってんだ。昔っから奏が怜を引っ張りまわしてるくせに」
 まるで奏ばかりが一方的に構っているような口ぶりに苛立ちが募る。
 そんなんじゃない。怜だって来たいって言ってる。誘うのも誘われるのも五分五分だ。
 ――本当に?
 盤石の土台から一転、不安定な砂浜の上に立っているような気分になる。記憶のない幼い頃から、再会してから、自分たちの間のベクトルは本当に双方向だったんだろうか。
「奏? どうした、拗ねたのか? あ、腹でも減ったか?」
 無神経に笑う父親に噛みつく力も湧かなかった。
「……もういい。おやすみ」
 そう言って切り上げようとしたのだが、父親にふと聞いてみたくなった。
 母親がキッチンに引っ込んだタイミングを見計らい、漫画に読みふける父親に小声で尋ねる。
「父さんと母さんが付き合ったとき、怜のおじさんってどんな反応した?」
「は?」
 紙面から顔を上げた父親は、未確認生命体にでも出くわしたような顔をしていた。
「父さんと怜のおじさんって幼馴染なんだろ。どういう感じだったのかなって……」
 話している最中、父親がまじまじと見てくるので決まりが悪い。
「何だよ」
「いやあ、こう、突然若々しい風に吹かれて自分の年を感じたというか……」
「はあ? わけわかんねーよ」
 こっちは真剣なのに茶化してんじゃねえ。しかし父親は、そうやって苛立つ奏に含み笑いを浮かべるばかりだ。
「……もういいよ。父さんに聞いたのが間違いだった」
「あー、待てって。確か、おめでとうって言われた記憶はあるな」
「じゃあ、やっぱ。喜んでたんだ」
 それが普通だよな、と複雑な気持ちでいると、当時を思い出しでもしたのか、父親が急ににやっと笑った。
「……さあ、どうだろうな。案外寂しがってたかもな」
「何でおじさんが寂しいんだよ。父さんの勝手な妄想じゃねーの」
「それはおまえもわかってるんじゃないのか? 何か元気ないと思ったらそういうことか。ま、おまえらも年頃だもんな」
「勝手に納得してんじゃねーよ。どういうことだよ」
 父親を睨むと、肘をついて目を眇めて笑った。
「怜に彼女でもできたんだろ。めでたいことだし、拗ねてないで素直に祝ってやれよ」
「はあ⁉ 拗ねてねーし、できてねーから! まだ!」
 ダイニングテーブルを強く叩いて否定すると、母親に「奏!」とすかさず叱られた。のんびりとしているくせに父親に対して激甘だから、少しでも不遜な態度を取るとこうなる。理不尽だ。デリカシーのない物言いをしたのは父さんなのに。

 奏は怒りに任せて自室に駆け上がった。ベッドにダイブして毛布をむしるように握り、マジでむかつくと呪詛を吐く。母さんに好かれてるからって調子に乗りやがって。一回ぐらい振られて痛い目見ればよかったのに。

 何が悔しいって、父親の指摘が的外れじゃなかったってことだ。怜が自分以外の他の誰かを欲して、その人を選んでしまうかもしれない。しかも内緒で。寂しかった。面白くなかった。だからこんなにもやもやしてたんだ。
 自分の身勝手さに溜息が出そうだが、嫌なものは嫌だ。
 たとえば怜に彼女ができて、これからは三人で一緒につるもうって言われても、奏はとうてい受け入れられない。ずっとふたりでやってきたところにひとり加わり、しかも純粋な「三人組」ではなく「奏ひとり」と「怜と彼女のふたり」になるなんて。無理だ。絶対に無理。目の前でカップルがいちゃついているのを心穏やかに見ていられる自信がない。想像だけで孤独死しそう。

 両親たちはよく三人で仲良くやれていたなと感心すら覚える。奏と違い、怜の父親が聖人のように出来た人だったのかもしれない。おじさん、めちゃくちゃ優しいもんな。
 機会があったら、怜の父親にもぜひ当時の気持ちを聞いてみたい。近い将来、そうなる日が来るのかもしれないから、その心構えを――って、そんな悠長に構えてもいられないんだった。極端な話、明日世界が変わる可能性だって十二分にあるのだから。

 だって、怜に告白されたら誰だってオーケーするだろう。外見は飛び抜けているし、中身だって負けてない。言葉は足りないけど、何だかんだで優しい。奏の突拍子もない思いつきにいつも付き合ってくれる。でも、子どもっぽいところや面倒なところ、寂しがり屋で放っておけないところもあるし、繊細な一面もある。
 美人は三日で飽きるなんて嘘だ。たとえ見た目で入っても、中身を知れば知るほど目が離せなくなる。最近よく聞く「沼る」って、怜のような人を指すのかも。
「あー……」
 何で気づかなかったんだろう。
 何でいつまでも一緒にいられるって無邪気に思えてたんだろう。
 もうずっと怜と一緒で、これから先も変わらないと思っていた。でも、そうじゃなかった。
 おれたちはいつまでも一緒にいられないんだ。
 嫌な妄想ばかりが頭をよぎり、奏の気持ちを重くする。何より、怜の幸福を純粋に祝福してやれない自分が一番嫌だった。

 
 考えすぎてなかなか寝付けず、翌朝、奏は見事に寝坊した。起きたのはいつも怜と落ち合う時間。心配した怜が送ってきたLINEで目が覚め、十分前の予鈴と同時に玄関に滑りこんだ。信号に三つ引っかかったときには終わったと思ったけど、その後猛ダッシュで巻き返し、なんとか間に合った。よかった。

 乱れた呼吸を整えながら、奏は靴箱に向かい、「え」と呆けた声を上げる。自分の靴箱の前に、見たことのない女の子がいたのだ。
「あ……っ」
 人が来ると思わなかったのか、向こうも奏を見るなり言葉を無くすと、逃げるように走っていってしまった。制服のネクタイが紺色だったから一年生だと思うけど、いや、まさか、ラブレターの子?
 奏は一息吐き、そっと自分の靴箱を開けた。しかし、今日も何も入っていなかった。
「ハズレか……」
 まあ、それはそうだろう。手紙の文面からして相手は面識のある一年生だ。奏は先程の女の子の名前も顔も知らない。ということは別の誰かが目当てだったんだろう。
 もしかして、怜か?
 奏の隣の隣が怜の靴箱だ。一年生の立っていた位置とも大体合う。
 直感に命じられるまま、奏はそっと扉を開けた。ビンゴ。やはり封筒が入っていた。
 ごくりと唾を飲み込み、真っ白なそれにおずおずと手を伸ばそうとしたそのとき、奏を責めるようにポケットの中でスマホが震え出した。はっと正気に戻った奏は、慌てて靴箱の扉を閉める。
 何してんだよ、おれ。勝手に。
 飛び跳ねそうな心臓に手を置き、ふうっと息をつく。覗きに加えて盗みを働くところだった。プライバシーの侵害どころじゃない。危なかった。
 滲む手汗を制服のズボンで拭いてスマホを見ると、怜から「間に合った?」とあった。やばい、遅刻。

 疲れた足を引きずり教室に向かい、ついでに隣の教室を軽く覗いた。間に合ったと一言伝えられればと思ったのだけれど、怜はクラスメイトと暢気に談笑している。顔だけ知っている男子と、知らない女子がふたり。もちろん三澤じゃない別の子だ。
 あのふたりのどっちかが怜の好きな子だったりして――。
「あれ、カナじゃん。怜? 呼ぶ?」
 高橋の声ではっとする。
「え? あ、いや……」
 否定する前に高橋がデカい声で「怜!」と呼んだ。振り返った怜と目が合うなり来なくていいとジェスチャーする。そっちで盛り上がっとけよ。今、あんまり話したくない。先程の後ろめたさで吐きそうだ。
 しかし、怜は会話を切り上げ、真っ直ぐ奏の元にやってきた。
「ほんとギリギリじゃん。間に合ってよかったね」
 気を遣われて、胸がなおさらきりきり痛んだ。奏は目を泳がせながら苦笑いを浮かべる。
「カナが寝坊って珍しいよな。なんか無遅刻無欠席の皆勤賞なイメージある」
 高橋の言葉に怜も同意する。
「高校入ってから初めてじゃない? むしろ、ここ数年で初ぐらい?」
「……まだ遅刻してねーし」
「あ、そうだったな。あれ、カナと怜って中学が一緒だっけ?」
「小学校から。カナはその頃から無遅刻無欠席だったよ。朝弱いくせにね」
 自然に話を振られたが、返す言葉が出てこなかった。怜があまりに普通で、昨日のことなど歯牙にも掛けない様子だったから。告白されたことも、気まずい空気になってしまったことも、全部が全部、奏だけが見た夢のようだ。

 でも、昨日の出来事は確かに現実だった。その証拠に、教室の中央の席に座った三澤が一瞬こっちを、というか怜を見ていて、奏と目が合うと気まずそうに逸らしたから。
「カナ?」
「……じゃ、おれ、教室行くから」
 逃げるように自分の教室に向かった。上手く笑えていただろうか。笑えてなかっただろうな。顔に出るって言われたし。

 予感は的中して、怜から「大丈夫?」とメッセージが来た。大丈夫じゃねーよ。主におまえのせいだっつーの。人の心がない、とまでは言わないけどメンタルが強すぎる。そりゃあ怜にとっては告白もお断りも日常茶飯事で神経をすり減らすこともないのかもしれないけど、こっちは世界の終わりを考えて肝を冷やしていたし、三澤さんだって辛そうだった。
 それにしても、あの三澤さんでもないなら、怜の好きな人って誰なんだろう。

 
 一限は右から左へ流れて終わり、休み時間も呆けているとスマホが鳴って驚いた。サイレントにし忘れていたみたいだ。授業中に音を鳴らすと没収されてしまうので、慌てて設定を変更し、ついでに着信を確認すると、また怜から。
『今日、漫画読みに行っていい?』
 すっかり忘れてた。父さん、読み終わったのかな。いや、読み終わってないことにするか。
『父さんに貸し出し中』
 そう送ってから、猛烈な罪悪感に襲われた。昨晩父親に言われたことを思い出し、俯いて机に額をつけて溜息をつく。

 いつまで勝手なネガティブを引きずってるんだ。怜は全然気にしてないんだから、さっさと切り替えて普段通りに振る舞いたい。でも、息を吸うたびに石でも詰め込まれているみたいに気持ちがどんどん重たくなっていく。それが止まらないし、止められない。

 奏は性根が楽観的であまり落ち込まないけど、一回躓くとその分立ち上がるのに時間がかかる。転んだままじりじり思い悩んで引きずってしまうのだ。
 その時間が無駄なことも、さっさと忘れて起き上がることに専念した方がいいのもわかってる。でも、できない。一度シャツに染みを見つけると、その後もうっすら気に掛けてしまうように、昨日の出来事が頭の隅にこびりついてしまい、なかなか忘れられなかった。

 そうこうしているうちに『じゃあまた今度』と気軽な返事が来て、次はむっとした。立ち直りたい、心配させたくないと思っているのに、気に掛けてもらえないとがっかりしてしまう。最悪だ。自分が自己中すぎて嫌いになりそう。こんな気持ちになるなら「漫画貸すから家で読んで」とか素直に言えばよかった。どうして悪手ばっかり打っちゃうんだろう。

「カナ」
 廊下の窓から怜が顔を出し、奏を呼ぶ。
「ひいっ⁉ れ、怜?」
 机に伏せったタイミングだったので、ものすごく驚いてしまった。クラスメイトの好奇の視線に顔が熱くなる。
「な、なんだよ急に」
「ほんとに具合悪い? 大丈夫?」
 で、真面目に心配されると、優しくしないでほしいと一分前とは真逆のことを思うのだから手に負えない。誰かどうにかしてくれないかな。

 とりあえず、今は怜と関わっちゃだめだ。何をしたって駄目な自分が浮き彫りにされて、みじめな気持ちになりネガティブが増す、と完全に負のスパイラルに陥ってしまっている。それがそのうち怜に延焼し、みっともなく八つ当たりしてしまいそうで怖い。
「……平気。ちょっと寝不足なだけ」
「何だ。どうせ漫画でも読んでたんだろ」
 どこまでも平和で的外れな推理に思わず嘲笑を浮かべる。
 それだけだったら、どれだけよかったんだろう。
「カナ?」
「怜には関係ない」

 あ、と思ったときには時間が止まっていた。ざわめく教室の自分たちの周りだけ音が消え、怜が綺麗な黒い目を僅かに見開いたのがスローモーションのようにはっきりと見える。
 自分の振るったナイフが怜を傷つけたんだと悟った瞬間、奏の胸は鈍く痛み、怜に同じことを言われて傷ついていたことを遅れて知った。
 だからといって、同じ痛みを返していい理由にはならない。
「……ごめん」
 予鈴が鳴った。怜はふっと顔を上げると、自分の教室に帰っていく。
 奏は今度こそ机に突っ伏した。

 
 二限の英語は一限以上に上の空で、教師に当てられたのにも気づかなかった。予習も忘れていたためクラスメイトの前で注意された挙句、放課後、職員室に呼び出しを食らってしまった。
 帰りも基本は怜と一緒なので、いつもならば「先帰ってて」または「遅くなりそう」と一声掛ける。でも、先程関係ないと言ってしまった手前、平気な顔で話に行くのは憚れた。

 結局、奏は終業後、真っ直ぐ職員室に向かった。待ち構えていた英語教師に、何のために学校に来ているのか、授業は、予習は何のためにあるのか等々至極真っ当な説教をされた後、職員室のゴミ出しと英語で反省文提出とどちらか選べと言われたので、しぶしぶ前者を選択した。嵌められたような気がするが、今回は完全に自分の責なので致し方ない。

 ぱんぱんに膨れたゴミ袋を両手に抱え、職員室から出て、ゴミ捨て場に向かう。夕焼けの終わりで外は薄暗く、もうすぐ日が落ちてしまいそうだった。
 今日は疲れた。朝は走って、放課後は立たされてと酷使された足が、体育祭の翌日のように悲鳴を上げている。精神的にも落ちているし、一刻も早く帰りたい。

 ゴミを捨て終わり、教室に戻ろうとしたときだ。近くの物陰に視線が吸い込まれる。後ろ姿を見た瞬間、怜だと気づく。そして向かいに立っているのは背の小さい女の子――おそらく朝の一年生だろう。二日連続で告白されてんのかよ。少女漫画か。

 さすがの奏も二日連続で盗み聞きする気は起きなかったので、足音を立てないように旋回し、逆回りのルートで教室に戻ることにした。
 帰りがけに考える。もしあの子が怜の好きな子だったら。
 だったら何だよ、とさすがに自嘲した。おれには関係のない話だ。踏みこむ権利もない。

 だらだらと歩いて教室に戻るが、当然ながら誰もいなかった。荷物をまとめ、鞄を肩に掛けてスマホを確認したら、怜から連絡が来ている。奏にあんな態度を取られたにもかかわらず一緒に帰るつもりらしい。「用事があるから待ってて」とあって呆気にとられた。何なんだ、あいつ。
 既読をつけてしまった以上、知らんふりはできない。これで帰ったらただのかまってちゃんだ。奏は鞄を自席に置き、その横に突っ伏すと、ぼんやりと空っぽの教室を眺めていた。
 ところが、しばらく待っても怜は帰ってこない。告白ってこんなに長いのかよ。断るならすぐ終わりそうなものなのに。実際、昨日は秒で終わりだった。わざわざ人を待たせておいて何をやってるんだか――。

 奏ははっと息を呑む。
 もし、あの子が本当に怜の好きな子だったら。オーケーをするつもりで告白に臨んでいたら。拗ねた態度を取った奏をわざわざ呼び止めたのは、彼女を紹介するためだとしたら。
 全部、つじつまが合ってしまった。
「いや、絶対無理……」
 腕に顔を埋めてひとりごちる。さすがに昨日の今日でその展開は早すぎる。心の準備がまだ全然できていない。
 でも、友達なら、大事な幼馴染なら、やっぱり嘘でも喜ぶべきなのかな。おれの場合、秒でバレそうだけど。

 何度目かの溜息をついたところで、教室のドアが開いた。奏は勢いよく振り返った。
「カナ、もしかして寝てた?」
 痕ついてる、と笑う怜の後ろに目をやった。ひとりだ。
「よかった……」
 思わず声に出てしまった。怜が首を傾げる。
「あ、いや……全然戻ってこないから」
「ごめん。ちょっと用事があって。カナ、呼び出し食らってたって聞いてたから油断してたんだけど、結構待った?」
「おれは説教聞いて、職員室のゴミ出しさせられて……それで」
 ちらっと怜に目配せする。黙っているという選択肢もあったけれど、奏にはできなかった。
 怜はそれだけで察したらしい。
「もしかして、見た?」
 軽く頷く。
「相手の子、一年生だろ」
 それから慌てて「すぐに戻ったからな。話は聞いてない」と釈明した。さすがに二日連続で覗きの烙印は押されたくない。
 しかし怜の目は鋭い。
「何で一年ってわかったの? 知ってる子?」
「知らねーよ。けど朝も会ったから、ネクタイの色でわかった」
「朝? 寝坊したんじゃなかったの?」
「ダッシュして学校来たら下駄箱前で見かけたんだよ、それで……」
 奏はそこで口を噤んだ。怜の下駄箱を覗いて手紙を確認しました、とは絶対に言えない。故意にチェックしたのだ、告白を立ち聞きするのとは、またわけが違う。
「え、っと……」
 まごつきながら目を泳がせていると、探るような声音で問われた。
「どこまで知ってる?」
「えっ⁉ べ、別になにも……。たまたま見ただけ、たまたま」
 玄関でたまたま彼女に会っただけ。校舎裏でたまたま告白の現場を見ただけ。他は何も知らない、と精一杯のアピールをしてみたが、自分でも思う。下手くそか。新人アイドルの棒読みの芝居よりもひどい。
 怜も察したようで、一歩ずつ近づいてきた。奏は廊下側に一歩退く。
「朝、何か話した?」
「話すわけねーだろ。すぐに逃げてっちゃったし、予鈴も鳴ってたし……」
 これは嘘じゃないから、怜の顔を見て言えた。
「ふうん……」
「嘘じゃないから」
「わかってるよ。疑ってないから」
 その割にはしつこく追及されているような。何なんだ。もう靴箱を覗いたことがばれてるんだろうか。それか相手の子に会ってほしくなかった? 何でって、それは――。
「……なあ怜、あの手紙の子って、もしかして」
「何でもないから」
 食い気味に否定された。奏が目を見開くと、怜はバツの悪そうな顔をする。
 やっぱりか。つまり。
「おまえの好きな子って、さっきの子なの?」
 おそるおそる尋ねると、怜の目がきつく尖った。こちらを刺すように見つめる瞳から静かな怒りのような圧が伝わってきて、奏は確信した。仮定は正しかった。怜の好きな子はあの子なんだ。

 怜は肯定も否定もせず黙りこくっている。それを見て、奏はようやく自分の無神経さに気がついた。昨日の時点から奏が踏みこむことを良しとしていなかったのに、ずけずけと土足で入りこんで根掘り葉掘り聞いてしまったのだ。そりゃあ怒るよな。
「あー……。ごめん、関係ないのに踏みこんだ」
 とりあえず謝罪をしたが、怜は変わらず無反応だ。大事な恋愛で、誰にも、奏にも内緒にしておきたいのかもしれない。薄情だなと砂を食べたときのような嫌なざらつきを感じながらも、奏は迷っていた。
 怜がどこかに行ってしまうのはすごく嫌だ。でも、怜がそれを望むなら。幼馴染なら。
「……よかったな」
 奏はぎこちなく口元を上げ、怜の肩を気安く叩いた。ちゃんと笑顔になっているだろうか。だめだろうな。でも、これが精一杯の誠意と罪滅ぼしだ。
「もう変な相手と遊んだりするなよ。好きな子をちゃんと大事にしろよ」
 怜の返事はない。電池が切れてしまったように押し黙っている。過去の軽率な行動を悔やんでいるのだろうか。もう終わったという話だし、奏も口外する気はない。
「あ、バラしたりしねーから安心しろよ。おれは怜が幸せなら、それでいいから……」

 もう一度肩を叩こうとしたときだ、その手を掴まれた。指が食い込むんじゃないかというぐらいの力で。
「いっ……なに……」
 条件反射で怜を見た瞬間、ぎらつき、今にも爆発しそうな黒目に射すくめられた。間髪容れずに後頭部を引かれ、塞がれる。口を。くちで。
 とっさのことで目を瞑ることもできなくて、ありえないほど近くで見つめ合った。
 怜の黒い目が切なく絞られ、悲しげに奏を見ている。でも、その理由がわからない。耳の後ろの鼓動がうるさくて、考えたくても思考が飛散してしまう。
 奏にわかるのはひとつだけだ。
 キスしている。怜と。

「……何……?」
 解放された後、奏は呆然とつぶやいた。すると、今一度強く腕を掴まれる。
「わかんない?」
 震えていた。怜の声が、腕を掴む指先が、奏を見つめる目が。
 もしかして、怜は。
「カナは、今のも何とも思わない?」
 深い痛みに耐えて、耐えて、耐えきれずに苦悶を吐き出したようだった。その重さが奏にずんとのしかかってくる。
「カナ」
 怒りと悲しみと嘆きをぐちゃぐちゃに混ぜたような顔で上腕を一度きつく揺すられる。何か言わなきゃと思うのに、切なく絞られた黒い瞳に真っ直ぐ見つめられると、言葉が全て吸い取られてしまう。何を言っても嘘のような気がして、何も言えない。
 下校時間を告げるチャイムが鳴り、怜は夢から醒めたように手を離した。
「……ごめん」
 奏の顔を見ずにつぶやくと、そのまま薄暗くなった教室から出て行った。
 
 残された奏はその場にしゃがみ、両手で顔を覆った。
「最悪……」
 幼馴染という関係に甘えて、怜の本当を知ろうともしないで、ずっと、ずっと傷つけていた。「関係ない」と言い返すより前から無邪気にナイフを振りかざし、何度も胸に突き立てていた。最悪なんて言葉じゃ済まない。バカだ。本当にバカだ。
 何で気づかなかったんだ。何で気づいてやれなかったんだ。
 あんなに、ずっと一緒にいたのに。
「怜……」
 膝を抱えて名前を呼んだ。返事はない。瞼の裏に焼きついた黒い目が、いつまでも奏を見ている。悲しい色を浮かべて。
 4
 
 カナの鈍感さに腹が立った。
 カナの口から無神経な発言を聞きたくなかった。
 カナに、俺の気持ちに気づいてほしかった。
 気づいたら身体が勝手に動いて、カナにキスをしていた。

 
 帰宅すると玄関に革靴が揃えてあった。そういえば帰ってくるって言ってたな。すっかり忘れていたのを申し訳なく思いながらリビングに入ると、レストランの扉を開けたときのようにいい匂いが漂ってきて、キッチンに立った父さんが顔を上げた。
「怜、お帰り」
 前に会ったのは二か月前、梅雨明け直後だった。あれからちょっと痩せた気がする。繁忙期でろくに休めてなかったのかもしれない。それなのに新幹線でこっちに戻ってくるなりキッチンに立っているのだからタフだなと思った。
「ただいま。何作ってんの」
「アクアパッツァ。いい魚を分けてもらったんだ。産地直送だよ」
 キッチンを覗くと、いつも棚の奥で眠っている重たい両手鍋に魚がまるごと一匹、豪快に収められていて、えびや貝やミニトマトと一緒に煮込まれていた。
「新幹線って魚持って乗れるんだ……」
「釣った魚を持って帰る人もいるだろ」
「確かに」
 鍋がぐつぐつと煮える音と魚介とハーブが混ざった匂いに、美味そう、と思った。あんなことがあったのに自然と腹が減るんだから、人間ってどうしようもない生き物だ。
「もうできるから着替えておいで」
「うん」

 自室に引っ込み、制服をハンガーにかける。ズボンのポケットに入っていたスマホに連絡はない。期待もしてない。ただ、カナが無事に帰れたのかは気になった。
 置いてくべきじゃなかったんだろうか。前にここでキスを仕掛けたときのように、冗談だとすぐ取り繕って、なかったことにしてしまえればよかったんだろうか。
 無理だな、と思った。
「怜、できたよ」
 扉の向こうから呼ばれて、俺は「今行く」と答えた。
 さっきまで忘れていたくせに、今日、父さんがいてくれてよかったと心から思った。今夜ここにひとりだったら、延々とカナのことを考えてしまいそうだった。
 
 
 夕飯を食べ終わり、皿を片付けようとしたときだ。父さんが姿勢を正した。
「そろそろ話さないといけないと思ってたんだけど、進路はもう決めてる?」
 そういえば、もうそんな時期だ。もうすぐ進路票を配ると担任が話していた気がする。来年の今頃は受験生という実感は正直まだ湧かない。
「まだ、あんまり。気になってるところはどこも大丈夫そうとは言われてるけど」
「そうか。頑張ってるんだな」
「別に……。一応、都内で探すつもり。ここから通いやすいところかな」
「そこは気にしなくてもいいよ。部屋を借りてもいいし、何なら都内に引っ越ししてもいい」
 思ってもみなかった提案に驚いた。一人暮らしはまだしも、引っ越しって。
「は? 何言ってんの? そんな大袈裟な……」
 父さんは柔和な笑みを崩さなかった。
「大袈裟だなんてことはないよ。通学に時間をかけるのはもったいないだろ。ライフステージに合わせて家を住み替えるのは大事だし、よくあることだから気にしなくていい。怜の好きなようにしていいよ」

 突拍子のないように聞こえた提案が実は理に適っていることも、父さんなりの優しさだということも理解はできた。でも、そんな重大な選択を突然委ねられても困る。何千万、何億でホテルの経営を動かしている人にとっては大した話じゃないのかもしれないけど、新しい家を買って引っ越すなんて、創造の範疇を超えている。
「ごめん、困らせたな。そうしろって言ってるわけじゃないんだ。ただ、将来の選択肢のひとつとして考えてくれればいいから」
 慌てた父さんのフォローを聞きながら、俺はつぶやく。
「将来の、選択……」
「うん。ここに残ってももちろんいいし、どこに行ってもいいんだ。日本でも、海外でも。そのための協力はするから、それは覚えておいて」

 ここから離れる未来。そんな選択肢、考えたこともなかった。大学に進学しても、社会人になっても、ずっとここに住むつもりでいたから。
「ありがたいんだけど、国内外とかスケール大きいんだけど……。俺はここ離れるなんて、考えたこともなかったのに」
「そうだな。ごめん、突然すぎた。怜にとってはここが地元だもんな。……もう戻って七年か」
 棚の写真に目をやる父さんに、かける言葉が見つからなかった。

「そういえば、奏くんは? ここに残るのか?」
 不意に聞かれて胸が痛んだ。心配を掛けたくないので何でもないように答える。
「たぶん実家だと思う。前にそう言ってたから」
 去年の夏、初めて進路調査票をもらったときは「実家から通える大学にする」と言っていた。おそらく都内か県内になるんだろう。少なくとも、一人暮らしはしないと思う。
 想像だけど、カナが家を出るのはきっと恋人ができたときだ。結婚を前提に同棲するんだって満面の笑みで報告してくる光景がリアルに浮かんで苦しくなる。

 カナの思い描く未来と俺の未来は違うんだって、ずっと前からわかっていた。
 でも、「よかったな」って、カナにだけは言われたくなかった。無神経だと思った。どうして気づかないんだよと叫びたかった。
 溜息が出る。
 カナが俺を幼馴染としてずっと大事に想ってくれているのは知っている。あの言葉だって他意はない。俺を想って言ってくれただけ。
 なのに俺は、俺のことばっかりだ。
「奏くんが残るなら、うちはここにあったほうがいいな。ここに残るにしても、一人暮らしするにしても、怜がいつでも帰ってこられるように」
「……うん」
 返事をしたけど、本当はわかっている。
 俺たちはもうすぐ大人になる。
 いつまでも子どものまま、一緒にはいられない。

 
 部屋に戻ってプロジェクターを起動した。何も考えたくなくて、ただ映画でも流そうとしたら、この間のデータが残っていたらしい。カナと一緒に観た懐かしいアニメが流れ出した。止めるのも億劫で、俺はベッドに寝転び、その映像をぼうっと眺めた。
 話の筋はほとんど忘れていた。でも、「ここすごいよな!」とはしゃいでいたな、とか「漫画と変わった!」と怒って俺を睨んでたな、とか、カナのリアクションだけはうっすら覚えていて、自分でも驚く。

 人の記憶はもろく、すぐに忘れてしまうというけれど、何度も何度も反復すると定着する。忘れられない記憶とはその瞬間を何回も追体験した証だ。きっと当時の俺は、カナのリアクションを何度も何度も思い返したんだろう。
「……カナ」
 流れてくる映像が眩しすぎて、両腕で顔を覆う。
 一緒にいられるだけで幸せだった。ぽっかり空いた俺の心の穴は、いつの間にかカナで埋めつくされていて、寂しさも孤独も消え失せていた。
 それだけでよかったのに。

 
 カナは俺の気持ちを確信しただろう。練習だとうそぶいて、「バーカ」と責められた頃にはもう戻れない。

 数時間前の俺は、ただの幼馴染でいたくないと思っていた。
 でも今は、ただの幼馴染に戻りたくてたまらない。
 キスなんてするんじゃなかった。しなければよかった。

 カナは今どうしているんだろう。できれば、そんなに落ち込んでなければいいんだけど――無理だろうな。泣き出しそうな顔が瞼の裏に焼きついている。素直なカナはきっと自分を責めて、いつまでも引きずるんだろう。あっけらかんとしているように見えて繊細で、一度転ぶとなかなか立ち直れないのがカナだ。
 明日は全部忘れて笑っていてほしい、なんて虫のいい話だけど、そう願ってしまう。
 今の俺は、カナのために何ができるんだろうか。
 明日から、どうすればいいんだろう。
 
 ***
 
 怜の好きな人が気になっていた。自分たちの間に割り込んでほしくなかった。
 奏の歪んだ欲望は、予想もしない形で成就してしまった。

 
 夕飯も食べずにベッドに潜り、奏はネットの海を彷徨い続けた。「キス 友達」「幼馴染 好き」「片想い」――色んなワードを組み合わせて検索しては、記憶の怜の言動と照らし合わせる。昨日今日より遡って、デート(の練習)に付き合わせたときのこと、ラブレターを自慢したときの反応、それよりもっと前――高校に上がってから泊まりに来なくなったことだって、今になって思えば全部が全部、伏線だったのかもしれない。

 じゃあ、無茶ぶりをしても付き合ってくれるところや、何だかんだ優しいところは?
 それは怜の本質であって、享受できるのは幼馴染の特権だと思っていたけど、もしもそうじゃなかったら? 怜に特別扱いされていると自覚はしているが、その「特別」とは?

 考え始めたらきりがないし、無意味なのもわかっている。ネットの海で見つかる答えなんて、大衆向けに書かれた占いと同じぐらい当てにならない。決まり切った型に怜を当てはめたって、本当の答えは見つからない。怜のことは怜に聞くしかないと、頭ではわかってる。

 でも、怜の気持ちを知った上で、これ以上踏みこんでいいわけがない。またあんな顔をさせてしまったら、今度こそ自分が許せなくなる。
 スマホが発熱し手のひらに汗が滲んでもなお、奏は答えを求め続けた。
 明日からどう振る舞えばいいのか。どんな顔をすればいいのか。
 怜を傷つけないためには、どうしたらいいのか、必死で考える。

 
 そのまま眠ってしまい、明朝、空腹で目が覚めた。怜を傷つけた云々と感傷に浸っていたくせに、夜は健やかに眠れて朝になれば腹は減りとどこまでも自分勝手で嫌になる。

 今日は土曜――月に一度の登校日だ。
 階段を下りると、本日休みの父親が両手にゴミ袋を抱えて、玄関を出るところだった。奏の顔を見るなり「母さんが心配してたぞ」と外に出て行く。こういうとき、過剰に心配しない父親の態度がありがたかった。

 まずは心配させてしまったことを謝ろうと、リビングに行くと真っ先に母親に謝罪した。
「昨日はごめん。ご飯食べなくて」
 母親は奏を見ると「体調は大丈夫そうね」と笑った。
「おなかすいたでしょ。残してあるけど食べる?」
「うん」
「先にシャワー浴びちゃいなさい」
「わかった。あ、ご飯は自分で用意するから大丈夫」
「じゃあ、冷蔵庫にラップしてあるのを温めて食べてね」

 早起きしたとはいえ時間は有限だ、さすがに二日連続で全力ダッシュは避けたい。
 奏は手早くシャワーを浴びて身支度を調えた。制服に着替え終わったタイミングで目覚ましのアラームが鳴ったので、それを消してリビングに戻って、自分の目を疑った。
「怜……?」
「あ……。おはよう」
 なぜか怜がダイニングで気まずそうに座っている。え? 夢?
 怜の横で平然とコーヒーを飲んでいた父親に視線で説明を求めると、「外にいたから連れてきた」と言って席を立ってしまった。
「仲直りしろよ」
 肩を叩かれ、そっと耳打ちされる。奏が思わず顔を見ると、父親はにやっと笑った。
「いつまでもいじけてんのは格好悪いぞ。寂しいのはわかるけどな」
 前言撤回、マジでうざい。怜に彼女ができて、自分たちの関係性がこじれたと思い込んで気を利かせてくれたつもりなんだろうが、違う。全然違う。今ふたりきりにされるのはめちゃくちゃ困るんだけど。怜の前でどんな顔してメシ食えばいいんだよ。
 怜も同じ気持ちのようで、手つかずのマグカップの前で両手を組み、所在なく指を動かしていた。

 とりあえず、放っておくわけにはいかない。何か喋らないと。
「……えっと、ごめん。連絡くれてた?」
「いや、俺が勝手に来ただけ。おじさんは俺に気を遣ってくれたんだと思う」
「どうせ自分が気持ちよくなりたいだけだろ」
 会話はそこで終了した。気まずい沈黙にじりじりと焼かれ、暑くもないのに背中を汗がつうっと伝う。どうしよう。いや、まずはメシ食わないと。
「朝ご飯食べていい?」
「うん、もちろん」
 短い会話を交わすと、奏は冷蔵庫から昨日の夕飯(さんまの塩焼きだった)を運び出し、レンジで温めた。白米に味噌汁を並べると豪華な朝食セットになった。
「朝から結構食べるんだね」
 今度は怜が口を開いた。場の空気を暖めようとしてくれたのかもしれない。が、逆効果だ。
「……昨日、夜、食べなかったから」
 いや、気まずい。気まずすぎる。これじゃあ怜のせいって言ってるみたいじゃん。当てつけじゃん。嘘でもいいから別の理由にすればよかった。とにかく、何かフォローしないと。
「あ、えっと……怜も食べる?」
「大丈夫。食べてきたから」
「あ、そっか。そうだよな」
 また会話が終わってしまう。次の話題はどうする。
 必死で考えていると、奏の腹が大きな音を立てて空腹を訴えた。タイミングが最悪だ。恥ずかしすぎて顔が熱くなる。
「ちがっ、今のは……」
「俺のことは気にしないでいいから。ていうか、外出てたほうがいいよな」
 立ち上がろうとした怜をとっさに制した。
「いやっ、いい、大丈夫だから。すぐ食うから。ちょっと待ってて、マジで食うから」
 奏の必死の剣幕に圧倒されたのか、怜は嘆息すると席に座り直した。
「ゆっくりでいいよ、って俺が言うのも変だな。邪魔しちゃってごめん」
「父さんが無理やり連れてきたんだろ。怜は悪くないから」
「いや、でも俺が急に来たせいで……」
「あー、謝るの禁止。とりあえずほんとにメシ食うから、適当にくつろいでて。あ、『エレファク』あるよ」

 貸すつもりだった漫画を怜に押しつけ、奏はとりあえずさんまの骨を取ることに集中した。骨も皮も全部綺麗に解体し終えたところで怜の様子をこっそり窺うと、大人しく漫画を読んでいたので少しほっとした。
 今のところは昨日のような剣呑さは感じられないけど、このあとはどうしよう。一緒に登校するんだよな。なら、何か平和に話せるネタがほしい。こんなことならおれも『エレファク』の最新刊を読んでおけばよかった。

「カナ」
「は、はいっ⁉」
 不意打ちを食らってびしっと背中を正すと、怜が目を丸くしたのち苦笑を浮かべた。
「そんなにかしこまんなくていいよ」
「急に呼ぶから……何だよ」
「うん」
 怜も、奏に合わせて背筋を正した。真正面から向けられる視線は昨日のような濁りはなく、朝の空気のように澄んでいる。

「昨日はごめん」
 そのために来たんだろうと思っていたので、奏は「うん」と相槌を打つ。
 気になるのは次の一手だ。昨日は確信めいた言葉は言われてないので、告白されるとしたら、きっと今だ。
 制服のシャツの下で心臓が大きな早鐘を打っていた。腿の上てズボンを掴む手には汗が滲んでいる。こんなに緊張したのは、高校入試の面接以来かもしれない。
 ぎこちなく呼吸する奏の向かいで、怜は視線を一瞬テーブルに投げ、もう一度戻した。そして、緊張を緩めるように柔らかく息をついた。

「……冗談にしては行きすぎてたよね」
「え?」
 思っていたのと真逆の展開に、呆けた声が出た。冗談? まさか、そんな。
 戸惑う奏を見て、怜は渋い笑みを浮かべた。笑わなければと思って必死に口角を上げているような、下手くそな笑顔だ。
 そして、頭をふかぶかと下げた。
「あんなに気まずい空気になるとは思わなかった。ごめん。昨日のことは忘れてほしい」
「忘れろって……」
「ごめん」
 奏が情けない声にも微動だにせず、言い訳も謝罪も口にせず、怜はただ、テーブルに額がついてしまいそうなほど頭を垂れている。

 怜は本気だ。本気で昨日のことをなかったことにしようとしている。冗談ということにして、忘れてほしいと奏に懇願している。そのために、こんな朝早く奏の元に来たのだ。
 どうしよう。どうすればいい。冗談ってなんだ。昨日のことを茶化して軽口でも叩けって? 俳優になったら主演男優賞狙えるかもよ、とか? できるわけない。
 いつも体温低めの怜のあんなに鬼気迫るような姿、あれが冗談だなんて絶対にありえない。怜がああまで感情を露わにするところを奏は初めて見た。
 もし、仮に百歩、いや一億歩譲って冗談だって言うのなら、こんなに真摯に謝罪をしなくてもいいはずだ。練習だった、虫の居所が悪かった、八つ当たりだった、言い訳なんていくらでもある。
 なのに怜は頭を下げ、奏に謝った。そして、奏が気まずくならないよう逃げ道を用意して、幼馴染を続けることを選んだのだ。自分の気持ちをなかったことにして。
 本当にそれでいいのか。
「頭、上げろ。怜」
 静かに頭を上げた怜と視線が交わった瞬間、奏は察した。
 怜はとっくに腹を決めている。下手な同情はいらないと目で叫んでいる。
 怜の意思が、望みが、テレパシーのように伝わってきて、奏は膝の上で拳を握りしめた。

「……アイス」
 ぶっきらぼうに言う。
「あとでアイス奢れ。……もうすんなよ。次はねーから」
 それが奏の精一杯の意思表示だった。忘れてほしいという怜の気持ちを汲む、という。
 怜も察したようで、ようやく表情を少し崩した。
「ありがとう」
「……次はないからな」
「うん。さんま食べるの上手くなったね」
「……怜が昔教えてくれたから」
 怜とこの家で、この場所で食事を共にしていたとき、怜があまりにさんまを上手く捌くのに感動して、やり方を教えてもらったのだ。一度じゃ覚えられなくて何度も、何度も聞いた。そのたびに怜は自分の食べる手を止めて、どこの身をほぐしたらいいのかきちんと教えてくれて。
「懐かしいな」
 奏が今まさに思っていたことを怜がそのまま口にする。
「よくここで一緒にご飯を食べさせてもらってたなって。朝も、夜も」
「……おれも今、そう思ってた」
「そっか」
 昨日と今日の世界は違う。でも、おれたちが幼馴染であることは変わらない。昨日も、今日も、明日も、これから先も、何があっても、ずっと。
 他でもない、怜がそれを望む限り。
 5
 
「おはよ、怜。ごめん待たせた」
「また寝坊? 夜更かししたんじゃないの」
「バズってた漫画が面白くてさ~。一気読みしちゃった。LINE見た? URL送ったから絶対読んで」
「はいはい。ほら、行こう」

 
 怜と幼馴染を続けることにしてから二週間、月が変わって十月になった。衣替えで制服のブレザー着用を言い渡されたけれど、長袖の上着を着る気候にはほど遠く、怜も奏もやや肌寒い朝晩はカーディガンを着て、日中は脱いでいるか、袖を捲って過ごしていた。
「今日、最高気温25度だって」
「げ、マジで? 教室暑そうだな~。カーディガンもいらねーかも」
「そんなに? あ、そっか。カナ、席替えして窓際になったんだっけ」
「そうだよ。マジで毎日クッソ暑い」

 いつも通りの会話をしながら通学路を歩く。クラスの話、宿題の話、来月の文化祭の話、漫画の話、キャッチボールは終わりなく続く。きっとはたから見れば何も変わっていないように見えるんだろう。玄関先で会った高橋には「おまえら相変わらず仲良いよな」としみじみ言われた。
「俺も幼馴染の輪に入れてくれよ~」
「いや何でだよ。中三からの浅い付き合いだろ」
 べたべたと肩に纏わりつく高橋を軽くあしらっていると、怜が溜息をついた。
「カナ、今日は普通に帰る?」
「うん」
「じゃあまたあとで。高橋、行くぞ」
「あ、ちょっと待てよ怜~。引っ張るなって! 行くから!」

 騒々しいふたりを見送って自席に向かう。席替えで窓際の真ん中の席に配置されてから、怜は奏のクラスに顔を出さなくなった。廊下側の列がたまたま全員女子になってしまったから、取次ぎを頼むのが煩わしいんだそうだ。以降、約束は全部LINEで済ませるようになった。
 これはこれで便利だし、怜も女子の相手をしなくて万々歳だろうけど、移動教室の通りがけや休み時間に怜が「カナ」と声を掛けてくれるのが好きだったから、少々寂しさと物足りなさを覚える。あれって実は特別なことだったんだな、と無くなってから気づいた。

 無くなったことといえば、もうひとつ。怜は奏のうちに来なくなった。
 関係修復を図った直後、何の気なしに「うちに来る?」と誘ったら、すごく申し訳なさそうな雰囲気で断られて、やばいこれ地雷だと瞬時に悟った。それからは一度も声を掛けていない。

 あれだけ頻繁に来ていた怜がめっきり来なくなり、奏の両親は当然、心配した。父親は「まだ仲直りしてないのか」と呆れ、母親も「本当に大丈夫なの?」と不安そうだった。とりあえず喧嘩しているわけじゃない、事情があるんだと説明して納得してもらったものの、怜が二度とうちに来ないかもしれない、とまではさすがに言えなかった。たまに「怜くんは元気?」と聞かれたときには、学校での様子を話すことにしている。

 
 一限の古典の時間、奏は机に頬杖をつき、グラウンドを眺めていた。怜のクラスは体育で、ちょうどサッカーの試合が始まったところだった。怜は――いた。遠目からでも目立つな。
「新瀬」
「え? ああ、サンキュ」
 回ってきた古典のプリントを後ろに回し、奏は自分の授業に戻った。教師の解説をプリントに書き込みながら。たまにグラウンドを目で追った。三度目か四度目に覗いたとき、怜がドリブルで数人を抜き、黄色い歓声がここまで聞こえてきた。あれでサッカー未経験だって言うんだから恐ろしい。神は二物を与えずなんて大嘘だろう。

 怜は小学校のときもサッカーの授業で活躍し、その噂を耳にしたサッカークラブから熱烈な誘いを受けたことがある。プロを輩出したことで有名なチームだったが、本人は全く興味を示さず「カナがいないから行かない」ときっぱり断ってしまった。
 あのときクラブチームに入っていれば、今頃はイケメンサッカー選手として全然別の人生を送っていたかもしれない。人生ってわかんないな、とグラウンドを見ながら思った。

 そういえば、と奏は机の中から別のプリントを取り出す。昨日、二年生全員に配布された進路票だ。文理選択と志望校を書くように言われたけれど、まだ何を書くか決めていなかった。理系は苦手だし興味がないので文系、でも進学先と言われてもぴんと来ない。古典はあまり興味がないし(今も正直つまらない)、英語は嫌いじゃないけど得意でもない。現代文は得意だけど、そうなると文学部とか? そんな消去法で決めちゃっていいのかな。

 怜はどうするんだろう。さすがにもう「カナがいるから」が選択の理由にはならないか。前々から交通事故を減らすような仕事をしたいと言っていたので(怜の母親は事故で亡くなった)、色々調べているのかもしれない。昨日聞いたら「考え中」って返されたし。
 奏は強い希望や野望もないので、文系の学部があるなら怜と一緒のところでと密かに思っていたのだが、今の状況だと難しいだろう。怜はいいよと言ってくれそうだけど、いつまでも奏が腰巾着だと困るかもしれないし。

 部屋に誘って断られたとき、こいつ、本当におれが好きなんだ、と奏は改めて思った。あの拒絶は、邪な気持ちが少しでもあるから二人きりは困るという意思表示だろう。それを知っているのに一緒の大学に行きたいなんてとても言い出せない。

 まあ、あの件がなかったとしても、自分の進路を幼馴染の行き先に合わせます、なんて言ったら、教師や両親に自分のことは自分で決めろと説教されるだろう。
 子どもの頃は友達と仲良くしましょう、大事にしましょう、協力しましょうと散々言われてきたのに、大人になると手のひらを返すように独り立ちを求められるのが解せなかった。自分のことを自分で決めなければいけないのは当然として、みんな寂しくないんだろうか。自分の半身のように近しい相手と別れて平気なんだろうか。
 怜は、どう思っているんだろう。

 
 あくる日の授業中、クラスの女子からメモが回ってきた。次に回すつもりで宛先を見て驚いた。「新瀬くん」と書いてある。マジかよ。やや挙動不審になりながらメモを開くと、放課後、校舎裏に来てほしいと書かれていた。マジかよ。
 ラブレター事変から早一か月、まさか二通目の手紙をもらってしまうとは。しかも今回は呼び出しを食らっている。相変わらず差出人不明なのが引っかかったが、行けばわかるだろう。

 放課後、怜に「先に帰って」と連絡しようとスマホをタップした。
 でも、もし突っ込まれたら何て答えればいいんだろう。報告ぐらいしたほうがいいのかな。いや、普通の幼馴染はしないのかな。ラブレターのときはテンション高く自慢しちゃったし。あれもあれで地雷だったんだけどな。何が普通なのか全然わかんねえ。
 とりあれず「用事ができたから先に帰ってて」とシンプルな文面を送ると「わかった」とすぐに返事があった。騙してしまったようで気が退けるけど、こればっかりはしょうがない。

 暮れなずむ校内を早足で歩いて校舎裏に向かうと、建物の影になっている部分から「新瀬くん」と呼ばれた。聞き覚えがあるけど知らない声だ。うちのクラスの子じゃないような。
 半信半疑で声のした場所に近づき、驚いた。
「み、三澤さん⁉」
 まさかの相手に声を上げると、「しっ」と人差し指で制される。
「ごめんね、急に呼び出して。ていうか、私のこと知ってるんだ」
「いや、まあ……」
 色んな意味で知ってます、とは言えずに曖昧に濁すと、三澤の双眸が期待に輝く。
「もしかして、月峰くんから何か聞いてる?」
「は? 怜?」
「新瀬くん、幼馴染なんだよね」
「そうだけど……」
 盗み聞きした日から今日まで、相変わらず怜の口から三澤の話題は聞かない。奏の知らないところで仲良くしてるのかもしれないけど。
「いや……ない、かな?」
「そっか」
 あからさまに落胆する姿に、ここに呼び出された意味を確信した。
「おれを呼び出したのって、怜のこと?」
 三澤は申し訳なさそうに眉を下げた。
「うん、ごめんね。だまし討ちみたいになっちゃって。ほんとはLINEで連絡取りたかったんだけど、新瀬くんのID知ってる人が私の知り合いにいなくて……。だからミホ、神崎ミホわかる? あの子に手紙回してもらったんだ」
「あれ、でも神崎さんなら、クラスのグループLINEでIDわかると思うけど」
「え? あ、そっか。確かに。手間掛けちゃってごめんね」
 事情はわかった。が、気まずい予感がする。
「で、用件は?」
「うん。ここだけの秘密にしてほしいんだけど、私、実は先月月峰くんに告白してて、結果は振られちゃったんだけど……」
 ごめん知ってる、聞いてたし。
「新瀬くん、月峰くんの好きな子って知ってる?」
「へ?」
 不意打ちに素っ頓狂な声を上げてしまい、三澤は「ほんとにいるんだ」とひとりごちた。
「断るためにでっちあげたのかなって思ったんだけど、違うんだ。ほんとに実在する人?」
「え、っと、いや……」
 実在するもなにも、今目の前にいるんだけど。
 そんなこと口が裂けても言えるはずもなく、しかし否定したところで白々しくて信じてもらえないのは明白だった。嘘をつけない自分を今日ほど憎く思った日はない。
 かといって下手なことを口にすれば、巧みに誘導尋問に持ち込まれそうな気がする。そうなったら絶対に勝機がないので、とりあえず、お茶を濁すことにした。
「……ごめん。おれの口からは言えない」
「そっか。そうだよね。うん、ごめんなさい。無理に聞き出すつもりはないから」
 あれ、あっさり引き下がった。意外だ。
 驚く奏を見て、三澤は眉を下げて小首を傾げた。
「月峰くんに本当に好きな人がいるのか知りたかっただけなんだ。だから、これで十分。ありがとう」
「じゃあ、知ったから諦めるってこと?」
 無礼を承知で尋ねると、三澤は綺麗な笑みで「違うよ」と手を振った。
「月峰くんって漫画好きでしょ。二次元とかVtuberとかが相手だったら次元違うし無理って思ったんだけど、相手が実在するなら戦えるから。付き合ってないって言ってたし」
「はあ……」
 奏は呆けた相槌を打つ。情報量の多さに頭が追いつかなかった。
「新瀬くん、ありがと。ほんとは名前も聞けたらラッキーって思ってたけど、そこはちゃんと口堅いんだね。幼馴染っていいね」
 三澤は最後に満面の笑みを浮かべると(めちゃくちゃ可愛かった)、颯爽とその場を去っていった。残された奏は、遅れて「え」とつぶやく。
 もしうっかり口を滑らせてたら、おれはどうなってたんだろう。三澤さんに決闘とか申し込まれてた感じ? さすがに漫画の読み過ぎか、って、そうじゃない。
「諦めてないんだ……」
 怜にこっぴどく振られて、あの場で終わったんじゃなかったのか。メンタル強いな。
 で、これは怜に伝えるべき? いや、さすがに無神経だよな。三澤さんがおまえのこと諦めてないよ、って、一体どの口で言えばいいんだか。

 
 ところが、更に想定外が発生した。校舎裏で奏が三澤と話していた姿が目撃されていたのだ。教室で奏宛ての手紙が回っていたことも相まって、翌日には「三澤が奏に告白した」と噂になってしまい、校内がざわついていた。三澤は全学年にファンが多いのだ。
 
もちろん奏は噂を聞いた瞬間、慌てて否定した。あまりに不釣り合いで申し訳なさすぎる。三澤さんごめん。しかし、その対応が悪手だったようで、昼前には「三澤が奏に告白して振られた」と改悪された噂が拡散されていた。

 おかげで好奇と嫉妬と懐疑の目で見られて散々だ。特に「なんであんなチビが」みたいな薄汚い嫉妬をめちゃくちゃ感じたし、何なら陰でコソコソ言われた。言いたいことがあるなら直接言えばいいのに。つーかおれは無実なんだけど。

 そして、ありえない噂を真に受けたバカが、目の前にもう一人。
「三澤がカナに告ったって本当?」
 昼休み、人のいないところで昼食にしようと屋上に逃げたら怜がやってきて、口を開くなりこれだ。
「嘘に決まってんだろ。絶対ありえないって見てわかんねーの。つか、誰のせいでこんなことになったと思ってんだよ」
「え? 俺?」
「他に誰がいるんだよ」
 黙秘を貫くつもりだったが、これほど大事になってしまった以上、火消しをしないわけにはいかない。怜に勘違いされたままでは三澤もかわいそうだ。
「三澤さんに呼び出されたのは本当。でも、聞かれたのは怜の話だった」
 隣に座った怜は、黒いカーディガンの袖を捲りながら「そういうこと」とつぶやいた。
「ていうか暑くねーの。おれなんか学校着いて即脱いだんだけど」
「脱ぐほどじゃない。で、三澤は何て?」
 怜の好きな子を知っているか。でもそれを自分の口から言うのは憚られる。どうしよう。
 まごついていると、怜が息をついた。
「……俺の好きな人は誰か、とか?」
「え」
 奏の反応を見て、怜は「ビンゴ」と涼しい顔で言った。
「なっ、おまえ今嵌めたな⁉」
「大体予想できるだろ。それで? カナは何て返したの」
 意地悪な質問だ、と奏は苦々しく思った。
「……おれの口からは言えない、って返した」
 怜の相槌は「そう」と素っ気ない。
「まあ、根掘り葉掘り、は聞かないか。三澤はそういうことするタイプじゃないだろうし」
「うん、聞かれてない」
「じゃあ他には? 何か言ってた?」
「あとは、現実世界にその相手がいるかどうかって話を……」
「は?」
 事のあらましを説明すると、怜の眉間にみるみる皺が寄った。
「同じ次元だったら戦える、ねえ……」
「怜、なんかオタクと勘違いされてたっぽいけど」
「一緒に漫画の話してたから」
「あ、そーなんだ……。三澤さん、漫画とか読むんだ」
「それ、向こうも俺に言ってたな」
「へえ……」
 今も仲がいいのかな。漫画の話をしてるのかな。さっきの発言は過去形だったけど。
「三澤さんとは相変わらず話してんの」
 弁当を食べながら何気なく尋ねてみると、怜はメロンパンにかぶりつく直前で止まり、奏を見た。
「気になる?」
「え?」
「いや……。あれからほとんど話してないよ」
 そう言って、怜は誤魔化すようにパンを食べた。奏は一拍おいた後「そっか」と素知らぬ風に返事する。
「おれさ、三澤さんと全然接点なかったけど、今回喋ってみたら意外っていうか、イメージと結構違ったかも」
 気まずい空気を払拭すべく話題転換を試みると、怜の顔が少し曇った。
「……どういう意味?」
「イメージ、もっと手の届かない高嶺の花だって思ってたけど、案外強かっつーか」
「ああ……。まあ、強いよね」
 あっさり返されて、その辺もちゃんと知ってるんだ、と思った。一回話しただけの奏とは違って、怜は半年近くクラスメイトとして彼女とそれなりに付き合ってきたのだから当然か。

「あ、いた! 新瀬くんと……月峰くん」
「え?」
 声の方向に目をやると、女子がふたり、こっちに駆け寄ってくる。
「三澤と……?」
「神崎さんだ。うちのクラスの。友達だって言ってた」
 奏たちに近づいてくるなり、神崎は「付き添いだから」と言って一歩後ろに下がり、逆に三澤が一歩前に出る。え? まさかここで告白? ここで?
 心臓が嫌な感じにざらつき、奏は息を呑んで身構えたのだが。
「新瀬くん、ごめんね。巻き込んじゃって」
 三澤は奏に向かって手を合わせた。
「……へ? おれ?」
「早く謝りたかったんだけど、ふたりで会うとまた変な噂になりそうだから……。それでミホについてきてもらったんだ。ごめんね」
 まさか三澤に直接謝罪されるなんて思わなかったのでびっくりだ。
「あ、いや、そんな。おれは別に……。今回のことは外野が悪いし、信じるほうも信じるほうだよな。なんでおれなんかが三澤さんにって……」
「そう思わないから噂になるんだろ」
 必死にフォローする奏に、それまで黙っていた怜が冷ややかな目で横やりを入れてきた。いや、何で怜が怒ってんの。
「そうだよ。新瀬くん結構人気あるよ。可愛いって言われてるし。ね」
「一部で人気だよね」
 なぜか三澤も便乗してきたし、神崎も微妙な同意をくれたが、全体的にあまり嬉しくない。
 怜が「それで?」と三澤に尋ねる。
「今ここに長居されるとまた変な噂になるんじゃない」
「それもそうだね。新瀬くん、ほんとにごめんね。そのうち静かになると思うから……」
 申し訳なさそうな顔を見て、かわいそうだなと思った。目立つが故、周りにああだこうだ言われる怜を間近で見てきたので、三澤の苦労が察せられる。
「おれは平気。三澤さんのせいじゃないんだし気にすんなよ」
「優しいんだね。ありがと。……あ、そうだ月峰くん」
「何?」
「文化祭の準備、グループ一緒だよね。よろしく。じゃあ、お邪魔しました」

 女子たちが嵐のように去っていき、怜が疲れたような溜息をついた。見るからに不機嫌です、というオーラを漂わせている。昼休みは静かに過ごしたかったってやつかな。邪魔して申し訳ない。
「なんか、ごめん。騒々しくて」
 怜がむっとした。
「何でカナが謝るんだよ」
「だって……。いや、まあ、そうだな。悪いのは外野だな」
「そもそも誤解されることするなって感じだけどね」
 更にいらいらが増している。面倒くせえ。
「しょうがないだろ、たまたま見られちゃったんだし」
「見られるようなところに呼び出すほうも悪い」
「だからわざわざ謝りに来てくれたんだろ。いい人だな。またイメージ変わったかも」
 強かな人、からの、ちゃんとしてる人。いい人。怜が心を許したのもわかる気がする。
「どうだろ。俺の前でああ言えばカナとの誤解も解けるし、ラッキーって思ってたりして」
「えっ」
「さっきカナが言ってたけど、三澤、頭良くて強かだから、そういうこと考えてる可能性もあるよ」
 言われてみれば、確かに筋は通ってる。
「まあ、いいよ。謝ってくれたのは事実だし、おれはそれが嬉しかったし」
「……カナ」
「ん?」
 物言いたげな目でじっと見られて、なのに何も言ってくれないから居心地が悪い。
「何だよ」
 溜息がひとつ。
「……早く食べないと昼休み終わるよ」
「げ、やば!」

 
 そのときは何とも思わなかったのに、時間が経つにつれ、昼休みの出来事が胃もたれみたいにじわじわ主張し始めた。HRで一か月後の文化祭の話題が出された瞬間、奏は机に突っ伏した。

 三澤さん、文化祭までに距離縮めて、怜にもう一回告白すんのかな。昨日の呼び出しって、たぶんそういうことだよな。同じグループって言ってたし、毎日一緒に残って作業するのかな。あんなに可愛くて性格もいい子が傍にいて、本気でアプローチしてきたら人類の大半はコロッと落ちちゃいそうだけど、怜は大丈夫なのかな。いや、大丈夫って何がだよ。
 自分の思考の行き先がよくわからない。何でこんなに胸がむかむかするんだろう。怜が三澤さんとくっついちゃうかもって不安になってるのか? まさか、そんな。

 でも、考えてみれば昼休みの怜の行動はちょっと不可解じゃないか。初めは三澤と奏の噂を気にしていたのに、三澤とのやりとり――怜の好きな人を濁したと言っても「そう」の一言で、気まずそうな素振りは一切なかった。少し前の怜なら辟易としていたはずなのに。

 もしかして、怜ってもう吹っ切れてんのかな、おれのこと。
 あれから二週間以上経ち、自分たちの関係性も無事に元の鞘に戻りつつある。奏への気持ちに片が付き、何なら、他に好きな人ができたっておかしくない。
 いや、いくらなんでも早いか? でも、怜が何考えてんのかわかんないし、実は今になって三澤さんの魅力に気づいて、いいなって思い始めてたりして。三澤さん、可愛いし明るいし頭いいし、全然あるよな。今日の噂を気にしていたのも、そのせいだったりして。

 実際、ふたりはめちゃくちゃお似合いだと思う。見た目が浮世離れしている美男美女、でも中身は普通の高校生で趣味も合う。以前、日常会話を盗み聞きしてしまったが、互いに気安い感じで、相性の良さが聞いて取れた。
 もし怜の、奏への気持ちが本当に過去形で、その状態で三澤が猛アプローチしてきて、再び告白されたら、怜は――。

「ええー⁉」
「うそ、最悪!」
 急に教室が騒がしくなり、奏はそっと顔を上げた。一切聞いていなかったので、どうしてこんなに荒れているのか、状況がさっぱり理解できない。
「……なんかあったの?」
 隣の席の子に聞いてみると、「聞いてなかったの?」と呆れられた。
「文化祭の出展、うちのクラス、食品希望で出してたでしょ。この時間の裏で抽選してたんだけど、外れちゃったんだって」

 奏の高校の文化祭は、一・二年がクラス毎に出し物を担当する。カテゴリは大きく三つで、カフェなどの食品出店、オバケ屋敷などの企画出店、演劇や歌唱などのステージ出場だ。学年毎に出店数の上限が決まっていて、希望が殺到した場合は公正な抽選がなされ、落選したクラスは文化祭の補助――本部や休憩所の設置・案内係を担当する。
「ってことは、おれたちは補助?」
「休憩所担当だって。ほとんど準備なくて楽だけど盛り上がらないよね」
 せっかくの青春なのに、とクラスメイトがぼやいた。そういえば、文化祭シーズンはカップル成就率が高い。去年のクラスはオバケ屋敷を担当したのだが、奏の与り知らぬところで五組ぐらいがお付き合いに至っていた。奏の両親も同じく。
 もしかしたら、怜だって。
 以前の奏なら、隣の席の子に同意し、がっくりしていただろう。しかし今、奏の脳裏に浮かぶのは怜のことばかりだった。

 
「怜のクラスって何やるの?」
「企画。謎解き迷路」
 今年は食品にクラスが殺到したそうで、企画は抽選にならなかったんだという。
「うちのクラスも第二希望に企画入れとけばよかったのにな」
「入れなかったんだ」
「うん。なぜか。怜は何担当するの」
「謎解きの制作。結構数作んなきゃいけないから、当分は一緒に帰れないと思う」
「そっか。ふたりで作んの?」
「ふたり?」
「三澤さんが昼に言ってたじゃん。一緒だって」
「四人だよ。俺と三澤と、あとふたり。クラスの成績順で決められた」
「え? マウント取ってる?」
「何でそうなるんだよ」
「ジョーダン。頑張れよ。おれも遊びに行こうかな。たぶん暇してるし一緒に回んねえ?」
「……いや、俺、当日も色々やることあるから」
「あ、そうだよな。そりゃそうだ。忙しいよな」
 準備に当日の当番に打ち上げに、企画を担当するクラスはとにかく忙しい。去年は大変だったもんなあと前回の文化祭に思いを馳せた。

「でもさ、去年楽しかったな。オバケ屋敷」
 奏は怜と一緒に大道具担当で、毎日遅くまでクラスメイトたちとオバケ屋敷のレイアウトを考えて、ああだこうだ言いながら段ボールで組み立てていた。
 すると、怜がくしゃくしゃの笑顔で笑った。
「カナ、リハーサルで本気でビビって絶叫してたよね。みんなそれでテンション上がってた」
「だってマジで怖かったんだって。足元から手がにゅって出てきて掴んでくるんだぜ⁉ しかもすげー冷たいんだよ。コールドスプレーで冷やしてたんだっけ? よくやるよな」
「あのアイデア、俺が出したんだよ」
「は⁉ マジで?」
「運動部のやつが持ってたのを見て、カナなら絶対びびるんじゃないかなって思ってやってもらったら、大当たり」
「マジかよ……。あれ考えたヤツ、相当性格悪いと思ってたんだけど」
「あんなに驚いてもらえて光栄だったよ」
「ったく。……でも、今年で最後か」
 ふたつの影が夕日に伸びるのを見ながら、奏はつぶやく。
 受験のため、三年は有志または当日参加のみが許されている。クラス出展は二年が最後。だからこそ抽選を当てたかったとクラスの実行委員が涙していた。
「一年は抽選でもいいけど、二年は全員参加にしてくれればいいのに」
 とはいえ、学校で決まってしまっているものを自分たちがどうにかできるわけでもない。何かを変えるにはエネルギーが必要だが、そこまでの熱心さは奏にはなかった。自分のことで手一杯なのだ、それより大きな物を動かす余裕はない。

「なあ怜、進路票、書いた?」
「まだ。今父さんと相談してる最中」
「おじさん、また帰ってきてんの?」
「いや、週末に面談しに帰ってくるから、通話でその打ち合わせしてる」
「え? 面談って三者面談? 来月じゃなかったっけ⁉」
 予定を見間違えたんじゃないかと焦ると、「合ってるよ」と宥められた。
「父さんが繁忙期だから、先生に頼んで早めにしてもらったんだ」
「あ、そっか、紅葉の時期は混むんだっけ。もう秋だもんな」
 街路樹はまだ色づきもしていないけれど、若葉の頃のようなみずみずしさは見られない。そのうち色が変わり、枯れて落ちてしまうんだろう。そして、あっという間に冬が来て、一年が終わる。
「なんか、来年の今頃は受験生って全然実感ないよな。どこ行くとか何やりたいとか聞かれても全然わかんないっつーの。みんなよく決められるよな」
「カナはやっぱり自宅から通うつもり?」
「そうだよ。怜もそうだろ?」
 すると、怜は少し口ごもった。
「怜?」
「……父さんに、どこにでも行っていいって言われた」
「ん? 何の話?」
「大学。国内でも国外でも、東京でもそうじゃなくてもいいって」
「国外⁉」
「大袈裟だろ。俺もそう思った」
 怜は軽く笑い、遠くの景色を見ながら話を続けた。
「でも、調べてみると選択肢って案外色々あるんだ。国外はさすがに考えてないけど、地方にも有名な教授がいたり、この辺にはない学部があったり。都内の大学も、意外と特色が分かれてて、見てると面白い」
 吹き抜ける秋風がシャツの布目をくぐり抜けて骨に染みいった。その冷たさに、カーディガンを教室に忘れてきたことを思い出した。
「じゃあ、カナ。また明日」
 分かれ道で怜は踵を返した。黒いカーディガンの背中が闇に溶けるのを見送っていると、また風が吹きつけてきた。秋の風ってどうしてこんなに冷たくて、寂しいんだろう。

 
 周りのクラスが文化祭の準備で盛り上がる中、奏は進路指導室を訪れ、大学のパンフレットや進路案内の本を眺めていた。自宅から通えて偏差値的にも頑張れば届きそうな大学の文系の学部、という条件で候補を三つ挙げ、自宅に一番近い順で進路票に記す。雑な決め方だが、他に選ぶ基準もないし、行きたいところもないし、まあいいか。

「やべ、カーディガン忘れた……」
 玄関で肌寒さに身震いし、腕をさすって気づく。出る前でよかったと教室に戻り、ベージュのカーディガンを着込んで再び廊下に出ると、隣の教室が賑わっていた。
「あれ、カナじゃん。おっす」
 段ボールを両手に抱えた高橋がやってきて、奏を見るなりニヤニヤと笑う。
「いや~抽選落ちは暇そうだなあ。こっちは毎日下校時間ギリギリだよ」
「うぜー。おまえ、それあんま言うなよ。暴動起きるから」
「わかってるって。なあなあ、ちょっとカナに聞きたいことがあるんだけど」
 高橋は段ボールをその場に置いて、奏を手招きする。「何だよ」と近づくと耳打ちされた。
「カナと怜が三澤さん巡って三角関係ってマジ?」
「……は?」
「あ、やっぱ違うか。そうだよな。カナが三澤さんはちょっと……」
「いや、ちょっと待て。何その話」
「知らねーの? ほら、あれ」
 今度は教室を覗くように指示された。この教室で覗き見はちょっと気が引けるが、高橋の言葉が気になったので、しぶしぶながら従った。

 教室の前方では大道具と小道具が作業を行い、後方の窓際では四人組のグループが顔を寄せ合っている。その中に怜と三澤がいた。
「後ろのグループが謎解き班なんだけどさ、怜と三澤さんが一緒なんだよ」
「知ってるよ。本人から聞いた。で、それが何?」
「よく見ろよ。あのふたりの距離、なんか近くねえ?」
 と言われても。
「普通に座ってるだけじゃん」
「今はな。あ、ほら、見ろ」
 三澤が怜の方に身体を寄せたのを見て、高橋が声を上げる。その直後、怜が少し首を傾げて内緒話するようなポーズを取ると、高橋はますます興奮して奏の肩を何度も叩いた。
「な、な、やばいだろ。怜って女子にああいうことされるの好きじゃないんだって思ってたけど、やっぱ三澤さん相手だとデレるんだな」
「ちょっ、わかったから叩くなって……」
 すると次は奏の肩に抱きつきながら、「ほんとによかったよ」としみじみ言った。
「は? 何が?」
「噂は事実無根でカナは無関係なんだろ。俺はそうじゃないかって思ってたけどさ、カナと怜がマジで三角関係だったらどっちの応援すればいいか困ったからさ~。よかったよかった。これで怜を応援できる」
「……応援」
「俺たちは怜の応援団ってことで。んで、もし怜が三澤さんと付き合ったら友達紹介してもらおうぜ。そんときはカナと俺と三対三だからな」
「そっちが目的だろ。……おれ、もう帰るから」
 これ以上ふたりの姿を見たくない。高橋の腕を強引に引き剥がし、奏は踵を返した。

 
 帰宅すると、今度は父親に掴まった。
「会社は?」
「今日は休み。奏、買い物行ってきてくれ」
「あー、今日は父さんの料理の日か……」
 下降気味のテンションが更に低くなる。
 月に一度、母親が祖父母の様子を見に実家に帰るので、それに合わせて父親は有休を取り、料理を含めた家事全般を執り行っている。奏は父親から命じられ、料理のサポートと食器洗いを担当しているのだが。
「作るのはいいけど、ちょっとは片付ける人の気持ちにもなってよ……」
 父親が料理した後のキッチンは惨状だ。ゴミはあらかた片付いているものの、使用済みの鍋や食器がシンクにいくつも放られていて、うんざりする。今日も既にキッチンが荒れているのが見て取れた。あれを片付けるのか。嫌だな。
「お釣りは小遣いにしていいから、ほら、早く行ってこい」
「えー……」

 文句を垂れながら家を出て、駅前のこじゃれた輸入食品店で指定された調味料を買った。たった一回のためにこんなに高いの買ってどうするんだと思いながら、うちに帰ろうとしたときだ。
「奏くん?」
「あ、怜のおじさん」
 キャリーケースを片手に、笑顔で向かってきたのは怜の父親だった。相変わらずしゃんとしていてスタイルが良く、スーツが似合っている。
「おじさん、久しぶり。今帰ってきたの?」
「うん。こっちはまだ暑いな」
「朝晩はさすがに冷えるけどね」
「そっか。いや、ほんとに久しぶりだね。元気? 買い物?」
 片手に持った買い物袋を見せびらかし、「父さんの手伝い」と言うと、怜のおじさんはくしゃっと笑った。顔はあまり似ていないのに笑い方は怜にそっくりだから不思議だ。
「おじさん、うちに寄ってく? 父さんいるし、母さんも夜には戻ってくるよ」
「ありがとう。でも、このあと学校なんだ。怜の三者面談で」
 前に怜が言っていた話か。
「怜の進路ってもう決まった? おじさんに相談してるって言ってたけど」
「まだ決められないって言ってたよ。いくつか絞ってるみたいだから、オープンキャンバスや文化祭に顔を出してみたらって話してる」
「あ、そうなんだ」
 やっぱり真面目に考えてんだな。でも完全に置いていかれたわけではないので、少しほっとする。
「奏くんは?」
「おれは、まあ、家から通えるところでいくつか」
 さすがに家から近い順で決めたとは言えなかった。怜の父親は「そういう考えもあるよな」と穏やかに聞いてくれそうだけど。
 自分のことはどうでもいい。この間、怜には聞けなかったことを聞いてみたくなった。
「……怜って、ここから離れるの? 色んなところを見てるって聞いたけど」
 怜の父は、奏の言葉を受け取り、少し悩んだようだった。
「あ、話せないなら全然いいけど」
「いや、気を遣わせちゃったね。ごめん。怜が、奏くんには自分から話したいんじゃないかって思って」
 それってつまり、と思ったのが顔に出たのか、怜の父は慌てて「ごめん」と繰り返した。
「変な意味じゃなくて。えっと……。そうだな、関東近郊以外も候補には入ってる。ただ、さっきも言ったけど決まったわけじゃない」
「そ、っか」
 とりあえず国外じゃないことにほっとすればいいのか。いや、毎日顔を合わせられない距離っていう意味では、国内だろうと国外だろうと変わらない気がする。今と比べたらどちらもすごく遠い。
 いや、違う。今がすごく近いんだ。
「おれ、怜もここから離れないだろうなって勝手に思ってた。だから、それ以外も見てるって言われて、正直びっくりして。おじさんが言ったんだよね。どこにでも行っていいって」
 責めるつもりはなかったけど、そうとしか聞こえない口調になってしまった。案の定、怜の父親は眉を下げてまた謝ってきたので、奏はかぶりを振る。
「おれがガキなだけ。変なこと言ってごめん」
「そんなことないよ。奏くんは優しいな」
 頭をぽんと撫でられた。
「怜をここから離したかったわけじゃないんだ。ただ、可能性を潰してほしくなかった。怜はここが――君が好きだから、きっと他のことは考えていないと思って」
 好き、という言葉にどきっとしたが、怜の父のまなざしから、奏が思っているニュアンスとは違うものなんだと察した。
「だけど、それも親の傲慢なのかもしれない。怜には本当に寂しい思いをさせてしまったから、幸せになってほしいんだけど、難しいな……」
「怜、今は楽しそうだよ。ほんとに。嘘じゃないから」
「知ってるよ。奏くんのおかげでね」
 怜の父親が柔らかく目を細めて笑う。
「本当に、奏くんのお父さんとお母さんと、奏くんには感謝してる。助けられてばっかりだ。本当にありがとう」
 そう言って姿勢を正すと、奏の目を真っ直ぐ見た。
「これからも――この先も、怜と仲良くしてもらえたら嬉しい」
「そんなの、当たり前だよ」
「ありがとう。奏くんがいてくれてよかった。息子のこと、よろしくお願いします」
 深く頭を下げる姿が、この前の怜と重なって見える。
 もちろん、と胸を張って答えたかった。でも、上手く言葉にならなかった。

 
 自宅は香ばしくて複雑な匂いに包まれていた。どうせ妙に凝ったカレーでも作ってるんだろう。買い出しの内容もお高いスパイスだった。
「はい。頼まれてたやつ。カレー作ってんの?」
「ああ。スパイスが足りなかったんだ。助かった」
「おれ、普通のルーのが一番いいんだけど……。あ、さっき、怜のおじさんに会った」
「え? どこで?」
「駅前」
 既に惨状と化しているシンクを片付けながら答える。
「戻ってきてたんだな。何も言わないなんて珍しい」
「うちに誘ったんだけど、怜の三者面談があるからゆっくりできないって言ってた。また今度って」
「進路か。確かにそういう時期だな。怜はどこ行くんだ?」
「知らない。ただ、こっちを離れるかもって」
「そうか」
「驚かないんだ」
「和人――父親の大学が関西だからな」
 意外な新情報だ。
「え? そうなの?」
「知らなかったのか?」
「いや聞いてない……。父さんたちって大学も一緒だったんじゃないんだ」
「ちなみに、父さんと母さんも別の学校だぞ」
「え、そうだっけ? そうなの?」
 鍋を洗いながら事情を聞いた。両親はそれぞれ実家から別の大学に通い、卒業前に同棲。怜の父親は関西で一人暮らしをしていて、就職と同時に戻ってきたそうだ。
「関東と関西って、どのぐらいの頻度で会えんの?」
「会おうと思えば会えるんじゃないか。俺たちの場合だと正月に会うぐらいだったな」
「うわ、全然じゃん」
「しょうがないだろ。金が掛かるんだよ。メールもお互い放置してたから、会えると大体夜通しで酒飲んでたな、懐かしい」
「いや返さなかったの絶対父さんだろ」
「お、よくわかったな」
「わかるよ……。怜のおじさんは寂しくなかったのかな」
「何だ、俺の心配じゃないのか?」
「父さんは母さんがいたんだからいいじゃん。おじさんはひとりで関西だろ」
 すると、父親が苦々しく言った。
「……それが違うんだよ」
「違うって?」
「和人のヤツ、大学入るなり彼女作って、即、半同棲だ。――怜の母親とな」
 これも初耳だ。
「え? そうなの? 大学の同級生だったんだ」
「ああ。初めて彼女連れて帰ってきたときは、幸せそうな和人をホームに突き落としてやろうかと思ったよ」
「おい」
「いや、本気で。その頃は母さんと物理的に距離があったからな。マジで爆発しろって思ったよ」
 いちいちワードが不穏すぎる。マジで大人げないなこの人。
「ま、父さんも母さんと一緒に暮らしてからはそんなこと一度も思わなかったから、やっぱり距離は大事だな。大事な相手とはなるべく近い方がいいぞ」
 偉そうにまとめられたけど、物申したい。
「おじさんとは遠いじゃん。大事な幼馴染じゃねーのかよ」
「大事のベクトルが違うんだよ。あいつとはたまに会って話すぐらいでも十分なんだ」
 よくわからない、と思った。少なくとも奏は怜に対してそんな風には思えない。
「ていうか、母さんと父さんってそんなに離れてたの? 地元近いよね?」
「電車でお互い三十分ぐらい」
「ちけーよ!」
「一般的にはな。でも、遠かったんだよ」
 はっとして父親に目をやると、真剣な表情でフライパンをかき混ぜていた。奏の視線に気づくと、「サボるな」と野次を飛ばしてくる。
「父さんこそ焦がすなよ」
「焦がすわけないだろ」
 奏はもう一度シンクに向き直り、泡にまみれた食器を流していく。
 
 父親渾身のスパイスカレーは店にありそうな複雑な味わいだった。本人と母親は満足そうにしていたが、奏個人としてはやはり母親の作るいつものカレーのほうが好みだった。
 片付けを終えて部屋に戻り、明日の予習を済ませたところでスマホが震え出した。怜だ。

「もしもし? どした?」
『今平気?』
「平気。ちょうど予習終わったとこ」
 すると怜は「家にいるんだ」とちょっと不満げだ。
『LINE見てない? メッセージ送ったんだけど』
「あ、ごめん。見てねーわ。今見る」
『いいよ。カナ、父さんに会ったんだって?』
 なるほど、その話かと合点がいった。
「あー、うん。会った。そっか……。三者面談終わった? 今、学校?」
『終わって、今帰ってきた』
 帰って早々に電話をくれたらしい。そんなに急がなくてもいいのに。
「かけ直す? おれは大丈夫だから後でもいいけど」
『俺に聞きたいことがあるんじゃないの』
 今すぐ話せ、という圧を電波越しに感じ、奏はおそるおそる尋ねた。
「大学の話、おじさんからちょっとだけ聞いたんだけど、結局どこ行くの?」
『……東京と、あとは関西』
 やっぱりな、と思った。
「そっか。おじさんも関西だったんだよな。さっき、父さんに聞いた」
 父親の言葉を思い出し、勝手にしんみりした。怜が関西方面に進学したら、自分たちも一年に一度ぐらいの頻度でしか会わなくなるのかもしれない。
『まあ、まだ決めてないから。都内の大学も気になってるし』
「あ、そうなんだ」
『……でも、その場合も一人暮らしするかも』
 ほっとした矢先、またもや意外なことを言われる。
「え⁉ 家から通わねーの? あ、都内は都内でも外れにあるとか?」
『そういうわけじゃないけど、通学時間がもったいないんじゃないかって、父さんが。うちから通ってもいいし、好きにしていいって』
 怜の父親の言葉には、これも含まれていたのかもしれない。
「怜は、どっちにするんだよ」
『……さあ。まだ決めてない』

 イエスともノーとも言わない辺り、本気で迷っているらしい。怜はもう「カナがいないから」と言って断るような子どもではないのだ。自分の道を、居場所を、自分で見つけて歩き出そうとしている。幼馴染の奏を置いて。
 寂しいな。声に出さずに言った。都内だろうと関西だろうと、怜が傍にいないと寂しい。
 三十分ですら遠かったと言った父親の気持ちが今ならわかる気がする。大事な相手とはなるべく近くにいたほうがいい。確かにその通りだ。

 ――あれ?
 何かが引っかかった。けれどその正体がわからない。なんか気持ち悪いな。

『……話変わるんだけど、変な噂聞いてない? 俺とカナが、三澤と……ってやつ』
 しんみりした雰囲気が、急に現実的なものになった。
「ああ、三角関係のだろ。高橋に聞いたよ」
 怜が「最悪」と呻いた。
『あれ、ないから。誰がでっちあげてるのか知らないけど……。巻き込んでごめん』
「何で怜が謝るんだよ。別にいいよ。気にしてねーし。ってかみんな信じてないだろ」
 怜と三澤の間に割って入る奏の図――華がなさすぎる。漫画だったらもっと当て馬にふさわしいキャラを作れって総叩きに合いそうだ。
 怜が深い溜息をついた。
『……あのさあ、この間屋上でも言ったけど、火のないところに煙は立たないんだよ』
 それは怜と三澤さんの話だろ。至近距離で顔寄せ合って怪しいっての、と思ったけど、言ったら怜が不機嫌になりそうなので止めた。詳細を語られても嫌だし。
「おれは三澤さんと全然接点ないんだから、火も煙もねーよ」
 怜はもう一度息をついた。
『……もういいや。三澤も迷惑がってたし、聞かれたら否定するって。カナもそうして』
 今の発言。なんか三澤さんの彼氏っぽい。
「そういうところじゃねーの……」
『何が?』
「何でもない。勉強するから切るな。また明日」
『うん。じゃあ、おやすみ』
「おやすみ」

 半ば通話を無理やりに切り上げ、スマホを放ってシャーペンを持ち直すと、かちかちと芯を出した。
 ああいう迂闊な態度が勘違いされるんだよ。放課後だって、三澤さんのこと全然嫌がってなかったじゃん。ボディータッチされて、顔くっつけてさあ。火も煙も立つだろ。
 伸びきった芯がノートの上に落ちて、余計に苛々した。
 何なんだよ。おれのこと好きだって言ったくせに。キスしたくせに。もう好きじゃねーのかよ。あっさり手のひら返しやがって。

 三澤に呼び出されたときは高をくくっていた。何なら必死になる三澤を見て優越感を抱いていた。怜はおれのことが好きなのにと、内心バカにすらしていたかもしれない。
 でも、バカなのは自分だった。怜の気持ちにあぐらをかき、盛大な思い上がりをしていた。
 怜は奏に冗談だって言ったじゃないか。自分の気持ちをなかったことにして、ただの幼馴染でいることを選んだ。なのに怜の気持ちは絶対に変わらないんだって、どうしてそんな風に思ってたんだろう。
 沸騰して煮えたぎっている鍋もいつかは冷める。どれだけ好きなものでも、同じ熱量のままではいられない。それが普通だ。

 最悪、と呻いていたときだ、高橋からLINEが来た。「文化祭準備中」と隣のクラスで撮った写真を送りつけられ、今一番見たくない人の顔を見てしまう。三澤さん、やっぱめちゃくちゃ可愛いよな。怜だって、おれより絶対この子のほうが――。

「……ん? ……え?」
 自分自身に突っ込むように声が漏れた。
 ちょっと待て、今、おれ、何考えた? 何かおかしくない?
 何でおれ、三澤さんに嫉妬してんの?
 頭の中に突風が吹き荒れ、記憶が目まぐるしく駆け巡る。

 大事な相手とはなるべく近くにいたほうがいい。
 父親は言っていた。幼馴染とは離れていても平気、でも、母親とは三十分でも遠かったと。
 奏は違う。
 怜と離れる未来を思い描くたび憂鬱になった。自分たちの間に誰かが割り入るのが嫌だった。ずっとふたりで一緒にいたいと思っていた。
 おれたちは幼馴染だから。幼馴染って特別な存在だから。
 そう思っていた。
 でも、もし、もしも。それだけじゃなかったら。

 心臓が耳の横で大きく飛び跳ねていた。顔が、手のひらが、背中が、真夏の太陽に晒されているように熱っぽい。ただ、今は肌寒い秋の夜。発熱の外的理由は存在し得ない。
「マジかよ……」
 回転椅子の背もたれに体重を預け、奏は情けない声を上げる。
 正直なところ、今の状況を、自分の感情を完全に飲み込めたわけじゃない。でも、頭に浮かんだ可能性は呼吸するたび色濃く、確かな存在になっていく。
 怜が好き。
 気づけば奏の思考は、その一色で染まっていた。
 6 
 
 一晩寝たら忘れてたりして、と思ったけれど、起きても気持ちは変わらなかった。というか、考えすぎてあまり眠れなかった。
「奏、早いね。もう行くの? カレー食べる?」
「いらない……。行ってきます」

 いつもより三十分早く家を出て、怜との待ち合わせ場所――駅の近くの寂れた公園に向かった。昔、ふたりでよく遊んだ場所だ。駅前だと人が多くて怜が居づらいから、高校に入ってから、一緒に登校するときはずっとここで待ち合わせていた。
 いつも怜が先に来ていて、奏は待ち合わせの時間ギリギリに着くので、ひとり時間を潰すのは初めてだ。

 怜を真似て、入り口近くの鉄棒に寄りかかって英単語帳を開いてみたが、一呼吸後には全く別のことを――怜のことを考えてしまう。
 どんな顔で会えばいいんだろう。どんな話をすればいいんだろう。
 少し前も同じ問答をしたけれど、あのときとは全く気持ちの種類が違う。一体どう扱えばいいのか、奏には全くわからなかった。何せ、これが初恋だし。
 おれはいつから怜のことが好きだったんだろう。教室でキスされてから? それともずっと前から好きで、ただ気づかなかっただけ?

 昨晩からずっとこんな調子だ。卵か鶏か、みたいな埒のあかない追いかけっこが脳内で延々と繰り返されていて、とてもじゃないけど勉強にリソースを割ける状態じゃない。
「……カナ?」
 しかし、待ち人の声がするなり、奏の意識はガソリンでも注がれたように、怜に向かって一気に動き出した。
 怜は眉間に皺を寄せ、戸惑いを浮かべて奏を見ていた。朝日がまるで後光のように背後から差していて、妙に神々しく見える。ていうかこいつマジでイケメンだな。
「お、おはよう」
 気後れしながら挨拶すると、怜はスマホを取り出し、画面を確認した。
「え、俺、時間間違った? スマホ壊れてる?」
「いや、おれが早く来ただけ」
「は? 嘘だろ? 何で?」
 おまえのせいで眠りが浅かったんだよ、なんて言えるわけがない。仕方なく曖昧に笑ってみせたのだが、それがますます怜の不安を煽ったらしい。
「大丈夫? 風邪引いたとか? 変なものでも食べた? 昨日おじさんがご飯作る日だったんだって?」
「大丈夫だよ。全然普通。マジで平気。ちょっと早く目覚めただけで」
「カナが早起きするってのが既に異常なんだって」
 だから言い方。
「心配なら熱でも測れば。絶対平気だろうけど」
 あまりの信用のなさに軽口を叩いたら、怜の手がにゅっと伸びてきた。
「え?」
 前髪を優しくかき上げ、手のひらが額にそっと触れる――いやちょっと待て。急に何してんだよこいつ。
「熱は、ない……? え、カナ? 本当に大丈夫? 顔、真っ赤だけど」
 ひんやりとして、骨張った手のひらの感触が生々しい。その状態で顔を覗き込まれたら。

「っ……。バーーカ!」
 諸悪の根源を睨んで奏は叫ぶ。頭がパンクして小学生のような文句しか出なかった。
「ちょっ……。何? ほんとに大丈夫?」
 大丈夫じゃない。心臓が爆発しそうだ。いや、したかも。鼓動がやばい。体育の授業で全力ダッシュしたときよりもうるさく鳴っている。一生分の鼓動の回数は決まっている、なんて話を聞いたことがあるけど、本当なら今日で十年ぐらい寿命が縮まった気がする。
「カナ?」
 おれ、何でこいつと普通に一緒にいられたんだろう。
 怪訝そうに顔を近づけてくるのをどうにか押し退け、奏は早足で歩き出す。
 困った。世界が一変してしまった。どうしよう。
 マジで怜のこと好きなんだ、おれ。

 
 文化祭の準備のため、怜は図書室に寄ると言う。
「体調悪かったら保健室行きなよ」
 おまえといると悪化するんだよ。
 心配する怜を追い払って教室に行き、机に突っ伏していると「カナ」と明るく呼ばれた。高橋の声だ。朝から元気だなと顔を上げると、奏の前の席に勝手に座っている。
「おはよ。何だよ」
「カナの無罪放免が決まったから、お祝いに来た」
「はあ?」
「昨日LINEしただろ。クラスのやつらとファミレス行ってたんだけど――あ、怜は面談とかで残ってたから、それ以外な。したらさ、誰かが聞いたんだよ。カナと三澤さんってどうなんだって。何て言ったと思う?」
「知らねーよ。どうせ眼中にないとかだろ?」
「それがさー、三澤さんはっきり言ったんだよ。『私が好きなのは月峰くんだから』って」
「……は?」
 がばっと身体を起こすと、高橋が「釣れた釣れた」と笑った。いや、笑い事じゃねーし。
「え? 三澤さんが告白したってこと?」
「しーっ、声でけえよ。怜はいなかったって言っただろ」
 奏は声を潜めて尋ねた。
「じゃあ、怜は知らないってこと?」
「そうそう。あの場にいたメンバーだけの秘密ってことで口止めされてる。ただ、カナは当事者みたいなもんだし、三澤さんに聞いたんだよ。そしたら、新瀬くんならいいよって。LINEで報告しようと思ったけど、こういうのは直接言ったほうがいいと思って」
 高橋は満足げに笑い、奏の肩をねぎらうように叩く。
「あ、ただし怜には絶対内緒な。自分で言いたいんだって。健気だよな」
 しみじみと言う高橋の前で、奏は屋上での怜のコメントを思い出していた。
「いや、外堀めちゃくちゃ埋めてんじゃん……」
 健気かもしれないけど、やっぱり強かだ。
「それだけ本気ってことだろ。ちなみに三澤さん、女子アナ志望らしいぜ。俺らもそっちの彼女ができるかも……」
「おまえ個人情報ベラベラ喋りすぎ。彼女できねーぞ」
 高橋を追い返し、奏は再び机に突っ伏した。

 三澤がアプローチに動いたのは想定内だが、外堀を埋めてくるとは思わなかった。確かに、クラスの団結力が高まっている中で気持ちを暴露すれば、クラスメイトたちは三澤を応援し、ふたりをくっつけようとするだろう。他の女子への牽制にもなるし、断りづらい空気になりそうだし、メリットが多い。マジで頭いいな。
 ただ、怜は圧力とか空気とかが大嫌いなので、興味がなければその場の雰囲気なんて関係なく断るだろう。怜に興味がなければの話だけど。
 高橋、その辺どうなのか怜に聞いてくれねーかな。おれの口からは絶対聞けないし。

 いや、これっておれが勝手に気を揉んでるだけ? さっきの接触は全くためらいがなかったし、もう意識なんてしてないのかも。怜の中ではとっくに終わっていて「もうカナなんて好きじゃないから安心して」なんて言われるかもしれない。
 そうなれば奏は「怜の好きな人」から「ただの幼馴染」――怜を見守り、怜の幸せを祝福する立場になる。それを想像し、奏の胸は手で心臓を潰されたようにきつく痛んだ。放課後の教室で怜に「よかったな」と不承不承告げたけど、今度は本気で言わなければならない。嫌だ。めちゃくちゃしんどい。

 もしあの日に戻れるなら、軽率なことをした自分をぶん殴ってやりたい。おまえはほんとは怜が好きなんだって言ってやりたい。そうしたら、もしかしたら今頃おれたちは。

 ――ばかじゃねーの。

 怜を散々傷つけておいて、何都合のいい妄想してるんだよ。夢見るのもいい加減にしろ。せっかく幼馴染に戻ったのに、怜が全部飲み込んでくれたのに、その怜の幸せを願ってやれないなんて本当に最悪だ。怜のおじさんによろしくって言われたのに。
 恋愛って、人を好きになるって、もっとキラキラしていて綺麗なものだと思っていた。しかし奏の内に潜むそれは、自分の醜い部分を集めて煮詰めた闇鍋のようだ。どす黒く濁っていて、汚くて、おどろおどろしい。一度触れたら呪われて、どんどん悪い方向に落ちていく。ネガティブが加速し、溜息が止まらない。
 こんな無神経で自己中なやつ、そりゃあ見限るよな。あのまま幼馴染を続けてもらったことが奇跡だ。好きになるなら、自分に好意があって、素直に健気に追いかけてくれる子のほうがいいに決まってるよな。

 ていうか三澤さん、女子アナ志望なんだ。ちゃんと進路も決まってて偉いな。おれなんか全然、何がしたいのかもわかんないのに――。
「カナ」
 呼ばれてはっと顔を上げ、心臓が跳ねた。
「怜……」
 奏の負のループを断ち切ったのは、他でもない怜だった。
「びっ、くりした……。何で?」
 席替えしてから――キスされてから、怜が奏の席に来たのは初めてだった。
「高橋が、カナがずっと机に伏せってるって言ってたから。やっぱ具合悪いんじゃないの?」
「いや、全然……」
 メンタルの具合は悪いけど、身体は悲しいほどに元気だ。しかしそれを証明する手立てはない。とりあえず、また額を触られたら困ると思ったので両手でガードした。
「……何やってんの?」
「熱はないから。マジで」
「え? ああ、ガードしてるってこと? ぷっ、何それ……」
 なぜかツボったらしく、怜が突然、顔をくしゃくしゃにして笑った。目を細めて、眉をひそめて、口角は綺麗な弧を描いて。

 いつも涼しげな怜が、幸せしか知らない子どもみたいに顔中いっぱいに喜びを浮かべるとき、奏も同じように嬉しくなった。でも、今は胸の内が弓を引き絞ったように苦しい。
 好きだ。怜が好きだ。昨日の夜に感じたよりも確かな熱と手応えが自分の胸の中に宿り、広がっていくのを感じる。
 この顔も他の顔も、怜を誰にも取られたくない。
「……あのさ、怜」
「ん?」
 切り出してみたものの、緊張して震え出しそうだった。
 怜も、三澤さんも、校舎裏の子も、もしかしたらラブレターをくれた子だって、胸が潰れるような気持ちを抱えながら、一歩踏み出したんだろうか。すごい勇気だ。
「カナ?」
 奏は短く呼吸し、からからの唇を舌で軽く舐める。それから、怜以外の誰にも聞こえないよう、声を潜めて言った。
「今日、学校終わったら、部屋に来てほしい」

 あの日以来、暗黙の了解で引いていた境界線をあえて踏み越えたのはこれが初めてだった。怜も何かを察したのか、黒い目をこれ以上なく丸くした。
 数秒間、ふたりの間に気まずい沈黙が流れ、やがて怜の唇が動いた。カナ、と声なき声に呼ばれた奏は姿勢を正し、次の言葉を待とうとした、その矢先だ。
 予鈴が鳴った。
 緊張の糸がばつんと切れ、奏と怜は、図ったように息をつく。
「……俺、戻んないと」
 そう言って、椅子を引いて立ち上がる寸前、怜は奏をちらっと見た。
「文化祭の準備があるから、終わったらLINEする」
「え? じゃあ」
「行けそうだったら、行く」
 それって「行かない」ってやつじゃねーの。
 喉元まで出かかったけど、怜の困った顔を見ていたら、何も言えなかった。

 
 何の前触れもなく誘ったのが悪かったのかもしれない。
 そう思って、休み時間に「大事な話があるから、怜に聞いてほしい」と改めて連絡を入れた。しかし放課後になっても既読スルーが続いている。
 このままなかったことにされたらどうしよう。不安だ。でも怜は連絡すると言っていたし、その言葉を信じて待つしかない。

 とりあえず部屋の片付けでもするか。この際、隅から隅までぴかぴかにして驚かせてやろうかな。
 帰ろうとしたところで、「新瀬くん」と呼ばれた。
「三澤さん」
「もう帰るの? 文化祭の準備は?」
「あー……。うちは休憩所の設置だから」
 周囲を目で窺いながら返事した。何せ玄関前の廊下だ、こんな目立つところで気安く話しかけられて、また変な噂を立てられても困る。
「あ、そうだった。ミホに聞いたよ。残念だったね」
 しかし彼女は何も気にしていない様子で、普通に会話を続けた。そういえばクラス中に怜が好きだと宣言したんだっけ。もう何も気にしないってことか。
「えっと、そっちは謎解き迷路だっけ」
「うん。月峰くんたちと一緒に謎解き作ってるんだ。結構いいのできたから、遊びに来てね」
 花の咲きそうな笑顔で言われて、不覚にもどきっとしてしまう。くそ、可愛いな。
「ありがと。謎解きって難しそうだけどできるかな……」
「あれ? 一回もやったことないんだ。意外」
「え? 何で?」
 頭良さそうな見た目じゃないと思うけど。実際よくないけど。
「月峰くんがすっごい謎解き上手いから、てっきり新瀬くんと一緒に遊んでたんだと思ってた。そうじゃないんだ」
「いや……。一回もしたことない。そうなんだ」
「すごいよ。レベル高い問題もすらすらって解いちゃう」
 三澤の笑顔がバラの棘のようにちくちく刺さった。見惚れてしまいそうな綺麗な顔で、そんなに楽しそうに、怜のことを語らないでほしい。その怜はおれも知らないのに。
「……ごめん。おれ、帰るから」
「あ、ごめんね。引き留めちゃって。バイバイ」
「うん。じゃあね」

 不利を悟り、尻尾を巻いて逃げ出そうとした奏に、三澤は明るい笑みを浮かべて手を振り、颯爽と立ち去った。残された奏は溜息をつき、重い足で靴箱に向かう。
 だっせえな、おれ。
 そういえば、結局、手紙の差出人は現れなかった。もう期待もしていなければ、この状況でもらっても困るのだが、やっぱり自分は無価値で、誰にも必要とされていないんだと思えて、更に気持ちが沈んでいった。
 奏は深淵のような靴箱に鬱々とした溜息を詰め込むと、重い足で自宅に帰った。
 
 怜のLINEに気づいたのは、部屋の片付けを終えたときだった。
『ごめん、やっぱり行けない』
 ある程度予想はしていたけれど、もしかしたら来てくれるかもと薄ら期待していた。だからこそ、直接ノーを突きつけられるときつい。
 奏は皺ひとつなく綺麗に整えたベッドに寝転がり、腕で目を覆った。
 まあ、そうだよな。おれなんて、もうどうでもいいよな。可愛い女の子が傍にいるんだし。
 でも、何とも思ってないなら部屋に来ないか? つまり、まだ意識してるってこと?
 いや、もう気持ちはないけど、おれが懲りずに無神経な誘いをしたってドン引きしてるのかも。
 もしかしたら本当に用事があったのかもしれない。おじさんが急に帰ってきたとか。
「わかんねーよ……」

 怜のことがわからない。
 二人一緒に同じものを見て、なんでもわかり合えていたはずなのに。
 ずっと一緒にいたはずなのに。一番近くにいたのはおれだったのに。

「奏」
 ドアがノックされ、のろのろと身体を起こすと、母親が顔を出した。
「もうすぐご飯にするけど、怜くんは?」
「……来ないって」
「そう。忙しいのかな。文化祭の準備?」
「知らない。あいつ、何も言ってくれないから」
 八つ当たり気味に言うと、母親は苦笑を浮かべた。
「そんなに気になるなら聞けばいいじゃない。スマホですぐに聞けるんでしょ?」
「……え?」
「何驚いてるの。じゃあ、早く降りてきてね」
 母親が階下に降りる音を聞きながら、奏は握りしめたままのスマホを見つめていた。そして、「今どこ?」と送ってみる。これも既読スルーされたらどうしようと思ったけれど、すぐに返事が来た。
『学校。これからファミレス行く』
 誰とだろう。謎解きメンバーの四人、または三澤さんとふたりきりで告白劇が始まっちゃったりして。そんでオーケーしちゃったりして。そんなのめちゃくちゃ嫌だ――というのはさすがに妄想だけど、そうなってもおかしくない状況だ。
 どうしよう。聞くか。いや聞いてどうすんだ。変に踏みこんでまた断られたり、あまつさえ嫌われてしまったら。

 逡巡している奏の元に新着メッセージが届く。今度は高橋だった。
『今クラスみんなでファミレス。怜がこれから来るんだけど、三澤さん告るかも』
「は⁉」
 血の気が引いた。どうしてそんなことに。画面を凝視していると、聞いてもいないのに高橋が説明してくれた。奏が想像していた通り、クラス一丸となって三澤の告白を応援しよう、という流れになっているらしい。
 まずい。迷っている暇なんてない。
 震える手で「店どこ」と返信すると、場所が送られてくる。駅前のファミレスだ。
『何、カナ来るの? 席作る?』
『行くわけねーだろ』
 誰が公開告白なんて聞くか。その前に、何としてでも阻止しないと。最低でも何でもいい。じゃないと絶対に後悔する。
 奏は部屋を飛び出し、勢いよく階下に降りると母親に叫んだ。
「おれ、怜のとこ行ってくる!」
「え? 今から」
「ごめん、ご飯はあとで食べるから!」
 言い終わるのと同時に靴を引っかけ、玄関を飛び出し、走り出した。
 
 駅前のファミレスは道路に面した平屋の店舗だ。通行人のふりをして窓ガラス越しに店内の様子を窺ってみたものの、見える範囲にはそれらしき集団の姿は見当たらなかった。怜が合流しているかも不明。ただ、高橋のLINEが沈黙しているので、まだじゃないかと踏んでいる。

 奏はファミレスの出入り口から少し離れた場所に控えて、怜に「今いい? 通話したい」とLINEを送った。怜が店に入る前に何としても捕まえなければならない。失敗したら――考えたくもない。とにかく今は怜を見つけることに集中しよう。

 まだ来てないよな、と入り口を注意深く監視し、ちらっと画面を確認すると、いつの間にか既読がついていた。しかし、返事はない。怜は基本、メッセージを見るまでが遅いけど、見たらきちんと返してくれる。よほどの事がない限り、既読のまま放置はしない。

 嫌な予感を噛みしめながら数分待ってみた。しかし、相変わらず無反応。「もう店にいるの」と追加で質問すると、即既読がついたのに音沙汰なしだ。既読スルーしてんじゃねえよ。面倒な彼女みたいに「ねえ見た?」ってめちゃくちゃ追撃してやろうか、なんて思っても送る勇気はなかった。というか一回断られたのに追いかけて、店先で待ち伏せしている時点で既にやばい。ストーカーじゃん。
 
 やっぱり家に誘ったのがまずかったんだろうか。考えなしに言うんじゃなかったと俯き、足元を見た瞬間、奏は今の自分の格好を思い出した。
 部屋着のまま無我夢中で飛び出したので、上は着古した長袖のシャツ、下はジャージ(中学時代のもの)。走ってきたから髪もぼさぼさだし、汗もかいている。念のため腕と首元が臭わないことは確かめたが、客観的に大丈夫かどうか自信はなかった。もちろん制汗剤なんて持ってない。
 こんな状態で怜に会ってどうする? これで告白すんの? いや、バカだろ。いくら気の置けない仲だからって、さすがにこれはない。
 せめて制服に着替えてくればよかった。何でいつも後先考えないで行動しちゃうんだろう。何回後悔すればわかるんだ。自分がほとほと嫌になる。

 でも、仮に身なりを整えて家を出たとしても、相手してもらえないなら結果は同じだ。未だに怜からの返事は来ないし、これが怜の意思表示なのかもしれない。
 帰るか、と奏は踵を返す。しかし、数歩歩いたところでもう一度スマホをタップした。
 状況は未だ変わっていない。必死な自分のメッセージに既読の二文字がついているだけ。もうこれだけで心が折れそうだった。

 でも、でも――やっぱり諦めきれない。
 これが最後だ。奏は指を動かし、一言だけ送った。
『会いたい』
 すぐに既読がついた。また既読スルーだろうか。

『何で?』

「は?」
 画面に向かって声を上げていた。返事があった、じゃない。何でって。
 どう返そうか迷っていると、通話がかかってきた。
「も、もしもし、怜? 今どこ?」
『さっきの何』
 怒った声で詰問された。
『会いたいって何? 何で?』
「な、何でって……。言葉通りの意味、だけど」
 怜の溜息が聞こえる。電波越しに聞くとより冷たかった。
『こういうの、困るから――』
 ぶつんと通話が切れた。

 
 どうやってここまで来たのか覚えてない。

 真っ直ぐ帰る気になれなくて、奏は毎朝待ち合わせしている公園に寄り、鉄棒にもたれながらぼんやりと薄暗い空を眺めていた。今にも陰って消えそうな小さな月に、目を凝らしてやっと見えるぐらいの小さな星。寂しい夜空だった。公園の電灯は弱々しく掠れていて、地面ではゴミか枯れ葉のかさかさと乾いた音がさざめいている。自分以外の気配はなく、世界に置いていかれてしまったような気持ちになった。
 何してるんだろうな、おれ。

 今頃、隣のクラスはカップル成立でどんちゃん騒ぎの真っ最中かもしれない。高橋の実況を聞きたくなくてスマホの電源は切ってしまった。今日いっぱいはこのままでいるつもりだけど、いっそバッテリーが干上がって動かなくなってくれればいいのに。
 そんなことをしたって、現実は変わらないけど。

 気づくのが遅すぎたんだよな。家に誘ったのも最悪だったし、うぜえって、無神経だって思ってんのかも。でも断るにしたって言い方があるじゃん。もっと優しく言えって言ったのに。

 過ぎ去ってしまったことを悔やんでも仕方がないのに、傷を抉る作業が止められない。何で、どうして、どうすればよかったと息を吸うたび考えてしまう。終わったものはしょうがないよなと一瞬切り替えようとしても、いつの間にか思考が振り出しに戻っている。負のループに陥っているとわかっているのに、止められない。

「カナ」
 スニーカーの底で苛々と地面を掘っていると怜に呼ばれた気がした。やばい、とうとう頭おかしくなったかも。幻聴まで聞こえてきた。そんなに好きならもうちょっと早く気づけって感じだよな。ほんとに全部間が悪い。

「カナ!」
 肩を掴まれて、ひっくり返りそうになった。
「うわああっ⁉ え、は? 怜⁉」
「……何やってんだよ、こんなところで」
 怜は不機嫌に吐き捨てると、短く息をつき、カーディガンの袖を捲る。
「全然連絡つかないし、おばさんには俺に会いにいったって言われるし、どこにいるかわかんないし……」
 にわかには信じられなかった。さっき、こっぴどく拒絶されたのに。
「ていうか、何その格好。何でそんな薄着で……」
 カーディガンを脱ごうとするのを慌てて制した。
「だ、大丈夫。マジで風邪とか引いてないから。元気!」
 奏の言葉を聞いて、怜が怪訝な顔をした。それはそうだろう。頭悪そうな発言だと自分でも思う。無駄な心配を掛けたくなかったのと、これ以上変に期待をしたくなくて空回ってしまった。もう中途半端に優しくされたくない。どうしたらいいのかわからなくなる。

「……さっきはごめん。途中で切って」
 黙る奏に向かって、怜は静かに言った。
「別にいいよ。既読ついてたのにしつこくしてウザかっただろ。悪かった」
「いや、最後のLINE以外は読んでなかった。画面開きっぱなしで、勝手に既読ついてたんだと思う」
「は? あ、そうなんだ……。え?でも、通話切ったじゃん」
 怜が苦々しく髪を弄った。
「……間違って切った」
「は? 間違い? 何言ってんだ」
「嘘じゃない。ほんとに、あのときは普通じゃなかった。動揺してて……」
「動揺?」
 奏の問いに答えず、怜は電話口と同じ、冷めた溜息をついた。
「……結局、俺に何の用だったの」
 こんな険悪な雰囲気で「三澤さんの告白を止めたかった」というエゴにまみれた理由を言ったら、心底軽蔑されそうで怖かった。嫌われるところまで嫌われているなら暴露してもよかったけど、ここまで探しにきてくれたという事実に縋ってしまいたくなる。

 崖っぷちだけど、今ならギリギリ引き返せる。もう勝ち目なんてないんだし、適当に理由をつけて、どうにかこの場をやり過ごして、全部なかったことにしてしまえばいい。そうしたら、また明日から怜といつも通り一緒にいられる。これから先もずっと幼馴染で、怜に彼女ができたら祝福して――。

 嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。無理だ。
 怜の隣に他の誰かが立っているのを見たくない。
 おれが、そこにいたい。
 言わなきゃだめだ。ここで何も言えなかったら、おれは今日を、この夜を一生後悔する。
 勝ち負けなんて関係ない。言わないと何も変わらない。始まらない。

「おれ、怜に言いたいことがあって……」
 スマホが震えた。怜のだ。通話なのか、振動音が止まらない。
「……ごめん、ちょっと待って」
 そう断ってスマホを取り出し、怜がつぶやいた。三澤、と。

 奏はとっさに怜の腕を掴んだ。
「出るなよ」
「え?」
「出るな」
 二回、同じ言葉で阻んだ。怜の怪訝が強くなる。
「……何で」
「出てほしくない」
「だから何で」
「わかんねーのかよ!」
 驚きを浮かべた怜の目を見つめ、絶対に行かせないように腕を強く握る。

「好きだから……。嫌なんだよ、一緒にいてほしくないんだよ。会いたいんだよ!」

 言ってしまった。
 声が、手が、情けないほど震えている。

「……カナ、今、何て」
 怜の惚けた顔に、もう後には退けないと悟った。

「好きって言った。怜のこと。……幼馴染としてじゃねーから」

 もう一度、今度ははっきりと口にする。一度踏み出したら、もう止まれなかった。

「ずっと嫌だったんだ。怜に好きな人がいるって聞いて、喜べって言われて、ずっとモヤモヤしてた。何でかわかんなかったけど、怜がおれ以外の誰かのところに行くのがすげー嫌なんだよ。おれたちの間に入ってほしくない」

 怜が小さく息を呑む。
「……いや、それは、幼馴染としてじゃないの」
「違う。全然違う。おれ、めちゃくちゃ三澤さんに妬いてる……。おまえがおれのこと好きだって言ったのに、いちゃいちゃしてんの、すげームカついた」
「……本気? 本気で言ってんの?」
 戸惑う怜を睨みつけた。
「冗談でこんなダサいこと言うわけねーだろ」
 漫画の台詞のように、綺麗で心に響いて格好いい告白を奏だってしたかった。でも実際は恥ずかしいほど幼稚で自分勝手で傲慢なことばかり口にしている。
 こんな汚い気持ち、怜にしか言えない。怜にしか感じない。
「怜」
 この距離で視線を見交わすのはこれが最後かもしれない。そう思ったらまた怖くなる。しかし、身体の中から何か大きな衝動が湧き上がってきて、奏の口を動かした。
「今更だってわかってる。バカだって自分でも思うし、もう、怜はおれのこと吹っ切れたかもしれない。でも、どうしても伝えたくて。だから呼んだんだ」
 怜が困ったように視線を揺らした。
「……会いたいって、家に来いって言ってたのも、今の話?」
 奏が頷くと、怜は明後日の方向に顔を背け、全身をひっくり返したような溜息をつき。
「……そうなんだ」
 疲れたようにつぶやいた。

 あ、終わった。

 頭の片隅で冷静な自分がつぶやき、奏は暗い地面を見つめた。
 まあ、そうだよな。そういう反応になるよな。今更何言ってんだよって感じだもんな。
 胸の内で膨らんでいた興奮や衝動が勢いよく萎んでいき、足元が覚束なくなる。後ろに鉄棒がなかったらひっくり返っていたかもしれない。

「カナ」
 哀れむように優しく呼ばれた。こういうときってどんな反応すればいいんだろ。とりあえず笑う? 笑うってどうやるんだっけ。
「顔上げて」
「……無理」
 どうにか返事すると、それだけで泣きそうになった。やばい、はずい。つーか、ダサい。
「カナ」
「も、うるせえ! さっさと言えよ。遅いんだよバーカとか言え……!」
 怜に呼ばれるたびに、溺れているみたいに苦しくなる。もうひと思いにとどめを刺してほしい。早く終わらせてくれ。これ以上優しくしないでほしい。
 なのに怜は、先程よりも深い溜息をつき、奏を責める。

「……ほんと、カナは俺のこと全然わかってない」
「だって何も言わねーじゃん! おれはいつも言ってるのに、怜は……」
「カナ」

 怜は乱雑かつ強引な手つきで奏の両頬を持ち上げる。
 急に街灯の薄明かりが差してきて、薄暗い地面に慣れていた目が眩しさに眩む。奏は一度瞼を閉じ、それからそっと開き、惚けた声を出した。
「……怜?」

 その先で待っていた怜の笑みに、状況も忘れて見惚れてしまった。この世の不幸なんて何も知らないような、柔らかい笑みだった。

「俺も好きだよ」

「……は?」
 おそらく、この場にもっともふさわしくない変な声が出た。
「……怜、今、好きって言った? え、うそ、おれの幻聴……?」
「こんな嘘つくわけ……いや、ついたか」
 きつく抱き締められて、怜の鎖骨に顔を押しつけられる。
「……びっくりした。もう完全に終わったって思ってた……。何で今更……」
「あ、ご、ごめん」
「責めてるわけじゃなくて……。ちょっと俺、今、本気で自分が何喋ってんのかわかんないから、適当に聞き流して」

 あの怜がパニクっている、らしい。むちゃくちゃなお願いをして困らせることはあるけど、変なことを口走るほど戸惑っているのは初めてで、奏はこくりと喉を鳴らした。目の前で慌てる人がいると冷静になる、なんて聞くけどまさにその通りで、だんだんと状況が飲み込めてくる。

 完全に終わったと思っていたのは奏も同じだ。怜の反応があまりにも素っ気なかったから、もう駄目なんだと決めつけていた。でも、聞き間違いじゃなかったら、怜はおれのこと、まだ好きでいてくれたってことになる。

「……つまり、両想い、ってことで、いいの」

 おそるおそる確認すると、怜が「うん」と答えた。マジか。マジでか。
大人しかった心臓が急にばくんばくんとうるさく鼓動し始めた。どうしよう、また頭回んなくなりそう。

「カナ、もう一回言って」
「え? え、両想いじゃないの⁉」
 恍惚に浸っている状態で言われて変な方向に思考が飛び、肝が冷えたのだが。
「そうじゃなくて……。好きだって言って」
 あ、そっち。改めて言われると照れるんだけど。
「す、好きだ、です……?」
「何その口調」

 更に引き寄せられて、怜の匂いにめいっぱい包まれる。興奮と幸福で身体中が熱くてふわふわしていた。
 ひりつく顔を怜の鎖骨に押しつけながら、奏はどうにか腕を動かし、怜を抱き返す。カーディガンの編み目越しに伝わってくる体温が自分と同じように熱っぽくて、胸が切なくさざめいた。悲しいとか恥ずかしいとかフィクションを見て感動するとか、それ以外で泣きたくなることってあるんだ。両想いってこんな気持ちなんだ。すげえな。
「怜」
「うん?」
 好きだよ、ともう一回、今度はちゃんと言おうとしたけれど、胸が苦しくて言えなくなってしまった。代わりに怜のことをめいっぱい抱き締める。好きだと念じながら。
 想いはきっと過不足なく伝わった。怜が小さく笑ったから。

 
 怜のスマホが震えたのを機に、そっと抱擁を解いた。持ち主は不服そうだったけど、このままだときりがなさそうだったので。
 奏も電源を入れ、しばらくぶりに画面を確認したのだが。
「うわ……」
 怜からの着信がずらっと並んでいる。圧がすごい。だいぶ心配を掛けてしまったみたいだ。あとは母親から「怜くん来たよ」、高橋から「怜来れないって!」という正反対のメッセージ。
 申し訳ないと思いつつ、ちょっとにやけてしまった。とりあえず母親に「怜に会えた」とメッセージを送ると、珍しくすぐ返事が来た。

「怜」
「ん?」
 顔を見るとちょっと照れる。怜も同じらしい。互いにはにかんでしまった、じゃなくて。
「これからうち来ない? 母さんが唐揚げ作ったって」
「そうだな、おばさんに心配かけちゃったし、久しぶりに食べたい」
「最後のが本音だろ。じゃ、うちに帰ろうぜ」

 いつものように怜の腕を引っ張ろうとして、手を握った。俗に言う恋人繋ぎではなく、小学校の頃のように無邪気な握り方で。でも、心臓が破裂しそうなほどドキドキする。
「カナの手、熱い」
「怜のだって」
 そんな言葉を交わしながら、昔一緒に帰った道を、手を繋いで歩いた。
 
 食事を終えたタイミングで父親が帰ってきて、久しぶりに怜の顔を見たとたいそう喜んだ。怜も嬉しそうだったので、それはいい。でも、奏がトイレに行っている間に「もちろん泊まってくだろ?」と怜を押し切ってしまった。場所はもちろん奏の部屋だ。
「……なんか、ごめんな。うちの父が、マジで」
 告白した日に同じ部屋に泊まるってやばすぎる。でも、そんなことを思っているのは奏だけかもしれない。
「いや、いいよ。大丈夫」

 そう答える怜は、座椅子に足を投げ出し漫画を読んでいた。奏の家に来なかった期間の新刊を熱心に読みふけっている。漫画のほうが優先かと少し不満ではあるけれど、油断すると顔を見るだけで照れそうになるので、今はこれで十分だ。
 奏はベッドの上で三角座りし、黒い後頭部のつむじを目で追っていた。右向きだな、とどうでもいいことを考えていると、怜が漫画を閉じて、急に振り返った。そして一言。
「……何、その顔」
 ちなみに、怜の顔は呆れ返っている。
「おれ、どんな顔してる?」
「笑うのに失敗した感じ。……そっち行っていい?」
「え? ド、ドウゾ……」
 ぎこちなく隣を示す。ベッドがきしみ、怜が隣に座った。肩が触れ合いそうな距離だ。

「ち、近くねーか?」
「どっかの誰かさんはもっと近かったけど」
 意地悪な発言で気づいた。
「仕返し⁉」
 奏が無自覚無神経を働いてた頃の。
「冗談だよ」
 怜は笑って、拳ひとつ分を空けると足を真っ直ぐ投げ出した。それから、部屋着のシャツの匂いを嗅いだ。
「何、臭い? 変える?」
 怜が着ているのは、中学時代に置いていったスウェットだ。あの頃はよく泊まりに来ていたので、下着とスウェットを何セットか置いていた。
「いや、逆。いい匂いでびっくりした。おばさん、定期的に洗ってくれてたのかも」
「でも、さすがに買い換えたほうがいいんじゃね? 丈足りてねーじゃん」
 黒いスウェットの裾から骨張ったくるぶしが飛び出しているのを見て、少し悔しくなった。奏の身長は一センチも伸びていないのに、怜はまだ成長期の真っ最中らしい。
「そうだね。お下がり、カナにあげようか? さすがにデカいか」
「さっきから辛辣だな⁉」
「ごめんごめん。なんか俺、浮かれてるっぽい」
 浮かれて毒舌になるって何かおかしい。でも、蕩けるような目で見つめられたら言い返せない。

「……そうだ。結局クラスの方はよかったのか? 作業するって言ってたよな」
「別にいいよ。さっきグループトーク見たけど、ご飯食べて終わりだったってさ」
「そっか」
「一応確認するけど、明日から残って作業しても大丈夫?」
 何でそんなことを聞くんだ、と不思議に思ったけれど、すぐに合点がいった。三澤がいるからだ。さっき世にも醜い嫉妬をべらべらと喋ってしまったから。
「あー……。ごめん、いい、大丈夫。全然気にしなくていいから、マジで」
 気を遣ったつもりなのに、怜の横顔が曇る。
「そこまで言われると逆に喜べないんだけど」
「え? 何で?」
 物言いたげな目で睨まれた。何で?

「……カナ、今日の帰り、三澤と話してたんだろ」
「ああ、うん。声掛けられて……。もしかして何か言われてた?」
 怜の表情で全てを察した。
「他クラスでだけど、カナってやっぱり三澤のこと好きなんじゃないかって盛り上がってたらしいよ。高橋が言ってた」
「うっわ、そういうのマジでうざい……。どうせ影で笑われてるんだろうな。高嶺の花とか身の程知らずとか言われて」
「だから、そう思ってんのはカナだけだって。全然、見劣りなんてしないから」
「はあ……」
 その反応が不服だったようで、怜は短く嘆息した。
「俺はそれを聞いて、カナが三澤のこと気になってるんじゃないかって思ったんだけど」
「いやいやいやちょっと待て。何でそーなる⁉」
 ありえない妄想だ。しかし怜は大真面目に続きを話した。
「カナは人を見た目で判断したりしないから、三澤のこともちゃんと中身を見てるんだろうなって思ったんだよ。前に褒めてたしね。漫画好きだから話も合うだろうし。だから家に呼ばれたのは、その相談されるんじゃないかって……」
「だから、何でそうなるんだよ!」
「突然神妙な顔で家に誘われたら、普通、大事な話があるって思うだろ」
 だからって何でおれが三澤さんなんだ。奏の不服を察したのか、怜は自嘲を浮かべた。
「カナ、ずっと俺に気を遣ってくれてただろ。でも、家に呼んだってことは、もう終わりにするって、本当に幼馴染に戻るつもりで、俺にそういう相談でもするんじゃないかって思った。三澤が俺のこと好きだって知ってるから義理立てみたいな。だから行きたくなかった」
 何だそりゃ、と溜息が出た。

「おれ、すっごい気合入れて掃除したんだけど!」
「そういえば今日、部屋綺麗だな」
「そーだよ。おまえが来るから、おまえに話すから、ちゃんとしないとって……」
 近くにあった枕を抱き締めて、「バカ」とつぶやく。怜が気まずそうに目を逸らしたのにいらっとして、足を蹴ってやった。ばーか。
「ひとつ聞いていい?」
「今みたいな話だったら蹴るぞ」
「ほんとに謎なんだけど、いつ俺のこと好きになったの? ずっとそんな素振りなかったよね?」
 今度はそっちか。絶対バカにされるなと思いながら、重い口を開いた。

「……昨日」
「は? 昨日?」
 予想通り、怜は素っ頓狂な声を上げ、目を丸くした。
「気づいたのが昨日。いつからかはわかんねーよ。途中で考えるの止めた。あ、でも、気の迷いとかじゃないから。さっき言ったことに嘘はねーから」
 それだけは勘違いされたくないので念押しするが、怜は上の空だ。
「え、待ってよ。ほんとに昨日の今日で言ったんだ……。ほんとせっかちっていうか、後先考えないよね……」
「悪かったな考えなしで。言っとくけど、怜のせいだからな」
 奏は枕を抱え直し、顎を載せてむすっとする。
「何で俺?」
「さっきの話の逆だよ。おまえの方こそどう見ても三澤さんといい感じだっただろ。だから、早く言わねーと取られるかもって」
 言葉にしてから、また随分と幼稚な発言だなと自分に呆れた。直前まで軽口を叩いていた怜も押し黙ってしまい、恥ずかしさがいっそう募る。
「何だよ。怜だって変な妄想してただろ。……いや、それはおれが悪いけどさ」
「カナ」
「何」
 横を向くなり動けなくなった。鼻先が当たりそうなほど近くに顔がある。うわ、と思ったら、そのまま声に出てしまい、怜が目を丸くする。
「ごめん、今『うわ』って言った……」
 正直に白状したら怜に笑われてしまった。変な声を上げたり、ジャージで外に飛び出して告白しようとしたり(した)、ロマンチックが欠如しすぎだろう。
「少女漫画読んで勉強しようかな」
「何の?」
「ロマンチック……」
「何それ」
 怜が目を眇めるように笑うと、ふたつの黒目の片方だけ少し茶色く見えた。ずっと真っ黒だと思っていたから新発見だ。光の加減か、境界線の溶けそうな距離のせいか。

「前に言わなかったっけ。カナはカナのままでいいって」

 きらきら光る虹彩に見入っていたら、「目瞑って」とささやかれた。奏が緊張気味に瞼を下ろすと、そっと頬を撫でられる。その指先が震えていて、奏の胸もさざめいた。
 そういえば、怜にまだ聞いていない。いつからおれのことを好きだったんだって。
 瞼が開いたら聞いてみようと思ったけど、柔らかい唇が重なる感覚に頭がのぼせて、何にも考えられなくなってしまった。

「……なんか、怜に聞こうと思ったけど、全部忘れた」
「何それ。地味に気になるんだけど。思い出したら教えて」

 そうだ、今すぐじゃなくてもいいんだ。これからたくさん話して、たくさん聞こう。幼馴染の怜も、そうじゃない怜のことも、たくさん知りたい。ずっと見ていたい。怜の隣で、ずっと。
 
 ***
 
 まさか、カナが俺を好きになる日が来るなんて思わなかった。

 あまりにも都合のいいことばかり起きるから、全部夢の中の出来事なんじゃないかと密かに疑っていた。寝て起きたら自分の部屋のベッドにいて、何ら変哲のない――カナと幼馴染として過ごす日々に戻っていてもおかしくない。全部が全部出来すぎている。

 でも、浅い眠りから目が覚めても、俺はカナの部屋にいた。顔の横には枕が転がっている。昔のように上から落ちてきたらしい。
 布団から身体を起こし、隣のベッドを覗く。カナは身体を丸めるようにして大人しく眠っていた。カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた横顔は、まるで宗教画の天使みたいに無垢で穏やかで幸せそうだ。

 足元に蹴飛ばされた毛布を直してやって、しばらくカナを眺めているとアラームが鳴った。昔は寝起きが悪かったのに、意外にもカナはすぐに起きた。俺を見て、不思議そうに瞬きをする。

「怜?」
「うん、おはよう」
「おはよ……」

 まだ頭が働いてないようで、声も顔も無防備にぼーっとしていてかわいかった。乱れた髪を直してやると、カナはうっとりと目を閉じて――勢いよくかっ開く。
「うわあっ、なっ、な、なっ……」
 どうやら覚醒したらしい。突然叫んで絶句して真っ赤になるから俺も驚いて、同時に安心した。カナの漫画みたいに大袈裟なリアクションのおかげで、昨日の出来事は夢じゃないんだとようやく確信できた。
「カナ」
 枕に顔を埋めてしまったカナの髪を撫でながら、「好きだよ」とささやくと、カナは飛び跳ねるように起き上がり、俺の顔を見て破裂しそうなほど顔を赤く染める。指で触れたら本当に爆発してしまいそうだったので、俺は伸ばした手を引っ込めて笑った。
 幸せな朝だった。
 7
 
 二度目の事変が起こったのは文化祭の直前、11月に入ってからだ。

 その朝、怜は文化祭の準備で早く出るということで、奏はひとりで登校し、何の気なしに下駄箱を空けて、驚いた。見覚えのある淡い水色の封筒が上履きの上に置かれていたのだ。しかも今度は「新瀬先輩へ」と書かれている。
 マジかよ。前と同じく、一度扉を閉めてもう一度開けたが夢でも幻でもない。現実だ。

 ひとまず封筒を鞄にしまい、屋上に続く非常階段の踊り場で手紙を読んだ。
 以前と違って、中身は簡素だった。便せんの三分の一も満たない分量で、前回と同じ差出人であることと、「話があるので今日の放課後校舎裏に来てください」というようなことが書かれていた。
「マジか……」

 ラブレター事変から二か月、まさか続きがあるなんて思ってもみなかった。あの直後ならテンション高く怜に自慢し、校舎裏に向かったんだろうけど、今は状況が違う。
 これ、どうしよう。すっぽかすのは良くないので呼び出しに応じるとして、怜にいつ言うべきか。先に報告したらめちゃくちゃ不機嫌になりそうだ。

 最近気づいたのだけど、怜は意外と嫉妬深い。あの高橋がべたべたしてくるだけで嫌そうな顔をするのだから、ラブレターの話なんかしたら面倒くさいことになりそうだ。どうすっかな、なんて悩んでいると怜からメッセージが来た。「遅刻?」と一言。奏はふう、と息をつくと「トイレ」とだけ返し、階段を下りた。

 
 進路指導室で時間を潰してから、奏は指定された場所に向かう。文化祭の直前で校内はどこも賑わっていて、校舎裏をうろついていても逆に目立たない。これなら変な噂を立てられずに済みそうだ。
 それにしてもすっかり秋めいてきた。夕方は寒いな、そろそろ上着が必要かもと腕をさすっていると、後ろから声を掛けられた。
「あ、新瀬先輩」

 この子が手紙の差出人か。とうとう会えた。少しどきどきしながら口を開こうとしたのだが、相手は奏の顔を見るやいなや深く頭を下げた。
「お呼び立てしてすみません!」
 体育会系のような勢いで、早々に圧倒されてしまう。
「あ、いや、ご丁寧に……」
「すみません、お忙しい時に! ほんとにすみません……!」
 土下座しそうな勢いで更に頭を垂れるのを慌てて制した。彼女への返事は決まり切っているので、あまり謝罪されても後味が悪い。
「えっと、大丈夫、とりあえず顔上げてもらっていい?」
「はい、ほんと、すみません……」

 おずおずと顔を上げたのは、紺色のネクタイをした、小動物みたいな女の子だ。こんな可愛い子がおれを、と思うと嬉しくなるのだが、それ以上に申し訳なさが大きい。告白をする側のしんどさは身をもって学んだのだが、断る方も結構キツいんだな。初めて知った。

「あの、新瀬先輩、前に、その、手紙入ってましたよね……。今日と同じ封筒で」
「うん。もらった。あのさ」
 ごめんと奏が口を開く前に、相手の女の子がまた頭を下げた。
「ごめんなさい‼」
「い、いや、大丈夫。誰かわかんなくて驚いたけど……」
「あれ、間違いなんです!」

「……は?」
 今なんて。

「あの手紙、ほんとは別の人……月峰先輩に送るつもりで……」
「あ! もしかして、下駄箱で会った……怜に告ってた子⁉」
 怜の名前を聞いてシナプスが繋がり脳直で口にしてしまったのだが、あまりにもデリカシーに欠ける認知だったと言ってから気づいた。
「あっ、ごめん! マジでごめん!」
「いえ、大丈夫です。私の中で決着はついてるんで……。月峰先輩に付き合ってる人がいるって噂も聞いたし、ほんとに大丈夫です」

 その噂の出所は怜本人だ。奏とできあがった直後、クラスメイトに「三澤さんと付き合えば?」と囃し立てられた際、「付き合ってる人がいるから」ときっぱりと宣言したそうだ。奏はその話を高橋と三澤から聞いた。「振られちゃった」と報告されて、奏は何も言えなかった。

「ずっと引っかかってたんです。新瀬先輩に直接謝れてなかったな、って。本当に、本当にごめんなさい!」
 つまり、この子が頭を下げまくっているのは、間違い手紙だったからだと。
「あー……、そういうこと。いや、マジで大丈夫だから、そんなに謝んないで」
「でも、すっごい喜んでくれてたって聞いて」
「それはもちろん――ちょっと待って。何で知ってんの?」
 何でも何も、奏がラブレターの件を話したのは世界でただ怜ひとりだ。ということは。
「月峰先輩が教えてくれたんです」
「あいつ……」
 何でそんなことを。拳を握りしめたら、慌てて止められた。
「あ、先輩を責めないでください。新瀬先輩のこと心配してたから」
「心配?」
「私、その、好きな人に手紙を書いたのが人生で初めてで、宛名も自分の名前も忘れるし、下駄箱も間違えちゃって……。でも、ずっと気づかなかったんです。委員会で会っても月峰先輩は何も触れてこないし、なかったことにされちゃったのかなって。でも、たまたま委員会の資料を整理して、先輩の学籍番号見てたら、あれ? って。私が思ってたのと10番違ったんです」
「……まさか、それって」
「はい、調べたら新瀬先輩の番号でした。もうびっくりしちゃって。それで、改めて月峰先輩に手紙を出したら、まず新瀬先輩にも渡してなかったかって聞かれて……」
「え? 怜は最初から知ってたってこと?」
「みたいです。文体が似てたって、あと、新瀬先輩に見せてもらった手紙の字に見覚えがあったって言ってました」
「いや名探偵かよ……。はー、すげー話……」
「あの、本当にすみませんでした」

 改めて頭を下げられたので、もう一度顔を上げるように頼んだ。
「あのさ。あの手紙、おれ宛てじゃなかったからコメントすんなよって感じだけど、ずっとお礼を言いたくて」
「え?」
 戸惑う女の子に奏は笑いかける。
「あの手紙、すごく嬉しかった。気持ちが伝わってきて、元気がもらえて。いや、おれじゃないんだけど……。とにかく、どんな子が書いたのかなって気になってたから、正直に打ち明けてくれてよかった。ありがと」
「え……? あ、い、いえっ。そんな……」
 恐縮し、照れる女の子に向かって、奏も笑顔を浮かべる。

 というわけで、ラブレター事変もこれで一件落着だ。

 
 その晩、怜の家に泊まりにいった。怜のお母さんの一輪挿しに花を添えてから、部屋でくつろぐ怜の所へ行って事の顛末を話すと、「ドンマイ」と言われた。奇しくもあの日と同じく漫画を読みながらだ。

「ドンマイじゃねーよ。気づいてたんなら言えよ」
「俺も最初はわかんなかったよ。自分のもらってから似てるなって気づいただけ」
「それにしてもすげー記憶力だよな。さすが謎解き王子」
 隣のクラスで付いたあだ名で揶揄すると、「それマジで止めろ」と本気で嫌な顔をされた。

「で? 手紙はどうしたの?」
「どうって、部屋にあるけど」
 怜の顔が一気に曇る。
「捨てないの? カナが持ってる必要ないだろ。それか返せば」
「んー、一応聞いたら持ってていいって言われたからな。オチはオチだけど、おれにとっては大事な手紙だし」
「は? 意味わかんない……」
「年間百通ぐらいもらってるおまえにはわかんねーよ。おれはあの一通が大事なの」
「カナに宛てた一通でもないのに?」
「うるせーな。いいだろ。おれの好きにしていいって言われたから好きにするんだよ」

 あのラブレターは、怜との関係が変わったきっかけの一因でもある。そういう意味でも記念に取って起きたいのだが、夢見がちと笑われそうなので内緒だ。

 プロジェクターを操作し、映像配信サイトを眺めていると、急に怜が隣にやってきた。もう何度か泊まりに来たし、結構くっついたりはしているのだが、未だに距離を詰められるとどきっとしてしまう。
「な、なんだよ」
「……宛先とか、何通もらってるかとか関係ない。好きな子が目の前でラブレターもらってはしゃいでたら、いい気はしない」
 むくれる怜に、わ、と変な声が出そうになるのを慌てて堪えた。嫉妬してるよ。たかだか手紙一枚に。あの怜が。面倒くさいけど嬉しくてついテンションが上がってしまった。にやにやしていると、怜がつっけんどんな口調で言った。
「一生のお願い。確かあと九回残ってるよね」
 そういえばそんな話をしたような。
「あー……。そう来たか……」
「そんなに持ってたいの?」
 前言撤回。黙っていたら妙な方向に勘違いをされそうだ。
「おれたちってさ、あの手紙がきっかけってこともあっただろ。だから、持っときたいなって」
 と、照れながら言ったのだが。
「え? そう? 関係ある?」
「いやあるだろ。結構あるだろ」
「言うほどないと思うけど。ほんと、カナは夢見がちだよな」
 あまつさえ鼻で笑われた。こいつも大概ロマンチックが足りてねーな。

 ところで、この流れでもうひとつ報告しておいたほうがよさそうだ。更に機嫌が悪くなりそうだけど、黙っているのも嫌だし、どうせいつかバレそうだし。
「ラブレターの子に、最後に付き合ってる人いるかって聞かれたんだけど」
「は?」
 ほらやっぱり。目が怖えよ。
「いるって答えて終わったから何にもなかったよ。それだけ」
 怜は呆れたように息をついた。
「どうせまた人たらし発言したんだろ」
「人聞き悪いな。なんもしてないって」
「火のないところに煙は立たないんだよ。その鈍感で無自覚なとこ、直したほうがいいよ。ほんとに。あと手紙は捨てて」
 奏は無言で映画を漁った。
「あ、これ。こないだ映画館行ったときにやってた、リメイク前のやつだ。……あのときのじーちゃんたち、元気かな」
「カナがああいう風になりたいって言ってた人たち?」
「うん」

 再生ボタンを押すと、怜がリモコンで部屋の光量を落とした。白黒の荒い映像が流れる中、奏が横を盗み見すると、怜と目が合った。
「まっ、前見ろよ……」
「人のこと言えない」
 キスされそう、と思って慌てて前を向いた。怜には申し訳ないと思っているけど、気恥ずかしさに負けて、二回か三回に一回は何となく避けてしまう。
「しょ、しょーがねーだろ、急にするから」
 言い訳を口にしたら、「まだ何にもしてない」とぼやかれた。ごもっとも。
「ていうか映画流したのはカナじゃん。自分で雰囲気作ったんだから責任持ってよ」
「だってこの部屋、動画見る以外にほぼやることないし……。モノが少なすぎるんだよ。なんか買ったら? ゲーム機とか、ゲーム用のPCとか」
「それ、カナがほしいやつだよね」
「バレたか」
 怜は軽く息を吐いた。
「物を増やしたくなかったんだ。増えるのが嫌なんじゃなくて、無くしたくないから、なのかな。わかんない。ここに来た頃はそう思ってて、それが普通になってた」

 ここに来た頃――怜が、母親を亡くした頃だ。そのときの怜の気持ちを、痛みを、奏は一生わかってやれない。それがすごくもどかしかった。
 奏と怜は別の人間だ。どれだけ近くにいたって互いの全てを理解できるわけじゃない。

 ただ、傍にいて、寄り添うことができる。痛みを代わってやることはできないけれど、分かち合うことはできる。

「……あのさ、怜」
「ん?」
「おれ、最近進路指導室に行って、大学案内見てるんだ。文化祭終わったら親と話す予定」
「そっか。これから三者面談だもんな。決まったら教えて」
「怜はまだ迷ってんの?」
 奏の問いに、怜は一瞬口ごもり、奏をちらりと見た。
「カナは自宅から通うつもりなんだよな。俺も……まだ迷ってる」
 やっぱりそう来たか。
「うちの親、大学は別々で実家から通ってたらしいんだけど、父さん、三十分の距離も耐えられなかったんだって。だから卒業前に同棲したっぽい」
「へえ、カナの気が早いのはおじさん譲りだな」
「一緒にすんなよ。……まあ、おれも今はわかる気がするけど」

 たった十分の距離すらもどかしくなることがあるんだと、奏も怜と付き合ってから知った。怜と通話をしている夜、声が聞こえているのに寂しくなる。今ここに怜がいればいいのにと胸が切なくなって、今すぐ飛び出したくなる。きっと、ああいう気持ちなんだ。

「でもさ、こうも思うんだ。離れてる時間は長い人生のほんの一瞬なんじゃないかって。うちの親とか、あのじいちゃんたちみたいに、これから先もずっと一緒にいるんだったら、長い人生の何十分の一だろ」

 怜は小さく息を呑み、奏の真意を探るようなまなざしを向けてくる。
「……それはつまり、カナも俺に、どこに行ってもいいって言ってる?」
「そうだよ。怜の人生なんだから、怜の好きなところに行けよ。ここに残るなんてつまんねーこと言わないでさ」
「つまんなくはないだろ」
「じゃあ、ここで怜のやりたいことはできるのかよ?」
 すかさず返すと、不満と落胆を隠さずむすっと黙りこんだ。顔を覗き込むと、嫌そうに背けられてしまった。しょうがねーやつ。
 本当は全て段取りが決まってから格好良く宣言したかったけど、言うなら今だ。

「怜、好きなとこ行けよ。おれが怜についていくから」

「……は?」
 振り向いた怜に向かってにやっと笑う。
「父さんが言ってたんだよ。大事な人とは近くにいたほうがいいって。おれもそう思うから」
 怜の黒い目がこれ以上大きく見開かれた。瞳の中に映る自分の影を見ながら、奏は続ける。

「色々考えたんだよ。父さんの言うことも一理あるけど、長い目で見れば四年って短いのかな、とか。でもさ、おれは結局、ここじゃないと駄目ってのがないんだよな。大学案内見ても刺さんないし、志望校だって家から近い順にしてたし。なら、怜についていったっていいんじゃないかって」
「はあ? ちょ、何……何言ってんの?」

 長らくフリーズしていた怜がようやく喋ったが、未だ飲み込めていないらしい。いつになく慌てふためいている。パニクる怜は二回目だ。相変わらず面白いな。

「怜の近くで同じ勉強ができるならそれでいいじゃん。こっちで学校通うのと同じだろ」
「同じなわけないだろ。そんな簡単に……。学費とか、おじさんとおばさんだって……」
「もちろんバイトはするよ。奨学金も借りる。今、先生に相談して調べ始めたとこ。親はぶっちゃけ全然心配してない。ちゃんと説明すればわかってくれる。怜だってそう思うだろ」
「それは……でも」
 怜の手指に触れる。
「ていうか、おれが行きたいんだ。おれが怜のところに行きたい。傍にいたい」

 ずっと考えていた。自分にとって一番大事なものは何なのか。やりたいことって何なのか。怜との関係がこんがらがって、揺れて、改めて気づいた。
 おれは怜と一緒にいたい。
 一緒に暮らす相手も、いつまでも手を取り合って映画に行く相手も怜がいい。

 願うのは簡単だけど、続けることはきっと簡単じゃない。喧嘩だってするだろうし、すれ違い、躓くこともあるだろう。恋人や永遠を誓ったパートナーと別れた話なんてごまんとあるし、怜の両親のように望まない形で引き裂かれるかもしれない。永遠を確実に手に入れることは誰にもできない。
 手を伸ばし続けるしかないんだ。今この瞬間、何があっても後悔しないように。
 怜の幼馴染として、怜の恋人として、一番近くにいる。
 それが奏の選択で、奏の夢だ。

「で、一番肝心な、怜の返事を聞きたいんだけど……」
 迷子みたいな顔をしている怜に少し顔を近づけると、指先ごと強く握られる。怜の手は心臓が宿ったように熱かった。
「……もし、俺が嫌だって言ったら?」
 今度は奏が慌てる番だった。なにせ、オッケー以外の答えは想定していない。
「え? それは、考えてないけど。……マジ? 一生のお願いでもダメ?」
「ほんっと、後先考えないよな……」
 それには物申したい。
「今回はちゃんと考えてるよ。そりゃ他の人から見たら大したことないかもしれないけど、行き当たりばったりに行動するんじゃだめだって反省したから、色々調べてるし相談もしてる。まだ途中だけど……」
「ごめん、わかってるよ」
 怜は小さく笑い、両腕で奏を抱き締める。
「本当に、カナはそれでいいの」
 迷子の子どもみたいに頼りない声で言うから、きつく抱き返してやった。
「言っただろ。おれがそうしたいんだよ。怜は? 嫌だって言う?」
「嫌なわけないだろ。……ありがとう」
 怜の心のさざめきが奏にも伝わってきて、うん、と返す声が震えた。
 怜が嬉しいと奏も嬉しい。怜が寂しいと奏も寂しい。悲しい。だから、怜には幸せになってもらわないと奏も困るのだ。

「一緒に住んだら卒倒するかもな、おれの荷物の多さに」
「それはちょっと勘弁してほしいな。荷物減らしなよ」
「ふたり合わせたらちょうどいいじゃん」
「一生のお願いって言ったら?」
「え、そんなことで使うなよ、もったいない。却下」
「いや俺、今まで全部聞いてるんだけど……。まあいいや」
 油断しきっていた身体をベッドに倒されて、奏はぽかんと口を開けた。ちょっと待て。これって、まさか。
「目、閉じて。あと口も。開けたままでもいいけど」

 慌てて両方閉じるとすぐにキスされた。今までは一度で終わっていたのに、怜は触れるだけのキスを繰り返す。何度も、何度も。奏はそれを必死に受け止める。
 熱い。柔らかい粘膜の感触が、交わる呼吸が、隙間なくくっついている身体が。秋も終わろうとしているのに、残暑のような熱にじりじりと焼かれ、気づけば怜の背中を引っ張り、夢中で唇を求めていた。

「カナ」
 名前を呼ばれた。甘ったるくて恥ずかしくなるような声で。照れ隠しに怜の頭をぐしゃぐしゃに混ぜると、怜は少し顔を離して、いたずらを咎めるように奏の額にくちづける。くすぐったさに身を捩っているうちに、唇同士が再び重なって、今度は互いを溶け合わせるような深いものになった。

 もう何年も傍にいたのに、互いのもっと近くがあったなんて知らなかった。まだ知らないことがたくさんあるんだ。そう思ったらわくわくした。いや、それ以上にドキドキしすぎてヤバいんだけど。怜の心臓も同じで、ふたりで額を合わせて「やばい」と笑う。

 こんな奇跡のような夜が、幸せな瞬間が、この先何度だって訪れますように――そう願うまでもなく、不思議と叶う気がしていた。いや、叶えてやる。絶対に。
 奏は怜の背中に手を伸ばし、願いを込めて抱き締めた。

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