「五月の北海道って初めてかも」
羽田空港第二ターミナルから飛び立つ青い翼は、そわそわした私の心を落ち着かせることなく滑走路に到着した。
「長かった……。まさかドアが閉まってから20分も待機とは思わんやろう」
隣に座る春香は、手元の文庫本を読み終えてしまったようで、少々手持ち無沙汰になっている。
五月の連休明け。有給休暇をバンバン使うことに決めた私は、平日に春香を誘って日帰り弾丸の北海道旅を決行した。しかも、弾丸と言いながらゆっくり出立するという贅沢ぶり。朝早い飛行機の空きがなかっただけなんだけど。
「灯は北海道は行ったことあるんやっけ」
「函館の方にね。幕末好きだから、土方歳三追いかけて北上する旅を何度もしてて。あ、私が好きなのは土方さんの小姓をしてた市む」
「あ、オーケー大丈夫やから」
「オーケーで大丈夫ってことは、聞きたいという」
「何という押し売り!」
もちろん断られていることくらい、わかっている。
ガタガタと揺れる勢いが強くなってきた。
「離陸する」
私の言葉と同時に、体がふわりと浮く感覚。そしてかかる重力。
「ジーがかかっとる!」
嬉しそうに言うなって。
そこから約一時間半かけて、北の大地、新千歳空港に到着した。離陸した後の機長の挨拶では、少し揺れるかもしれないという案内があったけれど、実際はそんなこともなく、安定したフライトで、快適な空の旅だった。
新千歳空港からはJRで札幌まで向かう。三十分ちょっとで到着したそこは、北の中心地。
「おおお! やったねやったね。美味しいものを食べよう」
「ええねぇ。北海道と言えばお寿司。回転寿司でも美味しいんやろ?」
「と、いう情報であります! ただ」
「ただ?」
「夕飯で食べたくない?」
「確かに。羽田で軽くランチも取っちゃったし」
そう。出立が正午すぎだったので、羽田でランチをしたのだ。
「と言うわけで、先ずは甘いもの!」
手元のガイドブックを広げ、目指すは西コンコース南口。西なのか南なのかはっきりしろ、というツッコミは、東京都西東京市東という住所を持っている都民が言うべきではないだろう。
大丸札幌店の地下にあるカフェに向かう。タイミングよく二人席が空いていたので、すぐにオーダーができた。ラッキー。
「いやぁ、やはり日頃の行いが」
「ええか?」
「それなりに……。週に三日会社に行ってるし」
「それは偉いと思う」
うんうん、と頷く春香は、私が会社に行くときにはまだ夢の中だ。彼女は夜型ではないけれど、朝が早いわけでもない。
「転職活動は」
「まぁ……。やっぱりなかなか上手くいかないよねぇ、47歳」
あれだけしんどい思いを耐えてきたんだから、このくらい乗り越えれば良いじゃない、と思う自分は、いるにはいた。でも、それを乗り越えようと思う気持ちがあまり起きないのだ。とりあえず転職活動をして、成功してもしなくてもチャレンジをするだけしよう。そう思って先月末くらいから動き始めたけれど、なかなか上手くいかない。
「甘いもの食べて、また頑張ればええよ。この年になると、昔頑張れたことなんて、もう頑張れへんって」
その通りだ。もう、若い頃のようにナニクソと思うこともできない。
「そだね。とりあえず」
「そう、とりあえずや」
メニューに目を落とす。
「こだわりブリュレロールだって。大丸限定かぁ。食べないとだわ。春香は?」
「チョコレートパフェ一択」
「うわ、これもめっちゃ美味しそう」
「やろ?」
メニューにあるチョコレートパフェの写真には、コーンフレーク、カスタードクリームの層の上に小さく、けれど赤くて甘そうなイチゴがのり、さらにチョコレートアイスとソフトクリーム。そこにはチョコレートソースがかかって今にもとろけてしまいそうだ。リーフパイとメレンゲの飾りもつき、美味しそうという感想以外持てない絵面に参ってしまう。
「うーん。でも限定……。あっ、そうか」
春香も私を見る。
「半分ずっこや」
「交渉成立」
ぱしり、と手をたたき、店員を呼ぶ。それぞれをデザートセットにし、珈琲を付けてもらった。
5分と待たないうちに、デザートセットがテーブルに届く。私のオーダーしたこだわりブリュレロールは、表面がなにやらキラキラしていて美しい。
「いただきます」
さくり。フォークをさしこめば、ロールケーキの表側がわずかにパシリと抵抗を見せる。なるほど。キラキラして見えたのは、キャラメリゼらしい。
キャラメリゼとは、砂糖などの糖類が酸化する時に起きる現象のことで、料理に於いては、香ばしさを出すためにバーナーなどで炙って焦がす作業のことを指すそうだ。メニューに書かれていたので、調べてみた。ウィキペディアは便利だ。
その表面を突破したフォークの先は、ロールケーキの中央へと届き、一口大にカットされていく。ぱくりと口に含めば、甘くて苦いキャラメルの香りが鼻を抜けた。
「うっ、ま」
思わずとろりとした瞳になってしまうほどの、美味しさ。ロールケーキの生地はしっとりとしていて、中のクリームは生クリームとカスタードクリームのダブル。思わず箸、ならぬフォークが進んでしまうのはしかたがないと思う。
「ほんまや。めっちゃ美味しい」
私のを逆側から食べていた春香は、目をとろりと細めた。猫のような瞳だ。あ、ちなみにうちの猫たちは有里氏が預かってくれている。安心だ。
今度は春香が頼んだチョコレートパフェ。シェアすることを伝えていたので、スプーンとフォークはそれぞれ二人分ずつ用意して貰えた。
柄の長いスプーンに、コーンフレークだのアイスだのをのせて口元に持ってくる。はくりとそれを咥えこめば、口の中がひんやりとした。コーンフレークのカリカリとした歯ごたえに、チョコレートアイスの少しビターな冷たさ。イチゴは僅かに甘酸っぱくアクセントになっている。
「これも美味しいねぇ」
「半分こにして正解や」
ひとしきりデザートを食べ終え、ゆっくりと珈琲を飲む。甘い口に珈琲の苦さが入ると、まだ何か胃に入りそうな気がするから恐ろしい。満腹ですよ、と胃は言っている……筈なのに。
ガイドブックを広げ、次の目的地を選ぶ。ぱらぱらとめくっていると
「あ、ここ行ってみたい」
春香が指をさした。札幌市資料館、と書かれたそのページには、石造りの重厚な建物の写真が写っている。
「良いね。春香今やってる連載で使えそうな資料にもなるし。私も、最近ハマってる小説の舞台設定が明治時代だから、こういう建物とか参考になりそう」
顔を見合わせて頷く。
店を出て、地下鉄さっぽろ駅で南北線に乗る。大通公園駅で乗り換え、東西線で西11丁目。駅を降りてすぐ目の前に、灰褐色をした石造りの建物が飛び込んできた。通りを挟んだ先、まるで大通公園の終着点のように聳えるそれが、札幌市資料館。
東京では新緑の季節と言われる五月だけれど、ここ北海道では冬が明けたばかりの、所謂春先。咲いている花は、東京では終わってしまったチューリップに桜、それにコブシにライラック。溢れんばかりの香りが、空気の中に溶け込んでいた。
「青臭い匂いなんて、一切しないんだねぇ」
「花の香りで気持ちがええな」
大の大人が、二人揃ってくんくんと鼻を鳴らすように匂いを嗅いでいるのは、さぞや様子がおかしくみえただろう。途中で気付き、二人で鼻歌交じりに空を見上げた。青空に、ソメイヨシノが美しい。
ぐるり、一転建物の方へと目を遣る。見上げたファサードには『札幌控訴院』と掘られてあった。
「裁判所やったんか」
同じ表示を見つけたらしい。
「昔はそうだったみたい。控訴院、今の高等裁判所、だって」
ガイドブックを見ながら、答える。そうして、その文字の上を指さす。
「アレも要チェックだって」
そこには、目隠しされた女神の顔が。文字の左右には秤と剣。女神はギリシア神話に登場する、法の女神テミス。共に描かれている秤は、無論公平を、剣は正義を表す。何れもテミスのアトリビュートでもあるそうだ。
「へぇ。こういうのって、昔の建物の方が凝っとるよね」
「江戸時代の看板とか?」
「そうそう。十三屋と書いてあったりするやつや」
「それなんだっけ……。えぇと」
「ヒント、足し算」
「あっ! 櫛屋だ」
「大正解」
ふふふ、と笑いあい、ギイと重い音を立てて扉を開く。館内は静かで、赤い絨毯だけが、私たちを出迎えてくれた。因みに、入館無料だ。
「誰もおらんのかな」
赤い絨毯が敷かれているとは言え、館内はどこか殺風景さを感じる。まるで学校の廊下のようだった。入って右手に進めば、正面に『刑事法廷展示室』と書かれた通路が。その奥は階段になっている。だが。
「ねね。まちの歴史展示室、だって」
学校の廊下のように感じた原因の一つ、クラス番号を記載するような廊下に飛び出したプレートに、『まちの歴史展示室』と表示がされてあった。
その土地の博物館というものは面白い。住んでいない場所では知ることのない、書物には載っていない情報や歴史を、知ることができるからだ。通路右手にある扉を中へ進むと、まさに教室然とした広さの部屋が広がっていた。
「なんやこの骨格標本は──恐竜やろうか」
目の前に現れたのは恐竜のような形の、骨格標本。勿論レプリカだろう。置かれた説明板には『海牛発見!!』と書かれてあった。サッポロカイギュウという種らしく、札幌市内を流れる、豊平川から見つかったらしい。しかもそれを見つけたのは、当時小学五年生だった女の子。いつも遊ぶ川で、見たことのない化石を発見したそうだ。
時は2002年。
あれ? 思ってたよりも最近だった。彼女が発見した化石、それは体長7メートルを超える海牛では、世界で最も古い貴重なものとなったらしい。やるな、小学生。
春香はぱしゃぱしゃとシャッターを切り、部屋を出る。階段手前を左に折れると、刑事法廷展示室があった。
部屋には臙脂のカーテンが下り、大正時代のもののようなデザインの照明がかかる。説明書きには、大正15年に落成した頃の法定を復元している、とあった。
「へえ。大日本帝国憲法下では、検事は判事と一緒に並んで座っとったんか」
「今はどうだっけ」
「判事が中央で、ハの字とかやないっけ。ドラマとかやと」
正解を確認すべく、グーグル先生に確認する。こういうのはどうせ忘れるにしても、その場で確認するのが楽しい。スマホの画面を、春香ものぞき込む。
現在は、裁判長を真ん中に両脇に裁判官、さらにその両側に三名ずつの裁判員──地方裁判所の場合だが──が並ぶ。大日本帝国憲法下では、判事──今で言う裁判官──三名の横に書記と検事が座る。現在は書記、速記は法壇の下だそう。面白いもので、当時は新聞記者の傍聴席が、通常の傍聴人席の手前側、裁判当事者のエリアに作られている。被告人は法壇正面、証人は左側に立つようになっており、弁護人と被告人は離れた場所にセッティングされているのだ。近代的な司法下とは言え、やはり完全なる公平さというものは、当時の最善ではあったかもしれないが、今と比べるべくはないのであろう。
「ええ時代になった、んやな」
「より良い時代になるようにしないとね」
私たちが生きている間に、先人が勝ち得た公平を失いたくはない。
部屋の奥には裁判官の制服が飾られてある。黒いマントのようなものだ。格好良い。
「少し、日が陰ってきたかな?」
部屋の窓から中庭を臨み、春香がごちた。まだまだ明るいけれど、飛行機を降り立った時には強く輝いていた太陽は、だいぶお疲れの位置に移動している。
見学を終え、階段を上がる。踊り場に縦長に切り取られた窓は、白い桟を持つ。大正建築らしい美しい窓だ。
「ここは札幌軟石を使ってる建物で、全国的にも貴重なんだって」
壁に手を当てている春香に、手元の資料を読み上げる。ふぅん、と返ってきた。
「国の登録有形文化財にも選定されてるらしいよ」
「歴史的な建物や、美的な建物が長く残るのは、ええことやね」
日本は災害大国なので、どうしても古い建物が残りにくい。そうした中で、こういう建物を今でも見られるのはありがたい。
階段を上がりきると、急に人の気配を感じた。右手の部屋の入り口には、何やら受付がある。その先にある扉からは、歌声が聞こえてきた。
「何かあるんですか?」
「ミニ音楽祭ですよ。無料なので、良かったらどうぞ」
その言葉を受け、扉の前の男性がドアを開く。後に引けなくなり、春香と顔を見合わせながら、中へと入っていった。
部屋の中は思っていたよりも広く、百名くらいは座っているのだろうか。
正面の舞台──とは言ってもフラットで、舞台に模してあるだけではあるのだが──では、年を召した男女が入り乱れたグループで、歌を歌っている。それがまた、絶妙な加減なのだ。
下手かと問われれば下手ではない部類。かと言って、格段に上手いわけでもない。
ははぁ、これはどうやら市民グループの発表会なのだ、とようやく気付いた。入って数分で出るわけにもいかず、結局、三曲ほど聞いて抜け出す。そそくさと逃げるように建物から出ると、思わず二人で笑いだしてしまった。
「なかなかに、とんでもない展開だったねぇ」
「ほんまや。また下手やないところが、なぁ」
くたくたと笑い合う。外はもう夕闇が走り回っていた。
「お寿司! お寿司を食べよう! 目当てのお寿司屋はどこにあるん?」
「札幌駅でっす」
「それやったら、散歩がてら歩いて戻ろ。せっかくの大通公園やし」
つい、と指で目の前にまっすぐにのびる道を指す。その行く先の終わりには、さっぽろテレビ塔があった。
「春香……。せっかくなんだけど、テレビ塔までは行かないの」
「え? そうなんか」
「三越あたりで左に折れるの。でもまぁ、そこの通りもきれいみたいよ」
手元のガイドブックを見ながら解説すれば、春香が笑った。
「どうしたよ」
「はとバスのお姉さんみたいや」
「お姉さんって言ってくれてありがとう」
「またそう言う」
「ふふ」
肩を震わせれば、春香も一緒に震わせた。
大通西四と書かれた交差点を左に折れる。ちょうど地下鉄南北線をなぞらえるように通る道は、繁華街だ。逆に向かうと、狸小路商店街があるらしい。
「あ、灯。あれ」
ガラス張りの日本生命ビルと赤れんがテラスの間で、春香が足を止めた。横に並び、彼女の視線を追えば──。
「道庁……だねぇ」
赤レンガが敷き詰められた、まっすぐにのびる道。左手には赤れんがテラス、右手には乳白色のガラスをたたえたオフィスビル。左右に続く木々は花を咲かせ、下からのライトアップで陰影を深めていた。その終着点には、やはり赤レンガでできた、北海道庁旧本庁舎の建物が、威風堂々と聳え立っている。
「きれいやなぁ」
ほう、と溜息が漏れた。
「ん。きれいだね」
私も春香も、一人旅が基本だけれど、こうしてたまに人と旅をすると、ふとした景色への感情を共有することができる。それは、一人で見たときとは違う、心の動きなのだと思う。
「一人で見てもきれいやと思うけど、灯と一緒に見れて良かった」
「うん。そうだね」
吹いてきた風に、二人の髪が揺れる。
「──そうだね」
もう一度、そう返した。
羽田空港第二ターミナルから飛び立つ青い翼は、そわそわした私の心を落ち着かせることなく滑走路に到着した。
「長かった……。まさかドアが閉まってから20分も待機とは思わんやろう」
隣に座る春香は、手元の文庫本を読み終えてしまったようで、少々手持ち無沙汰になっている。
五月の連休明け。有給休暇をバンバン使うことに決めた私は、平日に春香を誘って日帰り弾丸の北海道旅を決行した。しかも、弾丸と言いながらゆっくり出立するという贅沢ぶり。朝早い飛行機の空きがなかっただけなんだけど。
「灯は北海道は行ったことあるんやっけ」
「函館の方にね。幕末好きだから、土方歳三追いかけて北上する旅を何度もしてて。あ、私が好きなのは土方さんの小姓をしてた市む」
「あ、オーケー大丈夫やから」
「オーケーで大丈夫ってことは、聞きたいという」
「何という押し売り!」
もちろん断られていることくらい、わかっている。
ガタガタと揺れる勢いが強くなってきた。
「離陸する」
私の言葉と同時に、体がふわりと浮く感覚。そしてかかる重力。
「ジーがかかっとる!」
嬉しそうに言うなって。
そこから約一時間半かけて、北の大地、新千歳空港に到着した。離陸した後の機長の挨拶では、少し揺れるかもしれないという案内があったけれど、実際はそんなこともなく、安定したフライトで、快適な空の旅だった。
新千歳空港からはJRで札幌まで向かう。三十分ちょっとで到着したそこは、北の中心地。
「おおお! やったねやったね。美味しいものを食べよう」
「ええねぇ。北海道と言えばお寿司。回転寿司でも美味しいんやろ?」
「と、いう情報であります! ただ」
「ただ?」
「夕飯で食べたくない?」
「確かに。羽田で軽くランチも取っちゃったし」
そう。出立が正午すぎだったので、羽田でランチをしたのだ。
「と言うわけで、先ずは甘いもの!」
手元のガイドブックを広げ、目指すは西コンコース南口。西なのか南なのかはっきりしろ、というツッコミは、東京都西東京市東という住所を持っている都民が言うべきではないだろう。
大丸札幌店の地下にあるカフェに向かう。タイミングよく二人席が空いていたので、すぐにオーダーができた。ラッキー。
「いやぁ、やはり日頃の行いが」
「ええか?」
「それなりに……。週に三日会社に行ってるし」
「それは偉いと思う」
うんうん、と頷く春香は、私が会社に行くときにはまだ夢の中だ。彼女は夜型ではないけれど、朝が早いわけでもない。
「転職活動は」
「まぁ……。やっぱりなかなか上手くいかないよねぇ、47歳」
あれだけしんどい思いを耐えてきたんだから、このくらい乗り越えれば良いじゃない、と思う自分は、いるにはいた。でも、それを乗り越えようと思う気持ちがあまり起きないのだ。とりあえず転職活動をして、成功してもしなくてもチャレンジをするだけしよう。そう思って先月末くらいから動き始めたけれど、なかなか上手くいかない。
「甘いもの食べて、また頑張ればええよ。この年になると、昔頑張れたことなんて、もう頑張れへんって」
その通りだ。もう、若い頃のようにナニクソと思うこともできない。
「そだね。とりあえず」
「そう、とりあえずや」
メニューに目を落とす。
「こだわりブリュレロールだって。大丸限定かぁ。食べないとだわ。春香は?」
「チョコレートパフェ一択」
「うわ、これもめっちゃ美味しそう」
「やろ?」
メニューにあるチョコレートパフェの写真には、コーンフレーク、カスタードクリームの層の上に小さく、けれど赤くて甘そうなイチゴがのり、さらにチョコレートアイスとソフトクリーム。そこにはチョコレートソースがかかって今にもとろけてしまいそうだ。リーフパイとメレンゲの飾りもつき、美味しそうという感想以外持てない絵面に参ってしまう。
「うーん。でも限定……。あっ、そうか」
春香も私を見る。
「半分ずっこや」
「交渉成立」
ぱしり、と手をたたき、店員を呼ぶ。それぞれをデザートセットにし、珈琲を付けてもらった。
5分と待たないうちに、デザートセットがテーブルに届く。私のオーダーしたこだわりブリュレロールは、表面がなにやらキラキラしていて美しい。
「いただきます」
さくり。フォークをさしこめば、ロールケーキの表側がわずかにパシリと抵抗を見せる。なるほど。キラキラして見えたのは、キャラメリゼらしい。
キャラメリゼとは、砂糖などの糖類が酸化する時に起きる現象のことで、料理に於いては、香ばしさを出すためにバーナーなどで炙って焦がす作業のことを指すそうだ。メニューに書かれていたので、調べてみた。ウィキペディアは便利だ。
その表面を突破したフォークの先は、ロールケーキの中央へと届き、一口大にカットされていく。ぱくりと口に含めば、甘くて苦いキャラメルの香りが鼻を抜けた。
「うっ、ま」
思わずとろりとした瞳になってしまうほどの、美味しさ。ロールケーキの生地はしっとりとしていて、中のクリームは生クリームとカスタードクリームのダブル。思わず箸、ならぬフォークが進んでしまうのはしかたがないと思う。
「ほんまや。めっちゃ美味しい」
私のを逆側から食べていた春香は、目をとろりと細めた。猫のような瞳だ。あ、ちなみにうちの猫たちは有里氏が預かってくれている。安心だ。
今度は春香が頼んだチョコレートパフェ。シェアすることを伝えていたので、スプーンとフォークはそれぞれ二人分ずつ用意して貰えた。
柄の長いスプーンに、コーンフレークだのアイスだのをのせて口元に持ってくる。はくりとそれを咥えこめば、口の中がひんやりとした。コーンフレークのカリカリとした歯ごたえに、チョコレートアイスの少しビターな冷たさ。イチゴは僅かに甘酸っぱくアクセントになっている。
「これも美味しいねぇ」
「半分こにして正解や」
ひとしきりデザートを食べ終え、ゆっくりと珈琲を飲む。甘い口に珈琲の苦さが入ると、まだ何か胃に入りそうな気がするから恐ろしい。満腹ですよ、と胃は言っている……筈なのに。
ガイドブックを広げ、次の目的地を選ぶ。ぱらぱらとめくっていると
「あ、ここ行ってみたい」
春香が指をさした。札幌市資料館、と書かれたそのページには、石造りの重厚な建物の写真が写っている。
「良いね。春香今やってる連載で使えそうな資料にもなるし。私も、最近ハマってる小説の舞台設定が明治時代だから、こういう建物とか参考になりそう」
顔を見合わせて頷く。
店を出て、地下鉄さっぽろ駅で南北線に乗る。大通公園駅で乗り換え、東西線で西11丁目。駅を降りてすぐ目の前に、灰褐色をした石造りの建物が飛び込んできた。通りを挟んだ先、まるで大通公園の終着点のように聳えるそれが、札幌市資料館。
東京では新緑の季節と言われる五月だけれど、ここ北海道では冬が明けたばかりの、所謂春先。咲いている花は、東京では終わってしまったチューリップに桜、それにコブシにライラック。溢れんばかりの香りが、空気の中に溶け込んでいた。
「青臭い匂いなんて、一切しないんだねぇ」
「花の香りで気持ちがええな」
大の大人が、二人揃ってくんくんと鼻を鳴らすように匂いを嗅いでいるのは、さぞや様子がおかしくみえただろう。途中で気付き、二人で鼻歌交じりに空を見上げた。青空に、ソメイヨシノが美しい。
ぐるり、一転建物の方へと目を遣る。見上げたファサードには『札幌控訴院』と掘られてあった。
「裁判所やったんか」
同じ表示を見つけたらしい。
「昔はそうだったみたい。控訴院、今の高等裁判所、だって」
ガイドブックを見ながら、答える。そうして、その文字の上を指さす。
「アレも要チェックだって」
そこには、目隠しされた女神の顔が。文字の左右には秤と剣。女神はギリシア神話に登場する、法の女神テミス。共に描かれている秤は、無論公平を、剣は正義を表す。何れもテミスのアトリビュートでもあるそうだ。
「へぇ。こういうのって、昔の建物の方が凝っとるよね」
「江戸時代の看板とか?」
「そうそう。十三屋と書いてあったりするやつや」
「それなんだっけ……。えぇと」
「ヒント、足し算」
「あっ! 櫛屋だ」
「大正解」
ふふふ、と笑いあい、ギイと重い音を立てて扉を開く。館内は静かで、赤い絨毯だけが、私たちを出迎えてくれた。因みに、入館無料だ。
「誰もおらんのかな」
赤い絨毯が敷かれているとは言え、館内はどこか殺風景さを感じる。まるで学校の廊下のようだった。入って右手に進めば、正面に『刑事法廷展示室』と書かれた通路が。その奥は階段になっている。だが。
「ねね。まちの歴史展示室、だって」
学校の廊下のように感じた原因の一つ、クラス番号を記載するような廊下に飛び出したプレートに、『まちの歴史展示室』と表示がされてあった。
その土地の博物館というものは面白い。住んでいない場所では知ることのない、書物には載っていない情報や歴史を、知ることができるからだ。通路右手にある扉を中へ進むと、まさに教室然とした広さの部屋が広がっていた。
「なんやこの骨格標本は──恐竜やろうか」
目の前に現れたのは恐竜のような形の、骨格標本。勿論レプリカだろう。置かれた説明板には『海牛発見!!』と書かれてあった。サッポロカイギュウという種らしく、札幌市内を流れる、豊平川から見つかったらしい。しかもそれを見つけたのは、当時小学五年生だった女の子。いつも遊ぶ川で、見たことのない化石を発見したそうだ。
時は2002年。
あれ? 思ってたよりも最近だった。彼女が発見した化石、それは体長7メートルを超える海牛では、世界で最も古い貴重なものとなったらしい。やるな、小学生。
春香はぱしゃぱしゃとシャッターを切り、部屋を出る。階段手前を左に折れると、刑事法廷展示室があった。
部屋には臙脂のカーテンが下り、大正時代のもののようなデザインの照明がかかる。説明書きには、大正15年に落成した頃の法定を復元している、とあった。
「へえ。大日本帝国憲法下では、検事は判事と一緒に並んで座っとったんか」
「今はどうだっけ」
「判事が中央で、ハの字とかやないっけ。ドラマとかやと」
正解を確認すべく、グーグル先生に確認する。こういうのはどうせ忘れるにしても、その場で確認するのが楽しい。スマホの画面を、春香ものぞき込む。
現在は、裁判長を真ん中に両脇に裁判官、さらにその両側に三名ずつの裁判員──地方裁判所の場合だが──が並ぶ。大日本帝国憲法下では、判事──今で言う裁判官──三名の横に書記と検事が座る。現在は書記、速記は法壇の下だそう。面白いもので、当時は新聞記者の傍聴席が、通常の傍聴人席の手前側、裁判当事者のエリアに作られている。被告人は法壇正面、証人は左側に立つようになっており、弁護人と被告人は離れた場所にセッティングされているのだ。近代的な司法下とは言え、やはり完全なる公平さというものは、当時の最善ではあったかもしれないが、今と比べるべくはないのであろう。
「ええ時代になった、んやな」
「より良い時代になるようにしないとね」
私たちが生きている間に、先人が勝ち得た公平を失いたくはない。
部屋の奥には裁判官の制服が飾られてある。黒いマントのようなものだ。格好良い。
「少し、日が陰ってきたかな?」
部屋の窓から中庭を臨み、春香がごちた。まだまだ明るいけれど、飛行機を降り立った時には強く輝いていた太陽は、だいぶお疲れの位置に移動している。
見学を終え、階段を上がる。踊り場に縦長に切り取られた窓は、白い桟を持つ。大正建築らしい美しい窓だ。
「ここは札幌軟石を使ってる建物で、全国的にも貴重なんだって」
壁に手を当てている春香に、手元の資料を読み上げる。ふぅん、と返ってきた。
「国の登録有形文化財にも選定されてるらしいよ」
「歴史的な建物や、美的な建物が長く残るのは、ええことやね」
日本は災害大国なので、どうしても古い建物が残りにくい。そうした中で、こういう建物を今でも見られるのはありがたい。
階段を上がりきると、急に人の気配を感じた。右手の部屋の入り口には、何やら受付がある。その先にある扉からは、歌声が聞こえてきた。
「何かあるんですか?」
「ミニ音楽祭ですよ。無料なので、良かったらどうぞ」
その言葉を受け、扉の前の男性がドアを開く。後に引けなくなり、春香と顔を見合わせながら、中へと入っていった。
部屋の中は思っていたよりも広く、百名くらいは座っているのだろうか。
正面の舞台──とは言ってもフラットで、舞台に模してあるだけではあるのだが──では、年を召した男女が入り乱れたグループで、歌を歌っている。それがまた、絶妙な加減なのだ。
下手かと問われれば下手ではない部類。かと言って、格段に上手いわけでもない。
ははぁ、これはどうやら市民グループの発表会なのだ、とようやく気付いた。入って数分で出るわけにもいかず、結局、三曲ほど聞いて抜け出す。そそくさと逃げるように建物から出ると、思わず二人で笑いだしてしまった。
「なかなかに、とんでもない展開だったねぇ」
「ほんまや。また下手やないところが、なぁ」
くたくたと笑い合う。外はもう夕闇が走り回っていた。
「お寿司! お寿司を食べよう! 目当てのお寿司屋はどこにあるん?」
「札幌駅でっす」
「それやったら、散歩がてら歩いて戻ろ。せっかくの大通公園やし」
つい、と指で目の前にまっすぐにのびる道を指す。その行く先の終わりには、さっぽろテレビ塔があった。
「春香……。せっかくなんだけど、テレビ塔までは行かないの」
「え? そうなんか」
「三越あたりで左に折れるの。でもまぁ、そこの通りもきれいみたいよ」
手元のガイドブックを見ながら解説すれば、春香が笑った。
「どうしたよ」
「はとバスのお姉さんみたいや」
「お姉さんって言ってくれてありがとう」
「またそう言う」
「ふふ」
肩を震わせれば、春香も一緒に震わせた。
大通西四と書かれた交差点を左に折れる。ちょうど地下鉄南北線をなぞらえるように通る道は、繁華街だ。逆に向かうと、狸小路商店街があるらしい。
「あ、灯。あれ」
ガラス張りの日本生命ビルと赤れんがテラスの間で、春香が足を止めた。横に並び、彼女の視線を追えば──。
「道庁……だねぇ」
赤レンガが敷き詰められた、まっすぐにのびる道。左手には赤れんがテラス、右手には乳白色のガラスをたたえたオフィスビル。左右に続く木々は花を咲かせ、下からのライトアップで陰影を深めていた。その終着点には、やはり赤レンガでできた、北海道庁旧本庁舎の建物が、威風堂々と聳え立っている。
「きれいやなぁ」
ほう、と溜息が漏れた。
「ん。きれいだね」
私も春香も、一人旅が基本だけれど、こうしてたまに人と旅をすると、ふとした景色への感情を共有することができる。それは、一人で見たときとは違う、心の動きなのだと思う。
「一人で見てもきれいやと思うけど、灯と一緒に見れて良かった」
「うん。そうだね」
吹いてきた風に、二人の髪が揺れる。
「──そうだね」
もう一度、そう返した。