そうして数ヶ月経った頃、ある日おばあちゃんが持病の悪化で入院した。
その時思ったのも「お人形さんを見に行けない」なんて、随分身勝手なことだった。
お母さんと一緒に病院にお見舞いに行った時、わたしはつい、おばあちゃんにお人形さんの約束のことを聞いた。
そわそわとしたわたしの様子からおねだりの気配を察したのか、もう退院できるかわからないと考えたのか、おばあちゃんはしわしわの手でわたしの頭を撫でてこう言った。
「光架理ちゃん……小夜ちゃんね、持って帰っていいわよ」
「……えっ!? いいの!?」
「えっ、お義母さん、小夜ちゃんってあのお人形さんですよね? ……光架理、おばあちゃんにおねだりしてたの? ダメよ、あのお人形さんはおばあちゃんの大切な……」
「いいのよ、光架理ちゃんと約束したから」
「ねー!」
「でも……」
「ふふ、いつもみたいにすぐに飽きちゃうかと思ったのに……小夜ちゃんのこと、あんなに可愛がってくれるんだもの。……光架理ちゃん、あの子のこと、大切にしてあげてね」
「うん、ありがとうおばあちゃん……! 大切にする!」
「本当にすみません……もう、何でも欲しがるわがままな子になっちゃって……私達が甘やかしすぎたのね……ちょっとは従兄弟の良夜くんを見習って欲しいくらい……」
「ああ、良夜くんたちにも形見分けしないとねぇ……男の子は何がいいかしら」
「形見分けなんて……やめてください、まだお元気なんですから……」
おばあちゃんとお母さんの話は長くて、わたしはようやく手に入ったお人形さんのことを想像して時間を潰した。お見舞いの帰りにおばあちゃんの家に寄って、念願のお人形さんをガラスケースから取り出して連れて帰る。
おばあちゃんと可愛がっていた時とは違って、その子は少し寂しそうな顔をしている気がした。
「……心配しなくても、わたしが可愛がるからね」
こうしてわたしは、ようやくお迎えできたその子を大切にした。可愛く飾った棚に座らせて眺めたり、お揃いのヘアアレンジをしたり、お洋服をオーダーしたり、自分の手でどんどん可愛くなるお人形さんに夢中だった。
おばあちゃんの入院先に連れていって会わせてあげたり、外で撮影してその写真を見せてあげたりもした。おばあちゃんの家のガラスケースに閉じ込められてるより、よっぽど可愛がってあげたつもりだ。
そしてその様子に安心したように、少ししておばあちゃんは亡くなった。
「おばあちゃん……お人形さん、大切にするからね」
元々可愛いお人形さんで、わたしのお気に入りだったその子は、おばあちゃんの形見となったあと、お父さんもお母さんも可愛がるようになった。
「光架理、今日はあの子は出さないのか?」
「光架理。来週小夜ちゃん連れて遊園地行こうか?」
最初こそ、両親にも自慢するようにお人形さんを見せていたけれど、こうなると、わたしだけのものじゃなくなったようでなんだかイライラとした。
なんとなくお人形さんにおばあちゃんを重ねられてるようで、その感覚が嫌だった。
そして何より、手に入らないものは他人のものでも欲しくなるけれど、手に入れたのに他の人と分け合うのは、もっと嫌だった。今で言う同担拒否に近いのかもしれない。
わたしはわたしだけの特別なものが欲しかったのだ。
「……もうやだ、おばあちゃんは関係ない! この子はもう、わたしのなの!」
やがてわたしは、お人形さんを部屋に隠すようになった。どこにも連れ歩かないし、お人形さんのためにと可愛く飾り付けた棚にはカーテンをした。
そうすることでお人形さんを守れた気がしていたけれど、自分自身もほとんど構わなくなったことで、その内お人形さんへの執着も薄れていった。
「……」
あんなにも欲しかったのに。手に入った喜びをピークに、結局そのお人形さんも、他のたくさんのかつて欲しかったものと同じように、飽きてしまったのだろうか。
そんな自分に失望して、けれどそれを認めたくなくて、わたしはすぐに次を求める。
「ねーお父さん、ヒカリね、クリスマスプレゼント、新しいお人形さんが欲しい」
「え……? 光架理、あのお人形さんは?」
「あのってどの?」
「……小夜ちゃんだよ、あんなに大切にしていたじゃないか」
「知らなーい。ヒカリ、今度は金髪のお人形さんが欲しいの、緑の目をしていて、ドレスが似合う洋風な感じの……」
「光架理……」
お父さんの寂しそうな顔の理由は、なんとなくわかっていた。それでも、わたしは欲しいものを諦められない。ずっとなにかを求めていないと不安だった。
常に満たされない状態も不安なのに、もし満たされてしまうとしたら、その先がもうなにもないように感じられて怖い。
わたしはどうしたって、いつも迷子のような感覚だった。
だから、まだ手元にない理想のお人形さんを想像すると、その時は素直にわくわくしたのだ。
「……ふう。お父さんならきっと買ってくれるんだろうな、ヒカリの欲しいもの」
おねだりを終えたわたしは部屋に戻り、久しぶりに目隠しカーテンの向こうのお人形さんと向き合う。
この子のために用意した山積みの洋服も、しばらく着せ替えていない。新調したブラシも、結局使わなかった。
「わたし、やっぱりだめだなー……」
わずかに曇ってしまっていたそのガラスの瞳は、心を映す鏡のように思えた。
何かを得るのは嬉しいけれど、何かを失うのは悲しい。
いつからだろう。このお人形さんを見ていると、おばあちゃんの死をどうしたって思い出すし、わたしは何を得ても結局満たされないのだと、悲しい気持ちでいっぱいになってしまう。
隠している間、向き合おうと思うことは何度もあった。けれども、どうしたって自分の弱さを突きつけられているようで、すぐに目を背けてしまいたくなるのだ。
「……ごめんね」
弱いわたしを咎めるような、まっすぐな瞳。そんな目から逃れるように、わたしはまたしばらく、そのお人形さんを目隠しカーテンの奥の棚に封印することにした。
もう少し、成長することができたら。もう少し、心満たされるなにかがあれば。その時はまた、あの頃のようにこの子を愛せるような気がしたのだ。
他のお人形やぬいぐるみを愛せなくても、すぐに飽きてしまっても、いつか変われるきっかけがあるはずだ。
その時にはまた、わたしのお人形になったこの子を、今度こそまっさらな気持ちで大切にしてあげたい。その気持ちだけは、わたしの中の前向きな目標だった。
「もう少し待っててね、小夜ちゃん……」
☆。゜。☆゜。゜☆
それから数年、人間そう簡単に変われるはずもなく、結局わたしは相変わらずで。
興味の対象がコスメやファッションになっても、やっぱり手に入れてからはすぐに飽きてしまい、使いかけのものや、買っても着ない洋服に囲まれていた。
そして不意に、そういえば以前にも集めるだけ集めた服を使わなかったなと、お人形さんのことを思い出した。
「……あ」
恐る恐るカーテンの向こうを覗くと、手入れをせず埃を被ったその子が、わたしの置いたままの姿で座り続けていた。
それを見て、当時の記憶がよみがえる。過去の後悔も、成長できるはずと期待した自分にも、ずっと待たせていたこの子にも、わたしは申し訳ない気持ちでいっぱいになって、数年振りにその子の名前を呼んだ。
「……ごめんね、小夜ちゃん」
そしてわたしは、このお人形さんを手放すことにした。
結局、新しい名前もつけられなかった。おばあちゃんがつけた名前を変えてしまうと、おばあちゃんとお人形さんが過ごした日々も消えてしまう気がしたのだ。いくらわたしの物になったとはいえ、それはダメな気がした。
そう考えると、この子は名付けの時点でおばあちゃんの友人を重ねられて、うちでは両親からおばあちゃんを重ねられて、わたしにはわたし自身を重ねられて……結局最後まで誰かの代わりをして、最後まで誰のものではなかったのかもしれない。
そういう意味では、やっぱり他の子とは違う、特別なお人形さんだ。
「……ちゃんと大切にできなくて、ごめんね」
わたしなりに、この子を大切にしたかった。あの頃、なにより大切にしたつもりだった。
たくさんの綺麗なお洋服に、可愛らしい小物たち。オイルを使って丁寧にブラシで梳かした髪に、繊細な作りの綺麗な髪飾り。この子専用の可愛いが詰まった棚に、この子専用の連れ歩くためのトランクケース。
わたしが望むまま両親から与えられたように、この子にも幸せなお姫様でいて欲しかった。
それでもやっぱりいろんなものに耐えられなくて、すべて忘れてなかったことにしたのだ。
そして久しぶりに詰め込んだトランクごと、この子をこんな町外れの路地裏に捨ててしまうのだ。
「……ヒカリ、ほんと最悪だね」
誰にも見られていないことを確認して、わたしは薄暗がりに焦げ茶の木製のトランクを置いていく。
すぐに駆け出して、表通りに出る前に一度だけ振り向いた。
トランクごと捨ててきてよかった。お人形さんだけを置いてきたなら、きっとあの子は、寂しそうにわたしを見つめたのだろう。
「さようなら……」
そうして『小夜』と、最後まで捨てられなかった名前を記したトランクと、その中に眠るお人形さんを手離した。
それから少しして、高齢の両親はもうわたしのわがままを聞くことも出来なくなって、わたしは幸せなお姫様ではなくなってしまった。
二十歳にして両親を亡くしたわたしは、たくさんあったものを全て捨てて、新しい環境で一人暮らしを始めた。
ひとりぼっちの暗闇の中、ふとあの日手離したお人形さんの存在が浮かんだけれど、もうあの子がどんな顔をしていたかも思い出せなかった。
そして気付く。わたしは、与えられるものだけでは満たされない、手に入らないものを追い続けたい。そうすれば、わたしは飽きる自分に失望せずに済む。
そんなわたしが夜の町に溺れるのはあっという間で、お金で買う時間や偽物の愛は、心の欠けたものを適度に埋めてくれた。
「メリークリスマス! これ、プレゼント」
「えっ、わー、これ欲しかったネックレス! ほんっとジュキヤしごでき! だから好きー!」
「あはは。おれも大好きだよ、ネオンちゃん……」
大好きな担当のホストがくれるプレゼントは、今は宝物のように見えるけど、きっと数ヵ月で見向きもしなくなるのだろう。
気持ちがなくても交わされる愛の言葉、お金をかけた分与えられる時間が落ち着いた。
人工物のヒカリであるネオンライトから取ったこの名前は、わたしを偽物でコーティングしてくれる。
ホストであるジュキヤは、絶対手に入らないからこそ、安心できる。わたしは彼に飽きずに済んで、わたしはそれを恋だと思えた。付き合いたいとか結婚したいとか、そんな風には思わない。ただ刹那の寂しさを埋めてくれたらそれでいい。
目的地もなくただふらふらと彷徨うのが、わたしには性に合っていた。
幼い頃絵本で読んだ、海の底のお姫様のように。手に入らない別の種族に恋い焦がれて求めても、わたしは彼女のように全てを捨てて縋るなんてしない。
友達が去っても、恋が叶わなくても、くらげのように漂っていれば、傷つくことなく自由でいられる気がした。
そんな歪な安心の中、偽りだらけの夜にほんの少し寂しさを感じた時。わたしは暗闇に置き去りにした、かつての自分のようなお人形さんを、ぼんやりと思い出す。
あの子のガラスの瞳は、確かこの街のネオンよりも美しい、今は見えない星空のような輝きをしていた。
☆。゜。☆゜。゜☆
☆。゜。☆゜。゜☆
あのガラスケースのある部屋で、わたしは幸せなお姫様だった。
愛情の込められたお洋服、何十年も髪を整えてくれたしわしわの指先、まっすぐ向けられる慈しむような笑顔。
これからもずっと、そんな日々が続くと思っていた。
彼女の孫娘だというヒカリちゃんの家に引き取られてからしばらくの間も、あらゆるものを与えられて愛された。その両親からも、時折彼女の話を聞けて嬉しかった。
ずっとずっと、ただ微笑んでいるだけで誰かに愛されるような、誰かを幸せにできるような、そんなお姫様で居られると思っていた。
けれど、わたしはある日、そのすべてをなくして、ひとり暗闇に取り残されたのだ。
部屋にカーテンをされてしばらく、わたしはひとり、かつて愛された記憶を反芻していた。またいつか、彼女に微笑んで貰えることを願っていた。
しかし、数年
ぶりに顔を見たヒカリちゃんは思い詰めた顔をして、久しぶりに触れた指先は髪を撫でることなく、白いクッションが敷き詰められたトランクへわたしを誘う。
また遊んでくれる気になったのか、またどこかへ連れていってくれるのか、嬉しくなったけれど、久しぶりに乗った乗り物はいつになく冷たくて、なんだか嫌な予感がした。
しばらくの後揺れが収まって、早く開けて乱れた髪を整えて欲しいのに、いつもなら目的地に着くと開かれた扉はトランクごと地面に置かれたきり、開く気配がない。
何かあったのか、問い掛けようにもわたしは人形で、何の言葉も持たない。わたしにできるのは、微笑みながら話を聞くことくらいだ。
「……ちゃんと大切にできなくて、ごめんね……さようなら」
そんな悲しいお別れの言葉と共に、わたしは唐突に暗闇に取り残される。
せめてここが開いて、外が見えたなら。そんな願いも空しく、ヒカリちゃんの走る足音が遠ざかる。去り行く背中も見られず、持ち主の最後の表情もわからないまま、わたしは夜の迷子になってしまった。
冷たい暗闇の中、どれくらい経ったのか。これからどうなるのか。ヒカリちゃんは大丈夫なのか。どうして置いていかれたのか。ここはどこなのか。それから、わたしを彼女に委ねた元の持ち主も、どこへ行ってしまったのか。
わたしには、わからないことばかりだった。答えのない問いを重ねながら暗闇の中途方に暮れていると、不意にこちらに近付いてくる足音が聞こえてきた。
ヒカリちゃんが戻ってきてくれたにしては、足音が大きい。大人だろうか。
「……おや?」
トランクの中のクッション越しに響いたのは、知らない男の人の声だった。
もう誰でもいい、助けて欲しい。わたしは人形だ。人間に愛されるため、そして人間を愛するため生まれた存在なのに。
わたしは役目を全うできないどころか、あんなに寂しそうな目をした彼女にごめんねと謝らせてしまった。宝物だと言ってくれたのに、捨てさせてしまった。
なにがお姫様だ、与えられる幸せに浸ってばかりでなにも返せなかった、ただの役立たずだ。
答えのない問いを暗闇で続ける内、すっかり思考は深く沈んでしまっていた。ずっとここに捨て置かれるくらいなら、いっそスクラップにでもして欲しかった。
「……助けを呼んだのは、きみかい?」
不意に、かちゃりとトランクの扉が開けられる。白いクッションに寝たままのわたしをしゃがんで覗き込んで来るのは、黒いズボンに黒いコートを羽織った、闇に溶けそうな夜色の髪をした美しい男の人だった。
わたしの心の叫びが聞こえたかのような、そんな言葉にも、わたしは返事をする術を持たない。
それでも男の人は尚、わたしに対して言葉を重ねる。
「とても綺麗なお人形さんだね……愛されていたのがよくわかる。……きみは、どこから来たのかな?」
優しく語りかけながら、男の人はわたしの乱れた髪をそっと指先で整えてくれる。人に撫でて貰うのは久しぶりで、その温度に少しだけ落ち着いた。
改めて確認した外の景色は暗くて、触れる空気はとても冷たい。こんなに寒い夜には、雪が降るかもしれない。
心細くてお家に帰りたかったけれど、前の持ち主からも、ヒカリちゃんからも、きっと捨てられてしまったのだと、なんとなく理解していた。わたしには、帰る場所なんてなかった。
「……きみは……。……ああ、ごめんね。一度帰ってもいいかな、アイスを買ったんだけど、溶けてしまうから」
突然思い出したように告げる彼は、手にぶら下げていたビニール袋を小さく揺らす。
アイスなら知っている。甘くて冷たいものだ。元の持ち主が遊びに来る孫娘のためにとよく買ってきていた。
こんな寒い日にも、アイスは溶けるものなのだろうか。
どちらにせよ、わたしはまた置いていかれるのだ。そんな諦めにも似た気持ちでいると、彼は優しくわたしに微笑んで、絵本のお姫様をエスコートするようにそっとわたしの片手を指先で掬い上げる。
「行き場がないのなら、きみも一度うちにおいで……うちはきみのような、夜の迷子のためのお店だから」
夜の迷子。わたしの状況も心境もお見通しとばかりに告げられた言葉に、驚いた。
それでも、さっきまであんなに壊れてしまいたい気持ちだったのに、またこうして触れてくれるなら、また微笑みかけてくれるなら、わたしはこの人についていこうと決めたのだ。
トランクをまた閉められて、しばらく揺られた後、わたしは温かく仄かな明かりの照らす室内で再び出して貰えた。
先程言っていたお店についたのだろう。ふわりと香る甘いような植物のような柔らかな香りと、暗かった場所にいた目にも優しい淡く煌めく美しいインテリア。
アンティークの雰囲気はどこかあの家の懐かしさを感じて、可愛らしい小瓶たちはヒカリちゃんが好きそうだとぼんやりと考える。
「ええと……トランクに『小夜』って書いてあったけれど、きみの名前かい? ふふ、なんだか懐かしいな……僕の師匠の名前にも、この字が入っていたんだよ」
ひとり何かを思い出すように目を細めた男の人は、明るいところで見るとますます綺麗な人だった。
そして男の人はトランクに座らせたわたしの髪を整えながら、わたしの目をまっすぐに見つめてくる。誰かにこんな風に見て貰えるのは、いつぶりだろう。
「読み方はサヤ、サヨ……いや、夜空の星を閉じ込めたみたいに綺麗な瞳をしているから、『こよる』かな。……ようこそ、こよるさん。『薬屋 夜海月』へ」
それが、『こよる』となったわたしと、マスターの出会いだった。
☆。゜。☆゜。゜☆
その夜、すぐにお客様が来店されて、わたしはお店のインテリアの一部のようにトランクケースに腰掛けたまま、マスターとお客様のやりとりを眺めた。
「……さて、きみの話を聞かせてくれるかな」
「それが……おれ、ホストなんすけど……」
吐き出される苦しみや寂しさに、夜の迷子はわたしだけではないのだと知った。
隠された切なさと悲しみに、夜にはあらゆる冷たさが眠っているのだと知った。
自身の傷と向き合う時間が、温かな飲み物とマスターの用意した薬によって癒されるのを間近に見て、わたしのやるべきことを見つけた。
わたしは、人の役に立ちたかった。
また誰かの笑顔を見たかった。今度こそ誰かの痛みに寄り添いたかった。
ただ在るだけで何も出来ない、与えられるだけの人形では居たくなかった。
捨てられた人形に、そんな大それたことは出来ないかもしれない。
それでも、悲しみに浸り自棄になるよりも、かつて人から受けた愛を返しかった。
そんな決意の一夜は明けて、お客様は涙の夜から笑顔の朝を迎えられ、お店を後にした。
ショーウィンドウから見えた去り行くお客様の明るい横顔に、わたしはつられて笑顔になる。
「こよるさん、待たせてしまって申し訳ない……、おや……? なんだか嬉しそうだね。何かあったのかい? ……なんて、きみの話も聞きたいところなんだけど、ごめん、もう眠くて……」
夜通しお客様に付き合った彼は、あくび混じりにそう告げる。
物言わぬ人形のわたしの話を聞きたいなんて、本当に不思議な人だ。
それでも、助けを求めた時手を差しのべてくれて、今もわたしの気持ちの変化を悟ってくれた彼ならば、わかってくれる気がした。
眠たげな彼は店を閉めて、わたしをトランクごと抱え、二階へと向かう。
店の二階は居住スペースのようで、いくつかある内の一室、彼の私室の机の上にわたしは置かれた。
窓から差し込む日の光は、レースカーテンを介して柔らかく部屋を包み込み、店内よりも明るい印象を与える。
「少しここで待っていてね」
一度部屋を出て、やがてシャワーや着替えを終えたのであろう彼は、お店での店主然とした姿からすっかり一人の青年の顔をして、力尽きたようにベッドに潜り込んだ。
「……おやすみ、こよるさん、起きたら、きみの……」
「はい……あなたのお目覚めを、お待ちしていますね」
言葉の途中で眠りに落ちた彼に、わたしの心の声はきっと届かない。それでも、わたしと向き合ってくれようとしたことが嬉しかった。
このお店の看板人形としてでも置いてくれたらそれでいい。役に立てるのなら何でもしよう。小さい子や女の人なら、人形のわたしでも笑顔を引き出せるかもしれない。
そう思っていたわたしに、彼が『深夜の人魚姫』という『言葉を持たぬ者が夜の間だけ人間の身体になれる薬』を与えてくれたのは、また別の夜の話。
ちょうど三年前、彼に拾われた夜を思い出しながら、わたしはハーブティーを乗せたトレーを持ってマスターの私室にお邪魔する。
マスターが今日のことを覚えているのかはわからない。けれども今夜はもうお客様が来ないからと、珍しく早めに店仕舞いをしたのだ。
特別何かがあるわけでもない。それでも深夜のティータイムをこの部屋で彼と過ごせるのが、何より嬉しかった。
「……こんばんは、お邪魔してもいいですか?」
「やあ、いらっしゃい、こよるさん。お茶の用意をありがとう」
「にゃあ」
扉を開けてくれたマスターと、足元から出迎えてくれる黒猫のシャハルちゃん。お店の方で寝ていることの多いシャハルちゃんがここに居るとは思わず、わたしは少し驚いた。
「あら、シャハルちゃんもいらしてたんですね」
「うん。今夜は冷えるからね、彼の温もりを借りようと思って呼んだんだ」
「ふふ……確かに、もうすっかり冬ですもんねぇ、そろそろ雪が降りそうです」
かつて一晩彼を見守った机にトレーを置いて、温かなティーセットを用意する。透明なカップに湯気立つハーブティーを注げば、ふわりと生姜の爽やかで甘い香りがした。
「……今夜はジンジャーティーかな?」
「はい、肌寒いと思いまして、身体を温める作用のあるジンジャーをベースに、ローズマリー……それからカモミールも入れました。甘みが欲しい場合はお好みで蜂蜜でもお砂糖でもいいですし……心も身体も温まるハーブティーをご用意しました」
「なるほど……ローズマリーにカモミールか」
「すみません、シャハルちゃんが居るとわかっていたら別のものをお持ちしたんですけど……」
カモミールは猫にとってよろしくないし、ローズマリーの香りは猫があまり好まない。
けれどもお利口さんなシャハルちゃんは机から離れてベッドに飛び乗って、その片隅で気にするなと言わんばかりに丸くなった。
「あとでシャハルちゃんにもホットミルクをお持ちしますね」
「にゃあ!」
「ふふ、よかったね」
深夜零時を過ぎて始まった今夜のティータイムは、お店で過ごすのとはまた違う感覚だった。
マスターはお店に出る時の白い上着ではなく、大きめの黒いカーディガンを羽織ったラフな装いだったし、受け取ったカップを片手にベッドに向かう姿は、店主としてではなくまるで家族と過ごすように砕けた様子だ。
わたしは椅子に座って熱いハーブティーを冷ましながら、ちらりとベッドに足を組んで腰掛けるマスターを見る。丸くなっているシャハルちゃんを撫でる指先は、あの頃わたしの髪を撫でてくれたように優しい。
人間の身体を得た今ではすっかり、ヘアアレンジも着替えも自分で出来るようになった。それでもたまに、人形の名残かあの指先が恋しくなる。それを誤魔化すように、わたしは言葉を紡いだ。
マスターが留守の時や寝ている時にお相手したお客様のこと、シャハルちゃんがお外で出会った他の野良猫のお友達のこと、今度挑戦してみたいハーブティーのこと。とりとめのないことを話しながら、ふと気になっていたことを尋ねる。
「……ねえマスター、どうしてこんな町外れの路地裏で、お店を始めたんですか?」
「うーん……そうだな、僕はね……星空が好きなんだ。夜空に散らばる、この数えきれない煌めきひとつひとつが愛おしい。街中だと、ネオンの光でせっかくの夜空が見えないからね」
「なるほど……だからマスターのお薬には、お月様やお星様のモチーフが多いんですね」
お店の中にたくさんある、小瓶で煌めく不思議なお薬たち。そのどれもが綺麗で可愛らしくて、薬嫌いの子でも笑顔になってしまうような見た目をしている。
「ああ……星が好きならもっと田舎にでも、って思うかもしれないけれど……この街はね、星空に似ているんだ」
「この街が、ですか?」
「うん。この区画の『星見町』なんて名前もそうだけど……ここに集う人たちもね。まるで個なんてないかのように日々無数の人たちが行き交うけれど、ひとりひとり違う人生という物語を持っていて、そのどれもに愛や傷があるだろう。……僕はね、そのどれもが愛おしいんだ」
シャハルちゃんを撫でる手を止めたマスターは、ハーブティーを一口含んで頬を緩めた。その表情がどこまでも美しくて、わたしはつい溜め息を吐く。
「……マスターは、神様みたいです。人の悪い面も弱いところも、優しく全部を包み込むみたい……」
「ふふ、そんなんじゃないよ。ただのエゴだ。……傷も迷いも悲しみも、夜は特に深くなる。きみにも経験があるだろう」
「はい……」
「だから僕は夜に迷う人たちに、俯かず上を向いて欲しいだけなんだよ。きっと誰もが、あの星のように輝きを持っているからね」
マスターは、そう言ってカップをサイドテーブルに置いて立ち上がり、外気との差ですっかり曇った窓を開ける。
入り込む冷たい空気に一瞬身震いしたけれど、わたしも窓辺へと近付いた。見上げた星空は高く遠く澄んでいて、冬の空気を纏っている。
今宵は満月だ。空に浮かぶ淡い光が、夜の海を漂うくらげのよう。
わたしはそんな月を彼の隣で見上げながら、夜風に揺れる髪と、月明かりに照らされた白い横顔をそっと見上げた。
「……あの、お店の名前にもあるくらげって、半透明で、その名の通り水面に漂う月みたいじゃないですか」
「うん、そうだね」
「だからじゃないですけど……わたし、マスターってずっと月みたいな人だと思ってました……でも、太陽だったんですね」
「……おや、そうかな? こんなに夜行性なのに?」
わたしの言葉に、マスターは面食らったように瞬きをして、夜空からわたしに視線を向けてくれる。
その瞳がこちらを向くと、あの日彼が暗闇から救ってくれた記憶を思い出す。
あの時は、月を見る余裕なんてなかった。夜は孤独な暗闇で、彼が唯一の光だった。なのに今は、その夜のすべてが、こんなにも美しい。
「ふふっ……お日様は、あたたかな朝を連れてくる優しい光でしょう? 夜を照らすお月様は、そんな太陽の光を受けて反射することで輝きます……つまり夜に受け取る光は、ゆらゆら揺らいで消えてしまいそうな『お月様の道標』でもあるんです」
思うままに口にして、伝わったかどうか不安だった。それでも彼は、わたしの言葉を受けると、顎に指を添えながら考えようとしてくれる。
言葉を持たなかった頃から、わたしの気持ちを推し量ろうとしてくれた人だ。誰かの想いを無下にしたりはしないのだろう。
「つまり……月が夜の標である以前に、太陽たる僕が月に道標と光を提示していると?」
「はいっ!」
「それは……ずいぶんと大役を仰せつかってしまったな……? 月も海月も、夜の迷子たちも皆、自分で進む先を見つけている。買い被りすぎだよ」
困ったように微笑むマスターは、本当に謙虚な人だ。彼や彼の薬に救われた人が、大勢居ると言うのに。今ここに居るわたしも、その内のひとりだというのに。
わたしの不満そうな様子に気付いたのか、マスターはどうしたものかと悩んだようにわずかに俯く。少し長めの前髪が影を作り、その優しい瞳が隠れてしまうのが惜しかった。
「こよるさん。きみたちが恩義を感じてくれているのはわかるよ。でもね、僕はただ、夜空の無数の星々に焦がれているだけ……そのひとつひとつの輝きに、その星だけの色を灯したいだけなんだ」
「……その星だけの色、ですか?」
「うん……さっき言ったように、数えきれない星にひとつとして同じものがないみたいに、ひとりひとり同じ人生はないから。……その人生で負った傷と向き合い、迷いを捨てて、本当の自分と向き合って一歩踏み出す時……その人生はその人だけの色で輝くだろう」
マスターは再び窓の方を向いて、そのまま夜空に手を伸ばす。届かない月を掴もうとするように、長く白い指先が動いた。
「僕は、店を訪れる星ひとりひとりが色を灯す瞬間を、間近に見たいだけなんだよ。……迷いの先で、自ら輝きを捨ててしまう人も居るからね」
「……、……マスター?」
冷たい風に、前髪が揺れる。その隙間から覗く月明かりを受けた瞳は、少し揺らいで見えた。
わたしはその理由が知りたくて問い掛けようとするけれど、マスターはすぐに手を下ろして、代わりに窓枠に肘を乗せて、頬杖をつくようにしてわたしの方へと向き直る。
その顔は、もういつもの優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
「あ……そうだ。こよるさん。さっき、僕のことを太陽だと言ってくれただろう?」
「え、あ、はい……」
「僕が太陽だとしたら、きみが月だね。僕の光を……店にこめた願いを、きみが叶えてくれている」
「えっ!? わ、わたしはそんな……叶えるなんて大それたこと……マスターのお薬があってこそです!」
「おや、そんなことないさ。きみの存在に癒されている人も、随分多いと思うよ。もちろん、お客様だけじゃなく……僕やシャハルさんもね」
マスターのベッドの片隅で、寒さに丸くなりながらすっかり眠ってしまった黒猫は、名前を呼ばれて無意識に反応したのか、尻尾をぱたりと揺らした。
「わたし、マスターのお役に立ててるんですか?」
「当たり前だろう。きみにならお客様を任せられるし……お陰で僕も出掛けたり、寝坊したりしやすくなったしね」
「……お寝坊は直して欲しいです」
「ふふっ……善処するよ。……こよるさん。心配しなくても、きみはこの店になくてはならない存在だよ」
大切な人に捨てられた人形。女の子ひとり笑顔にしてあげられない役立たずの人形。一時は存在意義すら見失ったわたしが、こんなにも優しい人から必要とされる。
そして、多くの人からも必要だと言ってもらえる。これ以上ない幸せに、じわりと涙が滲んだ。
「……ありがとうございます。わたし……これからも頑張ります!」
「あ、いや。無理に頑張らなくていいよ。変に張り切るときみ、空回ったりするし……」
「えっ」
「お店の説明でお客様に怪しまれるのはしょっちゅうだし」
「う……っ」
「あとほら、この間なんて、片付けてたと思ったら急に店の薬瓶全部にリボン巻き始めた時、どうしようかと思った……シャハルさんも『いきなりどうした?』って顔してたし……」
「えっ!? あれは可愛くないですか!?」
「いや、うん……そうだね、可愛い……」
くすくすと笑うマスターの瞳には、もう悲しい色は見えない。
さすがに肌寒く、開けっぱなしだった窓を閉めると、部屋の中は花や植物に似てほんのり甘い慣れ親しんだたくさんの薬の香りがした。
「マスター……わたし、マスターへのご恩もありますけど、このお店が、お仕事が好きです。だから……これからもよろしくお願いしますね」
マスターはわたしの言葉に柔らかく微笑んで、そっと頭を撫でてくれた。指先から伝うその温もりに、わたしは胸がいっぱいになる。
「うん。こちらこそ……よろしく頼むよ」
「マスター……わたし……」
「……にゃあ」
「あら……シャハルちゃんも、ふふ、よろしくお願いしますね。……もうおねむみたいですし、ホットミルクは明日にしましょうか」
こうして決意を新たにしたわたしは、まだ夜空を眺めるというマスターと、気持ち良さそうに眠るシャハルちゃんに小声でおやすみの挨拶を告げて、廊下を挟んで向かいにある自分の部屋に戻る。
「……」
朝日が昇ってしばらくすると、薬の効果が切れてわたしの身体は人形に戻るから、この部屋にはベッドがない。
わたしが捨てられた時に入っていた、焦げ茶色の木製のトランクケース。その内側に敷き詰められた白いクッションが、今のわたしの寝床だ。
「……あの頃の可愛いお部屋とは、全然違うなぁ」
簡素な部屋にそれだけしかなかったのに、この三年で、随分私物も増えた。
お給金代わりのお小遣いで用意した何着かのお洋服に、古物商でお迎えした小さな家具。
マスターからいただいた白いリボンに、スバルさんにいただいたネックレス。鏡花さんからお預かりした指輪。他のお客様からいただいた飴玉や小物なんかも、全部机の引き出しにとってある。
それから机の上に置いてある、大切なガラス瓶。毎日眠る前に飲む『深夜の人魚姫』は、人魚姫のウロコのように薄く丸い。
月明かりに透かすとキラキラと虹色に輝いていて、舌に乗せると甘く溶ける。
「……もう三年、まだ三年、かぁ……」
三年間、迷い人たちは誰ひとりとして、同じ傷を持ってはいなかった。そのどれもが唯一の物語だ。
明日は、どんなお客様に出会えるだろう。そのお客様は、どんな迷いの中で頑張ってきたのだろう。そして朝を迎える時、この店を一歩出て、朝陽の中でどんな顔をしてくれるのだろう。
わたしはまだ見ぬ星に名前をつけるような感覚で想いを巡らせ、雪の降りだしそうな窓の外を見上げて、誰ともなくそっと呟く。
「おやすみなさい……素敵な夜を」
明日が誰かにとって少しでも良い夜となるようにと願いながら、わたしはそっと目を閉じた。
☆。゜。☆。゜。☆
悩んで、苦しんで、傷ついて、迷って……暗闇を漂うくらげのように、あてもなく彷徨う夜には、どうか町外れの路地裏にある『薬屋 夜海月』を、そっと訪ねてきて欲しい。
長い夜を越えて、新しい朝を迎え、また次の夜には、自ら輝けるように。
きっと優しい笑顔と魔法のような素敵な薬で、その心を癒すから。
あたたかな飲み物と共に、きみの歩んできた物語に寄り添うから。
夜空に輝く星のように、闇に紛れてしまっても消えることのない、きみだけの煌めきを見つけるお手伝いをするから。
今宵も『薬屋 夜海月』は、夜の片隅でひっそりと明かりを灯す。まだ見ぬきみと、出会うために。
「いらっしゃいませ、ようこそ、『薬屋 夜海月』へ。……きみがもう、夜に迷いませんように」