ある月のない真っ暗な夜更けに、私はあてもなく街を彷徨い歩いていた。
ひしめくネオンの看板も、擦れ違う人達のアルコールや香水の匂いも、声をかけてくる見知らぬ男も、コンビニの前にたむろする若者も、眠らない街の喧騒はすぐ隣にあるのに、どこか遠い。
いろんな色が混ざり合うこともなく押し込められた雑多な世界の片隅で、私は居場所もなく漂う半透明のくらげのようだった。
「……、ひっどい顔」
ここではないどこかへ行きたくて、ただ足の動くまま移動する最中、不意にショーウィンドウに反射した自分の顔を見て、思わず自嘲が溢れる。
何年か前に買ってすっかり着古した部屋着のパーカーと、くたびれたスニーカー。すっかりメイクの流れた泣き腫らした目と、走ったせいで乱れたままの髪の毛。
事の始まりは約三時間前。結婚を前提に同棲していた恋人の浮気発覚、からの、何故か逆ギレされての修羅場。こんな肌寒くなってきた夜更けに女一人飛び出すには、十分な理由だろう。
着の身着のまま飛び出して、スマートフォンも財布も忘れてきたことに気付いたのは、しばらく経ってからだった。
今更取りにも戻れない、かといって、行くあてもない。このままふらふらと、無一文で朝までぶらつく他なかった。
朝になれば、彼は仕事に出るはずだ。そうしたら一度帰って、少し仮眠しよう。
それから、別れ話をするのだろうか。それとも、何か言い訳でもされるのだろうか。はたまた、何もなかったかのように流されるのだろうか。正直今は、顔を合わせたくもない。
「とりあえず……どこか、お金がなくても入れる場所……」
疲れて冷えた身体を引き摺って、惨めさと悲しみと悔しさと怒り、様々な感情が渦巻いて、頭がパンクしそうだ。
そのまま近くにあったひんやりとしたガラスに額を預け、凭れるようにして一息吐く。
何も考えたくなくて、ぼろぼろの自分を見たくなくて目を閉じるけれど、どうしたって嫌な光景が目蓋の裏に広がってしまう。
考えは纏まらない。それでもとにかく、この永遠に続く気のする夜を乗り切らなくては。
意を決して目を開けると、不意にショーウィンドウに越しに、星のように煌めく瞳と目が合った。
「……」
「……えっ!?」
反射的に飛び退くと、先ほど鏡代わりにしていたそのガラスの向こう、ぼろぼろの私とは真逆の可愛らしい女の子が、少し驚いたようにした後にっこりと微笑む。
白いリボンで愛らしく二つに結われた、綺麗に手入れされた長い髪。ひらひらのレースとリボンのついた甘いテイストのネイビーの服、淡い色のリップが象る愛らしい笑顔。
思わず見惚れていると、彼女はガラス一枚隔てた向こうで、「いらっしゃいませ」と弾むような声で私を手招く。
そこでようやく、ここが何かの店であることに気付いた。
店の前に、こんな格好の奴が居たら営業妨害だろう。私は慌ててその場を離れようとするけれど、咄嗟に頭を下げている間に彼女はガラスの向こうから消えていて、すぐ隣の木製の扉が開く。
扉に付けられたベルがからんと小さな音を立て、彼女はふわりと長いスカートを揺らしながら出てきた。
まるで物語の中のヒロインが現実世界に飛び出してきたような、そんな錯覚。
動けないままでいた私の側に彼女はやって来て、長時間外に居て冷えきった私の手を、そっと握った。
「こんばんは、お姉さん。いい夜ですね!」
柔らかく触れる温もりを、幻ではなく確かに感じる。じんわりと凍えた指先を、優しく溶かすようだ。
たったそれだけで何だか泣けそうになって、私は慌てて俯いた。
「……こん、ばんは。……あはは、私にとっては、最悪の夜です」
ただがむしゃらに歩き回り、ひとりでも大丈夫だと、これは怒りだと自分に言い聞かせていたのに、初対面の相手の挨拶に愚痴を返してしまう程傷付き弱っていたことに、この時になって気付いた。
「最悪、なんですか……? じゃあ、わたしが素敵な夜に変えてあげます!」
「……素敵な夜、って、どうやって」
「そうですねぇ……お姉さんが幸せになれるように、うちはいろんなお薬取り揃えてますよ!」
「え……」
幸せになれるお薬。
その明らかに危ない響きに、絆されそうだった気持ちが一瞬にして警戒心に変わる。
けれど彼女はにこにことした笑顔のまま、まるで踊るように私の手を引いて、開きっぱなしだった扉の奥へと誘う。
「いらっしゃいませ! ようこそ『薬屋 夜海月』へ!」
「よる、くらげ……?」
つい先ほどまで自分のことをくらげのようだと考えていたから、彼女の言葉につい反応してしまう。
そして抵抗の間も無く導かれ、背後で静かに扉が閉まる音がした。
今からでもこの手を振り払って逃げるべきかとも考えたけれど、どうにもこの温もりを手離すには、まだ心が覚束なかった。
「さあさあ、まずは座って、自己紹介からはじめましょう!」
「はあ……」
外のネオンの眩しさに慣れた目には薄暗い店内、私は彼女が促すままに、店の隅に置かれたソファーに身を沈めた。
白いソファーは雲のようなふかふかの座り心地で、歩き通しで疲れきった身体を包み込む。もう立ち上がる気力さえない。
「改めまして、わたし、夜海月店員の『こよる』っていいます。よろしくお願いしますね」
「こよるさん……私は、朔間鏡花、です」
「わあ、素敵なお名前ですね!」
「……どうも」
「鏡花さんってお呼びしてもいいですか?」
「あ、はい……」
正面に立ったこよるさんは、私の投げやりな反応も気にすることなく、お人形みたいに可愛らしい笑顔のままだ。
美しい彼女を前にして、なんとなく、惨めな自分の格好が恥ずかしくて居たたまれない。
街中を歩いている時には気にする余裕もなかったのに、私にまっすぐ向けられる視線が、やけに落ち着かなかった。
彼女は隣に座ることはなく、自己紹介を済ませると、握手のように手を揺らした後するりと指先を離す。
離れた温もりが何となく名残惜しく、少しだけ不安に感じたけれど、身体を支えてくれるソファーのお陰で何とか耐えられた。
「夏の名残があるとはいえ、もうすっかり秋ですもんねぇ……夜はもう冷えます。鏡花さん全身ひえひえですし、よければ温かいお茶をご用意しますね。苦手なお味とかありますか?」
「あ……いえ。あの、すみません、私、今お財布なくて……」
「そうなんですか? ふふ、お茶くらいでお金取ったりしませんよぉ。わたしもちょうど休憩しようと思ってたので、深夜のティータイムに付き合ってくれると嬉しいです!」
ただの水にも高額を設定しているような店が多い中、随分と良心的だ。
けれど「いらっしゃいませ」とわざわざ出迎えたからには、店は営業時間だ。他に従業員も見当たらないし、休憩なんて嘘だろう。騙され傷ついた心にその優しい嘘がじんわりとしみて、私は素直に頷く。
「……なら、お願いします」
「ふふ、ありがとうございます! 少し待っていてくださいね」
柔らかそうな長い髪をほうき星のように靡かせて、彼女が暗い店の奥に行ってしまうのを見送った後、私は改めて辺りを見回す。
全体的に濃紺と白のコントラストを基調とした落ち着いたカラーリングに、木製の棚が壁沿いに並んでいる。
どこか甘い植物のような香りは独特で、お洒落な間接照明の灯りは夜空の星のようで美しい。狭くてほんのり薄暗い店内は、隠れ家的な印象だった。
私以外に客も居らず、一見営業しているのかもわからないような雰囲気。
海の底のような静けさをした、夜の忘れ物のような、そんな場所。ノイズにしか聞こえなかった街の喧騒も、ここには届かない。
まるでここに居ていいのだと決められた水槽の中のように、落ち着く空間だった。
☆。゜。☆゜。゜☆
「……お待たせしましたぁ。熱いので気をつけてくださいね」
「ありがとうございます……わ、綺麗……」
「ふふ。鏡花さんのために淹れた、愛情たっぷりの『こよるスペシャル』です!」
愛なんて言葉を恥ずかしげもなく告げて、こよるさんは得意気な笑みを浮かべながら、今度は私の隣に腰掛ける。
ソファーが二人分の重さに沈んで、僅かに揺れる。心地の良い波間のようだ。
そして、隣でかちゃりと用意されたのは、お茶と聞いて思い浮かぶものとは違う、美しい青色をした液体だった。
「えっと……これって、お茶なんですか? カクテルとかじゃなく?」
「ブルーマロウをベースにブレンドした、オリジナルハーブティーです。ノンカフェインなので、夜にも飲めていいですよねぇ」
「ハーブティー……あんまり飲んだことないです」
「あっ、そうでしたか……これは比較的クセは少ないんですけど、ハーブの苦味はあるので、良ければお好みで蜂蜜をどうぞ」
「ありがとうございます……いただきます」
添えられた蜂蜜の琥珀色と、透明の耐熱カップの中に揺れる、深い海と夜の始まりの境界のような、澄んだ青。見ているだけでささくれた気持ちが回復するようだ。
ずっと眺めていたい気持ちでいっぱいになりながらも、仄かな花の香りのする湯気を吸い込んで、カップを傾け一口含む。
「……! おいしい……」
「それは良かったです。ブルーマロウには、喉の痛みを和らげる効果もあるんですよ」
「え……」
散々泣いて、喉も痛かった。声を上げないように堪えても、泣き叫ぶのと同じくらい熱く痛むのだと、今夜初めて知った。
普通に話していたつもりでも、彼女にはお見通しだったのだろうか。
「ふふ、飲むだけでいろんな効果があるハーブティーって、なんだかお薬に似てますよね」
「薬……」
確かに華やかな香りの奥に、薬のような独特な風味の苦さはあるものの、すっきりと飲みやすい味だった。
けれど冷えきった身体には熱すぎて、私はもう少し冷めるのを待つことにする。
ちらりと隣を見ると、こよるさんも蜂蜜をたっぷり垂らしたそれにふうふうと息を吹き掛け冷ましながら、幸せそうに口に運んでいた。
私も真似て、とろりと少しの蜂蜜を垂らす。カップの中の夜空に、とぷんと金の流れ星が落ちるよう。
くるくるとティースプーンでかき混ぜなから、ぼんやりと考える。
こうして誰かと一緒にゆっくりお茶をするなんて、一体いつぶりだろう。
思えばお互い忙しさに追われて、彼とこんな風に過ごすことさえ減っていた。かといって、婚約までしてから浮気されるなんて思ってもみなかったけれど。
せっかくのティータイムに彼のことを考えたくなくて、私は改めてこよるさんに問い掛ける。
「あの、さっき薬屋って言ってましたけど……ここ、薬局か何かなんですか?」
「そうですねぇ、お薬屋さんです。今日はマスターが所用でお休みなので、わたしが一人で店番なんです!」
そう言って自信満々に胸を張る彼女の姿がどこか子供っぽく見えて、少し心配になる。改めて近くで見ると、顔立ちもどこか幼い。成人しているかも怪しい。
こんなに夜遅くまで働いて大丈夫なのかと気になったところで、先ほどまで自分のことで精一杯だった私が、他人を気にかけるくらいには回復したことを実感する。
けれど他人の事情に首を突っ込めるほどの余裕はなく、私はこよるさん個人ではなく、店について話すことにした。
「えっと、正直、雑貨屋さんか何かかと……その、全部キラキラしてますし」
彼女を待つ間ぼんやりと店内を眺めて気付いたのは、ショーケースや棚の中に、指先程度のものからラムネ瓶サイズまで、様々な小瓶が並んでいること。
しかしその小瓶の中身はどれも、お菓子やおもちゃと言われた方がしっくり来るような、一般的な薬とは程遠い様々な形状や彩りをしていた。
「そうなんです! お薬って、苦くて美味しくないじゃないですか。テンション下がっちゃいます! だから、うちのお薬はまずは見た目から可愛くしてるんですよ」
「あー……何事も形から入るタイプの人だ……」
「形からは大事ですよ、モチベーション上がりますし! ……例えば、ほら。この棚のお薬は、どれもわたしのお気に入りです」
そう言ってこよるさんはソファーから立ち上がり、店の少し奥まった場所にあった、大きな棚の鍵付きの扉を開ける。
隠されていたそこには、見える形で飾られていた小瓶たちよりも更に美しい、夜空の星を閉じ込めたような煌めきをした『薬』が並んでいた。
「え……すごい、綺麗……」
「ふふ、これは『星屑の粉薬』です。粉が大変細かいので、噎せないように『月明かりのオブラート』にくるんで飲むのがいいですね」
目薬サイズの小瓶に半分程入った、ラメのような細かい煌めきの星屑の粉薬。
店の仄かな灯りに翳すと美しい、淡い蜂蜜色をした半透明の月明かりのオブラート。
どちらも見ているだけでうっとりとしてしまう。
「こっちの『夜露のシロップ』は苦くないのでお子様にもおすすめですし……錠剤が飲めるようなら『月の欠片』なんかもありますね」
一見透明な水のようで、小瓶を揺らすと波間が夜を煮詰めたように暗い色味に変わる夜露のシロップ。
色とりどりの三日月の形をした、可愛らしいラムネ菓子のような月の欠片。
私は思わずソファーから立ち上がり、夢見心地なふわふわとした足取りで近付いて、こよるさんの手元の煌めきをより間近に覗き込む。
「……これ、全部薬なんですか? えっと、本当に怪しいやつじゃなく……」
「怪しくないちゃんとしたお薬ですよ! うちの店オリジナルです!」
「え、それは怪しい……」
「え……っ!?」
それから私は、目にも楽しい薬たちを眺めながら、どこか不思議なその効果を聞く。それが事実でも、私を元気付けるための物語でも構わなかった。
絶望のどん底みたいな夜だったはずなのに、いつの間にか、自然と笑みが溢れてくる。
薬のこと、店のこと、今日は生憎留守だというとっても素敵なマスターさんのこと。こよるさんの星の囁きのような優しい声で語られるのは、寝物語のように心踊る見知らぬ世界の話。
そうしてこよるさんと束の間のティータイムを楽しみながら、永遠にも思えた夜は早足で過ぎていく。
「あら、もうお色が変わってしまいましたね」
「え……? あれ!?」
気付けばすっかり冷めてしまい、青から紫に変化したハーブティーに驚いて、これは時間の流れで色が変わるのだと教えてもらった。
こうするとピンクにも変わるのだと、三日月形のレモンを絞り入れ、その魔法のような変化を楽しんだ。
「すごい……」
「ふふ。本物の夜空みたいですよね」
ブルーマロウはその変化から『夜明けのハーブ』とも呼ばれているらしい。ますますこの不思議な夜の、この浮世離れした空間にぴったりだ。
しかし、ショーウィンドウの向こう、ほんの少しだけ明るくなってきた気のする空に、この夜が終わりを迎えることを察する。
そろそろ現実に向き合わなくてはならない。
「あ、本物のお空ももうすぐ夜が明けますね……鏡花さん、まだお時間大丈夫ですか?」
「えっと……実は私、結婚前提に同棲までしてた彼に、浮気されてたんです……それで、つい飛び出してきて。朝まで家に帰りたくなくて……」
「……そうだったんですか……それは許せませんね! ええと、それじゃあ婚約者さんが二度と他の子に目移りしないように、視力を下げるお薬とかご用意しますか!?」
「……、対処法が物理的すぎる……やっぱり物騒な薬なのでは……?」
こよるさんが両手を拳にしてぶんぶんと揺らす度、一緒になってソファーが揺れる。
まるで自分のことのように憤慨する彼女に、思わず笑ってしまった。
そして、こんなに見るからに訳アリでぼろぼろの私に、自分から話すまで何も聞かずにいてくれたのだと、今になってようやく気付いた。
「あー……」
「……? 鏡花さん?」
あんなにも悲しくて苦しかったのに、彼の顔を思い出すだけで壊れてしまいそうだった心が、この不思議で心地好い空間で、少しずつ癒されたのだろうか。
思ったよりも落ち着いた状態で、言葉にして気持ちを整理することが出来る。
「正直、問い詰めたら逆ギレされて、もうこの人とはやっていけないなぁって……。というか、浮気相手が私の後輩なんですよ、有り得なくないですか」
「し、修羅場……!」
「あいつ、昔から都合悪いとすぐキレて……それでも好きだったから、いつも私が先に折れて、宥めて、何とかやって来てたんですけど……もう限界」
出会ってからおよそ五年の月日を思い返すと、やっぱり目の奥がじんわりと熱くなる。俯くと、薬指に居座ったままの真新しい婚約指輪が、鈍く光って見えた。
「えっと、じゃあ、悲しい夜の記憶を閉じ込めてなかったことにする『夜の帳カプセル』とか……零時ぴったりに口に入れると新しい恋を引き寄せる『シンデレラドロップ』とか……!」
涙の気配に気付いたのか、慌てて立ち上がり商品棚に向かおうとする彼女の手を咄嗟に掴み、私はソファーに座り直させる。
あんなにも冷たかった私の手は、今やすっかり温もりを帯びていた。
「鏡花さん……?」
「確かにここの薬は魅力的だけど……私、今無一文なので……」
「うう……ならツケで……」
「軽率に借金させようとしないでください」
「だって……鏡花さんみたいに夜に迷って傷付いた人を癒すのが、わたしたち『薬屋 夜海月』のお仕事です……」
仕事と聞いて、改めてここが店だったことを思い出す。
あれから何時間も経ったのに、やっぱり私以外にお客さんは来ない。きっと普段からそうなのだろう。この街にはよく訪れる私も、今日はじめて店の存在を知ったくらいだ。
「鏡花さん、わたし、何かお役に立てませんか……?」
売り上げがないと言うよりも、ただ私のために何も出来ないことを憂い落ち込んだ様子の彼女に、一息吐く。隣に座るどこまでも優しい少女に、私は改めて身体ごと向き合った。
「こよるさんは、もう十分、役に立ってますよ?」
「え、でも……お薬は何も……」
「だって、ハーブティーも薬みたいなもの、なんでしょう?」
「あ……」
「ブルーマロウは『夜明けのハーブ』……確かに私の心に、夜明けをもたらしてくれたんです」
彼女が教えてくれた言葉を、私はそのまま返す。ここにある薬はどれも不思議で魅力的なものだったけれど、あのハーブティーだって負けていない。
何しろ、夜に凍えた私を溶かす、愛情がたっぷりのスペシャルドリンクなのだ。
「それに、朝まで寒さを凌げる温かい場所を与えてくれました。孤独を和らげる優しいぬくもりを、時間を忘れさせてくれる楽しいひとときを……ひとりぼっちの暗闇を照らす光を……全部、こよるさんがくれたんです」
「鏡花さん……」
「本当に、ありがとう。こよるさん。……私、あなたに会えてよかった」
「いいえ……わたしの方こそ、ありがとうございます」
お互い感謝を伝え合って、手を握り微笑み合う。枯れることなんてないと思っていた涙は、もう溢れてはこなかった。
私は心の中で彼に別れを告げて、冷たくなったピンク色のハーブティーを一気に飲み干す。
蜂蜜とレモンの入った甘酸っぱくて仄かな甘さと清涼感のある味は、涙の終わりにぴったりだ。
「……さて、そろそろ帰らなきゃ」
ガラスの向こうの外の世界が、次第に明るくなってきた。もうすぐ、長く暗かった夜が終わり、永遠に来ないと感じた朝がやってくる。
「あ、そうだ。こよるさん、よかったらこれ、受け取ってください」
「え、これって……鏡花さんがしてた指輪……です?」
「はい。婚約指輪です。たぶん、そこの質屋で売れるはずなんで」
「えっ!?」
結局一晩中付き合わせてしまったのだ、せめてものお代にと、薬指から外した指輪を握らせ、全力で遠慮する彼女に無理矢理押し付ける。
売れば多少のお金にはなるはずだ。彼女の優しさに値を付けるなんて失礼だとは思ったけれど、お茶代と今夜の売り上げの足しにでもして欲しい。
「私なりのけじめと、感謝の気持ちです。売るのも負担なら捨てて構いません……でも、こよるさんに受け取って欲しいんです」
「……、わかりました……では、わたしがお預かりします。返して欲しくなったら、またいらっしゃってくださいね。あてもなく彷徨う、無一文の夜にでも」
「あはは、もうそんな日が来ないことを祈っててください」
「ふふ、そうですね」
私はこよるさんに見送られ、晴れやかな気持ちで店を出る。冷たく澄んだ空気を吸い込み、眩く白んでいく空を見上げて、大きく伸びをした。
「さて……帰って荷造りだ!」
辛く苦しかったはずの、一生ものの恋を失った夜。けれど今は、終わりゆく夜に一抹の名残惜しさと寂しさを覚えながら、それでも迎える朝への期待と、新しい始まりへの希望に手を伸ばす。
一歩踏み出すための強さを、心癒すぬくもりを、あの優しい夜の片隅で、確かに貰ったのだ。
「あなたがもう、夜に迷うことがありませんように」
後ろから、祈りの声と共に扉の閉まる音がする。
私は振り返ることなく、生まれたての朝に向かって歩き始めた。
煌びやかなネオンの明かり、眠らない街の喧騒。星の見えない今にも雪が降り出しそうな寒空の下、寄り添える仲間も居ないひとりぼっちのぼくは、間近に迫る冬の気配に震えていた。
居場所もなく転々と住み処を変える日々の中、ひもじい思いをしては路地裏で飲食店の廃棄物を探し、お店の人間に見付かっては追い掛けられて逃げ惑う。
そんなその日暮らしの生活をして居たぼくは、自分の身体の限界を感じていた。
『せめて一目、もう一度あの子に会いたい』
そんな淡い期待を胸にここまで頑張って来たものの、そろそろ諦めなくてはいけないのかもしれない。
もう何日も食べていない身体は、すでにほとんど力も入らない。ついには歩くこともままならずに、ぼくはそのまま行き倒れた。
石畳の固く冷たい感触に、幼い頃眠った柔らかな布団の幻を見る。心地好い微睡みに、このまま眠れば本当にあの頃に帰れる気がした。
「あら……? まあ、大変! マスター、どうしましょう!? お店の前に、小さなお客様が倒れています……!」
ふと、カランと小さなベルが鳴り、扉の開く音がした。そして上から降ってくる、女の子の慌てたような声。
穏やかな微睡みから引き戻される苛立ちと、そんなに慌てなくてもいいのにという困惑。
そして、『お客様』なんてあまりにぼくに似つかわしくない言葉に、ぼくが倒れるこの場所が、何かのお店の前だと理解する。
「……逃げ、なきゃ……」
今までも、お店の前に居るだけで睨まれて「あっちに行け」と言われてきた。小汚ない見た目で不衛生だからと、酷い時には水をかけられたし、下手したら殴られたり蹴られたりすることもあった。
早く退けなくちゃ。またやられてしまう。きっと今何かされたら、今度こそ死んでしまう。急いでどこかへ行こうと思うのに、既に身体には力が入らなかった。
「マスター、こっちです! はやく~!」
「……おや。これは珍しいね……随分小さなお客様だ。……しかし、この子もまた『夜の迷子』だね。こよるさん、バスタオルを持ってきてくれるかな。店の中にお連れしよう」
不意に、女の子とは別の、男の人の声がした。先程彼女に呼ばれていた『マスターさん』なのだろう。
今までたくさん聞いてきた怒声とは違う、穏やかで温かな優しい声。
女の子の声が星の瞬きのように澄んだ声だとしたら、マスターさんの声は真っ暗な夜空の中でお月様を見つけた時みたいに、安心する響きだ。
「……、……」
うっすらと目を開けてみると、しゃがみ込んでこちらを見下ろす二人の姿が見えた。
店の明かりで影になって表情はよく見えないものの、敵意や害意ではなく心配そうに向けられる視線だけは感じた。
「えっ、いいんですか!? うち、一応お薬屋さんですし、その……」
「いいんだよ。きみも今言っただろう? この子は『小さなお客様』なんだから」
「……! はい! バスタオル、ただいまお持ちしますね!」
「……」
こんなにも薄汚れたぼくを、店の中に入れてくれる。無一文のぼくをお客さんとして扱ってくれる。
そんな言葉が都合のいい幻聴のようで、けれどすぐにいい匂いのするふわふわのバスタオルに包まれてマスターさんに抱き上げられたぼくは、このまま天国へ行ってしまうのかと思った。
「お外、寒かったでしょう? よければホットミルクをお持ちしますね」
「ああ……こよるさん、その前にお湯を頼むよ。冷えきっているし、少し汚れているからね……まずは綺麗にして差し上げよう」
「はいっ、かしこまりました!」
ぱたぱたと足音を立ててお店の奥へと駆けていく彼女の後ろ姿は、三つ編みにした長い髪とスカートがゆらゆらと揺れて、つい目で追ってしまう。
そしてぼくはタオルにくるまれたまま、マスターさんとふたりきり。
お店の照明の淡い光の中、ぼくは改めてマスターさんの姿を盗み見る。
さらさらの髪は夜の色をしていて、前髪が少し長い。そこから覗く柔らかな瞳は、優しくぼくを見下ろしている。こんなに温かな視線を向けられるのは、いつぶりだろう。
黒い服の上に羽織る白い上着はお医者さんが着る白衣に似ていて、眩しいくらいの白に触れて汚してしまわないよう緊張した。
「さて、こよるさんが湯浴みの支度をしてくれるから、もう少し待っていてくれるかな。……湯上がりにはホットミルクを、それから……きみのための薬を用意しておくからね」
「……くすり?」
薬。そんな慣れない響きに戸惑うと同時に、やはり彼はお医者さんか何かなのかと考える。
こんな死にかけのぼくをどうにかしてくれるのかと、ほんの少し期待してしまっては、すぐにそんな希望を否定した。
今までこの街で暮らしてきて、散々な扱いをされて来たのだ。そう簡単に他人を信用できるはずもない。
今は動く気力もないけれど、もう少し回復したら噛みついてでも逃げ出してやる。そんな風に思っていた。
けれどあんなにもすぐに死んでしまいそうだった身体は、暖かな室内に入れてもらえただけで少し楽になったのだ。この環境を自ら手放すには惜しく、自分の中で葛藤した。
「マスタ~、用意できました。お客様をお預かりしますね!」
「ああ、ありがとう、こよるさん。後はよろしく頼むよ」
「お任せください! さあお客様、こちらですよ」
「いや、あの、ぼくは……」
「僕は部屋でお客様に出す薬の調合をしているから、何かあれば声をかけてくれ」
「わかりました! よぉし、お客様。夜空のお星さまよりもぴかぴかになりましょうね~!」
「え……いや、まって、さすがに無理……」
こちらの警戒もつっこみも一切気にせず、『コヨルさん』と呼ばれた女の子へとぼくは身柄を引き渡される。
「ふふ、心配しなくても気持ちいいだけですからね」
「いや、本当に待ってよ、ぼく、お湯はちょっと……」
ぼくの悲痛な声なんて聞こえていないようで、終始にこにことしているコヨルさん。お店の二階に通されると、そこには彼女が整えた綺麗なバスルームがあった。
バスタブではなく洗い場に大きなタライのような入れ物があって、そこにお湯が張られている。
そして熱すぎない温かなお湯といい匂いのする石鹸で全身を泡立てられ、冷えきった身体がじんわりと熱を帯び、あれよあれよという間に綺麗にされた。
「うう……」
「……あら、おねむですか?」
「ちが……んん」
警戒していたのとは裏腹に、あまりの心地好さからうとうとと微睡んでしまう。そんなぼくに気付いて、くすくすと笑いながらコヨルさんは優しい手付きでぼくの頭を撫でてくれた。
その感触が何だかとても懐かしくて、泣いてしまいそうになった。
「……さぁて、綺麗になりましたよ」
再び柔らかなタオルに包み込まれて、弱めの温風で乾かされる。そのどれもが優しくて温かくて、冷たくなりかけていた心の中までじんわりと溶かされるような心地がした。
「マスター、お待たせしました!」
「……おや。ずいぶんと可愛らしくなったね」
「ふふ、でしょう? お客様、とってもお利口さんでした」
「それはよかった。きみも濡れてしまったね、着替えておいで」
「はぁい」
ぼくのせいで綺麗な洋服が濡れてしまった。そのことが申し訳なかったけれど、着替えに戻るコヨルさんは、とても満足そうな顔をしていた。
色んなハーブや花みたいな匂いがする店内の片隅、ぼくは白いソファーの上にそっと身を沈める。そのふわふわで柔らかな感触は、かつて安心の象徴だったあのお布団に似ていた。
「きみのための薬が出来たんだ、よければ飲んで欲しいな」
「……これが、くすり?」
すっかり警戒心もなくなったぼくは、いっそその薬とやらで殺されてもいいかとさえ思った。むしろ、既にここが天国なのではないかとさえ思えてきたのだ。
しかし目の前の彼が用意してきた薬は、ぼくの知っているものとは少し違った。
はちみつのようにキラキラのそれはとろりとしていて、小瓶の中でゆらゆらと揺れる。
「これは『星座の物語』……きみの物語が知りたくてね。味は悪くないと思うけど……きみは何も食べていないんだろう。空きっ腹に薬はよくないからね、ホットミルクに入れて飲もうか」
「ホットミルク……」
「まあ、ミルクも本来薬と飲むのはよくないんだけど……今夜は特別」
マスターさんの言葉の意味は、あまりよくわからなかった。そもそも薬という存在は知っていても、ぼくは飲んだことがなかったからだ。
マスターさんは小さな夜空色の器に温めたミルクを注ぎ入れ、そこに小瓶の中の液体を注いだ。すると、とろとろだったそれは少しだけ固まって、そのキラキラの粒は星座のように集まりやがてくっついていった。
「さあ、召し上がれ」
「……いただきます」
ふわりとした、懐かしいような甘い香り。ほんのり漂う淡い湯気。恐る恐る口をつけると、咥内に広がる柔らかく温かな甘みに身体の内側も温かくなる。
「……!」
ずっと痛いくらいに空いていたお腹の中に染み込むような感覚がして、ぼくは夢中でミルクを飲んだ。
途中で『星座の物語』と呼ばれたそれを口に含めば、より甘い味とカリカリとした食感も楽しめた。固形物を食べたのなんて、いつぶりだろう。
そんなぼくを微笑ましそうに見下ろすマスターさんの様子や、いつの間にか着替えから戻ってきたコヨルさんに気付くことなく必死に食べ進めれば、あっという間に器は空っぽになった。
「……いい飲みっぷりだったね。美味しかったかい?」
「ふふ、もっと何か食べますか? クッキーやビスケットもありますけど……あ、でもいきなりたくさん食べたらお腹びっくりしちゃいますかね……?」
暖かい部屋で、身体は綺麗になって、甘くて優しい味でお腹がいっぱいで、こんなにも親切な人たちに囲まれて気遣われている。
ひとりぼっちの夜の終わりに、こんな幸せが待っているなんて思わなかった。泣いてしまいそうで、つい弱々しい声がもれた。
「あったかい……美味しかった……こんなに美味しいの、初めて……ありがとう」
「……まあ。ふふ、お礼なんていいんですよ。美味しかったならよかったです……!」
「……、え……?」
ふと、コヨルさんからの返事に違和感を覚えて、僕は瞬きをする。
そしてマスターさんは正面の椅子に座りながら安心したように頷いて、少し前屈みになって僕の目をまっすぐに見詰めてきた。
「薬、効いたみたいだね。よかったよ。……改めて、きみの名前を聞いてもいいかな?」
「え? えっと……ぼくは、シャハル……」
「シャハル……なるほど、素敵な名前だね」
「シャハルちゃん……! ふふ、なんだか可愛い響きです」
「え……あの、二人とも、ぼくの言葉がわかるの?」
遠い昔に呼ばれたきり、既に自分の中にしか存在しなかった、ぼくの名前。それを誰かにまた呼ばれる奇跡に、ぼくは目を丸くする。
「ああ。きみに飲んで貰った『星座の物語』の効果だよ。……星座には物語がつきものだけど、物言わぬ星からそれを読み解くのは難しいだろう? だから、星自らに語って貰おうってわけ」
「……そんなことが……?」
「ふふ。マスターの薬はこう……手っ取り早い翻訳機ですね! お手頃便利!」
「あはは、そうそう。そんな感じだよ」
「え……そのたとえ、本当に合ってる? もっとこう、魔法とかそういう……」
本当に、これは奇跡や魔法だ。でなければ、こんな何の力もない死にかけの『野良猫』であるぼくの言葉が、人間に理解されるわけがない。
にわかに信じられなかったものの、ここまでしっかりと会話が成立している現状に信じざるを得なかった。
「マスター、このお薬の効果はどれくらいなんですか?」
「そうだなぁ、おそらくこの夜が終わるまで。……だからシャハルさん、よければきみの物語を、僕たちに聞かせてくれないかな」
「ぼくの……物語。うん……聞いて欲しい。ぼくは、昔飼い猫だったんだ」
本当に不思議な夜だ。死を覚悟した寒空の下、今はこんなにも温かく満たされた心地の中で、走馬灯ではなく穏やかな気持ちで思い出を振り返る。
どうせ一夜限りの夢ならば、誰かに伝えたい。知っていて欲しい。
ぼくはそっと、言葉を紡ぎ始めた。
☆。゜。☆゜。゜☆
「そのお家には、お父さんとお母さんと、『リョウヤくん』っていう男の子が居て……生まれながらの野良だったぼくは、ちょうど今みたいにその辺で野垂れ死にそうだったところを、リョウヤくんに拾われたんだ……」
目蓋を閉じれば今でも鮮明に思い出せる、リョウヤくんの屈託のない笑顔。はじめて人の温もりを知った、月ヶ瀬家で過ごしたあのかけがえのない愛しい時間。
何も持っていなかったぼくが、温かな彼の手によって救い上げられ、何不自由ない暮らしを与えられて、満たされた日々の中で永遠の幸せを夢見たあの頃。
ぼくの傍にはいつもリョウヤくんが居て、お父さんとお母さんもたまに遊んでくれて、兄弟のように育つぼくたちを見守ってくれる。
家族団欒の部屋の中、みんなが笑っていてくれる。それだけで、いつだって心がぽかぽかと満たされていた。
リョウヤくんと一緒に眠るお布団が、世界一幸せな場所だった。
ぼくはずっとここで暮らすのだと、信じて疑わなかった。
それが変わりはじめたのは、ぼくが拾われてから二年程過ぎた頃。
「ねぇ、聞いてシャハル! ボクね、もうすぐお兄ちゃんになるんだよ!」
「お兄ちゃん……?」
「ふふ。そしたらシャハルもお兄ちゃんだね。ふたりで赤ちゃんを守ろうね!」
「赤ちゃん……」
気付けばお母さんのお腹が大きくなって、その中には赤ちゃんが居るのだとリョウヤくんに教えてもらった。
大切な家族に、新しい小さな命が増えるのだ。
ぼくは、まだ生まれていないその命を、精一杯慈しもうと決めた。
生まれてすぐに死んでいった、本当の兄弟を思い出したのもある。
ぼくを拾い、育ててくれた恩返しだというのもある。
けれどそれ以上に、家族の一員として、その赤ちゃんのお兄ちゃんとなれるのが嬉しかった。
「お母さん、お腹大丈夫? 痛くない?」
「あらハルちゃん、また赤ちゃんにご挨拶に来たの?」
「うん。お腹、あったかくしよう。赤ちゃん寒いの可哀想だから」
それからぼくは、毎日お母さんのお腹に擦り寄って、その中に居る子に「元気に生まれてきてね」と語りかけた。時折お腹を蹴って、返事をしてくれるのが嬉しかった。
リョウヤくんは、その頃にはぼくを拾ってくれた時より背も伸びて、声もなんだか低くなった。
日に日に大人になる彼は、きっと立派なお兄ちゃんになるだろう。ぼくも小さな身体で、何か出来ることがないかと考えた。
「あ、そうだ……!」
リョウヤくんはよく、ぼくのふわふわの黒い毛を撫でて「気持ちいい」と笑うし、お父さんも仕事終わりにぼくのお腹に顔を埋めて深呼吸したりするから、この自慢のもふもふで赤ちゃんに寄り添えばきっと喜んでもらえるだろう。
もしも赤ちゃんにしっぽやひげを引っ張られても、我慢する。お気に入りのオモチャや、美味しいおやつだって、赤ちゃんのために何だってあげよう。なんたってぼくはリョウヤくんのような『お兄ちゃん』になるのだから。
「……ぼく、素敵なお兄ちゃんになるからね」
いつか出会うその子との時間を、たくさん想像した。
そして、そのうちお母さんが、出産のためにとしばらく家から居なくなった。
いつ帰ってくるのか、無事生まれてくるのか、落ち着かない日々の中、ある日突然「生まれたよ!」なんて、リョウヤくんとお父さんに教えてもらった時は驚いた。
そんな素晴らしい瞬間にぼくだけお留守だったなんて寂しかったけど、にこにことした二人の顔を見たら、まあいいかと思えた。
それよりも、早く会いたい気持ちの方が強かった。
「ただいまー、シャハル。お母さんと赤ちゃん帰ってきたよ!」
「おかえり、リョウヤくん! ……えっ、ほんと!?」
そして、何日かしてリョウヤくんとお父さんに連れられて帰ってきたお母さんの腕の中には、ほんのりミルクの匂いがする小さな赤ちゃんが抱かれていた。
出迎えた玄関先で、お腹のすっきりしたお母さんは久しぶりに会うぼくの頭を撫でて、おくるみの中で眠る赤ちゃんを見せてくれる。
「ただいま、ハルちゃん。良い子にしてた? ほら……妹の瑠幸よ、仲良くしてあげてね」
「……いもうと。ぼくの、妹……よろしくね、ルシアちゃん」
その瞬間のことは、鮮明に覚えている。柔らかそうなほっぺたに、ぼくの肉球くらい小さい手。爪のひとつでも立てれば壊してしまいそうな気がして、ぼくは自分から近付けなかった。
けれど、ルシアちゃんはぱっちりと目を開けて、笑顔を浮かべながらぼくの耳に触れたのだ。
「……あら、瑠幸ったら。ハルちゃんのこと気に入ったのね。こんなに笑ってるの初めて見たわ!」
「えっ、なにそれずるい! じゃなくて、ちょっと写真撮るからそのまま!」
「瑠幸、あんまり引っ張ったらシャハルが痛い痛いだよ。こっちのお兄ちゃんの手ならいくらでも掴んでいいから! ほら、良夜兄ちゃんだよー!」
小さい手にも関わらず、思いの外力強い。容赦のない仕草で引っ張られて、正直耳が千切れるかと思った。けれど、ルシアちゃんの笑顔や家族の喜ぶ姿を見ると、離れようという気にもなれなかった。
「……ルシアちゃんは、みんなに幸せを運んでくれるんだね」
はじめて会うはずなのに、こんなにも愛しい。みんなの笑顔が集まって、とても温かい。ルシアちゃんを中心にして、幸せが溢れるみたいだ。
これが家族というものなのだと、ぼくは改めて実感した。
そしてぼくはこれからも、この月ヶ瀬家でずっと幸せに生きていくんだと、その時はまだ信じていた。
その永遠が崩れることを知ったのは、ルシアちゃんが家に来てからしばらくしてのことだった。
「ねえあなた、どうしましょう……瑠幸、もしかしたら猫アレルギーかもしれないの……」
「……なんだって?」
ルシアちゃんは、ぼくが傍に居るとくしゃみをすることが多かった。目が痒いのか擦ることもあった。
それでも偶然だと、ぼくのせいじゃないと思いたかった。だって、拾われてからのぼくは、汚れっぱなしの野良猫時代と比べて、ずいぶんと綺麗になったのだ。
ふわふわで柔らかな毛並みも、お星様みたいな金の瞳も、いつもみんなに可愛いね、綺麗だねと褒められた。
それでも、ぼくはルシアちゃんの傍には居られなかった。家族だなんだと宣っても、所詮猫は、人間と同じにはなれないのだ。
「ぼくは……どうして猫なんだろう」
リョウヤくんは変わらず接してくれたけれど、お父さんとお母さんは、ぼくをルシアちゃんにあまり近付けなくなった。
ぼくに触ったあと、みんなは汚いものを触ったみたいにすぐに手を洗うようになった。
あれだけ褒めてくれたふわふわの毛一本許さないとばかりに家の掃除を念入りにして、ぼくの出入りできる部屋を区切るようにもした。
寂しかったけれど、それでも捨てられないだけましだと思った。ぼくの居場所を残そうとしてくれる、みんなの優しさが嬉しかった。それなのに。
「やだ、瑠幸どうしたのこれ……! 蕁麻疹!?」
「えっ、どうしたの……何これ!? 大丈夫!?」
「アレルギーかも……良夜、お母さん瑠幸を病院に連れて行くから、お留守お願い!」
「わ、わかった! 気を付けてね!」
ある日、家族の努力もむなしく、ルシアちゃんのアレルギー症状が悪化した。
あの日はじめてルシアちゃんを出迎えた時とは違う、ばたばたとした玄関先。
近付かないよう少し離れた場所からちらりと覗くぼくを見たお母さんの視線はひどく冷たくて、大切なルシアちゃんの身を危険に晒すものが、紛れもなくぼくなのだと理解した。
「……っ!」
「え……? シャハル!? 待って、シャハル……っ!」
そしてぼくは衝動的に、玄関の扉が閉じ切る前に、その狭い隙間から逃げるようにして月ヶ瀬家を飛び出した。
守りたかった小さな妹を自分のせいで危険に晒してまで、ぼくはあの家に居座ることなんて出来なかった。
「シャハル……!!」
ぼくの名前を必死に呼ぶリョウヤくんにお別れを言うことも、驚いたお母さんが立ち尽くすのに対して「早く病院に行って」と伝えることも、拾い育ててくれた家族にこれまでの感謝を伝えることも、苦しい思いをさせたルシアちゃんに謝ることも、なにひとつ出来なかった。
それでも、これで良かったんだと何度も自分に言い聞かせた。
そうしてぼくは、再び野良猫に戻ったんだ。
「……さようなら。ぼくの家族」
かつて過ごしたはずの野良暮らしは、温もりを知る前よりも寒く感じて、苦しくて、寂しくて、辛かった。
それならいっそ、幸せなんて知らずに居られたら良かったなんて、心にもないことを呟いたりもした。
あてもなく彷徨って、這うようにして辿り着いた路地裏で、失った幸せを夢の中で反芻しながら眠る日々だった。
いつしか自慢のふわふわの毛並みは見る影もないくらい汚れて、星のようだと言われた瞳は虚ろになり、柔らかかった肉球は固くひび割れた。
そうして、ぼくは暗い夜に迷う内、自分の限界が近付いていることに気付いた。
そして死ぬ前に一目「リョウヤくんに会いたい」と、自分勝手な願いが込み上げてきた。
お父さんとお母さんは、きっとぼくが居なくなって安心しているだろう。ぼくの居ない家では、大事な娘が苦しむことなく健やかに育つのだ。
ルシアちゃんには、会う資格がない。ぼくと会えばまた辛い思いをさせてしまう。それでは家を出てきた意味がない。
けれどそんな配慮と同時に、ルシアちゃんのことを考えると別の気持ちも湧き上がってきた。
ルシアちゃんのことは大好きなのに、大切にしたいのは本当なのに「あの子さえ来なければ、ぼくはずっとあの家に居られたのに」と、ぼくの居ないあの家で幸せな暮らしをするあの子に会った瞬間、恨んでしまいそうで怖かった。
そしてそんな風に感じてしまう自分が、心底嫌だった。
「リョウヤくん……」
ぼくの名前を呼んだリョウヤくんの声が、耳の奥に残っている。
一緒に過ごした日々の温もりが、魂に染み込んでぼくをここまで生かしてくれた。
きっと、こんなにぼろぼろになったぼくのことは、今見てもきっとあの時のシャハルだと気付かないだろう。だけど、それでいい。
「でも、最後に……一目会いたいなぁ」
今はもうあの頃より大きく育ったであろうリョウヤくんの姿を、最後までぼくを家族で居させてくれた彼の顔を、どこか遠くからでも一目見られたら、それだけで満足だった。
そんなささやかな願いさえ遂げられないまま彷徨っていた、凍えそうな暗闇の中。
ひとりぼっちで死んでしまうと覚悟したこの星のない夜に、ぼくはリョウヤくんと同じくらい優しい人たちに、再び温かな優しさを与えられたのだ。
☆。゜。☆゜。゜☆
一通り語り終えると、ぼくはすっかり喉がからからになった。おかわりにと入れて貰ったミルクを、一気に飲み干す。
こんなに話をしたのは、はじめてのことだった。胸の内にあったいろんな気持ちを吐き出すのは、思い出して恋しくなると同時に、いっそ晴れやかな気持ちだった。
ぼくはきっと、こんな見るからに可哀想な野良猫にだって、自慢したくなるくらいの幸せがあったのだと、誰かに知っていて欲しかったのだ。
「ぼくの願いは結局叶わなかったけど……叶わなかったからこそ、ここまで頑張れたんだ。そのお陰で、今日まで生き延びられて、マスターさんやコヨルさんに会えた……素敵な夜を、ありがとう」
「……シャハルちゃん……あなたの優しさや決断を否定するつもりはないし、よく頑張りましたねって、たくさんたくさん褒めたいです。でも……やっぱり、こんなのあんまりです……」
ソファーの隣に腰掛けながらぼくの話を聞いていたコヨルさんは、泣きそうな顔をしている。悲しませるつもりはなかったのにと慌てたぼくは、彼女の手によってふわふわになった体を擦り寄せた。
コヨルさんは驚いたように瞬きした後、そっと頭を撫でてくれる。手触りを気に入ってくれたのか、その表情は少し和らいだ。
この体で誰かを笑顔に出来るのは、いつぶりだろう。懐かしさと共に感じたのは、満ち足りた気持ちだった。
「……シャハルさん。きみの名前の由来は知ってるかい?」
ふかふかのソファーでコヨルさんの温かな膝に乗せて貰いながら、繰り返し撫でられる感覚に思わず喉を鳴らしていると、マスターさんがぼくに優しげな視線を向けてきた。
「え? 由来? ううん……リョウヤくんが、色んな本を見比べながら決めてくれたんだけど……意味はわからない。教えてくれた気もするけど……小さかったから覚えてなくて」
「そうか、シャハルは……『夜明け』や『明けの明星』を意味する言葉だよ」
「夜明けに……明けの明星……? それが、ぼくの名前?」
「まあ、真っ暗な夜の終わりの新しい朝に、夜空に輝くキラキラの希望ですね!」
あれだけ思い出の中で大切にしてきた呼び声の意味を、今はじめて知った。
ぼくは何度も反芻したあの響きを思い返し、目を閉じる。
「……そんな意味だったんだ。そういえば、お父さんやお母さんはぼくを『ハルちゃん』とか短く呼ぶのに、リョウヤくんだけはずっと『シャハル』って呼んでくれた……」
「ふふ、名前ははじめての大切な贈り物ですものね」
「きみがその名前を捨てず、名付けてくれた大切な人との思い出を忘れない限り……いつかその響きがきみを迷いの夜から、明るい光へと導くだろう」
マスターさんの言葉が、すべてを諦め尽きるつもりだったぼくを、優しく鼓舞する。
背中を押して貰えるのなら、そこに光があると示してくれるのなら、もう少し希望を捨てずにいてもいいんじゃないかとさえ思えた。
けれど、どうしたって不安は捨てきれず、ぼくは呟く。
「……でもぼく、もうこの冬を越せそうになくて……今日ごはんを貰えたから、多分あと何日かは頑張れるけど……」
自分の限界は、自分が一番よくわかっている。ここに招き入れられるまでに感じた冷たい死の匂いは、きっと外に出たらまたぼくに付きまとうに違いない。
しかしマスターさんは、ぼくの言葉を聞いて心底不思議そうに首を傾げる。
「……おや? きみは僕たちが、夜の迷子を外に放り出すとでも?」
「へ……? いや、だってさっき『この夜が終わるまで』って……」
「ああ、それは今飲んだ薬の効果の話だよ。きみが望むなら、また薬の調合をしよう。お代は出世払いでいいよ」
「ふふっ、わーい。シャハルちゃんも、お店の仲間入りですね!」
「……え、えっ?」
予想外の展開に、ぼくは思わず瞬きを繰り返す。
「えっと……だけど、ここ、お薬屋さん? なんだよね? 汚い野良猫なんかが、居てもいいの?」
「あら、シャハルちゃんは今、誰が見ても可愛い綺麗な猫ちゃんですよ」
「まあ招き猫とか看板猫とか、いくらでも言いようはあるしね。気になるようならお客様が居る時には隠れるとかでも……」
「そんなんでいいの……?」
「ふふ……どう過ごすかはきみに任せるよ。猫は自由な生き物だ、僕たちはそれを縛らない。もちろん、薬屋としてきみが完全に回復するまでは居て欲しいけれど……どうする?」
「ぼくは……」
優しい人たち、温かな寝床、清潔な環境に、美味しいミルク。このお店に拾われた方が、絶対にいいに決まっている。
けれど、かつて失った温かな幸せに、また手を伸ばすのは憚られた。
こんなにも親切な人たちの空間を、また自分のせいで壊してしまうんじゃないかと、怖かった。
「お客様の中にきみの探し人が来るかもしれないしね、ふらふらあてもなく彷徨うよりは、居を構える方が心の余裕もあると思うけれど……任せるよ、きみのしたいように」
「……ここに居ても、いいの? 迷惑かけるかもしれないよ?」
「ふふ、大丈夫ですよー。わたしもマスターにご迷惑かけっぱなしですから!」
「えっ、それそんな明るく言う……?」
「あはは、否定はしないかな。基本真面目だけど、こよるさんは少しおっちょこちょいなところもあるから」
「えへへぇ……それほどでも」
「コヨルさん、それ褒められてないと思う……」
マスターさんのおおらかな人柄と、コヨルんのふんわりとした雰囲気が、このお店の優しい空気を作り出しているのだと改めて感じる。
リョウヤくんと居た頃は毎日目まぐるしくて楽しかったけれど、ぼくは、こんな落ち着く空気も好きだった。
「……だけどね、迷惑だなんて考えなくていいんだ。きみたちがこの夜に溺れず笑っていられるのなら、それが僕たちの幸せだからね」
この空間は、凍えそうな夜にあまりにも温かくて、優しくて、冷たく凍った心が溶けてしまうようで、ぼくはこれ以上、拒むことが出来ない。
そっと見上げると優しく差し出される、マスターさんの黒い手袋をした手のひら。恐る恐る前足を差し出して、ぼくはそっとその手に触れる。
「……その。とりあえず冬を越えるまで……お世話になってもいい?」
「ふふ、もちろんだよ」
「わぁい、よろしくお願いしますね! シャハルちゃん!」
「……ありがとう。マスターさん、コヨルさん……よろしく、お願いします」
「ふふ。では改めて……ようこそ『薬屋 夜海月』へ!」
ふと見上げた先の窓の外の街並みは、ぼんやりと明るくなっている。
もうすぐ長かった夜が明ける。朝が来れば、暗闇の中迷子だったシャハルはもう居ない。絶望していたあの野良猫は、確かにこの夜に死んだのだ。
薬の効果が切れてしまう前に、ぼくは届かない感謝の言葉を口にする。
「リョウヤくん、素敵な名前を、愛をありがとう……きみのくれたぬくもりが、今日もぼくを生かしてくれる」
そうしてぼくは新しい場所で、生まれたての朝を迎えた。
あたしは、母親失格だ。煌めく街明かり、眠らない世界の片隅で、抱っこ紐で抱えた我が子が泣き続けるのにすっかり疲弊していた。
「もう……どうしたら泣き止んでくれるの……泣きたいのは、あたしの方なのに」
すれ違う人たちの迷惑そうな視線に頭を下げながらも、あたしは泣き続ける我が子への怒りを募らせる。
本当なら、もっと可愛がりたかった。本当なら、もっと優しくあやしてあげたかった。本当なら、こんな夜更けに外に連れ出さず、暖かな家の中で寝かし付けたかった。
それでも毎日のように火がついたように泣きわめく赤ちゃんを、壁も薄く狭いアパートで宥め続けるのには、限界があった。
「ぎゃあ、おぎゃあ……!」
「ねえ。わからないよ……何がそんなに悲しいの? 何がそんなに不満なの?」
「ぎゃぁあ……っ!」
「くるみ……お願いだから、泣き止んで……」
ふらふらとあてもなく歩きながら、独り言のように呟くしか出来ない。いつか力尽きて泣き止んでくれれば安心できるのにと、少し放っておいてみるけれど、一向に泣き止む気配はなかった。
「……ねえねえ、ヒメミ~、あれやばくない?」
「えっ、わ……ぎゃん泣きじゃん、やば~……虐待とかじゃないの?」
「えっ、もしかして通報案件? ひゃくとーばんって何番だっけ?」
「……えーっと、……ひゃくとーばんは百十番じゃない?」
「あははっ、そっか! ネオンちょー酔ってるね、うける!」
すれ違った可愛らしい服を着た女の子たちが、そんな言葉と共にスマホを弄るのを見て、あたしは思わず駆け出した。
どこへ行っても変わらない。至近距離で泣き続ける愛する我が子に、早く泣き止ませなきゃという焦りと苛立ちが募る。
人気の少ない路地裏に駆け込むと、さらに反響する泣き声に頭を抱えた。もうずっと頭が割れそうだ。あたしには、どこにも逃げ場がなかった。
「もうやだ……助けて……」
「……にゃあ」
「え……猫?」
あたしの助けを求める声に応えるように、不意に足元に近付いてきた、一匹の黒猫。ふわふわの毛並みに、暗闇に紛れても一等星のように光る、キラキラの金の瞳。
黒猫はそのしなやかな尻尾を揺らして、時折あたしを振り向くようにしてゆっくりと歩き出す。
まるで、その猫に導かれるように、あたしはその後をついていく。どうせ行くあてもないのだ、終わりの見えない夜の中、何だかその猫が道標のように思えた。
「にゃあ」
しばらく歩くと、黒猫は一軒の建物の前で立ち止まる。こんな奥まった場所に来るのは初めてだ。
今時珍しいレンガ造りの建物に、ガラス張りのショーウィンドウ。そっと中を覗くけれど、店内は然程明るくなく、上手く見えない。まだ営業前なのか、お休みなのかもしれない。
「ねえ、猫ちゃん。ここは……?」
ふと視線を黒猫に戻すと、ショーウィンドウの隣、店の入口であろう木製の扉に、ベルが二つ取り付けられているのが見えた。
黒猫はその内のひとつ、猫の目線に合わせたような珍しい位置にあるベルを器用に前足で鳴らす。
すると、少ししてがちゃりと鍵の開く音がして、その扉が開いた。
「シャハルちゃん、お帰りなさい。今日は早かったですねぇ、お散歩はもうおしまいですか……?」
「にゃあ!」
建物の中から現れ黒猫を出迎えたのは、物語から飛び出してきたみたいなキラキラとした女の子だった。
白いリボンで編み込みに結われ綺麗に手入れされた長い髪、ひらひらのレースとリボンのついた甘いテイストながら品もあるネイビーの服、淡い色のリップが象る愛らしい笑顔。
どう見ても若く可愛らしい女の子にのに、彼女が黒猫の手足を拭いてから丁寧に抱き上げる仕草は、あたしがかつて憧れた優しいお母さんにも見えた。
「おぎゃあ、おぎゃあ……!」
「……あら?」
ふと、また大声を上げ始めた赤ちゃんの泣き声に驚いたように顔を上げる彼女と、ぱちりと目が合う。大きな目が瞬きをすると、まるで星が煌めくようだ。
「まあまあ、可哀想に……どうされたんですか!?」
「あ、えっと……」
しまった。なんて言おう。これでは泣いている赤ちゃんを放って飼い猫に家までついてきたあやしい女だ。
間違ってはいないけれど、何となくそのまま伝えるのは憚られた。
言い訳を考えながらも、じりじりと足は逃げる方に向かう。いつだってそうだ、嫌な目を向けられるくらいなら、逃げ出したかった。
泣いているくるみに対して可哀想だと言われる度、母親失格だと非難されているようで苦しかった。
「あの、お店の開店時間はまだなんですけど……よかったらどうぞ! 赤ちゃんも、ずっとお外は寒いでしょうし……」
「いえ、あの。すみません……あたし……」
「何より、あなたが……そんなに苦しそうな顔をしていては可哀想ですから。どうか温かい店内で、ご自分を労って差し上げてください」
「え……あたし……?」
彼女の言葉に、思わず瞬きをする。泣き叫ぶ赤ちゃんよりも、自分を労れなんて言われるのは、くるみが生まれてから初めてだった。
「あの、すみません、あたし……どんな顔してますか?」
「……迷子みたいな、とても不安そうなお顔です。ずっと暗闇を彷徨うのは、疲れてしまいますから……良ければうちで、少し足を止めてみませんか? 赤ちゃんも、お母さんが元気になってくれた方が、きっと安心できますよ」
「……はい、お邪魔します……」
「ではいらっしゃいませ、『夜海月』へようこそ!」
何の店かもわからないのに、怪しいキャッチや勧誘かもしれないのに、あたしはつい彼女に招かれるまま、店の中に足を踏み入れる。
あたしの不安に気付いてくれたのも、迷惑そうな顔ひとつせず手を差しのべてくれたのも、彼女が初めてだった。いけないとわかりつつも、あたしはこの優しさに縋りたかった。
「わあ……あったかい」
思わず呟いて、あたしは自分の身体が思っていたより冷えていたことに気付く。
薄暗い店内に、間接照明の柔らかな光が灯る。橙色の温かな明かりに包まれた店の奥、片隅に配置された白いソファーへと促された。
雲のようにふかふかで、あたしはそこでようやく抱っこ紐を外してくるみを下ろす。
「ふぎゃあ、ふぎゃあ……」
「あー……よしよし、ごめんね」
ずっと顔を見ないようにしていたけれど、あたしの服に大きな染みが出来るくらい顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしていて、申し訳ない気持ちで一杯になった。
ハンドタオルで顔を拭い、鼻を拭い、とんとんとお腹を撫でる。
彼女が飲み物を用意しに離れている間に、あたしはくるみの泣く原因を探った。ミルクでも、おむつでもない、痒いところや痛いところも無さそうだ。可能性は一通り潰した。それなのに、どうしてもこの子が泣く理由がわからなかった。
「あー、もう……どうして泣くの……」
「……お待たせしました。こんな時間ですしカフェインはあれかと思って、こちらをご用意したんですけど……ホットココアはお好きですか? もし苦手でしたらハーブティーなんかもご用意できますけど……」
「あ……ありがとう、ございます。えっと、あたし甘いものめちゃくちゃ好きで……この子が生まれてから、自分のココアをいれる余裕なんかなかったから……嬉しい」
しばらくして湯気立つカップを乗せたトレーを持って戻ってきた彼女は、その間赤ちゃんを泣き止ませることも出来なかったあたしに対して微笑みかけてくれる。
目の前のテーブルに置かれた夜空柄のマグカップをそっと覗き込むと、中にはあつあつのココアの上にマシュマロが浮かんでいた。ふわりと漂う甘い香りの湯気に、それだけで心が和らぐ。
万が一くるみに火傷でもさせたらと、熱いものを自分の前に置くことさえ久しくしていなかった。
「まあ、そうでしたか。それはよかったです。……ふふ、お洋服のワンポイントも、ポケットからはみ出たスマートフォンのストラップやカバーもどれもスイーツだったので、お客様は甘いものがお好きなのかなぁって」
「よく見てますね……」
ふわふわとしていそうな雰囲気をした彼女の意外な洞察力と名推理に感服しつつ、ポケットから落ちそうになっていたスマホをちらりと確認する。
旦那はまだ寝ているようで、メッセージは何もない。あたしたちが出ていったことにも気付いていないだろう。
「ふふっ。仕事柄ですかねぇ……あっ、良ければ赤ちゃん抱っこしてますから、ゆっくりお召し上がりください」
「えっ、でも……泣き声うるさいですし……」
「大丈夫ですよ~、赤ちゃんは泣くのがお仕事ですもの。よしよーし、働き者なんですねぇ」
「おぎゃあ……っ!」
「……。何から何まですみません……」
泣いてもいい、そんな風に言ってもらえたのは初めてだ。赤ちゃんは泣くのが仕事とはいうけれど、多くの人はそのうるささに嫌な目を向けてくる。
あたしも、いつも早く泣き止んでとイライラしてしまっていた。
「いえいえ。もし赤ちゃんのミルクも粉のものを用意するようでしたら、お湯をお持ちしますね。……でもまずは、そちらをお召し上がりください」
「……ありがとうございます」
母乳至上主義の義母からの圧で、粉ミルクは甘えだのと散々言われていたから、その何気ない言葉がやけに嬉しい。粉ミルクも選択肢にあっていいのだと、逃げ道を照らしてくれた気がした。
「あの、じゃあ……お言葉に甘えて、飲んでいる間、抱っこをお願いしてもいいですか……?」
「はいっ、大切な赤ちゃん、お預かりしますね」
優しく頼もしい言葉に甘えて彼女にくるみを預け、あつあつのマグカップを手に取ると、冷えた指先がじんわりと温まる感覚に浸る。
ふうふうと息を吹き掛けて一口含むと、溶けたマシュマロが甘く柔らかく、次いでミルクココアの濃厚な味わいが広がった。あたたかく甘いそれは、疲れきった心と身体に染み渡るようだった。
誰かが用意してくれたものというのは、こんなに美味しかっただろうか。
「……っ、おいしい……世界一美味しい」
「ふふ、よかったです。おかわりもありますからね」
「えっ、そんな……本当に、すみません……ありがとうございます。……あの、重くないですか?」
さっき会ったばかりの他人に我が子を預けるなんて不安でしかたないはずなのに、何故か彼女なら大丈夫だと安心してしまう。実際、くるみは彼女に抱き上げられて、大分落ち着いたようだった。
たまたま泣き疲れたタイミングなのだと思いながらも、あたしだからいくらあやしてもダメなのかと、少し落ち込んでしまう。
「ふふ、大丈夫ですよ。わたし、こう見えて力持ちなんです! ……よぉしよし、たくさん泣いて疲れちゃいましたねぇ。次はねんねですよ~」
「にゃあ」
「あら、シャハルちゃんも赤ちゃん見に来たんですか?」
いつの間にか先程この店まであたしたちを案内をしてくれた黒猫が足元までやって来て、彼女に抱かれたくるみをじっと見上げていた。赤ちゃんに興味があるのだろうか。
温かいココアを飲んで落ち着いたことで、少しだけ周りを見る余裕が生まれた。
「……」
ここは、何の店なのだろうか。喫茶店や飲み屋にしてはメニューも見当たらないし、席もこの一角にしかないようだ。
濃紺と白がメインの落ち着いたカラーリングに、どこか甘い花やハーブのような植物の香りがする。間接照明で薄暗い店内は、どこか隠れ家やおしゃれカフェ的な印象だった。
中に商品が入っているのか、ショーケースや木製の棚が壁沿いに並んでいて、置かれたステンドグラスランプのガラス越しの色鮮やかな光がほのかに一帯を照らす。
店内のあちこちに品よく飾られたスノードームやランタン、砂時計に天秤、インテリアのひとつひとつがアンティーク調で美しく、どこか浮世離れしている。
その中でも一際目を惹くのが、奥の戸棚だ。インテリアだろうか、そこには様々な綺麗なものが入ったガラスの小瓶が並んでいるのが遠目にも見えた。
「……あ、そうだ。ごめんなさい、申し遅れました。わたし店員の『こよる』っていいます! お名前をお伺いしてもいいですか?」
きょろきょろと辺りを見回すあたしに気付いてか、ふと思い出したように彼女が名乗る。
店員が下の名前で名乗るということは、もしかすると女の子を売りにしたお店なのだろうか。お店の雰囲気はそうは見えなかったものの、この愛らしい容姿ならと思わず納得した。
彼女は女の子がかつて憧れたお人形や、絵本の中のお姫様のように愛らしい。
見るとくるみは、そんな彼女の腕の中でゆらゆらと揺られながらうとうとしていた。あたしはそれを起こさないように小さな声で告げる。
「えっと、くるみです。まだ十ヶ月になったばかりで……」
「くるみちゃん。ふふ、可愛らしいお名前ですねぇ。……でも、すみません。今お伺いしたのはあなたのお名前で……」
「え、あたし? ……えっと、天川なずなです」
「なずなさん。素敵なお名前です……『なずな』は、寒い冬を耐えたあと早春に咲くお花ですね。……一生懸命辛い今を耐えてらっしゃるなずなさんにぴったりの、頑張り屋さんのお花です」
「……っ、あ、ありがとう……ございます……」
そうだ。『くるみちゃんママ』じゃなくて、『天川家の嫁』じゃなくて、『お母さん』じゃなくて、あたしは『なずな』。
忙しない日々の中、自分の名前すら忘れていたのかと、あたしはその懐かしさすら感じる響きに胸が締め付けられる。
「それから、こちらは『シャハルちゃん』です」
「にゃあ!」
「さっきの猫ちゃん……お店の飼い猫だったんですね」
「あの……今さらですし、シャハルちゃんと一緒に来られたので大丈夫かと思うんですけど……お二人とも、猫アレルギーとか大丈夫でした?」
「あ、はい……大丈夫です」
「にゃー」
「ふふ、よかったですね。シャハルちゃん!」
「にゃあ……!」
足元の黒猫がお利口に返事をして、あたしの足元に擦り寄る。すると、ふと見下ろした先目に入った履き潰したスニーカーと汚れた服に、せっかく温まった心が少し軋んだ。
「それから……マスターは後からご紹介しますね」
「マスター……? あ、店長さん、居るんですね。ごめんなさい、まだ開店前なのにお邪魔して……」
「いいんですよ、お誘いしたのはわたしですから」
マスターというと、バーや飲み屋の印象だ。きっとこれからお客さんにちやほやされるであろう、目の前の若くて可愛らしい女の子。
それに引き換えあたしは、赤ちゃんの涙やよだれに汚れたぼろぼろの部屋着に、乾かす手間も惜しくて短くした手入れも出来ていない髪。
こんな格好で傍に居るだけで、何だか無性に恥ずかしくて居たたまれない。
そういえば、さっきすれ違った女の子たちも、地雷系だか量産型だかいう、レースとリボンが可愛らしい格好をしていた。
爪も可愛く彩られて、スマホケースも可愛らしく、髪はピンクや赤のカラフルなインナーカラーで好きに染めて、底の高いパンプスを履いていた。
あたしも、この子を産みさえしなければ、あんな風に可愛く着飾って、こんな夜にも友達と仲良く遊んで居られただろうか。ありきたりで細やかな悩みや苦しみを誰かと分かち合って、一人で抱え込むこともなかったのだろうか。
そんな風に考えて、やはり母親失格だと自分をまた嫌いになる。
「……えっと、今さらなんですけど、ここ、何のお店なんですか?」
「え、あれ、ごめんなさい。お伝えしてなかったですね! ここは『薬屋 夜海月』です」
「……? 薬屋……? 飲み屋とかではなく?」
「はい。うちではなずなさんのように孤独な夜に傷付き彷徨う『夜の迷子』のお客様に、ぴったりのお薬を処方してるんですよ」
「……夜の迷子……薬……」
一瞬、何か高額の危ない薬でも売り付けられるのかと思ったけれど、それならこんな余裕の無さそうな主婦はターゲットにしないだろうと首を振る。
疑われ慣れているのか、こよるちゃんは穏やかな笑みのまま、すっかり眠ったくるみを返してくれた。
「……夜の底、冷たい暗闇の中でくらげのようにふわふわと漂い彷徨っているひとたちが、笑顔で朝を迎えられるようにする。それが、わたしたちのお仕事です」
「……。あたしも、笑顔で朝を迎えられるかな……」
思わず切実な響きを孕んだ言葉に、あたしはハッとする。
夜は気が休まらずに眠れなくて、微睡んだと思えば夜泣きに起こされる。狭い室内なのに旦那は全く起きないし、起きたと思えば「うるさい」「早く泣き止ませろ」と不機嫌になるし、あまり泣き続けると隣の部屋の壁が叩かれる。
夜はあたしにとって苦しくて、いつも不安に溺れてしまいそうだった。
朝を迎えたとしても、ほとんど寝ていない疲れた頭と身体で旦那の朝食やお弁当作り送り出す。くるみはバタバタとした朝にだって構わず泣くし、自分のことは全部後回し。
何かをしようとしても泣かれると中断せざるを得なくて、時間はどんどん過ぎていく。終わらない家事も用事もたまっていくのに、あっという間に夜になってしまう。
旦那が帰って来ると「何も終わっていない」と、何も出来なかったことを怠けていたかのように詰られる。それを義母に世間話のように伝えられて、くるみが可哀想だと責められるのだ。
「あたし……夜が嫌い、ずっと明日の来ない長い夜に閉じ込められてるみたいで……苦しい」
誰も味方の居ない中、ひとりで立ち止まらず戦うしかないのに、歩いている先が正しいのか確かめる余裕すらない。確かにあたしは、終わらない夜の迷子だった。
「……なずなさん、少なくとも今夜は……ここに居る間は、夜はあなたの味方です」
「え……?」
「甘いホットココアも、誰にも怒られない静かな環境も、くるみちゃんの安眠も……なずなさんにぴったりのお薬も、きっとご用意しますから、今夜は肩の荷を下ろしてください」
「……ありがとう、こよるちゃん……」
「よく頑張りました……あなたは、ひとりじゃありませんからね」
与えられる優しい言葉に、思わず涙が滲む。
ああそうだ、あたしはずっと誰かに認めて欲しかった。誰かに寄り添って欲しかった。誰かに助けて欲しかった。誰かに気付いて欲しかったのだ。
これが自分に都合のいい白昼夢だとさえ思えるくらいの、心が救われる感覚がした。
「……ねえ、こよるちゃん、もしまだ時間があったら……あたしの話、もう少し聞いてくれますか?」
「ええ、もちろんです。夜はまだ長いですから、ココアのおかわりをお持ちしますね」
温くなったマグカップにおかわりを注いで貰いながら、穏やかに眠るくるみをそっと柔らかなソファーに寝かせる。広くて雲のようにふかふかのそこは、さぞ寝心地がいいだろう。
足元に居た黒猫が、ぴょんと身軽にソファーに飛び乗って、あたしとくるみの間に身を丸くして寄り添う。
そのふわふわの温もりは、それ以上暗闇に沈まないよう支えてくれているみたいだ。
「ふふ、シャハルちゃんはくるみちゃんがお気に入りですね」
「にゃあ」
くるみが寝返りを打ったらすぐにわかるよう小さなお腹に手を添えながら、ふと視線を下ろすと、黒猫はまるでくるみを慈しむようにじっとその寝顔を見詰めていた。
きっとこんな風にこの子をまっすぐに見詰めることを、今は母親のあたしですらしてあげられていない。
「あのね……あたし、母親失格なんだ……」
敬語はやめて、ありのままの飾らない言葉で、あたしはこよるちゃんにこれまでの弱音を吐き出した。
理想の母親でいられないもどかしさ、誰からも理解されない苦しみ、愛すべき我が子を時には恨んでしまいそうになる気持ち。
こんな若い子相手に情けないと思いながらも、一度溢れると止まることはなく、今ならこれまで飲み込んできたすべてを話せる気がした。
☆。゜。☆゜。゜☆