春になったら君に会いたい

正晴は気を利かせてくれたようで、その日は昼以降姿を見せなかった。泣いているところを見せたくなかったし、話す余裕もなかっただろうから、正直ありがたかった。
俺は何度も手紙を読み返すうちに眠っていたらしく、気がつけば朝になっていた。にぎったままになっていた手紙を、丁寧に封筒に戻す。気持ちが整理できたわけではない。だが、寝たことによって頭はある程度整理できていた。

「急で悪いんだけど、今から病院来れたりするか?」

封筒ごとベッド横の棚にしまい、正晴にメッセージを送る。返信は思ったよりも早く来た。「うん」の二文字だけの、珍しく簡素な返信だった。

30分もしないうちに正晴は病室に姿を現した。息が少し荒くて、目元は気のせいか赤く見えた。

「冬が俺を病室に呼びつけるなんて珍しいね」

笑った顔でそう言う。しかし、いつもの正晴のようには笑えていなかった。俺はずっと自分のことばかりだったが、正晴だってのぞみが死んでからいろんなことを考えたんじゃないだろうか。また、少し胸が詰まる。

「……正晴は、この手紙読んだ?」

自分で呼び出したくせに、何を話したらよいのか分からなかった。大した意味のない質問しかできない。

「読んでないよ。それは冬に向けたものだから」
「そうか」

きっと、正晴なりの気づかいなんだろう。俺が同じ立場だったら、中身が気になって読んでしまっていたかもしれない。別に正晴が先に読んでいたとして、何の問題もない。それでも、正晴の気づかいがなんとなく嬉しかった。
「冬は、ちゃんと手紙読めた?」

優しい声の質問に、深くうなずいて返す。

「なんか、正直まだ落ち着けねえけど……でも、のぞみの気持ちは伝わってきた。正晴のおかげだ。手紙届けてくれてありがとな」

正晴を呼んだのは、感謝を伝えたかったからだ。のぞみが残してくれたものを、正晴が届けてくれた。そうでなければ、のぞみの思いを俺が受け取ることはできなかったかもしれない。俺の言葉を聞いた正晴は、驚いた顔をして、視線を逸らした。

「別に俺は何も」

消え入るような声だった。初めてそんな声を聞いた。

「……俺はさ、冬に何かできたらってずっと思ってた。でもあの日、俺は冬を起こすことすらできなかった」
 
あの日、は多分のぞみの死んだ日だろう。正晴が起こそうとしてくれてたことなんて知らなかった。もしかしたら俺は、正晴にとてもしんどい思いをさせていたのかもしれない。のぞみとのことをずっと応援してくれていたのは正晴だ。俺の話を聞いて、背中を押して。そんなこいつに、どれだけの重荷を背負わせたのだろう。

「それでも、正晴がいてくれたから、俺はのぞみと楽しい時間を過ごせたんだと思ってる」

はっきりと言い切った。紛れもない本心だ。俺一人だったら、きっとのぞみに話しかけることはなかった。のぞみへの気持ちがはっきりせず、有耶無耶にしたまま終わっていたかもしれない。いや、それだけじゃない。俺がこれまで人生に絶望しないでいられたのは、正晴がいるからだ。俺のことを見下さないし、見捨てない。対等な関係であろうとしてくれる。この1年でそれを改めて実感した。
「ありがとう」

改めて口にした感謝の言葉に、正晴は微妙な顔をした。だが、段々と穏和な表情に変わる。

「俺だって冬には感謝してるんだよ」

意外な言葉だった。俺は正晴に感謝されるようなことなんてしていない。

「冬はね、俺にとっての憧れなの。知らなかったでしょ?」
「何それ初耳」
「だって努力家じゃん。勉強も運動も、体のこと理由にしてできないって言っても誰も責めないのにさ。いっぱい努力して、でもそれを周りにひけらかさないで。それを見てたから俺も頑張ろって思えたんだよね」

そんな風に思われていたなんて初めて知った。勉強も運動も、ハンデがある分、人より努力してきたとは思う。ただ、正晴はいつも俺より優秀だった。憧れていたのは、むしろ俺の方だ。だから、そんな正晴の憧れが俺だなんて信じられなかった。

「まあ冬は自覚ないだろうけど」

正晴はそう付け足しながら伸びをする。のぞみといい、正晴といい、俺のことを過大評価しすぎである。俺は目の前のことをどうにかこなしてきただけだ。そんなにたいした人間じゃない。嬉しい言葉ではあったが、素直に喜べない自分もいた。

それからもう少し話をして正晴は帰っていった。その後、俺はもう一度のぞみからの手紙を読んだ。冒頭の挨拶に返事をしていなかったことに今更気づく。

「おはよう、のぞみ」

小声での挨拶が彼女に届くことはないかもしれない。それでも言わずにはいられなかった。
3月の終わり頃、退院が決まった。それまで、いやそれからも、ずっと心が不安定だった。夜の静かな病院では、特に寂しさが身にしみた。数日に一度、一人で泣いた。

退院当日、母さんと正晴が迎えに来てくれた。雨男がいるわりには快晴だ。雨よりは晴れの日の方がいくらか気が楽なので、少しほっとする。

「ねー冬、なんかちょっと縮んだ?」

隣に立つ正晴は、からかうような声で言いながら、俺の頭に手を乗せてくる。俺はむっとして、それを叩き落とす。今までと同じ光景だ。毎年毎年こんな感じで、それが続いていることに安心する気持ちも確かにあった。だが、心に空いた穴が存在感を消すことはなかった。それを分かっているからこそ、正晴はいつも通り接してくれているのだろう。

病院の外に十歩ほど出てから、なんとなく振り返る。見慣れた場所に今更どうこう思うことはないと思っていた。それなのに、胸が締め付けられる感じがした。母さんも正晴も、そんな俺に何かを言ってくることはない。静かに見守ってくれるだけだ。迎えに来てもらえてよかったと思う。一人だったら泣き崩れていただろう。

「じゃあ、帰るか」

声に暗さが出ないように、明るめに伝えた。俺の言葉に二人はうなずいて、並んで歩き出した。
入院中、ずっと考えていたことがある。のぞみのいなくなった今、俺は何をすべきなのか、ということだ。正直、もうどうでもいいやと思う瞬間もあった。面倒なリハビリも、バイト生活も、桜を見に行くことでさえ、捨ててしまいたい気がした。いつも以上に考え込んで、迷走して、生きている意味がないという答えに辿り着いたのも、一度や二度の話ではない。でも、のぞみが俺に託したものを見捨てることはできなかった。

高校に進学しないということは、俺にとって実は結構大きな決断だった。自分で言うのもなんだが、頭は悪くない。頑張れば正晴と同じ高校に行くこともできたはずだ。それでもそうしなかったのは、もちろん体質のせいである。そもそも入試の時期は冬なので、受けることすら不可能だった。だから諦めざるを得なかった。本当は、高校や大学でやってみたいことだって、就きたい仕事だってあった。だが、それらは見て見ぬふりするしかない。そうやって諦めて、心の中で自分の体質を恨みながら生きていくのだと思い続けてきた。少なくとも今まではそうだった。

「冬くんには希望であふれた世界で生きてほしい。望んだことすべてはむりかもしれないけど、きっと叶える力を持ってると思うから」

この文章を見たとき、胸が熱くなったのを覚えている。涙をこらえているからだけじゃない。心の奥底を掴んで揺さぶってくる何かがあったのだ。体質のことがあるから、何かを望むことも、ましてやそれを叶えることなんて極力考えないようにしていた。できることをできる範囲で、それしか生きる道はない。

でものぞみはそれを否定してきた。きっとのぞみも、たくさんいろんなことを諦めてきたのだろう。俺の何倍も悔しい思いをしてきたのだろう。春になったらしたいと思っていた些細なことでさえ、彼女には叶えられなかった。それが現実だ。そんな彼女が、俺なら望みを叶えられると信じてくれている。その言葉の重みを無視することはできない。

家に帰ってから、数ヶ月ぶりに自分の部屋の引き出しを開けた。一枚の紙を取る。繰り返し繰り返し考えて、腹をくくろうと思った。生きる意味を見いだせないまま生きていくなら、無理と分かっていても望みを持つ方がまだいい。それが、のぞみが俺に託した希望でもある気がした。

数回深呼吸をしてから、その紙に書いてある番号に電話を掛ける。母さんにも父さんにも相談せずに話を進めるのは躊躇われたが、これも一つの覚悟の形だ。この希望に責任を持つのは、俺自身でなくてはならなかった。
退院してから数日後、俺は正晴と駅で待ち合わせていた。今日は二人で出かける約束をしている。

「冬、ごめん……」

会って早々、正晴は申し訳なさそうな顔をして言った。謝罪の理由は聞くまでもない。朝見た天気予報に反して雨が降っているのだ。別に謝られる筋合いもないが、本人が雨男であることを気にしている以上、無理にフォローしても逆効果だろう。否定はせず、笑いながら折りたたみ傘をしまった。移動自体は電車なので、そこまで苦ではない。ただ、目的地に着いてからは少し厄介かもしれないと思った。

電車に揺られながら、他愛のない話をする。正晴はわざわざ冬の間のことを話したりしないが、だからといってわざとらしく話題に出さないということもしなかった。最近バイト先であったことや、面白かった漫画の話など、いつもと変わらない感じでしゃべってくれる。それが楽だった。変な気の遣われ方をするくらいなら、取り繕わずにいてくれた方がいい。

目的地の最寄り駅に着くと、幸い小雨だった。正晴は少し落ち込んでいるようだが、別にこのくらいの雨ならそんなに気にするものでもない。

「雨男ってどうやったら治るんだろ」

隣からそんな呟きが聞こえた。冗談のような内容だが、声が本気だ。

「別に病気じゃないし、治るとかじゃなくね?」
「まあそうなんだけどさー」
「悩んでるのは分かるけどな。どっか出かける度に雨降るのとかだいぶ嫌だろうし」
「ほんとにそう。常に傘持ち歩くのも邪魔だしやだ」
 
そういえば、小学生のとき、遠足の日に雨が降ったことがあった。周りのやつらが、それを正晴のせいだと冗談交じりに責めていた覚えがある。正晴は笑って済ましていたが、実はかなりショックだったんじゃないだろうか。そんなことを思い出した。
「冬の言ってた公園ってここ?」
「そう。もうちょっと行ったところに入口があるから」

駅からしばらく歩いて、目的地の桜木公園に到着した。入口の辺りが少しぬかるんでいたが、それを越えれば水たまりがいくつかあるくらいで、中に入れないほどではない。公園の端には屋根付きの休憩スペースもあるので、座って食事をすることもできそうだ。

実のところ、もうこの公園に来るつもりはなかった。ここでのぞみと一緒に桜を見る。その願いが叶えられなかった以上、来ても辛いだけだろうと思っていたからだ。彼女との幸せな思い出を、辛い気持ちで上書きしたくなかった。

しかし、確か彼女は、天国から桜を見ると言っていた。別に俺は死後の世界を信じているわけではないが、もし、万が一にものぞみが見ているというのなら、俺が見に行かないわけにはいかなかった。それと、自分の決意を正晴に伝える機会もほしかった。一人で行く気分でもなかったし、タイミング的にもちょうどよかったので、正晴と花見をするということになったのだ。

地面が濡れているため、毎年の定位置ではなく、休憩スペースに座ることにした。雨のせいか人がほとんどいない。そのうえ、目当ての桜の花びらもだいぶ雨に散らされていた。それでも、桜は相変わらず綺麗だった。

「綺麗だね」

正晴が穏やかな声でそう言った。顔を見ると、とても優しい表情をしている。

「そんな反応してくれるんなら、もっと早くに連れてくればよかったな」

そんな本心を口に出してしまうくらい、いい表情だ。

「え、そんな反応って何? 別に普通じゃない?」
「無自覚か。なんかめっちゃ優しい顔してたぞ」
「それはいつものことじゃん。俺すごく優しいから」
「自分で言うなよ」

そんなやり取りをしながら、自然と笑った。こうして軽口を叩いていると、いつもの日々が戻ってきた感じがする。去年の今くらいまでは、これが日常だったのだ。むしろこれが全てだった。
それからしばらくは、二人して黙ったまま桜を見ていた。
「正晴に話しときたいことがある」

数分経って俺が改まったように伝えると、正晴はこちらに顔を向けてうなずいた。もうだいぶ長い付き合いだからか、俺が何かを伝えたがっているということには気づいていたようだ。

「前から俺の体質みたいなのの研究してる人がいて、協力してくれって言われてたんだ。そんで、こないだそれを承諾した」

退院した日に電話を掛けた相手は、その研究員である。これまでは協力を頼まれてもずっと断ってきた。研究に協力することで、逆に悪い状況になるのが怖かったからだ。今だって、失った冬を取り戻したいと望むのがいいことだとは思えない。それでも、何も行動しなければ、のぞみの言う「希望であふれた世界」は訪れないだろう。自分の体とちゃんと向き合う、それが俺にとって一番の決意だった。

「そっか」
正晴はなんともいえない複雑な表情をしていた。でも、その中に否定的なニュアンスは含まれていないように見えた。そして、一度目を伏せてから、意味深に笑いかけてくる。

「……じゃあ俺は、一之瀬に告ろうかな」
「はぁ?」

急な言葉に、変な声が漏れてしまう。一之瀬は正晴の元カノだ。彼女の話がなんで今出てくるのか、意味がわからなかった。
気がつけば雨は止んでいた。互いの声が先ほどまでよりクリアに響く。

「前に言ったじゃん。まだ未練あるって」
「言ってたけど、なんでこのタイミング?」
「前までの冬だったらさ、研究に協力するなんて言わなかったでしょ」
「まあ、そうだけど」

いまいち何が言いたいのかわからない。俺の決意と正晴の告白になんの関係があるのだろうか。正晴は俺の顔を見て、なんだか楽しそうにしていた。こういうときの正晴は、本当にわからない。
「冬が変わろうとしてるのに、俺が変わらないでいるわけにはいかないからね。ちゃんと決着をつけないと」

正晴がこぼした言葉は、独り言のようだった。だからこそ、本心なのだろうと感じた。俺からしたら、正晴は今の時点で完璧なやつだ。頭がよくて、運動ができて、誰にでも優しくて、見た目だっていい。ここから変わる必要なんてないように思う。だが、正晴に考えがあって変わろうとしているのなら、俺にそれを止める権利はない。それよりも今すべきことは何か。
 
「正晴、頑張れよ」
 
いつの日か正晴がしてくれた応援を思い出した。たまには俺だって正晴のことを応援したかった。
 
「冬もね」
 
正晴はゆっくり立ち上がって、公園の真ん中の方へ歩き始めた。地面の水溜まりを避けながら、俺も後を追う。空気はじめじめしているが、そんなに嫌な感じはしなかった。公園のほぼ真ん中あたりで、前を歩いていた背中が止まる。
 
「あのさ冬、きっと大変だろうけど……幸せになろうね」
 
神妙な感じで正晴が言った。あえてその二歩手前で俺も立ち止まる。言いたいことはわかった。だが、いつもの仕返しに意地悪をしたい気分だった。
 
「俺に告ってどうすんだよ。一之瀬に言え」
「ばーか、そういう意味じゃないよ」

振り返った顔は言葉に反して笑っていた。幸せといえば、のぞみの言っていたことを思い出す。
  
「そういえば、前にのぞみが言ってた。辛いこともあるけど、幸せなんだって」
「そっか、のぞみちゃんは強いね」
「ああ、ほんとに」

そういえば、幸せについての話はここでしたものだった。
シンプルに寂しいと思った。のぞみといた幸せな時間が恋しかった。
「幸せになりたい」
望みを声に出す。
 
「うん、幸せになろう」
もう一度、正晴が言う。顔を上げると、澄んだ空に桜の花が立派に咲いていた。希望であふれた世界が本当にあるのか、俺にはまだ分からない。でも、この美しい景色が、その世界への入口だったらいいと思った。

「そうだな」
花びらが舞って、俺の手の中にちょうど収まる。俺と正晴は顔を見合せて笑った。また、春が始まった。