桜井さんからお願いされた翌日。
今日も「お話ししたいことがあるんです」と必死な桜井さんを振り切り、俺たちは雨が降る中、隣駅の方へと向かっていた。
黒い傘を差しながら隣を歩く幸詩は、いつも以上に暗いテンション。俺は小さい赤い折りたたみ傘でどうにか雨を凌ぎつつ、道中で昨日桜井さんから言われた内容を、ちゃんと事情も含めて話してみた。
「……というわけで、桜井さんからお願いされたので伝えておくね」
「ふーん……晴富にも迷惑かけたんだ……」
「あははは……まあまあまあ」
幸詩は、大層機嫌悪そうに眉間を寄せ、まるで唸るように低い声で喋る。不機嫌になるかもしれないと思ったが、俺はそもそも幸詩の味方である。
「余計やりたくない……でも……」
でも?
雨の中で頭を抱える幸詩は本当に嫌そうなのに、予想外の接続詞ではないか。幸詩は俺の顔を見ると、酷くしんどそうにため息を吐いた。
「やらなきゃいけなくなった」
「えっ」
思わず声が出る。何があったのか、事情が全くつかめない。昨日の今日で、何があったのだ。
あまりの急展開に首を傾げると、幸詩は嫌そうに項垂れた。傘を持つ手に冷たい雨の滴に不快感をより一層強く感じる。
「今朝、部長から時間の関係でソロは無理になったから……一緒にだって……」
「ええええっ、話が違うよね、それ」
「そう」
桜井さんの強い熱意に揺り動かされた誰かが、捩じ曲げたのだろう。真っ正面に向かってきている彼女が、わざわざこんな裏から手を回すとは思えなかった。
「今日はギター、持って来てないし、元々晴富と約束があったから逃げたけど……明日からは練習で一緒に帰れないと思う」
「そうだよね、九月まであっという間だしねぇ」
「やるなら、少しでも良いステージにしたいしな」
時が経つのは早い。文化祭開催予定の九月までも、夏休みを挟めばあっという間に来てしまう。
幸詩はソロ予定で今まで進めていたのが、一気に覆された状態だ。
完璧に仕上げたいと思うと、今から残されている時間はあまりない。
「この前、聞かせて貰ったの、めちゃくちゃよかったのに」
「本当は『Bad feeling』で、皆をドン引きさせたいけどな。晴富の聴かせれた分、まだ良かった」
あんなにも格好いいものが見られないなんてと、俺はがくんっと肩を落として落ち込む。そんな俺の肩を幸詩は、慰めるように優しく叩いた。何故か幸詩よりも、俺のが残念な気分になっている。
「はあ、でもまあ、文化祭りだけ我慢する」
「無理しないでね」
「善処する。あ、店、見えてきた」
「え、本当」
視界を遮るほどの降り注ぐ雨の中、幸詩の示す指先の方に、大きな垂れ幕看板が置かれていた。そこには赤いシロップが美味しそうなかき氷の絵が描かれている。
「あ! やってるね!」
「うん、良かった」
夜のみ営業しているオシャレな居酒屋の昼間に、期間限定のかき氷屋さんがオープンしたのだ。
先月末、二人で一緒に帰っている時に、幸詩が教えてくれたのだ。
一杯千円の高級なかき氷だが、俺たちは少しばかり強気にいける理由があるのだ。
お店の中に案内され、格好いい木目のテーブルにおしゃれな椅子が置かれた二名席に通される。湿った空気に香るアルコールとフルーツの香りが、柔らかく俺たちを迎えた。
二人でメニューを眺める。
「メロン、マンゴー、イチゴは高いね……千八百円……」
「でも、抹茶、練乳みぞれ、ティラミスなら千円だから」
やはり目玉商品の新鮮な果物が、贅沢に使われているかき氷は良い値段だ。けれど、シロップやソースがメインのものは、俺たちでも手を出せる値段だ。
「俺、千円の抹茶ミルクにしようかな」
「いいね、俺は……イチゴ」
「まじ!? 豪華!」
近くのカウンターにいる店員さんに注文を伝える。それにしても、幸詩の注文は随分リッチではある。メニューの写真も豪華だし、俺もお金があったら買っていただろう。
といっても、抹茶ミルクもアズキやキノコがのっているようで、これはこれで美味しそうだ。
「思えば、幸詩はアルバイトは決めた?」
「うん、家の近くのハンバーガー屋」
「そっかあ、俺はおばあちゃんち行くから、そっちで民宿の手伝いする予定」
もうそろそろ夏休み、うちの学校で「アルバイト」が解禁される時期になる。高校一年の一学期中はアルバイトは原則禁止で、夏休みから許可が降りるようになるのだ。
千葉の海沿いにある母方の祖母の家は老舗の小さな旅館をしており、今年の夏休みのお盆まで母親と共に働く予定だ。
「夏休みは、なかなか会えないか」
「うん、でもまあ、お盆を過ぎたら帰ってくるからさ」
「そうか、じゃあ、その後遊びに行こう」
幸詩はしょぼんと眉を下げる。たしかに、こんなにも一緒にいたのに、急に会えなくなるのは寂しい。
「うん、なんか、夏らしい……あ、お祭りとかどう」
「いいね、お祭りで屋台とか、晴富好きそう」
やはり夏らしい催しと言えば、夏祭りであろう。東京だと夏の後半から九月にかけて、納涼祭というものが多い。そして、勿論、夏祭りと言えば、様々な食べ物の屋台である。
幸詩の言葉に俺は笑顔で答えた。
「うん、大好き」
「……そうか、俺も好きだ」
驚いたように目を見開いた幸詩は、すぐに笑いながら大きく頷く。
その姿になんだか、ドキッとするほど、少し照れくさい。俺は不思議と熱くなった身体を冷ますように、テーブルに置かれた麦茶を飲む。
そうすると、タイミング良く店員さんがかき氷を運んできた。
「お客様お待たせしました~」
机に並ぶは、山のようなかき氷。それぞれ写真以上の美しく豪勢に盛り付けられている。贅沢なイチゴかき氷は、イチゴソースとイチゴの果実が赤々艶々と。抹茶ミルクのかき氷には、美味しそうなあずきと生クリームも。
「食後に温かいお茶をお出ししますが、お声掛けくだされば、すぐお持ちしますので」
「はい、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
店員さんからの優しい案内に二人でお礼を言った後、俺は幸詩からスマートフォンを受け取る。
「撮るけど大丈夫?」
「大丈夫」
慣れたように動画ボタンを押し、幸詩の画角に入れる。今日は初めて幸詩を真っ正面に動画を撮影するのだ。
やはり緊張からか幸詩の肩に力が入るけれど、前ほどに慌てる様子はない。
「美味しそう」
「うん、溶けるから早く食べようか」
二人でいただきますをし、動画を止めた後、早速食べ始める。
スプーンが刺さることで、小気味の良い涼やかな氷の音が鳴る。一口分乗ったかき氷を口に運んだ。
甘く冷たいかき氷を口に含む。
氷の繊細な溶け方。すうっと、下に触れた瞬間に溶けていく。なによりも柔らかな味わいで、今まで食べてきた屋台のかき氷とは全然と違う。
なにより、頭が全く痛くない。
勿論味も絶品。甘すぎず苦みのある抹茶に、濃厚な練乳ミルクが口の中で混ざり合う。小豆も一口、ほくほくとした小豆、生クリーム、抹茶。このトリプルコンボは日本が生み出した最高峰の組み合わせだと思う。
「うまっ!」
「うん」
イチゴのかき氷も本当に美味しそうで、幸詩の頷きもいつもより強く感じる。それにしても、基本的にクールな幸詩がイチゴのかき氷を食べている姿は、なかなかにギャップがあり可愛らしい。
なんならば、口の端に赤いジャムがついているし。
俺は溶ける抹茶を少しずつ口に運びつつも、ついつい幸詩を見ていた。
そんな俺の視線に気付いたのだろう。幸詩とつい目が合った。
「一口、いる?」
どうやら、俺が欲しいと思ったのだろう。微笑んだスプーンでかき氷を掬って、俺の方へと差し出した。
「え! いいの?」
「うん、ほら、早く」
「あ、ありがとう……」
まさか、スプーンを差し出されるなんて思っていなくて、俺は戸惑いながらスプーンに乗ったかき氷に口をつけた。
甘酸っぱく濃厚なイチゴソース。氷が溶けて、広がる練乳と香り。これは、あの値段がするのも頷ける味だ。
「これ、本当に美味しいね」
「だろ」
「俺のも食べる?」
「いる」
今度は俺が幸詩のために、スプーンでかき氷を掬う。小豆も抹茶もミルクも一掬いに乗せて、幸詩の口元へと差し出した。その時、ふと気付いてしまった。
――思えば、これって、間接キスではないか。
俺の身体の体温が一気に上がる。視線は幸詩の口元に奪われた。
そんな俺のことはつゆ知らず、幸詩は俺のスプーンめがけて、大きく口を開いて食らう。
心臓が、跳ねて、また痛い。
一体、なんなのだこれ。
「晴富、美味しいね」
幸詩が強く頷き、頰笑む。
「う、うん、美味しいね」
その姿に、不意にドキッとさせられた。
自分でも驚くほど、顔が熱くなっているのがわかる。
俺は少し照れくさそうに、慌ててかき氷を口に運んだ。
あっという間に期末も終わり、夏休みが始まった。
そして、幸詩とはかき氷以来なかなか会えず、今は当初の予定通り旅館の手伝いをしている。
「晴ちゃん、お風呂の掃除ありがとうね」
温和そうに声をかけてくれるばあちゃんに、俺は「任せてよ、ばあちゃん」と力こぶを作る。残念なことに細腕ではあるけれども。
掃除や、補充、荷物運び。たまにお客様の案内や、売店の管理など多岐にわたる。小さな旅館だが、海沿いのこの旅館、夏休みは稼ぎ時だ。
他のいとこ達もバイトとして駆り出されている。
働きまくった後は、従業員用のお泊まりスペースで、他のいとこ達と雑魚寝という感じだ。
なので、なかなかに忙しないが、その中でも楽しみなのはふとした時にくる友人からのメッセージだ。
高田は髪を染めるのは飽きたらしく、今現在銀色のブレイズヘアに変えており、様々なファッションイベントを回っているよう。好きなブランドの服屋でバイトも初めたらしく、コーデをよく送ってくる。
松下からはあまりメッセージはないが、早々に宿題が終わったらしく、「お前らも早くやれよう」という彼らしいメッセージが届いた。
この二人は本当に二人らしい夏休みを過ごしている。
そして、幸詩はというと、相変わらずほぼ毎日メッセージを続けている。
『晴富、アルバイト先で初めてハンバーガーを組み立てた』
『お、凄いね』
お互いのアルバイトの話や地元の幼なじみの話、夏休みの宿題の進み具合、オススメの曲、あとはお盆後の花火大会のお誘いとか。
写真とか動画は送られて来ない分、メッセージで埋まっている。
色々な話題で溢れているメッセージ画面。
ただ、一番の割合を占めているのはこれだ。
『今日も桜井がだる絡みして、面倒』
『同じミス繰り返すドラムに、頭冷やしてこいと言ったら桜井に怒られた、だるぃ』
『桜井が親睦深めようって、ご飯誘ってきてうるさい』
『桜井のベースがまともに聞けるようにやっとなった、人間として扱おうと思う』
『桜井からすすめられたこのお菓子、晴富好きそう』
毎日でも無いが、かなりの頻度で練習しているのか、桜井さんの名前が連なっている。内容は愚痴がほとんどだが、少しずつ心が開いているのがわかる。
『桜井、曲の選ぶセンスはいいわ。晴富も文化祭楽しみにしててくれよ』
『うん、勿論だよ』
俺はメッセージを見つめながら、無理に明るい絵文字をつけて返信した。
画面の光が部屋の壁に反射して揺れている。メッセージには本当の気持ちは載せられない。載らなくて良かった、と少し安心した。
何故なら、桜井さんの話を見る度に、なぜがそれがとても面白くないと思ってしまうのだ。
「おお、晴富、なんか不機嫌そうだな」
いとこの一人がニヤニヤしながら声をかけてきた。
自分でも気づかないうちに、無意識に顔へと出ていたのかもしれない。
「……べつに、疲れてるだけ」
小声で返したが、自分の口調が思いのほか投げやりに聞こえてしまい、少し後悔する。
「おいおい、俺たちの末っ子ちゃんも、思春期って奴~?」
もう一人のいとこが笑いながらおちょくってきたので、俺の身体がまたどっと疲れた。
「うっさいなあ、もう」
文句を言いながらも、いとこたちの賑やかな声を聞いていると、晴富の胸に押し寄せていた重苦しさが、少しずつ和らいでいくのを感じた。
同室のいとこ達が目聡く絡んでくるのは最悪であるが、一人でいたらぐるぐると考えてしまうから、その分は心は落ち着いた。
やんややんやと俺をいじって騒ぐいとこたちの中で、一人何かを思い出したかのように、「あっ、そうそう!」と話題を変えた。
「俺さ、この旅館、継ぐわ」
あまりにも軽い口調で発せられたので、俺も含む他のいとこ達も驚いた声を上げる。しかし、いとこは楽しそうに言った。
「前々から思ってたけど、やっぱ将来、ばあちゃんの旅館継ぎたいって。良い夢だろ?」
胸を張って宣言する彼に、俺らは「いいね」と口々に賛同する。他のいとこ達も、触発されたかのように、自分の夢を語る。公務員や、プロスノーボーダー、ロボットを作りたいとか。
周りが熱くなる中で、俺だけが何も言えず、どうにかやり過ごしたい気持ちで押し黙る。
ただ、勿論そのことをいとこ達が見逃すわけが無い。
「晴富は、なんか将来の夢、あんの?」
遠慮も容赦もなく、痛いところに爪を立てる。
「……ないよ」
一気に気持ちが落ち込んだ俺は、むすっと唇を尖らせながら正直に答えた。
いとこ達の視線を受けると、急に布団の柄が気になったように不自然に視線を下げる。
「見つかると良いな」
「まあ、まだ若いしな」
いとこ達は、下手なフォローで俺を慰めてきた。彼らの表情は、なんだか夢ある奴の余裕という憐れみが籠もっていて、身内相手だからこそ本当に腹立たしい。
「そんな変わらないだろう」
俺は思わず吐き捨てると、布団にくるまりふて寝した。
その後もお盆過ぎまで忙しなく働いた。拘束時間もあって学生には少し多いバイト代を稼ぎ、東京へと戻ってきた。
そして、約束通り、夏祭りに行きたかったのだが……。
『ごめん、夏風邪ひいた』
タイミングが悪く約束の前日に、俺が高熱を出してしまったのだ。
幸詩からは『お大事に、ゆっくり寝なよ』と、優しく気遣うメッセージが届いた。俺はスタンプだけ送ッた後、自分の部屋から台所へと向かう。
ああ、悔しい、悔しすぎる。
意識が朦朧とする中、パートに行った母親が作り置きしたお粥を茶碗に掬った。そして、冷蔵庫にあった鮭フレークをかける。
一口食べれば、お粥と鮭のそれぞれと塩味が口に広がる。発熱による汗が凄いので、身体から水分と塩分が抜けてるから、普段なら美味しいはずなのだ。
ああ、幸詩と会いたかった。
しかし、幸詩に迷惑をかけた分を思うと、何とも苦々しい気持ちになってしまった。
『文化祭過ぎたら、なんか遊びに行こう』
『うん、ありがとう』
幸詩からのメッセージを見て、余計にがっくりと落ち込む。
アルバイトのシフトや練習の関係もあり、夏休みの宿題もあるのでこの日しか会えないのに。
幸詩に、会いたかったな。
酷く寂しい、と思ってしまう。
そして、結局夏休み中は会わず、二学期目を迎えることになった。
「幸詩、今日は練習大丈夫なの?」
二学期初日、今日は午前中しか授業がない。
幸詩から今日は放課後一緒に過ごそうと連絡があったため、俺たちはいま掘っ立て小屋の教室に来ていた。
外はまるであの時のように晴れ渡っており、通常ならばお昼休みの時間なので、太陽の位置も高い。
良い二学期の幕開けだなと感じさせる。
購買で軽く買った三角パンを二人で食べた後、幸詩はエレキギターの方を準備を初め、アンプやエフェクターなどをゆるゆると接続していた。
「桜井が宿題一つ忘れてて、放課後居残り。それで練習は無くした」
「ああ、そうなんだ」
桜井さん、意外とおっちょこちょいなのだな。
俺はぼうっと幸詩を眺める。最後会った時よりも、彼の髪は伸びており、なんというか長さがバンドマンらしさというのを感じた。ただ、頭髪検査には引っかかりかけたので、近々短く切るそうだけど、
「今日さ、特訓として、俺の演奏動画、撮って欲しい」
「うん、いいけど……撮影久々だよね、大丈夫?」
「幼馴染みが撮ってたから、多分大丈夫」
そうなのか。
夏休み、俺のせいで一回も会えなかったから、少しだけ羨ましいと思う。
俺は幸詩からスマートフォンを預かり、カメラを起動する。レンズを向けると、幸詩はギターを持ってこちらを見た。
「あ、実は幼馴染みから三脚貰ったから、それ、使って欲しい」
幸詩はそう言うとギターバックから、小さな三脚を取り出した。うねうねと足が動くスマートフォン用の三脚で、俺は受け取ると幸詩のスマートフォンに取り付ける。
「幼なじみさんって、どんな人なの?」
「うーん、常にロックンロール魂で生きている、馬鹿?」
「えーっと、愉快な人なんだね」
他愛のない話をしながら、画角的に幸詩が入る位置を上手く机を動かして、セッティングした。その間も幸詩はギターのチューニングを行う。
「でも、珍しいね、三脚なんて」
「晴富に、ちゃんと聴いて欲しいって思って、今までの練習の成果を」
不意の幸詩の言葉に、胸が高鳴る。文化祭りに向けて、そんなにも練習をしたのだろう。
窓から差し込む日差しが上手い具合のライティングとなって、黒板をバックに立った幸詩に降り注ぐ。
幸詩の頷きに会わせて、スマートフォンの裏に座っていた俺は動画撮影の開始ボタンを押した。
小さな機械音が、幸詩の耳にも届く。視線がカメラでは無く、俺へと向けられる。
「聴いてください、『君に捧ぐ歌』」
知らない曲名だけれども、あまりにもストレートなタイトル。
柔らかく雄大なギターサウンドは、ロックの中に懐かしさを感じさせる。
ギターサウンドに心を奪われた俺を、更に虜にするように、甘くとろけるような幸詩の歌声が教室に広がる。
幸詩と、視線が交じり合う。反らせない、反らしたくない。
歌詞もまた、タイトル通り、君を想う言葉が連なる。
そう、これは。
切なくて、甘くて、愛を願うような、ラブソングだ。
段々と俺の身体が熱く、心臓は痛いほど鳴り響く。
幸詩の指がギターの弦を弾くたびに、教室全体が振動しているような感覚がした。
窓から差し込む日差しが、彼の黒髪に柔らかく光を反射させ、額に浮かぶ汗がゆっくりと流れ落ちていく。前髪の狭間、揺れるが視線はぶれない幸詩から目が離せない。
まるで一編の青春恋愛映画のワンシーンに、俺が入ってしまった気持ちだ。
歌詞だと分かっていても、目が合いながら何度も愛を乞われる言葉に、俺が勘違いしてしまいそう。
なによりも、今の状況を嫌だと思っている自分が、いや、もっと続けばいいのにと思っている自分がいることが。
最後の一音を過ぎても、俺の身体は熱いまま。
呆けた俺に、幸詩が近づいてくる。
相変わらず、独特な甘い香り。
演奏していたからか、身体は上気しており肌は赤く、汗はたらたらと額から下へと流れている。
「どうだった?」
顔と顔が鼻が触れあいそうなほど近い距離で、俺の顔を覗き込む幸詩。
俺は胸が一杯すぎて上手く言葉が出てこず、何度も繰り返し大きく頷く。
「良かった? ……そう、良かった」
言葉を失うほど良かった俺のリアクションが、嬉しかったのだろう、幸詩は優しく俺の肩に触れた。触れた部分が妙に熱く、体感は火傷しそうなほどだ。
その幸詩の手は、肩からゆっくりと背中に回り、ぐっと手前に引き寄せられる。
更にあった距離が、あと少しでゼロになりそうなほど。
そんな時だった。
「望月くん、居る~?」
桜井さんの声が扉の方から聞こえた。
俺は慌てて後ろに椅子ごと下がるようにして、幸詩から距離を取る。幸詩は呆気にとられつつも、すっと背筋を正した。
案の定、桜井さんがにこにこと笑いながら、扉から入ってくる。背中には大きなギターケースを背負っていた。
「望月くん!」
彼女の目に幸詩が映ったのだろう、弾む足取りで駆け寄ってきた。
「ギター音と声、めっちゃかっこよかった!」
本当に顔を赤く染めて、満面の笑みを咲かす彼女は、ひどく眩しい。
「あ、白石くんも久しぶり!」
そして、やっと俺も視界に入ったのか、明るく挨拶をしてくれる。
「ちゃんと宿題、出したからさ、明日からは練習再開できるので、ご迷惑をおかけしました! 望月くんも、よろしくお願いします!」
「ああ、わかった」
きちんと幸詩に頭を下げる桜井さんに、幸詩は仕方なさそうに肩をすくめた。明日からはまた、幸詩になかなか会えなくなるのかと、酷く寂しくなってくる。しかし、仕方ない、文化祭まであと少しなのだから。
「そうそう、今日、最終下校、早いから、もう帰る準備した方が良いよ」
「あ、そうだった」
「片付けないとね」
桜井さんの言葉に俺たちは、慌てて片付け始める。学期初日は時短授業のため、最終下校時間も繰り上がる。俺たちが片付けていると、桜井さんは机や椅子を並べながら話してきた。
「そうだ、白石くんも、一緒に三人で帰ろうよ」
「……ありがとう、そうだね」
少しだけ、身体の熱が下がる。本来なら幸詩と一緒にご飯でもと考えていたが、桜井さんがいるとなると誘いづらい。
正直、残念な気持ちは否めない。ちらりと幸詩を見ると、いつもとは違い酷くムスッとしつつ、ギターケースやカバンに物を詰め直していた。
全てを片付け終わると、桜井さんの提案通り三人で下校する。桜井さんは思ったよりも面白い子で、幸詩に話しかけつつも、俺にも適度に話題を振ってくれた。
猪突猛進だけれど、根は本当にいい子なのだろう。
ただ、楽器ケースを背負う二人の隣で、何も背中にない俺は、どうしても疎外感を覚えてしまう。
「白石くんって、将来の夢あったりしますか?」
突然、桜井さんが少し首を傾げながら質問した。
「えっ?」
あまりにも唐突な痛い質問に、俺は上手くリアクションが取れず、酷く固まってしまう。
「将来の夢、ほら、私は望月くんと演奏することが夢って言ったじゃないですか。逆に白石くんは、なんかあるのかなぁ~って」
「おい、桜井」
幸詩の冷たい制止に、「えっ、あっ、もしかして、ごめんなさい」と頭を下げる桜井さん。俺は大丈夫とだけ伝えたが、それ以上に気が良い返事が出来ない。
よく考えれば、幸詩の夢は世界的なバンドで演奏すること。桜井さんも、幸詩と演奏とは言っていたが、次の夢は音楽関連のものだろうとおもう。
改めて、二人並び立つ姿を視界に収めた。
幸詩も背が高くそれなりに整っているし、桜井さんは話題をかっ攫う可愛さだ。
恋人同士となっても、おかしくないほどに似合っている。
それに比べて、俺は……。
「晴富、大丈夫か?」
幸詩が心配そうに声をかける。急に黙り込んだ俺を心配したのだろう。
俺は申し訳ないと、笑顔を顔に貼り付けた。
「大丈夫」
全然、大丈夫じゃない。何を動揺しているのだ、俺は。
酷くお腹空いたようで、何も食べたくないような気持ち悪さ。
早く逃げ出したいようで、二人きりにしたくないと思うような矛盾感。
なんで、こんなにぐちゃぐちゃな気持ちなのだ。
俺はゆっくりと、幸詩から目をそらした。
二学期がはじまり、あっという間に文化祭前日になってしまった。
外はしとしととした雨模様で、校舎内も酷くじめじめと湿気っている。
昨日の午後から始まった文化祭準備だったが、俺たちのクラスは昼前にはもう終わってしまった。
自分のクラスは、夏休みに調べた好きなことを、一枚の記事にして展示するだけの簡単な企画。
準備といっても各自好き放題に書いたA3用紙を、均等に並べた展示用の衝立に貼っていくだけだった。
「白石! 気合い入ってんな、これ!」
片隅に掲載された俺の生地を読んだクラスメイトが、大きな声で俺を呼んだ。その声に、他のクラスメイトたちが集い始める。
「めっちゃ調べてるじゃん」
「ええーここ気になってたやつ!」
思ったよりも好評で、俺は照れながら頭を掻いた。
「でしょ、やっぱ好きな物と言えば、食べ物だからね」
今回選んだ題材として、学校周りのグルメ情報を記載された地図を作製し、写真と食レポ付きで提出したのだ。というか、それくらいしか自分でも書けるモノが思いつかなかったのだ。
勿論写真の中には、幸詩と行ったかき氷屋や、油そばなどもちゃんと含まれている。
「俺の医学的観点からの授業開始時間をずらす提案とか、以外と反応がない」
「俺だって、ヴィンテージショップの選び方や俺のコーディネートについてのアドバイスを書いたのに」
「コアで良いと思うよ、俺は」
ちなみに松下と高田は高度なテーマを選んだせいか、記事の内容はとても面白いし二人らしくはあるのだが、正直高校生が読むには少々ハイカロリーな内容である。
青口学園の文化祭はクラス出し物は、お化け屋敷と高校三年生のみが許可されている飲食系以外は抑えめだ。その代わり、各部活の出し物にかなり力が入っている場合が多い。
俺らのクラスは特にこの傾向が強く、準備が終わったクラス内は閑散としており、ほとんどのクラスメイトは自分の部活の準備に行っている。
俺のボランティア部は出し物がないので、三十分のミーティングで文化祭運営としての二日間のシフトを話し合って終了した。ちなみに俺たちはじゃんけんで負けたため、高田、松下と三人で土曜日早朝の手伝いをすることになっている。
「思えば、軽音部って土日二日間演目あるけど、望月っていつ演奏すんの」
準備が完了したクラスの中で、床に転がった高田が文化祭のパンフレットを開きながら、俺に尋ねてきた。
「ふ、明日の最後の方だって。人数が多いから、くじ引きで決めたらしい」
「おおー、二日目のが受験生や他校からも来て、盛り上がるのにな」
高田は興味薄そうに、ぺらぺらと文化祭のパンフレットを捲っている。
幸詩のことを急に聞かれ、正直、ドキッとした。桜井さんと共に帰った時から、幸詩とすれ違って言葉を交わすくらいで、ほぼメッセージでのやりとりしかない。
それに……思い出すだけで、身体がどんどんと熱くなってくる。
あの日、深夜に幸詩から歌った動画が送られて来たのだ。
『あげる』
短いメッセージだけがついていて、朝起きてびっくりしてしまった。
理由を聞いたが、『晴富ならいいかなって』という理由になっているようでなっていない返答が返ってきた。とりあえず、トラウマもどうやらかなり回復したようだ。
正直気持ち悪いかもだけれど、毎日幸詩の歌声を聴いて寝ている。
桜井さんが幸詩の歌のためにあんなに頑張ってしまうのも、少しわかってしまった。
「白石、顔、赤いけど大丈夫か?」
「えっ」
高田に指摘され、俺は思わず顔を隠す。
「そそそ、そんなことないけど」
「動揺していたら、もっと怪しいぞ」
参考書を読んでいた松下からも指摘を受けて、俺はもう余計な事を言わないと口を閉じた。
ただ、高田と松下から視線がぐさぐさ刺さってくる。
「望月となんかあったのか?」
「べべべべべっべつに! なにも!」
「白石、下手な嘘は自分の首を絞めるぞ」
高田の直球の問いかけと、松下からの鋭い指摘の間に、俺は話さず小さく縮こまる。
本当に何もないはずなのに、俺が勝手にずっとおかしいのだ。
黙りこくる俺に、高田は呆れたように肩を落とす。松下も視線を参考書に戻した。
「まあ、あんま抱え込むなよ」
「そうそう、深く悩むとドツボにハマるタイプだろ。吐き出したら楽になることもある」
なんだかんだ長い付き合い。ドライだけれど優しい二人に、俺は小さく「ごめん」と呟いた。
暫く待っていると、五限目終わりのチャイムが鳴り響いた。
ようやく帰れる時間だ。
クラスメイトに挨拶だけすると、松下と高田と共に教室から出て行く。
三人ともさっさと帰ろうと、いつもより足早に教室から下駄箱を経由して校門へと向かう。
なにせ、明日の七時集合の早朝シフトだ。
あと少しで、下駄箱から抜けて、校庭側に出たところだった。
「あ、白石くん、いた!」
後ろから聞き覚えのある声と駆ける足音が聞こえた。振り返ると、桜井さんが一直線に俺の方へと向かってきていた。
「え、桜井さん? どうしたの?」
俺は何故呼ばれたのかと問いかける。
桜井さんは息を切らし、額の汗を指先で拭った。湿気を含んだ空気が、何故か二人の間で、重く淀んでいるように思えた。
「ちょっと、二人きりで話したいんだけど、今大丈夫かな?」
「い、いいけど……」
一体なんなのだろうかと、俺は高田と松下に「ごめん、先に帰ってて」と断りを入れ、桜井さんに誘導されるまま購買のベンチの方に向かった。
購買の近くは家庭科室があるため、高校三年生の屋台組が忙しなく仕込みや試食を行っている。ただそこから少し外れるだけで、人気も少ない状態だ。
「桜井さん、話って何?」
二人きりと言える環境で、俺は桜井さんから距離を取りながら、本題について尋ねる。
「……単刀直入に言うね。明日の演奏の後、望月くんに……告白する」
世界が一瞬止まったようだった。心臓がドクンと跳ね、喉が締まり、息が詰まる。
「最初は、一緒にバンド出来るだけで十分だと思ってた」
彼女の言葉が、鈍い痛みとなって胸に響く。確かに彼女は以前、俺に同様のこと言っていたのを思い出す。幸詩と演奏するのが夢だと。
「でも、実際一緒にいて、胸がドキドキして、目も耳も全て奪われて」
顔を赤く染めた桜井さん。ああ、目を反らせば良かったと、機会を逃したのを心の中で悔やむ。
どれも俺も心当たりがある。
わかる、わかるからこそ、呼吸ができない。
「私、本当に好きになっちゃったんだ、って毎日思ってる」
桜井さんの言葉が次々と降り注ぐたびに、俺の胸の奥がずきりと痛む。
「応援してほしいとは言わない。ただ、私の気持ち、知っててほしいの」
「そ、そう……」
震える喉から絞り出せた言葉が、引きつるような曖昧な返事だ。
「話したいことは、それだけ。流石に他の人の目があるのは、私でも恥ずかしいからさ」
桜井さんは、本題だけ伝えると「じゃ、文化祭、演奏、見に来てね」っと言葉を残し去って行く。
なんで、俺に宣言したの。どうしてなの。
わからなすぎて、また頭がぐちゃぐちゃになっていく。
俺は唖然として立っていると、何故か俺の元に高田と松下がやってきた。
「おい、大丈夫か」
「白石、とりあえず帰ろう」
二人はもしかしたら、先ほどの会話を盗み聞きしていたかもしれないが、深くは聞かずに俺を引きずるように連れて行く。
ぼうっと霞む頭の中が、ゆっくりと整理され、一つの結論が浮かび上がった。
もし、桜井さんの言葉が正しいならば。
俺は、幸詩に恋をしているということだ。
「おい、しっかりしろ」
「だめだ、屍のようだ」
文化祭初日の土曜日、本日は家族。
朝のシフトを終えた俺は、クラスの展示スペースの裏でぼうっと空を仰いでいた。昨日の曇り模様はどこへやら、窓ガラスの向こうには雲一つない空が広がり、目覚めるような青色がやけに目に痛いほど憎々しく見えた。
はあ、っとため息を吐く。外の天気とは違って、今も俺の心の中では分厚い曇がぐるぐると渦巻いていた。
入場者の案内している時は、本当に忙しくて、作業に集中出来て良かった。
終わって暇になった途端に、昨日のことを思い出してしまう。
高田と松下も、俺と一緒に展示室の裏でゆっくりと休んでいる。
一応壁の向こう側でたまに来場者の人たちが訪れるが、掲示物のみなので人数も少ないし、すぐに出て行ってしまう。今は俺らと同じく時間潰し中のクラスメイトだけが、好き勝手休んでいた。
「てか、出店、行かないのか?」
「食欲ないかも」
高田の問い掛けに、俺はぼーっとしたまま答える。
「白石が!?」
「大丈夫か!?」
高田と松下はまさかの回答だったのだろう、いつもの落ち着きはどこかに吹っ飛ぶほど、大声を上げて俺に詰め寄った。
「本当に……食欲ないんだよね……」
いつもなら出店を食べ尽くす勢いなのだが、正直昨日からご飯が美味しくない。というか、幸詩への感情が定まらず、胸も頭も感情やら考えやらが入り乱れている。
考えないようにしても、少しでも隙があれば終わり。
すぐに引っ張られて、一人で混乱し苦しむ羽目になる。
昨日、幸詩からメッセージが来た。
『土曜日はリハーサルとか準備とかで埋まってて、日曜日は文化祭一緒に回ろう』
メッセージを見た瞬間、心臓が小さく跳ねた。どう返事をすればいいのか、指が震える。
……でも、どうしてだろう。簡単に返事をすれば良いはずなのに。
結果、まだ、返せていない。通知で文章を確認した上で、未読無視状態。
返信しないといけないのは、わかっている。けれど、どう返事したらいいのかわからない。
あああああううううう。
頭の中で唸りながら、身体も小さくうずくまる。
いや、どうしてこんなに悩んでいるんだ。
俺と幸詩は、友達のはずなのに、どうしてこんなにざわつくのか。桜井さんが告白しようと、俺の関係は変わらない――はずなのに。
……だけど、どうしても胸の奥が苦しい。
ひたすら小さくなる俺の肩を、トンと誰かが叩いた。
身体は飛び上がり、後ろを振り返ると神妙な顔の松下が、アルミホイルの包まれた何かを持っていた。
「お前が飯を食べないなんて、調子が狂う。食え」
手渡されたアルミホイルを広げると、その中にはスパイシーな香りが食欲をそそるタコス。挽き肉と野菜、トマトソースがしっかりとした量が入っている。
「タコスだ」
意外なセレクトに、高田を見上げると、彼は淡々と言葉を続けた。
「一番栄養バランスが良かったからな、食え」
「ありがとう……お金、返す……」
「後でいい、さっさと食え」
俺を気遣ってくれたのだろう。語尾が全て「食え」になっている。
俺はタコスを一口齧る。文化祭の模擬店ではあるが、挽き肉のゴロゴロ感と野菜が、スパイシーなソースと混ざって口の中が幸せだ。タコスの皮はスーパーの固いヤツだが、食べやすさはあって、これはこれでいい。
「美味しい。でも、ちょっとライム、欲しいかも……」
「本格的な味を求めるな」
やはり空腹が一番のスパイス、久々に胃に収めた食べ物は満足感がある。つい心から漏れた気持ちに、松下はしっかりとツッコんでくれるので、少しばかり心が和んだ。が、その隣に居た高田は、じっくりと読んでいたファッション誌から俺たちへと視線をずらす。
「望月のと頃行くんだから早く食え」
「えっ!?」
高田の指摘に、思わず大声を出した俺。
まだ結構時間はあるのに急かされるのかと、疑問があるけれど、それ以上にいきなり幸詩の話題を振られて動揺が隠せなかった。
俺のあまりの驚きように、高田は「そんなに驚くか?」と不思議そうに首を傾げる。
「ライブって場所取り命だし、白石んとこ話題になってるぞ」
「そ、そうなの」
「おう。だから多分、一番人が混む」
話題になっているのは、多分桜井さん効果ではあるし、幸詩と桜井さんにはここ最近注目が集まっていた。確かに一番混んでもおかしくはない。
そして、幸詩にとっては、今まで頑張ってきたことの成果が出る日。
そろそろ行かないと良い席が無くなってしまうかも。
ふと、脳裏に幸詩がステージにあがる光景が浮かんだ。
かっこよくギターを掻き鳴らす幸詩。
しかし、その隣には桜井さんがいる。
酷く心がざわついた。
それに幸詩の演奏を見たら、きっと好きになる人が増える。断言できる。だって……。
これ以上、言葉に出来ない。
頭が重く、ゆっくりと俯いた。
「白石さ、何悩んでるの?」
高田から尋ねられても、言葉が見つからない俺は顔を上げず黙りこむ。
「もしかして、昨日の告白か?」
「……聞いてたんだ」
「まあ、藪つついた気分だったけどな」
高田の言葉に、俺は一瞬動きを止めた。どうやら、彼は昨日の話を聞いていたらしい。そして、それに気づいた松下も、肩をすくめる。
「……昨日からなんかずっと、頭がぐちゃぐちゃで」
素直に今の状況を伝える。上手く言語化出来ないのが申し訳ないが、これは俺の今の状況なのだ。高田を見れば、少しばかり首を傾げる。
「自分の好きな人に、可愛い子が告白するから?」
あまりにも直球の言葉に、俺の身体が熱くなる。
「な、なななっ、好きな人って!」
「いや、確実に白石、望月のこと好きだろ」
「高田、なんでそんな直球なんだよ!」
そう言われると思っていた無かったから、高田の真っ直ぐな指摘が心臓に突き刺さる。松下が制止するが、既に手遅れだ。
そうだ、言葉にしたくなかったのだ。
認めたら、友達ではいれない。
ただでさえ、俺には幸詩や桜井さんと違って、何もないのだから。
だから、好きだからこそ余計に、不釣り合いだと思ってしまう自分が惨めで。
視界が水の膜が張り、潤い霞む。
ああ、泣いてしまう。
と、目元に力が入った時、俺の口に何かが突っ込まれた。
それは先程の食べたタコスだった。
「白石、今は考えるな、食え。で、もう体育館行くぞ。悩んでも仕方が無い」
ツッコんだのは、やはり松下。あまりにも力業すぎて、俺の涙も引っ込む。そして、呆気にとられている間に、松下と高田に両腕を捕まれた。
「頭で考えても答えが出ないこともある」
「なので、いくぞ」
初めて見た二人の見事な連係プレー。俺は引きずられるように、体育館へと向かった。
なんとかタコスを口の中に押し込んで、軽音部が演奏している体育館へとやってきた。
第二体育館は、第一体育館よりも半分の大きさで、テニスコートが二面ほどの大きさ。小さな舞台も用意されており、スポットライトの下で既に軽音部の人達が演奏をしていた。
音響は反響し、シャウトし続けているせいか、少し耳が痛い。暗い観客席側にはバンドメンバーの友人たちやご家族などかなり賑わっており、学生らしい歓声が至る所から聞こえてくる。
「松下、今はウィーアーウォーリアってグループ名だけど、タイムテーブルどうなってる」
「自分で調べろよ、あー……あと五バンドくらいだな」
今だもぐもぐしている俺の代わりに、何故か高田と松下がステージ上のめくり台に書かれたグループ名と、パンフレットを照らし合わせて確認してくれる。
もっと遅いかと思っていたが、意外と巻いていたようだ。
「チーム一曲ずつか」
「って、幸詩から聞いてる」
松下の質問に答える。男三人、体育館の一番後ろで小さくなりながら、俺は辺りを見渡した。
体育館の中は、スマートフォンでの撮影を禁止されているため、誰一人撮影したりしていない。
よかった。
幸詩のトラウマはよく知っているからか、ルールはあるとはいえ、少しばかり気になっていたのだ。
そうこうしている間に、音楽が一旦終わりを迎える。静まり返った場内に、新たなバンドのメンバーが準備を整える音が響く。
その時だった。
「晴富」
辺りを見渡していると、誰かが俺の名前を呼んだ。振り返ると、そこにはギターバッグを背負った幸詩が立っていた。目が合った瞬間、幸詩の瞳が一瞬大きく開かれ、口元がわずかに引き締まる。
彼の周りには、桜井さんと前に一緒に幸詩を誘いに来ていた子たちもいた。
「幸詩」
「返信なかったから……体調、大丈夫?」
「ご、ごめん。朝、早くて」
「ああ、朝誘導してたもんね」
どうやら朝の雑用中を目撃されていたようだ。朝の受付や誘導はかなり忙しく、準備もろとも色々な事に気を配る余裕はなかったので気づけなかった。
ちらりと幸詩の目を伺う。長い前髪の合間から見えた瞳は、どこか不安そうに揺らめいている。視線を落とせば、ギターバッグを握る幸詩の手が、小さく震えていた。
今ステージの上にいる、誰かの歌声がどんどんと遠のいていく。
俺は幸詩の肩に両手を乗せる。
ぐだぐだと悩んでいた俺よりも、幸詩は今真剣に勝負に挑んでいるのだ。ならば、俺は、俺に出来ること。
「大丈夫。終わったら、美味しいもの食べに行こう」
先ほどまでくよくよしていた俺が言うことではないけれど、どうにか笑顔を咲かせて、幸詩に伝えなきゃと思ったのだ。
「……ありがとう、美味しいもの食べよう」
幸詩は肩に置いた俺の手に、軽く頭を乗せるとぎこちないが頰笑む。暗い中のスポットライトの漏れ光が、優しく幸詩の輪郭を浮かび上がらせた。
ごちゃごちゃとなっていた頭が、急にすっとクリアになっていく。
ああ、好きだ。
もう、認めるしかない。
思わず見つめ合う俺たちだったが、幸詩の背中側から桜井さんが声を掛けた。
「望月くん、スタンバイしにいかないと、先輩たちに怒られるよ」
「……わかった。晴富、また後で」
桜井さんに引っ張られるように、ステージ裏へと向かった。
俺は幸詩の背中をひたすら視線で追う。桜井さんと一緒に居るのは、どうしても心は苦しくなる。
けれど、なにがどうあれ、今は幸詩がステージを無事に終えることを願うべきなのだ。
「おーい、現実に戻れ」
「あいつ、相変わらず白石しか見えてねぇな」
隣から松下と高田の声が聞こえる。俺はただ幸詩の出番をまった。
待つ時間は長いようで、短い。
めくり台が捲られて、幸詩と桜井さんのグループである『山川桜望』の紙が出てくる。
一度暗転したステージ、薄らと浮かぶ影となった各々が自分の機材の準備を始めている。影の中には、幸詩もいた。
それぞれがチューニング音が、ばらばらと重なりあう。
音が止まり、一呼吸。真ん中に立つ小さな影が、手を上げた。
スポットライトが中央に立つメンバーを照らす。
大きな歓声と、口笛と、拍手が鳴り響く。
光の中、最初に現れたのは、中央に立って手を上げるベースボーカルの桜井さん。赤いベースが厳つさがよく似合っている。
ただ、俺の視線は上手側に立つ長細い影に注がれる。
「高校一年でバンドを組んだ山川桜望です! 今日はよろしくお願いします!」
桜井さんの可愛らしい声がマイクを通して、会場内に広がる。やはり愛らしい彼女だからだろう、色めき立つ会場。俺は静かにギターに手を添える身長の高い男――幸詩の姿を見つめていた。
たしか、選曲はこの前歌ってくれた『君に捧げる歌』だったはず。
あれを聴けば、皆、幸詩に惚れるだろう。
俺が固唾をのんで見守っていると、目配せをした桜井さんのタイトルコールが響く。
「それでは聞いてください。ザゴーズヘルで『青い鳥』」
あれ、違う。
この前の曲だと思っていたので予想を裏切られた俺は、思わず目を見開く。
しかし、そんな些細な驚きは簡単に拭い去る。
軽快なドラムのカウントと共に、柔らかなエレキのギターサウンドがなり始める。
メロディーは軽快なポップスよりのロックは、鼓動をどんどんと加速させる。
勿論弾いているのは、幸詩。いつもよりも身体に力が入っていて、動きは固いが完璧な指裁きだ。
そのギターサウンドに、サブギターのベースがドンドンと重なり、重厚感が出てくる。
そして、透明で真っ直ぐな光のような桜井さんの歌声が、青い鳥を求めて空を飛んでいく。
爽やかだけれど、青春の痛みのある歌詞。
幸せや、夢を、模索する人の歌。
観客席は静まり、皆一様に桜井さんの歌へ聴き入る。
ただ、幸詩は少しも歌うことは無く、たまにコーラスとして桜井さんの歌声を支えるだけだ。
しかし、ギターだけでもわかる。一人だけレベルは違う、ギターサウンドの一音一音に感情が宿っている。ソロパートの絶対難しそうなところも、難なく弾きこなしている。
弦を見る幸詩の視線、揺れる前髪、険しい表情が少しずつ和らいでいく。
遠いはずなのに、はっきりと見えた。
楽しそう、輝いている、かっこいい、きらきら、ああ好きだ。
幸詩への気持ちが、溢れては光や音の中に溶けていく。
素晴らしい演奏は、名残惜しいと思うほどにすぐに終わる。
終わった後の刹那の静寂。
なんで一曲だけなのだと、心の底から次を欲しがってしまう。心地よい余韻。
そして、気づけば、溢れんばかりの気持ちを伝えるように、俺は手を鳴らした。
周囲の人たちも連なって、大きな拍手と歓声が広がる。
その反応を受けて、深々とお辞儀する四人。
俺は気付けば、舞台の袖へと足早に駆けていく。高田と松下の制止の声も聞こえたが、衝動のまま彼らが退場する方へと向かった。
今日のトリを務める三年生のバンドが演奏を始める中、舞台袖の出入り口前で立っていると、ギターを背負った幸詩が出てきた。
「晴富」
幸詩の低めの声が俺を呼び、俺の全身がぼっと熱くなる。
「幸詩、凄いよかったよ!」
俺が大声で褒めれば、幸詩は照れくさそうに「良かった」と言いながら、俺の方へと近づこうとした。
しかし、その前に観客の一部が幸詩へと駆け寄った。
「望月、すげぇじゃん!」
「あのギターソロ、やばすぎ」
「こりゃ、桜井さんも追っかけ回すわ!」
「めちゃくちゃかっこよかったです!」
部活仲間かクラスメイトかはわからないが、幸詩の周りにあっという間に人集りが出来た。幸詩は驚いたのか、身体を硬直させ、視線を彷徨わせる。
俺は、戸惑う幸詩に手を伸ばし、がしっと腕を掴んだ。
「晴富……?」
あまりの急な俺の行動に驚いた幸詩が、呆気にとられた様子で俺の名前を呼ぶ。他の人達も、不思議そうに俺を見る。
「ご、ごめん」
その多くの視線に怖じ気づいた俺は、勢いのまま掴んだ腕を放し、申し訳なさと恥ずかしさで顔を赤く染めながら後退る。
「俺、クラスの出し物の当番あるから行くね……!」
そして、また逃げるように第二体育館から走り去った。
なんで、俺、逃げているのだ?
逃げ出した足音が、廊下に乾いた音を響かせる。心臓の鼓動は乱れ、呼吸も酷く荒い。どうして、こんなに焦っているんだろう。
体育館を飛び出して、気付けば展示している教室の階も超えて、あの掘っ立て小屋の方へと向かっていた。
掘っ立て小屋は、やはり最上階ということもあり、全く人の気配はない。
その代わり、展示用の教室から出されただろう机や椅子が、廊下や教室にぎゅうぎゅうに詰められていた。
俺は椅子や机の垣根を越えて、いつもの教室の奥へと入っていく。日が沈みかけ教室の中、窓際には赤い光が差し込み、長い影を落としていた。
本日の文化祭は終わりが近いけれど、校庭からは流行の曲のBGMと人の賑わいが絶え間なく聞こえてくる。
教室内のベランダ傍に隠れるように、ガラス戸に寄りかかるようにして床に小さく蹲る。
「ああ、もう……」
意気地無し、と言われても仕方ない。
なんで、逃げてしまったのだろう。幸詩のそばにいたいと思う気持ちと、彼の周りに集まるたくさんの人たち。幸詩の隣は、もう自分だけのものではない――そのことが怖くて仕方なかった。
では、あの時幸詩の腕を掴んで、どうしたかったのだろう。困っているのではと心配で、助けたかった。
いや、違う。自分の隣から幸詩が遠くに行ってしまうと焦ったからだ。
ここ最近全く会えていなかったし、桜井さんの告白も、今日で幸詩を好きになった人たちも、全てが怖くなってしまった。
だから、衝動のまま、掴んでしまった。
全部、自分のわがままだ。
「幸詩……ごめん……」
「何が、ごめんなの」
「え」
小さく呟いたつもりだった。しかし、慌てて教室の扉の方へと向くと、汗だくで息を荒く整える幸詩が立っていた。
「幸詩、なんで」
「あんな逃げられたら、追いたくなるよ、普通」
幸詩は背中に背負ったギターを一度教室の入り口の柱に置くと、椅子と机の合間を縫って、こちらへとやってくる。
そして、俺の前に同じようにしゃがみ込む。
「晴富」
いつもよりも鋭い幸詩の瞳が、俺を映す。幸詩の唇が、更に動く前に俺は「ごめん」と謝った。
「なんで、謝るの」
「……それは」
「謝られること、されてない」
幸詩の苦しそうな言葉。ああそうだ、これは俺の個人の問題。
しかし、これから、俺は幸詩を困らせる。
「俺、幸詩のこと、好きなんだ」
あまりにも唐突だった。堪えきれなかった。隠し通すのは得意じゃない。
言ってしまえば、楽になる。
しかし案の定困ってしまったのだろう、幸詩は口を大きく開けたまま、言葉を失った。
「友達だったのに、ごめん……どうしたら、いいか、わからなくて……」
しゃくりあげる俺の瞳から、涙が溢れるのを必死に手の甲で拭う。皮膚と皮膚が擦れ、ひりひりとした痛みが広がった。
ようやく言葉は尽きた。目元をこする手を、幸詩の手が優しく掴んだ。
「幸詩?」
急なことだったので、幸詩の顔をのぞき込む。茜色の日が差し込んでいるせいなのか、幸詩の顔が赤く染まっていた。
「その……あの、今日、言おうと思ってたんだけど」
静かに見つめ合う。幸詩が口を開きかけて、また閉じた。お互いに何も言ない時間が続く。鼓動が耳に響く中、幸詩は言葉を探すように一瞬視線を一瞬逸らした。それから決意したように再び見つめた幸詩の顔は、決意を浮かべている。
「俺も……好きだよ」
その言葉が、教室の中に柔らかく落ちた。
「えっ」
幸詩の言葉が上手く頭に入ってこない。今、好きと言ったの。
「誰を?」
「晴富を」
「な、なんで」
「好きだからとしか……」
「いつから」
「結構前から、かな」
詰めるような質問に、リズムよく幸詩が答えた後、凄く気まずい沈黙が流れる。
「好きにもなるよ、俺のために、こんなに一生懸命になってくれて」
幸詩の甘い言葉。俺は唖然と口を開く。
「だから、どうにかしてでも、ずっと一緒に居たかったんだ」
甘ったるい静寂を打ち破るように、文化祭一日目の終わりを告げる校内アナウンスが響く。
「……俺、結構あからさまだと思ってたんだけどな」
幸詩は少しばかり肩の力が抜けたように、俺に覆い被さるように抱きしめる。
「ど、どうした……?」
「今回、終わったら告白しようと思ってたのに、先を越されちゃったし」
ただでさえいい声なのに、耳に掛かる吐息のように囁かれて、思わず背筋がピンと伸びる。その背筋に回った幸詩の腕に力が入る。
「晴富、好きだよ。付き合ってほしい」
直球どストレートの告白に、俺はおずおずと抱きしめ返す。
「うん」
幸せすぎて声が上手くでなくて、小さく上擦る。
二人の腕にきゅっと力が入った。幸詩の体温が心地よいし、香水の甘いグリーンな香りが幸詩だと感じさせる。
抱きしめていた腕を緩まり、少しばかり俺と幸詩の間に空間ができた。見つめ合う距離は数センチ。
鼻先が触れあうような距離だ。
「キスする?」
「初キスは……手を繋いでデートした後だろ」
これはもしやと思い尋ねると、顔が赤い幸詩は恥ずかしそうに口を尖らせた。
まさかそんな事を気にするなんて。あまりにも可愛いから、俺の身体から力が抜けたせいか、ゆっくりとあるものが湧き上がる。
「幸詩、お腹、すいたね」
そう、空腹感だった。
「たしかに、俺も朝から食べてない」
目があった俺らは、大きく笑い合った。
「幸詩、甘い物食べたい」
「じゃあ、前食べ損ねたドーナッツは?」
「いいね! 一緒に写真も撮ろう」
俺たちは立ち上がる。そして、教室から出ようと思った時、幸詩が俺に手を差し出した。
「手、繋ごう?」
俺は大きく頷きながら、その手を取った。
一度俺のクラスの展示教室へと二人で向かう。途中、先生と出くわして、手を離してしまったけれど。クラス内にはすでに誰もおらず、俺の鞄だけが置かれていた。俺は鞄を拾い上げて、幸詩の元へと戻った。
すると、なんと幸詩が俺の展示物を見ていた。
「お、俺のよく見つけたね」
幸詩に横から声を掛けると、彼は驚いたように目を見開き、勢いよく俺の方を振り返った。
「これ、めっちゃいいじゃん」
幸詩は展示を見つめたまま、強い口調で褒める。その目は少し輝いているように見えた。
「そう? クラスメイトのみんなからも好評だった」
照れくささに耐えられず、俺は首の裏を掻いた。褒められるなんて思っていなかったから、思わず顔が熱くなる。
「晴富、絶対グルメライターとか向いてるよ」
「グルメライター……」
思わず口に出して反芻する。まったく予想もしなかった言葉に、何を言われたのか一瞬理解が追いつかない。
「ご飯好きだし、美味しいものを伝えてくる力、凄いあるなぁって」
幸詩はまるで当たり前のことのように、穏やかに言葉を続ける。
その言葉が、俺にとって、まるで頭の上に大きな雷が落ちたような衝撃だった。今まで自分が考えたこともなかった道が、まるで扉を開けられたかのように見えてくる。
「それだ」
頭の中でパズルが綺麗にハマるようにカチッと音を立てる。今まで自分には、将来の夢がなかった。
やりたいことも、得意なことも見つからなくて、ただ流されるように生きてきた。
けれど、俺にも「好きなこと」があった。そして、それを生かせる仕事もあることに、今初めて気づいたのだ。
「幸詩、ナイス! ありがとう……!」
叫んだその瞬間、胸の奥から喜びが突き上げてくるのを感じた。それは今までに感じたことのない、言葉にできないほどの感謝と興奮だった。心臓が激しく脈打ち、体が震えた。もう、自分を抑えられなかった。
そして、周囲を気にすることを忘れて「大好き!」と、勢い余って叫びながら、幸詩に抱きついた。
「な、なにが!?」
突然の抱擁に驚いていた幸詩が、焦りつつも腕を回し、そっと俺を抱きしめ返してくれる。その優しさに、思わず涙が出そうになる。
本当に今日は良い日だ。最高だ。
ふと静かになった校内に、遠くから聞こえる最終下校のチャイムが穏やかに響いた。
少しの間、互いにその音を聞きながら見つめ合う。校内の喧騒が少しずつ遠ざかっていく中で、俺たちは現実へと戻った。
「じゃあ、美味しいもの食べに行こう」
俺のいつもの提案に、幸詩は満面の笑みで頷いた。
終わり