僕が聖桜病院に来るのは、これが初めてでは無かった。白を基調とした無機質な建物で、清潔さが保たれているもののどこか人を拒絶するような冷たい雰囲気が漂っている。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、僕は重い足取りで病棟へと向かった。
どこからか響く低い機械音、消毒薬の鼻を突く匂い、窓からの色あせた景色や果てしなく続く廊下の長さに至るまで、あの光景のまま当時と何も変わっていなかった。違うのは、僕は高校の制服を着ていて、少しだけ背も伸びたことぐらいだろうか。それでも、この場所が呼び起こす記憶は鮮明で、胸の奥がキリキリと痛んだ。
『301』と書かれた病室のドアを開けると、果穂の姿が目に飛び込んできた。彼女は窓際のベッドに横たわり、外の景色を無表情に眺めていた。
「どうして来たんですか」
塩らしい様子など微塵も見せず、不貞腐れたように頬を膨らませる果穂を見て、僕は少し安堵した。それでも、彼女の青白い顔色と痩せこけた体を見ると胸が押し潰されるような思いがした。
「逆にどうして来ないと思ってたんだ」
僕はベッド脇の丸椅子に座った。
「それは……」果穂は口籠もり、視線を落とした。「私は最後の我儘を言いました。最後です、その先があるなんて思ってません」
僕は、後悔を吐き出すように深くため息をついた。
「お見舞いぐらい、ある程度の関係があれば誰にだってする権利はあるはずだ」
果穂は僕を無理に追い返そうとはしなかった。
「どれくらい悪いんだ」
尋ねながら、果穂の体に繋がれた複数のチューブを目で追った。
「……すぐに退院してみせますよ」
果穂の声は普段通りだったが、微妙にずれた返答が隠しきれず僅かに震えているのが分かった。
「僕のことがまだ信用できないか?」
僕が目を真っ直ぐに見つめると、果穂は眉間に皺を寄せた。
「信用、という言葉の意味がよく分かりません。頼りにしているという意味でしたら、きっとそうなのでしょう。しかし、私たちの関係は只の善意で成り立っている訳じゃなかったはずです」
「……聞き方を変えようか。僕に、まだ隠す必要があるのか?」
「益々意味が分かりません。逆になぜ私が涼くんに病気のことを話さなければいけないのでしょうか」
果穂はまるで壁を作るかのようで、はっきり言葉にしなければずっとこの調子でとぼけ続けるだけだと悟った。僕は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「僕が知りたいからだ。果穂の力になりたい、支えたいと思っているから。それでも、まだ理由を聞くか」僕もまた、果穂が話す気になるまで粘り続けるつもりだった。
「いえ……結構です」果穂は煩わしげにそう言って、諦めたようにため息をついた。
果穂は一瞬目を閉じ、ゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
「私の余命、思っていたよりも短いみたいなんです」
「……は?」
僕の頭の中が真っ白になった。
果穂は静かに、しかし確実に僕の世界を揺るがす言葉を紡ぎ始めた。
「涼くんには、具体的な数字を明かして居ませんでしたね。私の病気が発覚したのは中学二年の冬。ちょうど一年半前に宣告された余命は三年でした」
その言葉に、僕の体が凍りついたような感覚を覚えた。僕に構うことなく、果穂は続けた。
「もちろん、余命宣告と言えどただの予測に過ぎません。早まることもあれば、もっと生きられる可能性もあります。とは言え、私には後一年半の時間がある。そのはずでした」
果穂は僕に向かって何故か笑顔を向けた。この会話の流れから、笑顔になる理由とはなんだ。どんな一発逆転が待っているというのだろうか。
「一週間前、新たに告げられた余命は半年でした」
僕は果穂の笑顔の意味が分からなかった。全て嘘でしたとでも言ってくれたらどれだけ良かっただろう。頭の中が混乱し、思考がまとまらない。
「どうして。どうしてそんな急に一年も短くなる?」
やっとのことで絞り出した言葉は、半ば叫びのようだった。
「さぁ。私に医学の知識はありませんし、専門的な理由は分かりません。ただ確かなのは、予測よりも早く私の体が病魔に蝕まれているということだけです」
果穂はそう言って、伸ばしていた足を手で引き上げるようにして、くの字に立てた。しかし、手を離した途端、その足は力なく倒れてしまう。それだけで、足のコントロールが失われてしまったことが分かった。
「私の体はどんどんと不便になっていきますね……」
果穂の声は冷静だったが、その目には深い悲しみが宿っていた。
「藪医者だ」八つ当たりだと分かっていても、僕の怒りの矛先はそこしかなかった。
「涼くんまでお母さんみたいなことを言わないでください。私はもう受け入れてます」
果穂はまるで乗り越えた過去のように現状を話していて、それがどうにも信じられなかった。
「どうしてそこまで強くいれるんだ?」
「強い? 私がですか?」と果穂は言った。
「強くなんてないですよ。内心は恐怖で、限界に近いんです。夜もまともに眠れていません。それでもこうして他人事のように話せているのは、私の中のプライド、意地のようなものでしょうか。ただで屈してなんかやらない、気高くありたいという最後の砦であり、虚勢に過ぎません」
普段の果穂は、感情を必死に殻に閉じこめていたのだろう。果穂にとっての偽りのない本心は、あの日、家族の前で見せた姿なのだ、と思った。だってそう、感情のない人間なんているはずがないのだから。
「なにかできることはないか?」
「まだ私に付き纏うつもりですか?」うんざりとしたような口調。でも、もう慣れきっていた。
「付き纏うって表現は心外だな。言ったはずだ、僕は果穂の手足だって」
「望まれていない善意は余計なお世話と変わりませんよ。やっていることはストーカーです」
「望まれていなければ、な。果穂のメモの中身、まだやってないことがあるんじゃないのか? 果穂の見るはずだった景色、得るはずだった経験。それを僕が実行して果穂に共有する」
僕の声には、言葉にできぬ熱意が込められていた。流石の果穂も僕の様子に只ならぬものを感じたように体をのけ反らせた。
「……何が涼くんをそこまで突き動かすんですか? 私のため、だけじゃないですよね」と果穂は言った。
もはや隠す必要はないだろうと、僕は抱えていた闇を打ち明ける。
「あぁ、そうだ。果穂のためだけじゃない。僕は、果穂の手助けをすることによって妹への罪滅ぼしをしてる」
「妹……?」果穂は怪訝な顔を浮かべた。
「僕には、月乃という妹がいたんだ。病気でもうこの世には居ないけれど、果穂によく似ていた」
悲観的にならぬよう、抱えていた後悔を出来るだけ客観的に乗り越えた過去のことのように話した。
「似た境遇の私に報いることが、妹さんへの罪滅ぼしになると?」
聞き終えた果穂は軽蔑の視線を向けていた。
「甘い考えだっていうのは分かってる。それが今更で、自己満足であることも。けれどそれだけじゃないことも確かなんだ。大前提として、打算とか、罪滅ぼしとか全部無視したとしても。僕は果穂の力になりたいと思ってる。それだけは嘘じゃないんだ。僕はもう果穂の力になりたいと思って行動してる」
僕は真摯な眼差しで果穂を見つめ、その言葉にはこれまで抑えてきた想いが込められていた。だが、果穂は無言で寝返りを打ち、僕に背を向けた。それはこれ以上ない対話の拒絶だった。
当然の反応だった。自分のためだなどと綺麗事を並べていたものの、結局は自己本位な願いでしかなかったのだから。彼女が失望や軽蔑を感じたとしても、それを責めることなどできない。けれど、これが隠し続けてきた本音だった以上、話さずにはいられなかった。
これで果穂との繋がりも終わったのだと考えると、どうしようもない無力感に苛まれて止まなかった。
「……容赦なくこき使いますよ。私の人生はベストセラーになるんです」
聞こえるかぎりぎりの声で、果穂がぼそっと呟いた。
「……あぁ、任せろ!」
思いがけない言葉に、胸が熱くなる。どうやら僕はまだ果穂と行動することを許されたようだった。そしてようやく、本当の意味で果穂と向き合うことができるようになった。
*
蝉の声が遠ざかり、涼やかな風が吹き始めた頃、気がつけば夏休みは終わりを告げ、学校は新学期を迎えていた。
しかし、以前とは決定的に違う。この学校に果穂はいない。僕は、彼女の不在が作り出す空虚感を誤魔化すように、放課後になると病院へ足を向ける日々を送っていた。
夕暮れ時、オレンジ色に染まった空の下。下校準備中の佐藤さんが振り向いた瞬間、彼女の視線が僕の鞄からはみ出したスケッチブックに留まった。彼女は細い首をほんの少し傾けた。
「それってスケッチブック……だよね? 坂口くんって絵描くんだ」
佐藤さんの声には純粋な好奇心が詰まっていた。僕は少し躊躇いながら、首を横に振る。
「いや、これは僕が使うわけじゃない。おつかい、とはまた少し違うけれど、とにかく必要なものなんだ」
なるべく嘘をつかず、かつ怪しまれぬように言葉を選びながら説明する僕の声は、少し上ずっていた。
「ふーん……?」
佐藤さんは納得していないようだが、それ以上スケッチブックについて追及しようとはしなかった。
代わりに彼女は僕の顔をじっと覗き込み、まるで何かを探るように動かなくなった。
「僕の顔、どこか変かな」いつかの既視感を感じた。
佐藤さんは一瞬考え込むような仕草を見せた後、「うん、変」とあっさり言い切った。二回目ともなると流石に驚きはしなかった。
「知ってた。……で、どこが?」
「どこが、か」佐藤さんは言葉を選ぶように目を泳がせた。「覇気がない……はいつものことだし、生気も以前よりは確かに感じるんだけど。なんていうんだろうな」
腕を組み、言葉にできない違和感をなんとか形にする表現を探しているようだった。しかし、結局適切な言葉が見つからなかったのか、諦めたように深く息を吐きだした。
「最近、何かショックなことでもあった?」
咄嗟に果穂の入院が頭をよぎった。シンプルながら確信を突いた質問に、思わず息が詰まり、言葉が出てこない。
「夏休み明けからかな。生気を感じるようになったのは変わらないんだけど、その方向がさ。危うい気がするの」
「危うい?」僕の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「生き急いでいるとでも言うのかな。何かを成そうとしているのは分かるんだけど、周りが見えなくなるぐらい焦ってるんじゃない?」
佐藤さんの勘は鋭すぎるほど冴えていて、ほぼ的を得ている。今の僕は、果穂のことで頭が一杯で。ここまで敏感に僕の変化に気付く人がいたことが信じられなかった。
「もう少し、肩の力を抜いてもいいんじゃない?」
優しすぎるほど優しい言葉だった。百パーセントの善意であり、それが正しい選択であることは痛いほど分かった。
けれど、果穂には時間がない。焦らなければいけないだけの理由があった。今、佐藤さんの助言を受け入れることは、僕自身が許せなかった。
「ごめん」
ふり絞った声に、案の定、佐藤さんの顔が悲し気に歪む。僕だってそんな表情は見たくなかった。
しかし、本当に見たくないのであれば耳当たりの良い言葉を使って誤魔化すこともできた。そうしなかったのは、ある種の誠意であり、彼女には本心で接したかったからだった。
胸が締め付けられるように痛むが、佐藤さんはすぐにいつもの笑顔に戻った。
「坂口くん、連絡先教えてよ」
突然の申し出に、僕は戸惑いを隠せなかった。
「急にどうして?」
「君のこと結構好きだからさ、困ったことがあったら相談してほしいんだ」
僅かに紅潮した頬をかきながら、口元がわずかに歪んで笑う佐藤さんは、夕陽に照らされているのも相まって僕の心を温かくするような安心感があった。
僕がクラスの人間と連絡先を交換したのは、これが初めてのことだった。果穂以外の誰かと繋がることへの罪悪感はあった。でも完全に佐藤さんを拒否できるほど、僕は人間としてできあがっていない。複雑な感情が入り混じった感傷が胸に広がった。
*
「何ですかそれ」
僕が取り出したスケッチブックと画材を見て果穂は眉をひそめた。
「自分の作品を世に残したいって言ってたから僕なりに考えてみたんだけど」
「確かに言いましたね。けど、私と言えば小説ではないんですか? まさか絵を描くように促されるとは思っていませんでした」
僕は自分の浅慮を悔やんだ。言われてみれば、果穂に美術の印象がある訳ではなかった。少し考えればたどり着ける結論にすら気付かない僕は、想像以上に周りが見えなくなっているのかもしれない、と思った。
「そもそも、作品を残すって意味がよく理解できてなかったんだ。この世の中に対して影響を与えたいってことなのか?」
果穂は考え込んだ。「極端に言うのなら、私が作ったものであれば落書きでも、最悪拾った石なんかでもいいんです。私がこの世に存在した証……というと語弊がありますが、それを見て私を連想させるものであれば、それは『作品』を残したことになると思いませんか」
「それはつまり忘れられたくないってことか」はっきりと言葉にされたのが癪だったのか、果穂は頬を膨らませた。
「そんな浅い考えじゃありません。言わばこれは復讐です。私という存在を排除してなお平然と続いていく明日に、少しでも抗って爪痕を……」
何やらそれらしい理由を並べていたが、結局のところ忘れられたくないという結論に帰着したのだろう。「もうそれでいいですよ」と拗ねていた。
近所の文房具店で購入した色鉛筆は、クラシックな木製の箱に入っていた。外観は深いブラウンの木目が美しく、果穂は箱の表面のシンプルなロゴを指でなぞっていた。
「これはこれで興味が湧いてきました」
開けていいですか、と言いたげな果穂の視線に僕は頷く。
果穂が箱を開けると、鮮やかな色鉛筆が一列に並んでいて、一本一本の軸には光沢があり、色ごとに異なる明るいラベルが巻かれている。鉛筆の先端はそれぞれ削られており、使う前から使用時の印象を想像させた。果穂は、それをしばらく興味深げに眺めていた。
果穂の指が、ゆっくりと各色の上を滑るように動く。病室の無機質な空気が、一瞬にして創造性に満ちた雰囲気に変わったかのようだった。
「私と少し勝負をしませんか」と果穂は言った。「心配しなくとも、何かを賭けて行うようなものではありません。ただ、私という人間の芸術センスを試してみたくなっただけです。実験台になってください」
その声は挑戦的で、これまでにない活気が感じられた。
「そういうことなら」
特に断る理由もなかった。スケッチブックは一冊だったので、僕は鞄から退屈な内容の校内誌を取り出し、その裏に描くことにした。ノートにしなかったのは、方眼も何もついていないまっさらな状態の紙を持ち合わせていなかったからだった。
「勝負というからには優劣をつける基準がいるだろ。同じ対象を描くのはどうだろうか?」
「そうですね」果穂は僕の提案に頷いた。「では、そこに置いてあるガーベラにしましょうか。父が気晴らしにと置いて行ったものですが、ようやく役目ができました」
窓際に置かれた花瓶には、白で塗り固められた病室に唯一の色味として存在するガーベラが生けられていた。この空間において、色鉛筆で表現するのであれば、これ以上ない適役と言えた。
「保険じゃないが、僕はまともに絵を描いたことがない」
「大抵の人間はそうじゃないですか。私も真面目に描くのは美術の授業以来です」
果穂は、それだけ言って集中するようにスケッチブックに描きこみ始めた。僕も改めてガーベラを観察する。
花瓶には、赤、白、ピンク、黄色と様々な色のガーベラが生けられている。無機質な白い壁と淡い光の中で、それらの花々は鮮やかな色を放ち、まるでその場所だけが別の世界から切り取られたかのような印象を覚えた。
どこから手をつけたものか、僕はしばらく固まってしまった。何をどれぐらいの大きさで配置し、そもそも単色であらわしてもいいものなのか。重ねて塗った時の色味が想像できるだけの経験値もなく、結果どうしたらいいのか分からなくなった。しかし、いつまでもそうしている訳にもいかず、結局僕は花瓶から描き始めることにした。
完成した僕の絵を見て、果穂は小馬鹿にしたように笑った。
「下手ですね。バランスといい、色使いといい……まるで小学生が描いたような絵です」
散々な言われようだった。でも、僕も自分の絵を見れば同じ感想を抱く。
最初に描いた花瓶は思いの外大きくなってしまい、肝心の主役よりも余程存在感を放っていた。加えて、全体的にのっぺりと陰影がなく、遠近感を全く感じさせない。小学生の頃の方が今よりも上手く描けた気がしていた気がした。
それでも、この稚拙な絵には、僕なりの真剣さが込められていた。
「だから言っただろ。絵は描いたことがないって」
「ここまで酷いとは思いませんでした」
僕に言わせれば果穂の絵も、お世辞にも上手いとは言えなかった。自信ありげに勝負を持ちかけてくるのだから、美術部並みの作品に仕上げてくるかと思ったが、可もなく、不可もなく。至って平凡な絵だった。それでも、僕より数段整っていることだけは間違いなかったが。
「私の勝ちでいいですね」
異論はなかった。降参だと言うように両手を掲げる。満足げにそれを見て、顔を緩めた。久しぶりに感じた達成感を噛み締めているようだった。
「絵を描くというのも案外悪くないかもしれません。ありがとうございます」
果穂の声は、思いの外明るかった。
「どういたしまして」面と向かって答えるのが恥ずかしくて、僕は思わずそっぽを向いた。
*
いつものように果穂の病室へと足を運ぶと、見知った人物と一緒に、深紺のスーツに身を包んだ見知らぬ女性が出てくるのが目に入った。
見知った人物――果穂の父親は、僕の存在に気づくと、驚きと戸惑いの入り混じった表情を浮かべた。
「君は確か……坂口くん、だったかな」
日焼けした肌にしっかりとした体格は、相変わらず誠実な印象を与えるが、以前よりもさらに痩せ、目の下にくっきりとした隈が刻まれているのが見て取れた。
僕は、形式的に頭を下げながら、「はい」と答えた。
「果穂のお見舞いに来てくれたのかな。けど、今日は少し疲れてしまったみたいなんだ。悪いが、またの機会にしてくれないか」
その声は、以前よりも更に疲れが滲んでいた。違和感を覚えながら、僕は果穂の父親の後ろに立つスーツ姿の女性を横目で見た。女性が、冷たい視線で僕を観察しているのが分かった。
「何かあったんですか?」
「何か、って訳じゃないんだけどね」果穂の父親は、分かりやすく動揺し目を泳がせた。
「お話があるようでしたら、また後からにしましょうか?」女性が事務的な口調で割って入った。
果穂の父親は、数秒考えこんだ後、何故か僕に視線を向けた。
「坂口くん、君は果穂の友達なんだよな?」
質問の意図が分からず戸惑いながらも、僕は頷いた。
「果穂の力になりたいと思ってくれているのなら、私と一緒に付いてきてくれないか?」
しかし、女性が即座に反論する。「困ります。親族と言えど、部外者に勝手に話すのは推奨されていません」
会話の内容は分からなかったが、『部外者』という言葉に、図らずも僕の中で反発が湧き上がった。
「彼は部外者ではないよ。あの果穂が心を許していたんだ、彼には聞く権利があると私は考える」
果穂の父親は、静かだが有無を言わせぬ強い口調だった。
僕の中で果穂の父親の印象は、あの日のものだけであり大した情報はない。けれど、彼にとって、果穂が誰かを連れてきたという事実がいかに重要であったかが伝わってきた。
女性は、しばらく考え込み、ゆっくりと頷いた。
「私が本人に確認を取り、了承を得ることが条件です。それが譲歩できる限界です」
「分かった」果穂の父親が同意する。
「あの、これは一体?」僕は未だ状況が飲みこめていなかった。
女性が病室に入っていくのを見送りながら、果穂の父親は僕に向き直った。
「すまないね。情けない話だが、君に頼らなくてはならないほどに私は果穂の理解が足りないらしい」
それ以上の説明をしてはくれないようだった。
「お待たせしました。本人の確認も取れたので、ご案内します」
しばらくして女性が病室から戻ってくると、僕たちは迷路のような病院の廊下を歩いた。五分ほど経ったとき、女性がある部屋の前で立ち止まった。扉には『相談室5』のプレートが掛けられていた。
無駄に横長い机とそれを挟むように置かれた四つの椅子以外は何もない殺風景な部屋に入ると、果穂の父親は迷いなく奥の椅子に座り、僕を手招いた。
戸惑いと不安を抑えきれないまま、僕はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
彼女は背筋をピンと伸ばし、僕らと向かい合うように腰を下ろした。
「改めまして。篠宮果穂さんの担当である椎名奈緒と申します。以後、お見知りおきを」
そう言って頭を下げる椎名さんは、落ち着いて見ると三十代前半ほどの比較的若い女性だった。スリムで整った体型に、ミディアムレングスの黒髪。顔のパーツは控えめに見ても整っていたが、知的で冷静な瞳は可愛さよりも美人という言葉が似合った。僕の第一印象は、プロフェッショナル、仕事のために生きているような人だった。
僕も軽く会釈をし、簡潔に自己紹介をする。椎名さんは僕の言葉を聞き終えると、一瞬目を閉じ、深呼吸をした。
「私の立場を説明する上でも、終末期選択権保障法。俗にいう安楽死制度について触れる必要があります。少し長くなりますが、よろしいでしょうか?」
ここでようやく、果穂の安楽死のことについてが本題であると僕は気が付いた。僕はなぜこの場に呼ばれたのだろうか。
果穂の父親が頷くのを確認して、椎名さんは穏やかな口調で語り始めた。
医学的な進歩と個人の尊厳を尊重する立場から、長年先送りにされてきた安楽死制度が、国により認可された病院でついに施行されるようになったこと。この法律には慎重な審査プロセスがあり、専門の倫理委員会による厳格な倫理的基準があること。椎名さんはその一員であることを淡々と説明した。
「安楽死制度は、希望すれば誰でも受けられる、というものではありません。そんなことをすれば、自殺志願者は一人残らず消えてしまいますから」
椎名さんは、感情を抑えつつも、言葉に重みを持たせるように話した。彼女の目は真剣で、時折不備のない様にテーブルの上の書類に目を落としては確認しているように見えた。
「詳しい条件を教えてください」
僕はこの話題に関して、避けるばかりでほとんどの無知だった。僕の質問に椎名さんは頷く。
「第一に病状の重篤性です。患者が終末期や治療困難な状態であること。不治の病もこれに含まれます」椎名さんは指を一本立てて説明を続けた。「次いで、精神的評価です。私達倫理委員会や医療専門家による患者の精神的な評価が行われ、患者が自発的かつ、明確な意思で安楽死を望んでいることが確認されます。外部からの圧力や誘導がないことを確認するためですね」
法として整備されているだけあって、審査は相当に厳格らしかった。
「果穂はその条件を満たしているんですか?」
椎名さんは、決定的な言葉を口にするのを躊躇うように、小さく咳払いした。
「……安楽死制度は、希望が一時的なものでないかを確認するため、受理されるまでに適切な時間経過を経ていることも条件となります。急激な意思変更や衝動的な選択を防ぐためです。果穂さんは、他全ての条件を満たしているため、後は適切な時間経過の後、受理されるのを待つだけになっています」
「果穂はまだ高校生ですよ」僕の声が少し大きくなった。
「あまりにも酷な選択であることは承知しています」椎名さんの声はぶれなかった。「しかし、そもそもこの制度は救いの制度ではないです。選択の一つとして存在するだけであり、患者が安楽死を選ぶのを推奨している訳でも救いを謳っている訳でもありません。自分の最期を選択する機会を得るだけです。死は逃げ道ではなく、死んだ後も残された人間の人生は続いていく。そのことは何度も説明し、その上で果穂さんは安楽死を希望されています」
部屋の空気が重くなり、誰もが息を潜めているようだった。
「……果穂の母親は安楽死に反対していたはずです。それは判断基準に入らないんですか?」と僕は尋ねた。
「この場合、良い意味でも悪い意味でも親族の希望というのは考慮に入りません。あくまで本人が望んでいることだけが重要なのです」椎名さんは冷静に答えたが、その目には深い同情の色が浮かんでいた。
自分のことは自分で決める、という言葉の最上級だと言えるだろう。しかし、その重みは計り知れないものだった。
「本来の予定では、今日は家族との面談ということになっていました。考慮しないとは言いましたが、患者の背景や普段の様子を知ることは精神的サポートの一つとして義務付けられています」
それから、椎名さんはあくまで事務的に果穂の父親に日頃の様子を尋ねた。内容は僕が知っているものと大差なく、有益な情報は得られなかった。しかし、僕の知らない所で毎日、地道に絵を練習していると聞いて僕の行動が完全に無駄ではなかったと思った。
いつの間にか、面談は終わり解散の雰囲気になっていたが、僕はまだこの情報量を受け止め切れていなかった。椎名さんは立ち上がり、書類をカバンにしまった。
「私は一足先に失礼します。この部屋は、しばらく誰も使う予定がないので居てくださっても結構です」
椎名さんはそう言い残し、足早に部屋を後にする。扉の閉まる音がやけに大きく聞こえた。
部屋に果穂の父親と二人残された僕は、別の意味で先程までとは違う息苦しさを感じていた。窓の外では夕暮れが近づき、室内に長い影を落としている。
「どうしてこの話を僕に聞かせようと思ったんですか?」
果穂の父親は、深いため息をつき、目を閉じた。その顔は疲労の色が濃く、数日髭を剃っていないようだった。ゆっくりと目を開けると、彼は僕の目をまっすぐ見つめ返した。
「坂口くんは、果穂が安楽死を選ぶことについてどう思ってる?」
その言葉に、僕の心臓が痛むように跳ねた。
「どうって……」僕は言葉を探しながら、必死に平静を装った。結論を意図的に避けていた自分に気付き、そのツケが今、回ってきたのだ。
僕は思わず拳を握り締め、「僕は果穂に死んでほしくありません」と質問に対してでなく、ただ果穂がいなくなることに対して言った。
果穂の父親は静かに頷いた。
「私も最初は同じ気持ちだったんだ」どうやら僕の言葉を額面通り受け取ったようだった。「できることなら果穂を助けたいと何度思ったか分からない。しかし、いくら受け入れ難くとも、現実問題として果穂の病が完治することはない。医者には治療したとして、精々、進行を遅らせるのが限度だと言われた」
現実の冷酷さが、僕の希望を押しつぶそうとしていた。
「体はとっくに限界を迎えているのに、機械を通して張りぼての生を得て。けれど、それは本当の意味で生きていると言えるのだろうか? 延命は、捉え方によっては苦しむ時間が増えるとも言える。体は動かず、人間としての尊厳すら保てなくなって。何の自由もなくなり、それでも死なずにいきることこそが地獄ではないだろうか」
このまま治療を続けていても、果穂の容態は確実に悪化していくだろう。その姿を見て、両親は更に心を痛めていく。想像が簡単にできるだけに僕はただ黙っていることしかできなかった。
彼は一瞬言葉を切り、深呼吸をした。「果穂を大切に思うからこそ、苦しんでいる姿を見るのは耐えられなかった」
僕は、果穂の父親の言葉一つ一つが重みを持って心に刺さるのを感じた。
「……お気持ちは分かります。でも本当にそれでいいんですか?」
果穂の父親は窓の外を見つめ、遠くを見るような目をした。
「先の見えない恐怖、徐々に迫りくる死はまだ高校生の果穂に絶望を与えるには十分すぎる理不尽だ。妻は生きていること自体に意味があるというが、体が動かなくなっていくその恐怖は、私には到底計り知れなかった。きっと真に理解できているのは果穂だけだろう。私は耐えがたい苦痛を避けることもまた、果穂の自由だと考える」
僕は突然湧き上がる怒りを抑えきれなかった。「そこまで分かっているのならどうして果穂や家族との対話を避けていたんですか?」
父親は僕の怒りに動じることなく、むしろ自己嫌悪の表情を浮かべた。
「私は果穂の選択を尊重する立場を取った。娘を救いたいという一心で心を病んでしまった妻の気持ちも痛いほど分かる。強く言えず、果穂の選択を尊重したい私と妻の食い違いで板挟みだ。加えて、果穂の治療費や看護で、病気が長期化すれば経済的に負担がかかる現実も無視できなかった。私は、父親として家族を支え、守る立場にある。ある種の冷酷さを持って接する必要があった」
果穂の父親はふっと顔を伏せた。
「そのはずだったんだけどな……」彼の声は、今にも折れそうな程弱々しかった。
「頭では理解していても、私も親という生き物らしい。娘の死という重すぎる現実に葛藤する日々だ。事実、私は果穂のために何もできていない。意思を大切にしたいと主張するばかりで、私自身はこれ以上ない程無力だ。私は自分の感情に答えを出せなかった」
父親は深くため息をつき、肩を落とした。
「幸い、金銭を稼ぐため仕事に没頭するという、おあつらえ向きな免罪符が私にはあった。何かが解決する訳でもないのに、全く愚かだよ。それが、家族との対話を避けていた理由だ」
理解はできても、納得できるかどうかは全くの別問題だった。
「坂口くんは、どうしてこの話を聞かせたのかと言ったね」彼は僕を見つめ返した。「実のところ、私にはもうどうしたらいいか分からないんだ」
その声には、藁にも縋るような絶望的な響きがあった。
「果穂が病のこれ以上の進行を恐れ、心から安楽死を望んでいるのであれば私はその選択を尊重できていただろう。しかし、それだけではない気がするんだ」
父親は窓際に立ち上がり、外の景色を眺めた。
「何か理由を抱えているはずなのに、それが学校での交友関係であるのか、纏まりきらない家族に対してなのか。はたまた世界そのものに絶望してしまったのか、見当もつかない」
彼は振り返り、僕を見つめた。「果穂は、聡明で思慮深く、現実的に物事を考えられる子だ。しかしそれ故に、自分で全てを抱え込む。だが決して強いわけではない。あの子が内に抱えている何か。私はその捌け口にはどうしてもなれなかった。情けないことに、私では理解してあげられないんだ」
彼の声は震え、目に涙が光っていた。
「本来であれば、こんな時こそ果穂のために一致団結して向き合わなければいけないはずなのに、私は未だ妻と足並みを揃えることすらままならない。親失格だよ」
僕は、父親の苦悩と自責の念を目の当たりにして、言葉を失った。しばらくの沈黙の後、僕は静かに尋ねた。
「どうして僕なんですか」
「実を言えば、この現状を変えてくれるのなら誰でも良かった。けれど、果穂は壁を作り自分の世界に閉じこもってしまっている。唯一その壁を取り払えるのは君だけだと思った。君は人に頼ることを嫌う果穂が、本当の意味で心を許した最初の人物だからね」
果穂にとって、自分は本当にそこまで大きい存在になれているのか。実際、僕も同じ質問をしたことがあったが全てを語ってくれた訳では無い。買い被りすぎだと思った。
僕のすべきことは何なのか。深呼吸して溢れ出す思考を整理した。
「僕も基本的には、お父さんと同じ意見です。けれど……安楽死の是非は僕には判断がつきません」
僕の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「長く一緒にいたい、一秒でも一緒に居たいというのはこれからも生き続ける人間のエゴのようにも思います。だから僕は、あくまで果穂が納得できる答えを探します。その選択が何であれ、最終的に決めるのは果穂だと思います」
果穂の父親は、安堵したような柔らかい笑みを浮かべた。
「私をお父さんと呼んだことはこの際、不問にしよう。私も同じ気持ちだ。果穂が後悔のない選択をできるならそれ以上の望みはない。そのためにできることがあれば、どんな協力も惜しまないと誓おう」
「……果穂は家族関係が悪化した原因を、私のせいだと言っていました。まずはその言葉を否定してあげてください」
「確かに、それは私にしかできないことだ。心得た」
何が果穂にとって最善の選択なのか、今の僕には見当もつかない。ただ、自分の人生に本当の意味で満足して死んでいく人は、そう多くないだろう。それでも、彼女には後悔を抱えたまま終わってほしくなかった。
*
僕の果穂に対する認識は、紆余曲折を経てようやく納得の行くものに固まった。果穂が納得できる最後を迎えられるよう寄り添うこと。その決意は僕の行動を大きく変えなかったが、心持ちを新たにした。
放課後は病室に通い、新しい小説を届けたり、絵を描く練習相手になった。休日は果穂の叶えられない願いを僕が代行した。ライオンを見たいと言えば動物園へ。砂浜に城を立てたいと言えば電車に飛び乗って海に向かった。僕がその様子をビデオ通話で細かく報告すると、果穂は楽しげに笑ってくれた。
他に変わったことと言えば、病室で度々果穂の母親を見るようになったことだろうか。以前は、何の手入れもされていない容姿に浮浪者のような印象を抱いたが、無造作に束ねられていた髪が、今は丁寧に整えられており、表情にも幾分か人間らしい柔らかさが戻っていた。僕のことを敵視しているのか、挨拶しても反応すらせずに無視されるが、化粧をした姿はかつての整然さを想像させ、果穂との血の繋がりを確かに感じさせた。
それが果穂の父親の奮闘故なのかは分からない。しかし、家族の絆が修復されつつあるのは素直に喜ばしいことだった。
僕は知らず知らずのうちに慢心していた。すべてが順調に進み、自分が頼られているという事実に酔いしれていたのかもしれない。だが、そんな状態が永遠に続くはずもなかった。
果穂の病状は着実に進行していった。全身の倦怠感からか徐々に動きが少なくなり、もともと細かった手足はさらに痩せ細り、筋力も低下していくようだった。かすれゆく声と失われていく明るさに、僕は胸を締め付けられる思いがしたが、それでも、果穂の生きる希望を絶やさぬよう懸命に通い続けた。
次第に、病院に足を運んでも果穂と会えない日が増え始めた。週に二回と言ったところだろうか。どうやら日によって体調の振れ幅が大きくなっているらしい。すっかり顔馴染みになった眼鏡の看護師に頭を下げ、重い足取りで病院を後にした。
自動ドアが開くと、張り上げるような怒声が耳に飛び込んできた。
「安楽死反対!」
復唱するように、「安楽死反対!」と複数の声が重なる。こんな場所でまでしなければならないことだろうか、と僕はうんざりするような気分と同時に、胸の奥に小さな痛みを感じた。
デモ隊の病院の前の歩道は、十数人のデモ参加者で埋め尽くされ、赤文字で強調されたプラカードがゆらゆらと揺れている。彼らの熱気は、僕の冷えた心に不快な温もりをもたらした。
病院側としては、表立って反対運動に抵抗することで、安楽死を推奨していると思われるのは印象が悪いらしく、害のない限りは放置する意向らしい。病院の前でこれだけ騒ぐのは既に迷惑でないのか、と思うが世の中そう単純でもないのだろう。何にでも噛み付く人種がいる以上、自己防衛も大事なのだ。
僕が横をすり抜けようとすると、白髪の老人がチラシを僕に押し付けてきた。彼の目はどこか狂信的に輝いていた。
「君、いつもこの病院に通っているよね? やめておきなさい。ここは安楽死制度なんて馬鹿げた施策を導入している施設だ」
僕のことを患者だと思っているのか。はたまた中の患者のことを嘲っているのか。どちらにしろ、いい気分でないのは確かだった。果穂の笑顔が脳裏をよぎり、思わず口を開いた。
「法律として整備されたのですから、導入されないことの方が問題なのでは?」
見ず知らずの人間に反論してしまったのは、僕が果穂のことを知っていたからだろうか。きっと知らずのうちに腹を立てたからに違いない。
老人は、反論されるのは予想外だったのか驚くような顔を浮かべたが、すぐに哀れみに変わった。
「若いから何も知らないんだろうね」侮るような苦笑にさらに反感が募る。「安楽死制度なんて、普通の人間が選ぶはずがないんだ。その裏には、何か国からの圧力があるに決まってる。私たちはそのために戦ってるんだよ」
自分はさも正しいと言わんばかりに、諭すような口調で老人は話す。正直、僕は今すぐその顔面を殴り倒してやりたかった。
僕は椎名さんの話を思い出していた。彼女は、専門の倫理委員会であるものの立場は常に中立だった。推奨している訳でもなく、生を美化する訳でもなく。ただ選択の一つとして道があることを教えてくれた。内情など何も知らない癖に、よくも反対運動なんてしていられるな、と彼らの評価がさらに下がる。きっとここにいる誰も、真に意味を理解してる人なんていないのだ。説明されても彼らは聞く耳すら持たないだろうと容易に想像がついた。
そうしてようやく納得が行った。
――そうか、病院は説明が解決にならないことに気付いて。だから彼らを放置することに決めたのだ。
途端に彼らが滑稽な存在に思えてきた。僕は、老人の差し出してきたチラシを乱暴に受け取り、その場を後にした。その姿が見えなくなった頃、ろくに内容に目も通さないまま、くしゃくしゃに丸めて道端に捨てた。
*
うだるような暑さがいつの間にか肌寒く感じられるようになった清々しい十月のある日。空は澄み切った青で、紅葉し始めた木々が風に揺れていた。僕は、地域のマラソン大会に出場していた。
会場となった公園の広場には、実に様々な人々が集まっていた。地元のスポーツクラブらしき子供たちや真剣な表情で準備をするアマチュアランナー、主婦やシニア層まで。幅広い年齢層の参加者がおり、大会というよりはお祭りのような賑わいで、空気は興奮と緊張感で満ちていた。
周囲の人は、それぞれのペースでストレッチをしたり、友人と談笑していたり。中には、水分補給に余念がない人や、最後のウォーミングアップに励む人の姿もあった。
とにかく、僕のようにスマートフォンを首から下げて独り言を喋る変わり者は他に存在しなかった。
「圧倒的に場違いな気がしないか?」
僕は小声で呟いた。首からチェーンで下げたスマートフォンが、僅かに揺れる。
『私の足なんですよね? 体力が尽きるまで走ってみたい、って願いにはこれ以上ないほどぴったりだと思いますけど』
まるで僕の苦労を笑うかのように、悪戯っぽい果穂の声が聞こえた。果穂は時々、僕への嫌がらせのようなことをするよな、と内心ため息をついた。
中学時代はテニス部だったが、高校に入ってからは運動とは無縁の生活を送っていた。毎日、病院と学校の往復で、体を動かす機会はめっきり減っていた。そんな僕が、地域交流イベントで十㎞マラソンに参加することになるとは。
果穂との出会いがなければ、僕はきっとこんな挑戦はしていなかっただろう。震える足を見ながら、「最後に全力で走ってみたかった」と言われれば断れるはずもなかった。
「あれ、坂口くん?」
右手側から、思わぬ声が掛けられた。驚いて視線を向けると、そこに立っていたのは群青のランニングウェアに身を包んだ佐藤さんだった。
「佐藤さん……?」
僕は何故彼女がここにいるのか分からず、かなりとぼけた声を出していたと思う。そのせいか、思わず首から下げているスマートフォンを手で隠そうとしてしまったほどだ。
「そうだよ。まさかこんなところで会うとはね」佐藤さんは、いつものように悩みなんて知らなそうな輝く笑顔を浮かべた。
「どうしてここに?」
「私は完全に趣味だよ。休日はたまにこうして体を動かしてるの。逆に、坂口くんが来てることの方が意外だったな。こういうの参加するんだ?」
もちろん、普段から参加している訳はない。けれど事情を一から説明するのは凄く骨が折れそうだった。
「いや、僕は……おつかいみたいなものかな」
「ふーん……?」
挙動不審に、この前と同じ返答をする僕を訝し気に眺めていたが、深く考えるのをやめたのか、再び笑顔を浮かべた。
「なんにせよ、お互い頑張ろうね!」
佐藤さんは手を振って人混みに消えていった。僕は嵐のような明るさに、しばらくその方向から目が離せなかった。
『お知り合いですか?』
スマートフォンから聞こえた冷ややかな声で意識が戻る。
「クラスメイトだよ」
『その割には、随分と親しそうでしたね』
果穂の声が、不機嫌そうに聞こえた。
「いつも一人でいる僕を哀れに思っているのか。たまに話しかけてくれるだけだ」
『そうなんですね』
言葉では認めても、全く信じていないのが伝わってきた。もしかして果穂はやきもちを妬いているのだろうか。なんだ、人間らしく可愛いところもあるじゃないか。
『こんなことなら、年齢を偽ってでもフルマラソンを走らせるべきでした』
高校生であることを理由に出場できなかった距離を持ち出して、果穂はぼそっと呟いた。おいおい、勘弁してくれよと僕は思った。
スタートラインに立つと、地元のボランティアや応援団が太鼓やホイッスルで盛り上げ、観客も沿道で応援の声を送っていた。大会のアナウンスが響き、いよいよ始まるか、と周囲の期待も高まっていく。僕は人波に流されるまま、先頭集団少し後ろで深呼吸した。
周りを見渡すと、様々な人の中に佐藤さんの姿も見つけた。茶色がかった髪が肩の上でゆらゆらと揺れ、いかにも健康的で活発な印象を与えていた。こちらに気付く前に、僕はそっと目を逸らした。
程なくして開始のホイッスルが鳴り、僕は周囲に同調するようにゆっくりと足を踏み出した。
時に、運動不足の人間がいきなり走ることになった場合どれぐらいの距離走り続けられると思うだろうか。いくら体力が落ちていようがペースさえ落とせば十㎞程度は余裕だと思うだろうか? 実際、僕にはそうした油断があった。
しかし、知らぬ間に僕の体はかつての動きと体力を失っていたらしい。一㎞はおろか、ほんの数百メートル進むころには足に違和感を覚え始めたが、それでも走れないという訳ではない。僕は隣を並走する小学生に追い抜かれぬよう、ほんの少し足を速めた。
給水地点は三㎞置きにあるらしく、二つ目の給水地点に着いた時、僕は文字通り瀕死であった。小学生はとうの昔に涼し気な顔で僕を置いていき、いつの間にか七十を超えそうな男性と互角のデッドヒートを繰り広げていた。
正直、今すぐにでも寝転んでしまいたかったが、そうしてしまったら最後、もう起き上がれなくなってしまう気がした。立った状態でなんとか荒い呼吸を整える。足がまるで鉛のように重く、アスファルトはまるで磁石のようだった。
話す余裕なんて、一ミリたりともなかった。ただ、それでも走り続けられたのは果穂が見てくれているという、確信にも似た信頼があったからだろうか。
僕にとって、十㎞というのは余りにも高い壁だったということに、今更ながら気付いた。どうにかなるだろうなんて甘い考えがあったことは否定できない。
「無理だけはしちゃだめだよ」
声の方向に顔を向けると、佐藤さんがいた。額には汗が浮かんでいたけれど、話しかける余裕がある分、彼女にはまだ余力が残されているのが分かった。
もう既に心は折れかかっていたし、僕の体はとっくに限界を迎えていた。体は燃えるように熱いのに、口から吸いこむ空気は酷く冷たい。息をいくら吸っても苦しくて、空気が薄いような息苦しさを感じる。唾液は血のような味がした。
あと十秒このまま走ったら、死ぬ。誇張抜きにそう思った。
その後どうなったのかを正直よく覚えていない。何度か意識を失いかけていたし、吐き気もあった。それでも、永遠に続くかと思っていた地獄でゴールテープが目の前に迫っているのを見て、僕は存在しない残りわずかな力を振り絞った、ような気がした。
僕は、ズボンが汚れるのも気にせず、芝生に半ば倒れるように座り込んだ。僕は、どうやら十㎞の道のりを完走しきったらしい。目を閉じ、棒のようになった足を投げ出して、噛み締めるように呼吸を繰り返すと激しい疲労が押し寄せてきた。
ようやく心臓の動悸が収まりはじめ、体があげる悲鳴を正しく認識できるようになってきた頃。僕の側に誰かが座る気配がした。
目を開けると、膝を抱えて僕の顔を覗き込む佐藤さんがいた。僕には、驚く力すら残っていなかった。
「正直、坂口くんが走りきれるとは思ってなかったよ。きつかったでしょ?」
僕は首だけで頷く。
「はい、これ。参加賞だってさ」
佐藤さんが水の入ったペットボトルを差し出してくれる。今の僕には、これ以上ない程嬉しい景品だった。
冷たい水が全身に染み渡る。満足いくまで飲んで、深く息を吐きだすと、ようやく普段の冷静さが戻ってきたようだった。
「途中、死にそうな顔をしてた時はさ。やっぱり無茶だ、無理しないでって思ったの」僕が晒していた醜態を一刻も早く忘れて欲しかった。けれど、佐藤さんの顔は真剣だった。
「でも違った。坂口くんは最後までやり切ったんだよ、私はそれを尊敬する」佐藤さんの表情は笑顔だったが、いつもより更に慈悲に満ちているようなものだった。
『……』
果穂が何か口を挟むのではないかと思ったが、沈黙を貫いていた。
「何が坂口くんをそうさせたの?」佐藤さんが尋ねた。
「……正直、僕一人であれば辞めようと投げ出す機会はいくらでもあった。そもそも参加すらしてなかっただろうし」それは紛れもない本心だった。
「それでも、僕が限界を超えて最後まで走れた理由は、自分のためじゃなかったからだと思う。僕は、自分自身に何の期待もできないんだ。この上なく、どうしようもない人間で世界一自堕落であることを知ってる。けど僕が今回走ったのは自分のためじゃない。走る価値があると思える人のため。それがきっと僕が折れなかった理由なんだ」
「きっと、おつかいって言葉に関係してるんだろうね」佐藤さんは寂し気に笑った。「でも、それこそが成長の証だと思う。自分以外の誰かのために頑張れるようになったってことだからね」
佐藤さんは立ち上がり、ズボンに付いた草を払う。
「私は坂口くんのことどうしようもない人間だとは思ってないよ。お疲れ様」彼女はそう言い残して、僕の前から去っていた。
佐藤さんと会話していたことについて、果穂から何か嫌味を言われそうだなと思った。しかし、予想に反して果穂の声は柔らかかった。
『涼くんがマラソンを走るような性格でないのは知っています。そしてそれが私のためだということも』珍しくしおらしい態度だった。『彼女との会話のことは……今日は不問にしてあげます。本当にありがとうございました』
果穂の声は、照れているのか不機嫌なのか。どちらにも取れそうなものだった。
僕は、全力で体を動かした先でしか得られぬ達成感を胸に、今度は完全に芝生に寝っ転がった。もう一ミリたりとも動きたくなかった。
*
「そろそろ本格的にやることもなくなってきましたね」
果穂は、お見舞いに来た僕にスケッチブックを手渡した。そこに描かれていたのは病院の窓から見える街並みで、空が青く、遠くに小さな鳥の群れが飛んでいることから昼だと分かった。
「驚いた。どんどん上達してるな」僕は感心しながらページをめくる。日を追うごとに色使いが鮮明になっていっているのが分かった。
「私は一人で出歩ける訳じゃないので、必然的にこの病室にいることになります。それが想像以上に退屈なんですよ。やることと言えば、読書にそれぐらいのものです」果穂は窓の外を見やりながら言った。
相変わらず落書きのような僕と対照的に、果穂の絵は画家とは言わぬまでも、作品と呼ぶことができなくもない出来になっていた。色使いも繊細で、空気感まで伝わってくるようだ。
「褒められ慣れているつもりでしたけど、描いた絵を認められるのは気分がいいですね」
僕の言葉に、果穂は得意げな表情を浮かべた。頬がわずかに赤らんでいる。
「感覚としては、好きな小説や音楽をセンスがいいと言われるのに似ているでしょうか」
「それは……違うんじゃないのか? その場合、凄いのは作者であって自分じゃない。僕は果穂の絵の才能を褒めてるんだ」
「いいえ、同じですよ」と果穂は首を振った。
「多種多様な選択肢があり正解がない分野において、私たちは試されるんです。さぁ、あなたは一体どんな価値観を持っているんだい? って。見てきた景色、関わってきた人。いかに豊かな人生を送ってきたかを問われるんです。作者の感性が素晴らしいのはもちろんですが、その良さを感じることができる価値観、ひいては自分自身という人間まで認められるのと同義だと思うんです」
果穂の言葉は妙に説得力があった。
「実際、私も人に飢えていたってことですかね。もっと褒めてくれてもいいんですよ」
そう言って、鼻歌を口ずさみながら上機嫌に色鉛筆を回していた果穂の手から、色鉛筆がぽろりと落下した。僕の視線は、落ちていく色鉛筆を実に鮮明に捉えていて、まるでスローモーションのように地面に着く瞬間までがはっきり見えた。先端の折れる様子をみて、「あぁまた研がないといけない」なんて些細な思考まで浮かんだ。
屈んで拾い上げた時、耳に入ったのは果穂のうめくような声だった。その声は、病室の静寂を破る、痛ましい音だった。
「果穂?」
慌てて視線を向ければ、果穂が胸を抑えているのが分かった。苦痛に顔は歪んでいて、白い病院のシーツの上で、まるで折れた人形のように見える。
助けを呼ぶこともままならないようだった。僕はすっかり気が動転してしまい、頭の中が真っ白になった。
すぐに誰かを呼ぶべきだったのだけど、慌てた僕は意味もなく立ち上がって呆然とした。足が震え、どうしていいか分からない。パニックに陥った脳が、正常な判断を阻害していた。
苦し気な果穂が、震える手でナースコールに手を伸ばそうとしているのを見て、遅れて僕のすべきことに気が付いた。ナースコールを押し、出せる限りの大声をあげる。
「誰か、お医者さんを呼んでください!」
冷や汗が背中を伝い、声が震えているのが自分でも分かった。僕にできるのは、果穂の背中をさすることだけだった。その間も、果穂の苦しそうな呼吸が部屋に響き渡る。
数十秒経っただろうか。それは永遠のように感じられる時間だった。飛び込んできた看護師によって、僕はあっという間に部屋から追い出され、面会謝絶の札がかけられる。まるで部外者だとでも言うように。扉が閉まる音と共に、僕は完全に遮断された。
病室の前でしゃがみ込んでいると、バタバタと足音を立て果穂の両親も駆け付けた。一瞬、僕のことを横目で見たが、構うことなく室内へと消えていく。僕は完全に蚊帳の外だった。その事実が、更に胸を締め付けた。
「今日はもう話せないと思いますよ」
ふと、俯いている僕に耳慣れぬ声が掛けられた。顔を上げると眼鏡の看護師さんで、僕に同情しているような目だった。
「……果穂はどうなんですか」僕の声は掠れていた。
「発作のようなもので、大事には至ってません。次も何事もないとは限りませんが……」
彼女の言葉の裏に、果穂の病状が芳しいものではないという事実が透けて見えた。
「会えなくてもいいんです。放っておいて下さい」
看護師は困ったような表情を浮かべたが、それ以上話しかけては来なかった。静かに立ち去っていく足音が、更に心に影を落とした。
別に何かを考えていたわけじゃない。ただ、何もしていないという訳じゃないということを示したかったのかもしれない。僕は廊下の壁にもたれかかって俯いていた。時計の針の動きも、廊下を行き交う人々の足音も、すべてが遠く感じられた。
数分か数十分だったか、ともかくいくらか経った頃。突然、病室の扉が開いた音が耳に響いた。
果穂の両親かと思ったが、出てきたのは、白髪交じりの医者だった。なぜ医者だと分かったのかと言えば、くたびれた細身の体にぴったりとフィットした白衣を纏っていたから。医者と言われて想像する容姿にぴったりだった。
「君は……坂口くんだったかな。心配せずとももう大丈夫だよ」
「どうして僕の名前を知ってるんですか?」
医者の言葉を無視して僕は尋ねて、自分の声が、少し攻撃的に聞こえたことに気づいた。
「すまない、私が一方的に知っているだけだ。私は果穂くんの主治医をしている柏木という」僕は、いつだったか果穂にそんな名前の先生がいることを聞いた気がした。記憶の片隅で、その名前が微かに反響する。
「待っていても今日はもう目を覚まさないと思う。そういう薬を投与したからね」
「僕はただこうしていたいだけなんです」口にして、まるで子供だなと自嘲する。けれど、柏木さんから見れば僕は本当に子供のようなものだろう。
「……そうか。それもまた一つの選択なのかもしれないな。誰かの邪魔にならないならば文句はない」柏木さんの目は、どこか遠いものを見ているようだった。
踵を返し去っていく柏木さんにふと疑問が湧いた。その疑問は、僕の中でずっとくすぶっていたものだった。
「柏木さんは、果穂が安楽死を選んだことをどう思ってるんですか?」
足を止めた柏木さんの表情は、少し強張っていた。
「……随分と唐突だね。あいにく、立場上軽々しく話せる内容ではないよ」
「別にいいでしょう、良くも悪くも僕は部外者です。誰にも話しませんし、トイレの落書きのようなものだと思ってください」
「信頼できるという根拠は?」
「ありません。ただ僕は知りたいだけなんです」気の毒だと思ったのか、柏木さんは深い溜息をついた。
「それは医者としての見解かな。はたまた、私個人の感想を聞きたいのだろうか」
「どちらもです。医者であると同時に柏木さんは一人の人間です。医者という目線を持つ柏木さんの考えを聞きたい」
「随分と無理難題を言うね君は」柏木さんは苦笑する。その表情には、何か諦めたようなものが見えた。
「その問いは、本当に難しいと言わざるを得ない。医者という職業の本質は、病を治すことによって人を救う事だと私は思うんだ。自分の仕事によって笑顔になる人がいるから頑張れます、なんてことを言う人がいるが私なんかはその最たる例だ。医者は手術に成功した声しか聞かないからね。たとえ取り返しのつかないミスをしても、その時点で患者さんはもう死んでいる。本人に責められることはないんだ」
柏木さんの言葉には、長年の経験から来る重みがあった。
「少し話が逸れたね」柏木さんは、自分の言葉を振り返るように少し間を置いた。「要するに、人を救うことが医者の役目なんだ。そういう意味では、安楽死制度も絶対に否定はできないと私は思っている。もちろん、救える命は全て救うべきだしそうありたいと願っている。だが、現代の医学ではどうしようもない病というのも珍しくはないんだよ。患者さんの立場になって考えた時に、延命治療と、それによって本来味わうはずのなかった苦痛をどのように捉えるだろうか。世界に何の希望も持てなくなった時、自らの選択の一つとして、僕はありだと考える」
柏木さんの言葉には、深い葛藤と思索の跡が感じられた。
「医者でもそう思うんですね」
「医者だからこそ……かな。自分の無力さであるとか、限界を誰よりも分かっているのさ。私は、果穂くんの選択を逃げだとは思わない。見ようによっては救いだと思う。でもきっと、それを判断するのは私じゃないんだ」
話過ぎたね、と言って柏木さんはかぶりを振った。「このことは他言無用で頼むよ。この病院には、愛着があるんだ」
すっかり毒気が抜かれた僕は、大人しく帰路についた。廊下を歩きながら、果穂のこと、柏木さんの言葉、そして自分の無力さがどうしようもなく頭を埋めていた。
どこからか響く低い機械音、消毒薬の鼻を突く匂い、窓からの色あせた景色や果てしなく続く廊下の長さに至るまで、あの光景のまま当時と何も変わっていなかった。違うのは、僕は高校の制服を着ていて、少しだけ背も伸びたことぐらいだろうか。それでも、この場所が呼び起こす記憶は鮮明で、胸の奥がキリキリと痛んだ。
『301』と書かれた病室のドアを開けると、果穂の姿が目に飛び込んできた。彼女は窓際のベッドに横たわり、外の景色を無表情に眺めていた。
「どうして来たんですか」
塩らしい様子など微塵も見せず、不貞腐れたように頬を膨らませる果穂を見て、僕は少し安堵した。それでも、彼女の青白い顔色と痩せこけた体を見ると胸が押し潰されるような思いがした。
「逆にどうして来ないと思ってたんだ」
僕はベッド脇の丸椅子に座った。
「それは……」果穂は口籠もり、視線を落とした。「私は最後の我儘を言いました。最後です、その先があるなんて思ってません」
僕は、後悔を吐き出すように深くため息をついた。
「お見舞いぐらい、ある程度の関係があれば誰にだってする権利はあるはずだ」
果穂は僕を無理に追い返そうとはしなかった。
「どれくらい悪いんだ」
尋ねながら、果穂の体に繋がれた複数のチューブを目で追った。
「……すぐに退院してみせますよ」
果穂の声は普段通りだったが、微妙にずれた返答が隠しきれず僅かに震えているのが分かった。
「僕のことがまだ信用できないか?」
僕が目を真っ直ぐに見つめると、果穂は眉間に皺を寄せた。
「信用、という言葉の意味がよく分かりません。頼りにしているという意味でしたら、きっとそうなのでしょう。しかし、私たちの関係は只の善意で成り立っている訳じゃなかったはずです」
「……聞き方を変えようか。僕に、まだ隠す必要があるのか?」
「益々意味が分かりません。逆になぜ私が涼くんに病気のことを話さなければいけないのでしょうか」
果穂はまるで壁を作るかのようで、はっきり言葉にしなければずっとこの調子でとぼけ続けるだけだと悟った。僕は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「僕が知りたいからだ。果穂の力になりたい、支えたいと思っているから。それでも、まだ理由を聞くか」僕もまた、果穂が話す気になるまで粘り続けるつもりだった。
「いえ……結構です」果穂は煩わしげにそう言って、諦めたようにため息をついた。
果穂は一瞬目を閉じ、ゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
「私の余命、思っていたよりも短いみたいなんです」
「……は?」
僕の頭の中が真っ白になった。
果穂は静かに、しかし確実に僕の世界を揺るがす言葉を紡ぎ始めた。
「涼くんには、具体的な数字を明かして居ませんでしたね。私の病気が発覚したのは中学二年の冬。ちょうど一年半前に宣告された余命は三年でした」
その言葉に、僕の体が凍りついたような感覚を覚えた。僕に構うことなく、果穂は続けた。
「もちろん、余命宣告と言えどただの予測に過ぎません。早まることもあれば、もっと生きられる可能性もあります。とは言え、私には後一年半の時間がある。そのはずでした」
果穂は僕に向かって何故か笑顔を向けた。この会話の流れから、笑顔になる理由とはなんだ。どんな一発逆転が待っているというのだろうか。
「一週間前、新たに告げられた余命は半年でした」
僕は果穂の笑顔の意味が分からなかった。全て嘘でしたとでも言ってくれたらどれだけ良かっただろう。頭の中が混乱し、思考がまとまらない。
「どうして。どうしてそんな急に一年も短くなる?」
やっとのことで絞り出した言葉は、半ば叫びのようだった。
「さぁ。私に医学の知識はありませんし、専門的な理由は分かりません。ただ確かなのは、予測よりも早く私の体が病魔に蝕まれているということだけです」
果穂はそう言って、伸ばしていた足を手で引き上げるようにして、くの字に立てた。しかし、手を離した途端、その足は力なく倒れてしまう。それだけで、足のコントロールが失われてしまったことが分かった。
「私の体はどんどんと不便になっていきますね……」
果穂の声は冷静だったが、その目には深い悲しみが宿っていた。
「藪医者だ」八つ当たりだと分かっていても、僕の怒りの矛先はそこしかなかった。
「涼くんまでお母さんみたいなことを言わないでください。私はもう受け入れてます」
果穂はまるで乗り越えた過去のように現状を話していて、それがどうにも信じられなかった。
「どうしてそこまで強くいれるんだ?」
「強い? 私がですか?」と果穂は言った。
「強くなんてないですよ。内心は恐怖で、限界に近いんです。夜もまともに眠れていません。それでもこうして他人事のように話せているのは、私の中のプライド、意地のようなものでしょうか。ただで屈してなんかやらない、気高くありたいという最後の砦であり、虚勢に過ぎません」
普段の果穂は、感情を必死に殻に閉じこめていたのだろう。果穂にとっての偽りのない本心は、あの日、家族の前で見せた姿なのだ、と思った。だってそう、感情のない人間なんているはずがないのだから。
「なにかできることはないか?」
「まだ私に付き纏うつもりですか?」うんざりとしたような口調。でも、もう慣れきっていた。
「付き纏うって表現は心外だな。言ったはずだ、僕は果穂の手足だって」
「望まれていない善意は余計なお世話と変わりませんよ。やっていることはストーカーです」
「望まれていなければ、な。果穂のメモの中身、まだやってないことがあるんじゃないのか? 果穂の見るはずだった景色、得るはずだった経験。それを僕が実行して果穂に共有する」
僕の声には、言葉にできぬ熱意が込められていた。流石の果穂も僕の様子に只ならぬものを感じたように体をのけ反らせた。
「……何が涼くんをそこまで突き動かすんですか? 私のため、だけじゃないですよね」と果穂は言った。
もはや隠す必要はないだろうと、僕は抱えていた闇を打ち明ける。
「あぁ、そうだ。果穂のためだけじゃない。僕は、果穂の手助けをすることによって妹への罪滅ぼしをしてる」
「妹……?」果穂は怪訝な顔を浮かべた。
「僕には、月乃という妹がいたんだ。病気でもうこの世には居ないけれど、果穂によく似ていた」
悲観的にならぬよう、抱えていた後悔を出来るだけ客観的に乗り越えた過去のことのように話した。
「似た境遇の私に報いることが、妹さんへの罪滅ぼしになると?」
聞き終えた果穂は軽蔑の視線を向けていた。
「甘い考えだっていうのは分かってる。それが今更で、自己満足であることも。けれどそれだけじゃないことも確かなんだ。大前提として、打算とか、罪滅ぼしとか全部無視したとしても。僕は果穂の力になりたいと思ってる。それだけは嘘じゃないんだ。僕はもう果穂の力になりたいと思って行動してる」
僕は真摯な眼差しで果穂を見つめ、その言葉にはこれまで抑えてきた想いが込められていた。だが、果穂は無言で寝返りを打ち、僕に背を向けた。それはこれ以上ない対話の拒絶だった。
当然の反応だった。自分のためだなどと綺麗事を並べていたものの、結局は自己本位な願いでしかなかったのだから。彼女が失望や軽蔑を感じたとしても、それを責めることなどできない。けれど、これが隠し続けてきた本音だった以上、話さずにはいられなかった。
これで果穂との繋がりも終わったのだと考えると、どうしようもない無力感に苛まれて止まなかった。
「……容赦なくこき使いますよ。私の人生はベストセラーになるんです」
聞こえるかぎりぎりの声で、果穂がぼそっと呟いた。
「……あぁ、任せろ!」
思いがけない言葉に、胸が熱くなる。どうやら僕はまだ果穂と行動することを許されたようだった。そしてようやく、本当の意味で果穂と向き合うことができるようになった。
*
蝉の声が遠ざかり、涼やかな風が吹き始めた頃、気がつけば夏休みは終わりを告げ、学校は新学期を迎えていた。
しかし、以前とは決定的に違う。この学校に果穂はいない。僕は、彼女の不在が作り出す空虚感を誤魔化すように、放課後になると病院へ足を向ける日々を送っていた。
夕暮れ時、オレンジ色に染まった空の下。下校準備中の佐藤さんが振り向いた瞬間、彼女の視線が僕の鞄からはみ出したスケッチブックに留まった。彼女は細い首をほんの少し傾けた。
「それってスケッチブック……だよね? 坂口くんって絵描くんだ」
佐藤さんの声には純粋な好奇心が詰まっていた。僕は少し躊躇いながら、首を横に振る。
「いや、これは僕が使うわけじゃない。おつかい、とはまた少し違うけれど、とにかく必要なものなんだ」
なるべく嘘をつかず、かつ怪しまれぬように言葉を選びながら説明する僕の声は、少し上ずっていた。
「ふーん……?」
佐藤さんは納得していないようだが、それ以上スケッチブックについて追及しようとはしなかった。
代わりに彼女は僕の顔をじっと覗き込み、まるで何かを探るように動かなくなった。
「僕の顔、どこか変かな」いつかの既視感を感じた。
佐藤さんは一瞬考え込むような仕草を見せた後、「うん、変」とあっさり言い切った。二回目ともなると流石に驚きはしなかった。
「知ってた。……で、どこが?」
「どこが、か」佐藤さんは言葉を選ぶように目を泳がせた。「覇気がない……はいつものことだし、生気も以前よりは確かに感じるんだけど。なんていうんだろうな」
腕を組み、言葉にできない違和感をなんとか形にする表現を探しているようだった。しかし、結局適切な言葉が見つからなかったのか、諦めたように深く息を吐きだした。
「最近、何かショックなことでもあった?」
咄嗟に果穂の入院が頭をよぎった。シンプルながら確信を突いた質問に、思わず息が詰まり、言葉が出てこない。
「夏休み明けからかな。生気を感じるようになったのは変わらないんだけど、その方向がさ。危うい気がするの」
「危うい?」僕の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「生き急いでいるとでも言うのかな。何かを成そうとしているのは分かるんだけど、周りが見えなくなるぐらい焦ってるんじゃない?」
佐藤さんの勘は鋭すぎるほど冴えていて、ほぼ的を得ている。今の僕は、果穂のことで頭が一杯で。ここまで敏感に僕の変化に気付く人がいたことが信じられなかった。
「もう少し、肩の力を抜いてもいいんじゃない?」
優しすぎるほど優しい言葉だった。百パーセントの善意であり、それが正しい選択であることは痛いほど分かった。
けれど、果穂には時間がない。焦らなければいけないだけの理由があった。今、佐藤さんの助言を受け入れることは、僕自身が許せなかった。
「ごめん」
ふり絞った声に、案の定、佐藤さんの顔が悲し気に歪む。僕だってそんな表情は見たくなかった。
しかし、本当に見たくないのであれば耳当たりの良い言葉を使って誤魔化すこともできた。そうしなかったのは、ある種の誠意であり、彼女には本心で接したかったからだった。
胸が締め付けられるように痛むが、佐藤さんはすぐにいつもの笑顔に戻った。
「坂口くん、連絡先教えてよ」
突然の申し出に、僕は戸惑いを隠せなかった。
「急にどうして?」
「君のこと結構好きだからさ、困ったことがあったら相談してほしいんだ」
僅かに紅潮した頬をかきながら、口元がわずかに歪んで笑う佐藤さんは、夕陽に照らされているのも相まって僕の心を温かくするような安心感があった。
僕がクラスの人間と連絡先を交換したのは、これが初めてのことだった。果穂以外の誰かと繋がることへの罪悪感はあった。でも完全に佐藤さんを拒否できるほど、僕は人間としてできあがっていない。複雑な感情が入り混じった感傷が胸に広がった。
*
「何ですかそれ」
僕が取り出したスケッチブックと画材を見て果穂は眉をひそめた。
「自分の作品を世に残したいって言ってたから僕なりに考えてみたんだけど」
「確かに言いましたね。けど、私と言えば小説ではないんですか? まさか絵を描くように促されるとは思っていませんでした」
僕は自分の浅慮を悔やんだ。言われてみれば、果穂に美術の印象がある訳ではなかった。少し考えればたどり着ける結論にすら気付かない僕は、想像以上に周りが見えなくなっているのかもしれない、と思った。
「そもそも、作品を残すって意味がよく理解できてなかったんだ。この世の中に対して影響を与えたいってことなのか?」
果穂は考え込んだ。「極端に言うのなら、私が作ったものであれば落書きでも、最悪拾った石なんかでもいいんです。私がこの世に存在した証……というと語弊がありますが、それを見て私を連想させるものであれば、それは『作品』を残したことになると思いませんか」
「それはつまり忘れられたくないってことか」はっきりと言葉にされたのが癪だったのか、果穂は頬を膨らませた。
「そんな浅い考えじゃありません。言わばこれは復讐です。私という存在を排除してなお平然と続いていく明日に、少しでも抗って爪痕を……」
何やらそれらしい理由を並べていたが、結局のところ忘れられたくないという結論に帰着したのだろう。「もうそれでいいですよ」と拗ねていた。
近所の文房具店で購入した色鉛筆は、クラシックな木製の箱に入っていた。外観は深いブラウンの木目が美しく、果穂は箱の表面のシンプルなロゴを指でなぞっていた。
「これはこれで興味が湧いてきました」
開けていいですか、と言いたげな果穂の視線に僕は頷く。
果穂が箱を開けると、鮮やかな色鉛筆が一列に並んでいて、一本一本の軸には光沢があり、色ごとに異なる明るいラベルが巻かれている。鉛筆の先端はそれぞれ削られており、使う前から使用時の印象を想像させた。果穂は、それをしばらく興味深げに眺めていた。
果穂の指が、ゆっくりと各色の上を滑るように動く。病室の無機質な空気が、一瞬にして創造性に満ちた雰囲気に変わったかのようだった。
「私と少し勝負をしませんか」と果穂は言った。「心配しなくとも、何かを賭けて行うようなものではありません。ただ、私という人間の芸術センスを試してみたくなっただけです。実験台になってください」
その声は挑戦的で、これまでにない活気が感じられた。
「そういうことなら」
特に断る理由もなかった。スケッチブックは一冊だったので、僕は鞄から退屈な内容の校内誌を取り出し、その裏に描くことにした。ノートにしなかったのは、方眼も何もついていないまっさらな状態の紙を持ち合わせていなかったからだった。
「勝負というからには優劣をつける基準がいるだろ。同じ対象を描くのはどうだろうか?」
「そうですね」果穂は僕の提案に頷いた。「では、そこに置いてあるガーベラにしましょうか。父が気晴らしにと置いて行ったものですが、ようやく役目ができました」
窓際に置かれた花瓶には、白で塗り固められた病室に唯一の色味として存在するガーベラが生けられていた。この空間において、色鉛筆で表現するのであれば、これ以上ない適役と言えた。
「保険じゃないが、僕はまともに絵を描いたことがない」
「大抵の人間はそうじゃないですか。私も真面目に描くのは美術の授業以来です」
果穂は、それだけ言って集中するようにスケッチブックに描きこみ始めた。僕も改めてガーベラを観察する。
花瓶には、赤、白、ピンク、黄色と様々な色のガーベラが生けられている。無機質な白い壁と淡い光の中で、それらの花々は鮮やかな色を放ち、まるでその場所だけが別の世界から切り取られたかのような印象を覚えた。
どこから手をつけたものか、僕はしばらく固まってしまった。何をどれぐらいの大きさで配置し、そもそも単色であらわしてもいいものなのか。重ねて塗った時の色味が想像できるだけの経験値もなく、結果どうしたらいいのか分からなくなった。しかし、いつまでもそうしている訳にもいかず、結局僕は花瓶から描き始めることにした。
完成した僕の絵を見て、果穂は小馬鹿にしたように笑った。
「下手ですね。バランスといい、色使いといい……まるで小学生が描いたような絵です」
散々な言われようだった。でも、僕も自分の絵を見れば同じ感想を抱く。
最初に描いた花瓶は思いの外大きくなってしまい、肝心の主役よりも余程存在感を放っていた。加えて、全体的にのっぺりと陰影がなく、遠近感を全く感じさせない。小学生の頃の方が今よりも上手く描けた気がしていた気がした。
それでも、この稚拙な絵には、僕なりの真剣さが込められていた。
「だから言っただろ。絵は描いたことがないって」
「ここまで酷いとは思いませんでした」
僕に言わせれば果穂の絵も、お世辞にも上手いとは言えなかった。自信ありげに勝負を持ちかけてくるのだから、美術部並みの作品に仕上げてくるかと思ったが、可もなく、不可もなく。至って平凡な絵だった。それでも、僕より数段整っていることだけは間違いなかったが。
「私の勝ちでいいですね」
異論はなかった。降参だと言うように両手を掲げる。満足げにそれを見て、顔を緩めた。久しぶりに感じた達成感を噛み締めているようだった。
「絵を描くというのも案外悪くないかもしれません。ありがとうございます」
果穂の声は、思いの外明るかった。
「どういたしまして」面と向かって答えるのが恥ずかしくて、僕は思わずそっぽを向いた。
*
いつものように果穂の病室へと足を運ぶと、見知った人物と一緒に、深紺のスーツに身を包んだ見知らぬ女性が出てくるのが目に入った。
見知った人物――果穂の父親は、僕の存在に気づくと、驚きと戸惑いの入り混じった表情を浮かべた。
「君は確か……坂口くん、だったかな」
日焼けした肌にしっかりとした体格は、相変わらず誠実な印象を与えるが、以前よりもさらに痩せ、目の下にくっきりとした隈が刻まれているのが見て取れた。
僕は、形式的に頭を下げながら、「はい」と答えた。
「果穂のお見舞いに来てくれたのかな。けど、今日は少し疲れてしまったみたいなんだ。悪いが、またの機会にしてくれないか」
その声は、以前よりも更に疲れが滲んでいた。違和感を覚えながら、僕は果穂の父親の後ろに立つスーツ姿の女性を横目で見た。女性が、冷たい視線で僕を観察しているのが分かった。
「何かあったんですか?」
「何か、って訳じゃないんだけどね」果穂の父親は、分かりやすく動揺し目を泳がせた。
「お話があるようでしたら、また後からにしましょうか?」女性が事務的な口調で割って入った。
果穂の父親は、数秒考えこんだ後、何故か僕に視線を向けた。
「坂口くん、君は果穂の友達なんだよな?」
質問の意図が分からず戸惑いながらも、僕は頷いた。
「果穂の力になりたいと思ってくれているのなら、私と一緒に付いてきてくれないか?」
しかし、女性が即座に反論する。「困ります。親族と言えど、部外者に勝手に話すのは推奨されていません」
会話の内容は分からなかったが、『部外者』という言葉に、図らずも僕の中で反発が湧き上がった。
「彼は部外者ではないよ。あの果穂が心を許していたんだ、彼には聞く権利があると私は考える」
果穂の父親は、静かだが有無を言わせぬ強い口調だった。
僕の中で果穂の父親の印象は、あの日のものだけであり大した情報はない。けれど、彼にとって、果穂が誰かを連れてきたという事実がいかに重要であったかが伝わってきた。
女性は、しばらく考え込み、ゆっくりと頷いた。
「私が本人に確認を取り、了承を得ることが条件です。それが譲歩できる限界です」
「分かった」果穂の父親が同意する。
「あの、これは一体?」僕は未だ状況が飲みこめていなかった。
女性が病室に入っていくのを見送りながら、果穂の父親は僕に向き直った。
「すまないね。情けない話だが、君に頼らなくてはならないほどに私は果穂の理解が足りないらしい」
それ以上の説明をしてはくれないようだった。
「お待たせしました。本人の確認も取れたので、ご案内します」
しばらくして女性が病室から戻ってくると、僕たちは迷路のような病院の廊下を歩いた。五分ほど経ったとき、女性がある部屋の前で立ち止まった。扉には『相談室5』のプレートが掛けられていた。
無駄に横長い机とそれを挟むように置かれた四つの椅子以外は何もない殺風景な部屋に入ると、果穂の父親は迷いなく奥の椅子に座り、僕を手招いた。
戸惑いと不安を抑えきれないまま、僕はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
彼女は背筋をピンと伸ばし、僕らと向かい合うように腰を下ろした。
「改めまして。篠宮果穂さんの担当である椎名奈緒と申します。以後、お見知りおきを」
そう言って頭を下げる椎名さんは、落ち着いて見ると三十代前半ほどの比較的若い女性だった。スリムで整った体型に、ミディアムレングスの黒髪。顔のパーツは控えめに見ても整っていたが、知的で冷静な瞳は可愛さよりも美人という言葉が似合った。僕の第一印象は、プロフェッショナル、仕事のために生きているような人だった。
僕も軽く会釈をし、簡潔に自己紹介をする。椎名さんは僕の言葉を聞き終えると、一瞬目を閉じ、深呼吸をした。
「私の立場を説明する上でも、終末期選択権保障法。俗にいう安楽死制度について触れる必要があります。少し長くなりますが、よろしいでしょうか?」
ここでようやく、果穂の安楽死のことについてが本題であると僕は気が付いた。僕はなぜこの場に呼ばれたのだろうか。
果穂の父親が頷くのを確認して、椎名さんは穏やかな口調で語り始めた。
医学的な進歩と個人の尊厳を尊重する立場から、長年先送りにされてきた安楽死制度が、国により認可された病院でついに施行されるようになったこと。この法律には慎重な審査プロセスがあり、専門の倫理委員会による厳格な倫理的基準があること。椎名さんはその一員であることを淡々と説明した。
「安楽死制度は、希望すれば誰でも受けられる、というものではありません。そんなことをすれば、自殺志願者は一人残らず消えてしまいますから」
椎名さんは、感情を抑えつつも、言葉に重みを持たせるように話した。彼女の目は真剣で、時折不備のない様にテーブルの上の書類に目を落としては確認しているように見えた。
「詳しい条件を教えてください」
僕はこの話題に関して、避けるばかりでほとんどの無知だった。僕の質問に椎名さんは頷く。
「第一に病状の重篤性です。患者が終末期や治療困難な状態であること。不治の病もこれに含まれます」椎名さんは指を一本立てて説明を続けた。「次いで、精神的評価です。私達倫理委員会や医療専門家による患者の精神的な評価が行われ、患者が自発的かつ、明確な意思で安楽死を望んでいることが確認されます。外部からの圧力や誘導がないことを確認するためですね」
法として整備されているだけあって、審査は相当に厳格らしかった。
「果穂はその条件を満たしているんですか?」
椎名さんは、決定的な言葉を口にするのを躊躇うように、小さく咳払いした。
「……安楽死制度は、希望が一時的なものでないかを確認するため、受理されるまでに適切な時間経過を経ていることも条件となります。急激な意思変更や衝動的な選択を防ぐためです。果穂さんは、他全ての条件を満たしているため、後は適切な時間経過の後、受理されるのを待つだけになっています」
「果穂はまだ高校生ですよ」僕の声が少し大きくなった。
「あまりにも酷な選択であることは承知しています」椎名さんの声はぶれなかった。「しかし、そもそもこの制度は救いの制度ではないです。選択の一つとして存在するだけであり、患者が安楽死を選ぶのを推奨している訳でも救いを謳っている訳でもありません。自分の最期を選択する機会を得るだけです。死は逃げ道ではなく、死んだ後も残された人間の人生は続いていく。そのことは何度も説明し、その上で果穂さんは安楽死を希望されています」
部屋の空気が重くなり、誰もが息を潜めているようだった。
「……果穂の母親は安楽死に反対していたはずです。それは判断基準に入らないんですか?」と僕は尋ねた。
「この場合、良い意味でも悪い意味でも親族の希望というのは考慮に入りません。あくまで本人が望んでいることだけが重要なのです」椎名さんは冷静に答えたが、その目には深い同情の色が浮かんでいた。
自分のことは自分で決める、という言葉の最上級だと言えるだろう。しかし、その重みは計り知れないものだった。
「本来の予定では、今日は家族との面談ということになっていました。考慮しないとは言いましたが、患者の背景や普段の様子を知ることは精神的サポートの一つとして義務付けられています」
それから、椎名さんはあくまで事務的に果穂の父親に日頃の様子を尋ねた。内容は僕が知っているものと大差なく、有益な情報は得られなかった。しかし、僕の知らない所で毎日、地道に絵を練習していると聞いて僕の行動が完全に無駄ではなかったと思った。
いつの間にか、面談は終わり解散の雰囲気になっていたが、僕はまだこの情報量を受け止め切れていなかった。椎名さんは立ち上がり、書類をカバンにしまった。
「私は一足先に失礼します。この部屋は、しばらく誰も使う予定がないので居てくださっても結構です」
椎名さんはそう言い残し、足早に部屋を後にする。扉の閉まる音がやけに大きく聞こえた。
部屋に果穂の父親と二人残された僕は、別の意味で先程までとは違う息苦しさを感じていた。窓の外では夕暮れが近づき、室内に長い影を落としている。
「どうしてこの話を僕に聞かせようと思ったんですか?」
果穂の父親は、深いため息をつき、目を閉じた。その顔は疲労の色が濃く、数日髭を剃っていないようだった。ゆっくりと目を開けると、彼は僕の目をまっすぐ見つめ返した。
「坂口くんは、果穂が安楽死を選ぶことについてどう思ってる?」
その言葉に、僕の心臓が痛むように跳ねた。
「どうって……」僕は言葉を探しながら、必死に平静を装った。結論を意図的に避けていた自分に気付き、そのツケが今、回ってきたのだ。
僕は思わず拳を握り締め、「僕は果穂に死んでほしくありません」と質問に対してでなく、ただ果穂がいなくなることに対して言った。
果穂の父親は静かに頷いた。
「私も最初は同じ気持ちだったんだ」どうやら僕の言葉を額面通り受け取ったようだった。「できることなら果穂を助けたいと何度思ったか分からない。しかし、いくら受け入れ難くとも、現実問題として果穂の病が完治することはない。医者には治療したとして、精々、進行を遅らせるのが限度だと言われた」
現実の冷酷さが、僕の希望を押しつぶそうとしていた。
「体はとっくに限界を迎えているのに、機械を通して張りぼての生を得て。けれど、それは本当の意味で生きていると言えるのだろうか? 延命は、捉え方によっては苦しむ時間が増えるとも言える。体は動かず、人間としての尊厳すら保てなくなって。何の自由もなくなり、それでも死なずにいきることこそが地獄ではないだろうか」
このまま治療を続けていても、果穂の容態は確実に悪化していくだろう。その姿を見て、両親は更に心を痛めていく。想像が簡単にできるだけに僕はただ黙っていることしかできなかった。
彼は一瞬言葉を切り、深呼吸をした。「果穂を大切に思うからこそ、苦しんでいる姿を見るのは耐えられなかった」
僕は、果穂の父親の言葉一つ一つが重みを持って心に刺さるのを感じた。
「……お気持ちは分かります。でも本当にそれでいいんですか?」
果穂の父親は窓の外を見つめ、遠くを見るような目をした。
「先の見えない恐怖、徐々に迫りくる死はまだ高校生の果穂に絶望を与えるには十分すぎる理不尽だ。妻は生きていること自体に意味があるというが、体が動かなくなっていくその恐怖は、私には到底計り知れなかった。きっと真に理解できているのは果穂だけだろう。私は耐えがたい苦痛を避けることもまた、果穂の自由だと考える」
僕は突然湧き上がる怒りを抑えきれなかった。「そこまで分かっているのならどうして果穂や家族との対話を避けていたんですか?」
父親は僕の怒りに動じることなく、むしろ自己嫌悪の表情を浮かべた。
「私は果穂の選択を尊重する立場を取った。娘を救いたいという一心で心を病んでしまった妻の気持ちも痛いほど分かる。強く言えず、果穂の選択を尊重したい私と妻の食い違いで板挟みだ。加えて、果穂の治療費や看護で、病気が長期化すれば経済的に負担がかかる現実も無視できなかった。私は、父親として家族を支え、守る立場にある。ある種の冷酷さを持って接する必要があった」
果穂の父親はふっと顔を伏せた。
「そのはずだったんだけどな……」彼の声は、今にも折れそうな程弱々しかった。
「頭では理解していても、私も親という生き物らしい。娘の死という重すぎる現実に葛藤する日々だ。事実、私は果穂のために何もできていない。意思を大切にしたいと主張するばかりで、私自身はこれ以上ない程無力だ。私は自分の感情に答えを出せなかった」
父親は深くため息をつき、肩を落とした。
「幸い、金銭を稼ぐため仕事に没頭するという、おあつらえ向きな免罪符が私にはあった。何かが解決する訳でもないのに、全く愚かだよ。それが、家族との対話を避けていた理由だ」
理解はできても、納得できるかどうかは全くの別問題だった。
「坂口くんは、どうしてこの話を聞かせたのかと言ったね」彼は僕を見つめ返した。「実のところ、私にはもうどうしたらいいか分からないんだ」
その声には、藁にも縋るような絶望的な響きがあった。
「果穂が病のこれ以上の進行を恐れ、心から安楽死を望んでいるのであれば私はその選択を尊重できていただろう。しかし、それだけではない気がするんだ」
父親は窓際に立ち上がり、外の景色を眺めた。
「何か理由を抱えているはずなのに、それが学校での交友関係であるのか、纏まりきらない家族に対してなのか。はたまた世界そのものに絶望してしまったのか、見当もつかない」
彼は振り返り、僕を見つめた。「果穂は、聡明で思慮深く、現実的に物事を考えられる子だ。しかしそれ故に、自分で全てを抱え込む。だが決して強いわけではない。あの子が内に抱えている何か。私はその捌け口にはどうしてもなれなかった。情けないことに、私では理解してあげられないんだ」
彼の声は震え、目に涙が光っていた。
「本来であれば、こんな時こそ果穂のために一致団結して向き合わなければいけないはずなのに、私は未だ妻と足並みを揃えることすらままならない。親失格だよ」
僕は、父親の苦悩と自責の念を目の当たりにして、言葉を失った。しばらくの沈黙の後、僕は静かに尋ねた。
「どうして僕なんですか」
「実を言えば、この現状を変えてくれるのなら誰でも良かった。けれど、果穂は壁を作り自分の世界に閉じこもってしまっている。唯一その壁を取り払えるのは君だけだと思った。君は人に頼ることを嫌う果穂が、本当の意味で心を許した最初の人物だからね」
果穂にとって、自分は本当にそこまで大きい存在になれているのか。実際、僕も同じ質問をしたことがあったが全てを語ってくれた訳では無い。買い被りすぎだと思った。
僕のすべきことは何なのか。深呼吸して溢れ出す思考を整理した。
「僕も基本的には、お父さんと同じ意見です。けれど……安楽死の是非は僕には判断がつきません」
僕の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「長く一緒にいたい、一秒でも一緒に居たいというのはこれからも生き続ける人間のエゴのようにも思います。だから僕は、あくまで果穂が納得できる答えを探します。その選択が何であれ、最終的に決めるのは果穂だと思います」
果穂の父親は、安堵したような柔らかい笑みを浮かべた。
「私をお父さんと呼んだことはこの際、不問にしよう。私も同じ気持ちだ。果穂が後悔のない選択をできるならそれ以上の望みはない。そのためにできることがあれば、どんな協力も惜しまないと誓おう」
「……果穂は家族関係が悪化した原因を、私のせいだと言っていました。まずはその言葉を否定してあげてください」
「確かに、それは私にしかできないことだ。心得た」
何が果穂にとって最善の選択なのか、今の僕には見当もつかない。ただ、自分の人生に本当の意味で満足して死んでいく人は、そう多くないだろう。それでも、彼女には後悔を抱えたまま終わってほしくなかった。
*
僕の果穂に対する認識は、紆余曲折を経てようやく納得の行くものに固まった。果穂が納得できる最後を迎えられるよう寄り添うこと。その決意は僕の行動を大きく変えなかったが、心持ちを新たにした。
放課後は病室に通い、新しい小説を届けたり、絵を描く練習相手になった。休日は果穂の叶えられない願いを僕が代行した。ライオンを見たいと言えば動物園へ。砂浜に城を立てたいと言えば電車に飛び乗って海に向かった。僕がその様子をビデオ通話で細かく報告すると、果穂は楽しげに笑ってくれた。
他に変わったことと言えば、病室で度々果穂の母親を見るようになったことだろうか。以前は、何の手入れもされていない容姿に浮浪者のような印象を抱いたが、無造作に束ねられていた髪が、今は丁寧に整えられており、表情にも幾分か人間らしい柔らかさが戻っていた。僕のことを敵視しているのか、挨拶しても反応すらせずに無視されるが、化粧をした姿はかつての整然さを想像させ、果穂との血の繋がりを確かに感じさせた。
それが果穂の父親の奮闘故なのかは分からない。しかし、家族の絆が修復されつつあるのは素直に喜ばしいことだった。
僕は知らず知らずのうちに慢心していた。すべてが順調に進み、自分が頼られているという事実に酔いしれていたのかもしれない。だが、そんな状態が永遠に続くはずもなかった。
果穂の病状は着実に進行していった。全身の倦怠感からか徐々に動きが少なくなり、もともと細かった手足はさらに痩せ細り、筋力も低下していくようだった。かすれゆく声と失われていく明るさに、僕は胸を締め付けられる思いがしたが、それでも、果穂の生きる希望を絶やさぬよう懸命に通い続けた。
次第に、病院に足を運んでも果穂と会えない日が増え始めた。週に二回と言ったところだろうか。どうやら日によって体調の振れ幅が大きくなっているらしい。すっかり顔馴染みになった眼鏡の看護師に頭を下げ、重い足取りで病院を後にした。
自動ドアが開くと、張り上げるような怒声が耳に飛び込んできた。
「安楽死反対!」
復唱するように、「安楽死反対!」と複数の声が重なる。こんな場所でまでしなければならないことだろうか、と僕はうんざりするような気分と同時に、胸の奥に小さな痛みを感じた。
デモ隊の病院の前の歩道は、十数人のデモ参加者で埋め尽くされ、赤文字で強調されたプラカードがゆらゆらと揺れている。彼らの熱気は、僕の冷えた心に不快な温もりをもたらした。
病院側としては、表立って反対運動に抵抗することで、安楽死を推奨していると思われるのは印象が悪いらしく、害のない限りは放置する意向らしい。病院の前でこれだけ騒ぐのは既に迷惑でないのか、と思うが世の中そう単純でもないのだろう。何にでも噛み付く人種がいる以上、自己防衛も大事なのだ。
僕が横をすり抜けようとすると、白髪の老人がチラシを僕に押し付けてきた。彼の目はどこか狂信的に輝いていた。
「君、いつもこの病院に通っているよね? やめておきなさい。ここは安楽死制度なんて馬鹿げた施策を導入している施設だ」
僕のことを患者だと思っているのか。はたまた中の患者のことを嘲っているのか。どちらにしろ、いい気分でないのは確かだった。果穂の笑顔が脳裏をよぎり、思わず口を開いた。
「法律として整備されたのですから、導入されないことの方が問題なのでは?」
見ず知らずの人間に反論してしまったのは、僕が果穂のことを知っていたからだろうか。きっと知らずのうちに腹を立てたからに違いない。
老人は、反論されるのは予想外だったのか驚くような顔を浮かべたが、すぐに哀れみに変わった。
「若いから何も知らないんだろうね」侮るような苦笑にさらに反感が募る。「安楽死制度なんて、普通の人間が選ぶはずがないんだ。その裏には、何か国からの圧力があるに決まってる。私たちはそのために戦ってるんだよ」
自分はさも正しいと言わんばかりに、諭すような口調で老人は話す。正直、僕は今すぐその顔面を殴り倒してやりたかった。
僕は椎名さんの話を思い出していた。彼女は、専門の倫理委員会であるものの立場は常に中立だった。推奨している訳でもなく、生を美化する訳でもなく。ただ選択の一つとして道があることを教えてくれた。内情など何も知らない癖に、よくも反対運動なんてしていられるな、と彼らの評価がさらに下がる。きっとここにいる誰も、真に意味を理解してる人なんていないのだ。説明されても彼らは聞く耳すら持たないだろうと容易に想像がついた。
そうしてようやく納得が行った。
――そうか、病院は説明が解決にならないことに気付いて。だから彼らを放置することに決めたのだ。
途端に彼らが滑稽な存在に思えてきた。僕は、老人の差し出してきたチラシを乱暴に受け取り、その場を後にした。その姿が見えなくなった頃、ろくに内容に目も通さないまま、くしゃくしゃに丸めて道端に捨てた。
*
うだるような暑さがいつの間にか肌寒く感じられるようになった清々しい十月のある日。空は澄み切った青で、紅葉し始めた木々が風に揺れていた。僕は、地域のマラソン大会に出場していた。
会場となった公園の広場には、実に様々な人々が集まっていた。地元のスポーツクラブらしき子供たちや真剣な表情で準備をするアマチュアランナー、主婦やシニア層まで。幅広い年齢層の参加者がおり、大会というよりはお祭りのような賑わいで、空気は興奮と緊張感で満ちていた。
周囲の人は、それぞれのペースでストレッチをしたり、友人と談笑していたり。中には、水分補給に余念がない人や、最後のウォーミングアップに励む人の姿もあった。
とにかく、僕のようにスマートフォンを首から下げて独り言を喋る変わり者は他に存在しなかった。
「圧倒的に場違いな気がしないか?」
僕は小声で呟いた。首からチェーンで下げたスマートフォンが、僅かに揺れる。
『私の足なんですよね? 体力が尽きるまで走ってみたい、って願いにはこれ以上ないほどぴったりだと思いますけど』
まるで僕の苦労を笑うかのように、悪戯っぽい果穂の声が聞こえた。果穂は時々、僕への嫌がらせのようなことをするよな、と内心ため息をついた。
中学時代はテニス部だったが、高校に入ってからは運動とは無縁の生活を送っていた。毎日、病院と学校の往復で、体を動かす機会はめっきり減っていた。そんな僕が、地域交流イベントで十㎞マラソンに参加することになるとは。
果穂との出会いがなければ、僕はきっとこんな挑戦はしていなかっただろう。震える足を見ながら、「最後に全力で走ってみたかった」と言われれば断れるはずもなかった。
「あれ、坂口くん?」
右手側から、思わぬ声が掛けられた。驚いて視線を向けると、そこに立っていたのは群青のランニングウェアに身を包んだ佐藤さんだった。
「佐藤さん……?」
僕は何故彼女がここにいるのか分からず、かなりとぼけた声を出していたと思う。そのせいか、思わず首から下げているスマートフォンを手で隠そうとしてしまったほどだ。
「そうだよ。まさかこんなところで会うとはね」佐藤さんは、いつものように悩みなんて知らなそうな輝く笑顔を浮かべた。
「どうしてここに?」
「私は完全に趣味だよ。休日はたまにこうして体を動かしてるの。逆に、坂口くんが来てることの方が意外だったな。こういうの参加するんだ?」
もちろん、普段から参加している訳はない。けれど事情を一から説明するのは凄く骨が折れそうだった。
「いや、僕は……おつかいみたいなものかな」
「ふーん……?」
挙動不審に、この前と同じ返答をする僕を訝し気に眺めていたが、深く考えるのをやめたのか、再び笑顔を浮かべた。
「なんにせよ、お互い頑張ろうね!」
佐藤さんは手を振って人混みに消えていった。僕は嵐のような明るさに、しばらくその方向から目が離せなかった。
『お知り合いですか?』
スマートフォンから聞こえた冷ややかな声で意識が戻る。
「クラスメイトだよ」
『その割には、随分と親しそうでしたね』
果穂の声が、不機嫌そうに聞こえた。
「いつも一人でいる僕を哀れに思っているのか。たまに話しかけてくれるだけだ」
『そうなんですね』
言葉では認めても、全く信じていないのが伝わってきた。もしかして果穂はやきもちを妬いているのだろうか。なんだ、人間らしく可愛いところもあるじゃないか。
『こんなことなら、年齢を偽ってでもフルマラソンを走らせるべきでした』
高校生であることを理由に出場できなかった距離を持ち出して、果穂はぼそっと呟いた。おいおい、勘弁してくれよと僕は思った。
スタートラインに立つと、地元のボランティアや応援団が太鼓やホイッスルで盛り上げ、観客も沿道で応援の声を送っていた。大会のアナウンスが響き、いよいよ始まるか、と周囲の期待も高まっていく。僕は人波に流されるまま、先頭集団少し後ろで深呼吸した。
周りを見渡すと、様々な人の中に佐藤さんの姿も見つけた。茶色がかった髪が肩の上でゆらゆらと揺れ、いかにも健康的で活発な印象を与えていた。こちらに気付く前に、僕はそっと目を逸らした。
程なくして開始のホイッスルが鳴り、僕は周囲に同調するようにゆっくりと足を踏み出した。
時に、運動不足の人間がいきなり走ることになった場合どれぐらいの距離走り続けられると思うだろうか。いくら体力が落ちていようがペースさえ落とせば十㎞程度は余裕だと思うだろうか? 実際、僕にはそうした油断があった。
しかし、知らぬ間に僕の体はかつての動きと体力を失っていたらしい。一㎞はおろか、ほんの数百メートル進むころには足に違和感を覚え始めたが、それでも走れないという訳ではない。僕は隣を並走する小学生に追い抜かれぬよう、ほんの少し足を速めた。
給水地点は三㎞置きにあるらしく、二つ目の給水地点に着いた時、僕は文字通り瀕死であった。小学生はとうの昔に涼し気な顔で僕を置いていき、いつの間にか七十を超えそうな男性と互角のデッドヒートを繰り広げていた。
正直、今すぐにでも寝転んでしまいたかったが、そうしてしまったら最後、もう起き上がれなくなってしまう気がした。立った状態でなんとか荒い呼吸を整える。足がまるで鉛のように重く、アスファルトはまるで磁石のようだった。
話す余裕なんて、一ミリたりともなかった。ただ、それでも走り続けられたのは果穂が見てくれているという、確信にも似た信頼があったからだろうか。
僕にとって、十㎞というのは余りにも高い壁だったということに、今更ながら気付いた。どうにかなるだろうなんて甘い考えがあったことは否定できない。
「無理だけはしちゃだめだよ」
声の方向に顔を向けると、佐藤さんがいた。額には汗が浮かんでいたけれど、話しかける余裕がある分、彼女にはまだ余力が残されているのが分かった。
もう既に心は折れかかっていたし、僕の体はとっくに限界を迎えていた。体は燃えるように熱いのに、口から吸いこむ空気は酷く冷たい。息をいくら吸っても苦しくて、空気が薄いような息苦しさを感じる。唾液は血のような味がした。
あと十秒このまま走ったら、死ぬ。誇張抜きにそう思った。
その後どうなったのかを正直よく覚えていない。何度か意識を失いかけていたし、吐き気もあった。それでも、永遠に続くかと思っていた地獄でゴールテープが目の前に迫っているのを見て、僕は存在しない残りわずかな力を振り絞った、ような気がした。
僕は、ズボンが汚れるのも気にせず、芝生に半ば倒れるように座り込んだ。僕は、どうやら十㎞の道のりを完走しきったらしい。目を閉じ、棒のようになった足を投げ出して、噛み締めるように呼吸を繰り返すと激しい疲労が押し寄せてきた。
ようやく心臓の動悸が収まりはじめ、体があげる悲鳴を正しく認識できるようになってきた頃。僕の側に誰かが座る気配がした。
目を開けると、膝を抱えて僕の顔を覗き込む佐藤さんがいた。僕には、驚く力すら残っていなかった。
「正直、坂口くんが走りきれるとは思ってなかったよ。きつかったでしょ?」
僕は首だけで頷く。
「はい、これ。参加賞だってさ」
佐藤さんが水の入ったペットボトルを差し出してくれる。今の僕には、これ以上ない程嬉しい景品だった。
冷たい水が全身に染み渡る。満足いくまで飲んで、深く息を吐きだすと、ようやく普段の冷静さが戻ってきたようだった。
「途中、死にそうな顔をしてた時はさ。やっぱり無茶だ、無理しないでって思ったの」僕が晒していた醜態を一刻も早く忘れて欲しかった。けれど、佐藤さんの顔は真剣だった。
「でも違った。坂口くんは最後までやり切ったんだよ、私はそれを尊敬する」佐藤さんの表情は笑顔だったが、いつもより更に慈悲に満ちているようなものだった。
『……』
果穂が何か口を挟むのではないかと思ったが、沈黙を貫いていた。
「何が坂口くんをそうさせたの?」佐藤さんが尋ねた。
「……正直、僕一人であれば辞めようと投げ出す機会はいくらでもあった。そもそも参加すらしてなかっただろうし」それは紛れもない本心だった。
「それでも、僕が限界を超えて最後まで走れた理由は、自分のためじゃなかったからだと思う。僕は、自分自身に何の期待もできないんだ。この上なく、どうしようもない人間で世界一自堕落であることを知ってる。けど僕が今回走ったのは自分のためじゃない。走る価値があると思える人のため。それがきっと僕が折れなかった理由なんだ」
「きっと、おつかいって言葉に関係してるんだろうね」佐藤さんは寂し気に笑った。「でも、それこそが成長の証だと思う。自分以外の誰かのために頑張れるようになったってことだからね」
佐藤さんは立ち上がり、ズボンに付いた草を払う。
「私は坂口くんのことどうしようもない人間だとは思ってないよ。お疲れ様」彼女はそう言い残して、僕の前から去っていた。
佐藤さんと会話していたことについて、果穂から何か嫌味を言われそうだなと思った。しかし、予想に反して果穂の声は柔らかかった。
『涼くんがマラソンを走るような性格でないのは知っています。そしてそれが私のためだということも』珍しくしおらしい態度だった。『彼女との会話のことは……今日は不問にしてあげます。本当にありがとうございました』
果穂の声は、照れているのか不機嫌なのか。どちらにも取れそうなものだった。
僕は、全力で体を動かした先でしか得られぬ達成感を胸に、今度は完全に芝生に寝っ転がった。もう一ミリたりとも動きたくなかった。
*
「そろそろ本格的にやることもなくなってきましたね」
果穂は、お見舞いに来た僕にスケッチブックを手渡した。そこに描かれていたのは病院の窓から見える街並みで、空が青く、遠くに小さな鳥の群れが飛んでいることから昼だと分かった。
「驚いた。どんどん上達してるな」僕は感心しながらページをめくる。日を追うごとに色使いが鮮明になっていっているのが分かった。
「私は一人で出歩ける訳じゃないので、必然的にこの病室にいることになります。それが想像以上に退屈なんですよ。やることと言えば、読書にそれぐらいのものです」果穂は窓の外を見やりながら言った。
相変わらず落書きのような僕と対照的に、果穂の絵は画家とは言わぬまでも、作品と呼ぶことができなくもない出来になっていた。色使いも繊細で、空気感まで伝わってくるようだ。
「褒められ慣れているつもりでしたけど、描いた絵を認められるのは気分がいいですね」
僕の言葉に、果穂は得意げな表情を浮かべた。頬がわずかに赤らんでいる。
「感覚としては、好きな小説や音楽をセンスがいいと言われるのに似ているでしょうか」
「それは……違うんじゃないのか? その場合、凄いのは作者であって自分じゃない。僕は果穂の絵の才能を褒めてるんだ」
「いいえ、同じですよ」と果穂は首を振った。
「多種多様な選択肢があり正解がない分野において、私たちは試されるんです。さぁ、あなたは一体どんな価値観を持っているんだい? って。見てきた景色、関わってきた人。いかに豊かな人生を送ってきたかを問われるんです。作者の感性が素晴らしいのはもちろんですが、その良さを感じることができる価値観、ひいては自分自身という人間まで認められるのと同義だと思うんです」
果穂の言葉は妙に説得力があった。
「実際、私も人に飢えていたってことですかね。もっと褒めてくれてもいいんですよ」
そう言って、鼻歌を口ずさみながら上機嫌に色鉛筆を回していた果穂の手から、色鉛筆がぽろりと落下した。僕の視線は、落ちていく色鉛筆を実に鮮明に捉えていて、まるでスローモーションのように地面に着く瞬間までがはっきり見えた。先端の折れる様子をみて、「あぁまた研がないといけない」なんて些細な思考まで浮かんだ。
屈んで拾い上げた時、耳に入ったのは果穂のうめくような声だった。その声は、病室の静寂を破る、痛ましい音だった。
「果穂?」
慌てて視線を向ければ、果穂が胸を抑えているのが分かった。苦痛に顔は歪んでいて、白い病院のシーツの上で、まるで折れた人形のように見える。
助けを呼ぶこともままならないようだった。僕はすっかり気が動転してしまい、頭の中が真っ白になった。
すぐに誰かを呼ぶべきだったのだけど、慌てた僕は意味もなく立ち上がって呆然とした。足が震え、どうしていいか分からない。パニックに陥った脳が、正常な判断を阻害していた。
苦し気な果穂が、震える手でナースコールに手を伸ばそうとしているのを見て、遅れて僕のすべきことに気が付いた。ナースコールを押し、出せる限りの大声をあげる。
「誰か、お医者さんを呼んでください!」
冷や汗が背中を伝い、声が震えているのが自分でも分かった。僕にできるのは、果穂の背中をさすることだけだった。その間も、果穂の苦しそうな呼吸が部屋に響き渡る。
数十秒経っただろうか。それは永遠のように感じられる時間だった。飛び込んできた看護師によって、僕はあっという間に部屋から追い出され、面会謝絶の札がかけられる。まるで部外者だとでも言うように。扉が閉まる音と共に、僕は完全に遮断された。
病室の前でしゃがみ込んでいると、バタバタと足音を立て果穂の両親も駆け付けた。一瞬、僕のことを横目で見たが、構うことなく室内へと消えていく。僕は完全に蚊帳の外だった。その事実が、更に胸を締め付けた。
「今日はもう話せないと思いますよ」
ふと、俯いている僕に耳慣れぬ声が掛けられた。顔を上げると眼鏡の看護師さんで、僕に同情しているような目だった。
「……果穂はどうなんですか」僕の声は掠れていた。
「発作のようなもので、大事には至ってません。次も何事もないとは限りませんが……」
彼女の言葉の裏に、果穂の病状が芳しいものではないという事実が透けて見えた。
「会えなくてもいいんです。放っておいて下さい」
看護師は困ったような表情を浮かべたが、それ以上話しかけては来なかった。静かに立ち去っていく足音が、更に心に影を落とした。
別に何かを考えていたわけじゃない。ただ、何もしていないという訳じゃないということを示したかったのかもしれない。僕は廊下の壁にもたれかかって俯いていた。時計の針の動きも、廊下を行き交う人々の足音も、すべてが遠く感じられた。
数分か数十分だったか、ともかくいくらか経った頃。突然、病室の扉が開いた音が耳に響いた。
果穂の両親かと思ったが、出てきたのは、白髪交じりの医者だった。なぜ医者だと分かったのかと言えば、くたびれた細身の体にぴったりとフィットした白衣を纏っていたから。医者と言われて想像する容姿にぴったりだった。
「君は……坂口くんだったかな。心配せずとももう大丈夫だよ」
「どうして僕の名前を知ってるんですか?」
医者の言葉を無視して僕は尋ねて、自分の声が、少し攻撃的に聞こえたことに気づいた。
「すまない、私が一方的に知っているだけだ。私は果穂くんの主治医をしている柏木という」僕は、いつだったか果穂にそんな名前の先生がいることを聞いた気がした。記憶の片隅で、その名前が微かに反響する。
「待っていても今日はもう目を覚まさないと思う。そういう薬を投与したからね」
「僕はただこうしていたいだけなんです」口にして、まるで子供だなと自嘲する。けれど、柏木さんから見れば僕は本当に子供のようなものだろう。
「……そうか。それもまた一つの選択なのかもしれないな。誰かの邪魔にならないならば文句はない」柏木さんの目は、どこか遠いものを見ているようだった。
踵を返し去っていく柏木さんにふと疑問が湧いた。その疑問は、僕の中でずっとくすぶっていたものだった。
「柏木さんは、果穂が安楽死を選んだことをどう思ってるんですか?」
足を止めた柏木さんの表情は、少し強張っていた。
「……随分と唐突だね。あいにく、立場上軽々しく話せる内容ではないよ」
「別にいいでしょう、良くも悪くも僕は部外者です。誰にも話しませんし、トイレの落書きのようなものだと思ってください」
「信頼できるという根拠は?」
「ありません。ただ僕は知りたいだけなんです」気の毒だと思ったのか、柏木さんは深い溜息をついた。
「それは医者としての見解かな。はたまた、私個人の感想を聞きたいのだろうか」
「どちらもです。医者であると同時に柏木さんは一人の人間です。医者という目線を持つ柏木さんの考えを聞きたい」
「随分と無理難題を言うね君は」柏木さんは苦笑する。その表情には、何か諦めたようなものが見えた。
「その問いは、本当に難しいと言わざるを得ない。医者という職業の本質は、病を治すことによって人を救う事だと私は思うんだ。自分の仕事によって笑顔になる人がいるから頑張れます、なんてことを言う人がいるが私なんかはその最たる例だ。医者は手術に成功した声しか聞かないからね。たとえ取り返しのつかないミスをしても、その時点で患者さんはもう死んでいる。本人に責められることはないんだ」
柏木さんの言葉には、長年の経験から来る重みがあった。
「少し話が逸れたね」柏木さんは、自分の言葉を振り返るように少し間を置いた。「要するに、人を救うことが医者の役目なんだ。そういう意味では、安楽死制度も絶対に否定はできないと私は思っている。もちろん、救える命は全て救うべきだしそうありたいと願っている。だが、現代の医学ではどうしようもない病というのも珍しくはないんだよ。患者さんの立場になって考えた時に、延命治療と、それによって本来味わうはずのなかった苦痛をどのように捉えるだろうか。世界に何の希望も持てなくなった時、自らの選択の一つとして、僕はありだと考える」
柏木さんの言葉には、深い葛藤と思索の跡が感じられた。
「医者でもそう思うんですね」
「医者だからこそ……かな。自分の無力さであるとか、限界を誰よりも分かっているのさ。私は、果穂くんの選択を逃げだとは思わない。見ようによっては救いだと思う。でもきっと、それを判断するのは私じゃないんだ」
話過ぎたね、と言って柏木さんはかぶりを振った。「このことは他言無用で頼むよ。この病院には、愛着があるんだ」
すっかり毒気が抜かれた僕は、大人しく帰路についた。廊下を歩きながら、果穂のこと、柏木さんの言葉、そして自分の無力さがどうしようもなく頭を埋めていた。