思えば僕は、周囲からの評価を人一倍気にしているような子供だった。月乃は、病弱で他の子どものように外で元気に遊ぶことができず、いつも大人がつきっきりで室内生活。分かりやすい特別扱い。当然、周囲と馴染めず孤立しているのをいつも見ていた。だからこそ僕は、人と違うことに何か置いて行かれているような疎外感を感じて、特別にならぬよう周囲と同調することに神経を注ぐようになった。
 『出る杭は打たれる』。この言葉が、子供ながらに脳裏に染み付き、自分が優れている、劣っているに関わらず僕は一貫して目立たぬように振舞った。敵を作らず、諍いが起きぬよう無難に立ち回るようになった。
 しかし、上手くやれていると思っていたのは僕だけで、実際の所、薄汚い保身の考えは見抜かれていたのだろう。結局のところ月乃が死んだのは唯のきっかけに過ぎず、遅かれ早かれ僕は今と同じ状況に陥っていた気がした。
 
 「それで僕は結局、何をしたらいいんだ?」
 「まずは何から行きましょうか」
 僕らは、再び屋上にいた。ベンチに座る僕の横では、果穂が涼し気な表情でメモ帳をめくっている。
 一応は仲間だと認識してくれたのかあからさまに会話を拒もうとはしていないようだった。
 余命に迫られた患者が最後にやり残したことのリストを作るなんていうドラマか小説だかを見たことがあったが、本当に実在するんだなと興味が湧いた。
 「そこに、未練が書いてあるのか?」
 「そうです。と言っても作ったばかりなのでまだ大した内容は書いていないんですけど」
 果穂は、「見せませんよ」とわざとらしくメモ帳を胸に抱えてじっとりとした視線を向ける。僕だって、流石に内容を見せて欲しいなんて思っていなかった。きっとプライバシーの塊のようなものだろう。
 「やっぱり、そういうのって作りたくなるものなのか?」
 果穂は少し考えるように首を捻ったが、すぐに頷いた。
 「これはたとえ話ですけど、人生を一つの物語として考えたとするじゃないですか。そしたらきっと、私の人生は他の人より短い短編小説みたいなものだと思うんです。それはもうどうしようもない事実であって。でも、ページ数が少なくても私は自分の話をベストセラーにしたいんです。――つまりは、濃い内容にしたいってことですね」
 果穂の考えは、実に達観していた。余命宣告されている人間の死生観だと思うと、その重みも納得だった。僕の中での果穂の評価が数個上がった。
 「そんなこと考えてたんだな」
 「実際は、柏木(かしわぎ)先生に言われたからなんですけどね」果穂はあっけらかんと言って、「柏木先生っていうのは私の主治医の先生で」と付け足した。
 せっかく上がった評価は、一瞬で元に戻った。こうして話している間は、果穂が病人で余命宣告までされているなんて想像もできなかった。
 「死にたいのなら、涼くんも作ってみてはどうですか?」
 「僕も?」
 「意外と楽しいですよ。宝くじに当たったらどうするか考えている時みたいで」
 それはまるで、現実にならないことだと言っているようで反応に困る。果穂は、僕の困る様子を見て悪戯な顔で笑っていた。
 「僕にそんな大したものはないから」
 「難しく考えなくていいんですよ。明日やってみたいことでも、叶うか分からないような夢物語だって」果穂はメモ帳に何かを書き込んでいる。
 「だって、死んだら何もできなくなるんですよ? 私には時間がないんです」
 その言葉には、目の前の少女が発したとは思えないほど深い重みがあった。時間がない、と口にした果穂のメモ帳には一体何が書かれているのだろう。若くして大病を患った果穂が感じているものが気になった。
 果穂の言葉に、僕は観念して鞄からノートを取り出す。そんなこと言われたら断るなんてできないじゃないかと心の中でぼやいた。
 「あんまり期待しないでくれよ」
 「最初から期待してませんよ」
 果穂の軽口を受け流し、ノートを見つめ、ペンを握りしめた。
 やりたいこと? はたして僕にそんなものがあったろうか。日々を何となく過ごしてきた自分に、突然の問いかけだった。
 友達と遊ぶこと? でも、最近は誰とも親しくない。
 勉強で良い成績を取ること? でも、それが何になる?
 いざ考えてみると、僕が普段何も考えていないことを思い知った。
 ・お金に糸目をつけず豪遊する。
 ・海外へ旅行する。
 ・親孝行をする。
 ・欲を我慢しない。
 ・遺言を残す。
 いくつか書いてみたが、どれもしっくり来ない。まるで、僕でない誰かが死ぬ前に書いていそうなことを並べただけのように思えた。
 頭の中を巡る思考の中で、ふとあの光景が浮かんだ。
 意識を呼び戻したのは果穂の言葉だった。
 「今日はこれにしましょうか。予定は空いてますか?」
 果穂の声に、難しく考えていたのが馬鹿らしくなった。真っ白のノートに殴り書きのように書いて、見られぬようノートを閉じた。
 書いたのは僕のすべてだった。
 
 『月乃の記憶を取り戻す』
 
 *

 僕は、どんな難題を言われるのかと身構えていた。
 例えば、初恋の人に会いに行きたいだとか、これを成し遂げたら死んでもいいと思えるような願い。僕にどのレベルの『お願い』をするつもりなのか素直に緊張していた。そのはずだったのに。
 僕らは、何故か駅前の瀟洒なカフェに来ていた。清潔感のある白やクリーム色の壁と木目調の床。アクセントとなる観葉植物が壁やカウンターに設置されており、店内には甘ったるい匂いが漂っていた。確か、開店して間もなかったはずだ。店内にはカップルや女性客が溢れかえり、それも比較的年齢層が若いように思えた。
 制服の男女という組み合わせは違和感なく溶け込んでいたが、明らかに僕は場違いだろう、と思った。
 「お待たせしました~天使の微笑みパフェです」
 にこやかな表情の店員が、僕らの前に特大のパフェを置いた。
 クリアなパフェグラスに、クリーミーなバニラアイスやホイップクリーム。白桃や洋梨の白いフルーツと、天使の頬の赤みを思わせるようなラスベリーソース。それらをまとめるように、天使の形をした砂糖の飾りが中央に鎮座していた。なるほど、これは確かに天使の微笑みパフェと名付けるのに相応しい。
 「これは……可愛いですね」
 果穂が夢中になって写真を撮るのも頷ける完成度だった。これが映えというやつなのだろうか、と僕も納得する。
 「で、これどうするんだ?」僕は、精一杯感じ良く問いかけた。
 何故こんな質問をしたかと言えば、サイズがおかしかったからだ。僕の顔までの高さがあるパフェは、どう考えても二、三人用に思えた。それだけならまだいい。僕が知らないだけで果穂が凄い大食いの可能性だってあったから。しかし、果穂は写真を撮ってばかりで食べ始めるそぶりすら見せようとしなかった。
 果穂は、僕の質問に何を言っているのか分からないというように、不思議そうな表情を浮かべる。
 「分からないんですか?」そんなことを言われても、分かる訳がなかった。
 「果穂が頼んだんじゃないのか?」
 僕の疑問に果穂は、そこからですか、とでも言うようにため息をついて。わざとらしく笑顔を浮かべた。その笑顔は、まるで天使の微笑みのようだと思った。
 「食べてください」
 嫌な予感がした。そして、こういう勘はよく当たる。何を言っているのか分からない僕に、何故か果穂まで不思議そうな顔を浮かべる。いつの間にか、僕の隣にはスイーツ好きの女子高生が座っていたのだろうか。しかし、横を確認しても誰もいなかった。
 「あれ、伝わりませんでしたか? 食べてください」果穂の瞳は真っ直ぐ僕を捉えていた。
 「……一応聞くけど。誰に言ってる?」
 「涼くん以外、この場に誰がいるんですか」
 最後の希望である見えない友人説もあっけなく否定され、嫌な予感は確信へと変わった。
 「待ってくれ……本当に僕が食べるのか?」
 「そうですよ? 私、別に甘い物好きじゃないですし」
 果穂は、まるでそれが当たり前だと言うように言ってのける。
 「いやいやいや……果穂が食べたいって言ったから付いて来たんだけど?」
 僕はこの場の空気が苦手だった。普段なら、店内の様子すら伺おうとせず素通りしていただろう。こうしている今も、周りの客からは場違いだと笑われているような気がした。けれど果穂は、指を左右に振りながらチッチッと舌打ちのような音を立てた。
 「違いますよ、よく思い出してください。私は『食べたい』ではなくて、ここに『行きたい』と言ったんです」
 言われて思い返してみれば、確かに果穂はここに着くまでの間、一度も食べたいとは口にしていなかった。
 「食べないならなんで来たんだよ」
 「普通の女子高生らしいことをしてみたかったからですよ」果穂は僕に撮った写真を見せながら、「ここ、今凄い話題なんですよ」と言った。
 僕は、そんなの詐欺だろ、と心の中で呟いた。
 「じゃあ、どうして僕を連れて来たんだ……?」
 「ちゃんと食べないとお店の人に失礼じゃないですか」
 要するに、僕はパフェの処理係ということだった。
 大きくため息をつき目の前のパフェを見る。どう考えても僕一人の手に負えるものではなく、明らかに不向きな人選に果穂を恨んだ。
 あからさまに気分の下がった僕を見た果穂は、流石に何か思う所があったらしい。頭を悩ませた後に何かを思いつき、それじゃあ、と手を打った。
 「これ全部食べ切れたら、ご褒美でもあげましょうか。内容はそうですね……今日の写真を送ってあげる、でどうでしょうか」
 「……それのどこに僕が頑張る要素あるんだよ」
 「本当にいらないんですか?」
 含みのある果穂の発言に僕は戸惑った。どうやって撮った写真を送るのかと考えて、僕は言葉の意味を思い至った。
 「頑張ってくださいね」
 果穂の語尾には、きっと文字にしたらハートマークがついていて。けれど、どこまでも他人事だった。

 一時間後、僕はようやくこの天使の微笑みパフェというカロリー爆弾を完食していた。
 周囲からは、驚く声と控えめな拍手が送られていた。どうして僕がこんなことで注目を浴びなければいけないのだろうと、頭を抱える。
 見た目に特化しているように見えたパフェは、実際、味も美味しくて話題になる理由も理解できた。が、それは常識的な範囲で食べた場合だ。後半なんて、もう何の甘味も感じなかった。当の果穂はと言えば、格闘している僕から、「手伝ってあげますよ」と最後に食べようと残していたフルーツだけを勝手に奪っていった。血も涙もない、極悪非道にも程がある。
 「まさか本当に一人で食べきるとは……」
 完食して腹を抱えた僕を見て果穂は引いていた。自分がやれと言ったくせにそれが頑張った人間に対する言葉だろうか。僕は吐きそうだった。もう一年は甘い物なんていらないと決意する。
 「大丈夫ですか?」果穂は、呆れたように水を差しだしてくれた。
 「大丈夫……胃の中で大量の砂糖が暴れまわってるだけ……」
 果穂の表情は天使の微笑みだったかもしれないが、今の僕の体は悪魔の拷問を受けているようだった。
 「そんなことより、約束守ってくれるんだよな……」
 水で口内に残った甘い余韻を洗い流し、果穂に約束の履行を求める。僕がここまで頑張った理由。それは、写真を送るという言葉に、遠回しに連絡先の交換という意味が含まれていることに気付いたからだった。
 そう言うと、僕が果穂の連絡先を無理をしてまで欲していると思われるかもしれない。だが、決してそうではなく、果穂が困った時に連絡を取れる相手がいなのではないかと思っただけだ。他に頼れる人がいないのであれば、誰かが支えにならなくてはならない。これは仕方ないことなんだ、と自分に言い聞かせた。
 「本当に気持ち悪いですね……自分の発言を後悔しそうです」
 あんまりな言われように、流石の僕も心が折れそうになる。いないものとして扱われることはあっても、直接的な罵倒に耐性がある訳ではなかった。
 結局、果穂は、軽蔑しながらも僕と連絡先を交換してくれた。
 「そこまでしなくても、不便なので連絡手段ぐらいいいですよ」
 そう言って口元を軽く歪めた果穂に、僕との距離感を保ちつつも、僅かな信頼が垣間見えたようで嬉しかった。この気持ち悪さと引き換えに得たものが、連絡先一つ。でも、僕にはそれだけで報酬として十分だった。
 果穂から、思い出したくもない特大のパフェや僕のげんなりとした顔が送られてきた。改めて見ると、顔はパフェで膨れ上がり、目は半開きで酷い顔だ。僕は周囲からこんな風に見えているのだと思えば、無条件で気持ちが萎えていくようだった。
 そうして、僕だけ撮られてるなんて不公平だよな、と思いスマホを構えた。
 「果穂、こっち向いて」
 僕の声に顔を上げて、どうしたんですか? とでも言いたげな果穂の顔を写真に収めた。
 何が起こったのか分からず呆然としたのは一瞬で、果穂はすぐに、驚いたように顔を赤らめた。
 「今、もしかして撮りましたか?」
 「僕ばっかり撮られてるのは不公平だと思って」
 「女の子をいきなり撮るなんてありえません、消してください。――いや、せめて見せてください!」
 「大丈夫、変な顔なんかしてないって」
 慌てたように僕の手からスマホを奪おうとする果穂がおかしくて、僕は自然に笑っていた。
 果穂は怒っていたけれど、その写真には、不意を突かれた瞬間の彼女がまるで時間を封じ込めたように写っていた。風で揺れる髪の一筋さえも静止し、彼女の瞳にはどこか遠くを見つめるような儚さが漂っていた。その表情は、偶然の産物とは思えないほど完璧で、まるで絵画の一枚に仕上がっていた。

 *
 
 どうやら果穂は、自分の病気のことを一部の先生たち以外には隠しているらしかった。ほとんど無症状であるため、薬さえあれば学校生活に大きな支障はないのだと言う。けれど果穂は。時々急に息を切らせたり、顔色が悪くなったりした。僕はそれに気づきつつも、あえて聞かずにいた。
 そんな訳で、僕らが会うのはいつも放課後だった。
 「公園に行きましょう。ブランコに乗りたいんです」いつものように淡々と果穂が言った。
 「ブランコ?」僕は少し驚いて聞き返した。
 「そう、ブランコです。小さい頃からずっと好きだったんです。でも最近は……色々あって乗れてなくて。今日は気分がいいから、久しぶりに思い切り空を飛びたいんです」
 僕はあれからいくつか果穂の未練を聞いてきたが、その内容はどれも想像していたものよりずっと軽かった。
 例えば好きな作家の新作を買いに行きたいとか、裏道にいる猫を探してみたいだとか。本当にこれが死ぬまでにやりたい未練なのかと疑うようなものまであった。果穂にそのことを尋ねると、彼女はしたり顔を浮かべた。
 「仮に一年後自分が死ぬと分かって。明日、何をしますか? 特別なことに手を出したいと思いますか?」
 果穂の質問に僕は月乃のことを思い浮かべた。月乃は何かに挑戦しようとしていただろうか。考えたが、あいにく僕は月乃のことをほとんど知らなかった。
 「突然そんなことを言われても信じられないな。というより、受け入れられないと思う。何だかんだでいつも通りの日常を送るんじゃないか」
 僕の答えに、果穂は頷いた。
 「私もそう思います。実際、もうすぐ死ぬと分かっていても案外人って変わらないものですよ。特別なことをすると自分が普通でないと認めている気がしませんか?」
 果穂は「ソースは私」と呟いた。確かに、僕が実際その立場に置かれたとしても、精々、普段思いつく願望を後回ししない様になる程度だろう。どうせ死ぬと分かっていれば、大抵のことは意味を見出すことすら難しい。新しいことを始める気力が湧くとも思えなかった。
 「人生をベストセラーにするのはどうしたんだよ」
 「それはそれです。それに、私みたいな女子高生が平凡な日常生活を送っているだけでも絵になると思いませんか」
 果穂は、錆びついたチェーンのブランコを不快な音で軋ませながら漕いでいた。
 自分で絵になるなんていうと台無しだけどな、という言葉を飲みこんで僕もブランコを漕ぐ。勢いをつけて少し高く漕ぎあげると周囲の景色がよく見えた。
 仕事帰りのサラリーマンや、ベンチに座って本を読んでいる学生、ジョギングをしている老人がいたり。遠くで聞こえる子供たちの笑い声や犬の吠える音。公園は、平和そのものだった。いつの間にか忘れてしまっていたものを思い出しているかのような懐かしい感傷が胸を埋めた。
 「もうすぐ夏になりますね」
 果穂もこの雰囲気を懐かしんでいるようにゆったりと言った。その言葉に、僕はうろ覚えの知識を思い出した。
 「知ってるか? 実は夏はとっくに始まってるらしい」
 「確かに暑いですけど……まだ六月ですよね。今からが夏本番じゃないんですか?」
 記憶が正しければ、と前置きして古い記憶を引っ張り出した。
 「気象庁的には立夏が夏の始まりで、それが五月上旬なんだ。だから、夏が終わるのも実際は八月頃らしい」
 「思ったより時間がないんですね。じゃあ、早めに夏らしいことを終わらせておかないと」
 果穂は噛み締めるように、ブランコをゆっくりと漕いでいた。その姿は、夏の陽気に溶け込んでいくようだった。
 「例えば……夏祭りとか?」普段は果穂の未練を聞いて実行するだけだったが、珍しく僕の提案に、果穂の顔がぱっと明るくなった。
 「夏祭り。それいいですね、たまにはいいこと言うじゃないですか。りんご飴やヨーヨー釣り。あ、花火なんかもいいですね」
 噛み締めるように、無邪気に夏の楽しみを語る果穂の声には、純粋な喜びが溢れていた。
 言葉にしなかっただけで、月乃にもこんな普通の願いがあったのだろうか、と思った。何を考えているのか分からない無表情の裏に、本当はどんな感情があったのかが今更気になった。

 「あのさ、果穂。友達じゃなくて、僕なんかと過ごしていいのか?」
 果穂との関係が深まるにつれ、この疑問が心の中で大きくなっていた。僕は躊躇いながらも、気になっていた質問を口にした。
 「何ですか。今更めんどくさくなりましたか?」果穂は眉をひそめ、少し困ったような表情を浮かべた。
 「違う、そうじゃなくて」僕は慌てて訂正する。「果穂から、学校生活や友達のことをほとんど聞いたことがなかったから。もっと良い時間の使い方があるんじゃないかと思ってさ」
 「私に友達なんていませんよ」果穂は寂し気な笑顔を浮かべた。「学校では、みんなと自然に話したりもするんです。でも、本当の意味での友達……それはちょっと違いますね」
 「……それは病気のせい?」
 「どうなんでしょうね。別に人付き合いが不自由だったわけじゃないんです。むしろ得意とまで思っていたぐらい。病気のせいと言えばそうかもしれないけれど、人と関わることを避けるようになったのは私の選択でもあるんです」
 果穂は深いため息をついてから、自嘲気味に笑った。
 「病気が分かってから、遠くない未来に死ぬことが確定しているのに、これ以上交友関係を広げてどうなるんだろうって考えるようになって。私は上手く友達が作れなくなってしまいました」
 いつの間にか、僕のブランコを漕ぐ手は止まっていて、果穂から目が離せなかった。
 彼女の横顔を見つめながら、僕は自分の過去を重ね合わせていた。僕が周囲を拒むようになった原因は病気ではなく、妹の月乃の死がきっかけだった。
 あの日から、僕の世界は一変した。妬ましく思っていたはずなのに、毎朝目覚めるたびに、言葉にできぬ焦燥感と虚無感が僕を覆い、周囲の人々の声が遠くなっていった。あの頃の僕は、世界で一番不幸だ、何も面白くない、楽しくない。それだけが頭を埋めていて、友達の慰めの言葉も両親の心配そうな眼差しも、全てが重荷に感じられた。本当に大切なものは無くなってしまってから気付くなんていうけれど、自分にとっての月乃という存在を正しく認識できていなかったようだった。
 僕は以前の自分を思い出せなくなってしまっていた。
 「だけど、変わったのは私自身なんです。どんな理由であれ、私自身の変化を全部病気のせいだとそこに原因を求めるのは違うと思いませんか? 結局は心の持ちよう、私の気持ちの問題です。――馬鹿みたいですよね」
 その言葉に、僕ははっとした。それは僕にはできなかったことだった。
 僕は周囲と関わることを諦めていた。一生このままなんだろう、なんていう漠然とした未来図が浮かんでいたし、変えようともしていなかった。僕はそれを周囲の人間のせいであり、世界のせい、神のせいだと思っていたけれど果穂は違う。病気という、自然災害のような自分に一切の非がない運命すらも受け入れ、自分の責任だと考えているのだ。いくらでも上手くいかない、頑張らないことへの言い訳はできるはずなのにそうしていないのが信じられなかった。
 馬鹿みたいだと自分を貶す果穂を笑うなんて、僕にできるはずがなかった。
 「果穂は強いよ」僕は思わず口にした。「そんな考え、僕にはなかった。僕ならきっと周囲の全てを憎む。憎み、恨んで、呪って。……そして最後には諦める」
 果穂の考え方は凄く立派だと思ったけれど、一方で、そんな孤独の世界で生きていることにも悲しくなった。
 ブランコの軋む音が止んで、果穂のまっすぐでビー玉みたいな瞳が僕をじっと見つめていた。
 「……私は強くも偉くもないですよ」
 暗い声でぼそっと呟き、果穂はまたブランコを漕ぎ始めた。どうやら、この話はここで終わりの様だった。
 重苦しい沈黙が続くのに辛さを感じた僕は、少し間を置いてから、意識的に明るい声を作って話しかけた。
 「果穂って頭良いの?」
 「全く。私のテストの点数がゼロになるのと余命がゼロになるのどっちが早いか競争してるぐらいです」
 「意外だな。もっと優秀かと思ってた」果穂は物静かで難しい言葉を使うから、もっと賢いのかと思っていた。
 「勉強は好きじゃないんですよね。それにほら、私の場合大学に行ける訳じゃないのであまり意味もないですし」
 彼女は一瞬躊躇った後、僕の方を向いて尋ねた。
 「逆に涼くんはどうなんですか?」
 「本当に普通だよ。毎回、補習に怯えて一夜漬けで乗り越えてる」
 「それだけできれば充分ですよ」
 沈黙が流れ、ブランコだけが甲高い音を立てて揺れていた。
 「果穂の成績で進級とかに影響はないのか?」
 「私の場合は特例ですよ。普通ならこの学校に入れてもないレベルなんです」
 果穂の説明によると、希望すれば末期患者には政府より特例の処置が施されるのだそうだ。この学校を選んだ理由は、人間関係をリセットし地元の友達が来ないように遠くの学校を探したらしかった。
 「人に勉強を教えてもらったこともあるんですけど、勉強ができる人ってできない人の気持ちが理解できないんですよね。答えだけでなく過程すら分かっていないのに、どこで躓いているのかが理解できない。つまり、勉強ができることと人に教える能力というのは相関関係にないってことです」
 その言語化ができるだけ果穂は頭が悪いわけではないと思った。でも確かに、凡人が天才の思考を理解できないように、逆もまた完全には理解できていないのだろう。これが、馬鹿と天才は紙一重ということだろうかと言うと笑われた。
 「果穂は学校楽しいの?」
 話を聞いている限り、友達がいるわけでもない。勉強をしたいわけでもない。果穂は、一体何のために特例まで利用して学校に通っているのだろう。
 「少なくとも、学校終わり、今こうしてブランコに揺られている時間は凄く楽しいですよ」果穂の笑顔は、本心で笑っているように見えた。
 僕の質問には、どうして学校に通っているんだ? という意味も込められていた。それを見透かしたように果穂は言葉を続けた。
 「でも、そうですね。理由はきっと、()()でいたかったからですかね」
 「普通?」
 「そう、普通です。平凡な女子高生、私は何もおかしくない、正常なんだって。そのためのポーズなのかもしれません」
 果穂はため息をついて、「普通って何なんでしょうね」と深く吐き出した。
 それから僕らは何も話さなかった。言葉がなくてもお互いの存在を感じながらブランコを漕ぎ続けた。何も聞く必要がないと思ったし、話しかけられることもなかった。
 この時間だけは他の何も考えなくて済む。このまま時が止まればいいのに。そう思った。
 
 *
 
 僕にとって学校というのは本当に退屈な場所だった。
 教師も仕事という前に一人の人間なのだ。接しやすい生徒、触れづらいがいる。その物差しで測るのであれば、僕は間違いなく後者だった。誰からも見向きされない、まるで教室の隅に置かれた観葉植物のような存在。
 そのはずだったのに、ふと振り向いた佐藤さんの視線が僕の顔に釘付けになった。十秒、二十秒。時が止まったかのように、佐藤さんの視線は僕から離れない。心臓が早鐘を打ち始め、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
 「え、えっと……」僕は喉の奥で言葉を転がし、やっとの思いで口を開いた。
 「僕の顔、何か変かな?」
 佐藤さんは一瞬考え込むような仕草を見せた後、「うん、変」とあっさりと言い切った。
 それはまるで鈍器で殴られたかのような衝撃だった。自分でも珍奇な顔をしていると自覚しているが、まさか佐藤さんにそこまではっきりと言われるとは思っていなかった。苦手ではあっても、裏表がない明るさにある種の信頼を寄せていた僕は、精神攻撃を受けた。
 「ごめん、ごめんね⁉ 悪い意味じゃないの!」佐藤さんは慌てて両手を振った。
 しかし、その必死の否定がまるで傷口に塩を塗り込まれるような痛みで、かえって僕の心に刺さった。
 「本当に違うんだって。ただ、あれだよ。なんか、明るくなったなって」佐藤さんは柔らかな笑みを浮かべた。
 「明るく……なった?」僕は首を傾げた。明るさなんて、僕には無縁なものだった。
 佐藤さんは、少し困ったように眉をひそめながら、「言葉にするのは難しいんだけど……」と前置きした。
 「雰囲気がさ。少し柔らかくなってる気がしたの」
 「雰囲気?」僕は、まだ理解できずにいた。
 「前までの坂口くんはさ、自分は不幸の中心にいます、みたいな雰囲気だったの。近寄る人を拒絶するオーラがあったというか……見当違いなことを言ってたらごめんね」と真剣な表情で言った。
 自分が発していたそんなオーラに佐藤さんが気づき、更にその上で僕に話しかけていたのかと呆れた。同時に、それでも話しかけてくれていたことに申し訳なさが込み上げてきた。
 「けど、最近の坂口くんからは生きる活力みたいなものを感じるの。坂口くんにはきっと何か転機があったんだよね? 僅かな変化にしろ、ゼロをイチに変えるのは生半可なことじゃないから」
 佐藤さんの言葉は、確信を突いていた。
 そして、ふと気づいた。確かに、僕の中で何かが変わっていた。自分を不幸の中心だと思っていた頃の僕は、もっと不幸な人間に出会ったのだ。それなのに、その不幸を諦める理由にせず足掻いている果穂の姿は、僕を少しずつ。でも確実に変えていた。
 「そう……かもしれない」
 「そうだよ。他の皆は気付かないかもしれないけど、私には分かるから」と照れ臭そうな笑みを浮かべた。
 その言葉に、僕は胸が熱くなるのを感じた。
 「ありがとう」たったこれだけの言葉に、僕は口から心臓が飛び出しそうになる。しかし、心からの感謝を込めて言った。
 「そっちの方がいいよ」佐藤さんは、ウインクして前を向いた。その仕草に、僕は思わず微笑んでしまった。
 クラスメイトは、相変わらず腫物を見るような不躾な視線を向けてくる。けど、今日だけは、その視線が気にならなかった。佐藤さんと話していて不安を感じなかったのは、初めてだった。

 *
 
 果穂に呼び出されて、僕らは放課後校門で待ち合せる約束をしていた。
 例によって少し遅れて到着した僕は、果穂を先に発見した。校門の桜の樹の下に佇む彼女は、青々と茂る新緑の葉をまるで満開の桜かのように誤解させるほど見栄えがした。門を通る生徒たちが、通っては振り向き、こっそり写真を撮っているものまでいた。みんな、この美少女が一体誰を待っているのか気になって仕方ないと言った様子だ。
 だから僕は、その期待に応えて精一杯の決め顔でヒーローのように男らしく声をかける。
 「お待たせ。待たせちゃって悪かったな」
 一世一代の名演技に、周囲からは肩透かしのため息と果穂のゴミを見るような視線が痛かった。「誰だあいつ」「調子乗ってるだろ」と言った声が聞こえてくるようだ。いや、実際聞こえていた。
 「今日はまた一段と変わり者ですね」
 「……ここはいつもみたいに笑ってくれる場面じゃないの? そんな冷めた対応されると辛いんだけど」
 「行動に対する正当な評価ですよ」
 果穂はため息をついて、行きましょうと促す。これ以上恥を晒したくなかった僕は、大人しくそれに従った。
 舗装された歩道には、銀杏の葉が黄金色の絨毯のように広がっている。その上を歩くと、カサカサと心地よい音が響く。街路樹の間から漏れる夕日の光が、道を歩く僕らの影を長く伸ばしていた。
 「結局今から何をするんだ?」
 「この間言ったばかりなのに、もう忘れたんですか? 頭だけじゃなくて記憶まで鶏ですね」
 「今日なんか特に辛辣じゃないか?」
 罵倒されて喜ぶタイプではない僕は傷ついて……いる訳でもなかった。最近の付き合いから、辛辣でもそれが本心でないことは分かってきていた。
 「なんで嬉しそうなんですか?」
 「そんなことないって」
 言葉に棘がないと分かるから、僕は彼女とのやり取りが楽しかった。果穂は、僕の様子に訝し気ながらも教えてくれる。
 「恋愛映画を観に行くんですよ。私、映画は一人じゃみない主義なんです」
 「意外だな、僕は一人で観ることに何の抵抗もないよ。むしろペースを乱されるような気がする」
 「そういう人もいるらしいですね、私からしたら信じられないですけど。同じ映像を観て、最後に各々の感想を語り合うまでがセットじゃないですか?」
 「確かにそれは魅力的だけど、相手がいるってことは気を使う必要があるってことでもある。実際行くかどうかは別として、僕はカラオケも焼肉だって一人で行きたい派だ」
 「考えられません」
 僕は一人の気楽さ、開放感を熱弁するが、彼女は誰と何をしたか、感じた差異を重視するらしい。考え方はまるで真逆で、でもそれが逆に新鮮だった。
 ふいに、隣を歩いていた果穂の足取りが少し重くなっているように見えた。
 「大丈夫?」
 「え?  ああ、ちょっと疲れてるだけです」
 その声には普段にない疲労感が混じっていた。彼女は取り繕うような笑顔で答えたが、その笑顔に僕は少しの不安を感じた。
 
 僕らが駅前の広場に足を踏み入れた時、安楽死制度に反対する抗議活動が行われていた。決して珍しい光景ではないが、今日は何か空気が違う気がした。数十人の人々がプラカードを掲げ、声を上げて訴えている。プラカードには「命の尊厳を守れ」「安楽死に反対」「生きる希望を見つけよう」などの文字が書かれていた。
 広場の中心では、一人の男性がマイクを握り、熱弁をふるっている。
 「安楽死制度が導入されると、命の尊厳を軽んじられる恐れがあります。我々は、すべての命が価値あるものであり、どんな困難にあっても生きる希望を見つけるべきだと信じています!」
 周囲では、他の活動家たちが通行人にビラを配り、署名を集めていた。
 その熱心な様子に、僕は無意識に歩くペースを速めたが、ふと横を見ると、果穂が後方で立ち止まっていた。彼女は活動の様子をじっと見つめ、その表情が徐々に変化していくのが分かった。最初は無関心そうだった顔が、次第に喜怒哀楽、どれにも当てはまらなそうな複雑な表情に変わり、拳を握り締めていた。
 「果穂?」
 「あの人たちは、結局何も知らないんです」
 僕の質問には答えずに、果穂はそんなことを言った。その声は震えていた。
 「人は生きることによって幸せになれる。生きていればいいことがあるって、本気で信じてるんです」果穂は言葉を探すように一瞬黙り、そして続けた。「すべての命に価値があるなんて、真っ赤な嘘、綺麗事です。老若男女、命に優劣なんてなくて、皆等しく無意味です」
 「それはまた……随分と極端な発想だな」
 「そうでしょうか? 私から見れば自分の人生に価値があると豪語できる人間の方が稀有に感じます」果穂は皮肉めいた笑みを浮かべた。
 「話を戻しますが、彼らは安楽死希望者を自殺志願者と同一視しているんです。何も考えず、何もかも投げ出して、簡単に生きる道から逃げて安楽死を選んだと。その行動を止めることが正義だと信じてる。それがたまらなく気持ち悪いんです」
 目の前の活動家たちに対してだというのはすぐに分かったけれど、僕は何と答えれば良いのか分からなかった。果穂が正しいとも、熱弁する彼らが間違っているとも思えなかった。
 生きていればいいことがあるなんて保障はどこにもないが、逆もまた然りなのだ。それは、たらればの机上論に過ぎない。彼らは確かに、自分たちなりの正義に従って行動しているのだろう。けれど、その腹の内なんて誰にも分からないのだ。分かったように語る果穂も、一方的に希望を押し付ける彼らも何が分かっているというのだろうか、と思った。
 正義の反対はまた別の正義であるという言葉がある。もしかすると、彼らにとっての正義と果穂の抱える正義は対岸に位置しているのではないかと直感した。
 「あなたたちもどうぞ」
 ビラを持った中年のおばさんが、僕らに近付いてきた。果穂の表情が一瞬にして強張るのを見て、僕は咄嗟に果穂の手を取った。
 「行こう」
 果穂はわずかに安堵したような表情を見せ、抵抗することなく僕の手に従った。手を放しても、僕の心はしばらく慌ただしいままだった。
 
 映画は、今人気だという俳優が主演の恋愛物だった。
 あらすじは、大学生時代に出会った二人が、ひょんなことから趣味の話で意気投合し、やがて恋に落ちる。同棲や夢を追う幸せな時間を過ごしていたが、就職や金銭。次第に楽しいだけでは生きていけない現実の厳しさに気付く。生活リズムや将来のビジョンが異なり始め、すれ違いが生じた二人はやがてそれぞれ別の未来を歩む。というような作品だった。
 先刻の手前、楽しめるだろうかと内心心配していたが、果穂はぼろ泣きだった。あまりにも泣いていたからハンカチを貸してあげたほどだ。けれど、それだけ映画の内容はリアルで。花束みたいな恋という、恋愛の一瞬の美しさやそれが過ぎ去る儚さを思わせるものだった。
 「適当に選んだんですけど、思ってたより深い内容でしたね。単なる恋愛映画かと思ってたのに凄い良かった……」
 映画館を出ても、果穂の瞳は潤んでいて、時折手の甲で目元を拭っていた。
 「そうだな」
 僕は、泣いていなかった。果穂に「なぜそんなに泣いていたの?」と尋ねた。果穂は少し考え込んでから答えた。
 「私には、二人の選択が理解できるんです。愛し合っていても、時に別れることが最善の道だということが。でも、それが分かるからこそ、悲しいんです」
 「僕には理解できないな。愛し合っているなら、どんな困難も乗り越えられるはずだと思う」
 「それは理想論ですよ。現実はもっと複雑で、時に残酷です」
 映画とは別の何かを見ているような目だった。恋愛経験に疎い僕には、理解できなかった。
 果穂にそのことを話すと、子供ですねと笑われる。
 「恋はいつか終わる。それに気付いた時、どうするかを問うているんですよ。お互いの幸せを願えるのならそれは幸せだと思えませんか?」
 果穂の言っていることが分からなかった。やはり、僕は子供のままだった。

 *

 本格的な夏を告げる蝉の声が聞こえ始めた、七月のある日。学校に来た僕は、異様な視線を感じることに驚いた。いつもはまるで空気のように存在感のない自分を自覚しているのだが、教室に入った時から妙な雰囲気を感じたのだ。
 それは、普段の厄介者を見る目ではなくて、どちらかと言えば好奇心のようなものだった。はて、僕にそんな興味を引くものがあっただろうかと考えたが、放っておいても今日から試験期間であるはずなので、すぐに話題は移り、試験についてがもっぱらな流れになるだろうと楽観視していた。
 だが、クラスメイトたちの様子を伺うに、どうやらそうはなっていないようだった。試験が三つ終わる頃にも、原因不明の視線と噂話は止まなかった。当然、僕はそれらに気付いていないという素振りを続けていたが、どうやらクラスメイト達の興味の矛先が僕だというのはほぼ確信に変わっていた。
 とは言え、そのまま終わるのであれば、僕には何の影響もなかった。だが何事も思い通りにはいかないものである。僕の前に、甘い希望を打ち砕く存在が現れた。
 「ねぇねぇ、坂口くん。最近、一年の子とよく一緒にいるよね?  どういう関係なの?」
 噂好きの騒がしい女子が、遠慮も配慮もなしに話しかけてきたのだ。
 要するに彼女は、驚くほど見栄えがする果穂と地味で根暗な僕の関係の謎を解き明かしたいらしかった。それを知って一体どうするのだろうと思うけど、彼女は事実よりも噂という話題性が好きなのだろう。
 あいにく、僕は尋ねてきた彼女の名前すら知らなかった。不躾にそんな質問をしてくる彼女に、珍しく不快感を覚えた。人との関わりを避けてきた僕にとって、このような直接的な質問は苦手そのものだったし、下世話な噂の対象になっていることにもイライラした。
 「それが君に何か関係あるのかな」
 苛立ちと皮肉を込めた僕の挑発的な言葉に、彼女の表情が一瞬で変わった。ニヤニヤしていた口元が引き攣り、頬が赤く染まっていく。目つきが鋭くなり、不機嫌さが全身から滲み出ていた。
 周囲の空気が一瞬で凍りついたのを肌で感じた。僕は対応を間違えたのだということに遅れて気が付いた。もっと柔らかい言い方があったはずなのに。頭の中で別の返事を次々と思いつくが、もう遅い。僕はやはり、人付き合いの未熟な子供だった。
 「なんなの、その言い方。私はちゃんと丁寧に聞いてるのに」
 丁寧さについて、彼女と深い議論を交わしたいところだったが、周囲の視線が増え始めていることを認識していたので場を収めることに注力する。
 「僕の言い方が悪かった。何もないんだ」
 「私がそれを信じるとでも?」
 「君が想像しているような関係ではないよ」
 「大体、君ってなに? 私にはちゃんと名前があるの。ふざけてるよね、なんでそんな態度なわけ?」
 すっかり話にならなくなっていた。周りのクラスメイトは誰も仲裁に入ろうとはしなかった。それはきっと、相手が彼女だったからで、相手が僕だったからだ。誰も好き好んで厄介事に首を突っ込もうとはしない。
 いよいよどうしたものかと思ったが、僕はそんな厄介事に首を突っ込もうとする物好きがいることを忘れていた。
 「はいはい、莉央は落ち着いて。坂口くんは謝ったし何もないって言ってるんだから」
 佐藤さんだった。底抜けのお人好しなのだろうか、と彼女の印象がさらに書き換わる。クラスの中心的存在である彼女が、なぜ僕のために動くのか理解できなかった。
 「なんでそっちの味方するの?」
 莉央と呼ばれた彼女は、それでも腹の虫が収まらないのか、抵抗を続ける。
 「味方とかじゃないし、ただ冷静になりなって言ってるだけだよ」
 「でも……」
 「莉央!」
 佐藤さんが大きな声を出したのを、少なくとも僕は初めて聞いた。普段、明るい人が怒ると怖いというのは本当なんだなと他人事の感想が浮かんだ。
 「気になるなら私が聞いておくから。怒るとしわが増えるよ」
 有無を言わさぬ圧だった。さすがの彼女も、周囲の雰囲気に気付く。佐藤さんが登場した段階で、戦況は穏便に済ませる方向へと舵を切っていた。
 それ以上の抵抗を諦め罰が悪そうに引き下がっていく彼女を、僕はただ眺めているだけだった。
 「ごめんね、坂口くん」
 佐藤さんに謝られたことで、自分が当事者だったことを思い出す。
 「いや、僕が悪かった。こちらこそごめん。それと……ありがとう」
 「別に私、大したことしてないよ。何か事情があるんでしょ?」
 佐藤さんは、いつものように明るい顔で笑っていて、僕に引け目を感じさせないようにしているのが分かった。
 僕は黙って頷いた。それだけで充分、というように彼女は手を振ってクラスの輪へ消えていった。
 それ以降は、きっと佐藤さんが何かしら手回しをしてくれたのだろう。まだ多少好奇の視線はあったが、僕に直接尋ねてくるような人はもういなかった。
 ただ、果穂との関係については誰にも話せなかった。果穂の秘密を守るため、なんてそれらしい理由は浮かんだ。でも実際の所、僕は自分が注目を浴びるのが嫌だっただけだということに気付いて、自己本位な自分が更に嫌いになった。

 *

 家に帰った時、静かすぎることに気が付いた。普段、家ではパート帰りの母が夕食を作っている音やテレビの音がするはずなのに、今日はその音がしない。まるで人の気配がなかったのだ。
 まだ帰ってきていないのだろうか、と疑問に思ってリビングの明かりをつけると、思わず体が跳ねた。誰もいないと思った暗闇の中のテーブルに、母が座っていた。
 「母さん?」恐る恐る声をかけた。
 「電気もつけないでどうしたんだよ」母は顔の前で手を組み、まるで眠っているかのように反応がなかった。
 何なのだろうなと思って、僕は部屋へ戻ろうと後ろを向いた。
 「どこ行ってたの」
 どうやら母は起きていたらしかった。それに声の調子からして、どうも機嫌が良くないであろうということは察しがついた。
 「ただ学校から帰ってきただけだよ」
 「そうじゃない。そういうことじゃないの」
 母の声は冷たかった。背後から立ち上がる音が聞こえた。
 「最近帰りが遅いのは何か変なことに首を突っ込んでるからじゃないの? ……薬とかやってたりしないでしょうね」
 「薬?」
 思わず素っ頓狂な声が出た。
 「冗談じゃないよ。そんなことするわけないだろ」
 僕はうんざりした。僕と果穂の活動は放課後の時間が主だったから、最近は帰りが遅くなることも珍しくなかった。母は、どうやらそれを誤解しているようだった。
 学校での追及に加えて、家でもこれかとため息をつく。
 「僕が何をしていようが関係ないだろ」
 「関係ないわけないでしょ!」
 母の声が裏返る。耳を抑えたくなるような金切り声だった。
 しぶしぶ振り返ると、母の肩が震えているのが見えた。顔は蒼白で、目は涙で潤んでいる。怒りなのか、それとも恐怖なのか。僕は思わず目を逸らしてしまった。
 何故こうまで追及されなければならないのだろうか。この場には、学校と違い、僕を助けてくれる人は誰もいなかった。
 「変なことなんて何もしてない」
 「だから何してるのかを教えてと言ってるの」
 僕が何をしていようが、誰にも迷惑をかけていないはずだ。それなのにどうしてみんな僕の自由を奪おうとするのだろう。やりたいことをやっているだけなのに、生きにくい。家なのにちっとも気が休まらなかった。
 「母さんは、僕が自由にしてるのが気に入らないだけだろ?」
 僕の言葉に、母は呆気に取られたように顔色を変えた。
 「違う……私はただ心配で」
 「何を心配することがあるんだよ?」
 「それは……」母は、口籠るように目線を泳がせた。
 「涼まで死んでしまったら、私は……」
 結局それか、と僕は思わず舌打ちする。妹が死んだからと言って、僕まで死んでしまうんじゃないかというのはいささか被害妄想が過ぎるし、そんな曖昧な理由で僕の自由を侵害するのが許せなかった。
 「僕は正常だ」
 吐き捨てるように言って、リビングの扉を勢いよく閉めた。
 部屋に戻った僕は、壁に寄りかかってゆっくりと床に座り込んだ。外からは母のすすり泣く声が聞こえる。
 このままじゃいけないことも、母の心配だって、本当は分かっていた。それなのに、どうすればいいのかは分からなかった。言葉にできない重圧が僕の肩に重くのしかかる。月乃のことを考えると、無性に胸が締め付けられた。
 誰にも理解されない孤独感と、自分の行動を正当化したい気持ちが入り混じって、頭の中がぐちゃぐちゃになる。そんな中で、唯一彼女の顔が浮かんだ。彼女なら、僕の本当の気持ちを分かってもらえるような気がした。
 僕は、どうしようもなく果穂に会いたかった。

 *
 
 果穂とは、連絡先を交換したものの毎日連絡を取り合っているわけではなかった。今日は屋上に行くよ、とか、校門で待ってて、だとか。事務的な連絡が主でメッセージのやり取りを楽しむような関係ではなかったから、学校が夏休みに入ると、必然的に果穂と会う機会は少なくなった。夏期講習という名の補講が週三日ほどあったので全く接点がなかった訳ではないが、何もせず帰宅することも珍しくなくなっていた。
 だから、果穂からその連絡が来た時、素直な僕は心が躍った。
 『今度の週末、ライブに行きませんか』
 詳しく話を聞いてみれば、僕も名前だけは聞いたことのある、果穂の好きなシンガーソングライターが近くでライブをするらしかった。もうチケットは取っているらしいので、用意するものも特にないと言う。果穂と会うのは基本、学校のある日だけだったので、学校外で会えることに特別感を感じた。僕は二つ返事で了承した。
 
 当日、僕は待ち合わせ時刻の三十分前には到着した。電車がもし遅延したらどうしよう、にわか雨に降られたら? と考えると普段より早めに家を出ていたのだ。いつの間にか、果穂と行動することを心待ちにしている自分がいることに驚いた。意識してみると、あれだけ色褪せていると思っていた世界も、心なしか鮮やかで代えがたいものに感じられた。
 「あれ、早いですね」
 凛とした声が聞こえて目を向けると、頭を抱えたくなるような衝動に駆られた。
 果穂は淡いピンク色のフレアワンピースを身にまとい、涼しげな笑顔を浮かべていた。襟元にあしらわれたレースが上品な印象を与え、ウエストに結ばれたリボンが彼女の細い体を優しく引き締めている。スカート部分は風に揺れるたびにふんわりと広がり、花が咲いているかのようだ。耳には小ぶりなドロップピアスが揺れ、シルバーのネックレスが鎖骨の上で輝いていた。白いサンダルを履いた足元は軽やかで、まるで雲の上を歩いているかのように見えた。
 普段の制服姿でも充分に魅力的だが、私服姿は更に彼女自身の良さや持ち味を引き出しているようだった。目の保養なのは間違いないが、眩しすぎて直視できなかった。
 「今日は随分と気合入ってないか?」
 「そうですか?  まぁ、ライブなんて初めてでしたし多少気合は入ってたかもしれません」果穂は悪戯な表情で微笑んだ。「それで、感想は?」
 自分の評価を分かっていて、僕の困った反応を楽しむつもりなのだろう。その思惑に乗るのは癪なので、僕は一瞬迷ったが「すごく似合ってる」と素直に答えた。
 果穂はそれが意外だったのか、妙に恥ずかしそうにしながら「……やけに素直ですね」とぼそっと呟いた。
 人波をかき分けながら、僕らはコンサートホールにたどり着いた。大きな会場は、すでに観客で埋め尽くされ、熱気と期待感が漂っていた。果穂の目はキラキラと輝き、頬には薄い紅潮がさしていた。
 しばらくすると、ステージが暗転し、観客の歓声が一層高まった。その瞬間、スポットライトが点灯し、ギターを抱えた歌手がステージ中央に現れた。歌手は一瞬観客を見渡してから、マイクに向かって話し始めた。
 「みんな、今日は来てくれてありがとう! このライブで今日を特別な日にしたいと思ってます。全員で一緒に最高の時間を過ごしましょう!」
 果穂は目を閉じて、一言一言に耳を傾け、聞きのがさないようにしているのが分かった。
 
 熱狂的な雰囲気の中、時間はあっという間に過ぎていった。ライブが終わり、興奮冷めやらぬ観客たちと共に会場を後にした僕らは、駅までの道で互いに感想を言い合いながら歩いていた。
 確かに、感動的な経験をした後すぐに感想を言い合えるのも悪くなかった。これは一人では味わえない感覚なのだと思うと、不思議と気分も良くなる。ふと、この光景を傍から見たらデートにでも見えるんじゃないか、と思った。
 もちろん、そんなことを言えば軽蔑されることは間違いないのだが、周囲からはそう見られているのかもしれないと思うと妙に心地よかった。
 
 僕はこのまま何事もなく今日が終わり、また次があるのだと思っていた。
 どれだけ良いこと、嫌なことがあろうと。無慈悲に、平等に、明日は訪れるなんていう誤解。
 詰まるところ、僕はすっかり忘れていたのだ。果穂に約束された次なんてものが無いことを。
 
 突然、隣を歩いていた果穂がバランスを崩した。慌てて支えたが、彼女の足はがくがくと震え、力が入っていないように見えた。僕は、彼女の普段の軽やかな動きとのあまりの違いに愕然とした。
 「どうして……」
 苦々しげに呟く果穂を見ていられず、周囲の視線を避けるように彼女を担ぐようにして日陰へ移動させた。
 果穂の額には大粒の汗が浮かび、顔色は土気色だった。熱中症かもしれない。ライブ中も度々水を飲んでいたから油断していた。
 「何か買ってこようか?」
 熱中症対策の飲み物を探すべきか、それとも誰かに助けを求めるべきか。混乱する僕の思考を遮るように、果穂は首を横に振った。
 「私のカバンからポーチを取ってくれませんか」
 自分で動くのすら億劫そうだ。果穂の持ち物に触れるのは気が引けたが、緊急事態だった。言われたポーチをすぐに見つけ、彼女に手渡した。
 「ありがとうございます……」
 果穂がポーチを開けた瞬間、僕の心臓が凍りついた。中には何種類もの薬が所狭しと詰まっていた。
 そして僕は遅れて気がついた。否、思い出したのだ。果穂は余命宣告を受けている病人なのだと。いつも気丈に明るく振る舞う彼女は、まるで普通の女子高生のようで、抱えている病を感じさせなかった。こんな日常がいつまでも続くのだと、いつの間にか思い込んでいた。
 力が上手く入らないのか、手が震えてペットボトルのキャップを開けることすら難儀していた。その様子に、僕は既視感を覚えた。かつての月乃も同じような動きをしていたのを思い出したのだ。やはり、病気が進行していくと体の力は抜けていくものなのだろうか。
 果穂はどうにか薬を飲み、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。しばらくして落ち着いたのか、震えも収まってきていた。
 「大丈夫か?」
 「……はい。だいぶ落ち着きました」
 顔色も戻ってきたようだが、僕の心は依然として慌ただしかった。
 「病気の……せいなのか?」
 果穂は気まずそうに目を逸らした。
 「少し前から、こういう症状が出始めていたんです。でも、立てなくなったのは初めてですけど……」
 不自然な果穂の行動に、僕の中でいくつかの辻褄が合った。
 果穂が以前話していた進行性の神経疾患。今まさに、その病魔が果穂を蝕んでいるのかと思うと冷や汗が止まらず、言葉が出なかった。
 「大丈夫ですよ」
 優しい声色に、はっと顔を上げる。果穂の額には、まだ汗が浮かんでいて本調子ではないのだろう。それなのに、いつにも増して優しい笑顔を浮かべていた。
 「どうしてそんな顔できるんだよ。辛いのは僕じゃなくて果穂だろ」
 「辛くないですよ。分かってましたから」
 心の中で呟いたつもりが、口をついて出ていたらしい。でも果穂の言っていることは何もわからなかった。
 「分かっていても! 結果を理解していることと実際に経験することは全然……全然違うはずだ……」
 「本当に子どもですね。私はそれまで含めて受け入れてる、それだけですよ」
 苦々しく呟く僕をあやすように、果穂は淡々と語る。けれど、そんな説明で納得できるほど、僕は物分かりが良くなかった。
 「僕は……ちゃんと果穂の役に立ててるのか?」
 「元々、私たちは半ば強引に結んだ協力関係だったはずです。死ぬつもりなら私に協力してから死んでください、なんていう傲慢な願いで無理やり巻き込んだんですから、役に立とうとする義理なんてないはずです」
 果穂の言葉に間違いはなかったけれど、僕にとってそれだけでないのも事実だった。僕に本当に死ぬつもりなんて無かったこと、過去と向き合うために果穂と行動を共にしていたこと。今言わなければ、ずっと裏切り続けることになると思った。
 「僕は果穂にずっと嘘をついていて……」
 「最初から分かってましたよ。本気で死ぬつもりがないことも」果穂は僕が口にしようとしたことを先読みして告げた。
 「何か闇を抱えていることは本当なんでしょうけど、深刻に思い詰めていた訳でないのは少し話せば分かります。良くも悪くも、私とは違いますから」
 果穂は優しい笑顔のまま、寂しそうな声でそう言った。目の端には涙が浮かんでいて、泣き顔すら美しいと思った。
 「けど、それも今日で終わりですね。利用するような形になってすみませんでした……」
 頭を下げた果穂を見て、もうこれまで通りにはいかないのだというのが痛いほど伝わってきた。『今日で終わり』という言葉を何度も頭の中で再生する。
 果穂はこれからどうするのだろうか。僕はこれからどうするのだろう。結局何も出来なかったのだろうか。そう思った瞬間、頭の芯を揺さぶられるような懐かしい気持ち悪さが僕を襲った。
 
 どうしようもない焦燥感の中、浮かんできたのは、やはりあの記憶だった。ぼんやりとした輪郭が、徐々にはっきりとしてくる。
 白い病室、外の猛吹雪、消毒液の匂い、響く心電図の音。ここまでは前回と同じ。けれど、今回は違った。ベッドの上に眠る人間の顔がちゃんと見えたのだ。
 それは僕の確信通り、やはり月乃だった。強く握れば壊れてしまいそうな程、華奢な手の感触に、いつの間にか僕は実体があったことに気が付いた。しかし、夢の中のようにあやふやな自我で自分を完全にコントロールできる訳ではなかった。
 ふと周囲を見ると、僕の横では両親が泣いていて。必死に堪えているけれど、何故か僕まで涙ぐんでいた。
 そこでようやく思い出した。これは、僕が月乃と最後に話した記憶だった。
 ベッドに眠る月乃の小さな手は、人肌とは思えない程冷たかった。でもその奥にはまだかすかに生命の炎があって、風前の灯であるそれを絶やさぬように、僕は月乃の手を固くぎゅっと握り締めていた。その行為にどれだけの意味があったかは分からない。
 誰が見たって、残されている時間はもう長くなくて、きっとそれは月乃自身も分かっていた。
 「お兄ちゃん……ありがとう」
 僕は驚愕した。余命宣告された時も、一度も弱音を吐かず感情の機微すら見せなかった月乃が、()()()()()のだ。あの月乃が涙を流しているのを、僕は人生で初めて見た。その上、僕に対して感謝を口にした。
 僕らは、決して仲のいい兄弟ではなかった。小さな頃から月乃はずっと病気で病院にいることも多かったから、兄である僕が何かをしてあげた記憶なんてない。内心ではずっと僕のことを疎ましく感じていると思っていたし、僕も愛情を注いでいたとは言えなかった。感謝を言われるなんて、思ってもいなかった。
 何故だか涙があふれて止まらなかった。月乃を安心させられるような言葉が言いたかった。少しでも苦しみを分けてほしかったし、きっと月乃だってそれを求めていた。だけど、月乃の手を握り締めるだけで何も出来なかった。
 こんな時だけ、悲しんで兄でいようとする自分が、堪らなく気持ち悪かった。気持ち悪くて仕方ない。何もしてあげられなくてごめん。ただそう伝えれば良かっただけなのに。それなのに、僕は何も言えなかった。
 ありがとうもごめんねも、本当は僕が言わなくちゃいけない言葉だったのに。月乃はずっと一人で戦っていたのに。僕がもっと一緒にいてあげれば月乃は寂しい思いをしなかったかもしれないのに。後悔ばかりが連鎖のように生まれていた。
 ……僕は一体いつからこの記憶を忘れていたんだろう。
 
 「どうしたんですか?」
 心配そうにのぞき込む果穂の声で、意識が現実へと呼び戻された。
 それは、ずっと心の奥に封じ込めてきた記憶だった。月乃と似た境遇の果穂と出会ったことで、今頃そのことに気付き、思い出した。
 僕は、感情がないと思っていた月乃にも感情があったと知ってずっと後悔を抱えていたのだ。もっと月乃にしてあげられることがあったんじゃないのか、かけて欲しかった言葉、愛情があったんじゃないのか。あまりにも月乃のことを知らなくて、知ろうともしていなかった。僕はその耐え難い記憶を、後悔と共にずっと忘れようとしていたのだ。そのうちにいつからか、忘れようとしていたことさえ忘れてしまっていた。
 「僕にもっとできることはないか? 何でもする、どこへでもついて行く」
 以前の自分なら絶対に口にしなかったであろう言葉が、自然と口をついて出た。
 胸の中には月乃の顔が浮かんでいた。終始無表情だった月乃が最後に見せた涙に、胸が締め付けられるような痛みと、言いようのない後悔が押し寄せてくる。僕はいつの間にか果穂と月乃を重ねて考えていた。果穂の未練を晴らすことによって、少しでも月乃に報えるんじゃないかと歪んだ感情が浮かんだ。
 果穂は、戸惑うような表情を見せた。
 「関わるうちに情でも湧きましたか? 私に同情しているのならやめてください、不快です」
 「違う……そうじゃない、そうじゃないんだ」言葉に詰まりながらも、必死に気持ちを伝えようとする。 「僕は僕がいたいからここにいる。それは僕の意志だ」
 僕にこれほどまでの熱があるなんて、きっと誰も思っていない。自分自身ですら知らなかったのだ。
 僕は深呼吸した。また何もできないのか? 本当に僕にできることはないのか?
 「でも、私にはもう時間が……」
 「だからこそ」僕は果穂の手を取った。その手は、嫌に冷たくてまるで人形のようだった。でも、その冷たさが更に月乃を彷彿とさせる。
 「一瞬だって無駄にできないだろ。僕にできる事だってまだあるはずだ」
 「何が涼くんをそうまでして突き動かすんですか?」果穂の声には、疑いが混じっているように聞こえた。
 「上手く言葉で言い表せない」僕は少し考えてから続けた。「けど、力になりたいのは本当なんだ。果穂と過ごす時間、果穂の笑顔、それが僕にとってかけがえのないものになったから」
 僕のあまりの必死さに心を打たれたのか、果穂は深呼吸をして、迷った末に何か覚悟を決めたようだった。
 「だったら最後に一つだけ……私の我儘に付き合ってはくれませんか?」
 「何でも言ってくれ」僕は即答する。その権幕に、気味悪そうに果穂は手を引っこめる。
 「ちゃんと意味分かってますか?」果穂の声は、呆れているようだったが、心なしか表情は柔らかくなっているように見えた。
 「分かってるよ。つまり、僕は果穂の手足になるってことだ。果穂が行きたい所、やりたいこと、それを一緒に実現していく。それが僕にできる唯一のことなんだ」
 人と深く関わることを恐れていた以前の自分は、もういなかった。
 「手足なんて。プライドはないんですか」いつものように冗談を口にして、果穂はもう一度深呼吸をし、取り繕うような笑顔を浮かべた。
 「ありがとう、涼くん。よろしくお願いします」
 最後の我儘というのが具体的に何を指しているのかは検討もつかない。でも、それを叶えるために全力を尽くすことだけは、はっきりと心に決めていた。