あけましておめでとう、と言葉を交わしてから二日。元日を炬燵の中でゆるりと過ごしていた私は、肩までの炬燵布団を引き寄せる。その90度隣で同じように肩まで炬燵布団をかぶっている春香は、伸びをした。二人とも手元には文庫本がある。
「そろそろ窓、開けようか」
「うん。空気の入れ換え、大事やからね」
お互いそう言いながらも、一切起き上がろうとしない。
「灯、なんで立たんの」
「寒いもん。春香こそ」
「……最初は」
「グー!」
二人の手だけが、炬燵テーブルの上で舞う。何度かのあいこのの後、負けたのは私だった。
ふわぁ、と一つあくびをしたあと、のそのそと炬燵から這い出る。体がぶるりと震えた。二箇所の窓を開けて外を見れば、いかにも寒そうに木立が揺れている。肩下までの髪がふわりと浮く。手首にかけていたゴムで一つにまとめた。
「珈琲、飲む?」
「飲む! あ、それやったら」
先ほどのじゃんけんは何だったのか。春香はするりと炬燵から抜け出ると、自分の部屋に向かった。
その間に私はコーヒーメーカーに粉と水を入れてセットする。
「じゃじゃん! 年末に差し入れで頂いたお高いチョコ! 一緒に食べよ」
一粒数百円もするチョコレートの箱を手に、キッチンの対面カウンターに手をかける。その顔があまりにも嬉しそうだったので、私までつられて笑ってしまった。引き出しから、去年二人で散歩したときに買った豆皿を二枚取り出す。
「え、チョコやろ? そんな丁寧に?」
「三が日くらい、丁寧な生活をしている気分になりたいじゃん」
くくっ、と笑うと、春香は小皿を受け取りながら頷く。
「それもそうやね」
春香が先に炬燵に戻ると、ニャァと彼女の足下から声がしていた。珈琲が沸いたので注ぎながら様子を伺う。
「リリ、どうしたの。炬燵に入りたいの?」
白に黒いブチが体に入るリリは、最近この家に来た猫だ。知り合いの子どもが急に猫アレルギーを発症したらしく、飼えなくなったと私が相談を受けたのが十二月。
そこから二人で相談し、先住猫の茶トラのミヤと顔合わせをして問題がなかったので受け入れることにした。手足の先が黒で靴下になっているのもかわいい。最初から我が家に来ていたら、きっと名前はひねりもなく『くつした』になっていたことだろう。
リリが雌、ミヤが雄だから心配していたが、どちらも去勢しているからか、そのあたりの愛称などは関係ないようだ。
ニャァともう一度、今度は春香への返事のように鳴く。
「はい珈琲。年末にカルディで買ったヤツ」
「あ、あのなんとかって名前のやつやな」
「そう。なんとか。春香も忘れたの」
炬燵に入ろうと布団を上げると、春香ではなく私の布団から中に入っていった。彼女は不満そうな顔で笑いながら、珈琲を手にする。炬燵の中から三度目のニャァが聞こえた。
「チョコ、美味しいね」
「これ一つ、いくらなんやろう」
「値段を考えながら食べるチョコは、さらに美味しいわ」
春香も頷き、もう一つを口に放り込んだ。私はその横で、珈琲を流し込む。珈琲とチョコレートを一緒に頼む大人になったんだなぁ、なんて思いながら、再び読みかけの文庫本に目を落とした。
私、明田灯と新辺春香が一緒に暮らし始めたのはもう七年ほど前のことだ。当時私がちょうど40になったとき、春香は三つ下なので37だった。
同居のきっかけはもう忘れたが、出会いのきっかけはSNSだった。共通の友人を介して知り合い、そこから妙に気があって仲良くなった。
その頃、彼女は契約社員をしながら漫画の仕事を細々としていて、私は紹介予定派遣でようやく正社員になったばかり。お互い家賃を少しでも安く抑えたいという気持ちと、もしも倒れたときに一人では不安だからという理由で、一緒に住むことにしたのだ。
「まぁ、あわなかったら解消でええよね」とは、春香の言。引っ越し費用はかかったとしても、あっさりと解散もできるだろうと共同生活に踏み出したのだが──。
これが思っていた以上に快適だった。
部屋は多摩川の近く、東京都大田区の外れの築五十年の三階建てのビル。エレベーターはないが、二階なので苦にはならない。というよりも、運動をしない二人なので、このくらいは足を動かした方が良いだろう。
初めて会ったときの春香の印象は、随分と格好良い子だな、だった。身長155センチの私と比べて随分と背が高いと思ったが、後で聞けば172センチもあるという。ボブカットの髪に白いシャツが印象的だった。白シャツにデニムが合うなんて、羨ましいと思ったのを覚えている。あれは背が高くないと様にならないのだ。
「そうだ。ミカン食べる?」
「ミカン? ええね。炬燵にはミカンや」
年末に近所の八百屋で箱買いしたミカンを取りに、玄関に向かう。やはり玄関側は少し冷えるが、炬燵でぼやけた体には心地良い。
「はい。三つで足りる?」
「十分過ぎるやろ。一つでもええ」
「ふっふっふ。春香、30分後に同じ台詞が言えるかなぁ」
「……絶対二つ目食べとるな」
「せやろ」
「こういう時だけ大阪弁で突っ込むなって。めっちゃドヤ顔やん」
「あえてのドヤ顔してるからね」
「あえての」
ふ、ふ、ふ、と笑い合う。春香の目は猫の目のようだ。スッと通った一重のつり目が和風美人を醸し出している。同じ一重でも、私は少し重めで垂れ目で、高校生までは必死で二重にするアイテムで二重垂れ目を目指した過去がある。あのくらいスッとしてたら、アイプ……アレを使わないでも済んだのかもしれない。
「あぁ、やっぱり炬燵にはミカンだよねぇ」
ごろんごろんと持ってきたミカンを机上に置いて、一つ手に取る。フニャァとミヤが膝に乗ってきた。
「こら、ミヤはミカンはだぁめ。食べたら消化不良起こすよ」
私の手元へちょいちょいと愛らしいその手をのばしてくるから、振り払いにくくなる。手に触れる肉球が気持ち良く、思わずぶにゃりと触ったら逃げられてしまった。残念。その様子を見ていた春香が、ひはりと笑う。
こたつで食べる蜜柑は格別だ。
「そう言えば、小学校のころ給食で冷凍蜜柑が出たな」
「懐かしい! あれ大好きやった。新幹線の売店でも売っとるよね。今はもうないんやろうか」
「どうだろ。私飛行機派だから、わからないや」
薄い皮がきれいに剥ける。一続きで剥けたそれを見て、何かに見立てたくなった。乱雑にペン立てにささる油性マジックを引き抜く。きゅきゅきゅ、と音を立てて私に描かれる顔は、蜜柑の皮のでこぼこで僅かに歪む。
「うぅん、いまいちだわ」
「なに描いてるの」
のぞき込む春香の目の前に、完成した芸術作品を見せる。
「タコさん」
「……カワイイデスネ」
「なんで目をそらす──って、笑ってるじゃんか」
顔をそむけつつ、喉で笑いを殺しているのを見つけてしまった。春香はと言えば、見られたというような顔をして、今度は破顔する。
「タコさん描いたら、お腹空いてきたかも」
「ミカン食べながら言うこと?」
そんなことを言いながら、春香からも、ぐうという音が聞こえてくるではないか。
「どこかの誰かさんは、ぺこぺこみたいですけど」
「どこの誰かさんですかねぇ。──おせちの残り、食べよ」
その言葉に、勢いよく立ち上がる。私の背中で暖を取っていたミヤも慌てて、立ち上がった。
「あ、ミヤごめん」
文句を言うように足元にまとわりつくミヤを抱え上げて、鼻歌を歌いながらキッチンに向かう。
ほんの、数歩の距離だけれど。
ここ数年、おせちは通販で有名店のなんちゃら、というものをいろいろ試している。
「今年のはなかなかに正解ね」
「私はこのお煮染めが一番好きやな」
「じゃぁ、伊達巻きは全部食べちゃっても良い?」
「それは許されざる所業や」
私がぱくぱくとそれを口に運ぶと、取られまいとしてか、春香も競うように口へ。甘くどっしりとしていて、それでいてどこかふわふわと感じる伊達巻は、まさにおせちの花形だと思う。
「この赤い紫蘇味のやつって、なんて名前だっけ」
「それはチョロギやな。紫蘇科の植物で、根っこの部分。ジャガイモと同じ塊茎と呼ばれる形状の根っこで、この赤い色は梅酢に付け込んどるから赤いだけなんや」
「元は何色なの?」
「白や。黒豆と煮たら黒くなる」
「ふうん」
箸先のそれをじっくりとみて、まるで気のない返事をしてから口に含む。思っていたよりも酸っぱくて、顔が少しだけ皺をもった。
口直しのために食べたのに、酸っぱさに別の口直しを、と蕪のサーモン巻を頬張る。塩気で少ししっとりとした蕪と、サーモンの味が口の中で広がった。サーモンってどうして美味しいんだろうか。鮨の人気ナンバーワンなのも分かる気がする。私のナンバーワンは鉄火巻きだけど。
「あ、伊達巻食べきってもうた」
そこはかとない寂しさを纏わせて言う春香の膝に、リリが乗る。にゃあにゃあと催促をするので、春香は顔の高さまで抱き上げてキスをした。口元についた伊達巻のかけらを舐めそうになるので指摘してやれば、慌てて己の舌でそれを舐め取る。不満そうににゃあと言うリリに、ごめんごめんと笑う春香は楽しそうだ。それを見て、私もなんだか楽しくなる。
時計を見れば、午後三時。正月休みでゴロゴロしていた体を動かすにもちょうど良いのかもしれない。そんなことを考えた私は、春香にある提案をすることにした。
「ね、伊達巻を今から作らない?」
冷蔵庫の中には、お雑煮用に切った三つ葉や小松菜、なると。中央はおせちのお重を入れるためにあけてある。その上の段にはんぺんが数枚おかれてあった。私が好きなので常備しているのだ。
「はんぺんをすり鉢で、すり潰して」
以前動画サイトで見た時のメモを元に、春香に指示を出す。
ふわふわしたはんぺんを、手で適当に刻み、すり鉢の中に放り込むと、彼女は「よしきた」なんて言いながらすりこぎ棒を回した。
「あれ? うまくいかへんね」
隣で卵を溶きほぐしながら様子を見ているが、どうにもすり鉢が落ち着かない。棒で混ぜる度に動くのだ。
「私がすり鉢を抑えておく方が良いのかな。でも確か、ユーチューブでは一人でうまいことやってたんだよね。……何か方法がありそ」
二人で首を傾げながら、キッチンを見回す。何かヒントになるものがあれば。
「なぁ灯。文明の利器に頼ろうかと思うんやけど」
「──オッケーグーグル」
まっすぐと春香の瞳を見ながら、頷いてしまった。
グーグル先生によれば、すり鉢の下に濡れ布巾を敷くらしい。試してみると、確かに滑らない。
「春香、その棒の真ん中あたりを右手で持って、左手の掌で棒の頭に添えてみて」
「こうやろか?」
「そうそう。それで、円を描くように回す」
春香は、言われたとおりにぐるりと数回円を描いていく。なるほど、うまくいっている。物事にはやり方というものがあるのねぇ、なんて関心してしまった。
「正解?」
「──みたいね」
ひはりと笑い合う。
「つぶつぶがなくなるくらい、きれいに潰すのがいいらしい」
「結構な労力やなぁ。……なぁ」
「ん?」
春香の手元がきれいなすり身状になったことを確認し、調味料を加えていく。
「フープロ使えば良かったんやないかな」
「あ」
ぴたりと動きを止めてしまう。本当だ。どうして気が付かなかったのだろうか。
「次回はもっと簡単に作れるってことやな!」
「それはそう」
二人で顔を合わせ、また笑った。そうして、私は再びメモを見返す。
「最初に塩を小さじ三分の一。それから小麦粉を大さじ、いち──っ、と。はい、混ぜて混ぜて」
言われるままに、すりこぎ棒を回していく春香を見ながら、今度はみりんと醤油を追加していく。
「なんだかぷに、って塊になってきた!」
「それを潰していこ。よし、卵を追加する」
「なぁ、私の方が労力大きくない?」
「気のせいでしょ」
しれっと言いながら卵を少しずつつ注ぐ。だんだんと滑らかになっていく生地を見守りながら、砂糖壺を手元に引き寄せた。
「これで最後。砂糖を大さじ……えっ」
「えっ?」
「なんと」
「なんと?」
「大さじ四杯」
「多くない?」
「でもそうメモにあるのよねぇ」
「それやったら、そうなんやろう」
「春香が多いって言ったんじゃん」
「灯もびっくりしてたやろ」
「多いよね」
「うん、多い」
とはいえ、ここまで指示通りに進めてきたのだ。ここで調整してしまって微妙な味になるのは悔しい。素直に、メモのとおりの分量を追加していこうではないか。
大きめの鉄のフライパンを熱して、サラダ油を敷く。薄く油を流していくと、黒光りする美しい鉄の肌が、まるでヴェールを纏ったように見えるから不思議だ。
「そのすり鉢の中身をここに入れて」
「これは結構難しいやんな?」
「あっ、そこの大きいお玉使うのはどう?」
ラックにかかる、通常よりも少し大きいお玉を春香に手渡す。年末に春香が買ったものだ。
「買おといて正解や」
少しずつ流し込むと、じゅわじゅわと心地の良い音があがった。ひとしきり入れ終えたところで、フライパンに蓋をする。弱火で様子を見ていく。
「この蓋、中が見えるから良いね、って思ってたけど、曇って見えにくいもんなのね」
顔の角度を変えて覗き込むが、いまいち良くわからない。それでも、膨らんできたのは見えるので、しばらく我慢。
「がまん、がまん」
「何を我慢しとるん」
「あけてみたくなるじゃん。鶏肉とかでも良く、早めにひっくり返して失敗するんだよね。テレビで栗原はるみさんが『皆さんここが我慢どころですよ』って言ってたからね」
「なるほど」
春香まで神妙な顔で、「がまん、がまん」などと呟いている。間抜けな二人だな、なんて思ってしまった。
「そろそろええんやないか」
蓋をあけ、ひっくり返す。私よりも多少は料理の腕が良い春香が、フライパンでポーンと天地を返した。
調理台には手拭いを敷いて、その上に巻きすを広げる。
「準備万端やな。そこにのせればええんか?」
「ん」
フライパンから直接、焼いた卵を巻きすにのせる。それを私が端からぐるりと巻き込む。最後に下に敷いていた手拭いで強く縛り、あとは冷めるのを待つだけだ。
「ねぇ、冷めるのを待つ間にさ」
「洗い物?」
……忘れてた。いや、そうじゃなくて。
「それもある」
「それ以外はなんや」
「昼寝でもしない?」
時計を見れば、もう四時過ぎ。思っていた以上の重労働だった春香は──私はうまいこと指示役となってしまったけれど──ふわりとあくびで同意した。
猫たちを引き連れ、炬燵へ。
炬燵布団を持ち上げれば、二匹とも連なって中に入っていった。
「炬燵で昼寝は最高やなぁ」
「しっかり布団に入ったら、起きられないしね」
炬燵の中で、私の足に一匹がくっついている。おそらくもう一匹は春香の足にくっついているのだろう。
これはいよいよ、眠りの淵に猫共々落ちていく時間がやってきたのだ。
正月がこのまま終わる。
「どうもぉーっ。お邪魔しまっす」
「ただいまぁ」
春香と共にやってきたのは、里崎有里。私の一つ下の彼女は、なんと大学卒業時に正社員として入社した出版社でそのまま働いている。氷河期ど真ん中の私たちからすれば、出版社にあの時代に女性で新卒で入社しただなんて、英雄中の英雄だ。
そんな彼女は
「聞いてーっ! ハルカ先生、弊社での初サイン会決定!」
春香の漫画の担当編集をしている。
「おお! おめでとう」
有里氏を招き入れ、お湯を沸かす。手洗いとうがいを済ませた二人は、すぐに炬燵に潜り込む。
「これ手土産。銀座シックスで買ってきた」
「なにそれ高級オシャ菓子じゃん」
受け取った箱から個包装のお菓子を取り出す。いつもは缶ビールなどを持ってくる彼女が、今日はこんなにおしゃれなものを……と思うと、やはり担当する春香の初サイン会は相当嬉しいのだろう。
「ラングドシャが二枚重なってますけど?」
皿にのせて二人の前に出しながら、突っ込んでしまう。ラングドシャと言えば、嫌いな人などいないお菓子の一つだ。それがクリーム挟んで二枚かさなっているなど……!
「あ、お持たせで恐縮ですが」
「とってつけた台詞やんな」
「一応言っておこうかと思ってね」
「同僚の秘書に教えて貰ったお店だから、美味しいと思う」
有里氏の言葉に、俄然このお菓子に対する期待が高まってしまう。
「これにはお高い紅茶をあわせたほうがいいかも」
年末にコミケの差し入れ──私は同人活動をしているのだ──で貰ったお高い紅茶があったことを思い出す。
普段はティーバッグだけど、良い紅茶の茶葉をポットから淹れると、それだけで気分が上がる。春香がハルカ先生としての初めてのサイン会なのだ。私も何かお祝いをしてあげたい。まぁ、今日急には無理なので、せめて良いお茶を茶葉で、というわけなのだが。
「お、良い香りーっ。これマリアージュフレールの紅茶やんか」
「よく気付いたね、春香」
「月組で応援しとる子が好きな紅茶なんよ」
「あの子! この紅茶好きなんだ。いいねぇ」
二人はスマホの写真を見せ合いながら盛り上がっている。その横で私はリリとミヤを膝と背中に乗せてお茶を飲む。うん、美味しい。
「サイン会、梅田も予定いれといたから」
「やった! それやったら、サイン会前後の日の公演おさえとこ」
春香と有里氏は、宝塚ファンだ。二人で良く東京宝塚劇場にも行っているらしい。そういうの、なんか良いよね。
フニャァと背中にいたミヤが有里氏の元に移動する。
「おおよしよし。ミヤくんにもお土産買ってきたからねぇ」
撫でられて、ご機嫌に喉を鳴らすミヤは、目を細めて一声鳴いた。早くよこせ、ということなのだろうか。
「ほらこれ!」
じゃじゃん! と鞄から取り出されたそれは、我が家ではやわやわと呼んでいるスティック状のウェットタイプのおやつだ。
私の膝に乗っていたリリも、何かに気付いたようにすっくと立ち上がり、有里氏の元へ向かう。
「今あげてもいーい?」
「有里氏のご随意に」
「あげてええよ」
私と春香の声が重なった。
満面の笑みの有里氏に、ご機嫌な二匹の猫。それをニヨニヨと見ながらラングドシャのお菓子を食べる私たち。
「あ、そういえば、まだ五時だけど、灯氏の仕事の邪魔しちゃった?」
「平気平気。今日のマスト終わったから、あがりにしたとこ」
私はリモートワークで仕事をしている。裁量制なので、やるべきことだけ終えておけば、それで許されるのだ。短大を出て就職氷河期で、何百通のエントリーシートを手書きで書いてきたことか。ようやく面接に呼ばれたと思ったら「女の子はいらないんだよね」「短大? そのままお料理教室にでも行ったら?」なんて言われたりもした。だったら呼ぶなよ! となんど思ったことか。圧迫面接やら、グループ面接で誰かを落とせだとか、今考えると本当に「バブル期の人間に非らずんば人間に非ず」といったところだった。あの頃のジジィども、覚えてろよ!
おっと。
そんな時代からようやくアルバイト、派遣社員、紹介予定派遣を経て正社員になったのだ。しかも裁量制。ありがたい。しっかりとその恩恵を受けておかねば。
「終わってたなら良かった」
「夕飯は? 有里氏食べてくよね?」
猫たちはやわやわがなくなったことで、一気に有里氏から興味をなくし、それぞれ部屋の好きな場所に解散していった。
「今日鍋って春ちゃんに聞いたから、私の手作り特製味噌を持ってきた」
有里氏は、仕事の話以外では春香を春ちゃんと呼ぶ。ついでに、春香のペンネームは『ハルカ』だ。最近は苗字の付いていないペンネームも多い。
「ええねぇ。それやったら、味噌ちゃんこ鍋にしよ」
「いやうんそれは良いんだけどさ。さらっと手作り味噌って言わなかった?」
「灯、早口になっとる。興味あるんか」
おっと。ついついオタクの特性で、興味のあることになると早口に。
「その通りでして。いやぁ、実は最近ハマってるソシャゲで、味噌造りが趣味の推しが」
「もしかして『料理NAチョイス』じゃない?」
「あれ、有里氏もやってる?」
「やってるよ~! 実は私の味噌造りも、竜也くんがきっかけでさぁ」
「その、クソダサタイトルのソシャゲはなんやの」
有里氏と私はソシャゲ、所謂スマホゲーム仲間でもある。元々は私も彼女もある少年漫画の同人誌をそれぞれ作っていて、その時からの友人だ。もう二十年来……になるのか。ちなみに、有里氏が言っている『竜也くん』は蓬莱竜也というキャラクターだ。
「ここ一年くらいで流行ってるソシャゲなの。知らない?」
言いながら私がスマホ画面を見せると、春香は「ああ」と頷く。
「タイムラインで見たわ」
SNSで受動摂取をしていたらしい。
「名前わからんけど、この青色の髪のコックみたいんがええわ」
「青佐美咲くんね! 確かに、春ちゃんの好みだね。彼の出身は南房総で、漁師の息子なんだよね。それで釣りが上手くて、自分が釣った魚でフレンチのコースを提供するフレンチシェフなんだけ」
「まってまってまって! 情報量が多すぎや」
勢い付いて前のめりになっている有里氏を、両手で抑えながら春香が止める。
「有里氏、美咲くんも推しなの?」
「そう! 竜也くんと美咲くんが仲良く話してるのがかわいいっ!」
「いやそれはそう」
思わず真顔で頷いてしまった。
「味噌はなんやっけ」
「竜也くんが味噌造りをね」
「さっき有里氏が言った竜也くんが」
春香の言葉に、私たち二人が同時に口を開く。
「君ら、ほんま仲良しやな」
「宝塚に関しては、春香と有里氏は同じような感じだけどね」
顔を見合って、三人で笑う。この家で、春香と一緒に過ごすようになって、妙に笑い上戸になった気がするのだ。よく笑うことは、良いことだ。
「去年、ハマったときに味噌造りしてみたのよ。あぁ、春ちゃん、竜也くんってのはこの」
有里氏が私をちらりと見るので、先ほどのスマホ画面をもう一度春香に見せる。スワイプして、蓬莱竜也のページを表示させた。
「この赤茶色の髪の毛の猫目の子。かわいいでしょ」
「好みやないけど、有里さんが好きそうなんはわかる。この子はどんな設定なん」
よくぞ聞いてくれました!
「竜也くんは、小さい頃に両親が離婚して母方の祖父母の元で育てられたんだよね。大のお婆ちゃん子で、いつしかお婆ちゃんが作ってくれた料理を再現して、皆に振る舞いたいと思って、和食の道に進むようになったの。それで、お婆ちゃんと一緒に作った味噌っていうのがキーワードで」
「私がその設定で企画書出したら、有里さん絶対NG出すし、編集会議通らない自信あるんやけど」
「確かに、ハルカ先生がこの設定を持ってこられたら私はNGだすけど……ソシャゲはこのくらいでいいのよ!」
「理不尽……!」
大げさに床に潰れる春香を横目に、私は有里氏が持ってきた味噌をのぞき込む。
「もしかして、去年のリリース直後にもう味噌作ったの?」
「大正解。ベータテストの時に参加して、もう竜也くんにメロメロで」
ホホホと笑う有里氏に、思わず頭を下げてしまう。
「有里氏! いやさ、有里先生……! 私も味噌が……味噌が作りたいです!」
私の言葉に、金曜の今夜は有里氏はうちに泊まり、明日と明後日の二日をかけて、一緒に味噌を作ることになったのだった。
翌日は九時過ぎまで、全員布団待機していた。つまり、起きてはいたのに布団から出られなかったのだ。
私と春香はそれぞれの部屋に、有里氏はリビングのソファベッドで寝ていたのだけれど、全員布団の中でSNSをしていたので、タイムラインで会話をしていた。起きて話すのとは、またちょっと違うんだな。
とはいえいい加減起きないと、お腹が空いてきた。
「布団から出られない……。この家の毛布くにゅくにゅしてて気持ちが良すぎる……。これこそスパダリだわ」
どうにか布団から這い出たら、リビングで毛布を抱きしめてる有里氏がいた。思わず足を止めてしまう。
「何しとるん?」
後ろから声がかかる。どうやら春香も起きてきたようだ。
「二人とも……その冷めた目、やめてくんない?」
そそくさと起き上がると、有里氏は何事もなかったように布団を畳み始める。今夜も使うからね。
顔を洗いキッチンに立つ。コーヒーメーカーに水と豆をセットしたら、何とはなしにすっきりとしてきた。
「朝はパン?」
私の声に、二人は同時に振り向く。
「パンパ」
「パン」
そうして、歌うように春香、有里氏と続けて声を上げた。
冷凍しておいた食パンをトースト。春香が卵焼きを作っている間に、珈琲を注ぐ。有里氏が炬燵テーブルに布巾をかけ、猫たちのカリカリをセットする。完璧な布陣だ。
我が家のトースターは、以前商店街のガラガラくじで春香が引き当てたバルミューダ。他のと比較して食べたことはないけど、なんとなく美味しい気がしている。
今日のトーストの具材はキノコとタマネギを炒め煮したものをとろけるチーズの上にのせたものだ。キノコとタマネギの炒め煮は、私が好きで作り置きでストックしている。春香と私、それぞれが好きに作り置きをして、お互いに好きに食べるようにしているからか、作り置きだけでも結構飽きが来ない。
朝食を食べたら、三人で外に出る。
「味噌造りってのは、大豆選びから始まってるからね」
ドヤ顔で話す有里氏は、きっと去年ものすごく調べたんだろうな。知識のおこぼれをいただけてありがたい。
「ちょっと! なんでいきなり灯氏が私に合掌してんの」
「あ、いや教えて貰ってありがたいな、と」
「それやったら、私も拝んどこ」
「そうそう、拝んどこ」
「道ばたではやめ」
笑いながら手を左右に振る有里氏に、私たちはにんまりと笑った。
家から20分くらい歩いたところにある、乾物屋に顔を出す。いくつかある大豆の中から、店主が味噌造りに向いているものを選んでくれた。
ついでに、コンビニに寄って肉まんを買った。歩きながら食べる。
「肉まんってもう少し大きかった記憶なんだけど」
「灯氏もそう思う?」
「あと、思ってたより高かったやんな」
「春ちゃん、その通り」
私たちのコメントにいちいち反応してくれる有里氏は、本当に良いヤツだ。マメなんだよね。大豆を手に持っているだけに。
青空のおかげで随分と冷たく感じる空気から逃げるように、片道20分、買い物やら寄り道やらで都合一時間ちょっとで散歩は終了となった。
「ただいまー。にゃんこ達迎えに来おへんかー」
「再度のお邪魔しますっ」
「寒いーっ。ただいまだよ、にゃんこ達~」
私たちの声が、空っぽの部屋に響く。玄関から見えるクッションに座っていたリリは、ちらりとこちらを見ただけで、そのまま睡眠を続けている。ミヤは出てきてもくれない。
「さて、この家で一番大きなボウルに大豆をいれます」
「ふむ」
私は有里氏と並んでキッチンに立つ。春香は、なにやらネタが浮かんだとうっかり口にしてしまったが為に、有里氏に部屋に押し込められた。部屋からジブリの音楽が聞こえてきたので、ノってきているらしい。
しっかり洗って、と言われたので何度も水を変えて大豆を洗う。水が透明になったところでオーケーが出たので、それをたっぷりと水に浸けて、キッチンの端に放置した。これを一晩放置してからが、勝負というわけだ。
「春香のサイン会はいつなの?」
「七月の下旬」
「暑い時期だねぇ。でも、夏休みだと、若い子が来てくれそう。東京と大阪でやるんでしょ。私も両方並ぶわ」
私の言葉に、有里氏は心底嬉しそうに笑った。
『ハルカ』がデビューしたのはもう十年ほど前だ。
私と出会ったときにはもうデビューしていたけれど、最初はなかなか売れなくて苦労していた。私と一緒に住み始めたのも、苦労していた頃なので、こうしてサイン会が開催されるというのは本当に嬉しい。
「他の出版社さんでは何回かやってるんだっけ」
「確か三回くらい、かな。うちのレーベルでは去年から連載始まって、最初のコミックスが出る記念なんだ」
コミックスとはさらに嬉しい。
──正社員に、いつまで経ってもさせてくれないから、やったら漫画一本で食ってけるようになってやるわ。
彼女と初めて飲んだ日に、同じ氷河期世代だということで仕事の愚痴で盛り上がった。その時に春香が言ったこの言葉が忘れられない。
「さぁて、頑張ってるハルカ先生と、灯氏の為に、もうひと品披露しましょうかね」
ネタを詰めて企画書にしている春香を思うと、私のしてあげられることができたらな、なんて殊勝にも思ってしまう。有里氏に肯定を示すように頷けば、彼女は笑いながら「ま、これも竜也くんのレシピなんだけどね」なんて言う。
推し活かよ!
「灯氏は、卵を溶きほぐして」
言いながら、彼女は出汁を取ると言う。普段顆粒だしを手軽に使う私にとって、きちんと出汁をとるだなんて、丁寧な暮らしをしているようで、なんだかおかしい。
「あ、でも別に顆粒だしでいいんだけどね。竜也くんが昆布で出汁をとってたから」
なるほど。竜也くんがやっていたなら、それに則るのは大切なことだ。
「そういえば、灯氏の推しが誰か聞いてなかったわ」
「私は港の料理人箱推し」
「灯氏、箱推し好きだもんね」
港の料理人とは、春香が良いと言った美咲くん他数人の海つながりの料理人のグループだ。このゲームは山の料理人など、本人の特色によってグルーピングされている。箱推しというのは、そのグループ皆を好きで、グループのメンバーがお互いに楽しそうにやりとりしているのを大切にしたいと思う気持ちのこと。アイドルグループの誰かが好きなのではなく、そのグループ全員が好き、みたいな感情だ。
しばらく水に浸してあった昆布に、有里氏が火にかける。確かに出汁をきちんととるのは大変だけど、こういうことをやりたくなってしまうのも、また真実ではある。
──たまにだから。
「なお、昆布出汁は沸騰させるのはNGね」
「ほぉん?」
「ぬめりが出るとダメ、って竜也くんが言ってた」
「それは守らないと」
火から下げて冷ます。寒いので、少しの間ベランダに持って行くだけで、一気に温度が下がっていった。
「んで、マグカップか湯飲み茶碗ある?」
「マグならたくさんあるよ。ほら、ハルカ作品のキャラグッズのもあるし、この間までアニメやってたこれも」
「オタクの家、マグカップ困ることないんだったわ。せっかくだしハルカ先生のグッズで」
去年前半まで連載していた作品のグッズ見本が我が家に届いたので、ありがたく使わせて貰っている。一応保管用は別にある。
作業台にマグカップを並べていく。そこへ小口に切った絹ごし豆腐をそっと入れ込んだ。
「卵にこの出汁と、お塩にみりん、ほんの少しのお醤油を足したら、よく混ぜて」
ステンレスでできた大きめの泡立て器でかき混ぜる。泡立たせない為に静かに混ぜるように指示されたので、ゆっくりと回すが、泡が少しだけ立ってしまった。
「有里氏! 泡が立ってしまったであります!」
「おっとぉ。しかし大丈夫。竜也くんからアドバイスはしっかり貰ってます」
このゲーム、キャラクターと料理するターンがあるんだよね。
「お玉の底でそっと潰しておけばいいみたい。で、このザルを通して裏ごし」
「裏ごし! 難易度高そうな単語」
「それが今ならなんと」
「なんと?」
「ザルに通すだけ!」
「わぁ! それはお得~。……って、お得ちゃうわ!」
うっかり大阪弁になってしまった。
「ザルに通すくらいやから、簡単でっしゃろ。裏ごし器を使うほどやない」
「うさんくさい関西弁だなぁ」
私に合わせて、有里氏も関西弁を話す。ちなみに私は東京の出身だし、彼女は神奈川の出身だ。春香が大阪なんだよね。
とぽとぽと裏ごしをした卵液を、マグカップへ注ぐ。
マグの半分程度の高さになるように沸騰したお湯を入れた鍋へと、それを移していく。そして手拭いをかけた蓋をして、強火にした。
「強火三分、その後火をほそぉくして十二分。弱火が強いとスが立つから、気を付けろ、と竜也くんは言ってた」
「了解!」
卵料理の恐ろしいところだ。少し油断しただけで、スが立ってしまう。ほう、と一息ついていれば、まだまだあるぞと言わんばかりに、小さな雪平鍋を手渡される。
「上にかける銀あんを作るから、休憩はしないように」
「銀あん?」
「色の付いてないあんのことだってさ。濃度があると光を反射する。それで雪が光るときみたいだから、そう呼ぶんだって。銀シャリの銀とおんなじ」
銀シャリの銀ってそういう意味だったんだ。知らなかった。
「えのき茸を切って。秋なら銀杏を入れるとっぽいんだけど、今の時期なら百合根」
「先生、百合根なんておしゃなもの、我が家にはありません!」
買ってきてもない。
「それもそうだよね。一般家庭に百合根なんてないわ」
有里氏も頷きながら同意する。
「どうする? なしでいく?」
「山芋とかあったりしないかな」
どうだっただろう。冷凍庫を漁ると、カットした山芋がジップ袋に入って出てきた。いつのだろうか。
「これどう?」
「若干冷凍焼けしてる気がしなくもないけど、使っちゃえば同じだね」
霜がついた山芋を流水で洗いながら、さらに小さくダイス型に切る。それを、出汁と調味料で煮立たせておいた雪平鍋に入れた。一口大にカットしたえのきダメも追加して、水溶き片栗粉を流し込めば銀あんの完成、らしい。火を止めた雪平鍋にチューブのおろし生姜を加える。ここまでやって、おろし生姜はチューブなの、私たちらしくて悪くない。
ピピピピ、とタイマーが鳴った。
「あっ! 灯氏、茶碗蒸し早く火からおろして」
鍋の蓋を外すと、ぼわりと蒸気が立ち込める。蓋にかけてある手拭いが水分を含み、マグカップに水滴が落ちないというわけだ。なかなかにシステマチック。火傷をしないように、100均で買ったシリコンの鍋つかみを装着し、マグカップを取り出した。銀あんを上からかけると、まるで高級な食べ物のようだ。ハルカ先生のグッズのマグだけど。
「春香ーっ」
キッチンから声をかけると、部屋からのそりと出てきた。
「春香よ、進捗は」
「そこそこっ」
そう言いながらも、にんまりと笑い部屋から出てくる。
「んっ。なんかええ匂いが」
どうやら春香の部屋に一緒にいたらしいリリとミヤも、足にまとわりつきながら出てきた。
「……これ私のキャラのマグやん」
「せっかくなので、春香アイテムでそろえてみました」
「せっかくってなんや」
くたくたと笑いながら、足下の二匹をまとめて抱き上げる。二匹は大人しく抱かれ、リリはそのまま春香の肩によじ登っていく。
「これ、入れてあげて」
私は棚の上からカリカリの袋を取り、春香に渡した。やわやわは……今日はなしなのだよ、リリ・ミヤよ。
「んで、これが空也蒸しって言うんだって。だよね、有里氏」
「そうなの。空也上人が考えたから、空也蒸しっていうって竜也くんが」
「竜也くんは物知りなんやな。空也上人ってあれやろ? 平安中期の坊さんで、浄土宗の一派ができるほどの先駆者とかいう」
スプーンをくるりと回しながら、記憶を辿っているらしい。さすが漫画家。引き出しが多い。
「美味しいやんな」
スプーンで掬ったそれを口に運ぶと、春香はほろりと表情を崩す。
ぷるぷると震える茶碗蒸しの具材は豆腐だけ。それがまた胃に優しい。飲みすぎた翌日に、作ってみるのも悪くないかもしれない。朝から料亭のようなものを食べれば、二日酔いの朝も辛くはないだろう。まぁ、もうこの年になって酷い二日酔いというのも、年に数回くらいになったけれど。
「もっとお出汁を多くしたら、たぶん料亭っぽくなると思うよ」
有里氏の発言に、考えていたことを当てられたかと思ってしまう。
いや。きっと、彼女も同じようなことを以前考えたことが、あるのだろう。
翌日の昼下がり。今回は春香も一緒に味噌を作ることにした。有里氏は私たちの後ろで監督役。
「浸してた水は捨てて、圧力鍋に移して。ひたひたになるくらいまで水を加えて、だいたい20分くらい加圧」
以前持っていた圧力鍋は、ちょっと怖かったので我が家は安心安全の電気圧力鍋だ。これなら目を離していても問題ない。圧力鍋特有の、あのプシューってするのが怖いんだよね。
途中様子を見に行ったら、少し音が出ていた。それを三人で見守っているのが奇妙でおかしい。
皆で料理をするというのも、悪くない。いつもは、私か春香が適当に作るんだよね。
圧力鍋で煮込むこと20分。ピーピーと完了の音がしたので様子を見る。まだ圧力が落ちた様子がないのでもう少し。
そうして、圧力が抜けた後に開けると、ふっくらと炊きあがったきれいな大豆がお目見えした。
「おお! 大豆を自分で煮るなんて初めて」
「いつもなにっこのおまめさんやもんねぇ」
一粒とって、親指と小指で潰すように指示されたので、ぎゅうと潰す。簡単に潰れた。
「あぁ、いいんじゃないかな。ちょうどいいかたさ」
なるほど、こうして火が通っているかを確認するのか。
「煮汁は捨てないように!」
「え、そうなん? 危ない。うっかり捨てるとこやったわ」
「その煮汁は後から大切になりまーっす」
熱い内にフードプロセッサーへと移す。そこで一気に、と言いたいところだけれど、全部は入らないので少しずつかけていく。
「少しだけ、煮汁を加えて。混ざりが悪くなったら、また煮汁を加えて」
「これは普通のお湯やあかんの」
「それだと腐ってしまうらしいよ。システムはよくわからんけど、先人の知恵」
なるほど。先人の知恵は大切だ。
全ての大豆を細かく砕いたところで、別の器で麹と塩を混ぜる。これを塩切り麹と言うらしい。竜也くんが教えてくれた、とまたしてもドヤ顔で言われてしまった。いちいちドヤ顔はしなくて良いんだけど。
塩切り麹を作っている間に、大豆の粗熱が取れるのだそうだ。あまり大豆が熱いと、麹菌が死滅してしまうとか。なかなか繊細な作業なのね。
大豆を手に乗せても熱くない程になったら、塩切り麹と混ぜ合わせる。
「耳たぶくらいのかたさになってる?」
有里氏の発言に、春香が私の耳たぶを触る。
「春香? なんで私の耳たぶで確認したの。しかも混ぜてるの私だからね。春香が確認しても意味はないんじゃないの?」
「灯の手が塞がっとるから、代わりに、と思ってな」
「なるほどーっ……ってならないでしょっ」
「君ら漫才コンビみたいだよねぇ。灯氏、耳たぶじゃなかったら、小指がすっと入るくらいでもオッケー」
「有里氏、それを先に」
混ぜ合わせて味噌状になったものを、今度は手で団子状にしていく。泥遊びのようで楽しい。これをしっかりと消毒した琺瑯の器にボスボスと投げ入れながら、詰めていく。
「うちに琺瑯の器なんてあったんや」
「ほら、前に春香のお母さんが」
「ん? ああ! なんやセールやったからって、送ってきたんやったな」
あれは謎だった。春香のお母さんは、キッチングッズが大好きらしく、お気に入りの琺瑯のお店でセールをしていたからと言って、何故か東京に住む娘の分まで買って送ってきてくれた。送料考えたら、そんなにお得じゃない気もしなくはないけど……。まあいっか。
「しっかりと詰め合わせてね。団子状にするのも、空気を抜いて詰めるためらしいからねっ!」
勢いよく琺瑯の器に投げ入れていくのはなかなかに楽しい。ドンッペッ。ドンッペッ。と琺瑯の器にぶち込んでいく。
「私にもやらせてぇや」
「さっき私の耳に触ったから、手を洗ってからね」
キッチンで手を洗い、春香も参戦する。
「これで全部やんな。有里さん、全部いれた!」
「一番上に、塩をたっぷりまぶしたら、ラップ」
言われたとおりに塩をまぶす。密閉のためにラップをしっかりと塩に密着させて、その上に布巾をのせた。そこに重しとして袋にいれた石を置いていく。琺瑯の蓋をかけて終了だ。
「これで暑い夏を越したら、完成。うちのと交換ことかもしよう」
「気の長い話だねぇ。でもそれ楽しみ」
有里氏と春香と私。三人揃ってにっこり。
「味噌は二月に仕込むものらしくて、それを寒仕込み、っていうんだって」
竜也くん曰く、寒い時期に仕込む方が、ゆっくりと発酵して味に深みが出るらしい。昔からの習慣には意味があるということか。
にゃぁ。
一区切り付いたところで、猫たちからの催促の声が聞こえてくる。
「なんや、遊んで欲しいんか」
「リリは甘えたさんだからねぇ」
「ん? 一匹足りないのでは。灯氏、春ちゃん、ミヤちゃんは」
「その辺で寝てるんじゃない?」
私の返事に、有里氏がぐるりと周りを見ていると、棚の上からミヤが飛び出してきた。
「うわっ」
飛んできたミヤを有里氏の顔面が受け止め、そのまま後ろへどすり。
「ミ、ミヤちゃん……どいて……」
ぶにゃぁ。
顔の上でご丁寧にも身震いをしてから、ミヤは再び棚の上に飛び乗っていった。
「……ついでに猫吸いでもすればよかったのかもしれない……」
後悔をするようにぼそりと呟いた有里氏の声が、妙に部屋に響いていた。
「何故こうなったの……」
オンラインの全社会議を終えて思わず呟く。
いつもなら四月一日に行われる全社会議。それが緊急で、三月も真ん中を過ぎた段階で開催されると言うことで、ちょっと嫌な予感はしていた。
なんというか──虫の知らせというやつだ。
とりあえず、何か飲んで落ち着こうと部屋を出る。朝作った珈琲をコーヒーメーカーから注ぎ、まだ少し温かいのを確認し砂糖をたっぷりといれた。甘いものを摂取しないと落ち着かない。そんな気分だったからだ。それに牛乳をたっぷりと入れた。
「どうしたん」
炬燵でミヤと戯れていた春香が、そんな私に声をかけてくる。気分転換ついでに、と珈琲を手に隣に座った。炬燵の中にいたリリが出てきて私の膝に座る。にゃぁ、と顔を出したので、撫でてやれば満足そうに目を細めた。
「さっきまで確か、ウェブミーティングかなんかやったろ?」
「そうなの。全社会議でね……。うちの会社、M&Aされたんだってさ」
「へ? それはまた……なんやドラマみたいな話やな」
まさにドラマみたいな話だ。M&Aなんて単語、テレビでしか聞いたことがなかったのだから。
「どんな会社にM&Aされたん」
炬燵テーブルの上に置かれたソフトクッキーを食べながら、春香が尋ねる。
「東証プライムのなんかでっかい会社。ま、同業他社だったんだけど、うちの方が老舗よ。でも、向こうはいろんな会社M&Aで買いまくっておっきくなったの。あっという間の来月からですってよ」
「上場企業にくっつくんやったら、待遇良くなるんやない? ラッキーやん」
そう。私も最初はそう思ったのだ。だが──。
「生理休暇の廃止、iDeCoの廃止、業務時間の延長、裁量制の廃止、午前中のフレックス廃止、週に三日の出社、会社がうちから一本で行けた新橋から、参宮橋になって、給与制度の改定──うちの会社の方が給料が良いらしくて下がるみたい」
「はぁ?」
春香の言葉に、私も大きなため息を吐く。
「大きい会社で働きたいわけじゃないんだよねぇ。中小企業でいいから、ちょうど良いリラックスした社風と、穏やかな人間関係、ある程度のやりやすさの中で仕事がしたい。まぁ、新しくなる母体がそうじゃないとは限らないけど……口コミで見たその会社、めっちゃ評判悪くて……」
「あぁ……」
思わずうなだれてしまう。春香の視線が、哀れみのものに変わった。
「とりあえず、新しい給与の提示は来週らしいので、それを見て……あと新しい会社始まったら様子見て……フルリモートじゃなくなるの、きっついなぁ」
それでも、今から転職するには年齢があがりすぎている。それに、ようやく得た正社員の仕事だ。手放すのは惜しい。でも。
「私はさ、正社員になれんかったから、漫画の道で個人事業主になったやんな。それやから、上手く言えへんけど」
小さく首を傾げながら、春香は私をじっと見る。
「縁があるところと、働けたらええね」
この先をどうしていくかはともかく、春香のその言葉は、ハンマーで頭を殴られたような全社会議のあとの心を、ゆっくりと包み込んでくれた。
「ありがと。まずは今日の仕事終わらせるわ」
「灯」
「ん?」
「やる気でないなら、午後休しな」
ミヤを撫でながら。
なんてことのないように言うから。
少し、泣きそうになった。
「そうするわ」
迷うことなく、返事をした。
午前中に、今日の分の仕事を夢中で終わらせた。のんびり仕事をしていると、無駄に考え込んでしまいそうだったので、集中して仕事を倒していったのだ。
「花見でも行かへん?」
窓の外を見れば、良い天気だ。花粉の薬も飲んだし、マスクとメガネがあれば大丈夫だろう。
振り向けば、春香も同じ出で立ちだった。
──二人とも、花粉症なのだ。
家の近くの多摩川土手には、花がたくさん咲いている。それに、この国は至る所に桜を植えているのだ。わざわざ目黒川まで行かなくても、美しい桜はいくらでも見れるし、ソメイヨシノでなくても、桜はどれも美しい。
「あ、チューリップも咲いてる」
多摩川土手に向かう途中の小さな公園。入り口の花壇には、赤白黄色、と歌のように色が並んでいる。
「変わった花びらやな。写真撮っとこ」
私も同じように写真を撮る。春香は仕事として。私は今度作る同人誌の表紙の背景の資料に。
この時間はまだ小学校も授業なのか、子ども達の姿は見えない。風に揺れてキィキィ音を鳴らしているブランコが少しだけ所在なさげに見えた。
「ちょっとだけ乗ってこ」
「ええね。私も同じこと、考えてた」
二人並んでブランコに座り、にんまりと笑う。どちらからともなくこぎ出しては、お互い高さを競い合った。まるで、小さな頃のように。
「う、わっ。怖っ」
「なぁっ! ブランコって、どうやって止めるんやっけ!」
どんどんと加速していくそれに、私たちは目が回りそうになる。小さい頃よりも格段に体重の増えた私たちは、振り子としては優秀すぎたようだ。
漕ぐのを止めて暫し。ようやく勢いをなくしたブランコは、私たちの足を地上に届けてくれた。怖かった……。本当に。
途中のコンビニでタマゴサンドとお茶のペットボトルを買って、多摩川土手に出る。
家にあったレジャーシートを敷いて、川縁に二人で並んだ。
「気持ち良いねぇ」
「ほんま、気持ちええ」
中天より少し降りた太陽は、私たちの心を穏やかに照らし出す。多摩川は光を浴びてキラキラと輝いていた。
「春香、次の締切りまで余裕はいかほどに?」
「そうやねぇ。今日は水曜やろ? 土日は付き合えるよ」
どうやら私の気分転換に付き合ってくれるらしい。ありがたいことだ。
週末は天気が良いだろうか。空を見上げる。
「どこか行きたいとこあるん?」
「特には」
「そ」
動画サイトの番組の何かで、今コンビニのタマゴサンドが外国人観光客に大人気だと見たので、買ってきたそれを二人でかぶりつく。
「ん、確かに美味しいね」
「玉子マヨのタマゴサンド、好きやわ」
春香を見れば、ほっぺたの横に卵が一つくっついていた。
「春香、お弁当」
頬を指させば笑う。つまんでそのまま食べていた。コンビニの袋に入っていたお手拭きで拭く。
「そういえば、大阪って厚焼き玉子挟んでるよね」
あれはびっくりした。タマゴサンドといえば、ゆで卵をマヨネーズでほぐして塩胡椒で味付けしたものをサンドしているのが、私の普通だった。でも、大阪で喫茶店モーニングをして出てきたタマゴサンドは、厚焼き玉子がサンドされていた。思わず二度三度と見てから、周りをこっそり伺うと、皆当たり前のように食べていたので、私も当然という顔で食べたのだった。
美味しかった……!
甘めの厚焼き玉子が、カリカリに焼かれたトーストに挟まれて、しかもその厚焼き玉子がふわっふわ。もう一度言おう。ふわっふわ。初めての体験に、テンションが上がって、東京にいる春香に連絡をしてしまったくらいだ。
「灯から大興奮のLINEが来たときは、何かと思ったわ。写真まで送ってきたけど、私にとっては喫茶店のタマゴサンドがあれなんは、普通やんか」
「うん、まぁ……そうなんだけどねぇ」
あのときは、大阪の同人誌即売会に出るのに、一人で大阪に遠征をしていた。ボーナスの後だったこともあって、ちょっと良いホテルに一泊、もう一泊は素泊まりビジホで朝食を喫茶店、なんてこじゃれたことをしたんだよね。
「西と東の人間が一緒におると、いろんな食文化が楽しめるやんな」
タマゴサンドを頬張りながらそう言う春香は、なんだかとても、自由に見えた。
「あ、それで。帰りはスーパー寄ろう」
「ええね。ビール? たまにはワイン?」
「それも買うけど、桜餅の材料を」
私の言葉に、飲みかけていたペットボトルを下ろす。そうして、ゆっくりとこちらを見た。
「想定は、どちらの桜餅で?」
「……関西風でいきましょう」
春香の目力に、負けてしまったのは、仕方がないと思う。
スーパーの帰り道、にわか雨にあってしまった。大慌てで二人で住処に戻ったけど、買ってきた粉類が濡れていないかが心配だ。
「荷物は私がキッチンで確認しとくから、春香はシャワーを……」
春香の方を振り向いて、驚いた。
「あらやだ春香……」
「なんや」
まとめて出したタオルを、私の手から受け取り首をかしげる。
「いやぁ。言ったら怒るから」
「怒るかはわからへんけど、気になるから言うてや」
頭からしっとりと濡れた春香は、その身長も相まって──
「水も滴るいい女だな、って」
羽織っていたカーディガンを頭に傘代わりにかけていたせいで、白いシャツが濡れて肌につき、デニムはその重みでラインがストンと落ちている。ボブカットの髪の毛は頬に張り付き、えも言われぬ色気を出していた。
「これはいかん!」
「何がいかんのや。ええ女に見えるんやったら、それはそれでラッキーやろ。別に男の目があるわけやないし」
「……確かに」
これで男の目があるところだったり、男の目を意識して、とかだったら話は変わるが、ここには私と春香しかいないのだ。それで春香がとても良い女に見えるのであれば、それはまぁ春香の魅力が一つ開花したわね、で済む。
「とにかく、シャワー先にどうぞ」
「ん。灯お湯入る?」
「そだね。ついでに沸かしといて」
「りょ」
私もタオルでざっと頭と体を拭いて、荷物をキッチンに持っていく。
近所のスーパーで全て揃えられたのは良かった。私たちが知らないだけで、世間では割と普通に使うものなのかな。赤色素なんて、製菓専門店じゃないとないかと思ってたけど、売ってるものなんだね。ちなみに、パッケージがどう見ても文具屋におかれているようなものだった。シャチハタのインクのような……。
ぶるりと体が震える。
「おっと。私も早めに暖を取らないとね」
猫でも抱いておくか。
「灯~。あがったよ」
「あれ、湯船は?」
「湯船張るまで待ってたら、春香が風邪ひくやろ。ええから入り」
背中を押すように風呂場へと押し込められてしまった。シャワーの熱気が心地良い。思っていたよりも冷えていたようで、体に当たる湯温と内臓の感覚に差異を感じる。
「上がったらお茶でも淹れて、とりあえず一息つくかな。それから桜餅」
シャワーを浴びていたら、お湯が沸いた音がリロリロと鳴った。家中の家電が音を奏でるけれど、どれも違うメロディなのはありがたい。
「今日は草津の湯」
脱衣所に手を伸ばし、入浴剤を抜き取る。適当にとったものは草津の湯かと思ったら、箱根の湯だった。どちらでも良いか。
「ふはぁ」
湯船に浸かると声が出るのはどういう仕組みなのか。まぁ、聞いてもすぐ忘れるけど。足先までじんわりとほぐれるような感覚に、春香ももう一度入れば良いのに、なんて思ってしまった。面倒くさがりの春香は、絶対に入らないだろうけど。
「ん? なんか良い匂いがするーっ」
「ちょっと甘い物が飲みたくなったんや。ココア、灯も飲むやろ?」
今日はやけに優しい。朝の会議のあとの私、そんなにダメだったのだろうか。
「ありがとう」
でも、それを言うのはちょっと恥ずかしいので、お礼だけ。
ドライヤーで髪を大まかに乾かし、炬燵に座りココアを飲む。内臓がどろりと蕩けていくようで、ようやくほっとした心地がする。
「あんまりのんびりしとると、桜餅作る気力なくなるんやないか」
「それはそう」
飲み終えたら、作ろうじゃないか。