一
千央がひどく衰弱した正を担ぎこんだことで、橘家の屋敷は俄かに騒々しくなっていた。というのも正は発熱しているかのように顔が紅潮し、すでに立ち上がることもできず、嘔吐を繰り返し話をするどころの状態ではなかったからだ。
異状を感じた千央は堯毅に使いを立てていた。
「ともかくたらふく水飲ませてくれ。食中りとかかもしれねえし」
はなはだ適当な千央の指示に、百瀬が木桶を手に顔面蒼白で問いかける。
「九条さま、まさか流行病ということはございますまいね?!」
「そういう感じじゃないんだよなあ」
「あ、あの、まさか、呪詛とか、ひえ」
下男らしき男が同様に震えながら重ねて問うが、千央はとりあえず水を飲み続けていた。今夜は問題事だらけだ。やっと捕り物を終えて飯と酒にありつこうと思ったのに、という本音はさておき、正の状態は流行病でも呪詛でもないと確信している。
「食中りじゃねえなら毒だと思うわ」
一拍の間をおいて、百瀬と下男が顔を見合わせた。毒物。当然のことながら、百瀬が声を裏返らせて千央に詰め寄った。
「えっ?! いえ、そんな、なぜ当方の屋敷へお連れになったのです?!」
「だって、こいつここで飯もらってたんだろ? すぐそこの路地で拾ったし」
「それはっ……!」
言いよどみ、百瀬は簀子縁に倒れ伏している正の小さな背中に目をやった。正直、素性の知れない正を公鷹に近づけることに忌避感があった。言い方は悪いが年若い主が騙されているのではないかという懸念が拭えない。しかし事情を聞けば確かに恵まれない身の上で、気弱そうなあの様子を見れば突き放した態度をとるのも躊躇われた。
ここで何をされたかわからないから見捨てる、という決断が百瀬にはできない。
「……どんどん水を運んできて。大急ぎで」
「へえ」
「盥か何か……」
下男が桶を手に厨へ行くのを見送り、正の背中に手をかけようとした百瀬を千央が遮った。正の腹に手を回して軽く持ち上げたため、正が嘔吐いて体を震わせる。
「盥はだめだ、毒だったらまずいだろ。このまま地面に吐かせたほうがいい。公鷹はいつ戻るかわかるか?」
「少々前に当家の郎党から、亥の三刻ごろと伝えてまいっております」
そろそろだな。正に水を飲ませながら考えた。
まともな食事も与えられていなかったこの童が食中りなどとは思っていない。何らかの理由で――おそらくは木下為末の雑色であったから、口封じのために毒を盛られたのだろう。毒物が何かわからない以上、助かる確率はとても低い。この童の最期に公鷹が間に合うといいのだが。
もう何度目かわからないほど吐き続けている正だが、先ほどから一言も喋らなかった。弱音を吐くどころではないかもしれないが、それにしても従順だ。
重い蹄の音が近づいてくる。馬だ。この遅い時間に馬となると、公鷹だろうかと千央は思った。しかし、今夜の捕り物の一部始終を弾正台で記録して、仕事を終えた公鷹が、馬にまで乗って帰宅するとは考えづらい。すると他の屋敷へ向かう馬だったのか、などと考えている間に、屋敷の車宿が騒々しくなった。蹄の音がさらに近づいてくる。何事かと思っていると、庭の端を駆け抜けた馬が寝殿の方へ向かってくる。その鞍上。
「堯毅さま?!」
帽子の陰からちらつく銀の輝きを目にして、千央は動転した。堯毅を前に乗せて疾走してきたのは智也だ。智也は千央への返答よりも、百瀬へ断りを入れることを優先した。
「こちらは弾正尹宮、堯毅さまにあらせられる。急病人との報を受け、馬にて訪うこととなった。私は式部大輔の菅原智也、馬のまま乗り入れたことは私の独断、寛恕願いたい」
その場にいた者は一瞬固まっていたが、すぐに全員が平伏した。公鷹に弾正台の役職を用意したのが堯毅であることは、この屋敷の者は皆知っている。この場に自分よりも上位の者がいない以上、百瀬が応じるしかない。とはいえ、そもそもこの僧形の親王は法親王殿下というべきなのか、親王殿下でいいのか。
判断がつかなかった百瀬は、誤りを避けるため呼称を避けることにした。
「拝謁の機会をいただき、幸甚の至りでございます。御馬でのお越しについてはどうぞご放念くださいませ」
「ありがたい。上がらせていただこう」
馬を下りた智也が、鞍上の堯毅に手を貸して下馬を助けた。そのまま堯毅の手を引き、簀子縁までやってくる。高灯台を引っ掴んで足元を照らしながら、思わず千央が声を荒げた。
「なんで車でおいでにならなかったんです、というかそもそも、ご自身で来られずとも」
「いいえ。直接証言を取れる者が毒を盛られた疑いがあると聞いては…」
牛車で来る気になれなかったのだろう。夜だからといってよく目が見えるわけでもなく、正のもとまでたどり着いた堯毅は呼吸や脈、症状を手早く調べて眉を寄せた。
とんでもない貴人が来訪し、主と親しいとはいえ嘔吐している雑色を抱き起こす様を見て、百瀬は狼狽して進み出た。
「殿下、畏れながらお召し物が汚れてしまいます。私が」
その言葉を手を挙げて制し、堯毅が青灰の瞳を千央へ向ける。
「千央。あなたの見立てどおり、これは服毒の症状です。智也、包みを」
橘屋敷の者たちが声を抑えられず、ざわめきが広がった。堯毅に続いて智也が簀子に上がり、携えてきた長櫃から包みを出して手渡す。
「女房殿、この童に飲ませる水一升に塩を四匁ほど溶いていただきたい。あと、汁粥を炊いてもらえないか」
「畏まりました」
医師として名が通っている堯毅の指示であれば、疑問を差し挟む余地がない。百瀬はすぐに立って水と粥の準備のため、厨へ向かった。下男が持ってきた水を受け取って、千央が息も絶え絶えの正にまた飲ませる。
ちょうどそこへ、中門廊を通らず車宿からまっすぐ入ってきた公鷹が駆け込んできた。
「えっ、堯毅さま?! 千央さん、何を……正?!」
何が起こっているのか整理しきれず、混乱してはいたものの、正の様子がおかしいことはすぐに気が付いた。げえげえと水を吐く彼の顏は紅く、全身震えているところは発熱かにも思えるが、そのぐらいで堯毅が訪うとは考えられない。
右往左往する公鷹に、半ば正をぶら下げながら千央が喝を入れた。
「手伝え! こいつ毒を盛られてんだ、水と汁粥を飲ませて吐かせまくって、毒を薄めるんだってよ!」
毒物の種類が分からない状態で解毒するのは困難を極める。とはいえ、ある程度特徴的な症状があれば推測は可能だ。嘔吐に顔の紅潮、会話や起立困難などの正の様子から、堯毅は附子と目星をつけていた。
「それは、確か、危ないものではありませんでしたか」
蚊の鳴くような公鷹の問に、堯毅は難しい表情で応じた。
「ええ、よく学んでいますね。ですが産地や種類によって毒性が変わります。もし最も毒性の強い種類の根を飲まされていれば、もう死んでいたでしょう。用いたものに十分な知識があったとは思えません」
そこに賭けるしかない、と言外に聞こえる。公鷹は唇をかみしめた。
正は相変わらず一言も喋らず、この一刻ほど、ひたすら水や粥を流し込まれては吐いている。飲みこむ力がないのか千央のなすがままだが、瞳の動きを見るに意識がないわけではないようだ。
もはや機械的に屋敷のものから水や粥を受け取っては正に流し込み、簀子から突き出しては吐かせている千央が、ふと呟いた。
「この痩せっぽちが、自力でここまで逃げてきたんなら大したもんだが」
「服毒後に走ってきたとすれば、それも毒が回る要因になります。千央、もう一度診せてください」
公鷹は退き千央もやむなく正の顔を仰向けて横たえた。その顔を智也が正自身の衣で拭う。
正は震えていた。大量の汗と涎を流し、呼吸は荒く、目は中空を虚ろに眺めている――かと思うと、ふっと堯毅へと視点を移す。
「見えますか?」
目の焦点はまだ定まらないが、ぐぐ、と咽喉がかすかな音を立てた。骨ばった小さな手がそろりと動く。その手をとって、堯毅はそっと指を開かせた。
「握って」
指は力なく、しかし確かに曲がった。麻痺はしていない。
「わかりますか。毒を吐ききらないといけません、いいですね」
虚ろな目のまま正は頷く仕草を見せた。それを確認して、堯毅は公鷹の手から水の入った器を取り上げた。手が空になった公鷹が戸惑って器を取り戻そうとするが、返してもらえない。
「千央、続けてください。咳き込ませないよう気を付けて」
「承知しました」
「公鷹、あなたは明日も出仕があるでしょう。もう休んだほうがいいですよ」
突然話を振られて公鷹は狼狽えた。正はまだ回復したとはいえない状態に見える。そんな彼を置いて、自分は出仕しなければならないのだろうか。それに、昨夜事件が解決へ向かったばかりなのに、自分に何ができるというのだろう。
それらを整理して問いただせない公鷹の挙動を眺め、堯毅はちょっと笑みを浮かべた。
「彼はもう大丈夫だと思いますよ」
一番に聞きたい、しかしそうできなかったことの答えを聞けた公鷹がぱっと表情を輝かせ、それから恥じたように慌てて顔を伏せる。そんな公鷹の肩に労わるように手をかけて、堯毅はにこやかに言い放った。
「既に別当殿には使いを立ててあるので、私はこれから使庁へ参ります。明日はあなたの有識としての才を発揮する、いい機会になるでしょう」
「えっ」
「さあ、女房殿。公鷹を休ませてください」
狼狽する公鷹の周りに、すばやく橘家の女房たちが集まった。なにしろ親王の指示である。速やかに従わなければどんなお咎めがあるかわかったものではない。
「さあ、若。ご下命ですから」
「いやでも」
屋敷の主たちが混乱を極めているのを横目に、堯毅は智也の手を借りて立ち上がっている。
使庁へ行って何をするのだろう、とは思ったが、それよりも堯毅をこのまま出発させるわけにはいかず、公鷹は百瀬の手を抑えて板の間に手をついた。
「お待ちください、我が屋敷にも八葉車ぐらいはございます。堯毅さまにお乗りいただくには粗末に過ぎますが、お体のためにお使いいただきたく。急ぎ支度を整えますゆえ、どうぞ御座にてお待ちください」
ひと息に言って平伏する。親王である堯毅を八葉車になどとんでもないことだが、突然ここへ来ることになって、生来体の弱い堯毅は体力を消耗していることだろう。それに、今から堯毅の屋敷へ使いを立てて車を呼んでも時間がかかる。
公鷹の言葉を聞いて、智也は普段引き締めている表情を緩めた。もとより公鷹に頼むつもりでいたので、先回りして彼から言上してくれたことはありがたい。
堯毅は嬉しそうにふふ、と笑うと、「わかりました」と答えた。
千央がひどく衰弱した正を担ぎこんだことで、橘家の屋敷は俄かに騒々しくなっていた。というのも正は発熱しているかのように顔が紅潮し、すでに立ち上がることもできず、嘔吐を繰り返し話をするどころの状態ではなかったからだ。
異状を感じた千央は堯毅に使いを立てていた。
「ともかくたらふく水飲ませてくれ。食中りとかかもしれねえし」
はなはだ適当な千央の指示に、百瀬が木桶を手に顔面蒼白で問いかける。
「九条さま、まさか流行病ということはございますまいね?!」
「そういう感じじゃないんだよなあ」
「あ、あの、まさか、呪詛とか、ひえ」
下男らしき男が同様に震えながら重ねて問うが、千央はとりあえず水を飲み続けていた。今夜は問題事だらけだ。やっと捕り物を終えて飯と酒にありつこうと思ったのに、という本音はさておき、正の状態は流行病でも呪詛でもないと確信している。
「食中りじゃねえなら毒だと思うわ」
一拍の間をおいて、百瀬と下男が顔を見合わせた。毒物。当然のことながら、百瀬が声を裏返らせて千央に詰め寄った。
「えっ?! いえ、そんな、なぜ当方の屋敷へお連れになったのです?!」
「だって、こいつここで飯もらってたんだろ? すぐそこの路地で拾ったし」
「それはっ……!」
言いよどみ、百瀬は簀子縁に倒れ伏している正の小さな背中に目をやった。正直、素性の知れない正を公鷹に近づけることに忌避感があった。言い方は悪いが年若い主が騙されているのではないかという懸念が拭えない。しかし事情を聞けば確かに恵まれない身の上で、気弱そうなあの様子を見れば突き放した態度をとるのも躊躇われた。
ここで何をされたかわからないから見捨てる、という決断が百瀬にはできない。
「……どんどん水を運んできて。大急ぎで」
「へえ」
「盥か何か……」
下男が桶を手に厨へ行くのを見送り、正の背中に手をかけようとした百瀬を千央が遮った。正の腹に手を回して軽く持ち上げたため、正が嘔吐いて体を震わせる。
「盥はだめだ、毒だったらまずいだろ。このまま地面に吐かせたほうがいい。公鷹はいつ戻るかわかるか?」
「少々前に当家の郎党から、亥の三刻ごろと伝えてまいっております」
そろそろだな。正に水を飲ませながら考えた。
まともな食事も与えられていなかったこの童が食中りなどとは思っていない。何らかの理由で――おそらくは木下為末の雑色であったから、口封じのために毒を盛られたのだろう。毒物が何かわからない以上、助かる確率はとても低い。この童の最期に公鷹が間に合うといいのだが。
もう何度目かわからないほど吐き続けている正だが、先ほどから一言も喋らなかった。弱音を吐くどころではないかもしれないが、それにしても従順だ。
重い蹄の音が近づいてくる。馬だ。この遅い時間に馬となると、公鷹だろうかと千央は思った。しかし、今夜の捕り物の一部始終を弾正台で記録して、仕事を終えた公鷹が、馬にまで乗って帰宅するとは考えづらい。すると他の屋敷へ向かう馬だったのか、などと考えている間に、屋敷の車宿が騒々しくなった。蹄の音がさらに近づいてくる。何事かと思っていると、庭の端を駆け抜けた馬が寝殿の方へ向かってくる。その鞍上。
「堯毅さま?!」
帽子の陰からちらつく銀の輝きを目にして、千央は動転した。堯毅を前に乗せて疾走してきたのは智也だ。智也は千央への返答よりも、百瀬へ断りを入れることを優先した。
「こちらは弾正尹宮、堯毅さまにあらせられる。急病人との報を受け、馬にて訪うこととなった。私は式部大輔の菅原智也、馬のまま乗り入れたことは私の独断、寛恕願いたい」
その場にいた者は一瞬固まっていたが、すぐに全員が平伏した。公鷹に弾正台の役職を用意したのが堯毅であることは、この屋敷の者は皆知っている。この場に自分よりも上位の者がいない以上、百瀬が応じるしかない。とはいえ、そもそもこの僧形の親王は法親王殿下というべきなのか、親王殿下でいいのか。
判断がつかなかった百瀬は、誤りを避けるため呼称を避けることにした。
「拝謁の機会をいただき、幸甚の至りでございます。御馬でのお越しについてはどうぞご放念くださいませ」
「ありがたい。上がらせていただこう」
馬を下りた智也が、鞍上の堯毅に手を貸して下馬を助けた。そのまま堯毅の手を引き、簀子縁までやってくる。高灯台を引っ掴んで足元を照らしながら、思わず千央が声を荒げた。
「なんで車でおいでにならなかったんです、というかそもそも、ご自身で来られずとも」
「いいえ。直接証言を取れる者が毒を盛られた疑いがあると聞いては…」
牛車で来る気になれなかったのだろう。夜だからといってよく目が見えるわけでもなく、正のもとまでたどり着いた堯毅は呼吸や脈、症状を手早く調べて眉を寄せた。
とんでもない貴人が来訪し、主と親しいとはいえ嘔吐している雑色を抱き起こす様を見て、百瀬は狼狽して進み出た。
「殿下、畏れながらお召し物が汚れてしまいます。私が」
その言葉を手を挙げて制し、堯毅が青灰の瞳を千央へ向ける。
「千央。あなたの見立てどおり、これは服毒の症状です。智也、包みを」
橘屋敷の者たちが声を抑えられず、ざわめきが広がった。堯毅に続いて智也が簀子に上がり、携えてきた長櫃から包みを出して手渡す。
「女房殿、この童に飲ませる水一升に塩を四匁ほど溶いていただきたい。あと、汁粥を炊いてもらえないか」
「畏まりました」
医師として名が通っている堯毅の指示であれば、疑問を差し挟む余地がない。百瀬はすぐに立って水と粥の準備のため、厨へ向かった。下男が持ってきた水を受け取って、千央が息も絶え絶えの正にまた飲ませる。
ちょうどそこへ、中門廊を通らず車宿からまっすぐ入ってきた公鷹が駆け込んできた。
「えっ、堯毅さま?! 千央さん、何を……正?!」
何が起こっているのか整理しきれず、混乱してはいたものの、正の様子がおかしいことはすぐに気が付いた。げえげえと水を吐く彼の顏は紅く、全身震えているところは発熱かにも思えるが、そのぐらいで堯毅が訪うとは考えられない。
右往左往する公鷹に、半ば正をぶら下げながら千央が喝を入れた。
「手伝え! こいつ毒を盛られてんだ、水と汁粥を飲ませて吐かせまくって、毒を薄めるんだってよ!」
毒物の種類が分からない状態で解毒するのは困難を極める。とはいえ、ある程度特徴的な症状があれば推測は可能だ。嘔吐に顔の紅潮、会話や起立困難などの正の様子から、堯毅は附子と目星をつけていた。
「それは、確か、危ないものではありませんでしたか」
蚊の鳴くような公鷹の問に、堯毅は難しい表情で応じた。
「ええ、よく学んでいますね。ですが産地や種類によって毒性が変わります。もし最も毒性の強い種類の根を飲まされていれば、もう死んでいたでしょう。用いたものに十分な知識があったとは思えません」
そこに賭けるしかない、と言外に聞こえる。公鷹は唇をかみしめた。
正は相変わらず一言も喋らず、この一刻ほど、ひたすら水や粥を流し込まれては吐いている。飲みこむ力がないのか千央のなすがままだが、瞳の動きを見るに意識がないわけではないようだ。
もはや機械的に屋敷のものから水や粥を受け取っては正に流し込み、簀子から突き出しては吐かせている千央が、ふと呟いた。
「この痩せっぽちが、自力でここまで逃げてきたんなら大したもんだが」
「服毒後に走ってきたとすれば、それも毒が回る要因になります。千央、もう一度診せてください」
公鷹は退き千央もやむなく正の顔を仰向けて横たえた。その顔を智也が正自身の衣で拭う。
正は震えていた。大量の汗と涎を流し、呼吸は荒く、目は中空を虚ろに眺めている――かと思うと、ふっと堯毅へと視点を移す。
「見えますか?」
目の焦点はまだ定まらないが、ぐぐ、と咽喉がかすかな音を立てた。骨ばった小さな手がそろりと動く。その手をとって、堯毅はそっと指を開かせた。
「握って」
指は力なく、しかし確かに曲がった。麻痺はしていない。
「わかりますか。毒を吐ききらないといけません、いいですね」
虚ろな目のまま正は頷く仕草を見せた。それを確認して、堯毅は公鷹の手から水の入った器を取り上げた。手が空になった公鷹が戸惑って器を取り戻そうとするが、返してもらえない。
「千央、続けてください。咳き込ませないよう気を付けて」
「承知しました」
「公鷹、あなたは明日も出仕があるでしょう。もう休んだほうがいいですよ」
突然話を振られて公鷹は狼狽えた。正はまだ回復したとはいえない状態に見える。そんな彼を置いて、自分は出仕しなければならないのだろうか。それに、昨夜事件が解決へ向かったばかりなのに、自分に何ができるというのだろう。
それらを整理して問いただせない公鷹の挙動を眺め、堯毅はちょっと笑みを浮かべた。
「彼はもう大丈夫だと思いますよ」
一番に聞きたい、しかしそうできなかったことの答えを聞けた公鷹がぱっと表情を輝かせ、それから恥じたように慌てて顔を伏せる。そんな公鷹の肩に労わるように手をかけて、堯毅はにこやかに言い放った。
「既に別当殿には使いを立ててあるので、私はこれから使庁へ参ります。明日はあなたの有識としての才を発揮する、いい機会になるでしょう」
「えっ」
「さあ、女房殿。公鷹を休ませてください」
狼狽する公鷹の周りに、すばやく橘家の女房たちが集まった。なにしろ親王の指示である。速やかに従わなければどんなお咎めがあるかわかったものではない。
「さあ、若。ご下命ですから」
「いやでも」
屋敷の主たちが混乱を極めているのを横目に、堯毅は智也の手を借りて立ち上がっている。
使庁へ行って何をするのだろう、とは思ったが、それよりも堯毅をこのまま出発させるわけにはいかず、公鷹は百瀬の手を抑えて板の間に手をついた。
「お待ちください、我が屋敷にも八葉車ぐらいはございます。堯毅さまにお乗りいただくには粗末に過ぎますが、お体のためにお使いいただきたく。急ぎ支度を整えますゆえ、どうぞ御座にてお待ちください」
ひと息に言って平伏する。親王である堯毅を八葉車になどとんでもないことだが、突然ここへ来ることになって、生来体の弱い堯毅は体力を消耗していることだろう。それに、今から堯毅の屋敷へ使いを立てて車を呼んでも時間がかかる。
公鷹の言葉を聞いて、智也は普段引き締めている表情を緩めた。もとより公鷹に頼むつもりでいたので、先回りして彼から言上してくれたことはありがたい。
堯毅は嬉しそうにふふ、と笑うと、「わかりました」と答えた。