その日はそれから二時間くらい、ハツセの婚活話を聞き、解散した。
私は相変わらず週に三日会社に行き、無駄な通勤時間を恨みながら働いている。
「今日はちょっと楽しい料理をしよう」
ようやく訪れた週末に、私は近所の魚屋できれいな刺身用の鮭と出汁昆布を買いに行った。近くの八百屋に菜の花とはんぺんあられがあったので、併せて購入。ご機嫌で家に帰れば、春香が起きてきたようで珈琲を淹れていた。
「どっか行ってたん?」
「買い物にね。気分を上げるために、楽しい料理をしようと思って。珈琲私にも頂戴」
「ん。砂糖ミルクどうする」
「大人の味で」
「大人グレードは」
「疲れた大人の週末」
「砂糖とミルクどっちゃりやな」
くく、と喉を震わせて笑う春香に、私も笑う。
「この洗い米はなんや」
「あ、それこのあと使うの」
家を出る前にお米を洗ってザルにあげておいたのだ。いつもはそんな丁寧なことはしないが、今日は料理を楽しむ日だ。このくらいのことはする。
春香が淹れてくれた、甘い珈琲を飲みリリを抱き上げれば、迷惑そうに体をよじった。今はそういう気分ではないらしい。ミヤは炬燵布団をしまったあとの炬燵の下で、お腹を出して寝ていた。気持ちよさそうだ。
「さて、そろそろ始めますかね」
「私も何かすることある?」
「お。んじゃ一緒に作ろ」
買ってきた出汁昆布を手渡す。濡れ布巾で拭いた後に切れ込みを入れて貰うように頼んだ。
「レシピは動画? ブログ?」
「動画。でも動画のレシピって、どうもイライラしちゃってねえ」
「わかる。自分のペースで見たい世代やんな」
動画、と聞いて全貌を確認するのは諦めたらしい。都度指示してと言われた。
「結構楽しいわ」
ちょきちょきとハサミを入れ、水を入れた炊飯器に落とす。米の上にひらりと乗る昆布が、何故か愛おしいらしい。
「なんで昆布をかわええとか思うんやろう。情緒不安定かな?」
「一緒に情緒不安定にでもなる?」
「二人で不安定やったら、どん詰まりや」
けたけたと笑い合う。どうでもいいことで笑い、どうでもいいことで不安になる。それでも、一人じゃないから安心できる。
「ほい、全部切れた」
「そしたら炊飯ボタンよろ」
ラリラリラ、とメロディが奏でられ、炊飯器が動き出した。
「灯は何しとるん」
「針生姜製作でっす。あ、塩と砂糖とお酢を、そのメモの分量で混ぜておいて」
高知産の生姜の皮を剥き、細く切る。小さいのでなかなかに集中力が必要だ。
「混ぜたで」
「サンキュー」
切った生姜を調味液に混ぜていく。そう言えば、以前派遣で行っていた先の社員は、何故か皆お礼を言うときにかすれた声で「サンキュー」と言っていた。あれが流行だったのだろうか。全員同じ会社からの出向だった。
続いては鮭の下処理だ。
鮭の皮と骨を除く、と書いてあったが、骨はない……あ、一本だけあった。指先でつまみ、引っ張る。思ったよりもすんなりと抜きされた。包丁で削ぎ切りにして、先程春香が作ってくれた調味液に漬けていくように、手渡す。
「なんや、料亭の料理人になった気分やな」
「さらに料亭気分を味わうために、蓮根を酢水で茹でます」
「そんな下処理したことないわ」
蓮根を薄く切り酢水で茹で、その後甘酢に漬ける。ついでに酢飯用の合わせ酢も作った。
ちろりと合わせ酢を舐めてみると、あまりの甘酸っぱさに思わずむせてしまう。
「これは、このまま口にするもんじゃない……」
「そらそうやろう。たまにものすごく阿呆やな」
「しまった! ペロッ……これは青酸カリ、とか言えば良かった」
「……訂正するわ。割と良く阿呆やわ」
「そこは訂正しなくていいのに」
薄焼き卵を作り、細切りにして錦糸卵にする。そうしているうちに、炊飯器が再び陽気なメロディを流してきた。
「あっ、大きな器!」
「大きな器?」
さわらでできた飯台を棚の上から出すと、春香が首を傾げる。
「そんなん、うちにあったっけ」
それもそうだろう。この日のために、おととい会社帰りに買ったのだ。どれだけストレスがたまっていたんだ私。少しお高めのを買ったので、香りが良い。
「どうしても欲しくて、買っちゃった」
「買っちゃった……んか……。まぁ、ええか……」
苦笑いを浮かべる春香は、私がストレスを溜めると買い物に走ることを良くわかっている。
炊いた米を飯台に移して、切りながら合わせ酢をかける。ネットにあったように、うちわで風を送れば、だんだんとご飯が光りだす。うちわを扇ぐのは春香の役目だ。
「へぇぇ。きれいなもんや。艶がでるって本当なんやなぁ」
つやつやと美しく光った酢飯に白ごまを混ぜ、その上に鮭、蓮根、卵と千切りにした青じそ、それに買ってきた紅生姜を添える。
「できた!」
「うん、これは実にええ」
見事なちらし寿司の完成だ。
「あとはもう一つ」
「まだ何かあるんか」
うん、と返し鍋を手にする。その中には、米を炊くタイミングで、鍋の中で水に浸しておいた昆布が鎮座しているのだ。それを火にかけ、沸騰前にそれを取り出した。煮立った鍋に鰹節を入れてすぐに火を止める。浮いてきたアクをそっと取り、三分ほど待つと、ゆっくりと鰹節が沈んでいった。
「ええ香りや」
「ほんと」
くん、と鼻を動かせば昆布と鰹の香りが立つ。
それをそっと漉し、再び鍋へ。
「あっ、菜の花水に浸したまんまだわ」
最低30分は浸すようにと書いてあったので、放置していた。別の鍋で青茹でし、水に晒す。
「そう言えば、前にソシャゲで見た出汁洗いってのやってみようかな」
茹でた野菜を水洗いの後出汁で一度洗うことを、出汁洗いと言うそうだ。例のソシャゲ『料理NAチョイス』で覚えた技だ。なんでも、水っぽくならないので、おひたしを作る時にやると良いらしい。──やったことはないけれど。
最終的には吸い物の中にいれるのだから、意味はないのかもしれないけれど、せっかく多めの出汁があるのだし、と試してみた。
──見た目が変わるわけではないので、思ったよりも楽しくはない。
出汁に調味料を加え、火を通す。出汁を絞った菜の花を一口大に切ってお椀にはんぺんあられと吸口のゆずを削ぎ切りにしたものを入れて、完成。鰹節と昆布は砂糖醤油を絡めて煮含めると佃煮になる、とネットで見かけたので、あとでやってみよう。朝ご飯のお供はいくらあっても構わない。
「これで全て完成! 食べよ」
「豪華やなぁ」
飯台をテーブルに移し、猫達が狙わないように、上から濡れ布巾をかける。大きめの平皿と箸も並べ、ガラスの猪口を添えた。
実は日本酒の良いものも、飯台と共に買っておいたのだ。
「猫達にも、今日はゴージャスにいく?」
「なんや買ってきたんか」
「そう。モモンガプチがセールしててねぇ」
少しだけお高い猫の缶詰だ。もっとお高いものもあるけれど、その味を知らせるわけにはいかないので、せいぜいがモモンガプチなのだ。
「ええやん。皆でハッピーになろう」
ハッピーハッピー。良い言葉だ。
猫達に出してやれば、目の色を変えてやってくる。あっという間に食べてしまいそうな勢いなので、「今日はこれしかない」と三回言ってやった。
「あ、冷蔵庫に日本酒いれてある」
「越乃景虎やんか」
「ふふふ。それはセール品ではないのだよ、明智君」
「ワトソン君。太っ腹やな」
二人とも助手じゃ、探偵役がいない。ダメだろう。
新潟の地酒、越乃景虎はキレがある割に安めで美味しい。とくりとくりと音を鳴らして猪口に入っていく。
乾杯をして一口ぐいと飲むと、さっぱりとしたその飲み口に、目元が緩む。
「うん、美味しい」
春香も満足したようで、もう一杯注いでいた。その後、いよいよちらし寿司へ箸を進ませる。
鮭と蓮根を一緒にご飯にのせ、口へ運ぶ。咀嚼する口元から聞こえるシャキシャキとした音が、丁寧な料理の満足度をあげてくれた。
「美味しいわぁ。たまにはええね、こういうのも」
お吸い物を飲みながら、春香と私の頬はほろりと綻んだままだった。