起きたら昼を過ぎていた。目覚めた瞬間に遅刻だと焦って跳ね起きたものの、すぐに土曜日であることを思い出し、枕に頭を戻した。
しかし、もう一度夢の中へ入ろうとした響の頭に、突如として昨夜のことが展開された。
歌録した『ディスコミュニケーション』をニコ動にアップロードしたような気がする。あれは夢の中のことなのか、現実だったのか──
確認しようとベッドから飛び起きて、慌ててスマホを見るが、大量の通知が目に飛び込び、ニコ動のアプリを開くどころではなくなった。
「フォローされました」「リストに追加されました」「いいねされました」「コメントがあります」
これまで見たことのない通知内容と量だった。
頭がフリーズし、理解が追いつかない状態で、LINEの通知もスクロールが必要なほど来ていることに気づき、その中で恭平からのLINEが目に留まった。
[俺を殺す気か]というのの後に[電話にでろ]というのが20通ほど。[本名だって気づいてるのか?]というのと[まさか寝てるんじゃねーよな?]というのが1分前。
北田と弓野はもちろん、ろくに教えていないクラスメイトからもLINEがあり、小中の同級生からのもある。
湊からも[いいじゃん]と一言。
混乱していると、恭平から追いLINEが届いた。
[起きたんなら電話しろ]
既読マークに気がついたようだ。
数十件の着信履歴をスクロールして、恭平に電話をかけた。
『お前、勝手になにやってんだ!』
ワンコールで出たと同時に怒鳴り声が耳をつんざく。
「なにが?」
『バッ! ……家に行ってぶん殴るぞ?』
「いいよ。来なよ」
感想も何もなくいきなり『ぶん殴る』とは面食らい、響はカッとして、恭平の返事を聞かずに通話を切った。
母の呼ぶ声がしたため、ドアを出て階下に声をかける。
「呼んだ?」
「湊から電話が来てるんだけど、響がいるなら代わって欲しいって」
「わかった」
階下へ下りて母と顔を合わせる。
「ご飯食べる?」
受話器を受け取りながら頷いた。
「兄貴?」
『起きたか』
「うん。どうしたの?」
『お前の歌、めちゃくちゃ良かった』
「なんのこと?」
『ニコ動にアップしただろ?』
「なんで知ってんの?」
『Kyoってお前の友達の曲。ボカロでもかっこよかったけど、お前が歌うとレベチだな』
「まじ?」
『ああ。お前は歌が上手いから、ボーカルもやればいいのにってずっと思ってた』
「それは兄貴が……」言おうとして途中でやめた。
今更抗議しても湊は忘れているだろうし、既に歌えるようになったのだから、責める話ではないと判断した。
「でも昨夜アップしたばっかだよ? なんでもう知ってんの?」
『こういう日が来ると思って、ニコ動のお前のアカウントをフォローしてたわけ』
「まじ?」
『ネットに疎いってのも大概だぞ。まぁ、捨て垢だったけど』
「見る専だからいちいち気にしてなかった」
『ありがちだな。てか本名になってたけどいいのか?』
「え?」
スマホを見ようとしたが、手にもポケットにもない。部屋に置いてきてしまったようだ。
『もう手遅れだけど。深夜のテンションで、思わず宣伝しちまったから』
「宣伝?」
『ポストしちまった。俺の弟だって』
その言葉で頭が真っ白になった。
一般人だとしても、兄が弟のことをポストしたら個人情報漏洩だというのに、湊の場合はプロのミュージシャンだ。弟がどんな目に遭うのか、想像できないのだろうかと唖然とした。
「Kawaseの弟だって、これまで散々言われて迷惑してたのに、ネットでも広まるなんて……」
『……わるい。そんなに迷惑してたのか?』
「別に……」
腹の中は文句と罵倒でいっぱいだったが、口にできるはずはなく、素っ気なく答えるのが精一杯だった。
『お前は自慢の弟だし、むしろ俺を超えていくと思ってたから』
唖然を通り越して愕然とした。純真な弟の気持ちをバキバキに折っておきながら、なにを言っているのだろう。
『まあ、俺を利用するくらいの気持ちで頑張れ』
「なに?」
『一緒に音楽界を盛り上げようぜ。兄弟でなんて最高じゃん。……あ、ちょっとごめん。今レコーディング中で。じゃあまたな』
「そうなんだ。がんばって」
『ん。また連絡する』
「うん」
『新曲楽しみにしてっから』
通話が切れた。
湊は自尊心が強いタイプなので、兄弟だからと贔屓をすることは決してない。本心から認めたものでなければ、自身の名前で宣伝など絶対にしない。その湊が、アルグレのKawaseとしてわざわざポストしたのだから、本気で良いものだと判断したのだ。
最初は唖然とし、今更何を言うのだと怒りすら湧いたが、電話を終えたあとにそのことに考え至って、口で褒められたこと以上に胸を打たれた。
じわじわと喜びが湧き上がり、歌を認めてもらいたいと願っていた、小学生の頃の自分が救われたような気分になった。
「響、大丈夫?」
母に声をかけられて、電話機を持ったまま立ちつくしていたことに気づく。
「うん。顔洗ってくる」
「ご飯、用意してあるから」
「ありがと」
洗面所で顔を洗い、トイレを済ませる。
寝起きにいきなり衝撃的なことが起きて整理ができない。
ボーッとしたままダイニングへ戻り、母の用意してくれた食事の前に腰を下ろした。
昨夜の夕食以来何も食べていなかったため、見た瞬間に空腹を自覚した。
スマホがないことに気がついて、取りに行こうかと頭をよぎったものの、あつあつの白ご飯に湯気のたった味噌汁、鼻腔を刺激する焼き鮭と、響好みに焼かれた目玉焼きを前にしたら、先に食欲を満たそうと考え直し、そのまま食事を始めた。
食べ始めたら頭の中がクリアになり、するとみるみる不安に駆られてきた。
湊と恭平に、本名だと指摘されたことが頭をよぎる。ニコ動のアカウント名を思い浮かべようとするが、最初に登録したのは小学生のときで、普段から気にも留めていないため思い出せない。
Youtubeはアップロードしてないはずだと、そこは安堵しつつも落ち着かなくなってきた。
あの怒涛の通知も湊のせいだったと得心がいき、同時に気が重くなる。返信するのも面倒だと思い、学校へ行ったらまた声をかけられるかと考えて、火曜日を迎えるのが怖くなった。
食事を済ませて自室へ戻り、スマホを開いてまずはニコ動を確認した。
確かに本名の『Kawase Hibiki』になっている。改めて深夜のテンションを呪い、頭を抱えた。
続いて湊のポストを探す。
「おすすめ曲『ディスコミュニケーション』/Kyo。歌ってるのはなんと俺の弟。それを度外視してもめちゃくちゃいいから是非」
シンプルな文面だが、ポストを見て改めて喜びが込み上げた。コメントを見ても、好意的なものばかりだった。Kawaseのファンがほとんどのようだが、それでもホッとした。
LINEのほうを開くと通知が爆増していた。
小中の同級生も、高校のクラスメイトも、普段LINEなんて全くしたことがないのに、ここぞとばかりに連絡がきている。ここでもやはり「Kawaseの弟」効果か、と苦笑する。
北田からは[どういうことだよ! お前が歌うのか?]ときていて、弓野から[いっそ学祭は響がボーカルやれば?]と続いている。恭平は──
そこで、電話で会話をしたことをようやく思い出す。
恭平の家は学校の近くだから、そこから電車で三駅とバスで40分。乗り継ぎが上手く行けば、今ごろ到着してもおかしくない。
来るかもしれないと考えたら、途端に汗が吹き出てきた。
目の前で歌って聞かせるどころではない。
黙って録音して、勝手に投稿までしたのだ。しかも本名で、湊がポストで宣伝までしてしまった。
恭平の反応が読めず不安に駆られ、今更ながらパニックになってきた。
「響ー? お友達! 南波くんよ」
母の声が聞こえた。本当に来たのだと身体を震わせ、逃げ出さなかったことを後悔しつつも、平静を装って、階下に声をかける。
「上がってもらって」
「自分で迎えなさいよ」
それは無理な注文だと心の中で抗議した。電話での会話を思い出してから五分と経たずに到着したので、未だパニック状態なのだ。
デスクチェアに座って、スマホを見ている振りを決め込むことにした。
開いているドアが小さくノックされる。
「開いてるよ」
振り向かずに言うと、いつもと同じトーンの声が返ってきた。
「見りゃわかる。入るぞ」
「まじで殴りに来たわけ?」
そんなわけはないと思いつつも、緊張から声が震えてしまう。
「なんであんなことをした?」
「なにが?」
「黙秘すんな!」
肩に手をかけて椅子の向きをクルリと変えられたため、恭平の顔が視界に飛び込んだ。青ざめてかすかに震えている。
そんなに怒っているのかと、ますます怯む。
「……恭平が聞いてくれないから」
「だからってニコ動に投稿するか?」
「それは……」
「断りもなく……いや、断る必要はないが、でも……」
「そんなに怒ること? だって、使ってもいいオケだろ?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、気に入らなかった?」
「気に入るわけないだろ!」
感電したようにショックを受けた。
自分でも満足のいく完成度だったし、湊もコメントも、みな好意的に受け止めてくれた。
勝手にしたことは怒られても仕方がないと覚悟をしていたものの、歌そのものは恭平も評価してくれるだろうと思っていた。声が好きだと言ってくれて、歌って欲しいとまで言った張本人なのだから。
しかし実際に歌を聞いてみたら気に入らなかったのだ。恭平に聞かせるために歌唱法を試行錯誤して、レコーディングまでして、喜んでくれると期待して──バカだった。恥ずかしいことをした。
まるであのときと同じだと、小学生の頃のことを繋げて思い出した。湊に続いて恭平からも拒否されるとは。それも、湊以上に惚れ込んだ相手からだ。もう立ち直れないと思って絶望した。
「それは悪かったな!」
椅子を机の方へ向け直した。今にも泣きそうな顔を見られたくなかったからだ。
「削除するよ。悪かったよ。もう二度とあんなことしない。二度と歌わない!」
スマホを手に取り、ニコ動のアプリを開く。削除メニューを探していたとき、恭平にその手を押さえられた。
「消すな」
「だって気に入らないんだろ?」
上ずった声になってしまう。
「投稿して欲しくなかった」
「だから削除するって」
スマホを取られまいとして力をかけたら、逆に奪われた。
「そういうことじゃなくて、俺以外に聞いて欲しくなかった。響が初めて俺の曲を歌ってくれたオケ……誰にも聞いて欲しくなかった」
恭平の表情を伺おうとするが、ぐにゃぐにゃしてよくわからない。
「自分でも勝手だってわかってるけど……泣くなよ」
泣いているつもりはなかった。堪えているつもりだった。言われて頬をつたう液体の感触を自覚した。
「どういう意味だよ」
声も涙声になってしまっている。
「泣くなって」
「泣いてな──」
拭おうとしたら、恭平にいきなり抱きしめられた。
「天性の声持っていて、歌の才能もあって努力家で、ギターも上手い。それに優しくて、思いやりもあって、熱心で情熱的で──そんな響の最初のオケを、自分だけのものにしたかった。誰にも聞かせたくなかった。それが理由なだけで、お前の歌は最高だった」
気に入らないと言われたショックから、180度真逆のことを言われて驚いて、違う意味でも涙が出てきた。
大好きなアーティストから認められ、褒めちぎられて泣くなというほうが無理だ。
響はホッとして、認められた喜びを噛み締めた。
恭平に抱きしめられていることも、Kyoに触れたいと求めていた願いが同時に叶ったのだと考えて、感極まり、応えるために背中に手を回した。
そのとき、耳元が熱くなり、息がかかったのかと思った。耳から首へついばむような感触が這い、全身がゾクゾクとする。息ではない。
──なぜ?
浮かんだ疑問は、その感触でかき消される。頭が熱くなり、何も考えられなくなる。
腕にさらに力がかかり、抱きしめている今のこの現実を確かめているかのように、さらに深く抱き寄せられる。
恭平の鼓動がドクドクと聞こえて、響も全身が心臓になったかのように早鐘を打った。
顔を上げると恭平の首元が見えた。
白くほっそりとして、スベスベとした肌が目の前に見える。
──もっと近づきたい。
背中に回していた手を離し、恭平の首元に滑らせる。強烈に触れたい欲望が高ぶり、耳元から頭を抱えるようにして、こちらに引き寄せようとした。
その瞬間、恭平はハッと身体を強張らせ、いきなり離れて後ずさった。
「帰る」
俯いたままそう言って、目も合わせずに駆け出ていった。
呆然と見送っていた響は、「お邪魔しました」と階下から聞こえた直後にその場に座り込んだ。開いたままのドアを見つめることしかできなかった。
心臓はバクバクと身体中に鳴り響き、驚くほど大きな音で鼓動していた。
週が明けて登校すると、恭平は何事もなかったかのように接してきた。だから響も同じようにして、恭平の前では平静を装った。
目の前で泣いてしまったから、恭平はそれを慰めようとしただけだ。それが少しばかり行き過ぎてしまったのだろう。恭平も自分と同様に、人を避けているところがあるから、他人との距離感がうまく掴めなかったのだと考えて、自分を納得させた。
しかし、自分の中で湧き上がった感情のほうは、そのようにして静めることはできなかった。
絶望から一転、最推しのアーティストに歌を認めてもらえて、これまで聞いたことのないほどの言葉で褒めちぎられて、もう死んでもいいというくらいに嬉しかった。
それなのに、恭平に抱きしめられ触れられたとき、今まで感じたことのない感情が襲った。触れたいという欲求が、これまでとは比較できないほど強くなった。惚れ込んだアーティストに対して抱く執着が、到達したことのないレベルにまで高まった。
ただ演奏できるようになるだけでは足りない。声が好きだと言われても、共にバンドを組むことになってもまだ足りない。もっと欲しい。自分だけを見て欲しい。自分だけを必要として欲しい。Kyoを──恭平を自分のものにしたい。そう考え始めるようになってしまった。
一人でいるときはKyoの曲ばかりを聞いて、楽器を手にすればそればかり。少し前の日常と変わらないようでいて、大きく変化したことは、曲ではなく恭平のことばかりを考えていることだった。
土日なんて来なければいいと思い、毎日顔を見たい、席が離れているため席替えをして欲しい、一日中部活だったらいいのにと願う。
ファンの抱く感情としては、行き過ぎていることは自覚していた。それでも、驚くほど熱中しているせいだと結論づけることしかできなかった。
おかしいとは思いながらも、行動に出さないように耐えることしかできない。あとはどうしようもないのだと割り切るしかなかった。
ニコ動騒動が起きてからというもの、恭平とは相も変わらずすれ違いの日々だった。
歌を投稿したせいで、Kawaseの弟だとバレたときと同じくらい、ひっきりなしに声をかけられるようになり、恭平に話しかける隙がない。
恭平のほうも、香里奈の曲制作があるため毎日忙しそうで、そればかりか部活にもほとんど顔を出さない。
バンドを組むはずなのに、レコーディングはどうなるのかと不満を覚えた。
しかし、むしろこれは絶好の機会なのかもしれないとも思いつく。
クラスでも部活でも一緒だから常に考えてしまうだけで、少し離れていれば以前通りに戻るはずだ。
そう考えて、本格的に活動を始める前に、この気持ちを落ち着かせることにしようと心に決めた。
それに、もう一つ気にかかることがある。
学祭にバンドで出演する予定なのに、夏休みが終わっても一度もまともに合わせていない。北田と弓野はダンスの練習にかかりきりで、まったくと言っていいほど部室に現れないのだ。プログラムを制作するために、バンド出演の旨は既に実行委員会に届け出ているため、今さらキャンセルすることもできないし、ビビリな響でも、そのことに関しては叱咤しなければならないと感じていた。
その日響は意を決して、昼休みに北田たちのクラスへ向かった。しかしタッチの差で教室を後にしたようだった。行き先はわかっている。第二体育館だ。
バンド練習よりもダンスを優先していること自体が面白くなかったため、なるべくならその現場に行きたくなかった。恭平が香里奈に協力をしているからなおさらだ。
とは言え放課後にずらしたとしても結局は同じだ。そう考えて肩を落としつつも、響は第二体育館へと足を向けた。
着いたとき、もう食事を終えたのか、北田と弓野は体育館の隅で柔軟体操をしていた。
「頑張ってんね」
「響じゃん、珍しい」
「なに? 俺らの勇姿を見に来た?」
「そう。あのさ……」
いざとなると怖気づいてしまって、言葉に詰まる。
「あ、そういや学祭さ、南波と新しいバンド組むんだろ?」
北田が当然のことのように言うと、弓野も同じように続いた。
「まじ楽しみ。だってあのニコ動の曲やるんだろ?」
「なんの話?」
「え? 南波が言ってたけど……」
「集合!」という声が体育館の中央から聞こえた。3組の女子が手を挙げている。
「やべ、行かなきゃ」
「じゃな、響。どっちみち俺らは無理だったから枠を空けることにならなくて助かった」
「そそ。楽しみだし。お互い頑張ろうぜ」
北田と弓野はそう言って片手をあげ、集合しているところへ向かって走っていった。
中央に集まった八人ほどの体操着の男女は、音楽を流してダンスを始めた。曲はMrs.GREEN APPLEの『ダンスホール』だ。
シンプルな振り付けだが、ひとつひとつの動作が全員揃っていて、思っていた以上にかっこいい。
部活でもろくに練習をしない北田と弓野のことだから、ダンスも同じように適当なんだろうと舐めてかかっていたが、間違いだった。熱心さがまるで違う。
終わって二回目が始まっても、響は去りもせずに見続けていた。
「珍しいね」
いつの間に隣に来ていたのか、ダンスを見るのに夢中で気がつかなかった。
「葉山さんはやらないんですか?」
「やるよ。私と勇斗だけパートが違うから。彼らはバックダンサーで、私たちとは振りが違うの」
「なるほど」
「ふふ」
笑い声がしたため隣を向くと、ニヤニヤとした笑みでこちらを見ていたので、眉根をひそめる。
「なに?」
「河瀬くんも恭平と新しいバンドやるんでしょ?」
「え……たぶん」
「なにそれ? あ、もしかして全然会えてない?」
質問の意図が不明確で、返答に詰まった。まるで会えなくて寂しい想いをしているかのような物言いだ。言葉を探していた響を待たずに、香里奈は続けた。
「もう完成したから、今日から一緒にいれるんじゃないかな?」
「完成したんだ」
「そう。昨日完成版をもらったから、今日の放課後から本格的に振りに入るんだ」
「学祭もあるのに大変だね」
「これも踊るから」
「あ、そっか。じゃあますます大変だ」
苦手意識を持っていた香里奈と普通に話せている。一時期は顔も見たくないとまで思っていた相手だったのに。
「もう河瀬くんの独占だよ」
再び返答に詰まって首を傾げる。
「恭平と頑張って。じゃあね」
香里奈がダンスのメンバーたちのところへ向かったので、ふと時計を見ると、昼休みの残り時間が迫っていることに気がついた。まだ弁当を食べていないことを思い出し、教室に戻ることにした。
涼しい気候で天候も良いためか、教室に残っている生徒はわずかだった。
窓際の席で恭平が机に突っ伏している姿を見て、響は弁当を持って恭平の前の席に座った。
椅子の向きとは反対に座り、突っ伏しているすぐ横で弁当を開けて食べ始めた。
恭平は髪の毛の量が多い。くせっ毛で、ところどころくるんと丸まっている。
恭平の方が10センチ以上は背が高いため、つむじを覗く体験は初めてで、注意深く観察してしまう。
眺めていると髪の毛を触りたくなってくる。突っ伏している頭の横に見えている手も。
恭平の手は大きい。響の手がすっぽり隠れるのではないかと思うほどだ。大きいのにすべすべとして見えて、手にも触れたくなる。
「じろじろ見るな」
驚いて、箸を取り落としそうになった。
「起きてたの?」
「人が寝てる横で弁当食うな」
起き上がって伸びをする。同時に大きな口を開けて欠伸をした。眠そうな目に涙が浮かんでいてキラキラと輝いて見える。
「いいじゃん」
「匂いで起こされる身になれよ」
「え! 臭かった?」
「逆だ逆」
「じゃあいいじゃん」
「そういや俺も食ってなかったわ」
恭平はカバンから惣菜パンを二つ取り出した。
「恭平っていつもパンだよな?」
「親父だけだからな」
「料理しないの?」
「休みの日くらい。あとは俺がする」
「え! 恭平って料理できるの?」
「できるっつーか、必要に迫られてやるだけだ。だから弁当なんて勘弁。時間がないってのにそんなことしてらんねー」また大きな欠伸をした。
「食いかけだけど……食う?」
「要らん」
「残すから」
恭平を観察し始めたときから箸が止まっていた。胸が詰まって食事どころじゃなかったからだ。だから食べかけとは言いつつも、ほとんど手を付けていない。
「全然食ってねーじゃん」
「うん。だから食べてよ。母さん悲しむじゃん」
響は立ち上がる。
「どうした?」
聞こえないふりをして、何も言わずにふらふらと席を離れた。
久しぶりに恭平の側に寄って間近で話したからか、動悸が酷いことになっていた。病気かと思うくらいに心臓がバクバクとして、熱でもあるように身体が熱く、涼しい気候なのに全身が汗だくだった。
これ以上側にいたら悪化してしまうと考えて席を立ったのだが、実は今にも触れてしまいそうだった。
あの大きな手に、くせっ毛の髪に、耳にある小さなほくろを撫でて、ほっそりとした顎に指を滑らせて、薄く形のいい唇に触れてしまいそうだった。
恭平の前の席に座ったまではよかった。遠くから眺めている分には、以前通りに戻れていると思えていた。
しかし、だめだった。
側へ近づいた途端に、抑えようと努めていた全てが吹き飛んだ。恭平に対する執着心と独占欲以外、頭になかった。
響はポケットからイヤホンを取り出して耳に入れ、外界を全てシャットアウトした。
午後は保健室に行っていたことにしよう、そう考えてサボることに決めた。
午後の授業の間、響は部室で時間を潰した。音楽を聞くことに集中し、ギターを弾いて気を紛らわせた。
香里奈の話では、今日から恭平は自由だと言う。つまり放課後になれば恭平がやってくるというわけだ。それを意識しないようにしていても、五分と経たないうちに時計をチェックしてしまう。そわそわとして落ち着かず、恭平のことばかりを考えてしまって、ギターを手にしていてもまったく気が紛れない。
ファンなのだから考えてもいい。これまでもそうだったのだから。しかし、行き過ぎた感情は抑えなければならない。
これまで通りに接することはもちろん、バンドを組んでレコーディングを始めることになるのだから、今まで以上に努力する必要がある。ファンだからと怖気づかずに、Kyoと肩を並べるつもりで頑張らなければならない。だから余計な感情に乱されている場合ではない。そんなものは頭から消してしまうべきだ。
そう気持ちを切り替えて、放課後を迎える準備を整えた。
「サボりめ」
いつもと変わらぬ様子で、恭平が部室にやってきた。
「授業なんて聞いてたってどうせ頭に入らないんだから、それだったらレコーディングのために練習しておいたほうがいい」
「熱心だな。それよりこれありがとう。美味かった」
いきなり恭平から弁当箱を手渡され、受け取った状態で二秒ほど考えた。
「ああ! ごめん。また食いかけを……」
「響のお母さんの料理はまじで美味い」
「それ母さんに言ったら喜ぶよ」
「腹減ってないか?」
「うん」
そう言えばほとんど食べずじまいだったことを、指摘されてようやく思い出す。それほど思い悩んでいたのかと気がついて、内心で苦笑した。
「じゃあ、俺ん家に行かないか?」
「へっ?」
変な声が出てしまい、その声のせいか恭平が眉根を寄せた。
「……機材持ってくるのが面倒だから、自宅でやりたいんだが」
「なにを?」
「レコーディング」
「ああ! レコーディングね。早速だな」
「日を改めたほうがいいか?」
「いやいや準備万端。恭平が空くのを待ち遠しく思っていたくらい」
「わるい」
「その分練習できたから」
部室を出て鍵をかけ、恭平の自宅へと向かって並んで歩き出した。
恭平の自宅へ行くと聞いて動揺してしまった。友人なのだから大したことではないと言っても、響にとっては初めてのことで、しかも四六時中考えてしまう相手の部屋に行くのだから、動揺するのも無理はない。
いやいや、と頭を振る。
余計な感情は頭から振り払い、これまで以上に音楽に打ち込もうと心に決めたではないか。
そう何度も胸のうちで叱咤して、気持ちを落ち着かせた。
「ここ」
五階建てのマンションの前で立ち止まり、恭平に合わせて上階を見上げる。
「え、音とかやばくない?」
「一応、窓際で最上階だから隣の家とは離れているし、階下は誰も住んでないから、遅い時間にならなければ大丈夫……だと思う」
マンションの部屋は想像以上に広かった。こざっぱりとしていて、男二人家族とは思えないほど綺麗に整えられている。
招き入れられた恭平の自室も、響の部屋よりも二回りくらいはある大きさで、ギターにベースにキーボード、パソコンは二台あり、ミキサー卓のようなものやアンプに電子ドラムまであるのに、十分にゆとりのある広さだった。
他には雑誌や本、アルミケースなとがずらりと並び、さすがこだわりの強いボカロPといった風体で、整ってはいるものの物が多い印象だった。
「そこ座って」
示されたのは、壁際にデンと置かれた三人掛けのソファだった。腰を下ろすとふかふかで、それでいて土台がしっかりとしている。座り心地がよく、掛けた途端に寝転がりたくなった。
「寝れそう」
「実際寝てる」
「ここで寝てるの?」
思わず立ち上がりそうになる。
見渡しても確かにベッドはない。物が多いうえにフローリングだから、布団を敷くということもなさそうだった。
「ベッドなんて置いたら何も置けなくなる。それより今日は何をやる?」
「えっ?」
「オケはあるし、どれでもすぐに出せる。響のやりたいやつを……『ツキカゲ』にするか?」
「なに? 『ツキカゲ』?」
結局は動揺してしまっている。
恭平の自室で二人きりであること、普段寝ているソファに腰をかけていること、部室や教室にいるときよりも恭平との距離が近いことなどが、どうしようもなく意識されてしまい、冷静になることができない。
恭平が案じた様子で振り返ったため、焦ったように顔を背ける。
「顔が赤いぞ。大丈夫か?」
デスクチェアから立ち上がり、こちらへ近づいてくる。それを押し留めようと、恭平の手前で両手をかざした。
「なんだよ?」
「近い」
「なにが?」
今にも触れたくてうずうずしているのに、それをなんとか耐えているのに、平気な顔で近づかないで欲しい。耐えている身になって欲しいと、心の中で悲鳴をあげた。
──もう無理だ。動揺を静めるためにも、早いところレコーディングを始めて、音楽に集中したほうがいい。
そう意を決して、響は立ち上がる。
「『ツキカゲ』やろう! 『ディスコミュニケーション』ばっか練習してたけど、『ツキカゲ』やってみる」
「ああ」
恭平も続いて立ち上がり、マイクの準備を始めた。
「立った方がいいか? 座るよりも」
「うん。そうだね」
マイクのセッティングをしている恭平を眺めながら、気持ちをレコーディングのほうへ切り替えようと、小さく深呼吸を繰り返す。
「じゃあ、これ」
セッティングを終えて、デスクチェアに座った恭平からヘッドフォンを手渡されたため、意識を歌に集中させる。
「まずはリハーサルだね」
「……いくぞ」
耳元でカウント音が流れたあとに、『ツキカゲ』のオケが流れ始めて、響は歌った。
自分なりの歌い方をある程度は考えてあったし、普通に歌う分にも慣れていたため歌いこなせるはずだった。
そのはずが、結果はボロボロだった。
声も出ず、歌詞を間違ったうえに、入りは遅れて散々だった。
「ごめん」
「まじで具合い悪いんじゃねーか?」
「大丈夫。もう一回頼む」
次はまだマシと言える出来だったが、自分の歌い方はできず、ボカロ通りになぞっただけだった。
「まだ自分なりに歌えるようには考えてないから……」
言い訳などしたくはなかったが、この場を取り繕うにはそれ以外になかった。恭平のことを意識してしまうせいで上手く歌うことができないなんて、そんなことは口が裂けても言えない。
「そうか。でも一応録ってもいいか?」
「……こんなのを?」
「ああ」
そこで初めて恭平を見た。
それまでは、見ると動揺してしまうためできる限り避けていた。しかし、こんなレベルの歌を録る必要があるのかと疑問に思って顔を上げた。
恭平は耳まで真っ赤だった。そのうえ手元がかすかに震えている。
──俺が恭平の曲を歌っているから?
違うかもしれないけど、そうかもしれないと考え至って身体が熱くなり、さらに動揺してしまった。
もう泣く泣くだ。動揺は静まるどころか高まる一方で、冷静になろうと努めてもまるで上手くいかない。まともに歌える精神状態ではなかった。
「流すぞ」
心の準備もできないまま始まった三回目は、予期するまでもなく一番酷かった。
「……録った?」
「録った」
「うわ! 消してくれ!」
「消すかよ」
「じゃあもう一回」
そのようにして三回ほどレコーディングした。計五回のうち二回目が一番マシだったと言える出来で、全体的にはボロボロだった。
プライドの高い響はその結果に直面して恥じ入った。いくら動揺して気を散らせていたとは言え、こんな無様な真似を見せた自分を許せなかった。
恭平の部屋に訪れたときとは一転、帰宅のときは緊張からではなく自分自身に対する失望で肩を落としていた。
帰宅したあと恭平にLINEを入れた。
[今週は部活に出ないで自主練する]
[わかった]
理由を聞くまでもないと思ったのだろう。恭平からの返信はそれだけだった。
──あんな無様な歌を聞いて、恭平は失望しただろうか?
思い出すだけで頭を抱えたくなる。恭平は自分の歌を認めてくれているのに、あまりの下手さにがっかりしたに違いない。
しかし、響は自分を戒めて奮い立つ以外になかった。
Kyoの曲に一番合っているのは自分の声だという想いは変わらない。自負があるならそれなりの歌唱を見せるべきだ。恭平は下手でもいいと言ってくれていたけれど、それでいいわけがない。あんな無様な歌を聞かせて終わりたくはない。
本音は歌うことがなによりも好きで、ようやく歌うことができたのに、一度失敗したくらいで落ち込むなんてバカげている。ボーカルに選んでくれた恭平の期待に応えないでどうする?
そう自分を叱咤した。
そのあと響は、歌唱力をあげるために、ネットで調べたことを実行し始めた。
腹筋と発声練習はもちろん、恭平に頼んで送ってもらった『ツキカゲ』のオケをイヤホンで聞きながら歌唱法を試行錯誤した。登下校の時間や休み時間も隙間なく『ツキカゲ』を聞いて、頭の中でイメージをした。
ハマったら一直線の性質は、こういうときに存分に発揮されるとばかりに、話しかけられても耳に入らないほど、常に歌のことばかりを考えていた。
とにかく最高のパフォーマンスをすること以外に考えなかった。
ある程度の自信がついた響は、登校して姿を見つけるや否や恭平のもとへ向かい、放課後になったら自宅へ行ってもいいかと聞いた。響の顔つきで予測していたのか、恭平は驚く様子も見せずに承諾してくれた。
放課後になり、二人は恭平のマンションにやってきた。
歩きながら恭平に会話を振られたが、ろくな反応を返せなかった。この一週間の成果をベストの状態で聞かせるために集中していたからだ。
「『ツキカゲ』でいいのか?」
「うん」
言葉少なに対応していたらか、恭平も無口になっていたため、準備をしている間はマウスのクリック音だけが聞こえている。
「……いつでもいいが」
「じゃあ、もう行っちゃおう」
「わかった。ヘッドフォンを」
渡されたので受け取って装着する。
カウント音の後に『ツキカゲ』のイントロが始まった。
高鳴っていた心臓がさらに強くなる。
緊張するな。歌に集中しろ。
響はオケに耳をすませ、余計なことを考えないように努めた。
練習してきたことを繰り返すだけだ。それだけを考えて息を吸い込んだ。
終えて、響はホッと安堵の息を吐いた。
練習通りに歌えたと思う。
恭平の反応を伺うと、ヘッドフォンをつけて、パソコン画面に向かったままだった。
響は立ち上がり、恭平の近くに寄る。
「直すところがあったら言ってくれ。とりあえずこれが、この一週間の成果だ」
また緊張がぶり返してきて、ドキドキしながら恭平の反応を待つ。しかし何も答えない。
これもだめだったんだろうか? もう一度やり直し? それとも根本的にだめ?
「正直に言ってくれ。だめならだめって言って欲しい。じゃなかったら直すものも直せないし──」
「だめなわけがない!」
いきなり椅子ごと振り向いたので半歩後ずさる。
「直すところなんてない。なんて言えばいいんだ? ……言葉が見つからない」
驚いたことに、恭平は顔を真っ赤にして目を潤ませている。
「それじゃ……」
「最高だ。期待以上だ……」
マウスから手を離し、両手で目元を覆った。
「もう、死んでもいい」
聞いたこともないほど弱々しく、胸を打つような恭平の物言いに、身体中に電流が走ったみたいになった。
「お前といると俺は感動しすぎて死にそうになるんだよ」
肩を震わせている。まるで泣いてでもいるかのように。
そんな恭平の様子を見ていて気がついた。恭平のおかげで歌うことが好きだと自覚したものの、それは自身の満足のためではなかった。
声が好きだと言ってくれて、歌って欲しいと頼んでくれて、曲を響のために書いたと言ってくれた、その想いに応えたくて、恭平のために歌いたいと思うようになっていた。認めて欲しい相手は恭平だけだった。湊でも他の誰でもない。これまでの誰よりも惚れ抜いたアーティストの、Kyoだけが認めてくれたら、もう何も要らないのだと気がついた。
そのKyoがここまで感激してくれたのだから、これ以上のことはない。
満たされた思いで、響は心の底から打ち震えた。
その喜びと満足感で、無意識に恭平に手を伸ばし、抱きしめようと背中に手を回した。
しかし、手が背中に回りきる寸前に、恭平は跳ねたように椅子ごと後退し、すぐ真後ろにあったパソコンデスクに激突した。
その真っ赤な顔を見て、自分がしようとしたことを思い出し、放心状態になった。
感極まり、バンド仲間として抱擁しようとしたのではない。恭平を抱きしめて、その胸に顔をうずめて、愛おしむように触れようとしたのだ。
──まただ。頭から消そうとしても蘇ってくる。
バンド仲間なのだからと打ち消そうとしても、恭平への想いがどうしようもなく募ってくる。
恭平が必要としているのは歌声であり、ギターの腕なのだ。それ以上は求められていないのに。
恭平は慌てたようにパソコン画面に向き直った。
「えっと、『ツキカゲ』もう一回録っておくか? あれで完璧だけど、念の為。つーか、俺がちょっと調整できてなかったから、もう一回録っておきたいし……えーっと、それで、これを……」
早口で話し始めたのを見て、響もハッと意識を目の前に向けて、恭平に合わせようと努める。
「うん。うんうん。やろ。他の曲は練習しなきゃいけないから、『ツキカゲ』を完璧にしよう」
「そういえば学祭の軽音部枠、俺ら二人で演ることにしないか? 北田たちはダンスに集中しててバンドどころじゃないから……」
「そうだね。どうせ俺だってバレちゃったしね」
「ああ。それでこの際『ツキカゲ』と……」
「いいね。全部オリジナルにしちゃう? Kyoの曲を」
「そうだな。そうしよう。二人だからキーボードとアコギで」
「それナイス。アレンジしなきゃだね」
「一応してある」
「まじ?」
会話を進めていたら少しずつだが落ち着いてきた。恭平も同様なのか、声に焦りの色が消えて、徐々にいつも通りの声になっていた。
──そうだ。こうやって二人でバンドのことについて話し合ったり、練習をしていれば、妙な考えは頭から消えてくれる。離れていても振り払えなかったことでも、俺は二つのことに同時に集中できないのだから、一つに夢中になっていれば忘れることができる。
恭平に失望されるような真似だけはしたくない。それが一番恐ろしいことなのだから。余計な片一方は全力で忘れなければならない。
恭平はパソコンを操作して、『ディスコミュニケーション』のアコースティックバージョンを流してくれた。ピアノとエレアコだけのシンプルなアレンジだ。
「めちゃくちゃいいじゃん! かっこいい!」
「ギターんとこ、替えてもいいから」
「いや、キーボードと合ってるからこのままがいい」
「それは嬉しい。かなり考えたから」
「想定してたの?」
「まあ、そう」
それから二人で学祭用の曲を決めて、アレンジを話し合った。
『ツキカゲ』のレコーディングを五回ほどしたあと、恭平がエレアコを貸してくれるというので、二人で部室へ戻り、『ツキカゲ』をジャムった。
『ディスコミュニケーション』は既にアレンジをしてくれていたため、完璧に弾けるように練習をすればいいが、『ツキカゲ』は一からだ。歌唱もアコースティックバージョンにしないといけない。恭平はピアノパートだけならアイデアが既にあったようなので、部室のキーボードで弾いてもらって、自宅でも一人で考えられるようにスマホで録らせてもらった。
「あとどれくらい?」
「学祭までは──一ヶ月?」
「まじか。やばいね」
「まあ響なら大丈夫だろ」
「アコギの練習もあるんだぞ?」
「歌がメインだから、ギターはコード弾きだけでも十分」
そう言われると逆に燃える。二度とそんな言葉は吐かせないとやる気がみなぎってくる。
アコギを鳴らせるのは部室だけだ。貴重な時間を会話で浪費するわけにはいかない。
「もう一回やろ!」
意識するまでもなく演奏に集中し始めた顔を恭平に向けると、ニヤリと片方の口角を上げてそれに応えてくれた。
フライングでニコ動に投稿してしまったものの、学祭のライブは言わば、二人のデビューライブのようなものだ。
たかが前座でしかないものだとはいえ、初めて恭平と二人で演奏する大事な舞台なのだから、最高の演奏を披露したい。
あるとき部室で二人で合わせていると、恭平から二人のユニット名をどうするかを質問された。部室で練習できる時間は貴重なため、話している暇はないと素っ気なく返したら、夜に電話をかけてもいいかと聞かれた。
帰宅して夕飯を済ませ、普段なら21時までは歌パートのアレンジをする時間なのだが、今日はそれどころではなかった。何をしても落ち着かず、スマホの着信音を聞き逃さないように気にしてばかりいた。
結局アレンジに手をつけるどころではなくなり、おとなしくSNS巡回をして気持ちを静めていると、ようやく電話がかかってきた。
「よお」
『もう終わった?』
「練習? うん。これ以上やると近所迷惑だから、ちょうど終わったところ」
『そうか』
「バンド名だっけ? コンビ名? コンビ名っていうと芸人みたいだね」
『なにか希望はあるか?』
そう聞かれたものの、希望どころか何も思い浮かばない。SNSは全て実名登録してしまうほどリテラシーもなく、考える手間を取りたくない性分だった。
「Kyo&Hibikiとか?」
電話の向こうからかすかに『うわっ』とドン引きしたような声が聞こえた。
「わかんねー! 何も考えてない! 恭平こそアイデアがあるのかよ?」
『Doinel』
「どういう意味?」
『ググると雑貨屋が出てくるけど、意味はフランソワ・トリュフォーっていう監督が作った連作映画の主人公の名前』
「なにそれ!」
『好きなんだ』
「へえ。でも語感はいいね。英語?」
『フランス語』
「ふうん。今度見てみようかな。その映画」
『貸す』
「それで『ツキカゲ』投稿してみる?」
『してもいいか?』
「いいよ!」
いよいよ恭平とのユニットで投稿を始めるのか。そう思うと緊張してきた。
『……響』
「なに?」
『お前は『ディスコミュニケーション』を投稿したとき、本名だっただろ? Doinelでもアップするから、同時にお前だとバレてしまう。つまり、Kawaseの弟だということを今まで以上にはっきりと意識される。本当にいいのか?』
その当の湊がXで宣伝まがいのことをしたのだから今更と言えるが、恭平の気遣いは嬉しい。
「兄貴のことはもういいよ。兄弟なのは事実なんだし。それより恭平だって、俺と学祭に出たらKyoの正体がバレてしまうだろ? いいの?」
『俺はお前のために音楽を作っているんだ。Kyoも何もかも響のためだから、俺はバレようがなんだろうが構わない』
そんなことをやすやすと口にするとは。こんな顔を見られたら恥ずかしくて死んでしまう。赤らめて感激した顔を。直接ではなく電話でよかったとつくづく思った。
「……ありがとう。頑張ろう。Doinelも、学祭も」
『そうだな。とりあえず学祭に集中しよう』
「うん」
もうこれ以上話せなくなり、「じゃあな」と言うと恭平もすぐに「ああ、またな」と返してきたので通話を終えた。
『Doinel』は、新たにチャンネルを作ることはせず、Kyoのアカウントをそのまま利用することになった。一発目は『ツキカゲ』にして、その次に響がニコ動でアップしてしまった『ディスコミュニケーション』を、録り直したバージョンでアップする。学祭の前夜、学祭当日の朝、そしてその夜に『ゼロ・カウント』をアップしていく予定だ。もし学祭のライブでDoinelの曲を気に入ってくれた人がいたら、すぐに楽しんでもらえるはずだと頭をひねった結論だった。
そのために、まずはその三曲を完璧にすればいいと考えて集中していたのだが、恭平に「念の為に他の曲も練習しておいて欲しい」と言われたため戸惑った。
アンコールがあるかもというのが理由だったが、学祭のライブでオリジナルを演奏するだけでも無謀なのに、アンコールなどあり得ないだろうと思った。
しかし珍しく恭平は引き下がらず、しつこいほどに要望してきたため、響は六曲全てを練習せざるを得なかった。部室に行くと他の三曲ばかりを歌わされて逃れられなかったこともある。
相談すれば恭平は何でも答えてくれるが、聞いても「響の声ならもうそれで十分だ」というような意味の言葉しか返ってこないため、結局は自分で考えるしかない。
余所事に気を取られて、無理にでも音楽に意識を向けさせなければと奮い立たせていたものの、そんなことはするまでもなかった。歌唱アレンジにアコギ練習など、目も回るほどの忙しい日々を過ごすことになったのだから。
一ヶ月はあっという間に過ぎ、とうとう学祭の前日になった。
学祭前の一週間は午前授業で、午後は準備に費やされる。響たちの準備はといえばただ練習をしまくるのみだ。
「Doinelデビューの日じゃん」
今夜とうとうDoinelとして曲をアップする。その期待とライブの不安が混じり合い、恭平と部室で練習をしながら二重に落ち着かない一日を過ごしていた。
「明日だろ」
拍子抜けするほど素っ気ない言葉が返ってきた。恭平は基本的にクールだから仕方がないとはいえ、もう少し興奮するなり緊張した反応を見せて欲しい。
「でも今夜アップするんだろ?」
「するけど、響が先にアップしたから感慨もなにもない」
素っ気ない態度は、もしかしてあの一件のせいだったのかと頭をよぎる。
「ごめん」
「あ、いや、まあ、とにかく」言葉を濁したあと咳払い。「明日こそが本番だ。客なんてろくに来ないかもしれないが、万が一にも動画を撮られるかもしれないから──」
「そんなバカな」
「一応、まともな格好をしてきてくれ」
「え? 制服じゃないの?」
「制服でもいいが、俺は私服を持って行くつもりだ」
「まじ? 早く言ってよ!」
「そういうことで、一緒にデビューを祝うのは明日にしよう」
「なに? デビューを祝うって?」
「いや別に。ただ二人で何か喋ったり……」
「打ち上げ的な?」
「そう! 打ち上げ。ずっと忙しかったから、終わったら打ち上げしよう」
「珍しいことを」
「その日、親父は夜勤だから学祭が終わったら俺ん家に来い」
「……うん」
この一ヶ月は練習に集中していたから、恭平への妙な欲望は抑えられていたはずなのに、今の言葉で一気に蘇ってしまった。
夜に、しかも恭平の家で二人きり。想像するだけで手が汗ばむ。
今夜初投稿して、明日は初ライブで、そんな大事な時に気を散らせるようなことを言わないで欲しい。
そう心の中で恭平を責めつつも、打ち上げで慰め合うことにならないように、最高のパフォーマンスを見せてやると意気込み、より気合いが入ったのだった。
自宅へと帰った響は、リビングに湊がいて腰を抜かしそうになった。
「いつもいきなり過ぎね?」
「母さんには先月から言っておいたぞ。お前が話聞いてねーだけだろ」
そんな話を母から聞いた覚えはない。それどころかここ一ヶ月は、まともに両親と顔を合わせた記憶がなかった。
「音楽に夢中になるのもいいが、家族を召使いのように考えるなよな」
中学高校と自室に鍵をかけて引きこもっていたくせに、なにを言ってやがるのかと、思わず口について出そうになる。
「いつまでいるの?」
「なんだ、その嫌そうな顔は」
「そんな顔してない!」
「帰るのは明日の夕方。オフだから仲間と旅行に行くわけ。こっち方面だったから、実家に顔出すために俺だけ前乗りしてんの。明日迎えが来る」
「ふーん」
響たちの出番は午後の一発目だから、その予定なら見に来ることができる。しかしKawaseの弟だと知られているのに、その当人がやってくるなんて考えるだけでゾッとするため、口が避けても言えない。
「学祭でライブするんだろ? 母さんと行くから」
「はあ? なんで知ってんの?」思わず大きな声が出た。
「母さんから何ヶ月も前に聞いてるよ。めちゃくちゃ楽しみにしてたぜ? 去年教えてくれなかったから今年は絶対に行くって」
親というやつは、なぜ内緒にしているのかその理由を考えないものかと呆れた。
しかし問題は親よりも湊だ。Kawaseだと騒がれでもしたらライブどころではない。
「自分の知名度わかってる?」
「仁美ならまだしも、俺の顔なんて誰も知らねーよ。帽子と伊達メガネかければ気づかれん」
信じられず、眉根をひそめた。
「疑ってんな? まあ、明日見とけよ。誰も気づかねーから」
そのすぐあとに、珍しく父も早く帰宅してきたので、久しぶりに家族全員で食卓を囲んだ。
夕食を終えて最後の練習とばかりに自室へ向かい、エレアコ片手に歌っていると、湊が入ってきた。
「ノックしろよ」
「したって聞こえねーだろ?」
湊の前では練習しづらい。よりにもよってなぜ今夜帰宅したのだろうと、胸の内で舌打ちをした。
「なんだよ。弾かねーのかよ」
「プロを前にして弾けるかよ」
「なにそれ? 差別的発言!」
「何バカなこと言ってんの?」
「お前は上手いよ。アレンジはまだまだだが、純粋な演奏力で言えば俺に匹敵する……いや、正直俺より上手いかも」
「嘘つけ!」
「本当だ。それに歌も……お前は忘れてるかもしれないけど、ガキの頃、お前に『二度と俺の歌を歌うな』って言ってしまったことがある。あれも同じだ。嫉妬して思わず言っちまった」
「え……下手だからじゃないの?」
「俺が一度でも下手なんて言ったか?」
聞かれて考えてみた。
──下手だとは言ってなかったかもしれない。
「ギターも俺より遅く始めたのに、上達は早いしセンスもあってムカついてたところに、俺の曲を簡単に歌いこなして、しかもそれがめちゃくちゃ良くて……弟だぞ? しかも小学生の。腹立つだろ?」
響は唖然として、口を開けたまま硬直した。
自慢の兄であり心から尊敬していた湊が、嫉妬なんかの感情で小学生の弟の自尊心を貶めるなど、考えつきもしなかった。恭平と親しくなる以前だったら冷静に聞くことができず、受け止めきれなかったかもしれない。
「なに驚いた顔してんだ。恥ずいだろ? 黒歴史だ。プロになれなかったら一生言えなかったかもしれん」
驚きすぎて逆に呆れてきた。
湊のプライドの高さは重々承知していたが、さすがにここまでとは思わなかった。
「打ち明けてすっきりした。だからもう安心してお前の歌もギターも聞けるから、弾いてもいいぞ」
「そう言われて、わかりましたって弾けるかよ」
「弾けよ。どうせ明日聞くんだ」
「もう今夜は終わりだ。これからやることがあるから」
そろそろDoinel初投稿の時間だった。これ以上湊の相手をしている暇はない。
響はアコギをスタンドに置いて、兄を尻目にデスクチェアに座って背中を向けた。出ていけよ、という無言の圧力である。
「ふうん」
湊は後ろから響のスマホを覗き込んできて、一向に出ていこうとしない。
「失礼だぞ?」
振り向いて怒鳴ると、はいはい、と湊は片手をあげて部屋を出ていった。
弟のことをなんだと思っているのかと脱力した。勝手に嫉妬して傷を負わせておいて、今度は手のひらを返したように応援してくれている。
それでも、今さらとはいえ弟に対して素直に謝罪したのだ。プライドの高い湊にとっては相当な努力を要したことだろう。それを思うと、ライブの前日に話してもらえてよかったのかもしれない。ひとつの懸念もなくライブに臨むことができるからだ。
湊のおかげでギターに出会い、音楽を好きになれた。授業で歌うだけでなく、バンドで歌う喜びを知ることができた。そう考えると、湊には感謝以外に思うことはないのかもしれない。
22時に投稿して、同時にチャンネル名も『Doinel/Kyo』に変えると言っていた。
──あと三分。
デスクチェアの上で正座をして、電波時計を見ながらカウントした。
3・2・1・0!
画面に『ツキカゲ』が現れた。
急いでYouTubeに切り替える。こちらにも同じ動画がアップされていた。
流してみると、自分の声が聞こえてきた。
『ディスコミュニケーション』のときとは違う。今度は自分たちのオリジナル楽曲としてアップしたものだ。
何度も聞いて耳にタコができているほどだが、何度聞いても良かった。恭平の曲はかっこいいし、自分の声もこれ以上ないくらいにハマっている。感無量だ。
嬉しくて何度も繰り返し聞いていたら、明日の準備をしなければいけないと思い立ったときには一時間半も経っていた。私服を用意しなければならない。慌ててクローゼットを引っ掻き回した。
なんとか選び終えるとホッとして、緊張感が緩んだタイミングで電池が切れたかのように眠りに落ちた。
アラームが鳴るよりも早く起きて、昨夜選び抜いた服を何度もチェックした。
朝食の席で母から「頑張ってね」と言われ、「来ないでよ」と喉元まで出かかったが耐えた。恥ずかしいけど、去年のような下手くそなバンドではないのだから。恭平とのユニットなら堂々と胸を張るべきだ。
「一時から第二体育館だから」
「うん。変装して行くから大丈夫」
誰も母の顔など知らないというのに変装なんて無意味だろう、と思っておかしかったが、「気をつけて来て」と言うだけにして家を出た。
本番は午後からで、午前中はリハーサルをする。順序は先にメインの演劇部がして、次にダンス、そして最後にDoinelの二人と続く。第二体育館へ行くにはまだ早い時間だったため、響は真っ直ぐに部室へと向かった。
恭平はまだ来ておらず誰もいなかったが、なぜかドラムセットもなかった。
首を傾げながらも、エレアコをケースから取り出して練習を始めた。
リハーサルは11時頃の予定だ。10時近くになっても、恭平はまだ現れない。
こんな大事な時に部室に顔を出さずに何をしているんだと焦りながら、時間になる前に一人で第二体育館へ向かった。
ステージのうえには演劇部のセットが既に建てられていて、演劇部の出番以外は緞帳を下げてそれらを隠し、パフォーマンスをする予定になっている。今はバンドセッティングの状態なので、緞帳は下げられ、その前にアンプ類が並べてあった。
部室になかったドラムセットが、キーボードの斜め後ろに置いてあるのが目に入った。それに響のギターアンプだけでなく、ベース用のともう一つ別のギター用のアンプもセッティングされている。
不思議に思い、壇上で指示を出している恭平の元へ近づいた。
「なんでバンドセッティングなわけ? 俺らアコースティックユニットじゃん」
「あれだ。急に一年がプログラムにねじ込んできたらしい」
「そうなの? でもそいつらは? なんで恭平が指示出してんの?」
「さっきまでいたんだが、緊張してるのかなぜかいなくなった。だからその代わりをしてたんだ。一応先輩だし」
「へえ」
響以上に他人を避けているはずの恭平が、そこまでするほど一年と関わりがあったことに驚いた。響は顔どころか名前すら忘れているというのに。
「午前どこにいたんだよ?」
「あ、ずっとここに……」
「なんで?」
「あのー……その、一年が相談に乗って欲しいって言ってきたから……」
珍しく目が泳いでいる。
「それより、持ってきたか?」
「当然」
右手に持っていたエレアコを掲げて見せる。
「じゃあ俺らのリハを始めよう」
恭平はキーボードの前に立って音を流し、アンプの出力を確認し始めた。
響は待つ間にエレアコのチューニングを再確認し、次にアンプに繋いで、いつ音響チェックの声がかかってもいいようにした。
番が来たので、先にエレアコ、次に歌唱用のマイクのチェックをする。
終えたあと、一曲目に選んだ『ツキカゲ』を演奏した。
続いて二曲目の『ディスコミュニケーション』に移る。
音の出方も演奏状態も良好だ。大丈夫だろうと思ったが、念の為恭平にも聞いてみる。
「どう?」
「いいんじゃないか? 最後に……『露光』を」
「は? 最後は『ゼロ・カウント』だろ?」
「あれは死ぬほどやったから、万が一アンコールになったとき用に『露光』も合わせておきたい」
アンコールなんてあるはずがないのに、意外にも自信満々な恭平に驚きつつも、『露光』は一番ライブ向きの曲なので、アコースティックバージョンとは言え弾いていてテンションが上がる。ステージで思いきり演奏する機会なんて二度とないかもしれないと考えて、結局は誘惑に負けた。
「じゃあ昼飯食いにいこう」
「あー、俺はちょっとやることあるから」
「なにを? 昼飯より大事なこと?」
「いや、『ゼロ・カウント』は無事にアップできたけど、『ディスコミュニケーション』の投稿予約がちゃんとできているか不安で……自宅に行って確認したいから」
「アップするのなんて夜だろ? 帰ってからでいいじゃん」
「いや、まあ、そうだが、響と打ち上げするし……」
二人のことなのだから途中で作業してくれても構わないのに、そんなに打ち上げに集中したいのかと驚きながらも、当時に嬉しさも込み上げて、響はそれ以上追求しなかった。
部室に戻って一人で弁当を食べ、12時半になったため私服に着替えて第二体育館へと向かった。
恭平は白のオーバーサイズロンTに薄いグレーのワイドパンツ。普段通りと言えるが、ピアスもしていて、やけにかっこいい。ライブだからって気合いが入りすぎだ。恭平がKyoであることを知られてしまう日に、そんなにかっこよくキメていたら騒がれてしまう。
「なんだその格好……カート・コバーンかよ」
「よくわかったね!」
かくいう響は、ボーダーのオーバーサイズニットに、ダメージパッチワークデニムだった。
「お前、ニルヴァーナ好きだったっけ?」
「いや、ファッションがさ」
「Kawaseさんは何も言わなかったのか?」
「え? 兄貴? なんで兄貴が帰ってきてること知ってんの?」
「あ、いや、LINE来てて」
また焦ったように視線を彷徨わせた。響のほうも緊張やら恭平への想いやらで落ち着きがないが、恭平のほうもいつもと様子が違う。
「デニムはまだしも令和にそのボーダーニットは勘弁してくれ。その下は何を着てるんだ?」
「え、普通のTシャツ。暑くなったら脱いでもいいように下着ではないよ」
「じゃあ、それにしよう。Tシャツとジーパンでいい」
その場でニットを脱いだら、「いいじゃん、シンプルで」と恭平は片方の口角を上げた。
しかし響は、これじゃあただの小僧みたいだと思って不満に思った。
本番の時間になった。
「いくぞ」
恭平の言葉を受け、エレアコを手にステージに上がった。
マイクの確認のために声を出しながら客席を見渡してみる。
観客は10人もいないようだった。まだ昼を過ぎたばかりだからか、吹奏楽部や演劇部を目当てに、場所取りで来る生徒すらいない。
体育館の出入り口付近に母の姿が見えた。湊と来ているはずだと視線を彷徨わせると、母から数メートルほど離れたところにその姿を見つけた。帽子と伊達メガネをかけている。
それに気がついた瞬間、響は飛び上がるほど驚いた。
湊の横にアルグレのメンバーがいたのだ。ベースのチョロQとドラムの小平が、湊と共に体育館の壁にもたれて立っている。
「響!」
恭平に呼ばれてハッとする。開演寸前に気を散らしている場合ではない。
振り返り、恭平と目を合わせて頷いた。
『ツキカゲ』はキーボードから入る。恭平がキーボードの上に手をかざしたのを見て、響もネックを握り直した。
──いよいよDoinelの初ライブだ。
歌の入りは完璧。声も出ている。ギターも調子がいい。
恭平の演奏も乗っていて、二人の呼吸もぴったりと合っている。
初めてにしては上出来だ。そう自負できるほど、練習の成果を出すことができた。
観客が少なかったことでむしろリラックスできたのかもしれない。アルグレの三人がいることには緊張したものの、むしろ無様な姿は見せられないと、やる気がみなぎり、結果的に満足のいく演奏ができた。
二曲目『ディスコミュニケーション』になると、客席から「聞いたことある」「Kawaseがポストしてた」「もしかして弟?」などと聞こえ始め、観客の数も徐々に増えてきた。
増えて緊張が増すかと思いきや、一曲目が成功したことで調子が乗り始めたのか、声は伸びるし、ギターも気持ちよく弾くことができ、無敵感にあふれながら演奏を楽しむことができた。
終えて客席を見渡したときには50人ほど観客が増えていた。そのためか、一曲目のときよりも拍手の音が大きい。嬉しくなり、片手をあげてそれに応えると「河瀬くーん!」と聞こえて心臓が跳ねた。
三曲目は『ゼロ・カウント』だ。
この興奮も次で終わりかと寂しく思いながらも、歌いたくてうずうずしてくる。
恭平の入りから始まるため、今か今かと焦れていたのだが、何をもたついているのか一向に始まらない。
いくらなんでも時間がかかり過ぎだと呆れて、恭平の様子を確認しようとしたとき、突然客席がどよめいた。
「だれ?」「見たことある」「アルグレじゃね?」「うそ? Kawase?」
その声を聞いて響も後ろを振り返り、唖然とした。
アルグレの三人がステージに立っている。しかも帽子も伊達メガネもかけていない。見てアルグレだとすぐにわかる格好だ。それになぜか、それぞれが楽器を手にしている。
「どういうこと?」
思わず声を上げたが誰もそれには答えてくれず、ドラムの小平がスティックを三回叩いた合図で、ドラムとベースが鳴り始め、湊と恭平もあとに続いた。
『ゼロ・カウント』のオリジナルバージョンだった。
響はパニックに陥り、頭が真っ白になりかけたが、何百回と聞いているKyoの曲だからか、歌の入り寸前で無意識にも歌い始めた。
それも死ぬほど歌い込んだ甲斐が出て、ミスひとつせずに歌うことができた。
アルグレが学祭ライブに飛び入り参加している。
しかもKawaseの弟のオリジナル曲を演奏しているらしい。
その情報が校内を駆け巡ったのか、まばらだった体育館は人が溢れるほどになってきた。もはやすし詰め状態だ。
大勢の人がステージに向かって手を挙げて、演奏に乗ってくれている。肌寒いほどだった体育館は熱気で室温が上がり、汗ばむほどになっている。
響の身体は、湯気が出るのではと思うほどに熱くなり、頭は痺れるほどの興奮に満たされた。
何も考えられなくなり、ただ演奏と歌に没入し、音楽とこの空間に陶酔した。
三曲目が終わった。これでライブは終演だ。Doinelの初ライブとしてはこれ以上ないだろう。大成功だ。
音の洪水に浸り、演奏に酔い、目の前の観客がそれに応えてくれた。これまで味わったことのないほど最高の体験だった。
恭平とこの喜びを共有したい。そう思って振り返ると、アルグレのメンバーが視界に入った。そうだった、と思い出す。
「なんでアルグレが──」
言葉の続きは湊のギターから鳴り始めた音にかき消された。
『露光』のイントロリフを弾き始めたのだ。
響はようやく気がついた。恭平が全曲練習しろと厳命していたこと、午前も昼もコソコソとして姿を現さなかったことの、その理由に。
湊たちが出演する予定だったからだ。一年がどうのと言い訳をしていたが、セッティングをしていたのはアルグレのためだったのだ。そうでなければ一曲ならまだしも、二曲なんて弾けないはずだ。
しかし、そんなことはどうでもいい。響は再び演奏に没入し陶酔状態に入り、アルグレが弾いていようがなんだろうが、そんなことを考えている場合ではなくなっていた。
Kyoの楽曲の中で最も激しく、ロック色の強い『露光』は、バンド演奏でこそ映える。『ディスコミュニケーション』も同様ではあるものの、テンションの上がりっぷりは段違いだ。
湊が完璧にギターを弾きこなしてくれていたため、響はコード演奏に専念し、歌に集中することができた。
体育館の熱気は上がる一方で、Tシャツは汗でびちょびちょになっていた。
──ニットなんて着てたら熱中症になってたかも。
途中、そんなことが頭をよぎって思わず笑みを浮かべた。
爆音が興奮を煽り、それを自らが歌い奏でていることが快感で、最高に気持ちがいい。
体育館にいる全員が一体となったような感覚に痺れて、頭がどうにかなりそうだった。
もっと味わいたい。ずっと続いていて欲しい。
そう願いながらも、曲は終盤に向かい、ギターのリフに続いてバスドラムの音が激しく躍動したあとに『露光』は終わった。
──最高だった。あのまま恭平とアコースティックバージョンで演奏するのも悪くはなかったけど、やはりバンドでの演奏は段違いだ。騙されたことは癪だけど、最高のサプライズだった。
拍手喝采の中、息を乱しながらそう余韻に浸っていたら、今度は『夜明け前のガラクタ』が始まった。
響は驚くどころではなかった。『夜明け前のガラクタ』はボーカルがすぐに入る曲なのだ。なんで五曲も?と考える余裕もなく再び歌い始めることになった。
結局六曲目の『千秋楽』まで、つまりKyoの曲すべてを演奏してしまった。
終えて満足感やら感動を味わう前に、響は酸素を求めて膝を折り、喘ぎ喘ぎ息を吸い込んだ。
いくらなんでも休憩なしのぶっ続けは身体に堪える。せめてMCなりを入れて休憩を挟んで欲しかった。
「ありがとうございました」恭平がマイクを持って話し始めた。「今日はギターボーカルである響のお兄さんが、バンドメンバーを連れてサプライズ出演してくれました」
そこで言葉を切ると、客席からワー!っと振動が伝わるほどの歓声が響いた。
「僕たちは、ギターとキーボードのユニットで『Doinel』と言います。今日演奏した曲のうち二曲は既に、ニコ動とYouTubeにアップしてあります。これから順次全ての曲を公開していく予定です。QRコードの載ったビラを出入り口で配っているので、興味がある方はもらっていってください。それから、ボーカルのお兄さんのポストでも紹介していただけるとのことなので、そちらからもチャンネルに飛ぶことができます。応援よろしくお願いします」
淡々と丁寧に、歯切れのよい喋り方で言い終えて、恭平は頭を下げた。
「ありがとう! ギターボーカルやってた響の兄です」
今度は湊がマイクを引き受ける。
「客演なんで自己紹介はしないけど、動画は自由にアップしてもオッケーなんで、好きに流してくれ!」
また観客席からワー!という声。「Kawaseー!」「兄貴ー!」「アルグレー!」
「ありがとー!」
それを最後に、湊は実行委員の生徒にマイクを手渡して、チョロQと小平とともにステージ袖にはけようとした。しかし、その行く手を阻むように歓声は鳴り止まず、同じ言葉があちこちから上がり始めた。
「アルグレの曲やってー!」「『魔術師』やってー」「Kawaseー!」「『魔術師』ー!」
そんな声でいっぱいになった。
三人は袖の手前で足を止め、湊だけがこちらに向かって近づいてきた。
「お前、歌える?」
「えっ?」
湊に耳打ちをされ肩を震わせた。
チョロQと小平もいつの間にやら元の立ち位置に戻っている。
湊はメンバーの顔を見て頷いたあとギターを持ち直し、返したはずのマイクを再び受け取った。
「じゃ、『魔術師』だけ。でもアルグレじゃないからな、Doinelって宣伝してくれよ」
そう言ってマイクを返すと、『魔術師』のイントロを弾きだした。ドラムが入り、ベースが続く。慌てた様子の恭平も弾きだした。
こうなってしまったら響も歌わざるを得ない。
学祭のライブで『魔術師』を──そもそもはその予定だった。
Kawaseの弟だとバレて、学祭でアルグレの曲を演奏することを期待された。
比較されるどころではないし、兄弟であることを突きつけられるから嫌で嫌で仕方がなかった。なんとかして避けられないものかと考えていた。
それが、まさかこんな形で実現するとは思わなかった。
恭平と本物のアルグレと──しかもボーカルは響だ。
──兄貴の曲を歌う日が来るなんて。
その日一番の大歓声でライブは終演した。
体育館の外にも人が溢れんばかりで、中と同じくらいの人数が集まっていた。軽音部始まって以来の快挙だそうだが、誰が言ったのか、そもそも誰も興味を持っていない軽音部の歴史なんて残っていないだろうに、適当なことをと呆れたが、そう誇張したくなるほど大盛況だった。
香里奈に「なんてライブしてくれたのよ。やりづらいじゃない」と文句を言われたほどに。
しかし集まった観客たちはライブを終えても出ていかず、香里奈たちのパフォーマンスも大盛りあがりで、ダンスも大成功だった。