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 あのガラスケースのある部屋で、わたしは幸せなお姫様だった。
 愛情の込められたお洋服、何十年も髪を整えてくれたしわしわの指先、まっすぐ向けられる慈しむような笑顔。
 これからもずっと、そんな日々が続くと思っていた。

 彼女の孫娘だというヒカリちゃんの家に引き取られてからしばらくの間も、あらゆるものを与えられて愛された。その両親からも、時折彼女の話を聞けて嬉しかった。
 ずっとずっと、ただ微笑んでいるだけで誰かに愛されるような、誰かを幸せにできるような、そんなお姫様で居られると思っていた。

 けれど、わたしはある日、そのすべてをなくして、ひとり暗闇に取り残されたのだ。

 部屋にカーテンをされてしばらく、わたしはひとり、かつて愛された記憶を反芻していた。またいつか、彼女に微笑んで貰えることを願っていた。
 しかし、数年
ぶりに顔を見たヒカリちゃんは思い詰めた顔をして、久しぶりに触れた指先は髪を撫でることなく、白いクッションが敷き詰められたトランクへわたしを誘う。
 また遊んでくれる気になったのか、またどこかへ連れていってくれるのか、嬉しくなったけれど、久しぶりに乗った乗り物はいつになく冷たくて、なんだか嫌な予感がした。

 しばらくの後揺れが収まって、早く開けて乱れた髪を整えて欲しいのに、いつもなら目的地に着くと開かれた扉はトランクごと地面に置かれたきり、開く気配がない。

 何かあったのか、問い掛けようにもわたしは人形で、何の言葉も持たない。わたしにできるのは、微笑みながら話を聞くことくらいだ。

「……ちゃんと大切にできなくて、ごめんね……さようなら」

 そんな悲しいお別れの言葉と共に、わたしは唐突に暗闇に取り残される。
 せめてここが開いて、外が見えたなら。そんな願いも空しく、ヒカリちゃんの走る足音が遠ざかる。去り行く背中も見られず、持ち主の最後の表情もわからないまま、わたしは夜の迷子になってしまった。

 冷たい暗闇の中、どれくらい経ったのか。これからどうなるのか。ヒカリちゃんは大丈夫なのか。どうして置いていかれたのか。ここはどこなのか。それから、わたしを彼女に委ねた元の持ち主も、どこへ行ってしまったのか。

 わたしには、わからないことばかりだった。答えのない問いを重ねながら暗闇の中途方に暮れていると、不意にこちらに近付いてくる足音が聞こえてきた。
 ヒカリちゃんが戻ってきてくれたにしては、足音が大きい。大人だろうか。

「……おや?」

 トランクの中のクッション越しに響いたのは、知らない男の人の声だった。
 もう誰でもいい、助けて欲しい。わたしは人形だ。人間に愛されるため、そして人間を愛するため生まれた存在なのに。
 わたしは役目を全うできないどころか、あんなに寂しそうな目をした彼女にごめんねと謝らせてしまった。宝物だと言ってくれたのに、捨てさせてしまった。
 なにがお姫様だ、与えられる幸せに浸ってばかりでなにも返せなかった、ただの役立たずだ。
 答えのない問いを暗闇で続ける内、すっかり思考は深く沈んでしまっていた。ずっとここに捨て置かれるくらいなら、いっそスクラップにでもして欲しかった。

「……助けを呼んだのは、きみかい?」

 不意に、かちゃりとトランクの扉が開けられる。白いクッションに寝たままのわたしをしゃがんで覗き込んで来るのは、黒いズボンに黒いコートを羽織った、闇に溶けそうな夜色の髪をした美しい男の人だった。
 わたしの心の叫びが聞こえたかのような、そんな言葉にも、わたしは返事をする術を持たない。
 それでも男の人は尚、わたしに対して言葉を重ねる。

「とても綺麗なお人形さんだね……愛されていたのがよくわかる。……きみは、どこから来たのかな?」

 優しく語りかけながら、男の人はわたしの乱れた髪をそっと指先で整えてくれる。人に撫でて貰うのは久しぶりで、その温度に少しだけ落ち着いた。
 改めて確認した外の景色は暗くて、触れる空気はとても冷たい。こんなに寒い夜には、雪が降るかもしれない。
 心細くてお家に帰りたかったけれど、前の持ち主からも、ヒカリちゃんからも、きっと捨てられてしまったのだと、なんとなく理解していた。わたしには、帰る場所なんてなかった。

「……きみは……。……ああ、ごめんね。一度帰ってもいいかな、アイスを買ったんだけど、溶けてしまうから」

 突然思い出したように告げる彼は、手にぶら下げていたビニール袋を小さく揺らす。
 アイスなら知っている。甘くて冷たいものだ。元の持ち主が遊びに来る孫娘のためにとよく買ってきていた。
 こんな寒い日にも、アイスは溶けるものなのだろうか。

 どちらにせよ、わたしはまた置いていかれるのだ。そんな諦めにも似た気持ちでいると、彼は優しくわたしに微笑んで、絵本のお姫様をエスコートするようにそっとわたしの片手を指先で掬い上げる。

「行き場がないのなら、きみも一度うちにおいで……うちはきみのような、夜の迷子のためのお店だから」

 夜の迷子。わたしの状況も心境もお見通しとばかりに告げられた言葉に、驚いた。
 それでも、さっきまであんなに壊れてしまいたい気持ちだったのに、またこうして触れてくれるなら、また微笑みかけてくれるなら、わたしはこの人についていこうと決めたのだ。

 トランクをまた閉められて、しばらく揺られた後、わたしは温かく仄かな明かりの照らす室内で再び出して貰えた。
 先程言っていたお店についたのだろう。ふわりと香る甘いような植物のような柔らかな香りと、暗かった場所にいた目にも優しい淡く煌めく美しいインテリア。
 アンティークの雰囲気はどこかあの家の懐かしさを感じて、可愛らしい小瓶たちはヒカリちゃんが好きそうだとぼんやりと考える。

「ええと……トランクに『小夜』って書いてあったけれど、きみの名前かい? ふふ、なんだか懐かしいな……僕の師匠の名前にも、この字が入っていたんだよ」

 ひとり何かを思い出すように目を細めた男の人は、明るいところで見るとますます綺麗な人だった。
 そして男の人はトランクに座らせたわたしの髪を整えながら、わたしの目をまっすぐに見つめてくる。誰かにこんな風に見て貰えるのは、いつぶりだろう。

「読み方はサヤ、サヨ……いや、夜空の星を閉じ込めたみたいに綺麗な瞳をしているから、『こよる』かな。……ようこそ、こよるさん。『薬屋 夜海月』へ」

 それが、『こよる』となったわたしと、マスターの出会いだった。


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 その夜、すぐにお客様が来店されて、わたしはお店のインテリアの一部のようにトランクケースに腰掛けたまま、マスターとお客様のやりとりを眺めた。

「……さて、きみの話を聞かせてくれるかな」
「それが……おれ、ホストなんすけど……」

 吐き出される苦しみや寂しさに、夜の迷子はわたしだけではないのだと知った。
 隠された切なさと悲しみに、夜にはあらゆる冷たさが眠っているのだと知った。
 自身の傷と向き合う時間が、温かな飲み物とマスターの用意した薬によって癒されるのを間近に見て、わたしのやるべきことを見つけた。

 わたしは、人の役に立ちたかった。
 また誰かの笑顔を見たかった。今度こそ誰かの痛みに寄り添いたかった。
 ただ在るだけで何も出来ない、与えられるだけの人形では居たくなかった。
 捨てられた人形に、そんな大それたことは出来ないかもしれない。
 それでも、悲しみに浸り自棄になるよりも、かつて人から受けた愛を返しかった。

 そんな決意の一夜は明けて、お客様は涙の夜から笑顔の朝を迎えられ、お店を後にした。
 ショーウィンドウから見えた去り行くお客様の明るい横顔に、わたしはつられて笑顔になる。

「こよるさん、待たせてしまって申し訳ない……、おや……? なんだか嬉しそうだね。何かあったのかい? ……なんて、きみの話も聞きたいところなんだけど、ごめん、もう眠くて……」

 夜通しお客様に付き合った彼は、あくび混じりにそう告げる。
 物言わぬ人形のわたしの話を聞きたいなんて、本当に不思議な人だ。
 それでも、助けを求めた時手を差しのべてくれて、今もわたしの気持ちの変化を悟ってくれた彼ならば、わかってくれる気がした。

 眠たげな彼は店を閉めて、わたしをトランクごと抱え、二階へと向かう。
 店の二階は居住スペースのようで、いくつかある内の一室、彼の私室の机の上にわたしは置かれた。
 窓から差し込む日の光は、レースカーテンを介して柔らかく部屋を包み込み、店内よりも明るい印象を与える。

「少しここで待っていてね」

 一度部屋を出て、やがてシャワーや着替えを終えたのであろう彼は、お店での店主然とした姿からすっかり一人の青年の顔をして、力尽きたようにベッドに潜り込んだ。

「……おやすみ、こよるさん、起きたら、きみの……」
「はい……あなたのお目覚めを、お待ちしていますね」

 言葉の途中で眠りに落ちた彼に、わたしの心の声はきっと届かない。それでも、わたしと向き合ってくれようとしたことが嬉しかった。

 このお店の看板人形としてでも置いてくれたらそれでいい。役に立てるのなら何でもしよう。小さい子や女の人なら、人形のわたしでも笑顔を引き出せるかもしれない。

 そう思っていたわたしに、彼が『深夜の人魚姫』という『言葉を持たぬ者が夜の間だけ人間の身体になれる薬』を与えてくれたのは、また別の夜の話。