遊園地の日から数日が経過した。
 あれからというもの、結衣ちゃんの様子が気になって寝つきが良くない。そのせいもあってか疲れが取れず、体は連日だるさを帯びている。
 今日も課外に出てきた訳だが、結衣ちゃんの様子と眠気に支配されて、課外の内容が全く頭に入ってこない。頬杖を付きながら視線だけを自分のノートに移すも、そこには自分でも解読できないような暗号が書かれていた。暗号ではなく、アートといえば少しは聞こえが良くなるか。
 そして、そのまま視線を前に向けると、授業をしている先生の方を向いて、真剣に課外に取り組んでいる結衣ちゃんの姿が映る。これまでの課外ではうとうとしていることが多かったのに、ここ最近はそんな様子は見られていない。何かの心境の変化だろうか。
 結局、電車を待っている間だけではなく、電車に乗ってからも会話はなく、彼女が下車のときに「さよなら」と掠れた声で呟いていただけだった。そんな彼女の具合が心配だったが、彼女は休むことなく課外には出席しており、健康面での心配は拭えた。
 しかし、心情面になると不安に思うことがある。
 こちらから声を掛けるも、どこか避けられている印象を受ける。完全に無視されている訳ではないが、返事はいつも簡単な相槌だったり、時には頷くだけでそこには会話が生まれることはない。
 こちらとしてもなぜ避けられているのかを解明する必要があるが、こういう状況になったのが遊園地で遊んだ帰りということもあり、如何せん事情を聴く人がいないのである。
 彼女には特に親しいといった友人がいる訳でもなさそうだし、かといって、彼女と関わりのありそうな生徒に片っ端から聞いて回っても、根も葉もない噂が流れてしまう恐れもあり、彼女に迷惑をかけることになるのを危惧している。彼女に近づきたいと心に決めたが、頑張り方をはき違えるのは良くない。
 頭の中で彷徨いながら模索していると、授業終了のチャイムが鳴った。また今日もだめだったか……。ここ数日はこんな調子で、考えてはいるもののゴールが全く見えないで足掻いている状態だ。ゴールが見えないから、ゴールに近づいてるのか、遠ざかっているのかも分からない。完全に八方塞がりだ。
 頭も体も疲れて、机に突っ伏す。どうすればいいのか。
 目の前には机の木目しか見えていないが、前席の椅子が引かれたことから、彼女が席から立ち上がったことが分かる。ここ最近、彼女は課外が終わると、すぐに帰路へ就いている。
 目的もなく少し見上げると、やはり彼女はそこには居らず、教室から出ていくところだった。相変わらず帰るのが早いなと思いながらも、上半身を起こして、原形を留めていないスクールバックに教科書やノートを詰め込む。彼女がいないのに、これ以上ここにいても仕方ないし、家までの徒歩の間に少しはリフレッシュができる。膝に手を付いて立ち上がると、水分不足か少しだけ視界がぼやけた。咄嗟に水筒を取り出し、残り少ないお茶を全て飲み干す。
 そして、いざ帰ろうとすると、情景にどこか違和感を覚えた。
 いつも通り、彼女の机には何も置かれておらず、消しカスの一つもない。
 ここまでは普段と変わらないのだが、今日に限っては彼女のスクールバックが机の横のフックに掛けられていることに気付く。確かに、さっき出ていったときにバックの類は何も手にしていなかった。
 とはいっても、ただのお手洗いだとか、他のクラスの友人に少し用事があるだとか、その程度のものだろう。そこまで敏感になるほどでもない。
 彼女のバックを横目に、僕は教室を後にする。
 下駄箱を過ぎて中庭を通って近道をしようとすると、ベンチに結衣ちゃんが座っているのが見え、慌てて身を翻し校舎に身を隠す。
 なぜ彼女はあんなところに座っているんだ……?
 課外は午前中で終わる上に、彼女は部活にも所属していないから余計に彼女の行動が気になる。誰かと待ち合わせをしているとか?
 校舎の角から片目だけ出して経過を観察していると、一人の女子生徒が結衣ちゃんの元へと寄っていく。結衣ちゃんもその存在に気が付いたようで、お互いに軽く手を振っている。にしても、どこか見覚えのある後ろ姿だな。彼女は、結衣ちゃんの横に腰を下ろした。
 あれは……美月か。
 見覚えがあるという、僕の感覚は正しかったようだ。
 にしても、あの二人がここまで親密な仲になるとは思ってもみなかったな。
 どういう用件で待ち合わせをしているのか知りたいところだが、この距離では流石に彼女らの会話の声を拾い上げることは不可能だ。かといって、近くに行って盗聴するにも隠れる場所がないし、もしバレたら学校には居られなくなるだろう。
 ここは諦めて、おとなしく帰ることにしよう。少々遠回りになってしまうが、ここは近道ではなく正門の方から帰ることにする。課外が終わって下校している生徒が多い中、彼女らと絡んでいると好奇の目を向けられるかもしれない。しかも、そのうちの一人はあの美月だ。時折忘れそうになるが、彼女は学校では才色兼備の優等生なのだ。実は彼女に好意を寄せている男子も少なくないだろう。
 正門に向かうために踵を返す瞬間、さっきまで笑顔で話していた彼女らの表情が一変して、困惑に溢れた表情で話している光景が僕の視界に映る。
 さっきまであんなに楽しそうに話していたのに…どうしてだ?
 正門に向けていた身を翻し、先程と同じように彼女らの様子を覗き見する。
 僕の今いる場所からは会話の内容は聞こえないが、彼女らの表情から察するに良い話ではないことは確かだ。そして、美月が結衣ちゃんに言い寄っているようにも見えなくはない。
 そして、いよいよ美月は立ち上がり、どこか怒気を含んだ強い口調で結衣ちゃんに詰め寄っているようで、あそこまで眉間にしわを寄せている美月は初めてだ。
 しばらくすると、美月は理系棟へ戻っていき、結衣ちゃんは俯いて動かなかった。
 一体、彼女たちの間に何があったのだろうか?
 目の前で起きた光景が信じられず、僕はしばらく茫然と立ち尽くしていた。

 その日の晩、僕は美月と家の前で待ち合わせをする約束をした。
 無論、中庭での出来事の詳細を聞くためだ。
 彼女からは、僕の家ではダメなのかと鋭い質問を受けたが、両親には聞かれない方がいいだろうと判断して、彼女の提案を却下した。真夏の夜でも、気温は三十度近くになる。そんな中で呼び出して申し訳ない気持ちで一杯だが、どうしても聞いておかないとモヤモヤが晴れない。
 早々に晩御飯を済ませて、ラフな格好に着替えて待ち合わせへと向かう。
 まだ美月は来ておらず、蝉のミーンという鳴き声だけが辺りに響いている。夏の日照時間は長く、午後七時近いというのに、家の向かいにある住宅の輪郭がうっすらと浮かんで見える。
 しばらくすると、サンダルの掠れた音が聞こえ、その方向へ視線を移す。
「湊の方から呼び出すなんて初めてじゃない?」
「確かにそうかもね」
「電話じゃなくて呼び出すってことは何かあったの?」
 付き合いが長いこともあり、美月には何でも見透かされている。
 ただ、今回に限っては自分がその当事者であると思ってもみてないだろう。
「今日、課外の後に結衣ちゃんと話してたのを見かけたんだよ」
 ただ見かけただけと言っただけで、あからさまに彼女の口の端が引き攣った。
「何を話していたのかなって」
 間髪入れず、ストレートに聞く。
「別に? 山本さんがお土産を買ってきてくれたみたいだから受け取っただけよ?」
 僕が見逃しただけで、結衣ちゃんはお土産を持って中庭に向かったのか。しかし、お土産を渡しただけなのに、あそこまで険悪なムードになる訳がない。
 ただ、急に聞き出そうとしても警戒されるだけだ。
「結衣ちゃん、勉強を教えたお礼として遊園地に誘ってくれたんだよ」
「それも山本さんから聞いたよ。そんな大イベントを教えてくれないなんてひどい」
「ごめんごめん、美月も誘うべきだった」
「そういうわけじゃないんだけど……そういうことにしとく」
 彼女は自分の意見などをしっかりと伝えるタイプの人間で、こんなにしどろもどろしている姿は初めてだ。
「はっきりしないなぁ」
「別にいいでしょ」
 口調からして美月の機嫌が悪いのは自明だ。
 外堀を埋めてからメインの話題を聞き出そうと考えていたが、それは逆に彼女の機嫌を逆撫でしてしまうかもしれないと危惧する。
 ここは変化球ではなく、直球で聞くのが得策だ。
「さっきの話だけどさ」
 彼女の表情に変化はない。
「結衣ちゃんと言い合いになっていたように見えたけど、何を話していたの?」
 拳を握り、手汗を滲ませながら聞いた。幾分か鼓動も速くなっている。
 彼女はこのことを聞かれるのを予知していたのか、口の端を引き攣かせた先ほどとは打って変わって、今回は全く表情を崩さなかった。
「それは内緒」
 その回答が返ってくることは想定内だ。
「どうして?」
「どうしてって……。わたしと山本さんの話なんだから教える義理はないでしょ」
「……っ」
 思わず言葉に詰まってしまう。僕が結衣ちゃんのことが好きだと分かっているのに、彼女に怒鳴ったりした理由を教えてくれないなんてモヤモヤする。
「どうしても教えてくれないの?」
「じゃあ、直接、結衣ちゃんに聞くから」
 僕がそう言うと、美月の瞳が大きく見開いた。
「だから‼ もういいでしょ‼」
 夜の静寂に、彼女の大きな声が響き渡る。
 しばらくして彼女は我に返ったのか、ハッとなり僕に視線を向ける。
 気が付かなかったが、彼女の眼が少し腫れて赤みを帯びているようだ。
「美月……?」
 その直後、彼女は自分の家へ駆けて行った。
 初めて見た彼女の姿に動揺を隠せない僕は、去っていく彼女の背中をただ追いかけることしかできず、彼女の家の門の前で立ち尽くす。
 彼女は玄関の前で振り返り、夜の暗闇とは対照的な輝かしくも、どこか儚さを含んだ笑顔で言った。
「わたしは湊の恋を応援してるからね」
 そう言い残した彼女は、玄関の奥へ消えていった。
 
 長かった課外が終わり、短かった夏休みも終わり二学期に突入していた。
「ねぇ、ちょっと」
 授業が終わって帰る準備をしていた僕に、結衣ちゃんはぶっきらぼうに話を振ってきた。ここ最近は避けられていたように感じていたから、彼女から話しかけてくれることに少なからずの安心感を覚える。
「どうしたの?」
 彼女の要件が一向に予想できず、普通の返答をする。
「途中まで一緒に帰らない?」
「え?」
 突然の彼女の提案に困惑する。予想していなかった。
「どうなのよ」
「分かった、一緒に帰ろう。ちょっと準備するから待ってて」
「早くしなさいね」
 そんな彼女の机の上に、スクールバックが置かれていた。筆箱やノートは置かれていないから、もう準備万端なのだろう。もっと早く言ってくれれば僕だって爆速で帰る準備をしていたのに。
「準備できたよ」
「了解」
 彼女はそっけなくそう言うと、足早に教室の扉に歩を進めた。話しかけられたことに安心していたが、彼女の僕に対する接し方を見ると、そこまで好感触ではなさそうだ。でも、どうして僕と一緒に帰ろうなんて言い出したんだろう……。
 結衣ちゃんとこうして一緒に帰るのは、勉強会のとき以来だ。あのときは、帰りながら勉強会の作戦を練っていたことを思い出す。
「あなた、好きな人とかいるの?」 
結衣ちゃんに告白された河原道に差し掛かったタイミングで不意に聞かれた。
「急にどうしたのさ」
「いいから答えなさいよ。好きな人はいるの?」
 あまり良いとはいえない空気感と相まって、話題が話題なだけに警戒してしまう。彼女はどうしてそんなことを聞くんだ?
 しかし、ここで答えを誤魔化してもすぐに見透かされそうで、その後も追及されることは明らかだった。だったら、正直に答えよう。
「好きな人は……いるよ」
 今までの彼女とは様子が違うことを察知し、歯切れが悪くなってしまう。
「……そう」
 彼女は小さく漏らした。
 いったい、彼女はそうしてそんなことを聞くのだろうか。質問の意図が全く分からない。ここ最近の彼女は、僕の予想していないことばかりで振り回されている。
「ずっと待ってるんだけどね」
 僕はそう付け足した。
 僕の回答に満足したのか、その後、彼女から同じ質問をされることはなかった。
 二人で並んで河原道を進んでいたところ、突然彼女が歩く速度を速め、僕よりも数歩手前で止まり、大きく背伸びをした。
 止まった場所は、ちょうど結衣ちゃんに告白された場所そのものだった。そのときの情景が蘇る。
「ここで湊くんに告白されたんだよね」
 これまでの彼女とは全く違う、優しく穏やかな声だった。
「えっ……」
 今、湊って呼んだ?
 そんな、まさか。
「もしかして……」
 彼女は、夕日でオレンジがかった煌めく髪を靡かせ、振り返った。
 
 ♢

 わたしは、昔から本ばっかりを読んでいた。
 『おとなしい』といえば聞こえはいいが、実際は人と話すことが苦手なだけで、本に逃げていただけなのかもしれない。
 ただ、そんな消極的な理由だったとしても、読書をしている時間は当時のわたしにとってはいちばん楽しい時間だった。
 小学校五年生のとき、わたしは変わらず隙あらば本と向き合っていた。
そんなある日、リビングのソファに寝っ転がりながら本を読んでいたわたしに、お母さんは手招きをして一冊の『小説』を差し出した。わたしはそれを両手で受け取り、異物を見る感じで眺めた。これまで読んでいた本とは違い、使われている紙は薄く、乱暴に扱えばすぐに破れてしまう印象を受けた。
 読書とはいっても、これまでは子ども向けの本ばかりを読んでいたことから、文字しか書かれていない何ともいえない不気味さに好奇心が惹かれた。本のどこを捲っても、本当に文字しかない。
 ただ、知らない漢字が多すぎて読めない……。
『お母さん、漢字が多くて読めないよ』
 読んでみたいのに読めない、もどかしい気持ちだ。
『あら、じゃあそれを読むのはもうちょっと先になっちゃうわね』
 そう言われると、なおさら読みたくなっちゃうじゃんか。
『やだ、今すぐ読みたい』
 わたしが支離滅裂なことを言っているせいで、お母さんは「どうしよう」といった感じで困惑の表情を浮かべている。そういえば、ここまで我を通しているのは初めてかもしれない。
 情報が文字だけというのも趣があって興味をそそられたが、笑顔で涙を流している女の人がきれいで、そんな表紙のデザインにも吸い込まれるように惹きつけられていた。そこにはどんな世界が待っているのか、早くこの目で確かめてみたい…。
 しばらく考え込んでいたお母さんは、何か閃いたように少し顔を見上げ、わたしに大きな板のようなものを渡してくれた。
 受け取ると、意外と重たい。これは何だろう。
『もし読めない漢字があったら、これで検索しながら読み進めると良いかもしれないよ』
『けんさく……?』
『調べるってことよ』 
 お母さんはそう言って、わたしの持っていた板の表面に指を触れさせる。すると、自分の顔しか映っていなかった画面が、鮮やかに色づいた。そして、お母さんは慣れた手つきで操作し、検索画面を表示させた。
『ここに分からない単語を手書きすれば読み方とか意味が出てくるからね』
 手順は分かったけど、読み終えるまでにすごく時間がかかりそう……。
 でも、やってみたい。
 もっと本に触れてみたい。
 それからというもの、暇さえあればその小説を読み、分からない単語が出てくれば検索して読み方や意味を知る。そしてまた読み進めて、分からない単語が出てくれば検索するというのをひたすら繰り返した。
 自分の歳にしては、文字に触れる機会は多かったと自負しているが、一般図書の小説になるとこんなにも大変なのか。
 でも、楽しい。
 子ども用の本には、ページの途中に絵が挿入されていることが多く、それを見れば登場人物の容姿や物語の状況が把握できた。
 しかし、小説にはそのようなものは存在せず、登場人物の容姿や表情、今いる情景や行動を全て文章で書かれている。この人は今どこで何をしているのか、そこには他に誰かいるのか、そしてどのような心境なのかなどが直接的、または間接的に表現されていて、自分の想像が掻き立てられる。もしかすると、作者の想像と自分の想像では異なるところはあるかもしれない。
 でも、それも小説の面白さだと感じていた。作品は一つなのに、読み手の捉え方によっては読み手の数だけの解釈が存在する。
小説ってすごい……‼
 結局のところ、その小説を一通り読み終えるのには半月もかかってしまった。時間を要したおかげで、終盤を読んでいる頃には序盤の展開や場面を忘れていたりしてたが、最後まで読み切ったときには、この作品に対してもそうだけど、小説というものにすごく感動した。
 わたしも書いてみたいな……。
 漠然とそう感じた。
 それからというもの、今以上に生活に対する読書の割合が大きくなっていった。
 小学校を卒業して、公立の中学校へ進学したある日のこと。
 わたしの通っていた小学校は規模小さい学校だったのだが、一緒の中学校になったもう一つの小学校は規模が大きかった。そのため、学年の生徒数もそれなりに多くなり、同級生と過ごす時間が増えていった。
 わたしは人に流されやすい性格ということは自覚している。
 人と違う意見も持ったときも、友達から遊びの誘いを受けたけど断りたいときも、自分の意見を言うことが怖かったから渋々それに従うことしかできなかった。
 もう中学生なんだから、そんな性格を治したい…。
 口で言うのは簡単だが、人の性格なんて簡単に変わりはしない。
 そんな自分に嫌気が差していたとき、あなたを見かけた。
 成長期真っただ中で、周りの男子はみんな大声で話したり、廊下を走ったりしているのに、席で黙々と本を読んでいる彼の姿はとても異質だった。小学校では見たことないから、もう一つの方の小学校出身かな。
 友達いないのかな…? 失礼ながらに、最初はそんなふうに感じた。でも、周りに流されずに、自分のしたいことをしている姿勢は羨ましく映った。
 どんなジャンルの小説を読んでいたのだろうか。ただ読書をしていただけなのに、彼の姿が頭から離れない。授業中だけでなく、家に帰ってからも同様だった。
 次の日、彼がどんな小説を読んでいるのか解明するために、何食わぬ顔して彼の横を通り過ぎるという作戦を立てた。彼はいま自分の席で友達とおしゃべり中のようで、作戦の実行には打ってつけのタイミングだった。
『ごめん、今はちょっと本が読みたいんだ』
 意を決して近づいてもう少しで見えそうという距離で、彼の口からこんな言葉が聞こえてきた。わたしはその場で歩を止める。彼の友達は「そっかー」と言いながら、何も気にしていないように足軽に去っていった。
 彼に視線を移すと、何事もなかったかのように机に向かいページを捲り始めた。
 ……とてもじゃないけどわたしには言えないかなぁ。
 盗み見する目的など忘れて、素直に彼への関心と自分に対する嫌悪感が生まれる。このときの心境としては『憧れ』の要素が強かったと思う。
 それからというもの、彼の姿を目で追うようになった。
 クラスも違っていたし部活も接点がなかったから、移動教室を伴う授業や行事ごとでしか彼を見かけることはなかった。彼のことをもっと知りたいのに。
 そんな毎日が過ぎて、中学三年生の秋。
 風のうわさで、彼が城南高校の受験を考えているということを耳にした。父親の教育方針で私立の女子高に進学する予定だったけど、さすがに心が揺らいだ。このままでは、中学校を卒業すれば、もう二度と彼とすれ違うこともないかもしれない。
心の中で葛藤する。
 でも、もっと彼に近づきたい。
 いつしか彼を知りたい気持ちが『近づきたい』という気持ちになっていた。
 ――ああ、このときからか、憧れが『好き』に変わったのは……。

 高校に進学してからも、彼のことを目で追うことしかできない毎日は続いた。
 でも、わたしにも彼に近づけるチャンスがやってきた。
『クラス、一緒だ……』
 周りの盛り上がりとは対照的な、か細い声を漏らす。
 二年生に進級して新しいクラスの教室に上がり、扉から自分の席の位置を確認する。わたしの席は、いちばん窓際の後ろから三番目だった。そして、その二つ後ろの席には、
 ……いた。
 相変わらず頬杖を付きながら読書に勤しむ彼の姿を発見した。彼に気が付かれないように、そっと自分の席に向かった。
 同じクラスになれたことで、これからは接する機会が増えるぞ‼
 そして、新学級になって二か月ほど経過した六月の初旬、席替えをするというビックイベントがあった。
『よろしくね』
『ん、よろしくー』
 なるべく警戒心を持たれないように、優しい声を意識して軽い挨拶をし、すぐに前へ向きかえった。彼からの返事をもらえただけで頬が緩みそうになり、顔を少し掻くふりをして誤魔化す。まさか、席が前後になるなんて……‼
 嬉しさで心臓が破裂しそうだ。
 文化祭の担当時間決めのホームルームで、彼が読書が好きな振りをして話しかけるのにすごく勇気を振り絞ったな。
 一年生の二学期、わたしが飼育委員になって、可愛がっていたうさぎが死んでしまって泣いていたところに、彼が話しかけてくれたのは驚いた。彼の優しさを捨てて逃げてしまったけど、あそこで半紙掛けてくれて、少しは心が落ち着いた。
 ――だから、マスコットのモチーフはうさぎにしたんだ……。
 まさか彼と両思いになるなんて思ってなくて、その日の夜は一睡もできなかった。
 でも、幸せでいっぱいだった。
そして、その後すぐ、わたしは記憶を失くした。
 医者から記憶喪失だと伝えられても、「そうですか」としか思わなかった。
 だって、何も覚えてなかったんだもん。
 麦わら帽子にワンピースを着ている女性や、畳まれている制服の校章と同じ制服を着た男子が見舞に来たりしたけど、本当に何も思い出せなかった。
 わたしの身分は高校生だとして、メディカルチェックを経て高校へ通学を開始した。最初こそは周りの生徒が心配をして寄ってきてくれたが、次第にその機会は減り、最終的には誰もわたしに近づいては来なくなった。心配という仮面を被った好奇や偽善だったのだと気付き、ため息が漏れる。
 そんな日常に飽き飽きしていたある日、体育でソフトボールをすることになった。
『山本さん、ペアを組む人は決まった?』
 キャッチボールのペアを作らないといけないけど、そんな友達もいないしどうしようか狼狽えていたところ、彼の優しい声が聞こえた。
 あのときは思わず強気な態度をとってしまったが、本当はすごく安心したのを覚えている。自分が上手く投げられないときも、優しく教えてくれた。彼のアドバイス通りに投げてみると、自分でも驚くほど上手に投げることができ、記憶を失くしてからは初めて心の底から楽しいと感じることができた。
 自分が暴投ばっかり投げて楽しくないはずなのに、わたしが上手く投げられた時には、自分のことのように喜んでくれた。そのときの笑顔が今でも忘れられない。
 それ以降、わたしと彼のやり取りをみて、話しかけてくれる人が次第に増えていった。最初こそは不信に感じていたが、みんな偽善で接してくれているのではないと気付き、友達も増えていった。
 学校に馴染めなかったわたしを救ってくれたのは彼だった。
 期末テストで欠点を取ってしまったときも、彼ならどうにかしてくれるかもしれないと、藁にもすがる思いで勉強を教えてほしいと頼んだ。
 ただキャッチボールをしただけの関係性なのにこんな頼みをするのは本当に申し訳ないと思っていたが、紆余曲折ありながらも彼は渋々だが了承してくれた。
補講が無事に終了したとき、さすがにお礼をしなきゃということで遊園地に誘うことにした。お礼のつもりで誘ったのだけど、もしかするとこのときから彼のことを意識し始めたのかもしれない。
 当日、まさか彼が駅にホームにいるのは想定外で、前髪を弄っていたところや、少しでも彼に可愛くみられるように顔の体操をしていたのを彼に見られたのは汚点だ。電車の中では、これから向かう遊園地にどんなアトラクションや施設があるのかを入念に予習した。彼の好みは分からないから、そのときに備えて代替案も用意しておかないと。
 まさか一発目のジェットコースターから渋い顔をされるなんて思ってなかったけど、ジェットコースターを怖がる彼が可愛くていじめてしまった。普段は頼れる友人って感じなのに、こういうときは子どものような愛くるしさを兼ね備えているところにギャップを感じ、少しずつ好意が深まっていった。
 いや、認めたくなかっただけで、もう彼のことを好きになっていた。
 わたしは、記憶を失くしても、彼に恋をしてしまった。

 ――わたしは、二度、あなたに恋をした。
 
 そして、帰りの駅のホームで彼の落としたうさぎのマスコットを拾ったとき、頭を石で殴られた感覚に陥った。
 ――これ、どこかで……。
 縄でずっと締め付けられるような頭痛に耐え切れず、思わずその場に蹲った。何か思い出せそうで思い出せない、そんな時間が続いた。
 突然、わたしが同じ学校の生徒にこれを同じものを渡している情景が脳裏にフラッシュバックした。でも、その情景はぼやけていて、相手が誰なのかは判別できない。
『あの、こ、これは?』
 もう少しで思い出せそう、そのタイミングで呆気にとられた彼の姿が鮮明に現れた。
 ――あなただったのね……。
 わたしは、このとき記憶を取り戻した。
 こんなにも好きだった人をどうして忘れることができたんだろう。
 今すぐにでも、彼の胸に飛び込みたい。
 でも、勇気が出なかったし、まずに自分の中で頭の整理をしたいから、とりあえずそのときは記憶を失くした振りをして彼と別れた。
 そして、一つだけ気がかりなことがあった。
 それは、記憶を失くした自分の方が、彼と多くの時間を過ごしているということ。すると、彼は記憶を失くす前の自分よりも、失くした後の自分の方が好きになのではないか。そんな疑問がずっと渦巻いていた。
 数日考えても答えが出ず、彼とどう接していいのか分からず、避けてしまう日々が続いてしまった。このままでは彼に申し訳ない。だけど、どうすることが正解なのかまったく分からなかった。
 すると、ハンドバックの中からラッピングされたお土産のようなものが覗いており、矢野さんにお土産を渡していなかったことに気が付いた。とりあえず渡さないと…… ということで、課外の後に待ち合わせることにした。
 課外が終わって中庭に行くと、まだ彼女は来ていなかった。とりあえずベンチに腰掛けて彼女が来るのを待った。
 すると、すぐに彼女が現れてお土産を渡す。
『本当にありがとう‼お土産すごく嬉しいよ‼』
『開けてみてもいい?』
 自分の前で開封されるのはすごく恥ずかしいが、彼女なら絶対に喜んでくれると思い了承する。
 丁寧にラッピングされた包装紙を、彼女は丁寧に開いていく。次第に見えてきたのは、遊園地のマスコットキャラクターが小太鼓を叩いている絵が描かれたポーチだった。
『え~かわいい‼』
 とりあえず彼女が肯定してくれたことで安堵する。
『矢野さんに似合うと思って想像しながら選んだんだ』
『なにそれ、山本さんて意外と可愛いところあるんだね』
 彼女は自分の考えをストレートに言うタイプだと彼から聞いていた。急に可愛いと言われ、思わずにやけそうになってしまう。
『なんか湊と一緒に行ったんだって?』
『ええ、無理なお願いをしちゃったし』
『湊なんだから、そんなに気を遣わなくていいのに』
 彼女はローファーのかかと部分とつま先をトントンとぶつけ合わせている。
『湊くんは本当に優しいよね』
『……えっ』
 先ほどまでの彼女の声色とは違い、低く驚きを含んだ声色だった。ただ、彼が優しいと言いたかっただけなのに、自分が取り返しのない間違いを犯したことに気が付くまでに数秒を要した。
『山本さん、今まで湊のこと下の名前で呼んでたっけ?』
 咄嗟に呼んじゃった、とぼけたようにそう答えればこの場は凌げたかもしれなかった。
『あ……いや……』
 動揺で声が震えて、上手く答えられなかった。
『ん?』
 彼女に顔を覗かれて、自分の困惑した表情を見られたに違いない。なんとかこの場を収めないといけないのに、頭が真っ白でどうすればいいのか分からない。
『山本さん、もしかして、記憶が……』
 確信を突かれた質問をされ、もう逃げられないと感じ小さく頭を縦に振る。
『どうして黙ってたの? いつから記憶が戻ってたの?』
 もう嘘をついても仕方ない。正直に話そう。
『遊園地の帰り道……。湊くんが落としたものを拾ったとき、それは以前わたしがプレゼントしたうさぎのマスコットだったの……。それで……』
 心なしか息が苦しく、上手く話すことができない。
『じゃあ、早く湊に教えてあげなよ。湊はずっと待っているんだよ?』
 彼女は前のめりに言ってきた。
 わたしだって早く彼に記憶が戻ったことを伝えたいよ……。でも、
『わたし、嫌われるのが……怖い……』
『なんで湊が山本さんのこと嫌うのよ』
 彼女の声にはどこか怒気が感じられ、少しだけ答えづらい印象を受けた。
『湊くんは、どっちのわたしが好きなんだろうって……』
 そこで言葉を切ったが、彼女の眼差しから続けてって聞こえてくる。
『記憶を失くした私の方が好きなんだったら……今の自分を演じ続けたほうがいいんじゃって思っちゃったりして……』
 すると、パチンッという音が聞こえ、痛覚のある左頬に手を当てると熱を帯びていた。何が起きたのか理解が追い付かず、思わず彼女に視線を移す。彼女は目に涙を溜め、口をとがらせていた。
『なに勝手なこと言ってるのよ』
 明らかに怒気が含まれていて、左頬の痛覚に拍車がかかる。
『わたしは、ずっと湊のことが好きだったよ』
『……えっ』
 一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
 矢野さんが、湊くんのことが好き?
 まさか、今までそんな素振りなんてなかったのに。
 彼女の突然の告白に開いた口が塞がらない。
『小さいときから私の両親は共働きで帰りが遅いの』
 彼女はそう語り、こちらに視線を寄こしてきた。今度はこちらの方から話を続けるように視線で合図を送った。
『家に帰っても誰もいない。そんなとき、湊が声を掛けてくれたの』
 懐かしさからなのか、そう語る彼女には笑みがこぼれている。
『正直、年頃にしては大人びていた私からしてみれば、湊なんておこちゃまだったよ。虫の図鑑を見てテンション上がるなんて当時の私には分からなかったもん』
 何となく想像できてしまい、彼に少しだけ罪悪感が生まれてしまった。思わず、わたしも少しだけ笑ってしまった。
『でもね、それは嘘だったの』
『嘘?』
 顔から笑みが消える。
『中学校の時かな。湊に聞いてみたの、今でも昆虫は好きなのかって。そしたら、そんなわけないだろうって門前払いされちゃった』
 しっかり彼女の言葉に耳を傾けても、どういう真意があるのか分からない。
『湊は、寂しそうにしてた私を楽しませるために昆虫が好きな振りをしてたんだってさ』
 彼女は中庭の上に広がる空を見上げている。
『私はそんな優しい湊に救われた。いつからかそれは恋に変わっていたよ』
 彼女の話を聞いて、言葉が出なかった。
 どうすればいいのか分からず俯いていると、彼女は、でもね、と続けた。
『わたしは自分の恋を諦めて、好きな人の幸せを願って応援することに決めたの』
 真剣な眼差しに吸い込まれそうになる。
 思わず、一筋の涙が頬を伝う。
『湊を幸せにしないと承知しないからね、覚悟しなよ‼』
 わたしの鼻頭に人差し指を置いて、屈託のない笑顔で彼女は言った。そして、彼女は理系棟へと戻っていった。その凛とした後ろ姿は脳裏に焼き付かれている。
 ……ありがとう。そして、本当にごめんなさい。
 わたしは、湊くんに告白することを心に決めた。
 もう逃げたりなんかしない。 
 そして、今、彼に告白されたこの場所で、彼に好きな人を問うた。
 返答に困っている姿を見て、答えを知ることができた。
 やっぱり、人って簡単には変われないんだな……。
 彼は、記憶を失くす前の自分と、記憶を失くしてからの自分の両方に対等に接してくれた。中身は全然違うし、記憶が蘇るのかも分からなかったのに……。
 そして、わたしのために、記憶を思い出させることをしないと徹底してくれた。
 そんな優しい、彼が好き。
 彼は、そのままの彼でいてくれた。
 でも、さすがに嫉妬しちゃうなぁ。
 自分自身に嫉妬するなんて面倒くさいと思われちゃうかな。
 もう一人の自分の方が好きだったなんて言わせないように頑張らないと。
 だから、まずはこの気持ちを全力で彼に伝えるんだ……。
 彼の方へ振り返り、そっと微笑む。

「湊くん、大好きだよ」

 ~完~