「でもなんか、安心した!」

 長く退屈だった授業が終わると、隣に座る真衣が伸びをしながら、唐突にそう言った。

「なにが?」
「なにがって、巴音のことよ。連絡なしに何日も休むから心配したの。久しぶりに来たときもひどい顔してたし。でも、なんか最近はいつも通りで安心した」
「ああ……うん」

 真衣とは高校の頃からの友達だ。たまたまお互いがMerakを好きなことが発覚して、そこから意気投合して仲が良くなった。デビュー発表の場にも立ち会って、終始号泣していたのも良い思い出だ。
 デビューコンもこの間の春のアリーナツアーも、Merakの現場にはいつも一緒に行った。
 
「さーて、そろそろ帰ろっか。巴音は今日バイト?」
「ううん、休み。でもちょっと用事があって、お店には行く」
「そうなんだ。じゃあ行こ」
 
 この間佑と約束した、『透明人間になりたい』計画。その第一弾がとうとう始動する。とりあえず今日は、今後の方針を話し合うことになっている。
 
 キャンパスから出ると、太陽の強い光がわたしたちを突き刺した。佑を見に行った日はまだ肌寒くて長袖を着ていたのに、もう半袖の季節になった。進んだ季節の分、佑のアイドルの姿が遠のいていく。
 
 真衣と別れ、歩いてカフェへと向かう。家からは少し遠いけど大学から近いという理由で選んだバイト先は、どうやら佑が通う大学からも近いらしい。
 
 働きに行くわけじゃないのにバイト先に行かないといけないのは嫌だ。それに、みんなに冷やかされでもしたら最悪だ。平井さんは事の次第を知っているから余計に。
 
 わずかに憂鬱な気持ちを抱えながら、わたしはカフェへと歩みを進めた。まとわりつく湿度が汗の蒸発を妨げ、ベタつかせる。
 
 中に入って店内を見渡すと、窓際の席に佑は座っていた。空調の冷たい空気に生き返るようなありがたさを感じながらレジに並ぶ。今日のレジ担当は、同級生の男の子の立石さんと、一個下の女の子の藍田さんだった。
 
「いらっしゃいませーって、吉岡さん」
「どうも立石さん。アイスラテお願いします」
「はーい。どうしたんですか、課題っすか」
「違うわよ立石くん。待ち合わせよ、待ち合わせ!」
 
 ドリンクを作りながら平井さんはヤジを飛ばしてくる。余計なこと言わないで、と視線を遣ったが華麗に逸らされてしまった。
 
「えっ、彼氏さんっすか!」
「この間ナンパされたのよ。ねー、吉岡ちゃん」
「ナンパじゃないし、彼氏でもないですー」
 
 佑が彼氏なんて、そんなことあるわけない。
 きっとこんなことになってなかったら、みんな驚くだろう。デビューした当初の事務所からの推され具合がすごかったから、アイドルに疎くても彼らのことを知っている人は多い。
 
 あの人、Merakの松永佑なんですよ。
 なんて言ったところで、ここじゃあ誰も知らない。なんだかそれはそれで寂しい。

「……色々あるんですよ、わたしにも」

 そう言いながら、スマホ決済のバーコードを表示する。チャリーンと馬鹿っぽいお金の音が鳴った。

 なんだかすごい意味深な女になってしまった。その実ただのオタクなのに。
 さっきの発言ををちょっとだけ後悔しながら、カウンターで平井さんからラテを受け取る。カップには『グッドラック』と書かれていた。これを書いたのは立石さんだろう。頭痛がしてきそうだった。

 わたしはくるりと振り向いて、佑の方を見る。わたしが来ていることに気がついているのかいないのか、佑はパソコンのキーボードを叩いていた。
 ……よし。
 
「こんにちは」
「……あ、こんにちは」
 
 前と同じように、佑の向かい側に座る。彼はパソコンを閉じるとわたしと目を合わせる。
 
「……あの、待ち合わせする場所、今度から違うところにしません?」
「え?」
「冷やかされるんですよ、あの人たちに」
 
 カウンターの方に視線を送ると、あろうことか立石さんはこっちをじっと見ていた。慌てて逸らす。
 
「あ、ああ! すみません、配慮足らずで」
「いえ、そんな……」
 
 佑は足をぴっちり閉じると膝に手を当ててへこへこ頭を下げ始めた。わたしはそんな佑を止めようと手を振る。お互いに距離感がよくわからなくて、ペコペコしてしまう。

「……じゃあ、話しましょう」
「ですね」
 
 なんだろう、この微妙な距離感は。この間の方が、距離が近かったと思う。
 
 話そうとは言ったものの、何を話せばいいのかわからなくて無言になってしまう。ごまかすようにカフェラテを飲むと、佑もコーヒーを飲み始めた。今日はブラックだった。
 
「……なんか、距離遠くないですか。気まずいです」
「え?」
 
 佑は目をしばたたいた。
 
「わたしは歳下なので敬語ですけど、その……松永さん、は、タメでいいんじゃないかなぁって」
 
 松永さんなんて呼び方、むずむずしてくる。普段から佑と呼び捨てしているけど、さすがに会ってすぐの人間に下の名前で呼び捨てなんてされると、気味が悪いだろう。それに、あまり好ましい感じはしない。
 
「ああ、そっか。……でも、吉岡さんも全然いいんですよ。普段俺のこと、なんて呼んでます?」
「たすく、です」
「じゃあそれで。ってことは、俺も巴音って呼んだ方がいいですよね」
 
 ーーうわ。
 巴音と、そう呼ばれた瞬間、ふわっとからだが浮いたみたいな気持ちになった。
 佑に、名前を呼ばれた。あの、佑に……!
 
「や、その……キツイ」
「えっ、キツイってどういう」
「だって、なんか、むり……」
 
 思わず目を逸らし、顔を手で覆った。
 どうしよう。どんな顔をすれば。
 
「……でも、普通はそうですよね」
 
 その言葉に思わず動きが止まった。
 
 ……そうだ。そうだった。
 わたし、なんて馬鹿なんだろうか。
 
 忘れてはいけない。これは、佑が透明人間になりたい計画。でも男女の友情でも名前で呼び捨てなのか?
 男友達がいなさすぎて、サッパリわからない。
 
 ただ、佑がやりたいようにやる。そう決めた。
 わたしの意思なんてどうでもいい。
 
「……わかった。巴音で大丈夫です。あと、タメで」
「うん」
 
 佑はにこりと笑った。左右対称の綺麗な顔立ちは、やっぱりかっこいい。双眼鏡のレンズも画面も加工も通さない佑の顔をこんなに近くで見たのははじめてだ。
 かっこよくて、息が詰まりそう。
 
「……それで、佑はどんなことがしたいの?」
「この間も言ったけど、人混みに行ってみたいな」
「人混み……」
「これから夏だし、お祭りとか花火大会とか、なんにも気にせず楽しみたい。あとは、バイトもしてみたいなぁ」
 
 やりたいことを語る佑の表情はキラキラしていた。その姿を見て、また胸がチリと痛んだ。
 
 佑はそういう普通のこと全てを犠牲にして、今までステージに立ってきた。本人の希望でもあるにしても、わたしたちファンは普通をを奪ってきている。
 
「普通に学校生活も送りたかったし、学園祭とか出てみたかったな。制服デートとかさ」
 
 わかってはいた。
 雑誌とか動画で、学園祭や体育祭に出られなかった話は何度か聞いたことがある。それはわたしたちファンのために、彼らがたくさん青春を我慢してくれたということ。大切な青春の時期を、アイドル活動に捧げてくれたということ。
 
 でも改めて、本人から真っ向から言われるといたたまれなくなる。
 ファンというのは、なんて傲慢なのだろうか。
 
「……全部やろうよ」
「いいの?」
「あ、制服デートはちょっと無理かもしれないけど、それ以外なら、佑がしたいことは全部やろう。お祭りも花火大会も、学園祭も」
 
 そこまで言って、わたしははたと気がついた。佑が通っている大学を知らないことに。
 
「ていうか、佑ってどこの大学通ってるの?」 
「そういえば言ったことなかったね。明成大学だよ」
「ーーは?」
「だから、明成」

 明成?
 それってーー。

「まって……わたしも、明成」
「え、ほんとに!?」
「嘘つかないよ……」
 
 信じられない。今まで同じ大学に通っていたなんて。
 みんな知ってることだったのかな。
 真衣も、知ってた? 
 
「でも俺全然行ってないからなぁ。レポートで単位もらってたし」
「そっ、か……」
 
 本当になにもかも犠牲にして活動来てきたことを、強く実感させられる。コンサートもドラマも雑誌も、たくさんのことを犠牲の上にできあがっていた。
 
「じゃあ、学校生活も」
「うん。大学では友達もいないし」
 
 切なくなる。この話はもうやめてしまいたい。
 そう思っていると、佑は「あ」と呟いた。
 
「……なに?」
「俺さ、いちばんしてみたいことあった」
 
 わたしはカフェラテを飲みながら、首を傾げて続きを促す。
 
「なに?」
「恋愛」
 
 咳き込んだ。
 
「え……大丈夫?」
「だ、大丈夫! で、なんて?」
「恋愛。俺、彼女いたことなくって」

 彼女がいたことがない。
 心の中で、その言葉を繰り返す。
 ……それはそれで、アイドルとして鏡だ。
 なんとなく、今までのわたしのお金も熱量も、報われた気がした。

「あ、ねえ巴音」

 顔を上げる。佑はにこにこしていた。
 
「俺の彼女になってくれない?」
「はぁ!?」
 
 思わず出た大きな声に、店内の視線が集まった。咳払いをひとつして、佑の顔をじっと見る。心なしか、輝いた顔をしている。
 わけがわからない。やりたいことはやる。そうは言ったけれど、まさかこうなるとは。
 
「か、彼女なんてさすがに! ……佑なら、彼女くらいすぐできるって」
「今まで学校ほぼ行ってないから無理だよ。それに、巴音が彼女になってくれる方が、色々と都合が良いと思わない?」
「うっ……」
 
 たしかにそれは一理あるかもしれない。2人で歩いているところを学校の友達に見られたとしても、彼氏だと誤魔化せるような気もする。
 
 でも、佑の彼女だ。
 世界中でただひとりしかなれなくて、たくさんの女の子たちの憧れの場所。けれどとてもじゃないけどあり得ないし、たどり着けることのない場所が、いま、手を伸ばせば簡単に手に入りそうなところにある。
 
 ……いいのかな、それって。
 ズルしてるような。
 
「お願い、巴音」
 
 でも、決めたじゃないか。
 佑のやりたいようにやってもらう。今まで色んなものをもらってきた恩返しをするって、決めた。
 だったら、答えはひとつしかない。
 
「わかった」
 
 わたしは、佑の彼女になる。
 
「よろしく。佑」