「どうもぉーっ。お邪魔しまっす」
「ただいまぁ」

 春香と共にやってきたのは、里崎有里。私の一つ下の彼女は、なんと大学卒業時に正社員として入社した出版社でそのまま働いている。氷河期ど真ん中の私たちからすれば、出版社にあの時代に女性で新卒で入社しただなんて、英雄中の英雄だ。
 そんな彼女は

「聞いてーっ! ハルカ先生、弊社での初サイン会決定!」

春香の漫画の担当編集をしている。

「おお! おめでとう」

 有里氏を招き入れ、お湯を沸かす。手洗いとうがいを済ませた二人は、すぐに炬燵に潜り込む。

「これ手土産。銀座シックスで買ってきた」
「なにそれ高級オシャ菓子じゃん」

 受け取った箱から個包装のお菓子を取り出す。いつもは缶ビールなどを持ってくる彼女が、今日はこんなにおしゃれなものを……と思うと、やはり担当する春香の初サイン会は相当嬉しいのだろう。

「ラングドシャが二枚重なってますけど?」

 皿にのせて二人の前に出しながら、突っ込んでしまう。ラングドシャと言えば、嫌いな人などいないお菓子の一つだ。それがクリーム挟んで二枚かさなっているなど……!

「あ、お持たせで恐縮ですが」
「とってつけた台詞やんな」
「一応言っておこうかと思ってね」
「同僚の秘書に教えて貰ったお店だから、美味しいと思う」

 有里氏の言葉に、俄然このお菓子に対する期待が高まってしまう。

「これにはお高い紅茶をあわせたほうがいいかも」

 年末にコミケの差し入れ──私は同人活動をしているのだ──で貰ったお高い紅茶があったことを思い出す。
 普段はティーバッグだけど、良い紅茶の茶葉をポットから淹れると、それだけで気分が上がる。春香がハルカ先生としての初めてのサイン会なのだ。私も何かお祝いをしてあげたい。まぁ、今日急には無理なので、せめて良いお茶を茶葉で、というわけなのだが。

「お、良い香りーっ。これマリアージュフレールの紅茶やんか」
「よく気付いたね、春香」
「月組で応援しとる子が好きな紅茶なんよ」
「あの子! この紅茶好きなんだ。いいねぇ」

 二人はスマホの写真を見せ合いながら盛り上がっている。その横で私はリリとミヤを膝と背中に乗せてお茶を飲む。うん、美味しい。

「サイン会、梅田も予定いれといたから」
「やった! それやったら、サイン会前後の日の公演おさえとこ」

 春香と有里氏は、宝塚ファンだ。二人で良く東京宝塚劇場にも行っているらしい。そういうの、なんか良いよね。
 フニャァと背中にいたミヤが有里氏の元に移動する。

「おおよしよし。ミヤくんにもお土産買ってきたからねぇ」

 撫でられて、ご機嫌に喉を鳴らすミヤは、目を細めて一声鳴いた。早くよこせ、ということなのだろうか。

「ほらこれ!」

 じゃじゃん! と鞄から取り出されたそれは、我が家ではやわやわと呼んでいるスティック状のウェットタイプのおやつだ。
 私の膝に乗っていたリリも、何かに気付いたようにすっくと立ち上がり、有里氏の元へ向かう。

「今あげてもいーい?」
「有里氏のご随意に」
「あげてええよ」

 私と春香の声が重なった。
 満面の笑みの有里氏に、ご機嫌な二匹の猫。それをニヨニヨと見ながらラングドシャのお菓子を食べる私たち。

「あ、そういえば、まだ五時だけど、灯氏の仕事の邪魔しちゃった?」
「平気平気。今日のマスト終わったから、あがりにしたとこ」

 私はリモートワークで仕事をしている。裁量制なので、やるべきことだけ終えておけば、それで許されるのだ。短大を出て就職氷河期で、何百通のエントリーシートを手書きで書いてきたことか。ようやく面接に呼ばれたと思ったら「女の子はいらないんだよね」「短大? そのままお料理教室にでも行ったら?」なんて言われたりもした。だったら呼ぶなよ! となんど思ったことか。圧迫面接やら、グループ面接で誰かを落とせだとか、今考えると本当に「バブル期の人間に非らずんば人間に非ず」といったところだった。あの頃のジジィども、覚えてろよ!

 おっと。

 そんな時代からようやくアルバイト、派遣社員、紹介予定派遣を経て正社員になったのだ。しかも裁量制。ありがたい。しっかりとその恩恵を受けておかねば。

「終わってたなら良かった」
「夕飯は? 有里氏食べてくよね?」

 猫たちはやわやわがなくなったことで、一気に有里氏から興味をなくし、それぞれ部屋の好きな場所に解散していった。

「今日鍋って春ちゃんに聞いたから、私の手作り特製味噌を持ってきた」

 有里氏は、仕事の話以外では春香を春ちゃんと呼ぶ。ついでに、春香のペンネームは『ハルカ』だ。最近は苗字の付いていないペンネームも多い。

「ええねぇ。それやったら、味噌ちゃんこ鍋にしよ」
「いやうんそれは良いんだけどさ。さらっと手作り味噌って言わなかった?」
「灯、早口になっとる。興味あるんか」

 おっと。ついついオタクの特性で、興味のあることになると早口に。

「その通りでして。いやぁ、実は最近ハマってるソシャゲで、味噌造りが趣味の推しが」
「もしかして『料理NAチョイス』じゃない?」
「あれ、有里氏もやってる?」
「やってるよ~! 実は私の味噌造りも、竜也くんがきっかけでさぁ」
「その、クソダサタイトルのソシャゲはなんやの」

 有里氏と私はソシャゲ、所謂スマホゲーム仲間でもある。元々は私も彼女もある少年漫画の同人誌をそれぞれ作っていて、その時からの友人だ。もう二十年来……になるのか。ちなみに、有里氏が言っている『竜也くん』は蓬莱竜也というキャラクターだ。

「ここ一年くらいで流行ってるソシャゲなの。知らない?」

 言いながら私がスマホ画面を見せると、春香は「ああ」と頷く。

「タイムラインで見たわ」

 SNSで受動摂取をしていたらしい。

「名前わからんけど、この青色の髪のコックみたいんがええわ」
「青佐美咲くんね! 確かに、春ちゃんの好みだね。彼の出身は南房総で、漁師の息子なんだよね。それで釣りが上手くて、自分が釣った魚でフレンチのコースを提供するフレンチシェフなんだけ」
「まってまってまって! 情報量が多すぎや」

 勢い付いて前のめりになっている有里氏を、両手で抑えながら春香が止める。

「有里氏、美咲くんも推しなの?」
「そう! 竜也くんと美咲くんが仲良く話してるのがかわいいっ!」
「いやそれはそう」

 思わず真顔で頷いてしまった。

「味噌はなんやっけ」
「竜也くんが味噌造りをね」
「さっき有里氏が言った竜也くんが」

 春香の言葉に、私たち二人が同時に口を開く。

「君ら、ほんま仲良しやな」
「宝塚に関しては、春香と有里氏は同じような感じだけどね」

 顔を見合って、三人で笑う。この家で、春香と一緒に過ごすようになって、妙に笑い上戸になった気がするのだ。よく笑うことは、良いことだ。

「去年、ハマったときに味噌造りしてみたのよ。あぁ、春ちゃん、竜也くんってのはこの」

 有里氏が私をちらりと見るので、先ほどのスマホ画面をもう一度春香に見せる。スワイプして、蓬莱竜也のページを表示させた。

「この赤茶色の髪の毛の猫目の子。かわいいでしょ」
「好みやないけど、有里さんが好きそうなんはわかる。この子はどんな設定なん」

 よくぞ聞いてくれました!

「竜也くんは、小さい頃に両親が離婚して母方の祖父母の元で育てられたんだよね。大のお婆ちゃん子で、いつしかお婆ちゃんが作ってくれた料理を再現して、皆に振る舞いたいと思って、和食の道に進むようになったの。それで、お婆ちゃんと一緒に作った味噌っていうのがキーワードで」
「私がその設定で企画書出したら、有里さん絶対NG出すし、編集会議通らない自信あるんやけど」
「確かに、ハルカ先生がこの設定を持ってこられたら私はNGだすけど……ソシャゲはこのくらいでいいのよ!」
「理不尽……!」

 大げさに床に潰れる春香を横目に、私は有里氏が持ってきた味噌をのぞき込む。

「もしかして、去年のリリース直後にもう味噌作ったの?」
「大正解。ベータテストの時に参加して、もう竜也くんにメロメロで」

 ホホホと笑う有里氏に、思わず頭を下げてしまう。

「有里氏! いやさ、有里先生……! 私も味噌が……味噌が作りたいです!」

 私の言葉に、金曜の今夜は有里氏はうちに泊まり、明日と明後日の二日をかけて、一緒に味噌を作ることになったのだった。