僕の身の上話をした後、彼女は何か思い詰めるようにして自分の部屋に籠ってしまった。一人になりたいから部屋に閉じこもっただろうから、僕は特に彼女を呼び止めるようなことはしなかった。
僕は一人でリビングに待機していた。すると、彼女の妹が「ただいま」と言って帰って来た。リビングに入って来て僕と目が合うと、彼女の妹は肩を少し跳ねさせて驚いた。それから、僕から一切目を離さずこちらに背を向けないまま自分の部屋に向かって階段を上がろうとした。ただ、彼女の妹はその直前、僕に訊いた。
「お姉ちゃんは?」
「彼女なら、自分の部屋にいるよ」
「そう」
彼女の妹は短くそう返答すると、こちらに目も暮れず勢いよく階段を駆け上って行った。僕は思わず溜息を吐いた。自分が撒いた種なのだから仕方ない。僕は彼女にだけじゃなく、彼女の妹にもしてはいけないことをしてしまった。その罪を忘れてはいないため、彼女の妹の態度に不満はない。
僕はその後、部屋に戻った。僕がリビングにいても、二人が食事をとる際に邪魔になるだけだ。僕は部屋のベッドで寝転びながら、彼女に今日話した自分の過去のことに想いを馳せた。小鳥遊さんは、最期、自身の命を投げ捨てる際に何を思ったのだろうか。日比谷が僕に成りすまして送ってきた文面を見て、一体どれほど感情が乱されたのだろうか。
「ごめん」
僕は、小さくそう呟いた。一生小鳥遊さんには届くことのない、僕が死神として墓場まで背負っていくべき罪だった。僕はそのことを肝に銘じながら、重くなった瞼に抵抗することなく目を閉じた。そのまま、僕は眠ってしまった。
「起きて」
「…………」
目を開けると、目の前に彼女がいた。僕の顔を覗き込みながら、彼女はもう一度僕に言った。
「起きて」
「…………」
「カーテン、開くよ」
彼女は僕が起きる素振りを見せないことに業を煮やしたのか、部屋のカーテンを握った。そして、彼女は思いっきりカーテンを開いた。窓の外はすっかり朝の顔になっていた。眼球を溶かすような刺激をもたらす陽光が一気に部屋の中に入ってきた。
「……勘弁してよ」
僕は布団を自分に被せた。すると、彼女は僕の布団を引き剥がした。
「居候している身分でなに贅沢なこと言ってんの。ほら、早く起きる」
ごもっともなことを言われてしまった僕は、仕方なく上体を起こした。複数の埃が瞼の裏に入り込んだような眠気を払うために目を擦った。すると、彼女が唐突なことを口にした。
「付き合って」
「…………なんだって?」
「この前、死神として日比谷に復讐するのに付き合ってあげたでしょ」
「……妨害されたけど」
彼女は僕の言葉を無視して続けた。
「だから、今度は私に付き合って」
「……何に?」
「私のお父さんに会いに行くのに付き合って」
「……君の父親って」
「私とひなのを捨てたクズ」
「…………」
僕が反応に困っていると、彼女は可笑しそうに笑った。
「ひなのはもう学校に行ったから、ちょっと付き合ってよ」
「……え、今から行くの?」
「そうだよ。日帰りで行ける距離にお父さんがいるから」
「……そうだったんだ」
「あと、今までちょっと扱いが酷過ぎた。ごめん」
「……え?」
「お風呂にも入れず、新しい服も用意してなかった」
「……いや、服は自分で買うよ。この前余ったお金があるから」
「お風呂、入って来て。ずっとあんたが後ろめたさを感じていることを利用して、人間らしいことをさせてなかった。いくら自分の命を奪う相手だからって、やり過ぎた」
「いや、普通のことでしょ。一緒の家に居させてくれていること自体驚いてるんだから。他の人なら野宿させてるところだよ。でも、お風呂を使わせてくれるということなら、有難く使わせてもらうよ」
「うん、行ってらっしゃい」
彼女は微笑んだ。僕は彼女の人の好さに驚きながら、部屋のドアを開けた。すると、目の前に彼女の妹がいた。
「お姉ちゃん。死神さんと何話してたの?」
「……ひなの、どうしてここに? 学校に行ったんじゃないの?」
「お姉ちゃんこそ、学校は?」
「え、えっと、今日はお休みで」
「ふーん、祝日でもないし、行事もなさそうだし、変だね?」
彼女は、彼女の妹の鋭い視線に気まずそうにしていた。そして、彼女の妹から彼女へと延びる視線が僕の胴体を貫通していた。つまり、僕こそが二人に挟まれて気まずい思いをしていた。
彼女の妹は頬を膨らませると、不満を漏らした。
「ずるい! 死神さんばっかりお姉ちゃんと一緒でずるい!」
「別に死神さんと遊んでるわけじゃないよ」
「でも、お姉ちゃんが死神さんに悪さされないか心配。私も行く!」
「私も行くって……あなた、どこに行くか分かってるの?」
「パパのところでしょ」
「……でも、ひなの。ひなのがまだ物心がついていなかった時にしかいなかったのよ。ひなのは覚えてないでしょ?」
「うん。でも、私もパパに会いたい。お姉ちゃんと一緒にいたい!」
「うーん、困ったなぁ」
彼女は眉を下げながら、駆け寄って来た彼女の妹の頭を撫でていた。しばらくその状態が続いた後、彼女は意を決したように言った。
「分かった。お姉ちゃんと一緒に行こう。ひなの」
「え、本当?」
「うん。ほら、早く支度してきて。学校には私から連絡しておくから」
「分かった!」
彼女の妹ははしゃいだ様子で自分の部屋に戻って行った。嵐が去った後のように静かになった部屋で彼女と目が合うと、彼女は呆れたように笑った。
お風呂から上がると、二人は既に準備万端な様子だった。僕は急いで支度を済ませた。そして、彼女から指摘されて彼女の父親に会う前に服を買った。そこで服を着替えて、最寄りの駅まで向かった。
特急の電車に乗り、そこで駅のホームで買った駅弁を食べた。彼女の妹は小旅行でもしている気分なのか終始楽しそうだったけれど、彼女は今から訳アリの父親と会うことに対してナーバスになっている様子だった。無理もない。
彼女の妹がトイレに行った隙に、僕は彼女に訊いた。
「ところで、どうして今になって父親に会おうと思ったの?」
「…………あんたがきっかけ」
「え? 僕?」
彼女は不本意そうに「癪だけど」と付け加えて頷いた。
「人の命を犠牲にする復讐っていうやり方には賛同できないけど、自分の後悔を払拭するために行動しているのには、感心した」
「……あの時は、止めてくれて助かったよ」
彼女は僕の言葉に頷いてから言葉を続けた。
「きっと寿命に限りができたことで、自分の中に残ってた後悔を解消したくなったんだと思う。私はずっと、父親とのことが心の中に残っていて、もう一度だけ会いたいって思ってた。あんな最低な父親なのにね」
彼女は自嘲するように笑ってから、窓の外に目を向けた。そのタイミングで彼女の妹が戻って来てしまったため、そこで話は終わってしまった。
特急電車で一時間ほど走ったところで目的の駅に着いた。駅周辺を見ただけでここが田舎であることが分かった。彼女は深く息を吸うと、「んー」と声を上げながら思い切り伸びをした。
「さて、住所が変わってなければ会えるね」
「え、住所は確信してないの?」
「だって、かれこれ五年前の話だからね」
彼女がそんな恐ろしいことを飄々と言ってのけたことに僕は戦慄を覚えた。一方彼女の妹は旅の目的には関心がないらしく、彼女と手を繋いでウキウキした様子だった。
彼女について行くしかないため、僕は大人しく手を繋いで歩く二人の背中を捉えながら歩いた。途中、彼女と彼女の妹は駄菓子屋さんでアイスキャンディーを買った。二人は仲睦まじい様子でオレンジのアイスを口にしながら歩いていた。残念ながら、今の僕には純粋な人間だった頃に違和感無く食べていたご飯やお菓子がおぞましい物に思えてしまう。食欲をそそるどころか、食欲が減退してしまうものにしか思えない。これが、自分が死神になってから変わってしまったことだった。
駅から三十分ほど歩いたところにある古い一軒家の前で、彼女は足を止めた。
「ここよ」
家の表札には、「芽白」と表記されている。彼女は一軒家の外観を隈なく見渡していた。
「……お姉ちゃん、痛い」
「え? あ、ごめん!」
どうやら、緊張で無意識のうちに彼女の妹の手を握る力が強まっていたらしい。彼女は取り乱した様子で彼女の妹の手を摩った。彼女の普段とは違う様子に、彼女の妹も大人しくなった。
もう大丈夫、という彼女の妹の言葉を合図に彼女は父親が住んでいると思われる一軒家の柵の前に立った。そして、呼び鈴を鳴らした。
けれど、誰かが家の中から出て来る気配はなかった。彼女はもう一度呼び鈴を鳴らしたが、誰も出て来なかった。
「流石に情報が古かったか」
彼女は諦めた様子でそう言うと、「帰ろっか」と虚しく零した。その瞬間、「涼音?」という男性の声が耳に届いた。その場にいた全員が、声がした方を振り返った。
「涼音なのか」
「…………お父、さん?」
彼女は、自分の名前を呼ぶ男性に目を見開いていた。その表情は、本当に父親に会えたことを信じ切れていない驚きと、彼が自分の父親に間違いないという確信が混在した複雑なものだった。
「会いに、来てくれたのか」
男性は目に涙を浮かべながらそう言った。そして、彼女はすでに涙を頬に零して泣いていた。男性は、繊細なガラス細工の道を歩くように慎重な足取りで彼女の方に近づいて来た。
「お父さん!」
彼女はそう叫ぶと、男性に抱き着いた。男性は感極まった様子で、「ごめんな」と何度も謝りながら彼女の頭を思い切り撫でた。彼女は今まで見せたことのない年相応の少女の顔をしていた。ずっと、彼女は父親に会いたかった。それが報われたことに、僕は思わず泣きそうになった。彼女の妹は、おそらく父親のことが記憶になかったのだろう。他人事のように、呆気に取られた様子で抱擁を交わす男性と彼女の光景をただただ眺めていた。
ひとしきり泣いた男性は、僕たちを家に上げてくれた。お世辞にも中は綺麗ではなかったけれど、それは家が古いことに起因していて、散らかっているというわけではなかった。
リビングに通されて、僕たちはテーブルの周りを囲った。テーブルの背は床に近く、みんな正座して座った。男性は座った僕たちに向けて言った。
「勝手ながら、また自分の娘と会うことを毎日夢見ていた。できることなら、もう一度一緒に暮らしたいとさえ思っていた。まさか、娘の方から会いに来てくれるなんて、未だに信じられない」
男性は感極まったようにまた目に涙を浮かべた。彼女も男性のそんな姿を見て目を赤くした。
「ちょうど今から昼飯を作るところだったんだ。良かったら食べていってくれ」
男性はテーブルの上にお皿を三枚並べた。人間の食べ物は受け付けないからむしろ良かったけれど、部外者とはいえこうも露骨に自分の分のお皿を出されないのは少々落ち込んだ。すると、男性が僕に声を掛けてきた。
「君は娘の付き添いかな。すまないね。娘が世話になっているみたいで」
「……え、あ、僕ですか?」
「君以外に誰がいる?」
男性は可笑しそうに笑った。
「皿うどんでも作ろうかと思っているんだが、食の好みとしては平気か?」
「……あ、すみません。僕、お腹空いてないので遠慮しておきます。そもそも、お皿は三枚ですから、僕の分ははじいてましたよね?」
「何言ってるんだ。君の分も含めて三枚用意した」
「……それだと数が合わないような気がするんですが」
男性の言葉の意味が分からず、僕は首を傾げた。すると、彼女が何か不吉なものを感じたのか、怯えた様子で男性に訊いた。
「お父さん、その三人っていうのは、誰のこと?」
彼女の質問に、男性は怪訝な表情を浮かべた。
「どうしちゃったんだ、涼音。俺とそこの男の子と涼音の三人に決まっているじゃないか」
「……ねぇ、ここにひなのがいるじゃん。まさか自分の娘のこと、覚えてないの?」
彼女の言葉に、男性は突然笑い出した。僕も彼女も呆気に取られた。
しばらくすると男性は笑うのに気が済んだようで、少し息を切らしながら言った。
「おかしなことを言うなぁ、涼音は。俺の娘は一人じゃないか」
男性の言葉に、彼女は息を呑んだ。僕は彼女が男性と再会した時から今に至るまでの一連の光景を思い出した。男性は一度たりとも、彼女の妹に目を合わせていなかった。男性の中では、彼女に妹はいないことになっている。いや、いないことにしている。いないように振舞う理由がある。
僕は彼女の妹を振り返った。自分の身に起きていることがうまく呑み込めていないようで、茫然としている。僕は思わず彼女の妹の頭を撫でた。すると、そこで初めて彼女の妹は無表情を崩して泣き顔になった。
隣で、彼女が立ち上がった。彼女はつかつかと男性に近づき、思い切りビンタした。乾いた音が部屋に鳴り響いた。
「最っ低」
彼女はそう言うと、こちらを振り返って言った。
「行こう。もう、こんな奴に用はない」
僕は慌てて彼女の妹の手を引いて男性の横を通り過ぎて部屋を出た。三人で玄関まで急いで家を出ようとすると、後ろから男性が叫んだ。
「涼音、飯は?」
「…………」
彼女は恐怖と怒りと悲しみに塗れた表情で唇を噛んだ。僕はその横顔を見て胸が苦しくなった。彼女は男性を無視して家のドアを開けた。
僕は彼女の妹の手を握ったまま、彼女が無言で駅まで目指す後ろ姿について行くしかできなかった。彼女にどう言葉を掛けるべきか皆目見当もつかないまま、自分の非力さを嘆くしかできなかった。彼女の妹は、彼女の悲壮感漂う姿に心を痛めたのか、また声を上げて泣き始めた。僕は彼女の妹の頭を撫でて宥めた。いつもならすぐに処置を施す彼女も今は自分のことで精一杯なのか、こちらを振り返ることはなかった。
駅に着いた頃には、日がすっかり落ちていた。彼女の妹は見知らぬ土地で異常な体験に巻き込まれたのと泣きつかれたことから、深い眠りに落ちていた。駅に向かう途中から、僕は彼女のことをおぶっていた。
駅のホームで電車を待っていた。僕も彼女も疲弊していたこともあって、お互いに無言のままだった。彼女はどこか遠くを見ていた。
心許ないライトを照らしながら、電車がホームに到着した。
幸い車内はあまり人が乗っておらず、僕たち三人は隣り合って座ることができた。彼女の妹は彼女の肩に頭を預けて眠っている。彼女は彼女の妹の頭を撫でながら、口を開いた。
「ありがとう」
「……え?」
「ひなののこと、宥めてくれて」
「……緊急事態だったから」
「あんたがいて助かった。気持ちの整理をしている間、ずっとひなののこと慰めてくれたから、なんとか冷静になれた」
「君には、借りがあるから気にしないで」
僕が言うと、彼女は微笑んだ。けれど、すぐに表情に影を落として俯いた。
「愚かだった。ちょっとでも、お父さんの目が覚めてくれてるって信じた自分が馬鹿だった」
彼女はそう言うと、頭を抱えた。
「こんなことする資格ないと思うけど、失礼するよ」
僕は、項垂れる彼女の頭を撫でた。彼女は驚いたよう顔を上げた。彼女と目が合った。
「昔、何があったのか訊かないんだね」
「訊いていいものかも分からないからね」
「……死神でも、気遣いができるんだ」
「元は人間だからね」
「あんたが死神なら、あいつは悪魔ってところかな。悪魔の方が、よっぽど質が悪い」
彼女はそう言うと、深く息を吐いてから話し始めた。
「昔は、優しい人だった。お父さんとお母さんと私の三人で暮らしてた時は。きっと、誰の目から見ても円満な家族だったと思う。でも、ひなのが産まれてからお父さんは変わってしまった」
彼女は、自分の肩に信頼を委ねる妹の頭を愛おしそうに撫でながら続けた。
「ひなのを産んでから、お母さんは体調を崩した。そして、一年もしないうちに亡くなった。それから、お父さんはおかしくなった。まだ物心のついていないひなのを毎日罵倒し続けた。あろうことか、ひなのを疫病神って呼んだ」
疫病神という言葉を聞いて、鼓動が冷たく高鳴るのを感じた。
「ある時、お父さんに言われたの。ひなのを捨てて俺についてこいって。でも、私は嫌だった。自分の妹を捨てるなんて絶対に嫌だったし、その時のお父さんについて行ってもうまくいくなんて到底思えなかった。だから、私はお父さんからの提案を拒否した。そしたら、お父さんは親戚に私とひなののことを丸投げした」
彼女はきつく目を瞑って息を吐き出した。それから、少し虚ろな目をしながら続けた。
「親戚は元々私たち家族のことを煙たがっていたらしくて、お父さんがいなくなって自分たちが私とひなのを引き取ることを渋ってたんだけど、経済力があったから親戚名義で一軒家を借りて私とひなのをそこに住まわせることにした。それが、今私たちが住んでいる家なんだ。面倒事を持ち込まないことを条件に、私とひなのは今生活できてる。有難いことに口座にお金は振り込んでくれるから一度も生活に困ったことはなかった」
彼女は彼女の妹の額に自分の額を重ねた。彼女は彼女の妹のことを愛おしそうに見つめながら言った。
「でも、ひなのが骨肉腫で入院するようになって普段の生活費よりも多くもらうように連絡したら、図々しい小娘だって私に吐き捨てながら自分たちが関与しなくて済むようにさらにお金を振り込んでくれた。今更愛情なんてあの人たちには求めてないけど、ひなのの命なんてどうでもいいって言われた気がして悔しかった」
彼女は目尻から静かに涙を零した。
「私にとって唯一の家族がひなの。でも、私は一番大切なはずのひなのを、私のエゴで危険な目に遭わせた。そんな自分が、許せない」
彼女にとって一番大切な彼女の妹の命を軽視して契約を交わそうとした当時の自分を思い出した。僕は、彼女から思わず目を逸らした。自分が生きるためだったとはいえ、彼女の宝物を奪おうとしていたことの重みを実感した。
「もしかすると話せばまた昔みたいな関係になれるんじゃないかって。やり直すことができるんじゃないかって。幸せだった頃の家族の光景を手放したお父さんも上手くやれなかった自分も許せなくて、自己満足のためにお父さんに会いに行った。本当はまだ一緒にいられるんじゃないかって信じようとした。あの時、悲しみが押し寄せたからお父さんを狂わせただけで、今ならもしかするとって期待した。でも、今はそんな気持ち全部吹き飛んじゃった。微塵も残ってない」
彼女は自分の胸に手を当てた。自分の気持ちに整理をつけているのだろう。僕は、彼女を抱きしめた。
「いいんだよ。自分だけが大人になろうとしなくていい。自分の気持ちに従ったっていいんだよ。君はもう、十分頑張った」
「……もしかして、あんた泣いてる?」
「ごめん。君の大切な妹を奪おうとしてごめん。本当に、ごめん」
「……もうそのことはいいよ」
彼女は僕の頭を撫でた。慰めるつもりが、逆に慰められてしまった。
僕と彼女の間に沈黙が下りた。気にする必要はないと彼女から言われたものの、その言葉に甘えて首肯するわけにはいかなかった。
彼女にどう返答すればいいのか考えあぐねていると、小さな唸り声を上げた彼女の妹が目を開けた。まだ半覚醒状態らしく、虚ろな目をしている。彼女の妹は、彼女を見上げて言った。
「私、お姉ちゃんさえいればいいよ」
そう言って微笑むと、彼女の妹はまた眠りに就いた。
彼女は、両手で自分の顔を覆うと、声を上げて泣き出した。幸い、まだ田舎の駅が並ぶ区間での乗車だったため、僕たち以外にこの車両に乗っている人はいなかった。
「ごめんね。ひなの、本当に、ごめんね」
彼女はそう言いながら、しばらくの間泣き続けた。自分の妹の頭を撫でながら。
閉め忘れたカーテンを両端に追いやって侵入してくる太陽光と目が合いながら起きた。
普段なら殺人未遂を目論む太陽光と寝起きに遭遇した暁には自身の非力さを嘆くところだけれど、今日に限っては全くダメージがない。昨日以前との自分の体調の変化に困惑しながら、僕は一階のリビングに下りた。
既に彼女と彼女の妹は食卓を囲んでおり、べとべとのバターが塗りたくられたトーストを口に運んでいた。油分を湛えたバターがトーストの縁を這うようにお皿の上に滴り落ちる光景を見て、胃液が込み上げてきた。
「あ、おはよう」
彼女からの挨拶を無視しながらトイレに駆け込んでえづいた。
しばらくしてリビングに戻ると、彼女が僕の顔を覗きながら言った。
「顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」
いつのまにか彼女は自分の命を奪う僕の容態を憂うようになったらしい。不思議な感覚を覚えながら、僕は彼女に答えた。
「大丈夫」
僕はリビングのソファに座った。息を深く吐いてしばらく安静にしていると、先程感じた気分の悪さは幾分マシになった。二人が囲むテーブルから漂うトーストやバターの香りには不快にならざるを得なかったけれど、物を直視しなければ差し支えはない。
僕は気分を紛らわせるためについていたテレビに視線をやった。興味のないトピックが次々と取り上げられるニュース番組だった。それでも、人間の食べ物を注視するよりはよほど有意義だ。
眠気に襲われながらする読書と同じ要領でニュースを眺めていると、背後から二人の会話が響いてきた。
「お姉ちゃん、最近朝はゆっくりだね。私と一緒に学校行ってくれなくなったし」
「ひなのはもう3年生だからね。一人で登校できるようにならなきゃ」
「一人で登校できるもん。ただ、お姉ちゃんと一緒に行きたいの!」
「……ひなの。ごめん。でも、そろそろお姉ちゃん離れしないと」
「最近死神さんばっかりお姉ちゃんを独り占めしてずるい! お姉ちゃんも死神さんも学校に行ってないの知ってるんだからね!」
彼女の妹の発言に、僕は思わず振り返った。すると、彼女と目が合った。彼女は困惑した表情でこちらを見ていた。それから彼女は作り笑いを浮かべて、彼女の妹に訊いた。
「どうして、私たちが学校に行ってないって思うの?」
「だって、この前一人で家にいたとき、お姉ちゃんの学校の先生と生徒が来たんだもん」
彼女の妹の言葉に、彼女は重い荷物を足の上に落としたような顔をした。
「……その人たちは、なんて言ってた?」
「涼音さん、最近学校に来ないですけど元気ですか? って」
「……そっか。それで、ひなのはなんて言ったの?」
「本人に訊いてくださいって言ったよ」
「……そう。ごめんね、黙ってて。その人たちが言った通り、私はもう学校に行ってない」
「どうして?」
「残り短い命だから、自分の好きなように生きようと思って」
「私は学校行ってるのに!」
「ひなのは学校楽しいでしょ?」
「……お姉ちゃんは、楽しくないの?」
驚いた様子で訊ねる彼女の妹に、彼女は自嘲するように笑いながら頷いた。
「だから、学校にはもう行かないの」
彼女がそう言うと、彼女の妹は難しい顔をしながら俯いた。やがて顔を上げると、握り拳を二つ作って腰の両端に添えて言った。
「私も学校行かない!」
「……え?」
「お姉ちゃんと一緒にいる!」
「……ひなの」
「それが、残り少ない命の私がしたいこと」
「…………ひなの」
彼女は目を潤わせながら、彼女の妹を静かに抱きしめた。
「大好き、お姉ちゃん」
「……私もよ。ひなの」
二人は噛み締めるように抱擁した後、彼女の妹は彼女から離れて言った。
「でも、最後の挨拶として、今日は学校に行く」
「……うん。それがいい。それに、学校には行かなくなっても、みんなとはいつでも遊べるからね」
「うん!」
彼女の妹は嬉しそうにはにかむと、テーブルの側に置いてあったリュックを拾い上げて背負い、元気よさげに玄関へと駆けて行った。いつのまにか朝食を平らげていたらしく、お皿は空になっていた。
文化祭が終わった夜の学校みたいな喪失感が部屋に漂う中、僕は彼女と目が合った。彼女はどこか嬉しそうに笑った。僕も彼女につられて反射的に笑いそうになった。
けれど、冷静に考えるとどうして僕は笑おうとしているのだろうか、と正気にかえった。彼女が笑うことと僕が笑うことになんら相関関係はないはずだった。加えて、彼女がどうして嬉しそうな顔をしているのか、先刻までは理解していたはずなのに急に分からなくなってしまった。
自分の身に起きた不可解な感覚に首を捻っていると、玄関から何かが倒れる鈍い音がした。彼女がその音に驚きながら玄関へと急いだ。僕も彼女に遅れて続く。
玄関に向かうと、彼女の妹が片方の靴を廊下に放り投げた状態で倒れていた。よく見ると、小刻みに震えながら左膝を抱えている。唸っているようだった。
「ひなの!」
彼女が取り乱した様子で痛みに悶える彼女の妹の元にかがんだ。
「膝が痛いの?」
彼女は泣きながら彼女の妹に呼びかけたけど、彼女の妹は痛みに顔を歪ませることに終始していて、返答する余裕がないらしかった。
彼女は、何をそんなに慌てているんだろう。彼女の妹が余命宣告を受けている状態であることは、一番よく知っているはずだ。彼女の妹の容態を一時的にでも回復したければ、医学に精通する医者に診てもらう他ないことは明確である。
僕は、彼女に言った。
「救急車呼ぶ?」
「お、お願い!」
「救急車を呼んだ後、かかりつけの病院にも電話した方がいいね。電話番号は知ってる?」
「知ってる……ねぇ、お願い! ひなのを助けて!」
彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で僕に言った。悲痛な表情を浮かべながらこちらに懇願の眼差しを向ける彼女に僕が思ったのは、医者じゃないんだから、だった。
救急車を呼んだ後、取り乱す彼女を宥めながらなんとか病院の電話番号を聞き出した。病院への電話も僕が済ませ、膝の痛みにうずくまる彼女の妹は駆けつけた救急車に乗せられて、彼女も同伴した状態でかかりつけの病院へと向かった。僕は、病院へと向かう救急車を後ろから眺めた。
彼女の妹は宣告を受けていたタイムリミットに向けて着実に衰退していたようで、むしろ残されていた猶予分まで生き続けるのか分からないとのことだった。
悲しみに暮れる彼女は、病室のベッドで眠る彼女の妹の横で涙を流し続けた。彼女によって握られた彼女の妹の小さな手が、彼女の呼びかけで僅かに反応を返した。ここ数日、彼女の妹はほとんど寝たきりだった。
僕は、二人の様子を見ながら自分に起こった変化に困惑すら抱かなくなっていた。
二人の様子を見て何も思わない。今までの自分とは決定的に違う心象になっていることは自覚しているけれど、それが不自然だとは思わない。まるで夢から覚めたようだった。
僕が人間であるという夢から、覚めたみたいに感じられた。
彼女の妹が骨肉腫による痛みで入院し始めて2週間が経った。最初意識がしばらく無い状態だったのが、今では意識の喪失はなくなって容態が安定し始めた。容態が安定したとはいっても、あくまで寿命に限りがある人間にしては、である。
彼女は毎日、彼女の妹の側につきっきりだった。夜もろくに寝ないまま彼女は毎日、彼女の妹の側につきっきりだった。夜もろくに寝ないままだったため、彼女の妹は彼女に家で休むように気遣ったけれど、彼女は普段の冷静さを欠いた様子でその提案を拒否した。そんな日々が続いていたある日、彼女はあることを提案してきた。
「ひなの、湖に行こう」
突然の提案に彼女の妹は最初困惑していたけれど、しばらく思案した後神妙な面持ちで頷いた。
「湖?」
僕が訊ねると、彼女は少し悪い顔色をこちらに向けて言った。
「昔、家族でよく鏡の湖に行ってたの」
「鏡の湖?」
「空を映す湖。朝も昼も夜も、信じられないくらいに綺麗だった」
彼女は自分にとって大切で愛おしい記憶に想いを馳せているはずなのに、どことなく憂いを帯びた顔をした。何故だろうかと思ったけれど、瞬時にその疑問もとい興味は霧散した。
彼女は、自分の気持ちと妹の気持ちを擦り合わせるためにもう一度確認した。
「ひなのは私としか行ったことないけど、本当にいい?」
彼女の妹は、彼女から目を離さずに頷いた。
「行きたい。お姉ちゃんが私と一緒に行きたいと思った場所に、私は行きたい」
「……そっか。ありがとう、ひなの」
彼女は目を赤くしながら彼女の妹を抱きしめた。最近、彼女の涙をよく見かける。彼女の妹の最期が近いことで、何か思うところがあるといったところだろう。
彼女が知ったら激怒するだろうけど、寿命が僅かな彼女の妹を見ていると、契約をしたくて仕方がなくなる。目の前にご馳走があるにもかかわらず、お預けを喰らっているようなものだ。ただ、残念ながら彼女と契約している以上、他の命と契約を結ぶことはできない。
その後、彼女の妹は医者からの外出許可を得た。
僕たちは一旦彼女の家に戻り、身支度をした。彼女がキャリーバッグに着替えなどを詰める傍で、彼女の妹は楽しそうにはしゃぎながら小さなリュックに必要な物を入れている。
「お姉ちゃんと旅行するなんて、いつぶりだろう」
彼女の妹の言葉に僕は驚いた。
「随分な大荷物だと思っていたけど、泊まりがけなんだ」
僕が確認すると、彼女は頷いた。
「その湖はここから遠く離れてるから、日帰りは無理よ」
「……僕、旅費がないよ。君から離れることもできないから……もしかして、僕は野宿?」
最近、夏の暑さや湿気から影響を受けなくなっていた。死神化が進んでいるのだろうか。野宿してもなんら問題はない。
そんなことを考えていると、彼女が突然笑い出した。
「流石に私もそんな鬼じゃないよ。真面目な顔でそんなこと言わないでよ」
「……え、でも旅費が」
「それくらいなら出すよ。親戚のお金だけど。一応、生活費とは別で余った分は貯金させてもらってるから」
「……君がいいなら」
「どうせあと僅かな命なんだし」
「……そうだね」
僕が頷くと、彼女は諦めたような笑みを浮かべた。彼女の妹は先程まで軽やかだった手つきが急に鉛をぶら下げたみたいに重くなった。そして、沈んだ表情で身支度を続けた。
そんな二人の様子を見て、分かりきっていることになにを感傷的になる必要があるのだろう、と思った。
翌日から早速、僕たちは新幹線に乗って目的地を目指した。彼女の貯金にあやかって指定席を確保することができた。学生の長期休暇と重ならない平日であったため、車内は空いている。彼女の手筈で予約された湖の近くにあるホテルは十五時からチェックインを受け付けている。僕たちはちょうどその時間を目指した。
座席は通路を隔てて彼女と彼女の妹が隣り合って座り、僕は二人から孤立した席の通路側に座って隣にはサラリーマンが涎を垂らしながら眠っている。
彼女の妹は窓に手をつきながらはしゃいでいた。その様子を微笑ましそうに眺める彼女の横顔が目に入った。彼女は自分の膝の上に鞄を置いており、その中から薬がいくつか覗いている。彼女の妹がまた痛みを訴えた時の処方薬もとい気休めだった。
しばらくすると、彼女の妹ははしゃぎつかれたのか眠ってしまった。彼女は仕方なさそうに自分の肩にのしかかる彼女の妹の頭を撫でた。彼女は僕と目が合うと、困ったように笑った。
目的の駅に到着すると、起こされた彼女の妹は眠い目をこすりながら彼女に手を引かれた状態で新幹線を降りた。僕はその後に続く。彼女の歩みには淀みがなく、おそらくは湖に行った時にホテルに泊まることが恒例だったのだろう。足取りが思い出を記憶しているようだった。
駅からさらにローカル線の各停電車に揺られた。1時間以上掛けて向かう電車の窓には田園風景が絶えず続いた。目的の駅に着いて改札をくぐると、余計なものが何もないような場所に出たものだと思わず辺りを見まわした。こんなところにホテルなんてあるのだろうか、というのが本音だった。
「ここ、田舎だけど湖を観光する人が多いから、湖の近くに立派なホテルがあるの。他の建物に比べて規模があまりに異質だから、違和感を持つと思う」
彼女はいつもよりも声のトーンを高くして言った。きっと、上機嫌なのだろう。彼女は逸る気持ちを抑えられないといった様子で歩き出した。そんな彼女を見て、僕も嬉しくなった。
……嬉しい? どうして彼女が嬉しいと、僕も嬉しくなるのだろう。他人の感情と自分の感情に相関関係はないはずだ。僕は自分がおかしなことを思ったものだと首を傾げた。
彼女の先導のもと、僕たちは20分ほど掛けて歩いた。途中、傾斜している丘の麓に辿り着いた。一面が草原になっている。僕は巨大な丘に圧倒されながら見惚れた。
「この丘を登って中央に例の湖があるの」
彼女も丘を見上げながら僕に言った。
「夜はすごいんだよ! 湖がね、空を切り抜いたみたいに星が綺麗なんだぁ」
彼女の妹は昔ここに訪れたときのことを思い出しながら、胸元に手をかざした。僕は想像のつかない光景を楽しみにすることにした。
駅から30分足らずでホテルに辿り着いた。彼女は部屋を二つ予約しており、当然一つは彼女と彼女の妹が共同で使い、もう一つは僕が単独で使用することになった。部屋に荷物を置き、今すぐに使うわけでもないクローゼットの中を無意味に開けてみたり、お風呂の中を確認したりと、部屋の散策を行った。窓に掛かったカーテンを両端に開くと、少し離れたところに丘が見えた。ホテルの7階からの景色であるため、広大な丘の全域が見えた。中央の湖を囲うように木が小さな森をつくって隣立している。湖は青空と雲を映していて、遠目から見ても驚くほど綺麗だった。彼女の妹が表現した通りまるで空を切り抜いたみたいで、丘の中央に落下してそのままにされてあるみたいだ。部屋の窓からの光景に見入っていると、部屋のドアがノックされた。
急いでドアを開けると、彼女が部屋の前にいた。
「様子を見に来たんだけど、私たちの部屋と違うところはあったりするかな」
彼女は僕の部屋に入り込んで辺りを見回した。
「特に違いはないみたいね」
「まぁ、同じホテルの部屋だからね」
彼女は全開になった窓に気付いた。窓に近付いて、丘を眺めた。しばらくしてこちらを振り返ると、彼女は僕に言った。
「綺麗でしょ」
僕は素直に頷いた。
「思った以上だった。夜が楽しみだよ」
「夜はカーテン開けちゃダメだよ。丘に登る前に見ちゃったら、もったいないから」
「肝に銘じるよ」
僕が言うと、彼女は笑った。
その後は何故か彼女と彼女の妹が僕の部屋に入り浸ってテレビを観始めた。彼女の妹は未だ僕を警戒しているようで、彼女の腕にしがみついた状態だった。僕が一人になろうと、カードキーを借りて代わりに彼女の部屋に入ってテレビを観ていると、しばらくして二人がこちらの部屋にやってきた。結局、その部屋で一緒になってテレビを観た。
夕食の時間になって食事処に向かった。ビュッフェ形式になっていて、空いている丸テーブルの席に腰掛けた。僕は人間の食事はもはや全く受け付けなくなってしまったため、二人がビュッフェに向かう間の席取り係に徹した。正直、この空間に漂う料理の臭いで気分が悪かった。それでも耐えていると、お盆いっぱいに料理をのせて二人が戻ってきた。
「ローストビーフ、三枚も取ってきちゃった。取りすぎかな?」
彼女は珍しく興奮した様子で言った。
「あ、ひなのもそれ食べたい!」
「あ、ビーフシチュー? 一緒に食べよう」
「君、ビーフばっかりじゃん」
「……うるさい」
僕の指摘に、彼女は少し顔を赤らめて睨んだ。けれど上機嫌が僕に味方したのか、さして気にすることもなく食事を始めた。二人は幸せそうに口を動かした。
それにしても、ビーフか。なんともおぞましい。こんなものを平気で食べることができる二人を見て正気なのだろうかと不思議に思った。けれど、つい半年前ほどには僕も好んで牛肉は食べていた。味を思い出すだけでも吐き気がした。形があるものを自分の身体に入れるというのは、もはや想像することさえタブーに感じられるほど、僕は人間の食事を受け付けなくなっていた。
夕食を済ませた後、僕は満足そうな二人の顔と一緒にホテルを出た。辺りは暗くなっており、田舎ということもあって空気が澄んでいるからか、夜空に瞬く星々が異常なまでにはっきりと視認できた。二人も夜空にご執心だった。
汗を掻きながら丘を登る。旅行シーズンでもない平日の夜が無人の静寂を辺りに散らしていた。彼女の妹は心細そうに彼女の手を握ったまま丘を登った。暗闇は、人間に本能的な恐怖心を与える。けれど、死神となった僕からすれば、昼間の明るさの方がよほど怖い。だからといって普段昼が怖いかと訊かれれば、そうでもない。人間も現代社会において普段から夜に恐怖することがないように、僕も昼に特別な怖さを見出しているわけではない。ただ、人間が改めて夜や暗闇について考えてみれば怖いと感じるのと似ている。死神の本能によって起こる感情なのだろうか。
きっと、人間が夜を怖がるのは闇に紛れて得体の知れない何かが潜んでいるのではないかと疑うからだ。一方で死神は、むしろ闇に紛れることで安寧を得ることができる存在であるため、光に照らされると落ち着かなくなる。自分が存在してはいけないことを自覚している分、浄玻璃の鏡に晒されるような罪悪感がどこからともなく湧いてきて、光に炙り出されたコンプレックスが自分の存在を否定してくる。本物の死神なら、開き直ってそんな葛藤など起こらないのだろうか。袋小路に迷い込んだ死神もどきの僕だけが持つ醜い劣等感なのだろうか。
「どうしたの? 難しい顔してるけど」
彼女が心配そうに僕の顔を覗きこんでいた。僕は至近距離に彼女の顔があったことに少したじろいで身を引いた。
「なんでもないよ」
かろうじてそう答えると、彼女は疑わしげに目を細めてから「そっか」と言った。
緩やかなのにもかかわらずそれなりに高度のある丘をのぼりきると、巨大な星空のドームに囲まれている錯覚を覚えた。プラネタリウムみたいに人工的につくられた光なんじゃないかと思えるほどはっきりと無数の星が四方八方に見えた。こんなにも空が近くに見えるのは初めてだった。
「……綺麗」
彼女は、掠れた声で呟いた。言葉にするつもりもなかったのに、意に反して思わずこぼしたものだろう。放心したように夜空を見上げていた。先程まではしゃいでいた彼女の妹も圧巻の星空に言葉を失った様子だった。口をあんぐりと開けたまま後頭部が背中にくっつくんじゃないかと思うほど、目が上空に捕らわれている。
しばらくして正気に戻った二人と本命の湖に向かった。木が茂る箇所を通過すると、丘の中央部分に無数の白い点が映っていた。最初、水中で大量のプランクトンが発光しているのかと思ったけれど、彼女の説明で星空を鏡みたいに映した湖であることが分かった。事前に鏡の湖のことを聞いていたにもかかわらず、僕は目の前に広がる光景が夜空を映したものだとまるで気が付かなかった。何故かこのまま湖の上を歩いても平気だと思えるほど、目前に広がる湖は美しい。
「正直、思っていた以上だよ」
「そうでしょ」
僕の素直な反応に、彼女は得意げに笑みを浮かべた。それから彼女は口角を徐々に下げて、湖を無表情で眺めた。
「吸い込まれそう」
彼女の言葉に、僕は頷いた。
「確かに、綺麗だもんね」
「そこに、思い出も映し出されたらいいのに」
彼女の言葉に僕は思わず振り返った。彼女の妹は何故か不安そうに彼女の手を握りながら、彼女の顔を見上げている。
「私を置いて行かないで、お姉ちゃん」
泣きそうになりながら、震えた声で彼女の妹が言った。彼女はハッとした様子でしゃがみこみ、彼女の妹の背丈に合わせて視線を合わせた。
「ごめんごめん。私が言った思い出の中には、ひなのもちゃんといるよ」
「……本当?」
「うん、本当」
彼女は笑顔を浮かべて彼女の妹の髪の毛をくしゃくしゃにした。彼女の妹は涙を流しながら笑った。そして、突然彼女に抱きついた。
「お姉ちゃん、怖い。死ぬのが怖い」
「…………ひなの」
「こんな綺麗な世界から消えなきゃいけないのは、私が汚いから?」
「そんなことない! 聞いて、ひなの。人は、死んだら星になるの」
「……星?」
彼女の妹が、彼女から少し顔を引いて見上げた。
「この空に広がっている星は、今まで亡くなった人たちが天国に帰った姿」
「……みんな、綺麗」
「ひなのも綺麗だから、ちゃんと星になれる。私も、ひなのの隣に浮かぶ星になるから」
「……お姉ちゃん」
二人は強く抱きしめ合った。僕は二人に近づいた。彼女の言葉を訂正するために。
「君は何を言ってるの? 人は死んだら、跡形もなく消える。無になるだけだよ」
僕の言葉に、二人は動きをぴたりと止めた。
氷漬けにされたみたいにしばらく静止していた二人だったけれど、やがて彼女の妹が取り乱すように泣き喚いた。すると、彼女が立ち上がって僕を睨んだ。
「あんた、どういうつもり?」
「いや、君の発言に間違いがあったから訂正しただけだよ」
「……なんで、わざわざ訂正なんか」
「特に日本では火葬が採用されているから、強いて言えば灰になる。残された骨もいずれ消滅する」
「……望むことすら、私たちには許されてないの? せめて常世では報われてほしいと願ったって、誰にも文句を言われる筋合いなんてない」
「…………それって、慰め合いってこと?」
乾いた音が、無駄に丘の上で響き渡った。続いて僕の左頬に遅発的に痛みがやってきた。僕は思わず手で頬を押さえた。
「…………サイッテー」
「……何か気に障ったなら謝るよ。僕はただ、夜空に浮かぶ星は恒星で、水素の原子核が互いに融合してヘリウム原子核を発生させる核融合反応を起こしているから人間とはまるで関係がないってことを伝えたかったんだ。人間は死ぬとただの死肉になるんだから」
「…………小鳥遊さんの話を聞いて、気を許した私が馬鹿だった。あんたって最低最悪ね」
僕は、彼女が口にした名前に心当たりがなかった。だから、彼女に訊いた。
「…………小鳥遊さんって、誰?」
彼女は心底驚いたように目を見開いた。彼女は怯えたようにこちらを見ながら言った。まるで、死神でも見たみたいな表情だった。
「……あんた、誰」
「オイラは、死神さ」
「……オイラ?」
彼女が怪訝そうに首を傾げた。その瞬間、記憶の隅に追いやられていた人間だった頃の情景が突然主張を始めた。
教室で静かに俯きながら授業を受ける少女。お弁当を一緒に食べる時だけ笑顔だった少女。ラーメンを食べて幸せそうな顔をする少女。ぎこちなく抱きついてきた少女。顔を赤らめた少女。僕は、彼女に何度も心を揺さぶられた。
……驚いた。僕は、小鳥遊さんのことを忘れていたのか。僕が死神になるきっかけとなった人物のことが分からなくなっていたのか。そのことに一切の疑問を持たずに、僕は目の前にいる二人の少女を傷つけていたのか。自分が先程口にした言葉の数々を思い出して血の気が引いた。僕が、僕じゃないみたいだった。ここにきて初めて、僕は自分の言動に違和感を覚えた。
「……ごめん。一人にしてほしい」
僕はなんとかそう言葉を振り絞ってホテルに戻った。二人を振り返ることはできなかった。
部屋に戻った僕は、ベッドに倒れ込んだ。一旦、何もかも思考を放棄してしまいたかった。僕は、現実逃避するために目を閉じた。頭の中がぐるぐると渦巻くようだった。
夢の中で気が付いた時には、僕は眠っていた。懐かしい夢だ。僕が死神になって間も無く、初めて人間と契約を交わした時の夢だった。
死神もどきとなった僕は、悲鳴をあげる胃を宥めるためにお腹をさすりながら街を彷徨った。耐え難い空腹は、死神が予言していた通り自害よりも欲求を満たすことを否が応でも優先させてくる。
心的な時間の経過感覚としてはとうに数日を超えているけれど、実際にはどれほどの時間が経ったのかは分からない。画面の中に一回り小さい画面が無限に続くドロステ効果みたいに果てしない道のりを歩く心境の中、死神になって初めて快楽を覚えた。
「このにおいは……」
余計に消化するように胃が鳴った。においの出処を探すために視線を辺りに彷徨わせた。においの根源に目が止まった時、僕は納得した。
少し向こうに病院があった。嗅いだことがないはずなのに死神の嗅覚が僕に知覚させたのか、そこで死のにおいが立ち込めているのが分かった。きっと、これが人間が朽ち果てた時に漂う腐敗臭なのだろうと直感的に分かった。けれど、不思議なことに不快感どころか愉悦に浸るほど甘美なにおいに感じられた。新鮮な刺身のように消費期限が切れる前の香りと表現すれば、僕はれっきとした死神だと批評されるだろう。
もはや生存本能を度外視した食欲が、枯渇状態の僕の体内にエネルギーを蔓延させた。僕の身体はこれから獲物にありつくことができることに期待しながら、餌を目前にぶら下げられた犬が舌を垂らすように貪欲な足取りで病院に向かった。
病院の受付を何食わぬ顔で通り過ぎ、においが漂ってくる階へと向かう。病室がいくつも並ぶ廊下を進むと、僕はある一室の前で足を止めた。そして、ドアを開いた。中にはお婆さんが一人、ベッドに横たわって眠っていた。僕はそこに向かって歩を進める。近づく度に死のにおいが増した。
ベッド傍に辿り着いた僕は、お婆さんの顔を覗き込んだ。静かに深い呼吸をしながら、安らかな顔で眠っている。顔の皮膚に縦横する皺が時折ピクリと動いた。
お婆さんから命を頂こうと決めた僕は、途端に視界がモノクロになったことに動揺した。お婆さんの脈打つ心臓だけが赤く、触れるとほつれた糸が一本心臓からのびてきた。同時に、僕の心臓からも赤い糸が一本宙を這うようにのびてきた。その光景を見て、契約者と命を共有するという死神の言葉を思い出した。直感的に、お互いの命の糸を結べば契約が完了することが理解できた。
僕は、今すぐにでもこの二本の糸を結んでしまいたかった。けれど、眠っているお婆さんの命を勝手に弄んではいけないという一縷の良心が呵責を起こした。僕はお婆さんの顔と、お婆さんの命の糸を交互に見ることに終始した。
いずれ耐えきれなくなって、思わずお婆さんの命の糸を握った。ゆっくりとそれを自分の糸に繋げようとすると、不意にお婆さんが目を覚ました。それからお婆さんはこちらに視線を寄越した。僕は驚いてしまって、お婆さんとしばらく目が合ったままの状態になった。
ようやくお婆さんが口を動かした時、僕は驚愕して思わず目を見開いた。
「死神様」
数枚重ねた薬包紙越しに届いたような掠れた声だったけれど、一音一音は何故かはっきりと耳に届いた。どうやらお婆さんは、僕の姿が死神に見えるらしい。
「あなたには僕が、死神に見えるんですか?」
僕の問いかけに、お婆さんは静かに頷いた。死神と相対しているというのに、お婆さんは依然として安らかな表情を揺るがせることがない。震えることのない皺が、何事にも狼狽えることのない年季を表しているように思えた。
「あなたの命を頂きにきました」
「……あぁ、そうでしたか。いよいよですか」
「命を頂戴したからといって、今すぐ命を落とすことはありません。あくまで、残りの寿命を共有させてもらうという話です」
「……半分、あなたに寿命を分け与えるということですか?」
「そうです」
僕が頷くと、お婆さんはしばらく何かを考え込んだ。それから、どういうわけか微笑むとこちらに顔を向けてお婆さんは言った。
「では、余生が半分になったことの引き換えに、話し相手ができたということですね」
「…………はい?」
「おや、命を取るだけ取って何処かにお行きになるのですか?」
「…………」
確かに、寿命を頂くのだから、残り期間で契約者の要望に応えるくらいのことはした方がいいかもしれない。
「あの、今更なんですけれど」
僕がお婆さんの突飛な言葉に動揺しながら訊くと、お婆さんは控えめに首を傾げた。
「死神を見ても怖くないんですか?」
「……なにぶん、私も生きていく中で色々なものを見てきましたから」
お婆さんの言葉から僕には到底理解できないような言語不要の得体の知れない経験譚が読み取れた。
僕は、僕とお婆さんの命の糸を互いに結んだ。その瞬間、信じられないほど贅沢に欲求が満たされる感覚が全身を伝った。この感覚を味わえるのなら、もう人間には戻らなくてもいいと思ってしまうほどだった。けれど、小鳥遊さんの顔が思い浮かんですぐに首を横に振った。僕が死神になったのは、復讐のためだ。目的を見失ってはいけない。
僕は顔を上げると、お婆さんに宣言した。
「これで契約完了です。あなたが亡くなる直前まで、僕はあなたの側で話し相手になります」
お婆さんはそう言う僕を見て今日初めて驚きの表情を見せた。
「……あなた、私の孫と同じくらいの男の子だったのね」
「…………孫?」
お婆さんの不可解な言葉に戸惑っていると、病室のドアがノックされた。そして、病室に医者が入って来た。医者と目が合うと、僕の存在に驚いて警戒するように少し身を引いた。けれどすぐに柔和な表情に戻して僕に言った。
「おや、芽白さんのお孫さん。部屋を移られていましたか」
「……はぁ」
「家族団欒に割り込んで申し訳ない。お婆様に話がありまして」
医者の発言が意味するところが理解できずにお婆さんに視線をやると、お婆さんと目が合った。お婆さんは何を思ったのか僕に頷くと、医者に言った。
「唯一、私を慕ってくれる可愛い孫なんですよ」
「それはそれは。随分と孝行者で」
医者の言葉にお婆さんは嬉しそうに笑った。
少し距離を置いた位置で医者とお婆さんのやり取りを眺めつつ、この病室で起きた出来事を思い返した。
どうやら、契約する瞬間には契約者から見た僕の風貌は死神らしい。その上、契約が完了すると契約者の認識が変更されて僕が人間に見えるようになり、さらに僕以外の人間からは、僕と契約者の間に相応の関係性が見えるようになるようだった。ただし、契約を済ませた人物だけは、僕が死神であることは覚えている。なんとも複雑な話だ。
しばらくして医者がお婆さんへの用を解消して病室を出て行った。病室から足音が遠ざかって行くのを確認した僕は、お婆さんに訊いた。
「僕は、あなたの孫なんですか」
「……という話になってるみたいだね」
「お婆さんは、僕の正体は覚えてるんですか?」
お婆さんは僕の質問に頷くことで返した。それから、お婆さんは言葉を続けた。
「さっきお医者さんが来た時、どうやらあなたも状況を理解していないようだったから、話を合わせたんだけどねぇ。もしかして、人間の命をもらうのは私が初めて?」
「……仰る通りです」
僕が絞り出すように答えると、お婆さんは僕の全身に視線を滑らせた。目を細めるお婆さんから感じる貫禄を思わせる鋭い観察眼に見定められているようで居心地悪く感じた。
「……えっと、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「おや、死神でもお手洗いに行くのね」
「……どうでしょうかね」
僕はお婆さんにそう言い残して病室を後にした。なんとなく、病室の中にいるのが気まずかった。全てを見透かされている気がした。それが耐えられなかった。僕の汚い過去が、見ず知らずの老人にバレてしまうことさえ嫌だった。
足早に病室から離れようと廊下を進んだ。一度病院から出ようと思って階を下り、受付の横を通り過ぎて外に出た。入り口から数歩して、僕は突然何かに弾き飛ばされた。思わず尻餅をついて前方に視線を戻したけれど、何もない。首を傾げつつお尻の砂埃を払いながら再び進もうとすると、またしても何かに全身が弾かれた。今度は構えていた分転ぶことはなかったけれど、見えないバリアが病院の中と外を隔てていることに絶望した。病院から脱出しようとすると、さながら体積の巨大な蒟蒻に体当たりしたような感触がある。
「命を共有しているから離れられない、といったところか」
思考を整理するために独り言を零し、僕はお婆さんのいる病室へと戻った。お婆さんは僕が病室に無断で入っていることを一切の抵抗なく許容しているようだった。死神はおろか、僕のことを医療従事者とでも思っているのではないかと錯覚するほど、お婆さんは落ち着いている。
「戻ってくるのに時間が掛かったね。一度病院を抜け出したんじゃないかと思うほど」
「……お見通しってわけですね」
「その様子だと、病院からは出られなかったようね」
お婆さんの推測に苦笑いすると、悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「何事も、最初は勝手が分からないものよ」
お婆さんはそう言うと、僕をベッドの側にある椅子に座るように促した。
「和菓子、食べない?」
ベッド傍にある台に、縁が内側に傾斜している木製の大きな茶碗みたいなボウルに大量の和菓子が敷き詰められていた。
「ありがとうございます」
僕は和菓子の一つを手に取った。正直、ご馳走は十分に堪能したからか、全くお腹が空いていなかった。それに加えて、何故か今までで一番、和菓子を目の前にして食欲がそそられなかった。それでも包み紙を剥いて和菓子を口に入れた。その瞬間、信じられないほどの不快感と吐き気が全身を駆け巡り、やがて口内に終着した。
「どうしたのかしら?」
お婆さんの言葉に反応する余裕もなく、僕は口元を押さえてトイレに駆け込んだ。トイレの個室に入り、便器に向かって盛大に嗚咽した。けれど、もはや人間ではなくなってしまった僕の身体からは、何も出てこなかった。しばらくえづいた後、水道水で口元を洗った。鏡に映った自分の顔から徐々に青さが引いていった。僕の顔は、人間以外の何者でもない。死神もどきにすらなれない半端者だった。お婆さんは、一体僕にどんな姿を重ねたのだろう。
体調がある程度回復してから病室に戻った。お婆さんは心配そうに僕に言った。
「大丈夫? ベッドで横になるといいわ」
「あ、いや、病人はお婆さんの方でしょ」
「少しの間だけよ。ほら、横になって」
「自分の命を弄ぶ死神を心配してどうするの。僕は大丈夫だから」
ベッドから降りようとするお婆さんを引き留めると、お婆さんは何故か感慨深そうに笑った。
「死神様に自分の体調を心配されるなんて、可笑しなものねぇ」
「…………そうだね」
お婆さんの言葉は何故か僕を責めてはくれない。その優しい言葉や眼差しがむしろ、僕の人としての心をピーラーで何回も削ってくるような痛みを蓄積させてくる。
お婆さんを見ると、仏のような顔で僕に微笑んだ。そして、ゆっくり口を開けて言った。
「あなた、彼女はいるの?」
「…………なんだって?」
「年頃なんだから、好きな人はいるんでしょう?」
「……突然どうしたの」
「孫とこういう話をするのが夢だったの。息子が孫には会わせてくれなくてねぇ。だから、今目の前にあなたが現れてくれて舞い上がってしまって」
お婆さんは楽しそうに笑った。
僕は、お婆さんの質問に答えた。
「彼女はいないよ。いたとしても、僕は身内には言わない」
「好きな人くらいいるでしょう」
「……いや、いない」
「今、間があった」
うふふふ、とお婆さんがしてやったりと言わんばかりの表情で小悪魔的に笑った。
「お婆さんくらいの年齢になっても、こういう話は好きなんだね」
「いくつになっても、人は人を愛することはやめられない」
「それは面倒だね」
「それが幸福でもある」
「…………じゃあ、今度はお婆さんの番」
「私?」
「お婆さんの恋愛話」
「あら、まぁ」
お婆さんは照れたように頬に手を添えた。
「こんなおいぼれの話なんて興味はないでしょう?」
「今の話じゃなくてもいいよ。昔の話とか」
「……そうだねぇ。もう五十年も前の話になってしまうんだけれど、王子様に恋をしたことがあるの」
「……王子様?」
「旦那さんのことよ」
「……随分とお熱い様子で」
「それはもう、あの人の格好良さと言ったら私に残された寿命ではとても語りきれないわ」
お婆さんは恍惚とした表情でそう言ってみせたけど、こちらからすれば後ろめたさ以外感じられない。僕は気まずい思いのままお婆さんの話に耳を傾けた。
「でも、どの時代ももったいないことをするもので、他人のためを想う良い人ほど早くに亡くなる世の中だった」
「…………それって」
僕がお婆さんの意味するところを察すると、お婆さんが神妙な顔で頷いた。
「戦争よ。私の亭主は、お国のために身体を張る兵士だった。自ら志願して行ったわ」
「……それが、正義だと思っていたんですね」
「事実、そうした正義を持った人たちがいなければ、日本はもっと悲惨な状況になっていたわ」
「……お婆さんは、どう思っていたんですか?」
「…………そうね。当時の日本に対してというより、あの人個人に向けて思っていたことはあったわ。たった一つだけ」
お婆さんは、こちらに顔を向けてはいるけれど、目の前に広がる病室の光景や僕の姿は視界に入っていないだろう。過去の思い出が染み込んだコンタクトレンズを目に馴染ませたみたいに、お婆さんの五感だけが当時にタイムリープしていた。
「死なないで。そのことだけ、願っていたわ」
お婆さんは涙を流すことなく微笑んだ。まるで、僕に夫の姿を重ねるように。
「あの人が戦争で亡くなるまで、文通はずっと続けてたのよ。今で言うとLINEっていうものかしら?」
「……文通なら、分かりますよ」
「あらあら、ごめんなさい。あ、そうだわ。あの人、手紙の中でびっくりするような事を書いていたのを思い出したわ。あなたを見ていたら」
「……どういうことですか?」
「あの人、戦場であだ名がつけられていたそうなの。味方にも、敵国にも」
お婆さんは口元を押さえながら控えめに言った。
「死神」
僕が驚いた表情を浮かべると、お婆さんは満足そうに口角を上げた。
「どの戦場に赴いても、死なないし敵の兵士たちは屠るしで、自他共に死神という称号を掲げてたそうなの。敵からすれば一番相手にしたくなくて、仲間を惨殺した憎い人物だったでしょうね」
「……そうでしょうね」
「でも、私は彼のことを愛していたわ」
お婆さんは物腰の柔らかい表情の中に、芯の通った鋭い眼光を覗かせた。僕は自分の身が強張るのが分かった。
「日本の人口よりも多い数の人々から嫌われていても、私は彼のことを愛していた。彼が人の命をどれほど奪ったかは知っているわ。でも、私には彼が必要だった」
一度そこで言葉を区切ると、お婆さんは首を少し傾けて僕に言った。
「あなただって、死神だからといって全員から拒絶されるわけじゃないわ。きっと、あなたのことを慕ってくれる人がいるはずよ。あなたは素敵な人よ」
お婆さんは目を糸みたいに細くして微笑んだ。頬の皺が柔らかくしなる。その様子を見た僕の視界は、やがて濁っていった。
「……ありがとう」
「うふふ、良い子ね」
お婆さんは僕の頭に手を伸ばしてきた。けれど一度僕の頭上に届かない位置で手を止めた。それから何かを確かめるようにゆっくりと僕の頭に到達した年季のある手が、優しく頭を撫でてきた。
僕とお婆さんの奇妙な関係はそれからも続いた。死神として対象者と契約したことで、両者が常に一緒にいることに整合性を持たせるために世界が采配してくれたことにも気がついた。死神といえども睡眠は必要らしく、お婆さんとの契約によって病院から出られないことから睡眠を取るときにどうすればいいのか初日に危惧していたけれど、後の看護師さんからの言葉で自分も祖母と同じこの病院の患者であることが発覚したのだ。
また、僕はお婆さんから栄養分を分けてもらっているからか、一切の食事を必要とすることがなかった。むしろ、看護師がお婆さん宛に運んでくる食事を見て吐き気を催すほどだった。そして、僕の病室には食事が運ばれてくることは一切なく、興味本位でそのことについて複数の看護師さんに訊いたところ、誰もが「もう食べましたよね?」という回答を返してきた。これも世界が僕とお婆さんの関係を肯定するために施した調整なのだろう。
僕とお婆さんが知り合ってから二ヶ月が過ぎた頃、お婆さんは医者から外出許可をもらった。僕も同様に外出許可を取り、お婆さんと出掛けることになった。
お婆さんは白い杖をつきながら、病院の外に出た。僕もお婆さんと足並みを揃えて病院の敷地外に出た。どうやら、病院という領域に囚われていたわけではなく、お婆さんから離れられないという制約が掛かっていたらしかった。
お婆さんはゆっくりとした足取りで道の端に立つブロック塀に手をつきながら、杖を支えに歩いた。途中、ブロック塀沿いに並ぶ電柱にぶつかりそうになったお婆さんの動きを慌てて止めた。
「ごめんねぇ」
お婆さんは申し訳なさそうに自分の隣を見上げた。けれど、僕は背後からお婆さんの背中を支えていた。だから、お婆さんが何もない自分の真横を見上げているのは不自然だった。
そこで初めて、僕は思い出した。白い杖は、盲目の人が使う杖である。昔読んだ本にそのことが書かれてあった。
「お婆さん、目が見えないんですか?」
僕が訊くと、お婆さんは声が聞こえるのが後ろだと分かって振り向いた。
「おや、気づいてしまったのね。えぇ、もう十年以上は真っ暗な世界で生きているわ」
「……どうして言わなかったの」
「そうねぇ。目が見えないから、誰か一緒について来てくれる人がずっとほしかったの。ようやくあなたが現れてくれたというのに、目が見えないことがバレたら面倒に思われるんじゃないかと怖かったの。きっと今が、私があの人に会える最後の機会だから、それを無碍にするわけにはいかなかった」
初めて見せるお婆さんの弱さに僕は胸が痛くなった。お婆さんにとって、自分がこの世界から消える前に亡くなった夫に会いに行くことができなくなることは、何よりの恐怖なのだろう。きっと、死神に自分の命が取られることよりも。
僕は、杖を持っていない方のお婆さんの手を握った。
「誘導するから、お婆さんは道案内して」
お婆さんは僕の言葉に驚いた様子だった。けれど、静かに微笑んで頷いた。
「ありがとう。あなたは優しい子ね」
「お婆さんは意外と小心者なんだね」
お婆さんは僕の言葉に笑った。
お婆さんの手を握りながら、僕はお婆さんの指示に従いながら目的地を目指した。途中で駅に入り、それから特急で隣町に向かった。
特急電車に揺られながら、僕はお婆さんと二人掛けの席に隣り合って座った。お手洗いに行く欲求を失った僕が窓側の席に座ってお婆さんと話しつつ、時折窓の外をぼんやりと眺めるのを繰り返した。
「私は自分の家族や親戚とはもう随分と長い間会っていなくてねぇ。特に息子のことが心配でならないわ。あの子、根は優しいのだけど精神的に弱っちいのよ。佐知子さんが先立ってから、あの子はすっかり衰弱してしまった」
お婆さんはため息を吐きながら顔をしかめた。
「あの子が子どもを授かって、ようやく待望の孫と余生を過ごせると心踊らせたのだけれど、とうとう一度しか会わずじまいね」
お婆さんはそこまで話して、ハッとしたように僕の方を振り返った。
「ごめんなさい、ついつい愚痴を零してしまったわ。恥ずかしい限りよ」
お婆さんは不本意そうに手を顔の前で煽いだ。
「二人の孫がいるのだけど、上の子はあなたと同じくらいじゃないかしら。二人とも女の子だから、よかったらどちらかあなたの伴侶にしてくれないかしら?」
「……遠慮しておきます」
「うふふ。私はあなたに長く生きてほしいと思ってはいるけれど、この二人と契約を交わすのはどうかやめてちょうだいね」
お婆さんは冗談っぽく笑った。
お婆さんは久しぶりの外出に疲れたのか、しばらくしたら眠ってしまった。手持ち無沙汰になった僕は、目的の駅に着くまでの間、窓の外を眺めることに終始した。
お婆さんが口にしていた駅名のアナウンスが流れると、それまで眠っていたお婆さんが静かに目を開いた。聞き馴染みのある駅名が無意識領域まで届いたのだろう。特急電車が駅に到着する前に、お婆さんはそれまで木にぴったりとくっついていた蛹から脱皮するように杖をつきながらむっくりと立ち上がった。
僕はお婆さんの手をとりながら電車を降りた。
そこから、お婆さんの誘導に従って目的地を目指した。駅から二十分ほど歩くと、墓地が現れた。お婆さんは墓地の中に入ると鼻腔に集中するように深く息を吸い、感極まった様子で目を潤わせた。
何も誘導せずとも、ある墓石の前でお婆さんは立ち止まった。
「あなた。会いに来ました」
お婆さんはそう言うと手を合わせて目を瞑り、顔を下に向けた。他人には聞こえない程の声で、お婆さんは何か呟いた。僕は隣でお婆さんの様子をただ見守るしかなかった。しばらくお婆さんが墓石の前で静止しているのを眺めていると、名残惜しそうに手をおろすのが目に入った。
お婆さんは墓石の前で頭を下げると、僕の方に近づいて来た。すると、満足そうに微笑みながら言った。
「行きましょうか」
「もういいの?」
「えぇ。あの人に伝えたいことはもう伝えましたから」
「……そっか」
僕は再びお婆さんに手を貸しながら駅まで向かった。帰りの電車の中では、行きの電車よりもお互いの口数は少なかった。特に、お婆さんはほとんど口を開くことはなかった。行きに比べて疲れてしまったのか、あるいは大切な人に会いに行くことで生じる落ち着かなさを紛らわせる必要がなくなったからか。いずれにせよ、憑き物が取れたように穏やかだった。
「お婆さん」
僕が呼びかけると、通路側の席に座るお婆さんがゆっくりとこちらに顔を向けた。
「どうしてあの時、僕が死神だって分かったの?」
「…………」
「お婆さんは目が見えないはずなのに」
「……あなたが私の病室にやって来る前、あの人の夢を見ていたの」
「……旦那さんの夢」
僕が言うと、お婆さんは頷いた。
「あの人ったらいつもみたいに冗談ばっかり言って。自分を死神だと揶揄したの。だから、私はあの人の言葉を復唱した。その時に目が覚めて、只ならぬ気配を感じた。目の前に、あなたがいたのよ」
お婆さんは可笑しそうに笑った。
「そしたら、あなたが自分のことを本当に死神だなんて言うんだもの、年寄りを揶揄いたい人が私の病室に忍び込んだんだわって思った」
お婆さんは当時のことを思い出したのか「うふふ」と声を上げて笑った。
「命の契約をするなんて話になったから、私は誰か見知らぬ人に殺されてしまうのねって思った。でもね、あの人が夢に出てきたのはこれが理由だったんだって思うようにしたの。あの人のお告げ。だから、全然怖くなかった。心の中であの人に呟いたもの。もうすぐ会えます、って」
僕は、穏やかな表情でそう話すお婆さんから思わず顔を逸らした。
「でも、あなたのいう契約が結ばれた時から、先の命が本当に短くなったんだって自覚したわ。自分の身体のことだから分かるの。そうしたら、あなたから悍ましい雰囲気が消えた。それと同時に気が付いた。あぁ、この子は元々普通の子で、魅入られてしまったんだって」
「……魅入られたっていうのは、死神に?」
「おそらくだけれど。契約した後は、優しい雰囲気の男の子の気配しかしなかったから、話し相手ができた! って素直に喜んじゃったわ」
「……あの言葉は本当だったんだ」
僕が呆れながら笑うと、お婆さんは「もちろんよ」と嬉しそうに言った。
「あなたのおかげで、とても楽しい余生が過ごせたわ」
お婆さんは僕の手に自分の手を重ねると、見えていないはずの目で真っ直ぐとこちらを見つめながら言った。
「ありがとう」
その言葉で僕は、お婆さんを直視できなくなった。
「ごめんなさい」
「……どうしたのかしら?」
お婆さんは困惑した声で言った。
「お婆さんの残り少ない命を奪ってしまって、ごめんなさい」
「……何言ってるのよ。ほら、顔を上げて」
お婆さんの言葉に従った僕は、涙や鼻水を垂れ流したまま懺悔した。お婆さんは仕方がないといった様子で僕の頭を撫でた。車内を行き交う人たちに奇異な目で見られたけど、そんなことが気にならないくらいに僕は謝った。
「もう、誰の命も取らない。約束する。こんなことじゃ、お婆さんの時間は取り戻せないけど、約束するから!」
「…………」
「最低だ、僕。お婆さんに長生きして欲しいって思っちゃったんだ。こんなこと、思うことも言うことも許されないのに」
お婆さんは僕の頭を撫でながら、優しい声音で僕に言った。
「…………ありがとね。謝る必要なんてないわ。でも、これだけはどうか約束してちょうだい」
お婆さんは真剣な表情で僕に言った。
「どうか、生きて」
「…………」
「あなたが生きることを、私が肯定する。あなたが誰かの命を頂きながら生き続けることを、私が許可するわ。文句を言われたら、私が全て責任を請け負うから」
お婆さんはそう言うと、僕を抱きしめた。僕は恥ずかしげもなく泣き喚いた。
後ほど、僕たちは車掌さんから軽くお叱りを受けた後、無事に駅にたどり着いた。病院に戻ってから、僕とお婆さんはまた他愛のない話をした。
それから一ヶ月後、お婆さんは息を引き取った。朝目を覚ましてからお婆さんの病室に向かうと、医者がお婆さんの胸元に聴診器を当てていた。それから、時刻を口にすると手を合わせた。こちらを振り返った医者は、深刻そうな顔をして僕に言った。
「残念ながら、お婆さんは」
「…………はい」
「最期の挨拶をしてあげてください」
医者はお婆さんが眠るベッドから離れて僕に譲ってくれた。僕は会釈をしてからお婆さんの側に向かった。
お婆さんの表情は安らかだった。触れずとも、白くなった肌は氷のように冷たくなっていることが窺えた。僕は、恐る恐るお婆さんの頬に触れた。その瞬間、お婆さんは突然灰になった。微塵も意図せずベッドの上が灰まみれになったことがあまりにも現実離れしていたため、僕はしばらく立ち尽くした。耳鳴りがするほどの静寂を破ったのは、医者だった。
「これは、一体……」
医者もお婆さんが灰になった瞬間を目撃していたらしく、医者だけでなくこの病室にいる全員が言葉を失って立ち尽くしていた。
しばらくの静寂の後、医者が正気を取り戻したみたいにハッとした。それから僕の肩を叩いてきた。僕の背後にいる医者を振り返ると、医者が奇妙そうに言った。
「あなたは、誰かね」
医者の言葉で全てを悟った。僕は、お婆さんの側にいる理由がなくなったのだ。急速に空腹が主張し始めて、僕の胃の中を台風みたいに渦巻き出した。
僕は医者の言葉に反応することなく、お腹を抱えながら病院を飛び出した。訳も分からずに無我夢中で走り続けた。もう僕を制約するものはなくなったため、病院からは容易に離れられた。信じられないほどの空腹に苛まれながら、僕はいよいよ潮時だと思った。
「消えてしまおう」
お婆さんの冷たくなった顔が思い出されると同時に、挙句の果てにお婆さんに触れたことで灰にしてしまった光景が脳裏に焼き付いて離れない。こんな得体の知れない存在はこの世に存在すべきではない。僕は道の真ん中で膝をついた。涙が止まらなかった。
僕は、人格者であるお婆さんの寿命を半分にした。僕なんかが、お婆さんの僅かではあるものの想像を絶する価値のある未来を奪ってしまった。安易にお婆さんと契約を交わしてしまった。よりによって、どうしてあんなにも良い人を引き当ててしまったのだろう。もしかすると、僕がお婆さんに触れたことで、天国へ進むはずだったお婆さんの魂を地獄へと引きずり落としてしまったのではないだろうか。
「どうか、生きて」
不意にお婆さんの言葉が過った。
お婆さんは、僕が生き続けることが恩返しとでも言うのだろうか。死神がこの世界に蔓延ることを許容するつもりなのだろうか。ともすればお婆さんの夫も、本物の死神に連れ去られてしまったのではないのだろうか。自分をあんな姿にしてしまったことさえも受け入れてしまうのだろうか。死神が、憎くはないのだろうか。
もう、訊きたい相手であるお婆さんはどこにもいない。お婆さんが生きていたとしても、僕はこんな質問はできなかっただろう。死神のくせに、最期を看取ることさえできなかった。そのことが、ただただ愚かだった。なんて間抜けな死神なんだろう。いや、死神にすらなり損なった死神もどきだ。
「分かったよ、お婆さん。もう少しだけ、生きてみるよ。誰かを犠牲にしてしまうけれど、あなたに生きて欲しいと思ってもらえたのなら、もう一度だけ」
僕は、お腹を空かせたまま、街を彷徨った。今度は、契約者に情を持たないことを誓いながら。滑稽なことに、自ら死が近い人間のもとに向かい、自ら対象者の寿命を半減させているにもかかわらず、僕は相手が死ねばこうやって絶望する。全くもって、無意味なことだ。
だから僕はもう、誰のことも愛することのない死神になることに決めた。本物の死神になれたらどれほど楽だろうか、と独り言を胸中で呟きながら。
何かを叩くようなくぐもった音が耳に届いて目を覚ました。すぐにまた同じ音が耳に届き、誰かがドアをノックする音だと気が付いた。随分と濃密な夢を見た。目尻に違和感を覚えて指を当てると、水滴がついた。勢いよく目元を擦って、僕はベッドから降りた。
ドアの鍵を外すと、廊下に彼女が立っていた。最初彼女は俯いていたけど、泣き腫らしたみたいに赤くなった目で僕を見上げた。
「……どうしたの」
「……様子が変だったから、確認しに来た」
「……どちらかというと、今は君の様子の方が変だけどね」
「…………」
「とりあえず、入りなよ」
僕が言うと、彼女は素直に従って部屋に入って来た。彼女は長方形を成すベッドの短い辺の縁に腰掛けた。僕は彼女の隣に座った。
しばらく沈黙が走って気まずい思いでいると、彼女が不意に口を開いた。
「さっきは、ごめんなさい」
「……え?」
「叩いた」
「……あれは、僕が悪かったから。どうかしてたよ。ごめん」
彼女は僕に一瞥をくれてからすぐに視線を逸らし、頷いた。それからまた沈黙が続いた。僕はただ、彼女が話し始めるのを待った。どう声を掛けたらいいのかも、どうして彼女がしおらしくなっているのかも見当がつかなかったからだ。
おそらく十分くらいお互いに何も話さなかった。いよいよ僕が何か言うべきかと思っていると、彼女の方が沈黙を破った。
「嫌な夢見た」
「…………夢?」
「お父さんが家から出て行った時の夢」
彼女は唇を噛みながら言った。
「ねぇ、なんでひなのなんだろう」
「……え?」
「なんでひなのが死なきゃいけないの? なんで私じゃなくて、ひなのが病気にならなきゃいけないの? あんなにも良い子なのに。汚い私の方が、よっぽど死んだ方がいいのに」
彼女は両手で顔を覆って泣き出した。
「私、最低だ」
今まで抑圧してきた感情を一気に爆発させるように彼女は声を上げて泣いている。震える彼女の背中に、僕は手を置いた。
「どんな夢を見たの?」
「…………昔の記憶だった。お父さんがある夜に、ひなのを捨てて自分について来いって言ってきた。あの時、行かないって言わなければ、幸せだったのかなって。もしあの時、振り返った時にひなのの寝顔が目に入ってこなかったら、私は幸せな人生を送れてたのかなって、そんなことを思ってしまった」
彼女は呼吸を乱していた。僕は背中をさすり続けて、彼女に深呼吸するように言った。彼女は声の混じった上擦った呼吸を繰り返した。肩を上下させる幅が徐々に小さくなっていき、最後に深く息を吐いた。
「昔、ひなのと一緒に生きる選択をした自分は間違ってなかった。それは、断言できる。でも、自分を許せなかったのは、自分の耳に届いた『あの時、お父さんについて行ってたら』っていう言葉が、今の自分の声だった。それって、無意識のうちに私がひなののことを責めてるってことだと思った」
彼女は諦観したように「最低だよね、私」と含み笑いをした。彼女は僕の胸元に頭を預けてきた。僕は内心、動揺した。
「なんか、あんたにはよくこういう話しちゃうね」
「……こういう話?」
「なんとなく、同じではないにしろ境遇が似ている気がしてるのかも。誰かに対する後悔があるところも、語弊を恐れずに言うと結局は報われなかったところも。本当に性格悪いこと言うけど、恵まれてる周りはいいねっていつも思ってた。本当につらい人の気持ちなんか知らないだろうし、知ろうとも思わないほど恵まれていていいねって独りよがりな僻みを持ってた」
彼女は自嘲するように笑った。
「私、死神の才能あるかも」
「……どうかな。君は死神になるには惜しいくらいに人格者だと思ってるよ」
「どこがよ」
彼女は思わず、といった要領で笑った。
「僕が隣にいることを許してくれている時点で、君は死神にはなれないよ。死神になるには、君が思っている以上にもっと世界から嫌悪される存在である必要がある」
僕は彼女の頭を撫でた。彼女は少し面喰らったように口を開いた。僕は、彼女の額にキスをした。
「君が星になったらきっと、驚くほど綺麗なんだろうね」
「な、なにそれ。急になんなの」
彼女は慌てながら立ち上がった。彼女を見上げたまま僕は言った。
「残念ながら僕は、星じゃなくて灰になる存在なんだ。死神になってみて、僕は自分の身体が全くの別物に変化した自覚がある。宇宙に存在する物質は、人間の身体を構成する成分を含んでいる。でも、死神はその物理法則から外れてしまっている。存在するはずのない、存在が許されていない禁忌。星になる素質がない。それが、死神だよ」
僕が捲し立てると、彼女は何かを言おうとした。けれど、思いとどまったのか言葉を呑み込んだ。
「さっき、死神に支配されて分かった。本当の闇を理解した。そんな闇を君は拒否した。大丈夫。君は光を望む良い人だよ」
「……ありがと」
彼女は何故か不機嫌そうな声で言った。
「何か気に障った?」
「…………色々ひどいことは言ったけど、あんたのこと、良い人だって思ってるよ」
「……それは意外だね。寿命も半分もらってるのに」
「言われてみれば。前言撤回しようかな」
彼女は、そう言って笑った。先程までの自嘲を混ぜた笑いなんかじゃなくて、自然と現れた笑顔に思えた。
「なんで笑ってるの?」
「……僕、笑ってた?」
「笑ってたよ」
「君が笑ってたからかもね」
「……どういう意味?」
「さぁ」
彼女は「なにそれ」と言いながら僕に尋問してきた。けれど、僕は確固たる意志で口を割らなかった。
それからしばらく他愛の話が続いた。その会話の中で、彼女はふとこんな話をした。
「私、死んだらあの湖に骨を撒いてほしいな」
カーテンを開け放った窓越しの湖を見ながらの言葉だった。僕は思わず彼女の横顔を凝視した。しばらく彼女がぼんやりと外を眺めている様子を見守っていると、突然こちらを振り返った。僕は思わず上体を逸らした。
「頼んじゃおっかな」
悪戯っ子のような笑みをこちらに向けながら、彼女は上目遣いで僕の表情を窺った。
「……僕がそんな大役を背負っていいの?」
「いいの」
「君の命を奪う相手だよ」
「だから、その償いとして、引き受けてよ」
「……検討しておく」
彼女は僕の言葉に満足そうに頷いた。彼女が何を思っているのかは、分からなかった。
それから、僕たちがどうしたのかは全く記憶にない。気が付くと、カーテンが開け放たれているのをいいことに、太陽光が得意げにベッドの表面に光の水溜りをつくっていた。
思わず唸りながら寝返りをうつと、目の前に彼女の寝顔があった。声こそ出さなかったものの、勢いよくベッドから飛び降りた拍子に彼女が目を覚ました。髪を跳ねさせながら眩しそうに欠伸をした。口元をもごもごさせた後、僕と目が合った。細められていた目が徐々に見開かれ、驚愕に満ちた眼球が今の状況を把握し出した。
「うわっ」
彼女は頭を抱えて叫んだ。
「え、どうして。やだ、私……」
彼女は狼狽えながら独り言を呟いた後、再び僕と目が合うと急速に顔を赤くした。枕を手にして顔を隠した。それから顔の半分だけ覗かせて気まずそうに口を開いた。
「ごめん」
「……ぷっ、あはははは」
「……え、どうしたの?」
彼女は僕が突然笑い出したことに戸惑っている様子だった。無理もない。ただ、いつもしっかりしようとしている彼女が、こんなポンコツな姿を見せてくれたことが可笑しくて、嬉しかった。
……どうやら僕は、彼女が嬉しいと自分も嬉しくなるようだった。
恥ずかしがる彼女をドアまで送った。ドアを開けると、目の前の廊下に彼女の妹が立っていた。
「そこで死神さんと何してたの?」
僕も彼女も予期せぬ事態に固まった。
彼女はなんとか彼女の妹に説明し、お互いの部屋に戻って各々帰る支度をした。ホテルをチェックアウトし、ローカル線と新幹線を乗り継いで地元に戻った。幸い、彼女の妹が骨肉腫の痛みを訴えることはなかった。
ただし、旅行を終えてから一週間が経つと彼女の妹の容態が悪化した。いよいよ、彼女の妹は自分の命の灯火を守ることが難しくなったようだった。僕が二人と初めて接触した時点で、彼女の妹の余命は少なくとも半年以下だった。そこに契約が加わったことで、寿命はさらに半分になった。つまり、彼女の妹の余命は最大で3ヶ月ということになり、残された時間はあと僅かだ。
彼女は、そんな状態に置かれた彼女の妹の見舞いを毎日続けた。一日中、彼女の妹の側についた。
全てとは言わずとも、自分がいよいよ本当に人の命を奪っていることを実感し始めた。僕も彼女と共に彼女の妹のお見舞いをするけれど、一体二人はどういう思いを抱いているのだろう。
僕は今更になって、恐ろしく図々しい感情が湧いてくるようになってしまった。我ながらほとほと嫌気が差してしまう。
「二人とも、生きてほしい」
死神にも人間にもなりきれない半端者の愚かな願いだけれど、切実なものだということは疑わないでほしい。万人から笑われたって構わない。
それでも、僕は願わずにはいられない。
彼女は彼女の妹の病室に入り浸っていた。家に帰っても彼女はほとんど口を利くことはなかった。夜もろくに寝ていないようで、ここ最近は目にクマがある。
彼女の妹も自分の姉の様子に一抹の不安があるらしく、頻繁に彼女に帰って眠るように言うのを耳にするけれど、彼女は頑なにそれを拒否した。
「お姉ちゃんも残された時間が短いんだよ。私と違って身体は元気なんだから、自分の好きなことに時間を使ってほしい」
「自分が好きなことに時間を使ってるから、私はここにいる」
「もう、そういうことじゃなくて!」
「ひなのが苦しんでるときに、私だけが楽しむなんて無責任なことしない」
「お姉ちゃんは昔から頑固なんだから」
「何を言われても、私はここにいるから」
彼女の妹は、譲らない彼女の姿勢に溜め息を吐いた。僕は、二人に何も言えなかった。何か言える立場でもなかった。ただただ、胸が傷んだ。
それからもしばらくの間、彼女はほとんど寝ることなく病院と家を行き来した。それが災いし、いよいよ彼女は倒れることになった。
二人の時間をつくるために、僕は定期的に席を外すようにしていた。よく、病院の屋上で空を見上げた。
その日もいつもみたいに屋上で空を見上げたり、街の風景を眺めたりしていた。その時にふと思い出したのが、僕が彼女から聞いた言葉だった。
僕はその時、彼女に訊ねた。
「眠れないの?」
彼女は僕の問いかけに振り返った。目元に深いクマができていた。彼女はゆっくりと首を振った。
「自分の意思で眠ってない」
僕は彼女の返答に驚いた。てっきり、彼女の妹が心配で眠れないのだとばかり思っていたからだ。彼女の真意が気になって、僕は彼女に訊いた。
「どうして眠らないの?」
続く彼女の言葉に、僕は驚いた。
「あの子が苦しんでる時に、眠ってなんかいけない」
予想外の理由だった。僕が唖然としていると、彼女は少し虚ろな目をしながら言った。
「一度、病室に戻った時、ひなのがすごく苦しそうにしてた。私がドアを開けたことに気が付かないくらい。でも、私が一度ドアを閉めてからもう一度開けた時、ひなのはすぐに表情を変えた。普段通りの自分を演じようとしてた。まだ小さいのに。額に汗まで掻いてた。それを見たら、のうのうと眠ってなんかいられなくなった」
彼女のその時の言葉が、頭からずっと離れない。そして、お互いに気を使う二人がいる病室に戻ることがいつも憚られる。
それでも、不自然にならないようにある程度の時間が経つと僕は二人のもとに向かった。ドアを開けると、彼女がベッドの横で倒れていた。彼女が座っていた椅子も横倒しになっている。
彼女の妹が、泣きながらうつ伏せになっている彼女の肩を揺らした。
「お姉ちゃん、目を覚まして。お願い、死んじゃったら嫌!」
彼女の妹の叫びに、僕は人間の味方として作られたはずの注射針に意図せず心臓が刺されたような錯覚を覚えた。悲痛な表情を浮かべる彼女の妹は、自分の命のことなんかまるで眼中にない様子で泣きじゃくった。
「大丈夫。きっと眠ってるだけだよ。僕が彼女を背負って帰るから安心して」
僕がそう言うと、彼女の妹が赤くした目でこちらをじっと見つめてきた。それから、目線を逸らすことなく頷いた。僕も頷き返してから、彼女の背中に腕を回してなんとか起き上がらせた。彼女の妹にも協力してもらって一度ベッドに彼女を座らせて、僕は彼女の両足に手を回した。それから立ち上がると、彼女の妹が病室のドアを開いた。
「ありがとう」
僕の礼に頷いた彼女の妹は僅かな沈黙の後、意を決したように僕に告げた。
「お姉ちゃんを家で寝かせたら、またここに来て。話があるの」
彼女の妹が僕と二人きりになってしまうことを承知の上で提案してきたことに、僕は驚いた。彼女の妹は、僕を通して死神の姿を見たはずだ。僕がまだ人間だった頃、間違いなくこの世に存在し得るどんな有象無象よりも恐ろしいものだと、死神の姿を見てそう確信した記憶がある。彼女の妹は、おそらく僕だったら怖気付くほどの恐怖心よりも優先したい何かがあるのだろう。何かしらの覚悟を決めたらしい彼女の妹の申し出に、僕は頷いた。
道中、道を行き交う人たちから奇異な目線を何度も投げかけられた。人を背負って長距離を歩くことは初めてだったけれど、随分と大変だった。
家にたどり着いて彼女の部屋まで向かい、僕は彼女が目を覚さないよう慎重にベッドの上にのせた。起こさないように彼女の靴を脱がせた。彼女は寝息を立てながら胸を上下させている。正直、屋上から病室に戻った時には心臓が凍てつく心地だったけれど、ただ眠っているだけなのが見て分かった。後は今晩、最近まともに食事を摂っていない彼女に何か食べさせれば問題はないだろう。現在進行形で僕が彼女の命を蝕んでいるというのに、その張本人が彼女の体調を気にかけているというのは非常に奇妙なことだった。
僕は忍足で彼女の部屋から出た。物音を立てないように靴を履き、代わりに彼女の靴を玄関に並べて家を出た。鍵を締める時もなるべく音を立てないように心掛けた。
約束通り病院に戻って、彼女の妹の病室に入った。開口一番、彼女の妹が口を開いた。
「お姉ちゃんの具合はどう?」
「うん、ただ眠ってるだけだよ」
「……はぁ、そっか。良かったぁ」
彼女の妹は文字通り、胸を撫でおろした。
「それで、話っていうのは?」
「……うん、そうだったね。よし」
彼女の妹は両頬をパシッと叩くと、僕に向き直った。
「最近、お姉ちゃんが楽しそうなの」
「そうなんだ」
「どうしてだと思う?」
「……湖に行ったから?」
「違うよ。もっと前から」
僕は彼女の妹が言わんとすることが分からず首を傾げることしかできなかった。すると、彼女の妹は呆れたように言った。
「死神さんと出会った時からだよ」
「…………え、どうして?」
「…………それ、本気で言ってる?」
「彼女は僕と居て楽しいと思っている。君はそう言いたいんでしょ?」
僕の言葉に彼女の妹は頷いた。
「それが理解できないんだ。どうして、彼女が自分の寿命が限りなく制限される原因の僕と居て楽しいと思うのか」
「……確かに、それは私にも分からない。でも、少なくとも死神さんと出会う前よりもずっとお姉ちゃんちゃんは変わった。良い方向に」
「……良い方向」
「どう言えば分からないけど、今まで全部自分で抱えてきたものが減ったっていうのが正解なのかな。その抱えていたもののせいで、お姉ちゃんはずっと自分を責めてきた。いつも夢でうなされるのを隣で見てきた。だから、分かるの」
「…………」
「だからね、死神さんにはまずお礼が言いたい。ありがとう」
「……そんな、僕は」
「死神さんが自分のことをどう思っているのか分からないけど、お姉ちゃんはあなたのことを必要としている。だから、私はあなたを突っぱねることはしない」
「……君はやっぱり、彼女の妹なんだね」
「どういう意味?」
「君たち姉妹は、とことんお人好しらしい」
「そうかな。それにしては、今から私は死神さんにお願いを押し付けようとしてるんだけどね」
「お願い?」
僕が訊き返すと、彼女の妹は頷いた。彼女の妹は不敵な笑みを浮かべた。
「お姉ちゃんとデートして」
「…………は?」
「その様子を写真とか動画に収めて私にも見せて」
「……ごめん。どういうつもりでそんなことを口にしているのかさっぱり分からないんだけど」
「お姉ちゃんには、余生を楽しんでほしい。お姉ちゃんはずっと、私のせいで我慢してきたことがたくさんある。お姉ちゃんが年相応に楽しむ姿が見たい」
「……そっちこそ、年齢を弁えた発言をお願いしたいね」
僕は彼女の妹の頭を撫でた。一瞬硬直したけれど、僕を突き放すようなことはしなかった。
「もう命を取ろうだなんて思ってないよ」
僕は苦笑しながら言った。すると、彼女の妹が何故か顔を赤らめた。そして、彼女の妹は言った。
「……あの時は、宥めてくれてありがとう。嬉しかった」
「あの時?」
一瞬分からず訊き返したけれど、すぐに思い出した。彼女の父親と再会した時に泣いていた彼女の妹を僕が宥めたときのことに対するお礼だったらしい。
「これを叶えてくれたら、私を怖がらせたことは許してあげる。だから、お願い」
彼女の妹は、切実な声で僕に言った。
「……分かった。でも、君を差し置いて彼女は出掛ける気になるのかな」
「死神さんが言ってくれたら、なんとかなるかも」
面会時間が終了するまで、僕は彼女の妹からいくつか彼女に体験してほしいことを聞いた。
「お姉ちゃんをよろしく。きっと、死神さんの言葉なら聴く耳を持ってくれるはずだよ」
どうして彼女の妹がそんな自信を持っているのかは不明なままだったけれど、約束してしまったものは仕方がない。彼女の妹から預かったメモを手に病院を出た。
僕はコンビニに立ち寄って水やカップ麺を買った。しばらくまともに飲食をしていない彼女の栄養源を確保して、僕は彼女に家に戻った。
彼女の部屋を覗くと、水中で聞こえる酸素ボンベの音のように深い寝息を立てながら眠っている様子が窺えた。僕は少し安心してリビングに向かった。ソファに座ってぼんやりしていると、僕もいつしか意識を手放していた。
廊下が軋む音で目を覚ました。時計を確認すると深夜になっていた。それから廊下がある方を振り返ると、髪を乱して何やら慌てた様子の彼女が僕を凝視していた。
「おはよう。深夜だけど」
「…………どうして私が家にいるの? 病院でひなのの側にいたはずなのに」
「僕が君を家まで運んだ」
「…………どういうこと?」
「無理が祟って、君は病室で倒れた」
「……そんな」
「君の妹がひどく心配していた」
「…………ひなの」
「お見舞いに行っちゃいけないわけじゃない。ただ、ちゃんと自分の身体を労わってほしいんだ。僕も、君の妹も、そのことを君に望んでいる」
彼女は難しい顔を浮かべた。
もし彼女がまた無茶をするようなら、僕は何としてでも阻止するつもりだ。もし、今日みたいに倒れるようなことがあれば、彼女の体調が心配になるだけじゃなくて彼女の妹の最期を看取れなくなる可能性がある。それは、彼女にとって一生の後悔になるだろう。きっと、死んでも死にきれない。
ぎゅるぎゅる、と音が鳴った。音源は、彼女だった。彼女は気まずそうな顔でこちらを見ながらお腹を押さえている。僕は思わず笑ってしまった。リビングのテーブルの上に置いたままだったビニール袋からカップ麺を取り出した。彼女は目を丸くして、また音を鳴らした。
熱湯を注いで三分待った後、彼女は「いただきます」と言ってから麺を啜った。
「美味しい」
「深夜っていうのがまた引き立たせるよね」
「背徳感がすごい」
「ご飯もちゃんと食べようね」
「……なんか保護者みたいなこと言ってる」
彼女は煩わしそうに言ってから、笑った。久しぶりに彼女の笑顔を見た気がした。
食事を終えた彼女は、満足そうにソファに座った。僕も彼女の後に続いて座った。
「君が体調を崩したら元も子もない。これからは無理をしないこと。いいね?」
「…………」
返事こそしなかったけれど、彼女は不本意そうに頷いた。僕は机の上に置いていたメモを手に取った。
「それと、君の体調が万全だったらの話だけど、明後日の夏祭りに行こう。午前中は映画を観に行ってもいいかもね。後は君の希望を聞きたいところなんだけど」
「ちょっと待って。なんの話?」
要領を得ないといった様子で、彼女は僕の言葉を遮った。
「君の妹からのお願いなんだ。君が楽しんでる様子を収めた写真や動画がほしいらしい」
「……どうして」
「君が楽しんでいるところを見たいんだって」
「…………」
「これが実現したら、僕が君の妹に襲い掛かろうとした事実も帳消しにしてくれるらしい。だから、僕からもお願いするよ」
「……ふっ、なにそれ」
彼女は力が抜けたように笑った。
「分かった。ひなのが生きてるうちに、見せてあげよう。私の携帯で撮影すればいいね」
「うん。明日はお見舞いに行くこと以外は安静にしよう。ちゃんと夜になったら」
「分かってるってば。過保護すぎ。絶対あんた親になったら娘からうざがられるタイプだよ」
彼女はけらけらと笑った。そんな冗談を言ってのける彼女は、やっぱりすごい。自分が親になる未来が来ないことはわかっているはずなのに。僕にも、彼女にも。
翌日、お見舞いに行く時には彼女の顔色がすっかり戻っていて、目の下のクマもほとんど目立たなくなっていた。彼女の妹は血色の良くなった姉を見て安心したらしく、泣いていた。彼女もつられて涙目になっていた。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だからね」
「お姉ちゃん、死んじゃうかと思った。怖かったぁ」
二人はお互いの絆を確かめるように抱擁を交わした。僕が二人に出会わなければ、このやり取りはもう少し先になっていただろう。そう思うと、僕は居た堪れない気持ちになった。
彼女は約束通り、お見舞いが終わって帰宅して安静にしていた。ちゃんと食事は摂ったし、適切な時間に就寝した。
夏祭り当日、僕は彼女の手を引いて最寄り駅に連れて行った。彼女が僕の行動に困惑しながら訊いてきた。
「なんで手なんか繋いでるの?」
「一応、君の妹からデートの名目でという指示がある」
「…………ひなのめ」
彼女は顔を紅潮させながら吐き捨てるように言った。僕も彼女のことを笑えないくらいには周りの目を気にして恥ずかしい。
駅に隣接した映画館で彼女が希望した映画のチケットを購入し、上映時刻までの時間潰しとして頃合いの良い飲食店に入った。
何気ない会話をしているといつの間にか上映時間が迫っていたことに気付いて、僕と彼女は急いでスクリーンに向かった。
映画の内容はSFで、彼女がチョイスした割に客層はほとんど男性だった。正直、甘々の恋愛ものを彼女が選んでいたら気まずくなるだろうと懸念していたけれど、僕みたいな男子にとっても楽しめる内容で非常に助かった。
映画館を出ると、彼女は自分たちが観た映画のパネルの前に立った。僕もパネルの前に来るよう彼女が指示したため、それに従って彼女の隣に並んだ。彼女は携帯のカメラモードを起動して、画角に二人を映した。
「撮るよ」
「うん」
シャッター音が鳴って、彼女は撮れ高を確認した。問題はなかったようで、小休憩としてカフェに入ると彼女は先程観た映画の談議を始めた。意見が別れる映画だっただけに、面白かったけれど消化不良だった僕は、彼女の鋭い見解や考察に舌を巻きながら耳を傾けた。
身体が休まった頃合いで駅から各停電車に乗って二つ駅を乗り継ぐと、夏祭りが開催されている神社に到着した。ただし、まだ出店が出るには早い時間だった。
「どうしよう。何で暇を潰す?」
「実は、近くに浴衣のレンタルショップがあるらしいんだ。駅のポスターに書いてあった」
「へぇ、そういうのがあるんだ」
「着てみない?」
「……そういえば、人生で浴衣着たことないかも」
「僕、微妙に貯金が残ってるから、使い道をこれに決めてたんだ」
「男性用の浴衣もあるの?」
「僕じゃなくて、君の」
「……え、あんたは?」
「僕はいいよ。帯結べないし」
「ふっ、なにそれ。私もいいよ。そんなことに貴重な貯金使っちゃダメだよ」
「いや、僕はもう二度とお金を使うこともないから。僕が納得するものに使いたいんだ」
「…………ありがとう」
彼女には特にお金の面でも何度かお世話になった。これくらい、彼女に献上するのは当たり前のことだった。
浴衣を貸し出すお店を彼女に検索してもらい、ナビの指示を受けて僕たちは目的地を目指した。神社から十分ほどしてレンタルショップを見つけた。中に入ると、やはり夏祭りで浴衣を着る予定の女性がたくさんいた。買うにしては高く、着るにしては機会が少ないことから、このお店は繁盛しているらしかった。
彼女は店内に並ぶ浴衣を吟味し、自分の好みに合うものを選んだ。幸い、彼女は僕の全財産の範疇内で購入できる浴衣を選んでくれた。もしかすると、値段を見て決めたのかもしれない。
彼女は店員さんの誘導で試着室に通され、僕は待っている間横長の椅子に座るように言われた。カップルの彼氏たち何人かがすでに彼女の着替えを待って座っていた。
ちょうど僕が椅子に座った時に、男性が一人代わるように立ち上がった。どうやら、彼女さんが試着しているようで、浴衣姿の女性が振袖をたなびかせながら男性に訊ねた。
「どう?」
「可愛いよ」
「本当? さっき着たのとどっちが可愛い?」
「どっちも可愛いよ」
「えー、はっきりしてよ」
無邪気にはしゃぐ彼女が男性の肩を叩いた。乾いた音が鳴った。男性の表情を見るに、返答に窮しているようだった。この手の質問にめっぽう耐性のない僕は、きっと女性を怒らせてしまうだろう。恋愛とは実に難しい。
他人事のように他のカップルたちのやり取りを眺めながら、彼女の着替えを待った。着替え始めてから三十分ほどした頃合いで、彼女が出てきた。どこか恥ずかしそうに何度も浴衣の着付けを気にしながら彼女は僕に訊いた。
「……どう?」
「うん、似合ってるよ」
「……そう。じゃあ、これにする」
「え? 他のは試さなくてもいいの?」
「うん。これ以上待たせても悪いし」
「そんなこと気にしなくて構わないのに」
「あんたが似合ってるって言ってくれたから、これがいい」
彼女はそう言うと顔を逸らしてしまった。
ニヤニヤする店員さんに気まずい思いをしながらお会計を済ませると、店員さんが「お似合いですよ」と僕たちに言ってきた。この店員さんは何か勘違いしているらしく、その勘違いが僕と彼女を気まずくさせた。
神社に戻った時には境内の灯がいくつかほんのりと灯っていた。出店が徐々に形を成していき、すでにお店への呼び込みを始めている人もいた。
彼女はすでにお腹が空いていたらしく、混んでいないうちに食料を確保することにした。人がまばらな境内は、普段神聖な神社への配慮が辛うじて残っているみたいで、押し寄せてくる人間たちに備えて祀られた神様たちがこの後の喧騒に警戒して身を潜め始めているように思えた。
最初に僕たちが訪れたのは、焼きそばを売る出店だった。粋のいいお兄さんが、溌剌とした声で僕たちを出迎えてくれた。
「焼きそば一つください」
「はいよー」
無駄のない動きであっという間にプラスチックの容器に焼きそばが入れられ、青海苔や紅生姜をかけた商品が彼女に手渡された。彼女はお礼を述べてお兄さんに会釈した。次の食べ物も早々に確保してしまおうと彼女と話していると、焼きそばを待っている間に随分と客が増えたらしく、出店が慌てて活気を焚き付け始めていた。それを煙たがる神様たちは、徐々に神社から姿をくらましていくだろう。
次に僕たちが向かったのは、飲み物の出店だった。彼女はラムネを買った。その後はたこ焼き、チョコバナナ、りんご飴、クレープ、ケバブの順に買っていった。ちなみに、僕は人間の食べ物を受け付けないため、これらは彼女一人で平らげた。
「……随分と食べるね」
「食い納めってやつ」
「そういうことなら、何も言うまい」
全て食べ終えた彼女は、浴衣に締め付けられる腹部を押さえながら、胃の中のものを消化するために身体を動かそうと提案してきた。
「射的しよう」
「指先だけの運動だね」
「ちょっと黙ろうか」
彼女に睨まれて、僕は思わず吹き出してしまった。彼女も僕に続いて笑いをこぼした。ずっと、この時間が続けばいいのに。
はちまきを巻いた恰幅のいいおじさんが、射的用の銃を手渡してきた。最初に僕が挑戦し、5つの玉を使って三発命中した。後手に回った彼女は、なんと一発のみの成果だった。
「拗ねてるの?」
「……違う」
「不貞腐れてる?」
「違う! 今回は勝ちを譲っただけ」
彼女は頬を膨らませながらそう言い放った。
「こっち来て」
彼女は僕の手を引いて別の屋台に向かった。そこには、無数の金魚が泳ぎ回る長方形の水槽があった。彼女は浴衣の袖を捲りながら店主からポイを受け取った。随分とやる気に満ち溢れているようだった。彼女は慎重に水槽に張られた水面にポイを忍び込ませると、軽やかな手つきで金魚を数匹薄い網の上に捕らえて素早く銀の器に放り込んだ。彼女の手捌きから見て、かなりやり込んていることが窺えた。
結局、彼女は十五匹も金魚を手に入れた。彼女は得意げになって、店主から受け取ったポイを僕に渡した。
「お手並み拝見」
彼女はニヤニヤしながら僕の隣にしゃがみ込んだ。彼女の表情が癪に障った。起伏した自分の感情を押さえ込むように深呼吸して、神経を研ぎ澄ませた。大きな金魚は狙わない。あくまで数の勝負だ。余裕があれば、彼女を横目に大物を捕獲すればいい。
僕は慎重にポイを水面につけた。極力、着水している時間を排除するためにすぐさま金魚が密集している方へと手首を動かした。すると、網が音もなく中央から波紋が広がるように優しく破れた。一瞬の焦りが僕の手元を狂わせ、繊細なポイの網に動揺を見せてしまったのだろうか。
しばらく動揺で動けないでいると、真隣から耳を劈くような笑い声が響いてきた。
「あはははははは」
「……笑いすぎじゃない? 近所迷惑だよ」
とてつもない笑い声を上げる主は、もちろん彼女だった。随分と砕けた姿で笑う彼女は、お腹を抱えながらひーひーと呼吸を乱した。
「まさか、一匹もとれないなんて」
「……仕方ない。素人なんだから」
「私でも射的で一つは景品を倒したのに」
「…………」
「はー、おっかし。こんなに笑ったのいつ振りだろ」
彼女は目尻に人差し指を添えて笑い過ぎて現れた涙を拭った。すると、彼女はとことん不名誉な提案をしてきた。
「成果を写真に撮ろうよ」
「……僕には成果なんてないけど」
僕がむすっとしながら恨めしい気持ちで彼女に言うと、彼女は店主に金魚を放すビニール袋を二つくれた。彼女は自分が獲得した金魚を片方に入れ、もう片方は水槽から水だけを汲んだ。
「はい、これ持ってピースして」
「…………正気?」
彼女は携帯を取り出して自分と僕を画面内に映した。彼女の手には金魚が泳ぎ回る賑やかなビニール袋を顔に近づけ、一方の僕は水だけが透き通ったビニール袋を片手にピースした。
しばらく笑いを引きずる彼女に辟易しながら境内を歩いていると、彼女は「あっ」と何か目覚ましいものでも見つけたみたいな反応を示した。小走りでどこかに向かう彼女に慌ててついて行くと、壁に立て掛けられた網目状の白いフェンスにいくつかのお面が飾られてあるのが目に入った。
「これ、買いたい」
彼女が指差したのは、髑髏のような黒いお面だった。これを見た人はおそらく共通認識として死神を思い浮かべることだろう。
彼女はそのお面を買い、僕の目の前でそれを顔に被せた。この神社には死神が二人、紛れ込んでいる。人間の喧騒を煩わしく思って愛想を尽かされた神様不在のこの神社では、僕たちが咎められることはない。
彼女はお面を被ったまま、僕に抱きついてきた。驚いて身を硬直させていると、彼女は震える声で呟いた。
「もし同じ死神になれたら、私たちはずっと一緒に居られるの?」
彼女の問いかけに、僕は唸った。胸元に顔を埋める彼女を見下ろしたけれど、お面が邪魔をして表情は分からなかった。
前も言った通り、彼女に死神は向いていない。
何も答えずに立ち尽くしていると、彼女は僕から離れて後ろを振り返った。お面を側頭部に寄せて、浴衣の袖で目元を拭った。それからこちらを振り返ると、彼女は僕に笑顔を見せた。
「あんた、私の命を食べるんだから長生きしてよ」
「…………」
「約束」
彼女は僕の胸に拳をつきつけた。僕は彼女の言葉に凍りついたけれど、かろうじて返答した。
「それって、他の人の命を犠牲にしながら生きながらえろってこと?」
「……嫌な言い方」
彼女は不機嫌そうに唇を尖らせた。
僕は死神になってから二度、長生きしてほしいと言われた。彼女との約束と契約、どちらの方が重いのだろうか。
ある程度境内の催し物を堪能した後、僕たちは神社の裏側にある河原に向かった。すでに大量の人が川辺でひしめき合っており、僕たちは逸れないように手を繋いだ。僕も彼女も、気付けばお互いに触れ合うことに抵抗がなくなっていた。
人々の騒めきはやがて空気を読んで鳴りを潜めた。本来この空間に漂うべき静寂が辺りに緊張感を植え付けた。
しばらくすると、空をくねくねと這う蛇が金切り声を無造作に発するような音が耳に届いた。それから一瞬の沈黙を挟んだ後、スタンディングオベーションが起きたかと錯覚するような音が一帯に降り注いだ。夜空の暗闇を掻き分けるようにして周囲を赤く染め上げる花火が唸った。
最初に打ち上げられた花火を皮切りに次々と数多の花火が絶え間なく夜空を自身の色で支配した。緑、赤、青、オレンジと、いくつもの花火が圧巻の花模様を空に刻印した。
ふと隣を見ると、彼女が上空で巻き起こる自然と科学が融合した水彩画みたいな花火同士の戯れに見惚れているのが視界に入った。彼女が間もなく死ぬ。そのことが信じられない。いや、信じたくない。自分が引き起こしたツケが回ってきた。
夜空を海底にしたように幻想的な花火の珊瑚礁が視界いっぱいに広がり続けている。今この瞬間に時間が止まってしまえばいいのに。本気でそう思った。
夏祭りが終了し、僕と彼女はレンタルショップに寄った。彼女は元の服装に戻った。浴衣を着る時よりも脱ぐ時の方が当然はやく、呆気なく日常が戻って来てしまった。
後日、病室で彼女が彼女の妹に夏祭りの日に撮った写真を見せた。金魚不在のビニール袋を片手にVサインをする僕に二人して笑っていた。彼女は思い出してお腹を抱えながら笑った。彼女の妹は、僕たちに「ありがとう」とお礼を言った。
「二人のおかげで私もその場に行った気になれた。今度は遊園地デートかな」
「デートじゃない!」
彼女の妹の言葉に、彼女は過剰に反応して否定した。僕たち三人は、また笑った。肝心の花火の写真を撮り損ねたことにご立腹の彼女の妹に、今度は遊園地での写真を撮ってくることを約束した。
けれど、結局彼女の妹との約束を守ることはいよいよできなかった。容態が悪化し、いつ旅立ってもおかしくない状態になった。所謂、危篤状態というやつだった。当然、そんな状態の彼女の妹を差し置いて楽しむことはできるはずがなかった。
彼女の妹は、目に見えて衰弱していた。
彼女の妹の容態が懸念されながらも、面会時間外であったため家で待機していた。彼女はここ最近、また思いつめたように難しい顔をするようになった。
「どうかしたの?」
僕が訊くと、彼女は眉間に寄せていた皺を解放してこちらを振り返った。
「死んだ後、どうしようと思って」
「……どういう意味?」
「お葬式をするにしても、あいつらが進んでやりたがるとも思わないから。火葬だって、親族でする必要があるからなぁ。ひなののことは全部私ができたにしても、私が死んだらあいつらに不本意そうな顔をされながら送り出されるの、想像するだけでも死にたくなる」
あいつら、というのは親戚のことだろう。死にたくなると言いつつ、彼女も彼女の妹も望まなくとももう間もなく消える。
僕は、彼女に言うか迷った。きっと、彼女にとっては好都合な死神の能力だけれど、もしかすると死んだ後に星になるプロセスを遮ってしまうかもしれない。お婆さんと契約した時の一件で、僕は死神の力を把握していた。
彼女はリビングのソファに座りながら真剣な表情で考えている。魔が差したみたいに、僕は思わず彼女に言った。
「死神は死んだ人間の身体に触れると、灰にすることができる。いや、灰にしてしまうというのが正しいね」
僕が言うと、彼女は勢いよくこちらを振り返り、身を乗り出してきた。僕は思わず身体をのけ反った。
「詳しく聞かせて」
「……あまりおすすめはできないけど、初めて僕が契約した人間が死んだ後に触れたら、その人が一瞬で灰になったんだ。だから、骨を残すことはできないかもしれないけれど、少なくとも灰は残せるから……」
僕がそこで言い淀むと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「湖に骨を撒いてほしいって話、覚えてくれてたんだ」
「……まぁ」
僕が顔を背けると、彼女は何故か嬉しそうにした。けれど、すぐに真顔になって何かを考え始めた。きっと、彼女の妹のことを考えているのだろう。自分は灰になってもいいとして、彼女の妹は灰になりたくない可能性がある。けれど、事態は一刻を争っている。
「灰になるということが何を意味するのかは僕にも分からないけれど、あまり良い印象は受けない。死んだ後にどうなるか保障はできないということを、心に留めておいて」
彼女は僕の言葉に頷いてから「考えさせて」と言って自分の部屋に入って行った。結局、その日は彼女が自分の部屋から出てくることはなかった。
翌日、目を覚ますと、僕が寝室として使わせてもらっている部屋に、彼女が立っていた。心臓が跳ね上がりそうになって飛び起きると、彼女は至極真剣な眼差しで僕を見ているのに気が付いた。もしかして、と思って彼女の言葉を待った。彼女は、意を決したように言った。
「灰にしてほしい。私のことも、ひなののことも」
彼女は少し緊張した様子で僕に言った。僕は、今更になってどうして彼女に死神の能力について話してしまったのだろうと後悔した。けれど、自分からした提案を引き下げるわけにはいかない。僕は、何も言わずに頷いた。
その日、僕と彼女は病院に向かい、衰弱してほとんど口を利かなくなった彼女の妹を車椅子に乗せて病院の敷地内を歩かせるふりをしながら病院外へと連れ出した。彼女は車椅子を押しながら「ごめんね、ひなの」と泣きながら謝っていた。彼女の妹は、虚ろな表情のままで、何を思っているのかがまるで読み取れなかった。もう、痛みが襲ってきても痛がる余力がない程に思えた。
僕たちは前に行った湖に向かうために新幹線に乗り、そこからローカル線に乗り継いだ。車椅子での乗車に僕も彼女も不安を覚えていたけれど、車掌さんが積極的に電車とホームの隙間にスロープをつくって協力してくれた。無事に各停電車で湖があるホテルの最寄り駅に到着した。最寄り駅といって、そこからホテルまでは三十分掛かる。
僕の彼女も、彼女の妹が体力を消耗していないか気にしていたけれど、身を案じる言葉を掛けると彼女の妹は頷くことで意思を示してくれた。
道中、彼女の携帯が鳴りっぱなしだった。もちろん、病院からの電話だった。彼女は申し訳なさそうにしながらも、電話に出ることはなかった。
僕たちは湖の丘を横切ってホテルに向かい、ようやく到着した。彼女は感極まった様子で彼女の妹の頭を撫でた。
「ひなの、よく頑張ったね」
彼女の妹は、彼女に撫でられてうっとりした表情を浮かべた。
僕たちは、一つの部屋で過ごした。彼女の妹も、彼女も、もはやいつどうなるか分からなかった。彼女の妹は、出会った時点で最大半年の寿命だった。それが、僕と契約したことで3ヶ月以下になり、あと5日間で3ヶ月目に突入する。つまり、彼女の妹は5日以内で死んでしまう。それは、彼女も同じだった。彼女は僕と出会った時点で寿命には随分と余裕があったはずだけれど、突然余命が半年以下になった。そこで僕と契約したため、彼女も残りの命があの日から3ヶ月以下になったはずだ。彼女も最大で5日しか生きられない。そしておそらく、彼女はちょうど5日後に死ぬことになるだろう。彼女の妹が死ぬ瞬間を見届けるために自分の方が長く生きている必要があった。猶予期限である半年ぴったりを選んだ。つまり、彼女は意図的に半年経って自分が寿命を迎えることを選択したのだ。
その日の夜、窓から見える丘の頂上にある湖が星々を湛えた夜空を映していた。相変わらずの絶景だった。あそこになら吸い込まれてもいいと思えてしまう魅力があった。
彼女は、彼女の妹の頭を撫でながら一緒に湖を眺めていた。彼女の妹も、虚ろながら瞳に湖の景色が映っていた。
「綺麗だね、ひなの」
「…………」
「あんな綺麗なところにいたら、絶対に幸せだよね」
「…………」
「ねぇ、ひなの。大好き」
彼女は声を震わせながら、彼女の妹にそっと抱き着いた。彼女は、大声を上げながら泣いた。彼女の妹は、ゆっくりと視線を彼女に向けて、やせ細った手で彼女の頭を撫でた。
翌日、彼女の妹は息を引き取った。お昼頃になって、いよいよ呼吸が浅くなった彼女の妹は、安らかな表情のまま冷たくなった。
「ひなの」
彼女が呼びかける。
「ねぇ、ひなの」
彼女の妹は、返事をしない。
「嫌だ。死んじゃうの嫌だ。お願い、ひなの。行かないで」
彼女は泣きじゃくりながら彼女の妹の頬に自分の頬をこすりつけた。まるで、摩擦で彼女の妹の体温を取り戻そうとするかのように。
「やだ、灰にしないで。ひなのが灰になっちゃうの嫌だ」
彼女は駄々をこねる少女みたいに首を振り続けた。
「大丈夫。君が願わない限り、僕はその子に何もしない」
僕の言葉に、彼女は辛うじて頷いた。
その日はずっと、彼女は泣き続けた。冷たくなった彼女の妹の姿を見られないように、僕たちはずっとホテルサービスのベッドメイクを拒み続けた。
彼女が感情の起伏を抑えるのにそれから3日かかった。計算上では、明日が彼女の命日だということになる。
「ごめん。迷惑掛けた。今晩、あの湖にひなのを連れて行く。そこで、お願いしたい」
彼女は張りつめた表情でそう言った。僕は彼女の言葉に首肯した。
その日の夜、彼女は冷たくなった妹を背負ってホテルを出た。僕と彼女は丘を登った。彼女は途中、何度か息切れして立ち止まったけれど、一度も彼女の妹を下ろすことはなかった。
彼女の悲しみに暮れた感情に寄り添うようにして、美しい湖が僕たちを出迎えた。彼女は湖のほとりまで向かうと、慎重に彼女の妹を地面に横たえた。死者を前にして広がる星々を映した湖はまるで現世みたいだった。彼女は、彼女の妹とその後ろに広がる湖に拝んだ。これから、何か神聖な儀式をするような心持ちになりながら僕はその光景をただ見ていた。
彼女は深く息を吐くと、ゆっくりとこちらを振り返った。
「お願い」
彼女は覚悟が決まった表情で僕に言った。僕は言葉を発することなくただ頷いた。
僕は彼女の妹の側にしゃがみ込んだ。触れる前に、僕は彼女を見上げた。彼女は表情を動かすことなく静かに頷いた。
「ひなのさん。どうか、安らかにお眠りください」
僕は、彼女の妹の身体に触れた。その瞬間、一切の抵抗なく彼女の妹は灰になった。草原の上に少し山になった灰が残った。彼女はしばらく動かなかったけれど、やがて無言で灰を両手で掬いあげて、湖へと撒いた。意外にも取り乱すことなく、彼女は淡々と灰を湖へと撒いていく。なんとなく、手伝ってはいけない気がして、僕はただただ彼女の行動を見守っていた。
灰を全て湖へと還して、僕と彼女は言葉を交わすことなくホテルへと戻った。僕も彼女も、一睡もすることはできなかった。それに彼女にとっては、眠れば自分が死ぬ日がやって来るのだから余計に眠れるはずはなかった。後ろめたさが拭えなかった僕は、彼女に背を向けて布団を被っていた。すると、背中が突然温かくなった。振り返るまでもなく、彼女が僕の背中にくっついているのが分かった。僕たちはそのままの状態で夜を明かした。
いよいよ、彼女の命日が巡ってきた。
僕と彼女はその日、朝から湖のほとりで座っていた。すでにチェックアウトは済ましており、受付の人に宿泊人数に疑問は持たれたものの先にホテルを出たと適当な嘘を吐いた。
ホテルを出た勢いのまま僕と彼女は丘を登った。昼の湖は青空の中にある淡い雲を見事に再現していて、夜とは違った絶景を楽しませてくれた。
僕と彼女は飽きもせず、ずっと湖を眺めていた。
隣で座る彼女は、湖を眺めながら一体何を考えているのだろう。
僕は、初めて二人に会うきっかけになったことを思い出していた。お婆さんとの契約が切れて空腹でおかしくなりそうだった時、今すぐに誰かの命をもらわないと約束を果たす気力がなくなってしまうことを恐れて、僕はまだ幼い彼女の妹を無理矢理狙った。あの時のことを思い出すと、彼女や彼女の妹には申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ふと、小鳥遊さんの顔が頭を過った。小鳥遊さんは、ちゃんと星になれたのだろうか。そして、小鳥遊さんと同じように死神に魅入られた彼女は、ちゃんと星になることができるのだろうか。どうか、二人が安らかに星になれますように。
僕は、お婆さんの言葉を頭で何度も反芻してきた。お婆さんのおかげで、僕は彼女と出会えた。お婆さんのおかげで、今日まで生きることができた。そういえば、いつか彼女とした何気ない会話で、彼女の父親が実は養子縁組の子どもだという話があったな。あの時は、彼女の父親が今みたいになったのは、そういった過去があったからかもしれないという話だったけれど、今思えば養子縁組ならばお婆さんの子どもであってもおかしくはない。ずっと、お婆さんと彼女の父親の苗字が同じことが気に掛かっていた。まさかとは思うけれど、こじ付けもいいところであるため、今更彼女に確認することはない。
走馬灯のように、色々な人の記憶が蘇った。彼女ももしかすると、僕と同じようにこれまで出会ってきた人たちのことを思い出しているのかもしれない。
僕と彼女はほとんど会話することなく、夜になってもそこに居続けた。その時になって初めて、彼女の方から僕に話しかけてきた。
「ねぇ」
「なに?」
「名前、教えて」
「……僕の名前知らないっけ?」
「苗字しか知らない」
「……懐。懐かしいっていう漢字で、『いだく』」
「懐くん、か」
彼女に名前で呼ばれたことに新鮮な気持ちになった。
「懐くんは、死神じゃないよ」
「……え?」
彼女は信じられないほど優しい表情で僕に微笑みかけた。
「だって、私にまだまだ生きたいって思わせたんだもん」
「…………」
「だから、懐くんは死神なんかじゃない。死神もどきなんかでもない。懐くんは、人間だよ。他の人の気持ちに寄り添える、優しい人。そのことを、どうか忘れないで」
彼女はそう言うと、肩から掛けていた鞄から、包丁を取り出した。突然、そんなものが出てきたことに驚いたけれど、同時に腑に落ちた。
「本来余りある君の余命が半年になったのは……半年後に、自殺すると心に決めたから。そうだね?」
僕が訊くと、彼女は頷いた。
「……君はやっぱり、すごい人だ。自分の妹のために、必ず半年後に自分が死ぬと決心した。とんでもない人格者だ。やっぱり君は……涼音は、死神には向いてないよ」
「……懐くんに名前呼んでもらえるの、こんなに嬉しかったんだ」
彼女はそう言って、静かに涙を流した。それから、彼女は自分の胸に包丁を突き立てた。
「身体が、勝手に動く」
彼女は小さく掠れた声で呟いた。この世界の強制力が、彼女を殺しにかかってきている。僕は呆れるほど愚かにも、到底どうすることもできないことを試みた。
僕は、彼女が死ぬのを阻止しようと、彼女の手を掴んだ。とんでもない力で、彼女は自分の胸に包丁を刺しこもうとする。僕は包丁の柄を持って必死に抵抗した。
「私に、生きていてほしいんだ」
こんな時に、彼女は落ち着いた声でそんなことを言ってきた。
「当たり前だろ」
「……嬉しい。懐くんにそんな風に思ってもらえて」
彼女は人生に一切の悔いを残していないような穏やかな表情で笑った。そして、包丁が胸に食い込んでいく感触が包丁越しに伝わってきた。彼女の胸元がインクのように血が滲んで広がった。彼女は口を僅かに動かした。声は聞こえなかったけれど、彼女が口にした言葉ははっきりと分かった。
「さようなら」
空と地を合わせ鏡にしたように、夜空には星々が光り輝き、湖では双子みたいにそっくりな星々が共鳴するように同じ明るさで輝いている。
この星々のうち、どれか一つが彼女かもしれない。
けれど、もしも彼女が星になっているのなら、一番綺麗な星のはずだ。すぐに分かるだろう。もしかすると、まだ星になる手続きの途中なのかもしれない。
僕は七日間、湖の前で過ごした。もはや、死神に課せられた呪いともいえる空腹になんとも思わなくなった。誰かの命をもらうことより、今の僕には願ってやまないことがある。
僕は、自分の身体が灰になっていくのを感じながら、願った。
どうか、彼女の隣にいさせてください