新入社員も入ってきた四月。あちらこちらの桜が咲き誇る四月。いつもなら浮かれるこの時期に、私は浮かれることができなかった。
「と、遠い……」
今まではリモートワークが殆どで、それでも出社する必要があるときには家から地下鉄直通一本30分で通えていた職場だった。それが今や週に三度の出社、しかも2回の乗り換え必須で、通勤時間が1時間になったのだ。
「通勤時間なんて時間の無駄。この時間も給与に換算してくれるならともかく……!」
M&Aによって会社の社名は変わり、社屋が変わり、勤怠時間が変わり給与体系に福利厚生が変わり……これはもはや強制転職である。
裁量である程度勤務時間が自由だった部分も変更。これはいよいよ『本当の』転職をせねばなるまい。そう通勤時間に思う日々なのであった。
「あれ、灯さん?」
乗り換えの品川駅で声をかけられ振り向けば、初瀬麻衣が手を振っている。ロングヘアを後ろで無造作に一つにまとめた彼女は、ゆるりとしたエスニック風の服で私の隣にするりと並ぶ。
「珍しい。出社の日? でも地下鉄一本ですよねぇ」
「それがいろいろあって、社屋が移転して、しかも出社が三日になったのよ」
「うへぇ。そんなん、速攻転職対象じゃないですか。よかったら夕飯食べていきません?」
彼女の提案に、気分転換したかった私は同意を示す。LINEで春香に連絡すれば、彼女も来ると言う。
「春香もよき?」
「よきーっ!」
港南口のチェーンの居酒屋に入り、場所を春香に告げる。先にビールとシャンディガフを飲み始め、つまみを適当に頼んだ。
「ハツセも仕事帰り?」
「ですです。今日は日勤だったのでこの時間っ」
ハツセはコールセンターで働いている。春香とは高校時代の同級生らしい。その割に関西弁じゃないね、と聞いたことがあるが、高校の時だけお父さまの転勤で大阪に行っていたとか。なるほど。高校卒業のタイミングでこちらに戻ってきて、彼女は専門学校に通った。
私とは歴史同人誌サークル同士のつながりで知り合って、あとから春香が同級生だと知ったのだ。私たち三人はそれぞれの話を共通にしながら、お互いのことを見ず知らずの人と認識していた時期がある、というわけ。そう考えると少し面白い。
「シフト制も大変だよね」
「そうなんですけどねぇ。やっと契約社員になって数年でしょ。今更転職も、と思ってて」
さっきは私に転職案件だ、なんて言っていたのに。でも彼女の気持ちは良くわかる。
「私たち、ずーっと冷遇されてるからねえ」
枝豆を口に放り投げながら、ビールを流し込む。シャンディガフを飲むハツセは、唐揚げを頬張った。
私の会社の話をしたり、彼女の仕事の話をしたり、とあっという間に一杯目のそれらはなくなり、同じものをお代わりする。
「私は専門だし……、灯さんは短大でしょ。四大でも厳しかったあの時代、いっそ『就活するのもやめればいいよ』って国から言われたかったわぁ」
まったくその通り。ほとんど席を用意されていなかったあの時代に、どれだけの同年代が涙を流し、苦しんだことか。そして正社員の席を減らして用意された非正規雇用の席。私たちはその席すら取り合わないといけなくなっていた。
「あ、そうだ聞いてくださいよ。私今婚活にハマっててぇ」
「婚活? 結婚したいの?」
「結婚して子どもを作るなんて無理な収入だったけど、私も44ですし、最後に一年だけ頑張ってみようかと思って」
自分一人の食い扶持を守るために、私たちはどうにか生きてきた。私はもう47だし、そもそも子どもが欲しいと言う気持ちは35の時に消え去ってしまったので、結婚に対する意欲もない。でも、出産を最後ワンチャンと考えるには44というのは、生々しい数字なのかもしれない。
「アプリとか? 職場は女性ばっかりって言ってたよね」
「結婚相談所ですよ! あ、ハルちゃん久しぶり!」
片手を挙げる彼女の視線の先を見れば、少し遠くから小さく手を振り返す春香が見えた。相変わらずの白シャツにデニム。それにグレーのカーディガンだ。
「あ、ハイボールお願いします。あと厚焼き玉子」
テーブルの上の厚焼き玉子が、あと一切れしかないのを素早く確認したらしい。
私の隣に座った春香は、熱いお手拭きにため息を吐く。いやわかる。熱いお手拭きって良いよね。
「そんで、何の話してたん」
「ハツセが婚活始めたって」
「へぇ」
届いたハイボールに、手元のグラスをかしゃりとあわせ、何にだかわからないけれど乾杯する。とりあえず「お疲れ様」かな。
「マイ、高校の時は早く結婚したいって言うてたもんな」
「あの頃は、世の中がこんなに氷河期を切り捨てるなんて、思っていなかったからね」
それでも結婚してる同年代はもちろんいる。ただ、圧倒的に未婚が多い。
「お見合いとかしとるん?」
同級生というのは、ぐいぐいいくものだ。大人になって知り合った関係だと、少し躊躇するようなことも、気にせずに口にする。
「してるけど、まぁ……。私もそうなんだろうけど、この年まで売れ残ってるメンバーって感じ」
ハツセは確かに休日は同人誌のために漫画を描いて、日を過ごすタイプだけど、特段おかしな人間ではない。──私が同類だからというわけではないが。首を傾げれば、ハツセは楽しそうに笑った。
「話が通じない人とか普通にいるんですよね」
「意味がわからない」
私の言葉に、春香も頷く。
「例えば、静岡の人と面接──お見合いしたんですけど」
「待って。お見合いのこと、面接っていうの?」
「そうなんですよ。まぁ条件のすりあわせなので、恋愛というより就活みたいなものだし」
そんなに割り切ったものなのか。
「静岡の人はわざわざ東京に来たん?」
お見合いのシステムとして、申し込まれた側が受けると、場所や日時の提案を優先できる権利があるそうだ。なるほど。
「こっちまで来てくれるなんて、良い人じゃないの。話が通じないって?」
「私契約社員なので、完全に安定とは言えないじゃないですか。なので、お見合いの条件に『結婚後は相手に働いて貰いたい、専業主婦になって貰いたい、どちらでも』という項目で、どちらでも、の人を選んでるです」
なるほど。条件で決めるというのは、お見合いらしくてわかりやすい。
「それで、お会いしたときに確認したんです。特に静岡に行くことになるなら、絶対一度辞めることになるし、そうなると静岡でこの年齢ですぐに職に就けるかもわからないし」
「それはそうやねぇ」
ハツセは、思い出してイライラしたのか、残っていたシャンディガフを一気に飲みきった。三杯目はハイボールに移行することにしたらしい。追加のオーダーに、私は梅酒のロックと刺身の盛り合わせを頼んだ。
「だから、『奥さんには働いていて欲しいですか? どちらでも、と書いてありましたが』って聞いたのよ。確認、大事」
「うん。確認は大事だね。ハツセ偉い」
「そしたらなんて言ったと思います?」
ダン! とテーブルに拳をたたきつけるものだから、お皿が微妙に揺れた。
「困惑した顔をして『そりゃ働いていて欲しいですよ』って言うのよ。だから、そっちに行くなら、って話をしたの」
「でも、どちらでも良いって言っておきながら、働いていて欲しいですよってのはおかしいよね」
春香も一緒に頷く。でしょ! とハツセは勢いづいた。
「静岡で仕事は見つけるんですよね、と言うから、すぐに見つかるとは限らないじゃないですか、そういうときは収入ゼロになりますけど、それでも良いですか。って続けたら、その返事が」
佳境で梅酒と刺身の盛り合わせが届いた。大盛り上がりの中にしれっと商品を置いていくのって、店員さんのスキルだよね。尊敬するわ。
「でも、仕事すればいいじゃないですかっていうのよ。だから、すぐに見つかるとは限らないから、ってもう一度言ったら、収入ゼロは困りますからねぇ、って」
なんじゃそりゃ。
「それなら、地元の人で働き続けたい人とだけ会えばいいのに」
「ですよね! 私もそう思います。でもそれ以上に怖いのは、この話、ずっとループして30分同じこと話してたんです」
「……ホラーやん」
ぞっとした。
その日はそれから二時間くらい、ハツセの婚活話を聞き、解散した。
私は相変わらず週に三日会社に行き、無駄な通勤時間を恨みながら働いている。
「今日はちょっと楽しい料理をしよう」
ようやく訪れた週末に、私は近所の魚屋できれいな刺身用の鮭と出汁昆布を買いに行った。近くの八百屋に菜の花とはんぺんあられがあったので、併せて購入。ご機嫌で家に帰れば、春香が起きてきたようで珈琲を淹れていた。
「どっか行ってたん?」
「買い物にね。気分を上げるために、楽しい料理をしようと思って。珈琲私にも頂戴」
「ん。砂糖ミルクどうする」
「大人の味で」
「大人グレードは」
「疲れた大人の週末」
「砂糖とミルクどっちゃりやな」
くく、と喉を震わせて笑う春香に、私も笑う。
「この洗い米はなんや」
「あ、それこのあと使うの」
家を出る前にお米を洗ってザルにあげておいたのだ。いつもはそんな丁寧なことはしないが、今日は料理を楽しむ日だ。このくらいのことはする。
春香が淹れてくれた、甘い珈琲を飲みリリを抱き上げれば、迷惑そうに体をよじった。今はそういう気分ではないらしい。ミヤは炬燵布団をしまったあとの炬燵の下で、お腹を出して寝ていた。気持ちよさそうだ。
「さて、そろそろ始めますかね」
「私も何かすることある?」
「お。んじゃ一緒に作ろ」
買ってきた出汁昆布を手渡す。濡れ布巾で拭いた後に切れ込みを入れて貰うように頼んだ。
「レシピは動画? ブログ?」
「動画。でも動画のレシピって、どうもイライラしちゃってねえ」
「わかる。自分のペースで見たい世代やんな」
動画、と聞いて全貌を確認するのは諦めたらしい。都度指示してと言われた。
「結構楽しいわ」
ちょきちょきとハサミを入れ、水を入れた炊飯器に落とす。米の上にひらりと乗る昆布が、何故か愛おしいらしい。
「なんで昆布をかわええとか思うんやろう。情緒不安定かな?」
「一緒に情緒不安定にでもなる?」
「二人で不安定やったら、どん詰まりや」
けたけたと笑い合う。どうでもいいことで笑い、どうでもいいことで不安になる。それでも、一人じゃないから安心できる。
「ほい、全部切れた」
「そしたら炊飯ボタンよろ」
ラリラリラ、とメロディが奏でられ、炊飯器が動き出した。
「灯は何しとるん」
「針生姜製作でっす。あ、塩と砂糖とお酢を、そのメモの分量で混ぜておいて」
高知産の生姜の皮を剥き、細く切る。小さいのでなかなかに集中力が必要だ。
「混ぜたで」
「サンキュー」
切った生姜を調味液に混ぜていく。そう言えば、以前派遣で行っていた先の社員は、何故か皆お礼を言うときにかすれた声で「サンキュー」と言っていた。あれが流行だったのだろうか。全員同じ会社からの出向だった。
続いては鮭の下処理だ。
鮭の皮と骨を除く、と書いてあったが、骨はない……あ、一本だけあった。指先でつまみ、引っ張る。思ったよりもすんなりと抜きされた。包丁で削ぎ切りにして、先程春香が作ってくれた調味液に漬けていくように、手渡す。
「なんや、料亭の料理人になった気分やな」
「さらに料亭気分を味わうために、蓮根を酢水で茹でます」
「そんな下処理したことないわ」
蓮根を薄く切り酢水で茹で、その後甘酢に漬ける。ついでに酢飯用の合わせ酢も作った。
ちろりと合わせ酢を舐めてみると、あまりの甘酸っぱさに思わずむせてしまう。
「これは、このまま口にするもんじゃない……」
「そらそうやろう。たまにものすごく阿呆やな」
「しまった! ペロッ……これは青酸カリ、とか言えば良かった」
「……訂正するわ。割と良く阿呆やわ」
「そこは訂正しなくていいのに」
薄焼き卵を作り、細切りにして錦糸卵にする。そうしているうちに、炊飯器が再び陽気なメロディを流してきた。
「あっ、大きな器!」
「大きな器?」
さわらでできた飯台を棚の上から出すと、春香が首を傾げる。
「そんなん、うちにあったっけ」
それもそうだろう。この日のために、おととい会社帰りに買ったのだ。どれだけストレスがたまっていたんだ私。少しお高めのを買ったので、香りが良い。
「どうしても欲しくて、買っちゃった」
「買っちゃった……んか……。まぁ、ええか……」
苦笑いを浮かべる春香は、私がストレスを溜めると買い物に走ることを良くわかっている。
炊いた米を飯台に移して、切りながら合わせ酢をかける。ネットにあったように、うちわで風を送れば、だんだんとご飯が光りだす。うちわを扇ぐのは春香の役目だ。
「へぇぇ。きれいなもんや。艶がでるって本当なんやなぁ」
つやつやと美しく光った酢飯に白ごまを混ぜ、その上に鮭、蓮根、卵と千切りにした青じそ、それに買ってきた紅生姜を添える。
「できた!」
「うん、これは実にええ」
見事なちらし寿司の完成だ。
「あとはもう一つ」
「まだ何かあるんか」
うん、と返し鍋を手にする。その中には、米を炊くタイミングで、鍋の中で水に浸しておいた昆布が鎮座しているのだ。それを火にかけ、沸騰前にそれを取り出した。煮立った鍋に鰹節を入れてすぐに火を止める。浮いてきたアクをそっと取り、三分ほど待つと、ゆっくりと鰹節が沈んでいった。
「ええ香りや」
「ほんと」
くん、と鼻を動かせば昆布と鰹の香りが立つ。
それをそっと漉し、再び鍋へ。
「あっ、菜の花水に浸したまんまだわ」
最低30分は浸すようにと書いてあったので、放置していた。別の鍋で青茹でし、水に晒す。
「そう言えば、前にソシャゲで見た出汁洗いってのやってみようかな」
茹でた野菜を水洗いの後出汁で一度洗うことを、出汁洗いと言うそうだ。例のソシャゲ『料理NAチョイス』で覚えた技だ。なんでも、水っぽくならないので、おひたしを作る時にやると良いらしい。──やったことはないけれど。
最終的には吸い物の中にいれるのだから、意味はないのかもしれないけれど、せっかく多めの出汁があるのだし、と試してみた。
──見た目が変わるわけではないので、思ったよりも楽しくはない。
出汁に調味料を加え、火を通す。出汁を絞った菜の花を一口大に切ってお椀にはんぺんあられと吸口のゆずを削ぎ切りにしたものを入れて、完成。鰹節と昆布は砂糖醤油を絡めて煮含めると佃煮になる、とネットで見かけたので、あとでやってみよう。朝ご飯のお供はいくらあっても構わない。
「これで全て完成! 食べよ」
「豪華やなぁ」
飯台をテーブルに移し、猫達が狙わないように、上から濡れ布巾をかける。大きめの平皿と箸も並べ、ガラスの猪口を添えた。
実は日本酒の良いものも、飯台と共に買っておいたのだ。
「猫達にも、今日はゴージャスにいく?」
「なんや買ってきたんか」
「そう。モモンガプチがセールしててねぇ」
少しだけお高い猫の缶詰だ。もっとお高いものもあるけれど、その味を知らせるわけにはいかないので、せいぜいがモモンガプチなのだ。
「ええやん。皆でハッピーになろう」
ハッピーハッピー。良い言葉だ。
猫達に出してやれば、目の色を変えてやってくる。あっという間に食べてしまいそうな勢いなので、「今日はこれしかない」と三回言ってやった。
「あ、冷蔵庫に日本酒いれてある」
「越乃景虎やんか」
「ふふふ。それはセール品ではないのだよ、明智君」
「ワトソン君。太っ腹やな」
二人とも助手じゃ、探偵役がいない。ダメだろう。
新潟の地酒、越乃景虎はキレがある割に安めで美味しい。とくりとくりと音を鳴らして猪口に入っていく。
乾杯をして一口ぐいと飲むと、さっぱりとしたその飲み口に、目元が緩む。
「うん、美味しい」
春香も満足したようで、もう一杯注いでいた。その後、いよいよちらし寿司へ箸を進ませる。
鮭と蓮根を一緒にご飯にのせ、口へ運ぶ。咀嚼する口元から聞こえるシャキシャキとした音が、丁寧な料理の満足度をあげてくれた。
「美味しいわぁ。たまにはええね、こういうのも」
お吸い物を飲みながら、春香と私の頬はほろりと綻んだままだった。
「五月の北海道って初めてかも」
羽田空港第二ターミナルから飛び立つ青い翼は、そわそわした私の心を落ち着かせることなく滑走路に到着した。
「長かった……。まさかドアが閉まってから20分も待機とは思わんやろう」
隣に座る春香は、手元の文庫本を読み終えてしまったようで、少々手持ち無沙汰になっている。
五月の連休明け。有給休暇をバンバン使うことに決めた私は、平日に春香を誘って日帰り弾丸の北海道旅を決行した。しかも、弾丸と言いながらゆっくり出立するという贅沢ぶり。朝早い飛行機の空きがなかっただけなんだけど。
「灯は北海道は行ったことあるんやっけ」
「函館の方にね。幕末好きだから、土方歳三追いかけて北上する旅を何度もしてて。あ、私が好きなのは土方さんの小姓をしてた市む」
「あ、オーケー大丈夫やから」
「オーケーで大丈夫ってことは、聞きたいという」
「何という押し売り!」
もちろん断られていることくらい、わかっている。
ガタガタと揺れる勢いが強くなってきた。
「離陸する」
私の言葉と同時に、体がふわりと浮く感覚。そしてかかる重力。
「ジーがかかっとる!」
嬉しそうに言うなって。
そこから約一時間半かけて、北の大地、新千歳空港に到着した。離陸した後の機長の挨拶では、少し揺れるかもしれないという案内があったけれど、実際はそんなこともなく、安定したフライトで、快適な空の旅だった。
新千歳空港からはJRで札幌まで向かう。三十分ちょっとで到着したそこは、北の中心地。
「おおお! やったねやったね。美味しいものを食べよう」
「ええねぇ。北海道と言えばお寿司。回転寿司でも美味しいんやろ?」
「と、いう情報であります! ただ」
「ただ?」
「夕飯で食べたくない?」
「確かに。羽田で軽くランチも取っちゃったし」
そう。出立が正午すぎだったので、羽田でランチをしたのだ。
「と言うわけで、先ずは甘いもの!」
手元のガイドブックを広げ、目指すは西コンコース南口。西なのか南なのかはっきりしろ、というツッコミは、東京都西東京市東という住所を持っている都民が言うべきではないだろう。
大丸札幌店の地下にあるカフェに向かう。タイミングよく二人席が空いていたので、すぐにオーダーができた。ラッキー。
「いやぁ、やはり日頃の行いが」
「ええか?」
「それなりに……。週に三日会社に行ってるし」
「それは偉いと思う」
うんうん、と頷く春香は、私が会社に行くときにはまだ夢の中だ。彼女は夜型ではないけれど、朝が早いわけでもない。
「転職活動は」
「まぁ……。やっぱりなかなか上手くいかないよねぇ、47歳」
あれだけしんどい思いを耐えてきたんだから、このくらい乗り越えれば良いじゃない、と思う自分は、いるにはいた。でも、それを乗り越えようと思う気持ちがあまり起きないのだ。とりあえず転職活動をして、成功してもしなくてもチャレンジをするだけしよう。そう思って先月末くらいから動き始めたけれど、なかなか上手くいかない。
「甘いもの食べて、また頑張ればええよ。この年になると、昔頑張れたことなんて、もう頑張れへんって」
その通りだ。もう、若い頃のようにナニクソと思うこともできない。
「そだね。とりあえず」
「そう、とりあえずや」
メニューに目を落とす。
「こだわりブリュレロールだって。大丸限定かぁ。食べないとだわ。春香は?」
「チョコレートパフェ一択」
「うわ、これもめっちゃ美味しそう」
「やろ?」
メニューにあるチョコレートパフェの写真には、コーンフレーク、カスタードクリームの層の上に小さく、けれど赤くて甘そうなイチゴがのり、さらにチョコレートアイスとソフトクリーム。そこにはチョコレートソースがかかって今にもとろけてしまいそうだ。リーフパイとメレンゲの飾りもつき、美味しそうという感想以外持てない絵面に参ってしまう。
「うーん。でも限定……。あっ、そうか」
春香も私を見る。
「半分ずっこや」
「交渉成立」
ぱしり、と手をたたき、店員を呼ぶ。それぞれをデザートセットにし、珈琲を付けてもらった。
5分と待たないうちに、デザートセットがテーブルに届く。私のオーダーしたこだわりブリュレロールは、表面がなにやらキラキラしていて美しい。
「いただきます」
さくり。フォークをさしこめば、ロールケーキの表側がわずかにパシリと抵抗を見せる。なるほど。キラキラして見えたのは、キャラメリゼらしい。
キャラメリゼとは、砂糖などの糖類が酸化する時に起きる現象のことで、料理に於いては、香ばしさを出すためにバーナーなどで炙って焦がす作業のことを指すそうだ。メニューに書かれていたので、調べてみた。ウィキペディアは便利だ。
その表面を突破したフォークの先は、ロールケーキの中央へと届き、一口大にカットされていく。ぱくりと口に含めば、甘くて苦いキャラメルの香りが鼻を抜けた。
「うっ、ま」
思わずとろりとした瞳になってしまうほどの、美味しさ。ロールケーキの生地はしっとりとしていて、中のクリームは生クリームとカスタードクリームのダブル。思わず箸、ならぬフォークが進んでしまうのはしかたがないと思う。
「ほんまや。めっちゃ美味しい」
私のを逆側から食べていた春香は、目をとろりと細めた。猫のような瞳だ。あ、ちなみにうちの猫たちは有里氏が預かってくれている。安心だ。
今度は春香が頼んだチョコレートパフェ。シェアすることを伝えていたので、スプーンとフォークはそれぞれ二人分ずつ用意して貰えた。
柄の長いスプーンに、コーンフレークだのアイスだのをのせて口元に持ってくる。はくりとそれを咥えこめば、口の中がひんやりとした。コーンフレークのカリカリとした歯ごたえに、チョコレートアイスの少しビターな冷たさ。イチゴは僅かに甘酸っぱくアクセントになっている。
「これも美味しいねぇ」
「半分こにして正解や」
ひとしきりデザートを食べ終え、ゆっくりと珈琲を飲む。甘い口に珈琲の苦さが入ると、まだ何か胃に入りそうな気がするから恐ろしい。満腹ですよ、と胃は言っている……筈なのに。
ガイドブックを広げ、次の目的地を選ぶ。ぱらぱらとめくっていると
「あ、ここ行ってみたい」
春香が指をさした。札幌市資料館、と書かれたそのページには、石造りの重厚な建物の写真が写っている。
「良いね。春香今やってる連載で使えそうな資料にもなるし。私も、最近ハマってる小説の舞台設定が明治時代だから、こういう建物とか参考になりそう」
顔を見合わせて頷く。
店を出て、地下鉄さっぽろ駅で南北線に乗る。大通公園駅で乗り換え、東西線で西11丁目。駅を降りてすぐ目の前に、灰褐色をした石造りの建物が飛び込んできた。通りを挟んだ先、まるで大通公園の終着点のように聳えるそれが、札幌市資料館。
東京では新緑の季節と言われる五月だけれど、ここ北海道では冬が明けたばかりの、所謂春先。咲いている花は、東京では終わってしまったチューリップに桜、それにコブシにライラック。溢れんばかりの香りが、空気の中に溶け込んでいた。
「青臭い匂いなんて、一切しないんだねぇ」
「花の香りで気持ちがええな」
大の大人が、二人揃ってくんくんと鼻を鳴らすように匂いを嗅いでいるのは、さぞや様子がおかしくみえただろう。途中で気付き、二人で鼻歌交じりに空を見上げた。青空に、ソメイヨシノが美しい。
ぐるり、一転建物の方へと目を遣る。見上げたファサードには『札幌控訴院』と掘られてあった。
「裁判所やったんか」
同じ表示を見つけたらしい。
「昔はそうだったみたい。控訴院、今の高等裁判所、だって」
ガイドブックを見ながら、答える。そうして、その文字の上を指さす。
「アレも要チェックだって」
そこには、目隠しされた女神の顔が。文字の左右には秤と剣。女神はギリシア神話に登場する、法の女神テミス。共に描かれている秤は、無論公平を、剣は正義を表す。何れもテミスのアトリビュートでもあるそうだ。
「へぇ。こういうのって、昔の建物の方が凝っとるよね」
「江戸時代の看板とか?」
「そうそう。十三屋と書いてあったりするやつや」
「それなんだっけ……。えぇと」
「ヒント、足し算」
「あっ! 櫛屋だ」
「大正解」
ふふふ、と笑いあい、ギイと重い音を立てて扉を開く。館内は静かで、赤い絨毯だけが、私たちを出迎えてくれた。因みに、入館無料だ。
「誰もおらんのかな」
赤い絨毯が敷かれているとは言え、館内はどこか殺風景さを感じる。まるで学校の廊下のようだった。入って右手に進めば、正面に『刑事法廷展示室』と書かれた通路が。その奥は階段になっている。だが。
「ねね。まちの歴史展示室、だって」
学校の廊下のように感じた原因の一つ、クラス番号を記載するような廊下に飛び出したプレートに、『まちの歴史展示室』と表示がされてあった。
その土地の博物館というものは面白い。住んでいない場所では知ることのない、書物には載っていない情報や歴史を、知ることができるからだ。通路右手にある扉を中へ進むと、まさに教室然とした広さの部屋が広がっていた。
「なんやこの骨格標本は──恐竜やろうか」
目の前に現れたのは恐竜のような形の、骨格標本。勿論レプリカだろう。置かれた説明板には『海牛発見!!』と書かれてあった。サッポロカイギュウという種らしく、札幌市内を流れる、豊平川から見つかったらしい。しかもそれを見つけたのは、当時小学五年生だった女の子。いつも遊ぶ川で、見たことのない化石を発見したそうだ。
時は2002年。
あれ? 思ってたよりも最近だった。彼女が発見した化石、それは体長7メートルを超える海牛では、世界で最も古い貴重なものとなったらしい。やるな、小学生。
春香はぱしゃぱしゃとシャッターを切り、部屋を出る。階段手前を左に折れると、刑事法廷展示室があった。
部屋には臙脂のカーテンが下り、大正時代のもののようなデザインの照明がかかる。説明書きには、大正15年に落成した頃の法定を復元している、とあった。
「へえ。大日本帝国憲法下では、検事は判事と一緒に並んで座っとったんか」
「今はどうだっけ」
「判事が中央で、ハの字とかやないっけ。ドラマとかやと」
正解を確認すべく、グーグル先生に確認する。こういうのはどうせ忘れるにしても、その場で確認するのが楽しい。スマホの画面を、春香ものぞき込む。
現在は、裁判長を真ん中に両脇に裁判官、さらにその両側に三名ずつの裁判員──地方裁判所の場合だが──が並ぶ。大日本帝国憲法下では、判事──今で言う裁判官──三名の横に書記と検事が座る。現在は書記、速記は法壇の下だそう。面白いもので、当時は新聞記者の傍聴席が、通常の傍聴人席の手前側、裁判当事者のエリアに作られている。被告人は法壇正面、証人は左側に立つようになっており、弁護人と被告人は離れた場所にセッティングされているのだ。近代的な司法下とは言え、やはり完全なる公平さというものは、当時の最善ではあったかもしれないが、今と比べるべくはないのであろう。
「ええ時代になった、んやな」
「より良い時代になるようにしないとね」
私たちが生きている間に、先人が勝ち得た公平を失いたくはない。
部屋の奥には裁判官の制服が飾られてある。黒いマントのようなものだ。格好良い。
「少し、日が陰ってきたかな?」
部屋の窓から中庭を臨み、春香がごちた。まだまだ明るいけれど、飛行機を降り立った時には強く輝いていた太陽は、だいぶお疲れの位置に移動している。
見学を終え、階段を上がる。踊り場に縦長に切り取られた窓は、白い桟を持つ。大正建築らしい美しい窓だ。
「ここは札幌軟石を使ってる建物で、全国的にも貴重なんだって」
壁に手を当てている春香に、手元の資料を読み上げる。ふぅん、と返ってきた。
「国の登録有形文化財にも選定されてるらしいよ」
「歴史的な建物や、美的な建物が長く残るのは、ええことやね」
日本は災害大国なので、どうしても古い建物が残りにくい。そうした中で、こういう建物を今でも見られるのはありがたい。
階段を上がりきると、急に人の気配を感じた。右手の部屋の入り口には、何やら受付がある。その先にある扉からは、歌声が聞こえてきた。
「何かあるんですか?」
「ミニ音楽祭ですよ。無料なので、良かったらどうぞ」
その言葉を受け、扉の前の男性がドアを開く。後に引けなくなり、春香と顔を見合わせながら、中へと入っていった。
部屋の中は思っていたよりも広く、百名くらいは座っているのだろうか。
正面の舞台──とは言ってもフラットで、舞台に模してあるだけではあるのだが──では、年を召した男女が入り乱れたグループで、歌を歌っている。それがまた、絶妙な加減なのだ。
下手かと問われれば下手ではない部類。かと言って、格段に上手いわけでもない。
ははぁ、これはどうやら市民グループの発表会なのだ、とようやく気付いた。入って数分で出るわけにもいかず、結局、三曲ほど聞いて抜け出す。そそくさと逃げるように建物から出ると、思わず二人で笑いだしてしまった。
「なかなかに、とんでもない展開だったねぇ」
「ほんまや。また下手やないところが、なぁ」
くたくたと笑い合う。外はもう夕闇が走り回っていた。
「お寿司! お寿司を食べよう! 目当てのお寿司屋はどこにあるん?」
「札幌駅でっす」
「それやったら、散歩がてら歩いて戻ろ。せっかくの大通公園やし」
つい、と指で目の前にまっすぐにのびる道を指す。その行く先の終わりには、さっぽろテレビ塔があった。
「春香……。せっかくなんだけど、テレビ塔までは行かないの」
「え? そうなんか」
「三越あたりで左に折れるの。でもまぁ、そこの通りもきれいみたいよ」
手元のガイドブックを見ながら解説すれば、春香が笑った。
「どうしたよ」
「はとバスのお姉さんみたいや」
「お姉さんって言ってくれてありがとう」
「またそう言う」
「ふふ」
肩を震わせれば、春香も一緒に震わせた。
大通西四と書かれた交差点を左に折れる。ちょうど地下鉄南北線をなぞらえるように通る道は、繁華街だ。逆に向かうと、狸小路商店街があるらしい。
「あ、灯。あれ」
ガラス張りの日本生命ビルと赤れんがテラスの間で、春香が足を止めた。横に並び、彼女の視線を追えば──。
「道庁……だねぇ」
赤レンガが敷き詰められた、まっすぐにのびる道。左手には赤れんがテラス、右手には乳白色のガラスをたたえたオフィスビル。左右に続く木々は花を咲かせ、下からのライトアップで陰影を深めていた。その終着点には、やはり赤レンガでできた、北海道庁旧本庁舎の建物が、威風堂々と聳え立っている。
「きれいやなぁ」
ほう、と溜息が漏れた。
「ん。きれいだね」
私も春香も、一人旅が基本だけれど、こうしてたまに人と旅をすると、ふとした景色への感情を共有することができる。それは、一人で見たときとは違う、心の動きなのだと思う。
「一人で見てもきれいやと思うけど、灯と一緒に見れて良かった」
「うん。そうだね」
吹いてきた風に、二人の髪が揺れる。
「──そうだね」
もう一度、そう返した。
「あっ、あそこやない?」
札幌のJRタワー地下。店の名前が書かれたのぼりが見える。
店の前には一組の客が待っているが、タイミングよく店内から二組出てきた。
「ラッキーやんなぁ。すぐに入れるんやない?」
念のために、リストに名前を記載した。漢字で書くと、私も春香も読み方に一瞬迷う──二人とも、使っている漢字は小学校で習うレベルなのだけれど──が、こういうリストはカタカナで書くので、どちらの名前でも問題はない。そんなわけで、アケダ、と自分の苗字を記載する。
さほど間を開けず、中から店員が現れ、私たちの前の客と私たちを同時に案内してくれる。店内はカウンターとテーブル席、小上がり席に別れており、生憎カウンターとテーブル席が満席なので、と小上がりに案内された。
おまたせしました、と手ぬぐいとお茶が出てきたので、とりあえず生ビールを二つ頼む。しまった。最初から日本酒に行くべきだったか、と思ったけれど、ここは札幌だ。ビールでいくべきだろう。
「ここの店、回転寿司が有名らしいんだけどすごい混むんだって。で、こっちは同じ系列で同じように美味しいのに、比較的空いてるらしいよ。有里氏に教えて貰った」
「確かにすぐに入れたもんね。美味しいんやろう? 楽しみやわ」
手元に届いた生ビールはサッポロ。
「札幌でサッポロを飲む贅沢」
「それに乾杯、やな」
がしゃり、とガラスのジョッキがぶつかり、小さな泡が飛び散る。がぶがぶと喉に通すと、ほろ苦い泡がしゅわりと刺激した。早速とばかりに手元のメニューと壁に貼ってあるお勧めを見つつ、注文票にチェックする。
「このカスベ、ってのなんやろう」
「カスベ……。聞いたことないなぁ」
「せっかくやし、知らないものを頼んでみよう」
「そうだね。ここは日本だから、とんでもないものが、出てくることはないだろうし」
つい最近テレビで見た、地球の反対側の国の食文化を思い出す。きっとあちら側の国からしたら、同じように、日本の食文化は理解しがたいのだろうな。
焼き物、のコーナーにある『一夜干しカスベ』を一つ。炙りえんがわ、はまちに大トロ。
「自慢の活け貝にぎり、やって」
「その辺、こっちの焦がし醤油五貫セットに全部入ってるよ」
「それやったら、このセット二つずつに」
「二つ?」
春香の言葉に、思わず怪訝な顔をしてしまう。
「……喧嘩になるやろう? 私全部食べたいもん。それに灯」
「な、なに?」
「どうせ食べたいのを、どんどん食べるやろ」
「……ハイ。その通りです。全部二つずつでお願いします」
やがて、オーダーしたうちの、寿司のセットが手元に届く。
「焦がし醤油は……大トロ、サーモン、はまち、えんがわ、ホッキ貝。ううーん、どれから食べよ」
「私ははまちやね」
「白いやつから、ってやつかぁ。私もそれから──っ、美味しい。これは……なにじっとこっち見てるの」
「いや、今からグルメトークが始まるのかと」
「それってもう、お米を炊く水から褒めないとなやつじゃないの」
笑いながら、手元に残る半分のはまちを口に運ぶ。香ばしさが鼻を抜けていく。
「美味しいなぁ」
「なぁなぁ、えんがわの脂ののり方すごいわ。ちょっと贅沢すぎやないかな」
ぱくぱくとすすむ。
「番組の途中ですが」
「なんや番組って」
「私はこれから、自慢の活け貝にぎりにも手を出そうと思ってます」
つぶ貝を一口で一気に頬張った。
これは。
──美味しい。
口の中のコリコリとする食感が、脳にまで響くような感覚。新鮮だからこその歯ごたえ。シャリとネタのバランスも最高に良い。
「春香、なに、にやにやしてんのよ」
「いやぁ、灯があんまりにも美味しそうに食べてるから、良かったなぁって」
「なお。春香も相当美味しそうな顔で食べてるよ」
「マジ?」
「マジ」
「それやったら、私たち可愛い同盟やないか」
「それはなかなか良い同盟ね。もちろんリリとミヤが会員ナンバーワンツーだけど」
「それは絶対や」
ふくふくと笑う。お寿司をぺろりと平らげる頃、カスベが届いた。
「これはあれやな」
「うん、あれだね」
見覚えのある形態。一口齧り、確信を得た。
「エイひれ、や」
調べてみると、北海道では下処理したエイひれを、『カスベ』という名称で生のまま販売することが多いらしい。水カスベと真カスベがあり、真カスベの方が肉厚だという。煮付けが一般的だが、から揚げや天ぷらがおいしいらしい。食べてみたい。
「美味しいねぇ」
「これは、白米が欲しくなる味やわぁ。とりあえず……すみませーん。生もう一」
「二杯お願いします!」
十二分に腹が膨れた。〆に、と頼んだ花咲蟹の鉄砲汁が、これまた美味しい。濃厚な蟹の味噌と、花咲蟹の身がたっぷりと入り、胃袋が温まる。
これだけ食べて飲んだというのに、一人約三千円。値段を三度見するほどに破格だ。ビバ北海道。
「弾丸北海道旅としては、ええ旅程やったな」
「うん。こういうの、またしたいね」
「またしよう。私たちは、もう周りの世代に忖度なんてしなくてええんや。やりたいことを、やりたいようにやろう」
札幌駅のホーム。入ってきた電車の風を受けながら、真っ直ぐ前を向いてそう口にする春香に、私は「うん」と消えそうな声で答えた。
梅雨になる前くらいのこの時期は、夕暮れの散歩が楽しい。
週に三日の出社、裏を返せば週に二日はリモートワークだ。定時に仕事を終えれば、そのすぐ後に自由時間が待っている。今までと働き方が随分変わってしまったけれど、転職が決まるまでは、この時間を大切にして乗り切ろう。
多摩川土手までの道をふらふらと歩く。道すがら、白い花が咲いていた。
「ん、なんだろ。この花」
暮れなずむ空に、白い花が映えている。初夏とも言うような緑のむせ返るような匂いが心地良い。
大通りから細道へ入ると、今度はふわりと甘く爽やかな香りが緑の中に混ざった。
「あれ、灯氏」
後ろから声をかけられ振り向けば、有里氏が笑っている。
「こんばんは。ハルカ先生のところに伺うところだったの」
「そうだったのか。そう言えば、なんか言ってたな」
「雑だなぁ」
「そのくらいの方が上手くいくから」
お互いの知らない客が来るときには、一週間前までには伝える。それ以外であれば、気軽にどうぞ。
私たちの共同生活は、そのくらいラフなルールばかりだ。
「いい香りがするね。何の花だろ」
「これは花橘の香りかな」
「花橘。灯氏詳しい」
任せろ。少し前にハマった漫画は、平安ものだ。
「古今和歌集にもあるからね。有里氏も知ってるんじゃないかな」
そうヒントを言えば、彼女もはっとした顔をする。さすが漫画編集部の人間。流行った漫画は抑えてるね。
「五月待つ 花橘の 香をかげば、ですね」
「そうそう。昔の人の 袖の香ぞする」
ふくふくと笑う。耳を立てれば、鳥の声が聞こえる。
「あ。もう時鳥の季節になってたのかぁ」
仕事をしていると、こうした季節の移ろいに気が付かない。
「なんか、日本人って季節に敏感だった筈なのにねぇ」
「有里氏もそう思う?」
「思うよぉ。でっかいビルのワンフロアに押し込められて、窓も開けずに全館空調。バカみたい」
ううん! と両手をあげて伸びをしながらそう言う有里氏は、それから一つ笑った。
「灯氏はもう戻る?」
「ううん。これから散歩の本番。春香と打ち合わせが終わったら、ゆっくりしてってよ」
「ありがと。でも今日は、会社に戻らないとなんだよね。また今度ゆっくりさせて」
「りょ」
仕事に邁進する彼女が、なんだかまぶしく見える。同世代の彼女があんなに仕事を頑張っているのに、なんてうざったいことを一瞬考えたけど、彼女は彼女できっといろいろとあるのだろう。誰もがアンハッピーで、誰もがハッピーなのだ。
有里氏と花と古今和歌集の話をしたからか。
それとも最初に目に付いた白い花を思い出したからか。
今夜はアレを作ろう。
そんなことをふと思いついた。
「ただいいまー。よかった。有里氏まだいた」
居間から顔を出した有里氏が、猫を二匹引き連れて玄関にやってくる。
「会社に戻る必要なくなったので、のんびりしてた」
「それは良かった。夕飯どうする? 食べてく?」
「ピザ頼もうと思っとるんやけど、どうかな」
今度は奥から声だけが聞こえた。リリが足に絡みつくので、引きずりながら中に入る。ミヤは有里氏が抱っこした。
「何か買おてきちゃった?」
「ううん。これは副菜で作りたいものがあったから。良かったら有里氏も少し持って帰って」
「いいの? サンキュ」
手にしていたエコバッグを置くと、何故かリリも足から離れた。あの中に何か良いものが入っていると思っていたのだろうか。残念、何もないのだよ。
「……春香よ」
「おっと、気付いちゃったかね、灯クン」
「気付かないでか」
キッチンに、袋に入った梅がごろんと置かれているのだ。
「もしや……有里氏は」
私の言葉に、彼女はこくりと頷いた。
「ハルカ先生が、梅仕事を手伝ったらネームが早く上がりそうだっていうから」
それは単に、春香が梅仕事をやりたかっただけだろう。しかも、一人でやると飽きるから、仲間を増やそうとしたのだ。去年は私がそれで付き合わされた。
「灯も……やるよね」
「上目遣いで言わなくても。今年は三人でやろ」
去年、実は私も二人でやって途中で飽きたのだ。いや、去年は量を間違えたのだと思う。調子に乗って大量に梅を買い込んできた春香を思い出す。
今年の量を見て、これならまだ……なんて思ってしまった。
「とりあえず、先に副菜作ってからで良い?」
「もちろんや。というより、ピザ食べてからやね」
「では、その副菜作りは私も手伝うよ」
「ありがと。じゃぁ春香はピザのオーダーよろしく。適当でいいから」
春香が店屋物のチラシ入れからピザを出し、選び始めたのを横目に、キッチンに移動した。
大きな鍋にお湯を沸かし、豆腐屋で買ってきた『おから』をそこに入れる。
「へぇ。卯の花って湯がくんだねぇ」
「そうそう。こうすると、臭みが取れるんだって。前にお豆腐屋のおばさんが教えてくれた」
商店街では、ちょこちょことそうした情報を教えて貰える。春香の梅仕事も、そうして商店街で仕入れてきた情報らしい。行く場所や行く時間によって、入ってくる情報がいろいろで面白い。
「来るとき、白い花が咲いてたでしょ」
「うん。すごいきれいだった。あれ、何の花?」
「あれが卯の花なの」
熱湯の中に入れたおからがひと煮立ちしたところで、ザルに布巾を置いて湯切り。軽く水分を残して絞る。
「花は知ってるのに、名前を知らなかったわ」
「なになに、どの花やって?」
注文が終わったらしい春香が、キッチンにやってきた。
「ほら、おかっぱの小学生がいるお家の角曲がった辺りの、白い花」
春香は脳内で再生しているらしく、しばらくして「ああ」と声を上げる。
「へぇ。あの花が卯の花なんや」
「卯の花に似てるから、おからを卯の花って言うんだってさ。さて漫画家のハルカ先生。卯の花は正式には?」
隣にいる有里氏にはにんじんの千切りをお願いする。トントントンと心地よい音が聞こえてきた。
「正解がでなかったので、春香はこの塩抜きアサリを殻から外す仕事に任命します」
すでに塩抜きまでしてくれているアサリが売っているなんて、親切な魚屋だと思う。
「全然やるけど、正解が知りたい」
「はい。正解は『ウツギの花』でっす」
開け放った窓から、風が入ってくる。生ぬるい風だ。エアコンを入れるほど暑くはないので、この風を享受する。
その風と同じタイミングで、鼻歌が聞こえてきた。もちろんすぐ隣からだ。
「春香、その曲」
「歌詞はうろ覚えやけど」
任せろ。その曲は、今やってるソシャゲの推しが、子どもの頃お婆ちゃんに歌って貰った、という設定があったから覚えてるんだ。
卯の花の 匂う垣根に
時鳥 早も来鳴きて
忍音もらす 夏は来ぬ
「良い歌詞だねぇ」
有里氏がしみじみと言う。昔の……唱歌というのかな。こういうのって、日本語がきれいで心地が良い。カラオケとかで歌うようなものじゃないから、なかなか人と共有はできないけど、こういう時に、皆でふいに共有できるのは悪くない。
にんじんときくらげを千切りにしたところで、大きめの鍋にサラダ油を敷いてアサリの剥き身、にんじん、きくらげに卯の花を入れる。
炒めるのは有里氏に任せた。
「しっかり炒めてね。途中でこれを入れて」
出汁に調味料を混ぜたものを手渡す。少し炒めたタイミングで
「今入れて。そうそう。それで、さらさらになったら完成!」
なんて、まるで家庭科の先生のように言う。味噌造りの時と逆だ。
「なぁ。このタコ使ってええ?」
「いいけど。何か作るん?」
「今日、夏至やろ」
そう言われて気付く。夏至だった。まぁ祝日にならないから、あまり気にしないんだけどね。
「灯、今手があいとるなら、大根おろして」
おっと。面倒な仕事がやってきたぞ。
茹でタコをそぎ切りにしている春香を見て、何を作るのか思い出した。初めて同居したときから、夏至の頃になると、春香はいつもこれを作ってくれるのだ。
そぎ切りにしたタコを、春香は調味液に漬ける。大根おろしは少し時間がかかるので、キュウリを切るのまでは春香にお願いしよう。
有里氏は「結構……重労働」なんて呟きながら、卯の花を炒め続けている。
「灯氏、これでどうかな」
「完璧! 素晴らしい! マーベラス!」
「嘘くさい褒め言葉をありがとう」
「いやいや、本当に。そっち側に置いて粗熱落としておこ」
「はぁい」
ご機嫌な返事を貰ってしまった。
私はといえば、大根をおろし終えたので水分を切る。それを春香が作った調味液にタコとキュウリと共に混ぜ合わせる。
「あ! 針生姜作りわすれたわ」
「じゃじゃんっ! 作り置き針生姜!」
春香の言葉に、冷蔵庫にラップしてしまってあった針生姜を取り出す。
「出来る女やんか。いつの間に」
「実は……今日の昼休み、イライラしてたので……」
「怖っ!」
間髪入れずに有里氏が突っ込む。まあイライラを包丁に込める女は怖いわな。
和えたタコをお皿に盛り付けていると、玄関ベルが鳴った。
「あ、私がでまーす」
財布を持った有里氏が玄関に向かう。
「有里さん……ネットで決済済みなんやけど」
春香はそれを見て小声で突っ込むけど、早く言ってあげてよ。
玄関では何やら笑い声がする。きっと、払います貰ってますなんて会話が生じたのだろう。
「ちょうど良いね。できたての卯の花も少し食べよう」
私が器に盛り、それを春香が運ぶ。それと共に、ピザの良い匂いもやってきた。
にゃぁにゃぁと猫達も盛り上がりを見せるが、君達の餌ではないのだよ。
カリカリを出してやれば、不服な顔を見せるけれどそれを食べる。そんな二匹が愛おしくて仕方がない。
「さーっ、食べよう食べよう」
「ピザパやピザパ」
「ピザって一人暮らしだと食べないから、良いわぁ」
全員が揃ったところで、夕飯をスタートした。
*
水洗いした完熟梅のなり口を、爪楊枝で一つずつ取っていくという地道な作業を食後に一時間。全て取り終えたら、ビニール袋に塩と梅を交互に入れて空気を抜く。二重にした袋を冷蔵庫に入れて、六月の梅仕事は終了となる。この次の作業は梅雨明け後だ。
去年、二人でやったときには三時間以上かかったので、今年は早い。やはりマンパワーは力。
三人でぼんやりとベランダから川の方を見ていれば、川辺にほわりとしたかすかな光が見えた。
「あら、もう花火をしてる子がいるんだ」
私の視線の先を、二人が何度か辿り、確認する。
「線香花火かな?」
有里氏は少しだけしかめっ面をする。じっくり見ようと目をこらして、そんな顔になっているらしい。
「蛍みたいやねぇ」
そういえば、とスマホを取り出す。
「何調べてるん?」
「さっきの曲」
「さっきの? あぁ、卯の花の、ってやつやな」
「そう。あれの何番かに、蛍がでてたなぁって」
橘の 薫る軒端の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ
二人は私の手元をのぞき込む。
「意味はなんか良くわからへんけど、きれいやね」
「有里氏、文系でしょ。わからない?」
「そういう灯氏は、推しのネタでしょ」
誰もわからない。
それでも、この言葉の響きが美しいと感じる。
そんな気持ちの余裕を、大切にできる日々を過ごしたい。なんて、考えてしまった。
梅雨明けが思ったより早かった。まるで昨日までの雨が嘘のように、太陽の光がベランダの濡れた手すりを照らし出す。
テレビでは「梅雨明けです!」「夏が来ます!」なんて言いながら、梅雨明け初日の今日の最高気温が33度だなんて表示を出している。今はまだ28度だけど、すぐに気温が上がるだろう。エアコンの試し運転を済ませておいた良かった、なんて思ってしまった。でも、まだ窓の風と扇風機で乗り切りたい。
「エアコンつけるから窓閉めて」
そう思った矢先に、春香から声が掛かる。振り向けばリリとミヤが床にへばりついていた。
おっと。猫達が暑がっているのか。それは良くない。慌てて窓を閉める。
「そろそろ麦茶も用意しないとだねぇ」
「ふふふ。冷蔵庫を見てみたまえ、ワトソン君」
春香の言葉にもしやと冷蔵庫を開ける。
「こっ、これは!」
「昨日のうちに水出し麦茶を仕込んでおいたのだよ、明智君」
ワトソンなのか明智なのか統一はしないのか。
「偉いっ! ありがとうっ!」
二回柏手を打ち、拝む。そんな私の前にミヤをずい、と押し出した。
「リリが背中に乗りたそうやから、ミヤをよろしく」
渡されたミヤを抱き上げ、ソファに座る。はぁ、エアコンの空気が冷たくて猫が熱くて、なんだか最高だ。
「今日はあとで、梅を干そう」
そうだ。梅雨があけたので、梅仕事の続きをしなくては。
「有里氏を呼ぶ?」
「もう連絡しとる。たぶんあと2時間くらいで来る」
「そしたら、三人でランチにしよう。あ、でも何もストックないな」
「それやったら、駅まで有里さん迎えに行ってランチして帰ってこよ」
それは良い。
「ワッフル?」
「そ。ワッフルとプリン。久しぶりに食べに寄ろうよ」
駅近くにあるワッフルの店は、おかずワッフルもある。そしてワッフル屋だというのに、プリンが激うまなのだ。地元って案外外食しないので、こういうときにしれっと行きたい。
「ついでに夕飯の買い物もしないと。必要なもの書き出しとこっか」
そう言って振り返った先にあったのは、床にへばりついた状態の春香と、彼女の頭に登りつめて満足気な、リリの姿だった。
*
「梅は、梅雨が明けた頃に、三日三晩干すんや」
「三日三晩? 夜も?」
有里氏は三つあるエコバッグの一つを手にしながら、階段を春香のあとに上っていく。
「そう。夜も家に下げないんよ」
「その心は?」
「大喜利やないって。夜露に湿らせると、皮がやわらかくなるんやって。ま、ウケウリやけど」
「八百屋の女将さんが、めっちゃ長話で語ってくれたんだっけ?」
以前春香が「面白い話を聞いてきた!」と勢いよく帰ってきたことを思い出す。
「そうそう。ここの商店街の人たち、いろいろ教えてくれてええよね」
言いながら鍵を探すけれど、どうも見つからないらしい。仕方がないので、最後尾にいた私が、先頭に躍り出る。
「ただいまーっ」
エアコンを入れておいた家の中は、涼しい。暑さを感じないせいか、猫達もご機嫌で、にゃぁと声だけは返事をしてくれた。姿は見せてくれないので、寝ていたのだろう。
三人それぞれが猫に声をかけ、冷たい麦茶を飲む。
「青春漫画っぽいよね、麦茶」
「わかるーっ。有里氏そういうの好きそう」
「あれやろ? 扇風機が向こう側にあって、テーブルの上の麦茶のコップの氷がカランって溶けるヤツ」
きゃっきゃと話していれば、楽しそうに感じたのかリリが有里氏の背中に飛び乗る。
「リリちゃぁん。お姉ちゃんが好きなんだよねぇ」
でれでれの顔でリリをおんぶするようにして撫でる有里氏に、私たちはミヤの方を軽く見る。彼はこちらを気にすることなく寝ている。さすが年上だ。
「どうして人は、猫と話すときに声が甘くなるのか」
「それは永遠の謎やなぁ、灯」
リリが飽きてどこかへ行ってしまったので、そろそろ梅仕事を始めることにした。手を洗い、先月漬け込んだ梅をテーブルの上に出す。
「あれ? 赤い」
有里氏が首を傾げる。
「先月ビニール袋に入れた時は、白梅だったと思うんだけど」
「赤紫蘇が八百屋にでた頃に、中にいれたんや」
「ええー見たかったなぁ」
「そう言うかと思とったわ。梅酢と紫蘇を少し別にしとるから、後で実演してみせましょう」
「よっ! 春香大先生っ!」
「灯、ガヤ下手やな」
失礼だな。
少々暑いけれど、ベランダに折りたたみのテーブルを出して三人で並んだ。
テーブルの上には大きなザルを三つ。ここに梅干しを一つずつ置いていく。ガラス窓の向こう側では、二匹が向かい合って寝ていた。尊い。
一緒に漬けてある紫蘇も絞り、並べて干す。
「これはあとで摩り下ろして、ゆかりを作るんだって」
ご飯にのせたところを想像しているのか、有里氏が嬉しそうな顔で笑う。これはお裾分け必須だな。
ビニール袋に入っている梅酢は瓶に入れて、これまた太陽光に当てる。これで消毒になるらしい。良くわからないけど、塩分濃度も高いし、それで十分なのだろう。
青空の下、梅干しが三つのザルに並んでいるだけで、長閑だと感じる。
「ああ、ええ午後やなぁ」
「本当に」
そう応えれば、有里氏も頷いた。
しばらく私たちはそうして、何をするでもなくぼんやりと空を見上げていた。少しだけ酸っぱいような匂いがする、狭いこのベランダで、向こうの方に見える川辺に、子ども達の姿が見えた。
「暑いのにねぇ」
「灯氏、私たちも暑いのにここにいる」
「有里さんの言うことも、もっともや。そろそろエアコンの部屋に戻らん?」
非常に魅力的な提案だ。私たちは即座に従った。梅たちはこれから三日三晩、ここで太陽に晒される。どうか三日の間は、雨が降りませんように。心の中で、そっと祈る。
部屋の中は、エアコンの恵みを体感させてくれるに十二分の状態だった。
麦茶を三人のグラスに足し、ついでに春香が取り分けておいた、赤紫蘇を入れる前の梅酢の入った瓶も冷蔵庫から出す。
「これをボウルに入れて、と」
春香が、まるでマッドサイエンティストのような表情で、キッチンカウンターに立つ。その向かい側に、私と有里氏。
「今は透明やろう? 舐めてみ」
「うわっ! しょっぱい!」
顔中を梅干しみたいにした有里氏は、舌を突き出してひぃひぃ言う。
そう。自家製の梅干しって塩分濃度が高いので、梅酢も酸っぱいというよりも、塩辛いのだ。
「自家製は塩分が多めやからね」
味噌も梅干しも、そしておせちも、自家製は悪くなりにくいように、塩分や糖分を多くして保存するのが昔からの習い。そんなことを知識では知っていても、実際に舌で味わうと、衝撃が走るものだ。
「有里さん、これを塩で洗ってしっかり絞ってくれへん」
少量の赤紫蘇を受け取る。
赤紫蘇と言っても、見た目は緑に紫色が多少混ざる程度のものだ。塩で揉むと、赤というよりも黒に近い液体が出てきた。それをよく水で洗い流す。水分をしっかり切ったところで、春香が受け取った。
「はい、有里さん、よお見といてな」
赤紫蘇を、白い梅酢へといれる。その瞬間。
「えっ」
目を見開く有里氏に、春香は、我が意を得たりといった顔でにこにこしていた。
白い梅酢が、赤紫蘇を入れた途端、鮮やかな赤色に染まったのだ。
「面白いね」
「料理は化学、ってことやんなぁ」
赤紫蘇に含まれるアントシアニン。これが梅酢の酸性に触れて赤色に変色した。そう説明をすれば、有里氏は何度も頷いた。
「ほんと、料理は化学だわ」
しみじみと言う有里氏は、何度も赤く染まった梅酢を見る。
「はい、台所実験室はこれで終いや」
「そしたら、さっき買ってきたビッグシュークリームでも食べよ」
冷蔵庫からスーパーで一つ百円で売っていたそれを三つ出す。二人は、いつの間にかソファでしっかりと待機していた。
「そういえば、灯も大阪来るんやって?」
「そうそう。日帰りで春香のサイン会行こうかと思ったんだけど、ちょうど翌日にイベントが大阪であるから、そこにも参加しようと思って」
「それで最近、夜遅くまで原稿やっとったんか」
イベントとは、同人誌即売会のことだ。よくテレビに出ている、年に2回の所謂コミケとは別に、一年のうちに何度も、いろいろな企業が同人誌の即売会を開催し、私はそれにお金を払って参加している。お金を払って参加、というのは、自分で作った同人誌を頒布するための場所代というわけだ。
「うちに泊まってく?」
春香の実家は大阪の豊中市にある。実は割と実家が太いということは、以前遊びに行ったときに知った。彼女の部屋は十畳くらいあって、家を出た今でもまだ、そのままだった。おかげで、私と有里氏とハツセが三人で泊まっても、全然問題なかった。広いイズすごい。私の実家なんて、マンションなので六畳だし、何ならすでに父が趣味の部屋としてしまっているというのに。
「ん、大丈夫。春香は翌日宝塚観劇でしょ。私と起きる時間が違うと思うから、今回はイベント会場近くのホテル取るよ」
「有里さんは?」
「私は出張費で、会社がお金出してくれるので、ホテルで。プライベートで行くときはお世話になりますぅ」
「りょっかい」
もぐもぐと食べ進めるビッグシュークリームは、思ったよりもクリームの量が多い。
「あ、これハーフアンドハーフや」
「袋に書いてあったよ」
「うせやん」
私の言葉に、春香が袋を確認すると、そこには『ホイップクリームとカスタードクリームのWクリーム』と書かれてある。
「ハーフアンドハーフというより、二倍にばぁい、だったね」
「美味しいからどっちでもええけど」
「それはそう」
エアコンで涼しい室内。甘いシュークリームと、それに合わせるには微妙な麦茶。幸せそうに眠る二匹の猫。
明日は休みで、明後日は仕事。一日あけて、水曜日は有給休暇をとって面接に行く。今度こそ決まると良い。
「ちょっと聞いてください!」
久しぶりに遊びに来たハツセが、到着早々握りこぶしで近寄ってくる。
今日はいつものゆるエスニック服ではなく、白い半袖ブラウスにサーモンピンクのフレアスカート。随分と『女子』っぽい。
「お、オッケー。落ち着いて。春香、麦茶! 麦茶をお出ししてーっ!」
「ほいほい」
「ハツセはとりあえず、手洗いうがいを」
「はっ、そうですね。ごめんなさい」
慌てて洗面所に向かう。うがい手洗い大事。
つい一時間程前に、ハツセから連絡があった。曰く「今から遊びに行きたいのですが、お家にいらっしゃいますか?」だ。私も春香も、暑くて家でゴロゴロしていたので、すぐにOKスタンプを送った。
「さっきは勢い出ちゃいましたが、これ手土産です」
「ありがと」
受け取った紙袋を見て、首を傾げる。
「葉山に行ってきたの?」
「あ、それ横浜のそごうで買いました」
なるほど。横須賀や逗子、葉山をメインに店舗を展開しているプリンのお店だ。早速頂くとしようじゃないか。
保冷剤がたっぷり入っていて、まだ冷たい。
先ほどの勢いはどこへ行ったのか、ハツセは春香と一緒にリリとミヤに声をかけている。
「お持たせのプリンでっす」
アイスティと一緒にテーブルに置けば、二人は一瞬で移動してきた。さすが同級生。仲が良いな。
「喧嘩にならないために、全部同じ味にしました」
「それは賢明やな。いただきます」
皆が半分くらいまで食べたところで、口火を切ることにした。
「で、何があったの?」
ハツセはスプーンを置いて、私たちを見る。
「お見合いしてきたんですが」
「あれ、まだやってたんか」
「失礼ね。まだやってるんですわ」
前回会ったのは四月だから、四ヶ月くらいか。なかなかこれという人には会えないものなのかね。
でもそうか。だから今日の服装は、いつものハツセらしくない服装なのだな。
「そんなに条件は厳しくないと思うのよ。でも、会う人会う人、どうも変な人ばっかり。その中でも、今日はちょっとキツかった」
ハツセの言う条件というのは、年収400万以上で一都三県在住優先、子どもは必須ではなくて良い人で非喫煙者。あとは親と別居、くらいだという。確かに年収1000万の男とか言ってるわけではないし、ハツセは割と顔がかわいい。全然いけるんじゃないかな。
「ちなみに、私は44歳なので、婚活市場では不利中の不利。でも、上も十歳上まで許容してるから……」
「なんで恥ずかしそうに言うのよ。婚活市場での不利有利なんて関係ないでしょ。良い年して若い女じゃないとヤダって言う、子ども大人な男なんて相手にする必要はない」
自分より年下の女性が良いという男性の一つは子どものことだろう。でも、相手の女性が若くても、自分が年いってたら、妊娠リスクは同様にあると知っておくべきなんだよね。子どものこと以外だと、若い女性にマウントとりたい男みたいなのもいる。婚活市場以外でも──たくさんいるんだよね、残念なことに。もちろん素敵な男性もたくさんいるけど。
「うう、心強い。もう、最近変なのばっかで。あ、それで今日はですね!」
プリンを一口飲み込んで、彼女の話の続きを待つ。
「え、横浜駅前のホテルロビーで待ち合わせしたけど、予約してなくて入れないから近くの他のチェーン珈琲店に」
「しかも、僕が案内しますっていう場所が全部混んでそうな店だったから、少し外れた場所にある店を私が案内したの。まあそこまではね。今後のスケジュールは私が立てればいいや、で済ませようと思ったんです。この人計画性ないけど仕事大丈夫? とはおもったけど」
確かに。もしもこれが取引先との打ち合わせだとしたら、大変なことになる。逆に、仕事ではそれができるのに、お見合いではできないというなら、相手を尊重していないということだし。あと、どう考えても駅前のホテルのロビーなんて混んでるだろう。
「それで、アイス珈琲飲みながら話をしたんですけどね。話が……続かないんです」
「続かない?」
「例えば、『旅行お好きって書いてありましたよね』って私が話すと向こうは『はい好きなんです』そこで終わり。それで、続きが返ってこないから、慌てて私が『どこが一番良かったですか?』と聞けば『いや、あんまり行かなくて』って」
旅行は好きだけど、良かった場所が答えられなくて、あまり行かない? いやそれもう、旅行は好きじゃないよね?
「へぇ。面白いやん。マイはそこからどうやって、球を投げたん」
「面白がらない! 『そうなんですね。私は仙台が好きで、青葉城趾や、街中からそこに行くまでのバスから見える川辺の緑が、杜の都って感じで。温泉もあるし、牛タンも美味しいですし、なにより海の幸が良いですよね』って、なんか一言でも返せそうな話題がでないかなと思って投げたんだけど……」
仙台全部盛りって感じね。あと武将の名前と松島が入ってれば完璧だわ。いや、そうじゃなくて。
「それの返事が『ああ、青葉城ね』だけなんですよ」
「それは……きっついなぁ」
一度だけ会う、とか仕事上で会う、だけならなんとかなるだろうけれど、これが結婚相手となると厳しい。初回で緊張していたとしても、初対面の人って最大限に気を遣う相手なのに、それに対してこれだもんね。これ以上良くなるとは思えない。
「なぁ……。四月に聞いたときから思ってたんやけど、お見合いの相手って、皆そんな感じなん?」
それ。私も気になる。会社にいる同世代の男性で、独身の人もここまで酷いのはいない。部署によって、確かに少し口数が少ない人もいるけど、コミュニケーション能力に問題がある人とは会わないんだよね。既婚者、未婚者関係なく、そんな酷いのが集まるものなのだろうか。
「いろんなタイプいますけど……。だいたいこんな感じ」
「マイ、お見合い相手のマイナスSSR引いとるな」
「ゲームのSSRなら大歓迎なのに」
ハツセはため息と共に、手元の残りのプリン半分を食べきる。
「あ。話は続くけど、『図書館は僕の聖地で、ピラミッドみたいにパワーが天井から降ってくるんだ』って人もいたよ。その人、無添加の食品が好きで、なんか聞いたことのない特別なヨガの教師を師事したいからって職場が大宮で、住んでたのも大宮だったのに、わざわざ中目黒に引っ越ししたんだって。職場は大宮のまま」
それはなかなかに、その──変わり者だ。言葉を選んでしまった。
「私が、ホットヨガならやったことありますが、そのヨガは知らなくて、って答えたら、30分間『ホットヨガみたいな一般的なものとは違って、瞑想を重視した』みたいな精神的なお話をされたから、途中で切り上げて帰ったんだけどね」
「正解ね」
アイスティが空になったので、別のお茶を淹れることにする。
「二人は?」
「こないだ、イギリスフェアで買おたやつ、なんやっけ」
「ヨークシャーティね。おっけ。アイスミルクティでいいよね。ハツセもそれで?」
「お願いしまーす!」
ヨークシャーティは、イギリスの家庭には必ずといって良いほどある、一般的かつ安価な紅茶だ。これが、味にコクがあってとても美味しい。それのビスコッティという味が、三越のイギリスフェアみたいなので売っていたので買ってきた。
「えっ、なにこれ。めっちゃ美味しいですね? 私も欲しい」
「たくさん入ってるから何個か持って帰りなよ。あげる」
「それは悪いですよ!」
「プリンのお礼」
「いえ、プリンは私の愚痴を聞いて貰う代金なので!」
「なるほど? まぁじゃぁ今度何か良いことして」
「そうします!」
なんて話していると、春香が何かをテレビにセットし始めた。
「現実の男見るの疲れたやろうし、ここは一つ宝塚でも見て帰った方がええよ」
「気分転換ってやつね。良いじゃん」
「そういえば、私宝塚みたことないや。ハルやユリちゃんが好きなのは知ってるけど」
ハツセの言葉に、春香は俄然やる気が出たらしい。これは、沼に引き込む気満々の顔だ。
そうして始まったDVDに、私たち三人はがっつり夢中になってしまった。
「……すごい」
「せやろ」
「とても美しいし、きれいで……。ねえ、男なんて、いる?」
あ。
これは完璧にハマったな。ちらりと横目で春香を見れば、満面の笑みで両手を広げた。
「ようこそ、宝塚へ」
春香のその言葉に、ハツセは手帳を出していろいろと質問を始める。
「この作品は」「何組?」「チケットは」「ケーブルテレビはうち入ってるけど、番組見れるの?」
ものすごい勢いで質問しては、メモを更新していっていた。
「考えたら、別に私どうしても子ども欲しいわけじゃないし、無理して結婚相手を見つけるよりも、今の仕事頑張って生活を楽しんだ方が良いのかもしれない」
立ち上がり、強く拳を握っている。
え、良いの? なんか一年頑張るとか言ってなかったっけ。でも──
「聞いてる限り、なかなか良さそうなご縁もないしねぇ。子どもがどうしても欲しいなら、続けなよって言うけど、そうじゃないなら、結婚自体は何歳だってできるんだよね」
「ですよね! 灯さんもそう思います? 私、別に一人で行動するのも平気だし、何なら毎週の休みを恋人の為に空けるとか無理かもしれないし」
「……どう考えても、ハツセは恋愛体質じゃないしね」
「私の人生、男が必要な時がきたら、また考えることにします。よし、帰ったら結婚相談所退会して、その会費分で宝塚の公演いくつか観に行こっと」
普段別のオタクをやっていると、ジャンルが変わっても行動が素早いのかもしれない。
「まぁ、ハツセのこの先の人生のことだし、一晩は寝かせてから退会手続きにしなね」
だって勢いは大事だけど、勢いだけで退会したら
「もう一度やりたくなって、入会金また払うのもったいないから」
「それはそう」
春香も、同意した。
大興奮のハツセに、春香が何枚かのDVDを貸し出ししていた。きっと今夜は寝ずに観るのだろう。彼女の決断、一晩寝かせても意味がないかもしれない。
「夕飯まで、うちで食べていく? と言っても、たいしたものないから素麺とかになるけど」
「良いですか? 私今日このまま帰ったら、何も食べないでDVD見続けそうで」
あまりにも容易に想像できてしまい、春香と顔を見合わせて笑った。
「冷蔵庫に、うなぎの残りがあるやろう」
そういえば、うなぎが安くなっていたからと買った気がする。それを食べて……確かに少しだけ残っていた。
「今日は私が作るわ。うざくでええかな」
「うざく?」
「わぁ、懐かしい!」
私とハツセの声が重なる。どうやらハツセには懐かしいものらしいが、私は初めて聞く料理名だ。
「あれ。灯って、うざく食べたことない?」
「そういえば、こっちであんまり見かけないですね」
「それやったら、楽しみにしといて」
どんな調理か気になったので、カウンターから中をのぞき込む。
わずかに残るうなぎを細かく切っていく。おもったより小さめだ。中途半端に残ったキュウリを塩でみがいた後薄切りにして、さらに塩をふりかける。
「春香って、下拵えをちゃんとするよね」
「仕事の大部分は、下拵えで決まるんだな、ってここ数年気付いたんや」
そう言えば、春香はプロットに時間をものすごく割く。そういうことなのか。
酢と砂糖を合わせたものを火にかける。
「少し冷ましておいて、そのあいだに素麺を……。あ、梅干しプリーズ」
「おっけ」
塩でしんなりしたキュウリを洗った後、煮立てた酢を少しかけて洗う。酢洗いだ。
「前に出汁で洗うやつやったけど、それみたいなもんやな」
隣で一緒に見ているハツセが首を傾げたので、解説が入った。
「水っぽくならなくて良いんだって」
「料理って奥深いー」
たいして思ってなさそうな軽さで、大変よろしい。
絞ったキュウリに少しの合わせ酢をかけたあとに、うなぎを混ぜる。皿に盛り付けて残りの酢をかけ、白ごまをふりかけていく。ほんの数センチ余っていたうなぎが、随分なご馳走になった。
「なんで素麺茹でてる鍋に、梅干しを? 味付け?」
熱湯に素麺と一緒に、梅干しを放り込んだ春香の行動が不思議だったらしい。
「こうすると、吹きこぼれへんの。理由はなんか聞いたけど、忘れた」
素麺はあっという間に茹で上がる。水でしっかりと洗った後、氷水に入れた。
「今日は素麺も、関西風だねぇ」
皿を受け取った私は、テーブルに置きながらそう言う。素麺を見たハツセは、少しだけ懐かしそうな表情を浮かべた。
「高校の頃、ハルちゃんの家にいって、お昼ごちそうになったときにびっくりしたなぁ」
「素麺?」
「そう。『なんで氷水に入ってんの?』って」
私も春香と初めての夏を迎えた──語弊がある──ときには驚いた。
「西と東で、素麺の処理が違うなんて、SNSやインターネットのないあの時代、知りようもなかったもんなぁ」
東では水を切って皿に盛る。西では氷水に浮かべる。どちらも美味しい。
私たちは、くたくたと笑いながら、素麺をちゅるりとすすった。
特売、大正海老。
その文字を見つけ、特に何を作ろうと思ったわけでもないが、ふらりとカゴに入れてしまった。さてどうするか、と思えばすぐ近くに『今夜のおかず』などと一瞬誤解を招きそうな言い回しが書かれたチラシが置いてある。
「海老団子の餡かけかぁ。悪くないかも」
今夜のメニューは決まった。同じチラシに春雨サラダのレシピもあり、どうせならば豪勢な夕飯にしてやろうかと、書かれているものをカゴに追加していく。
「入れちゃったけど、春香これでいいかな」
スーパーに併設のドラッグストアに用があるから、と入り口で別れた。すぐに合流するだろうし、しばらく他の商品でも見ているか。
フルーツ売り場で、キウイを買うか、グレープフルーツを買うか迷っていると、すぐに春香がやってきた。
「買えた?」
「ん。欲しいのあった」
どうやらシャンプーらしい。
「なんでシャンプーとコンディショナーって、同じタイミングでなくならへんのやろ」
それは私も思う。違う商品にスイッチしたくても、同じタイミングでなくなってくれないと、変更しづらい。
はっ! もしやそれがメーカーの狙いか? スイッチさせないための……。いやまぁ、そんなことはないか。
「ねぇ、これ美味しそうじゃない?」
「ええねぇ。豪勢な夕飯になるやん」
同じことを考えてるじゃないか。
「酒も必要やな」
今日はビールよりチューハイかな、などと言いながらカロリーオフのものを選ぶ春香に、私も横から『いちご&ミルクハイ』といういちごミルクのような愛らしいパッケージのものを手に取った。
「それ、合うん?」
「……確かに」
今夜のメニューには合わないかもしれない。とりあえず美味しそうなのでこれはキープしつつ、もう一本。これで良い。春香も追加で二本ほどカゴに入れていた。
帰り道、土手際を歩いていると目に入るものが。
「春香、ハサミかカッター持ってる?」
「なんで持っとると思うんや」
言いながら出してきているじゃないの。
「今日、打ち合わせのあとに合流したから、持ってそうだなって思ってね」
ハサミを受け取りながら、土手にあがる。
「灯?」
「今日、何の日か知ってる?」
目の前に生い茂り、風に揺れる草に手を伸ばしながらそう問えば、春香は笑う。
「十五夜やね」
十五夜に海老が正解かといわれたら、どうだろうと答えるけれど、団子にするのだから良いだろう。甘さはないけれど、そこはまぁ許されたい。
顔がうずもれるほどのふわふわのススキを手に帰宅したら、猫達が大興奮だった。ボロボロにされたら困るので、洗面所に一度避難しておく。
「あれ。そういえば、ススキって水に入れるべきかな。入れなくても良いのかな」
いかにも切り花です、という顔をしているわけでもないので、不要な気もする。どうだろう。
こんなときには、そう──
「オッケーグーグル」
すぐにグーグル先生が教えてくれた。ありがたい。
ススキの根本を切って、その根本を酢に一分漬ける。その後水の入った花瓶に入れればOKで、くっついてる葉っぱはとったほうがいいらしい。正直なことを言うと、存外面倒だ。とはいえ、せっかく調べたので、グーグル先生の言うとおりに、茎に沿っている葉をとりはずし、処理をした。水に入れて暫く経つと、心なしかシャッキリとしたような気がする。
「殻剥き始めとる」
キッチンに行くと、すでに海老の腹を3回に分けて、きれいにぺろりんと剥がされた殻がまとめられていた。
「んじゃこれ炒めるね」
海老の殻は炒った後に出汁をとる予定だ。
その間に、春香が背わたを取る。
「この背わたがするんと取れると、気持ちええのよ」
「取れないと、ちょっと悔しい」
「それもわかる。あ、見てや。これちょっと長い!」
するりときれいに抜けた背わたを見せてくる春香に、とったおもちゃの獲物を見せに来るリリを思い出してしまう。猫みたいだ。
「剥いたら塩水と片栗粉で洗う、っと」
私がひたすら海老の殻を炒めている間に、春香は小さじ一杯を海老を入れたボウルにふりかけ、粘りが出るまで揉み込む。片栗粉、水をさらに加えて揉み込んでいくと、汚れが浮いてきた。
「手がかかるけど、きれいにとれるんだねぇ」
「ほんまに。こっちの手の方をどうにかしたいわ」
手にべっとりと付いた片栗粉を見せる。これ、きれいに落ちないんだよねぇ。わかるわぁ。
とりあえず、海老を優先して洗い流し、キッチンペーパーで水気を拭き取る。
「……すり鉢で擦るってあるんやけど、面倒やし、フープロでええかな」
正月に伊達巻を作る時に使ったことを思い出す。あれは本当に面倒だった。
「うん。フードプロセッサー使おうよ」
プラスチックの器に海老を入れる。あっという間に細かくなった。楽で良いよね、本当。文明の利器は積極的に使わないと。
「それをボウルに移して調味料。粘りが出るまで混ぜる?」
「なんで疑問系なのよ」
店で貰ったレシピを見ながら、小首を傾げている。
「いや……粘りなんて出るんやろうか」
春香の手がボウルの中に入る。しばらく捏ねていると、確かに粘りが出てきた。食材というのは不思議なものだ。
「ほんで次は? 今手がこんなやから」
べとべとの手で、指を開いてみせる。指と指の間に、ねっとりとした糸が伸びる。
「ホラー映画じゃん」
「ホラーは家庭から始めると怖いやんな」
ふくふくと笑い合いながら、次のステップを確認した。
「叩いて空気を抜いたらお団子状にまるめるみたい。あ、このあと揚げから、油用意するね」
揚げ油のその後の処理を考えて、小さめの鍋に少量の油を入れる。その間に春香は、まるでハンバーグを作るときのように、捏ねては叩いて空気を抜いていた。
「あ」
「あ?」
「そうか。ハンバーグやって捏ねると粘るもんね」
「今その話なん。でもまぁ灯の言うとおりやね。字面だけで見ると、そういうのと結びつかない」
うん、と頷きながら、油の様子を見る。
「さっきの空気を抜く前までで蒸したら、かまぼこになるんだって!」
「へぇ。それはそれで今度試してみたいわ。面白そうやない?」
だんだんと実験のようになってきたけれど、今年の年末にやってみるのも悪くない。
菜箸を油に入れれば、細かい泡がぷくぷくと絶え間なくでてくる。
「そろそろかな」
揚げる担当になり、春香には隣で甘酢ソースを作ってもらう。揚げた後はこのソースに絡めるらしい。
「ひと煮立ち、と。とろみがでたから、あとはここにその団子いれればええよ」
「オーケー」
揚げた団子をぽいぽいと春香の手元の鍋に移していく。全て移し終えたら、春香にバトンタッチ。
次は春雨サラダだ。ポットでお湯を沸かし、春雨を入れたボウルへ。熱湯につけて柔らかくなった春雨を切っていく。柔らかくしている間に調味液を作り、キュウリをななめの千切りにする。
キュウリと焼豚、レタスを千切りにして春雨と共にボウルへ。そこへ調味液を混ぜて完成だ。なかなか良いのではないだろうか。
「春香の方はどう」
「満点! お皿出せる?」
「ウイ」
「なんでフランス人」
「料理ぽいから」
「雑でええな」
炬燵テーブルを窓側に移動する。その上にススキを置き、窓を開けた。網戸はきちんと閉めてある。
テーブルに料理を並べて、キンキンに冷えているチューハイを出した。
カシン、と缶をぶつけて乾杯をする。
「ハッピームーンビューイング」
「なんでハロウィンみたいに言うん」
「ちょうど良いかな、って」
「何がちょうどええかわからんけど、まぁ月がきれいやからハッピーや」
窓の外には、東側の空にきれいな月が見える。
「ええ月やなぁ」
しみじみと月を見上げ──ながら海老団子を口に運ぶ。私もすぐに後を追った。
「っ、んーっ! 美味しい!」
「ええ団子やなぁ」
月と団子はやはり同列か。
「花より団子?」
「月も団子も、や」
ひょいぱくと春香が口に運べば、私もひょいぱくと口に運ぶ。そうして、あっという間に食べ終わってしまった。
春雨サラダは、酒の肴だ。
「アイラブユーを、月が綺麗ですねと訳したんやったら」
「漱石?」
突然の鉄板ネタがやってきた。
「そ。最近またSNSで話題になっとったから。だいたい年イチ、この時期に話題になるんよ」
チューハイを一口飲みながら、春香は暫し月を見て考える。
「灯なら、月が綺麗ですね、をどういう意味に受け取る?」
「愛してます、ではなくて、ってことよね」
「ん」
私もチューハイを飲む。『いちご&ミルクハイ』は思ったより甘くなかった。そう。月はどこから見ても綺麗だけれど。
「同じところから見る空も、悪くない。──かな?」
「ふ。それは、なかなかええな」
にゃぁ、と近寄ってきたミヤを抱えて空を見上げると、少し雲がかかってきた。
「月に叢雲」
「花に風、やっけ」
「そ。なーんか、私たち世代の人生みたい」
「やったら、このあとが叢雲からも風からも逃れるターンかもしれんやろう」
ごろりと後ろに倒れ込む。クッションが腰に当たり、頭が下がる。見上げると、春香の笑っている顔が見えた。
ぬ、とリリが私の鼻先を舐める。ざらりとした感触が気持ち良い。
「そだね。こんなに綺麗な月を見れたし、良いことがやってくるね」
リリの首元を撫でると、幸せそうな声を出す。
「ええことばっかりや」
「うん」
少なくとも、今日も明日も、猫がかわいい。