死神もどきとなった僕は、悲鳴をあげる胃を宥めるためにお腹をさすりながら街を彷徨った。耐え難い空腹は、死神が予言していた通り自害よりも欲求を満たすことを否が応でも優先させてくる。
心的な時間の経過感覚としてはとうに数日を超えているけれど、実際にはどれほどの時間が経ったのかは分からない。画面の中に一回り小さい画面が無限に続くドロステ効果みたいに果てしない道のりを歩く心境の中、死神になって初めて快楽を覚えた。
「このにおいは……」
余計に消化するように胃が鳴った。においの出処を探すために視線を辺りに彷徨わせた。においの根源に目が止まった時、僕は納得した。
少し向こうに病院があった。嗅いだことがないはずなのに死神の嗅覚が僕に知覚させたのか、そこで死のにおいが立ち込めているのが分かった。きっと、これが人間が朽ち果てた時に漂う腐敗臭なのだろうと直感的に分かった。けれど、不思議なことに不快感どころか愉悦に浸るほど甘美なにおいに感じられた。新鮮な刺身のように消費期限が切れる前の香りと表現すれば、僕はれっきとした死神だと批評されるだろう。
もはや生存本能を度外視した食欲が、枯渇状態の僕の体内にエネルギーを蔓延させた。僕の身体はこれから獲物にありつくことができることに期待しながら、餌を目前にぶら下げられた犬が舌を垂らすように貪欲な足取りで病院に向かった。
病院の受付を何食わぬ顔で通り過ぎ、においが漂ってくる階へと向かう。病室がいくつも並ぶ廊下を進むと、僕はある一室の前で足を止めた。そして、ドアを開いた。中にはお婆さんが一人、ベッドに横たわって眠っていた。僕はそこに向かって歩を進める。近づく度に死のにおいが増した。
ベッド傍に辿り着いた僕は、お婆さんの顔を覗き込んだ。静かに深い呼吸をしながら、安らかな顔で眠っている。顔の皮膚に縦横する皺が時折ピクリと動いた。
お婆さんから命を頂こうと決めた僕は、途端に視界がモノクロになったことに動揺した。お婆さんの脈打つ心臓だけが赤く、触れるとほつれた糸が一本心臓からのびてきた。同時に、僕の心臓からも赤い糸が一本宙を這うようにのびてきた。その光景を見て、契約者と命を共有するという死神の言葉を思い出した。直感的に、お互いの命の糸を結べば契約が完了することが理解できた。
僕は、今すぐにでもこの二本の糸を結んでしまいたかった。けれど、眠っているお婆さんの命を勝手に弄んではいけないという一縷の良心が呵責を起こした。僕はお婆さんの顔と、お婆さんの命の糸を交互に見ることに終始した。
いずれ耐えきれなくなって、思わずお婆さんの命の糸を握った。ゆっくりとそれを自分の糸に繋げようとすると、不意にお婆さんが目を覚ました。それからお婆さんはこちらに視線を寄越した。僕は驚いてしまって、お婆さんとしばらく目が合ったままの状態になった。
ようやくお婆さんが口を動かした時、僕は驚愕して思わず目を見開いた。
「死神様」
数枚重ねた薬包紙越しに届いたような掠れた声だったけれど、一音一音は何故かはっきりと耳に届いた。どうやらお婆さんは、僕の姿が死神に見えるらしい。
「あなたには僕が、死神に見えるんですか?」
僕の問いかけに、お婆さんは静かに頷いた。死神と相対しているというのに、お婆さんは依然として安らかな表情を揺るがせることがない。震えることのない皺が、何事にも狼狽えることのない年季を表しているように思えた。
「あなたの命を頂きにきました」
「……あぁ、そうでしたか。いよいよですか」
「命を頂戴したからといって、今すぐ命を落とすことはありません。あくまで、残りの寿命を共有させてもらうという話です」
「……半分、あなたに寿命を分け与えるということですか?」
「そうです」
僕が頷くと、お婆さんはしばらく何かを考え込んだ。それから、どういうわけか微笑むとこちらに顔を向けてお婆さんは言った。
「では、余生が半分になったことの引き換えに、話し相手ができたということですね」
「…………はい?」
「おや、命を取るだけ取って何処かにお行きになるのですか?」
「…………」
確かに、寿命を頂くのだから、残り期間で契約者の要望に応えるくらいのことはした方がいいかもしれない。
「あの、今更なんですけれど」
僕がお婆さんの突飛な言葉に動揺しながら訊くと、お婆さんは控えめに首を傾げた。
「死神を見ても怖くないんですか?」
「……なにぶん、私も生きていく中で色々なものを見てきましたから」
お婆さんの言葉から僕には到底理解できないような言語不要の得体の知れない経験譚が読み取れた。
僕は、僕とお婆さんの命の糸を互いに結んだ。その瞬間、信じられないほど贅沢に欲求が満たされる感覚が全身を伝った。この感覚を味わえるのなら、もう人間には戻らなくてもいいと思ってしまうほどだった。けれど、小鳥遊さんの顔が思い浮かんですぐに首を横に振った。僕が死神になったのは、復讐のためだ。目的を見失ってはいけない。
僕は顔を上げると、お婆さんに宣言した。
「これで契約完了です。あなたが亡くなる直前まで、僕はあなたの側で話し相手になります」
お婆さんはそう言う僕を見て今日初めて驚きの表情を見せた。
「……あなた、私の孫と同じくらいの男の子だったのね」
「…………孫?」
お婆さんの不可解な言葉に戸惑っていると、病室のドアがノックされた。そして、病室に医者が入って来た。医者と目が合うと、僕の存在に驚いて警戒するように少し身を引いた。けれどすぐに柔和な表情に戻して僕に言った。
「おや、芽白さんのお孫さん。部屋を移られていましたか」
「……はぁ」
「家族団欒に割り込んで申し訳ない。お婆様に話がありまして」
医者の発言が意味するところが理解できずにお婆さんに視線をやると、お婆さんと目が合った。お婆さんは何を思ったのか僕に頷くと、医者に言った。
「唯一、私を慕ってくれる可愛い孫なんですよ」
「それはそれは。随分と孝行者で」
医者の言葉にお婆さんは嬉しそうに笑った。
少し距離を置いた位置で医者とお婆さんのやり取りを眺めつつ、この病室で起きた出来事を思い返した。
どうやら、契約する瞬間には契約者から見た僕の風貌は死神らしい。その上、契約が完了すると契約者の認識が変更されて僕が人間に見えるようになり、さらに僕以外の人間からは、僕と契約者の間に相応の関係性が見えるようになるようだった。ただし、契約を済ませた人物だけは、僕が死神であることは覚えている。なんとも複雑な話だ。
しばらくして医者がお婆さんへの用を解消して病室を出て行った。病室から足音が遠ざかって行くのを確認した僕は、お婆さんに訊いた。
「僕は、あなたの孫なんですか」
「……という話になってるみたいだね」
「お婆さんは、僕の正体は覚えてるんですか?」
お婆さんは僕の質問に頷くことで返した。それから、お婆さんは言葉を続けた。
「さっきお医者さんが来た時、どうやらあなたも状況を理解していないようだったから、話を合わせたんだけどねぇ。もしかして、人間の命をもらうのは私が初めて?」
「……仰る通りです」
僕が絞り出すように答えると、お婆さんは僕の全身に視線を滑らせた。目を細めるお婆さんから感じる貫禄を思わせる鋭い観察眼に見定められているようで居心地悪く感じた。
「……えっと、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「おや、死神でもお手洗いに行くのね」
「……どうでしょうかね」
僕はお婆さんにそう言い残して病室を後にした。なんとなく、病室の中にいるのが気まずかった。全てを見透かされている気がした。それが耐えられなかった。僕の汚い過去が、見ず知らずの老人にバレてしまうことさえ嫌だった。
足早に病室から離れようと廊下を進んだ。一度病院から出ようと思って階を下り、受付の横を通り過ぎて外に出た。入り口から数歩して、僕は突然何かに弾き飛ばされた。思わず尻餅をついて前方に視線を戻したけれど、何もない。首を傾げつつお尻の砂埃を払いながら再び進もうとすると、またしても何かに全身が弾かれた。今度は構えていた分転ぶことはなかったけれど、見えないバリアが病院の中と外を隔てていることに絶望した。病院から脱出しようとすると、さながら体積の巨大な蒟蒻に体当たりしたような感触がある。
「命を共有しているから離れられない、といったところか」
思考を整理するために独り言を零し、僕はお婆さんのいる病室へと戻った。お婆さんは僕が病室に無断で入っていることを一切の抵抗なく許容しているようだった。死神はおろか、僕のことを医療従事者とでも思っているのではないかと錯覚するほど、お婆さんは落ち着いている。
「戻ってくるのに時間が掛かったね。一度病院を抜け出したんじゃないかと思うほど」
「……お見通しってわけですね」
「その様子だと、病院からは出られなかったようね」
お婆さんの推測に苦笑いすると、悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「何事も、最初は勝手が分からないものよ」
お婆さんはそう言うと、僕をベッドの側にある椅子に座るように促した。
「和菓子、食べない?」
ベッド傍にある台に、縁が内側に傾斜している木製の大きな茶碗みたいなボウルに大量の和菓子が敷き詰められていた。
「ありがとうございます」
僕は和菓子の一つを手に取った。正直、ご馳走は十分に堪能したからか、全くお腹が空いていなかった。それに加えて、何故か今までで一番、和菓子を目の前にして食欲がそそられなかった。それでも包み紙を剥いて和菓子を口に入れた。その瞬間、信じられないほどの不快感と吐き気が全身を駆け巡り、やがて口内に終着した。
「どうしたのかしら?」
お婆さんの言葉に反応する余裕もなく、僕は口元を押さえてトイレに駆け込んだ。トイレの個室に入り、便器に向かって盛大に嗚咽した。けれど、もはや人間ではなくなってしまった僕の身体からは、何も出てこなかった。しばらくえづいた後、水道水で口元を洗った。鏡に映った自分の顔から徐々に青さが引いていった。僕の顔は、人間以外の何者でもない。死神もどきにすらなれない半端者だった。お婆さんは、一体僕にどんな姿を重ねたのだろう。
体調がある程度回復してから病室に戻った。お婆さんは心配そうに僕に言った。
「大丈夫? ベッドで横になるといいわ」
「あ、いや、病人はお婆さんの方でしょ」
「少しの間だけよ。ほら、横になって」
「自分の命を弄ぶ死神を心配してどうするの。僕は大丈夫だから」
ベッドから降りようとするお婆さんを引き留めると、お婆さんは何故か感慨深そうに笑った。
「死神様に自分の体調を心配されるなんて、可笑しなものねぇ」
「…………そうだね」
お婆さんの言葉は何故か僕を責めてはくれない。その優しい言葉や眼差しがむしろ、僕の人としての心をピーラーで何回も削ってくるような痛みを蓄積させてくる。
お婆さんを見ると、仏のような顔で僕に微笑んだ。そして、ゆっくり口を開けて言った。
「あなた、彼女はいるの?」
「…………なんだって?」
「年頃なんだから、好きな人はいるんでしょう?」
「……突然どうしたの」
「孫とこういう話をするのが夢だったの。息子が孫には会わせてくれなくてねぇ。だから、今目の前にあなたが現れてくれて舞い上がってしまって」
お婆さんは楽しそうに笑った。
僕は、お婆さんの質問に答えた。
「彼女はいないよ。いたとしても、僕は身内には言わない」
「好きな人くらいいるでしょう」
「……いや、いない」
「今、間があった」
うふふふ、とお婆さんがしてやったりと言わんばかりの表情で小悪魔的に笑った。
「お婆さんくらいの年齢になっても、こういう話は好きなんだね」
「いくつになっても、人は人を愛することはやめられない」
「それは面倒だね」
「それが幸福でもある」
「…………じゃあ、今度はお婆さんの番」
「私?」
「お婆さんの恋愛話」
「あら、まぁ」
お婆さんは照れたように頬に手を添えた。
「こんなおいぼれの話なんて興味はないでしょう?」
「今の話じゃなくてもいいよ。昔の話とか」
「……そうだねぇ。もう五十年も前の話になってしまうんだけれど、王子様に恋をしたことがあるの」
「……王子様?」
「旦那さんのことよ」
「……随分とお熱い様子で」
「それはもう、あの人の格好良さと言ったら私に残された寿命ではとても語りきれないわ」
お婆さんは恍惚とした表情でそう言ってみせたけど、こちらからすれば後ろめたさ以外感じられない。僕は気まずい思いのままお婆さんの話に耳を傾けた。
「でも、どの時代ももったいないことをするもので、他人のためを想う良い人ほど早くに亡くなる世の中だった」
「…………それって」
僕がお婆さんの意味するところを察すると、お婆さんが神妙な顔で頷いた。
「戦争よ。私の亭主は、お国のために身体を張る兵士だった。自ら志願して行ったわ」
「……それが、正義だと思っていたんですね」
「事実、そうした正義を持った人たちがいなければ、日本はもっと悲惨な状況になっていたわ」
「……お婆さんは、どう思っていたんですか?」
「…………そうね。当時の日本に対してというより、あの人個人に向けて思っていたことはあったわ。たった一つだけ」
お婆さんは、こちらに顔を向けてはいるけれど、目の前に広がる病室の光景や僕の姿は視界に入っていないだろう。過去の思い出が染み込んだコンタクトレンズを目に馴染ませたみたいに、お婆さんの五感だけが当時にタイムリープしていた。
「死なないで。そのことだけ、願っていたわ」
お婆さんは涙を流すことなく微笑んだ。まるで、僕に夫の姿を重ねるように。
「あの人が戦争で亡くなるまで、文通はずっと続けてたのよ。今で言うとLINEっていうものかしら?」
「……文通なら、分かりますよ」
「あらあら、ごめんなさい。あ、そうだわ。あの人、手紙の中でびっくりするような事を書いていたのを思い出したわ。あなたを見ていたら」
「……どういうことですか?」
「あの人、戦場であだ名がつけられていたそうなの。味方にも、敵国にも」
お婆さんは口元を押さえながら控えめに言った。
「死神」
僕が驚いた表情を浮かべると、お婆さんは満足そうに口角を上げた。
「どの戦場に赴いても、死なないし敵の兵士たちは屠るしで、自他共に死神という称号を掲げてたそうなの。敵からすれば一番相手にしたくなくて、仲間を惨殺した憎い人物だったでしょうね」
「……そうでしょうね」
「でも、私は彼のことを愛していたわ」
お婆さんは物腰の柔らかい表情の中に、芯の通った鋭い眼光を覗かせた。僕は自分の身が強張るのが分かった。
「日本の人口よりも多い数の人々から嫌われていても、私は彼のことを愛していた。彼が人の命をどれほど奪ったかは知っているわ。でも、私には彼が必要だった」
一度そこで言葉を区切ると、お婆さんは首を少し傾けて僕に言った。
「あなただって、死神だからといって全員から拒絶されるわけじゃないわ。きっと、あなたのことを慕ってくれる人がいるはずよ。あなたは素敵な人よ」
お婆さんは目を糸みたいに細くして微笑んだ。頬の皺が柔らかくしなる。その様子を見た僕の視界は、やがて濁っていった。
「……ありがとう」
「うふふ、良い子ね」
お婆さんは僕の頭に手を伸ばしてきた。けれど一度僕の頭上に届かない位置で手を止めた。それから何かを確かめるようにゆっくりと僕の頭に到達した年季のある手が、優しく頭を撫でてきた。
僕とお婆さんの奇妙な関係はそれからも続いた。死神として対象者と契約したことで、両者が常に一緒にいることに整合性を持たせるために世界が采配してくれたことにも気がついた。死神といえども睡眠は必要らしく、お婆さんとの契約によって病院から出られないことから睡眠を取るときにどうすればいいのか初日に危惧していたけれど、後の看護師さんからの言葉で自分も祖母と同じこの病院の患者であることが発覚したのだ。
また、僕はお婆さんから栄養分を分けてもらっているからか、一切の食事を必要とすることがなかった。むしろ、看護師がお婆さん宛に運んでくる食事を見て吐き気を催すほどだった。そして、僕の病室には食事が運ばれてくることは一切なく、興味本位でそのことについて複数の看護師さんに訊いたところ、誰もが「もう食べましたよね?」という回答を返してきた。これも世界が僕とお婆さんの関係を肯定するために施した調整なのだろう。
僕とお婆さんが知り合ってから二ヶ月が過ぎた頃、お婆さんは医者から外出許可をもらった。僕も同様に外出許可を取り、お婆さんと出掛けることになった。
お婆さんは白い杖をつきながら、病院の外に出た。僕もお婆さんと足並みを揃えて病院の敷地外に出た。どうやら、病院という領域に囚われていたわけではなく、お婆さんから離れられないという制約が掛かっていたらしかった。
お婆さんはゆっくりとした足取りで道の端に立つブロック塀に手をつきながら、杖を支えに歩いた。途中、ブロック塀沿いに並ぶ電柱にぶつかりそうになったお婆さんの動きを慌てて止めた。
「ごめんねぇ」
お婆さんは申し訳なさそうに自分の隣を見上げた。けれど、僕は背後からお婆さんの背中を支えていた。だから、お婆さんが何もない自分の真横を見上げているのは不自然だった。
そこで初めて、僕は思い出した。白い杖は、盲目の人が使う杖である。昔読んだ本にそのことが書かれてあった。
「お婆さん、目が見えないんですか?」
僕が訊くと、お婆さんは声が聞こえるのが後ろだと分かって振り向いた。
「おや、気づいてしまったのね。えぇ、もう十年以上は真っ暗な世界で生きているわ」
「……どうして言わなかったの」
「そうねぇ。目が見えないから、誰か一緒について来てくれる人がずっとほしかったの。ようやくあなたが現れてくれたというのに、目が見えないことがバレたら面倒に思われるんじゃないかと怖かったの。きっと今が、私があの人に会える最後の機会だから、それを無碍にするわけにはいかなかった」
初めて見せるお婆さんの弱さに僕は胸が痛くなった。お婆さんにとって、自分がこの世界から消える前に亡くなった夫に会いに行くことができなくなることは、何よりの恐怖なのだろう。きっと、死神に自分の命が取られることよりも。
僕は、杖を持っていない方のお婆さんの手を握った。
「誘導するから、お婆さんは道案内して」
お婆さんは僕の言葉に驚いた様子だった。けれど、静かに微笑んで頷いた。
「ありがとう。あなたは優しい子ね」
「お婆さんは意外と小心者なんだね」
お婆さんは僕の言葉に笑った。
お婆さんの手を握りながら、僕はお婆さんの指示に従いながら目的地を目指した。途中で駅に入り、それから特急で隣町に向かった。
特急電車に揺られながら、僕はお婆さんと二人掛けの席に隣り合って座った。お手洗いに行く欲求を失った僕が窓側の席に座ってお婆さんと話しつつ、時折窓の外をぼんやりと眺めるのを繰り返した。
「私は自分の家族や親戚とはもう随分と長い間会っていなくてねぇ。特に息子のことが心配でならないわ。あの子、根は優しいのだけど精神的に弱っちいのよ。佐知子さんが先立ってから、あの子はすっかり衰弱してしまった」
お婆さんはため息を吐きながら顔をしかめた。
「あの子が子どもを授かって、ようやく待望の孫と余生を過ごせると心踊らせたのだけれど、とうとう一度しか会わずじまいね」
お婆さんはそこまで話して、ハッとしたように僕の方を振り返った。
「ごめんなさい、ついつい愚痴を零してしまったわ。恥ずかしい限りよ」
お婆さんは不本意そうに手を顔の前で煽いだ。
「二人の孫がいるのだけど、上の子はあなたと同じくらいじゃないかしら。二人とも女の子だから、よかったらどちらかあなたの伴侶にしてくれないかしら?」
「……遠慮しておきます」
「うふふ。私はあなたに長く生きてほしいと思ってはいるけれど、この二人と契約を交わすのはどうかやめてちょうだいね」
お婆さんは冗談っぽく笑った。
お婆さんは久しぶりの外出に疲れたのか、しばらくしたら眠ってしまった。手持ち無沙汰になった僕は、目的の駅に着くまでの間、窓の外を眺めることに終始した。
お婆さんが口にしていた駅名のアナウンスが流れると、それまで眠っていたお婆さんが静かに目を開いた。聞き馴染みのある駅名が無意識領域まで届いたのだろう。特急電車が駅に到着する前に、お婆さんはそれまで木にぴったりとくっついていた蛹から脱皮するように杖をつきながらむっくりと立ち上がった。
僕はお婆さんの手をとりながら電車を降りた。
そこから、お婆さんの誘導に従って目的地を目指した。駅から二十分ほど歩くと、墓地が現れた。お婆さんは墓地の中に入ると鼻腔に集中するように深く息を吸い、感極まった様子で目を潤わせた。
何も誘導せずとも、ある墓石の前でお婆さんは立ち止まった。
「あなた。会いに来ました」
お婆さんはそう言うと手を合わせて目を瞑り、顔を下に向けた。他人には聞こえない程の声で、お婆さんは何か呟いた。僕は隣でお婆さんの様子をただ見守るしかなかった。しばらくお婆さんが墓石の前で静止しているのを眺めていると、名残惜しそうに手をおろすのが目に入った。
お婆さんは墓石の前で頭を下げると、僕の方に近づいて来た。すると、満足そうに微笑みながら言った。
「行きましょうか」
「もういいの?」
「えぇ。あの人に伝えたいことはもう伝えましたから」
「……そっか」
僕は再びお婆さんに手を貸しながら駅まで向かった。帰りの電車の中では、行きの電車よりもお互いの口数は少なかった。特に、お婆さんはほとんど口を開くことはなかった。行きに比べて疲れてしまったのか、あるいは大切な人に会いに行くことで生じる落ち着かなさを紛らわせる必要がなくなったからか。いずれにせよ、憑き物が取れたように穏やかだった。
「お婆さん」
僕が呼びかけると、通路側の席に座るお婆さんがゆっくりとこちらに顔を向けた。
「どうしてあの時、僕が死神だって分かったの?」
「…………」
「お婆さんは目が見えないはずなのに」
「……あなたが私の病室にやって来る前、あの人の夢を見ていたの」
「……旦那さんの夢」
僕が言うと、お婆さんは頷いた。
「あの人ったらいつもみたいに冗談ばっかり言って。自分を死神だと揶揄したの。だから、私はあの人の言葉を復唱した。その時に目が覚めて、只ならぬ気配を感じた。目の前に、あなたがいたのよ」
お婆さんは可笑しそうに笑った。
「そしたら、あなたが自分のことを本当に死神だなんて言うんだもの、年寄りを揶揄いたい人が私の病室に忍び込んだんだわって思った」
お婆さんは当時のことを思い出したのか「うふふ」と声を上げて笑った。
「命の契約をするなんて話になったから、私は誰か見知らぬ人に殺されてしまうのねって思った。でもね、あの人が夢に出てきたのはこれが理由だったんだって思うようにしたの。あの人のお告げ。だから、全然怖くなかった。心の中であの人に呟いたもの。もうすぐ会えます、って」
僕は、穏やかな表情でそう話すお婆さんから思わず顔を逸らした。
「でも、あなたのいう契約が結ばれた時から、先の命が本当に短くなったんだって自覚したわ。自分の身体のことだから分かるの。そうしたら、あなたから悍ましい雰囲気が消えた。それと同時に気が付いた。あぁ、この子は元々普通の子で、魅入られてしまったんだって」
「……魅入られたっていうのは、死神に?」
「おそらくだけれど。契約した後は、優しい雰囲気の男の子の気配しかしなかったから、話し相手ができた! って素直に喜んじゃったわ」
「……あの言葉は本当だったんだ」
僕が呆れながら笑うと、お婆さんは「もちろんよ」と嬉しそうに言った。
「あなたのおかげで、とても楽しい余生が過ごせたわ」
お婆さんは僕の手に自分の手を重ねると、見えていないはずの目で真っ直ぐとこちらを見つめながら言った。
「ありがとう」
その言葉で僕は、お婆さんを直視できなくなった。
「ごめんなさい」
「……どうしたのかしら?」
お婆さんは困惑した声で言った。
「お婆さんの残り少ない命を奪ってしまって、ごめんなさい」
「……何言ってるのよ。ほら、顔を上げて」
お婆さんの言葉に従った僕は、涙や鼻水を垂れ流したまま懺悔した。お婆さんは仕方がないといった様子で僕の頭を撫でた。車内を行き交う人たちに奇異な目で見られたけど、そんなことが気にならないくらいに僕は謝った。
「もう、誰の命も取らない。約束する。こんなことじゃ、お婆さんの時間は取り戻せないけど、約束するから!」
「…………」
「最低だ、僕。お婆さんに長生きして欲しいって思っちゃったんだ。こんなこと、思うことも言うことも許されないのに」
お婆さんは僕の頭を撫でながら、優しい声音で僕に言った。
「…………ありがとね。謝る必要なんてないわ。でも、これだけはどうか約束してちょうだい」
お婆さんは真剣な表情で僕に言った。
「どうか、生きて」
「…………」
「あなたが生きることを、私が肯定する。あなたが誰かの命を頂きながら生き続けることを、私が許可するわ。文句を言われたら、私が全て責任を請け負うから」
お婆さんはそう言うと、僕を抱きしめた。僕は恥ずかしげもなく泣き喚いた。
後ほど、僕たちは車掌さんから軽くお叱りを受けた後、無事に駅にたどり着いた。病院に戻ってから、僕とお婆さんはまた他愛のない話をした。
それから一ヶ月後、お婆さんは息を引き取った。朝目を覚ましてからお婆さんの病室に向かうと、医者がお婆さんの胸元に聴診器を当てていた。それから、時刻を口にすると手を合わせた。こちらを振り返った医者は、深刻そうな顔をして僕に言った。
「残念ながら、お婆さんは」
「…………はい」
「最期の挨拶をしてあげてください」
医者はお婆さんが眠るベッドから離れて僕に譲ってくれた。僕は会釈をしてからお婆さんの側に向かった。
お婆さんの表情は安らかだった。触れずとも、白くなった肌は氷のように冷たくなっていることが窺えた。僕は、恐る恐るお婆さんの頬に触れた。その瞬間、お婆さんは突然灰になった。微塵も意図せずベッドの上が灰まみれになったことがあまりにも現実離れしていたため、僕はしばらく立ち尽くした。耳鳴りがするほどの静寂を破ったのは、医者だった。
「これは、一体……」
医者もお婆さんが灰になった瞬間を目撃していたらしく、医者だけでなくこの病室にいる全員が言葉を失って立ち尽くしていた。
しばらくの静寂の後、医者が正気を取り戻したみたいにハッとした。それから僕の肩を叩いてきた。僕の背後にいる医者を振り返ると、医者が奇妙そうに言った。
「あなたは、誰かね」
医者の言葉で全てを悟った。僕は、お婆さんの側にいる理由がなくなったのだ。急速に空腹が主張し始めて、僕の胃の中を台風みたいに渦巻き出した。
僕は医者の言葉に反応することなく、お腹を抱えながら病院を飛び出した。訳も分からずに無我夢中で走り続けた。もう僕を制約するものはなくなったため、病院からは容易に離れられた。信じられないほどの空腹に苛まれながら、僕はいよいよ潮時だと思った。
「消えてしまおう」
お婆さんの冷たくなった顔が思い出されると同時に、挙句の果てにお婆さんに触れたことで灰にしてしまった光景が脳裏に焼き付いて離れない。こんな得体の知れない存在はこの世に存在すべきではない。僕は道の真ん中で膝をついた。涙が止まらなかった。
僕は、人格者であるお婆さんの寿命を半分にした。僕なんかが、お婆さんの僅かではあるものの想像を絶する価値のある未来を奪ってしまった。安易にお婆さんと契約を交わしてしまった。よりによって、どうしてあんなにも良い人を引き当ててしまったのだろう。もしかすると、僕がお婆さんに触れたことで、天国へ進むはずだったお婆さんの魂を地獄へと引きずり落としてしまったのではないだろうか。
「どうか、生きて」
不意にお婆さんの言葉が過った。
お婆さんは、僕が生き続けることが恩返しとでも言うのだろうか。死神がこの世界に蔓延ることを許容するつもりなのだろうか。ともすればお婆さんの夫も、本物の死神に連れ去られてしまったのではないのだろうか。自分をあんな姿にしてしまったことさえも受け入れてしまうのだろうか。死神が、憎くはないのだろうか。
もう、訊きたい相手であるお婆さんはどこにもいない。お婆さんが生きていたとしても、僕はこんな質問はできなかっただろう。死神のくせに、最期を看取ることさえできなかった。そのことが、ただただ愚かだった。なんて間抜けな死神なんだろう。いや、死神にすらなり損なった死神もどきだ。
「分かったよ、お婆さん。もう少しだけ、生きてみるよ。誰かを犠牲にしてしまうけれど、あなたに生きて欲しいと思ってもらえたのなら、もう一度だけ」
僕は、お腹を空かせたまま、街を彷徨った。今度は、契約者に情を持たないことを誓いながら。滑稽なことに、自ら死が近い人間のもとに向かい、自ら対象者の寿命を半減させているにもかかわらず、僕は相手が死ねばこうやって絶望する。全くもって、無意味なことだ。
だから僕はもう、誰のことも愛することのない死神になることに決めた。本物の死神になれたらどれほど楽だろうか、と独り言を胸中で呟きながら。
心的な時間の経過感覚としてはとうに数日を超えているけれど、実際にはどれほどの時間が経ったのかは分からない。画面の中に一回り小さい画面が無限に続くドロステ効果みたいに果てしない道のりを歩く心境の中、死神になって初めて快楽を覚えた。
「このにおいは……」
余計に消化するように胃が鳴った。においの出処を探すために視線を辺りに彷徨わせた。においの根源に目が止まった時、僕は納得した。
少し向こうに病院があった。嗅いだことがないはずなのに死神の嗅覚が僕に知覚させたのか、そこで死のにおいが立ち込めているのが分かった。きっと、これが人間が朽ち果てた時に漂う腐敗臭なのだろうと直感的に分かった。けれど、不思議なことに不快感どころか愉悦に浸るほど甘美なにおいに感じられた。新鮮な刺身のように消費期限が切れる前の香りと表現すれば、僕はれっきとした死神だと批評されるだろう。
もはや生存本能を度外視した食欲が、枯渇状態の僕の体内にエネルギーを蔓延させた。僕の身体はこれから獲物にありつくことができることに期待しながら、餌を目前にぶら下げられた犬が舌を垂らすように貪欲な足取りで病院に向かった。
病院の受付を何食わぬ顔で通り過ぎ、においが漂ってくる階へと向かう。病室がいくつも並ぶ廊下を進むと、僕はある一室の前で足を止めた。そして、ドアを開いた。中にはお婆さんが一人、ベッドに横たわって眠っていた。僕はそこに向かって歩を進める。近づく度に死のにおいが増した。
ベッド傍に辿り着いた僕は、お婆さんの顔を覗き込んだ。静かに深い呼吸をしながら、安らかな顔で眠っている。顔の皮膚に縦横する皺が時折ピクリと動いた。
お婆さんから命を頂こうと決めた僕は、途端に視界がモノクロになったことに動揺した。お婆さんの脈打つ心臓だけが赤く、触れるとほつれた糸が一本心臓からのびてきた。同時に、僕の心臓からも赤い糸が一本宙を這うようにのびてきた。その光景を見て、契約者と命を共有するという死神の言葉を思い出した。直感的に、お互いの命の糸を結べば契約が完了することが理解できた。
僕は、今すぐにでもこの二本の糸を結んでしまいたかった。けれど、眠っているお婆さんの命を勝手に弄んではいけないという一縷の良心が呵責を起こした。僕はお婆さんの顔と、お婆さんの命の糸を交互に見ることに終始した。
いずれ耐えきれなくなって、思わずお婆さんの命の糸を握った。ゆっくりとそれを自分の糸に繋げようとすると、不意にお婆さんが目を覚ました。それからお婆さんはこちらに視線を寄越した。僕は驚いてしまって、お婆さんとしばらく目が合ったままの状態になった。
ようやくお婆さんが口を動かした時、僕は驚愕して思わず目を見開いた。
「死神様」
数枚重ねた薬包紙越しに届いたような掠れた声だったけれど、一音一音は何故かはっきりと耳に届いた。どうやらお婆さんは、僕の姿が死神に見えるらしい。
「あなたには僕が、死神に見えるんですか?」
僕の問いかけに、お婆さんは静かに頷いた。死神と相対しているというのに、お婆さんは依然として安らかな表情を揺るがせることがない。震えることのない皺が、何事にも狼狽えることのない年季を表しているように思えた。
「あなたの命を頂きにきました」
「……あぁ、そうでしたか。いよいよですか」
「命を頂戴したからといって、今すぐ命を落とすことはありません。あくまで、残りの寿命を共有させてもらうという話です」
「……半分、あなたに寿命を分け与えるということですか?」
「そうです」
僕が頷くと、お婆さんはしばらく何かを考え込んだ。それから、どういうわけか微笑むとこちらに顔を向けてお婆さんは言った。
「では、余生が半分になったことの引き換えに、話し相手ができたということですね」
「…………はい?」
「おや、命を取るだけ取って何処かにお行きになるのですか?」
「…………」
確かに、寿命を頂くのだから、残り期間で契約者の要望に応えるくらいのことはした方がいいかもしれない。
「あの、今更なんですけれど」
僕がお婆さんの突飛な言葉に動揺しながら訊くと、お婆さんは控えめに首を傾げた。
「死神を見ても怖くないんですか?」
「……なにぶん、私も生きていく中で色々なものを見てきましたから」
お婆さんの言葉から僕には到底理解できないような言語不要の得体の知れない経験譚が読み取れた。
僕は、僕とお婆さんの命の糸を互いに結んだ。その瞬間、信じられないほど贅沢に欲求が満たされる感覚が全身を伝った。この感覚を味わえるのなら、もう人間には戻らなくてもいいと思ってしまうほどだった。けれど、小鳥遊さんの顔が思い浮かんですぐに首を横に振った。僕が死神になったのは、復讐のためだ。目的を見失ってはいけない。
僕は顔を上げると、お婆さんに宣言した。
「これで契約完了です。あなたが亡くなる直前まで、僕はあなたの側で話し相手になります」
お婆さんはそう言う僕を見て今日初めて驚きの表情を見せた。
「……あなた、私の孫と同じくらいの男の子だったのね」
「…………孫?」
お婆さんの不可解な言葉に戸惑っていると、病室のドアがノックされた。そして、病室に医者が入って来た。医者と目が合うと、僕の存在に驚いて警戒するように少し身を引いた。けれどすぐに柔和な表情に戻して僕に言った。
「おや、芽白さんのお孫さん。部屋を移られていましたか」
「……はぁ」
「家族団欒に割り込んで申し訳ない。お婆様に話がありまして」
医者の発言が意味するところが理解できずにお婆さんに視線をやると、お婆さんと目が合った。お婆さんは何を思ったのか僕に頷くと、医者に言った。
「唯一、私を慕ってくれる可愛い孫なんですよ」
「それはそれは。随分と孝行者で」
医者の言葉にお婆さんは嬉しそうに笑った。
少し距離を置いた位置で医者とお婆さんのやり取りを眺めつつ、この病室で起きた出来事を思い返した。
どうやら、契約する瞬間には契約者から見た僕の風貌は死神らしい。その上、契約が完了すると契約者の認識が変更されて僕が人間に見えるようになり、さらに僕以外の人間からは、僕と契約者の間に相応の関係性が見えるようになるようだった。ただし、契約を済ませた人物だけは、僕が死神であることは覚えている。なんとも複雑な話だ。
しばらくして医者がお婆さんへの用を解消して病室を出て行った。病室から足音が遠ざかって行くのを確認した僕は、お婆さんに訊いた。
「僕は、あなたの孫なんですか」
「……という話になってるみたいだね」
「お婆さんは、僕の正体は覚えてるんですか?」
お婆さんは僕の質問に頷くことで返した。それから、お婆さんは言葉を続けた。
「さっきお医者さんが来た時、どうやらあなたも状況を理解していないようだったから、話を合わせたんだけどねぇ。もしかして、人間の命をもらうのは私が初めて?」
「……仰る通りです」
僕が絞り出すように答えると、お婆さんは僕の全身に視線を滑らせた。目を細めるお婆さんから感じる貫禄を思わせる鋭い観察眼に見定められているようで居心地悪く感じた。
「……えっと、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「おや、死神でもお手洗いに行くのね」
「……どうでしょうかね」
僕はお婆さんにそう言い残して病室を後にした。なんとなく、病室の中にいるのが気まずかった。全てを見透かされている気がした。それが耐えられなかった。僕の汚い過去が、見ず知らずの老人にバレてしまうことさえ嫌だった。
足早に病室から離れようと廊下を進んだ。一度病院から出ようと思って階を下り、受付の横を通り過ぎて外に出た。入り口から数歩して、僕は突然何かに弾き飛ばされた。思わず尻餅をついて前方に視線を戻したけれど、何もない。首を傾げつつお尻の砂埃を払いながら再び進もうとすると、またしても何かに全身が弾かれた。今度は構えていた分転ぶことはなかったけれど、見えないバリアが病院の中と外を隔てていることに絶望した。病院から脱出しようとすると、さながら体積の巨大な蒟蒻に体当たりしたような感触がある。
「命を共有しているから離れられない、といったところか」
思考を整理するために独り言を零し、僕はお婆さんのいる病室へと戻った。お婆さんは僕が病室に無断で入っていることを一切の抵抗なく許容しているようだった。死神はおろか、僕のことを医療従事者とでも思っているのではないかと錯覚するほど、お婆さんは落ち着いている。
「戻ってくるのに時間が掛かったね。一度病院を抜け出したんじゃないかと思うほど」
「……お見通しってわけですね」
「その様子だと、病院からは出られなかったようね」
お婆さんの推測に苦笑いすると、悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「何事も、最初は勝手が分からないものよ」
お婆さんはそう言うと、僕をベッドの側にある椅子に座るように促した。
「和菓子、食べない?」
ベッド傍にある台に、縁が内側に傾斜している木製の大きな茶碗みたいなボウルに大量の和菓子が敷き詰められていた。
「ありがとうございます」
僕は和菓子の一つを手に取った。正直、ご馳走は十分に堪能したからか、全くお腹が空いていなかった。それに加えて、何故か今までで一番、和菓子を目の前にして食欲がそそられなかった。それでも包み紙を剥いて和菓子を口に入れた。その瞬間、信じられないほどの不快感と吐き気が全身を駆け巡り、やがて口内に終着した。
「どうしたのかしら?」
お婆さんの言葉に反応する余裕もなく、僕は口元を押さえてトイレに駆け込んだ。トイレの個室に入り、便器に向かって盛大に嗚咽した。けれど、もはや人間ではなくなってしまった僕の身体からは、何も出てこなかった。しばらくえづいた後、水道水で口元を洗った。鏡に映った自分の顔から徐々に青さが引いていった。僕の顔は、人間以外の何者でもない。死神もどきにすらなれない半端者だった。お婆さんは、一体僕にどんな姿を重ねたのだろう。
体調がある程度回復してから病室に戻った。お婆さんは心配そうに僕に言った。
「大丈夫? ベッドで横になるといいわ」
「あ、いや、病人はお婆さんの方でしょ」
「少しの間だけよ。ほら、横になって」
「自分の命を弄ぶ死神を心配してどうするの。僕は大丈夫だから」
ベッドから降りようとするお婆さんを引き留めると、お婆さんは何故か感慨深そうに笑った。
「死神様に自分の体調を心配されるなんて、可笑しなものねぇ」
「…………そうだね」
お婆さんの言葉は何故か僕を責めてはくれない。その優しい言葉や眼差しがむしろ、僕の人としての心をピーラーで何回も削ってくるような痛みを蓄積させてくる。
お婆さんを見ると、仏のような顔で僕に微笑んだ。そして、ゆっくり口を開けて言った。
「あなた、彼女はいるの?」
「…………なんだって?」
「年頃なんだから、好きな人はいるんでしょう?」
「……突然どうしたの」
「孫とこういう話をするのが夢だったの。息子が孫には会わせてくれなくてねぇ。だから、今目の前にあなたが現れてくれて舞い上がってしまって」
お婆さんは楽しそうに笑った。
僕は、お婆さんの質問に答えた。
「彼女はいないよ。いたとしても、僕は身内には言わない」
「好きな人くらいいるでしょう」
「……いや、いない」
「今、間があった」
うふふふ、とお婆さんがしてやったりと言わんばかりの表情で小悪魔的に笑った。
「お婆さんくらいの年齢になっても、こういう話は好きなんだね」
「いくつになっても、人は人を愛することはやめられない」
「それは面倒だね」
「それが幸福でもある」
「…………じゃあ、今度はお婆さんの番」
「私?」
「お婆さんの恋愛話」
「あら、まぁ」
お婆さんは照れたように頬に手を添えた。
「こんなおいぼれの話なんて興味はないでしょう?」
「今の話じゃなくてもいいよ。昔の話とか」
「……そうだねぇ。もう五十年も前の話になってしまうんだけれど、王子様に恋をしたことがあるの」
「……王子様?」
「旦那さんのことよ」
「……随分とお熱い様子で」
「それはもう、あの人の格好良さと言ったら私に残された寿命ではとても語りきれないわ」
お婆さんは恍惚とした表情でそう言ってみせたけど、こちらからすれば後ろめたさ以外感じられない。僕は気まずい思いのままお婆さんの話に耳を傾けた。
「でも、どの時代ももったいないことをするもので、他人のためを想う良い人ほど早くに亡くなる世の中だった」
「…………それって」
僕がお婆さんの意味するところを察すると、お婆さんが神妙な顔で頷いた。
「戦争よ。私の亭主は、お国のために身体を張る兵士だった。自ら志願して行ったわ」
「……それが、正義だと思っていたんですね」
「事実、そうした正義を持った人たちがいなければ、日本はもっと悲惨な状況になっていたわ」
「……お婆さんは、どう思っていたんですか?」
「…………そうね。当時の日本に対してというより、あの人個人に向けて思っていたことはあったわ。たった一つだけ」
お婆さんは、こちらに顔を向けてはいるけれど、目の前に広がる病室の光景や僕の姿は視界に入っていないだろう。過去の思い出が染み込んだコンタクトレンズを目に馴染ませたみたいに、お婆さんの五感だけが当時にタイムリープしていた。
「死なないで。そのことだけ、願っていたわ」
お婆さんは涙を流すことなく微笑んだ。まるで、僕に夫の姿を重ねるように。
「あの人が戦争で亡くなるまで、文通はずっと続けてたのよ。今で言うとLINEっていうものかしら?」
「……文通なら、分かりますよ」
「あらあら、ごめんなさい。あ、そうだわ。あの人、手紙の中でびっくりするような事を書いていたのを思い出したわ。あなたを見ていたら」
「……どういうことですか?」
「あの人、戦場であだ名がつけられていたそうなの。味方にも、敵国にも」
お婆さんは口元を押さえながら控えめに言った。
「死神」
僕が驚いた表情を浮かべると、お婆さんは満足そうに口角を上げた。
「どの戦場に赴いても、死なないし敵の兵士たちは屠るしで、自他共に死神という称号を掲げてたそうなの。敵からすれば一番相手にしたくなくて、仲間を惨殺した憎い人物だったでしょうね」
「……そうでしょうね」
「でも、私は彼のことを愛していたわ」
お婆さんは物腰の柔らかい表情の中に、芯の通った鋭い眼光を覗かせた。僕は自分の身が強張るのが分かった。
「日本の人口よりも多い数の人々から嫌われていても、私は彼のことを愛していた。彼が人の命をどれほど奪ったかは知っているわ。でも、私には彼が必要だった」
一度そこで言葉を区切ると、お婆さんは首を少し傾けて僕に言った。
「あなただって、死神だからといって全員から拒絶されるわけじゃないわ。きっと、あなたのことを慕ってくれる人がいるはずよ。あなたは素敵な人よ」
お婆さんは目を糸みたいに細くして微笑んだ。頬の皺が柔らかくしなる。その様子を見た僕の視界は、やがて濁っていった。
「……ありがとう」
「うふふ、良い子ね」
お婆さんは僕の頭に手を伸ばしてきた。けれど一度僕の頭上に届かない位置で手を止めた。それから何かを確かめるようにゆっくりと僕の頭に到達した年季のある手が、優しく頭を撫でてきた。
僕とお婆さんの奇妙な関係はそれからも続いた。死神として対象者と契約したことで、両者が常に一緒にいることに整合性を持たせるために世界が采配してくれたことにも気がついた。死神といえども睡眠は必要らしく、お婆さんとの契約によって病院から出られないことから睡眠を取るときにどうすればいいのか初日に危惧していたけれど、後の看護師さんからの言葉で自分も祖母と同じこの病院の患者であることが発覚したのだ。
また、僕はお婆さんから栄養分を分けてもらっているからか、一切の食事を必要とすることがなかった。むしろ、看護師がお婆さん宛に運んでくる食事を見て吐き気を催すほどだった。そして、僕の病室には食事が運ばれてくることは一切なく、興味本位でそのことについて複数の看護師さんに訊いたところ、誰もが「もう食べましたよね?」という回答を返してきた。これも世界が僕とお婆さんの関係を肯定するために施した調整なのだろう。
僕とお婆さんが知り合ってから二ヶ月が過ぎた頃、お婆さんは医者から外出許可をもらった。僕も同様に外出許可を取り、お婆さんと出掛けることになった。
お婆さんは白い杖をつきながら、病院の外に出た。僕もお婆さんと足並みを揃えて病院の敷地外に出た。どうやら、病院という領域に囚われていたわけではなく、お婆さんから離れられないという制約が掛かっていたらしかった。
お婆さんはゆっくりとした足取りで道の端に立つブロック塀に手をつきながら、杖を支えに歩いた。途中、ブロック塀沿いに並ぶ電柱にぶつかりそうになったお婆さんの動きを慌てて止めた。
「ごめんねぇ」
お婆さんは申し訳なさそうに自分の隣を見上げた。けれど、僕は背後からお婆さんの背中を支えていた。だから、お婆さんが何もない自分の真横を見上げているのは不自然だった。
そこで初めて、僕は思い出した。白い杖は、盲目の人が使う杖である。昔読んだ本にそのことが書かれてあった。
「お婆さん、目が見えないんですか?」
僕が訊くと、お婆さんは声が聞こえるのが後ろだと分かって振り向いた。
「おや、気づいてしまったのね。えぇ、もう十年以上は真っ暗な世界で生きているわ」
「……どうして言わなかったの」
「そうねぇ。目が見えないから、誰か一緒について来てくれる人がずっとほしかったの。ようやくあなたが現れてくれたというのに、目が見えないことがバレたら面倒に思われるんじゃないかと怖かったの。きっと今が、私があの人に会える最後の機会だから、それを無碍にするわけにはいかなかった」
初めて見せるお婆さんの弱さに僕は胸が痛くなった。お婆さんにとって、自分がこの世界から消える前に亡くなった夫に会いに行くことができなくなることは、何よりの恐怖なのだろう。きっと、死神に自分の命が取られることよりも。
僕は、杖を持っていない方のお婆さんの手を握った。
「誘導するから、お婆さんは道案内して」
お婆さんは僕の言葉に驚いた様子だった。けれど、静かに微笑んで頷いた。
「ありがとう。あなたは優しい子ね」
「お婆さんは意外と小心者なんだね」
お婆さんは僕の言葉に笑った。
お婆さんの手を握りながら、僕はお婆さんの指示に従いながら目的地を目指した。途中で駅に入り、それから特急で隣町に向かった。
特急電車に揺られながら、僕はお婆さんと二人掛けの席に隣り合って座った。お手洗いに行く欲求を失った僕が窓側の席に座ってお婆さんと話しつつ、時折窓の外をぼんやりと眺めるのを繰り返した。
「私は自分の家族や親戚とはもう随分と長い間会っていなくてねぇ。特に息子のことが心配でならないわ。あの子、根は優しいのだけど精神的に弱っちいのよ。佐知子さんが先立ってから、あの子はすっかり衰弱してしまった」
お婆さんはため息を吐きながら顔をしかめた。
「あの子が子どもを授かって、ようやく待望の孫と余生を過ごせると心踊らせたのだけれど、とうとう一度しか会わずじまいね」
お婆さんはそこまで話して、ハッとしたように僕の方を振り返った。
「ごめんなさい、ついつい愚痴を零してしまったわ。恥ずかしい限りよ」
お婆さんは不本意そうに手を顔の前で煽いだ。
「二人の孫がいるのだけど、上の子はあなたと同じくらいじゃないかしら。二人とも女の子だから、よかったらどちらかあなたの伴侶にしてくれないかしら?」
「……遠慮しておきます」
「うふふ。私はあなたに長く生きてほしいと思ってはいるけれど、この二人と契約を交わすのはどうかやめてちょうだいね」
お婆さんは冗談っぽく笑った。
お婆さんは久しぶりの外出に疲れたのか、しばらくしたら眠ってしまった。手持ち無沙汰になった僕は、目的の駅に着くまでの間、窓の外を眺めることに終始した。
お婆さんが口にしていた駅名のアナウンスが流れると、それまで眠っていたお婆さんが静かに目を開いた。聞き馴染みのある駅名が無意識領域まで届いたのだろう。特急電車が駅に到着する前に、お婆さんはそれまで木にぴったりとくっついていた蛹から脱皮するように杖をつきながらむっくりと立ち上がった。
僕はお婆さんの手をとりながら電車を降りた。
そこから、お婆さんの誘導に従って目的地を目指した。駅から二十分ほど歩くと、墓地が現れた。お婆さんは墓地の中に入ると鼻腔に集中するように深く息を吸い、感極まった様子で目を潤わせた。
何も誘導せずとも、ある墓石の前でお婆さんは立ち止まった。
「あなた。会いに来ました」
お婆さんはそう言うと手を合わせて目を瞑り、顔を下に向けた。他人には聞こえない程の声で、お婆さんは何か呟いた。僕は隣でお婆さんの様子をただ見守るしかなかった。しばらくお婆さんが墓石の前で静止しているのを眺めていると、名残惜しそうに手をおろすのが目に入った。
お婆さんは墓石の前で頭を下げると、僕の方に近づいて来た。すると、満足そうに微笑みながら言った。
「行きましょうか」
「もういいの?」
「えぇ。あの人に伝えたいことはもう伝えましたから」
「……そっか」
僕は再びお婆さんに手を貸しながら駅まで向かった。帰りの電車の中では、行きの電車よりもお互いの口数は少なかった。特に、お婆さんはほとんど口を開くことはなかった。行きに比べて疲れてしまったのか、あるいは大切な人に会いに行くことで生じる落ち着かなさを紛らわせる必要がなくなったからか。いずれにせよ、憑き物が取れたように穏やかだった。
「お婆さん」
僕が呼びかけると、通路側の席に座るお婆さんがゆっくりとこちらに顔を向けた。
「どうしてあの時、僕が死神だって分かったの?」
「…………」
「お婆さんは目が見えないはずなのに」
「……あなたが私の病室にやって来る前、あの人の夢を見ていたの」
「……旦那さんの夢」
僕が言うと、お婆さんは頷いた。
「あの人ったらいつもみたいに冗談ばっかり言って。自分を死神だと揶揄したの。だから、私はあの人の言葉を復唱した。その時に目が覚めて、只ならぬ気配を感じた。目の前に、あなたがいたのよ」
お婆さんは可笑しそうに笑った。
「そしたら、あなたが自分のことを本当に死神だなんて言うんだもの、年寄りを揶揄いたい人が私の病室に忍び込んだんだわって思った」
お婆さんは当時のことを思い出したのか「うふふ」と声を上げて笑った。
「命の契約をするなんて話になったから、私は誰か見知らぬ人に殺されてしまうのねって思った。でもね、あの人が夢に出てきたのはこれが理由だったんだって思うようにしたの。あの人のお告げ。だから、全然怖くなかった。心の中であの人に呟いたもの。もうすぐ会えます、って」
僕は、穏やかな表情でそう話すお婆さんから思わず顔を逸らした。
「でも、あなたのいう契約が結ばれた時から、先の命が本当に短くなったんだって自覚したわ。自分の身体のことだから分かるの。そうしたら、あなたから悍ましい雰囲気が消えた。それと同時に気が付いた。あぁ、この子は元々普通の子で、魅入られてしまったんだって」
「……魅入られたっていうのは、死神に?」
「おそらくだけれど。契約した後は、優しい雰囲気の男の子の気配しかしなかったから、話し相手ができた! って素直に喜んじゃったわ」
「……あの言葉は本当だったんだ」
僕が呆れながら笑うと、お婆さんは「もちろんよ」と嬉しそうに言った。
「あなたのおかげで、とても楽しい余生が過ごせたわ」
お婆さんは僕の手に自分の手を重ねると、見えていないはずの目で真っ直ぐとこちらを見つめながら言った。
「ありがとう」
その言葉で僕は、お婆さんを直視できなくなった。
「ごめんなさい」
「……どうしたのかしら?」
お婆さんは困惑した声で言った。
「お婆さんの残り少ない命を奪ってしまって、ごめんなさい」
「……何言ってるのよ。ほら、顔を上げて」
お婆さんの言葉に従った僕は、涙や鼻水を垂れ流したまま懺悔した。お婆さんは仕方がないといった様子で僕の頭を撫でた。車内を行き交う人たちに奇異な目で見られたけど、そんなことが気にならないくらいに僕は謝った。
「もう、誰の命も取らない。約束する。こんなことじゃ、お婆さんの時間は取り戻せないけど、約束するから!」
「…………」
「最低だ、僕。お婆さんに長生きして欲しいって思っちゃったんだ。こんなこと、思うことも言うことも許されないのに」
お婆さんは僕の頭を撫でながら、優しい声音で僕に言った。
「…………ありがとね。謝る必要なんてないわ。でも、これだけはどうか約束してちょうだい」
お婆さんは真剣な表情で僕に言った。
「どうか、生きて」
「…………」
「あなたが生きることを、私が肯定する。あなたが誰かの命を頂きながら生き続けることを、私が許可するわ。文句を言われたら、私が全て責任を請け負うから」
お婆さんはそう言うと、僕を抱きしめた。僕は恥ずかしげもなく泣き喚いた。
後ほど、僕たちは車掌さんから軽くお叱りを受けた後、無事に駅にたどり着いた。病院に戻ってから、僕とお婆さんはまた他愛のない話をした。
それから一ヶ月後、お婆さんは息を引き取った。朝目を覚ましてからお婆さんの病室に向かうと、医者がお婆さんの胸元に聴診器を当てていた。それから、時刻を口にすると手を合わせた。こちらを振り返った医者は、深刻そうな顔をして僕に言った。
「残念ながら、お婆さんは」
「…………はい」
「最期の挨拶をしてあげてください」
医者はお婆さんが眠るベッドから離れて僕に譲ってくれた。僕は会釈をしてからお婆さんの側に向かった。
お婆さんの表情は安らかだった。触れずとも、白くなった肌は氷のように冷たくなっていることが窺えた。僕は、恐る恐るお婆さんの頬に触れた。その瞬間、お婆さんは突然灰になった。微塵も意図せずベッドの上が灰まみれになったことがあまりにも現実離れしていたため、僕はしばらく立ち尽くした。耳鳴りがするほどの静寂を破ったのは、医者だった。
「これは、一体……」
医者もお婆さんが灰になった瞬間を目撃していたらしく、医者だけでなくこの病室にいる全員が言葉を失って立ち尽くしていた。
しばらくの静寂の後、医者が正気を取り戻したみたいにハッとした。それから僕の肩を叩いてきた。僕の背後にいる医者を振り返ると、医者が奇妙そうに言った。
「あなたは、誰かね」
医者の言葉で全てを悟った。僕は、お婆さんの側にいる理由がなくなったのだ。急速に空腹が主張し始めて、僕の胃の中を台風みたいに渦巻き出した。
僕は医者の言葉に反応することなく、お腹を抱えながら病院を飛び出した。訳も分からずに無我夢中で走り続けた。もう僕を制約するものはなくなったため、病院からは容易に離れられた。信じられないほどの空腹に苛まれながら、僕はいよいよ潮時だと思った。
「消えてしまおう」
お婆さんの冷たくなった顔が思い出されると同時に、挙句の果てにお婆さんに触れたことで灰にしてしまった光景が脳裏に焼き付いて離れない。こんな得体の知れない存在はこの世に存在すべきではない。僕は道の真ん中で膝をついた。涙が止まらなかった。
僕は、人格者であるお婆さんの寿命を半分にした。僕なんかが、お婆さんの僅かではあるものの想像を絶する価値のある未来を奪ってしまった。安易にお婆さんと契約を交わしてしまった。よりによって、どうしてあんなにも良い人を引き当ててしまったのだろう。もしかすると、僕がお婆さんに触れたことで、天国へ進むはずだったお婆さんの魂を地獄へと引きずり落としてしまったのではないだろうか。
「どうか、生きて」
不意にお婆さんの言葉が過った。
お婆さんは、僕が生き続けることが恩返しとでも言うのだろうか。死神がこの世界に蔓延ることを許容するつもりなのだろうか。ともすればお婆さんの夫も、本物の死神に連れ去られてしまったのではないのだろうか。自分をあんな姿にしてしまったことさえも受け入れてしまうのだろうか。死神が、憎くはないのだろうか。
もう、訊きたい相手であるお婆さんはどこにもいない。お婆さんが生きていたとしても、僕はこんな質問はできなかっただろう。死神のくせに、最期を看取ることさえできなかった。そのことが、ただただ愚かだった。なんて間抜けな死神なんだろう。いや、死神にすらなり損なった死神もどきだ。
「分かったよ、お婆さん。もう少しだけ、生きてみるよ。誰かを犠牲にしてしまうけれど、あなたに生きて欲しいと思ってもらえたのなら、もう一度だけ」
僕は、お腹を空かせたまま、街を彷徨った。今度は、契約者に情を持たないことを誓いながら。滑稽なことに、自ら死が近い人間のもとに向かい、自ら対象者の寿命を半減させているにもかかわらず、僕は相手が死ねばこうやって絶望する。全くもって、無意味なことだ。
だから僕はもう、誰のことも愛することのない死神になることに決めた。本物の死神になれたらどれほど楽だろうか、と独り言を胸中で呟きながら。