午後の授業の間、響は部室で時間を潰した。音楽を聞くことに集中し、ギターを弾いて気を紛らわせた。
 香里奈の話では、今日から恭平は自由だと言う。つまり放課後になれば恭平がやってくるというわけだ。それを意識しないようにしていても、五分と経たないうちに時計をチェックしてしまう。そわそわとして落ち着かず、恭平のことばかりを考えてしまって、ギターを手にしていてもまったく気が紛れない。
 ファンなのだから考えてもいい。これまでもそうだったのだから。しかし、行き過ぎた感情は抑えなければならない。
 これまで通りに接することはもちろん、バンドを組んでレコーディングを始めることになるのだから、今まで以上に努力する必要がある。ファンだからと怖気づかずに、Kyoと肩を並べるつもりで頑張らなければならない。だから余計な感情に乱されている場合ではない。そんなものは頭から消してしまうべきだ。
 そう気持ちを切り替えて、放課後を迎える準備を整えた。

「サボりめ」
 いつもと変わらぬ様子で、恭平が部室にやってきた。
「授業なんて聞いてたってどうせ頭に入らないんだから、それだったらレコーディングのために練習しておいたほうがいい」
「熱心だな。それよりこれありがとう。美味かった」
 いきなり恭平から弁当箱を手渡され、受け取った状態で二秒ほど考えた。
「ああ! ごめん。また食いかけを……」
「響のお母さんの料理はまじで美味い」
「それ母さんに言ったら喜ぶよ」
「腹減ってないか?」
「うん」
 そう言えばほとんど食べずじまいだったことを、指摘されてようやく思い出す。それほど思い悩んでいたのかと気がついて、内心で苦笑した。
「じゃあ、俺ん家に行かないか?」
「へっ?」
 変な声が出てしまい、その声のせいか恭平が眉根を寄せた。
「……機材持ってくるのが面倒だから、自宅でやりたいんだが」
「なにを?」
「レコーディング」
「ああ! レコーディングね。早速だな」
「日を改めたほうがいいか?」
「いやいや準備万端。恭平が空くのを待ち遠しく思っていたくらい」
「わるい」
「その分練習できたから」

 部室を出て鍵をかけ、恭平の自宅へと向かって並んで歩き出した。
 恭平の自宅へ行くと聞いて動揺してしまった。友人なのだから大したことではないと言っても、響にとっては初めてのことで、しかも四六時中考えてしまう相手の部屋に行くのだから、動揺するのも無理はない。
 いやいや、と頭を振る。
 余計な感情は頭から振り払い、これまで以上に音楽に打ち込もうと心に決めたではないか。
 そう何度も胸のうちで叱咤して、気持ちを落ち着かせた。

「ここ」
 五階建てのマンションの前で立ち止まり、恭平に合わせて上階を見上げる。
「え、音とかやばくない?」
「一応、窓際で最上階だから隣の家とは離れているし、階下は誰も住んでないから、遅い時間にならなければ大丈夫……だと思う」

 マンションの部屋は想像以上に広かった。こざっぱりとしていて、男二人家族とは思えないほど綺麗に整えられている。
 招き入れられた恭平の自室も、響の部屋よりも二回りくらいはある大きさで、ギターにベースにキーボード、パソコンは二台あり、ミキサー卓のようなものやアンプに電子ドラムまであるのに、十分にゆとりのある広さだった。
 他には雑誌や本、アルミケースなとがずらりと並び、さすがこだわりの強いボカロPといった風体で、整ってはいるものの物が多い印象だった。
「そこ座って」
 示されたのは、壁際にデンと置かれた三人掛けのソファだった。腰を下ろすとふかふかで、それでいて土台がしっかりとしている。座り心地がよく、掛けた途端に寝転がりたくなった。
「寝れそう」
「実際寝てる」
「ここで寝てるの?」
 思わず立ち上がりそうになる。
 見渡しても確かにベッドはない。物が多いうえにフローリングだから、布団を敷くということもなさそうだった。
「ベッドなんて置いたら何も置けなくなる。それより今日は何をやる?」
「えっ?」
「オケはあるし、どれでもすぐに出せる。響のやりたいやつを……『ツキカゲ』にするか?」
「なに? 『ツキカゲ』?」
 結局は動揺してしまっている。
 恭平の自室で二人きりであること、普段寝ているソファに腰をかけていること、部室や教室にいるときよりも恭平との距離が近いことなどが、どうしようもなく意識されてしまい、冷静になることができない。
 恭平が案じた様子で振り返ったため、焦ったように顔を背ける。
「顔が赤いぞ。大丈夫か?」
 デスクチェアから立ち上がり、こちらへ近づいてくる。それを押し留めようと、恭平の手前で両手をかざした。
「なんだよ?」
「近い」
「なにが?」
 今にも触れたくてうずうずしているのに、それをなんとか耐えているのに、平気な顔で近づかないで欲しい。耐えている身になって欲しいと、心の中で悲鳴をあげた。
 ──もう無理だ。動揺を静めるためにも、早いところレコーディングを始めて、音楽に集中したほうがいい。
 そう意を決して、響は立ち上がる。
「『ツキカゲ』やろう! 『ディスコミュニケーション』ばっか練習してたけど、『ツキカゲ』やってみる」
「ああ」
 恭平も続いて立ち上がり、マイクの準備を始めた。
「立った方がいいか? 座るよりも」
「うん。そうだね」
 マイクのセッティングをしている恭平を眺めながら、気持ちをレコーディングのほうへ切り替えようと、小さく深呼吸を繰り返す。
「じゃあ、これ」
 セッティングを終えて、デスクチェアに座った恭平からヘッドフォンを手渡されたため、意識を歌に集中させる。
「まずはリハーサルだね」
「……いくぞ」

 耳元でカウント音が流れたあとに、『ツキカゲ』のオケが流れ始めて、響は歌った。
 自分なりの歌い方をある程度は考えてあったし、普通に歌う分にも慣れていたため歌いこなせるはずだった。
 そのはずが、結果はボロボロだった。
 声も出ず、歌詞を間違ったうえに、入りは遅れて散々だった。

「ごめん」
「まじで具合い悪いんじゃねーか?」
「大丈夫。もう一回頼む」

 次はまだマシと言える出来だったが、自分の歌い方はできず、ボカロ通りになぞっただけだった。
「まだ自分なりに歌えるようには考えてないから……」
 言い訳などしたくはなかったが、この場を取り繕うにはそれ以外になかった。恭平のことを意識してしまうせいで上手く歌うことができないなんて、そんなことは口が裂けても言えない。

「そうか。でも一応録ってもいいか?」
「……こんなのを?」
「ああ」
 そこで初めて恭平を見た。
 それまでは、見ると動揺してしまうためできる限り避けていた。しかし、こんなレベルの歌を録る必要があるのかと疑問に思って顔を上げた。
 恭平は耳まで真っ赤だった。そのうえ手元がかすかに震えている。
 ──俺が恭平の曲を歌っているから?
 違うかもしれないけど、そうかもしれないと考え至って身体が熱くなり、さらに動揺してしまった。

 もう泣く泣くだ。動揺は静まるどころか高まる一方で、冷静になろうと努めてもまるで上手くいかない。まともに歌える精神状態ではなかった。

「流すぞ」
 心の準備もできないまま始まった三回目は、予期するまでもなく一番酷かった。
「……録った?」
「録った」
「うわ! 消してくれ!」
「消すかよ」
「じゃあもう一回」

 そのようにして三回ほどレコーディングした。計五回のうち二回目が一番マシだったと言える出来で、全体的にはボロボロだった。
 プライドの高い響はその結果に直面して恥じ入った。いくら動揺して気を散らせていたとは言え、こんな無様な真似を見せた自分を許せなかった。
 恭平の部屋に訪れたときとは一転、帰宅のときは緊張からではなく自分自身に対する失望で肩を落としていた。