「神木くんって、優しいよね」
「……え?」
「私なんかと関わったら、自分までいじめの対象にされちゃうかもしれないのに」
 クラスメイトの小鳥遊さんは、どこか自嘲するように笑みを浮かべてそう言った。僕は何故か見透かされたような気持ちになった。だから、言い訳するように早口で彼女に言った。
「小鳥遊さんと話すの、僕は好きだよ」
「……そう言ってくれるのは、神木くんだけだな。ううん、そもそも、私とこうやって話をしてくれる人は、神木くんしかいない」
「……そんなこと」
 お昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。彼女はその音を合図に、まるでクラス内での自分の役割を理解しているような素振りで俯いた。彼女は僕の隣の席に座り、ただじっと机の上を眺めることに終始していた。
 彼女はこのクラスの全員から無視され、クラスの中心人物たちに直接的ないじめを受けている。特に、クラスのリーダー的な存在である日比谷が筆頭となって彼女に目もあてられないような仕打ちをする。
 僕は唯一、クラスメイトでありながら彼女と口をきいていた。どうして口をきいてるのかというと、いじめを見て見ぬふりするのはいじめているのと同義であり、いじめに加担していないと胸を張るためには自らいじめの対象となっている人物に話しかけるべきだという強迫観念に駆られているからだ。その割には、自分が次のいじめの標的にされることを恐れて担任にいじめの告発をすることもなければ、リーダー格である日比谷にくってかかることもしていない。つまりは自分が周りと同じ卑怯者であるというレッテルを貼られたくないがために、偽善的に彼女と会話しているだけなのであった。
授業中は教師の目があるため彼女にとっては安寧の時間ではあるけど、休み時間、特にお昼休みに関しては地獄を極める。だから僕は、彼女が最も苦痛を感じるであろうお昼休みになると声を掛けて一緒にお昼ご飯を食べる。元から一緒にご飯を食べる友人もいなかった僕には、失うものがなかったのだ。
 彼女はそんな浅はかな僕を優しいと評価する。僕はこれがいつも自分の卑怯で醜い性格を直視させられるような心持ちになって落ち着かなくなる。彼女はおそらく、僕のそんな心理に気付いているだろう。いつも見透かされたような気分になる。ただ、幸いにも僕がいじめの標的にされたことは今まで一度もなく、そのおかげで彼女は僕と話している間はいじめられることがない。
 その日、僕は彼女と下校した。いつも一緒に帰ることはなかったのだけれど、その日ばかりは彼女の方から僕に声を掛けてきたのだった。急ぎの用事があるわけでもなかった僕は、特に深く考えるわけでもなく頷いた。
 学校を出るまでの間、僕は日比谷やその取り巻きの姿がないか逐一確認しながら彼女と歩いていた。どうして日比谷のことを気にしているかというと、これほどまで彼女と行動を共にしている姿を見られてしまえば、僕も巻き添えになる可能性があったからだ。最悪の場合、今度は僕がターゲットにされるかもしれない。つまり、僕はやっぱり世間からの体裁を気にして彼女と一緒にいるだけの中途半端な卑怯者だというわけだ。
 そんな僕の黒い感情を察する素振りを見せない彼女は、僕の隣でこんなことを言い出した。
「ねぇ、なんかご飯食べて帰らない?」
「……なんで」
「え、クラスメイトと一緒にご飯食べるのってそんなに変?」
「いや、そうじゃなくて、どうして今になってそんな提案をするんだろうと思って」
「……さぁ、どうしてでしょう」
 正直、彼女からの申し出を拒否したかった。何故なら、これ以上彼女と交流を深めて情が湧いてしまったら、彼女の隣にいることで自分が悪人ではないという自己陶酔に浸ることに対して更なる罪悪感を抱くようになってしまうからだ。元はその自己陶酔に浸るために彼女に偽善的な心理で話しかけたわけだけど、それが今となっては重石となって僕の心にのしかかるようになってしまった。最低な話、最初から話しかけなければこんなことにはならなかったとさえ思ってしまっている。
「……分かった」
「え、本当に? やったぁ」
 彼女は胸の前で握りこぶしをつくった。彼女がこんなに陽気な仕草をするなんて、一体僕以外の誰が知っているのだろう。いじめに正当な理由なんて一切ないけれど、あえていうなら彼女にいじめられるような理由が全く見当たらない。周りよりも比較的彼女と話す僕の目線から見ても、彼女は良い子だった。だからきっと、日比谷の気まぐれで彼女はターゲットにされてしまったのだろう。日比谷の顔が思い浮かんで憤りを覚えたけれど、僕には立ち向かう勇気がなかった。そんな自分が日比谷以上に腹立たしい。
「ねぇねぇ、美味しいところ知ってるんだけど、そこに行かない?」
「うん、任せるよ。お腹が満たせれば、それでいい」
「楽しみにしててね」
 彼女は僕に微笑んだ。
 考えてみれば、誰かとこうやって学校帰りに一緒に行動するなんてことは、久しくしていなかった。それ以前に、僕には彼女以外の話し相手は家族しかいない。いじめられている彼女に話しかけた僕は、彼女に話しかける以前まで話し相手がいなかった。つまり、友人という存在がまるでいなかったのだ。だからなのだろう。僕は今、こうやって誰かと放課後に遊んでいることを素直に楽しいと思っている。
 彼女と他愛のない話をしながらたどり着いたのは、家系ラーメンのお店だった。店内から漂う良い匂いにお腹が鳴った。
「……まさか、ここ?」
「あ、ごめん。ラーメン嫌いだった? それとも、家系アンチだったりする?」
「いや、イメージと違ったお店に案内されたなって思っただけ。ラーメンは僕の好物だよ」
「あ、そっか。良かった」
 彼女は胸元に手を添えて胸を撫でおろすと、「入ろっか」と店内の横開きのドアを開いた。
「「「いらっしゃいやせー」」」
 店員さんの溌剌とした声に歓迎されながら、僕は早々にカウンター席を陣取った。僕はてっきりスイーツのお店にでも連れて行かれるのかと思っていたため、口の中に広がった甘い味を払拭するためにメニューを探した。けれど、メニュー表がなかった。辺りを見回していると、肩を叩かれた。振り返ると、彼女が可笑しそうに笑っていた。
「食券スタイルだよ、ここ」
「……そうだったんだ」
 赤っ恥を掻きながら席を立って、食券機の前で彼女と隣り合って並んだ。何がおすすめなのか知らないため、彼女が注文するのと同じものを頼むことにした。彼女が食券を買うのを待っていると、彼女は僕の思考を察したようで、こちらを振り返って言った。
「あ、私と同じのにするつもりなのかな? それなら、定番のやつにしようっと」
 彼女はラーメンと煮卵、そして白ご飯の食券を購入した。彼女は振り返ると、「神木くんって結構食べれる人?」と訊いてきた。
「え、どうして?」
「白ご飯があると美味しい食べ方ができるんだよ。余裕があるなら是非試してみてほしい」
「うん、こう見えて食は太い方だと思うよ」
「やった。決まりだね」
 彼女は食券機にお札を投入しようとした。僕はそれを慌てて阻止した。
「え、まだ注文するの?」
「え? いや、神木くんの分を買おうとして」
「いや、自分の分は自分で払うよ」
「でも、私がここに連れて来たよ?」
「それとこれとは別だよ。ほら、お金に困ってるわけじゃないから」
 僕は財布の中身を彼女に見せた。彼女は納得がいったのかいっていないのか微妙な様子で頷いた。
 結局、僕は彼女と全く同じメニューにすることにして、食券を三枚買った。カウンター席に彼女と隣り合って座ると、店員さんが早々に食券を回収してくれた。待っている間、僕と彼女はそわそわとラーメンの登場を待ちわびた。先ほどから良い匂いがして、胃が先走ってお腹を何度も鳴らした。
 彼女は店内をぐるりと見回した。それから、コップの水を飲み干した後、「そういえば」と言って僕に訊いた。
「さっきこのお店の前に来たとき、なんだか意外そうだったけど、あれは何だったの?」
「え? あ、いや、女の子が行くのってスイーツを取り扱っているお店ってイメージが勝手にあって。これは完全に僕の偏見だけど」
「……神木くんは、スイーツが好きな女の子がいいの?」
 彼女が急にしおらしい声を出したため、僕は少し焦って彼女を振り返った。彼女はどこか不安げな表情を浮かべている。
「いや、食の好みで人を判断しないよ」
「……じゃあ、ラーメン女子は?」
「ラーメン女子?」
「ラーメンが好きな女の子」
「うん、いいと思うよ」
「本当?」
「え、うん。ていうか、仮に僕の嫌いな食べ物を好きな人のことも、別に嫌いになったりはしないよ。人の好き嫌いに食の好悪を持ち込んだりしない」
「……そっか。良かった」
 彼女が安心したように息を吐いた。彼女のその所作の真意は、僕には分かりかねた。
 しばらくして、食欲を増幅させる湯気をくゆらせたラーメンが店員さんの手によって運ばれてきた。しばらくお店でラーメンを食べていなかっただけに、僕は高揚した。彼女も隣で手を叩きながらはしゃいでいた。
 彼女が手を合わせるのに倣って僕も手を合わせた。
「「いただきます」」
 彼女は耳に髪の毛をかけて、箸で持ち上げた麺に息を吹きかけた。湯気が伸縮性のある生き物のようにうねった。
 彼女と同時に、僕も麺を口に運んだ。
「んー、美味しい!」
 彼女はラーメンの味に感動した様子で言った。言葉にこそしなかったけれど、僕もおよそ彼女と同じ感想を抱いた。二人してスープを飲んで深く感銘の溜息を吐き、それから、僕と彼女は黙々と食べ進めた。
 麺の残量が半分未満になった頃合いで、彼女が思い出したように僕に言った。
「あ、そういえば海苔はまだ食べてない?」
「うん、まだ食べてないよ」
「はぁ、良かった。もうすぐで海苔とご飯の出番だからね。先に麺を食べちゃおう」
 彼女の言葉に従って、残りの麺を平らげた。残ったのは、スープと煮卵一つと、スープが浸透したしっとりとした海苔である。
「この海苔で、ご飯を巻くの」
「あー、なるほど」
 彼女は、箸で海苔を掴み、それをご飯の上に載せた。そして、その海苔で白米のかたまりを包んだ。
「これ、本当に絶品だよ」
 彼女はそう言うと、ゆっくりとそれを口に運んだ。そして、幸せを嚙みしめるように咀嚼して唸った。
「美味しいよぉ」
 彼女の幸せそうな表情が、僕の食欲を刺激した。僕は彼女と同じようにスープから箸で海苔を取り出し、それを白米に巻いて食べた。確かに、彼女の言う通り絶品だった。海苔に染みついたスープが白米と絡んでおり、麺を平らげたというのに食欲が減るどころか増進された気がした。残った海苔には煮卵の黄身を溶かし込んで食べた。これも申し分なく美味だった。
 食べ終わった僕たちは、しばらく放心状態になった。
 ようやく正気を取り戻したタイミングで、僕は彼女に言った。
「有意義な食べ方を知ることができたよ」
 僕がそう言うと、彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「でしょ」
 彼女の得意げな顔を拝んだ後に店を出た。店を出た時には、それなりに空が暗くなっていた。彼女は僕の隣で思い切り伸びをした。
「はー、本当に美味しかった」
 彼女の横顔からは、充実感に満ちた感情が読み取れた。偏見だと怒られてしまうかもしれないけど、彼女がクラス中からいじめを受けている人物だとは到底思えない。
 そもそも彼女がいじめられていることに違和感を抱いている理由が、クラスは別だったものの一年生の頃は人に囲まれているタイプの人間であるイメージがあったからだ。つまり、彼女は最初からいじめられる側の人間だったわけでなく、むしろいじめられる人物像からは程遠い存在だった。そのことが、ずっと気になっていたことだった。
「ねぇ、日比谷と仲悪いの?」
 僕からの不躾な質問に彼女は動きをとめた。きっと、いじめの首謀者であると思われる日比谷と何かわだかまりがあるのだろうと思っての質問だった。
 彼女は僕の顔をじっと見つめた後、こちらから視線を外して言った。
「日比谷くんに、告白されたんだ」
「……え?」
「その告白に、私は応えられなかった。次の日から、私は日比谷くんにいじめられるようになった」
「それが、一年生の時?」
「ちょうど一年生から二年生に移り変わるくらいの時かな。最初は日比谷くんと少人数の男の子たちだけが私に絡んできたけど、そのうち中心人物の日比谷くんがけしかけたのか、クラスのみんなから無視されるようになった」
「……そうだったんだ。ごめん、突然こんな質問して」
「ううん」
 彼女は気にする必要はないことを示すために首を振った。
「だから、神木くんには感謝してる。私と一緒に話してくれて」
「……いや」
 僕は、クラスメイトたちと共犯者になりたくない一心で彼女と関わっていたことを思い出して後ろめたい気持ちになった。本当は、彼女と友人みたいにこうやって一緒にご飯を食べたり、話したりする権利なんて僕にはない。同調して彼女に無視をし続けるクラスメイトたちよりも、世間体を気にして偽の善意を働かせて彼女と接触している自分の方が矮小な存在だ。
「みんなが私を無視する中で、私に話しかけてきてくれたのは、神木くんだけだった」
「……僕は」
 彼女が微笑むのを見て、僕はその先を言うことができなかった。
 僕が罪悪感に浸ったことで、しばらくその場に沈黙が下りた。その沈黙を破るように、彼女は静かに言った。
「ねぇ、私の家来ない?」
「…………どうして」
「あ、嫌なら全然いいよ! ただ、一緒にゲームとかできたらなって思っただけ」
 彼女は焦ったように取り繕った。
 顔を赤くする彼女を見ながら、僕は頷いた。
「うん、いいよ。迷惑じゃなければ」
「……え、本当?」
 彼女が僕の返答に意外そうな反応を示した。
「うん。帰ってもすることないしね」
「え、そっか。うん、そっか。じゃあ、行こっか」
 彼女は声の調子を上げながら、先ほどまでよりも足取りが軽い様子で歩き出した。僕は彼女の後に続く。彼女の家に行くのは初めてだった。そもそも、今まで学校外で遊ぶこともなかった。今日一日で僕と彼女の関係が一気に進展していることに、僕は不思議な感覚を覚えた。その上、彼女の家に行くまでの間に、彼女は連絡先を交換しようと提案してきた。僕はその提案を聞いた時に困惑して迷ったけれど、断る理由もなかったため了承した。彼女いわく、今日のラーメン屋さんのようにお勧めがあった時に共有するための提案だったのだそう。
 彼女の家は、僕の家とは真反対の方角にあった。
 一軒家の家で、特に彼女の家を想像したことはなかったけど、少なくともイメージから逸れた外観ではなかった。
 彼女に促されて、僕は家に上がった。彼女には自分の部屋があるらしく、僕はそこに通された。
「じゃあ、くつろいでてね。ジュース取ってくる」
「あ、お構いなく」
 久しぶりに同級生の家に上がった僕は、このやり取りを懐かしく思った。
 彼女はしばらくしてオレンジジュースとショートケーキを持って来てくれた。それから、彼女はゲーム機を起動させてテレビに映した。学校での彼女の様子を見ているため、こうやって自分の家では普通にしていることに感動した。家で普通にするのは当たり前だけれど。
「神木くんは、普段ゲームするの?」
「いや、そもそも一切のゲーム機を持ってないよ」
「へぇ、男の子ってみんなゲーム持ってるって思ってた」
「他の男子たちは持ってるの?」
「ううん、分からない。男の子の友達はいなかったから」
「そうなんだ」
 そんな他愛のない話をしながら、僕と彼女はレーシングゲームを始めた。ゲームをするのは、小学生の頃、僕に数人の友人がいたときに友人の家にお邪魔してプレイして以来だった。けれど、どういうわけかずっと僕が彼女の順位を上回る。最初余裕の表情を浮かべていた彼女は、僕に連敗して額に汗を浮かべ始めた。
「あのさ」
「……うん、なに?」
「君ってもしかして」
「…………」
「ゲーム下手?」
「そんなことないもん!」
「いやだって、ゲーム自体にブランクがある僕に、ゲーム機を持っている君は一度も勝ててないんだよ」
「ちょ、ちょっと調子が悪いだけだもん」
「ふーん。じゃあ、別のゲームする?」
「する!」
 彼女は顔を赤くしながら別のゲームカセットをゲーム機に挿入した。今度彼女がチョイスしたのは、格闘ゲームだった。そして、そのゲームでも僕は彼女に一度も負けることがなかった。
「ねぇ、やっぱりさ」
「…………」
「ゲームのセンスが」
「あるもん!」
 彼女は涙目になりながら頬を膨らませた。僕はそんな彼女の表情に思わず笑ってしまった。すると、彼女は何故か驚いたように目を見開いた。
「……えっと、何?」
「あ、いや、神木くんってそんな風に笑うんだって思って」
「……次も勝つから」
 コントローラーのボタンを押して、次の試合を強制的に開始した。彼女からの指摘が、なんとなく恥ずかしかった。彼女は慌てた様子でコントローラーを握りなおした。そして、やはり次も僕が彼女に勝った。
 不服そうな彼女がもう一戦申し込んできたけれど、これ以上続けると彼女の心理的ライフが底をついてしまいかねなかった。それに加えて、気付けば辺りがそろそろ暗くなっていた。親が夕飯を作って待ってくれているだろうし、お暇するのに適した時間だった。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「あ、そっか。もうそんな時間か」
 彼女は「んー」と唸りながら伸びをした。それから、「ねぇ」と立ち上がった僕に声を掛けてきた。
「私、神木くんのこと好き」
「…………」
「それって友人としての好きだよね、とか煙に巻くのは禁止だよ。私、神木くんのこと、男の子として好き」
「…………そっか」
「迷惑かな?」
「いや、ありがとう。ただ、どう反応していいのか分からなくて」
 彼女は僕の言葉に「なにそれ」と笑いながら立ち上がり、僕に近づいてきた。そして、僕のことを抱きしめた。
「私、ずっと神木くんとこうしたかった。ドキドキする」
 彼女の体温と髪の毛から漂うシャンプーの香りが、僕の感情を掻き回してくる。
「私、神木くんに恋してる。神木くんは、私のこと、ただのクラスメイトだって思う?」
「……いや、少なくとも、他のクラスメイトより小鳥遊さんのことは特別だと感じてる」
「…………嬉しい」
「……でも、それが恋愛感情としての特別かと言われると、また違う気がする」
「…………うん、そっか」
 彼女は消え入るような声でそう言った後、僕を抱きしめる腕の力を強めた。
僕は、自分の醜さに辟易していた。間違いなく彼女は他のクラスメイトたちより大切な存在ではある。何故なら、他のクラスメイトたちよりも長い時間彼女と過ごしているからだ。そして、彼女と関わっていく中で、彼女が人格者であることも理解していった。彼女は人に好かれて然るべき存在であることに異論を持ち込む余地はない。けれど、僕が他のクラスメイトたちよりも彼女と過ごす時間の密度が高くなったのも、彼女と過ごす時間を通じて彼女が良い子であることに気付けたのも、全てきっかけは、自分の偽善的な言動によるものだった。偽善的な気持ちで話しかけて、偽善的な気持ちで彼女と時間を過ごした。もちろん、彼女と関わっていく過程で偽善よりも本心で彼女と一緒にいることを望むようにはなったけれど、元を辿ると僕が彼女に話しかけた理由は決して誇れるようなものではなかった。そのことが、非常に気掛かりだった。さながら、罰ゲームで告白した女子が、相手の男子に本当に好意を寄せるようになったことで偽の告白をした自分を責める構図と似ている。決してそれは、許されることではない。
 僕は、抱きつく彼女を引き剥がした。彼女が傷ついたような表情を浮かべたことに、僕は自分の心臓がナイフで刺される心地がした。
「ごめん、今日は帰るよ」
 僕がそう言うと、彼女は制服のスカートの裾を両手で握った。それから、彼女は顔を上げた。彼女の顔は、笑顔だった。
「うん、また明日。学校で」
「うん、また明日。今日はありがとう」
 僕はそう言って、彼女の部屋を出た。ドアを閉じる間際、彼女の頬を涙がつたうように見えたのが、錯覚であることを願った。僕は一人で玄関に赴いて靴を履き、彼女の家を出た。
 翌日、彼女は学校に来なかった。ただし、彼女からメッセージが届いていた。

【今日はありがとう。また明日】

 僕はそのメッセージを見て、思わず彼女の席を振り返った。彼女は当然、そこにはいなかった。僕は一日遅れで彼女にメッセージを返した。

【こちらこそありがとう。そして、今日は欠席みたいだね。お大事に】

 彼女からの返信は、返ってこなかった。
 授業中、何度も彼女の席を眺めては、彼女が不在であることに溜息を吐いた。昨日の彼女の傷ついた様子が何度も脳裏に蘇った。
 お昼休みに、僕は久しぶりに一人で昼食を食べた。いつもは居心地の悪い視線をクラスメイトたちから浴びて彼女と一緒に食べていたけれど、平穏でありながらも一人で食べる昼食の方がよほど美味しくないことに気付いた。
 黙々と一人で食べていると、あろうことか日比谷に話しかけられた。
「おい、神木。ちょっと来い」
「……どうしたの」
「いいから、来い」
 日比谷の後ろには、三人の付き人がいた。僕はこれ以上の抵抗を諦めて大人しく日比谷たちについて行った。教室を出てから、校舎の一番上の階に向かった。その階はどの学年も利用していないため、移動教室の時間でないとほとんど用途はない。つまり、お昼休みである今は誰もいない。そんなところに、日比谷たちは僕を連れてきた。
 日比谷は周りに誰もいないことを確認してから、僕の前に手を差し出してきた。
「携帯、寄越せ」
「……どうして」
「別に窃盗しようってわけじゃない。今日だけ貸してくれ」
「……携帯がないのは困る」
「だから、今日だけだっつってんだろ」
「そういう用事なら協力はできない」
 そう言って教室に戻ろうとすると、日比谷の付き人三人が僕の前に立ちはだかった。
「それなら、力ずくでいくしかないな」
 僕は、三人の付き人に手足を拘束された。すると、日比谷が僕のズボンのポケットに手を入れて携帯を取り出した。そして、画面を操作し出した。
「お、ロックしてないんだな。随分と紳士なこった」
 日比谷はそう言って笑うと、付き人三人に言った。
「神木をトイレに連れ込め」
 三人は頷いて僕をトイレに連行した。日比谷は先に教室に戻るらしく、連行される僕に向かって叫んだ。
「明日には返してやるよ」
 抵抗することも諦めて、僕は三人にトイレの個室に閉じ込められた。すると、個室の上の隙間からトイレにあるホースの先端が入ってきた。そして、そこから勢いよく水が放出された。冷たい水が僕の全身を濡らした。勢いが強くて息ができなかった。
 しばらくすると、僕は解放された。全身びしょ濡れの状態で教室に戻り、クラスメイトたちから奇怪な目線を向けられた。僕は鞄を持って、学校を出た。この状態では午後の授業は受けられない。帰ってからすぐにお風呂に入り着替えた。
 翌日、僕は風邪を引いた。昨日と今日で、学校から連絡はなかった。無断帰宅したことで連絡があると思っていたけれど、おそらく日比谷が僕から体調不良の伝達を預かったなどと適当な理由を先生に伝えたのだろう。学校を休んだことで、僕は日比谷から携帯を返してもらうのが遅れてしまった。
 結局、風邪が治るのが遅れて三日後に僕は学校に登校した。久しぶりの登校で支度に掛ける時間を見誤ってしまい、ギリギリの状態で慌てながら学校に向かった。教室に入ると、にやにやした日比谷が僕に携帯を返してきた。
「面白いことになったぜ」
 日比谷の言葉の意味を深く考えないで携帯を受け取った僕は、何かされていないか端末内の情報を確認した。メッセージアプリを起動したタイミングで、僕は絶句した。彼女とのメッセージ履歴が増えていた。当然、僕は携帯を強奪されていたから、日比谷が勝手に彼女にメッセージを送ったのだろう。

【今日はありがとう。また明日】
【こちらこそありがとう。そして、今日は欠席みたいだね。お大事に】
【ちょっと風邪引いちゃったみたい。また明日かな】
【死ね。お前のせいで、こっちは迷惑してる。気持ち悪い。二度と話しかけるな】
【ごめんね。私、やっぱり疫病神みたいだね。神木くんにさえそう思わせちゃってたなんて。もう話しかけないから、安心してね。無理に連絡先を交換させちゃってごめんなさい。連絡先も消していいよ。あと、私が神木くんに告白したのも忘れて。さようなら】

 そこでメッセージのやり取りが終わっていた。心臓が凍てつくのが分かった。身体の芯から冷えて、僕は吐き気を催した。急いでトイレに駆け込んで、僕は嘔吐した。しばらくトイレに籠っていたけれど、予鈴が鳴って仕方なく教室に戻った。
 教室には、すでに担任の先生が教卓の前で立っていた。そして、何故か教室の中がざわざわしていた。不吉な予感が過った。僕が教室に入って来るのを確認した担任は、僕を見てハッとした表情を浮かべた。それから、言いづらそうに僕に口を開いた。
「神木か。すまない。先走ってみんなには伝えたんだが」
 担任はそこまで言い淀んだ。けれど、意を決したように僕に向き直って言った。
「小鳥遊が亡くなった」
「…………はい?」
「自殺だったそうだ。昨晩、家で首を吊った姿でご両親によって発見された」
 担任の発言に、僕は思考回路が停止した。茫然としながら教室の中を眺めていると、日比谷と目が合った。日比谷はにやっとすると、僕に指さして何かを言った。教室内でひしめき合う喧騒で声は届いてこなかった。いや、そもそも日比谷は声を出してはいなかったのだろう。僕だけに向けた言葉だった。日比谷の唇の動かし方を思い返してみた。日比谷の声が直接脳内に響いてくるような感覚になった。
「お前が殺した」
 僕はまた、吐き気を催した。口元を押さえて、教室から飛び出した。トイレに駆け込んで、僕は二度目の嘔吐をした。そして、トイレの個室のドアを思い切り叩いた。憤りのこもった音が、大きさだけは立派にトイレの中を彷徨うように反響した。
 日比谷が僕の携帯を使ってメッセージを彼女に送ったことで、彼女は当然僕からのメッセージだと真に受けた。僕からの罵声を気に病んで、彼女は自殺を図ったのだろう。
 ふと、初めて彼女がいじめられていた現場を思い出した。僕が彼女に最初に話しかけたのは、体育倉庫からびしょびしょになった彼女が出てきたのを見た時だった。僕は彼女に僕の体操着を貸して、彼女に着替えさせた。彼女と一緒に先生不在の保健室に行き、保健室が無人の間、泣いている彼女の横に僕は付き添った。
 何故か最初の彼女との思い出を思い出しながら、僕はトイレから出た。すると、そこに日比谷が一人で立っていた。僕にはもう、日比谷に恐れおののく気力すらなかった。無視して日比谷の横を通り過ぎようとすると、日比谷が僕に声を掛けてきた。
「俺の邪魔ばっかりしやがって。目障りだったんだよ」
「…………」
「お前、この前小鳥遊と一緒に放課後帰っただろ」
 日比谷がそのことを知っていたことに、僕は驚いた。
「俺はその日、小鳥遊にあるミッションを課していた」
「……ミッション」
「お前を惚れさせろってな」
「……小鳥遊さんが、僕のことを?」
「そうだ。そして、お前に連絡先を交換させるように命じた」
 信じられなかった。小鳥遊さんは、日比谷に命じられて僕に連絡先の交換を提案してきたのか。全て日比谷の手の平の上で踊らされていた。僕も、彼女も。
「お前が小鳥遊に惚れたところで小鳥遊が消えれば、お前に悲しみが深く刻まれる」
 そうか。僕は、小鳥遊さんへの究極の仕打ちのために、日比谷によって生かされていたのか。日比谷にとって目障りな存在だったはずの僕がどうして何もされなかったのか。それは、日比谷が僕を利用するためだった。小鳥遊さんが一番絶望するエンディングを用意するためだった。クラスで唯一懇意にしてくれていた相手が自分に罵倒すれば、当然心が壊れる。そして小鳥遊さんが悲しみに明け暮れると同時に、厄介な存在だった僕も破壊できる。ともすれば、日比谷は僕も小鳥遊さんと同じように自害することを望んでいるのではないだろうか。
「俺、やっさしー。あいつの携帯川に捨てておいたから、お前が小鳥遊を自殺に追いやった犯人だって証拠は、隠してる限りバレないぜ」
 日比谷はそう言って、僕の方に近づいてきた。
 違う。事が大きくなって僕の供述が自分に向いたときに面倒なだけだ。
「よくやってくれた。お前はまるで、死神だよな」
 日比谷は僕の肩に手を置いて、教室へと戻って行った。日比谷の後ろ姿を見送りながら、僕は教室には戻らず、学校を出た。世界と自分の間に一枚薄暗いベールをかけたように、視界が濁っていた。およそ生きている心地がしない。
 誰もいない自宅に着いた。とにかく、現実逃避したかった。早く眠ってしまいたかった。今の状況は、僕にはキャパシティオーバーだった。
 鍵を開けて家のドアを開こうとすると、郵便受けに白い手紙らしきものが投函されているのが見えた。どうやら、朝の段階で気付かなかったらしい。なんとなくそちらに向かってその手紙を取り出すと、「神木懐くんへ」とだけ書かれていた。誰からの手紙かは表記されていなかったけど、筆跡からするに彼女のもので間違いないだろう。何度か学校で彼女のノートに書かれた字を見たことがあった。
 誰にも見せてはいけない気がして、僕は急いで家に入って自分の部屋に籠った。そして、手紙の中身を開けた。僕は一言一句、噛みしめるように彼女からの手紙を読んだ。

神木懐くんへ

突然こんな手紙を投函してごめんなさい。
神木くんには、本当によくしてもらったのに、私は。
私には、謝らなければならないことがあります。
一昨日の放課後、神木くんを私の家に招いたあの日、私は日比谷くんに脅されていました。
連絡先を交換するように、そして、神木くんに告白するように命令されていました。
少なくとも、日比谷くんのすることだから神木くんにとって良いことじゃないことは、分かっていたのに。
だから、バチが当たったんだろうね。私にとって一番身近な存在だった神木くんから、私がどうしようもない人間だってバレていたことが分かった。自分を守るために連絡先を交換したつけが回ってきた。知りたくなかった。神木くんの本当の気持ち。
あの時、私は逆らえばよかったのに。すでにいじめの標的にされた私のことよりも、まだ標的にされていない神木くんのために断ればよかったのに。
私は自分のことが可愛くて、この期に及んで臆してしまって、日比谷くんの言う通りの行動をしてしまいました。本当にごめんなさい。自分がいじめられて当然の醜い人間だってことは、十分わかっています。
本当は、神木くんにはこのことを伝えないつもりでした。
どうしてかというと、愚かなことに神木くんに嫌われたくなかったからです。
笑っちゃうよね。どこまで落ちぶれれば気が済むんだろう。
でもね、言い訳みたいになっちゃうけど、日比谷くんからの命令を断らなかった理由は他にもあったんだ。
それはね、神木くんと本当に連絡先を交換したかったし、神木くんに好きだって伝えたかったからなんだ。本当だよ。
だから、神木くんに告白した時、ちょっと強引だったかも。焦っちゃったみたい。嫌な思いさせてごめんなさい。
今まで、もし嫌々ながらだったとしても、一緒にいてくれて本当に嬉しかったです。私は神木くんにとても救われました。ありがとう。
私みたいな疫病神と仲良くしてくれてありがとう。これ以上、神木くんみたいな人を巻き込みません。だから、安心してね。
神木くんが元気に長生きできますように。
                                 小鳥遊日和より

 僕は手紙を読み終えると、それを机の上に置いた。そして、思い切り叫んだ。
「うああああああああああああああ」
 恥を知らない子どもみたいに、近所迷惑なんて一切考えず、僕はただひたすらに、言語化できない自分の感情を吐き出すために叫んだ。
 彼女は疫病神なんかじゃない。祟り神は僕の方だ。日比谷の言う通り、僕は死神だ。
 僕は、叫びながら家を飛び出した。どこに向かうでもなく、ただただ走った。公園に行って無意味にジャングルジムを登って頂上で叫んでみたり、川に入って日比谷への憎しみを叫んでみたり、とにかく、無茶苦茶なことをしながら街の中を徘徊した。
 夕方になって、僕は学校に向かった。どうして学校に向かったのかと訊かれたら、なんとなくとしか答えようがない。もしかすると、日比谷に怒りをぶつけるために学校に向かったのかもしれないし、彼女の影を求めて学校に足を向けたのかもしれなかった。どちらにせよ、高校生の世界はほとんどが学校に集約されていて、僕にとっての日常はやっぱり学校だった。
 学校に到着した頃には放課後になっていて、誰も教室には残っていなかった。
 僕は無人になった教室に入って、思わず足を止めた。
 彼女の机に、花瓶が置かれてあった。その光景が、彼女がこの世界から消えてしまったことを如実に表していて、僕はまた叫びたくなった。すると、教室の隅で何かが蠢くのが見えた。身体が強張るのを感じた。けれど、怖いもの見たさで振り返った。そこには、人間ならざる何かがいた。それと目が合うと、相手はにやりとおぞましく笑った。
「オイラのことが見えるのか」
「……あなたは」
「死神だよ」
「…………」
「まぁ、信じなくても構わない。しかし、寿命に余裕がある者が死神を認識することがあるとは。お前さん、さては自分を死神と同一視しているな」
「……一体、何を」
「よし、お前さんの命の半分をもらうことにしよう」
 死神は一人で納得すると、僕の方に近づいてきた。
「ま、待ってください。僕はまだ」
「まだ、死にたくないってか? 嘘を吐くな。少なくとも死神と遭遇するということは、近いうちに自分の命をこの世から消そうとしてんだろ? そんなもったいないことをするくらいなら、オイラに寿命を分けてくれても構いはしないだろう」
 僕は、この後自死を図るつもりだったことが見抜かれて思わず黙り込んでしまった。
「まぁ、話を聞け」
 死神はそう言うと、開いた手を胸の前に突き出した。僕を落ち着かせるための仕草のつもりなのだろう。死神は僕が大人しくなったと思ったのか、こちらに目を向けてきた。話し方こそ人外が登場する童話で目にするようなポップなものだけれど、その面は絵本などで表現されるような死神とは似ても似つかない禍々しいつくりだった。
「人間が自身の身体を自ら絶つ際、そのほとんどが周りの人間との不和が原因だという有名な話を聞いている。つまり、お前さんは自分以外の人間との関わりを断ちたいと考えている。そうじゃないか?」
「…………一つの理由では、あるかもしれません」
「だろう? そこで、オイラと身体を共有すれば、寿命は半分になる代わりに人の命さえ食せば食料もいらず、水もいらない。排泄だって不要だ。まるで他人と接触する理由がなくなる。どうだ? 悪くない話なんじゃないのか?」
「それが死神の命の繋ぎ方なら、わざわざ人間に頼る必要なんてあるんですか?」
「なるほど、中々に鋭い質問だな」
「何か代償があるんじゃないんですか?」
「お前さんが死んでは困るからな。死神になる時の最低限のルールを教えよう。至ってシンプルだ。いいか、よく聞けよ。一つ、命の契約を寿命が半年以下の人間と交わすこと。二つ、契約を交わした人間とは、対象者が死ぬまで直径五十メートルの円内に相当する距離にいなければならない。以上だ」
「……それだけ?」
「あぁ、それだけだ」
「でも、契約を交わした人間の側にいないといけないなら、人間との関わりを持たないようには結局できないってことですよね」
「見知らぬ人間と契約すれば問題ない。まだマシだろう」
「僕の寿命を欲するということは、あなたは飢え死にが迫っている状態なんですか?」
「あぁ、今平静を装って話してはいるが、瀕死状態だ。途方に暮れていたがどうだ。お前さんみたいに数十年単位の命なんて滅多に手に入らねぇ。如何せん、余命が半年以内の人間としか契約できない決まりだからな。それがどういうわけか、死神と同調している人間が現れるときた。極度の飢えに苦しむオイラとしては、こんなチャンスを逃すわけにはいかねぇ」
「どうしてそんなにも空腹なんですか? あなたはしばらく人の命を口にしてないんですか?」
「いや、つい一昨日食べたさ。ただ、契約した人間の寿命によるんだ。直近でありついたのは、その場しのぎの数日の命だったからな。今、誰とも命を共有していないオイラは、飢餓状態ってわけだ」
「でも、僕の命を共有するということは、僕が死ねばあなたも死ぬ。そういうわけじゃないんですか」
「いや、その通り、お前さんが死ねばオイラも死ぬ。オイラはお前さんの命を共有すると同時に憑依する。ただ、寄生虫みたいにお前さんの意思を乗っ取るわけじゃない。ただし……」
「ただし?」
「お前さんが、しっかりと自分の意思を持っていればの話だがな」
 死神は、不敵な笑みを浮かべた。僕は何か不吉なものを死神の表情から読み取りながらも、さらに質問を重ねた。
「自分で自分の身を投げようと、あえて誰とも契約せずに餓死する可能性だってありますよ」
 僕の言葉に、死神はいやらしい笑みを浮かべた。
「そいつは絶対に起こり得ないな。耐えがたい空腹に襲われて、必ず人の命欲しさに衝動に駆られるさ」
 死神は自信ありげにそう言った。
 僕は、考えた。果たして、死神が持ち掛けた提案に乗る必要があるのだろうか。このまま、何も考えずに自分の身を自分で終わらせる方がよほど楽で、よほど建設的な気がした。けれど、死神になることで、僕はどうにかして日比谷に仕返しができるかもしれないとも思った。
その時は、正真正銘、人殺しの死神だと胸を張れることだろう。
「分かった。あなたの提案に乗ろう」
「よし、話が分かる奴でよかったよ」
 死神はそう言うと、僕に近づいてきた。そして、近づきながらこんなことを言ってきた。
「そういえば、ちょうどそこの花瓶が置かれている席のやつだったよ。オイラが最後に契約を交わしたのは。その日、そいつは放課後に最後まで残っていた。誰かに会いたいが、会うのが怖いっていう愚痴を聞かされたぜ。そいつもあんたと同じように自死するつもりだったらしく、契約を交わした。イレギュラーのあんたとは違って正式な手続きだったから、憑依することはなかったが」
 死神が契約したという人物は、まさか。
「小鳥遊さん……」
「あ? あぁ、確かそんな名前だっけかな。まぁ、どうでもいいことは覚えない主義でね」
 死神は僕の身体に重なるように入り込んできた。その瞬間、耐えがたい空腹に苛まれた。死を覚悟するほど空腹な状態に陥ったことがないけれど、少なくとも人間の身体であれば感じることのない食欲に僕は吐き気を催した。
こうして僕は、死神に魅入られた。そして、死神の宣言通り、僕は死ぬまで尋常ではないこの空腹感と付き合っていくことを諦めて、契約対象を求めて街へと繰り出した。
 ただし、最初に僕がしたことは誰かと契約を結ぶことではなく、自分が持っていた携帯を叩きつけたことだった。これを使えば手っ取り早く日比谷の悪事を世に広めることができるけれど、僕は死神としての能力を得たのだから、それを利用して日比谷を恐怖のどん底に突き落としたかった。
 そして、僕は新しい携帯を買うことにした。僕は家に戻って自分の机の引き出しにあるお年玉貯金からお金を抜き出し、母親のパスポートと自分の健康保険証、そして学生証を持って家を出ようとした。すると、今日に限って何故か母親が帰宅する音が玄関から聞こえた。
 僕は何食わぬ顔で家を出ようと自分の部屋がある二階から一階に下りた。すると、両手に買い物袋を抱えた母親が靴を脱いでいた。
「今日は早かったね」
「そうなのよ。早上がりさせてもらったから、今日は久しぶりに懐と二人でカレーでも食べようかと……あなた、誰?」
 母親は僕と目が合うと、突然そんな不可解な言葉を口にした。
「何言ってるの、母さん」
「あなた誰よ! は、速く家から出て行かないと、警察を呼ぶわよ!」
「……母さん」
 どうやら、母親は本気らしかった。本当に、僕のことが誰か分かっていないらしい。もしかすると、死神から聞かされていないだけで、「神木懐」という人間はこの世界から消えたのではないだろうか。であれば、今目の前にいる母親の目に映る僕は、一体何者なのだろう。僕は本当に、死神になったのか。
「すみません。すぐに出て行きます」
「二度と来ないでちょうだい」
 母親は、僕が横を通り過ぎて家から出て行くまでの間、一切警戒を解くことなく敵意を向けた目で僕のことを睨んでいた。
それから、僕は空腹と混乱で頭が働かないまま携帯ショップに赴いた。そこで契約をしたけれど、考えてみればこの世界から神木懐という人間が消失したのなら、携帯を持つ必要もない。僕は人間としての思考を排除する必要がある。僕はもう人間ではない。死神、あるいは他人の目には誰にも該当しない人間として認識される死神もどきなのだ。
 僕は携帯ショップから出て、母親のパスポートを持ち出してしまっていたことを思い出した。返しに行くべきだと思ったけれど、またあの敵意のこもった目を向けられるのが怖かった。だから僕は、自宅の前に戻り、郵便受けに母親のパスポートと自分の健康保険証、そして学生証を入れた。
 人間ではなくなった僕は、今度こそ誰かの命をもらうために街を彷徨うことにした。