彼女の妹の容態が懸念されながらも、面会時間外であったため家で待機していた。彼女はここ最近、また思いつめたように難しい顔をするようになった。
「どうかしたの?」
 僕が訊くと、彼女は眉間に寄せていた皺を解放してこちらを振り返った。
「死んだ後、どうしようと思って」
「……どういう意味?」
「お葬式をするにしても、あいつらが進んでやりたがるとも思わないから。火葬だって、親族でする必要があるからなぁ。ひなののことは全部私ができたにしても、私が死んだらあいつらに不本意そうな顔をされながら送り出されるの、想像するだけでも死にたくなる」
 あいつら、というのは親戚のことだろう。死にたくなると言いつつ、彼女も彼女の妹も望まなくとももう間もなく消える。
 僕は、彼女に言うか迷った。きっと、彼女にとっては好都合な死神の能力だけれど、もしかすると死んだ後に星になるプロセスを遮ってしまうかもしれない。お婆さんと契約した時の一件で、僕は死神の力を把握していた。
 彼女はリビングのソファに座りながら真剣な表情で考えている。魔が差したみたいに、僕は思わず彼女に言った。
「死神は死んだ人間の身体に触れると、灰にすることができる。いや、灰にしてしまうというのが正しいね」
 僕が言うと、彼女は勢いよくこちらを振り返り、身を乗り出してきた。僕は思わず身体をのけ反った。
「詳しく聞かせて」
「……あまりおすすめはできないけど、初めて僕が契約した人間が死んだ後に触れたら、その人が一瞬で灰になったんだ。だから、骨を残すことはできないかもしれないけれど、少なくとも灰は残せるから……」
 僕がそこで言い淀むと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「湖に骨を撒いてほしいって話、覚えてくれてたんだ」
「……まぁ」
 僕が顔を背けると、彼女は何故か嬉しそうにした。けれど、すぐに真顔になって何かを考え始めた。きっと、彼女の妹のことを考えているのだろう。自分は灰になってもいいとして、彼女の妹は灰になりたくない可能性がある。けれど、事態は一刻を争っている。
「灰になるということが何を意味するのかは僕にも分からないけれど、あまり良い印象は受けない。死んだ後にどうなるか保障はできないということを、心に留めておいて」
 彼女は僕の言葉に頷いてから「考えさせて」と言って自分の部屋に入って行った。結局、その日は彼女が自分の部屋から出てくることはなかった。
 翌日、目を覚ますと、僕が寝室として使わせてもらっている部屋に、彼女が立っていた。心臓が跳ね上がりそうになって飛び起きると、彼女は至極真剣な眼差しで僕を見ているのに気が付いた。もしかして、と思って彼女の言葉を待った。彼女は、意を決したように言った。
「灰にしてほしい。私のことも、ひなののことも」
 彼女は少し緊張した様子で僕に言った。僕は、今更になってどうして彼女に死神の能力について話してしまったのだろうと後悔した。けれど、自分からした提案を引き下げるわけにはいかない。僕は、何も言わずに頷いた。
 その日、僕と彼女は病院に向かい、衰弱してほとんど口を利かなくなった彼女の妹を車椅子に乗せて病院の敷地内を歩かせるふりをしながら病院外へと連れ出した。彼女は車椅子を押しながら「ごめんね、ひなの」と泣きながら謝っていた。彼女の妹は、虚ろな表情のままで、何を思っているのかがまるで読み取れなかった。もう、痛みが襲ってきても痛がる余力がない程に思えた。
 僕たちは前に行った湖に向かうために新幹線に乗り、そこからローカル線に乗り継いだ。車椅子での乗車に僕も彼女も不安を覚えていたけれど、車掌さんが積極的に電車とホームの隙間にスロープをつくって協力してくれた。無事に各停電車で湖があるホテルの最寄り駅に到着した。最寄り駅といって、そこからホテルまでは三十分掛かる。
 僕の彼女も、彼女の妹が体力を消耗していないか気にしていたけれど、身を案じる言葉を掛けると彼女の妹は頷くことで意思を示してくれた。
 道中、彼女の携帯が鳴りっぱなしだった。もちろん、病院からの電話だった。彼女は申し訳なさそうにしながらも、電話に出ることはなかった。
 僕たちは湖の丘を横切ってホテルに向かい、ようやく到着した。彼女は感極まった様子で彼女の妹の頭を撫でた。
「ひなの、よく頑張ったね」
 彼女の妹は、彼女に撫でられてうっとりした表情を浮かべた。
 僕たちは、一つの部屋で過ごした。彼女の妹も、彼女も、もはやいつどうなるか分からなかった。彼女の妹は、出会った時点で最大半年の寿命だった。それが、僕と契約したことで3ヶ月以下になり、あと5日間で3ヶ月目に突入する。つまり、彼女の妹は5日以内で死んでしまう。それは、彼女も同じだった。彼女は僕と出会った時点で寿命には随分と余裕があったはずだけれど、突然余命が半年以下になった。そこで僕と契約したため、彼女も残りの命があの日から3ヶ月以下になったはずだ。彼女も最大で5日しか生きられない。そしておそらく、彼女はちょうど5日後に死ぬことになるだろう。彼女の妹が死ぬ瞬間を見届けるために自分の方が長く生きている必要があった。猶予期限である半年ぴったりを選んだ。つまり、彼女は意図的に半年経って自分が寿命を迎えることを選択したのだ。
 その日の夜、窓から見える丘の頂上にある湖が星々を湛えた夜空を映していた。相変わらずの絶景だった。あそこになら吸い込まれてもいいと思えてしまう魅力があった。
彼女は、彼女の妹の頭を撫でながら一緒に湖を眺めていた。彼女の妹も、虚ろながら瞳に湖の景色が映っていた。
「綺麗だね、ひなの」
「…………」
「あんな綺麗なところにいたら、絶対に幸せだよね」
「…………」
「ねぇ、ひなの。大好き」
 彼女は声を震わせながら、彼女の妹にそっと抱き着いた。彼女は、大声を上げながら泣いた。彼女の妹は、ゆっくりと視線を彼女に向けて、やせ細った手で彼女の頭を撫でた。
 翌日、彼女の妹は息を引き取った。お昼頃になって、いよいよ呼吸が浅くなった彼女の妹は、安らかな表情のまま冷たくなった。
「ひなの」
 彼女が呼びかける。
「ねぇ、ひなの」
 彼女の妹は、返事をしない。
「嫌だ。死んじゃうの嫌だ。お願い、ひなの。行かないで」
 彼女は泣きじゃくりながら彼女の妹の頬に自分の頬をこすりつけた。まるで、摩擦で彼女の妹の体温を取り戻そうとするかのように。
「やだ、灰にしないで。ひなのが灰になっちゃうの嫌だ」
 彼女は駄々をこねる少女みたいに首を振り続けた。
「大丈夫。君が願わない限り、僕はその子に何もしない」
 僕の言葉に、彼女は辛うじて頷いた。
 その日はずっと、彼女は泣き続けた。冷たくなった彼女の妹の姿を見られないように、僕たちはずっとホテルサービスのベッドメイクを拒み続けた。
 彼女が感情の起伏を抑えるのにそれから3日かかった。計算上では、明日が彼女の命日だということになる。
「ごめん。迷惑掛けた。今晩、あの湖にひなのを連れて行く。そこで、お願いしたい」
 彼女は張りつめた表情でそう言った。僕は彼女の言葉に首肯した。
 その日の夜、彼女は冷たくなった妹を背負ってホテルを出た。僕と彼女は丘を登った。彼女は途中、何度か息切れして立ち止まったけれど、一度も彼女の妹を下ろすことはなかった。  
彼女の悲しみに暮れた感情に寄り添うようにして、美しい湖が僕たちを出迎えた。彼女は湖のほとりまで向かうと、慎重に彼女の妹を地面に横たえた。死者を前にして広がる星々を映した湖はまるで現世みたいだった。彼女は、彼女の妹とその後ろに広がる湖に拝んだ。これから、何か神聖な儀式をするような心持ちになりながら僕はその光景をただ見ていた。
彼女は深く息を吐くと、ゆっくりとこちらを振り返った。
「お願い」
 彼女は覚悟が決まった表情で僕に言った。僕は言葉を発することなくただ頷いた。
 僕は彼女の妹の側にしゃがみ込んだ。触れる前に、僕は彼女を見上げた。彼女は表情を動かすことなく静かに頷いた。
「ひなのさん。どうか、安らかにお眠りください」
 僕は、彼女の妹の身体に触れた。その瞬間、一切の抵抗なく彼女の妹は灰になった。草原の上に少し山になった灰が残った。彼女はしばらく動かなかったけれど、やがて無言で灰を両手で掬いあげて、湖へと撒いた。意外にも取り乱すことなく、彼女は淡々と灰を湖へと撒いていく。なんとなく、手伝ってはいけない気がして、僕はただただ彼女の行動を見守っていた。
 灰を全て湖へと還して、僕と彼女は言葉を交わすことなくホテルへと戻った。僕も彼女も、一睡もすることはできなかった。それに彼女にとっては、眠れば自分が死ぬ日がやって来るのだから余計に眠れるはずはなかった。後ろめたさが拭えなかった僕は、彼女に背を向けて布団を被っていた。すると、背中が突然温かくなった。振り返るまでもなく、彼女が僕の背中にくっついているのが分かった。僕たちはそのままの状態で夜を明かした。
 いよいよ、彼女の命日が巡ってきた。
 僕と彼女はその日、朝から湖のほとりで座っていた。すでにチェックアウトは済ましており、受付の人に宿泊人数に疑問は持たれたものの先にホテルを出たと適当な嘘を吐いた。
ホテルを出た勢いのまま僕と彼女は丘を登った。昼の湖は青空の中にある淡い雲を見事に再現していて、夜とは違った絶景を楽しませてくれた。
 僕と彼女は飽きもせず、ずっと湖を眺めていた。
隣で座る彼女は、湖を眺めながら一体何を考えているのだろう。
僕は、初めて二人に会うきっかけになったことを思い出していた。お婆さんとの契約が切れて空腹でおかしくなりそうだった時、今すぐに誰かの命をもらわないと約束を果たす気力がなくなってしまうことを恐れて、僕はまだ幼い彼女の妹を無理矢理狙った。あの時のことを思い出すと、彼女や彼女の妹には申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ふと、小鳥遊さんの顔が頭を過った。小鳥遊さんは、ちゃんと星になれたのだろうか。そして、小鳥遊さんと同じように死神に魅入られた彼女は、ちゃんと星になることができるのだろうか。どうか、二人が安らかに星になれますように。
 僕は、お婆さんの言葉を頭で何度も反芻してきた。お婆さんのおかげで、僕は彼女と出会えた。お婆さんのおかげで、今日まで生きることができた。そういえば、いつか彼女とした何気ない会話で、彼女の父親が実は養子縁組の子どもだという話があったな。あの時は、彼女の父親が今みたいになったのは、そういった過去があったからかもしれないという話だったけれど、今思えば養子縁組ならばお婆さんの子どもであってもおかしくはない。ずっと、お婆さんと彼女の父親の苗字が同じことが気に掛かっていた。まさかとは思うけれど、こじ付けもいいところであるため、今更彼女に確認することはない。
 走馬灯のように、色々な人の記憶が蘇った。彼女ももしかすると、僕と同じようにこれまで出会ってきた人たちのことを思い出しているのかもしれない。
 僕と彼女はほとんど会話することなく、夜になってもそこに居続けた。その時になって初めて、彼女の方から僕に話しかけてきた。
「ねぇ」
「なに?」
「名前、教えて」
「……僕の名前知らないっけ?」
「苗字しか知らない」
「……懐。懐かしいっていう漢字で、『いだく』」
「懐くん、か」
 彼女に名前で呼ばれたことに新鮮な気持ちになった。
「懐くんは、死神じゃないよ」
「……え?」
 彼女は信じられないほど優しい表情で僕に微笑みかけた。
「だって、私にまだまだ生きたいって思わせたんだもん」
「…………」
「だから、懐くんは死神なんかじゃない。死神もどきなんかでもない。懐くんは、人間だよ。他の人の気持ちに寄り添える、優しい人。そのことを、どうか忘れないで」
 彼女はそう言うと、肩から掛けていた鞄から、包丁を取り出した。突然、そんなものが出てきたことに驚いたけれど、同時に腑に落ちた。
「本来余りある君の余命が半年になったのは……半年後に、自殺すると心に決めたから。そうだね?」
 僕が訊くと、彼女は頷いた。
「……君はやっぱり、すごい人だ。自分の妹のために、必ず半年後に自分が死ぬと決心した。とんでもない人格者だ。やっぱり君は……涼音は、死神には向いてないよ」
「……懐くんに名前呼んでもらえるの、こんなに嬉しかったんだ」
 彼女はそう言って、静かに涙を流した。それから、彼女は自分の胸に包丁を突き立てた。
「身体が、勝手に動く」
 彼女は小さく掠れた声で呟いた。この世界の強制力が、彼女を殺しにかかってきている。僕は呆れるほど愚かにも、到底どうすることもできないことを試みた。
 僕は、彼女が死ぬのを阻止しようと、彼女の手を掴んだ。とんでもない力で、彼女は自分の胸に包丁を刺しこもうとする。僕は包丁の柄を持って必死に抵抗した。
「私に、生きていてほしいんだ」
 こんな時に、彼女は落ち着いた声でそんなことを言ってきた。
「当たり前だろ」
「……嬉しい。懐くんにそんな風に思ってもらえて」
 彼女は人生に一切の悔いを残していないような穏やかな表情で笑った。そして、包丁が胸に食い込んでいく感触が包丁越しに伝わってきた。彼女の胸元がインクのように血が滲んで広がった。彼女は口を僅かに動かした。声は聞こえなかったけれど、彼女が口にした言葉ははっきりと分かった。
「さようなら」

 空と地を合わせ鏡にしたように、夜空には星々が光り輝き、湖では双子みたいにそっくりな星々が共鳴するように同じ明るさで輝いている。
 この星々のうち、どれか一つが彼女かもしれない。
 けれど、もしも彼女が星になっているのなら、一番綺麗な星のはずだ。すぐに分かるだろう。もしかすると、まだ星になる手続きの途中なのかもしれない。
 僕は七日間、湖の前で過ごした。もはや、死神に課せられた呪いともいえる空腹になんとも思わなくなった。誰かの命をもらうことより、今の僕には願ってやまないことがある。
 僕は、自分の身体が灰になっていくのを感じながら、願った。

どうか、彼女の隣にいさせてください