いつも通りの朝ならばホームルームを控えてクラスメイトは騒がしくお話をしている。昨日出ていたアイドルがかっこよかった、ゲームでランクが上がったなどの、それぞれが興味のあることを話していて、僕はそれを興味のない振りをしながら聞くのが結構楽しみであった。しかし、今日はそんな話はあまりされていない。クラスメイトは忙しなく動いている。
「和田くん、ちょっと運ぶの手伝ってもらえる?」
 近くにいる人なら誰でもいいかのようにクラスメイトの女子に頼まれた。
「うん、いいよ」
 本当ならあまり動く気にはなれなかったし、協調性みたいなのは苦手だ。でも、変に断ってクラスの中で浮いた存在になるほうがよっぽどごめんだ。
 そう言って物でいっぱいの重たそうな段ボールを抱え、その女子と一緒に階段を降り、自分たちが普段過ごしている教室とは別の教室へ向かった。
 そこに広がっていたのは数々のアトラクション。お世辞にも完成度が高いとは言い難いが、段ボールでここまで仕上げたのはすごいし、楽しむ分には十分なクオリティだと感心した。女子が中心となってセッティングを進めている中、ガムテープを丸めてボールを作り、投げ合っている男子の姿も見られた。
こうなってくるとあの決まり文句が頭に浮かぶ。
「ちょっと男子!遊んでないでセッティング手伝ってよ!」
「ごめんごめん、そんな怒んなって」
 出ました。女子の怒号交じりのちょっと男子攻撃。
 どうやら言ったのは僕らのクラスの文化祭実行委員のようだ。あまりにも僕の想像通りで笑い転げそうになったが、本当に転げたらただの変人だ。しかし、顔のにやけは堪え切れず、一緒に段ボール箱を運んだ女子に、なんでにやけてるの、と聞かれてしまった。誤解を招かないように弁解したと思うが、なんて言ったのか覚えていない。
 せっせとクラス全員で準備を進めていく中で、僕は一人の女子の後ろ姿が目に入った。
身長は他の女子と同じくらいで高すぎず低すぎずといったところ、髪の毛は肩にかからないくらいのショートカット。学校指定のスカートの裾は膝頭よりも少し下で、黒のタイツを履いている。体は細く、かよわい印象だが、制服の着こなしからは真面目な雰囲気が感じられる。
 しばらく彼女の後ろを姿を見つめていると、一緒に段ボールを運んだ女子が教室に響く声で言った。
「結衣、ガムテープ持ってる?」
 その響きを聞いたとたんにドキッとした。
 名前を呼ばれた女子は振り返り、僕らと対面する形になった。
 またしてもドキッとした。
「持ってるよー」
「段ボール止めたいから貸して欲しいんだけど」
「いいよ、ちょっと待ってて」
 そう言って彼女は自身の近くに転がっていたガムテープを持って、僕らの立っている教室のドア付近に歩いてきた。
 心臓の鼓動が速くなるのを感じる。彼女と僕らの距離が近くなるにつれて鼓動の速さが増していくのが自分でもわかる。落ち着け、僕の心臓。
 そして彼女は僕らの目の前に来た。鼓動の速まりは限界を知らず、今にも皮膚を突き破ってくるかのように心臓が動いている。これだけ活発に心臓が動いていれば、隣にいる二人にも音が聞こえてしまうのではないかと思っていたが、そんな僕の勝手な妄想とは裏腹に、女子二人は段ボールを止める作業をしていた。
 僕も自分の運んだ段ボールを止めようと、ため息交じりに、床に転がっていたガムテープに手を伸ばす。そのとき、堅いガムテープではなく、柔らかい皮膚のようなものと触れ合った。僕は条件反射で手を自分の方に引っ込め、ごめんと言いながら顔を上げた。
 顔を上げた先には、ガムテープを持ってきてくれた彼女のきれいな瞳があり、その瞳に吸い込まれそうになる。
「ごめんね、先に使っていいよ」
 そんな挙動不審な僕とは打って変わって、彼女は無表情のままそう言った。
「ありがとう」
 精一杯の力を振り絞ってそう言い、震える手に苦戦しながらもなんとか段ボールの口を止めることできた。
 そのまま段ボールを教室の片隅に置いて一段落していると、彼女はガムテープを持って、先ほどの場所に戻り作業を進めていた。屈んで背中を丸め、周りの女子たちと楽しそうにアトラクションの細かい箇所のチェックを行っている。
「どこをそんなに見てるのよ」
 目的もなく彼女の背中をボーッと眺めていた僕に、段ボールの女子がそう聞いてきた。
「別に何も見てないよ」
 彼女を見ていたのがバレるのを恐れ、僕は嘘をつく。ただそんなのは通用しない。
「嘘つきなさいよ。ずっと女子の方ばっかり見て」
「見てないって。アトラクションすごいなぁって感心してたんだよ」
「だよね。まあまあのレベルだと思うわ」
「お子さん連れの家族とかに楽しんでもらえそう」
「友達の弟さんとか妹さんとか来てくれたらいいのにね」
 なんとか話題を逸らせることに成功して他愛のない会話をしていると、遊んでいた男子の放ったガムテープのボールが、セッティングをしていた彼女の背中に直撃した。
「ごめん、大丈夫?」
「全然痛くなかったから大丈夫だよ」
 彼女は笑顔でそう返していた。その直後に、男性諸君はちょっと男子攻撃を受け、今度こそアトラクションのセッティングに取り掛かり始めた。
 やはり女子のちょっと男子は僕のツボらしくにやけていると、段ボールの女子が気持ち悪いという視線を送ってきた。
「なんでそんなににやけてるのよ。気持ち悪い」
「女子って『ちょっと男子ちゃんとやってよ』って本当に言うんだな」
「アホくさ」
 彼女そうは言い捨て、アトラクションの方へ向かっていった。
 一人になった僕は、一生懸命にアトラクションと向き合っている彼女へと視線を向けた。先ほど背中にボールを当てた男子がまだ謝っている。当てられた本人は全然大丈夫と言っているのだからもういいと思うけど。
そんな光景を微笑ましく眺めている一方で、彼女と気兼ねなく言葉を交わせているのが羨ましくも思った。

 今日は僕の通う城南高校の文化祭の日なのだ。
 城南高校では、毎年六月の最初の土日に文化祭を開催することが伝統というか習わしとなっている。
 昨日は、出し物こそなかったが、体育館に全校生徒や教職員が集まり、クラスごとの『三十秒CM合戦』や有志による『叫べ!こんなぶっちゃけあります!』といった企画が行われた。正直な話、当日の出し物よりも、生徒にとっては前日に開かれるこういった企画の方が楽しみだったりするのだとか。
『三十秒CM合戦』では、僕らのクラスの某テレビ番組を真似たCMが、学年の中での優秀作品に選ばれた。僕は作成に一切関わってないけど。
 一年生と二年生は各クラスで出し物。三年生はかき氷やカレーなどといった食品バザーを販売することになっており、僕ら二年一組の出し物は…簡単に言うと縁日みたいなもの。
 射的や輪投げなど定番のものから、段ボールで作ったベルトコンベアに積み上げられた缶のターゲットを係員が動かし、その動くターゲットに向かって柔らかいボールを蹴り、ターゲットを倒すという少し凝ったものまである。あくまで高校の文化祭であるため、金銭的な作成はあまりできなかったが、段ボールで作ったとは言えないほどのクオリティである。時間を潰すにはもってこいだ。
 飛び交う生徒の意気揚々とした声。
 浮かれるなというが、自身も少し浮足立っている教職員。
 色とりどりに飾り付けられた教室。
 今日は文化祭なのに変わらず朝練習に励んでいる野球部員。
 例年と何ら変わらない文化祭だ。
 ただ今年は違う‼
 今年は…
 その瞬間、教室の後ろのドアが勢いよくガラッと開いた。
「おーい、そろそろ朝のホームルームの時間だから切り上げて戻って来いよー」
 そう言ったのは、僕らの担任である春本先生だ。担当の教科は日本史。いつもスポーティなジャージ姿で、今の季節なら半袖長ズボンといったところだ。今日は襟付きで胸元にピンクのくまさんのマークが入ったシャツを着ている。
 まだ三十代前半と若い春本先生は気さくで生徒からの人気が高い。女子バレー部の顧問でもあり、万年一回戦敗退だったチームを三回戦進出まで導いたらしい。三回戦がどこまですごいのかは分からないけど。
興味があって一度だけ、春本先生に日本史の先生になった理由を聞いたことがある。
『俺の下の名前が秀頼でな。豊臣秀頼と同じだって運命感じちゃったんだよ‼』
 そんな返答が返ってきた。
 内心は正直面白くなかったが、いい先生だなという印象を受けた。
「それじゃ、いったん片付けて教室に戻ろうか」
 実行委員がみんなに指示を出した。
「うまくできてるじゃねーか!参加費としてお金もらうか⁉」
「だめですよ、先生」
 春本先生の渾身の冗談にも表情一つ変えずに突っ込みをする実行委員。その瞬間の春本先生の表情は少し寂しげだ。幼い子どものようで、男の僕ですら少しかわいらしく感じてしまう。ただ、そんな裏表のない春本先生だからこそ、男女を問わずクラスの仲は良い。今だってみんなで文句も言わず片付けを進めている。
「よし、あらかた片付いたから教室に戻りましょう。ホームルームの後も少し作業するので、またこの教室に集まってください」
 実行委員の言葉にみんなが「はーい」と答える。
 クラスメイトが仲の良い友達と教室に戻る中、僕は一人で教室へと向かった。
 僕たち二年一組の教室は、文化祭の出し物では使わないため、机が配置されたままになっている。他のクラスは自分たちの教室で出し物を行うため、教室内の机などは大きなスペースへ出している。教室の地べたに座るなんて、僕には考えられない。机があってよかったなと心底思う。
 僕の席は窓際の一番後ろだ。ここからは皆の背中が一望できたり、こっくりこっくりと頭を前後に振りながら居眠りをする人を見つけることができたり、授業中に違うことをしていても見つかることが少ないという利点だらけだ。
 二年一組では月の始めに席替えを行うことになっている。
六月の頭に席替えをして、僕はこの席をくじ引きにより獲得することができたのだ。仲のいい友達に髪の毛をわしゃわしゃされながら席に着いたのを思い出す。二年生の教室は三階であるため、窓から見える外の眺めは最高だった。当時は、六月はいいことあるぞ、なんて考えながら大きく背伸びをしていたときだった。
 そんな利点がどうでもよくなるほど、もっっっと重大なことが起きたのだ。
『よろしくね』
 彼女は短い髪の毛を揺らしながら後ろを振り返り、優しい声でそう言った。
『ん、よろしくー』
 僕は気怠そうにそう返答した気がする。
 でも、本当は心臓が飛び出そうだった。
 前の席に着いたのは山本結衣だった。
席に着いて当時の会話や心境を思い出していると、教室の前方のドアから例の彼女が友達と入ってくるところが視界に映った。
 ……入ってくる瞬間が目に入るとか、どんだけ意識してるんだよ。
 彼女は、後ろで結んだポニーテールが特徴の友達と別れ、僕の前に位置している机に向かって俯きながら歩いてくる。その間、僕は一時も彼女を見ることはできなかった。そして、彼女は席に腰を下ろすと、すぐに何かを書き始めた。気になってそれを覗き込みたい衝動に駆られたが、他の生徒からストーカーと勘違いされたくないのでやめておいた。
 二分くらいだろうか。何も考えずに、視界いっぱいに広がる快晴の青空を眺めていたときだった。自分の机の上に、半分に折られた一切れの紙が落ちてきた。紙は何か書くためのものだな…書く?
 そのとき、彼女の「書く」という動作を思い出した。もしかして…という期待を抱きつつ、折られた紙を勢いよく開いた。

『今日は約束通り十三時に一棟の昇降口でいい?』

 そこには彼女の整ったきれいな字が書かれていた。習字でも習っていたのだろうか。
 そんな彼女は何事もなったかのように前方を見据えている。

『うん』

 本当は『楽しみだね!』とかそういった気の利いた一言を添えると良いのだろうけど、この二文字を書くことで精一杯だった。緊張で手が震える。
 僕はその紙切れをトイレに行く振りをして彼女の机に置いた。そのまま前方のドアに手をかけた瞬間、彼女の方を向くと、すでに紙切れは机の端に追いやられていた。そりゃたった二文字を読むのに一秒もかからない。そう思いながらドアを開けると、段ボールの女子がいて、にやけた顔をまた見られた。そして、気色悪いと蔑まされてしまった。

 文化祭の一週間前のホームルームでのこと。
 この時間は文化祭当日の出し物の担当決めがされていた。
 クラスの出し物は一時間ごとのローテーションで担当時間を分担された。
 八時五十分からスタートして昼の二時五十分に終了する予定であるため、最初から順にA班、B班…F班まで振り分けられた。クラスは全部で四十人だから各班ごとに六人から七人となる。
 担当する班の決め方はくじ引きというシンプルな方法だった。箱の中にAからFまで書かれた紙切れが入っており、それを出席番号順に引いていくというものだった。  
 僕の名字は「和田」で、もう小学校のころから最後の出席番号だ。出席番号順となると、いつも最後になるのはお決まりだ。『残り物には福がある』などとはよく聞くが、それは福のあった勝者の言葉であり、福が残っているなどとは断言できない。これは経験談。
 そして、残された紙切れには雑に「C」と書かれていた。C班は十時五十分から十一時五十分が担当の時間帯だ。午前中に終わったとしても午後からは何をしようか。誰かと一緒に回ることも考えたが、そうはいっても高校の文化祭だ。おそらくネタはすぐに切れて「これから何をしようか」などと言い合っている光景が目に浮かぶ。
 ホームルーム自体は担当の班決めで終わっており、残りの時間は自由時間となっていたため、友達と話をする人、スマホに夢中になっている人、塾の宿題かどうかわからないが問題集にペンを走らせている人と様々だった。
 そんなときに目に飛び込んできたのが前の席にある紙切れの文字。そこには僕の紙切れと同じように、雑に「D」と書かれていた。
 ……せっかくの学校のイベントなんだし、勇気を出して「一緒に文化祭回りたい」って誘ってみようかな。
 それは突飛な考えだった。
 ただ一緒に文化祭を楽しみたい。
 それだけの感情だった。
 気が付けば僕は、椅子に座ったまま前のめりになり、彼女の右肩をポンポンと叩いていた。すると、彼女は驚いた表情を浮かべながら振り返った。
「和田くんどうしたの?」
 首を少し傾げながら彼女は聞いてきた。
一緒に文化祭を楽しみたい、その感情だけが先走ってしまい、どう誘うか考える前に行動してしまった。案の定、何と切り出せばいいのか分からず困惑してしまう。
「山本さんはどこの班だったのか気になっちゃってさ」
 喉から出た言葉は案外上手い切り出し方だったのではないか。なんせ直近の話題だ。
「わたしはDだったよ。和田くんはどこの班だったの?」
「僕はC班になったよ。CもDもちょうど真ん中の時間帯だから前後で何していいか分からないよね」
 一緒に回ろうという言葉を発せるように何とか思考を巡らせて、CとDの共通点を探していたが、一向に思いつかず、面白くもないことを言ってしまった。結局は担当の時間帯が違うというだけで共通点もクソもないわけであるが。
「すごいわかる。わたし学校のイベントって人が多くて苦手なの」
「そうそう、僕も協調性とか苦手でなんか学校のイベントは好きになれない」
 ……あれ? なんか普通に会話できてないか?
「去年の文化祭なんて、わたしは空き教室見つけてずっと読書してたし」
「え、山本さん読書するの?」
「読書大好きだよ!」
 彼女は曇りのない眩いばかりの瞳を開いて、食い気味にそう答えた。
 彼女が読書をよくしていることは普段の生活を見ていればすぐに分かることだった。朝の登校してからホームルームまでの時間、授業の合間の休憩時間など、暇があれば何かしらの本を読んでいる。彼女が前の席だからよく見えるだけで、決してストーカー行為とは言わないでほしい。
「そうなんだ。僕も本を読むのが好きだから気が合うね」
「え、和田くんも読書好きなんだ!」
「最近はちょっと文化祭の準備で集中できないから、学校では読んでないだけなんだよね」
「へー‼ どんなジャンルの小説を読むの⁉」
 文化祭の話をしてるときの表情とは全く違う、本の話になったとたんめちゃくちゃ食い気味に聞いてくるじゃん。
 それからの話の主導権を握ったのは意外にも彼女だった。彼女は本の話になると人格が変わっていると錯覚するくらいに、普段の学校生活では考えられないほど読書へ対する熱意を語ってくれた。もはや「一緒に回らない?」と切り出すのは難しい状況だった。今なお、聞いてもいない好きな本ベストスリーを教えてくれている最中であり、一位の発表に移るところだ。
「好きな小説第一位は『好きだ。』です! この本は記憶喪失になった男子高校生のお話なんだけど、記憶がなくなる前に付き合ってた女子がもう一度惚れさせるっていう青春恋愛小説なの!」
 彼女の弁は留まることを知らないのか。
 その瞬間にホームルーム(仮)の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「え、もう終わり⁉ この小説は本当に好きだからもっと話したかったのに!」
 彼女はまだ話し足らないという不服の言葉を吐き、頬を赤ちゃんのように膨らませた。また話そうね、そう言って彼女は前を向いた。
 ……ああ、結局誘えなかった。
 両肘を机につき、俯いた。木で作られた机の木目を目で追いかける。彼女の読書への愛が半端ではないことを知れただけでも良しとしよう。なにより彼女の方から「また話そうね」って言ってくれたのは大きな進歩だ。
 そうやって今回の目標『結衣ちゃんと文化祭を一緒に回りたい』を達成できなかったことを忘れるかのように、ポジティブに考えるようにしていた。ただの現実逃避でしかないんだけど。
 ホームルームの後は帰りの会があって帰るのみだ。彼女の話をたくさん聞いていたためか、普段よりも疲労が大きく感じられる。今日はもう寄り道せずにまっすぐ帰ろう。 
 そう考えながら引き出しに入っていた教科書をバックに詰め込んでいると、突然彼女が僕の方へ振り返った。そこには先ほどまでの光に満ち溢れた瞳はなく、どことなくそわそわしているようにも見える。ホームルームが終わった以上、彼女が僕に話しかけることは何もないはず。
「え、えーっと……んーっと」
 僕の頭には単純な疑問符しか浮かんでこない。なにをそんなに歯切れの悪そうなことがあるだろうか。視線が定まらず、きょろきょろしている。
「どうしたの?」
 彼女が話を切り出しやすそうにこっちから振ってみた。すると、彼女の口から出たのは思いがけない言葉だった。
「よかったら文化祭さ、一緒に回らない?」
 その言葉の意味を理解するまでに相当な時間を要した。
「大丈夫?」
 しばらく自分の世界に入っていると、彼女の方から声がかかった。
「大丈夫やよ。僕でよければ」
「やよ?」
 なんて返せばいいのか分からずに変な語尾になってしまった。
 頬は赤くなっていないだろうか。心臓の大きな音は聞こえていないだろうか。顔はにやけていないだろうか。本当は嬉しすぎて頭が真っ白になっている。
「よかった! それじゃまた集合場所とかは知らせるね!」
 そう言って、こちらの言葉を待たずして彼女は前を向いた。
 僕は彼女に聞こえるかどうかくらいの安堵の息を吐いた。
 頬は赤くなっていないだろうか。
 心臓の大きな音は聞こえていないだろうか。
 顔はにやけていないだろうか。
 ……まさか彼女の方から誘ってくれるなんて。神様ありがとう‼
 なにはともあれ、彼女と文化祭一緒に回れるぞ。目標達成だ!

 文化祭当日、自分の担当の時間が終わり、集合場所である一棟の昇降口へ集合時間の三十分前に来てしまった。
今になって冷静に考えると、少し会話をするだけでもすごく嬉しいのに、一緒に回れることになるなんてものすごい奇跡だ。しかも彼女の方からのお誘い。奇跡なんかでは片づけられることではない。これは神様が与えてくれた恩恵なんだ!
 ふと正門の前に目をやった。そこには三年生の先輩たちの食品を売っている光景が目に飛び込んできた。
『唐揚げはいかがですかー』
『スパイス効いたカレー美味しいですよ!』
 城南高校の文化祭は、六月の初旬に開催されるといっても、運よく毎年快晴に恵まれ、気温も三十度を超えるなんて当たり前となっていた。テントは張っているといっても、こんな暑い中で唐揚げやらカレーやらを売っている先輩方の肌には大量の汗が溢れていた。
 ……せめて売るならかき氷やジュースにしよう。
 来年は自分たちが食品バザーをする番なのかと気を落とし、大きなため息をついた。しかし、そんなテントの前には子連れの親御さんが多く並んでいる。去年はまじまじと文化祭を見ていたわけではないから気が付かなかったが、なんだかんだで城南高校の文化祭は多くの来客がいるのだ。並んでいる中には、娘と一緒に並んでいる春本先生の姿もあった。娘さんと手をつないでいる春本先生は無邪気な子どものようにテンションが上がっているようにも見えた。
「あのーすみません。二年一組の教室はどちらですかね?」
 二年一組という単語が耳に入った瞬間に少し反応したが、そちらの方には目もくれず、すぐに春本先生の方へ目線を戻し、癒される。
「あの! すいません!」
 次はさっきよりも大きめな声が聞こえた。その声がする方向へ目をやると、そこにはえんじ色のワンピースを身に纏い、頭には麦わら帽子をかぶっている女性の姿があった。学生ではなさそうだ。なぜか視線が鋭く感じられるのは僕の気のせいだろうか。
「すみません…僕に話しかけてました?」
 僕は鋭い視線を受け、少し怯みながらも恐る恐る聞いてみた。
「そうです! 無視するなんてひどいです!」
「いや、ボーッとしてて……話しかけられているなんて思ってなかったので……すみません」
 そう言うと、女性は顔をほころばせ、フフッと笑った。
「全然怒ってないからいいのよ。ごめんね、少し高圧的な態度とっちゃって」
「いえ、元はといえば僕が悪いので」
「それで二年一組の出し物はどちらかしら?」
 なるほど、この女性は僕が文化祭の案内係だと勘違いしてるのだろう。無理もない、こうして制服を着たままずっと昇降口に立ってたら、誰しも僕のことを案内係だと思うだろう。
「二年一組の出し物はここの昇降口から左手にある螺旋階段のようなものを登っていただいて二階に行き、左手の突き当りにある教室で出し物をしています。教室のドアの上に『三年一組』と書かれている教室です」
 僕はできる限り分かりやすい説明を心掛けた。
 というのも、この文化祭では出し物の順位が決まるのだ。三年生は審査の対象外であるが、一年生六クラスと二年生六クラスの計十二クラスの中での順位が決められる。審査の基準などはあまり知らないが、投票には生徒による投票と一般の方による投票の総得票数で決まるシステムだ。この審査で一位を取ると、豪華な景品がもらえるらしい。去年の景品は確か教室に加湿器だったかな。ただ景品は審査発表の後に、初めて知ることになる。
 そのため、あまりクラスの印象を下げるような行為は禁物だ。しかも僕のクラスの二年一組はなぜか一位を取ることを目標に一部の女子が奮起していた。もし悪いことをしてバレたらと思うと…いや考えないでおこう。
「気軽に楽しめるアトラクションなどもあるので、ぜひ楽しんでくれたら幸いです」
 最初に女性の問いかけを無視してしまったため、挽回しようと必死に笑顔を取り繕った。
「わかったわ。ありがぴょーん!」
 風で飛びそうになった麦わら帽子を手で押さえながら、女性はそう言い残し行ってしまった。ありがぴょーんって今の若者でも日常的に使わない。二年一組に行くってことは誰かのお姉さんなのかな。
 何も考えず去っていく女性の姿を眺めていると、後ろから肩をポンポンと叩かれた。振り返ってみるとそこには頬を赤らめ、目線を落としている結衣ちゃんの姿があった。
「今、何分だと思う?」
彼女は目線を下に下げたまま、少し怒気を含む声でそう聞いてきた。
彼女がいるなら十三時に決まっているだろう。こっちは楽しみすぎて集合の三十分前からスタンバイしていたんだぞ。
「十三時じゃないの?だって山も…」
 そこでハッとして左手首につけている腕時計に目をやった。長い針が『2』を指していた。三十分前に来ていたとしても、ホームルームを懐かしがったり、娘を連れて売店に並んでいる春本先生を見て和んでいたり、今風のワンピースを身に纏った女性に道案内をしたりしていたのだ。時間を忘れていた。にしても、体感では五分くらいしか経ってないのに。もう四十分も経っているなんて、結衣ちゃんと回ることをどれだけ楽しみにしてるんだよ。
「十三時十分です…」
「そうだよ! 十分も放置するなんてひどいよ!」
「すいません…」
 ……ふてくされて頬を膨らませている彼女も可愛いな。いやいや! そんなこと考えている場合じゃない!
 先ほどの女性といい、結衣ちゃんといい、今日はなぜか怒られてばかりだ。
「ほんとは集合時間の十分前にはいたんだよ!」
 ほんとのほんとは三十分前にはいたわけであるが、それはさすがに恥ずかしいから黙っておくことにした。
「でも女性の方に場所とか聞かれてさ、ついつい時間忘れちゃってたの。ごめん!」
 これは何も隠しようのない事実だ。
 それでも彼女はまだ怒っている雰囲気を醸し出している。大幅に時間をオーバーしていたのならまだわかるが、たったの十分忘れていただけなのにこんなに怒ることなのだろうか。忘れてた僕が言える口ではないけど。
 それから何度も弁明をしたり謝ったりしていると、彼女は突然クスクスと笑い始めた。ずっとしどろもどろしていた僕は、彼女が情緒不安定なのか不安になった。
「山本さんどうしたの?」
「いや、和田くんこんなことなのに一生懸命に話してくれてるんだもん」
 彼女は俯きがちだった頭を起こし、僕の目を見ながらそう言った。
「え、山本さんあんなに怒ってたじゃないか」
「十分だけ放置されてただけなのに、そんなに怒らないよ」
 いまだに彼女はクスクスと控えめに笑っている。
 ……またも女性に騙された!
「ずっと女性の人と話していたのも見てたよ。なんだか和田くんとっても焦ってたみたいで、変な動きしてて、見てるだけで面白かったよ」
 ……しかも女性と話していたことも見られてた!
 僕は女性に対する免疫が少ないために、女性と話すときはいつも緊張してしまう。そのためか、女性と話すときは変な手の動きがついてしまうようだ。自分では無意識にやってしまってるみたいだから直しようもない。
 それを彼女に見られたことで恥ずかしさマックスという訳だ。僕は恥ずかしさのあまり言葉を発することができずに、両手で顔を覆って下を向いた。
 周りの大勢の生徒や来客の飛び交う声とは裏腹に、僕と彼女の間には、数秒間の静寂が流れた。何か話さなきゃと思い、顔を覆っていた両手を下ろして顔を上げようとした瞬間、彼女が呟いた。
「……だけどちょっと嫉妬しちゃった」
 それははっきりと僕の耳に入ってきた。まだ顔を下げたままだった僕は、彼女がどういう表情をしているのかを見ることはできなかった。表情を見るために顔を上げると、彼女はいつも通りの涼しげな表情をしていた。
「え、いま何か言った?」
 実ははっきり聞こえたんだけど、もう一度聞きたくて言った。
「え、何も言ってないよ」
 彼女は本当に何も言ってないかのように、キョトンとした顔をした。
 ……あれ?でも確かに結衣ちゃんの声だったと思うんだけどな。
「そんなことよりさ、早く回らない?あと一時間くらいしかないしさ」
「そうだね。行きたいところとかある?」
「四組がやってるお化け屋敷とか行きたい!」
 僕はお化けが苦手だから行きたくないと言いたい。だけど、そんな煌く瞳をされたらそんなことは言えない。なにより、男のくせしてお化けが怖いなんて格好がつかない。
「分かった。それじゃまずはお化け屋敷に行こう」
「行こう行こう!」
 本当の彼氏彼女なら手を握って歩くんだろうけど、彼女とはそんな仲ではない。ましてやこの前のホームルームでたまたまちょっと話したくらいの仲だ。
 ……でも、何で結衣ちゃんは僕と一緒に回ってくれるんだろうか。
 ふとそんなことを考えたが、彼女が早く来てと言わんばかりに、僕の腕を引っ張ってきた。彼女に引っ張られるがままに歩いていたが、彼女は僕の方には目も暮れず、ずっと進行方向だけを見ている。すると、僕は彼女の耳が赤くなっていることに気が付いた。
『嫉妬しちゃった』
 不意に彼女が呟いたであろう言葉が頭の中で蘇った。
 ……まさかね。
 とりあえず今からは結衣ちゃんとの時間を楽しむことだけを考えよう。

 最初に行った二年四組のお化け屋敷はなかなか怖いものだった。教室の中だけではなく、教室の外装にも、血痕の手形などの暗黒の飾り付けを施しており、入る前から怖いものだと確信することができた。これだけ外装にこだわっているのだから、逆にメインの方は大したことないのではないかとも思ったが、僕の期待は見事に外れた。メインの方もちゃんと怖かった。僕は好きな人の横にいながらも、数秒おきに甲高い声を出してしまっていた。
 肝心の結衣ちゃんは「きゃあー‼」と大きな声で叫んではいたが、すぐに「怖いね‼」という笑顔を向けてきていたため、お化け屋敷を満喫しているように見えた。僕の気持ちも考えてくれよと思っていたが、時折彼女の腕が僕の腕に触れ、その度に僕は自分がお化け屋敷にいることを忘れ、自分の世界に入りこんでいた。ただ、すぐにお化けたちに現実の世界に戻され、甲高い声を出すことになっていた。まるでお化け屋敷とジェットコースターを同時に楽しんでいるみたいだった。
 お化け屋敷を終えた後、正直体力は早くも底をつきそうになっていた。
 回っている最中、首筋になにやら柔らかくて冷たいものが触れたが、その気色悪い感触は今も残っている。
 少し休憩をしたいと思い、廊下の壁に寄りかかりながら天井を見上げていると、右肩のあたりをコツンッと突かれた。
 ため息をつきながらそちらの方を向くと、結衣ちゃんが両手の指を胸の前で絡ませ、おどおどした表情を浮かべていた。
「もしかして和田くんお化け屋敷苦手だった……?」
「どっちかというと苦手だけど、NGってわけじゃないよ」
「よかった。わたしのわがままに付き合わせちゃって申し訳ないなって……」
「いやいや! 全然! せっかくの文化祭なんだから行きたいところ行かないと!」
 それでしばらくの間、彼女の声が聞こえなかったのか。
てっきりお化け屋敷でテンションが上がって、次に行くクラスでもチェックしているものだと思っていたが。
「ありがと。それじゃ次は和田くんの行きたいところに行こう!」
 本当なら彼女の行きたいところにだけ行ければいい。だが、ここで譲ってしまうと、彼女の性格上、後ろめたさを感じてしまうだろう。
「そうだなあ。一年三組の『ジブリ展示会』なんていうの面白そう」
「だったらそこに行こう! 決まり!」
 先ほどまでの表情とは打って変わり、彼女はパッと輝く笑顔で僕の腕を引っ張った。普段の学校生活ではどちらかというと目立たない存在の彼女だが、実は色々な表情をする。楽しいことがあれば笑った表情、友達にからかわれて恥ずかしい表情、読書をしているときの落ち着いた表情など。僕は彼女のどの表情も好きだ。
 だけど、やっぱり彼女は笑った顔が似合う。
 ……彼女の心配そうな顔は見たくない。笑った顔が見たい。
 この文化祭でもっとたくさんの彼女の「笑顔」に出会えますように。
 そして、彼女と文化祭を回ると決まった後に決めた次の目標。
 僕は制服の後ろポケットに入っているスマホに優しく触れた。

 それから僕と結衣ちゃんは色々なクラスの出し物を回った。
 回れる時間は約一時間半と少し短かったが、僕は彼女と文化祭を楽しんだ。
 売店に並んだいるときに、冷やかしを受けることもあったが、買い出しだといってごまかしたりもした。本当は彼女だって言いたいけどさすがにそんな嘘はつけない。
『こちらは文化祭実行委員会です。文化祭終了の時間となりましたので、各クラス片付けに入ってください。段ボールなどのごみに関しては、昇降口前の広場に持ってくるようによろしくお願いします』
 十四時五十分になると学校内に、文化祭終了を知らせる放送が流れた。
「それじゃ教室に戻って片付けしないとだね」
 彼女はそう言うと、進行方向とは逆に位置している、僕らのクラスの出し物をしていた三年一組の教室の方へと踵を返した。僕もそれに倣って体を反転させると、彼女は両足をそろえて、僕に背を向けた形で立ち止まっていた。
 早く行かなければ片付けが始まってしまう。特に文化祭に関わることのしなかった僕にしてみれば、準備や片付けくらいはやらないとどやされてしまう。
 ……それとも僕と一緒に教室に入って、冷やかしを受けるのが嫌なのかな。
「僕、先に教室に行ってるね」
 僕は前で止まっている彼女の横を通り過ぎた。動き回ったというのに彼女からは、シャンプーのいい匂いがした。
「和田くん待って」
 彼女のどこか震え気味の声が聞こえて振り返ると、彼女の方を振り返ると、そこには先ほどとは打って変わって、頬を赤らませ、俯いている彼女の姿があった。可愛いとは思いながらも、なぜ呼び止められたかは分からない。
「ん、なに?」
「んん、えっと、その…」
 彼女は顔を上げて話そうとしてくれているが、どこか歯切れが悪く目を泳がせていた。これは……デジャブだ。
「体調でも悪いの?」
 僕は冗談交じりに、彼女をいじるかのように聞いてみた。
「わ、悪くないよ‼」
 彼女は食い気味にそう言うと、右手をポケットに突っ込み、何かを握りしめて僕の前に差し出してきた。彼女が手を開くとそこには、ピンク色のうさぎのマスコットがあった。
僕は呆気にとられて、視線を彼女の右手から彼女の顔へと移した。おそらく僕の顔はキョトンとして、間抜けだったに違いない。
「あの、こ、これは?」
「……わたしが文化祭一緒に回ろって誘ったからそのお礼……」
「それでこのうさぎのマスコットを?」
「うん」
  僕は彼女の右手に乗っているうさぎのマスコットを手に取った。本当はじっくりと観察したいところだが、制作者の目の前でじろじろ見るのもどうかと思い、それはやめておいた。
「ありが……」
「ねえ、和田くん」
 僕の感謝の言葉を遮り、彼女は話を切り出した。今度は右ポケットではなく、左ポケットに左手を突っ込んでいる。まだお礼の品物があるのか、そう思っていた僕の視界に飛び込んできたのは彼女のスマートホンだった。
「せっかくだしさ、記念に写真でも撮らない?」
 それを聞いた瞬間、僕の鼓動の速度が上がったことが分かった。彼女の口から飛び出してきた言葉は、僕がどうしても言うことのできなかった言葉だった。片付けにも早く行かなくてはという気持ちもあるが、これだけはしておきたい。拒む理由なんてない。
「うん、いいよ」
「よかった! それじゃ撮るよ!」
 彼女はスマホを上に掲げ、シャッターを切ろうとしていた。そこで僕は一つの案が頭に浮かんできた。
「せっかくだし昇降口の上にあるモザイクアートを背景に撮らない?」
 彼女は僕の方へ顔を向けてきた。ナイスアイディアだったのか、彼女の口角は上がっている。
「それいいじゃん! 決まり! 早く行かないと片付けに遅れちゃう!」
 残念ながら、とっくに片付けには遅れている。
 僕は握りしめていたマスコットを、無くさないようにポケットにしまい、結衣ちゃんと足早に昇降口へと向かった。

 片付けが終わると、全校生徒は体育館へ集められ、そこでは文化祭終了に伴う企画が行われた。『出し物選手権』の審査発表があるため、どこか緊張感が漂っていた。
 結果として僕たち二年一組の出し物は、全十二クラスのうち『五位』という結果に終わった。生徒の得票数はそれほど多くなかったものの、一般者の得票数が多かったみたいである。多くのアトラクションがあったため、子どもさんに楽しんでくれたことが功を奏したのかもしれない。
 気になる『出し物選手権』一位は皮肉にも、僕が一番体力を要した二年四組の『お化け屋敷』であった。唯一、僕の情けない醜態を目の当たりにしている結衣ちゃんの方に目線を向けたが、彼女は僕の方へは一瞥もくれず、前に座っているポニーテールがトレードマークの友達と話している。どうやら僕は過信しているようだ。
 僕は出席番号が最後であるため、並んでいる順番も一番後ろである。最後でよかったと思ったことはないが、今回はその特権を利用して、それからしばらくの間、彼女の方をじっと眺めていた。
 閉会式の後、僕は教室へ戻って、自分席で頬杖を突いて窓の外を眺めた。もう時刻は夕方の五時を回っている。窓の外に見える地平線上には、夕日によってほのかに茜色がかかっている。
 ……文化祭楽しかったな。
 今でも結衣ちゃんと文化祭を回れたことが信じられない。
 今日の文化祭での出来事は、今までの僕の学校行事の過ごし方とはかけ離れすぎていて現実味に欠けていた。ふと目を下に向けると、右のポケットの膨らみが目に入った。頬杖を解き、右ポケットの生地を優しく撫で、確かにマスコットが入っていることを確認する。これだけで今日の出来事が現実だということが分かる。
「和田くん」
 僕は慌てて声のする方へ顔を向けた。
「山本さん。今日はありがとね。楽しかったよ」
「わたしも。誰かと一緒に回るの初めてで…とっても楽しかった」
「マスコットも丁寧にありがとう。大事にするね」
「うん」
 そう短い言葉を口にして、彼女は席に着いて、横の髪を耳に掛けた。
 ……僕も何かプレゼントすればよかったな。
 教室のドアがガラガラッと大きな音を立てて開かれ、僕の思考を遮る。
「帰りのホームルームするぞ! 遅くなったから早く帰ろう!」
 担任の春本先生の清々しい声がざわざわとした教室に響き渡った。丸一日文化祭だったというのに、春本先生はまだまだ元気そうだ。
「今日は文化祭お疲れ様! 大きなトラブルもなくとりあえずは安心だ。俺からの言葉よりも、今回クラスをまとめてくれた文化祭実行に一言もらいたいと思う」
 春本先生は手で招くような仕草を見せ、このクラスの文化祭実行委員を教卓へ招いた。こういった生徒の言葉や思いを大事にするところも春本先生のいいところだ。
 文化祭実行委員の挨拶は終始、笑いの絶えないものであった。楽しかったこと、辛かったこと、出し物選手権は別に優勝を目指してはいなかったことなど、終わった今だから言える暴露話などもしていた。それに対する外野のツッコミやガヤを聞くのがとても楽しかった。
 挨拶が終わると、クラスからは「お疲れ様!」「楽しかったぜ!」といった声が至る方向から飛んでいた。協調性とかは苦手だが、こうした学校行事を通してクラスの仲が深まっていくのは見ていて良い気持ちになる。特にこうした感謝の言葉は心が消化される。
「本当にお疲れ様! ただ、今回の文化祭を素晴らしい行事にできたのは、なにも文化祭実行委員だけのおかげじゃない。このクラスみんなで素晴らしいものにしたことを忘れるな。」
 早く帰ろうといっていた割には、文化祭実行委員の挨拶が終わった後に真剣な話を始めた。でも、大事なことだからこっちも真剣に聞く耳を持つとしよう。
「俺はこんな素晴らしいクラスを持てたことを誇りに思う!」
 春本先生はそう言い残して、教室の外へ走って出ていってしまった。まるで時限爆弾の爆発時刻を把握しているかのような慌ただしさだ。まさか本当に時限爆弾が仕掛けられている訳はないよな。
 当然の如く、教室には困惑した雰囲気が立ち込めている。みんながどうしようという困惑の表情を浮かべているのが、後ろの席からでも分かる。しかし、その雰囲気を断ち切ったのが、この雰囲気を作り出した張本人である春本先生だった。
「頑張ったみんなに、俺からのささやかな文化祭お疲れプレゼントだ!」
 勢いよく教室に入ってきた春本先生は、大きな段ボールを抱えていた。僕は朝に運んだ段ボールを思い出したが、さすがにそれがプレゼントではないだろう。
 教室の雰囲気は打って変わって、春本先生への黄色い声援で包まれていた。男子は春本コールをし、女子は大好きと叫んでいる人もいる。その大好きコールの中には、一部の男子も含まれており、背筋がぞっとした。春本先生は男子からも人気があるが、変なことを考えてしまった。
「そこまで大層な物でもないよ。ただのジュースだからな。一人一本だ」
 プレゼントでここまで盛り上がったことに対して、申し訳なさそうに春本先生は静かな声でそう言った。
「いやいや! 先生の気持ちが一番ありがたいです! ありがたくいただきやす!」
 クラスの一人の男子が間髪入れずに、席を立ってそう言った。みんながそういう気持ちを抱いていたが、それをみんなの前で堂々と言えるなんて本当に立派だ。
 その言葉を皮切りに、クラス中から「ありがとう」の言葉が飛び交った。Wi-Fiが見えるというネタを以前テレビで観たことがあるが、今なら「ありがとう」という文字が宙に浮いているのを見ることができる気がする。
帰りのホームルームを終えた他のクラスの生徒が、何か何かと僕たちの教室を覗いて、珍しいものを見ているかのように指をさしている。
 そんな感動の渦中にいる春本先生は目に涙を浮かべていた。
「好きなジュースを持っていけ! 早い者勝ちだ!」
 そしてクラスのみんなはぞろぞろと前の方へ行き、好きなジュースを手に取り、自分の席へ戻っていった。ちなみに僕は紙パックの抹茶オレをもらった。ハンカチで紙パックの回りに付いていた水滴を拭って、カバンの中に入れた。
 結衣ちゃんは何を選んだのか気になり、前の席を覗き込むと、そこにはオレンジジュースがあった。
 ……この抹茶オレを結衣ちゃんにプレゼントするのはどうだろうか。
 ふと、そんなことを思いついた。
 しかし、僕はすぐさま首を横に振った。確かに彼女はよく抹茶オレを飲んでいるイメージがある。おそらく好きなんだろう。だけど、この抹茶オレは春本先生が僕たちにくれたものだ。そんな気持ちの込められたものを、自分の恋心に使うわけにはいかない。
「明日は振替で学校はお休みだから、間違えて学校に来ないように。それじゃ今日はもう終わりだ。気をつけて帰れよ」
 学級委員の号令に合わせて、教室中に別れの挨拶が響いた。
 今日の疲れも含めた溜息を吐きながら外に目を向けると、先ほどまでの茜色は、より色が濃くなっていた。もうすぐしたら、その茜色も黒に染まってしまうのだろう。
 鞄に手をかけ、帰ろうと足を一歩踏み出した。すると、そこには僕と対面する形で結衣ちゃんが立っていた。
「ねえ、和田くん帰る方向一緒だよね?一緒に帰らない?」

 それからというもの、僕と結衣ちゃんは長い河原道を歩いていた。
西日によって辺りは一面、茜色に包まれて幻想的な景色が広がっている。が、それとは正反対に僕と彼女の間には、会話のない気まずい静寂が広がっていた。
 確かに帰り道の方向は同じだし断る理由なんてなかった。疲れていて一人で帰ろうと考えていたから、突然の彼女のお願いに対しての思考がうまく働かなかった。その結果、僕の口から出たのは「いいよ」という三文字であり、今に至っている。
 黒のリュックを背負っている彼女とは、昇降口を出てから一言も話していない。このまま一言も話さずにバイバイをするのだろうか。その可能性はある。しかしそれは一緒に帰ったということになるのだろうか。
 何か話をしなければ! そう思い立ったとき、ポケットの膨らみが目に入った。僕はピンクのうさぎのマスコットを掴み、掲げるようにして言った。
「マスコットありがとね。嬉しかった」
「いやいや全然。喜んでくれて何よりです」
 ピンク色のマスコットは、西日を受けて少しオレンジ色のようにも見えた。
「どうしてまたマスコット?」
「わたし手芸部だから、得意なものをあげたくて」
 そうか、結衣ちゃんが手芸部だってことをすっかり忘れていた。じっくり見たわけではないが、得意なものと言っているだけあって、繊細にできていることは分かる。ぱっと見ただけだが、顔だけは少しバランスが取れていないのは分かった。
「得意な割には少し不細工だけどね」
「なにそれ! ひどい!」
 彼女は僕の握っていたマスコットを強引に奪い取り、顔に近づけた。
「あはは! 確かに不細工だね!」
 彼女は真剣なまなざしでマスコットを眺めたあと、屈託のない笑顔で吹き出すように笑いそう言った。
 その瞬間、僕はその裏表のない彼女の笑顔にドキンッとさせられた。彼女は学校の中ではおとなしい存在で、こんなに顔全体で楽しそうに笑っている姿を見たことがなかった。僕は鼓動を落ち着かせるように、深く息をついた。
「でも、それも愛嬌があっていいと思う」
「お世辞でもありがと」
 その後、また会話が途切れて、しばらくの間は静寂に包まれていた。最初の何とも言えない静寂に比べたら、なぜか心地の良い雰囲気のように感じる。気まずいことに変わりはないが。
僕はあることを思いだした。それを思い出すと同時に僕は足を止めると、彼女も立ち止まった。
「どうして僕と文化祭まわってくれたの?」
 僕は今回の一連の出来事で一番、不思議に思っていたことを聞いてみた。
 彼女の瞳が見開いたのが分かり、僕に向けていた顔を下げて俯いた。
「……和田くんが、本のことが好きだと知ったからだよ」
 彼女はそう言った。僕の返答を待たずして、彼女は続けた。
「わたし、学校では目立たないように過ごしているの。でも、そういう生活をしていても、人と関わらないといけないときってあるの。例えば、お昼ご飯のときとか。今回の文化祭みたいな学校行事もそう。性格悪いって思われるかもしれないけど、本当はその時間も一人で過ごしたいの。でも、そう言って友達を避けるようなことしても、違う意味で目立ってしまう」
 彼女はいつの間にか顔を上げて話している。
「だから、一人の空間を生み出すために読書をしようって思ったの。ほら、読書している人に話しかけちゃいけないみたいな暗黙の了解あるじゃない? それを利用したの。最初は本を読むことはあんまり楽しくなかった。ただのカモフラージュだったしね。でも、お母さんからもらった一冊の小説がきっかけで本当に本が好きになっちゃってね」
 彼女はそう言うと、照れたように手を頭の後ろに回した。
「あの日のホームルームで和田くんが本好きなんて知って驚いちゃった。あそこまでわたしの本の話を聞いてくれる人って今までいなくて、それが嬉しくてつい和田くんを文化祭に誘っちゃったってわけ」
 彼女が話し終わると、僕らは再び歩き始めた。僕は、自身の脚が重たくなったように感じた。普通の足取りで彼女と並走しているつもりだが、彼女の話を聞く前と比べると、どこか重たく感じてしまう。
 ……なるほど、そういうことだったのか。
 何かを期待していたわけではない。
 決して彼女の口から何か言われたいわけではない。
 それは頭の中で分かっている。
 けど、どこか期待してしまっている自分がいた。
『嫉妬しちゃった』
 この言葉もあったから余計に。
 だったらこの言葉の意味は何なんだろうか。
 迷宮を彷徨っていたとき、彼女の明るい声が僕の鼓膜を震わせた。
「でもほとんど初対面なのに、今日の文化祭とっても楽しかった‼」
 彼女は先ほどと同じような屈託のない笑顔でそう言った。僕はこういう自分の抱いた気持ちや思いを素直に言えるなんて羨ましく思う。
 結衣ちゃんが文化祭に誘ってくれた。
 結衣ちゃんが写真を撮ろうと言ってくれた。
 結衣ちゃんがプレゼントをくれた。
 結衣ちゃんが一緒に帰ろうと言ってくれた。
 どこまでも僕は受動的だった。
 彼女が何もしていなければ、今日のような特別な時間を過ごすことができなかった。今日は普段は見ることのできない、彼女の新しい一面を発見することができた。僕といるときはいつも笑顔だった。彼女はおとなしい存在だが笑顔がよく似合う。彼女の一等星並みの輝きを持つ笑顔は、僕の鼓動を速める。
 胸に込み上げてくるものがあった。手を胸に当て、下を向いて込み上げてくる感情を頭の中で言語化しようとしたとき、それはすでに僕の口から放たれていた。
「好き」
「え?」
 彼女からびっくりしたという感情が含まれた言葉が返ってきた。そんな彼女からは笑顔がなくなり、本当に驚いているという表情が作り出されている。
 そんな僕も、とっさに出た言葉に驚きを隠せなかった。
「いや、違うんだ‼ 今のはもらったマスコットのモチーフのうさぎが好きって意味だから‼」
 無意識に出ていた言葉を弁解しようと、誤魔化すことに必死だった。
「はは、和田くんすごい手の動きしてるよ」
 彼女は腹を抱えるほど笑いながらそう言った。恥ずかしい。今の僕は、はたから見ると不審者に見えるのだろうか。
「それは無意識だから‼」
 僕がそう反論しても、彼女は未だに腹を抱えて笑っている。僕の言葉なんて聞く耳を立てていない様子である。
 そんな彼女の楽しそうな姿を見ていると、自分が言い訳しているのが馬鹿らしくなってきた。自分の気持ちを素直に伝えることに羨ましさを抱いていたではないか。
僕は河原道のど真ん中で歩みを止めた。
「山本さん」
 僕がそう言うと、彼女は笑いすぎて出ていた涙を拭った。僕の神妙な面持ちで何か真剣な雰囲気を察したのか、彼女は僕と向き合った。
 僕は再び、胸に手を当てて気持ちを整理した。
 鼓動が尋常じゃないほど速いのが分かる。
 緊張する。
 おそらく今からのことは一生に一度かもしれない。
 拒否されるかもしれない。
 それを考えると怖い。
 けど、伝えなかったら後悔する気がする。
 ……今なら言える。
 僕は息を吸い込んだ。
「僕、結衣ちゃんのことが好き」
 僕は彼女のきれいな瞳から逸らすことなく言い切った。不安や緊張、そして期待など、色々な感情が入り混じった複雑な感情が胸に宿っていて居心地が悪い。
 静寂に耐え切れずに、僕は目をぎゅっと瞑った。
 ……どんな返事が返ってくるのかな。
 耳に全神経を集めていると、小さく息を吸い込む音が聞こえた。覚悟を決めたように、目をより強く瞑る。
「わたしも湊くんのことが好きだよ」
「え」
 予想外の返答に一瞬頭が真っ白になり、僕は目を大きく開いた。
 けれど、その言葉の意味を頭の中で反芻していくうちに、これまでに感じたことのない高揚感が全身を包み込んだ。
「え、本当に?」
「うん、わたしも湊くんのこと好きだよ」
 西日のせいだろうか。彼女の顔は紅潮していた。
 彼女の、少女のようにはにかんだ笑顔が何よりも可愛いと感じた。
 このときから僕と結衣ちゃんは特別な関係になった。