僕の身の上話をした後、彼女は何か思い詰めるようにして自分の部屋に籠ってしまった。一人になりたいから部屋に閉じこもっただろうから、僕は特に彼女を呼び止めるようなことはしなかった。
 僕は一人でリビングに待機していた。すると、彼女の妹が「ただいま」と言って帰って来た。リビングに入って来て僕と目が合うと、彼女の妹は肩を少し跳ねさせて驚いた。それから、僕から一切目を離さずこちらに背を向けないまま自分の部屋に向かって階段を上がろうとした。ただ、彼女の妹はその直前、僕に訊いた。
「お姉ちゃんは?」
「彼女なら、自分の部屋にいるよ」
「そう」
 彼女の妹は短くそう返答すると、こちらに目も暮れず勢いよく階段を駆け上って行った。僕は思わず溜息を吐いた。自分が撒いた種なのだから仕方ない。僕は彼女にだけじゃなく、彼女の妹にもしてはいけないことをしてしまった。その罪を忘れてはいないため、彼女の妹の態度に不満はない。
 僕はその後、部屋に戻った。僕がリビングにいても、二人が食事をとる際に邪魔になるだけだ。僕は部屋のベッドで寝転びながら、彼女に今日話した自分の過去のことに想いを馳せた。小鳥遊さんは、最期、自身の命を投げ捨てる際に何を思ったのだろうか。日比谷が僕に成りすまして送ってきた文面を見て、一体どれほど感情が乱されたのだろうか。
「ごめん」
 僕は、小さくそう呟いた。一生小鳥遊さんには届くことのない、僕が死神として墓場まで背負っていくべき罪だった。僕はそのことを肝に銘じながら、重くなった瞼に抵抗することなく目を閉じた。そのまま、僕は眠ってしまった。

「起きて」
「…………」
 目を開けると、目の前に彼女がいた。僕の顔を覗き込みながら、彼女はもう一度僕に言った。
「起きて」
「…………」
「カーテン、開くよ」
 彼女は僕が起きる素振りを見せないことに業を煮やしたのか、部屋のカーテンを握った。そして、彼女は思いっきりカーテンを開いた。窓の外はすっかり朝の顔になっていた。眼球を溶かすような刺激をもたらす陽光が一気に部屋の中に入ってきた。
「……勘弁してよ」
 僕は布団を自分に被せた。すると、彼女は僕の布団を引き剥がした。
「居候している身分でなに贅沢なこと言ってんの。ほら、早く起きる」
 ごもっともなことを言われてしまった僕は、仕方なく上体を起こした。複数の埃が瞼の裏に入り込んだような眠気を払うために目を擦った。すると、彼女が唐突なことを口にした。
「付き合って」
「…………なんだって?」
「この前、死神として日比谷に復讐するのに付き合ってあげたでしょ」
「……妨害されたけど」
 彼女は僕の言葉を無視して続けた。
「だから、今度は私に付き合って」
「……何に?」
「私のお父さんに会いに行くのに付き合って」
「……君の父親って」
「私とひなのを捨てたクズ」
「…………」
 僕が反応に困っていると、彼女は可笑しそうに笑った。
「ひなのはもう学校に行ったから、ちょっと付き合ってよ」
「……え、今から行くの?」
「そうだよ。日帰りで行ける距離にお父さんがいるから」
「……そうだったんだ」
「あと、今までちょっと扱いが酷過ぎた。ごめん」
「……え?」
「お風呂にも入れず、新しい服も用意してなかった」
「……いや、服は自分で買うよ。この前余ったお金があるから」
「お風呂、入って来て。ずっとあんたが後ろめたさを感じていることを利用して、人間らしいことをさせてなかった。いくら自分の命を奪う相手だからって、やり過ぎた」
「いや、普通のことでしょ。一緒の家に居させてくれていること自体驚いてるんだから。他の人なら野宿させてるところだよ。でも、お風呂を使わせてくれるということなら、有難く使わせてもらうよ」
「うん、行ってらっしゃい」
 彼女は微笑んだ。僕は彼女の人の好さに驚きながら、部屋のドアを開けた。すると、目の前に彼女の妹がいた。
「お姉ちゃん。死神さんと何話してたの?」
「……ひなの、どうしてここに? 学校に行ったんじゃないの?」
「お姉ちゃんこそ、学校は?」
「え、えっと、今日はお休みで」
「ふーん、祝日でもないし、行事もなさそうだし、変だね?」
 彼女は、彼女の妹の鋭い視線に気まずそうにしていた。そして、彼女の妹から彼女へと延びる視線が僕の胴体を貫通していた。つまり、僕こそが二人に挟まれて気まずい思いをしていた。
 彼女の妹は頬を膨らませると、不満を漏らした。
「ずるい! 死神さんばっかりお姉ちゃんと一緒でずるい!」
「別に死神さんと遊んでるわけじゃないよ」
「でも、お姉ちゃんが死神さんに悪さされないか心配。私も行く!」
「私も行くって……あなた、どこに行くか分かってるの?」
「パパのところでしょ」
「……でも、ひなの。ひなのがまだ物心がついていなかった時にしかいなかったのよ。ひなのは覚えてないでしょ?」
「うん。でも、私もパパに会いたい。お姉ちゃんと一緒にいたい!」
「うーん、困ったなぁ」
 彼女は眉を下げながら、駆け寄って来た彼女の妹の頭を撫でていた。しばらくその状態が続いた後、彼女は意を決したように言った。
「分かった。お姉ちゃんと一緒に行こう。ひなの」
「え、本当?」
「うん。ほら、早く支度してきて。学校には私から連絡しておくから」
「分かった!」
 彼女の妹ははしゃいだ様子で自分の部屋に戻って行った。嵐が去った後のように静かになった部屋で彼女と目が合うと、彼女は呆れたように笑った。
 お風呂から上がると、二人は既に準備万端な様子だった。僕は急いで支度を済ませた。そして、彼女から指摘されて彼女の父親に会う前に服を買った。そこで服を着替えて、最寄りの駅まで向かった。
 特急の電車に乗り、そこで駅のホームで買った駅弁を食べた。彼女の妹は小旅行でもしている気分なのか終始楽しそうだったけれど、彼女は今から訳アリの父親と会うことに対してナーバスになっている様子だった。無理もない。
 彼女の妹がトイレに行った隙に、僕は彼女に訊いた。
「ところで、どうして今になって父親に会おうと思ったの?」
「…………あんたがきっかけ」
「え? 僕?」
 彼女は不本意そうに「癪だけど」と付け加えて頷いた。
「人の命を犠牲にする復讐っていうやり方には賛同できないけど、自分の後悔を払拭するために行動しているのには、感心した」
「……あの時は、止めてくれて助かったよ」
 彼女は僕の言葉に頷いてから言葉を続けた。
「きっと寿命に限りができたことで、自分の中に残ってた後悔を解消したくなったんだと思う。私はずっと、父親とのことが心の中に残っていて、もう一度だけ会いたいって思ってた。あんな最低な父親なのにね」
 彼女は自嘲するように笑ってから、窓の外に目を向けた。そのタイミングで彼女の妹が戻って来てしまったため、そこで話は終わってしまった。
 特急電車で一時間ほど走ったところで目的の駅に着いた。駅周辺を見ただけでここが田舎であることが分かった。彼女は深く息を吸うと、「んー」と声を上げながら思い切り伸びをした。
「さて、住所が変わってなければ会えるね」
「え、住所は確信してないの?」
「だって、かれこれ五年前の話だからね」
 彼女がそんな恐ろしいことを飄々と言ってのけたことに僕は戦慄を覚えた。一方彼女の妹は旅の目的には関心がないらしく、彼女と手を繋いでウキウキした様子だった。
 彼女について行くしかないため、僕は大人しく手を繋いで歩く二人の背中を捉えながら歩いた。途中、彼女と彼女の妹は駄菓子屋さんでアイスキャンディーを買った。二人は仲睦まじい様子でオレンジのアイスを口にしながら歩いていた。残念ながら、今の僕には純粋な人間だった頃に違和感無く食べていたご飯やお菓子がおぞましい物に思えてしまう。食欲をそそるどころか、食欲が減退してしまうものにしか思えない。これが、自分が死神になってから変わってしまったことだった。
 駅から三十分ほど歩いたところにある古い一軒家の前で、彼女は足を止めた。
「ここよ」
 家の表札には、「芽白」と表記されている。彼女は一軒家の外観を隈なく見渡していた。
「……お姉ちゃん、痛い」
「え? あ、ごめん!」
 どうやら、緊張で無意識のうちに彼女の妹の手を握る力が強まっていたらしい。彼女は取り乱した様子で彼女の妹の手を摩った。彼女の普段とは違う様子に、彼女の妹も大人しくなった。
 もう大丈夫、という彼女の妹の言葉を合図に彼女は父親が住んでいると思われる一軒家の柵の前に立った。そして、呼び鈴を鳴らした。
 けれど、誰かが家の中から出て来る気配はなかった。彼女はもう一度呼び鈴を鳴らしたが、誰も出て来なかった。
「流石に情報が古かったか」
 彼女は諦めた様子でそう言うと、「帰ろっか」と虚しく零した。その瞬間、「涼音?」という男性の声が耳に届いた。その場にいた全員が、声がした方を振り返った。
「涼音なのか」
「…………お父、さん?」
 彼女は、自分の名前を呼ぶ男性に目を見開いていた。その表情は、本当に父親に会えたことを信じ切れていない驚きと、彼が自分の父親に間違いないという確信が混在した複雑なものだった。
「会いに、来てくれたのか」
 男性は目に涙を浮かべながらそう言った。そして、彼女はすでに涙を頬に零して泣いていた。男性は、繊細なガラス細工の道を歩くように慎重な足取りで彼女の方に近づいて来た。
「お父さん!」
 彼女はそう叫ぶと、男性に抱き着いた。男性は感極まった様子で、「ごめんな」と何度も謝りながら彼女の頭を思い切り撫でた。彼女は今まで見せたことのない年相応の少女の顔をしていた。ずっと、彼女は父親に会いたかった。それが報われたことに、僕は思わず泣きそうになった。彼女の妹は、おそらく父親のことが記憶になかったのだろう。他人事のように、呆気に取られた様子で抱擁を交わす男性と彼女の光景をただただ眺めていた。
 ひとしきり泣いた男性は、僕たちを家に上げてくれた。お世辞にも中は綺麗ではなかったけれど、それは家が古いことに起因していて、散らかっているというわけではなかった。
 リビングに通されて、僕たちはテーブルの周りを囲った。テーブルの背は床に近く、みんな正座して座った。男性は座った僕たちに向けて言った。
「勝手ながら、また自分の娘と会うことを毎日夢見ていた。できることなら、もう一度一緒に暮らしたいとさえ思っていた。まさか、娘の方から会いに来てくれるなんて、未だに信じられない」
 男性は感極まったようにまた目に涙を浮かべた。彼女も男性のそんな姿を見て目を赤くした。
「ちょうど今から昼飯を作るところだったんだ。良かったら食べていってくれ」
 男性はテーブルの上にお皿を三枚並べた。人間の食べ物は受け付けないからむしろ良かったけれど、部外者とはいえこうも露骨に自分の分のお皿を出されないのは少々落ち込んだ。すると、男性が僕に声を掛けてきた。
「君は娘の付き添いかな。すまないね。娘が世話になっているみたいで」
「……え、あ、僕ですか?」
「君以外に誰がいる?」
 男性は可笑しそうに笑った。
「皿うどんでも作ろうかと思っているんだが、食の好みとしては平気か?」
「……あ、すみません。僕、お腹空いてないので遠慮しておきます。そもそも、お皿は三枚ですから、僕の分ははじいてましたよね?」
「何言ってるんだ。君の分も含めて三枚用意した」
「……それだと数が合わないような気がするんですが」
 男性の言葉の意味が分からず、僕は首を傾げた。すると、彼女が何か不吉なものを感じたのか、怯えた様子で男性に訊いた。
「お父さん、その三人っていうのは、誰のこと?」
 彼女の質問に、男性は怪訝な表情を浮かべた。
「どうしちゃったんだ、涼音。俺とそこの男の子と涼音の三人に決まっているじゃないか」
「……ねぇ、ここにひなのがいるじゃん。まさか自分の娘のこと、覚えてないの?」
 彼女の言葉に、男性は突然笑い出した。僕も彼女も呆気に取られた。
しばらくすると男性は笑うのに気が済んだようで、少し息を切らしながら言った。
「おかしなことを言うなぁ、涼音は。俺の娘は一人じゃないか」
 男性の言葉に、彼女は息を呑んだ。僕は彼女が男性と再会した時から今に至るまでの一連の光景を思い出した。男性は一度たりとも、彼女の妹に目を合わせていなかった。男性の中では、彼女に妹はいないことになっている。いや、いないことにしている。いないように振舞う理由がある。
 僕は彼女の妹を振り返った。自分の身に起きていることがうまく呑み込めていないようで、茫然としている。僕は思わず彼女の妹の頭を撫でた。すると、そこで初めて彼女の妹は無表情を崩して泣き顔になった。
隣で、彼女が立ち上がった。彼女はつかつかと男性に近づき、思い切りビンタした。乾いた音が部屋に鳴り響いた。
「最っ低」
 彼女はそう言うと、こちらを振り返って言った。
「行こう。もう、こんな奴に用はない」
 僕は慌てて彼女の妹の手を引いて男性の横を通り過ぎて部屋を出た。三人で玄関まで急いで家を出ようとすると、後ろから男性が叫んだ。
「涼音、飯は?」
「…………」
 彼女は恐怖と怒りと悲しみに塗れた表情で唇を噛んだ。僕はその横顔を見て胸が苦しくなった。彼女は男性を無視して家のドアを開けた。
 僕は彼女の妹の手を握ったまま、彼女が無言で駅まで目指す後ろ姿について行くしかできなかった。彼女にどう言葉を掛けるべきか皆目見当もつかないまま、自分の非力さを嘆くしかできなかった。彼女の妹は、彼女の悲壮感漂う姿に心を痛めたのか、また声を上げて泣き始めた。僕は彼女の妹の頭を撫でて宥めた。いつもならすぐに処置を施す彼女も今は自分のことで精一杯なのか、こちらを振り返ることはなかった。
 駅に着いた頃には、日がすっかり落ちていた。彼女の妹は見知らぬ土地で異常な体験に巻き込まれたのと泣きつかれたことから、深い眠りに落ちていた。駅に向かう途中から、僕は彼女のことをおぶっていた。
 駅のホームで電車を待っていた。僕も彼女も疲弊していたこともあって、お互いに無言のままだった。彼女はどこか遠くを見ていた。
 心許ないライトを照らしながら、電車がホームに到着した。
 幸い車内はあまり人が乗っておらず、僕たち三人は隣り合って座ることができた。彼女の妹は彼女の肩に頭を預けて眠っている。彼女は彼女の妹の頭を撫でながら、口を開いた。
「ありがとう」
「……え?」
「ひなののこと、宥めてくれて」
「……緊急事態だったから」
「あんたがいて助かった。気持ちの整理をしている間、ずっとひなののこと慰めてくれたから、なんとか冷静になれた」
「君には、借りがあるから気にしないで」
 僕が言うと、彼女は微笑んだ。けれど、すぐに表情に影を落として俯いた。
「愚かだった。ちょっとでも、お父さんの目が覚めてくれてるって信じた自分が馬鹿だった」
 彼女はそう言うと、頭を抱えた。
「こんなことする資格ないと思うけど、失礼するよ」
 僕は、項垂れる彼女の頭を撫でた。彼女は驚いたよう顔を上げた。彼女と目が合った。
「昔、何があったのか訊かないんだね」
「訊いていいものかも分からないからね」
「……死神でも、気遣いができるんだ」
「元は人間だからね」
「あんたが死神なら、あいつは悪魔ってところかな。悪魔の方が、よっぽど質が悪い」
 彼女はそう言うと、深く息を吐いてから話し始めた。
「昔は、優しい人だった。お父さんとお母さんと私の三人で暮らしてた時は。きっと、誰の目から見ても円満な家族だったと思う。でも、ひなのが産まれてからお父さんは変わってしまった」
 彼女は、自分の肩に信頼を委ねる妹の頭を愛おしそうに撫でながら続けた。
「ひなのを産んでから、お母さんは体調を崩した。そして、一年もしないうちに亡くなった。それから、お父さんはおかしくなった。まだ物心のついていないひなのを毎日罵倒し続けた。あろうことか、ひなのを疫病神って呼んだ」
 疫病神という言葉を聞いて、鼓動が冷たく高鳴るのを感じた。
「ある時、お父さんに言われたの。ひなのを捨てて俺についてこいって。でも、私は嫌だった。自分の妹を捨てるなんて絶対に嫌だったし、その時のお父さんについて行ってもうまくいくなんて到底思えなかった。だから、私はお父さんからの提案を拒否した。そしたら、お父さんは親戚に私とひなののことを丸投げした」
 彼女はきつく目を瞑って息を吐き出した。それから、少し虚ろな目をしながら続けた。
「親戚は元々私たち家族のことを煙たがっていたらしくて、お父さんがいなくなって自分たちが私とひなのを引き取ることを渋ってたんだけど、経済力があったから親戚名義で一軒家を借りて私とひなのをそこに住まわせることにした。それが、今私たちが住んでいる家なんだ。面倒事を持ち込まないことを条件に、私とひなのは今生活できてる。有難いことに口座にお金は振り込んでくれるから一度も生活に困ったことはなかった」
 彼女は彼女の妹の額に自分の額を重ねた。彼女は彼女の妹のことを愛おしそうに見つめながら言った。
「でも、ひなのが骨肉腫で入院するようになって普段の生活費よりも多くもらうように連絡したら、図々しい小娘だって私に吐き捨てながら自分たちが関与しなくて済むようにさらにお金を振り込んでくれた。今更愛情なんてあの人たちには求めてないけど、ひなのの命なんてどうでもいいって言われた気がして悔しかった」
 彼女は目尻から静かに涙を零した。
「私にとって唯一の家族がひなの。でも、私は一番大切なはずのひなのを、私のエゴで危険な目に遭わせた。そんな自分が、許せない」
 彼女にとって一番大切な彼女の妹の命を軽視して契約を交わそうとした当時の自分を思い出した。僕は、彼女から思わず目を逸らした。自分が生きるためだったとはいえ、彼女の宝物を奪おうとしていたことの重みを実感した。
「もしかすると話せばまた昔みたいな関係になれるんじゃないかって。やり直すことができるんじゃないかって。幸せだった頃の家族の光景を手放したお父さんも上手くやれなかった自分も許せなくて、自己満足のためにお父さんに会いに行った。本当はまだ一緒にいられるんじゃないかって信じようとした。あの時、悲しみが押し寄せたからお父さんを狂わせただけで、今ならもしかするとって期待した。でも、今はそんな気持ち全部吹き飛んじゃった。微塵も残ってない」
 彼女は自分の胸に手を当てた。自分の気持ちに整理をつけているのだろう。僕は、彼女を抱きしめた。
「いいんだよ。自分だけが大人になろうとしなくていい。自分の気持ちに従ったっていいんだよ。君はもう、十分頑張った」
「……もしかして、あんた泣いてる?」
「ごめん。君の大切な妹を奪おうとしてごめん。本当に、ごめん」
「……もうそのことはいいよ」
 彼女は僕の頭を撫でた。慰めるつもりが、逆に慰められてしまった。
 僕と彼女の間に沈黙が下りた。気にする必要はないと彼女から言われたものの、その言葉に甘えて首肯するわけにはいかなかった。
 彼女にどう返答すればいいのか考えあぐねていると、小さな唸り声を上げた彼女の妹が目を開けた。まだ半覚醒状態らしく、虚ろな目をしている。彼女の妹は、彼女を見上げて言った。
「私、お姉ちゃんさえいればいいよ」
 そう言って微笑むと、彼女の妹はまた眠りに就いた。
 彼女は、両手で自分の顔を覆うと、声を上げて泣き出した。幸い、まだ田舎の駅が並ぶ区間での乗車だったため、僕たち以外にこの車両に乗っている人はいなかった。
「ごめんね。ひなの、本当に、ごめんね」
 彼女はそう言いながら、しばらくの間泣き続けた。自分の妹の頭を撫でながら。