窓の外、夜明けの空が白んでいく。あれからくるみは安心したように大人しく寝ていて、薬の効果が切れたあたしの心も、久しぶりに随分と穏やかだった。
 雲のようなふわふわソファーを借りて仮眠できたお陰で、寝不足だった身体も回復した気がする。

「……あ、旦那からメッセージ来てた」

 くるみの夜泣きも、結局あたしたちがずっと外に出たことも気付かず、今まで爆睡していたのだろう。『今どこ、散歩?』なんて呑気なメッセージに、前なら怒りや悔しさの後、すぐに帰らなきゃと萎縮していたのに、今はそんな感情は湧いてこない。

 理解して貰えないのは、あたしが嫌な視線から逃げて何も言わなかったせいだ。
 心の声は、たとえ叫びだとしても、言葉にしなきゃ伝わらない。帰ったら改めて、二人でくるみのことや他のことも、きちんと話し合おう。

「……あたし、そろそろ帰ります。たくさん、お世話になりました」
「ふふ、素敵な笑顔になれてよかったです! なずなさんも、くるみちゃんも、どうかお元気で」
「にゃあ」

 こよるちゃんは徹夜明けとは思えない眩しい笑顔で、黒猫は相変わらずくるみを興味深そうに見ている。
 そして、薬の効果が切れてから少しして様子を見に来てくれた店長さんは、その後寝落ちたあたしと入れ違いでお店の方に出ていたようだった。

「迷子になった夜には、またおいで。……きみたちに、もうそんな夜が来ないことを祈るけれど」

 モノトーンでシックな装いをした、背が高い二十代前半から中頃に見える若い男の人。少し長めの前髪で俯けば隠れてしまうものの、優しく凪いで美しい瞳をした、とても整った顔立ちの綺麗な人だった。
 こんなに素敵な人にぼろぼろの格好を見せるのは申し訳なかったし恥ずかしかったけれど、可愛い女の子達に感じた劣等感は既にない。見下されているような被害妄想も消えた。
 くるみの涙をたくさん吸ったこの服は、あたしの自慢の戦闘服だ。

「……あ、そうだ。なずなさん。なずなの花言葉をご存知ですか?」
「え? ううん……」
「なずなには『あなたにわたしのすべてを捧げます』なんて花言葉があるんです。献身的なのは素敵ですけど……わたし、すべてを捧げる必要なんてないと思います」
「え……?」

 あたしを見送るように店の扉を開けるこよるちゃんは、夜の終わりまで付き添うように、優しく言葉を続ける。

「自分はくるみちゃんのお母さんだって、そうやって胸を張る自信が出来たのは、素敵なことです。ですけど……なずなさんってお呼びした時の嬉しそうな顔も、本心だと思うから……せっかくの素敵なお名前、どうか忘れないでください」
「こよるちゃん……でも、あたし不器用だから、どっちかしか……」
「お母さんだけど、なずなさんで居ていいんです! 選ばなくていい、どっちもあなたです。……今は目の前の命を守るので精一杯で、そんな余裕がないと思うかもしれないけど…かそれでも、いつかくるみちゃんが大きくなって手を離れた時、空っぽになってしまわないように。甘いもの好きで、可愛らしいお洒落にも関心があるなずなさんを、見失わないでいて欲しいです。じゃないと、きっとまたいつか、迷子になっちゃいますから」
「うん……ありがとう。もう迷わないように、自分のこともちゃんと、見てあげることにする」
「はいっ!」

 目の前のことで精一杯だったあたしの、もっとずっと先を心配してくれるこよるちゃん。そのことが何だか照れくさい。
 あたしはこのお店で、母親としての自分と本来の自分、両方と向き合えたのだ。

「ああ、名前の由来と言うのなら、『くるみ』には『三位一体』という意味もあるね……。くるみさん、きみがお父さんとお母さん……家族をひとつにするんだ。今はたくさん泣いてもいいから、その分それより多くの笑顔を運ぶんだよ」

 今まであたしたちのやり取りを見守ってくれていた店長さんが、ふと眠るくるみを覗き込むようにして、静かに声をかけてくれる。その穏やかな響きは子守唄のようで、くるみは微笑んでいた。

「……それじゃあ、本当にありがとうございました!」

 店の外までお見送りしてくれた優しい夜の住人に別れを告げて、愛する我が子と朝に帰る。
 やがて昇った朝日の温かさに照らされながら、あたしはそっと、目を細めた。

 ぼくが今お世話になっている『薬屋 夜海月』は、いつも夜が更けた頃合いに開店する。
 ぼくたち猫は基本的に夜行性……ではなく、薄明薄暮性というらしく、夕暮れと明け方に一番活発になるのだ。
 つまり、お店が始まる前と終わる頃が一番元気。そう考えると、この店に置いて貰っているのも何かの縁のように思える。

「……よし、まだ誰も起きてない」

 とある日、お気に入りのふかふかのソファーでお昼寝から目を覚ますと、ぼくは静かで暗い建物の中を見回し伸びをする。物音はしない、大きな窓の向こう側は、これから夜に飲まれる黄昏時だ。

 お店の店主である『マスターさん』は夜起きるのが苦手みたいで、よく開店前はお店の奥にある仮眠室で寝ている。
 二階が彼の居住エリアにも関わらず一度起きてからそこで二度寝をしているのは、万が一開店時間前に『夜の迷子』が訪れた時に対応できるようにだ。
 まあ、すぐに店に出られると油断しているのかよく寝過ごすせいで、店員の『コヨルさん』に、起こされているのだけど。

 お店の奥にある夜の帳のような布の向こう、開きっぱなしの扉を抜けて、ぼくはマスターさんの仮眠室へ向かう。
 その小さな部屋は窓ひとつなくて、閉鎖的だ。壁際にある小さなテーブルの上に、ステンドグラスみたいにキラキラのランタンがひとつだけ灯されている。ぼんやりと明るい室内には天蓋つきのお洒落なベッドがあって、マスターさんは白い清潔なシーツの上ですやすやと眠っていた。

 その柔らかそうな布団に飛び乗り顔の近くに行くと、オーナーさんはさらさらの夜色の髪の下、うっすらと目を開ける。

「んん。シャハルさん……? ごめんね、僕まだ眠いから……ご飯はこよるさんに貰って……」

 オーナーさんはぼくの頭を柔らかく撫でて、そのまま再び寝落ちてしまった。
 ぼくのご飯もそうだけど、彼も夕飯を食べていない気がする。よくコヨルさんの深夜のティータイムに付き合ってはいるけれど、できればちゃんとご飯を食べて欲しかった。

 よくご飯は忘れるし、気付けばこうして寝ているし、かと思えば一日中起きて薬を作っていることもある。そんな時は水を飲むのも忘れていることがあるから、僕が自分のを催促するふりをして気付かせるのだ。全く世話が焼ける。
 魔法のような素晴らしい薬を作るのに、彼は元野良猫の僕が心配になるくらい、生活力が欠如している気がした。

「……コヨルさん、まだ来る時間じゃないしなぁ」

 ぼくはベッドから降りて、お店の中を散歩することにした。コヨルさんが来ればお店のドアの開け閉めをしてくれるから外への散歩も出来るけれど、今は諦めた方が良さそうだ。
 大きく伸びをした後、再び布の向こうの夜海月店舗へと向かう。
 店舗の奥に続く扉には、仮眠室の他にもマスターさんが薬を作る秘密の部屋とか、コヨルさんやお客さんが飲む飲み物を用意するための簡易キッチンがあるけれど、生憎それらは猫立ち入り禁止だ。衛生的にしかたない。

 店舗の方も、本来なら薬屋という特性上動物はよろしくないところを、二人は自由にさせてくれるからありがたい。
 元野良猫が清潔であるはずの薬屋に居るなんて、お客さんから不評だったらどうしようかと思ったし、実際それを懸念してここに留まるのを諦めようともした。
 けれども当初の心配は杞憂で、猫のもふもふは癒しにもなるらしいので、ぼくの毛並みはお客さんにも好評だった。嬉しい誤算だ。これもコヨルさんが綺麗にしてくれて、時折ブラッシングもしてくれるお陰だった。

「さてと……」

 お店の中は、全体的に濃紺と白のコントラストを基調とした落ち着いたカラーリングで、日のある内はショーウィンドウからの光で日向ぼっこも出来る落ち着く空間だ。
 営業が開始されるとマスターさんかコヨルさんによって明かりが灯されて、間接照明やランプのぼんやりとした淡い光で狭い店内が柔らかく照らされるのが心地いい。

 店内には木製の棚が壁沿いにあって、他にもガラスのショーケースもある。店の奥には鍵付きの棚もあって、どれも中には大小様々な瓶が並んでいた。
 一見インテリアのようにも雑貨のようにも見える。けれどそのどれもが、マスターさんお手製の『薬』だった。

「……暇な時にコヨルさんたちに教えて貰って、ちょっとずつ薬について詳しくなってきた気がする」

 小瓶の中でラメのように煌めく『星屑の粉薬』
 淡く光る月のような半透明の『月明かりのオブラート』
 小瓶を揺らすと透明が夜色に変わる『夜露のシロップ』
 色とりどりの可愛らしお菓子のような『月の欠片』
 黒くて中が見えない『夜の帳カプセル』
 それからぼくもたまに飲ませて貰う『星座の物語』

 他にもたくさん、夜の迷子たちが薬によって笑顔の朝に踏み出すのを見てきた。『新月のオブラート』に『星の囁き』に『深淵の北斗七星』に『シンデレラドロップ』……ひとつひとつが小瓶の中で持ち主を待つ宝石のように鎮座して、誰かの訪れを待っているのだ。

「ふふ、いつかぼくも、お客さんのお薬選び出来たらなぁ……なんて」

 家を出て、もう二度と大好きな人にも会えないと嘆き、生きることさえ諦めかけていたぼくが、こんな風に笑いながら未来を考えられるようになるなんて、思ってもみなかった。
 一通り棚の中を見て回って、今日もキラキラして綺麗だと満足する。小瓶の中身はひとつひとつ特徴的で、何度見ても飽きない。
 ラムネ菓子やグミや金平糖のような美味しそうなものから、ガラス細工や飴細工のような繊細なもの、食用なのか危うい色をしたキラキラの粉や、本物なのか不明な猫の顔サイズの枯れない花まであった。

 たくさんの薬があるからか、店内はいつも甘いような花のような植物のような、不思議な香りがする。
 どこかで嗅いだ気のする懐かしさと、けれどどこでもないような未知の感覚がする、唯一無二の香りだ。ぼくはこの匂いが嫌いじゃなかった。

「あ……そろそろかな」

 夜目が利くからあまり気にしていなかったものの、すっかり日が落ちて暗くなった店内に気付き、ぼくはお店の片隅にあるふかふかの白いソファーに飛び乗る。
 お客さんが来た時にはそこで話をすることが多いけれど、誰も居なければ転た寝場所になる。ぼくにとってもお気に入りの場所だった。

「こんばんはー……あら、真っ暗。もう、マスターったらまだ寝てるんですね?」

 とんとんと階段を降りてくる軽快な足音がして、ぼくは耳をぴくりと揺らす。明るい声と共にやって来たのは、コヨルさんだ。
 彼女が手慣れた様子で電気のスイッチを入れると、世界に淡い光が灯る。

「あ、シャハルちゃん。こんばんは! マスターが寝てるってことは、ご飯まだですか?」
「こんばんは。うん、まだ……お腹空いた……」
「ふふ。すぐご用意しますね」

 ソファーの僕に気付くと近付いてきて、ふわふわと頭を撫でてくれた。ここの人たちは、ぼくのことを撫でると優しい笑顔を向けてくれる。ぼくはこの瞬間が好きだった。

「あ……!」

 さっそくご飯をと背を向けたコヨルさんは、今日は長い髪をひとつ結びにしている。ぼくの首に巻かれたリボンとお揃いの白いそれをひらひらと揺らす様子に、つい猫の本能が刺激された。

「えいっ」
「ひゃわ!? ……もう、シャハルちゃん悪戯っ子ですね!?」

 ひらひらのスカートも、ゆらゆら揺れる長い髪も、いつも気になってしかたなかったけれど、リボンみたいな細いものは余計に気になってしまってダメだった。
 思わず背中に飛び乗ってリボンに戯れようとすると、後ろから衝撃を受けたコヨルさんは心底びっくりしたようにしている。

「ごめん……揺れてたから、つい」
「もう……シャハルちゃんは普段とってもお利口さんですけど、お店では気を付けてくださいね? 瓶が割れてしまっては危ないですから」
「はぁい……反省……」
「ふふ。良い子ですね。さて、ご飯にしましょうか」
「……うん」

 マスターさんが寝ている今、ぼくは『星座の物語』を使っていない。だからぼくの言葉は通じていないはずなのに、コヨルさんはぼくと会話をしてくれる。
 彼女は感受性が強くて、のんびりに見えて聡いところがある。お客さんにもよく真摯に向き合って親身に寄り添っているから、そんな姿勢に救われる人も多い。
 そんな彼女だから、言葉は通じなくてもぼくの気持ちに寄り添ってくれているのかもしれない。
 元の飼い主であるリョウヤくんとも同じように一方通行な会話をしていたけれど、上手く噛み合うとそこに絆のような温かなものを感じた。
 だからぼくは、よっぽど伝えたいことがある時にしか薬は飲まない。言葉が通じなくても繋がれることがあると知っているからだ。

「あ、そうだ。シャハルちゃん。今日はお散歩少し待ってくださいね」
「……?」
「夜中に雨が降るそうなので、お散歩はお天気を見てから考えましょう」
「雨かぁ……寒いし濡れるから嫌い」

 お店の片隅、アンティークなレジのある台の側でコヨルさんから貰ったご飯を食べながら、野良猫時代をぼんやりと懐かしむ。そして、リョウヤくんと居た時から、雨の日は彼が外に遊びに行けないと嘆いていたことを思い出した。

 ぼくはリョウヤくんとお家で遊べるから雨の日は少し嬉しかったけれど、雨でしかたなく構われるより、晴れの日にぼくと居ることを選んで遊んでくれる方が嬉しいのだ。

「……あ、そうだ。雨の夜ですし……時期的にもそろそろあの人がいらっしゃるかもしれませんねぇ」
「あの人?」

 来客の予定でもあるのか、コヨルさんはぽつりと呟く。誰にでも優しく人懐っこい彼女にしては、どこかその声も強張っていた。

「わたし、マスターのこと起こしてきます。シャハルちゃんはご飯しっかり噛んで食べててくださいね」
「うん」

 結局問いの答えは出ないまま、外からは雨の音がし始めた。ぼくはそのまま最後の一口まで残すことなく、存分にお腹を満たしていった。


☆。゜。☆゜。゜☆


「……あれ? なんだ、まだ寝てるんだ? 相変わらずだなぁ……おーい、夜だよ、起きて」
「んー……こよるさん? ごめん、あと五分……」
「おいおい、俺がこよるちゃんに見えるとかないわ。ちゃんと目開けろって」
「んん……? あれ、きみ……」
「マスター、そろそろ起き……わあ!?」

 不意にコヨルさんの悲鳴が聞こえてきて、ご飯を食べ終えたぼくは店の奥へと向かう。
 ぼんやりとしたランタンが照らす薄暗い部屋の中、入り口で立ち止まり驚いた様子のコヨルさんの足にぶつかってしまった。

「にゃ!? え、なに、コヨルさんどうしたの?」

 そのまま足の隙間から潜り抜けて部屋の奥に入り、その視線の先を見ると、ベッドで横になるマスターさんのすぐ隣に、もうひとつ人影があるのに気付く。

「えっ、い、いつの間に……どこから入られたんですか!?」
「あはは、どーも。俺は神出鬼没が売りだからねぇ。……それにしてもこよるちゃん、今夜もかわいいね」
「はあ……」
「ふふ、長く艶やかな髪は天の川よりも美しいし、俺を見つめる大きな瞳の煌めきには満月だって敵わない。ああ、その白い柔肌に纏う愛らしい装いはまさにキミのために作られたに違いないし……その美貌は月の女神アルテミスも嫉妬するくらいの……」
「……ねえスバル、うるさい。あと僕、来る時は店の入口使えってあれほど……」
「おっと、なになに、夜永くん顔怖い。寝起きそんな悪かったっけ? ほらほら、綺麗な顔が台無し。スマイルだよー」

 突然の侵入者に驚いたコヨルさんと、マスターさんのベッドに腰掛けながらへらへらと笑う見知らぬ男。そんな距離に居ても呆れたように寝転んだままのマスターさんの様子から、三人が知り合いであることはうかがえた。
 男は黒いローブのようなものを着ていて、フードを被っているから顔はよく見えない。胡散臭いにも程がある。

「……ねえ、あいつがさっき言ってた『あの人』ってやつ? 二人を困らせるなら、ぼく引っ掻くよ?」

 思わずコヨルさんを見上げて鳴き声を上げると、侵入者の男はベッドから立ち上がりこちらに近付いて来た。

「……え、やば。猫居んじゃん。なになに、飼い始めたの?」
「違うよ、彼も夜の迷子……で、とりあえず冬の間はうちの従業員予定のシャハルさん」
「えー、猫店員とかかわいいね、看板猫じゃん。おいでおいでー」

 おいでと言いながらじりじりと近付いてくるのは如何なものだろう。その不審者をなんとなくコヨルさんに近付けたくなくて、ぼくはそいつの頭を踏み台にしてマスターさんのベッドまで避難した。

「で……っ!?」
「ふふ、シャハルさんはスバルが嫌いらしいね」
「ちぇー……まあいいや、俺動物に嫌われがちだし」
「おや、馴れ馴れしくて鬱陶しいとか?」
「酷くない!?」

 すっかり目が覚めたらしいマスターさんが起き上がり、ぼくの頭を撫でてくれる。お店での物静かな営業スマイルとは違いくすくすと楽しそうに笑う様子に、マスターさんとこの不審者は案外仲が良いのだと理解する。

「……シャハルさん、紹介しておくよ。こいつは『スバル』……雨夜の客人だよ」
「そ、不審者じゃなくてれっきとしたお客さん」
「……不法侵入して来るやつは漏れ無く不審者だと思うけど」
「えっ、うっそ。俺のアイデンティティー全否定じゃん」
「ふふ、スバルさんは相変わらずですねぇ。わたし、お茶をご用意して来ますね」
「お、ありがとうね。こよるちゃん」

 不審者扱いしてしまったことに気付かれてなんとなく申し訳なく感じつつも、コヨルさんが部屋を出ていく仕草や声がなんとなくいつもより固いことに気付く。
 誰にでもフレンドリーなコヨルさんにしては珍しい。やはり彼女は、このスバルという人が苦手なのかもしれない。

「……さて、今日も今日とて商談に来たわけなんだけど……せっかくだしお茶飲んでからでいい?」
「ふ、いいよ。どうせきみのよく回る舌は、一晩中元気だろうから」
「あはは、ご名答。せっかく友人と過ごせる夜なんだ、楽しまなくちゃ損だろう?」
「ふふ。違いない」
「おっ、友人って否定しなかったね! よかったよ、俺の片想いじゃなくて!」
「……寧ろ、きみ以外に友人と呼べる人は居ないからね。否定なんかしないよ」
「よ、夜永くん……! 俺達ズッ友だよ……!」
「……ズッ友ってちょっと古くないかな?」
「えっ!?」
「ねえマスターさん、このお客さんはお友達で、商談相手?」

 商談、という単語にぼくが首を傾げると、マスターさんは布団から出て、ぼくを抱っこしながらベッドの縁に腰かける。今までお布団に居たマスターさんの腕は、いつもよりぽかぽかしていて心地好かった。

「スバルはね、こう見えて薬を作るための材料を届けてくれる商人なんだよ」
「商人……?」
「いや、こう見えてって何だよ……俺のことどう見えてんの?」
「……、窓のない密室に入り込んで、寝ている家主のベッドに乗り上げてきた不審者?」
「あー……返す言葉もないわ」

 自らの行動を振り返り素直に認めた不審者は、肩を竦めて両手をひらひらとさせている。
 ふとベッドの足元に、彼の商売道具が入っているのかアンティークの大きなトランクがあるのが見えた。そこからはお店の中よりも濃い植物や花の匂いがする。
 先程彼が言っていたように動物に嫌われるのは、その匂いのせいもあるかもしれないとぼんやりと考える。
 ぼくは嫌いじゃないけれど、慣れていない子にとっては嗅ぎ慣れない嫌な匂いだろう。

「……あの、お二人とも、紅茶の準備が出来ました。どうされます? お二階に運びますか?」

 不意にコヨルさんが戻ってきて扉の入り口からひょこりと顔を出す。それに気付いたマスターさんは、穏やかな笑みを浮かべた。

「ああ、ありがとう、こよるさん。……いや、店の方でいただくよ。こいつを私室に入れたくない」
「ねえそれ友人に向ける台詞!? えー、夜永くんさ、元からマイペース気質ではあるけど、年々俺に対して辛辣になってない……?」
「……あー……親愛の証?」
「えっ、それなら許す……」
「……スバル、よくちょろいって言われない……?」

 相変わらずな二人のやり取りに、コヨルさんはくすくすと楽しそうに笑いながら頷く。

「ふふっ、わたしは向こうでテーブルセットをして来るので、マスターは寝癖を直されたらいらしてくださいね」
「……え、寝癖ついてた? どこ?」
「ついてるついてる。ほらこっち、貸してみ」
「んー……」

 毛繕いは動物同士の親愛の証だ。ぼくもコヨルさんやマスターさんにブラッシングされると安心する。
 彼らは本当に仲良しなのだと理解して警戒を解いたぼくは、コヨルさんの後をついていくことにした。

 すると、いつものふわふわなソファー近くでティーセットを用意しながら、やけに緩んだ顔をしたコヨルさんに気付いた。

「はー……スバルさんといらっしゃる時のマスター、やっぱりいつもと違う表情をたくさんされて愛……、……はっ、シャハルちゃん、いつの間に!?」

 先程までの強張った様子は、どうやら顔が緩むのを堪えていたらしい。
 コヨルさんは慌ててぼくを抱き上げて、必死な様子で力説した。

「うう、今のは決して変な意味じゃないんですよ!? ただ、マスターは基本的に誰にでも紳士的で柔らかくて…たまに天然だったり場の空気を和ませようと冗談を言ったりはしますけど…、スバルさんといらっしゃる時のように終始砕けて接しているのが珍しいといいますか……羨ましいとか尊いとか愛らしいとか……その、いろんな感情がですね!」
「こ、コヨルさん落ち着いて……!?」

 確かにいつも優しく穏やかなマスターさんのスバルさんへの接し方にも驚いたものの、普段ふわふわとしているコヨルさんにこんな一面もあったことにも驚く。
 このお店にお世話になってひと月程経つけれど、まだまだ知らないことも多そうだ。


☆。゜。☆゜。゜☆


 お店の片隅のソファーと椅子とテーブルがある区画で、マスターさんとスバルさん、コヨルさんが一通り近況報告や雑談をしながらお茶を飲んで穏やかに過ごす。ぼくはコヨルさんにおやつをもらって食べながら、その話に聞き耳を立てていた。どうやらスバルさんとマスターさんは、昔からの知り合いのようだ。
 話が一区切りした段階でスバルさんがふかふかの白いソファーに腰掛けたまま伸びをして、やりますかとばかりに気合いを入れ直した。
 マスターさんは、小さく頷いてスバルさんの向かいの椅子で足を組み替え座り直して、コヨルさんは商談の始まる気配を察して邪魔をしないようにか、お店のお掃除や開店準備に勤しんでいた。
 ぼくはマスターさんの膝に乗りながら、改めて正面の男を見る。

「……」

 背が高いと思っていたマスターさんよりもさらに大きなスバルさんは、顔を覆い隠す黒いフードを取るとさらさらの綺麗な金色の髪をしていた。
 それはぼくの瞳とそっくりで、お月さまの色にも似ていて、思わず眩しく感じてしまう。
 襟足が少し長くて、そこにリボンでもしてくれたら先程のコヨルさんみたいに飛びかかるのにと視線を向ける。
 すると髪の間から揺れる銀色のピアスが見え隠れして、うずうずとしてしまった。
 お店では気をつけるように注意されたばかりだから、我慢したけれど。

「……いやー、それにしてもさ、こよるちゃんよく働くね」
「うん。お客様への接し方も素晴らしいからね、いつも助かってる」
「へー……夜永くんって生活力ないし、マジでいつか野垂れ死んでないか心配になるけど、こよるちゃん居てくれるなら安心だわ」
「……きみは僕の保護者かな? どっちかというと、スバルのがどこほっつき歩いてるのか謎だし、どっかの国で野垂れ死んでそうだけど……」
「ははっ、確かに。でも不定期とはいえこうして顔出してるんだからさ、安心してよ」
「ん……迷子になったら意地でも店に来て」
「ガチ迷子になったら普通目的地には辿り着けないんだよなこれが……」
「……だから、迷うなってこと」
「ふ……はいはい、わかったよ」

 穏やかに言葉を交わす二人に、聞きたいことはたくさんあった。二人の関係も、スバルさんが普段どこで何をしているのかも、何故彼が雨の夜にしか現れないのかも。
 けれど、今は言葉が通じるようになる『星座の物語』を飲んでいなくて正解だと感じた。
 コヨルさんが席を外しているように、部外者が口を挟むことではない気がしたのだ。

「……」

 ぼくはまだ、居候の身だ。弱った野良猫は冬を越せないから、このお店に住まわせて貰っているだけ。
 死ぬ前にリョウヤくんに一目会いたい、そこためにここでその時を待っているだけの、部外者。

 そう考えると、少しだけ寂しくなる。命を救われた上優しくしてくれて、温かな時間を共に過ごしてくれるマスターさんとコヨルさん。ぼくと同じように夜に迷う人たちが立ち寄り、たくさんの迷いや涙が笑顔に変わる不思議な場所。
 お客さんが居ない時にはのんびり深夜のティータイムをしたり、薬のことを教えて貰ったり、静かに読書をする横顔を眺めたり、そんな穏やかで居心地のいいこの空間が、ぼくは大好きだった。

「さて、とりあえずそっちがいつもの仕入れと……それから、こっちが今日の目玉、夜永くんにだから見せるとっておきだよ」
「……?」

 ぼんやりと考えている間に、スバルさんは商談を開始していたらしい。机の上に開け放たれたトランクの中には、見たこともない花や葉っぱ、それから不思議な色をした液体の入った小瓶や、薬の材料とは思えない綺麗な宝石のような塊がぎっしり詰め込まれていた。
 それらを値踏みするように手にとって確認していたマスターさんも、不思議そうに首を傾げ、スバルさんの手元を見た。

「じゃーん!」

 スバルさんの手のひらの上、黒い布に包まれた何かが、もぞもぞと動くのが見えた。そして彼がそっと包みを開くと、中からキラキラと光る小さなものが飛び出したのだ。
 ぼくは驚いてその場で大きく跳ねる。

「!?」
「これは……?」

 マスターさんも一瞬驚いたようにしたけれど、どちらかというとぼくのジャンプに驚いたみたいで二度見されてしまった。ちょっと恥ずかしい。

「光る、蝶々……?」
「お、夜永くんには蝶々に見えるのか」
「……? 違うのかい?」
「こいつはさ、見る人によって姿を変えるんだ」

 そう言ってスバルさんは、いろんな色に揺らめく綺麗な色をしているそれを目で追う。そして光の粉を軌跡のように散らし飛び回るその不思議な小鳥を人差し指の背に乗せて、そっと微笑む。
 その光る生き物は、ぼくには昼間窓の外でよく見かける雀に似て見えた。

「ちなみに俺には、かわいい女の子の妖精に見えてるよ」
「……へえ、面白いな……こよるさん、ちょっと」
「はぁい、お呼びですか?」
「きみにはあれ、何に見える?」

 棚の中の小瓶を取り出し丁寧に拭いていたコヨルさんが、マスターさんに呼ばれてひょこりと顔を出す。
 すぐにスバルさんの指先の輝きに目を奪われたのか、彼女の大きな瞳にキラキラが反射して、星空のように見えた。

「まあ、綺麗ですね……! わたしにはキラキラのくらげさんに見えます!」
「くらげか……なら飛ぶ姿は泳いでいるように見えるのかな」
「はは、全員違うみたいだね」
「……それで、これは何なんだ?」
「これはね、『オーロラと流れ星の子供』なんだ」
「……オーロラと流れ星の、子供?」

 コヨルさんが思わずおうむ返しのように聞き返すと、スバルさんの指先から小鳥、あるいは妖精や蝶々やくらげが離れ、店の中を見て回るように飛び回る。ぼくはその動きが気になって、そわそわとしながら目で追った。

「うん。オーロラってさ、夜空を覆うカーテンみたいで綺麗じゃん? その奥で輝く星は変わらないのに、皆オーロラに夢中で気付かない」
「まあ、それは確かに……」
「そんな切なく美しい凍える夜に、誰にも知られないまま燃え尽きて流れる星の命。最後の力を振り絞って……流れ星自ら願うんだ、誰かにこの光を、生きた証を見届けて欲しい……ってね」
「……そうして生まれたのが、『これ』なのかい?」
「そ。オーロラが夜空で揺らめきながらその願いを包んで、星の煌めきの欠片を宿した命の名残は、こうして願いを叶える流れ星の側面を持って『見る人によって姿を変える』効果を持つ。……つまりこれを材料にして薬を作れば、使用者が姿を変えることも可能だと思うんだよね」
「……望む姿を見せられる変身薬ってことか、すごいな、魔法みたいだ」
「日頃から魔法みたいな薬作っといて何を今さら」
「……このくらげさん、お薬のために殺しちゃうんですか?」
「あー……殺すって言っても、これは命であって命じゃないから……残像や蜃気楼みたいなものだよ」

 星の願いで生まれたキラキラと美しく舞うその奇跡のような小鳥は、薬の材料にされてしまうのか。
 そんな憐憫と名残惜しさについ目で追っていると、ふとその小鳥がある小瓶に止まろうとするのに気付いた。

「あ……っ!」

 それは、コヨルさんがマスターさんに呼ばれるまで拭いていて、棚から出しっぱなしにしていた小瓶。
 その重力なんてなさそうな身軽さでも、小鳥が乗れば当然のように小瓶は傾く。

「……シャハルちゃん!?」

 咄嗟だった。瓶が落ちて割れないようにと慌ててその下に駆け込んで、僕は強かに頭をぶつける。
 するとぼくの頭がクッションになったのか、小瓶は割れず、ころころと床を転がっていった。

「まあ、大丈夫ですか!? ごめんなさい、わたしがちゃんと片付けなかったせいで……」
「いや、僕のせいだよ。仕事をしてくれてるこよるさんを呼んだから……」
「いやいや、俺が放し飼い? にしたせいだし、マジごめんね」
「ううん、へいき……ぼくが勝手に、思わず飛び出しただけだし……」

 ヒリヒリと痛む頭をみんなが順番に撫でてくれる。心配される喜びと、手のひらの心地好さと、みんながそれぞれ自分が悪いと謝る光景がなんだか面白くて、ぼくはつい笑ってしまう。

「……それにしてもネコちゃんすごいじゃん、薬守ろうとしたんだ?」
「ふふ、さすがうちの従業員だろう? 彼にも望みがあるから無理強いは出来ないけれど……気持ち的には冬の間の居候じゃなく、立派なうちの子だしね」
「そうですね、シャハルちゃんは、お薬の大切さもちゃんとわかるお利口さんですから。だからわたし、いつもシャハルちゃんにお薬のこと教えてるんですよ。……いつか、わたしの代わりに店番をしてくれるかもしれませんし」
「二人とも……」

 さっきまでぼんやりとした不安に占拠されていた心が、一気にぽかぽかとする。
 またいつか『リョウヤくんに一目会いたい』っていう願いを、諦めたわけじゃない。それでもぼくは、まだここに居てもいいのかもしれない。そんな風に思えた。

 オーロラと流れ星の子も、流れ星らしく願いを叶えたよとでも言いたげな様子で、優雅に羽を揺らしていた。


☆。゜。☆゜。゜☆


「さて、そろそろ朝だ……俺はまた旅に出るよ」
「そっか……。あ、薬、何個か持って行くかい?」
「あ、俺あれがいいな。シンデレラドロップだっけ、恋が見つかるーってやつ」
「……却下」
「えー!? なんで!?」
「……一気に百錠くらい飲んで、どこぞの国でハーレムでも作りそうだから」
「あ、それいいね! ……じゃなくて、俺めちゃくちゃ一途だから!」
「……でも、以前いらした時、わたしを世界一かわいいと褒められた数分後に、若い女性のお客様と鉢合わせて同じ台詞を吐いてましたよね?」
「そ、それは……いや、ねぇ? 女の子は褒めるのが礼儀みたいなところあるし……」
「……満場一致で信用ないみたいだね?」
「そんなぁ……っ!」

 大きなトランクの中身はほとんどマスターが買い入れたようで、ずいぶんと軽そうなそれをぶんぶんと振り回して拗ねるスバルさんは、少し子供っぽくも見える。
 結局人騒がせだった小鳥は、今は店の片隅でインテリアだった鳥籠の中で大人しくしている。
 せっかく残滓とはいえ今は生きているのだから、天寿を全うさせてから願いを叶えて欲しいというのがマスターさんの意見だった。

「……あ、そーだ。ネコちゃん、これあげるよ」
「えっ、なに?」
「俺の大好きな店の一員になった、お祝い」

 スバルさんはしゃがみ込んで、ぼくの首に巻かれた白いリボンの結び目に、何かを付けた。

「おや、良いね。似合ってるよ」
「可愛らしいです! ふふ、わたしとお揃いですね」
「お揃い……?」

 二人に褒められて気になったぼくは、ショーケースに飛び乗って壁掛けの鏡に自分の姿を映す。
 リボンの真ん中に揺れる、水色の雨の雫のような形の小さな飾り。それはコヨルさんが付けているネックレスに似ていた。
 こよるさんのそれも彼からの従業員祝いのようで、スバルさんはうんうんと頷いている。

「……よし、贈り物も済んだし、俺は行くよ。また会おうね、夜永くん。こよるちゃんにネコちゃんも」
「……気を付けて。迷子にならないようにね」
「次はちゃんと入口から来てくださいね!」
「キラキラ……ありがとう!」
「ははっ、それじゃあ……また、いつかの雨の夜に」

 ぼくたちの声を聞いて満足そうに笑みを浮かべたスバルさんは、ふわりと黒いローブを翻して、夜と共に溶けてしまったように忽然と姿を消した。
 窓の外はいつの間にか雨も止んでいて、差し込む昇りたての朝日がショーウィンドウに付いた雨粒に反射して、いつもより眩しい。

「やれやれ、まったく彼は神出鬼没だね……」
「本当ですねぇ……嵐のような人でした」
「でも……また会いたいな」

 月も星も見えない、暗闇に閉ざされた雨の夜にだけ気まぐれに現れるという、不思議な商人。
 冬はすぐに雨が雪に変わってしまうから、次に会えるのはいつになるだろう。

 冬が終わったその先も、またこの店で、あの奇妙な客人を迎えられることを願って、ぼくはお気に入りのソファーで丸くなり、心地好い眠気に微睡むのだった。
 今日は特別な日。日々頑張ってようやく目標を達成したご褒美に、大好きな彼に会える日だ。
 辛く苦しい日々の中での、わたしの唯一の癒しである『七星リュウセイくん』。
 優しく包み込んでくれるような柔らかな彼の笑顔を思い浮かべるだけで、わたしは何でも、どんなことでも頑張れた。

 リュウセイくんに会えるのは、実に二週間ぶりだ。スケジュール帳には今日の日付にピンクのハートのシール。何度も交わしたメッセージを読み返しながら、今日という日を心待ちにしていた。

 彼に会いに行くのは夜なのに、その日は早起きして、とびきりのお洒落をする。
 買ったばかりの可愛い服と靴。昼には久しぶりにネイルサロンに行って、爪もぴかぴか。夕方には美容室に行って、ヘアメイクだって完璧。

 好きな人に会うためのお洒落は、自分に魔法をかけるみたい。少しでも長く彼の隣に居られるようにと、願いを込めて可愛い自分を作るのだ。

 夜に染まりゆく街並みは、空と比例して煌びやかに輝く。まるで彼との再会を祝福してくれているよう。
 道すがら、知らない男に声を掛けられても気にしない。まるでステップを踏むように迷いなく軽やかに、わたしは目的地へと向かう。
 今のわたしは、きっと舞踏会で見初められるシンデレラのように、世界一キラキラとしているに違いない。

「……よし、大丈夫。今夜のひめはとっても可愛い!」

 そうして辿り着いた、彼の待つ店の前。看板に描かれたお洒落なガラスの靴のロゴと『Last Princess』という店の名前が、わたしをお姫様にしてくれるみたい。
 扉を開ける寸前に、何度も深呼吸を繰り返す。前髪を念入りに整えて、リボンの曲がりも許さない。

 ここから先は、夜の果ての沼の入り口。この先で、愛しい彼が待っている。
 そう思うだけで鼓動が速まるのだから、何とも恋心は正直だ。

 ようやく足を踏み入れた薄暗い店内。通された席で待っていると、すぐに彼がわたしを見付けてやって来る。
 たったそれだけのことで嬉しさににやけてしまいそうになるけれど、家を出る前に鏡に向かって何度も練習したとびきりの笑顔で、隣に腰掛ける彼を見上げた。

「こんばんはリュウセイくん、久しぶり! 元気にしてた?」
「こんばんは。ヒメミちゃん久しぶり……二週間ぶりだよね? 会いに来てくれて嬉しいよ。……オレは相変わらずだったけど……ヒメミちゃんに会えなくて、結構寂しかった」
「ほんと? ひめも寂しかった~……えへへ、だから今日は、その分たくさんお話出来たら嬉しいな」
「うん、もちろん! ヒメミちゃんをたくさん楽しませられるように、オレも頑張るね。……あ、ネイル変えた?」
「えっ……わかるの?」
「もちろん。前のも似合ってたけど、こっちも良いね。オレ、ピンク好き。すごく可愛いね」
「嬉しい、気付いてくれてありがとう……! リュウセイくんに見せたくて、新しくしたばっかりなんだぁ」

 会って早々、柔らかな笑顔と共に細やかな変化に気付いて褒めてくれる彼は、やっぱり絵本の王子様みたいに完璧だ。
 そして、二週間ぶり、なんて。彼も会えなかった日々を数えていてくれたのだろうかと、何だか嬉しくなってしまう。些細な彼の一言一言が、わたしを恋に溺れさせるのだ。

 わたしが上機嫌で店のメニューを開くと、リュウセイくんは距離を縮めて一緒に覗き込んできた。
 こうしている間だけは、メニューの陰に二人きり。周りの人の存在なんて忘れて、世界に二人だけになったように感じてしまう。

 選ぶのを躊躇うように、夜の星のようにネイルの光る指先を滑らせて、目に留まった一つを選んでは、反応が見たくてちらりと横目に視線を向ける。

「……リュウセイくん、ピンクが好きって言うし……ピンドンにしようかなぁ」
「え!? いや、ピンク好きとは言ったけど……無理してない? 大丈夫?」

 ドンペリピンク。普段頼まない価格帯のそれに、彼は驚いたようにしてから、心配そうにわたしを見る。通い始めてそこそこ長いわたしのお財布事情を知っているからこその反応だろう。

 本当は高いお酒を注文してくれて嬉しいはずなのに、無理しないでいいなんて素振りで、どこまでもわたしに夢を見させてくれる素敵な人。

「今日はリュウセイくんに使う目標金額貯まったから会いに来たんだし……向こうの卓の被りの子に負けたくないもん。ね、ひめのためのリュウセイくんのコールを聴いて、一緒に飲みたいな」

 わたしがお店に来た時に、彼が隣に座っていた別卓の女の子へと視線を向ける。
 彼女も同担。リュウセイくん指名なのだろう。
 その派手な見た目の女の子は、同席しているヘルプのホストになんて目を向けずに、退屈そうにスマホを弄っている。
 他人への態度が悪いとか、今はそういうことではない。場を繋ごうとしてくれているヘルプはあの卓でリュウセイくんのために頑張っているのに。彼女はそれを無碍にしているのだ。
 わたしは、あんな子には負けない。

「……ねえ、リュウセイくん、今日はラストまで居るから……最後は必ず、ひめの所に戻ってきてね」
「うん……わかった。オレが頑張れてるのも、全部ヒメミちゃんのお陰だよ。いつも本当にありがとう……愛してるよ」

 頼んだお酒が運ばれて来て、狭い夜の片隅で、まるで世界の中心のように賑やかなコールが響く。しかし華やかなそれとは裏腹に、心はどんどん冷静になっていった。

 わかっている。彼はホストで、わたしはたくさん居る客の内の一人だ。

 彼の甘い言葉は、この夜だけの魔法で、深い沼に落とす呪いの言葉。
 彼の優しい笑顔は、お金を溶かす今だけわたしに向けられる、作り物の営業用。
 彼との愛しい一夜は、すべてまやかしで出来ている儚い幻想。

 わかっている。叶うことのないこの想いはきっと無意味で、けれど確かに、どうしようもなく恋なのだ。

 彼と同じ世界に生きるために、わたしもすっかり夜に染まってしまった。
 彼の隣に座り続けるためだけに、これまで積んできた金額は、もう考えるのをやめた。

 けれど、好きな人のために可愛くいたいのも、好きな人のために何でもしたいのも、胸の内の甘く苦しいときめきも、会えない日々の切なさも、どれもありふれた恋でしょう?

「……ひめも、リュウセイくんのこと、世界一愛してる」

 マイクに乗せた愛の言葉が店内に響いて、すぐにグラスの中のシャンパンの泡のように消えていった。

 夜も更けて、お酒も大分回った頃、薄暗い店内の卓の上に並ぶお酒に視線を落とす。
 照明に反射して輝く煌びやかなハートや、本やテディベアを象った可愛らしい飾りボトルを、彼に褒めて貰ったピンクの爪先でそっとつつく。

「ねえ、あの五番卓にある靴の飾り……デコシンデレラの色違いってある? ……ピンクが良いなぁ。リュウセイくんのための、ピンクのシンデレラ」

 初めて自分の卓にボトルを飾った感動を、あの頃の高揚感を、今はすべて承認欲求に変えてしまった。
 キラキラとした華やかな世界は、いつの間にかどろどろとした辛い世界に姿を変えて、日常では中々見掛けないメニューのゼロの羅列も、最早彼を喜ばせるためのただの記号でしかない。

 それでも、わたしは何度でも恋という魔法に溺れて、偽りの夜に沈んでいくのだ。

「ふふ……本物のシンデレラなら、魔法が解けても幸せになれるのにね」

 無理なことは、痛いくらい分かってる。それでも、どう足掻いてもこの嘘で塗り固められた恋の沼から脱け出せそうになかった。
 だけど、せめて夢の時間が終わるまで、王子様と居られる幸せなシンデレラでいたいのだ。

「ヒメミちゃん……この店に、オレに会いに来てくれるなら、何度だってお姫様になれる魔法をかけてあげるから」
「うん、ありがとう……リュウセイくんは、王子様で魔法使いだね。……大好き」

 ガラスの靴をここに置いて、何度だって会いに来るから。だからどうかその度に、醒めない恋の魔法をかけて。
 この苦しくも心地好い夜の底で、あなたと二人、泡沫の夜に溺れて居たいから。


☆。゜。☆゜。゜☆


 大好きなリュウセイくんに会いたくて。刹那の夜の幻に溺れるためにどんどん大金を注ぎ込むようになってから、わたしの心は満たされると同時に、少しずつ虚しさを覚えるようになっていった。
 あんなにも幸せで、彼がホストだと割りきった上で好きを貫きたかったのに。
 いつしかひび割れた砂時計の砂が、いくら砂を落としても溜まらずに溢れてしまうような、そんな虚しさと苦しさの方が強くなっていった。

「……ひめ、いつまで頑張れるんだろう」
「なぁに、ヒメミ~。担当切る感じ? リュウセイくん何かやらかした? 今日のアイバンやめとく?」

 ファミレスの一席で思わずぽつりと呟けば、向かいの席でスマホを見ていた『ネオンちゃん』が、不思議そうに首を傾げる。
 よく一緒に『Last Princess』飲みに行くネオンちゃんは、派手な赤いネイルに、ストレートの黒髪に赤色のインナーカラーの綺麗な女の子だ。
 ゆるく巻いた髪にピンクのインナーカラーを入れたピンクベース量産型のわたしと、赤黒で強い色味の地雷系ファッションのネオンちゃん。どっちもそれぞれの担当が好きな色を身に纏っている。
 ホストに本気で恋をする愚かなわたしたちは、夜の街に溢れる同じ穴の狢。

 ネオンちゃんと居ると安心する、こんな気持ちになるのがわたしだけじゃないとわかるから。こんな報われない恋が、それでも正しいものだと思えるから。

「そんなんじゃないよ……リュウセイくんはいつだって優しくて、素敵な人。だから、辛いなんて思うひめが悪いんだよ……」
「ふーん? あれなら今夜はラスプリはやめて、気分転換に別の店行ってみる? 初回安いしさー」
「……ううん、やめとく。ひめはホストが好きなんじゃなくて、リュウセイくんが好きだもん」
「ヒメミ~ほんと一途だよねぇ」
「そう、かな……?」
「うん。ネオン、ジュキヤに嫌なことされたらすぐ他店の初回行っちゃう。そしたらそれ聞いて急に接客丁寧になんの、うけるよねー」

 ネオンちゃんは、わたしを一途だと、バカにした素振りではなく本当にそう思っているように感心した顔で言い放つ。
 ネオンちゃんはいつも、リュウセイくんと同じ『Last Princess』所属の『北斗ジュキヤくん』を指名している。
 彼女もよくジュキヤくんとのメッセージに一喜一憂したり、本物のカップルのように本気でぶつかり合って、時には喧嘩したりもしているのに。
 そんなネオンちゃんですら、他のホストも視野に入れている。やっぱり、この世界で本気で恋をするのは、異質なのだろうか。

「……ごめん、やっぱり今日このまま帰るね。締め日までに少しでもお金貯めときたいし」
「そっかー、ヒメミ~は今やリュウセイくんのエースだもんね、了解。ネオンはジュキヤにあんま期待されてないだろうから、今日も『Last Princess』寄ってくる」
「ネオンちゃんはジュキヤくんに大事にされてるのに……。アイバンしようって言ってたのに、ごめんね」

 アイバン。今日は食事の後一緒にお店に行って、同じ卓でリュウセイくんとジュキヤくんに接客して貰う予定だった。
 リュウセイくんと二人きりの時間も好きだけど、同じ空間で友達と好きな人と一緒に飲めるあの時間も楽しくて、わたしは好きだった。
 何よりジュキヤくんとネオンちゃんの関係はリュウセイくんとわたしとは全然違っていて、参考にもなったのだ。

「んーん。そんな節約モードなのに、リュウセイくんに会うよりネオンと一緒にご飯してくれただけで嬉しーし」
「ネオンちゃん……ひめも、いつもごはんしてくれて嬉しい。次こそアイバン一緒に行こうね……!」

 予定をドタキャンするようなものなのに、そんな優しい言葉を貰えて、わたしは改めて友達のありがたみを実感する。
 ホストクラブに通うようになってから、学生時代の友達とは金銭感覚も価値観も時間帯も何もかも合わなくなって、すっかり縁が切れてしまった。
 わたしはもう、夜の世界にしか居場所がなかったのだ。

「えへへー、りょーかい。大事な日にどーんって使うのも、日頃からちまちま通うのもその子のスタンス次第だしね! まあ、言うて毎回大金使えたら最高なんだけどさー」
「あはは……そうだね。お金がなくちゃ……どうにもならない。……それじゃあ、ジュキヤくんと素敵な夜を……!」
「ありがとー。あ、リュウセイくんどんなだったか教える? 来てた同担情報とか」
「……うん、お願い」
「おけー。じゃあ、気をつけてねー!」
「ありがとう、またね」

 ネオンちゃんと別れたわたしは、一人あてもなく歩く。眠らない街のネオンライトは、目を惹く輝きでキラキラとしているけれど、どれもこれも偽りの光だ。
 本物の言葉も、本物の気持ちも、持っているだけ馬鹿を見る。わかっているのに、とっくに魔法の綻びに気付いているのに、わたしはどうしたって夢見るのを手離せなかった。

「……でも、今さら……やめられないよね」

 ふらふらと彷徨い歩く内、気付けば少し遠くまで来ていて、普段来ることのない路地裏を見つける。
 夜の片隅にあるような、世界から忘れ去られた道のような、そんな薄暗がりに興味を引かれて、わたしはその奥へと視線を向けた。

「……あれって、リュウセイくん……?」

 はっきり見えた訳ではない。けれども夜空のような美しい髪をした背の高い男の人がその路地の奥へ向かっていくのを見かけて、わたしはついその後を追いかける。
 闇色のコートに黒いズボン、暗がりに紛れる色味にすぐに見失ってしまったけれど、どこかからカランと、ベルの音がした。
 その人が近くの店に入ったのだと、わたしは探すように辺りを見回す。すると少しして、ショーウィンドウにぼんやりと光の灯る建物を見つけた。

「……ここ?」

 そっとガラス越しに建物の中を覗くと、そこはギラギラとしたネオン街とは違い、間接照明やステンドグラスランプの柔らかな光に包まれていた。
 雑貨屋さんか何かだろうか、店内に所狭しと並ぶ小瓶が色とりどりに煌めいている。

「綺麗……」

 思わずうっとりと見惚れては、吸い寄せられるように木の扉のドアノブに手を掛けゆっくり引く。すると先程のベルの音が再び聞こえて、その音に反応したように、店の奥からひょこりと女の子が顔を覗かせた。

 白いリボンで清楚なハーフアップに纏めた、腰まで届くくらいの長くて綺麗な髪。黒いパンプスに白ソックス、クラシカルロリータ系統のネイビーの服がよく似合う、ぱっちりとした瞳が煌めく可愛らしい女の子。
 そんな彼女はわたしの姿を見て、にっこりと微笑む。

「いらっしゃいませ、『薬屋 夜海月』へようこそ!」
「え……? 薬屋?」
「はい。うちにはとびきりのお薬をたくさん揃えてます、良ければお近くでご覧になってください」

 とびきりのお薬。ちょっと危なそうな単語に、入ったばかりにも関わらず思わず半歩後退りしてしまう。そんなわたしの反応に、女の子は慌てて首を振った。

「はっ、そんな危ないお薬じゃないですよ! うちのマスターのお手製で……」
「お手製の薬……? え、やば……」

 フォローのつもりが怪しさを増してしまった説明に、わたしは更に後退る。半分ほど店から身体を退避させた状態でいると、不意に女の子の後ろから男の人が姿を現した。

「……こよるさん、何かトラブルでも?」
「あ……マスター」
「……あなたがマスター、さん?」
「ええ。僕が店主の『夜永』といいます。……ああ、きみも夜の迷子だね」
「……夜の、迷子?」

 綺麗な夜空色の髪で、スラッとした男の人。色白で、綺麗な顔立ちの彼は、まだ二十代半ば頃に見える。そんな夜永さんは、先程路地で見掛けた闇色のコートを脱いで、代わりに白衣のような上着を羽織っていた。

 なんだ、違う人だ。それはそうだ、リュウセイくんは今頃お店に居て、他の女の子をお姫様扱いしているのだ。

 リュウセイくんではなかったものの、彼の纏う優しげな雰囲気は確かに似ていて、やけに整った容姿をした彼につい目を惹かれる。
 こよるさんと呼ばれた女の子も相当可愛らしいものの、彼もそこらのアイドルやモデルなんか目じゃない。店内の雰囲気と相俟って、作り物のように浮世離れした二人だ。
 それこそ、わたしがかつて憧れた絵本の世界の住人たちのよう。

「……この店はね、くらげのように夜を彷徨う迷子が集うんだよ。この店の薬で心の傷を癒したり、道を見つけたりして、思い思いの夜の先に笑顔で朝を迎えられるようにする場所なんだ」
「……ひめが迷ってるみたいって、わかるの……?」
「もちろん。店に辿り着くのは、そんな迷子ばかりだからね」
「そうです、怪しいお店じゃないんですよっ!」

 迷子ばかりなのは、お店がこんな辺鄙な場所にあるからではないか。そして、お手製の薬だなんて文言では、怪しい認定されるのはしかたないのではないか。

 そう思ったけれど、夜永さんの優しげに細められた瞳には、そんな表面的なものではなく、どこか本質を見抜かれているような気がした。

「……僕たちに、きみの迷いを断ち切るための手伝いをさせてくれないかな」

 リュウセイくんに似た彼からの、リュウセイくんに似た柔らかく耳障りのいい優しい声。
 ひとつ決定的に違うのは、夜に溺れさせるのではなく、朝に向かって送り出そうとするその言葉。

「……ひめの迷いを、断ち切る……うん。よろしく、お願いします」

 これはきっと、何かのきっかけだ。先程まであんなに怪しいと思っていた警戒も全部消え去って、わたしはそっと、店の奥へと足を踏み入れた。


☆。゜。☆゜。゜☆


「ヒメミさん、紅茶はお好きですか? わたし、深夜のティータイムをしようと思ってて……」
「えっと、それじゃあ夜永さんとこよるちゃんに紅茶で……ここ、メニュー表ないけど、紅茶二人に入れたらいくらなの?」
「いくら、とは……?」
「え、だから紅茶一杯いくら? って……あ、でもひめも飲みたいから、三杯分の料金、タックス込みで教えて。飲み放題プランあるならそれでもいいし……」
「えっ? あれ? もしかしてこれ、ヒメミさんがわたしたちの飲み物代も払おうとしてます? わたしたちが飲むのに、お客様から飲み物のお代をいただくんですか? 何故……?」
「え? 何故、って……」

 ホストクラブやキャバクラ、コンカフェ辺りのお店なら、キャストにドリンクを入れて、それを飲みながら会話を楽しむのが基本。注文したドリンク代は、キャスト分もお客が払うのが普通だ。
 人気のホストなんかは、より高いボトルを入れた客の卓に行ってしまうから、お財布と相談しながら競うように次々高いお酒を頼むのだ。

 たった数分彼の隣を独占するためだけに、彼が毎晩いろんな卓で浴びるように飲んでいるはずの、もう飲みたくもないであろうお酒を入れる。
 何とも無駄なシステムだ。それならその額そのまま彼に渡せたらいいのにと、何度も思った。

 けれどわたしにとってそのシステムが普通だったから、こよるちゃんが驚いたことに驚く。

「……なるほど。そういうシステムがあるんですかぁ……不思議なお店なんですねぇ」
「不思議、なのかな……? というか、この『星見町』に居てそういうお店知らないの珍しいね? 向こうのネオン街なら、むしろそんな店ばっかりだよ?」
「うーん……だって、好きな人に奢りたいって気持ちならまだわかるんですけど……お金を飲み物にして、お金を積んで時間を買ってるんですよね? 飲み物がおまけになっちゃうのは悲しいです!」
「え、そこ……? 時間を買うとかじゃなくて、そっちが悲しいの?」
「わたし、深夜のティータイムが好きなので……あ、紅茶に限らずハーブティーでもホットミルクでもココアでもいいんですけど! 飲み物はしっかり味わって、誰かとのんびりお話ししながら楽しみたいですもん……」

 通された店の片隅の、ふかふかの綿菓子みたいな白いソファーに腰掛けながら、わたしは自分の中の常識がやはりすでに一般からはずれて来ていることを実感する。
 夜永さんがお店の奥で紅茶の用意をしていてくれる間、わたしはリュウセイくんのことやホストクラブについて説明していた。
 隣に腰かけたこよるちゃんは、わたしの話を聞きながら膝に黒い猫を乗せて撫でている。薬屋と聞いたけれど店の内装は雑貨屋のようで、その上猫カフェでも兼ねているのかもしれない。

「ふふ、僕たちの飲み物をヒメミさんが払う必要はないし、そもそも紅茶代は要らないよ。こよるさんのティータイムに付き合って貰うんだからね」

 不意に目の前のテーブルに夜永さんが用意してくれたのは、専門店で出されるような洒落なティーセットだった。
 繊細なデザインのカップとソーサーには星空が描かれていて可愛らしく、ティーポットもお揃いのものだ。
 まだ茶葉を蒸らしているようで、隣に砂時計を添えられる。それもアンティークな装飾が美しい。

「えー、もうすごい。イケメンが用意してくれる本格紅茶……これが無料? 良心的……毎晩通いたい」
「おや、喜んで貰えたところ恐縮だけど、紅茶を淹れるのはこよるさんの方が上手いんだよ」
「そうなの? じゃあなんで今夜は……?」
「……シャハルさんがこよるさんの膝で寝ているから、今夜は僕が用意したんだ。特別にね」
「特別……えーん、ひめそういうの弱い……ずるい……」
「おや、ふふ」

 シャハルさん、というのはこの黒猫の名前だろうか。猫にまでさん付けをする上、猫を起こさないために店主自らお茶を用意してくれるなんて。
 その優しく丁寧な人柄に、やはりリュウセイくんの細やかで誠実な性格が重なってしまう。

「……僕はそんなに、きみの好きなホストに似ているのかな」
「え……ひめ、夜永さんがリュウセイくんに似てるって、言ったっけ?」
「ふふ、きみの目を見ていたらわかるよ」
「わたしの目……?」

 自分ではわからない。わたしはリュウセイくんに似た彼に、どんな目を向けているのだろう。わたしはリュウセイくんに、あの頃と今、変わらない顔をしているのだろうか。

「わたし、そういうお店は行ったことないんですけど……ヒメミさんは、毎晩そのホストクラブに通われてるんですか?」
「あはは、毎晩はさすがに通えないよ~。お金がないとリュウセイくんには会えないもん。……けどね、ひめ、このネオン街にしか居場所がないの。だから毎晩この街には来てるよ」
「さっきのシステムを聞いている分に、ずいぶんお金がかかりそうですもんねぇ……。そんなにお金をかけてまで、そのお店に通いたいものなんですか?」

 こよるちゃんの問いかけに、わたしは思わず目を伏せる。かつては舞踏会に行くお姫様のようにわくわくとした、彼との会瀬。
 いつからだろう。スケジュール帳の会える日にピンクのハートシールを貼るんじゃなく、彼に使える金額を書くようになったのは。
 いつからだろう。とびきりのお洒落をして何を話そうかとうきうきしていたのに、彼の言葉がわたしではなく、グラス越しのお金に向けて紡がれている事実に打ちのめされて、魔法のフィルターをも壊してしまったのは。

「……お金を払えば、その時だけはリュウセイくんに愛して貰える。本物になれないってわかってても、お姫様になれる夢を見させてくれる……それに溺れるのは、いけないこと?」

 自分自身に問いかけるような、そんな響き。俯くわたしに対して、二人は忌憚のない意見をくれる。

「べつにいけないとは思わないけれど……ヒメミさんは、苦しんでいるように見えるかな」
「そうですねぇ。わたしにはそのお店のことも、そのリュウセイさんという方のこともわからないんですけど……その夢を見るためにヒメミさんが支払っている対価は、それに見合うものなんですか?」
「え……?」
「本物にならないその夢は本当に、ヒメミさんの望むものなんですか?」
「え、えっと……」
「どこか間違っている気がしているのに、やめられない。その迷いがきみの本当の望みを、覆い隠している気がするな」
「本当の望み? でも……ひめ、は……」

 二人の言葉に、一瞬ぐらりと視界が揺らぐ。わたしの中の常識が、覆されそうになる。

 ふと砂時計の砂がぴたりと止まって、それを合図に夜永さんはティーポットから三つのカップへとそれぞれ紅茶を注いだ。

「あ……」

 揺らめく湯気が仄かな甘い香りを漂わせて、アルコールとは違う心休まるそれに思わず顔を寄せる。
 紅茶なんていつぶりだろう。差し出されたカップの中を覗き込むと、映ったわたしの顔は確かに迷子の子供のようだった。
 それを見たくなくて、添えられたミルクで紅茶を白く濁らせる。わたしはいつも、こうして見たくないものを覆い隠してきたのかもしれない。

「……そうだな、たとえばゲームへの課金や、ギャンブルもそうか……『コンコルド効果』と言ってね、コストをかけた分リターンを求める……後に何も残らないと知りながらも、お金を掛ければ掛けるだけ、離れがたくなるものなんだよ」

 給仕を終えた夜永さんが正面のアンティーク調のお洒落な椅子に腰掛けて足を組み、ティーカップを片手に言葉を紡ぐ。その内容に、わたしのカップを持つ指先が震えた。
 誤魔化すようにミルクで温くなった紅茶を一口飲むと、その仄かな甘味とまろやかな味わいに少しだけ落ち着く。

「べつにひめは……そんなんじゃ……」
「本当に? 辛そうに彼のことを語るきみの気持ちは、意地や執着ではなく、今も本当に純粋な恋心なのかな?」
「……それ、は」

 重ねられた問い掛けに、何度も見ないふりをしてきた感情が、一気にわき上がる。おかしい、以前なら、間違いなく本気の恋だと断言できたはずなのに。

「……っ」

 いつからだろう。叶わない恋ですら愛しいと健気に思っていた頃から、諦めと共に「どうして愛してくれないのか」と理不尽な怒りを秘めるようになったのは。
 いつからだろう。彼の名前を口にするだけで口許が綻ぶような幸せな気持ちだったのが、彼の名前を呼びたくなるのは苦しくて耐えられない時になったのは。
 いつからだろう。優しい夢を見させてくれる彼を好きだったのに、まやかしばかり与えてくる彼に虚しさを覚えるようになったのは。

「ひめは……」
「きみが執着しているのは、こんなにも尽くしたのだから愛されたいって欲求? 彼にお金を積むことで得られる承認欲求? それとも……」
「……ちがう、ひめは……、わたし、は……」

 認めたくなかった。認めたら最後、わたしは心の拠り所にしていた『あの頃の純粋な恋心』を、本当に失くしてしまう気がした。
 とっくに、偽物の苦しいだけの感情だとわかっていたのに。確かに一番大きかったはずの大切な記憶を、自ら手離すのが怖かった。

「……シンデレラの魔法が解けてしまうのが、怖かったの……」

 思わず溢れた本音に、わたしは動揺する。ずっと辿り着かないように迷い続けていた答えを、こんなにもあっさりと出せたことに、困惑した。
 それでも、まるで決壊したかのように、次々と心の奥底に閉じ込めた本音が溢れてきた。

「会いに行けば、また魔法をかけて貰える。彼の側なら、居場所のない惨めなわたしも、愛されるお姫様になれる。……そう信じて頑張って来たのに、それが無駄だったなんて思いたくなかった……」
「無駄……ですか?」

 吐き出すように告げると、こよるちゃんは心配そうにわたしに視線を向けてくる。けれど、やっぱりもう止まらなかった。

「とっくに、魔法なんて解けてたの。与えられる愛が全部嘘だって、とっくにわかってたよ。リュウセイくんはホストだもん……どうしたって『ひめ』はお客の一人のまま。頑張って彼のエースになっても、特別なお姫様にはなれなかった……愛されたかった『わたし』は、いつまでも惨めなままだった……!」
「ヒメミさん……」
「だけど……それは、最初からわかっていたんだろう?」
「わかってた……それでも、わたしはリュウセイくんを好きになったの……幻だったとしてもその恋は確かに幸せで、わたしにとってのたった一つの宝物だったから……壊れてしまっても、あの頃の恋を嘘にしたくなかった……あの頃の幸せな気持ちまで嘘にしたくなくて、縋り続けるしかなかった……魔法の先の奇跡を、信じたかったの……」

 心の中の不安や恐怖全てを次々吐き出す口は、自分の物じゃないみたい。どんなにお酒に酔っていたって、ここまで話すこともなかった。
 自分の本当の気持ちをようやく理解して、思わず涙が溢れる。

「あの頃の恋、ということは……今は、違うんですね?」
「苦しくても、縋りたかった……嘘でも愛をくれたから、それを返したかった……だけど、そっか、わたし……もうとっくに偽物の気持ちって気付いて、失恋して、幸せじゃないことに気付いてた……それを、認めたくなかったんだ」

 心の安寧としていたものが心を蝕んで、縋っていたものがもうとっくに失われていることを、ずっと見ないふりしてきた。だけどもう、とっくに限界だったのだ。
 ぼろぼろと涙が溢れると、こよるちゃんが優しく刺繍のハンカチで拭ってくれる。
 口の中に広がっていた甘いミルクティーの風味は、すっかり涙の味になってしまった。
 わたしはただ、叶わなかったとしても健気に恋する女の子で居たかった。確かに本物だった恋心を誇っていたかった。
 最初から偽りだとわかっていたはずなのに、傷ついて悲劇のヒロインぶるつもりもなかったのに。今さら認めたところで、自業自得なのに。

「うう……ごめ、……ひめ……こんな、可愛くない……」
「気にせずたくさん泣くといいよ。……紅茶には『深淵の北斗七星』が入っていたから、その涙は紛れもない、本物のきみの心の痛みだ。向き合ってたくさん流してあげるといい」
「……? しんえん? の北斗七星、って……なに?」

 聞き慣れない単語に思わず聞き返すと、夜永さんは白い上着のポケットから、手のひらより小さめのガラスの小瓶を取り出す。
 瓶の中には、スプーンよりも少し歪な、北斗七星に似た形のピンクの塊が入っていた。可愛らしい形状に、琥珀糖のような半透明の色合い。
 ぐすぐすと泣きながらも、その美しさに思わず視線を向ける。

「綺麗……これなに? 砂糖菓子?」
「これはね、自分の心と向き合う薬だよ」
「……、……は?」
「ああ、味は甘いから、紅茶に溶かしても問題ないはずだよ」
「あ、うん。味はおいしかったけど……」
「それはよかった。『深淵の北斗七星』はね、心の奥底に閉じ込めた本当の気持ちを、ひしゃくが掬い上げるようにして表に浮上させてくれるんだ。本来向き合うことが怖い本音を優しく掬って……」
「ちょ、ちょっとまって……えっ、これ入ってたの? 飲み物に知らぬ間に薬盛られてるとかドン引きなんですけど!?」
「おや、心外だな。薬屋である僕たちに、迷いを断ち切るための手伝いを頼んだのはきみだろうに」
「それはそうだけど~……せめてそれ飲む前に教えて欲しい……!」

 驚きのあまり、ついぼろぼろと止まらなかった涙が引っ込んだ。思わず夜永さんの顔と手元の小瓶、そしてわたしの前のティーカップを交互に見る。
 こよるちゃんは薬を盛られることを知っていたのか、困ったように笑っていた。

「すみません、ヒメミさん。マスターがお薬を配合するから、紅茶の準備もお任せしたんです……」
「特別ってそういうこと!? ひめのときめき返して!?」
「ふふ、うちの薬を怪しんでいたけれど、プラシーボ効果なんかなくとも効くってわかったろう?」
「あ……案外根に持ってたんだ? 怪しんでたのは効果じゃなくて……いや、もう、なんでもいいや……」

 確かに、ぐるぐるとしていた気持ちに答えは出た。わたしもそれを望んでいた。背中を押してくれたことには感謝したい。それでも、これでは自白剤で無理矢理引きずり出されたようなものだ。
 予想外のことに思わず頭を抱えていると、隣のこよるちゃんは自分の手元のカップの中身を一気に煽る。

「えっ、こよるちゃん!?」
「ふう……ヒメミさん、大丈夫ですよ。わたしも同じものを飲みましたから……お互い本音で語り合いましょう!」
「へ……?」

 こよるちゃんの予想外の行動に呆けていると、夜永さんは楽しそうに微笑みながら頷く。

「ふふ、そうだね。この薬は本来、喧嘩や誤解で拗れた二人に振る舞うことが多いけれど……そうやって、誰かに本心から寄り添って貰うのも悪くないだろう。……嘘ばかりじゃない、本当の心でさ」
「本当の、心で……?」
「……まあ、僕はあんまり薬は効かないから、そこはこよるさんと女子会してて貰うかたちになるんだけど」
「……もう、台無しなんだけど!?」
「おや、効いたふりをして同席する方が不誠実じゃないかい?」
「それはそうだけど~……!」

 そう言って自らも薬入り紅茶を飲み干すどこまでも自由な夜永さんは、リュウセイくんとは全然違っていて、思わず肩の力が抜ける。
 わたしは時々笑って、やっぱり溢れる涙は無理に止めず、素直に気持ちの整理をする。

 偽りばかりの夜の片隅、塗り固められた嘘と建前に疲れきっていたわたしは、型破りで自由でまっすぐな薬屋で、久しぶりに本当の心と向き合った。


☆。゜。☆゜。゜☆


「はー、一生分泣いた……デトックスって感じ……」
「すっきりされたみたいで何よりです。最後はわたしたち、ずっと泣いてましたもんねぇ」
「薬盛った元凶のくせして、夜永さんちょっと困り顔してたもんね……」
「ふふっ」

 一晩中泣き明かしたあと、ようやく落ち着いたわたしは店の出口へと向かう。
 夜永さんと黒猫は短い針がてっぺん過ぎる頃には店の奥へと引っ込んでしまい、後半は本当にこよるちゃんとの女子会だった。
 お酒がなくてもこんなにもたくさん誰かと話せるなんて、そんな当たり前のことさえ久しく忘れていた。

「……というか、こよるちゃん、あんなに泣いてそんな顔面保てるの凄すぎない?」
「……?」
「この世は不平等……ひめ軽率に病む……」
「えっ!?」

 こよるちゃんは目が赤くなっているくらいで、可愛らしいまま。わたしの泣き腫らした顔は、メイクを直したものの誤魔化せない。可愛く見られたい人も居ないし、もう帰るだけだからいいけれど。
 時間を確認しようとスマホを見ると、一件のメッセージが届いていた。

「あ、ネオンちゃんからメッセージ来てる……次のアイバンの予定、断らないとなぁ……」
「お友達さんですか?」
「……うん、そう思ってたけど……どうなんだろう。こんなひめにも優しくしてくれる、いい子なんだけど……」

 思えばネオンちゃんとは、こんな風に腹を割って話したことはなかった気がする。それどころか、お互い本名も年齢も何もかも知らない。聞いたとして、それが本当かもわからないのだ。

 お互いホストを通じての縁だったから、きっと、ホスト通いを辞めてしまえばもう縁も切れてしまうのだろう。寂しいけれど、そういう世界なのだから、仕方ないと割り切るしかなかった。リュウセイくんにだって、わたしがお金を積まなくなれば会えなくなる。

 はじめからの見え透いた嘘に傷付くのも当然だ、わたしの世界には嘘で固められたものしかなかったのだから。それがわたしの世界のすべてだったのだから。

 そこにしか居場所がないと必死にしがみついていたけれど、散々自分の本心と向き合って弱音を吐き散らかすと、そんな稀薄な縁に死ぬ気で縋る自分がいっそ馬鹿らしく思えた。

「……ネオンさん、でしたっけ。わたしとお話しできたように、その方とも一度、ちゃんと向き合ってみるといいかもですね」
「うん……ありがとう、こよるちゃん。あのね……こんなに誰かと繋がれた気がするの、わたし、初めて」
「それはよかったです。ヒメミさんは素敵な方ですから、これからたくさん、本物の素敵なご縁に恵まれますよ」
「えへへ、そうかなぁ……?」
「ええ! あ、もし心配でしたら『シンデレラドロップ』を処方しますか?」
「……シンデレラ、ドロップ?」

 突然飛び出してきたわたしが自分を重ねていたお姫様の名前に、思わず反応してしまう。
 出口まで見送りに来ていたこよるちゃんは、すぐに店の中に戻り壁沿いの商品棚に手を伸ばす。そして、手のひらサイズのひとつの小さな瓶を持ってきた。

「こちらです!」
「わあ、可愛い……これも薬なの?」
「はい。こちらはなんと、零時ぴったりに口に入れると新しい恋を引き寄せるお薬なんですよ!」

 ガラスの靴の形が表面に彫られた、色とりどりの小さなまぁるいドロップキャンディ。おまじないのような魔法の予感に、新しい恋をするのも悪くないかもしれないと思った。
 けれどもう、わたしが欲しいのは、魔法の恋ではないのだ。

「……とっても魅力的だけど、やめておく。わたし……いつかまたする恋は、今度こそ本物がいいから」
「そうですか……ふふ、かしこまりました。ヒメミさんなら、きっと素敵な恋が出来ます」
「ありがとう! ……それじゃ、そろそろ行くね」
「はい。ご来店ありがとうございました。あなたがもう、孤独な夜に迷われませんように……」

 カランと響くベルの音、外に一歩踏み出せば、朝を迎えた街並みはいつもより明るく見える。
 あんなにも終わりを迎えるのが怖かった夜の魔法は解けて、思いの外身軽になった心に気付く。

 わたしの一世一代の恋だと思っていたそれは、痛みと共に終わってしまったけれど。それも認めてしまっても、幸せだったあの時間は確かに存在していて、消えることはなかった。

「……さよなら、ピンクのシンデレラ」

 彼が褒めてくれたピンクのリボンも、ピンクのネイルも、ピンクのインナーカラーも、もうおしまい。飾り立てた偽物の世界から脱け出して、これからは、わたしだけの色を見つけていく。
 誰かに縋るんじゃない。誰かに自分の存在価値を委ねるんじゃない。まずは、自分で自分を愛してみよう。
 そして自分の居場所は、くらげのように流されるのではなく、そこにしかないと盲目にならず、きちんと自分で決めるのだ。

「……よしっ!」

 心の奥にぽっかりと空いた穴は、しばらく塞がることはないだろう。
 それでもわたしは、新しい自分の始まりに、少しだけわくわくした。