他人にまるで死神みたいだと揶揄されたからといって、まさか本当に死神になるなんて愚行を犯したのは僕くらいだろう。
もっとも、自分の意思で死神になったわけではなく、そもそもただの人間にそんな離れ業をやってのけることができるはずもなく、ならばどうして僕が死神になったのかというと、僕が死神に魅入られてしまったからである。僕の身体が死神の住処となってしまったのは、僕の心に隙ができてしまっていたからに他ならず、自分の心の脆さにはほとほと辟易する。
死神になったからには、生きていくための栄養源として人間の命を頂く必要がある。必要なエネルギーが人間とはまるで違うのだから、今まで当たり前のように享受してきた人間だった頃の食事はもはや受け付けなくなってしまった。
死神として生きていくにあたって、僕は生贄となってもらう人選において決定的なミスを犯してしまった。それがミスだといえる根拠は、捕食者である僕と、捕食対象に選ばれた君の双方が同じ後悔の念を抱かざるを得ない状況になったからだ。けれど、僕に限っては後悔と同時に、君をターゲットとして選ぶことができたことでこの上ない幸運を享受できたという幸福感も抱いている。
君は言った。人は、死んだら星になると。
もし君がこの夜空に浮かぶ星々のいずれかであるならば。
君を探すことは容易だろう。
一番綺麗な星を探せばいい。
僕は夜空に輝く星の一つを指さした。
「君だよね」
僕は君の姿を星に重ねながら、自分の身体が灰になっていくのを他人事のように眺めた。
あまりの空腹で胃が唸っている。それ以外の欲求は一切僕に媚びを売ってこない。
死神になって既に三ヶ月が経っているため、生命活動の維持に必要な人間の命が自分の胃で消化されるわけではないことは理解しているけれど、器自体は人間の身体であるため飢えを感じるのはどうやら胃らしい。純血の本来の死神が飢えを感じた時に実際どういう空腹感を抱くのかは皆目見当もつかない。死神もどきの僕には分かりっこない。
短い死神人生の中で得た知識として、残された寿命が半年以下の余命幾許もない人間から命を享受できるというのが挙げられる。そして、そうした人たちがこぞって集まっているのが病院である。食欲が限界まで膨れ上がった僕の足先は、やはり病院を目指していた。
思わずお腹を抱えながら、僕は足を引きずるようにしてとある病院にたどり着いた。
本当はもう誰の命も奪いたくなかったけれど、人間追い詰められると自分が可愛くなり、他者の命よりも自分の命を優先したくなるものらしい。僕はあまりに身勝手な自分の考えと行動に嫌気が差し、罪悪感を抱いた。他者の命を犠牲にしてでも自分を生かしたいというこの自己中心的な思考が後天的に備わった死神の性質に由来するものだと言い訳できるなら些か心の持ちようはあるけれど、おそらく僕の人間性が元々腐っていただけだろう。そもそも、他の人とは違って僕だけが食べる対象を人間としていることが事態をややこしくしていて、他の人たちも僕と同じような境遇になればきっと綺麗事は並べてられないと愚痴を零してみる。
「どうか、生きて」
不意に、その言葉が僕の脳裏に過った。僕は咄嗟に頭を振った。僕にとって大切な僕のために掛けてくれたその言葉を、僕の汚い感情の言い訳に使いたくはなかった。
追い詰められた僕は、自分の嫌な部分を垣間見て憂鬱になりながら病院の中に入った。受付を素通りして、僕は何食わぬ顔で病室が並ぶ廊下に足を踏み入れた。
死期が近い人間からは、死の臭いがする。おそらく純度百パーセントの人間が嗅げば思わず鼻をおさえたくなるような臭いなのだろうけれど、死神の要素を持った僕からすれば、それは臭いではなく匂いであって、御幣を恐れずにいえば食欲をそそるようなものに感じられる。例えていえば、魚の血の臭いを好む鮫と同じようなものだと考えてくれればいい。
余命が半年以下の人間がいる病室を、死神の嗅覚を頼りに探し回った。階をまたいで上へと向かうと、どこからともなく例の死の臭いが漂ってきた。その臭いに、僕の胃が鳴った。
抜き足差し足で、僕は臭いの発生源となる病室の前に向かった。病室の前に立って、ゆっくりと病室のドアを開いた。すると、ベッドに腰掛けた小学校低学年くらいの小さな少女と、その側に置かれた椅子に座ってベッドに身を委ねる高校生くらいの少女が、二人して眠っていた。
眠っていることに対してこれ幸いと手を叩きたくなったのと同時に、どうも死の臭いの根源がまだ幼い少女であったことに躊躇する気持ちが湧き起った。けれど、限界まで拡張された空腹感が、土壇場になって現れた僕の僅かな良心を押し潰してしまった。
僕は相変わらず足音を立てないように眠る二人の少女に近づいた。
気持ちよさそうに寝息を立てる幼い少女の胸に、僕は手を伸ばした。命を頂く瞬間は、視界がモノクロになり、心臓だけが赤く脈打つのが見える。僕はそれに手をのばした。
もう少しで届く。そう思った瞬間、僕の身体が突然吹き飛び、病室の壁に打ち付けられた。身体に走った衝撃を逃がすために思わず咳き込んでから立ち上がろうとすると、さきほど眠っていた高校生くらいの少女が、先刻まで自分が座っていた椅子を僕に振りかざしてきた。すんでのところで避けたものの、少女は鬼の形相で再び僕に迫ってきた。
「なんなの、あんた!」
殺意のない殺人を犯すつもりだった僕は、殺意のある殺人を犯す勢いの彼女に気圧された。こちらににじり寄ってくる彼女にたじろぎながらも、僕の頭は冷静だった。
死神は人間の命を頂く際に契約を交わす。契約を交わせば、契約を交わした本人以外の人間たちには、僕と契約者がともに行動することに違和感を持たないような最適な人間関係を認識するようになる。例えば、少女と僕は歳の離れた友達であると目の前の彼女は認識し、腑に落ちるといった要領だ。実際彼女の目にどう映るかは契約してからでないと分からない。
とにかく、今は一刻も早く少女と契約を交わせばいい。契約といっても詐欺紛いの一方的なもので、僕が彼女の命から糸を引いて僕の命に結べばそれで完了だ。
幼い少女に目をやるとすでに目を覚ましているのに気付いた。少女は目の前で起きている状況に目を丸くしていた。そして、少女の目が僕の顔に向けられると、取り乱すように慌て出した。僕に敵意を剥きだしにしていた彼女は、突然背後で少女が泣き出したことに驚いて振り返った。
「ひなの、どうしたの?」
「いや、死神さんがいる! 連れて行かれる! 連れて行かれる!」
「し、死神? ひなの、あなたは一体何を」
姉が妹の様子を懸念している隙に、僕は姉を突き飛ばして妹に迫った。
「きゃああああああ」
妹が耳を劈くような悲鳴を上げた。そして、僕は妹の心臓に触れた。ひどく温かい。
そこから毛糸をほつれさせるように一本抜き出し、命の糸を僕の心臓部分に持っていく。
自分の命が死神に繋がれようとしているにもかかわらず、妹はこれ以上僕の恐ろしい顔を
見たくないのか、顔を両手で覆っている。
「お願い、やめて! ひなのだけはやめて!」
悲痛な姉の叫び声が耳に届いて、空腹で壊れてしまいそうな僕の良心が申し訳程度に彼女に耳を傾けた。
「お願い。たった一人の、私の家族なの」
「…………」
「あなた、死神なの? ひなのにだけ、あなたの正体が見えているの?」
そう。死期が近い人間にだけ、僕の本当の姿が見える。妹の命乞いをする彼女は、目に涙を浮かべているせいで視界が濁って僕の顔が見えていない、というわけではない。彼女には、元々はただの人間だった僕の人間の面が見えている。そして、それが正常なのだ。
「ねぇ、私じゃダメなの? その子の代わりに、私を連れて行くのはダメ?」
「……死期が近いとされる余命半年以下の人間からしか、死神は命を頂くことができない」
「…………それじゃあ、私が」
彼女はそこで言葉を止めると、静かに目を閉じた。そして、深く息を吐くと、何かを決心するように立ち上がった。そして、ゆっくりと目を開いた。
「あなた、本当に、死神……」
彼女は僕の姿を見て驚愕の表情を浮かべた。どういうわけか、彼女は僕の本当の姿を認識したらしい。いや、はったりかもしれない。本当は彼女の目に映る僕の姿は変わっていないにもかかわらず、演技をすることで僕が油断した隙に妹を連れて病室から逃げるつもりかもしれない。そうされてしまえば、僕は彼女の術中にはまってしまう。もう、僕は立っているのもやっとだった。今逃げられてしまえば、僕に追いかける余力は残っていない。
僕は、彼女の命を頂くつもりで、リスクを負いながら彼女に近づいた。すると、先ほどまでは微塵も感じられなかった死の臭いが、彼女から確かに漂ってきた。驚いていると、僕と目があった彼女は抵抗する様子も見せなかった。
僕は彼女の胸に手を伸ばした。
「え、ちょっと……」
「動かないで」
僕の手は彼女の胸をすり抜けて、心臓を握った。彼女は非現実的な光景に喉を鳴らした。それから、毛糸の先端から糸を伸ばすように、彼女の心臓から手を引いた。彼女にも、その糸は見えている。
「これを僕の心臓に繋ぐ。そうすれば、契約は完了する」
「…………契約した私の命は、どうなるの?」
「君の寿命の半分をもらうことになる」
僕の言葉に、彼女は難しい顔をして俯いた。けれど、すぐに顔を上げた。彼女と目が合った。
そんな彼女に、僕は確認した。
「本当に、いいんだね?」
「……それで、ひなのが助かるのなら」
「君は、その子とは違って先がある」
「……それでも、ひなのが死神なんかの犠牲になってほしくない」
「そっか。分かったよ」
僕は、彼女の命の糸を、自分の命に結んで繋いだ。
その直後、すごい勢いで大勢の足音が廊下をつたって響いてきた。そして、その足音たちは病室の前でとまった。それから勢いよくドアが開かれると、一人の医者と数名の看護師たちが息を切らして立っていた。
「悲鳴が聞こえたんだが、大丈夫かね?」
未だ茫然とする彼女と目が合った。僕はすぐに彼女から目を逸らし、医者に言った。
「すみません。彼女が人に追いかけられるという悪夢を見たらしくて、この通り……」
僕が指をさした先では、先ほど彼女が僕に投げつけてきた椅子が倒れている。
「なるほどね。そういえば君は、彼女のクラスメイトだったね」
「はい」
僕が首肯した隣で、看護師さんは可笑しそうに口元を押さえて笑った。
「ふふふ。ひなのちゃんもびっくりしちゃってるじゃない」
布団にくるまって小刻みに震える妹は、僕から一切視線を外さない。怯え切った目をしている。通常、契約者以外の人間には僕と彼女の関係性は、先ほど医者が解釈したように自然なものになるはずだけど、一度死神の姿を見た人間は催眠効果が効かなくなる。つまり、この病室で、いや、この世界で僕の正体を知る者は、契約を交わした彼女と、余命幾許もない彼女の妹だけというわけだ。
僕と彼女、そして彼女の妹との出会いはこのように最悪なものだった。
彼女と契約を交わした日が金曜日であったため、翌日からの二日間、僕は彼女の家で居候することになった。というのも、僕と彼女は契約によって命が繋がれた状態になっており、僕は彼女との間に伸びる命の糸にへその緒としての役割を背負わして寿命を得ている。彼女の寿命が尽きる瞬間になって一気に彼女の生命力を吸収するわけではなく、ともに活動する中で彼女から命を分け与えてもらう形になる。つまり、本来一人で消費するはずの寿命を、彼女と僕の二人で共有することになる。だから死神と契約した人の寿命は半分になってしまうのだ。そして僕と彼女を繋ぐその糸の存在は、僕と彼女が離れることを許さない。
「ねぇ、どんな手を使ったの。どうして君の身体は突然、半年以下の寿命になったの」
彼女の家に住むことになって最初に発した僕のその発言を含めて、当然ながら彼女は以降投げかけられた僕からの言葉を全て無視した。
彼女の妹は病院に入院ではなく通院しているらしく、姉と同じ家で暮らしているらしかった。彼女の妹も未だ僕に怯えた表情を見せてくる。契約時にしか死神の姿は視認できないはずだけれど、あの一回でも十分記憶に刻まれるほどのトラウマは植え付けられたらしく、未だに僕とまともに目を合わせてくれない。もっとも、自分の命が脅かされそうになった元凶であるし、自分の実の姉の寿命を吸収している張本人なのだから、僕に対して好意的ではない態度を示すことは何ら不自然ではない。
そして、二人は余命半年以下という結末が待ち受けていることに加えて、どうやら二人暮らしらしかった。詳しい事情は二人から無視されているから訊き出すことができていない。ただ、二人が生活する様子から見てどうやら両親が帰ってくる気配はなさそうだった。離婚していて父親が単身赴任なのか、それとも離婚ではなく片親が死別しているか、あるいは両親を失っているのか。彼女たちにとっては不本意ながら一緒に暮らすことになった僕が詮索していい領域ではない話であるため、これ以上は考えないことにしておく。
何はともあれ、僕は透明人間として二人と同じ家で過ごした。二人で過ごしているにしては立派な一軒家で部屋も余っている。ありがたいことに僕はその余っていた部屋を使わせてもらえることになった。
その部屋は、久しく使われていないことが窺えた。埃っぽく、最初部屋に入った時にはむせてしまった。ただ、彼女なりの配慮なのか、ベッドの上の埃をわざわざ掃除機で吸い取ってくれた。もちろん無言で。
僕は彼女に礼を言ってからベッドに横たわった。寝床さえ与えてくれれば、後は何も施しを受けなくていいのが幸いだった。死神に憑依されてからの僕は、飲食はおろか排泄すら不要になった。
この二日間で、自分と妹の分の料理をつくっていた彼女が控えめに僕に視線を寄越してきたことがあった。どうやら彼女は信じられないほどのお人好しらしく、自分の命を脅かしているはずの僕の容態を気にしてくれている様子だった。僕は愚かにも嬉しくなって、食事が必要ないことを伝えた。そして、その直後に彼女は僕の容態を憂いているのではなく、栄養失調などを通して僕の容態が悪化することでその影響を受け得る命の繋がりがある自分の身体を慮っていることに思い至って少し落ち込んだ。
土日が過ぎ去って月曜日、僕は彼女と、そして彼女の妹とともに学校に登校した。僕の分の筆記用具や教科書は持ち合わせていないけれど、契約を結べば整合性のとれた世界になっているはずだ。そのため、僕は病院で医者が口にしていた「クラスメイト」という言葉を頼りに彼女と登校することにしたのだ。もし彼女が両親のいる家に住んでいた場合、僕の立場はどうなっていたのだろうと無意味に考えてみたけれど、おそらくその場合はまた別の肩書が付与されていたのだろうと思った。その際は、医者は僕を彼女のクラスメイトとは認識せず、世界から見た僕と彼女の関係性はまた違ったものになっていただろう。
相変わらず彼女に無視され続ける僕は、通学路の途中で彼女の妹が小学校に向かう分かれ道に進むのを見送った。彼女が自分の妹に手を振る姿を真似て僕も手を振ってみたけれど、彼女の妹は僕が本物の透明人間であるように振舞った。姉である彼女にだけ目を合わせて手を振ったのだ。そして、その姿が見えなくなると、彼女は僕を置いてさっさと歩き出してしまった。僕は慌てて彼女の後を追う。彼女の姿を見失えば、高校への行き方が分からなくなってしまう。
彼女が通う高校に到着し、昇降口で自分の名前が書かれた靴を探した。僕の本来の名前とは別であるはずなのに、まるで元々この高校に通っていたかのように手が自然と「如月」と書かれた上履きに伸びた。
靴を履き替えていると、隣から視線を感じて思わず振り返った。彼女が驚いた様子で僕が履いた上靴を見ていた。
「……どうしたの?」
僕が思わず訊くと、彼女はおずおずと答えた。
「如月なんて人、一昨日まで私のクラスにいなかった」
そう一言だけ気味悪そうに呟くと、僕に口をきいてしまったことに驚いたのか「はっ」と息を呑んですぐに背を向けた。そして、そそくさと歩き出してしまった。僕も急いで彼女の後に続く。
校舎の二階に、彼女の教室があった。どうやら、彼女は本来の僕と同じ2年生らしかった。僕は自分が在籍していた高校のことを思い出しながら教室に入った。
先ほど、自分の靴がどれか分かったのと同じ要領で、どれが僕の席なのかも直感的に分かった。身体が覚えていて、そこに導かれるような感覚だった。
僕の席は窓側にあり、彼女が座った席とは少し離れた場所にあった。そして、都合の良いことに机の横に備え付けられたフックに鞄が掛けられてあった。中身を確認すると、僕の名前が書かれた教科書やノート、筆記用具があった。死神の特権である契約というシステムはなんとも便利なものだ。
感心しながら黒板に書かれた授業の予定を確認して、僕は教材一式を机の上に置いた。なんとも模範的な生徒である。なんとなく視線を彼女に向けると、つまらなさそうに頬杖をついてぼんやりしている様子が目に入った。まだ予鈴が鳴るには早く、友人が登校してきていないのだろう。手持無沙汰な様子だった。
予鈴が鳴る五分ほど前に生徒による教室の出入りが盛んになった。早く来てもやることがないとふんでギリギリを攻めているのだろう。僕も同じような心理で、自分が人間だった時にそうしていたのを思い出した。
「おっはよー」
規則に反しているのではないかと思えるほどの茶髪で、完全に指摘対象扱いされるであろうスカートの丈の長さをしたいかにもギャルな女子生徒が、すでに教室に待機していた女子生徒たちに手を振りながら入って来た。この手のタイプは苦手であるため、僕は反射的に目を逸らした。
「涼音、おはよ」
「…………」
「え、なに? 無視? 感じわるーい」
朝から雰囲気を悪くするような態度を取っているのは一体誰なんだと恨み言を心中でぶつけてやろうと振り返ると、驚いたことに彼女がギャルの挨拶を無視していたようだった。それと同時に、彼女の名前が涼音だということを初めて知った。
「ねねね、おはよ。涼音ちゃんおっはよー」
「…………」
一度無視されても寄り添ってくれているギャルになんて態度を示しているんだと内心悪態を吐いてみたけれど、当然そんなものが彼女に届くはずもなく、依然として彼女は不貞腐れた表情のままギャルのことを無視している。
すると、ギャルは声の調子を落として言った。
「うっざ。あんた何様のつもり?」
ギャルはそう言うと、鞄の中から何やら容器を取り出し、中から白い液体を手中に出した。乳液か何かだろうか。徐にそんなことをしたかと思うと、ギャルは突然それを彼女の頭に思い切り塗り付けた。
「ねぇー、返事もしないなんてどんな教育受けてんの? あ、てかあんた親いないんだっけ」
ギャルの予期せぬ行動に、僕は肝が冷えた。周りを見渡してみても、ギャルの行動にクラスメイトたちは笑顔を受かべている。僕は今の状況に混乱した。
ギャルは一通り塗りたくり終えたのか、一度彼女の頭から手を離して払うと、今度は彼女の髪の毛をわしづかみにして自分の方へと彼女の顔を寄せた。
「死ねよ」
ギャルの言葉を聞いて、僕は自分の中の何かが切れる音がした。身体中が熱くなった。
「おいおい、朝からなんか騒がしいなぁ。何してんだよ、綾」
教室に男子生徒が入って来た。そして、ギャルに親しげに声を掛けた。
「あ、たっくん聞いてよぉ。涼音ってば、私の挨拶を無視したんだよー? どう思う?」
「ん? あー、あれじゃね? お前への僻みとかじゃねーの?」
「え? 僻み?」
「お前が可愛すぎて嫉妬してるとか」
「あは、やだぁたっくん。それはたっくんが思ってることでしょ?」
「バレたか」
二人は周りが見ている中でキスでもするんじゃないかと思う勢いで、この場に相応しくないイチャイチャを始めた。けれど、すぐにギャルが細めた目を彼女に向けた。
「それか、家族が円満な私に嫉妬したとか? あ、でも、それって私だけじゃなくてこのクラスにいる全員かな?」
「そういえば、涼音の親父、母親が死んでから蒸発して娘二人置いて逃げたらしいじゃん」
二人の言葉に、彼女は流石に顔色を変えたようだった。およそ澄ました態度を貫いていた彼女らしからぬ表情だった。
その表情を見た僕は、思わず立ち上がった。
「やめなよ」
僕の言葉に、クラスの全員がこちらに視線を向けてきた。
「あ? 俺らに言ってんの?」
今までの僕だったら、相手の凄んだ態度に怯んでいただろう。
「なに、あんたヒーローでも気取ってんの?」
ヒーローどころか死神だ。死神になるくらいには、二人みたいな人間に立ち向かう勇気がなかったことに後悔している。とめどなく溢れ出す怒りは、恐怖心に勝ったらしい。
こちらに近寄って来る男子生徒に、僕は急いで自分の椅子を持ち上げてみせた。僕の行動に相手が一瞬怯んだのを確認して、彼に向かって思い切り椅子を投げつけた。椅子は彼の右腕に直撃し、声にならない声を上げて彼は倒れ込んだ。苦しそうに悶える彼に、ギャルは心配そうに駆け付けた。ギャルは彼の制服の袖を急いでまくった。酷い痣ができていた。ギャルは悲痛な叫び声を上げてこちらを睨みながら立ち上がった。
「許さない。あんた、たっくんになんてことを」
「君こそ、涼音さんになんてこをしたと思ってる」
「あんな無価値なやつ、何されてもいいじゃん!」
ギャルの発言に、僕は思考よりも先に身体が動いた。自然と握りこぶしをつくりながら。けれど、僕の手に込められた憎しみは、誰かの手によって手首を掴まれたことで鎮められた。振り返ると、彼女が僕の手首を掴みながら、首を横に振っていた。
「もういいよ」
「……でも」
「あんたがそこまでする必要ない」
彼女の冷静な言葉に、僕は頭にのぼっていた血が急速に引いていくのが分かった。僕は握っていた手をゆっくりと開いた。
「如月、あんたタダで済むと思ってないでしょうね。たっくんをこんな目に遭わせておいて」
「タダで済まないのは二人も同じよ」
彼女はそう言い返すと、スカートのポケットから携帯を取り出して動画を再生し始めた。先ほど、彼女に対してギャルと彼がしている仕打ちを見上げる光景が映し出されていた。その動画を見て、ギャルは青ざめた。
「あんた、いつの間に」
「鞄の中から携帯のカメラ部分だけ突き出して動画を回してた。どうせまた絡んでくるだろうと思って。ちなみに、今までの分もこの携帯に全部収まってるよ」
彼女の追い打ちの言葉に、ギャルは意気消沈した様子だった。彼が負傷した腕も公にできないだろう。周囲を見渡すと、クラスメイトたちは無関係だと言わんばかりに僕から目を逸らした。
沈黙が流れる教室で、彼女は掴んでいた僕の手を引いた。
「帰ろう」
「え?」
「いいから、こんなところにもう用はないよ」
彼女の言葉に困惑しながら、僕は手を引かれる形で教室を後にした。
学校を出てから、僕と彼女は無言で家を目指した。彼女の半歩後ろを僕が歩いた。余計なことをして彼女の居場所をなくしてしまったかと、僕はかなり落ち込んでいた。
帰宅して家に上がると、彼女はそのままリビングに向かってソファに勢いよく身体を預けた。最初顔をソファに埋めるようにうつ伏せだった。その背中が小刻みに揺れていて、僕は彼女を泣かせてしまったと焦った。すると、彼女は勢いよく仰向けになった。彼女の表情は、なんと笑顔だった。
「あっははは」
突然、笑い始めた彼女に、僕は思わず後退りした。
「あ、ちょっと、引かないでよ」
「え、いや、だって」
「はぁー、清々した。見た? 綾のあの顔。たくやもざまあみろだっての」
「……えっと、君そんな感じの人だったの?」
「なんか、どうせ死んじゃうならこんな場所にいなくてもいいよなーって、あんたがブチ切れてる間に色々吹っ切れたんだよね」
「……なるほど」
「あ、でも、ひなのには今日のことは秘密ね。教育に悪いから」
「うん、肝に銘じておく」
僕が頷くと、彼女は衝撃的なことを言った。
「私、今日で学校やめる」
「……なんだって?」
「今まで、誰に向けたかもわからない体裁のために学校に行ってたけど、ずっと綾やたくやからちょっかいかけられていたわけだし、あんたのおかげで復讐ができた今となっては学校に行くことが急に無意味に思えた」
あの二人からの酷い仕打ちを「ちょっかい」と表現するあたり、彼女の強さが窺えた。僕はおずおずと彼女に訊いた。
「でも、学校をやめるには、また学校に行かないといけないんじゃ」
「本当にやめるんじゃないよ。手続きとか面倒だし。ただ学校に行かないだけ。登校拒否ってやつ」
「え、でも、本当にいいの?」
「だって、どうせ私死ぬんだし」
彼女は素朴にそんなことを言ってのけた。僕は彼女の言葉で心が抉られる思いをした。
「ごめん」
僕が謝ると、彼女は驚いたような顔をして、意外そうに言った。
「今更だね。ていうか、悪いって思ってはいたんだ」
「……そりゃあ、まあ」
僕が言い淀んでいると、彼女が言った。
「でも、私と契約を結ばなければ、あんたは死んでたんでしょ?」
「……うん」
「ま、もういいや。別にあんたを許したとかそんなことは一切ないけど、ていうか、ひなのをあんなに怖がらせたことは一生許さないけど、なんかさ。こんなこと言うのはいけないんだろうけど、自分の寿命に終止符が打たれるってなって、どこかホッとしてる」
「…………」
「自分の命に期限があるなら、もうわざわざ自分が嫌な気持ちになるようなことしなくていいじゃんってなった」
「……そっか」
僕は、彼女の言葉に頷くしかなかった。彼女の言葉に、何かを言い返す権利がなかった。
彼女の妹が帰宅した時、僕と彼女は言葉を交わしていた。何の会話をしていたかは全く覚えていないけれど、少なくとも何の会話をしたか忘れてしまう程度の内容だったことだけは確かで、それはつまり、他愛のない会話と表現していいものだった。人の命を弄ぶような僕が他愛のないなんて言葉を使うことすらおこがましいけれど。
彼女の妹は、そんな光景を見て心底驚いた様子だった。休日の二日間、寸分たりとも言葉を交わすことがなかったうえに生殺与奪の権限を握る相手でもある僕と特に嫌悪感や抵抗感を示すことなく話している姉の姿に強いショックを受けたらしい。その日、彼女の妹は僕にも、姉にも自ら話しかけてくることはなかった。
翌日、僕たち三人で学校に登校した。ただし、本当に登校したのは彼女の妹だけで、通学路の三叉路で別れたのち、僕と彼女は家へと引き返した。
「僕たちだけで帰っていいの?」
「ひなのは幸い、私と違って学校が楽しいらしくて。毎日友達と楽しく遊んでる」
「そっか。それは何よりだね」
僕の首肯をよそに、彼女は誰もいない道で大きく伸びをした。
「これからはあの学校に行かなくていいんだって思うと、すごい解放感」
「……でも、あの二人が昨日のことを先生に訴えてたら、また学校に行く必要があるよね」
「いや、それはないと思う。あの二人、大人には猫被るから。私たちを学校に呼び出したら自分たちにとって不都合なことも露呈しちゃうし、それは避けたいって思うんじゃないかな。多分世渡り上手なタイプだよ」
彼女は妙に自信ありげにそう言い切った。彼女は、強い。
「さて、この後は何しようかな」
「…………あのさ」
「なに?」
「僕と君は、離れて行動することができない」
「……あー、なんか私とあんたの命が繋がってるんでしょ」
「うん。そこでお願いなんだけど、もしこの後予定がないなら……」
「え? うん」
「……僕が行きたいところについて来てもらってもいい?」
僕のお願いに、彼女は神妙な面持ちになった。けれど、彼女は逡巡した後に頷いた。
僕と彼女は、「神木」という表札がポストに刻まれた一軒家の前に立っていた。時刻はお昼過ぎである。彼女とファストフード店で昼食をとって(僕は食べていない)ここに来た。
彼女はここに来るまで、何も言わずに僕について来てくれていた。けれど、ここに至るまで何も情報を出してこなかった僕に対して、彼女はついに口を開いた。
「この家は、なに?」
彼女の問いかけに、僕は答えた。
「僕の家だよ」
「……それって」
「僕が死神になる前、君と同じ人間だった時に住んでいた家だよ」
僕の言葉に、彼女は黙り込んでしまった。きっと、彼女は僕が元は人間だったという話を聞いていながら、あまりに現実離れした死神という存在に一種の幻想を抱いていたことで、僕が元々は彼女と共通項となる人間であったという事実が腑に落ちていなかったのだろう。僕の言葉は耳には届くけれど、頭の中でその意味するところが結びついて理解してはいなかった。彼女はそんな状態だったのではないだろうか。
「死神になってからは、家族に会わなかったの?」
彼女はらしくもないしおらしい声で訊いてきた。
「あるよ」
「……どうだったの?」
「死神である僕は、契約者以外の人間からは、契約者と近しい関係を持っていると認識される」
「……それって、つまり」
「僕の母親は、自分にとって無関係な当時の僕の契約者と親しい関係である僕を、赤の他人だと認識した」
「家に上がったの?」
「うん。そこで、不法侵入者扱いされて、通報される前に急いで逃げたよ」
「……そう、だったんだ」
「……どうしたの? どうして、君が苦しそうなの?」
「……ごめんなさい」
彼女は震える声で言った。
僕は彼女が不憫に思えて、思わず背中を摩った。彼女は僕に触れられたことに一瞬びくりとしたけど、拒絶することはなかった。
「今回は前と違って自分の家族に会いに来たんじゃないんだ。多分、今の時間帯なら母親が家にいると思うんだけど、気付かれないように自分の部屋に入り込みたい」
僕の説明に、彼女は汗を掻きながら辛うじて頷いた。
僕は彼女に家の近くで待っていてもらうように頼んだ。彼女に家から離れられてしまうと、限られた可動域によって僕が家の中で自由に動き回ることができなくなってしまう。幸い僕と彼女の命を繋ぐ糸は物理的な物体に干渉することがないため、距離さえ離れすぎなければ問題はない。
今の彼女を一人にするのは少し心配だったけれど、考えてみればそんな彼女の命の消費速度を倍にしているのは紛れもない僕なのだから、今更そんな気を使ったところで僕の地獄行きは決定している。いや、もしかすると、人道から外れた行いによって死後の世界が存在しない無に追いやられるかもしれない。
そんな生産性のない考えを巡らせることで、彼女には強がってみせたもののトラウマになっている母親から不審者扱いされた記憶から気を紛らわせた。緊張でドアノブにかける手が震えた。
手が震えるのを堪えながらドアを開けた。けれど、ドアは開かなかった。母親はいつも自分が家に居る時には鍵を開けたままにするのだけど、前回の騒動があったからかきちんと鍵をするようになったらしい。息子としては安心できる心掛けだけれど、今に限っては困る。
僕は家の庭にまわり、逆さまにして壁に添えられた小鉢をひっくり返した。そこには見慣れた鍵があった。それを見た僕は、思わず泣きそうになった。
母子家庭の母は、朝僕の分のお弁当をつくって僕が学校に行くのを見送った後、昼に仮眠をとって夕方から夜勤のパートに出掛ける生活を送っていた。僕が小学生だった時、一度家の鍵をなくして一晩中家に入れなかったことがあった。母親は泣きじゃくる僕をなだめて、今後鍵をなくしても大丈夫なように小鉢の下に鍵を隠すという作戦を立てた。結局、それ以来鍵をなくすことはなかったから小鉢の下を確認することはなかったけれど、ずっと置いていたのだろうか。それとも、行方不明となった息子である僕がいつか帰って来ても困らないように、小鉢の下に鍵を置いてくれているのだろうか。
僕は、今から自分がしようとしていることに良心が痛んだ。けれど、僕は首を振ることで思考を乱し、小鉢から鍵を取り出してドアノブに鍵を挿した。母親が寝ている時間帯なのは知っているけれど、万が一のことを考慮して慎重にドアを開けた。靴を脱いで忍び足で廊下を歩いた。リビングからテレビの音が聞こえる。ドアを開ければ、母親の姿を一目見ることができる。でも、ここでリスクを犯すのはあまりにも愚かだ。
僕は要らぬ欲求を捨てて、自室がある二階へと足音をたてずに向かった。自分の部屋は、どうやらそのままにしてあるらしい。僕は部屋の中に入った。
僕は、机の引き出しの奥にお年玉などでもらったお金を貯金していた。それを取り出して中身を確認した。3万円入っていた。思ったよりも少ない。自分が死神になるよりも前に、貯金を使って新しい携帯を買ったことを思い出した。
僕はお金の入った紙袋を持って、静かに部屋を出た。階段をおりる時にはのぼっていた時以上に気を使った。玄関までたどり着いて靴を履いた。自分の後ろにあるリビングからテレビの音が聞こえる。もう一度、母親に会いたい衝動に駆られた。会って、「僕だよ」って一言伝えたい。どう考えても僕だと分かってくれないことは理解しているのに、理屈を超えた本能がそうすることを望んでいる。でも、ここで取り返しのつかないことをしてはいけない。
僕は必死に自分に言い聞かせながら、家から出た。外に出ると、少し離れたところに彼女がいた。僕が頼んだ通り、ずっとそこにいてくれたようだった。
「ごめん、お待たせ」
「…………」
彼女が無言で僕の顔をじっと見てきた。そのことに居心地が悪くなって、僕は彼女に訊ねた。
「えっと、どうしたの?」
「……大丈夫?」
「なにが?」
「あんた、泣いてるよ」
「……え」
彼女に指摘されて、僕は自分の目尻を拭った。確かに、濡れている。言われてみて初めて、自分の頬に涙がつたっている感覚が脳に届いてきた。涙が次々と流れ出てきてとまらない。
「あれ、なんでだろ。ごめん、ちょっと待ってね」
僕は自分の声が震えているのに困惑しながら、彼女に背を向けた。どうして僕は泣いているのだろう。確かに、何故か急に不安になったんだった。家から出た瞬間、ずっと家の中で鼻孔に届いていた懐かしい匂いが消えて不安になってしまったのだ。
どうにかして涙を堰き止めようと苦心していると、突然背中に温もりを感じた。驚いて振り返ろうとすると、「見るな」と彼女が言った。どうやら、彼女が背後から僕のことを抱きしめてくれているらしい。
「……あの、どういうつもり?」
「いいから」
「……君は、強いね」
「……強くなんかない」
「強いよ。両親がいないっていうのは、無条件に自分のことを受け入れてくれる人がいないというのは、ひどく辛い。それなのに、君は」
僕がそこまで言うと、耳元で息を吸う音が聞こえた。
「辛いよ! 私だってすごく辛い! 綾やたくやに親のことを言われるの、本当はいつも嫌だった! 泣きたかった! そんなの、辛いに決まってるじゃん!」
「……ごめん」
「……いや、ごめん。今のは、謝らせるように誘導しているようなものだった。ごめんなさい」
彼女の声が尻すぼみになった。
本当は、こんなことをする権利は僕にはないのだろうけど、僕は彼女の方を振り返って抱きしめた。彼女は真正面から僕に抱きしめられたことに驚いたようで、短く息を切った。けれど、彼女はそんな僕の無礼講に応えるように、僕の背中に腕を回した。
「自分の命を奪ってくる人に安心させられるなんて、意味わかんない。なにこれ」
「……確かに、よく分からない状況だね」
僕はそう言って、彼女をより一層強く抱きしめた。彼女も僕に呼応するように腕に力を込めた。彼女を安心させるためにしたことだけど、何故か僕も安心した。いや、もしかすると彼女以上に、僕の方が安心しているのかもしれない。
ひとしきり抱きしめ終えた僕と彼女は、しばらく顔を合わせることができなかった。僕はこれから自分がしようとしていることに意識を集中させて、さっきのことは忘れるように努めた。
僕は彼女を連れてホームセンターにやって来た。僕が自分の実家に立ち寄ったのも、ここであるものを買いたいがためだった。
僕はそこで、手紙とフェンスカッターを購入した。彼女は僕がそんなものを買う光景を見て不思議そうにしていた。
それから、僕は自分の母校に向かった。母校といっても、本来僕はまだ元の高校に在籍しているはずである。本来の僕がどういう扱いを受けているかは不明だけど、行方不明者とされているなら絶対に見つかりっこなく、捜査が打ち切られている可能性がある。つまり、在籍免除を喰らっている可能性がある。もっとも、その事実がどうであれ、今の僕には無関係ではある。
僕は昇降口に向かい、そこで「日比谷」という生徒の靴箱に手紙を入れた。ここに来る前に暑さをしのぐために小さなカフェに寄った時、彼女には見られないように手紙にある内容を事前に書いておいた。
僕と彼女は授業中の学校で、職員や生徒にバレないように屋上へと向かった。その道中、僕は自分が所属していた2年生の教室に目をやった。そして、すぐにそのことを後悔した。目を塞ぎたくなるような光景がそこに広がっていたからだ。思わず目頭を押さえた。
「どうしたの?」
彼女がこちらの異変に気付いたようで、心配してくれた。
「なんでもない。大丈夫」
僕がそう答えると、彼女は納得のいかない表情になった。付き合ってもらっているのに答えないのは忍びないけれど、言葉にするのも嫌だった。嫌な記憶が一気にフラッシュバックした。鼓動が速くなって、僕は胸を押さえた。
「大丈夫? 苦しい?」
「……大丈夫。僕は、死神だから」
彼女は僕の返答に怪訝そうに目を細めた。
屋上まで上がり、僕と彼女は緑色に塗装された屋上へと出た。僕にとっては久しぶりの光景だった。
僕は屋上を取り囲むフェンスに近づき、先ほどホームセンターで購入したフェンスカッターでフェンスの網を切った。
「え、ちょっと、なにしてんの?」
「フェンスを切ってる」
「いや、だからなんでそんなことするの?」
彼女が焦ったように叫んだ。僕は彼女の質問には答えなかった。質問に答えてしまえば、今から僕がしようとしていることを彼女はとめるだろうから。
人が一人通れるほどの大きさまでフェンスを切って、僕はフェンスカッターを目立たないように屋上の隅に置いた。彼女は難しい顔をしながら僕の挙動を見ていた。何を言っても意味がないと悟ったのか、フェンスを切っている途中から僕に話しかけなくなった。
僕と彼女はお互いに無言のまま、しばらく屋上から見える街の景色を眺めていた。そのうち、高校の敷地内で唸るようにチャイムが鳴った。これは、全ての授業が終了したことを告げるチャイムだった。僕は彼女に言った。
「ごめん、一緒に隠れてくれない?」
「え?」
「もうすぐ来ると思うから」
「誰が?」
「君の妹が家に帰るまでには済ませるから」
「……ねぇ、あんた一体なにする気?」
彼女の言葉には答えず、僕は彼女の手を引いて屋上の入り口から死角となる隅へと向かった。そこで、僕たち二人は身を潜めた。
しばらく待つと、錆びが擦れるような鋭い音が響いてきた。誰かが屋上のドアを開けたらしい。ドアを開けた主は、屋上の様子を確かめるように一瞬動きを止めた。それからゆっくりとドアを閉めると、屋上の真ん中へと向かった。僕が望んでいた人物が、予想通り来てくれた。
日比谷俊樹。彼なら、あの手紙を見れば必ず来てくれると信じていた。僕は彼の靴箱に「果たし状」と書いた手紙を入れていた。彼の性格上、見過ごすことはないとふんでいたのだ。
ここまでの作戦が成功したことに、僕は安堵した。慎重に彼の様子を窺っていると、彼は裁断されたフェンスに気付いたらしく、そこに向かって歩き出した。今がチャンスだった。
「君はここでじっとしていて」
「え、ちょっと!」
彼女が混乱していることに構わず、僕は彼の背中目掛けて思い切り走った。僕の足音が聞こえたのか、彼は破られたフェンスの前でこちらを振り返った。僕と目が合った瞬間、彼は少し後退るような仕草をした。
僕はそんな彼目掛けて、勢いに任せて突進した。フェンスに空いた穴を、僕と彼は通り抜けた。フェンスの切れ端で頬と肘を擦った。ただ、興奮からか痛みは感じなかった。
「な、なんだよ、お前!」
彼は怯えるように叫んだ。流石の彼でも今の状況が呑み込めず、パニックになっているらしい。フェンスの向こうにある塀の縁に、僕は彼を押し倒した状態で追いやった。彼の首から先は、塀の縁から放り出されて宙にある。傍から見れば、僕は屋上から彼を突き落とそうとしているふうに見えるだろう。実際、僕はそのつもりで今こうしている。
「果たし状なんてふざけたものを寄越したのは、お前か?」
「うん、如何にも」
「なんでこんなことするんだよ」
「君だって、こんなことを周りの人間にしてきたんじゃないの?」
「……果たし状に書いてあった死神っていうのは、お前のことか?」
「君がかつて僕をそう呼んだんじゃないか」
「……俺は、お前のことを知らない」
「教室の机に、花瓶が二つあった。あの花瓶は、お前が置いたんだろ。そのうちの一人は、お前が殺した」
屋上に来るまでに目に入った僕の教室に、花瓶が二つ机の上に置かれてあるのを見た。一つは、僕の机の上に。もう一つは、死んだクラスメイトの机の上に。
「……お前、神木の知り合いか? それとも、小鳥遊の知り合いか?」
「どうだろうね」
「俺に復讐しに来たのか」
日比谷は徐々に余裕の表情を取り戻してきた。僕は彼のその表情が癇に障った。本当に屋上から突き落とす勢いで、僕は彼の胴体を塀の縁の外側に近づけた。
「お、おい。マジじゃないよな? 俺を殺したら、お前は犯罪者だぞ」
「だから、僕は死神だって言ってるじゃないか」
僕は、彼の身体を本気で突き落とそうとした。こんな奴、死んでしまっても構わない。今の彼は、冷静さを失った僕によって寿命が一気に縮まった状態になっている。数秒後には命を落とす状況に追い込まれた彼は、死神と契約を交わす権限を得た。僕は、彼の心臓が赤く脈打つのを見た。脈打つ権利もない心臓を握りつぶしたい衝動に駆られた。
「う、うわあああああああ」
突然、彼が叫び声を上げた。それもそうだろう。契約の瞬間、僕の身体は死神に置換されて視認される。僕は彼の首を両手で強く絞めつけた。彼の恐怖と苦痛に歪んだ顔を見て、僕は一種の愉悦に浸った。本当に突き落としてしまおうか。そう思った瞬間、僕は急に彼の身体から身を引き剥がされた。上体が反れた瞬間、彼が一瞬の隙をついて僕の頬を殴ってきた。
「っ……」
唇が切れて、口の中に血の味が広がった。手の甲で口元を拭ってみると、血がついていた。
彼は小刻みに身体を震わせながら、フェンスを抜けて屋上から飛び出して逃げて行った。あとちょっとのところだったのに。そう思った瞬間、小気味良い音が鳴るとともに彼に殴られた頬と同じ側の頬に衝撃が走った。唇の切れ口が余計に広がって血が滴り落ちた。
「あんた馬っ鹿じゃないの? 人を殺しちゃったら、それこそ本当に死神じゃない!」
彼女が血相を変えて僕に捲し立てた。どうやら、僕は彼女にビンタされたらしい。彼に殴られた時とは違って、頬の痛みとともに心臓が握りつぶされるような苦しさも併発した。
「私、人殺しに付き合わされたの? あんただって人間の心があるんでしょ? さっき、自分が受け入れてくれる人がいない悲しみで泣いてたじゃん。どうして人として大事な物を台無しにするようなことするの?」
彼女は目を赤くしながら僕の胸倉を掴んだ。そして、ゆらゆらと僕を揺らしながら言った。
「お願いだから、苦しみに苦しみを重ねないで。自分じゃない誰かがそんなことをしているところなんて見たくない」
彼女はそう言うと、自分の顔を両手で覆った。
本格的に唇が切れたようで、人間を襲った直後の吸血鬼みたいに顎から血が垂れていく。痺れるようなこの痛みは、彼女の苦しみを表しているように思えた。
「ごめん」
僕は、ただただ彼女に謝ることしかできなかった。
本当は僕と面識がある日比谷は、今は死神による催眠効果で本来の僕を認識できていなかった。つまり、学校の部外者がフェンスを破壊し、突然生徒である日比谷を屋上に呼び出して殺人未遂を犯したという噂が流れてもおかしくはなかった。それにより不審者の発生アナウンスが流れて、警戒態勢が強まった学校からの脱出が困難になるかと予見されたけど、意外にもそんなことはなかった。どうやら、日比谷は屋上での出来事を口外していないらしかった。
帰り道、当然彼女は僕に口をきくことはなく、僕は冷静になってみて自分がしようとしていたことの罪深さと恐ろしさに遅発的に気付いて血の気が引いていた。もし、彼女があの時とめてくれていなかったら、取り返しがつかないことになっていた。彼女が言った通り、僕は文字通り死神に成り下がっていた。本物の死神に。
帰宅してしばらくすると、彼女の妹が帰宅した。僕と話したくないだろう彼女と、明日の数に限りのある彼女の妹を二人きりにするために、僕はこの家に居候することになった時に与えられた部屋(以下、自分の部屋と呼ぶ)にこもった。
僕はずっと、部屋の電気を暗くしたまま、ベッドの上に横たわっていた。布団を被って、今日屋上で日比谷に殺人未遂を働いたときの光景を繰り返し脳裏で再生した。その度に、深い自己嫌悪に陥った。そうやって感傷に浸り続けているうちに、僕は眠ってしまった。
目が覚めたときには、カーテン越しでも分かるほど外がすっかり暗くなっていた。眠ったことで少しは先ほどの憂鬱さが解消されたけれど、当然気分は晴れないままだった。僕は特に意味もなく自分の部屋を出ようとして、唇に痛みが走った。
「そうか。殴られたんだった」
僕は咄嗟に痛みの発生源に手を添えた。すると、皮膚の感触とは別の何か湿ったような感覚が指先に走った。優しく撫でてみると、それが絆創膏であることが分かった。さらに、フェンスで傷ついた右肘にも絆創膏が貼られてあった。どうやら、僕が眠っている間に彼女が施しをしてくれたらしい。
お礼を言うためにリビングに向かうと、彼女がソファに座りながらテレビを観ていた。彼女がソファの右端に座っていたため、僕は左端に腰を掛けた。そして、彼女にお礼を言った。
「あの、ありがとう。絆創膏、貼ってくれたんだよね」
彼女は僕の言葉に反応することはなかった。こちらに一瞥をくれることもなく、テレビに映るバラエティ番組を観ていた。
仕方がないのでしばらく沈黙が下りた状態でテレビを観ていると、彼女が徐にリモコンを手にした。そして、テレビ画面を真っ暗にしてしまった。暗い画面にぼやけた僕と彼女の姿が反射した。濁ったテレビの画面からは、彼女の表情は窺えなかった。
しばらくの静寂の後、彼女が口を開いた。
「聞かせて」
「……え?」
「あんたが死神になったきっかけ」
「……聞いてもいいことないよ」
「日比谷っていう人が、あんたが死神になるきっかけなんじゃないの。だったら、話を聞かせてくれた方が、今日の出来事に折り合いがつけられるかもしれない」
彼女は、それ以上は何も言うまいと口を閉ざした。
僕は小さく息を吐いた。そして、真正面を向いたまま、僕は自分が死神もどきになるきっかけを話し始めた。
「神木くんって、優しいよね」
「……え?」
「私なんかと関わったら、自分までいじめの対象にされちゃうかもしれないのに」
クラスメイトの小鳥遊さんは、どこか自嘲するように笑みを浮かべてそう言った。僕は何故か見透かされたような気持ちになった。だから、言い訳するように早口で彼女に言った。
「小鳥遊さんと話すの、僕は好きだよ」
「……そう言ってくれるのは、神木くんだけだな。ううん、そもそも、私とこうやって話をしてくれる人は、神木くんしかいない」
「……そんなこと」
お昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。彼女はその音を合図に、まるでクラス内での自分の役割を理解しているような素振りで俯いた。彼女は僕の隣の席に座り、ただじっと机の上を眺めることに終始していた。
彼女はこのクラスの全員から無視され、クラスの中心人物たちに直接的ないじめを受けている。特に、クラスのリーダー的な存在である日比谷が筆頭となって彼女に目もあてられないような仕打ちをする。
僕は唯一、クラスメイトでありながら彼女と口をきいていた。どうして口をきいてるのかというと、いじめを見て見ぬふりするのはいじめているのと同義であり、いじめに加担していないと胸を張るためには自らいじめの対象となっている人物に話しかけるべきだという強迫観念に駆られているからだ。その割には、自分が次のいじめの標的にされることを恐れて担任にいじめの告発をすることもなければ、リーダー格である日比谷にくってかかることもしていない。つまりは自分が周りと同じ卑怯者であるというレッテルを貼られたくないがために、偽善的に彼女と会話しているだけなのであった。
授業中は教師の目があるため彼女にとっては安寧の時間ではあるけど、休み時間、特にお昼休みに関しては地獄を極める。だから僕は、彼女が最も苦痛を感じるであろうお昼休みになると声を掛けて一緒にお昼ご飯を食べる。元から一緒にご飯を食べる友人もいなかった僕には、失うものがなかったのだ。
彼女はそんな浅はかな僕を優しいと評価する。僕はこれがいつも自分の卑怯で醜い性格を直視させられるような心持ちになって落ち着かなくなる。彼女はおそらく、僕のそんな心理に気付いているだろう。いつも見透かされたような気分になる。ただ、幸いにも僕がいじめの標的にされたことは今まで一度もなく、そのおかげで彼女は僕と話している間はいじめられることがない。
その日、僕は彼女と下校した。いつも一緒に帰ることはなかったのだけれど、その日ばかりは彼女の方から僕に声を掛けてきたのだった。急ぎの用事があるわけでもなかった僕は、特に深く考えるわけでもなく頷いた。
学校を出るまでの間、僕は日比谷やその取り巻きの姿がないか逐一確認しながら彼女と歩いていた。どうして日比谷のことを気にしているかというと、これほどまで彼女と行動を共にしている姿を見られてしまえば、僕も巻き添えになる可能性があったからだ。最悪の場合、今度は僕がターゲットにされるかもしれない。つまり、僕はやっぱり世間からの体裁を気にして彼女と一緒にいるだけの中途半端な卑怯者だというわけだ。
そんな僕の黒い感情を察する素振りを見せない彼女は、僕の隣でこんなことを言い出した。
「ねぇ、なんかご飯食べて帰らない?」
「……なんで」
「え、クラスメイトと一緒にご飯食べるのってそんなに変?」
「いや、そうじゃなくて、どうして今になってそんな提案をするんだろうと思って」
「……さぁ、どうしてでしょう」
正直、彼女からの申し出を拒否したかった。何故なら、これ以上彼女と交流を深めて情が湧いてしまったら、彼女の隣にいることで自分が悪人ではないという自己陶酔に浸ることに対して更なる罪悪感を抱くようになってしまうからだ。元はその自己陶酔に浸るために彼女に偽善的な心理で話しかけたわけだけど、それが今となっては重石となって僕の心にのしかかるようになってしまった。最低な話、最初から話しかけなければこんなことにはならなかったとさえ思ってしまっている。
「……分かった」
「え、本当に? やったぁ」
彼女は胸の前で握りこぶしをつくった。彼女がこんなに陽気な仕草をするなんて、一体僕以外の誰が知っているのだろう。いじめに正当な理由なんて一切ないけれど、あえていうなら彼女にいじめられるような理由が全く見当たらない。周りよりも比較的彼女と話す僕の目線から見ても、彼女は良い子だった。だからきっと、日比谷の気まぐれで彼女はターゲットにされてしまったのだろう。日比谷の顔が思い浮かんで憤りを覚えたけれど、僕には立ち向かう勇気がなかった。そんな自分が日比谷以上に腹立たしい。
「ねぇねぇ、美味しいところ知ってるんだけど、そこに行かない?」
「うん、任せるよ。お腹が満たせれば、それでいい」
「楽しみにしててね」
彼女は僕に微笑んだ。
考えてみれば、誰かとこうやって学校帰りに一緒に行動するなんてことは、久しくしていなかった。それ以前に、僕には彼女以外の話し相手は家族しかいない。いじめられている彼女に話しかけた僕は、彼女に話しかける以前まで話し相手がいなかった。つまり、友人という存在がまるでいなかったのだ。だからなのだろう。僕は今、こうやって誰かと放課後に遊んでいることを素直に楽しいと思っている。
彼女と他愛のない話をしながらたどり着いたのは、家系ラーメンのお店だった。店内から漂う良い匂いにお腹が鳴った。
「……まさか、ここ?」
「あ、ごめん。ラーメン嫌いだった? それとも、家系アンチだったりする?」
「いや、イメージと違ったお店に案内されたなって思っただけ。ラーメンは僕の好物だよ」
「あ、そっか。良かった」
彼女は胸元に手を添えて胸を撫でおろすと、「入ろっか」と店内の横開きのドアを開いた。
「「「いらっしゃいやせー」」」
店員さんの溌剌とした声に歓迎されながら、僕は早々にカウンター席を陣取った。僕はてっきりスイーツのお店にでも連れて行かれるのかと思っていたため、口の中に広がった甘い味を払拭するためにメニューを探した。けれど、メニュー表がなかった。辺りを見回していると、肩を叩かれた。振り返ると、彼女が可笑しそうに笑っていた。
「食券スタイルだよ、ここ」
「……そうだったんだ」
赤っ恥を掻きながら席を立って、食券機の前で彼女と隣り合って並んだ。何がおすすめなのか知らないため、彼女が注文するのと同じものを頼むことにした。彼女が食券を買うのを待っていると、彼女は僕の思考を察したようで、こちらを振り返って言った。
「あ、私と同じのにするつもりなのかな? それなら、定番のやつにしようっと」
彼女はラーメンと煮卵、そして白ご飯の食券を購入した。彼女は振り返ると、「神木くんって結構食べれる人?」と訊いてきた。
「え、どうして?」
「白ご飯があると美味しい食べ方ができるんだよ。余裕があるなら是非試してみてほしい」
「うん、こう見えて食は太い方だと思うよ」
「やった。決まりだね」
彼女は食券機にお札を投入しようとした。僕はそれを慌てて阻止した。
「え、まだ注文するの?」
「え? いや、神木くんの分を買おうとして」
「いや、自分の分は自分で払うよ」
「でも、私がここに連れて来たよ?」
「それとこれとは別だよ。ほら、お金に困ってるわけじゃないから」
僕は財布の中身を彼女に見せた。彼女は納得がいったのかいっていないのか微妙な様子で頷いた。
結局、僕は彼女と全く同じメニューにすることにして、食券を三枚買った。カウンター席に彼女と隣り合って座ると、店員さんが早々に食券を回収してくれた。待っている間、僕と彼女はそわそわとラーメンの登場を待ちわびた。先ほどから良い匂いがして、胃が先走ってお腹を何度も鳴らした。
彼女は店内をぐるりと見回した。それから、コップの水を飲み干した後、「そういえば」と言って僕に訊いた。
「さっきこのお店の前に来たとき、なんだか意外そうだったけど、あれは何だったの?」
「え? あ、いや、女の子が行くのってスイーツを取り扱っているお店ってイメージが勝手にあって。これは完全に僕の偏見だけど」
「……神木くんは、スイーツが好きな女の子がいいの?」
彼女が急にしおらしい声を出したため、僕は少し焦って彼女を振り返った。彼女はどこか不安げな表情を浮かべている。
「いや、食の好みで人を判断しないよ」
「……じゃあ、ラーメン女子は?」
「ラーメン女子?」
「ラーメンが好きな女の子」
「うん、いいと思うよ」
「本当?」
「え、うん。ていうか、仮に僕の嫌いな食べ物を好きな人のことも、別に嫌いになったりはしないよ。人の好き嫌いに食の好悪を持ち込んだりしない」
「……そっか。良かった」
彼女が安心したように息を吐いた。彼女のその所作の真意は、僕には分かりかねた。
しばらくして、食欲を増幅させる湯気をくゆらせたラーメンが店員さんの手によって運ばれてきた。しばらくお店でラーメンを食べていなかっただけに、僕は高揚した。彼女も隣で手を叩きながらはしゃいでいた。
彼女が手を合わせるのに倣って僕も手を合わせた。
「「いただきます」」
彼女は耳に髪の毛をかけて、箸で持ち上げた麺に息を吹きかけた。湯気が伸縮性のある生き物のようにうねった。
彼女と同時に、僕も麺を口に運んだ。
「んー、美味しい!」
彼女はラーメンの味に感動した様子で言った。言葉にこそしなかったけれど、僕もおよそ彼女と同じ感想を抱いた。二人してスープを飲んで深く感銘の溜息を吐き、それから、僕と彼女は黙々と食べ進めた。
麺の残量が半分未満になった頃合いで、彼女が思い出したように僕に言った。
「あ、そういえば海苔はまだ食べてない?」
「うん、まだ食べてないよ」
「はぁ、良かった。もうすぐで海苔とご飯の出番だからね。先に麺を食べちゃおう」
彼女の言葉に従って、残りの麺を平らげた。残ったのは、スープと煮卵一つと、スープが浸透したしっとりとした海苔である。
「この海苔で、ご飯を巻くの」
「あー、なるほど」
彼女は、箸で海苔を掴み、それをご飯の上に載せた。そして、その海苔で白米のかたまりを包んだ。
「これ、本当に絶品だよ」
彼女はそう言うと、ゆっくりとそれを口に運んだ。そして、幸せを嚙みしめるように咀嚼して唸った。
「美味しいよぉ」
彼女の幸せそうな表情が、僕の食欲を刺激した。僕は彼女と同じようにスープから箸で海苔を取り出し、それを白米に巻いて食べた。確かに、彼女の言う通り絶品だった。海苔に染みついたスープが白米と絡んでおり、麺を平らげたというのに食欲が減るどころか増進された気がした。残った海苔には煮卵の黄身を溶かし込んで食べた。これも申し分なく美味だった。
食べ終わった僕たちは、しばらく放心状態になった。
ようやく正気を取り戻したタイミングで、僕は彼女に言った。
「有意義な食べ方を知ることができたよ」
僕がそう言うと、彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「でしょ」
彼女の得意げな顔を拝んだ後に店を出た。店を出た時には、それなりに空が暗くなっていた。彼女は僕の隣で思い切り伸びをした。
「はー、本当に美味しかった」
彼女の横顔からは、充実感に満ちた感情が読み取れた。偏見だと怒られてしまうかもしれないけど、彼女がクラス中からいじめを受けている人物だとは到底思えない。
そもそも彼女がいじめられていることに違和感を抱いている理由が、クラスは別だったものの一年生の頃は人に囲まれているタイプの人間であるイメージがあったからだ。つまり、彼女は最初からいじめられる側の人間だったわけでなく、むしろいじめられる人物像からは程遠い存在だった。そのことが、ずっと気になっていたことだった。
「ねぇ、日比谷と仲悪いの?」
僕からの不躾な質問に彼女は動きをとめた。きっと、いじめの首謀者であると思われる日比谷と何かわだかまりがあるのだろうと思っての質問だった。
彼女は僕の顔をじっと見つめた後、こちらから視線を外して言った。
「日比谷くんに、告白されたんだ」
「……え?」
「その告白に、私は応えられなかった。次の日から、私は日比谷くんにいじめられるようになった」
「それが、一年生の時?」
「ちょうど一年生から二年生に移り変わるくらいの時かな。最初は日比谷くんと少人数の男の子たちだけが私に絡んできたけど、そのうち中心人物の日比谷くんがけしかけたのか、クラスのみんなから無視されるようになった」
「……そうだったんだ。ごめん、突然こんな質問して」
「ううん」
彼女は気にする必要はないことを示すために首を振った。
「だから、神木くんには感謝してる。私と一緒に話してくれて」
「……いや」
僕は、クラスメイトたちと共犯者になりたくない一心で彼女と関わっていたことを思い出して後ろめたい気持ちになった。本当は、彼女と友人みたいにこうやって一緒にご飯を食べたり、話したりする権利なんて僕にはない。同調して彼女に無視をし続けるクラスメイトたちよりも、世間体を気にして偽の善意を働かせて彼女と接触している自分の方が矮小な存在だ。
「みんなが私を無視する中で、私に話しかけてきてくれたのは、神木くんだけだった」
「……僕は」
彼女が微笑むのを見て、僕はその先を言うことができなかった。
僕が罪悪感に浸ったことで、しばらくその場に沈黙が下りた。その沈黙を破るように、彼女は静かに言った。
「ねぇ、私の家来ない?」
「…………どうして」
「あ、嫌なら全然いいよ! ただ、一緒にゲームとかできたらなって思っただけ」
彼女は焦ったように取り繕った。
顔を赤くする彼女を見ながら、僕は頷いた。
「うん、いいよ。迷惑じゃなければ」
「……え、本当?」
彼女が僕の返答に意外そうな反応を示した。
「うん。帰ってもすることないしね」
「え、そっか。うん、そっか。じゃあ、行こっか」
彼女は声の調子を上げながら、先ほどまでよりも足取りが軽い様子で歩き出した。僕は彼女の後に続く。彼女の家に行くのは初めてだった。そもそも、今まで学校外で遊ぶこともなかった。今日一日で僕と彼女の関係が一気に進展していることに、僕は不思議な感覚を覚えた。その上、彼女の家に行くまでの間に、彼女は連絡先を交換しようと提案してきた。僕はその提案を聞いた時に困惑して迷ったけれど、断る理由もなかったため了承した。彼女いわく、今日のラーメン屋さんのようにお勧めがあった時に共有するための提案だったのだそう。
彼女の家は、僕の家とは真反対の方角にあった。
一軒家の家で、特に彼女の家を想像したことはなかったけど、少なくともイメージから逸れた外観ではなかった。
彼女に促されて、僕は家に上がった。彼女には自分の部屋があるらしく、僕はそこに通された。
「じゃあ、くつろいでてね。ジュース取ってくる」
「あ、お構いなく」
久しぶりに同級生の家に上がった僕は、このやり取りを懐かしく思った。
彼女はしばらくしてオレンジジュースとショートケーキを持って来てくれた。それから、彼女はゲーム機を起動させてテレビに映した。学校での彼女の様子を見ているため、こうやって自分の家では普通にしていることに感動した。家で普通にするのは当たり前だけれど。
「神木くんは、普段ゲームするの?」
「いや、そもそも一切のゲーム機を持ってないよ」
「へぇ、男の子ってみんなゲーム持ってるって思ってた」
「他の男子たちは持ってるの?」
「ううん、分からない。男の子の友達はいなかったから」
「そうなんだ」
そんな他愛のない話をしながら、僕と彼女はレーシングゲームを始めた。ゲームをするのは、小学生の頃、僕に数人の友人がいたときに友人の家にお邪魔してプレイして以来だった。けれど、どういうわけかずっと僕が彼女の順位を上回る。最初余裕の表情を浮かべていた彼女は、僕に連敗して額に汗を浮かべ始めた。
「あのさ」
「……うん、なに?」
「君ってもしかして」
「…………」
「ゲーム下手?」
「そんなことないもん!」
「いやだって、ゲーム自体にブランクがある僕に、ゲーム機を持っている君は一度も勝ててないんだよ」
「ちょ、ちょっと調子が悪いだけだもん」
「ふーん。じゃあ、別のゲームする?」
「する!」
彼女は顔を赤くしながら別のゲームカセットをゲーム機に挿入した。今度彼女がチョイスしたのは、格闘ゲームだった。そして、そのゲームでも僕は彼女に一度も負けることがなかった。
「ねぇ、やっぱりさ」
「…………」
「ゲームのセンスが」
「あるもん!」
彼女は涙目になりながら頬を膨らませた。僕はそんな彼女の表情に思わず笑ってしまった。すると、彼女は何故か驚いたように目を見開いた。
「……えっと、何?」
「あ、いや、神木くんってそんな風に笑うんだって思って」
「……次も勝つから」
コントローラーのボタンを押して、次の試合を強制的に開始した。彼女からの指摘が、なんとなく恥ずかしかった。彼女は慌てた様子でコントローラーを握りなおした。そして、やはり次も僕が彼女に勝った。
不服そうな彼女がもう一戦申し込んできたけれど、これ以上続けると彼女の心理的ライフが底をついてしまいかねなかった。それに加えて、気付けば辺りがそろそろ暗くなっていた。親が夕飯を作って待ってくれているだろうし、お暇するのに適した時間だった。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「あ、そっか。もうそんな時間か」
彼女は「んー」と唸りながら伸びをした。それから、「ねぇ」と立ち上がった僕に声を掛けてきた。
「私、神木くんのこと好き」
「…………」
「それって友人としての好きだよね、とか煙に巻くのは禁止だよ。私、神木くんのこと、男の子として好き」
「…………そっか」
「迷惑かな?」
「いや、ありがとう。ただ、どう反応していいのか分からなくて」
彼女は僕の言葉に「なにそれ」と笑いながら立ち上がり、僕に近づいてきた。そして、僕のことを抱きしめた。
「私、ずっと神木くんとこうしたかった。ドキドキする」
彼女の体温と髪の毛から漂うシャンプーの香りが、僕の感情を掻き回してくる。
「私、神木くんに恋してる。神木くんは、私のこと、ただのクラスメイトだって思う?」
「……いや、少なくとも、他のクラスメイトより小鳥遊さんのことは特別だと感じてる」
「…………嬉しい」
「……でも、それが恋愛感情としての特別かと言われると、また違う気がする」
「…………うん、そっか」
彼女は消え入るような声でそう言った後、僕を抱きしめる腕の力を強めた。
僕は、自分の醜さに辟易していた。間違いなく彼女は他のクラスメイトたちより大切な存在ではある。何故なら、他のクラスメイトたちよりも長い時間彼女と過ごしているからだ。そして、彼女と関わっていく中で、彼女が人格者であることも理解していった。彼女は人に好かれて然るべき存在であることに異論を持ち込む余地はない。けれど、僕が他のクラスメイトたちよりも彼女と過ごす時間の密度が高くなったのも、彼女と過ごす時間を通じて彼女が良い子であることに気付けたのも、全てきっかけは、自分の偽善的な言動によるものだった。偽善的な気持ちで話しかけて、偽善的な気持ちで彼女と時間を過ごした。もちろん、彼女と関わっていく過程で偽善よりも本心で彼女と一緒にいることを望むようにはなったけれど、元を辿ると僕が彼女に話しかけた理由は決して誇れるようなものではなかった。そのことが、非常に気掛かりだった。さながら、罰ゲームで告白した女子が、相手の男子に本当に好意を寄せるようになったことで偽の告白をした自分を責める構図と似ている。決してそれは、許されることではない。
僕は、抱きつく彼女を引き剥がした。彼女が傷ついたような表情を浮かべたことに、僕は自分の心臓がナイフで刺される心地がした。
「ごめん、今日は帰るよ」
僕がそう言うと、彼女は制服のスカートの裾を両手で握った。それから、彼女は顔を上げた。彼女の顔は、笑顔だった。
「うん、また明日。学校で」
「うん、また明日。今日はありがとう」
僕はそう言って、彼女の部屋を出た。ドアを閉じる間際、彼女の頬を涙がつたうように見えたのが、錯覚であることを願った。僕は一人で玄関に赴いて靴を履き、彼女の家を出た。
翌日、彼女は学校に来なかった。ただし、彼女からメッセージが届いていた。
【今日はありがとう。また明日】
僕はそのメッセージを見て、思わず彼女の席を振り返った。彼女は当然、そこにはいなかった。僕は一日遅れで彼女にメッセージを返した。
【こちらこそありがとう。そして、今日は欠席みたいだね。お大事に】
彼女からの返信は、返ってこなかった。
授業中、何度も彼女の席を眺めては、彼女が不在であることに溜息を吐いた。昨日の彼女の傷ついた様子が何度も脳裏に蘇った。
お昼休みに、僕は久しぶりに一人で昼食を食べた。いつもは居心地の悪い視線をクラスメイトたちから浴びて彼女と一緒に食べていたけれど、平穏でありながらも一人で食べる昼食の方がよほど美味しくないことに気付いた。
黙々と一人で食べていると、あろうことか日比谷に話しかけられた。
「おい、神木。ちょっと来い」
「……どうしたの」
「いいから、来い」
日比谷の後ろには、三人の付き人がいた。僕はこれ以上の抵抗を諦めて大人しく日比谷たちについて行った。教室を出てから、校舎の一番上の階に向かった。その階はどの学年も利用していないため、移動教室の時間でないとほとんど用途はない。つまり、お昼休みである今は誰もいない。そんなところに、日比谷たちは僕を連れてきた。
日比谷は周りに誰もいないことを確認してから、僕の前に手を差し出してきた。
「携帯、寄越せ」
「……どうして」
「別に窃盗しようってわけじゃない。今日だけ貸してくれ」
「……携帯がないのは困る」
「だから、今日だけだっつってんだろ」
「そういう用事なら協力はできない」
そう言って教室に戻ろうとすると、日比谷の付き人三人が僕の前に立ちはだかった。
「それなら、力ずくでいくしかないな」
僕は、三人の付き人に手足を拘束された。すると、日比谷が僕のズボンのポケットに手を入れて携帯を取り出した。そして、画面を操作し出した。
「お、ロックしてないんだな。随分と紳士なこった」
日比谷はそう言って笑うと、付き人三人に言った。
「神木をトイレに連れ込め」
三人は頷いて僕をトイレに連行した。日比谷は先に教室に戻るらしく、連行される僕に向かって叫んだ。
「明日には返してやるよ」
抵抗することも諦めて、僕は三人にトイレの個室に閉じ込められた。すると、個室の上の隙間からトイレにあるホースの先端が入ってきた。そして、そこから勢いよく水が放出された。冷たい水が僕の全身を濡らした。勢いが強くて息ができなかった。
しばらくすると、僕は解放された。全身びしょ濡れの状態で教室に戻り、クラスメイトたちから奇怪な目線を向けられた。僕は鞄を持って、学校を出た。この状態では午後の授業は受けられない。帰ってからすぐにお風呂に入り着替えた。
翌日、僕は風邪を引いた。昨日と今日で、学校から連絡はなかった。無断帰宅したことで連絡があると思っていたけれど、おそらく日比谷が僕から体調不良の伝達を預かったなどと適当な理由を先生に伝えたのだろう。学校を休んだことで、僕は日比谷から携帯を返してもらうのが遅れてしまった。
結局、風邪が治るのが遅れて三日後に僕は学校に登校した。久しぶりの登校で支度に掛ける時間を見誤ってしまい、ギリギリの状態で慌てながら学校に向かった。教室に入ると、にやにやした日比谷が僕に携帯を返してきた。
「面白いことになったぜ」
日比谷の言葉の意味を深く考えないで携帯を受け取った僕は、何かされていないか端末内の情報を確認した。メッセージアプリを起動したタイミングで、僕は絶句した。彼女とのメッセージ履歴が増えていた。当然、僕は携帯を強奪されていたから、日比谷が勝手に彼女にメッセージを送ったのだろう。
【今日はありがとう。また明日】
【こちらこそありがとう。そして、今日は欠席みたいだね。お大事に】
【ちょっと風邪引いちゃったみたい。また明日かな】
【死ね。お前のせいで、こっちは迷惑してる。気持ち悪い。二度と話しかけるな】
【ごめんね。私、やっぱり疫病神みたいだね。神木くんにさえそう思わせちゃってたなんて。もう話しかけないから、安心してね。無理に連絡先を交換させちゃってごめんなさい。連絡先も消していいよ。あと、私が神木くんに告白したのも忘れて。さようなら】
そこでメッセージのやり取りが終わっていた。心臓が凍てつくのが分かった。身体の芯から冷えて、僕は吐き気を催した。急いでトイレに駆け込んで、僕は嘔吐した。しばらくトイレに籠っていたけれど、予鈴が鳴って仕方なく教室に戻った。
教室には、すでに担任の先生が教卓の前で立っていた。そして、何故か教室の中がざわざわしていた。不吉な予感が過った。僕が教室に入って来るのを確認した担任は、僕を見てハッとした表情を浮かべた。それから、言いづらそうに僕に口を開いた。
「神木か。すまない。先走ってみんなには伝えたんだが」
担任はそこまで言い淀んだ。けれど、意を決したように僕に向き直って言った。
「小鳥遊が亡くなった」
「…………はい?」
「自殺だったそうだ。昨晩、家で首を吊った姿でご両親によって発見された」
担任の発言に、僕は思考回路が停止した。茫然としながら教室の中を眺めていると、日比谷と目が合った。日比谷はにやっとすると、僕に指さして何かを言った。教室内でひしめき合う喧騒で声は届いてこなかった。いや、そもそも日比谷は声を出してはいなかったのだろう。僕だけに向けた言葉だった。日比谷の唇の動かし方を思い返してみた。日比谷の声が直接脳内に響いてくるような感覚になった。
「お前が殺した」
僕はまた、吐き気を催した。口元を押さえて、教室から飛び出した。トイレに駆け込んで、僕は二度目の嘔吐をした。そして、トイレの個室のドアを思い切り叩いた。憤りのこもった音が、大きさだけは立派にトイレの中を彷徨うように反響した。
日比谷が僕の携帯を使ってメッセージを彼女に送ったことで、彼女は当然僕からのメッセージだと真に受けた。僕からの罵声を気に病んで、彼女は自殺を図ったのだろう。
ふと、初めて彼女がいじめられていた現場を思い出した。僕が彼女に最初に話しかけたのは、体育倉庫からびしょびしょになった彼女が出てきたのを見た時だった。僕は彼女に僕の体操着を貸して、彼女に着替えさせた。彼女と一緒に先生不在の保健室に行き、保健室が無人の間、泣いている彼女の横に僕は付き添った。
何故か最初の彼女との思い出を思い出しながら、僕はトイレから出た。すると、そこに日比谷が一人で立っていた。僕にはもう、日比谷に恐れおののく気力すらなかった。無視して日比谷の横を通り過ぎようとすると、日比谷が僕に声を掛けてきた。
「俺の邪魔ばっかりしやがって。目障りだったんだよ」
「…………」
「お前、この前小鳥遊と一緒に放課後帰っただろ」
日比谷がそのことを知っていたことに、僕は驚いた。
「俺はその日、小鳥遊にあるミッションを課していた」
「……ミッション」
「お前を惚れさせろってな」
「……小鳥遊さんが、僕のことを?」
「そうだ。そして、お前に連絡先を交換させるように命じた」
信じられなかった。小鳥遊さんは、日比谷に命じられて僕に連絡先の交換を提案してきたのか。全て日比谷の手の平の上で踊らされていた。僕も、彼女も。
「お前が小鳥遊に惚れたところで小鳥遊が消えれば、お前に悲しみが深く刻まれる」
そうか。僕は、小鳥遊さんへの究極の仕打ちのために、日比谷によって生かされていたのか。日比谷にとって目障りな存在だったはずの僕がどうして何もされなかったのか。それは、日比谷が僕を利用するためだった。小鳥遊さんが一番絶望するエンディングを用意するためだった。クラスで唯一懇意にしてくれていた相手が自分に罵倒すれば、当然心が壊れる。そして小鳥遊さんが悲しみに明け暮れると同時に、厄介な存在だった僕も破壊できる。ともすれば、日比谷は僕も小鳥遊さんと同じように自害することを望んでいるのではないだろうか。
「俺、やっさしー。あいつの携帯川に捨てておいたから、お前が小鳥遊を自殺に追いやった犯人だって証拠は、隠してる限りバレないぜ」
日比谷はそう言って、僕の方に近づいてきた。
違う。事が大きくなって僕の供述が自分に向いたときに面倒なだけだ。
「よくやってくれた。お前はまるで、死神だよな」
日比谷は僕の肩に手を置いて、教室へと戻って行った。日比谷の後ろ姿を見送りながら、僕は教室には戻らず、学校を出た。世界と自分の間に一枚薄暗いベールをかけたように、視界が濁っていた。およそ生きている心地がしない。
誰もいない自宅に着いた。とにかく、現実逃避したかった。早く眠ってしまいたかった。今の状況は、僕にはキャパシティオーバーだった。
鍵を開けて家のドアを開こうとすると、郵便受けに白い手紙らしきものが投函されているのが見えた。どうやら、朝の段階で気付かなかったらしい。なんとなくそちらに向かってその手紙を取り出すと、「神木懐くんへ」とだけ書かれていた。誰からの手紙かは表記されていなかったけど、筆跡からするに彼女のもので間違いないだろう。何度か学校で彼女のノートに書かれた字を見たことがあった。
誰にも見せてはいけない気がして、僕は急いで家に入って自分の部屋に籠った。そして、手紙の中身を開けた。僕は一言一句、噛みしめるように彼女からの手紙を読んだ。
神木懐くんへ
突然こんな手紙を投函してごめんなさい。
神木くんには、本当によくしてもらったのに、私は。
私には、謝らなければならないことがあります。
一昨日の放課後、神木くんを私の家に招いたあの日、私は日比谷くんに脅されていました。
連絡先を交換するように、そして、神木くんに告白するように命令されていました。
少なくとも、日比谷くんのすることだから神木くんにとって良いことじゃないことは、分かっていたのに。
だから、バチが当たったんだろうね。私にとって一番身近な存在だった神木くんから、私がどうしようもない人間だってバレていたことが分かった。自分を守るために連絡先を交換したつけが回ってきた。知りたくなかった。神木くんの本当の気持ち。
あの時、私は逆らえばよかったのに。すでにいじめの標的にされた私のことよりも、まだ標的にされていない神木くんのために断ればよかったのに。
私は自分のことが可愛くて、この期に及んで臆してしまって、日比谷くんの言う通りの行動をしてしまいました。本当にごめんなさい。自分がいじめられて当然の醜い人間だってことは、十分わかっています。
本当は、神木くんにはこのことを伝えないつもりでした。
どうしてかというと、愚かなことに神木くんに嫌われたくなかったからです。
笑っちゃうよね。どこまで落ちぶれれば気が済むんだろう。
でもね、言い訳みたいになっちゃうけど、日比谷くんからの命令を断らなかった理由は他にもあったんだ。
それはね、神木くんと本当に連絡先を交換したかったし、神木くんに好きだって伝えたかったからなんだ。本当だよ。
だから、神木くんに告白した時、ちょっと強引だったかも。焦っちゃったみたい。嫌な思いさせてごめんなさい。
今まで、もし嫌々ながらだったとしても、一緒にいてくれて本当に嬉しかったです。私は神木くんにとても救われました。ありがとう。
私みたいな疫病神と仲良くしてくれてありがとう。これ以上、神木くんみたいな人を巻き込みません。だから、安心してね。
神木くんが元気に長生きできますように。
小鳥遊日和より
僕は手紙を読み終えると、それを机の上に置いた。そして、思い切り叫んだ。
「うああああああああああああああ」
恥を知らない子どもみたいに、近所迷惑なんて一切考えず、僕はただひたすらに、言語化できない自分の感情を吐き出すために叫んだ。
彼女は疫病神なんかじゃない。祟り神は僕の方だ。日比谷の言う通り、僕は死神だ。
僕は、叫びながら家を飛び出した。どこに向かうでもなく、ただただ走った。公園に行って無意味にジャングルジムを登って頂上で叫んでみたり、川に入って日比谷への憎しみを叫んでみたり、とにかく、無茶苦茶なことをしながら街の中を徘徊した。
夕方になって、僕は学校に向かった。どうして学校に向かったのかと訊かれたら、なんとなくとしか答えようがない。もしかすると、日比谷に怒りをぶつけるために学校に向かったのかもしれないし、彼女の影を求めて学校に足を向けたのかもしれなかった。どちらにせよ、高校生の世界はほとんどが学校に集約されていて、僕にとっての日常はやっぱり学校だった。
学校に到着した頃には放課後になっていて、誰も教室には残っていなかった。
僕は無人になった教室に入って、思わず足を止めた。
彼女の机に、花瓶が置かれてあった。その光景が、彼女がこの世界から消えてしまったことを如実に表していて、僕はまた叫びたくなった。すると、教室の隅で何かが蠢くのが見えた。身体が強張るのを感じた。けれど、怖いもの見たさで振り返った。そこには、人間ならざる何かがいた。それと目が合うと、相手はにやりとおぞましく笑った。
「オイラのことが見えるのか」
「……あなたは」
「死神だよ」
「…………」
「まぁ、信じなくても構わない。しかし、寿命に余裕がある者が死神を認識することがあるとは。お前さん、さては自分を死神と同一視しているな」
「……一体、何を」
「よし、お前さんの命の半分をもらうことにしよう」
死神は一人で納得すると、僕の方に近づいてきた。
「ま、待ってください。僕はまだ」
「まだ、死にたくないってか? 嘘を吐くな。少なくとも死神と遭遇するということは、近いうちに自分の命をこの世から消そうとしてんだろ? そんなもったいないことをするくらいなら、オイラに寿命を分けてくれても構いはしないだろう」
僕は、この後自死を図るつもりだったことが見抜かれて思わず黙り込んでしまった。
「まぁ、話を聞け」
死神はそう言うと、開いた手を胸の前に突き出した。僕を落ち着かせるための仕草のつもりなのだろう。死神は僕が大人しくなったと思ったのか、こちらに目を向けてきた。話し方こそ人外が登場する童話で目にするようなポップなものだけれど、その面は絵本などで表現されるような死神とは似ても似つかない禍々しいつくりだった。
「人間が自身の身体を自ら絶つ際、そのほとんどが周りの人間との不和が原因だという有名な話を聞いている。つまり、お前さんは自分以外の人間との関わりを断ちたいと考えている。そうじゃないか?」
「…………一つの理由では、あるかもしれません」
「だろう? そこで、オイラと身体を共有すれば、寿命は半分になる代わりに人の命さえ食せば食料もいらず、水もいらない。排泄だって不要だ。まるで他人と接触する理由がなくなる。どうだ? 悪くない話なんじゃないのか?」
「それが死神の命の繋ぎ方なら、わざわざ人間に頼る必要なんてあるんですか?」
「なるほど、中々に鋭い質問だな」
「何か代償があるんじゃないんですか?」
「お前さんが死んでは困るからな。死神になる時の最低限のルールを教えよう。至ってシンプルだ。いいか、よく聞けよ。一つ、命の契約を寿命が半年以下の人間と交わすこと。二つ、契約を交わした人間とは、対象者が死ぬまで直径五十メートルの円内に相当する距離にいなければならない。以上だ」
「……それだけ?」
「あぁ、それだけだ」
「でも、契約を交わした人間の側にいないといけないなら、人間との関わりを持たないようには結局できないってことですよね」
「見知らぬ人間と契約すれば問題ない。まだマシだろう」
「僕の寿命を欲するということは、あなたは飢え死にが迫っている状態なんですか?」
「あぁ、今平静を装って話してはいるが、瀕死状態だ。途方に暮れていたがどうだ。お前さんみたいに数十年単位の命なんて滅多に手に入らねぇ。如何せん、余命が半年以内の人間としか契約できない決まりだからな。それがどういうわけか、死神と同調している人間が現れるときた。極度の飢えに苦しむオイラとしては、こんなチャンスを逃すわけにはいかねぇ」
「どうしてそんなにも空腹なんですか? あなたはしばらく人の命を口にしてないんですか?」
「いや、つい一昨日食べたさ。ただ、契約した人間の寿命によるんだ。直近でありついたのは、その場しのぎの数日の命だったからな。今、誰とも命を共有していないオイラは、飢餓状態ってわけだ」
「でも、僕の命を共有するということは、僕が死ねばあなたも死ぬ。そういうわけじゃないんですか」
「いや、その通り、お前さんが死ねばオイラも死ぬ。オイラはお前さんの命を共有すると同時に憑依する。ただ、寄生虫みたいにお前さんの意思を乗っ取るわけじゃない。ただし……」
「ただし?」
「お前さんが、しっかりと自分の意思を持っていればの話だがな」
死神は、不敵な笑みを浮かべた。僕は何か不吉なものを死神の表情から読み取りながらも、さらに質問を重ねた。
「自分で自分の身を投げようと、あえて誰とも契約せずに餓死する可能性だってありますよ」
僕の言葉に、死神はいやらしい笑みを浮かべた。
「そいつは絶対に起こり得ないな。耐えがたい空腹に襲われて、必ず人の命欲しさに衝動に駆られるさ」
死神は自信ありげにそう言った。
僕は、考えた。果たして、死神が持ち掛けた提案に乗る必要があるのだろうか。このまま、何も考えずに自分の身を自分で終わらせる方がよほど楽で、よほど建設的な気がした。けれど、死神になることで、僕はどうにかして日比谷に仕返しができるかもしれないとも思った。
その時は、正真正銘、人殺しの死神だと胸を張れることだろう。
「分かった。あなたの提案に乗ろう」
「よし、話が分かる奴でよかったよ」
死神はそう言うと、僕に近づいてきた。そして、近づきながらこんなことを言ってきた。
「そういえば、ちょうどそこの花瓶が置かれている席のやつだったよ。オイラが最後に契約を交わしたのは。その日、そいつは放課後に最後まで残っていた。誰かに会いたいが、会うのが怖いっていう愚痴を聞かされたぜ。そいつもあんたと同じように自死するつもりだったらしく、契約を交わした。イレギュラーのあんたとは違って正式な手続きだったから、憑依することはなかったが」
死神が契約したという人物は、まさか。
「小鳥遊さん……」
「あ? あぁ、確かそんな名前だっけかな。まぁ、どうでもいいことは覚えない主義でね」
死神は僕の身体に重なるように入り込んできた。その瞬間、耐えがたい空腹に苛まれた。死を覚悟するほど空腹な状態に陥ったことがないけれど、少なくとも人間の身体であれば感じることのない食欲に僕は吐き気を催した。
こうして僕は、死神に魅入られた。そして、死神の宣言通り、僕は死ぬまで尋常ではないこの空腹感と付き合っていくことを諦めて、契約対象を求めて街へと繰り出した。
ただし、最初に僕がしたことは誰かと契約を結ぶことではなく、自分が持っていた携帯を叩きつけたことだった。これを使えば手っ取り早く日比谷の悪事を世に広めることができるけれど、僕は死神としての能力を得たのだから、それを利用して日比谷を恐怖のどん底に突き落としたかった。
そして、僕は新しい携帯を買うことにした。僕は家に戻って自分の机の引き出しにあるお年玉貯金からお金を抜き出し、母親のパスポートと自分の健康保険証、そして学生証を持って家を出ようとした。すると、今日に限って何故か母親が帰宅する音が玄関から聞こえた。
僕は何食わぬ顔で家を出ようと自分の部屋がある二階から一階に下りた。すると、両手に買い物袋を抱えた母親が靴を脱いでいた。
「今日は早かったね」
「そうなのよ。早上がりさせてもらったから、今日は久しぶりに懐と二人でカレーでも食べようかと……あなた、誰?」
母親は僕と目が合うと、突然そんな不可解な言葉を口にした。
「何言ってるの、母さん」
「あなた誰よ! は、速く家から出て行かないと、警察を呼ぶわよ!」
「……母さん」
どうやら、母親は本気らしかった。本当に、僕のことが誰か分かっていないらしい。もしかすると、死神から聞かされていないだけで、「神木懐」という人間はこの世界から消えたのではないだろうか。であれば、今目の前にいる母親の目に映る僕は、一体何者なのだろう。僕は本当に、死神になったのか。
「すみません。すぐに出て行きます」
「二度と来ないでちょうだい」
母親は、僕が横を通り過ぎて家から出て行くまでの間、一切警戒を解くことなく敵意を向けた目で僕のことを睨んでいた。
それから、僕は空腹と混乱で頭が働かないまま携帯ショップに赴いた。そこで契約をしたけれど、考えてみればこの世界から神木懐という人間が消失したのなら、携帯を持つ必要もない。僕は人間としての思考を排除する必要がある。僕はもう人間ではない。死神、あるいは他人の目には誰にも該当しない人間として認識される死神もどきなのだ。
僕は携帯ショップから出て、母親のパスポートを持ち出してしまっていたことを思い出した。返しに行くべきだと思ったけれど、またあの敵意のこもった目を向けられるのが怖かった。だから僕は、自宅の前に戻り、郵便受けに母親のパスポートと自分の健康保険証、そして学生証を入れた。
人間ではなくなった僕は、今度こそ誰かの命をもらうために街を彷徨うことにした。
僕の身の上話をした後、彼女は何か思い詰めるようにして自分の部屋に籠ってしまった。一人になりたいから部屋に閉じこもっただろうから、僕は特に彼女を呼び止めるようなことはしなかった。
僕は一人でリビングに待機していた。すると、彼女の妹が「ただいま」と言って帰って来た。リビングに入って来て僕と目が合うと、彼女の妹は肩を少し跳ねさせて驚いた。それから、僕から一切目を離さずこちらに背を向けないまま自分の部屋に向かって階段を上がろうとした。ただ、彼女の妹はその直前、僕に訊いた。
「お姉ちゃんは?」
「彼女なら、自分の部屋にいるよ」
「そう」
彼女の妹は短くそう返答すると、こちらに目も暮れず勢いよく階段を駆け上って行った。僕は思わず溜息を吐いた。自分が撒いた種なのだから仕方ない。僕は彼女にだけじゃなく、彼女の妹にもしてはいけないことをしてしまった。その罪を忘れてはいないため、彼女の妹の態度に不満はない。
僕はその後、部屋に戻った。僕がリビングにいても、二人が食事をとる際に邪魔になるだけだ。僕は部屋のベッドで寝転びながら、彼女に今日話した自分の過去のことに想いを馳せた。小鳥遊さんは、最期、自身の命を投げ捨てる際に何を思ったのだろうか。日比谷が僕に成りすまして送ってきた文面を見て、一体どれほど感情が乱されたのだろうか。
「ごめん」
僕は、小さくそう呟いた。一生小鳥遊さんには届くことのない、僕が死神として墓場まで背負っていくべき罪だった。僕はそのことを肝に銘じながら、重くなった瞼に抵抗することなく目を閉じた。そのまま、僕は眠ってしまった。
「起きて」
「…………」
目を開けると、目の前に彼女がいた。僕の顔を覗き込みながら、彼女はもう一度僕に言った。
「起きて」
「…………」
「カーテン、開くよ」
彼女は僕が起きる素振りを見せないことに業を煮やしたのか、部屋のカーテンを握った。そして、彼女は思いっきりカーテンを開いた。窓の外はすっかり朝の顔になっていた。眼球を溶かすような刺激をもたらす陽光が一気に部屋の中に入ってきた。
「……勘弁してよ」
僕は布団を自分に被せた。すると、彼女は僕の布団を引き剥がした。
「居候している身分でなに贅沢なこと言ってんの。ほら、早く起きる」
ごもっともなことを言われてしまった僕は、仕方なく上体を起こした。複数の埃が瞼の裏に入り込んだような眠気を払うために目を擦った。すると、彼女が唐突なことを口にした。
「付き合って」
「…………なんだって?」
「この前、死神として日比谷に復讐するのに付き合ってあげたでしょ」
「……妨害されたけど」
彼女は僕の言葉を無視して続けた。
「だから、今度は私に付き合って」
「……何に?」
「私のお父さんに会いに行くのに付き合って」
「……君の父親って」
「私とひなのを捨てたクズ」
「…………」
僕が反応に困っていると、彼女は可笑しそうに笑った。
「ひなのはもう学校に行ったから、ちょっと付き合ってよ」
「……え、今から行くの?」
「そうだよ。日帰りで行ける距離にお父さんがいるから」
「……そうだったんだ」
「あと、今までちょっと扱いが酷過ぎた。ごめん」
「……え?」
「お風呂にも入れず、新しい服も用意してなかった」
「……いや、服は自分で買うよ。この前余ったお金があるから」
「お風呂、入って来て。ずっとあんたが後ろめたさを感じていることを利用して、人間らしいことをさせてなかった。いくら自分の命を奪う相手だからって、やり過ぎた」
「いや、普通のことでしょ。一緒の家に居させてくれていること自体驚いてるんだから。他の人なら野宿させてるところだよ。でも、お風呂を使わせてくれるということなら、有難く使わせてもらうよ」
「うん、行ってらっしゃい」
彼女は微笑んだ。僕は彼女の人の好さに驚きながら、部屋のドアを開けた。すると、目の前に彼女の妹がいた。
「お姉ちゃん。死神さんと何話してたの?」
「……ひなの、どうしてここに? 学校に行ったんじゃないの?」
「お姉ちゃんこそ、学校は?」
「え、えっと、今日はお休みで」
「ふーん、祝日でもないし、行事もなさそうだし、変だね?」
彼女は、彼女の妹の鋭い視線に気まずそうにしていた。そして、彼女の妹から彼女へと延びる視線が僕の胴体を貫通していた。つまり、僕こそが二人に挟まれて気まずい思いをしていた。
彼女の妹は頬を膨らませると、不満を漏らした。
「ずるい! 死神さんばっかりお姉ちゃんと一緒でずるい!」
「別に死神さんと遊んでるわけじゃないよ」
「でも、お姉ちゃんが死神さんに悪さされないか心配。私も行く!」
「私も行くって……あなた、どこに行くか分かってるの?」
「パパのところでしょ」
「……でも、ひなの。ひなのがまだ物心がついていなかった時にしかいなかったのよ。ひなのは覚えてないでしょ?」
「うん。でも、私もパパに会いたい。お姉ちゃんと一緒にいたい!」
「うーん、困ったなぁ」
彼女は眉を下げながら、駆け寄って来た彼女の妹の頭を撫でていた。しばらくその状態が続いた後、彼女は意を決したように言った。
「分かった。お姉ちゃんと一緒に行こう。ひなの」
「え、本当?」
「うん。ほら、早く支度してきて。学校には私から連絡しておくから」
「分かった!」
彼女の妹ははしゃいだ様子で自分の部屋に戻って行った。嵐が去った後のように静かになった部屋で彼女と目が合うと、彼女は呆れたように笑った。
お風呂から上がると、二人は既に準備万端な様子だった。僕は急いで支度を済ませた。そして、彼女から指摘されて彼女の父親に会う前に服を買った。そこで服を着替えて、最寄りの駅まで向かった。
特急の電車に乗り、そこで駅のホームで買った駅弁を食べた。彼女の妹は小旅行でもしている気分なのか終始楽しそうだったけれど、彼女は今から訳アリの父親と会うことに対してナーバスになっている様子だった。無理もない。
彼女の妹がトイレに行った隙に、僕は彼女に訊いた。
「ところで、どうして今になって父親に会おうと思ったの?」
「…………あんたがきっかけ」
「え? 僕?」
彼女は不本意そうに「癪だけど」と付け加えて頷いた。
「人の命を犠牲にする復讐っていうやり方には賛同できないけど、自分の後悔を払拭するために行動しているのには、感心した」
「……あの時は、止めてくれて助かったよ」
彼女は僕の言葉に頷いてから言葉を続けた。
「きっと寿命に限りができたことで、自分の中に残ってた後悔を解消したくなったんだと思う。私はずっと、父親とのことが心の中に残っていて、もう一度だけ会いたいって思ってた。あんな最低な父親なのにね」
彼女は自嘲するように笑ってから、窓の外に目を向けた。そのタイミングで彼女の妹が戻って来てしまったため、そこで話は終わってしまった。
特急電車で一時間ほど走ったところで目的の駅に着いた。駅周辺を見ただけでここが田舎であることが分かった。彼女は深く息を吸うと、「んー」と声を上げながら思い切り伸びをした。
「さて、住所が変わってなければ会えるね」
「え、住所は確信してないの?」
「だって、かれこれ五年前の話だからね」
彼女がそんな恐ろしいことを飄々と言ってのけたことに僕は戦慄を覚えた。一方彼女の妹は旅の目的には関心がないらしく、彼女と手を繋いでウキウキした様子だった。
彼女について行くしかないため、僕は大人しく手を繋いで歩く二人の背中を捉えながら歩いた。途中、彼女と彼女の妹は駄菓子屋さんでアイスキャンディーを買った。二人は仲睦まじい様子でオレンジのアイスを口にしながら歩いていた。残念ながら、今の僕には純粋な人間だった頃に違和感無く食べていたご飯やお菓子がおぞましい物に思えてしまう。食欲をそそるどころか、食欲が減退してしまうものにしか思えない。これが、自分が死神になってから変わってしまったことだった。
駅から三十分ほど歩いたところにある古い一軒家の前で、彼女は足を止めた。
「ここよ」
家の表札には、「芽白」と表記されている。彼女は一軒家の外観を隈なく見渡していた。
「……お姉ちゃん、痛い」
「え? あ、ごめん!」
どうやら、緊張で無意識のうちに彼女の妹の手を握る力が強まっていたらしい。彼女は取り乱した様子で彼女の妹の手を摩った。彼女の普段とは違う様子に、彼女の妹も大人しくなった。
もう大丈夫、という彼女の妹の言葉を合図に彼女は父親が住んでいると思われる一軒家の柵の前に立った。そして、呼び鈴を鳴らした。
けれど、誰かが家の中から出て来る気配はなかった。彼女はもう一度呼び鈴を鳴らしたが、誰も出て来なかった。
「流石に情報が古かったか」
彼女は諦めた様子でそう言うと、「帰ろっか」と虚しく零した。その瞬間、「涼音?」という男性の声が耳に届いた。その場にいた全員が、声がした方を振り返った。
「涼音なのか」
「…………お父、さん?」
彼女は、自分の名前を呼ぶ男性に目を見開いていた。その表情は、本当に父親に会えたことを信じ切れていない驚きと、彼が自分の父親に間違いないという確信が混在した複雑なものだった。
「会いに、来てくれたのか」
男性は目に涙を浮かべながらそう言った。そして、彼女はすでに涙を頬に零して泣いていた。男性は、繊細なガラス細工の道を歩くように慎重な足取りで彼女の方に近づいて来た。
「お父さん!」
彼女はそう叫ぶと、男性に抱き着いた。男性は感極まった様子で、「ごめんな」と何度も謝りながら彼女の頭を思い切り撫でた。彼女は今まで見せたことのない年相応の少女の顔をしていた。ずっと、彼女は父親に会いたかった。それが報われたことに、僕は思わず泣きそうになった。彼女の妹は、おそらく父親のことが記憶になかったのだろう。他人事のように、呆気に取られた様子で抱擁を交わす男性と彼女の光景をただただ眺めていた。
ひとしきり泣いた男性は、僕たちを家に上げてくれた。お世辞にも中は綺麗ではなかったけれど、それは家が古いことに起因していて、散らかっているというわけではなかった。
リビングに通されて、僕たちはテーブルの周りを囲った。テーブルの背は床に近く、みんな正座して座った。男性は座った僕たちに向けて言った。
「勝手ながら、また自分の娘と会うことを毎日夢見ていた。できることなら、もう一度一緒に暮らしたいとさえ思っていた。まさか、娘の方から会いに来てくれるなんて、未だに信じられない」
男性は感極まったようにまた目に涙を浮かべた。彼女も男性のそんな姿を見て目を赤くした。
「ちょうど今から昼飯を作るところだったんだ。良かったら食べていってくれ」
男性はテーブルの上にお皿を三枚並べた。人間の食べ物は受け付けないからむしろ良かったけれど、部外者とはいえこうも露骨に自分の分のお皿を出されないのは少々落ち込んだ。すると、男性が僕に声を掛けてきた。
「君は娘の付き添いかな。すまないね。娘が世話になっているみたいで」
「……え、あ、僕ですか?」
「君以外に誰がいる?」
男性は可笑しそうに笑った。
「皿うどんでも作ろうかと思っているんだが、食の好みとしては平気か?」
「……あ、すみません。僕、お腹空いてないので遠慮しておきます。そもそも、お皿は三枚ですから、僕の分ははじいてましたよね?」
「何言ってるんだ。君の分も含めて三枚用意した」
「……それだと数が合わないような気がするんですが」
男性の言葉の意味が分からず、僕は首を傾げた。すると、彼女が何か不吉なものを感じたのか、怯えた様子で男性に訊いた。
「お父さん、その三人っていうのは、誰のこと?」
彼女の質問に、男性は怪訝な表情を浮かべた。
「どうしちゃったんだ、涼音。俺とそこの男の子と涼音の三人に決まっているじゃないか」
「……ねぇ、ここにひなのがいるじゃん。まさか自分の娘のこと、覚えてないの?」
彼女の言葉に、男性は突然笑い出した。僕も彼女も呆気に取られた。
しばらくすると男性は笑うのに気が済んだようで、少し息を切らしながら言った。
「おかしなことを言うなぁ、涼音は。俺の娘は一人じゃないか」
男性の言葉に、彼女は息を呑んだ。僕は彼女が男性と再会した時から今に至るまでの一連の光景を思い出した。男性は一度たりとも、彼女の妹に目を合わせていなかった。男性の中では、彼女に妹はいないことになっている。いや、いないことにしている。いないように振舞う理由がある。
僕は彼女の妹を振り返った。自分の身に起きていることがうまく呑み込めていないようで、茫然としている。僕は思わず彼女の妹の頭を撫でた。すると、そこで初めて彼女の妹は無表情を崩して泣き顔になった。
隣で、彼女が立ち上がった。彼女はつかつかと男性に近づき、思い切りビンタした。乾いた音が部屋に鳴り響いた。
「最っ低」
彼女はそう言うと、こちらを振り返って言った。
「行こう。もう、こんな奴に用はない」
僕は慌てて彼女の妹の手を引いて男性の横を通り過ぎて部屋を出た。三人で玄関まで急いで家を出ようとすると、後ろから男性が叫んだ。
「涼音、飯は?」
「…………」
彼女は恐怖と怒りと悲しみに塗れた表情で唇を噛んだ。僕はその横顔を見て胸が苦しくなった。彼女は男性を無視して家のドアを開けた。
僕は彼女の妹の手を握ったまま、彼女が無言で駅まで目指す後ろ姿について行くしかできなかった。彼女にどう言葉を掛けるべきか皆目見当もつかないまま、自分の非力さを嘆くしかできなかった。彼女の妹は、彼女の悲壮感漂う姿に心を痛めたのか、また声を上げて泣き始めた。僕は彼女の妹の頭を撫でて宥めた。いつもならすぐに処置を施す彼女も今は自分のことで精一杯なのか、こちらを振り返ることはなかった。
駅に着いた頃には、日がすっかり落ちていた。彼女の妹は見知らぬ土地で異常な体験に巻き込まれたのと泣きつかれたことから、深い眠りに落ちていた。駅に向かう途中から、僕は彼女のことをおぶっていた。
駅のホームで電車を待っていた。僕も彼女も疲弊していたこともあって、お互いに無言のままだった。彼女はどこか遠くを見ていた。
心許ないライトを照らしながら、電車がホームに到着した。
幸い車内はあまり人が乗っておらず、僕たち三人は隣り合って座ることができた。彼女の妹は彼女の肩に頭を預けて眠っている。彼女は彼女の妹の頭を撫でながら、口を開いた。
「ありがとう」
「……え?」
「ひなののこと、宥めてくれて」
「……緊急事態だったから」
「あんたがいて助かった。気持ちの整理をしている間、ずっとひなののこと慰めてくれたから、なんとか冷静になれた」
「君には、借りがあるから気にしないで」
僕が言うと、彼女は微笑んだ。けれど、すぐに表情に影を落として俯いた。
「愚かだった。ちょっとでも、お父さんの目が覚めてくれてるって信じた自分が馬鹿だった」
彼女はそう言うと、頭を抱えた。
「こんなことする資格ないと思うけど、失礼するよ」
僕は、項垂れる彼女の頭を撫でた。彼女は驚いたよう顔を上げた。彼女と目が合った。
「昔、何があったのか訊かないんだね」
「訊いていいものかも分からないからね」
「……死神でも、気遣いができるんだ」
「元は人間だからね」
「あんたが死神なら、あいつは悪魔ってところかな。悪魔の方が、よっぽど質が悪い」
彼女はそう言うと、深く息を吐いてから話し始めた。
「昔は、優しい人だった。お父さんとお母さんと私の三人で暮らしてた時は。きっと、誰の目から見ても円満な家族だったと思う。でも、ひなのが産まれてからお父さんは変わってしまった」
彼女は、自分の肩に信頼を委ねる妹の頭を愛おしそうに撫でながら続けた。
「ひなのを産んでから、お母さんは体調を崩した。そして、一年もしないうちに亡くなった。それから、お父さんはおかしくなった。まだ物心のついていないひなのを毎日罵倒し続けた。あろうことか、ひなのを疫病神って呼んだ」
疫病神という言葉を聞いて、鼓動が冷たく高鳴るのを感じた。
「ある時、お父さんに言われたの。ひなのを捨てて俺についてこいって。でも、私は嫌だった。自分の妹を捨てるなんて絶対に嫌だったし、その時のお父さんについて行ってもうまくいくなんて到底思えなかった。だから、私はお父さんからの提案を拒否した。そしたら、お父さんは親戚に私とひなののことを丸投げした」
彼女はきつく目を瞑って息を吐き出した。それから、少し虚ろな目をしながら続けた。
「親戚は元々私たち家族のことを煙たがっていたらしくて、お父さんがいなくなって自分たちが私とひなのを引き取ることを渋ってたんだけど、経済力があったから親戚名義で一軒家を借りて私とひなのをそこに住まわせることにした。それが、今私たちが住んでいる家なんだ。面倒事を持ち込まないことを条件に、私とひなのは今生活できてる。有難いことに口座にお金は振り込んでくれるから一度も生活に困ったことはなかった」
彼女は彼女の妹の額に自分の額を重ねた。彼女は彼女の妹のことを愛おしそうに見つめながら言った。
「でも、ひなのが骨肉腫で入院するようになって普段の生活費よりも多くもらうように連絡したら、図々しい小娘だって私に吐き捨てながら自分たちが関与しなくて済むようにさらにお金を振り込んでくれた。今更愛情なんてあの人たちには求めてないけど、ひなのの命なんてどうでもいいって言われた気がして悔しかった」
彼女は目尻から静かに涙を零した。
「私にとって唯一の家族がひなの。でも、私は一番大切なはずのひなのを、私のエゴで危険な目に遭わせた。そんな自分が、許せない」
彼女にとって一番大切な彼女の妹の命を軽視して契約を交わそうとした当時の自分を思い出した。僕は、彼女から思わず目を逸らした。自分が生きるためだったとはいえ、彼女の宝物を奪おうとしていたことの重みを実感した。
「もしかすると話せばまた昔みたいな関係になれるんじゃないかって。やり直すことができるんじゃないかって。幸せだった頃の家族の光景を手放したお父さんも上手くやれなかった自分も許せなくて、自己満足のためにお父さんに会いに行った。本当はまだ一緒にいられるんじゃないかって信じようとした。あの時、悲しみが押し寄せたからお父さんを狂わせただけで、今ならもしかするとって期待した。でも、今はそんな気持ち全部吹き飛んじゃった。微塵も残ってない」
彼女は自分の胸に手を当てた。自分の気持ちに整理をつけているのだろう。僕は、彼女を抱きしめた。
「いいんだよ。自分だけが大人になろうとしなくていい。自分の気持ちに従ったっていいんだよ。君はもう、十分頑張った」
「……もしかして、あんた泣いてる?」
「ごめん。君の大切な妹を奪おうとしてごめん。本当に、ごめん」
「……もうそのことはいいよ」
彼女は僕の頭を撫でた。慰めるつもりが、逆に慰められてしまった。
僕と彼女の間に沈黙が下りた。気にする必要はないと彼女から言われたものの、その言葉に甘えて首肯するわけにはいかなかった。
彼女にどう返答すればいいのか考えあぐねていると、小さな唸り声を上げた彼女の妹が目を開けた。まだ半覚醒状態らしく、虚ろな目をしている。彼女の妹は、彼女を見上げて言った。
「私、お姉ちゃんさえいればいいよ」
そう言って微笑むと、彼女の妹はまた眠りに就いた。
彼女は、両手で自分の顔を覆うと、声を上げて泣き出した。幸い、まだ田舎の駅が並ぶ区間での乗車だったため、僕たち以外にこの車両に乗っている人はいなかった。
「ごめんね。ひなの、本当に、ごめんね」
彼女はそう言いながら、しばらくの間泣き続けた。自分の妹の頭を撫でながら。
閉め忘れたカーテンを両端に追いやって侵入してくる太陽光と目が合いながら起きた。
普段なら殺人未遂を目論む太陽光と寝起きに遭遇した暁には自身の非力さを嘆くところだけれど、今日に限っては全くダメージがない。昨日以前との自分の体調の変化に困惑しながら、僕は一階のリビングに下りた。
既に彼女と彼女の妹は食卓を囲んでおり、べとべとのバターが塗りたくられたトーストを口に運んでいた。油分を湛えたバターがトーストの縁を這うようにお皿の上に滴り落ちる光景を見て、胃液が込み上げてきた。
「あ、おはよう」
彼女からの挨拶を無視しながらトイレに駆け込んでえづいた。
しばらくしてリビングに戻ると、彼女が僕の顔を覗きながら言った。
「顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」
いつのまにか彼女は自分の命を奪う僕の容態を憂うようになったらしい。不思議な感覚を覚えながら、僕は彼女に答えた。
「大丈夫」
僕はリビングのソファに座った。息を深く吐いてしばらく安静にしていると、先程感じた気分の悪さは幾分マシになった。二人が囲むテーブルから漂うトーストやバターの香りには不快にならざるを得なかったけれど、物を直視しなければ差し支えはない。
僕は気分を紛らわせるためについていたテレビに視線をやった。興味のないトピックが次々と取り上げられるニュース番組だった。それでも、人間の食べ物を注視するよりはよほど有意義だ。
眠気に襲われながらする読書と同じ要領でニュースを眺めていると、背後から二人の会話が響いてきた。
「お姉ちゃん、最近朝はゆっくりだね。私と一緒に学校行ってくれなくなったし」
「ひなのはもう3年生だからね。一人で登校できるようにならなきゃ」
「一人で登校できるもん。ただ、お姉ちゃんと一緒に行きたいの!」
「……ひなの。ごめん。でも、そろそろお姉ちゃん離れしないと」
「最近死神さんばっかりお姉ちゃんを独り占めしてずるい! お姉ちゃんも死神さんも学校に行ってないの知ってるんだからね!」
彼女の妹の発言に、僕は思わず振り返った。すると、彼女と目が合った。彼女は困惑した表情でこちらを見ていた。それから彼女は作り笑いを浮かべて、彼女の妹に訊いた。
「どうして、私たちが学校に行ってないって思うの?」
「だって、この前一人で家にいたとき、お姉ちゃんの学校の先生と生徒が来たんだもん」
彼女の妹の言葉に、彼女は重い荷物を足の上に落としたような顔をした。
「……その人たちは、なんて言ってた?」
「涼音さん、最近学校に来ないですけど元気ですか? って」
「……そっか。それで、ひなのはなんて言ったの?」
「本人に訊いてくださいって言ったよ」
「……そう。ごめんね、黙ってて。その人たちが言った通り、私はもう学校に行ってない」
「どうして?」
「残り短い命だから、自分の好きなように生きようと思って」
「私は学校行ってるのに!」
「ひなのは学校楽しいでしょ?」
「……お姉ちゃんは、楽しくないの?」
驚いた様子で訊ねる彼女の妹に、彼女は自嘲するように笑いながら頷いた。
「だから、学校にはもう行かないの」
彼女がそう言うと、彼女の妹は難しい顔をしながら俯いた。やがて顔を上げると、握り拳を二つ作って腰の両端に添えて言った。
「私も学校行かない!」
「……え?」
「お姉ちゃんと一緒にいる!」
「……ひなの」
「それが、残り少ない命の私がしたいこと」
「…………ひなの」
彼女は目を潤わせながら、彼女の妹を静かに抱きしめた。
「大好き、お姉ちゃん」
「……私もよ。ひなの」
二人は噛み締めるように抱擁した後、彼女の妹は彼女から離れて言った。
「でも、最後の挨拶として、今日は学校に行く」
「……うん。それがいい。それに、学校には行かなくなっても、みんなとはいつでも遊べるからね」
「うん!」
彼女の妹は嬉しそうにはにかむと、テーブルの側に置いてあったリュックを拾い上げて背負い、元気よさげに玄関へと駆けて行った。いつのまにか朝食を平らげていたらしく、お皿は空になっていた。
文化祭が終わった夜の学校みたいな喪失感が部屋に漂う中、僕は彼女と目が合った。彼女はどこか嬉しそうに笑った。僕も彼女につられて反射的に笑いそうになった。
けれど、冷静に考えるとどうして僕は笑おうとしているのだろうか、と正気にかえった。彼女が笑うことと僕が笑うことになんら相関関係はないはずだった。加えて、彼女がどうして嬉しそうな顔をしているのか、先刻までは理解していたはずなのに急に分からなくなってしまった。
自分の身に起きた不可解な感覚に首を捻っていると、玄関から何かが倒れる鈍い音がした。彼女がその音に驚きながら玄関へと急いだ。僕も彼女に遅れて続く。
玄関に向かうと、彼女の妹が片方の靴を廊下に放り投げた状態で倒れていた。よく見ると、小刻みに震えながら左膝を抱えている。唸っているようだった。
「ひなの!」
彼女が取り乱した様子で痛みに悶える彼女の妹の元にかがんだ。
「膝が痛いの?」
彼女は泣きながら彼女の妹に呼びかけたけど、彼女の妹は痛みに顔を歪ませることに終始していて、返答する余裕がないらしかった。
彼女は、何をそんなに慌てているんだろう。彼女の妹が余命宣告を受けている状態であることは、一番よく知っているはずだ。彼女の妹の容態を一時的にでも回復したければ、医学に精通する医者に診てもらう他ないことは明確である。
僕は、彼女に言った。
「救急車呼ぶ?」
「お、お願い!」
「救急車を呼んだ後、かかりつけの病院にも電話した方がいいね。電話番号は知ってる?」
「知ってる……ねぇ、お願い! ひなのを助けて!」
彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で僕に言った。悲痛な表情を浮かべながらこちらに懇願の眼差しを向ける彼女に僕が思ったのは、医者じゃないんだから、だった。
救急車を呼んだ後、取り乱す彼女を宥めながらなんとか病院の電話番号を聞き出した。病院への電話も僕が済ませ、膝の痛みにうずくまる彼女の妹は駆けつけた救急車に乗せられて、彼女も同伴した状態でかかりつけの病院へと向かった。僕は、病院へと向かう救急車を後ろから眺めた。
彼女の妹は宣告を受けていたタイムリミットに向けて着実に衰退していたようで、むしろ残されていた猶予分まで生き続けるのか分からないとのことだった。
悲しみに暮れる彼女は、病室のベッドで眠る彼女の妹の横で涙を流し続けた。彼女によって握られた彼女の妹の小さな手が、彼女の呼びかけで僅かに反応を返した。ここ数日、彼女の妹はほとんど寝たきりだった。
僕は、二人の様子を見ながら自分に起こった変化に困惑すら抱かなくなっていた。
二人の様子を見て何も思わない。今までの自分とは決定的に違う心象になっていることは自覚しているけれど、それが不自然だとは思わない。まるで夢から覚めたようだった。
僕が人間であるという夢から、覚めたみたいに感じられた。
彼女の妹が骨肉腫による痛みで入院し始めて2週間が経った。最初意識がしばらく無い状態だったのが、今では意識の喪失はなくなって容態が安定し始めた。容態が安定したとはいっても、あくまで寿命に限りがある人間にしては、である。
彼女は毎日、彼女の妹の側につきっきりだった。夜もろくに寝ないまま彼女は毎日、彼女の妹の側につきっきりだった。夜もろくに寝ないままだったため、彼女の妹は彼女に家で休むように気遣ったけれど、彼女は普段の冷静さを欠いた様子でその提案を拒否した。そんな日々が続いていたある日、彼女はあることを提案してきた。
「ひなの、湖に行こう」
突然の提案に彼女の妹は最初困惑していたけれど、しばらく思案した後神妙な面持ちで頷いた。
「湖?」
僕が訊ねると、彼女は少し悪い顔色をこちらに向けて言った。
「昔、家族でよく鏡の湖に行ってたの」
「鏡の湖?」
「空を映す湖。朝も昼も夜も、信じられないくらいに綺麗だった」
彼女は自分にとって大切で愛おしい記憶に想いを馳せているはずなのに、どことなく憂いを帯びた顔をした。何故だろうかと思ったけれど、瞬時にその疑問もとい興味は霧散した。
彼女は、自分の気持ちと妹の気持ちを擦り合わせるためにもう一度確認した。
「ひなのは私としか行ったことないけど、本当にいい?」
彼女の妹は、彼女から目を離さずに頷いた。
「行きたい。お姉ちゃんが私と一緒に行きたいと思った場所に、私は行きたい」
「……そっか。ありがとう、ひなの」
彼女は目を赤くしながら彼女の妹を抱きしめた。最近、彼女の涙をよく見かける。彼女の妹の最期が近いことで、何か思うところがあるといったところだろう。
彼女が知ったら激怒するだろうけど、寿命が僅かな彼女の妹を見ていると、契約をしたくて仕方がなくなる。目の前にご馳走があるにもかかわらず、お預けを喰らっているようなものだ。ただ、残念ながら彼女と契約している以上、他の命と契約を結ぶことはできない。
その後、彼女の妹は医者からの外出許可を得た。
僕たちは一旦彼女の家に戻り、身支度をした。彼女がキャリーバッグに着替えなどを詰める傍で、彼女の妹は楽しそうにはしゃぎながら小さなリュックに必要な物を入れている。
「お姉ちゃんと旅行するなんて、いつぶりだろう」
彼女の妹の言葉に僕は驚いた。
「随分な大荷物だと思っていたけど、泊まりがけなんだ」
僕が確認すると、彼女は頷いた。
「その湖はここから遠く離れてるから、日帰りは無理よ」
「……僕、旅費がないよ。君から離れることもできないから……もしかして、僕は野宿?」
最近、夏の暑さや湿気から影響を受けなくなっていた。死神化が進んでいるのだろうか。野宿してもなんら問題はない。
そんなことを考えていると、彼女が突然笑い出した。
「流石に私もそんな鬼じゃないよ。真面目な顔でそんなこと言わないでよ」
「……え、でも旅費が」
「それくらいなら出すよ。親戚のお金だけど。一応、生活費とは別で余った分は貯金させてもらってるから」
「……君がいいなら」
「どうせあと僅かな命なんだし」
「……そうだね」
僕が頷くと、彼女は諦めたような笑みを浮かべた。彼女の妹は先程まで軽やかだった手つきが急に鉛をぶら下げたみたいに重くなった。そして、沈んだ表情で身支度を続けた。
そんな二人の様子を見て、分かりきっていることになにを感傷的になる必要があるのだろう、と思った。
翌日から早速、僕たちは新幹線に乗って目的地を目指した。彼女の貯金にあやかって指定席を確保することができた。学生の長期休暇と重ならない平日であったため、車内は空いている。彼女の手筈で予約された湖の近くにあるホテルは十五時からチェックインを受け付けている。僕たちはちょうどその時間を目指した。
座席は通路を隔てて彼女と彼女の妹が隣り合って座り、僕は二人から孤立した席の通路側に座って隣にはサラリーマンが涎を垂らしながら眠っている。
彼女の妹は窓に手をつきながらはしゃいでいた。その様子を微笑ましそうに眺める彼女の横顔が目に入った。彼女は自分の膝の上に鞄を置いており、その中から薬がいくつか覗いている。彼女の妹がまた痛みを訴えた時の処方薬もとい気休めだった。
しばらくすると、彼女の妹ははしゃぎつかれたのか眠ってしまった。彼女は仕方なさそうに自分の肩にのしかかる彼女の妹の頭を撫でた。彼女は僕と目が合うと、困ったように笑った。
目的の駅に到着すると、起こされた彼女の妹は眠い目をこすりながら彼女に手を引かれた状態で新幹線を降りた。僕はその後に続く。彼女の歩みには淀みがなく、おそらくは湖に行った時にホテルに泊まることが恒例だったのだろう。足取りが思い出を記憶しているようだった。
駅からさらにローカル線の各停電車に揺られた。1時間以上掛けて向かう電車の窓には田園風景が絶えず続いた。目的の駅に着いて改札をくぐると、余計なものが何もないような場所に出たものだと思わず辺りを見まわした。こんなところにホテルなんてあるのだろうか、というのが本音だった。
「ここ、田舎だけど湖を観光する人が多いから、湖の近くに立派なホテルがあるの。他の建物に比べて規模があまりに異質だから、違和感を持つと思う」
彼女はいつもよりも声のトーンを高くして言った。きっと、上機嫌なのだろう。彼女は逸る気持ちを抑えられないといった様子で歩き出した。そんな彼女を見て、僕も嬉しくなった。
……嬉しい? どうして彼女が嬉しいと、僕も嬉しくなるのだろう。他人の感情と自分の感情に相関関係はないはずだ。僕は自分がおかしなことを思ったものだと首を傾げた。
彼女の先導のもと、僕たちは20分ほど掛けて歩いた。途中、傾斜している丘の麓に辿り着いた。一面が草原になっている。僕は巨大な丘に圧倒されながら見惚れた。
「この丘を登って中央に例の湖があるの」
彼女も丘を見上げながら僕に言った。
「夜はすごいんだよ! 湖がね、空を切り抜いたみたいに星が綺麗なんだぁ」
彼女の妹は昔ここに訪れたときのことを思い出しながら、胸元に手をかざした。僕は想像のつかない光景を楽しみにすることにした。
駅から30分足らずでホテルに辿り着いた。彼女は部屋を二つ予約しており、当然一つは彼女と彼女の妹が共同で使い、もう一つは僕が単独で使用することになった。部屋に荷物を置き、今すぐに使うわけでもないクローゼットの中を無意味に開けてみたり、お風呂の中を確認したりと、部屋の散策を行った。窓に掛かったカーテンを両端に開くと、少し離れたところに丘が見えた。ホテルの7階からの景色であるため、広大な丘の全域が見えた。中央の湖を囲うように木が小さな森をつくって隣立している。湖は青空と雲を映していて、遠目から見ても驚くほど綺麗だった。彼女の妹が表現した通りまるで空を切り抜いたみたいで、丘の中央に落下してそのままにされてあるみたいだ。部屋の窓からの光景に見入っていると、部屋のドアがノックされた。
急いでドアを開けると、彼女が部屋の前にいた。
「様子を見に来たんだけど、私たちの部屋と違うところはあったりするかな」
彼女は僕の部屋に入り込んで辺りを見回した。
「特に違いはないみたいね」
「まぁ、同じホテルの部屋だからね」
彼女は全開になった窓に気付いた。窓に近付いて、丘を眺めた。しばらくしてこちらを振り返ると、彼女は僕に言った。
「綺麗でしょ」
僕は素直に頷いた。
「思った以上だった。夜が楽しみだよ」
「夜はカーテン開けちゃダメだよ。丘に登る前に見ちゃったら、もったいないから」
「肝に銘じるよ」
僕が言うと、彼女は笑った。
その後は何故か彼女と彼女の妹が僕の部屋に入り浸ってテレビを観始めた。彼女の妹は未だ僕を警戒しているようで、彼女の腕にしがみついた状態だった。僕が一人になろうと、カードキーを借りて代わりに彼女の部屋に入ってテレビを観ていると、しばらくして二人がこちらの部屋にやってきた。結局、その部屋で一緒になってテレビを観た。
夕食の時間になって食事処に向かった。ビュッフェ形式になっていて、空いている丸テーブルの席に腰掛けた。僕は人間の食事はもはや全く受け付けなくなってしまったため、二人がビュッフェに向かう間の席取り係に徹した。正直、この空間に漂う料理の臭いで気分が悪かった。それでも耐えていると、お盆いっぱいに料理をのせて二人が戻ってきた。
「ローストビーフ、三枚も取ってきちゃった。取りすぎかな?」
彼女は珍しく興奮した様子で言った。
「あ、ひなのもそれ食べたい!」
「あ、ビーフシチュー? 一緒に食べよう」
「君、ビーフばっかりじゃん」
「……うるさい」
僕の指摘に、彼女は少し顔を赤らめて睨んだ。けれど上機嫌が僕に味方したのか、さして気にすることもなく食事を始めた。二人は幸せそうに口を動かした。
それにしても、ビーフか。なんともおぞましい。こんなものを平気で食べることができる二人を見て正気なのだろうかと不思議に思った。けれど、つい半年前ほどには僕も好んで牛肉は食べていた。味を思い出すだけでも吐き気がした。形があるものを自分の身体に入れるというのは、もはや想像することさえタブーに感じられるほど、僕は人間の食事を受け付けなくなっていた。
夕食を済ませた後、僕は満足そうな二人の顔と一緒にホテルを出た。辺りは暗くなっており、田舎ということもあって空気が澄んでいるからか、夜空に瞬く星々が異常なまでにはっきりと視認できた。二人も夜空にご執心だった。
汗を掻きながら丘を登る。旅行シーズンでもない平日の夜が無人の静寂を辺りに散らしていた。彼女の妹は心細そうに彼女の手を握ったまま丘を登った。暗闇は、人間に本能的な恐怖心を与える。けれど、死神となった僕からすれば、昼間の明るさの方がよほど怖い。だからといって普段昼が怖いかと訊かれれば、そうでもない。人間も現代社会において普段から夜に恐怖することがないように、僕も昼に特別な怖さを見出しているわけではない。ただ、人間が改めて夜や暗闇について考えてみれば怖いと感じるのと似ている。死神の本能によって起こる感情なのだろうか。
きっと、人間が夜を怖がるのは闇に紛れて得体の知れない何かが潜んでいるのではないかと疑うからだ。一方で死神は、むしろ闇に紛れることで安寧を得ることができる存在であるため、光に照らされると落ち着かなくなる。自分が存在してはいけないことを自覚している分、浄玻璃の鏡に晒されるような罪悪感がどこからともなく湧いてきて、光に炙り出されたコンプレックスが自分の存在を否定してくる。本物の死神なら、開き直ってそんな葛藤など起こらないのだろうか。袋小路に迷い込んだ死神もどきの僕だけが持つ醜い劣等感なのだろうか。
「どうしたの? 難しい顔してるけど」
彼女が心配そうに僕の顔を覗きこんでいた。僕は至近距離に彼女の顔があったことに少したじろいで身を引いた。
「なんでもないよ」
かろうじてそう答えると、彼女は疑わしげに目を細めてから「そっか」と言った。
緩やかなのにもかかわらずそれなりに高度のある丘をのぼりきると、巨大な星空のドームに囲まれている錯覚を覚えた。プラネタリウムみたいに人工的につくられた光なんじゃないかと思えるほどはっきりと無数の星が四方八方に見えた。こんなにも空が近くに見えるのは初めてだった。
「……綺麗」
彼女は、掠れた声で呟いた。言葉にするつもりもなかったのに、意に反して思わずこぼしたものだろう。放心したように夜空を見上げていた。先程まではしゃいでいた彼女の妹も圧巻の星空に言葉を失った様子だった。口をあんぐりと開けたまま後頭部が背中にくっつくんじゃないかと思うほど、目が上空に捕らわれている。
しばらくして正気に戻った二人と本命の湖に向かった。木が茂る箇所を通過すると、丘の中央部分に無数の白い点が映っていた。最初、水中で大量のプランクトンが発光しているのかと思ったけれど、彼女の説明で星空を鏡みたいに映した湖であることが分かった。事前に鏡の湖のことを聞いていたにもかかわらず、僕は目の前に広がる光景が夜空を映したものだとまるで気が付かなかった。何故かこのまま湖の上を歩いても平気だと思えるほど、目前に広がる湖は美しい。
「正直、思っていた以上だよ」
「そうでしょ」
僕の素直な反応に、彼女は得意げに笑みを浮かべた。それから彼女は口角を徐々に下げて、湖を無表情で眺めた。
「吸い込まれそう」
彼女の言葉に、僕は頷いた。
「確かに、綺麗だもんね」
「そこに、思い出も映し出されたらいいのに」
彼女の言葉に僕は思わず振り返った。彼女の妹は何故か不安そうに彼女の手を握りながら、彼女の顔を見上げている。
「私を置いて行かないで、お姉ちゃん」
泣きそうになりながら、震えた声で彼女の妹が言った。彼女はハッとした様子でしゃがみこみ、彼女の妹の背丈に合わせて視線を合わせた。
「ごめんごめん。私が言った思い出の中には、ひなのもちゃんといるよ」
「……本当?」
「うん、本当」
彼女は笑顔を浮かべて彼女の妹の髪の毛をくしゃくしゃにした。彼女の妹は涙を流しながら笑った。そして、突然彼女に抱きついた。
「お姉ちゃん、怖い。死ぬのが怖い」
「…………ひなの」
「こんな綺麗な世界から消えなきゃいけないのは、私が汚いから?」
「そんなことない! 聞いて、ひなの。人は、死んだら星になるの」
「……星?」
彼女の妹が、彼女から少し顔を引いて見上げた。
「この空に広がっている星は、今まで亡くなった人たちが天国に帰った姿」
「……みんな、綺麗」
「ひなのも綺麗だから、ちゃんと星になれる。私も、ひなのの隣に浮かぶ星になるから」
「……お姉ちゃん」
二人は強く抱きしめ合った。僕は二人に近づいた。彼女の言葉を訂正するために。
「君は何を言ってるの? 人は死んだら、跡形もなく消える。無になるだけだよ」
僕の言葉に、二人は動きをぴたりと止めた。
氷漬けにされたみたいにしばらく静止していた二人だったけれど、やがて彼女の妹が取り乱すように泣き喚いた。すると、彼女が立ち上がって僕を睨んだ。
「あんた、どういうつもり?」
「いや、君の発言に間違いがあったから訂正しただけだよ」
「……なんで、わざわざ訂正なんか」
「特に日本では火葬が採用されているから、強いて言えば灰になる。残された骨もいずれ消滅する」
「……望むことすら、私たちには許されてないの? せめて常世では報われてほしいと願ったって、誰にも文句を言われる筋合いなんてない」
「…………それって、慰め合いってこと?」
乾いた音が、無駄に丘の上で響き渡った。続いて僕の左頬に遅発的に痛みがやってきた。僕は思わず手で頬を押さえた。
「…………サイッテー」
「……何か気に障ったなら謝るよ。僕はただ、夜空に浮かぶ星は恒星で、水素の原子核が互いに融合してヘリウム原子核を発生させる核融合反応を起こしているから人間とはまるで関係がないってことを伝えたかったんだ。人間は死ぬとただの死肉になるんだから」
「…………小鳥遊さんの話を聞いて、気を許した私が馬鹿だった。あんたって最低最悪ね」
僕は、彼女が口にした名前に心当たりがなかった。だから、彼女に訊いた。
「…………小鳥遊さんって、誰?」
彼女は心底驚いたように目を見開いた。彼女は怯えたようにこちらを見ながら言った。まるで、死神でも見たみたいな表情だった。
「……あんた、誰」
「オイラは、死神さ」
「……オイラ?」
彼女が怪訝そうに首を傾げた。その瞬間、記憶の隅に追いやられていた人間だった頃の情景が突然主張を始めた。
教室で静かに俯きながら授業を受ける少女。お弁当を一緒に食べる時だけ笑顔だった少女。ラーメンを食べて幸せそうな顔をする少女。ぎこちなく抱きついてきた少女。顔を赤らめた少女。僕は、彼女に何度も心を揺さぶられた。
……驚いた。僕は、小鳥遊さんのことを忘れていたのか。僕が死神になるきっかけとなった人物のことが分からなくなっていたのか。そのことに一切の疑問を持たずに、僕は目の前にいる二人の少女を傷つけていたのか。自分が先程口にした言葉の数々を思い出して血の気が引いた。僕が、僕じゃないみたいだった。ここにきて初めて、僕は自分の言動に違和感を覚えた。
「……ごめん。一人にしてほしい」
僕はなんとかそう言葉を振り絞ってホテルに戻った。二人を振り返ることはできなかった。
部屋に戻った僕は、ベッドに倒れ込んだ。一旦、何もかも思考を放棄してしまいたかった。僕は、現実逃避するために目を閉じた。頭の中がぐるぐると渦巻くようだった。
夢の中で気が付いた時には、僕は眠っていた。懐かしい夢だ。僕が死神になって間も無く、初めて人間と契約を交わした時の夢だった。
死神もどきとなった僕は、悲鳴をあげる胃を宥めるためにお腹をさすりながら街を彷徨った。耐え難い空腹は、死神が予言していた通り自害よりも欲求を満たすことを否が応でも優先させてくる。
心的な時間の経過感覚としてはとうに数日を超えているけれど、実際にはどれほどの時間が経ったのかは分からない。画面の中に一回り小さい画面が無限に続くドロステ効果みたいに果てしない道のりを歩く心境の中、死神になって初めて快楽を覚えた。
「このにおいは……」
余計に消化するように胃が鳴った。においの出処を探すために視線を辺りに彷徨わせた。においの根源に目が止まった時、僕は納得した。
少し向こうに病院があった。嗅いだことがないはずなのに死神の嗅覚が僕に知覚させたのか、そこで死のにおいが立ち込めているのが分かった。きっと、これが人間が朽ち果てた時に漂う腐敗臭なのだろうと直感的に分かった。けれど、不思議なことに不快感どころか愉悦に浸るほど甘美なにおいに感じられた。新鮮な刺身のように消費期限が切れる前の香りと表現すれば、僕はれっきとした死神だと批評されるだろう。
もはや生存本能を度外視した食欲が、枯渇状態の僕の体内にエネルギーを蔓延させた。僕の身体はこれから獲物にありつくことができることに期待しながら、餌を目前にぶら下げられた犬が舌を垂らすように貪欲な足取りで病院に向かった。
病院の受付を何食わぬ顔で通り過ぎ、においが漂ってくる階へと向かう。病室がいくつも並ぶ廊下を進むと、僕はある一室の前で足を止めた。そして、ドアを開いた。中にはお婆さんが一人、ベッドに横たわって眠っていた。僕はそこに向かって歩を進める。近づく度に死のにおいが増した。
ベッド傍に辿り着いた僕は、お婆さんの顔を覗き込んだ。静かに深い呼吸をしながら、安らかな顔で眠っている。顔の皮膚に縦横する皺が時折ピクリと動いた。
お婆さんから命を頂こうと決めた僕は、途端に視界がモノクロになったことに動揺した。お婆さんの脈打つ心臓だけが赤く、触れるとほつれた糸が一本心臓からのびてきた。同時に、僕の心臓からも赤い糸が一本宙を這うようにのびてきた。その光景を見て、契約者と命を共有するという死神の言葉を思い出した。直感的に、お互いの命の糸を結べば契約が完了することが理解できた。
僕は、今すぐにでもこの二本の糸を結んでしまいたかった。けれど、眠っているお婆さんの命を勝手に弄んではいけないという一縷の良心が呵責を起こした。僕はお婆さんの顔と、お婆さんの命の糸を交互に見ることに終始した。
いずれ耐えきれなくなって、思わずお婆さんの命の糸を握った。ゆっくりとそれを自分の糸に繋げようとすると、不意にお婆さんが目を覚ました。それからお婆さんはこちらに視線を寄越した。僕は驚いてしまって、お婆さんとしばらく目が合ったままの状態になった。
ようやくお婆さんが口を動かした時、僕は驚愕して思わず目を見開いた。
「死神様」
数枚重ねた薬包紙越しに届いたような掠れた声だったけれど、一音一音は何故かはっきりと耳に届いた。どうやらお婆さんは、僕の姿が死神に見えるらしい。
「あなたには僕が、死神に見えるんですか?」
僕の問いかけに、お婆さんは静かに頷いた。死神と相対しているというのに、お婆さんは依然として安らかな表情を揺るがせることがない。震えることのない皺が、何事にも狼狽えることのない年季を表しているように思えた。
「あなたの命を頂きにきました」
「……あぁ、そうでしたか。いよいよですか」
「命を頂戴したからといって、今すぐ命を落とすことはありません。あくまで、残りの寿命を共有させてもらうという話です」
「……半分、あなたに寿命を分け与えるということですか?」
「そうです」
僕が頷くと、お婆さんはしばらく何かを考え込んだ。それから、どういうわけか微笑むとこちらに顔を向けてお婆さんは言った。
「では、余生が半分になったことの引き換えに、話し相手ができたということですね」
「…………はい?」
「おや、命を取るだけ取って何処かにお行きになるのですか?」
「…………」
確かに、寿命を頂くのだから、残り期間で契約者の要望に応えるくらいのことはした方がいいかもしれない。
「あの、今更なんですけれど」
僕がお婆さんの突飛な言葉に動揺しながら訊くと、お婆さんは控えめに首を傾げた。
「死神を見ても怖くないんですか?」
「……なにぶん、私も生きていく中で色々なものを見てきましたから」
お婆さんの言葉から僕には到底理解できないような言語不要の得体の知れない経験譚が読み取れた。
僕は、僕とお婆さんの命の糸を互いに結んだ。その瞬間、信じられないほど贅沢に欲求が満たされる感覚が全身を伝った。この感覚を味わえるのなら、もう人間には戻らなくてもいいと思ってしまうほどだった。けれど、小鳥遊さんの顔が思い浮かんですぐに首を横に振った。僕が死神になったのは、復讐のためだ。目的を見失ってはいけない。
僕は顔を上げると、お婆さんに宣言した。
「これで契約完了です。あなたが亡くなる直前まで、僕はあなたの側で話し相手になります」
お婆さんはそう言う僕を見て今日初めて驚きの表情を見せた。
「……あなた、私の孫と同じくらいの男の子だったのね」
「…………孫?」
お婆さんの不可解な言葉に戸惑っていると、病室のドアがノックされた。そして、病室に医者が入って来た。医者と目が合うと、僕の存在に驚いて警戒するように少し身を引いた。けれどすぐに柔和な表情に戻して僕に言った。
「おや、芽白さんのお孫さん。部屋を移られていましたか」
「……はぁ」
「家族団欒に割り込んで申し訳ない。お婆様に話がありまして」
医者の発言が意味するところが理解できずにお婆さんに視線をやると、お婆さんと目が合った。お婆さんは何を思ったのか僕に頷くと、医者に言った。
「唯一、私を慕ってくれる可愛い孫なんですよ」
「それはそれは。随分と孝行者で」
医者の言葉にお婆さんは嬉しそうに笑った。
少し距離を置いた位置で医者とお婆さんのやり取りを眺めつつ、この病室で起きた出来事を思い返した。
どうやら、契約する瞬間には契約者から見た僕の風貌は死神らしい。その上、契約が完了すると契約者の認識が変更されて僕が人間に見えるようになり、さらに僕以外の人間からは、僕と契約者の間に相応の関係性が見えるようになるようだった。ただし、契約を済ませた人物だけは、僕が死神であることは覚えている。なんとも複雑な話だ。
しばらくして医者がお婆さんへの用を解消して病室を出て行った。病室から足音が遠ざかって行くのを確認した僕は、お婆さんに訊いた。
「僕は、あなたの孫なんですか」
「……という話になってるみたいだね」
「お婆さんは、僕の正体は覚えてるんですか?」
お婆さんは僕の質問に頷くことで返した。それから、お婆さんは言葉を続けた。
「さっきお医者さんが来た時、どうやらあなたも状況を理解していないようだったから、話を合わせたんだけどねぇ。もしかして、人間の命をもらうのは私が初めて?」
「……仰る通りです」
僕が絞り出すように答えると、お婆さんは僕の全身に視線を滑らせた。目を細めるお婆さんから感じる貫禄を思わせる鋭い観察眼に見定められているようで居心地悪く感じた。
「……えっと、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「おや、死神でもお手洗いに行くのね」
「……どうでしょうかね」
僕はお婆さんにそう言い残して病室を後にした。なんとなく、病室の中にいるのが気まずかった。全てを見透かされている気がした。それが耐えられなかった。僕の汚い過去が、見ず知らずの老人にバレてしまうことさえ嫌だった。
足早に病室から離れようと廊下を進んだ。一度病院から出ようと思って階を下り、受付の横を通り過ぎて外に出た。入り口から数歩して、僕は突然何かに弾き飛ばされた。思わず尻餅をついて前方に視線を戻したけれど、何もない。首を傾げつつお尻の砂埃を払いながら再び進もうとすると、またしても何かに全身が弾かれた。今度は構えていた分転ぶことはなかったけれど、見えないバリアが病院の中と外を隔てていることに絶望した。病院から脱出しようとすると、さながら体積の巨大な蒟蒻に体当たりしたような感触がある。
「命を共有しているから離れられない、といったところか」
思考を整理するために独り言を零し、僕はお婆さんのいる病室へと戻った。お婆さんは僕が病室に無断で入っていることを一切の抵抗なく許容しているようだった。死神はおろか、僕のことを医療従事者とでも思っているのではないかと錯覚するほど、お婆さんは落ち着いている。
「戻ってくるのに時間が掛かったね。一度病院を抜け出したんじゃないかと思うほど」
「……お見通しってわけですね」
「その様子だと、病院からは出られなかったようね」
お婆さんの推測に苦笑いすると、悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「何事も、最初は勝手が分からないものよ」
お婆さんはそう言うと、僕をベッドの側にある椅子に座るように促した。
「和菓子、食べない?」
ベッド傍にある台に、縁が内側に傾斜している木製の大きな茶碗みたいなボウルに大量の和菓子が敷き詰められていた。
「ありがとうございます」
僕は和菓子の一つを手に取った。正直、ご馳走は十分に堪能したからか、全くお腹が空いていなかった。それに加えて、何故か今までで一番、和菓子を目の前にして食欲がそそられなかった。それでも包み紙を剥いて和菓子を口に入れた。その瞬間、信じられないほどの不快感と吐き気が全身を駆け巡り、やがて口内に終着した。
「どうしたのかしら?」
お婆さんの言葉に反応する余裕もなく、僕は口元を押さえてトイレに駆け込んだ。トイレの個室に入り、便器に向かって盛大に嗚咽した。けれど、もはや人間ではなくなってしまった僕の身体からは、何も出てこなかった。しばらくえづいた後、水道水で口元を洗った。鏡に映った自分の顔から徐々に青さが引いていった。僕の顔は、人間以外の何者でもない。死神もどきにすらなれない半端者だった。お婆さんは、一体僕にどんな姿を重ねたのだろう。
体調がある程度回復してから病室に戻った。お婆さんは心配そうに僕に言った。
「大丈夫? ベッドで横になるといいわ」
「あ、いや、病人はお婆さんの方でしょ」
「少しの間だけよ。ほら、横になって」
「自分の命を弄ぶ死神を心配してどうするの。僕は大丈夫だから」
ベッドから降りようとするお婆さんを引き留めると、お婆さんは何故か感慨深そうに笑った。
「死神様に自分の体調を心配されるなんて、可笑しなものねぇ」
「…………そうだね」
お婆さんの言葉は何故か僕を責めてはくれない。その優しい言葉や眼差しがむしろ、僕の人としての心をピーラーで何回も削ってくるような痛みを蓄積させてくる。
お婆さんを見ると、仏のような顔で僕に微笑んだ。そして、ゆっくり口を開けて言った。
「あなた、彼女はいるの?」
「…………なんだって?」
「年頃なんだから、好きな人はいるんでしょう?」
「……突然どうしたの」
「孫とこういう話をするのが夢だったの。息子が孫には会わせてくれなくてねぇ。だから、今目の前にあなたが現れてくれて舞い上がってしまって」
お婆さんは楽しそうに笑った。
僕は、お婆さんの質問に答えた。
「彼女はいないよ。いたとしても、僕は身内には言わない」
「好きな人くらいいるでしょう」
「……いや、いない」
「今、間があった」
うふふふ、とお婆さんがしてやったりと言わんばかりの表情で小悪魔的に笑った。
「お婆さんくらいの年齢になっても、こういう話は好きなんだね」
「いくつになっても、人は人を愛することはやめられない」
「それは面倒だね」
「それが幸福でもある」
「…………じゃあ、今度はお婆さんの番」
「私?」
「お婆さんの恋愛話」
「あら、まぁ」
お婆さんは照れたように頬に手を添えた。
「こんなおいぼれの話なんて興味はないでしょう?」
「今の話じゃなくてもいいよ。昔の話とか」
「……そうだねぇ。もう五十年も前の話になってしまうんだけれど、王子様に恋をしたことがあるの」
「……王子様?」
「旦那さんのことよ」
「……随分とお熱い様子で」
「それはもう、あの人の格好良さと言ったら私に残された寿命ではとても語りきれないわ」
お婆さんは恍惚とした表情でそう言ってみせたけど、こちらからすれば後ろめたさ以外感じられない。僕は気まずい思いのままお婆さんの話に耳を傾けた。
「でも、どの時代ももったいないことをするもので、他人のためを想う良い人ほど早くに亡くなる世の中だった」
「…………それって」
僕がお婆さんの意味するところを察すると、お婆さんが神妙な顔で頷いた。
「戦争よ。私の亭主は、お国のために身体を張る兵士だった。自ら志願して行ったわ」
「……それが、正義だと思っていたんですね」
「事実、そうした正義を持った人たちがいなければ、日本はもっと悲惨な状況になっていたわ」
「……お婆さんは、どう思っていたんですか?」
「…………そうね。当時の日本に対してというより、あの人個人に向けて思っていたことはあったわ。たった一つだけ」
お婆さんは、こちらに顔を向けてはいるけれど、目の前に広がる病室の光景や僕の姿は視界に入っていないだろう。過去の思い出が染み込んだコンタクトレンズを目に馴染ませたみたいに、お婆さんの五感だけが当時にタイムリープしていた。
「死なないで。そのことだけ、願っていたわ」
お婆さんは涙を流すことなく微笑んだ。まるで、僕に夫の姿を重ねるように。
「あの人が戦争で亡くなるまで、文通はずっと続けてたのよ。今で言うとLINEっていうものかしら?」
「……文通なら、分かりますよ」
「あらあら、ごめんなさい。あ、そうだわ。あの人、手紙の中でびっくりするような事を書いていたのを思い出したわ。あなたを見ていたら」
「……どういうことですか?」
「あの人、戦場であだ名がつけられていたそうなの。味方にも、敵国にも」
お婆さんは口元を押さえながら控えめに言った。
「死神」
僕が驚いた表情を浮かべると、お婆さんは満足そうに口角を上げた。
「どの戦場に赴いても、死なないし敵の兵士たちは屠るしで、自他共に死神という称号を掲げてたそうなの。敵からすれば一番相手にしたくなくて、仲間を惨殺した憎い人物だったでしょうね」
「……そうでしょうね」
「でも、私は彼のことを愛していたわ」
お婆さんは物腰の柔らかい表情の中に、芯の通った鋭い眼光を覗かせた。僕は自分の身が強張るのが分かった。
「日本の人口よりも多い数の人々から嫌われていても、私は彼のことを愛していた。彼が人の命をどれほど奪ったかは知っているわ。でも、私には彼が必要だった」
一度そこで言葉を区切ると、お婆さんは首を少し傾けて僕に言った。
「あなただって、死神だからといって全員から拒絶されるわけじゃないわ。きっと、あなたのことを慕ってくれる人がいるはずよ。あなたは素敵な人よ」
お婆さんは目を糸みたいに細くして微笑んだ。頬の皺が柔らかくしなる。その様子を見た僕の視界は、やがて濁っていった。
「……ありがとう」
「うふふ、良い子ね」
お婆さんは僕の頭に手を伸ばしてきた。けれど一度僕の頭上に届かない位置で手を止めた。それから何かを確かめるようにゆっくりと僕の頭に到達した年季のある手が、優しく頭を撫でてきた。
僕とお婆さんの奇妙な関係はそれからも続いた。死神として対象者と契約したことで、両者が常に一緒にいることに整合性を持たせるために世界が采配してくれたことにも気がついた。死神といえども睡眠は必要らしく、お婆さんとの契約によって病院から出られないことから睡眠を取るときにどうすればいいのか初日に危惧していたけれど、後の看護師さんからの言葉で自分も祖母と同じこの病院の患者であることが発覚したのだ。
また、僕はお婆さんから栄養分を分けてもらっているからか、一切の食事を必要とすることがなかった。むしろ、看護師がお婆さん宛に運んでくる食事を見て吐き気を催すほどだった。そして、僕の病室には食事が運ばれてくることは一切なく、興味本位でそのことについて複数の看護師さんに訊いたところ、誰もが「もう食べましたよね?」という回答を返してきた。これも世界が僕とお婆さんの関係を肯定するために施した調整なのだろう。
僕とお婆さんが知り合ってから二ヶ月が過ぎた頃、お婆さんは医者から外出許可をもらった。僕も同様に外出許可を取り、お婆さんと出掛けることになった。
お婆さんは白い杖をつきながら、病院の外に出た。僕もお婆さんと足並みを揃えて病院の敷地外に出た。どうやら、病院という領域に囚われていたわけではなく、お婆さんから離れられないという制約が掛かっていたらしかった。
お婆さんはゆっくりとした足取りで道の端に立つブロック塀に手をつきながら、杖を支えに歩いた。途中、ブロック塀沿いに並ぶ電柱にぶつかりそうになったお婆さんの動きを慌てて止めた。
「ごめんねぇ」
お婆さんは申し訳なさそうに自分の隣を見上げた。けれど、僕は背後からお婆さんの背中を支えていた。だから、お婆さんが何もない自分の真横を見上げているのは不自然だった。
そこで初めて、僕は思い出した。白い杖は、盲目の人が使う杖である。昔読んだ本にそのことが書かれてあった。
「お婆さん、目が見えないんですか?」
僕が訊くと、お婆さんは声が聞こえるのが後ろだと分かって振り向いた。
「おや、気づいてしまったのね。えぇ、もう十年以上は真っ暗な世界で生きているわ」
「……どうして言わなかったの」
「そうねぇ。目が見えないから、誰か一緒について来てくれる人がずっとほしかったの。ようやくあなたが現れてくれたというのに、目が見えないことがバレたら面倒に思われるんじゃないかと怖かったの。きっと今が、私があの人に会える最後の機会だから、それを無碍にするわけにはいかなかった」
初めて見せるお婆さんの弱さに僕は胸が痛くなった。お婆さんにとって、自分がこの世界から消える前に亡くなった夫に会いに行くことができなくなることは、何よりの恐怖なのだろう。きっと、死神に自分の命が取られることよりも。
僕は、杖を持っていない方のお婆さんの手を握った。
「誘導するから、お婆さんは道案内して」
お婆さんは僕の言葉に驚いた様子だった。けれど、静かに微笑んで頷いた。
「ありがとう。あなたは優しい子ね」
「お婆さんは意外と小心者なんだね」
お婆さんは僕の言葉に笑った。
お婆さんの手を握りながら、僕はお婆さんの指示に従いながら目的地を目指した。途中で駅に入り、それから特急で隣町に向かった。
特急電車に揺られながら、僕はお婆さんと二人掛けの席に隣り合って座った。お手洗いに行く欲求を失った僕が窓側の席に座ってお婆さんと話しつつ、時折窓の外をぼんやりと眺めるのを繰り返した。
「私は自分の家族や親戚とはもう随分と長い間会っていなくてねぇ。特に息子のことが心配でならないわ。あの子、根は優しいのだけど精神的に弱っちいのよ。佐知子さんが先立ってから、あの子はすっかり衰弱してしまった」
お婆さんはため息を吐きながら顔をしかめた。
「あの子が子どもを授かって、ようやく待望の孫と余生を過ごせると心踊らせたのだけれど、とうとう一度しか会わずじまいね」
お婆さんはそこまで話して、ハッとしたように僕の方を振り返った。
「ごめんなさい、ついつい愚痴を零してしまったわ。恥ずかしい限りよ」
お婆さんは不本意そうに手を顔の前で煽いだ。
「二人の孫がいるのだけど、上の子はあなたと同じくらいじゃないかしら。二人とも女の子だから、よかったらどちらかあなたの伴侶にしてくれないかしら?」
「……遠慮しておきます」
「うふふ。私はあなたに長く生きてほしいと思ってはいるけれど、この二人と契約を交わすのはどうかやめてちょうだいね」
お婆さんは冗談っぽく笑った。
お婆さんは久しぶりの外出に疲れたのか、しばらくしたら眠ってしまった。手持ち無沙汰になった僕は、目的の駅に着くまでの間、窓の外を眺めることに終始した。
お婆さんが口にしていた駅名のアナウンスが流れると、それまで眠っていたお婆さんが静かに目を開いた。聞き馴染みのある駅名が無意識領域まで届いたのだろう。特急電車が駅に到着する前に、お婆さんはそれまで木にぴったりとくっついていた蛹から脱皮するように杖をつきながらむっくりと立ち上がった。
僕はお婆さんの手をとりながら電車を降りた。
そこから、お婆さんの誘導に従って目的地を目指した。駅から二十分ほど歩くと、墓地が現れた。お婆さんは墓地の中に入ると鼻腔に集中するように深く息を吸い、感極まった様子で目を潤わせた。
何も誘導せずとも、ある墓石の前でお婆さんは立ち止まった。
「あなた。会いに来ました」
お婆さんはそう言うと手を合わせて目を瞑り、顔を下に向けた。他人には聞こえない程の声で、お婆さんは何か呟いた。僕は隣でお婆さんの様子をただ見守るしかなかった。しばらくお婆さんが墓石の前で静止しているのを眺めていると、名残惜しそうに手をおろすのが目に入った。
お婆さんは墓石の前で頭を下げると、僕の方に近づいて来た。すると、満足そうに微笑みながら言った。
「行きましょうか」
「もういいの?」
「えぇ。あの人に伝えたいことはもう伝えましたから」
「……そっか」
僕は再びお婆さんに手を貸しながら駅まで向かった。帰りの電車の中では、行きの電車よりもお互いの口数は少なかった。特に、お婆さんはほとんど口を開くことはなかった。行きに比べて疲れてしまったのか、あるいは大切な人に会いに行くことで生じる落ち着かなさを紛らわせる必要がなくなったからか。いずれにせよ、憑き物が取れたように穏やかだった。
「お婆さん」
僕が呼びかけると、通路側の席に座るお婆さんがゆっくりとこちらに顔を向けた。
「どうしてあの時、僕が死神だって分かったの?」
「…………」
「お婆さんは目が見えないはずなのに」
「……あなたが私の病室にやって来る前、あの人の夢を見ていたの」
「……旦那さんの夢」
僕が言うと、お婆さんは頷いた。
「あの人ったらいつもみたいに冗談ばっかり言って。自分を死神だと揶揄したの。だから、私はあの人の言葉を復唱した。その時に目が覚めて、只ならぬ気配を感じた。目の前に、あなたがいたのよ」
お婆さんは可笑しそうに笑った。
「そしたら、あなたが自分のことを本当に死神だなんて言うんだもの、年寄りを揶揄いたい人が私の病室に忍び込んだんだわって思った」
お婆さんは当時のことを思い出したのか「うふふ」と声を上げて笑った。
「命の契約をするなんて話になったから、私は誰か見知らぬ人に殺されてしまうのねって思った。でもね、あの人が夢に出てきたのはこれが理由だったんだって思うようにしたの。あの人のお告げ。だから、全然怖くなかった。心の中であの人に呟いたもの。もうすぐ会えます、って」
僕は、穏やかな表情でそう話すお婆さんから思わず顔を逸らした。
「でも、あなたのいう契約が結ばれた時から、先の命が本当に短くなったんだって自覚したわ。自分の身体のことだから分かるの。そうしたら、あなたから悍ましい雰囲気が消えた。それと同時に気が付いた。あぁ、この子は元々普通の子で、魅入られてしまったんだって」
「……魅入られたっていうのは、死神に?」
「おそらくだけれど。契約した後は、優しい雰囲気の男の子の気配しかしなかったから、話し相手ができた! って素直に喜んじゃったわ」
「……あの言葉は本当だったんだ」
僕が呆れながら笑うと、お婆さんは「もちろんよ」と嬉しそうに言った。
「あなたのおかげで、とても楽しい余生が過ごせたわ」
お婆さんは僕の手に自分の手を重ねると、見えていないはずの目で真っ直ぐとこちらを見つめながら言った。
「ありがとう」
その言葉で僕は、お婆さんを直視できなくなった。
「ごめんなさい」
「……どうしたのかしら?」
お婆さんは困惑した声で言った。
「お婆さんの残り少ない命を奪ってしまって、ごめんなさい」
「……何言ってるのよ。ほら、顔を上げて」
お婆さんの言葉に従った僕は、涙や鼻水を垂れ流したまま懺悔した。お婆さんは仕方がないといった様子で僕の頭を撫でた。車内を行き交う人たちに奇異な目で見られたけど、そんなことが気にならないくらいに僕は謝った。
「もう、誰の命も取らない。約束する。こんなことじゃ、お婆さんの時間は取り戻せないけど、約束するから!」
「…………」
「最低だ、僕。お婆さんに長生きして欲しいって思っちゃったんだ。こんなこと、思うことも言うことも許されないのに」
お婆さんは僕の頭を撫でながら、優しい声音で僕に言った。
「…………ありがとね。謝る必要なんてないわ。でも、これだけはどうか約束してちょうだい」
お婆さんは真剣な表情で僕に言った。
「どうか、生きて」
「…………」
「あなたが生きることを、私が肯定する。あなたが誰かの命を頂きながら生き続けることを、私が許可するわ。文句を言われたら、私が全て責任を請け負うから」
お婆さんはそう言うと、僕を抱きしめた。僕は恥ずかしげもなく泣き喚いた。
後ほど、僕たちは車掌さんから軽くお叱りを受けた後、無事に駅にたどり着いた。病院に戻ってから、僕とお婆さんはまた他愛のない話をした。
それから一ヶ月後、お婆さんは息を引き取った。朝目を覚ましてからお婆さんの病室に向かうと、医者がお婆さんの胸元に聴診器を当てていた。それから、時刻を口にすると手を合わせた。こちらを振り返った医者は、深刻そうな顔をして僕に言った。
「残念ながら、お婆さんは」
「…………はい」
「最期の挨拶をしてあげてください」
医者はお婆さんが眠るベッドから離れて僕に譲ってくれた。僕は会釈をしてからお婆さんの側に向かった。
お婆さんの表情は安らかだった。触れずとも、白くなった肌は氷のように冷たくなっていることが窺えた。僕は、恐る恐るお婆さんの頬に触れた。その瞬間、お婆さんは突然灰になった。微塵も意図せずベッドの上が灰まみれになったことがあまりにも現実離れしていたため、僕はしばらく立ち尽くした。耳鳴りがするほどの静寂を破ったのは、医者だった。
「これは、一体……」
医者もお婆さんが灰になった瞬間を目撃していたらしく、医者だけでなくこの病室にいる全員が言葉を失って立ち尽くしていた。
しばらくの静寂の後、医者が正気を取り戻したみたいにハッとした。それから僕の肩を叩いてきた。僕の背後にいる医者を振り返ると、医者が奇妙そうに言った。
「あなたは、誰かね」
医者の言葉で全てを悟った。僕は、お婆さんの側にいる理由がなくなったのだ。急速に空腹が主張し始めて、僕の胃の中を台風みたいに渦巻き出した。
僕は医者の言葉に反応することなく、お腹を抱えながら病院を飛び出した。訳も分からずに無我夢中で走り続けた。もう僕を制約するものはなくなったため、病院からは容易に離れられた。信じられないほどの空腹に苛まれながら、僕はいよいよ潮時だと思った。
「消えてしまおう」
お婆さんの冷たくなった顔が思い出されると同時に、挙句の果てにお婆さんに触れたことで灰にしてしまった光景が脳裏に焼き付いて離れない。こんな得体の知れない存在はこの世に存在すべきではない。僕は道の真ん中で膝をついた。涙が止まらなかった。
僕は、人格者であるお婆さんの寿命を半分にした。僕なんかが、お婆さんの僅かではあるものの想像を絶する価値のある未来を奪ってしまった。安易にお婆さんと契約を交わしてしまった。よりによって、どうしてあんなにも良い人を引き当ててしまったのだろう。もしかすると、僕がお婆さんに触れたことで、天国へ進むはずだったお婆さんの魂を地獄へと引きずり落としてしまったのではないだろうか。
「どうか、生きて」
不意にお婆さんの言葉が過った。
お婆さんは、僕が生き続けることが恩返しとでも言うのだろうか。死神がこの世界に蔓延ることを許容するつもりなのだろうか。ともすればお婆さんの夫も、本物の死神に連れ去られてしまったのではないのだろうか。自分をあんな姿にしてしまったことさえも受け入れてしまうのだろうか。死神が、憎くはないのだろうか。
もう、訊きたい相手であるお婆さんはどこにもいない。お婆さんが生きていたとしても、僕はこんな質問はできなかっただろう。死神のくせに、最期を看取ることさえできなかった。そのことが、ただただ愚かだった。なんて間抜けな死神なんだろう。いや、死神にすらなり損なった死神もどきだ。
「分かったよ、お婆さん。もう少しだけ、生きてみるよ。誰かを犠牲にしてしまうけれど、あなたに生きて欲しいと思ってもらえたのなら、もう一度だけ」
僕は、お腹を空かせたまま、街を彷徨った。今度は、契約者に情を持たないことを誓いながら。滑稽なことに、自ら死が近い人間のもとに向かい、自ら対象者の寿命を半減させているにもかかわらず、僕は相手が死ねばこうやって絶望する。全くもって、無意味なことだ。
だから僕はもう、誰のことも愛することのない死神になることに決めた。本物の死神になれたらどれほど楽だろうか、と独り言を胸中で呟きながら。
何かを叩くようなくぐもった音が耳に届いて目を覚ました。すぐにまた同じ音が耳に届き、誰かがドアをノックする音だと気が付いた。随分と濃密な夢を見た。目尻に違和感を覚えて指を当てると、水滴がついた。勢いよく目元を擦って、僕はベッドから降りた。
ドアの鍵を外すと、廊下に彼女が立っていた。最初彼女は俯いていたけど、泣き腫らしたみたいに赤くなった目で僕を見上げた。
「……どうしたの」
「……様子が変だったから、確認しに来た」
「……どちらかというと、今は君の様子の方が変だけどね」
「…………」
「とりあえず、入りなよ」
僕が言うと、彼女は素直に従って部屋に入って来た。彼女は長方形を成すベッドの短い辺の縁に腰掛けた。僕は彼女の隣に座った。
しばらく沈黙が走って気まずい思いでいると、彼女が不意に口を開いた。
「さっきは、ごめんなさい」
「……え?」
「叩いた」
「……あれは、僕が悪かったから。どうかしてたよ。ごめん」
彼女は僕に一瞥をくれてからすぐに視線を逸らし、頷いた。それからまた沈黙が続いた。僕はただ、彼女が話し始めるのを待った。どう声を掛けたらいいのかも、どうして彼女がしおらしくなっているのかも見当がつかなかったからだ。
おそらく十分くらいお互いに何も話さなかった。いよいよ僕が何か言うべきかと思っていると、彼女の方が沈黙を破った。
「嫌な夢見た」
「…………夢?」
「お父さんが家から出て行った時の夢」
彼女は唇を噛みながら言った。
「ねぇ、なんでひなのなんだろう」
「……え?」
「なんでひなのが死なきゃいけないの? なんで私じゃなくて、ひなのが病気にならなきゃいけないの? あんなにも良い子なのに。汚い私の方が、よっぽど死んだ方がいいのに」
彼女は両手で顔を覆って泣き出した。
「私、最低だ」
今まで抑圧してきた感情を一気に爆発させるように彼女は声を上げて泣いている。震える彼女の背中に、僕は手を置いた。
「どんな夢を見たの?」
「…………昔の記憶だった。お父さんがある夜に、ひなのを捨てて自分について来いって言ってきた。あの時、行かないって言わなければ、幸せだったのかなって。もしあの時、振り返った時にひなのの寝顔が目に入ってこなかったら、私は幸せな人生を送れてたのかなって、そんなことを思ってしまった」
彼女は呼吸を乱していた。僕は背中をさすり続けて、彼女に深呼吸するように言った。彼女は声の混じった上擦った呼吸を繰り返した。肩を上下させる幅が徐々に小さくなっていき、最後に深く息を吐いた。
「昔、ひなのと一緒に生きる選択をした自分は間違ってなかった。それは、断言できる。でも、自分を許せなかったのは、自分の耳に届いた『あの時、お父さんについて行ってたら』っていう言葉が、今の自分の声だった。それって、無意識のうちに私がひなののことを責めてるってことだと思った」
彼女は諦観したように「最低だよね、私」と含み笑いをした。彼女は僕の胸元に頭を預けてきた。僕は内心、動揺した。
「なんか、あんたにはよくこういう話しちゃうね」
「……こういう話?」
「なんとなく、同じではないにしろ境遇が似ている気がしてるのかも。誰かに対する後悔があるところも、語弊を恐れずに言うと結局は報われなかったところも。本当に性格悪いこと言うけど、恵まれてる周りはいいねっていつも思ってた。本当につらい人の気持ちなんか知らないだろうし、知ろうとも思わないほど恵まれていていいねって独りよがりな僻みを持ってた」
彼女は自嘲するように笑った。
「私、死神の才能あるかも」
「……どうかな。君は死神になるには惜しいくらいに人格者だと思ってるよ」
「どこがよ」
彼女は思わず、といった要領で笑った。
「僕が隣にいることを許してくれている時点で、君は死神にはなれないよ。死神になるには、君が思っている以上にもっと世界から嫌悪される存在である必要がある」
僕は彼女の頭を撫でた。彼女は少し面喰らったように口を開いた。僕は、彼女の額にキスをした。
「君が星になったらきっと、驚くほど綺麗なんだろうね」
「な、なにそれ。急になんなの」
彼女は慌てながら立ち上がった。彼女を見上げたまま僕は言った。
「残念ながら僕は、星じゃなくて灰になる存在なんだ。死神になってみて、僕は自分の身体が全くの別物に変化した自覚がある。宇宙に存在する物質は、人間の身体を構成する成分を含んでいる。でも、死神はその物理法則から外れてしまっている。存在するはずのない、存在が許されていない禁忌。星になる素質がない。それが、死神だよ」
僕が捲し立てると、彼女は何かを言おうとした。けれど、思いとどまったのか言葉を呑み込んだ。
「さっき、死神に支配されて分かった。本当の闇を理解した。そんな闇を君は拒否した。大丈夫。君は光を望む良い人だよ」
「……ありがと」
彼女は何故か不機嫌そうな声で言った。
「何か気に障った?」
「…………色々ひどいことは言ったけど、あんたのこと、良い人だって思ってるよ」
「……それは意外だね。寿命も半分もらってるのに」
「言われてみれば。前言撤回しようかな」
彼女は、そう言って笑った。先程までの自嘲を混ぜた笑いなんかじゃなくて、自然と現れた笑顔に思えた。
「なんで笑ってるの?」
「……僕、笑ってた?」
「笑ってたよ」
「君が笑ってたからかもね」
「……どういう意味?」
「さぁ」
彼女は「なにそれ」と言いながら僕に尋問してきた。けれど、僕は確固たる意志で口を割らなかった。
それからしばらく他愛の話が続いた。その会話の中で、彼女はふとこんな話をした。
「私、死んだらあの湖に骨を撒いてほしいな」
カーテンを開け放った窓越しの湖を見ながらの言葉だった。僕は思わず彼女の横顔を凝視した。しばらく彼女がぼんやりと外を眺めている様子を見守っていると、突然こちらを振り返った。僕は思わず上体を逸らした。
「頼んじゃおっかな」
悪戯っ子のような笑みをこちらに向けながら、彼女は上目遣いで僕の表情を窺った。
「……僕がそんな大役を背負っていいの?」
「いいの」
「君の命を奪う相手だよ」
「だから、その償いとして、引き受けてよ」
「……検討しておく」
彼女は僕の言葉に満足そうに頷いた。彼女が何を思っているのかは、分からなかった。
それから、僕たちがどうしたのかは全く記憶にない。気が付くと、カーテンが開け放たれているのをいいことに、太陽光が得意げにベッドの表面に光の水溜りをつくっていた。
思わず唸りながら寝返りをうつと、目の前に彼女の寝顔があった。声こそ出さなかったものの、勢いよくベッドから飛び降りた拍子に彼女が目を覚ました。髪を跳ねさせながら眩しそうに欠伸をした。口元をもごもごさせた後、僕と目が合った。細められていた目が徐々に見開かれ、驚愕に満ちた眼球が今の状況を把握し出した。
「うわっ」
彼女は頭を抱えて叫んだ。
「え、どうして。やだ、私……」
彼女は狼狽えながら独り言を呟いた後、再び僕と目が合うと急速に顔を赤くした。枕を手にして顔を隠した。それから顔の半分だけ覗かせて気まずそうに口を開いた。
「ごめん」
「……ぷっ、あはははは」
「……え、どうしたの?」
彼女は僕が突然笑い出したことに戸惑っている様子だった。無理もない。ただ、いつもしっかりしようとしている彼女が、こんなポンコツな姿を見せてくれたことが可笑しくて、嬉しかった。
……どうやら僕は、彼女が嬉しいと自分も嬉しくなるようだった。
恥ずかしがる彼女をドアまで送った。ドアを開けると、目の前の廊下に彼女の妹が立っていた。
「そこで死神さんと何してたの?」
僕も彼女も予期せぬ事態に固まった。
彼女はなんとか彼女の妹に説明し、お互いの部屋に戻って各々帰る支度をした。ホテルをチェックアウトし、ローカル線と新幹線を乗り継いで地元に戻った。幸い、彼女の妹が骨肉腫の痛みを訴えることはなかった。
ただし、旅行を終えてから一週間が経つと彼女の妹の容態が悪化した。いよいよ、彼女の妹は自分の命の灯火を守ることが難しくなったようだった。僕が二人と初めて接触した時点で、彼女の妹の余命は少なくとも半年以下だった。そこに契約が加わったことで、寿命はさらに半分になった。つまり、彼女の妹の余命は最大で3ヶ月ということになり、残された時間はあと僅かだ。
彼女は、そんな状態に置かれた彼女の妹の見舞いを毎日続けた。一日中、彼女の妹の側についた。
全てとは言わずとも、自分がいよいよ本当に人の命を奪っていることを実感し始めた。僕も彼女と共に彼女の妹のお見舞いをするけれど、一体二人はどういう思いを抱いているのだろう。
僕は今更になって、恐ろしく図々しい感情が湧いてくるようになってしまった。我ながらほとほと嫌気が差してしまう。
「二人とも、生きてほしい」
死神にも人間にもなりきれない半端者の愚かな願いだけれど、切実なものだということは疑わないでほしい。万人から笑われたって構わない。
それでも、僕は願わずにはいられない。