雲外蒼天、然れども



 五月十三日の午の二刻、陽が一番高くなる刻限に千央は公鷹と共に検非違使庁へ赴いて
いた。木下為末の遺体の見分のためだったが、隣に座す自分より若い上官は見るからに気落ちしている。依然としてあの正という雑色が行方不明だからなのは明らかだ。
(まあ、ほぼほぼそいつも殺されてるよな)
その判断を口にしないぐらいの配慮はあった。誰だか知らないが、左京大夫、末席に近いとはいえ検非違使に所属する公鷹と続けて襲撃し、どちらも失敗しているのだ。もしそこで「腹いせに京識の下級役人でも殺す」となったのなら、それが童の雑色でも逃がすまい。

 木下為末が所在不明となったのは、公鷹が襲われた次の日だったと思われる。伴帯刀の指示で弾正が西の市司を訪ねた三日前、既に彼は右京識に顔を出していなかったという。
妙なのは、家族に話を聞きたいと申し入れたが断られたことだ。こうした場合、家族からの聴取は速やかに行われるから妙な話だ。弾正台だから断られたとか、そういう感じがしない。
木下為末の死亡を知らせてくれただけでなく、検非違使庁まで呼び出されているのは検非違使少尉の鈴木の手回しによるものだろう。
やがて、どかどかと遠慮のない足音が近づいてきた。妻戸を開けて入ってきたのは、最近すっかり見慣れた鈴木尚季である。
「待たせたな」
「いいけどよ、おまえから俺たちを呼ぶのは珍しいな」
千央には「まあな」とだけ応じた鈴木は、次いで公鷹へ声をかけた。
「物忌みしとけと言っといてあれだが、橘大志、死体は見慣れているか?」
咄嗟に声が出なかったらしい公鷹が、大きく喉を鳴らした。そもそも出仕し始めたばかりの彼が慣れているはずがない。弾正台に来る前は刑部省にいたのだから、死体を見ることもなかっただろう。
夏の初めの蒸し暑さに満ちた室内で、公鷹の顔が青ざめる。
「……慣れてはいませんが、見なければ仕事にならないと思います」
「それはそうだ。まあ、死体を作るほうが得意な奴が隣にいるんだ、気負わず来い」
「俺のほうが官位上なの忘れてねえ?」
敢えて軽口をたたいて立ち上がり、顔色のよくない上官を振り返る。
「それこそ俺のほうが慣れてる。上官殿は俺の後にしろ。行くぜ」
「……はい」
公鷹も立ち上がると逍遥として後に続いた。

 都で発見された事件性が疑われる死体は、普通は型通りの調べが終わると直ぐに鳥辺野へ送られる。検非違使といえど死の穢れに対する恐怖は強く、長いこと庁舎内に置くことを誰もが嫌がるからだ。まして雨が多く暑くなり始めのこの半月ばかりは、役人の遺体であってもいい顔はされていない。庁舎に入ってすぐの東面の土間で、遺体は茣蓙(ござ)をかけられて置かれていた。鈴木に目で了解をとった千央は、近づいて無造作に茣蓙をめくった。
 年の頃は四十を過ぎているように見える。腐敗が始まっていたが死因がわからないほどではなかった。身につけている白かったであろう狩衣は、しみついた血が乾いて褐色になっている。脛巾(はばき)をつけたままということは、外にいたか、建物の中にいても寛いではいなかったということだろう。
「首をひと薙ぎ。どう思う?」
鈴木が匂わせていることはよくわかる。千央はもう一度遺体に目を走らせて頷いた。
「佐伯伊之を殺ったのと同じ奴だろうな。廃屋にあったって?」
「そうだ。見つけたのは左京大夫殿の手下で、隣の家の住人が誰か死んでるって騒いでるのを聞きつけてのことだと聞いたな」
その隣の住人とやらは、家の周囲にあるわずかばかりの畑で採れたもので生活しているという貧民で、役人である木下為末との接点はない。
「こいつんとこの雑色は見つかってないのか?」
鈴木はいっそうげんなりした顔になって答えた。
「それどころか、こいつの家すら見つかってない」
家すら? どういうことだ、と千央が表情だけで問い返す。

京識は都の左京と右京を統括し、都に居住する者たちの戸籍管理や税の徴収、民の財産の売買や東西の市の管理運営などを担っている。花形とはいえない仕事だが、十分に堅実な役職だ。その京識に籍をおく者の家が見つからないとは?

死者の穢れを恐れて火長や放免たちが近づかないのを幸い、鈴木は声を低めて続けた。
「二日前におまえたちが、木下為末に話を聞きたいと言ってきただろう。右京識に話を通したら出勤していないという。じゃあ家に話を聞きに行こうというんで、届け出ていた右京梅小路沿いの住まいを訪ねたら、家がなかった」
届け出の区画は周囲の貧民が生活のために作っている畑だった。届け出がでたらめだったということだ。驚いたのは京識も同じで、すぐに調査が始まった。
 わかったのは、木下為末という男が何ひとつ実体のない届け出をして、少属として働いていたということだった。もちろん同様に届け出ていた妻子も影も形もない。こうなると連れ歩いているという雑色まで存在が怪しくなってきている、とまで語った鈴木へ、
「正は、ちゃんといました!」
唇を震わせていた公鷹が声をあげた。住まいから偽りということは、木下為末がまともに京識として働いていたか疑わしい。正の扱いひとつとっても高潔な人物とは思えなかったが、ここにきていよいよ不審になってきた。そんなことを考えながら、千央が落ち着かせようと宥めるような声をかける。
「わかってるよ、俺も見てんだから。それはそうと、おまえはこの木下ってのに会ったことあるのか?」
「いえ、それが……顔を合わせる機会はありませんでした」
そう答えた拍子に、遺体へ目をやってしまった公鷹の顔色が一気に白くなった。都には貧者の死者が転がっていることがあるが、公鷹自身が比較的余裕のある屋敷街に居するうえ、日常的には護衛を務める夏清が目にしないように気を遣っていたため、死体を直視したことはほとんどない。
「うっ」
血の気を失い変色し、痛々しい傷が露わになった遺体を直視してしまった公鷹は、朝に食したものを吐いてしまった。苦しそうに嘔吐(えず)く背中をさすってやると、申し訳なさそうな顔で千央を見上げてくる。次いで、鈴木に謝罪した。
「す、すみません」
「新任にはよくあることだ」
鈴木は公鷹を慰めるようにそう言うと、眉間に皺を寄せて千央に話を振った。
「まあそういうわけだ。身元を偽っていたらしく、いかにも怪しい」
木下為末が所在不明となってすぐ、京識は彼の身元を調べ始めた。都に生まれた民であれば生家はあるはずだから、徹底的に調査したが何も出てこなかった。都生まれではない、つまり都の外の生まれで、京識には何者かによる紹介で就いたと思われる、というわけだ。
しかしその紹介を誰がしたのか、という話になると、誰も一斉に口をつぐみ知らないという。
「これは厄介な相手が木下の後ろにいそうだ。手詰まりだな」
「手詰まりねえ。そいつはどうかな」
しげしげと木下の遺体の傷みつつある顔を眺めて千央は呟いた。かなり見づらくなってはいるが、見間違いようもない。
木下為末の顔の左半分には、豌豆瘡(わんずかさ)を患った痕跡と思われる、ひどい痘痕(あばた)が広がっていたのである。


 使庁を後にした千央と公鷹は、弾正台から今日も式部省に出仕している智也に事情をつづった文を送った。その上で、朝からの情報を帯刀とともに整理する。千央が佐伯連之の屋敷の女房から聞き込んだ話だという点で帯刀の眉間のしわが一瞬深くなったが、口に出しては何も言わなかった。それも当然で、入手方法はともかくとして、身元につながる極めて重要な情報だからだ。
豌豆瘡は珍しい流行病ではないが、おおよそは顔の全面に皮疹(ひしん)があらわれ、水疱となって治れば瘡蓋(かさぶた)となり、その痕が痘痕になる。その症状の関係上、顔の片面だけに残るのは珍しい。
一通り話を聞いた帯刀は、腑に落ちたという顔で唸り声をあげた。
「つまり、木下は先に殺害された佐伯伊之の口ききで京識に就いたということだな。確かに『権大納言殿の娘婿』で先の左兵衛佐の口ききとあっては、誰も迂闊に口にできんだろうな」
 京識は都の治安権限を検非違使に奪われているが、同時に物騒な職務が減ったともいえ、立身出世は難しいが比較的仕事が楽な職位となっていた。佐伯伊之は知人に暇で楽な職場を紹介したというわけだ。
実際には木下は和田と同じ職位を求め、それが叶わず京識だったが、決して悪い職ではなかったろう。紹介された側である京識とて、権勢を誇る上流の貴族が絡んでいる人事にあれこれ口を挟みたくあるまい。
「下手に口にすればどんなとばっちりが来るかわかんねえからな。俺が聞いた範囲じゃ、あの末成りが職を世話したのは木下と、実子のように可愛がられてる和田という奴だけだ。おおかた、その二人に碌でもない遊びを教わって懐いてたんだろうよ」
既に聞いているだけでも佐伯伊之の行状は相当に悪い。
「嘆かわしい限りだ。佐伯伊之殺害に芳しくない事情があるとお察しの上だろうに、権大納言殿もお人が悪い」
「お察しだから早いとこ解決させて、臭いものに蓋してえんだろ」
帯刀と千央の話を聞いていた公鷹がふと首を傾げた。
「……それって、権大納言さまが佐伯伊之殿の行状をご承知の上で婿に迎えられたということなんですか?」

こう言うとなんだが、それこそ今を時めく、といっていい権勢を誇る権大納言家にとって、下級貴族の佐伯の家は決して名家というわけではなく、権大納言家にとっては正直不釣り合いな婚姻だ。まして自分が父親なら、婿になることが決まっても素行の悪さや女性関係などの行状が改まらない人物を迎えるのは御免被りたい。

公鷹の問には、あー、などと唸りながら千央が応えた。
「権大納言は内大臣の実弟で、すでに美人と評判の大姫を入内させてる。中姫には春宮(とうぐう)成良(なりよし)親王の外祖父である右大臣の三男を婿に迎えて、政治的には結構いいとこにつけてるわけだ」
そして切れ者と評判の権大納言の長子は近衛中将として活躍し、次子は左中弁として都を司る八省を管轄する仕事をしているという。
「で、年がいってから生まれた末の乙姫のことは目に入れても痛くないほど可愛がっていると評判でな。乙姫が管弦の宴の時に見かけた佐伯伊之にすっかりのぼせて、どうしてもというんで折れたみたいだな」
「はあ……」
いかにも政治中枢やそこでの出来事に興味がなさそうな千央が、そのあたりの事情を把握していることに公鷹はちょっと驚いていた。
「しかもこの乙姫ってのが、上の姉妹たちに比べると琴も歌も学問も、ちょっと出来が悪いようでな。平たく言えば、今のところ権大納言家は困ってねえから、ぼんくらの一人ぐらい、可愛いだけの末娘の婿に迎えてもいいかって判断だったってこった」
「うわあ」
素直な感想が口から出てしまって公鷹は思わず手で口を塞いだ。とはいえ、千央も帯刀も特に気にした様子はない。
「だとしても佐伯伊之の乱行は過ぎていたが、権大納言殿が把握していなかったということはありえない。そのうち強めの灸を据えるつもりだったのだろう」
なるほど、と公鷹は胸の裡で独りごちた。

 権大納言は佐伯伊之の死を悼んでいるわけでも、彼の性根を知らないわけでもなかった。検非違使に圧をかけて解決を急がせているのは、佐伯伊之が予想以上に問題を抱えていたことを知り、家の火種になる前に佐伯伊之に関わる問題をもみ消したいからなのだ。
自分のような下級貴族からすれば、権勢を誇る大貴族だからこそのそうした姿勢を非情だと思うが、どうしようもない。

考えに沈む公鷹をよそに、千央は帯刀に説明を続けていた。
「問題は、佐伯伊之に木下為末を紹介したやつだ。佐伯連之の妻の遠縁、和田清重。こいつが手がかりになるはずだ」
わざわざ紹介したほどだ、木下為末が京識に届け出た住所が出鱈目だったことを知らないとは考えづらい。和田と同じ職に就けなかった、と言っていたということは少なくとも和田と対等、あるいは腹心ぐらいの立ち位置と考えられる。
「雑色のことだって知ってるかもしれねえぜ」
千央に水を向けられて、公鷹は胸が暖かくなると同時に少し気恥ずかしい気持ちになった。そんなに自分は落ち込んだ顔をしていたのだろうか。
公私混同はよくないけれど、あんな境遇の正を心配せずにはいられないとも思う。せめて生きていてほしい。
「じゃあ俺、和田ってやつの役宅に張り込んで――」
「待て、それは他の弾正に行かせる」
立ち上がりながらの千央の言葉を帯刀が遮った時、ばたばたと南の廂から足音が近づいてきた。走ってきた弾正が御簾を挟んだ外側に座し、上がった息のまま報告する。
「ただいま東の市司より、『武士団の旅支度と思しき注文があったため、検非違使にその注文の荷物の届け先を報告した』との知らせが参りました! おおよそ二十名の移動用と思われるそうです」
その場の三人で目を見交わした。
 左京大夫と公鷹を襲い、この半年都を騒がせた群盗か。相手は尻に火が付いたから都を出ようとしているのだ。
 今現在二十名ということは、公鷹の殺害を企てた時点では三十名。佐伯伊之が死んだ夜に殺害された武士二名も恐らく同じ武士団の所属だ。こんなに執拗に京識や検非違使を牽制しようとしている以上、この武士団が夜討ちを行っている者たちだと考えて間違いない。
「こいつは捕り物になるよな?」
「間違いない。別当殿から許可を得れば、鈴木少尉が武士団の屯所に踏み込むだろう」
「そっから一人二人逃がしてやれば、つながってる奴の屋敷に駆けこむよな?」
人の悪い笑みを浮かべて千央が首を傾げた。

 夜討ちをしている賊たちの押し入り先が的確すぎる、という公鷹の考えは正しいはずだ。都の中に、実入りのよい押し入り先を斡旋している仲間がいる。捕縛するならその仲間も一緒でないと意味がない。

「私から鈴木少尉に使いを送っておくから、おまえも奴らの屯所の見張りに同行しろ。和田某の役宅には誰か弾正を張り込ませておく。橘大忠、そなたはここで私を手伝ってもらう」
「わかりました!」
公鷹は今までで一番大きな声で答えて首肯した。
検非違使の一員であるのは自分だが、立場は刑罰の前例について説明する有職(ゆうそく)としてだ。もとより捕り物に参加するような立ち位置ではないし、もちろん役に立つ自信もない。千央が行ったほうがよほど安心できる。

 それにしても堯毅の目に留まって引き抜かれて以来、能動的な調査に管轄争い、斬り合いに捕り物、およそ以前の職場であった刑部省では経験しえないさまざまな物事が怒涛のように押し寄せる。やりがいがあるというべきか、穏やかな生活から遠ざかったと考えるべきか、判断に悩む公鷹だった。


 夜の帳が落ちると門前には篝火が焚かれ、いかめしい顔の武士が二人、周囲を睥睨している。件の武士団の屯所が左京七条の外れ、まだ役宅街といえなくもない辺りであることを、千央は意外に思っていた。てっきり郊外は郊外でも右京の、本当にあばら家や田畑、沼地だらけの辺りを想定していたからだ。
しかし考えてみれば、そんなところに大人数の武士が屯所を構えていれば、「物騒な(なり)の者たちが集まっている」と近所の民たちによって噂がたつ。それなら貴族の屋敷で働く武士団がちらほらいて、似たような屯所も付近に見られる街中にいることで、疑いをかけられるのを避けてきたのだろう。わざわざ適切な押し入り先を調査した上で奪いに入っていることを考えても、この群盗どもにはあくどい頭がついている。絶対に逃がすわけにはいかない。
 屯所の(はす)向かいの屋敷の主に事情を話して門の内に入れてもらい、監視をしていた千央はふと眉を寄せた。何事か話しながら二人の男が門の表まで出てきて、立ち話の後に片方が雑用係らしい小者を連れて通りを歩きだす。
「自分が追います」
「頼んだぜ」
自分の後ろから様子を窺っていた放免が申し出たので千央は了承した。すぐに出ていくと、他の通行人にまぎれて悟られないよう男の後を尾けていく。なかなか様になっていた。放免は罪を許された元・罪人であるため、時折こうした探索にはうってつけな者がいたりする。
それを見送った別の放免が、訝し気に千央に話しかけてきた。
「潮時と見て、逃げようとしてんでしょうかね」
「そいつは虫が良すぎるな」
百歩譲ってただの盗みならともかく、やっていることは夜討ちだ。押し込んだ先で邪魔になった武士や雑色、時に家の者を殺害し、怪我人など何人になっているか。およそ見逃せる所業ではない。
 それはそれとして、立ち去った二人の方になんだか見覚えがあるような気が、千央はしていた。どこで見たのかが思い出せない――公鷹を殺そうとした奴らか? いや、あの時取り逃がした奴はもっと大柄だった。どのみち明確な記憶がないのでは意味がない。捕縛して吐かせるのが一番だ。
「鈴木め、遅ぇなあ。夜陰に紛れて逃げられたらコトだぜ」
千央がこぼすと、放免が乾いた笑い声をあげた。
「なにしろ未だかつてないほど人手が足りませんからね。都の夜討ちや左京大夫を襲うような武士ども相手に数で不利となると、俺らも腰が引けちまいます」
実際、検非違使で警備に携わる衛門府の衛士たちと違って、放免たちは追捕や探索が主な任務だ。一人二人の罪人ならともかく、武士団相手となると力不足も甚だしい。
「さすがに捕り物だぞ、頭数ぐらい揃えてくるだろ」
「だといいですがね…」
この口ぶりだと、検非違使の忙しさは相当らしい。捕り物に割く人手すら惜しむほどの。
その点、ここでも夜討ちの首謀者の目論見は見事に達成されているのだ。
「もういっそ、嵩増しに弾正も入れちまおうぜ。大丈夫だって、うちは暇持て余してるから」
名案と言わんばかりの千央の言葉を聞いて、放免が真顔で首を横に振った。
「やばいっすから。旦那がここにいること自体まずいっすから」

 鈴木尚季が手勢をまとめて現れたのは、それから半時ほど過ぎた戌の四刻頃のことだった。しかしその人数はわずか十人、放免が四人という有様だ。心底いやそうな千央の顏を見て、尚季も渋い表情にならざるを得なかった。
「おまえにはわからんだろうが、もうどうしようもなく衛士が足りないんだよ。俺の出がけにも三条の大納言殿お求めの警固の隊が準備をしていた」
「あの狸じじ」
部下の面前で高位の貴族に毒づきかけた千央の口を咄嗟に塞いだ尚季は、溜息をついて話を続けた。
「これでも別当殿にかけあってかき集めたんだ。これ以上は都合できん。おまえをせいぜい宛にさせてもらうさ、嬉しいだろ九条殿」
「俺に良いことがなんにもねえ!」
うんざりした表情を隠しもせずに唸った千央だったが、息をつくと太刀に手をかけた。
もとより荒事は得手の分野だ。せいぜい恩を売っておくとしよう。
相手が賊だとわかっているだけに、尚季に同行した衛士たちも各々太刀を抜き列を作った。全員に目を配った尚季も太刀を手にすると、一気に門を出て件の屯所の門へ走る。門前に立つ男が気づいて顔色を変えたが、構わず尚季は体当たりをかけ、屯所の内へ踏み入った。
勢い余って転がる男が立ち上がるより早く大声を張り上げる。
「検非違使少尉、鈴木尚季である! 汝らは都において夜討ちを行い、都人を損ない財を奪った疑いがある。太刀を捨て、団をまとめる者は前に出よ!」
普段は人当たりの良さすら感じさせる尚季だが、衛門府、ひいては検非違使で少尉を務めるものの気迫を見せた。大音声に屋敷の中からばらばらと男たちがまろび出てくる。額の紋を見る限り、木瓜だけでなく四つ目結いや鷹の羽などさまざまだ。予想どおりわずかな混乱の後、申し合わせたように太刀を抜く。
「従わぬ者は斬る! 捕縛せよ!」
やっぱりなという顔で尚季が吠えると同時、怒号があがった。衛士たちと胡乱な男たちの斬り合いが始まる。

 千央は素早く身を捻り、屋敷から現れた手近な男の足に斬りつけた。尚季の手勢が死なないようにするのならば敵の手足を殺すに限る。肝要なのは一人二人を残すことだが、この乱戦でうっかり全員殺したり捕縛したりすると意味がない。
乱戦に陥ったものの、思いのほか群盗たちは落ち着いていた。否、むしろ検非違使との斬り合いに昂っているように見える。事の重大さがわかっていないのか、無法なふるまいに興じているのかはわからないが、どちらでも大差はないだろう。
都から遠く離れた地方では、治安を守るために豪族によって武士団が形成される。ほとんどの場合豪族の護衛などをつとめる武士だが、その地で持て余される乱暴者や人を害した者などが集まっていることも珍しくない。この武士団もそうした無頼者の集まりなのだ。だからこそ、都で夜討ちをするなどという無謀なことができたのだろう。
背後と正面、機を合わせて打ちかかってくる二人を躱してそれぞれ背中と腿をひと薙ぎし、二人が地に転がるのを視界の端に捕らえながら一瞥する。衛士たちも常日頃からの訓練の成果を発揮し、危なげなく賊を順に無力化しつつあった。賊が弱いというより、一人ひとりの行動がばらばらで連携がないためだろう――となると全滅が近い。そろそろ誰かに、首謀者のところまで案内してもらわなければ。

やけに大きな笑い声のほうを千央は振り返った。いつの間に現れたのか、熊のごとき巨漢が衛士を三人相手どって暴れている。力自慢であるらしく、大太刀を振り回し衛士の衣を掴んで投げ飛ばし、やりたい放題だ。これはいい。
「そこの熊、太刀を置けっつってるだろうが!」
わざと大声をあげて挑みかかっていくと、比較的軽傷の賊がじわりと距離をとり始めた。
掴みかかる大男の手を避けながら尚季と目を合わせる。彼も気づいているらしく、眉を上げて応じてきた。
あとはどちらか手の空いている方が、逃げた賊を追うだけだ。


 激しい殴打の音がして、門を預かる武士が中門から飛び出してきた。続けて二度、次いで三度。取り決めどおりの叩き方を確認して東門を開ける。すると血にまみれた武士が二人、もつれるように転がりこんできた。
「なんだ、どうした?!」
「た、たすけ…」
走ってきたらしい二人は答えることもままならず、激しく喘ぐばかりだ。どうしたものかと考える間もなく、門の外から声がかかった。
「屯所から逃げてきたんだよ」
声と同時に半開きの門扉が蹴り開けられ、松明を持った二人の男に続いて、更に数人が雪崩れこんできた。都に住む者なら誰でも知っている、明かりを掲げた火長とそれに続く衛士――検非違使だ。
「殿! 検非違使です、殿!」
門の武士が呼ばわると、小づくりの屋敷の奥から小柄ながら筋肉質な体躯の男が現れた。
「なんだ、騒がしい! 今宵これ以上の厄介を持ち込むな!」
怒鳴ってからふと口をつぐむ。門の内を、正しくは和田の屋敷の敷地内に転がりこんで激しく喘ぐ二人の賊を火長が照らし、その前に鈴木尚季が仁王立ちしていた。
「左衛門少尉、和田清重! 検非違使少尉、鈴木尚季である。都で夜討ちを行っていたと思しき武士団の追捕におよび、この二人がこの屋敷へ駆け込んだ」
和田の表情が歪む。さらに屋敷の中からばらばらと男たちが現れ、検非違使を見て一気に殺気立った。威嚇するように睨みつける。
松明に照らされた和田の顔を、千央は穴があくほど眺めた。
間違いない、佐伯連之の屋敷にいたあの和田だ。佐伯の屋敷には情報収集を兼ねて定期的に通っているが、和田が来訪するのは常に夜になる前だという話で、実際千央も遭遇したことはなかった。
和田はというと、地面に這いつくばる男たちを虫けらでも見るような目で見やってから、笑顔を作り反駁した。
「これはしたり、私には心当たりがない。賊を当方の屋敷へ追い込んでの濡れ衣ではないか」
「そう言い張るのは勝手だが、我々は逃げ去るこやつらを追ってきたまで。門扉を叩く数を合図にしていたことも確認済みだ。捕り物には弾正少忠の九条殿も居合わせられた。我ら検非違使のみで話を合わせているわけでないのはご理解いただけような?」
弾正と聞いて、和田がちらりと千央へ目をやった。訝しげだった表情がふと、苦々しげなものに変わる。佐伯の屋敷で遭遇したことを思い出したのだろう。千央の大柄な体格や胡人じみた風貌は印象に残りやすい。
怒りのこもった目をあちこちに走らせ、切り抜ける術を探しているらしい和田に、尚季は畳みかけた。
「汝も一味である疑いがある。聴取を行うため、太刀を置き速やかに同道願おう」
千央は門の内へ目を配った。さすがに物陰に武士を潜ませてはいないようだ。

 というよりも。地面は蹴立てられた跡があり、水かなにかを零した痕跡も見られる。たった今賊が飛び込んでくるより前に、ここでは何か面倒事が起こっていたのだろう。それは先ほどの和田自身が言った、「これ以上の厄介」という言葉からも間違いない。
検非違使は尚季や火長を含め五人、弾正台に属する自分、対して和田は己が屋敷のうちにあり、手勢が少なくとも十人はいる。さて、改めてここで斬り合いになるか。

和田は後方から何か進言する武士を制して首を振った。さすがに、都で検非違使を正式に敵に回すほど無謀ではないようだ。だがそれでも、悪意を隠すことはしなかった。
「……我が友、式部大丞たる佐伯連之が黙ってはいますまい」
「なに、誤りであればすぐにお帰りいただけよう」
腹の底から吹きこぼれる怒りを押さえつけるように答える和田に、厳しい表情のまま尚季が告げる。追って到着した放免たちが、和田に縄を打った。


 和田の追捕を見届けた千央が捕り物があった屯所に戻ると、ここでも衛士たちが賊たちを捕縛していた。そこそこ怪我をしている者もいたが、衛士たちも賊たちの中にも重傷者はいない。確認を済ませた千央は、手近な賊の衣で太刀の血を拭うと鞘に納めた。屯所の母屋の中から続々と、盗品と思しきものが運び出されてくる。大量の絹織物、蒔絵の細工が美しい髪箱や鏡箱、果ては銀製品まで。この武士団が群盗であることは間違いない。
衛士たちへの指示を終えた鈴木尚季が声をかけてきた。
「片付いたな。おまえも使庁に来るか?」
「もう十分だろ、俺は帰る。あとはそっちでやってくれ」
面倒だとか疲れたという心情まるだしで答えて火長から松明をもらい受け、千央は屯所を出た。事の次第は弾正台にも届いているだろうから、今から自分が行く必要はあるまい。
 一仕事終わった充実感以上に、今はとにかく腹が減っている。公鷹の屋敷へ行って飯をたかることにしよう。
時刻はおそらく亥の二刻あたり、普段の公鷹なら寝ている頃合いだ。二条大路や朱雀大路には篝火が焚かれているが、ちょっとした大路や小路は月や星の明かり以外に頼りはない。
あまり夜目が利くほうではない千央は松明を頼りに西洞院大路を北へ歩んでいった。土御門大路で東へ曲がろうとしたところで足を止める。

激しい息遣いと、よろめくような不確かな足取りの足音。体重は軽い。

通りの北側の暗闇からまろび出てきたのは、いつだったか見た童だった。確か、名は正。
「どうした。怪我してるのか?」
千央の言葉が終わるよりも早く、正はその場に倒れ伏した。


 千央がひどく衰弱した正を担ぎこんだことで、橘家の屋敷は俄かに騒々しくなっていた。というのも正は発熱しているかのように顔が紅潮し、すでに立ち上がることもできず、嘔吐を繰り返し話をするどころの状態ではなかったからだ。
異状を感じた千央は堯毅に使いを立てていた。
「ともかくたらふく水飲ませてくれ。食(あた)りとかかもしれねえし」
はなはだ適当な千央の指示に、百瀬が木桶を手に顔面蒼白で問いかける。
「九条さま、まさか流行病ということはございますまいね?!」
「そういう感じじゃないんだよなあ」
「あ、あの、まさか、呪詛とか、ひえ」
下男らしき男が同様に震えながら重ねて問うが、千央はとりあえず水を飲み続けていた。今夜は問題事だらけだ。やっと捕り物を終えて飯と酒にありつこうと思ったのに、という本音はさておき、正の状態は流行病でも呪詛でもないと確信している。
「食中りじゃねえなら毒だと思うわ」
一拍の間をおいて、百瀬と下男が顔を見合わせた。毒物。当然のことながら、百瀬が声を裏返らせて千央に詰め寄った。
「えっ?! いえ、そんな、なぜ当方の屋敷へお連れになったのです?!」
「だって、こいつここで飯もらってたんだろ? すぐそこの路地で拾ったし」
「それはっ……!」
言いよどみ、百瀬は簀子縁(すのこべり)に倒れ伏している正の小さな背中に目をやった。正直、素性の知れない正を公鷹に近づけることに忌避感があった。言い方は悪いが年若い主が騙されているのではないかという懸念が拭えない。しかし事情を聞けば確かに恵まれない身の上で、気弱そうなあの様子を見れば突き放した態度をとるのも躊躇われた。
ここで何をされたかわからないから見捨てる、という決断が百瀬にはできない。
「……どんどん水を運んできて。大急ぎで」
「へえ」
(たらい)か何か……」
下男が桶を手に厨へ行くのを見送り、正の背中に手をかけようとした百瀬を千央が遮った。正の腹に手を回して軽く持ち上げたため、正が嘔吐いて体を震わせる。
「盥はだめだ、毒だったらまずいだろ。このまま地面に吐かせたほうがいい。公鷹はいつ戻るかわかるか?」
「少々前に当家の郎党から、亥の三刻ごろと伝えてまいっております」
そろそろだな。正に水を飲ませながら考えた。

まともな食事も与えられていなかったこの童が食中りなどとは思っていない。何らかの理由で――おそらくは木下為末の雑色であったから、口封じのために毒を盛られたのだろう。毒物が何かわからない以上、助かる確率はとても低い。この童の最期に公鷹が間に合うといいのだが。
もう何度目かわからないほど吐き続けている正だが、先ほどから一言も喋らなかった。弱音を吐くどころではないかもしれないが、それにしても従順だ。

 重い蹄の音が近づいてくる。馬だ。この遅い時間に馬となると、公鷹だろうかと千央は思った。しかし、今夜の捕り物の一部始終を弾正台で記録して、仕事を終えた公鷹が、馬にまで乗って帰宅するとは考えづらい。すると他の屋敷へ向かう馬だったのか、などと考えている間に、屋敷の車宿が騒々しくなった。蹄の音がさらに近づいてくる。何事かと思っていると、庭の端を駆け抜けた馬が寝殿の方へ向かってくる。その鞍上。
「堯毅さま?!」
帽子の陰からちらつく銀の輝きを目にして、千央は動転した。堯毅を前に乗せて疾走してきたのは智也だ。智也は千央への返答よりも、百瀬へ断りを入れることを優先した。
「こちらは弾正尹宮、堯毅さまにあらせられる。急病人との報を受け、馬にて訪うこととなった。私は式部大輔の菅原智也、馬のまま乗り入れたことは私の独断、寛恕願いたい」
その場にいた者は一瞬固まっていたが、すぐに全員が平伏した。公鷹に弾正台の役職を用意したのが堯毅であることは、この屋敷の者は皆知っている。この場に自分よりも上位の者がいない以上、百瀬が応じるしかない。とはいえ、そもそもこの僧形の親王は法親王殿下というべきなのか、親王殿下でいいのか。
判断がつかなかった百瀬は、誤りを避けるため呼称を避けることにした。
「拝謁の機会をいただき、幸甚の至りでございます。御馬でのお越しについてはどうぞご放念くださいませ」
「ありがたい。上がらせていただこう」
馬を下りた智也が、鞍上の堯毅に手を貸して下馬を助けた。そのまま堯毅の手を引き、簀子縁までやってくる。高灯台を引っ掴んで足元を照らしながら、思わず千央が声を荒げた。
「なんで車でおいでにならなかったんです、というかそもそも、ご自身で来られずとも」
「いいえ。直接証言を取れる者が毒を盛られた疑いがあると聞いては…」
牛車で来る気になれなかったのだろう。夜だからといってよく目が見えるわけでもなく、正のもとまでたどり着いた堯毅は呼吸や脈、症状を手早く調べて眉を寄せた。
とんでもない貴人が来訪し、主と親しいとはいえ嘔吐している雑色を抱き起こす様を見て、百瀬は狼狽して進み出た。
「殿下、畏れながらお召し物が汚れてしまいます。私が」
その言葉を手を挙げて制し、堯毅が青灰の瞳を千央へ向ける。
「千央。あなたの見立てどおり、これは服毒の症状です。智也、包みを」
橘屋敷の者たちが声を抑えられず、ざわめきが広がった。堯毅に続いて智也が簀子に上がり、携えてきた長櫃から包みを出して手渡す。
「女房殿、この童に飲ませる水一升に塩を四匁ほど溶いていただきたい。あと、汁粥を炊いてもらえないか」
「畏まりました」
医師として名が通っている堯毅の指示であれば、疑問を差し挟む余地がない。百瀬はすぐに立って水と粥の準備のため、厨へ向かった。下男が持ってきた水を受け取って、千央が息も絶え絶えの正にまた飲ませる。
ちょうどそこへ、中門廊を通らず車宿からまっすぐ入ってきた公鷹が駆け込んできた。
「えっ、堯毅さま?! 千央さん、何を……正?!」
何が起こっているのか整理しきれず、混乱してはいたものの、正の様子がおかしいことはすぐに気が付いた。げえげえと水を吐く彼の顏は紅く、全身震えているところは発熱かにも思えるが、そのぐらいで堯毅が訪うとは考えられない。
右往左往する公鷹に、半ば正をぶら下げながら千央が喝を入れた。
「手伝え! こいつ毒を盛られてんだ、水と汁粥を飲ませて吐かせまくって、毒を薄めるんだってよ!」

 毒物の種類が分からない状態で解毒するのは困難を極める。とはいえ、ある程度特徴的な症状があれば推測は可能だ。嘔吐に顔の紅潮、会話や起立困難などの正の様子から、堯毅は附子(ぶし)と目星をつけていた。
「それは、確か、危ないものではありませんでしたか」
蚊の鳴くような公鷹の問に、堯毅は難しい表情で応じた。
「ええ、よく学んでいますね。ですが産地や種類によって毒性が変わります。もし最も毒性の強い種類の根を飲まされていれば、もう死んでいたでしょう。用いたものに十分な知識があったとは思えません」
そこに賭けるしかない、と言外に聞こえる。公鷹は唇をかみしめた。
正は相変わらず一言も喋らず、この一刻ほど、ひたすら水や粥を流し込まれては吐いている。飲みこむ力がないのか千央のなすがままだが、瞳の動きを見るに意識がないわけではないようだ。
もはや機械的に屋敷のものから水や粥を受け取っては正に流し込み、簀子から突き出しては吐かせている千央が、ふと呟いた。
「この痩せっぽちが、自力でここまで逃げてきたんなら大したもんだが」
「服毒後に走ってきたとすれば、それも毒が回る要因になります。千央、もう一度診せてください」
公鷹は退き千央もやむなく正の顔を仰向けて横たえた。その顔を智也が正自身の衣で拭う。
正は震えていた。大量の汗と涎を流し、呼吸は荒く、目は中空を虚ろに眺めている――かと思うと、ふっと堯毅へと視点を移す。
「見えますか?」
目の焦点はまだ定まらないが、ぐぐ、と咽喉がかすかな音を立てた。骨ばった小さな手がそろりと動く。その手をとって、堯毅はそっと指を開かせた。
「握って」
指は力なく、しかし確かに曲がった。麻痺はしていない。
「わかりますか。毒を吐ききらないといけません、いいですね」
虚ろな目のまま正は頷く仕草を見せた。それを確認して、堯毅は公鷹の手から水の入った器を取り上げた。手が空になった公鷹が戸惑って器を取り戻そうとするが、返してもらえない。
「千央、続けてください。咳き込ませないよう気を付けて」
「承知しました」
「公鷹、あなたは明日も出仕があるでしょう。もう休んだほうがいいですよ」
突然話を振られて公鷹は狼狽えた。正はまだ回復したとはいえない状態に見える。そんな彼を置いて、自分は出仕しなければならないのだろうか。それに、昨夜事件が解決へ向かったばかりなのに、自分に何ができるというのだろう。
それらを整理して問いただせない公鷹の挙動を眺め、堯毅はちょっと笑みを浮かべた。
「彼はもう大丈夫だと思いますよ」
一番に聞きたい、しかしそうできなかったことの答えを聞けた公鷹がぱっと表情を輝かせ、それから恥じたように慌てて顔を伏せる。そんな公鷹の肩に労わるように手をかけて、堯毅はにこやかに言い放った。
「既に別当殿には使いを立ててあるので、私はこれから使庁へ参ります。明日はあなたの有識としての才を発揮する、いい機会になるでしょう」
「えっ」
「さあ、女房殿。公鷹を休ませてください」
狼狽する公鷹の周りに、すばやく橘家の女房たちが集まった。なにしろ親王の指示である。速やかに従わなければどんなお咎めがあるかわかったものではない。
「さあ、若。ご下命ですから」
「いやでも」
屋敷の主たちが混乱を極めているのを横目に、堯毅は智也の手を借りて立ち上がっている。
使庁へ行って何をするのだろう、とは思ったが、それよりも堯毅をこのまま出発させるわけにはいかず、公鷹は百瀬の手を抑えて板の間に手をついた。
「お待ちください、我が屋敷にも八葉車ぐらいはございます。堯毅さまにお乗りいただくには粗末に過ぎますが、お体のためにお使いいただきたく。急ぎ支度を整えますゆえ、どうぞ御座にてお待ちください」
ひと息に言って平伏する。親王である堯毅を八葉車になどとんでもないことだが、突然ここへ来ることになって、生来体の弱い堯毅は体力を消耗していることだろう。それに、今から堯毅の屋敷へ使いを立てて車を呼んでも時間がかかる。
公鷹の言葉を聞いて、智也は普段引き締めている表情を緩めた。もとより公鷹に頼むつもりでいたので、先回りして彼から言上してくれたことはありがたい。
堯毅は嬉しそうにふふ、と笑うと、「わかりました」と答えた。


 堯毅が到着した時、検非違使庁はまだ上を下にの大騒ぎだった。なにしろ推定ながら、都を騒がせていた夜討ちの賊をまとめて捕らえた上、その首謀者と思しき衛門府に勤めていた者を捕縛済みなのだ。
全員の調書きを作らなければならないし、そのためには全員の聴取を行わねばならず、さらにそのためには追捕時に傷を負った全員の手当てが必要ときている。
日常的に怪我の多い検非違使たちの傷を診る医師は公的には存在しなかったが、これまでは都の内で医薬に詳しいものを募って、必要に応じ対応していた。だからその医師を呼べばいいのだが、そこへ仮にも施薬院別当である堯毅がやって来たのでは、いくら気に入らないとはいえ検非違使別当が断って帰すわけにはいかなかったのである。
「突然訪問しましたのに、ご丁寧に対応いただきありがとうございます」
にこやかな堯毅にそう言われ、別当は渋面を隠しもしなかった。
 検非違使別当、藤原実貞(さねさだ)は小柄ながらがっしりした体格の、武人らしい風貌の人物だ。名家の徴である下り藤を額に戴いていながら、四角い顎とへの字の口の印象が強すぎて、上流貴族らしさを損なっているように見える。
「親王殿下に怪我人の処置をさせて、お喜びいただけるとは思いませんでしたな」
「尹宮さまは傷つき苦しむ者を見過ごせないお方なのでな」
ついてきた菅原智也が眉ひとつ動かさず応じた。左衛門佐である智也に対し、検非違使別当は右衛門権佐の職にあり、見知った者同士だ。用向きはともかく智也が使庁に来てもなんとも思うまい。しかしだ。
普通の親王は心得があったとしても、怪我人の手当てなどしないだろう。ましてや捕り物で使庁の門内には死亡した賊の死体も運びこまれている。検非違使を務める衛士であっても死の穢れに対する怖れがあるのだから、顔色ひとつ変えず門内に入ってきたこの親王の態度はもはや、異端どころの騒ぎではない。
「おや、私が施薬院別当だとご存知だからお任せいただいているのでは?」
「ですが今宵は、弾正尹宮としておいでになられたのでしょう」
検非違使別当はぶすっとした顔をしてみせた。別段この親王に敵意があるわけではないのだが、自分の半分ほどの年齢の彼が、なんの努力もなく突然弾正台の長の地位を得たことに対する不満はある。
その人事に対して最も不満を持っているのが堯毅本人だとは、微塵も思っていなかった。
「さすが鋭くていらっしゃる。では手当ても終わったことですし、今宵の用件をお話しいたしましょう――先日死体で発見された右京識少属の木下為末の事件ですが、彼の雑色をこちらで大志を務めております橘公鷹の屋敷で保護しています」
「親王殿下ともあろう方が、そのような些末な案件に?」
「私が弾正尹宮であるなら、当然のことでは?」
問い返されて別当は押し黙った。有名無実の役職となって久しい弾正台であっても、尹宮に首を突っ込まれたのでは無視はできない。どうせこの親王には追捕も裁きをすることもできないのだ、聞くだけ聞くとするか、と腹を括る。
「…すると雑色がその、右京識少属の殺しについて知っていることがあると?」
「ええ。のみならず、先ほど追捕された和田清重をはじめとする群盗たちの案件についても証言ができると思われます」
別当は眉を跳ね上げた。それは聞き捨てならない。

この半年、群盗どもにはさんざん都を引っ掻き回された。家人を傷つけられ、殺害された貴族や都人の数はきりがなく、震えあがった上級貴族たちのための護衛に人手を割かれ、時には公卿たちから面罵すらされてきた。
鈴木尚季から「群盗たちの首魁と思しき者を突き止めたので追捕の人手が欲しい」と言われた時には今一つ信じられなかったが、踏み込んだ屯所からは奪われた品――絹織物や綾、単衣、仕立てのよい狩衣や直垂、蒔絵が施された二階厨子や髪箱といった調度品、銀の銚子などが続々と見つかったのである。ちなみに米もあちこちで盗まれていたが、とうに盗人たちで炊いて食べてしまっていたらしい。
和田某が本当に群盗の首魁であるなら、何としても罪を立証し、この半年の都人や検非違使たちの苦労の報いをくれてやらねばならない。

「すぐに引き渡していただきましょう」
別当の目が据わったのを見て、堯毅はなんとも嬉しい心持ちになった。少なくとも彼は検非違使の長として、正当な怒りを抱えている。だが、彼の意には添えないので、一応申し訳なさそうな表情を作った。
「それが、毒を盛られており命が危ない状態です。なんとか一命を繋ぎとめておりますが、いつまでもつやら」
「なんと。畏れながら、殿下であれば今少し、そやつの時を稼げると?」
「ええ。時を無駄にせぬよう、聴取できることは手当の傍ら私のほうでやっておきましょう。症状が安定しだい、こちらへ運んでまいります」
別当は眉をひそめた。
雑色の命がどうあれ証言させられさえすればいいのだが、賊を引き据え罪の如何を問う勘問(かんもん)までに死なれては困る。噂によればこの宮さまは、当代有数の医師だという話だ。
ちらりと智也の方を見ると、得意げな表情で見返してくる。己が家司を務める親王の才覚に誇りがあるのだとわかる。その雑色が勘問の時までに死にそうなら、こんな余裕のある態度ではいられないだろう。
「それならばお任せいたします。ぜひとも殿下のお知恵をもって、その雑色を生かしておいていただきたい。なにしろこの半年、都を騒がせた群盗どもの勘問ですからな。ぜひご臨席ください」
怪しい武士団の調査として、大志か何かから何度か調査の許可を求められたことを覚えている。あれは確か、弾正台にも籍をおく有識だったはずだ。それも目の前の異貌の親王による指し金であるなら、弾正台の尹らしいことをしてみたいのだろう。
その程度の親王のままごとになら付き合ってやってもいい――と別当が思っているぐらいのことは、堯毅も看破していた。
「微力を尽くしましょう」
微笑んでそう言い残し、堯毅は検非違使庁を後にした。


 卯の四刻、夜が明け、いささかの寝不足を感じながら検非違使庁に出仕した公鷹を襲ったのは、怒涛のような問い合わせだった。捕らえた群盗たちの現在までの供述がまとめられ、それに対しどの程度の罰が適当かを返答するようにというものだ。故実に通じる公鷹の得手の分野であり、大志としての職務ともいえる。
気を引き締め、公鷹はすぐさま筆をとった。検非違使の役職を兼任して以来、初めての仕事量だ。積み重なった勘文の上から次々に片づけていく。といっても、群盗を構成していた武士たちの罪状はおおよそ同じようなものだった。押し込んでの家人への暴行傷害に殺人、窃盗。
中には以前にも都で盗みを働いて(むち)打ちの刑罰を受けていた者もいた。しかしほとんどは尾張から来たという者たちで、都に来る前の経歴がわからない。
「これは尾張に問い合わせないとなんとも……」
「それならこっちでやっておいた」
不意に声をかけられて顔をあげると、ちらちらと無精ひげの生えた鈴木尚季がやって来ていた。腰を上げようとする公鷹を制して入口に腰を下ろすと、やれやれとばかりに大きく伸びをする。
「結局屋敷に帰れなかったが、そっちはちゃんと寝たか?」
「はい、いくらかは」
「それはよかった……俺はよくなかった」
生欠伸をかみころしながらの話によると、使庁に戻ったところ、屯所からそう離れていない場所で件の武士団に所属する武士の死体が見つかったという報告があったという。屯所の見張りをさせていた放免に確認したところ、踏み込む一刻前に小者を連れて出た武士だとわかった。その者は屯所に戻る前に殺害されていたということだ。
「考えられるところでは、和田の屋敷に報告に行った後で殺されて放り出された、だろうな」
「口封じということですか……和田の勘問はどうなっていますか?」
尚季は素直にもうんざりした顔をしてみせた。
誣告(ぶこく)だと言い続けているな。誤魔化そうったってそうはいかん。武士団の者が転がり込んだ現場を押さえたのは大きい。だが他にも証拠が欲しいところだからな、奴と奴の武士団について尾張に使いを立てた」
順当だが、果たして成果があるだろうか。尾張でなんらかの罪を犯していれば記録にも残っているだろうが、そうでなければ何の手がかりも得られない。
「和田の経歴はわかっているんですか?」
「ああ、たいしてないからな。左衛門少尉の前は伊賀(いがの)(すけ)、その前は和泉(いずみの)介、で大和(やまとの)(じょう)。こういう奴は前にも何かしでかしているものだ。伊賀、和泉、大和からの訴状を調べさせている」
なるほど、と公鷹は思った。確かに初犯が群盗を率いての都での群盗騒ぎなど、ちょっと考えづらい。介や掾ということは、近隣の国の国司の補佐や書記などの任についていたようだが、前職でも何か問題を起こしていると考えるべきだ。そのどこかでおそらく木下為末と出会っているのだろう。そうなるといっそう、正の証言が重要になってくる。
だが、あんな状態の正から聴取をしなければならないのか。
思い悩んだ顔の公鷹を一瞥し、尚季はちょっと笑った。
「まあ、大志は有識だからな。そこにある分が終わったら昼で帰ってかまわん。九条殿によろしくな」
「ありがとうございます」
公鷹が礼を述べると立ち上がってひらひらと手を振り、尚季は仕事へ戻っていった。


 公鷹が出仕してまもなく、それを見送った千央は眠たい目をこすりながら、正を寝かせた房へ戻った。簀子縁でぐったりと横たわる正は、しっかりと呼吸している。徹夜で吐かせ続けた千央も消耗しているが、正直、こんなにも痩せ衰えた体の正が持ちこたえるとは思っていなかった。
「たいしたもんだぜ」
ごちたその時、透渡殿を通って西の対から智也がやってくるのが見えた。深夜に外出を繰り返した堯毅を屋敷まで送って寝かせてきたのだ。
合流した二人はまず、一通り現在の状況を整理した。
「群盗は捕縛、首謀者と思しき和田清重も捕らえた。残存勢力はありそうか?」
「使ってた武士団が何度か目減りしてんだ、あるならもう投入してんだろ。木下為末と繋がってたんなら、奴の殺害も和田が犯人じゃねえのかね」
尻に火がついたと知って先手を打った可能性は大いにありうる。なにしろ左京大夫や公鷹を暗殺し、京識と検非違使を機能不全に陥れようとするほど豪胆な群盗たちだ。
 問題は、和田にとって重要な駒であるはずの佐伯伊之の死だ。これは和田や木下にとっても計算外の出来事であったらしく、手下の武士団の者たちに聞き込みをさせていたようだ。
ろくすっぽ出仕していない上に、まったく関わりのない役職の千央には理由がまったく見当もつかない。
「最初にも言ったが、人事考査の内容で知る限り、楽しいこと以外に興味がない質だ。遊び友達はいただろうが、その付き合いの範囲でそんなに恨まれそうではないからな」
「そうなると、あの童がどこまで知ってるかだよなあ」
千央が顎で指し示す先を、智也は眉間にしわを寄せて見やった。正を起こして食事を摂らせ、証言をとるよう堯毅から言付かっている。ため息をついて千央との話を切り上げると、正の傍らに腰を下ろした。
正は簀子縁に置かれた畳の上で、荒い呼吸を繰り返していた。体に合っていない大きな直垂、括袴も脛巾も暗色で、どう見ても夜闇に紛れるためのものだ。肩に手をかけてから、驚かさないよう声をかける。
「正といったな。何か食べられそうか?」
落ちくぼんだ目が開き、視点がさまよった後に智也で焦点を結ぶ。警戒の結果か一瞬体を縮こまらせたが、すぐに脱力した。
「……き、公鷹、は」
「彼は出仕している。誰かに毒を飲まされたことは覚えているかな。君の主だった木下為末殿のこと、その他、君が知っていることをまとめて、検非違使に知らせなければならない」
手を貸して助け起こすと、正は体を震わせながら従った。
百瀬が運んできた粥の椀を受け取り、智也が少しずつ飲ませる。その横に腰を下ろした千央も、百瀬に水飯をもらってかっこんだ。茄子の漬物をつまんで食事を終える。時間をかけて粥を飲み終えた正の顔色はいくぶん良くなった。女房に器を預けて下げてもらうと、智也は元通り正を横たえた。
「……為末さま……のことは……」
言いよどみ、目が泳いでいる。正が知っていることを喋りやすくなるよう、智也は昨夜のことを端的に伝えることにした。
「まず、和田清重は昨夜、都を騒がす群盗の首魁として追捕された。彼の武士団もだ。木下為末が和田清重と親しくしていたこと、左兵衛佐だった佐伯伊之の紹介で京識の職を得たこともわかっている。木下為末が和田清重と知り合ったのはいつだ?」
唇をきつく噛んだ正は、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
 八年前、すでに和田清重と木下為末は行動を共にしていた。そもそも和田清重に拾われた彼は、雑色として粗雑な扱いを受けてきた。和田が大和や和泉、伊賀国で介や掾を務めて蓄財し、どうやってか都で官位を得たため一年前に都へ連れて来られ、木下為末の雑色とされたという。
「二人が何か罪を犯すところは見たか?」
正は苦しそうに表情を歪めた。強く噛んだ勢いで荒れた唇が破け、血が流れる。
「……八年前、おれの郷は為末さま……為末に、焼かれた」
「焼かれた? 焼き討ちに遭ったのか?」
こくりと頷く正の瞳は、かわいて虚ろだった。

 その夜は荘園内で一斉に稲刈りが行われ、税として納める稲を倉に納められたお祝いで宴が行われた。誰もが笑顔で、今年の稲の出来や、新しい稲の育て方を導入した田堵(たと)を褒め、喜んでいた。
そんな郷が、郷人が、見るまに炎に包まれた。
人々がまだ酒に興じていた夜半、郷のあちこちの家から火の手が上がり、空が真っ赤に焼けていった。太刀や弓を持った男たちがどこからともなく現れ、時折弓を射て郷人を追い立てる。
堀と塀に囲われ安全だったはずの田堵の屋敷も、何故か内側から門が明けられ男たちが雪崩れこんできた。門番を殺して門を開いた者には見覚えがあった。

他の郷よりも余裕がある郷には時折、他所から逃げてきた流人が現れることがあった。何日か前にも二人の流人が保護され、田堵の家で面倒を見てもらっていた。その二人だ。

 武装し血にまみれた男たちは、郷の人々を田堵の屋敷の傍に追い込んだ。田堵の一族も屋敷から連れ出され、郷人たちと一所に集められる。
群盗だ、と誰かが怯え騒ぐのが聞こえた。
そして、人々そのものに火が放たれた。
逃げたくても、周りにはぐるりと太刀や弓矢を構えた男たちがいる。身が焼ける苦痛に耐えきれなくなった郷人が走りだせば、すぐさま斬りつけられた。
悲鳴と怒号、炎が渦をまく。
母が子をかばい、父が母をかばい、抗うものは刀や矢の餌食になって炎に舐められた。
そうして、包囲する男たちが残虐な笑いをあげる中、人々は命尽きていった。

自分がその一員にならずに済んだのは、母が咄嗟に屋敷の中にあった蔵に押し込んでくれたからだ。塗籠を含めて屋敷のすべては家探しされたが、自分がいた倉は塗籠の床下にあり、盗人が一見しただけでは見つからなかった。
人々が屋敷の傍に集められてから蔵を出た自分は、裏側から屋敷の床下に潜りこみ、表側へと這いずっていって、惨たらしいさまを目の当たりにした。
妹を抱えこんだ母が炎に包まれるのも、父が刀を持った男にひどく殴られ、蹴られ、火をつけられ絶叫するのも見た。
屋敷に入り込んだ流人の片方が群盗たちを指揮していること、炎に照らされた顔の左側一面に、疱瘡によるものらしい痘痕があることを必死に覚えた。

やがて、村人たちが動かなくなると、群盗たちが屋敷に火を放つ。屋敷の裏側からも火をつけるために男たちが回り込む前に、必死で床下を這いずった。燃え落ちる塀を越え、堀に身を沈めて息を殺す。男たちが近づくたびに精一杯息を吸ってから、頭まで沈みこんだ。
見つからないよう、気づかれないよう、息を堪えて、堪え続けて――。

 正が語ったのは智也はもちろん、千央も顔を強張らせるほどの虐殺だった。廂に控えていた百瀬は顔面蒼白、倒れていないのが不思議なほどだ。
手が止まっていたことに気がついて、諸成(ぐみ)を口の中に放り込み、千央は嚙みつぶした。甘酸っぱさが好きな水菓子だが、今はあまり味を感じない。飲み下して声をあげた。
「為末がな……生き残ったのはおまえだけか」
こくりと正が首肯する。
「堀に飛び込んで、死んだふりしてたら……朝、役人が来た」
郷ひとつ焼けるほどの火勢なら、付近の郷から通報があって郡司が来たのだろう。当時八歳だったという正は役人の名前を覚えていなかったが、そのまま郡衙に保護された。
 しかし、何故かそこに木下為末が現れ、虐殺の犯人を目の前にして正は恐怖で口もきけなくなってしまった。次いで木下と親し気な和田清重が現れ、気が付いたら和田に引き取られることになっていたのだという。
「その頃は……為末さまは木下でなく、大木という姓で」
そこまで話して、正は荒い呼吸を整えることに時を費やした。考えてみれば無理もない。朝から息を切らせながら身の上を話すこと一時、少し休ませる必要がある。
一通りの話を聞くままに書きつけていた智也は、腹の底から深く息を吐いた。千央を振り返るとさしもの彼もみごとな渋面で、互いに同じ感想であることがわかった。
「姓を変えていたのか……さすがに聞き流せる話ではないぞ。訴状を作るべきではないのか」
「ったってよ、どこの話かわからねえんじゃ」
「和泉国」
二人の会話に割り込んできたのは、まだ息が荒い正だった。
「和泉国の貴人の荘園、で、日根郡……や、八田部(ごう)
「矢田部……郷司(ごうし)の名も矢田部か?!」
振り返った千央が重ねて問いかけたが、正は疲れのためか、目を閉じ眠りに落ちていた。
智也と千央は顔を見合わせた。しばらく寝かせるしかない。苦笑した智也が畳の縁を掴み、正を乗せたまま簀子から廂へ、次いで塗籠へと引き入れた。




 昼過ぎに公鷹が屋敷に戻ると正は眠っていた。智也による勘文は一通り出来上がり、和田と木下の所業も概ね明らかになっている。その内容は、目を通した公鷹も言葉を失うものだった。
「つまり木下為末が商人の荷や、貴族の購入品や贈答品の荷運びの予定とか日時といった、京識のお役目で知ったことを和田さまにお伝えして、それを次の押し込み先として武士団に伝えていた……」
「まさに獅子身中の虫だな」
普段温厚な智也だが、今はめったに見ないほど険しい表情をしていた。
 京識は都において税の徴収や屋地の売買、訴状の調査と証明などの管理も担っている。逆にいえばいつ、どこに米や絹織物などの貴重品があるか、どこの家が裕福なのか、どこが土地を買うための財を用意しているかなどを知っているということだ。群盗の押し込み先がやたら適切だったからくりが、これだったのだ。

 否、貴族の屋敷のみならず、最終的に大内裏に押し込むつもりだったのではないだろうか? 以前にも宿直の者たちの手抜かりで、大内裏に賊の侵入を許したことがあった。和田自身も衛門府に所属しているが、宿直による見回りの時間や警固が手薄な場所などの情報を得るためだった疑いがある。
内裏すら標的だったのか。もしや、今上帝のおわす内裏にも?

その不遜さに寒気を覚えた公鷹が唖然としていると、智也はもの思わしげに唸るような声をあげた。
「検非違使のほうはどうだ。大きな怪我をしていない賊はもう拷問にかけているだろう?」
「はい。屯所で捕縛された賊のうち二人が、都での夜討ちや強盗の内容を自白し始めています。あと、被害を受けた家の者を呼んで、賊の面通しを行っています。ただ、賊の誰一人として、和田清重が首魁であるとは言いません」
 着々と群盗たちの証拠固めは進んでいるが、首魁を押さえられなければ意味がない。和田清重も決して認めないだろう。今のところ物証がないので、共犯者ないし手下による供述が必要だが、このまま自白が得られなければ解き放ちになるかもしれない。
智也の勘文を開いて再び目を走らせ、公鷹は呟いた。
「正は、和泉国にあった貴人の……どなたか皇族の方の荘園の出なのですね」
それも保司(ほうし)の子だった。保司はいわば在地の豪族である郷司の一族で、矢田部郷の中でも田地の開発を担っていた、田堵と呼ばれる有力者だ。正が八歳の時点で群や郷の名前を知っていたということは字を読めたということで、おそらく跡継ぎとして教育されていたと思われる。

二人で難しい顔をしていると、百瀬が千央の再来訪を告げた。まもなく百瀬の案内で、彼が透渡殿をやってくるのが見えてくる。てっきりまだ屋敷の中にいると思っていた公鷹は、素直すぎる感想を口にした。
「千央さん、出仕していたんですね」
「出仕じゃねえよ悪かったな、心底意外そうな言い方するんじゃねえよ。追捕使(ついぶし)やったことがある知り合いんとこに行ってきたんだよ」
追捕使は都の外、地方における軍事を司る職である。かつては南街道における海賊対策の臨時職だったが、今やあちこちの街道沿いに出没する凶賊を取り締まる重要な役職となっていた。彼らは追捕が必要な罪人相手に、訴状を取り扱う検非違使と連携している。
「千央さんて本当に顔が広いですね」
「俺の取り柄だかんな。で、知り合いの任国は和泉国じゃなかったから、八年前に和泉国を担当した奴に使いを立てて聞いてもらってる」
「そうか、よくやった。事の次第は堯毅さまにお知らせして、和泉にある荘園がどなたのものかお調べいただいている。今できることはそのぐらいか」
智也が鷹揚に頷いて言った。しばしの沈黙の後で、千央が首を傾げて口を開く。
「木下と和田が荘園の郷焼いたって話、あの童が証言しねえと訴えられねえよな。証言させられると思うか?」
「それって僕に聞いてるんですよね……」
気分が落ち込むのを公鷹は感じていた。

 正が日根郡の郡衙に保護された以上、問い合わせて記録を辿ってもらえれば、正のいた郷が焼失したことは立証できる。当事者の正が証言すれば木下の罪状を、ひいてはつるんでいた和田を告発できるわけだ。正の郷を焼いてどんな利があったのかはわからないが、正にとっては何の関わりもない理由でそんな目に遭ったのだ。
「正の様子を見てきます」
公鷹は立ち上がって、寝殿の西に位置する塗籠へ歩み入った。三方を壁に囲まれたここは、普段は物置として使っている区画だが、日中でも日差しが遮られるため眠りやすく、守る上でも都合がいい。
正は苦しそうな顔でうなされているようだった。額に脂汗を浮かべ、何か苦しげに呻いている。耳を寄せてみてやっと聞き取れた。以前会った時よりもさらにやつれて、解毒で体力を費やしたせいか目の下には隈ができている。
「……いや、だ……こ、ろさ……いで……」
胸が痛んで、思わず唇をかみしめた。こんなにうなされるほどに、日常的に死の恐怖を刻みこまれているのだ。それも八年も前から。
かすれた声が気の毒で、公鷹はそっと正を揺さぶった。何度か試みると、半ば跳ね上がるようにして正は身を起こし、塗籠の奥側の壁に張りついた。しばらくしてやっと公鷹を認識したらしい。目を瞠って口を開いた。
「きみ、たか」
「うん、僕だよ。もう大丈夫だよ」
そう声をかけると、正は全身の力を抜いた。ぜえ、と正の喉が音をたてる。毒を抜く間によほど汗をかいたらしく、だいぶ大きい麻の湯帷子をまとっていた。家人の誰かのものを着せたのだろう。
「正、水は? お腹は空いてない?」
正は力なく首を振ったが、水指(みずさし)から椀に水を注いで渡すと一息に飲み干した。椀を置くと震える両手で顔を覆い、長い長い吐息をつく。何から言ったらいいのか考えたが、こんなに怯えさせたことを謝ることから始めるしか思いつかなかった。
「知ってることは話してくれたんだよね。ごめんね、怖い想いさせて」
顔を覆ったまま、正がこくりと頷く。
「あいつらを罪に問うには、検非違使庁で正に証言してもらわないといけないんだけど……」
しばらく、正は何も言わなかった。やがて手を湯帷子で拭って、涙のたまった目をまっすぐ公鷹へ向けると、震える声を絞り出した。
「……こわい、んだ……」
「え?」
「……怖いんだ。つ、捕まらないためならなんでもしてきた人だから……殺されるんじゃないかって思ったら……怖くて、言えない」
予想どおりの答えだった。そもそも彼らの支配下にあり、日常的に暴行を受けていた正が、和田の前でまともに証言できるとは思い難い。ひとまず別の話をしようと公鷹は決めた。
「じゃあ、その話はおいといてさ、正。もしよかったらなんだけど、うちに来ない?」
一拍おいて、正がぽかんとした顔で公鷹を見返した。
「……え?」
言うだろうな、と思っていた千央は、干した(なつめ)を口に放り込んだ。戻ってきた時に百瀬に水菓子を頼んであったのだ。公鷹の屋敷は特に水菓子の取り揃えが良く、美味いものが口にできる。寝殿で智也と目線を合わせたまま、公鷹の話を聞く。
「うちはさ、主の僕が大した役職に就いてないけど、祖父も父も受領だったから蓄財はしてるんだよ。自前の領地と別邸もある。正にうちで働いてもらうことはできるよ」
――かといって。智也がそうも思ったのは、こんな童とはいえ、軽々しく引き受けることが難しい現状にあったからだ。公鷹は出仕を始めたばかりの若輩だ。他所の、それも罪人と思われる者の雑色を使うとあっては、今後の出世の障りになるかもしれない。
ことによったら、あの童も片棒を担いでいるかもしれないのだ。そうなれば身分を考えると、まどろっこしい手続きはなしで童だけ斬られて終わる可能性もある。いわゆる上流の貴族は、下人のことを日々使う食器ほどにも思っていない。
心底驚いた顔で公鷹を見やっていた正は、やがて、ぽろぽろと涙をこぼした。顔をくしゃくしゃにしてしばらくの間嗚咽を漏らす。
「……おれ、みたいな下人のこと……そんなに、考えてくれて」
「下人とか貴族とかじゃなくて……前にも言ったけど、僕は正と友達になりたいから。うちに来てくれないかなって、思ってるんだけど」
 公鷹自身、今の状況で正を迎え入れることに障害が多いことは理解していた。ただ、友達になりたいのは本当であり、正が安心できる環境を用意したいと心から思っている。その結果、知っていることを正が話してくれたら、何よりも正自身のためになるはずだ。もし彼が何か罪を犯すことを強要されていたのなら、酌量を求めるためには自供こそ必要だから。
今までとは違った様子で涙を流す正は、しかし、どこか諦念を漂わせる笑みを見せた。
「……あ、りがとう。そ、そう、思ってくれてるだけで、おれにはもったいない、よ……」
壁にもたれたまま顔を覆い、正は吐息のような声をこぼして身を縮めた。それきり、何を言っても何も答えず、小さく体を丸めて動かなかった。
まるで公鷹の前から、世界から、消え去ろうとしているようだった。


 戌の二刻を告げる鐘が鳴ってまもなく、唐廂車が橘屋敷の門をくぐった。三野夏清の案内で東中門を通り、寝殿の南面に車がつけられる。蘇芳簾(すおうみす)が巻き上げられ、いつものようにすっぽりと帽子をかぶった堯毅が顔を見せた。智也が前板に置いた沓を履き、彼の案内で再び寝殿へ上がる。上座に設えられた御座へ座ると、堯毅は千央に笑顔を向けた。
「すみませんが車に置いた文箱を持って来て、あと、籠の中に淡雪がいるので連れてきてもらえませんか?」
「はい。でもあいつ、俺の顔見ると逃げるんですよね……」
ちょっと悲しい顔になった千央は、ややあって文箱を小脇に抱え、籠は両手で抱えて戻ってきた。逃げられる懸念から、籠から出すことを断念したらしい。
すべての妻戸が閉められ、籠から出された淡雪は嬉しそうに走り回り始めた。まずは部屋の奥に置かれた二階厨子の脚にじゃれつき、陰に入ろうと足をばたつかせる。
微笑ましそうにそれを見やってから、堯毅は一同を労った。
「皆、今日もご苦労でした。公鷹、淡雪を放してすみません。持ってきたのは写しですが、そう簡単には写しが取れないのですよ。鼠に齧られると困るので連れてきました」
「お気遣いいただきありがたく存じます。書庫別当殿が当家を気に入ってくださるといいのですが」
「機嫌が良さそうですよ」
跳ねまわる淡雪を嬉しそうに眺めて堯毅が笑う。文箱の中から大量の木簡を堯毅の前に置いて、千央は彼なりに難しい顔をした。
「堯毅さま、群盗どもですが、大方が都で行った略奪について自供しています。しかし誰も和田が首魁だと吐かないため、和田が濡れ衣だと主張し面倒なことになっております」
「とはいえ、おまえと鈴木の少尉が、屯所から逃走した賊が逃げ込むところを押さえたんだろう。簡単には解き放ちにはなるまい」
智也の指摘に千央が「そうなんだけどよ」と応える。いつもより大きな声で行われるこのやりとりが、正に聞かせるためなのだということは公鷹にも理解できた。右手奥にある塗籠の入口へちらりと目をやった堯毅が、「そうですね」と話を引き継ぐ。
「そのための、この写しです。皆、目を通してください」
促されて木簡を手に取り、紐解きながら公鷹は首を傾げた。
紙は高価なものだが、堯毅の立場で惜しむとは思い難い。書き写す際に木簡を選んだということは、紙と違って改竄するのもされるのも難しいという属性が重要だということ。つまりかなり重要な情報ということだ。
「これは何の写しなんでしょう?」
「あなたが今持っているのが、八年前に焼亡した、和泉国の白露荘園内にあった八田部郷の倉に納められていた品の一覧です。今上帝の姉である春花門院さまご所有の荘園でした。こちらが同荘園内の、北松郷の蔵の一覧です」
 春花門院といえば、生後すぐに生母を亡くしたという堯毅の育ての母だと聞いたことがある。養母と養子という間柄ではあるが、まさに貴人中の貴人、その財産目録の一部ともいえる内容だけに、確かに簡単に写すことは難しいだろう。取り扱いには注意を要する。
「北松郷の蔵はいかがしたのでしょう?」
別の木簡を手にした堯毅に、眉間にしわを寄せた智也が問いかける。
「こちらも火災です。ただ、郷の者たちがすぐに気づいて消し止めたので全焼はしませんでした。つまり、八年前にかの荘園で、近い範囲にある倉が立て続けに二箇所、不審な火災により貢納物を失ったわけです」
この場の全員が難しい顔になった。そんな偶然があるだろうか。今上帝の姉という貴人の荘園で蔵が焼失したとなれば、原因究明のため国使が派遣され詳細が調べられる。
 もう一つの木簡に認められていたのは、郡衙に到着した国使と日根郡の群司による調査の結果だった。二人はもともと芳しくない噂のある、荘園の荘官・岡元(おかもと)真井(さない)による横領を疑った。彼が火災の前後に、納めるものもないのに蔵に出入りしていたという証言が多数あったためだ。
「あー、貢納物を引き出した後で蔵に火を放って、失火で焼亡したように装ったと」
「ええ。そこで他の荘官が横領と放火の罪で岡元を検非違使庁に訴え、使庁も和泉国国府に岡元の追捕を命じましたが……」
岡元は死体となって発見された。当時の和泉国の国の守は権官で、現地の最高責任者は介の和田清重しかおらず、和田が岡元の死を報告して事は終わった。

 つまり当時和泉介だった和田清重は、当時は大木姓だった木下為末と岡元真井と共謀し、国内の貢納物を収めた倉に火を放ったのだ。目的はおそらく、貢納物の横領。どちらの倉にも税として納める稲の他、八田部郷の蔵には葛根(くず)や桔梗、人参などの生薬の材料が納められていた。足がついた岡元を殺害し、横領品をすべて手に入れたのだろう。

しかしそうなると、岡元一人に容疑がかけられた北松郷と、正のいた八田部郷とでは状況が大きく異なる。八田部郷は郷人が正を残して全滅しているのだ。
「八田部郷の火災は、どのように報告されているんでしょうか」
公鷹の問いに、堯毅が別の木簡を提示した。
「こちらは群盗による襲撃の疑いとされています。当時摂津、和泉、河内では群盗による被害が頻出していて、推問追捕使が派遣されていました。彼らの調査により、賊の拠点が和泉にあるとの疑いがありましたが、その後群盗は鳴りを潜めます」
推問追捕使は都から遣わされ、群盗の捜索などを国境を越えて行うことができ、必要に応じて発兵もする。特定の国に常駐している追捕使と違い自由度が高い。
「北松郷の蔵の被害は稲だけですが、矢田部郷の蔵は全焼で全損です。余さず手に入れるために襲撃を選んだのでしょう。その上で、彼らは一度この地を去った」
 群盗の拠点は推問追捕使が当たりをつけた三国の中にはなかった。和田清重が首魁であると考えるなら、彼の家や一族、率いる武士団の屯所があるのは尾張なのだから、すぐ引き上げさせることができる。捕まらなかったことも説明ができるのだ。
「童が見た、木下と一緒にいたもう一人が、その岡元という荘官だったとすればありえますね。童もそれ以降見ていないですし、その頃から足がついた仲間は殺してきたのでしょう」
智也がうんうんと頷く。結果として証拠不十分で推問追捕使は都へ帰還し、白露荘園の蔵の火災の真相は明らかにならないままとなっていた。和田の関与を実証できれば、少なくとも彼の留置を延長して、改めて拷問にかけることもできる。
「もう一つ。薬材を奪い去ったものの、尾張で捌ききれなかったのでしょう。恐らく彼らは都に来てから、薬材を少しずつ売っています。彼らが薬材の正しい扱いを知っているとは思えませんから、状態の悪い薬材が都に出回っている理由も説明がつきます」
大切な薬の材料を粗雑に扱われたことに立腹しているのか、幾分機嫌が悪そうに堯毅が話をまとめた。
いつの間にか狩衣の裾にじゃれついていた淡雪を膝に抱き上げて撫でながら、公鷹は複雑な心境だった。正に無理強いはしたくないが、彼の身の安全を図る上でも、彼の証言は必要なのだ。
何もかも拒絶するような様子の正を、どう説得したものか――そう考えていると、かすかな音をたてて塗籠の引き戸が開いた。

 相変わらずやつれてげっそりとした印象は変わらないが、濁った水のごとく何も映さなかった正の目は、やっと生きている人間のものに近づいたように見える。戸にすがりつくように立った正は、蚊の鳴くような声で言った。
「……おれが、言えば。あいつを牢屋に入れられる?」
公鷹は一同を振り返ったが、任せると言わんばかりに誰もその言葉に応じない。正に向き直った公鷹は頷いて見せた。
「牢屋どころか流刑にできるよ。もう正に何もできないぐらい、とびきり遠いところに」
仏教が渡来し広く信仰されるようになり、慈悲の教えから極刑という刑罰はなくなった。とはいえそれが建前であることは誰しも知るところで、実のところ遠流にでもなろうものなら、粗末な生活に堪えられない育ちのいい貴族であればあるほど、生きては帰れないという面もある。
「証言って、どこでするの?」
「群盗が掴まってる検非違使庁なんだ。ここからすぐだよ」
突然公鷹が身を乗り出したことに驚いたのか、彼の手の中から淡雪がぴょんと飛び出して堯毅の膝元へと戻っていった。そう聞いた正が、覚悟を決めたように唇を噛む。
「……わかった。言う」
思いがけない言葉に、公鷹は一瞬、正が何といったのか飲みこめなかった。
「ほんと?!」
こくりと正が首肯する。目を丸くしている公鷹をよそに、千央が渋い顔で口を開いた。わかっているとは思うが、釘はさしておかなければならない。
「……おまえが心配してるとおり、あいつはとんでもねえ奴だ。逃がすわけにはいかねえが、おまえの身も絶対安全にできるとは言い切れねえ」
「千央さん!」
「本当のことだろ。群盗は全員ひっ捕らえたと思うが、あくまで『思う』だ。俺たちが知らない和田の手下がいたらどうしようもねえ」
勘問を受けている和田が、馬鹿正直に全ての配下の供述をするとも思えない。手下たちだとて同様だろうから、この危険性を伝えずに証言をさせるのは公正ではない。
千央としてはもう一つの意図も込めてのことだが、正はもう一度頷いた。
「それでもやる」
明らかに緊張した様子が見えて公鷹は心配になったが、彼の視線を受けた堯毅は頷いてみせてから正に笑いかけた。
「では、もう休んでください。明日は使庁で群盗たちの面通しと、追捕時に斬り死にした者たちを見ていただきます。疲れると思いますからね」
「わかった」
素直にそう言うと、正は塗籠の中へ戻っていった。それを見送り、公鷹がなんとも言えない顔で三人を振り返る。言いたいことが顔いっぱいに現れていたため、溜息をついた智也が笑みを見せた。
「そう不安そうな顔をするな。彼が証言してくれるならその方が助かるだろう。先ほど千央はああ言ったが、行くのは衛士がうろうろしている使庁だぞ。滅多なことはないだろう」
ある意味で、これ以上安全な場所はないはずだ。正が手下として働いていたのなら、顔を合わせれば和田から反応を引き出せる。
「それはそうですが……」
むしろ和田に会わせた後のことが公鷹は心配だったのだが、正のためにも、役目上もこれは避けられない。せめて傍について、できる限り恐怖を解消してあげなければ。
公鷹が前向きに気持ちを持てたのを見てとった堯毅が、木簡を元通り巻き直しながら全員を見回して微笑んだ。
「彼も不安でしょうから、明日は千央と公鷹がついていてあげてくださいね。私は気になっていることがあるので、明日は弾正台で調査を行います」
「わかりました、お任せください」
堯毅の指示とあれば否やはない。深く一礼し、千央は即答した。


 明けて翌日、五月十六日。朝一番で検非違使庁に使いを立てて鈴木尚季の了承を取り、巳の一刻になるころ、千央と公鷹は正を伴い使庁を訪問していた。門で待っていた鈴木に迎えられ、三人は追捕者の記録を管理している府生(ふしょう)のもとへ案内される。
「いやいや、証人まで確保するとはさすがに弾正殿だな。こちらで確保した賊どもからは、まともな証言をさせられそうな者が一人としていなくてな。さすがだな九条殿?」
「喧嘩売ってんだな? 売ってるとみなすし一等いい値で買うぞ」
どうやら一睡もしていないらしい鈴木に絡み倒され、千央が引きつった笑顔を披露した。
「千央さん、ここ弾正台じゃないんで。使庁なんで」
鈴木に掴みかかりそうな千央を制し、彼と鈴木の間に挟まって歩きながら、公鷹は傍らの正の様子に注意していた。まだ毒が抜けきったわけではなく、目が離せない。顔色が悪く足元もふらつきがちだが、なんとか歩けているようだ。
その様子をちらと眺めて鈴木が公鷹に水を向けた。
「その者が大志の顔見知りで、一味だったという雑色か」
「はい。屯所に踏み込まれる前に毒を盛られ、昨夜は生死の境をさまよっていました」
その言葉に嘘がないのは見て分かった。どう見ても長生きしそうにない。昨夜の捕り物で取りこぼしなく全て捕らえたと思っていたわけではないが、出てくるのが早くて探す側としては助かった。
その「死にかけ」が、不意に口を開いた。隣を歩く公鷹の衣の裾を引いて訴える。
「……あの。ほんとにちゃんと捕縛されてるか、不安で……和田さんが捕まってる房が見たいんだけど……」
語尾がどんどん小さな声になる。これから証言する立場である正にとって、和田が捕まっているという確証が得られないのは気がかりなことにちがいない。公鷹は鈴木を見上げた。
「少尉殿、和田の房を彼に見せても問題ありませんか?」
鈴木は暫時考えた。
 口封じに殺されることを恐れる手下が、首魁の囚われた房を見たいというのは心情としてわからないでもない。だが、不測の事態は避けなければならない。例えばこの下人が、別の黒幕によってかつての首魁を口封じに来たのだとしたら?
「房に入ることは許可できんが、垣間見であれば」
「それでいいかい、正?」
公鷹に問われて、正はこくりと頷いた。

 検非違使が捕らえた罪人は獄舎に入れられ、勘問の時に使庁へ引き出される。この日、勘問の為に和田清重は使庁の奥まった房へ入れられていた。塗籠と同じく三方を土壁に囲まれ、入り口側に物見がついている。しっかり縛られ、柱に括られて不機嫌そうな和田の様子を覗き見て、正は長く深いため息をついた。
「気が済んだか?」
首肯し、消え入るような小さな声で「ありがとう、ございます」と言った正は、その後府生のところへ素直についていき、屯所と和田の屋敷で捕らえられた者たちの一覧を見た。
「……ほぼ、いると思います。おれはいつも屯所にいたわけじゃないので、自信ないけど」
「そうだよね。木下殿の雑色だったんだもんね」
「なるほど。では追捕者の面通しを頼みたい。わかる範囲でいいから、顔と名前を突き合わせたいのだ」
捕らえられた者が偽名を名乗っていたら困るため、証言できる者がいる際は必須だ。鈴木の言葉に、正は「はい」と首肯した。一味だったという割には素直だ。
促されるまま、今度は和田以外の賊が入れられている房へ向かう。もちろん賊の目の前に姿を現す必要はなく、彼らを繋いだ房を覗き込めるように物見がつけられていたことも利している。正は捕らえられた男たちの名前と、全員群盗の一味であることを証言した。
「では次は、捕り物の際に死んだ者たちを見てもらいたい」
斬り死にした群盗と思われる者たちの死体は、庁舎の外、東にある門の北面側に並べられていたため、その確認から始まった。
正は意外にも、怖じることなく応じた。自信がないと言ったが、正は見た者の名前を全て証言した。一部、一緒に捕らえられた者同士で名前を交換して偽名を名乗っていた賊もいたが、全て暴かれる。
淡々と確認が進んでいき、ふと気になった鈴木が首をひねった。
「木下為末を殺した者は誰なんだ? こやつらの中にいるのか?」
「……わからない、です」
正は先ほどよりもかなり顔色が悪く、ひどく汗をかいている。体に残っていた毒の影響が出ているのだろうか。胡乱げに顔をしかめた千央が聞き返した。
「いや、顔見りゃわかるだろ。わかんねえってことは、生きてるほうにいたか?」
「……もう一度見てみないと……」
ん、と唸った千央は、正と公鷹の背を押した。
「んじゃ公鷹、連れてってやれ。俺ちょっと用足してくるわ。おい鈴木、案内してくれよ」
「九条殿、殺害現場に居合わせて我々に追捕されたことがあるとは、とても思えないほど堂々としておいでだな?」
若干顔を引きつらせた鈴木が切り返したが、千央に組みつかれて抵抗が面倒になったらしい。実際、完全な部外者である千央を使庁内で自由にさせるわけにもいかない。しっかりやれよ、と目だけで公鷹に合図すると、千央を連れて渡殿の手前を曲がっていった。
 公鷹も、正の体調悪化は見てとっていた。少し休ませてあげたいと思っていたところに、木下殺害の犯人を見極めろという任務がきてしまった。
「正、具合悪そうだよ。水飲んでいこう?」
「……うん……」
呼吸も乱れてきているように感じる。朝、出がけに汁粥は食べさせてきたが、足りなかったのではないだろうか。足元のふらつきがひどくなってきている気がする。
厨の方へ向かおうとした時、何かの捕り物に出ていたのか、数人の大柄な放免が大声で話しながら渡殿をやってくるのが見えた。まるで避ける様子のない彼らのため、端に寄って横を通り抜ける。そして、公鷹は驚いて周囲を見回した。
「えっ、正、どこ?」
少し後ろを歩いていたはずの正がいない。先ほどの放免たちに巻き込まれたのかと思い、走って彼らを追ったが見当たらなかった。どこに行った、いや、連れ去られたのだろうか?
公鷹は必死に考えを巡らせる。

 そんな公鷹の様子を三つ先の房の陰から確認し、正は目を伏せた。素早く身を翻し、足音を立てずに先ほど通った廂を抜ける。使庁の最奥、重犯罪人の房の妻戸を押し開けると、中にいた和田が目を血走らせた。
「生きてたのか……いや、却って好都合だったな。薄鈍(うすのろ)、早く縄を解け!!」
縛り上げられた両手首を掲げて小声で叱責する。能面でも被ったように凍った表情のまま、正は袂から小さな刃物を取り出した。先ほど行き違った放免が腰に差していた刺刀(さすが)を抜き取ってきたのだ。
はっとした顔になった和田が後じさるが、縄が足元でからまりうまくいかない。
一言も発さず刃を抜き放った正が襲い掛かる――その瞬間、鈍い金属音が跳ねた。
「そいつを今殺させるわけにゃいかねえんだわ」
刺刀を叩き落とした千央が、にやりと笑った。


 正が取り落とした刺刀を拾いあげたのは千央だった。そのまま袂の中へすとんと落とし、忌々しげに表情を歪める正を見下ろす。先ほどまでの気弱げな様子はなく、まるで感情が読めない面のような表情をしていた。
「やっぱおまえか、木下だの何だの殺したのは」
「待て待て待て九条。こやつが犯人だとわかっていて、縄も打たずに使庁へ連れてきたのか? おまえも共謀で追捕していいか?」
「いいわけねえだろ」
千央の後ろから顔を出した鈴木が眉間を揉みながら唸り声をあげる。自分の行動はどこから読まれていたのか――体力が尽きて膝をつきながら、正は考えを巡らせた。公鷹には気づかれていない、つまり公鷹は自分ともども泳がされていたのだ。
正と、対峙している鈴木と千央を見やり、和田清重は大きく息をついた。なんとかなったようだ。飼い犬に手を噛まれかけたのは気に入らないが、あとは検非違使に始末させるだけだ。
「助けてくれ! 殺される!!」
喉も裂けよとばかりの絶叫をあげる。そこらじゅうに衛士がいる使庁の中のこと、わらわらと衛士たちが集まってきた。
「なんだ、どうした?」
「昨夜捕まえた奴だろ」
「少尉殿、何かあったんですか?」
あっというまに房の前の廂が衛士でいっぱいになる。彼らに和田は言い募った。
「おい、この童も捕らえろ、伏屈(ふせかまり)だ! 俺が殺されてもいいのか?! こいつは木下為末だけじゃない、左京大夫の闇討ちもしたし、十人以上殺しているぞ!!」
何事かと集まってきた衛士たちの間に呆れたようなざわめきが広がった。
それはそうで、群盗の首魁として捕らえられている和田が、膝をついて荒い呼吸を繰り返すやせ細った正を人殺しだと言ったところで、信憑性は著しく低い。第一、伏屈、など聞いたことがない。
「聞いているのか、無能ども! そいつを生かしておくと後悔するぞ!!」
和田はなおも大声を張り上げているが、その様子は正気を失ったようにも見える。一瞬考えた鈴木は衛士たちに向かって苦笑を作って言った。
「面通しさせてたら喚き出したんだよ。騒がせて悪かったが問題ない。持ち場へ戻ってくれ」
実のところ、こうしたことは珍しくない。さればとばかり衛士たちが散っていく。大柄な衛士たちがいなくなって初めて、公鷹が立ち尽くしていることに鈴木は気づいた。
「来い、早く」
急かされた公鷹が房に入るのを待って、妻戸を閉めた鈴木は千央の胸倉を掴んだ。
「驚かせるにもほどがあるだろう。何の真似だ、これは」
「聞いたろ。こいつがこの和田の手下にして群盗の一味、左京大夫襲撃と木下為末の殺害を行った、木下為末の雑色の正だ」
鈴木は咄嗟に言葉が出てこなかった。しかも主である木下を殺したと?
「この恩知らずが、今まで飼ってやったというのに!」
房の壁にしがみつくようにしていた和田が、冷や汗にまみれた顔で怒声を張り上げた。面倒そうな顔になった千央が、和田自身の衣を引き裂いて作った猿轡を噛ませる。それから、青ざめている公鷹を振り返った。
「しっかりしろ。おまえも有識とはいえ検非違使の一員だろ」
はっと我に返った公鷹は、膝をついている正に駆けよって問いただした。
「正、どういうことなの?」
顔を上げた正は、先ほどよりも更に顔色をなくし、ひどい汗をかいている。しかし今までになかったほどはっきりとした口調で答えた。
「……こいつの言うとおりだよ。木下為末はおれが殺した。左京大夫の随身を殺したのもおれで……公鷹の襲撃の時もいた」
思わず息をのんだ。あの夜に正がいた? 思い返してみたが、正のような背丈の低い者はいなかったように思う。
「おれはこいつらに命令されて、都でたくさんの屋敷に押し込む手伝いをさせられた。どこの屋敷に盗むものがあるかは、木下が京識の権限で調べてた。手ごわい武士がいるって噂の屋敷では、おれがそいつを殺す役目だった」
「おまえが?!」
鈴木が信じがたいといった様子で聞き返したが、千央はそれ以前の確認をした。
「おい。これは自供か?」
「そうだ」
正が即答する。先ほどまでとは打って変わって、おどおどしていた彼は眦のつり上がった別の誰かになったようだった。その目が公鷹を捕え、ふと、気弱そうに緩んだ。
「……ごめん、公鷹。でも約束は守るから」
「約束……」
それが昨夜の証言についてのことなのだと、呟いてから思い出した。猿轡を噛まされた和田をちらりと見た正が、鈴木を見上げて語を継ぐ。
「こいつは木下為末と共謀して、おれの郷を焼いて、荘園の蔵のものを盗んだ盗人だ。任国で蔵から税の稲や薬材を盗んだり、木下に群盗を預けて街道沿いに荒らさせてた。おれは襲った郷の生き残りだから、連れていかれて盗みや人殺しの手伝いをさせられた」
「荘園の蔵の窃盗だと? 誰の荘園だ」
「和泉国にある白露荘園、畏れ多くも今上帝の姉君、春花門院さまご領有の荘園だ」
とんでもない情報を千央に補足されて、鈴木が息を呑んだ。皇族の荘園まで荒らしているとは信じ難い。なぜなら、荘園での窃盗は都での窃盗とは罰則が違うからだ。都で窃盗をしても軽ければ笞刑で済むが、荘園で窃盗をしたら殺人に並ぶ大犯で死罪となる。
「だとしたらこやつは流罪では生ぬるいだろう。首を刎ねて獄舎の門にかけてやるべきだ」
眉を吊り上げて息まく鈴木を宥めるように肩を叩き、千央が首を横に振った。
「獄門にしてやりたい気持ちはわかるけどよ、今のご時世で死罪は難しいぜ」
仏の教えが伝来して以来、歴代の帝が深く仏教に帰依してきた現在、都において死罪は行われなくなって久しい。一番重い刑を選んでも遠流だ。
鈴木は正の直垂を掴んでぐいと顔を寄せた。
「他に言っていないことはあるか。今更隠し立てしようとはするなよ」
鈴木の殺気立った視線を真正面から受け止めた正が、相変わらずの無表情で答える。
「こいつが知らないこともある。佐伯伊之はおれが殺した」
「正?!」
まさかの言葉を聞いた公鷹が悲鳴のような声をあげた。足元では目を白黒させていた和田が、弾かれたように身を起こして激しく呻き始める。猿轡のせいでよくわからないが、相当怒っているようだ。手足さえ自由なら正を絞め殺しかねない勢いだった。
和田の反応など無視の構えの正が、半ば鈴木に吊り上げられながら話を続ける。
「おれはこいつの知り合いの男に預けられて、言われたことができないと死ぬような目に遭わされながら、いろんなことを仕込まれた」
 「伏屈」は主に情報収集や噂の流布、時には闇に紛れた暗殺など、主にとって物事を有利に動かす者たちを指す言葉だという。刀や矢、馬の扱い、夜闇に紛れ目的の場所に忍び込む術、山中で生き抜く術、怪しまれず話を聞き出し、流言をなす術。
師となった伏屈によって再び和田の元に戻されると、何度か群盗と共に盗みや暗殺をさせられた後、都へ連れて来られた。
雑色として和田から木下為末に預けられ、都で最初の押し込みの夜。屯所に木下と共に現れたのが佐伯伊之だった。
「……おまえ、今何を言ったのかわかってるか。左兵衛佐が、盗人と共に夜討ちをやったって言ってるのか?」
「一度や二度じゃない」
今度こそ鈴木が絶句した。権大納言にとってとんでもない醜聞――聞いただけで命の危険がある案件だ。これはもう自分の権限を越えている。手を放すと、正はひとつ咳をして緩やかに首を振った。
「あいつはおれが嫌いだった。和田の屋敷で刀を持ったあいつに何度も追い回された。盗むのも殺すのも、殺されかけるのももうたくさんだ。我慢ならなかったんだ」
だから殺した。そう話を締めた正が、続けざまに数度咳をする。
はっと我に返った公鷹は、正と鈴木の間に体を割り込ませて訴えた。
「少尉殿、正は過日附子を盛られ、昨日やっとだいたいの毒を吐き切ったところなんです。もう休ませてやってください」
「附子だと? どうしてまだ生きてる?」
鈴木でなくとも、普通附子を盛られたと聞けば死ぬものだと思うだろう。無理からぬところだったが、盛られた当の本人が解説をした。
「附子は採れた場所で効能が変わる。飲まされてすぐ甘草を摂ったし、その後は公鷹の屋敷でやたら適切に処置されたから」
「ついでに言うと、盛ったのは多分そこの和田だぜ。そうだろ?」
横から突然千央が口を挟み、暴れて体力を使い果たしたらしい和田がびくりと体を震わせた。千央は屯所から逃げた武士を追って和田の屋敷に踏み込んだ時、門前で争った跡や水ものを零した痕跡があったのが気になっていた。
 今にして思えば、検非違使が武士団を嗅ぎまわっていると気づいた和田が、自分との繋がりを立証されないよう、正の口を塞ごうとしたのだろう。
こくりと首肯する正を見下ろし、眉間を揉んだ鈴木はややあって公鷹を見やった。
「大志。和田の罪状にこの雑色の殺害未遂と荘園での横領を加える」
「はい、相当する量刑を勘申します」
「それと、この童を捕えろ」
鈴木のその言葉を予想していなかったわけではないだろう。事実公鷹は驚くことなく、うつむいて唇をかみしめた。ひと呼吸おいて顔をあげる。
「少尉殿」
「大志、酌量すべきことが大いにあるのはわかる。だが罪を犯さなかったことにはならん」
検非違使として、少尉という役職にあって、鈴木はそうあるべきだと思っている。事情があったから罪に問われない、となったら、この世は無法に晒される。
とはいえ、今明かされた正の事情は、公鷹にとって納得できるものではなかった。
「それなら、意にそまないことを強いられた弱者はどうしたらいいんですか? 郷を丸ごと焼かれて、それを画策した和田と木下に連れ去られて」
「おい、公鷹」
黙っていた千央が肩に手をかけたが、それを振り払って公鷹は声を張り上げた。
「正はただ、故郷で生きていただけです。いきなり焼き討ちされて、盗みや殺しをさせられて、恨んで当たり前じゃないですか! 正は悪くないじゃないですか! こんなの――」
言い募ろうとした公鷹は、不意に正にどんと肩を突かれてたたらを踏んだ。驚いて見返すと、正ははっきりと怒りを滲ませた表情をしていた。
「おれが悪くないなんて、どの口が言ってるんだ」
「正」
「おれは佐伯伊之も、木下為末も殺した。おれが殺したんだ」
公鷹が何か言おうとするのを遮って正は声を荒げた。
「焼き討ちから逃げてやっと役人に拾われたのに、何があったかちゃんと言えなかった。みんなが目の前で殺されたのに、なんでか知らないけど木下が役人と一緒にいて、怖くて、何が起こってるのかわかんなくて怖くて、誰にも一言も言えなかった」
 怒りと、何かわからない別の感情で手が、足が、全身が震える。そんな己を自覚しながら、正は吐き捨てる。公鷹だって自分が何をしたかわかっているはずだ。改めて自分の口から聞けば、きっと傷つくとわかっている――けれど、もうどうしようもない。

毎晩、郷が燃え上がる夢を見る。
父、母、そして妹。郷で毎日顔を合わせていた人々が惨たらしく死んでいく。

熱風に炙られて髪がちりつき、顔も手も足も、熱くて痛くて。
あんなに水も飲んだのに、喉も焼けついていく。
それなのに涙だけは尽きることなく流れた。
笑い声をあげながら男たちが村を後にする。

堀から這い出て、闇夜を紅く焦がす郷を見ていたら、役人が近隣の郷人とやってくるのが見えて、必死の想いですがりついて――けれどそれも無駄だった。
無駄だったのだ。

この世の何をも信じない。信じれば裏切られ、得れば失うのだから。
だから、公鷹にすがりついてはいけない。こいつらを頼ってはいけない。

「いつかこいつらに殺されるんだって、そればっかり考えてた。太刀を持たされた時も、知らない屋敷から物を盗んでこいって言われた時も、怖くて、いやだって言えなかった」
ひび割れ裏返った叫びを、聞くに堪えないだろう醜い事実を、公鷹が聞いている。
親愛を寄せてくれたあの目が、武士たちや、為末や、今まで信じた人々のように、きっと蔑みに満ちる。
それを見たくない。
だから目を伏せて続けた。
「おれ、いやな奴なんだ。ずるくて汚くて、ほんとのこと何も言えなくて、人を殺して、それを黙って公鷹と話せるような奴なんだ。最低な奴なんだ」
「……正……」
言葉の接ぎ穂を失ったらしい公鷹が、泣き出す寸前のような吐息を吐き出す。
ひと時、房の中にどうしようもない沈黙が満ちた。