ちょうど三年前、彼に拾われた夜を思い出しながら、わたしはハーブティーを乗せたトレーを持ってマスターの私室にお邪魔する。
マスターが今日のことを覚えているのかはわからない。けれども今夜はもうお客様が来ないからと、珍しく早めに店仕舞いをしたのだ。
特別何かがあるわけでもない。それでも深夜のティータイムをこの部屋で彼と過ごせるのが、何より嬉しかった。
「……こんばんは、お邪魔してもいいですか?」
「やあ、いらっしゃい、こよるさん。お茶の用意をありがとう」
「にゃあ」
扉を開けてくれたマスターと、足元から出迎えてくれる黒猫のシャハルちゃん。お店の方で寝ていることの多いシャハルちゃんがここに居るとは思わず、わたしは少し驚いた。
「あら、シャハルちゃんもいらしてたんですね」
「うん。今夜は冷えるからね、彼の温もりを借りようと思って呼んだんだ」
「ふふ……確かに、もうすっかり冬ですもんねぇ、そろそろ雪が降りそうです」
かつて一晩彼を見守った机にトレーを置いて、温かなティーセットを用意する。透明なカップに湯気立つハーブティーを注げば、ふわりと生姜の爽やかで甘い香りがした。
「……今夜はジンジャーティーかな?」
「はい、肌寒いと思いまして、身体を温める作用のあるジンジャーをベースに、ローズマリー……それからカモミールも入れました。甘みが欲しい場合はお好みで蜂蜜でもお砂糖でもいいですし……心も身体も温まるハーブティーをご用意しました」
「なるほど……ローズマリーにカモミールか」
「すみません、シャハルちゃんが居るとわかっていたら別のものをお持ちしたんですけど……」
カモミールは猫にとってよろしくないし、ローズマリーの香りは猫があまり好まない。
けれどもお利口さんなシャハルちゃんは机から離れてベッドに飛び乗って、その片隅で気にするなと言わんばかりに丸くなった。
「あとでシャハルちゃんにもホットミルクをお持ちしますね」
「にゃあ!」
「ふふ、よかったね」
深夜零時を過ぎて始まった今夜のティータイムは、お店で過ごすのとはまた違う感覚だった。
マスターはお店に出る時の白い上着ではなく、大きめの黒いカーディガンを羽織ったラフな装いだったし、受け取ったカップを片手にベッドに向かう姿は、店主としてではなくまるで家族と過ごすように砕けた様子だ。
わたしは椅子に座って熱いハーブティーを冷ましながら、ちらりとベッドに足を組んで腰掛けるマスターを見る。丸くなっているシャハルちゃんを撫でる指先は、あの頃わたしの髪を撫でてくれたように優しい。
人間の身体を得た今ではすっかり、ヘアアレンジも着替えも自分で出来るようになった。それでもたまに、人形の名残かあの指先が恋しくなる。それを誤魔化すように、わたしは言葉を紡いだ。
マスターが留守の時や寝ている時にお相手したお客様のこと、シャハルちゃんがお外で出会った他の野良猫のお友達のこと、今度挑戦してみたいハーブティーのこと。とりとめのないことを話しながら、ふと気になっていたことを尋ねる。
「……ねえマスター、どうしてこんな町外れの路地裏で、お店を始めたんですか?」
「うーん……そうだな、僕はね……星空が好きなんだ。夜空に散らばる、この数えきれない煌めきひとつひとつが愛おしい。街中だと、ネオンの光でせっかくの夜空が見えないからね」
「なるほど……だからマスターのお薬には、お月様やお星様のモチーフが多いんですね」
お店の中にたくさんある、小瓶で煌めく不思議なお薬たち。そのどれもが綺麗で可愛らしくて、薬嫌いの子でも笑顔になってしまうような見た目をしている。
「ああ……星が好きならもっと田舎にでも、って思うかもしれないけれど……この街はね、星空に似ているんだ」
「この街が、ですか?」
「うん。この区画の『星見町』なんて名前もそうだけど……ここに集う人たちもね。まるで個なんてないかのように日々無数の人たちが行き交うけれど、ひとりひとり違う人生という物語を持っていて、そのどれもに愛や傷があるだろう。……僕はね、そのどれもが愛おしいんだ」
シャハルちゃんを撫でる手を止めたマスターは、ハーブティーを一口含んで頬を緩めた。その表情がどこまでも美しくて、わたしはつい溜め息を吐く。
「……マスターは、神様みたいです。人の悪い面も弱いところも、優しく全部を包み込むみたい……」
「ふふ、そんなんじゃないよ。ただのエゴだ。……傷も迷いも悲しみも、夜は特に深くなる。きみにも経験があるだろう」
「はい……」
「だから僕は夜に迷う人たちに、俯かず上を向いて欲しいだけなんだよ。きっと誰もが、あの星のように輝きを持っているからね」
マスターは、そう言ってカップをサイドテーブルに置いて立ち上がり、外気との差ですっかり曇った窓を開ける。
入り込む冷たい空気に一瞬身震いしたけれど、わたしも窓辺へと近付いた。見上げた星空は高く遠く澄んでいて、冬の空気を纏っている。
今宵は満月だ。空に浮かぶ淡い光が、夜の海を漂うくらげのよう。
わたしはそんな月を彼の隣で見上げながら、夜風に揺れる髪と、月明かりに照らされた白い横顔をそっと見上げた。
「……あの、お店の名前にもあるくらげって、半透明で、その名の通り水面に漂う月みたいじゃないですか」
「うん、そうだね」
「だからじゃないですけど……わたし、マスターってずっと月みたいな人だと思ってました……でも、太陽だったんですね」
「……おや、そうかな? こんなに夜行性なのに?」
わたしの言葉に、マスターは面食らったように瞬きをして、夜空からわたしに視線を向けてくれる。
その瞳がこちらを向くと、あの日彼が暗闇から救ってくれた記憶を思い出す。
あの時は、月を見る余裕なんてなかった。夜は孤独な暗闇で、彼が唯一の光だった。なのに今は、その夜のすべてが、こんなにも美しい。
「ふふっ……お日様は、あたたかな朝を連れてくる優しい光でしょう? 夜を照らすお月様は、そんな太陽の光を受けて反射することで輝きます……つまり夜に受け取る光は、ゆらゆら揺らいで消えてしまいそうな『お月様の道標』でもあるんです」
思うままに口にして、伝わったかどうか不安だった。それでも彼は、わたしの言葉を受けると、顎に指を添えながら考えようとしてくれる。
言葉を持たなかった頃から、わたしの気持ちを推し量ろうとしてくれた人だ。誰かの想いを無下にしたりはしないのだろう。
「つまり……月が夜の標である以前に、太陽たる僕が月に道標と光を提示していると?」
「はいっ!」
「それは……ずいぶんと大役を仰せつかってしまったな……? 月も海月も、夜の迷子たちも皆、自分で進む先を見つけている。買い被りすぎだよ」
困ったように微笑むマスターは、本当に謙虚な人だ。彼や彼の薬に救われた人が、大勢居ると言うのに。今ここに居るわたしも、その内のひとりだというのに。
わたしの不満そうな様子に気付いたのか、マスターはどうしたものかと悩んだようにわずかに俯く。少し長めの前髪が影を作り、その優しい瞳が隠れてしまうのが惜しかった。
「こよるさん。きみたちが恩義を感じてくれているのはわかるよ。でもね、僕はただ、夜空の無数の星々に焦がれているだけ……そのひとつひとつの輝きに、その星だけの色を灯したいだけなんだ」
「……その星だけの色、ですか?」
「うん……さっき言ったように、数えきれない星にひとつとして同じものがないみたいに、ひとりひとり同じ人生はないから。……その人生で負った傷と向き合い、迷いを捨てて、本当の自分と向き合って一歩踏み出す時……その人生はその人だけの色で輝くだろう」
マスターは再び窓の方を向いて、そのまま夜空に手を伸ばす。届かない月を掴もうとするように、長く白い指先が動いた。
「僕は、店を訪れる星ひとりひとりが色を灯す瞬間を、間近に見たいだけなんだよ。……迷いの先で、自ら輝きを捨ててしまう人も居るからね」
「……、……マスター?」
冷たい風に、前髪が揺れる。その隙間から覗く月明かりを受けた瞳は、少し揺らいで見えた。
わたしはその理由が知りたくて問い掛けようとするけれど、マスターはすぐに手を下ろして、代わりに窓枠に肘を乗せて、頬杖をつくようにしてわたしの方へと向き直る。
その顔は、もういつもの優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
「あ……そうだ。こよるさん。さっき、僕のことを太陽だと言ってくれただろう?」
「え、あ、はい……」
「僕が太陽だとしたら、きみが月だね。僕の光を……店にこめた願いを、きみが叶えてくれている」
「えっ!? わ、わたしはそんな……叶えるなんて大それたこと……マスターのお薬があってこそです!」
「おや、そんなことないさ。きみの存在に癒されている人も、随分多いと思うよ。もちろん、お客様だけじゃなく……僕やシャハルさんもね」
マスターのベッドの片隅で、寒さに丸くなりながらすっかり眠ってしまった黒猫は、名前を呼ばれて無意識に反応したのか、尻尾をぱたりと揺らした。
「わたし、マスターのお役に立ててるんですか?」
「当たり前だろう。きみにならお客様を任せられるし……お陰で僕も出掛けたり、寝坊したりしやすくなったしね」
「……お寝坊は直して欲しいです」
「ふふっ……善処するよ。……こよるさん。心配しなくても、きみはこの店になくてはならない存在だよ」
大切な人に捨てられた人形。女の子ひとり笑顔にしてあげられない役立たずの人形。一時は存在意義すら見失ったわたしが、こんなにも優しい人から必要とされる。
そして、多くの人からも必要だと言ってもらえる。これ以上ない幸せに、じわりと涙が滲んだ。
「……ありがとうございます。わたし……これからも頑張ります!」
「あ、いや。無理に頑張らなくていいよ。変に張り切るときみ、空回ったりするし……」
「えっ」
「お店の説明でお客様に怪しまれるのはしょっちゅうだし」
「う……っ」
「あとほら、この間なんて、片付けてたと思ったら急に店の薬瓶全部にリボン巻き始めた時、どうしようかと思った……シャハルさんも『いきなりどうした?』って顔してたし……」
「えっ!? あれは可愛くないですか!?」
「いや、うん……そうだね、可愛い……」
くすくすと笑うマスターの瞳には、もう悲しい色は見えない。
さすがに肌寒く、開けっぱなしだった窓を閉めると、部屋の中は花や植物に似てほんのり甘い慣れ親しんだたくさんの薬の香りがした。
「マスター……わたし、マスターへのご恩もありますけど、このお店が、お仕事が好きです。だから……これからもよろしくお願いしますね」
マスターはわたしの言葉に柔らかく微笑んで、そっと頭を撫でてくれた。指先から伝うその温もりに、わたしは胸がいっぱいになる。
「うん。こちらこそ……よろしく頼むよ」
「マスター……わたし……」
「……にゃあ」
「あら……シャハルちゃんも、ふふ、よろしくお願いしますね。……もうおねむみたいですし、ホットミルクは明日にしましょうか」
こうして決意を新たにしたわたしは、まだ夜空を眺めるというマスターと、気持ち良さそうに眠るシャハルちゃんに小声でおやすみの挨拶を告げて、廊下を挟んで向かいにある自分の部屋に戻る。
「……」
朝日が昇ってしばらくすると、薬の効果が切れてわたしの身体は人形に戻るから、この部屋にはベッドがない。
わたしが捨てられた時に入っていた、焦げ茶色の木製のトランクケース。その内側に敷き詰められた白いクッションが、今のわたしの寝床だ。
「……あの頃の可愛いお部屋とは、全然違うなぁ」
簡素な部屋にそれだけしかなかったのに、この三年で、随分私物も増えた。
お給金代わりのお小遣いで用意した何着かのお洋服に、古物商でお迎えした小さな家具。
マスターからいただいた白いリボンに、スバルさんにいただいたネックレス。鏡花さんからお預かりした指輪。他のお客様からいただいた飴玉や小物なんかも、全部机の引き出しにとってある。
それから机の上に置いてある、大切なガラス瓶。毎日眠る前に飲む『深夜の人魚姫』は、人魚姫のウロコのように薄く丸い。
月明かりに透かすとキラキラと虹色に輝いていて、舌に乗せると甘く溶ける。
「……もう三年、まだ三年、かぁ……」
三年間、迷い人たちは誰ひとりとして、同じ傷を持ってはいなかった。そのどれもが唯一の物語だ。
明日は、どんなお客様に出会えるだろう。そのお客様は、どんな迷いの中で頑張ってきたのだろう。そして朝を迎える時、この店を一歩出て、朝陽の中でどんな顔をしてくれるのだろう。
わたしはまだ見ぬ星に名前をつけるような感覚で想いを巡らせ、雪の降りだしそうな窓の外を見上げて、誰ともなくそっと呟く。
「おやすみなさい……素敵な夜を」
明日が誰かにとって少しでも良い夜となるようにと願いながら、わたしはそっと目を閉じた。