夏休みの間の二週間。東京と沖縄の交換留学。

 目的は学生同士の交流、勉強会――が夏休み、しかも沖縄にとっては繁忙期の時期に人員を割いてまでするわけもなく。辛うじて、毎日の記録と感想のレポート提出をすればどう過ごそうとも自由だ。
 親元を離れ、教師の監視もない夏の沖縄は連日天気にも恵まれている。

 これは最早ただのバカンスだ。





 東京から沖縄へ交換留学に来ていた外谷夕(そとがやゆう)は交換相手が提出したあまりにも稚拙なレポートに苛立っていた。
 夏休みの課題を進めていると、机の端に置いていた交換留学専用タブレット端末から通知音が鳴った。定刻通り転送されてきたそのレポートは、夕と入れ違いに沖縄から東京へと行っている朝海一夏(あさうみいちか)からのものだ。
 夕が参加しているこの交換留学はそれなりに成績が良い者が選ばれているはずだ。しかも自分と交換で留学をしている彼は自分よりも一歳年上の高校一年生のはずだ。
 それなのにレポートの出来があまりにも酷い。
 東京へ行ってしていることと言えば新宿、渋谷、原宿でのショッピング三昧。夕の友人であり、彼のホームステイ先である宮を引き連れて遊園地やスポーツレジャー施設、ゲームセンター、と随分と遊び歩いているらしい。
 そこに勉強のべの字は一切ない。

 どこに行った。誰と会った。何を買った。何を話した。楽しかった。面白かった。

 それはまるで小学生が書いたような一言感想だ。
 その一方で東京を訪れている一夏も夕のレポートに苛立ちを覚えていた。
 ホームステイ先に用意されていた個室のベッドに寝転び、端末に表示された長々と文字の続くレポートを読む。
 島の伝統行事について。歴史の始まりからこと細やかに書かれたそれはきっと島の博物館にまで足を運んで調べ上げたのだろう。正直、島で十五年間暮らしている一夏でさえ知らないことが書かれていた。
 いたく感動したと感情を誇張し、酷くオーバーな書き方。きっとこれを教員たちは喜ぶのだろう。しかし一夏から見るとそれはあまりにもわざとらしく、ただ大人に媚を売っているようにしか見えなかった。

 無事二週間が経ち、今年の交換留学も特に大きな問題なく終了を迎えた。
 夕は東京へ、一夏は沖縄の離島へとそれぞれ自分の本来の居場所へと帰って行く。

 そしてそれから一年が経ち、夕が高校一年生、一夏が高校二年生になった夏。島の友人である渡良瀬太一から夕へと一本の連絡が入った。

 「今年の交換留学、俺が東京に行くことになったから」

 よろしくな、と電話口で太一が言った。
 彼は島一番の成績優秀者である、と夕は島に滞在している間お年寄りたちからずっと聞かされていた。本来ならば彼が東京へと留学するところだが、家庭の事情で交換留学をずっと断っていたと夕は太一本人から聞いている。
 ついに彼は東京に来るらしい。といっても太一と夕が東京で会うことはない。だって夕は今年も交換留学生に選ばれており、今年も島へ行くことになっているからだ。
 「東京のおすすめスポット送ってあげようか」
 「お願いしようかな」
 向こう側でアハハと太一が笑った。
 太一が交換留学生に選ばれたということは、今年は一夏は島に残るということだ。
 「夕。念願の一夏と初対面だな」
 念願の。
 彼は大層な勘違いをしているらしい。
 そう言われるほど願っていたわけではない。ただ、あんなに酷いレポートを毎年書き上げる彼に会ってみたいと少し思っていただけだ。
 「俺がお前の相手をするよりも一夏との方がお前もきっと島を楽しめるよ」
 「……太一くんとの夏休みも楽しかったよ」
 「……ありがとな」
 目の前に太一がいたらきっと彼は夕の頭をぐしゃぐしゃに撫でていただろう。
 「一夏もお前と会うの楽しみにしてるって」
 「……ふーん」
 太一に見られていないことをいいことに夕は行儀悪く机にどかりと両足を乗せた。
 「本当かよ」
 机の上に置かれた卓上カレンダーの日付を夕は目で追う。
 交換留学が始まるのは夏休みが始まってすぐ。その日は着々と近づいてきている。
 島に行く前にまずキャップを新調しよう、と夕は財布の中の残金を思い出す。
 先日あった学期末試験の結果が明日出るはずだ。アルバイトが許されていない夕にとって試験結果による特別ボーナスは重要だ。





 小さな島の真ん中にある小さな空港は飛行機なんて大きなものは発着陸できない。
 一基の小型ジェット機が着陸し、今年の交換留学生たちが数名、それぞれ荷物を抱えて次々と降りて来る。
 今年初めて島で交換留学生を迎える一夏にとっては初めて見る顔しかない。大都会・東京から来た彼らは沖縄の小さな離島にいる自分よりもずっと大人びていて、お洒落に見えた。中にはもちろん島を訪れるのが数回目という学生もいるらしく、久しぶり、と声を掛け合っている。
 上からはジリジリと強い日差しが照り付け、下はコンクリートの照り返しが酷い。一夏は被っていた白のキャップを一度外して額の汗を拭うとまた被り直す。
 そして今年の交換留学生の最後の一人がようやくタラップを降りてきた。
 カンカン、と金属の階段と靴底がぶつかる音と盛大な蝉の合唱が合わさって煩いほどに響く。
 彼が持つのはホワイトのキャリーバッグと有名ブランドのボディバッグ。被っている真新しい赤のキャップを風に飛ばされないように手で押さえた彼と一夏は目が合った。
 形の良い眉にキリリとした目。スッと伸びた鼻筋に薄い唇。しゅっとした輪郭。格好良い、と十人中十人が言うだろう整った顔立ちをしていた。最新のトレンドでお洒落に纏められた服とアクセサリーがよく似合っている。
 会ったことはなくても彼の顔は太一と一緒に写っている写真で何度も見たことがある。直ぐに一夏は彼が夕だと分かった。
 きっと彼も一夏の顔は知っていたのだろう。一夏を見た彼が少し目を見開いたのが見えた。
 「夕!」
 一夏は笑顔を浮かべると夕に向かって大きく手を振った。
 自分も手を振り返すべきか迷ったのだろうか。夕はキャップを押さえていた手を緩めてしまった。
 直後、びゅうっと大きな音を立てて強く吹いた風が夕のキャップを浚い、夕の新品のキャップは空高く吹き飛ばされていった。
 爽やかに短く切り揃えられた黒髪がカンカン照りの太陽の元に晒される。
 もう手が届かないところまで飛ばされてしまった赤いキャップを二人は目で追うことしかできなかった。



 「表参道で六時間並んでやっと買えた限定モデルのキャップが……」
 夕は一八〇センチある大きな身体を折り、ホームステイ先へと続く道を力なくとぼとぼと歩いていた。一方、その隣を並んで歩く一夏は夕とは対照的に満面の笑みを浮かべている。
 「ドンマイ!」
 「全然ドンマイじゃ済まされないやつ」
 はあ、と夕は大きなため息をついて見せる。
 「ほら、飛んでいった先が運が良ければどこか道端にでも落ちて戻ってくる可能性もあるし。朝の散歩がてら探しといてやるよ」
 「運が良い所に落ちてればいいけどね……」
 帰るまでに見つかればいいな、としょんぼりする夕の頭にふわりとした重さが加わる。それに加えて心なしか少し日を遮られたような気もする。
 夕は顔を上げると自身の頭に触れた。
 触れた形は夕が被ってきたものと同じベースボールキャップのようだ。目線を上げると少し汚れた白い鍔と誰のものかわからない擦れたサインが見える。
 それはつい先ほどまで一夏が被っていたものだ。
 「なにこれ」
 「帽子がないと島での夏はしんどいぞ。夕の帽子が見つかるまで俺の貸しといてやるよ」
 歯を見せて笑う一夏の白い歯が日焼けした肌のお陰で余計に映えて見えた。
 「……借りといてあげる」
 夕は帽子の唾を摘まむと目深に被り直した。
 一夏のそれは太一に見せてもらった写真と同じ笑顔だった。

 目の前に、あの一夏がいる。

 赤茶色の髪は太陽に照らされて写真よりも更に明るい色に見える。少し日に焼けた肌とキラキラと光る瞳と真っ白な歯がよく映えていた。
 彼が着ているTシャツの胸元に印刷されているキャラクターは見たこともないキャラクターだ。笑った口の端に見える八重歯が可愛いそのキャラクターはどことなく一夏に似ているような気がした。
 夕はパッと顔を上げると周囲を見渡す。
 繁忙期の沖縄といえども観光地やホテル周辺でもない限り観光客たちの姿は見えない。
 「……この煩いくらいの蝉の鳴き声とか、潮の匂いとか、波の音とか、なんか懐かしい」
 「一年ぶりだもんな」
 夕の言葉に一夏はまた笑みを浮かべた。そして手を伸ばすと夕の頭をキャップ越しに撫でてやった。
 「おかえり、夕」
 「ただいま」
 「……あ、朝海一夏、高校二年生です」
 「高校一年、外谷夕です。よろしくお願いします」
 そういえば初対面だということを忘れていたと二人はそこでようやく自己紹介を果たす。そしてあまりにおかしなタイミングで行われたそれに二人は噴き出して笑った。
 お互い名簿で名前も年齢も知っていて、写真で顔も知っていた。それぞれの友人を通してどんな人なのかもなんとなくは聞いている。事前情報のお陰もあってなのか二人は初めて会って初めて話したというのに、まるで初めてのような気がしなかった。
 「去年の夏、さ。中三って普通に考えたら夕は受験生だったじゃん。だから夕は来ないのかと思ってた、って太一が言ってた」
 「俺は中高一貫校で内部進学だから普段の授業を真面目に受けてれば余程成績が悪くなければ高校受かってたし。それを言うなら一夏もだろ。一夏だって中三の時普通に東京に来てたじゃん」
 「島には高校は一つしかないから進学先に悩むことはなかったんだよ。そんなに偏差値の高い高校でもないからな」
 そこまではただの世間話だ。
 ふう、と夕は大きく息を吐く。ジャブはここまでだ。ずっと言いたかったことを夕はようやく言うことが出来る。
 「あのさ。ずっと言いたかったんだけど、なんなのあの雑な感想のレポート。小学生じゃないんだからもう少しまともなこと書けよ」
 「はぁ!?」
 一夏を人差し指で指差しながらずけずけと物を言う夕に一夏が一歩距離を詰める。そして夕の人差し指をぎゅっと握りしめて隠してやった。
 「俺もお前にずっと言ってやりたかったよ。つまんねえレポート書きやがって全然面白くねえんだよ! あんな論文みたいな文章読んでも誰も島に来たいと思わねえだろうが!」
 「はああぁ!?」
 「あァ!?」
 夕が中学一年生、一夏が中学二年生の時から始まった交換留学も今年で四年目になる。過去三年分溜まっていたお互いのつまらないレポートへの思いを二人は全て吐き出すと早速今回の交換留学の目的を一つ達したような気がした。
 話しているうちにいつの間にか家にたどり着いていたらしい。
 島独特の作りをした大きな平屋の表札には「朝海」と書かれている。
 「夕、今年のホームステイは俺の家な。人数多いから騒がしいかもしれないけど、今までにない楽しい交換留学にしてやるから楽しみにしてろよ」
 夕はその言葉に楽しみよりも逆に恐怖を覚えながらも一夏に続いて玄関をくぐった。

 毎年島に交換留学で来ていたので夕は朝海家の人とはもちろん会ったことがある。
 “民宿・あさうみ”は島にいくつもある民宿の中でも一番アットホームで島民の生活を肌で感じることができる話題の宿だ。また、毎年ホームステイでお世話になっていた太一の幼馴染の家だということもあり、夕も挨拶くらいはしたことがあった。
 それでも二週間の間、一緒に暮らすとなると話は別だ。
 「外谷くん、いらっしゃい!」
 「外谷くん、こんにちは~。よろしくね~」
 「じいじ! そとがやくんきたよ!」
 「こんにちは! 狭い家で悪いけど上がって上がって!」
 「あ、え、えっと……外谷夕です。二週間お世話になります。よろしくお願いします」」
 玄関のドアを開けた瞬間、中から飛び出してきた朝海家の人たちと彼らの声に夕は直ぐに圧倒されてしまった。
 東京土産を手渡すとそのまま小さな弟と妹に背中を押され、食事の席に通される。大きなテーブルの上にはたくさんの料理が所狭しと並んでいた。これはまるで大宴会場だ。
 俗にいう誕生日席というものに座らされ、手渡されたコップになみなみとご当地シークワーサージュースが注がれる。家族皆が席につくと宴会は始まり、同時に夕への質問タイムが始まった。
 「外谷くんの家は何人家族なの?」
 「うちは父と母と俺の三人家族です」
 「そう、それだとうちの人数にはびっくりしちゃうわね」
 「うちはひいばあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん、父さん、母さん、兄ちゃん、姉ちゃん、俺、弟、妹の十人家族だからなー」
 家族を数えるだけで両掌が埋まってしまった一夏の手を見て夕は苦笑する。そんな大家族はテレビ番組でしか見たことがない。
 「あ、あと犬を飼ってます。二歳のハスキーなんですけど。賢くて人懐こい良い子なんです」
 そう言うと夕はスマートフォンの画面をみんなの前に差し出した。ロック画面には耳をピンと立てたシベリアンハスキーがこちらをじっと見つめていた。犬に一番興味を示したのはまだ幼い弟と妹だ。
 「大きい~! かっけ~!」
 「このわんちゃん、お名前はなんていうのー?」
 「八月生まれだから、ナツ。凄く元気でボール遊びが大好きなんだよ」
 夕はアルバムを開くと弟たちにナツの写真をいっぱい見せてくれた。おしゃべりな一夏の母親と姉の質問に応えつつ、年寄りによる突然始まった昔話にも耳を傾け時折問いかけを交える姿は立派なものだ。
 最初こそ緊張を見せていた夕だったが宴会が始まって一時間もすると彼は朝海家とすっかり打ち解けたようだった。そのあまりの速さに一夏は内心、夕に感心していた。

 夕の歓迎会がお開きになると夕は一番風呂に案内された。いつもお世話になっている太一の家の風呂とは違う、青いタイル張りの時代を感じる風呂は意外と広く、夕は足を延ばして悠々と入ることができた。
 風呂から上がり、入浴前に聞かされていた部屋へと向かう。
 ギシギシと軋む廊下を歩き、一番奥の障子を開けると布団を敷いていた一夏と目が合った。
 部屋の中には玄関で手放した夕のキャリーバッグとボディバッグが運び込まれていた。
 「ゆっくり入れたか?」
 「あ、うん」
 ここ、と一夏は敷いたばかりの布団を叩く。どうやらそこがこれから二週間夕が眠る場所らしい。
 「俺も風呂入ってくるから先に寝ててもいいから」
 一夏はそう言うと寝間着と下着を持って夕が今来た方へと去って行ってしまった。
 一人きりになった部屋の中はとても静かだ。
 太一の家にお世話になっていた時は空き部屋を一部屋丸々使わせてもらっていたので他人と部屋を一緒にして泊るのは夕にとってこれが初めてだった。
 室内をきょろきょろと見渡すと一夏の日常がよく見える。
 壁に貼られたサッカー選手のポスターは日に焼け、随分と色褪せていた。その選手はとうの昔、夕が小学生の頃には引退してしまっている。
 夕の布団の横には一夏のシングルベッドが置かれている。サイドボードとして使われているカラーボックスの中には漫画が詰まっているがどれも夕の知らないタイトルが並んでいた。
 勉強机の上には教科書ノート類が違法建築された塔のように絶妙のバランスをもって高く積み上げられている。そこを本来の目的である勉強で使っている形跡はなく、その塔も恐らく夕が来るので急いで作り上げられたものなのだろう。
 夕は無遠慮に一夏のベッドに寝転ぶとカラーボックスの本棚から一巻を取り出した。ページを捲って読み始めるとそれはありきたりなバトル漫画だった。

 自分の部屋なのだからノックをする必要もない。風呂から上がった一夏は自室の襖を開けた。
 室内は未だ電気が点いており、ホームステイ初日のはずの夕は随分とリラックスした体勢で一夏のベッドに寝転んで一夏の漫画を読んでいた。
 「お前、馴染むの早すぎだろ」
 はあ、とあきれたようにため息をつくと一夏はベッドに腰掛ける。一夏が座った反動でベッドが軋み沈むと夕はようやく視線を漫画から一夏へと移した。
 「これ、三巻で終わりなの?」
 「え?」
 読みかけのページに栞代わりに指を挟んで夕は漫画の表紙を一夏に見せる。本棚にはこの漫画は三巻までしか置かれていないし、カバーの作者コメントには最終巻と書かれていた。
 「あー、うん。三巻で打ち切り。めちゃくちゃいい所で終わっちゃったんだよ、それ」
 一夏はその漫画の内容を思い出す。
 敵に家族を殺された主人公が幼なじみと共に旅に出て敵を倒すバトル漫画。
 特に目立った展開があるわけでもなく、ヒロインが特別可愛いわけでもなく、よく考えなくともそれはありきたりなバトル漫画だった。それでもその漫画が一夏には特別刺さったのだ。
 「ふーん」
 夕は一言返すと漫画に戻って行った。ベッドから退く気配のない夕に一夏はまたため息をついて仕方がないと夕のために敷いた布団に寝転がる。そして手持無沙汰に自分も本棚から漫画を一冊取り出すとペラペラと読み始めた。
 何度も読んで台詞まで全て覚えてしまっている一夏は数分後には漫画を一冊読み終えてしまった。そしてそれと同時に夕もどうやら最終巻を読み終えたらしい。
 持っていた漫画を本棚に戻すと彼はコロコロと転がってベッドから布団へと落ちてきた。
 「ちょっ、狭い!」
 「ここ俺の布団」
 シングルサイズの布団に男子高校生二人が横に並ぶのは無理がある。
 先に自分がベッドを占領していたというのにしれっと布団へと戻ってきた夕を睨みつけつつ、一夏は自分のベッドに上った。
 「今日は早く寝ろよ。明日は朝早いからな」
 一夏はそう言うと部屋の電気を消してタオルケットに包まる。
 「おやすみ」
 「……おやすみ」
 夕から返事が聞こえてきたことに一安心してから一夏は目を閉じた。

 カチコチと時計の秒針の音が静かな部屋にやけに大きく聞こえていた。一夏がそれを子守唄に眠りにつく、というところで、ピロン、と通知音が鳴り、真っ暗な部屋にぼんやりと一点明かりが灯る。
 しかもそれは一度だけではない。一夏が眠りにつきそうなタイミングで何度も通知音が鳴り、光る。それは夕の眠る布団の方から鳴っていた。
 時間は疾うに夜中。何度もスマートフォンが鳴り光っているというのに持ち主である夕はそれを止めようともしない。それどころか隣の布団からはスースーと夕の心地よさそうに眠る寝息さえ聞こえてくる。
 「……うるさ」
 いよいよ耐え切れなくなった一夏はベッドから起き上がると夕の枕元を覗き込んだ。それと同時にまた通知音が鳴り、真っ暗だった画面に明かりが灯る。
 見えたのはスマートフォンの画面いっぱいのメッセージ通知だった。それは一人から送られてきたものではない。それぞれ違う人の名前、たくさんのグループから様々なメッセージが送られてきていた。
 「遊ぼう」「今なにしてるの」「通話しない?」
 様々なメッセージがひっきりなしに夕のスマートフォンに届く。
 一夏はこんなに途切れることなく通知の鳴るスマートフォンを見たことがない。
 もちろん一夏も数年前の旧モデルではあるが連絡用にスマートフォンを持っている。友人もいるが、小さな島の友人の人数では大都会住みの夕にそもそも敵うはずがない。それに、こんなに連絡をまめに取りたがるような友人を一夏は持っていなかった。
 「何件通知が来るんだよ。すごい……」
 じっと画面を見ているこの少しの間だけでも通知音は鳴り続け、画面に写るメッセージも古いものは下に流され、新しいものが上がってくる。
 こいつにはこんなに友達がいるんだ、と一夏は少しだけ羨ましく、そしてそれに引き換え全く通知の鳴らない自分のスマートフォンが少し悲しくなっていた。
 一夏はベッドに戻るとタオルケットを頭まで被る。そうすると先ほどよりも少しは音が遮られるような気がした。
 ピロンピロンと通知音が鳴るのも慣れれば子守唄だ。一夏はそのまま眠りについていった。



 遮光性の低いカーテンはカーテン越しの朝日だけでも随分と部屋の中が明るく照らす。それに加えてカーテンの隙間から朝日が差し込み、ちょうどその細くて眩しい光が夕の顔を照らしていた。
 「夕、おはよう。朝だぞ」
 朝日に照らされても尚目を覚まそうとしない夕の身体がゆさゆさと無遠慮に揺らされる。あまりにも乱暴な揺さぶりにさすがの夕も目を覚ませざるを得ない。
 「ん……おはよ……? まだ五時半じゃん!」
 寝ぼけ眼で見た時計は未だ朝五時半を示していた。いつもならまだまだ眠っている時間だ。
 見ると一夏は既に寝間着から着替えを終えている。
 「明日は朝早い、って寝る前に言っただろ」
 はいおはよう、と一夏は満面の笑みを浮かべると夕からタオルケットを剥ぎ取った。
 寝間着から着替えて居間へと向かうと朝海家の家族は皆既にテーブルについていた。
 「一夏、夕くん、おはよう」
 「昨晩はよく眠れた?」
 「夕くん遅いよ~!」
 「一夏兄ちゃんも遅いー!」
 「俺は夕を起こしてただけ! ちゃんと起きてた!」
 早朝から朝海家は皆元気だった。
 既に朝食を取っていた輪に一夏と夕も混ざると目の前にご飯と味噌汁が並べられた。どうやらこの家の朝食はご飯派らしい。
 「いただきます!」
 「いただきます」
 テーブルの真ん中には何種類ものおかずが並び、自由におかずを取って食べて行くスタイルらしい。夕は卵焼きを食べるとそれが甘いことに驚いていた。
 食事を終えた者から順にテーブルを離れていき、最後まで残ったのはやはり遅く来た一夏と夕だった。
 夕はスマートフォンを片手で操作しながらもう片方の手で器用に食事を進めていく。その様子を見た一夏は自分の食事の手を一度止めると夕の手からスマートフォンを奪った。
 「ちょっ……!」
 突然手から消えたそれに夕が一夏を見る。そして一夏は彼のポケットにそれを無理やりねじ込んでやった。
 「食事の時にケータイいじるのは禁止」
 そう忠告すると一夏は自分の食事に戻る。夕は何かを言いかけ、そして諦めてスマートフォンをポケットに入れたまま自分も食事に集中することにした。
 二人揃って朝食を取り終えると残り物を冷蔵庫へと戻す。流し台を見ると先に食事を終えた家族たちの食器が山積みに残っていた。どうやらこの家は最後まで残った者が後片付けをするルールになっているらしい。
 一夏が慣れた手つきで素早く食器を洗い、夕が濡れた食器を拭いて重ねていく。そして最後に二人で綺麗になった食器を全て食器棚に戻していった。
 朝から一仕事を終え、一息つこうとしている夕の腕を一夏が引いた。
 「ここからが本番だからな」
 「え?」
 行くぞ、と言われて靴を履くと二人は民宿の建物へと入っていく。
 「おはようございます!」
 民宿に入った瞬間一夏は笑顔でそう挨拶をした。その挨拶に同じく、おはよう、と挨拶が返ってくる。その相手は朝海家の者ではない。どうやらこの民宿に宿泊している観光客らしい。
 一夏に促され、夕は靴を脱いで玄関を上がる。
 「まず共有部分の掃除、それから順番に客室の掃除していくぞ」
 「は?」
 エプロンを頭から被され、手には箒を持たされた夕は突然のことに呆然としていた。同じようにエプロンを身に着け、叩きと雑巾を両手に持った一夏は笑っていた。
 「お前のレポート読んで思ってたんだよな。お前何年間もこの島に来てるのにいつまでもお客様目線だな、って。島に学びに来てるならもてなす側もやってみろよ」
 はいスタート、と一夏は合図をすると先に奥の部屋へと入って行ってしまった。
 民宿あさうみ、と胸元に書かれたエプロンは正直ダサい。しかしこのまま突っ立っているわけにもいかず、夕はため息をついて箒を掛け始めた。
 清掃、荷物運び、買い出し。昼食を取った後は宿泊客の送迎と宿泊受付。
 朝から仕事は山積みで、夕は一夏と共にそれを全てなんとかこなしていった。
 ようやく仕事が落ち着いたのは夕方に差し掛かった頃だった。といってもこれから直ぐに夕食の準備があるらしく、朝海家の人々は少し休憩を挟むと直ぐにそれぞれの仕事へと戻って行く。まだ幼い弟と妹も遊びながらも家の手伝いをしているというのだから驚きだ。
 夕方と言えども真夏の沖縄の暑さが引くことはない。夕は日陰にしゃがみ込むと頭を垂らす。滴る汗が地面にぽつぽつと丸い痕を付けて直ぐに乾いていく。
 「暑い……」
 「お疲れ」
 額に冷たいものを押し当てられ、その気持ち良さに夕は目を細めると顔を上げた。
 そこには袋に入ったソーダ味の棒アイスを持った一夏が立っていた。夕の額に当てられた直後からアイスは熱を吸収して溶けていく。夕は一夏からアイスを受け取ると袋を開けると一気に半分まで食べた。
 一夏も夕の隣に座って自分の分のアイスを頬張り始める。夕とは違って小さく何口にも分けて食べるのでその度にシャクシャクと気持ちの良い咀嚼音が隣から聞こえた。
 「こんな交換留学初めてだろ。毎年太一とはどんなことしてた?」
 「……レポートの通りだよ。島のアクティビティ体験、博物館見学、夏休みの宿題……」
 「つまんな。お前そんなことしてたのかよ」
 それで毎年毎年よく飽きずに島に来てるな、と一夏は苦笑いを浮かべた。
 二人とも最後までアイスを食べきり、手には棒だけが残る。微かに残っていたアイスの水滴が棒を伝って地面に零れると蟻が一斉にそこに集まってきた。蝉の鳴き声はずっと聞こえている。
 「俺が過去一最高の夏休みにしてやるよ」
 一夏はそう言うと歯を見せて笑った。



 翌日は朝の掃除だけでその日の仕事は終わりだと伝えられた。まだ朝の時間帯、一夏は夕を先導して森の中へと入っていった。
 傾斜のきつい山道をなんとか登りきると一気に目の前が開ける。
 観光客たちの騒がしい声は全く聞こえない。聞こえるのは蝉の鳴き声と、優しい川のせせらぎだけ。そこには魚の泳ぐ綺麗に澄んだ川が流れていた。
 「ちょっと涼みたい時とか、ぼうっとしたい時の川釣りとかに来る俺のお気に入りの場所」
 一夏はそう言うと川べりに腰掛けてサンダルのまま川の中に足を入れた。
 近くを泳いでいた小さな魚が突然入ってきた足にびっくりして逃げていく。その動きさえもはっきり見えるくらい川は澄んでいて邪魔なものは一切ない。
 大手ホテルのアクティビティにも確か川釣りはあったはずだ。現に夕は一度体験したことがある。しかしその川はここではなく、もっとホテルに近くて、観光客であふれていてこんなに静かな場所では決してなかった。
 夕はポケットからスマートフォンを取り出すと風景に向けてシャッターを切った。次に澄んだ川にレンズを向け、中に見える魚にフォーカスを当てた。
 二人しかいない空間に夕の切ったシャッター音が響く。
 それからも川に入らずに写真を撮り続けているといよいよ業を煮やした一夏が夕に手招きをする。
 「ケータイは濡れるからここに置いとけよ」
 そう言うと一夏は木陰の岩を指差す。そして肩に掛けていたタオルを岩の上に広げると一夏はそこに自分のスマートフォンを置いた。
 夕は一瞬考えつつも素直に一夏の隣に自分のスマートフォンを並べ、一夏の隣に腰掛ける。
 隣同士の二台のスマートフォンに一夏は満足げな表情を浮かべると川の水を両掌で掬い上げ、夕に向けた。
 「うわっ! 冷たっ!」
 冷たい川の水が夕のTシャツとズボンを早速濡らした。ポケットにスマートフォンが入っていたらきっと無事では済まされなかっただろう。どうやら彼はこれがやりたくて夕からスマートフォンを隔離していたらしい。
 「おい、一夏!」
 「冷たくて気持ち良いだろ?」
 そう言って何度も水を掬ってパシャパシャと掛けてくる一夏に夕は顔を顰める。そして自分も大きな手のひらで水を掬うと勢いよく一夏に掛けてやった。
 「冷たっ!」
 今度は一夏が声を上げる番だ。
 手で掬うだけでは足りず、二人は立ち上がると川の中に入って大きく地団駄を踏む。バシャバシャと大きな音を立てて水が跳ね、魚たちは疾うに遠くへと逃げて行ってしまった。
 お互いに水を掛け合い、終いには川に自ら身体を沈めて全身を濡らす。川から上がると身体にへばりつく布地が邪魔で、夕はTシャツを脱いで岩場に広げた。フライパンのように暑い岩場なので広げて置けば帰る頃には乾いているだろう。
 服を脱いで干すと早速第二ラウンドが始まった。
 それからまるで小学生のように馬鹿みたいに水を掛け合った。次は川釣りの道具も持って来よう、と言った頃には岩場に干していたTシャツは完全に乾ききっていた。
 翌日、一夏の言った通り二人は一夏の祖父から釣竿を借りて川を訪れた。先日の煩い川遊びから一転して二人は釣竿を川に垂らすとただひたすらに魚が掛かるのを待つ。
 ミンミンと蝉がけたたましく鳴く中、魚を驚かせない程度に声を張り上げて会話をした。
 魚が掛かるのを待っている間も夕はスマートフォンを一切見なかった。それはずっとポケットの中に収まったまま、時折バイブ音を鳴らして着信を知らせているだけだ。
 スマートフォンをポケットから取り出すこともなかったので、夕は最初の川以外写真を撮ることもなくなっていた。それから行った誰もいない穴場の砂浜も、島民以外は近寄らない洞窟も、一番綺麗に見える夕焼けも写真フォルダには一切残っていない。それらは全て記録として残すことなく、記憶として夕の目に焼き付いているだけだ。
 「あっ!」
 と夕が大声を上げた。あまりの大きな声にびっくりした鳥が羽ばたいていくのが見えた。
 木の枝に引っ掛かっている真っ赤なものに二人は見覚えがあった。
 夕は木に駆け寄るとそのままの勢いでジャンプをしてキャップを掴む。真っ赤な上質な生地に有名ブランドのロゴ。それは間違いなく交換留学初日に風に攫われて行った夕のキャップだった。
 「夕、良かったな!」
 少し遅れて一夏が木まで来ると夕はそのキャップを自分の頭ではなく、一夏の頭に被せた。
 夕の頭には変わらず一夏から借りている白いベースボールキャップが乗っている。
 「夕?」
 先ほどまで直射日光を浴びていた頭が急に涼しくなり、一夏は自分の頭に手で触れた。まだ頭に生地が馴染んでいない硬い手触りはそのキャップがまだ真新しいことを示している。
 「やる。もともとそれ、一夏へのお土産のつもりだったから」
 「やるって、これ買うのに苦労したレアなやつなんだろ」
 「いいよ。俺には一夏のこの帽子があるし」
 これもレアなんだろ、と夕は鍔の裏側のサインを見せて笑った。





 その日の民宿はいつもに増して混んでいた。今日の仕事の内容は主に宿泊客の出迎え、受付だ。ひっきりなしに訪れる客の宿泊受付は一夏が。夕は次々と荷物を客室へと運んでいく。
 大きなキャリーバッグを二つ、急な階段を使って二階の部屋へと運び入れた夕が客室から出たところで外から男の怒号が聞こえてきた。
 夕は階段を駆け下りて慌てて外へと飛び出す。すると図体のデカイ男が一夏の胸倉を掴んでいるのが見えた。
 片腕を振り上げ、今にも一夏に殴りかかろうとしている姿を見て夕は急いで二人の間に身体を滑り込ませる。
 「お客様、いかがされましたか!?」
 間に入った瞬間、男からは強い酒の匂いがした。あまりの酒臭さに夕の顔が多少引きつるほどだ。
 「こいつが〇×△□~!!!!」
 回っていない呂律で全く意味が分からず、おまけに勢いよく吹きつけられる唾に夕は顔を顰めた。それに対して夕は決して彼には聞こえないほどの音量で小さく舌打ちを鳴らしてやった。
 「お客様、ここは暑いですのであちらで涼みながらお話をお伺いいたします」
 そう言って夕は一夏から男を引き離すことに成功する。背後から小さな声で一夏の、ありがとう、という声が聞こえた。
 夕はそのまま男を日陰のベンチへと座らせると冷たい水を飲ませてやった。すると男はすぐに大きないびきをかきながら眠ってしまった。
 一夏に呼ばれて駆けつけてきた一夏の兄に男を任せ、夕もようやくその場を離れると一夏が心配そうな表情で駆け寄ってきた。
 「夕、さっきは本当にありがとう。大丈夫だったか?」
 「俺は全然大丈夫。お前も気を付けろよ」
 夕はそう言うと一夏の頭を優しく撫でてやる。それはいつかの仕返しだ。
 「……ありがと」
 突然夕に頭を撫でられたことに一夏は頬を真っ赤に染めた。それは決して外気温の暑さからくるものではない。夕に触れられた箇所が異様に熱い。
 あっ、と一夏は気付く。どうやらここにきて自分の悪い癖が出てきてしまったらしい。それはきっと彼には迷惑なことだ。
 「……夕、その荷物で最後だから終わったら街に出るぞ」
 「あ、うん」
 夕は最後にボストンバッグを四つ、客室に運び入れると玄関で待つ一夏の元へと戻って行った。



 お土産屋さんや食事処が軒を連ねるこの場所は島で一番賑わいを見せる場所だ。
 真面目な交換留学生活を毎年送っている夕だったがさすがにこの場所にはお土産を買いに何度か訪れたことがある。しかしそれでも入ったことのある店は数店舗のみで、全く入ったことのない店ももちろん存在している。そのうちの一つがどうやらこれから行く場所らしい。
 一夏は夕を連れて、お土産屋さんとお土産屋さんの間に挟まれた小さなセレクトショップに入っていった。
 店のドアを押して開けると同時に、商品を畳み直していた金髪のロングヘア―の青年が手を止めて顔を上げた。
 「いらっしゃいませ、って一夏か」
 唇に付けられたリング状のピアスが店内照明に照らされてキラリと光る。
 二人が入店した直後には瞬時に接客の笑みを浮かべた店主だったが、客の一人が一夏だと分かると表情を崩していった。
 狭い店の中に並んでいる衣服や雑貨類は観光客用のものではない。マネキンのコーディネートは洗練されており、普通に東京の駅ビルでよく見る流行りのものだ。それに合うように置かれているネックレスやピアスには島の名産品である宝石があしらわれていて特別感がある。帽子やサングラスもどれも東京出身である夕も欲しくなるようなものばかりが並んでいた。
 「この人は店主の柳さん。うちの高校の卒業生。この店は島で唯一の洋服屋さんで、地元の中高生は良く買いに来るんだ」
 ほら、と言って一夏は値札を夕に示す。値段は学生にもなんとか手が届く良心設定だ。
 一夏から“柳”と紹介された店主は両耳に付けられた大ぶりのピアスをチャリチャリと鳴らしながら店内を歩くと店の奥から一着の服を取り出してきた。
 「一夏のために倉庫からとっておきのもの探しておいたぞ」
 柳がレジカウンターに置いたそれは少し埃をかぶったビニール袋に梱包されている半袖シャツだ。
 一夏は手のひらで軽く埃を払うと目をキラキラと輝かせて柳を見つめた。
 「柳さん……! これめちゃくちゃ格好良い……!」
 「お前ならそう言うと思ったよ」
 早速ビニール袋から取り出して身体に合わせ始めた一夏を見て柳は呆れたため息をついた。
 「一夏の友達?」
 「交換留学生の外谷夕、高校一年です。東京から来ました」
 「ああそう」
 夕の自己紹介を聞いた柳は、東京、東京ね、と言葉を繰り返す。そして何度も頷いて見せると、あのさあ、と一夏には聞こえないくらい小さな声で夕に話しかけてきた。
 「あれ、俺の父親の代からの売れ残り」
 「年代物なんですね」
 「ずっと売れ残ってたくらいやばいやつ」
 「やばいやつ?」
 「あいつは店先に並ぶ流行の柄やスタイルなんて興味ねえ。変わったやつ。ダサいやつが好きなんだよ」
 ダサいやつ、と柳の言葉を夕は反芻する。
 その時、ずっと鏡と睨めっこをしていた一夏が振り返り、柳に声を掛けた。
 「柳さん! これいくらになる!?」
 その目は先ほどよりもずっとキラキラと輝いていた。元々付いている値札は高校生には到底手の届かない値段だ。しかしどうやら彼は店主のおすすめ通り、それに決めたらしい。
 「お得意様への特別セール、八十パーセント引き」
 「買います!」
 「毎度あり」
 やっと倉庫の在庫が減った、と笑う柳の隣を夕が通る。そしてそのまま夕は一夏の元まで来ると一夏からその服を奪った。
 「夕……?」
 「これ、全然ダサくないですよ」
 夕ははっきりとした口調でそう言った。
 「一周回ってレトロでかっこよくないですか?」
 そう言って夕はそのダサくてレトロで売れ残りのシャツを自身の身体に合わせた。するとそのシャツは途端にお洒落に見える。
 「すごい、格好良い……」
 と思わず一夏が声を漏らす。
 「格好良い奴が着れば何でも格好良くなるんだな……」
 一夏の言葉に夕は、ぷっと噴き出して笑った。そして自分の身体に合わせていたシャツのボタンを開けると一夏へと向ける。そして服の上からシャツを羽織らせてやった。
 「一夏も似合うよ。これをこうして」
 わざと前後を逆に着て、裾を出して、中のインナーを見せて。
 夕のコーディネートで途端に一夏はお洒落になっていった。その様子を見て思わず柳が歓声を上げて拍手を送るほどだ。
 「ね、ダサくないでしょ」
 そう言うと夕は笑みを浮かべて、柳に会計を急かす。
 「お洒落な服が買えてよかったね」
 帰り道、ショッパーを持つ一夏に夕がそう言った。
 「あ、うん。……買い物付き合ってくれてありがと」
 自分が選ぶ服をお洒落だと言われたのは一夏にとってこれが初めてのことだった。



 午前五時半に起きるのも随分慣れてきていた。
 一夏のスマートフォンから流れる今日の起床アラームはいつものデフォルト目覚まし時計ではなかった。
 五時半になると同時に流れ始めたのは前奏のない男性ボーカルの歌だ。
 突然頭上から聞こえてきた歌に驚いたのは一夏だ。どうやら昨晩寝る前にアラームを弄っていた時にいつの間にかその曲をアラームに設定してしまっていたらしい。
 一夏はその曲を夕に聞かせるつもりはなかった。だってその曲は流行の曲ではないし、友人家族には滅法評判の良くない曲なのだ。
 しかし夕から返ってきた反応は予想とは真逆のものだった。
 音楽が鳴ると同時に、いつもならばなかなか起き上がらない夕が勢いよく身体を起こして隣のベッドにいる一夏を見る。
 「これってもしかして動画サイトで日本一周チャレンジ企画をやってるバンド?」
 「え!? 夕知ってんの!?」
 動画サイトで日本一周チャレンジをしていて、変な被り物をしていて、突然踊って、見たこともない世界の楽器を使って。そんなバンドを一夏は一つしか知らない。それは一夏が今一番大好きなバンドだ。
 「島の奴らはみんな知らないし、絶対流行らないって言われたんだけど!」
 「知ってる知ってる! このバンドの歌詞、めちゃくちゃ良いからこれから絶対流行るよ」
 未だ登録者数三桁のバンドを自分以外に知っている人がいた。しかも好きだと言う。
 「良い、って言われたの初めて。めちゃくちゃ嬉しい」
 そう言って一夏は少し照れたように、嬉しそうに笑った。その笑みがあまりにも幸せそうでその笑みを向けられた夕も思わず恥ずかしくなってしまったほどだ。
 そういえばあの曲も、と手元のスマートフォンをスワイプし始めた夕に一夏は目を細める。
 一夏は本当に今までに自分の好みを理解してくれる人に会ったことがなかったのだ。服の趣味といい、バンドといい、好きなものを否定されないことに一夏は喜びを感じていた。しかしそれと同時になんともいえない心のもやもやが募っていく感覚も合わせて感じていた。





 その日は酷い猛暑日を記録していた。外はあまりにも暑すぎてついに蝉の鳴き声さえ聞こえてこない。
 今日は民宿の仕事は休みの日。二人はエアコンがよく効いた涼しい一夏の部屋で小さなテーブルに向かい合って夏休みの宿題に勤しんでいた。
 「太一はいつも俺が来る前に夏休みの宿題を全部終わらせてたから見たことなかったんだけど、島の高校の夏の宿題ってどんな感じ……」
 英語の問題を三ページ解き終えた夕がそう尋ねてきた。しかし一夏から返答はない。
 「一夏?」
 夕はノートから顔を上げるとテーブルを挟んで向かい側に座る一夏を見た。
 一夏の手は止まっている。二年の英語の問題集は辛うじて開かれているが一問も解かれておらず真っ白なまま、一夏はペンを握りしめぼうっとどこかを見つめていた。
 夕は持っていたペンをテーブルの上に転がすと一夏の隣へと移る。しかし一夏は夕が直ぐ近くに移動してきたことさえも気付いていなかった。彼は酷く上の空を浮かべている。
 「一夏」
 と夕が一夏の顔を覗き込んだ。そこでようやく一夏は夕の顔が近いことに気付き、瞬時に顔を真っ赤に染めると身体を仰け反らせた。
 「うわっ、ゆ、夕!?」
 「……どうかした?」
 心配そうに眉を下げて顔を覗き込んでくる夕に一夏は視線を泳がせた後、意を決したように大きく息を吐いた。
 「ずっと悩んでることがあって」
 「悩み?」
 こくん、と一夏が小さく頷くとまた口を閉ざす。
 きっとここから先は急かすものではないのだろう。夕は一夏が続きを話し始めるのをゆっくり待つことにした。
 静かな室内にエアコンが冷たい空気を吐き出す轟轟という風の音だけが響く。
 数回、口を開いては閉じを繰り返していた一夏はようやく言葉を発した。
 「俺、マイナーなものばかり好きになるんだ」
 マイナーなもの、と突然言われても夕にはそれがどんなもののことを指すのか分からなかった。そんな夕の考えを察したのか一夏は例えを上げてくれた。
 「漫画は打ち切りになったものが一番面白くて、もっと続きが読みたいと思う」
 本棚に入っている良い所でエンディングを迎えている三巻で終わる漫画がそれだ。
 「店の倉庫の奥にしまわれていた一昔前のデザインの服がお洒落だと思う」
 今はカーテンレールに掛けられている、先日買ったシャツのことなのだろう。
 「登録者数三桁の動画配信が面白いと思う」
 それはきっと起床アラームにもなっているあのバンドのことだ。
 好きなものは全てマイノリティ。
 変わってるね、の一言が怖い。
 「でも夕は漫画を読んでくれて、服もお洒落だって言ってくれて、バンドも知ってる。夕と話してると自分はおかしくないんだって思える」
 「一夏はおかしくない」
 夕ははっきりとした強い口調で言った。その言葉を聞いた一夏はぎゅっと唇を噛みしめた。
 「他と違う見方ができる、少数意見を持つってことは普通に凄い事だろ。むしろ東京では自分の意志を持っていないとやっていけないし」
 それは自分もだ、と夕は心の中で呟く。
 「ってか普通に一夏はお洒落じゃん。俺、飛行機降りて初めて一夏見た時に着てたTシャツ格好良いと思ったけど」
 島のご当地キャラクターがにっこりと笑っている、俗にいうダサいTシャツ。それが夕はお洒落だと言う。
 それを一夏は決してノリで買ったわけではない。ポップで、キュートで、お洒落だと思ったのだ。
 「……ありがとう」
 夕の言葉が全て嬉しくて、一夏は下を向いて鼻を啜った。ずずっと鼻を啜る音を聞いた後、夕は小さく息を吐くと話を続ける。
 「ちなみに、マイノリティってもしかして……恋愛も含む?」
 その質問に一夏は瞬時に答えることができなかった。滲み出ていた涙は乾き、鼻水は止まる。ヒュッと息を吸い、じとっとした嫌に冷えた汗が背中を伝う感覚がした。
 答えるまでの間で言葉にしなくてもそれは疾うに答えになってしまっているのだろう。それでもきちんと言葉で答えなければ、と一夏は唇をわななかせる。
 「……気持ち悪いだろ。ごめん」
 「だから気持ち悪くないって言ってるだろ」
 夕の長い手が一夏に伸びてきて、大きな手のひらが肩をグッと掴んで寄せると一夏の肩を抱いた。ぶつかる身体から聞こえてくる心音はやけに大きい。それは夕のものだ。
 「……ありがとう、夕」
 一夏は笑みを浮かべるとそっと夕の手を外し、身体を離した。
 同性が好きだと言っている相手の肩を抱くなんて、結局彼はよくわかっていないのだろう。同じことを異性にすればきっと恋に落ちてしまう、そんな想像力さえ持たず接触してくる夕に一夏は少し腹が立って、そして少し寂しい気持ちになっていた。
 「ちなみにそのこと太一くんは知ってるの?」
 今年交換留学生として東京に行っている渡良瀬太一は一夏の幼馴染だ。毎年太一にお世話になっていた夕は二人は幼稚園の時から続く仲なのだと聞いている。
 「うん、知ってる」
 外の暑さが少し和らいだのか、また外からいつもの蝉の鳴き声が聞こえ始める。室内のエアコンの稼働音よりも外から聞こえるそれはずっと大きく聞こえた。
 「俺、中一の時に太一に告ってフラれてるから……」
 「そ……っか」
 仲の良い太一が一夏のマイノリティを知っていることは当然のことだと思う。しかしまさかそれに加えて一夏が太一に告白していたとは夕はさすがに思いもよらなかった。そしてそのことに自分がショックを受けていることに夕は気付いた。
 「……話してくれてありがと。ほら、勉強に戻るよ」
 夕は立ち上がると一夏の隣から元いたテーブルの向かい側へと戻って行く。そしてテーブルの上に転がしていたペンを取ると高校一年向けの英語問題集に視線を落とした。
 「夕」
 一夏が夕を呼んだ。まだ問題文を一文字も読めていなかった夕が顔を上げると一夏が優しく微笑んでいた。
 「この話、太一以外にしたのは夕が初めてなんだ。聞いてくれて嬉しかった。夕、本当にありがとな」
 そう言うと一夏もまた問題集に戻って行く。しかし夕はなかなか問題を解く気になれなかった。
 夕はテーブルに肘をつくと窓の外を眺める。雲一つない真っ青な空が四角の額縁に入って見える。蝉の鳴き声が絶え間なく聞こえ、いつもなら煩いと感じるほどなのに今はその鳴き声が心地よい。エアコンの稼働音もペンがノートの上を走る音も今の夕には物足りない。静かにしていたらまた夕は何かを一夏と話したくなるし、隣に移動したくなってしまう気がした。
 太一が一番で夕は二番目だ。太一は幼い頃からの幼馴染で、一夏と過ごしている時間の差は夕と比べものにならないくらい長い。そんな当たり前のことに夕はまたショックを受けていた。そしてショックを受けている自分のことが夕はよくわからなかった。





 二週間の交換留学も折り返しとなった。朝の早起きも、民宿の手伝いにもだいぶ慣れ、毎日提出しているレポートは昨年とはだいぶ違う出来となっている。
 夜寝る前に交換相手である太一から送られてくるレポートを読むのが夕の日課になっているが、彼のレポートは同じ東京に行っていた昨年の一夏のものとは全く違うものでその差に夕は笑った。
 都心に多数ある博物館、科学館にどうやら彼は足繁く通っているらしい。島にいる時にも博物館や島の歴史を夕に教えてくれていた彼にとってはそれが夏の楽しみ方なのだ、と夕は知った。

 「今日も暑いな」
 休憩のアイスを食べ終わった夕は手のひらで影を作るとカンカン照りの太陽を見上げ、そのあまりの眩しさに目を細めていた。
 こんなにも暑いのに蝉たちは休憩もせずただひたすらに鳴いている。度々休憩を挟まなければやっていけない自分と比べて随分と仕事熱心な生き物だと思う。
 同じく休憩を取っていた一夏が夕の手から食べ終わったアイスの棒を取るとそれをゴミ箱に放った。そして夕にペットボトルを手渡し、彼がそれを飲み下すのを隣で見守ってから自身もペットボトルのスポーツ飲料を飲み干した。
 一夏はなにかと夕の世話を焼きたがる。
 毎日暑い島なので帽子や水分補給は命取りになる。だから一夏は余計に神経質に夕の体調を気遣う。
 兄弟に挟まれた丁度真ん中。甘え上手で、でも世話焼きな兄らしい場面もある。
 一人っ子の夕は両親は共に忙しく甘えることなどできなかったし、かといって世話をする相手もいなかったので上手に世話をすることもできない。だからそれらを上手く両立させる一夏が素直に凄いと思った。
 そして、一夏に優しくされるとなんだかきゅうと胸が苦しい。
 そういえば夕は一夏から一夏自身のことを聞いたが、夕は一夏に夕自身のことを話したことはない。
 休憩時間はまだ残っている。
 「……あれ、うちの親が経営してるホテルなんだけど」
 そう言って夕は向こう側を指差した。それは少し離れた場所に建っていながらも大きく立派に見える、島で一番大きなホテルだ。
 ドキドキと緊張しながら指差した夕に対して一夏はあっけらかんと頷いて見せる。
 「知ってる」
 「知ってたの」
 「うん。去年交換留学で東京に行った時に宮に聞いた」
 宮は夕の東京の友人で、一夏が交換留学で東京に滞在していた時のホームステイ先だ。彼は陽気で明るくて人懐こい、弟のような奴だ。中学一年生の頃から交換留学でお世話になっているので一夏にとって彼は東京の弟のようなもので、東京のことも島のこともたくさん話をした。もちろん夕に関することの情報源は全て彼だ。
 「なんかいろいろ大変なんだろ。御曹司、っていうのも」
 御曹司、という単語を夕がハッと鼻で笑う。それは夕が大嫌いな言葉だ。
 「成績は常にトップを取って当たり前。部活は禁止で毎日塾通い。門限厳守。お小遣い制。アルバイトも禁止。それなのに友人はたくさん作れって無茶だろ」
 それは島でのびのびと暮らしている一夏には想像もつかない生活だった。
 「流行の物を身に着けて流行の物を見て、聞いてる。でも流行が好きなわけじゃない。仲良くなるには話題を合わせた方が早いから気にしてるだけ」
 東京は息苦しい、と夕は言った。
 その言葉を聞いて一夏は初めて東京は息苦しい所なんだと知った。
 だって自分が中学二年生の時から毎年夏休みに行っていた東京は沖縄の島よりもずっと広くて、たくさんの人がいて、いろんなものがあって、遊ぶところもたくさんあって、随分と自由な所だと思っていたのだ。
 「だから交換留学で過ごす島の二週間が楽しみで、一年で唯一の息抜きだったよ。冗談抜きで本当にそれを楽しみに一年間過ごしてた」
 「そう……だったんだ」
 「太一くんと過ごすのももちろん楽しかったよ。でも、今年の一夏と過ごす夏は今までで一番楽しい」
 「そう言ってもらえると本当に嬉しい」
 一夏は本当に嬉しそうに笑っていた。
 「夏の島は本当に楽しいんだ。たくさん観光客が来て忙しくて騒がしいけど。空も海も青くて、緑に溢れていて。確かに暑いけど、湿度の高い東京とはまた違ったカラッとした暑さで。みんな距離が近くて遠慮がないけど、家族みたいなんだ」
 俺も島が大好き、と一夏は言った。
 夕が呟く。
 「東京に戻りたくない」
 それは夕の本心だった。小さな子どもが言うような駄々をこねてもどうにもならないと夕は分かっている。交換留学の期間は二週間と決まっており、帰りの航空券は既に準備されていて、夕たち少人数の交換留学生を迎えに小型ジェット機がやってくる。
 東京に帰る日も着々と近づいてきていた。
 「また来年の夏こいよ」
 そう言って一夏は夕の頭を撫でた。初日に一夏が夕にあげたベースボールキャップはもうすっかり夕の頭に馴染んでいるようだった。



 今日も無事一日が終わり、二人は一夏の部屋でいつものように眠りにつく。
 電源の切られた夕のスマートフォンからはもう通知音は鳴らない。
 それでも一夏はなかなか眠れずにいた。
 一夏のベッドの隣に敷かれた布団の方からは夕の穏やかな寝息が聞こえてきていた。毎日朝早くからハードな民宿の仕事をこなしている夕は東京にいた頃と比べて随分と規則正しい生活を送るようになったらしい。
 明日も朝が早いので一夏も早く眠らなくてはならない。それなのに隣に眠る夕が気になって目は冴えてしまっていた。

 夕に話した通り、自分はマイノリティを好む傾向がある。そんな自分が夕のことを好きになってしまった。
 夕は格好良いから絶対にモテると思う。勉強もできるし、友人も多い。そして彼はゲイではない。
 彼は決してマイノリティに分類される人物ではない、と一夏はわかっていた。
 彼のことを好きになる人は世の中にたくさんいて、それは圧倒的多数だ。
 そんなマジョリティな彼のことをマイノリティを好む自分が好きになるなんてそれはとても夕に失礼なことだ。
 はあ、と一夏は大きなため息をつくと寝返りを打ち夕に背中を向けた。寝返りを打たなくてもベッドと布団では段差があるので夕の寝顔を見ることはない。それでも一夏は少しでも夕と距離を置きたかった。
 夕が東京に戻るまであと数日しかない。もっと一緒にいたくて東京に戻ってほしくない気持ちと、もうこれ以上好きになりたくないから早く東京に戻ってほしい気持ちが反比例して高まっていく。
 一夏はタオルケットを頭まで被ると目をぎゅっと閉じる。そして自分が眠りに落ちるのをじっと待つことにした。





 いよいよ交換留学最終日を迎えた。
 今日は最終日ということもあって民宿の手伝いはない。それでもこの二週間で身に着いた習慣で夕は朝五時には目を覚ましていた。朝海家の朝食は朝の五時半なので朝食にはまだ少し早い時間だ。
 布団から起き上がると隣のベッドで一夏はまだ眠っていた。彼を起こさないように静かに着替えを済ませると夕は一人で居間へと向かった。
 「おはよう、夕くん」
 「お母さん、おはようございます」
 居間では一夏の母親が朝食のおかずを並べている所だった。
 「手伝います」
 夕は台所に置かれたおかずの乗っている皿を両手に持つとテーブルの上に並べていく。
 「いろいろありがとね、夕くん。一夏がすごく楽しそうで私も嬉しい」
 母親は嬉しそうに笑ってそう言った。
 「お礼を言うのは俺の方です。俺も……今までで一番楽しい夏になりました」
 「よかった」
 そしてまた母親は夕に、ありがとう、と言った。
 時間は五時半になり、朝海家の家族たちが皆居間に集まり始めたのでこれ以上一夏の母と話すことはできなかった。
 「いないと思ったら先に起きてたのかよ」
 一夏は眠気眼を擦り、大きな欠伸をしてそう言った。




 
 白のキャリーバッグをコロコロと転がして二人は空港へと続く大通りの道を歩く。今日も夏の島はうるさいくらい蝉たちが鳴き声をあげていた。
 「ねえ、夕」
 こんなにうるさいのだからもしかしたら蝉の声は一夏の声を掻き消してくれるかもしれない。そんな逃げ道を用意して、一夏は夕に話しかけていた。
 一夏に呼び止められた夕は足を止め、半歩後ろを歩く一夏の方に振り返った。
 「夕が好き」
 案の定、蝉はタイミングを見計らっていたかのようにその瞬間にひと際大きな声を上げて鳴いた。それはまるで未だ恋人ができずに鳴き続ける蝉たちの嫌味のようで、一夏のコック箔を妨げようと声を上げているようにも聞こえた。
 「マイナーなものばっかりにハマる俺に告白されても困るよな。俺に好かれるなんてお前もマイナーな存在だ、って言われてるようなもんだもんだし」
 そう言って一夏は自嘲する。その間も夕が言葉を挟むことはなかった。もしかしたら本当に蝉の鳴き声のせいで一夏の声が聞こえていないのかもしれない。それなら好都合だ。
 「俺、初めてみんなが好きなものを好きになったかも」
 一夏は歯を見せて笑ったけども、眉はハの字に下がりどこか寂しそうに見えた。
 「友達としてでいいから、来年の夏も来いよ」
 夕は何も答えなかった。本当に蝉の声しか聞こえていなかったのかもしれない。
 一夏は何もなかったように歩き出すと夕を追い越して行ってしまった。
 「一夏!」
 背後で夕が一夏を呼んだ声がはっきり聞こえたので、さっきの告白も夕に聞こえていたのだろう。そう思うととても恥ずかしくて、答えを聞くのが急に怖くなって、一夏は早歩きで決して夕と隣に並んで歩こうとはしなかった。



 東京の大きな空港と違ってここには立派な待合所もメカニックな搭乗ゲートもない。簡単な荷物チェックとボディチェックを受けると搭乗者も見送りも皆通され、小型ジェットが止まる場所へと案内をされる。
 コンクリートの照り返しが酷い搭乗口まで来ると既に他の交換留学生たちは皆揃って待っていた。それぞれがホストファミリーたちとの別れを惜しんでいるようだ。夕と一夏は彼らから少し離れた所でようやく隣に並ぶことができた。
 「一夏、俺……っ」
 「あ、俺そういえば急ぎの仕事頼まれてたんだった。夕、また来年の夏な。もしかしたらまた太一の代理で俺が東京に行くことになるかもしれないけど。そうなったら会えないな。俺も来年は高三だから最後の交換留学になるしどうなるか分かん……」
 「一夏!」
 焦ったように早口で捲し立てる一夏の肩を夕の大きな手のひらが掴んで、そして強引に引き寄せた。突然のことに体勢を保つことができない一夏の身体は夕の方に引っ張られ、そして唇が重なった。
 誰も二人のことなど見ていない。みんな自分のホストファミリーとの会話に夢中になっている。誰も二人の会話など聞こえていない。近くの木に蝉が止まっているらしく、酷く近い場所からけたたましい鳴き声が聞こえて二人の声を掻き消していく。
 「さっきの、夏じゃなきゃだめ?」
 「……え?」
 唇を離しても尚、一夏の両肩を夕の手がしっかりと掴んで離さない。真正面から見つめられ、一夏も顔を背けることができず顔を真っ赤に染めて夕を見つめ返していた。
 「俺、夏の一夏のことしか知らない。去年までの夏休み、交換留学で一夏が東京に来てた時のことはレポートでずっと知ってる。今年の夏は島で一夏と過ごせた。でも全部、夏の一夏しか知らない」
 夕が知っている一夏は東京で既にセールになっている夏服を買い漁る一夏だ。遊園地のずぶ濡れアトラクションで涼を取る一夏だ。原宿の竹下通りで何段にも重ねられたソフトクリームを器用に食べる一夏だ。川ではしゃいで、海に飛び込み、汗を流しながら観光客の荷物を運び、古い漫画、流行遅れの服、流行らないバンドが好きな一夏だ。
 見ると一夏はぎゅっと強く自身のTシャツの裾を握りしめていた。出迎えてくれた時に着ていたものと同じご当地キャラの顔が酷くしわくちゃになっている。
 「……俺も。俺もお前のこと全然知らない。太一とクソつまんねー島の過ごし方してたことしか知らなかった。……し、今回だって、半袖のお前しか見てない」
 その言葉に夕は思わず吹き出して笑った。
 「確かに」
 確かに俺も一夏の夏服しか見てない。そう言って夕はまた笑う。そして夕が上げた帽子の鍔を指先でずらすと
 見えた額に唇を落とした。

 「蝉がうるさい」

 今いい所なのに近くに止まっている蝉の鳴き声がうるさかった。
 その時ちょうどその蝉がこちらに飛んできて新たに止まるところを探していたので夕はそいつを手で払ってやった。するとその蝉がちょろっとおしっこを引っかけてきたので危うく夕は濡れるところで二人は笑った。
 蝉は無事に止まる場所を見つけたらしく、二人から離れていった。ほんの少しだけ蝉の鳴き声が先ほどよりも小さく聞こえる。それでも大合唱だ。
 「蝉が鳴くのってひと夏の必死な求愛行動なんだよ」
 一夏が言った。
 「蝉は夏に鳴くけど、蝉は夏になるまでずっと地面にもぐっているからそもそも季節なんて知らないんだよな。だから蝉自身は自分が鳴いている季節が“夏”だって知らないんだと思う」
 今は夏なんだよ、と一夏は蝉たちに向かって教えてやった。そんなことも知らずに蝉たちは相変わらず大きな声を上げて求愛している。
 それは一夏も同じだ。自分は四つある季節のうち、夏の夕しか知らない。だから今島で過ごしている夕が果たして本物の夕なのかわからない。もしかしたら何か隠しているのかもしれない、まだ猫を被っているのかもしれない。しかし今の夕しか知らないので一夏には本当の夕を知りようもない。そんな一部の夕しか知らないのに、好き、と言っていいのだろうか。
 「俺も夏の一夏しか知らないけど一夏のことを好きだって言えるよ」
 まるで一夏が頭の中で考えていたことを読んだかのように夕が言った。
 「冬も一夏に会いたい。会いに来てもいい?」
 そう尋ねた夕を一夏が苦笑する。
 「冬は閑散期だから、観光客も全然いなくて賑わってないし、海にも入れないし、虫取りも出来ないし、全然楽しくないよ」
 「それでも俺は冬の島に来たい。冬も一夏に会いたい」
 いい? と小首をかしげる夕はいつもの格好良い夕ではなく年下の男の子に見えた。
 一夏がこくんと頷いて答えると夕は嬉しそうに笑う。
 いつの間にか搭乗が始まっていたらしい。まだ搭乗していないお客様は、と搭乗を急かす放送が響く。気付くと搭乗口に集まっていた他の交換留学生たちは既に乗り込み、ホストファミリーたちもいなくなっていた。

 「それじゃあまた、冬に」

 そう言うと夕は一夏の唇に軽く口付けて東京に帰っていった。





 十二月になり島は冬休みに入る。そして夏の宣言通り、夕は本当に冬の島を尋ねてきた。
 今年の東京の冬は随分と冷え込むと天気予報で一夏も知っていた。だからなのか、東京の冬仕様でもこもこにダッフルコートを着込んだ夕を見て、一夏は笑った。
 一方の一夏も寒さに弱いため何重にもインナーを着て、ニット帽をかぶり、口元が隠れるほどマフラーを巻き付け、まるで熊のような手袋を付けてもこもこになっていた。
 「交通費はどうしたの」
 夕は確か両親にアルバイトを禁止されていたはずだ。
 「親を説得してなんとか短期は許してもらえたからそこから出した。進路、も少しだけど親と話せるようになった」
 「よかったな」
 一夏は夕の頭にポンと手を置くと優しく撫でてやった。それに対抗するように今度は夕が一夏の頭を半ば強引に撫でる番だ。



 「本当に来て馬鹿かよ。閑散期の島なんて面白いものは何もねーよ」

 「面白い一夏がいるじゃん。楽しいもの見せてくれるんだろ?」

 その年の冬、初めて島に雪が降った。


 (おわり)