朝から主である尭毅たちが佐伯家を訪問したこの日、公鷹は検非違使庁で周辺の者たちから嫌な顔をされながら調べ物をしていた。刑部省から転属してきた明法家の公鷹は、使庁の者にとってはほぼ部外者だ。まして、検非違使とはいい関係とは言えない弾正の役職を兼任しているとあって、使庁ではわりとはっきりと煙たがられていた。
ちょっと神経の細い者なら針の(むしろ)と感じただろうが、そこを気にしないのが公鷹である。
「では目下のところ、佐伯伊之殿の事件について進展はないのですね」
「それはまあ……」
苦虫を嚙み潰したような顔をしたのは、千央の聴取を行った鈴木尚季の同僚である源是守(これもり)だった。年の頃三十あまりで細面の鈴木尚季とは打って変わって、四十がらみで四角く張った顎に髭を生やし、厳めしい顔つきをした彼が辺りを憚るように若干声を潜める。
「権中納言殿の手前、我々も急いではいるが、京識との連携がうまくいっていない」
「何故です?」
「ほらあれだ。半月ほど前に、左京(さきょう)大夫(だいぶ)が闇討ちに遭っただろう」
公鷹は考えた表情のまま、一拍おいて手を打った。そういえばそんなことがあった。

 左京大夫は都の東半分、左京を司る左京職の長官で、西半分の右京職の長である右京大夫と並びたち行政や司法を司っている。治安維持権限こそ検非違使に奪われているが、いまだ重要な職であることには違いない。
「左京大夫殿は傷を負われ、随身を二人斬られたのでしたね。そちらの犯人もまだ捕らえていないから……」
京識にとってはまさに『それどころではない』だろう。調査する権限もないというのであれば、自分たちは自衛するので殺人も検非違使で調べろと言いたいわけだ。筋は通っている。
「まあ、大夫殿は少々性格に難があり、坊長たちから不満が上がっていたからな。身内に襲われていても別に驚かんよ」
是守殿は左京大夫のことがあまり好きではないんだな、と公鷹は考えた。

彼の額の紋は四つ割菱で、検非違使や衛門府に多い典型的な武門の家柄の武官だ。検非違使で役職を得ていることは彼の誇りでもあろう。単純な構図だが、都の治安維持の点で手を携えるべき京識に対抗意識がみられる。
いや、というより、検非違使と京識の間に溝がある。それ自体は職掌を奪ったものと奪われたものの間柄であるが故、改善を図ろうにも難しいかもしれない。

あれこれと考え込んでいると、しげしげと公鷹の額の紋を眺めていた是守が、ぎゅっと眉を寄せて銅鑼声を押し出した。
「なぁ、あんた橘の家の人なんだろ?」
「そうですが」
「なんで紀伝道じゃないんだよ。橘の家って菅原家の次に紀伝道に優れるって聞いたぞ」
「仰るとおりですが、紀伝道を修める者は多く、それだけでは職に就けないのですよ」
 紀伝道は優秀者に学問料が出る上に出世に直結するため、貴族以外からも志願する者が多かった。文章生や文章得業生が都で官職を得て政治に参入していったが、結果として形骸化するのも早かったのだ。遣唐使が廃止されてからは新しい学問も入ってこず、学問自体を活かせず衰退が始まっている。そうなると、紀伝道は職を得るにあたって、必ずしも強みにはならない。
橘一族である公鷹ももちろん幼い頃から紀伝道を学び、得意としていたが、そうした経過を目の当たりにしていた。
「ですが、明法家というのは需要が尽きません。残念ながら罪人はなくなりませんからね」
事実、刑部省や弾正台、検非違使には常に、律令に明るい明法家が必要であり、年若い公鷹であっても実際に職を得て禄を与えられている。
簡単にそうした説明をされた是守は、ぽかんとした顔で聞き返した。
「ええ……あんた幾つでそんなこと考えて、明法道修めたの?」
「幾つでと言われても」
明確に覚えておらず、公鷹は首を傾げた。明法道院を四年で出たこと自体は異例の速さではあるが、昨今の明法家の不足に伴う試験の形骸化で、それもそう珍しいことではない。

 公鷹の祖父も父も受領である。橘の名を持つ家がいわゆる「没落」し、栄達が望めないと腹をくくった彼らは、せめて一族を飢えさせまいと受領の職に甘んじた。しかし当然のように任地を転々としていたため、幼い頃の祖父や父の記憶はない。

その二人も、流行病で相次いで世を去った。姉は三人いるが男子は自分一人であり、一族は自分が背負わなければならない。そうした意識が、公鷹に『確実に京官を得て家族を養える』方法を考え、選ばせたのだ。
とはいえ、そんな事情を是守に話してもしょうがない。差し当たり、実際に襲われている左京大夫、源光長に話を聞きに行ったほうがいいか、とまで考えて唇をかんだ。

 左京大夫といえば従四位下と相当上の位階だ。正六位上の自分では、直接話を聞くことはおろか面会を申し込むことも難しい。大夫の周りに使えそうな人脈がない以上、これはしばらく保留にせざるを得ない。
「お話を聞かせていただいてありがとうございました」
「かまわんが、京識へ行くなら気をつけろよ」
「構えてそのように。失礼いたします」
一礼して少尉のもとを辞去した公鷹は、一度私屋敷へ帰ることにした。目を通したいので、この数日で作った最近の事件に関する勘文(かんもん)を抱えて使庁を出る。
入口の侍所で控えていた三野(みの)夏清(なつきよ)が、公鷹を見て顔を輝かせた。
「若、屋敷にお戻りになりますか?」
公鷹が育った橘家の別邸がある、河内の豪族・三野家の長子である。公鷹の家に仕えており、額に檜扇紋のある彼は、丸顔で人懐っこそうな容貌ながら太くしっかりした眉が印象に残る。三野家は母方の親戚でもあり、十歳以上年上の夏清は公鷹を年の離れた弟のようにも思っているのか、比較的くだけた物言いをしていた。
「うん、午後も調べ物があるからね。食べておかないと」
「いやぁよかった。俺、腹減ってめまいがしてます」
そこそこ重い勘文の束をひょいと公鷹の手から取り上げ、からからと笑う夏清につられ、公鷹も笑顔になって使庁を出る。

 堀川小路を北へ向かって歩き出したところで、横の小路から小柄な影がひょこりと視野に入ってきた。反射的に夏清が公鷹の前に飛び出したが、それを制して声をあげる。
(しょう)!」
 それは年の頃は十二、三、粗末で泥まみれの直垂と括り袴を身につけた、額に紋もない子どもだった。痩せた顔の左側が腫れて右足も引きずっている。主に危害を加えられそうにないと判断した夏清は、公鷹の指示に従って退いた。
「若、面識がおありで?」
「大丈夫。少し前に知り合った、京識の人の雑色だよ。正、またぶたれたの?」
突然前に現れた大柄な夏清に驚いたのか、正と呼ばれた子どもは一歩退いて唇を震わせた。
「ご、ごめん、なさい。あの、俺」
あまりの震え声に、辺りの通行人がちらと彼らへ視線をやった。一見すれば郎党を連れた若い下級官吏と、薄汚れた雑色という奇妙な取り合わせだ。
「ほっぺた、ひどい腫れだよ。それに顔色悪いよ……具合が悪いの?」
心配そうに語を連ねられ、子どもは口ごもりながらうつむいた。
「お、俺、昨日またしくじって。為末(ためすえ)様が、飯やらねえって……」
「昨日から?! 僕、今から屋敷に帰るから一緒に行こう。夏清、正を運んであげて」
「承知しました。担ぐぞ、童」
返答を待たずに夏清が子どもの直垂を掴んで肩に担ぐ。ぐえ、と蛙がつぶれたようなうめき声を聞きながら、公鷹は足を速めた。屋敷までは東に三町、北に二条歩くことになる。
なるべく早く戻って、食事を待つ間に正の頬を冷やしてやらなければ。

 大内裏の東北部、土御門大路に面した左京北側の区画は、大内裏に勤める役人たちが住む厨町であったり、受領階級の屋敷が集まっていたりという事情から人通りも多い。公鷹の住む橘家の屋敷は一町あたり三十二区画のうち南東角の八区画を有する、周辺では比較的大きなものだった。
屋敷に入って女房に三人分の食事を頼み、桶に水をもらって、夏清は肩から正を下ろしながら公鷹に奥へと促した。
「顔や手足を洗ってから行かせます。まずは着替えてお寛ぎください」
「……わかった」
ちょっと間が空いたのは、自分で洗ってやるつもりだったからだろう。しかし仮にも京官である主にそんなことをさせるつもりは、夏清にはなかった。束帯も脱いで、楽な直衣に着替えてもらう必要もある。
「正、夏清は怖いことしないから、大丈夫だよ」
頷いた公鷹が、正ににこりと笑いかけてから渡殿を小走りに駆けていく。それを見送った夏清は、所在なげな童を見下ろして複雑な表情にならざるを得なかった。
「さて。殴られたのは顔だけじゃないだろ?」
びくりと正が体を震わせた。
武士である夏清にとって、傷や打身による姿勢の悪さや体の動きは見慣れたものだ。こんな童が、という想いもあり、なるべく手荒にならないよう加減して直垂と括り袴を脱がせる。すると腹や背中、腕や脛にいくつもの痣や打身が見てとれた。
普段からこき使われているのか、異常に痩せた体には最低限の筋肉だけがついている。食事を満足に与えられていないのも確かだ。
「……親兄弟はどうした?」
唇を結んで答えがない。亡くしているか、帰れない事情があるのだろう。
「どうしても、今の主のところにいなければならんのか?」
一瞬だけ夏清を見上げた正は、目があうことを恐れるようにすぐさま目を伏せた。
「……い、いく、行くところもないし……その、行かないと、怖い、し」
荒れて血のにじむ唇が、たどたどしく言葉をこぼす。
余程ひどい目に遭わされているのだろうな、と思うと、夏清は見たこともない正の主に対する憤慨が沸き上がった。京識と聞いたが、こんな童の雑色をこき使い乱暴している時点で役職持ちではないだろう。あってたまるものか。
ため息をついて、夏清は正の体を拭く手に力をこめた。