あの日、僕の前に現れた師匠は自分を紫式部だとは名乗らなかった。それと言うのも、紫式部というのは、周りの人たちが勝手に呼んでいた呼び名だそうで、師匠本人が「私の名前は紫式部じゃ」と言ったことは一度もないらしい。では、師匠の本当の名前は何かというと、それは教えてもらえなかった。どうやら呪詛対策として、平安貴族たちは、自分の名前をむやみには教えないらしい。

 師匠の身の上話をまとめると、光源氏が主人公の物語を書いていた、夫の名前が僕と同じだった、時の権力者にずいぶんと贔屓にされ、作家業を続けていくうえで、幾分かの援助を受けていたということだった。

 光源氏が主人公の物語と言えば、言わずと知れた紫式部作『源氏物語』のことだろう。史実によれば、紫式部の夫は藤原宣孝(ふじわらののぶたか)だと言われている。驚くことに、本当に僕と同じ名前である。さらに、紫式部は『源氏物語』を執筆中、時の権力者である藤原道長から墨や紙といった現物支援を受けていたことは、文学の世界では定説となっている。

 これらの合致点から、僕は師匠が千年以上も前の先輩作家、紫式部その人であると得心した。

 ちなみに彼女が憑代としている紫水晶ドームも、その権力者とやらから送られた貴重な品らしい。どういう経緯で紫水晶を憑代とするようになったのかについては、「そのようなこと、忘れてしまったわ」の一言で片づけられてしまったので、不明である。

 それ以外に何か情報が得られればと思い、紫水晶の所有者であった父にそれとなく聞いてみたりもした。だが、何もわからなかった。紫水晶ドームについては、先祖代々受け継いでいる物だということは分かっているが、いつごろから我が家にあったのかなど詳しいことはわからないようだった。先祖については、全くのお手上げ状態で、一切の情報がなかった。直近の先祖のことならいざ知らず、平安時代まで遡るとなると、情報がないのも致し方ない。

 何はともあれ、僕は熟考の末、師匠を不審人物ではないと判断した。

 しかし、そうは言っても、師匠が不思議な存在であることには変わりない。初めのうちは、紫水晶の中で過ごしていること自体が信じられなかった。だが、人とは、状況に順応する生き物なのだ。一年半の師弟関係を経て、今では、師匠という存在を僕は当たり前に受け入れている。

 ところで、僕はなぜ紫式部を師匠と呼んでいるのか。それはもちろん、彼女がそれを望んだからである。

 師匠は、憑代の中にいる間も、外の世界のことをうっすらと見たり感じたりできるらしい。そのため、僕が彼女の子孫であることも知っていたし、平安と現代においての常識のずれなどにも、本人が順応するかは別にして、それなりに理解を示している。

 ただ、実体化となって水晶の外へ出たことは一度もなかったらしい。それならば、なぜ実体化して外へ出てきたのか。そんなことを、出会って間もない頃に、思わず聞いてしまった。

「あの、紫式部さん? なぜ外へ出てきたのです?」
「そなたが箱を開けたからじゃ」
「いやいやいやいや……これまでにも、箱を開けた子孫はいたでしょう?」

 すまし顔で答える平安美女に、僕は軽くツッコミを入れた。

「まぁ、そうじゃな」
「では、なぜ?」

 平安美女は僕の顔をじっくりと見た後、扇子で顔を隠すと少しばかり声のトーンを落とした。

「そなたから、紙と墨のような匂いがしたのじゃ」
「紙? ……墨?」
「そうじゃ。久しい香りじゃったので、ついな……」

 紙とか墨の匂いってなんだ。習字のことか? 僕は子供のころに嗅いた墨汁の臭いを思い出した。思わず、自分の体の臭いを嗅いでしまう。特に変な臭いはしなかった。

「あの、習字とかは特にやっていないのですが……?」
「そうではない。そなたは物書きであろう?」
「物書き?? あぁ、はい。一応作家です」
「そなたからは、物書きが使っている紙や墨の香りがするのじゃ」

 そう言いながら、師匠は僕の臭いを嗅ぐように、扇子を軽く仰ぐ。確かに仕事柄、紙やインクには馴染みがある。それでも、今はパソコンでの執筆がほとんどなので、紙やインクを触るのは、原稿を印刷した時くらいのものだが、他の人よりはそれらに触れる機会は多いのかもしれない。

「つまり、印刷の臭いがお好きということでしょうか?」
「そうではない。……つまり、……」
「??」

 師匠は常に口元を隠していた扇子を下すと、あろうことか大声で叫んだ。師匠が実体化した理由、それはとても単純なものだった。

「私も、物語が書きたいのじゃ!!!!」
「はい?」
「なんとかしてくれ、宣孝」
「いやいやいやいや……」
「そうじゃ、私はしばらくそなたのそばにおるでの。物書きの先達として、これからは、私のことは師匠と呼ぶが良いぞ」
「はい~~~~?」